太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「百嶋神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログを継続しています。


これにはプロバイダーを含め何時情報封殺が行われるかも知れないため、最低でも複数の発信媒体を準備しておくべきではないかと考えているからでもあります。


今後ともかなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史によるblogひもろぎ逍遥に対抗しようという意図はないのですが、華麗なひもろぎ逍遥に対して、緋色のボロ着で、神籬=ひもろぎ(ひぼろぎ)を逍遥=彷徨い歩き、神社を探るというほどの意味で、「ひぼろぎ逍遥」を随時書いて行くことにしたものです。ただし、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象なども認められます。


 さて、現在、ひぼろぎ逍遥とひぼろぎ逍遥(跡宮)との合計のアクセス数は日量10001200件(年間4045万件)まで上がっています。


 同時に、連携する研究者によるblog20近くまで数を増やしており、全体では最低でも年間100150万件近いアクセス数を持っているものと思われます。


 当blogには九州王朝論から百嶋神社考古学へと向かわんとする多くの研究者、記録者、bloger…が参集されています。


 年に10回、10年でも高々100回程度の研究会でも大半は教育委員会関係者から学芸員といった利権まみれの方々通説を拝聴し心服するような、研究者亡き研究会は全く何の価値もないものと考えており、そのようなどこにでもあるような話を好まれる方々は、そこら辺りの既存の郷土史会、史談会に行かれ、村興し、町興し、世界遺産登録に拍手を送り、思いっきり尾を振られれば良いでしょう。


しかし私達は後ろ指を刺される様な探究に踏みとどまり、これまでの歴代の行政権力が隠し続けた真実の歴史の探求へと向かう人々への道標と成ろうと思うものです。




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2017年12月09日

403 奥出雲の神々 11 中村聞語山の横田八幡宮

403 奥出雲の神々 11 中村聞語山の横田八幡宮

20170504

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 まずは奥出雲町でも最も重要な大社と思えるのがこの横田の八幡宮です。

 よそ者ながら、一般的には櫛稲田姫を祀る稲田神社になるのかも知れませんが、地域の経営拠点という意味ではこの神社になるのではないでしょうか。

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大谷神社 カーナビ検索仁多郡奥出雲町中村聞語山170番地

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祭神:應神天皇・仲哀天皇・神功皇后


参拝殿には確かに横田八幡宮と書かれ、神社庁の資料でも 主祭神 を應神天皇・仲哀天皇・神功皇后としています。

しかし、境内には多くの神々が犇めき合っています。

私見ながら、当方にはこれらの神々こそが本来の神々ではないかと思ってしまいます。

理由は色々とありますが、祭神とされる 應神天皇・仲哀天皇・神功皇后 よりも遥かに格上の神々が摂社に祀られているからです。

無題.png少なくとも、九州の宗廟(これは列島の宗廟を意味する)を宇佐に引き渡す749年(「高良玉垂宮神秘書」)以前までは、摂社の神々こそが主神として崇められていたように思えるのです。

そう思ったのは、左の摂社の最上部に三五の桐紋を見た時でした。

これは神功皇后の神紋であり(仲哀死後の夫であり仁徳の父神である第9代開化=高良玉垂命は五七桐)、本来、贈)応神(ホンダワケ)、仲哀と共に神殿になければならないはずなのです。

 では、境内の神々をご覧頂きましょう。

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父神 高良社(藤原により第9代とされた開化天皇=ワカヤマトネコヒコ) 子神 同じく第14代仁徳天皇(オオササギ…)

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一般的には大国主命とかスサノウとか諸説ありますが百嶋神社考古学では金刀比羅社を大山咋とします


 出雲では大山咋と言っても通用しないでしょうが、佐田神社の本当の祭神佐田大神(猿田彦では断じてありえない)で阿蘇草部吉見と宗像の市杵島姫の間に産れた日吉神社の主神と同一神としています。

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牛氏社はスサノウで、宇治社は阿蘇の草部吉見神=春日様=武甕槌で良いでしょう

稲荷社は良いとして(当然伊勢外宮の豊受大神)、松童社(龍宮少童社か)は不明です


 境内の一角には社日大御神(五角柱の天照大神、倉稲魂命、埴安媛命、大己貴命、少彦名命)と小さなしかし立派な社があります。これについては見当が付きません。それに三宝荒神…。

大己貴祭祀に先行するものかも知れませんが、神社誌もなく今のところ確認できません。

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今回はたまたま宮司が出仕されていました。

 偶然、出くわし目が合ったことからご挨拶させて頂き、それから3040分間お話を聴かせて頂きました。

 御歳をお尋ねすると大正8年のお生まれだとか、99歳になられます。それにしても、30分は立ってお話しされた訳で、実にご立派と感服した次第です。お賽銭はたまたま50円しか入れていないので気が引けましたが木山宮司だそうです。思えば戦時中はこの神社からも多くの出征兵士を送り出されたのではないでしょうか?方言研究では雲伯方言という概念があり、この一帯にはズーズー弁が色濃く残っています。実例に遭遇する事は少ないのですが、木山宮司はその体現者でした。長くなるためここまででとめますが、高良社、仁徳社があることから、恐らく749年までは、九州王朝の高良神社だった可能性さえあると思いました…が、早とちりは禁物です。

 無題.png無題.png社殿を降りると、そこには立派な倉持のお屋敷がありました。この倉の家紋は丸に木瓜でした。

これも九州王朝の初期を支えた金山彦の神紋なのですが、今でも久留米の高良大社の裏紋として使用されています。

 本物の門光(開化の神紋)は未だに高良大社の奥深く隠され続けています。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 04:54| Comment(0) | 日記

2017年12月06日

ビアヘロ025 月読命(大山祗)の祭祀圏とは何か?      

ビアヘロ025 月読命(大山祗)の祭祀圏とは何か?      

20161214

太宰府地名研究会 古川 清久


1218日、太宰府地名研究会(20161218)に於いて、久留米市田主丸町石垣の二田の月読神社から朝倉市杷木町大山の大山祗神社への数社を巡るトレッキングを行います(公開時点では終了しています)。

 問題は、この月読命=大山祗の祭祀圏が何であるのか?が、今回のテーマです。

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「古事記」「日本書紀」でも影が薄く、実体が見えないのが月読命=大山祗命ですが、これが隠されてきた理由が多少は見えて来ました。それは、その実体が狗奴国であり、物部氏であり(主力が二田物部=鞍手郡小竹町新多だった事を想起して下さい)、後に朝敵=熊襲とされたトルコ系匈奴を主力とする騎馬軍団だったからのようなのです。恐らく朝敵熊襲だったことが百済、新羅、高句麗、秦氏からペルシャまでは許されるものの、決して列島進入を認められてこなかった理由だったようなのです。

現在、百嶋神社考古学を追い求める当方の研究者たちの間で、最も関心を寄せているのが、故)百嶋由一郎氏の遺言と言っても良い証言で、それがこれら訪問する神社に関係しています。


神社伝承から見る古代史 百嶋由一郎先生の世界 --- もう一つの神々の系譜


源実朝以降に、朝鮮人である神様を日本の偉い神様にしておくのはまずいということで削ってしまった。削られたお宮さんは困りますね。田主丸のさんや様、おしろい祭りをやっているおおやまつみ神社、あそこは困って祭神すり替えをやっている。すなわち、政府が許すという範囲のことしか表に出してはいけないというお触れに従ってごまかしておられる。ところが、ナニクソ、こんなこと発表して構うもんかと、熊本城ががんばられた。熊本城の本丸の地下にゆくと王照君の間がある。古代中国の4大美人、西施、王照国、貂蝉、楊貴妃ですが、王照君は100%消された朝鮮人ですね。さて、その消された朝鮮人の神様のお子様が、田主丸のサンヤ様、そしてそのお子様が大国主です。

中国4大美人、西施(年齢は2500何十歳)、そして次の方、王昭君、熊本城の大広間に行くと王昭君の絵がでかでかと描いてあります。そしてこの人こそ大国主命の先祖とお考えください。秘密にされておりますけれど、間違いございません。その代表的な裏付けとなるひとつに、朝倉のおしろい祭りがあります。朝倉の大山祇神社、ここでははっきり書いてありますが、ご祭神を王昭和君と書くわけにはいけないから、遠慮して遠慮して、ご祭神はもとは女であった、そしてお化粧が云々と書いてあります。この人の年齢は紀元前33年に嫁がれたそれに20歳プラスなさったらよい。この人の血統も秘密になっていますが大体わかります。いずれ機会があったら、その時話します。次は、貂蝉(ぴゃおちゃん、ちょうぜん)、1800年前曹操が天下を取った時代にずるい賢い連中がこの人を使って、最後にこの人を使い切ったのは曹操です。最後の方は1300年前、楊貴妃(やんくいへ)以上の4人が古代中国4大美人です。 


肥後の翁のblogから一部切出し


まず、十五夜お月様を愛でる風習については、現代人にも良く知られています。

これに対して、田主丸の「さんや様」とは「二十三夜月待ちの風習」(「講」を作り参宮したり、その仲間で御馳走を食しながら月の出を待ち、月が現れるとそれをめで拝んだ)の残る領域と重なるもので、月、当然“うさぎ”などがシンボルになっています。また、同系統のものかどうかは不明ですが、十三夜や二十六夜待ちの風習は非常に薄くなっているようです。さて、「神社伝承から見る古代史 百嶋由一郎先生の世界」を読まれた方に誤解がないように先手を打っておきますが、ここで朝鮮人と言う場合、現在の朝鮮人をイメージすると全く訳が分からなくなってしまいます。若干のコメントを加えておきますが、古くは呉の太伯王(周王朝の長子)の子孫=“倭人は呉の太伯の裔”を筆頭に、列島には多くの渡来系民族、氏族が雪崩れ込んでいます。百済、新羅、高句麗はご承知の通りですし、秦の始皇帝の支配を嫌い半島に逃げて来ていた秦の臣民、後には漢帝国に滅ぼされる秦(秦氏=嬴…瀛氏)の王族、官僚、武人、技術者…、そして、漢王朝も同様に…(恐らく、綾氏、笠氏…)、鮮卑、無題.png恐らく、燕、趙、魏、晋、漢、斉、楚、五胡十六国時代の民族の一部も、繰り返し、繰り返し多くの人々が押し出されてきたのでした。

 従って、現在の半島には古代朝鮮人の中枢部(王族、学者、軍部、技術者)は残っておらず(百済、新羅、高句麗にしても同様)、残ったのは新権力に手のひらを返すように態度を豹変させ、直ぐに強い者、得な側に従う節操のない人々(これが毎日年から年中、嘘を付き続けている現代の中国、朝鮮の民族体質に繋がっていることは半島の大統領弾劾などにも認められる現象ですね)だけで、古代朝鮮は列島にそのまま移ってきていると考えるべきなのです。

つまり、簡単に言えば古代の朝鮮人、中国人こそが列島人であり、現代の半島人とは古代朝鮮人などではなく、新たに生じた(生じ続けた)空白に北方から侵入し続けた濊(わい、拼音: Huì)、鮮卑など、入れ替わった人々のことなのです。つまり、玉突き状態で新世界としての列島に移動した優秀な人々によって形成されたのが列島人だったのです。そこまで、理解して頂いたうえで、この月を愛で、うさぎの狛犬を置く様な民族集団とは何であるのかを考える事が主要なテーマです。

 ただ、非常に多くの説明をする必要があり、今回はその骨格だけをお話しするだけになります。これについては、現在、500シートのパワー・ポイントとして朝来(アサクナ)を作成しています。あくまで途中経過ですが、この問題に近接する内容となっています。

 本題はここからです。二田の月読神社が鎮座する場所は田主丸町石垣ですが(実際には移転により多少変わっていますが)、この地名が遠くアフガニスタンまで通底していると考えています。

そして、「石」(イシ)には思い当たる事があるのです。

 それは、大山祗命を追い求めていると不思議と「石」の付された地名、神社名に出くわすことを何度も経験しているからです。ひぼろぎ逍遥(跡宮)のバックナンバーをお読み頂く必要があります(以下)。

179 天高く、青空に誘われ日向の神社探訪 C “西都原に大山祗命の痕跡がある!”

今回ご紹介するのは西都市の石貫神社です

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カーナビ検索  宮崎県西都市三宅4615石貫神社


西都原古墳群に近接(東側)して石貫神社があります。この石貫神社については地元では知られているようですが、北部九州にお住まいの方にもほとんど知られていません。この事には、そもそも「大山祇命」を直接祀る神社が北部九州には少ない事があり、コノハナノサクヤのお父さんといった事以外、馴染みが少なく印象が薄い事があると思うものです。ただ、今回の天高く、青空に誘われ日向の神社探訪」は、大国主と大山祇命の痕跡を辿ることがテーマですから、日向に幟を揚げた大山祇命のお社を見出したのは有難い限りです。さらに言えば、百嶋神社考古学の立場からは大山祇命(実は月読命)は大国主の父親であり、妹にあたるコノハナノサクヤはニニギと直ぐに別れ、豊玉彦(ヤタガラス)と一緒に古代の日向である溝部町に前玉(サキタマ)神社として祀られ後の埼玉県の地名の起源となった前玉神社になっているとするのです。

由緒


 当社は古くは日能若宮又は石貫大明神と称し、創建は天平五年(733)と伝える。社地は創建時の記録『日能若宮元元由来記』によれば、「大山祇命」(中略)阿佐久良山[木患]木原五百世山元筑波山云留彼所事、歳月遠座也」の地にして、筑波御殿の遺跡と伝える。往時は、社殿、境内、宏壮森厳で、真に筑波御殿の名に背かざるものであった。弘治二年(1556)六月の『古帳神社知行目録』によれば、神田十二町一反歩を有し、応永二十四年(1417)社殿改修に当たり神饌田が加増され、以来応永二十五年、二十六年、二十七年、永享二年(1430)等、幾度に渡り神饌田の増加の記録が現存する。しかし天正十五年(1587)豊臣秀吉、島津出兵の際、羽柴秀長、兵を率いて都於郡に陣営した時、当時の石貫神社の祠官が軍令に従わなかった事によって社地は没収された。

石貫神社の名は、大山祇命の娘の木花咲耶媛を嫁にほしいと云って来た鬼に、一夜で石造の館を造ればと命じた。鬼は夜明けまでに造ったが、大山祇命は窟の石一個を抜き取り、東の谷に投げ、未完成とした。これで鬼の要求をはねつけたと云うことによると伝わる。         敬愛するHP「神奈備」より


石貫神社が本物ではないかと考える理由は、この旧溝部町の前玉神社(ニニギと別れたコノハナノサクヤが祀られる)の存在があり、大山祗命の娘であるコノハナノサクヤが、埼玉は本より関東全域で桜姫と呼ばれている起源が、この神社の直ぐ東側を流れる桜川を起源にしているのではないかと考えるからです。

  HP無題.png より

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この「石貫」地名は熊本県玉名市(玉名市石貫地区 横穴式石室を持つ古墳で有名)にもあり、故)百嶋先生は同民族の移動による痕跡地名とされていましたが、筑後川左岸(南岸)の久留米市田主丸町石垣地区、佐賀県嬉野市石垣地区など同種の地名があり、大山祗命=月読命の信仰圏でもあるのです。

 まず、石貫神社の「石貫」とは、「石ノ城」の置換えで(U音、O音の置換え)、「石城」「石垣」も「石ガ城」の置換えになるのです。佐賀県神埼郡吉野ヶ里町には「石動」(イシナリ)があります。これも半島系の吉野ケ里の「里」地名ですが、金官伽耶から進出してきた同系統の地名と考えています。これこそが、「石和」が「石尊」と通底していると言った理由ですが、これについても故)百嶋由一郎氏は答えを出しておられたのです。

 新疆ウイグルは勿論のことアフガニスタンにまで何度も入っておられたようで、このシルクロードの石頭城(タシクルガン)石頭山が「石城」とされ列島まで持ち込まれていると考えておられたのです。

 これまでにも何度も申し上げていますが、百嶋神社考古学では大山祗命=月読命はトルコ系匈奴で金官伽耶の金越智(ウマシアイカビヒコヂ)と天御中主の間に産れた、トルコ系匈奴の血を引くものとします。

さらに話を物部氏に広げます。それも「先代旧事本記」の筆頭に書かれた主力の二田物部との関係に踏み込みます。

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新潟の彌彦神社へと快調に走っている途中、有名な東京電力(株) 柏崎刈羽原発の辺りを通過していると、二田という地名と物部神社という表示がカーナビに飛び込んできました。

休憩も必要ですからこれ幸いでもあり、まずは見聞とばかりにハンドルを右に切りました。

場所はこれまた有名な出雲崎町の手前、柏崎刈羽原発の北東五キロほどの旧西山町です。

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物部神社正面


物部神社 カーナビ検索 新潟県柏崎市西山町二田607-2


これほどはっきりした幟を揚げた物部神社も珍しいと思いますが、この「二田」が筑豊の物部25部族(「先代旧事本記」)の移動先の一つである福岡県鞍手郡小竹町新多=二田(ニイタ)であることは疑いようがありません。


物部神社参拝殿、本殿

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遠来の地であり軽々には語れないのは重々に分かっていますので、ここでは、筑後物部の筑豊への、さらには日本海側への展開の一例を発見したとだけとして、これ以上の深入りを止めておきますが、一目、社殿の造りは筑後物部の鞘殿の様式と見たいところです。

 ただ、雪深い土地柄ゆえの鞘殿かも知れないため単純な当て嵌めも危険かもしれません。

当然、ガラスの温室風の参拝殿も寒さ対策としての土地柄のもたらすものの可能性も考えておくべきでしょう。

ここで面白いと思ったものに、社殿に付された神紋がありました。これまた、一目、徳川葵の原型とも言うべきものに見えるのですが、注意すべきは、この神紋が中世の豪族の物であるのか、古代に入った物部氏の一派が使っていた物かが分からないのが残念な限りです。

ここら辺りになると地域の文化、歴史への体系だった知識の蓄積がなければ判断できない領域になるのです。

いずれにせよ、物部氏が後の武士階級に成長した可能性を示すものであり、その裏付けを発見したと言いたいところですが、当面は保留を余儀なくされそうです。

地元の郷土史家などとの接触も必要ですが、ただの物見遊山の旅人の質問においそれと耳を貸す識者もいないでしょう。

しかし、物部氏から「モノノフ」と言う言葉が生まれ武士が生まれたとするのは痛快な仮説ではあります。

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参拝殿から神殿への鞘殿?(左) 古風な尻合わせ三つ葵紋は誰の物か?(右)


立ち葵から三つ葉葵さらに徳川葵への変化の一つを表すものであれば興味深いものです。

尻合わせ三つ葵紋は徳川氏=松平氏がその初期に使っていた形跡があるようで、面白くなって来ました。

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敬愛するHP「倭国九州王朝」より

 ここで、いつも参考にさせて頂いている「苗字と家紋」…無題.pngに助っ人を頼みたいと思います。以下。

徳川家の三葉葵紋
 一般に徳川氏は葵紋であるのが定説化されている。水戸黄門で「頭が高い、この葵の紋どころが目に入らぬか」という 決め台詞が有名だ。

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徳川家の三つ葉葵の原形は、二葉葵といわれている。この二葉葵を紋章とするのは、だいたいが加茂明神信仰から出て いる。二葉葵は京都の賀茂神社の神事に用いられてきやもので、別名カモアオイともいわれる。そして、加茂祭には 必ずこの二葉葵を恒例の神事よして用いたことから、この祭を葵祭という。
 このように葵は、加茂祭に用いた零草であるため、この神を信仰した人々がこの植物を神聖視し、やがて、これを家紋としたことは当然のなりゆきと言える。『文永加茂祭絵巻』に、神事の調度に葵紋が用いられているのが 見られる。このころから家紋として用いたようだ。写真:上賀茂神社の紋-
葉葵

 葵紋が武家などの家紋となったのはかなり古い。『見聞諸家紋』によると、三河国の松平・本多・伊奈・ 島田氏らが戦国時代前期ころから用いていたとある。このなかで、本多氏の場合「本多縫殿助正忠、先祖賀茂神社職也、依って立葵を以って家紋と為す」と『本多家譜』にある。このことから、本多氏の祖先が賀茂神社の神官の出であることにちなんだことが知られる。………
・家紋:立ち葵紋
 同じく、松平氏が葵紋を用いたのも加茂神社との関係に基づいたもののようである。松平氏は新田源氏の流れを汲むとされるが、室町時代は加茂朝臣と称しており、加茂神社の氏子であったことがある。これは松平三代信光が、三河国岩津村の妙心寺本尊の胎内に納めた願文に「願主加茂朝臣信光生年二十六歳」とあることでもわかる。このように、松平氏は加茂の氏子として葵紋を使っていた。その葵紋は二葉か三葉か確たるところはわからない。
 しかし、徳川氏の先祖とされる新田氏の家紋は「大中黒」または「一引両」である。徳川氏が先祖の家紋を引き継ぐとすればさきのいずれかでなくてはならない。松平氏に婿入りしたためにあえて新田の家紋を使わなかったのであろうと思われる。また、三代・信光の墓には剣銀杏の紋が付けられている。少なくとも信光の時代には、葵紋は定着していなかったようにも思われる。


この点に関しては我が百嶋先生もお気づきだったようです。

新田は○に一文字(一引き)です。

徳川が、新多物部→二田物部→新田氏→徳川氏とすれば、面白いのですが、そのことをお示しするために、百嶋先生の資料から葵のヤタガラス神紋系譜をご覧いただきましょう。

これで、この二田(新多)物部からその延長が判れば良いのですが、結論を急ぐのは冷静に止めておきましょう。しかし、上賀茂=崇神の系統の可能性は高いのではないでしょうか?


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百嶋由一郎「ヤタガラスバリアシオン」神代系譜


「物部」とは職能集団であり、多くの民族(氏族)の複合体ですが、この二田物部がどの系統であるかを考える際に、この神紋から大枠では大幡主系と考える価値はありそうです。

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皆さんは、何故、熊本城の最奥部に昭君(王昭君)の間なるものが置かれているのかをお考えになった事があるでしょうか?加藤清正は確かに豊臣秀頼を迎え入れ徳川と一戦を交える気構えで熊本城を造ったと言われます。それは毒殺により実現しませんでしたが、恐らく、秀吉を受入れた木下家とは五七桐紋を使う名家であり、この栄えあるトルコ系匈奴でも呼韓邪単于(コカンヤゼンウ)の流れだったからこそ、昭君の間が置かれたのではないか…と言うのが我が百嶋翁の解読でした。これ以外にも、多くのお話ができるのですが、それはblogなどで。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 23:33| Comment(0) | 日記

ビアヘロ 024 吾平津姫をご存知ですか? “アイラツヒメとはトルコの月姫だった”

ビアヘロ 024 吾平津姫をご存知ですか? “アイラツヒメとはトルコの月姫だった”

20161014

太宰府地名研究会 古川 清久


もう何度も取り上げていますが、神武僭称贈)崇神ではなく、本物の神武天皇の本物のお妃であるアイラツヒメはご存じだと思います(「古事記」では「阿比良比売」「日本書紀」では「吾平津媛」)。


娶日向國吾田邑吾平津媛、爲妃、生手硏耳命

日向国吾田邑の吾平津媛を娶り妃とし手研耳命(タギシミミノミコト)を生んだ 「紀」

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宮崎県日南市 吾平津(乙姫)神社          宮崎県高原町 狭野神社


北部九州辺りではあまり見掛けませんが、ちゃんと吾平津姫を実際に祀る神社もあるのです。


吾平津姫

吾平津姫(あひらつひめ)は、神武天皇の妃。吾平津媛とも表記される。『古事記』では阿比良比売(あひらひめ)。阿多小椅の妹。神武天皇日向在住時に嫁し、手研耳命と岐須美美命を生んだ。

ウィキペディア (20161014 18:55)による


阿比良比売命 あひらひめのみこと 別名 吾平津姫命:あひらつひめのみこと……

阿多の小椅の君の妹。神武天皇が日向にいた頃の妃。多芸志美美命(手研耳命)と岐須美美命(『日本書紀』には登場しない)を生んだ。

阿比良は、大隅国の郡名。

阿比良比売命 を祀る神社(玄松子が参拝した神社のみ)狹野神社  宮崎県西諸県郡高原町大字蒲牟田

敬愛するHP「玄松子」による


さて、百嶋神社考古学では、この本物の神武天皇のお妃であるアイラツヒメの産まれた場所についてある程度見当付けています。(事実鹿児島県鹿屋市には吾平町…がありました)

その場所とは熊本県山鹿市菊鹿町の相良地区なのです。

同地には吾平神社が、また、古の日向村があり。今も吾平山があるのです。

これについては、ひぼろぎ逍遥(跡宮)128130 吾 平(アイラ) @〜B  をご参照下さい。

しかも、直ぐ傍には(数キロ下流の某地=旧稲田村)、同じく金山彦の子(腹違い)である櫛稲田姫の生誕地と考えられるものもあり、推定ウガヤフキアエズ陵までもあるのです。

これについては、未公開ですが、ひぼろぎ逍遥(跡宮)284 大宮神社と猿田彦大神 C 転載“櫛稲田姫(クシナダヒメ)は熊本県山鹿市で産まれた! ”(年明け三月までには公開予定)として書いています。

まさに、後に列島最大の古代の巨大穀倉となる古代湖「茂賀浦」(これについても久留米地名研究会のHPから「茂賀浦」中原 菊池川流域地名研究会 論文をお読みください。ひぼろぎ逍遥に避退の予定)の畔に列島神代史における二人のスーパー・スターの女神が居られた事になるのです。

ただし、今回はこの話をする訳ではありません。

以前から、気になっていた吾平津姫(アイラツヒメ)の「アイラ」という言葉が列島の和語と語感が全く異なる事への半ば回答を得たと言う思いがしている事をお伝えしたかったのです。

この話に踏み込む前に、例によって百嶋由一郎最終神代系譜の一部をご覧頂きたいと思います。
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山鹿市菊鹿町相良の吾平神社(相良が内田相良氏ではなく吾平の置換えであることが分かりますね)

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そして、両女神の父親である金山彦を祀るのが景行天皇を祀るとした山鹿市の大宮神社ではないか?という驚愕の事実に踏み込む話、この間、二回(910月)に亘って菊池地名研究会で講演しているのですが、この「アイラ」という人名に関わる言葉についての話です。


53回菊池(川流域)地名研究会 連続講演

2016911日曜日  13301630

七城町公民館(熊本県菊池市七城町甲佐町721

「大宮神社(山鹿市)と猿田彦大神」@ 前篇

“大宮神社は本当に景行天皇を祀る神社なのか?”

久留米地名研究会(編集員)古川清久

A 後編は1016日日曜日の予定です。


まず、百嶋神社考古学に於いて、アイラツヒメはヘブライ系瀛氏の金山彦とトルコ系匈奴(伽耶から侵入)である越智族の大山祗の妹である越智姫との間の政略結婚で産れたハイブリッド中のハイブリッド・エリートとします。

ここで、百嶋由一郎説により母親がトルコ系匈奴の越智族であったとした場合、その娘の名がトルコ系言語だったのではないかと考えた事がありました。

ただ、昨年、少し「アイラ」がトルコ語ではないかと調べてはみたのですが、ayという語幹があることまでは見当が着いたもののそれ以上進めず踏みとどまっていたのです。

ところが、百嶋研究に関心を寄せる熊本の女性が、一週間ほど前に「アイラツ姫のアイラは月という意味ですよ…」と連絡してきたのでした。

急いで調べると、確かに彼女の言うとおりでした。


aylar- 名詞, トルコ語 | sprawk - ウェブ、あなたの道を翻訳 

https://www.sprawk.com/ja/term/トルコ語/aylar

aylar [Noun] 1. , つき (日本語) - one of the twelve divisions of the calendar year; 用語 "aylar"トルコ語翻訳、定義、例と一般的な関連語を持っています。

無題.pngによる


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そうです、トルコ国旗に描かれる通り、アイラツヒメとはアイラールaylar)姫の事だったのです。

してみると、父親である大山祗を百嶋神社考古学が月読命としている事とも対応するのです。

この辺りになると、通常の神社研究から逸れてくるようではあるのですが、百嶋先生の話には半島、中国から中近東にまで及ぶ膨大な情報が背後というか基層にあり、そのことによって神社を解説されている事から、どうしてもその基層の裏取りを行なう必要があったのです。

そこでお読み頂きたいと思うのが、ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)にリンクを張っている、百嶋神代史研究グループの一つ、「スピリチュアル・ヒーラー宮古の縁側日記」です。

当方には霊感などなくスピリィチュアルな世界は敬遠していたのですが、彼女の書く内容は、その感性の鋭さは言うまでもなく、愕くほどの幅広い知識、深い知識に裏付けられている事に気付き最近になって良く読んでいるのですが、実は、彼女もアイラツヒメの「アイラ」がトルコ語である事にとっくに気付いておられたのでした。

そのことを知り、逆に、「アイラツ姫のアイラは月という意味ですよ…」と連絡してきた某女性にこのblogを紹介したところ大喜びで感激したのでした。

では、縁側日記からお読み頂きましょう。

奇しくもあのくそ暑い夏の時期に、お二人は同じようなテーマに取り組んでおられたのでした。

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アイラと言う意味2016-08-01 12:41:04 テーマ:自然

前ブログでアイラツ姫について書いたのですが、他に気が付いた事があったので少しまとめておきます。

まず、アイラツ姫アイラツ地名になっています。

姶良(あいら)です。

姶良と言えば姶良カルデラですね。

最初に姶良の文字転化から。

姶良(あいら)→相楽(さがら)→佐良(さがら)

相模(さがみ)→寒河江(さがえ)

さがらさんは元はあいらです。

姶良カルデラは桜島へのマグマ供給源になっていて今でも立派な活火山です。

九州は活火山の多い場所なのです。

アイラは、トルコ語でと言う意味。

姶良カルデラは、元々火山だったでしょうからアイラ火山・アイラ山≒月山です。

月山(つきやま)→築山(つきやま)→筑山(つくやま)

アイラは、トルコ語で月と言う意味。


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筑豊、筑紫、竹島(九州)竹生島(滋賀)筑波山(茨城)月山(山形)姶良は始羅とも書きやはりシラ姫との関連を無視できなくなりました。

(知人よりの情報です)


aylar - 名詞, トルコ語 | sprawk - ウェブ、あなたの道を翻訳 

https://www.sprawk.com/ja/term/トルコ語/aylar

aylar [Noun] 1. , つき (日本語) - one of the twelve divisions of the calendar year; 用語 "aylar" トルコ語翻訳、定義、例と一般的な関連語を持っています。

以下も無題.pngによる

現代のテュルク系諸民族


主権国家[編集]

トルコ共和国 → トルコ人(5,549万人〜5,800万人/7,000万人)

アゼルバイジャン共和国 → アゼルバイジャン人(720.5万人/2,050万人〜3,300万人、イランに1,200万人〜2,010万人)

ウズベキスタン共和国 → ウズベク(2,230万人/2,830万人)

トルクメニスタン → トルクメン人(550万人/800万人)

キルギス共和国 → キルギス人(380.4万人/485.5万人)

カザフスタン共和国 → カザフ(955万人/1,600万人)

連邦構成国・民族自治区[編集]

ロシア連邦 タタールスタン共和国 → タタール人(555.4万人/671.2万人)

バシコルトスタン共和国 → バシキール人(167.3万人/205.9万人)

チュヴァシ共和国 → チュヴァシ人(163.7万人/180万人)

ハカス共和国 → ハカス人(8万人)

アルタイ共和国 → アルタイ人(6.7万人/7万人)

トゥヴァ共和国 → トゥヴァ人(24.3万人/28万人)

サハ共和国 → ヤクート(44.4万人)

ウズベキスタン共和国 カラカルパクスタン共和国 → カラカルパク人(55万人)

中華人民共和国 新疆ウイグル自治区 → ウイグル人(840万人/1,125.7万人)


列島には、新羅、百済、伽耶、秦氏、ポリネシアンはもとより、ペルシャ人さえも入っているとまではされるのですが、トルコ系匈奴が入っていると言う話は、ユダヤ、イスラエルと併せ列島ではタブーとされているようです。

それが何故かも考えてみる価値がありそうです。

多分、列島の支配民族の琴線に触れることなのでしょう。

狗奴国、熊襲こそが、この隠されたトルコ系匈奴(漢に帰順した南匈奴)だったからなのです。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 23:21| Comment(0) | 日記