太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2017年11月15日

396 奥出雲の神々 05 下横田の新宮神社

396 奥出雲の神々 05 下横田の新宮神社

20170502

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 奥出雲町は十年ほど前に仁多町と横田町が合併して成立した人口一万人ちょっとの新しい町です。

 その中心地は旧仁多町の三成(ミナリ)と旧横田町の益田地区という事になるでしょう。

この新宮神社は、かつては賑わいを見せていたと思える古市地区を見下ろす小丘に鎮座しており、手入れも行き届いた落ち着いた神社です。

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やはり神社の顔は正面の表参道です。小さな神社であるにもかかわらず正面に立った瞬間から神社や地域の歴史と権威を伝える風格を感じていました。

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小丘へと向かう参道正面


山門を抜けると質素な参拝殿が見えてきます。

 神社の立派さとは社殿の豪華さや大きさではありません。

 権力の移行に伴う世情の変化や圧力を受けるとしても、可能な限り地域や一族(民族)の伝統を失う事無く守り伝え次世代に引き継ぐ役割を負い、氏子を育て氏神(通常は先祖神ですので)への尊崇の思いを伝え地域の中心になるべきなのです。

 このためには、神殿に祀られる主神はもとより、脇へと追いやられた摂社、分社、ほ圃場整備事業などで移転を余儀なくされた無名の祠さえも可能な限り明示し語り継ぐ任務と使命を果たさなければならないのです。 

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生きた「柴刺」の儀礼を見せて頂いた事から先に摂社、末社、分社の方からお話し致しましょう。
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左から天満宮、毘沙門社、厄除神、秋葉神社、塩釜神社+稲荷社、八幡宮、それに金刀比毘神社


 説明の必要はないでしょうが菅原道真、毘沙門天、恐らく長脛彦、金山彦、大幡主+豊受大神、応神(ホムタ別け)か?宗像三女神?

 これ以外にも驚くほど多くの荒神社(三宝荒神)が祀られています(こちらが本来の神々では…)。

参道には金刀比毘神社がありますが、百嶋神社考古学では、スサノウや大国主命ではなく、大山咋=佐田大神(佐田神社も断じて猿田彦ではない)。

ひぼろぎ逍遥051 出雲の佐田神社と安心院の佐田神社 ひぼろぎ逍遥(跡宮) 295 大宮神社と猿田彦大神 N “ひぼろぎ逍遥051 出雲の佐田神社と安心院の佐田神社 再掲 外をお読みください。

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参拝殿上の木の神額をお見せします 神殿には三五桐紋が打たれています(天皇家の姻戚を表す)

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新宮神社 カーナビ検索仁多郡奥出雲町下横田428番地


祭神ですが、県神社庁の資料によれば、伊弉再尊・速玉男命・事解男命・大歳之神 とされています(勿論、主祭神と断られていますが…)。百嶋神社考古学の目からはこの祭神は良く分かります。

イザナミ(金山彦=カグツチの妹)・大幡主=塩筒男命(塩釜神社)・金山彦・阿蘇高森草部吉見=春日大神=鹿島大神=武甕槌=海幸彦…となり、金山彦の一族(瀛氏)と大幡主の一族(白族)を祀る神社である事が分かります。

異質なのは、大歳之神=阿蘇高森草部吉見=春日大神=鹿島大神=武甕槌=海幸彦…であり、もしかしたら、後から追加されたものかも知れません(藤原の始祖に近いものであり監視役のような意味も受けてしまいます)。それ以外、ニニギやイザナギや高木大神は片鱗もありません。

この金山彦(瀛氏)と大幡主(白族)=神皇産霊尊を祀る神社である事が分かります。

そのことは、通常、イザナギ、イザナミとセットで祀られるはずの祭神が、何故、イザナミだけが単独で祀られているかを考えて頂きたいのです。

実は、イザナギと別れた後(黄泉の国に消えたことになっていますが)熊野速玉大社の祭神でもある大幡主=速玉男命と夫婦神となられているのです。また、コノハナノサクヤとイワナガヒメは姉妹とされますが、大幡主=速玉男命とイザナミ(イザナギと別れた後クマノフスミと名を変えた)との間に産れたのがアカルヒメ(スサノウから逃げた)であり、大山祇命とそのお妃である埴安姫の兄である大幡主から見れば、疑似的な腹違いの従妹のようなものになるというとんでもない話になっているのです。

このように「古事記」神話は藤原により捏造されたもので(百嶋先生は95%が嘘だ…と)決して騙されない様にしなければ古代の真実は決して見えてこないのです。じっくりお考えください。

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新宮神社は奥出雲町の三十数社でも最も興味深い神社でした。

 と、ここまで書きましたが、境内には異常なほど荒神様が多い事から中国地方に多い三宝荒神に関してこの神々が如何なる系統のものなのかを確認しておきましょう。

豊玉彦(ヤタガラス)の子との扱いにされてはいるのですが、スサノオとクシナダヒメの間に産まれた娘が鴨(カモ)玉依姫であり、百嶋メモに長脛彦の子(二重線は姻戚関係と考えられるのですが…)のように扱われています。

ここらになると意味がまだ掴めないでいます。

奥津彦が実は長脛彦であることが、瀛(イン)氏隠しの最大の理由で、それを口実に発動されたのが明治期の神仏分離令だったのであり、多くの神社が祭神を公にしたくない理由は良く分かります。

そして、伊勢神宮が這い上がり、国体明徴運動宜しく偉そうに振る舞っているのです。

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百嶋データファイル03012三宝荒神よりまさに金山彦を中心とする強力な姻戚関係ですね!


この画像が何かは当面の間、公にはできませんが!画像のみお知らせしておきます。

 境内に荒神祭祀の痕跡が34ケ所も認められる事から、この新宮神社も新宮に新旧の意味が無ければ、元は新(ニュウorニイ)宮神社と呼ばれていたのかも知れません(多分玄界灘沿岸の新宮と関係が…)。つまり水銀による金銀精錬の痕跡であり、主神の一柱が金山彦=事解男命でありこれほどの荒神祭祀が認められる事は、長脛彦系か鴨玉依姫系の人々がこの神社に色濃く関係している事が伺えます。

 そもそも、金山彦(事解男命)は秦の始皇帝と姻戚関係を結んだイスラエル系の瀛(イン)氏であり、その流れを受けた人々が奉斎した神社がこの新宮神社であると考えられそうです。

 ひぼろぎ逍遥(跡宮)106 白川伯王家の源流の神社初見 “飯塚市鹿毛馬の厳島神社”などを参照して下さい。

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今なお誇りを保ち自らが何者であるかを主張し伝統的祭祀を忠実に継承しようとするこの神社の姿勢に感銘を禁じえません。豪奢な神社は他に幾らもあるでしょうが心惹かれる一社です。

 多くの神社が祭神を明示する事を怠り、全く主張せず、本来の神々を安易に入れ替え、都合に合わせて隠そうとしている中で、これほど立派な姿勢を示しておられる事には驚きを感じさえします。

 特に神の憑代としての「柱立」、「柴刺」の継承と何度となく参拝したくなる神社です。

 自らが何者であるかを訴え続けない限り、制度的根拠なく氏子の信奉だけに支えられる神社には存立の希望は一切ありません。既に、過疎化、少産化、少子化、無産化が劇的に進む中、氏子に対して自らが何者であるか、ひいては氏子が如何なる神々の後裔であるかを伝えない限り、決して神社への尊崇の念は維持されず、薄れ続け消失へと進むだけなのです。

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研究目的で百嶋由一郎氏の講演の音声CD、神代系譜、手書きデータを必要とされる方は、09062983254までご連絡ください(随時)

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 12:04| Comment(0) | 日記

2017年11月13日

395 奥出雲の神々 04 八川の八幡宮

395 奥出雲の神々 04 八川の八幡宮

20170501

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


八川は鳥取、島根、広島の三つの県境がひしめき合うJR木次線の三井野原駅や国道314号のおろちループ橋辺りから室原川沿いに北に転がり落ちたような場所でかなり狭い谷の集落です。

 ここにも大八川、小八川という大小地名があります。

この八川(ヤカワ)の「八」が元々「ヤ」と呼ばれていたのかどうかは興味があるところです。

近くには金川川という製鉄絡みの地名も拾えますし、製鉄と地名の「ヤタ」は多少の関連を知るからです。

ただ、関東の世田谷、千駄ヶ谷、渋谷、保土ヶ谷…と関東の「谷」の字があてられる「ヤ」は「ヤツ」「ヤタ」と呼ばれていたもので、舌状台地の浸食谷の湿地帯を「ヤツ」「ヤッ」「ヤト」「ヤタ」…と呼ばれている事を知るからです。

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見た目にも狭い谷地に成立した集落である事はお分かり頂けると思います。

この室原川と金川が合流する金川別れ辺りの八川駅前の丘陵地に鎮座するのが八川の八幡宮です。

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八川の集落(左)と八川の八幡宮の宮司家なのでしょうか


このような広い農耕地のない土地にそれなりの集落が成立した背景には、戦後しばらくまで続けられたたたら製鉄であったはずで、近代的製鉄の隆盛によって近世まで最先端の鉱業地帯であった出雲の基盤が失われていった事を考えざるを得ないのです。

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八川の八幡宮の正面参道 それほど珍しくはありませんが二つの鳥居には神額がありません


 境内に入ると、神殿前ではなく右手に八幡宮の鳥居が置かれていました。

勿論実体は不明ですが、これでは神殿に祀られているのは八幡神ではないと言わんばかりであって、もしかしたらそれが真実なのかも知れません。

そもそも八幡が蔓延るのは九州(これは列島と同義)の宗廟が高良宮(久留米高良大社)から、旧九州王朝の宇佐宮へと移った高々749年以降の事であり(「高良玉垂宮神秘書」)、次は鎌倉政権成立後の12世紀以降の話であり、それまで、この地域に奉斎する神々がいなかったなどとは凡そ考えられないのです。

もしかしたら、八幡宮とはなっているものの、神殿には本来の神々が復座し八幡が外に出されている可能性も無い訳ではないのです。

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もちろん、建てるところが無くて仕方がなくそう配置したと考えるべきでしょうが、始めはどきりとさせられました。

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八幡宮 カーナビ検索仁多郡奥出雲町八川2071番地


祭神ですが、県神社庁の資料によれば誉田別尊・足仲津彦尊・息長足媛尊 とされています(勿論、主祭神とは断られていますが)。

 これも足仲津彦尊(仲哀天皇)が入っているタイプであり、宇佐系でも石清水系でもなく鶴ケ岡八幡系でしょう。奈良東大寺の手向山八幡宮の系統のようです。どうみても奥出雲には相応しくないのですが、多分、先住の神々がおられるはずです。として境内を見回すと縄久利神社がありました。金刀比羅神社もありますが、祭神は佐田大神=大山咋で猿田彦ではありません。詳しくは、ひぼろぎ逍遥051 出雲の佐田神社と安心院の佐田神社 ひぼろぎ逍遥(跡宮) 295 大宮神社と猿田彦大神 N “ひぼろぎ逍遥051 出雲の佐田神社と安心院の佐田神社 再掲 外をお読みください。

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「縄久利」は島根県の安来市で見たことがありますが、大山祇命と磐長姫命を祀る神社です。

一般には、コノハナノサクヤヒメの姉神で、ニニギに返されたというとんでもない話に仕立てられた方です。

 この話に入ると長くなりますので百嶋神社考古学の立場から簡単にしますが、コノハナノサクヤとイワナガヒメは元より本当の姉妹ではありません。ただ、無関係かと言うとそうでもないのです。

 コノハナノサクヤは確かに大山祇命と博多の櫛田神社の大幡主の妹である埴安姫の間に産れた大国主命の妹です。これに対してイワナガヒメは大幡主(神産巣日神、神皇産霊尊)とイザナミ(イザナギと別れた後クマノフスミと名を変えた)との間に産れたアカルヒメ(スサノウから逃げた)のことであり、大山祇命のお妃の埴安姫とその兄の大幡主から見れば、疑似的な腹違いの従妹のようなものというとんでもない話になるのです。

このように「古事記」神話は藤原により捏造されたもので(百嶋先生は95%が嘘だ…と)決して騙されない様にしなければ古代の真実は決して見えてこないのです。 多分、このことは能の東儀一族はご存じだろうと思います。

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境内を見ていると、摂社にもっと興味深いものがありました。
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左)若宮神社 右)鷺神社 とありますが、これには疑問があります


お稲荷さんが若宮神社であるはずはないことから、まず、鷺神社と若宮神社が誤って入れ替わっている可能性があります。

若宮神社とは九州だけではなく列島全体に分布しているもので、高良玉垂命(第9代とされた開化天皇)と神功皇后(仲哀死後開化と添い遂げた)の間に産れた長子(斯礼賀志命)後に仁徳天皇となる大雀命(オオササギ)であり、この「オオササギ」の「サギ」を鷺神社と誤ったのではないでしょうか。

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無題.png久留米市には天照御祖神社(大石神社)があるのですが裏参道には「鷺神社」と書かれた鳥居がありました。しかし、決して天照大御神を祀るものではなく伊勢の外宮の豊受大神=伏見稲荷=辛国息長大姫大目命(アメノウヅメで「大目」はウヅメと読むべし)を祀るもので、その夫神である山幸彦、五十猛、猿田彦、ニギハヤヒ…が鷺神社ではないかと考えています。

 とすると、若宮神社とは何かと言う驚愕のテーマに向かわざるを得なくなります。

 恐らく、この若宮神社は仁徳で間違いないと思います。

 この若宮神社と高良神社(高良玉垂命)をセットで祀る祭祀は筑後を中心にかなり広範囲に認められますが、列島全体に広がりを持っていたものと考えています(四国だけでも15社確認)。

 現在、自分で確認したものとして最も遠いのは栃木県大田原市の那須神社境内でしたが、ここでは若宮とのセットではありませんでした。


ひぼろぎ逍遥 416 那須与一の那須神社に高良神社を発見した! 北関東への神社調査 @ を参照を。


 近畿大和朝廷にとっては九州王朝の高良玉垂命(開化天皇)と若宮(仁徳天皇)の存在は疎ましいものであり基本的には消し去ったはずですが、復活したり温存されたり現在でもその痕跡は数多く確認できます。これについては、ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)を検索されれば、極力リポートしていますので確認できると思います。「高良玉垂宮神秘書」→

 境内にはもう一つ興味深いものがあります。                        

この神社からの遥拝の筆頭は物部神社であり、石見は太田市の物部神社(ニギハヤヒ〜ウマシマジ)で間違いないはずで、この神社の本質は宇佐神宮の神威が覆い被さって来る前までの祭祀を物語るものと考えられます。

 無題.png次の水若酢神社ですが、この隠岐の式内社の水若酢命が誰かは不明とされています。

「記」「紀」に登場しない神様はお手上げなのです。しかし、百嶋神社考古学の立場からは、この神が豊玉彦=豊国主=ヤタガラス…であることが分かります。そもそも隠岐は大幡主の領域です。「延喜式」神名帳では隠岐国に「玉若酢命神社」があり副祭祀として中言(ナカゴト)命、鈴御前(スズノゴゼン)とあります。

 この中言命こそが、第10代と格上げされた神武僭称贈)崇神天皇であり、その妃の五十鈴姫であり俗称荒木のシズちゃんなのです。

 静チャンはズズー弁の雲伯方言地帯ではシズはスズ(スンズ)と呼ばれたのです。

 豊玉彦については前掲の系譜を見て下さい。


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百嶋由一郎八女津姫神代系譜(部分)


研究目的で百嶋由一郎氏の講演の音声CD、神代系譜、手書きデータを必要とされる方は、09062983254までご連絡ください(随時)


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2017年11月11日

394 奥出雲の神々 03 小馬木の八幡宮

394 奥出雲の神々 03 小馬木の八幡宮

20170501

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


次の神社は大馬木から34キロほどのところにある多少狭い谷の集落です。

 この一帯には大馬木、小馬木には、大森、小森、大林こそないものの小林はあり、どう見ても分家集落か臣下の集落と言った雰囲気です。

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実のところ記憶が不鮮明で、どちらの神社だったのかが分からずにいます。

緑桜と呼ばれていた美しい桜の木がある方なのですが、訪問される方はご注意ください。

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確かに昼に近い時分どきでしたが、仲の良さそうなお二人のお婆さんが手作りの海苔巻などを持ちより、上天気の空の下で楽しそうに話をされていたのです。一人の方が、「花見に来てるんですよ…」と言われました。花見としては珍しいと思いますが、一本の桜の木を見に来られていたのです。粋(chic)ですね。

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祭神ですが、県神社庁の資料によれば、誉田別尊・足仲津彦尊・息長足媛尊 とされています(勿論、主祭神とは断られていますが)。

 この八幡宮は足仲津彦尊(仲哀天皇)が入っているタイプであり、宇佐系でも石清水系でもありません。奈良東大寺の手向山八幡宮か鶴ケ岡八幡宮の系統のようです。

 どうみても奥出雲には相応しくないのですが、多分、先住の神々がおられるはずです。

 その前に、社殿をお見せしましょう。

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境内の一角に三柱の摂社らしきものがありました。恐らくこれが本来(749年以前)の神々だと思います。ただ、言わず語らず、黙して語らず。早く「島根県神社誌」を手に入れなければなりませんね。

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ネット検索を行っていると、上記の資料に遭遇しました。上の天王子社が地図の左側の神社と思われます。実は、始め誤ってそちらにも足を運んだのですが、神社庁の資料にはない神社のようです。

天王子社は他地区でも何社か見たことがありますが、一応、大幡主の子の豊玉彦(ヤタガラス)と認識しています。

天子社、天子宮、天子神社とは別で、八王子社、王子社、皇子宮、王子宮とも違うと考えています。

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もうしばらくすると過疎化と列島文化の壊滅によって神社そのものが消失する時代がやってくるでしょう。

この幸せそうな緑桜を愛でる心の余裕のあるお婆さんたちの姿も見なくなることでしょう。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 01:01| Comment(0) | 日記