太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2017年01月09日

283 大宮神社と猿田彦大神 B “大宮神社の地主神が大宮神社の主祭神か?”

283 大宮神社と猿田彦大神 B “大宮神社の地主神が大宮神社の主祭神か?” 

20160721

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 はじめに、次の写真をご覧ください。「大宮大明神」と書かれた神額です。

 明治期の廃仏毀釈の中で廃棄された神額が残されているのです(明神は神仏混淆)。

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決定的な意味があるかどうかは不明ですが、神殿の真横に地主神が置かれ、あたかもこれこそが本当の祭神であるかのように、その延長上に大明神の旧神額が置かれているのです。

 「神社誌」を見ると、「…大宮大明神と称した。延久四年菊池則隆が阿蘇大明神を合祀し…」「明治四年旧称大宮明神(ママ)を山鹿神宮と改称し、」とあり、阿蘇系は11世紀(平安末期)に菊池氏のイニシアティブのもとに加えられています。

 問題は景行天皇ですが、景行が大宮大明神とは思えないため、もしかしたら、廃仏毀釈前後の縣社昇格に絡み通りが良い「景行」が挿入された可能性さえも考えておく必要があるかも知れません。

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地主神社は「土の神」(埴安命)「火の神」とされていますね… 火之迦具土神命では …

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「神社誌」では、地主神とは「埴安命外二神」と書かれています。

お分かりでしょうか?残りのお二人は隠されているようなのです。

しかし、今ならば、このお二人が誰であるかのある程度の見当が着きます。それはこの神社だけを考えていては分かりません。

一応、結論を先に申しあげておきます。勿論、埴安命の関係者であることは当然です。

お二人とは恐らく埴安命(埴安彦=土の神)の妹の関係者であり、その夫の金山彦(火の神)と金山彦と埴安姫の間に産まれた櫛稲田姫のはず(金山彦と埴安姫の可能性もあり)なのです。

恐らく、百嶋由一郎氏とも菊池至誠会を通じて濃厚な関係も持っておられた上米良純臣氏(神社誌の著者、編者)は、この点十分にご存じだったと思います。ただ、立場上、表に出せなかったのです。

それはスサノウのお妃となった櫛稲田姫の御素性が明らかになってしまい、「古事記」や「出雲神話」がでっち上げであることが明らかになってしまうからなのです。

これだけでそんな事が言えるのかと思われるでしょうが、ひぼろぎ逍遥(跡宮)191 櫛稲田姫(クシナダヒメ)は熊本県山鹿市で産まれた! をお読み下さい。

百嶋先生はヒントしか残してくれませんでした。

事実、昨年までは当方も全く分からなかったのです。

もしも、百嶋先生から「神社にご迷惑が掛かるため公にはできないがあなたにだけは教えておく…」と言われていたら発表できていなかったと思います。

しかし、名もない一民間人に過ぎない者が発表しても「素人の戯言」で済むため、今では百嶋先生のご配慮に感謝しています(よくぞ教えて頂かなかった…と)。

まず、境内摂社として手足の神様が祀られていた事を思い出して下さい。櫛稲田姫の御両親ですね。


アシナヅチ テナヅチ

無題.png二神はオオヤマツミの子で、出雲国の肥の川の上流に住んでいた。8人の娘(八稚女)がいたが、毎年ヤマタノオロチがやって来て娘を食べてしまい、スサノオが二神の元にやって来た時には、最後に残った末娘のクシナダヒメを食いにオロチがやって来る前だった。二神はスサノオがオロチを退治する代わりにクシナダヒメを妻として差し上げることを了承し、オロチ退治の準備を行った。このとき、スサノオによって娘のクシナダヒメは櫛に変えられた。

スサノオが無事オロチを退治し須賀の地に宮殿を建てると、スサノオはアシナヅチを呼び、宮の首長に任じて稲田宮主須賀之八耳神(いなだのみやぬしすがのやつみみのかみ)(『日本書紀』では稲田宮主神)の名を与えた。                   ウィキペディア(20160722 13:00による


「二神はオオヤマツミの子で、」は頂けませんが(オオヤマツミの子ではないのです)、「出雲国の肥の川の上流に住んでいた」は、あまりに符合し驚きますが、実に、山鹿は肥の国で、肥の川とは恐らく菊池川の 事なのです。そうです、スサノウは堂々たる八坂神社が拙社として置かれている事を思い出して下さい。当然にも、山鹿にも祇園祭があります。

元々、山鹿は博多同様の祇園祭の町なのです。


犬子ひょうたん祭(いんごひょうたんまつり)は、熊本県山鹿市、山鹿温泉にある八坂神社(大宮神社境内)で行われる祭りであり、毎年615日に行われている。正式名は「祇園祭」。米の粉で作られた授与品の「犬子ひょうたん」は無病息災に効験ありとされ、これを求めて多くの参詣者が訪れる。また山鹿では古来よりこの祭礼の日を「初かたびら」と言い、この日から浴衣を着始める習慣がある。

祭礼の名は、疫病退散に効験のあった子犬(神の使いとされる)の伝承に由来する。この伝承は、京都の祇園社(八坂神社)の神霊を山鹿の阿蘇品家に勧請した際にそばについてきた子犬をかたどってつくったという説と、同家で祀っていた祇園社を大宮神社へ勧請した時、神輿の後に子犬がついてきて離れず、神社についたらいつの間にか姿が消えていたのに因んでつくるようになったという説とがある。      ウィキペディア(20160722 13:00によ


一般的には、埴安彦神 埴安姫神とは、波迩夜須毘子神 波迩夜須毘売神 埴山姫神 埴安神 伊邪那美命の子神格とされ、土の神、田畑の土壌の神、陶器の神神社:榛名神社や愛宕神社が有名です。

 埴安神とは、伊邪那美命が火の神迦具土神を産んだときに、火傷で苦しみながら糞をした、その糞から生まれた神である。「埴」とは赤土の粘土を意味し、祭祀に用いる特別な器、たとえば酒、水、御饌(ミケツ=穀物)を盛る土器の甕の製作を司る神さまと言われています。

 埴安命の妹である埴安姫と火の神様=カグツチ=金山彦 or 金山彦と櫛稲田姫(クシナダヒメ)こそが外二神のご正体ということになるのです。

 ここで、百嶋由一郎氏が死を前にして残された最終神代系譜の一部分をご覧ください。

 瀛氏の金山彦と白族の埴安姫(埴安命=大幡主の妹)の間に櫛稲田姫(スサノウのお妃)が、金山彦と大山祗命の妹である越智姫の間に産まれた吾平都姫(アイラツヒメ)=本物の神武天皇のお妃もこの山鹿の近くでお生まれになっており、当時、この埴安姫が住んでおられた辺りに神話の世界の二大スーパー・スターのお二人が一緒におられた可能性さえもがあるのです。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 07:06| Comment(0) | 日記

2017年01月06日

282 大宮神社と猿田彦大神 A “大宮神社の猿田彦大神石塔と摂社群” 

282 大宮神社と猿田彦大神 A “大宮神社の猿田彦大神石塔と摂社群” 

20160721

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


これほど立派な摂社群はなかなかありません。


大宮神社の境内摂社群それこそが山鹿の祖神であり本来の御祭神

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金刀比羅神社 (右)金刀比羅神社の大物主は一般的には大国主命とされます

  ただ、百嶋神社考古学では大山咋=松尾=日吉=日枝=佐田大神とします

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神殿の背後に居並ぶ49基の猿田彦大神(左)          地主神(右) 


興玉宮があります。猿田彦とは、伊勢の外宮様(=豊受大神=伏見稲荷=辛国息長大姫大目命=天鈿女命)の夫でもある山幸彦=ニギハヤヒだからなのです。ただ、興玉宮とは二見ケ浦の名の通り夫婦神ですね…。従って、本当は豊受大神の方が祀られており、旦那様の猿田彦は外に出されているのかも知れません。

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興玉宮

 一番重要な地主神社に関しては、Bの次稿で詳しく触れますので、ここではコメントしません。

以上、多くの境内摂社を見て頂きましたが、「熊本県神社誌」122pによる大宮神社(山鹿市)にも搭載されていない境内摂社があることがお分かり頂けたと思います。白抜きは神社誌にない境内社です。

では、15も数えられる境外摂社はどうなのでしょうか?

 現地を見ていないため祭神だけをお示ししますが、一目、博多の櫛田神社(祇園神社)の関係者ばかりが並んでおられます(白族、大幡主系)。決して阿蘇系ではない。

参拝殿右手の八坂神社の分社に思えるもので、これが、本来、山鹿の人々が祀ってきた神様なのです。

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273 “大宮神社の地主神が大宮神社の主祭神か?”に続く

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 10:00| Comment(0) | 日記

2017年01月05日

281 大宮神社と猿田彦大神 @ “山鹿市の大宮神社とは何か?

281 大宮神社と猿田彦大神 @ “山鹿市の大宮神社とは何か?

20160721

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


熊本県山鹿市の中心部に大宮神社があります。

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 この神社の神殿裏には、あたかも本来の神でもあるかの様に北部九州の主要な神々を祀る多くの摂社群が居並び、参拝殿右手横には八坂神社が、左手には謎の摂社地主神が鎮座しているのです。

 この神社は、古代においては列島最大穀倉とも言うべき菊池盆地(気取って菊鹿盆地などと呼ぶ必要はないでしょう)を睨む菅制高地とも言うべき要衝に位置し、対岸の千田聖母八幡宮(聖母宮)と共に菊池、山鹿の一帯で最も重要な神社と言えるでしょう。

 まず、 一般的には“よへほよへほ”の山鹿灯篭祭や「景行天皇伝承」として知られる神社です。

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山鹿温泉観光協会HPより


 表面に祀られている通説をそのまま真に受け入れられる幸せな方々は別として、この神社が如何なるものかを解析する事無くして肥後の古代を云々することはできないと考えていますが、実際にはかなり難しい作業になりました。

 それは、先住神と思われる「地主神」が誰であるかの見当が全く着かなかったからでした。

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「大宮神社の祭神は何ですか?」と問われれば、藤原により第12代とされた景行天皇+阿蘇12と言えばその通りですが、それは鎌倉期から室町期に掛けて覆い被さって来たもののはずで、景行(実は玉名の疋野神社の疋(ハイキ)の神=御歳神=贈)孝安天皇の子)に至っては明治期から(県社昇格のため)の事かも知れないのです。

そう考えれば、この山鹿の民が先祖代々守ってきた本当の神様を探し出すことこそが本来の神社探究であり本来の地元の信奉する神々を復興させる事とも言えるでしょう。

従って、神社探究とは、決して御朱印帳や由緒書きを集める事でも、景行天皇の御業績とやらを頭に刻む事でも、阿蘇の12神を覚える事でもなく、神社の基層(古層)に生き残る本当の祭祀を救いだし、総じて自らの出自を探る事なのです。

さて、その話に入る前に、人吉盆地の一角、多良木町黒肥地にも同名の「大宮神社」(オオグウ)という神社が存在しています。単なる偶然かも知れませんが、一応確認しておきましょう。

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王宮神社 カーナビ検索 熊本県球磨郡多良木町黒肥地1278


「熊本県神社誌」(264p)によると抑制気味ながらもこの神社が唯ならぬものであることが読みとれるのです。まず、黒肥地神宮(王宮)と大書(ボウルド)され祭神も神武天皇の一柱とされているのです。

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「太郎・田部忠綱当郷に来たって久米蓑毛に住し、帝廟を勧請して王宮大明神と崇祀った。その後現在地に遷座」と書かれているのです。現在、この掲示板は現在確認できません。

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神殿最上部と参拝殿の軒に五七桐の神紋が打たれており相当に重要な神社であることが分かる


この久米が付された土地ですから、単に勇壮さに肖って付された地名とも思えず、古代の何らかの関係者(例えば大友旅人の隼人征伐にも参加した久米族の末裔の残留者…)が住み着いた土地ではないかとも思えるのです。

 では、この久米郷の摂社を「熊本県神社誌」からご覧ください。


 久米熊野座神社  熊野三神          白族

 若宮神社     健磐龍命外二神       阿蘇系(多少疑問?)

 治頼神社     相良治頼          相良氏(実体はニギハヤヒ系ではないか?)

 菅原神社     菅公            菅原系(白族かスサノウ系か?)

 年神社      大年、御年、若年神     草部吉見系

 八坂神社     素戔嗚尊・櫛稲田姫     スサノウ系


「熊本県神社誌」122pによる大宮神社(山鹿市)

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現在の祭神と八坂神社のスサノウは良いとして、残りの五つの摂社の主はお分かりでしょうか?

 高住神社の天照皇大神外二神は始め思いつかなかったのですが、当然にも彦山の北谷の高住神社だったわけです。ただ、天照以外の二神は特定できません。

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金刀比羅神社の大物主は一般的には大国主命とされますが、百嶋神社考古学では大山咋=松尾=日吉=日枝=佐田大神とします。

 興玉宮の猿田彦神は問題なく理解されると思いますが、何故、興玉宮と呼ばれているかは分かられないと思います。

 それは、猿田彦とは、伊勢の外宮様(=豊受大神=伏見稲荷=辛国息長大姫大目命=天鈿女命)の夫でもある山幸彦=ニギハヤヒだからなのです。

 しかし、興玉宮とは二見ケ浦の名の通り夫婦神ですね…。従って、本当は豊受大神が祀られているのであって、旦那様の猿田彦は外に出されているのかも知れません。

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二見興玉神社(ふたみおきたまじんじゃ)は、三重県伊勢市二見町江にある神社である。旧社格は村社で、現在は神社本庁の別表神社。境内の磯合にある夫婦岩(めおといわ)で知られる。

猿田彦大神と宇迦御魂大神(ここでは神宮外宮の豊受大神の別名とされる)を祭神とする。

ウィキペディア(20160721 0830による


 最後の宇遅能和紀郎子(ウジノワキイラツコ)は所在が分からないため今のところ保留します。


菟道稚郎子(うじのわきいらつこ/うぢのわきいらつこ、生年不詳 - 壬申年[ 1])は、記紀等に伝わる古代日本の皇族。第15代応神天皇皇子(『日本書紀』では皇太子)で、第16代仁徳天皇は異母兄にあたる。

菟道稚郎子は、名前の「菟道」が山城国宇治(現・京都府宇治市)の古代表記とされるように、宇治地域と関連が深い人物である。郎子は宇治に「菟道宮(うじのみや)」を営んだといい、郎子の墓も宇治に伝えられている。

郎子については『古事記』『日本書紀』等の多くの史書に記載がある。中でも、父応神天皇の寵愛を受けて皇太子に立てられたものの、異母兄の大鷦鷯尊(おおさざきのみこと:仁徳天皇)に皇位を譲るべく自殺したという美談が知られる。ただし、これは『日本書紀』にのみ記載された説話で、『古事記』では単に夭折と記されている。

『古事記』『日本書紀』の郎子に関する記載には多くの特異性が指摘されるほか、『播磨国風土記』には郎子を指すとされる「宇治天皇」という表現が見られる。これらの解釈を巡って、「天皇即位説」や「仁徳天皇による郎子謀殺説」に代表される数々の説が提唱されている人物である。

ウィキペディア(20160721 0830による


 さて、最も重要な地主神ですが、この話に入る前に「熊本県神社誌」(以下神社誌と呼ぶ)に記載のない境内摂社(分社)の方からご覧いただく事にしましょう。


272 大宮神社と猿田彦大神 A “大宮神社の猿田彦大神石塔と摂社群” に続く

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 14:22| Comment(0) | 日記