太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2017年07月09日

353 高 良(コウラ)“薩摩に避退した九州王朝系氏族を発見した”B

353 高 良(コウラ)“薩摩に避退した九州王朝系氏族を発見した”B

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 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川  清久


再び川辺町へ(第2次川辺調査)


九月二十五日、前回の内倉武久氏(富田林市)に代り永井正範氏(たつの市)の随行を得て、薩摩に向かい、二十六日昼前には再び川辺町に入りました。

直ぐに高良酒造に向かいましたが、社長も覚えておられていたことから話も滑らかに進み、甕仕込みの倉まで見せて頂きました。

今回は奥様もお会いすることができ、いろいろな話が飛び出してきました。

正確を期すために今後の調査を待つとしても、一つだけおもしろい話を紹介させて頂きます。

無題.png奥様の話の中に「ひいおばあさんから聴いた話ですが、高良の家は今はコオラだけど、元々はきキだったと言っていました」というものがありました。急いで確認するために「紀貫之の紀ですか」と問い直したのですが、後で、「姫」かもしれないと思い、再確認すれば良かったと思いました。

詳しくは、再度、電話で確認することとして、そうなると家紋を確認したくなり、

お尋ねすると、「どうぞ御覧下さい」と応接間に案内されました。「橘」「葵」かなどと期待したのですが、そこにあったのは、丁子(ちょうじ)紋の一つでした。

 丁子紋を使うのは中央の有力氏族は三条西家だけだそうで、紀氏との関係を辿ることはできません。            丁子紋の三ツ星は剣の置き換えか


無題.png丁子はモルッカ諸島が原産の輸入植物で、日本でも古くから知られていた。正倉院御物の中にもある。中世の貴族はこの花のつぼみを干して香料にしていたようだ。また薬としても役立てていたともいう。(抱き丁子) 丁子は高貴薬で香料であることから、七宝のひとつになっている。これにちなみ紋章としても人気が出たようだ。

【主な使用家】 押小路、甲藤、新庄、松村、竹尾の藤原氏流の諸氏。源氏系では真崎、志村、幡野、石崎の諸氏。ほか菅原氏系の来栖氏、滋野氏系の望月氏などが使用している。

HP「家紋の由来」より

 今後、詳しく調べ報告できることもあるでしょう。

もちろん、期待はしていたのですが、紀氏とは正直言って面食らいました。

紀氏と言えば、岩清水八幡を奉祭する橘一族、曽我氏、田中、松永、松延、安富…といったものが、頭に浮かんでいますが、どうも繋がりが見つかりません。

薩摩半島にも岩清水八幡系の氏族もあることから今後の課題です。

前回、同行して頂いた内倉氏の著書に「謎の古代氏族紀氏」(三一書房)が急に信憑性を帯びてきました。

永井氏に飯倉神社を見せ、以前から多少存じ上げていた地元の郷土史家と言うよりも歴史家と言った方が正しい青屋正興氏(「南九州の地名」「薩摩史談」「川辺町風土記」・・・著書多数)を訪ねました。

初対面でしたが、手紙のやり取りはしていたため、既に、こちらの意向はお分かりで、川辺町の主なところをご案内いただきました。

まずは全体を把握するために、高台の運動公園に向かいました。天気も良く、眼下には大きな平野が広がっています。

この間の訪問以来考えていたのですが、川辺盆地は、太古、湖だった可能性を思わざるを得ませんでした。あまりにも標高差のない平地が広がっており、湖による水平堆積の結果できたのが川辺平野のように思えたのです。

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川辺盆地


そのことを青屋先生にお話しすると、先生もそうお考えだったようで、“今は出水一帯になりますが、古代には大口(現伊佐)と川辺が最大の穀倉だったようですね」とのことでした。

色々ご案内頂きましたが、今回の目的、飯倉神社以外の高良神社に向かいました。

 まず、両添地区の稲穂神社ですが、社殿、境内を見る限り、高良の神を感じさせるものは全くありません。

 神社を見慣れている人にはお分かり頂けると思いますが、概して、熊本から鹿児島に入ると、維新政府の影響が色濃く出ています。記紀に合わない祭神を隠し、入れ替え、合祀と称して消し去っていることが分ります。

このため、痕跡を探ることが難しいという印象は拭えません。高良八幡宮を併せたとする稲穂神社もその一例と言えそうです。

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竹屋神社

次に竹屋神社に向かいました。

ここも平野が広がる一帯ですが、麓川水系の飯倉神社と山一越えた大谷川流域の小丘の縁といった場所です。

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竹屋神社


ここも神社縁起もなく、社殿周辺を見ても何の痕跡もありません。

早々に切り上げ、金峰町の高良神社を見に行こうと思いましたが、青屋先生が直ぐ傍に宮司宅があるからと案内され、高良武蔵宮司のお話を聴くことができました。

高良宮司は、元は小学校の先生をされていた方で、昭和二年生まれで現在八十六歳とのことですが、まだ、記憶もしっかりしておられ、農作業もされていることから、頭も体も健康で貴重な話を聴くことができました。

早々に御自宅の離れに上がりこみ、宮司からお話を聴きかせ頂きました。

詳細はICレコーダーに収録していますので聴かれるとして、要約すると、


@  高良一族は和銅(708)年間に飯倉神社の社家と竹屋神社の社家に分れた。

A 両添えの稲穂神社の場所に高良一族の大きな屋敷があった。

B 飯倉神社、竹屋神社ともに玉垂命を祀っている(いた)。

C 竹屋神社から南に五キロほどの高原谷(こおらだに)に高良一族の墓がある。

D 屋敷神の祭神も玉垂命である。


と、いった驚くべきものでしたが、高良の一族が、そのまま高良玉垂命の直接的な後裔であるのか(玉垂命は先祖なのか?)、単に臣下として奉祭していただけなのかはこれからです。

しかも、記憶を留めている人々が高齢化していることから急ぐ必要があります。

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竹屋神社社家の屋敷神


 神社庁の資料によれば、竹屋神社の祭神には高良玉垂命の名は出てきません。今のところ宮司の口伝だけですが、もしかしたら、江戸期までは自由であったため竹屋神社に公然と祀られていたものが、明治期に屋敷神として匿まわれたものかも知れません。全てはこれからです。

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戦後の祭神調査に基づくものです

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竹屋神社の縁起には高良玉垂命の名は出てきません。今のところ宮司の口伝だけが頼りです。

祭神は慎重に外されていると考えるのが正しいようです。この若宮が仁徳か応神天皇かも気になります。多分、仁徳と思うのですが、和銅年間に王子大明神と社名を替えるとありますので王子の意味からして若宮八幡こそが高良玉垂命の直系かも知れません(「高良玉垂宮神秘書」と繋がりそうです)。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 10:51| Comment(0) | 日記

2017年07月06日

352 高 良(コウラ)“薩摩に避退した九州王朝系氏族を発見した”A

352 高 良(コウラ)“薩摩に避退した九州王朝系氏族を発見した”A

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 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川  清久


高良大社系神社鎮座地HP暗号「山上憶良」目次」地図上の不思議な発見より)


例えば、幻の「筑紫舞」が奉納されていることから九州王朝との関係が囁かれる宮地嶽神社は全国に3000社あるとも聞きますが、高良玉垂宮、高良神社と呼ばれるものは、筑後地方以外にはあまり見かけません。

HP「地図上の不思議な発見」というサイトでも取り上げられていますが、鹿児島の一例を除き、筑後に集中していることがお分かりでしょう。

1.柳川市(5社)2.山門郡(4社)3.三池郡(1社)4.大牟田市(2社)5.大川市(2社)6.三潴郡(7社)7.筑後市(4社)8.八女市(1社)9.八女郡(6社)10.久留米市(2社)11.浮羽郡(1社)12.三井郡(1社)13.鹿児島県日置郡(1社)以外は福岡県

これは神社帳のデータで作成されているのかもしれませんが、鹿児島県神社庁のHP「神社を探す」にも高良神社が出てきます。


神社名:高良神社 神社名カナ:コウラジンジャ 

鎮座地:〒899-3514 南さつま市金峰町新山1540 

例祭日:十一月十五日 通称: 旧社格:郷社 

神紋: 摂末社:0 社宝: 

御祭神 玉依姫命(タマヨリヒメノミコト)応神天皇(オウジンテンノウ) 神功皇后(ジングウコウゴウ) 武内宿禰(タケウチノスクネ) 倉稲魂命(ウカノミタマノミコト

由緒 創建年代は不詳であるが、旧阿多五社の一つで、阿多の神社では最上の社格をもっていた。

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またの名を高良八幡宮、または、玉垂宮とも称された。

め中岳の中腹に鎮座していたが、天文七年十二月二十九日、島津忠良公が第二回の加世田攻めに当たり当社に戦勝を誓願し、それによって永禄二年己未十一月二十日、現在地に遷した。往時は阿多郷士による武士踊りも奉納され、盛大を極めた。明治四十三年九月十四日花瀬の村社稲荷神社を合祀した。


このサイトに対しては、多少、失礼になるかもしれませんが、実際にこれ以外にも高良神社、玉垂神社と呼ばれるものがかなりあります。


佐賀県武雄市永島町花島の玉垂宮、長崎県南島原市口之津町の高良山神社、同じく有家町の玉垂宮…、遠くは近畿地方でも、石清水八幡宮の正面の高良神社や明治になって打上(打上の意味は御簾を揚げること)神社と名を変えた寝屋川市の高良玉垂神社、栃木県野上町、島根県松江市の高良神社などがあります。

 また、可愛山稜で知られる鹿児島県薩摩川内市の新田神社の参道筋にも高良神社が置かれて残されていますし(写真)、大分県の国東半島、国見町の伊美別宮、岩倉社、岐部別神社は八幡宮とされていますが、左殿、右殿に高良社、仁徳天皇の配されており、祭神が入れ替えられる前は高良玉垂命が祭られていたことが分かります。


実は宇佐神宮においてさえ、以前は上宮の第二殿(実は勅使門を持つ正殿)の門の上に阿蘇神と高良神が祀られていたと神社関係者から聞いています。

さて、飯倉神社です。『川辺町郷土史追録』の記述が正しいとすれば、天智天皇の皇女玉依姫と天智天皇が揃っていることから、鹿児島県特有のいわゆる「大宮姫伝承」に対応するものであり、大和朝廷成立前後の最末期の九州王朝の抵抗派の痕跡と言えるでしょう。

これについては前述のとおり、古賀達也による“最後の九州王朝”鹿児島県「大宮姫伝説」の分析をお読みください。

また、「大宮姫伝説」については私も古田史学の会の会報に伊倉48として書いていますのでお読みください。


伊倉 四十八 “薩摩半島先端の大宮姫伝説”

 薩摩半島南端といえば、西の坊津、野間池は置くとしても、まずは開聞岳、長崎鼻、池田湖、指宿温泉といったものが頭に浮かびますが、指宿市には揖宿神社があります。
この神社の縁起によれば、祭神は天智天皇とされ、古くは「開聞新宮九杜大明神」と呼ばれていたものが明治維新によって「揖宿神社」と改称されたとあります。
 八七四年に開聞岳が大噴火を起こした際に開聞神社外が指宿に避退したもので、それ以来、開聞新宮九杜大明神と名を変えたものと思われます。
 枚聞神社がそうであったように、この神社にも「天智天皇が大宮姫と共に指宿で天寿を全うした」という大宮姫伝承があります。
 今年の大晦日(二〇〇六年十二月)に訪れた薩摩の一宮、開聞岳の麓の枚聞(ひらさき)神社に大宮姫伝承があることは言わずもがなであり、比較的知られてもいますので、先に指宿市の西隣に位置する頴娃(えい)町の大宮姫伝承についてご紹介しましょう。
 頴娃町の海岸には射楯兵主(イタテツワモノノカミ)神社があります。ただ、この神社は古くは竃蓋(かまぶた)神社と呼ばれていました。祭神は素戔鳴命とされてはいるものの奇妙な伝承が残されています。

 まず、頴娃町にはこれまた不思議なのですが、御陵という地名(JR指宿枕崎線にも御領駅があります)があります。もちろん、御陵や御所という地名は幾つかありますので、それほど珍しいものではありませんが、薩摩半島の先端にあるのが奇妙という意味です。それはともかくとして、奇妙な伝承とは“天智天皇と大宮姫がこの御陵の安藤実重中将を訪ねた折に饗応のために大釜で米を炊いたところその釜蓋が強風で飛ばされその蓋を祭った”というものです。
 ただ、この話については、熊本地名研究会のメンバーでもあるために、地名学と民俗学の側からある程度の説明ができると考えています。ご存知の方もおられるかも知れませんが、民俗学者の谷川健一氏の『続日本の地名』(岩波新書)に登場する永尾神社の話がそれです。
 間違いがあると大変ですので、詳しくは同書を読まれるとして、ここでは極めて簡略化した話をします。熊本県宇土半島の旧不知火町(現宇城市)に永尾(えいのお)神社があり、この氏子はエイを食べないとされています。このことに着目した谷川は、柳田国男以来の南方文化論の延長に南から移動してきたエイをトーテムとする集団が住み着いたとするのです。この永尾神社は海に向かって突き出した尖った岬の上に建てられています。つまりエイの尾に乗っているのです。さらに、沖縄ではエイをカマンタと呼ぶのですが、この這い上がったエイが乗る山が鎌田(かまた)山と呼ばれているのです。もう、お分かりでしょう。頴娃町のエイはスティングレイのエイであり、竃蓋神社のカマブタとはエイの現地名であるカマンタ(マンタ・レイも有名ですね)が持ち込まれている可能性があるのです。
 これは、熊本地名研究会の小崎龍也氏が谷川の永尾地名説に基づき新たに展開されているものですが、私も九州に五〜六ヶ所の永尾(えいのお)地名を発見しています。 
酔ノ尾(鹿児島県いちき串木野市)、釜ノ尻(鹿児島県東町獅子島)、永ノ島、エイノ鼻(長崎県佐世保市)、江ノ浦=下釜(長崎県諫早市)です。詳しくはHPアンビエンテの「地名は時間の化石」を見て下さい。

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恐らく、頴娃町の釜蓋神社の話はエイ=カマンタを祀る部族が住み着き、その地形との一致もあり釜蓋と表記される地名が生まれたのでしょうが、いつしかそのことが忘れ去られ、後発の大宮姫伝説が重なって饗応のための釜蓋が飛ぶという話に変わったと考えられます。
 さて、話を枚聞神社に戻しましょう。ここでは大宮姫伝説にまつわるもう一つの話をします。

 皇后来
 開聞岳が海に落ち込む山麓には大規模な熔岩塊の海岸線が広がっていますが、その西の一角に皇后来(コウゴウライ、コゴラ)と呼ばれる小さな入江があります。コゴラは恐らく皇后浦の転化したものでしょう。枚聞神社から西に四キロほど走ると入野駅に着きます。
 外に近道もありますが、少し下った入野道地、脇といった集落のアコウ群落の美しさを堪能して向かうことをお薦めします。皇后来は直に分かります。鹿児島県による解説を読むと、

皇后来
 天智天皇の后大宮姫が志賀の都から伊勢を経て海路九州に下り、山川の牟瀬の浜にお着きになった姫はしばらくその地に滞在されていた□いよいよ開聞の鳥居ケ原に新築される仮宮殿にお帰りになるため、牟瀬の浜から舟で開聞岳をまわられて脇浦の入江にお着きになったという。以来この入江を皇后来(こごら)という。     鹿児島県

と、あります。   写真は開聞岳の西の裾野の皇后来港         

 ここからは古田史学の会古賀達也事務局長の「最後の九州王朝」“鹿児島県「大宮姫伝説」の分析”(一九八八)に限りなく重なってくるのですが、まず、天智天皇は置くとして、「志賀の都から伊勢を経て海路九州に下り」は気になります。どう考えても志賀の都とは九州王朝の都の博多湾岸に思えるではありませんか。
 この古賀論文についてのコメントは別稿としますが、一点だけ書いておきます。頴娃町に限らず開聞岳付近には非常に多くの「別府」地名があります。ただ、現地では「ビュウ」(佐賀の別府地名はベフ)と呼ばれているのです。
 もちろん、別府地名は全国に分布しており、アイヌ語起源(ナイとともに川を意味する)説もありますが、一般的に九州西岸では“O”音が“U”音に入れ替わる傾向が顕著ですから、例えば「オオゴト」は「ウーゴト」と発音されるのです。とすれば「ビュウ」の本来の発音は「ビョウ」であるわけで、いわゆる郡評論争で著名な九州王朝の評督府の評の可能性を否定できないのです。私も現地で「ビョウ」と呼ばれていることは知っていましたが、古賀氏はこれを十年も前から「評」と関係付けておられたのです。この独創性と感性については驚くばかりです。このため私も多少の新しい仮説を提出しておきたいと思います。
 仮に大宮姫が九州王朝のラスト・プリンセスとして、大和朝廷の影響がなお及んでいない薩摩や大隅に最後の抵抗拠点(亡命地)を求めたとも考えられます。この薩摩半島先端への亡命ルートを考えると、それが宇佐神宮の沖を通る九州東岸が選択されるとは考えられず、西回りが当然のコースになるはずなのです。実はこれを裏付けるものがあるのです。
 それは志賀の都=博多湾沿岸から薩摩への第一の中継地点ともいうべき佐世保市に大宮姫を祀る神社があるのです。そして、さらに一歩踏み込めば、「伊勢を経て」についても、古田史学の会水野代表による「阿漕的仮説」(二〇〇六)で展開された元伊勢神社球磨川河口付近説にも繋がることになってくるのです。これについても詳報は別稿とします。今後とも天子宮、大宮姫伝説からは目が離せません。

糸島にも伊勢地名がありますね!

なお、大宮姫伝説は鹿児島県下にかなり色濃く分布しており、川辺町からも近い、吹上浜の久多島神社などにも認められ、吹上浜が志賀の都からの航路上でもあることからかなりの具体性が感じられます。

これについても、私が古田史学の会の会報96号に書いていますので紹介します。


天子神社のある吹上町永吉を流れる永吉川の河口に久多島神社、さらに旧加世田市万世(バンセイ)の八幡神社の付近にも久太島(クタシマ)神社があります。表記は異なるものの同じ神社でしょう。この他にも永吉の久多島神社の北にある小さな池の辺にももう一つの久多島神社があるようです(これについては未確認)。神社の名称は吹上浜の沖合にある島と言うよりも岩塊の独立礁ですが、単に岩礁を祀ったものではないようです。 再び前述の古老にお尋ねすると、天智天皇の妃の話が飛び出してきました。三年毎の決められた日に田中という家が久多島神社の宮司と共に船に乗りこの島に参っているとのことで、古老や大汝牟遅神社宮司のお話では、妃が都から帰される途中で生んだ子が亡くなり、この島に葬られたのではないか・・・・とのことでした。


その後、地元郷土史家のご紹介を得て、この祭礼を行っておられた田中家をご訪問しお話をお聴きしましたが、既に家勢が衰え、十年ほど前から辞めているとお聴きしました。

今のところこの田中家も筑紫(筑後)物部氏の末裔だったのではないかと考えています。

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南九州市頴娃町の釜蓋大明神の縁起


「釜蓋」地名については久留米地名研究会のHPに「釜蓋」として掲載しています。


揖宿神社

鎮座地 鹿児島県指宿市東方733番地  

御祭神 天智天皇

社記によれば、天智天皇が薩摩地方御臨幸の折り、当地の大杜に御滞興あらされた由緒の地として、慶雲3年酉午(西暦706年)210日、賀茂縣主堀内氏、指宿氏の遠祖が勅を奉じて、天皇の神霊、遺器を奉斎して葛城宮がご創建されましたが、168年後の貞観16年甲午(西暦874年)7月、長主山(現在の開聞岳)の大噴火があり、開聞九杜大明神(現在の枚聞神社)の葛城宮にご避難されたいとのご神託により同年11月遷宮され当杜を[開聞新宮九杜大明神]と称され、爾来指宿郷の総氏神として地方開拓の祖神、航海安全、諸業繁栄の守護神として崇敬され、明治維新に際し「揖宿神社」と改称され現在に至っております。特に、薩摩藩代々藩主の尊崇殊の外篤く、32度に及ぶ社殿の改修等全て藩費をもって施行されております。『揖宿神社』伝説上では、天智天皇は最愛の大宮姫と共に指宿で天寿を全うされた。ここは御所があった場所と伝えられる。


枚聞神社

鎮座地 鹿児島県揖宿郡開聞町十町1366

御祭神 大日霊貴女ほか八柱神(天之忍穂耳命、天之穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野樟日命、多紀理毘売命、狭依毘売命、多岐都比売命)

開聞岳麓の岩屋に仙人が行をしていたら1頭の鹿が現われ、法水を舐めたところ懐妊分娩。大宮姫と言われ、麗質世に聞こえ、2歳で上京藤原鎌足に養育され、13歳で宮中に召され天智天皇の后となる。ほかの女后などに嫉まれ、伊勢の阿野津より船で山川牟瀬浜に上陸。其の後脇浦に再上陸。天皇は姫を慕って薩摩に下向され、開聞の姫の所で余生を送られ、79歳で崩御されたと。『開聞故事縁起』

姫が生まれるとき、瑞祥が現れたので「瑞照姫」とも呼ばれる。鹿の口から生まれたためか、足が鹿のように二股に分かれていた。姫は足袋を履いて隠していたが、意地の悪い女官によって晒され、それを恥じた姫は故郷に帰ってしまう。意地悪をするのが大友皇子、慰めるのが大海人皇子とする場合もある。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 23:23| Comment(0) | 日記

2017年07月05日

351 高 良(コウラ)“薩摩に避退した九州王朝系氏族を発見した”@

351 高 良(コウラ)“薩摩に避退した九州王朝系氏族を発見した”@

2017012620130725)再編集

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川  清久

九州王朝論者の内部では、以前から、八世紀初頭、鹿児島県(薩摩、大隅、日向の一部)の一帯に最末期の九州王朝系勢力が避退(あるいは敗残)し、新興の大和朝廷に抵抗したのではないかと推測されていました。

加世田を中心とする南さつま市の東隣に、北から頴娃、知覧、川辺の三町で形成された南九州市は、中でも最も可能性が高い一帯かもしれません。

主要には「続日本紀」の“衣評督等反抗”の記事によるものですが、この一翼をになったのではないかと思われる氏族と遭遇したのではないか考えています。  高良一族が宮司を務めた川辺町宮の飯倉神社

資料の一つとして「最後の九州王朝 鹿児島県「大宮姫伝説」の分析」古賀達也(古田史学の会)後段に添付していますので参照して下さい。

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南さつま市 飯倉神社


内倉武久氏(元朝日新聞考古学担当記者)が熊襲の軍馬と想定されている在来馬(現在、開聞岳の麓で50頭ほどが岩崎グループにより育成されている)との同行取材の帰路、頴娃町から川辺町に抜けたところ、同地に高良酒造なるものがあることに気付きました。


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写真は鹿児島県旧川辺町(現南九州市)の高良醸造所による甕つくり焼酎「八幡」。[蔵元] 高良酒造 [蔵元住所] 鹿児島県川辺郡川辺町宮 [焼酎の種類] 芋焼酎 [原材料] さつま芋(黄金千貫)・米麹  [] 白麹  [蒸留方法] 常圧蒸留 [アルコール度数] 25 [容量] 1,800ml[購入価格] 1,850

旧川辺町は薩摩半島南部の中ほどにありますが、その宮地区にこの高良酒造(0993-56-0181があります。

こういう次第で、同社の存在に気付いたのはつい最近のことでしたが、この焼酎メーカーの一族が九州王朝と関係があるのではないかと思い始めたのは、その経営者の姓が「高良」である上に、隣の南さつま市まで広がる南薩のかなり広いエリアの中心的な神社であった飯倉神社の重要な社家であると知ってからでした。

HP「姓名分布&姓名ランキング」によれば、現在、全国に1649件の「高良」姓があり、沖縄に最多の1158、福岡に125件、大阪に60件、鹿児島に58(以下略)が確認できますが、鹿児島の「高良」姓が最も集中するのが南九州市の一帯であり、これが、高良大社と無関係とは考えにくいように思います。

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また、同市教育委員会に聴くと周辺にも高良神社がある(過去存在した記録が在る)と聴きました。   

一方、隣接する南さつま市にも「高良」地名、高良神社が確認できます(県神社庁)。

 飯倉神社とその周辺を調べ始めただけの段階であり軽々には言えませんが、祭神や古資料を見る限り、鹿児島県に特有の大宮姫伝承(「開聞故事縁起」他に残る、天智天皇の皇后が志賀の都から戻り、後に追ってきた天智天皇と添い遂げた…)との対応が見て取れ、直ぐに「続日本紀」に登場する衣(頴娃)評督、隼人の反抗、七二〇/養老四年、九州南部の隼人が大和の王権に対して起こした反乱で一年半に及ぶ戦いは隼人側の敗北で終結し九州南部における支配が確立したとするもの)が頭に浮かびました。

一方、九州王朝論者の一部には“最末期の九州王朝は奄美大島沖の喜界ケ島に亡命した”との説もあり、沖縄の高良(こちらはタカラと呼ばれます)姓も、薩摩から沖縄へと亡命し、九州王朝の大和王権徹底抗戦派の末裔の可能性があるのかも知れません。

大阪の高良姓も「タカラ」と呼ばれているのですが、今のところ、沖縄からの本土移住者と考えています。これらのことから、これ以降、南薩からは眼が放せなくなりました。 

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南九州市川辺町(市の中心は旧知覧町に置かれた)


ともあれ、内倉氏と高良酒造に向かいました。高良酒造の社長にお会いし、久留米の高良大社との関係をお尋ねすると、直ちに「毎年奉納させていただいています…」とのお答えを頂き、一族が、古来、高良玉垂宮を奉祭し続けている可能性があると理解しました。

また、元々の社家ではないものの、本来の社家が途絶えたため江戸期から代々飯倉神社の宮司を務めていたともお聴きしました。

話もそこ、そこに、すぐそばにある飯倉神社に向かうと、当日はたまたま御田植神事の大祭(高良大社では最近行われなくなっている)とかで、既に氏子以外の人々も集まり始めていました。


『川辺町郷土史追録』には飯倉神社縁起と異なる別の祭神が


まず縁起を見ると、八世紀初頭、和銅年間に遡る古社であり、同時に川辺の一の宮であったとされ、一社、三殿の正殿には玉依姫が、東殿には大綿津見神。西殿には食飯魂命が祭られているとしています。

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 まずは、無難に見えますが、直ぐに本来の祭神は食飯魂命ではなかったかと感じました。薩摩のこと、神代史の神武(カムヤマトイワレヒコ)に絡む豊玉姫、玉依姫は出来過ぎの感があり、祭りの準備でごったがえす中、社務所に上り込み、とりあえず、実質的な川辺町誌の感がある、『川辺町郷土史追録』(平成九年)を読ませて頂きました。

詳しくは『川辺町郷土史』追録を読まれるものとして、少なくとも現在の縁起に対し主祭神の天智天皇の妃と東殿の祭神の天智天皇とは明らかに異っています。

一般的には武家政権と結びついた仏教勢力を排除し、「疑似」的親政による神道の重用という明治維新以来の政策により祭神に変更が生じたものとの推定が可能ですが、まずは、壬申大乱からみの天智天皇云々が憚られ慎重に排除されたものと考えられそうです。

いずれにせよ、変更が生じていない食稲魂命については八世紀以前に遡る本来の神霊である可能性はありそうです。

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飯倉神社については『川辺町郷土史』追録 神社史以外にも、江戸期に成立した『川邊名勝誌』大正写本(活字版)があり、この調査研究編には高良八幡宮が出てきます。

これは前掲地図の宮地区の東の両添地区にあったらしく、「…両添の川崎橋の南、大薗地区の北側にある畑地がその跡である。相当大きな神社だったらしく、両添の川に添った地区を宮下村と言ったのはこの神社と関係があるものと思われる。…」明治四十二年に同地区の稲穂神社に合祀されています。

また、合祀を受け入れた側の稲穂大明神についても、「両添山添にあり、祭神は武内宿祢と大年神とされ、神体は石である。『上古両添柏木門先祖が因幡国より小石を持ち帰り因幡と名付おきたるに後に後稲穂と誤唱せり』と伝えられている。…中略…明治四十二年(一九〇九)に高良八幡宮を併せた。」とあります。


「明治維新以来の政策により祭神に変更が生じたものとの推定が可能ですが、…」と前述しましたが、「南九州の地名」(南方新社)「川辺町風土記」などを書かれた青屋昌興氏が川辺町在住であったことを思い出し再読しましたが、「南九州の地名」6 明治維新の傷痕として、この点についても、当然にも飯倉神社についても書いておられました。


現在の神道ということで言えば、明治維新、一部の国学者の唱える国家神道なるものを背景にした神仏分離令による廃仏毀釈や神社の合祀あるいは主神の入れ替え等が半ば強制的に行われ、日本本来の神道の姿がかなり歪められている。

例えば、開聞にある鹿児島県の一の宮とも言われている枚聞神社は昔、和多都美神社と言われていたとされ、主神は豊玉姫、玉依姫の父君である豊玉彦(オオワタツミ)であった。二人の娘たちとともに祀られていた筈である。ところが明治維新時、オオヒルメムチノミコト(天照大神のこと)に替えられている。川辺宮の飯倉神社は枚聞神社の分社(末社)だとされている。飯倉神社には玉依姫、豊玉彦が祀られている。

このことから、枚聞神社、飯倉神社は海人の神社であることが分かる。ということは枚聞神社には豊玉姫、玉依姫の神話に結びつく何らかの古文書が存在した可能性がある。ところが、現在はそういう古文書の類は残されていない。…


現在の神社庁官僚によるものも含め「祭神入れ替え」については、青屋氏の言われるとおりかと考えますが、もちろん、当方の問題意識は大宮姫伝説にあることは言うまでもありません。祭神2 馬の利用と玉依姫神話においても以下のように書かれています。


川辺でも玉依姫が開聞から馬に乗って来られて、川辺の宮で馬を下りられたという、いわれのある土地がある。そこは、今でも「下馬(ゲバ)」と呼ばれており、飯倉神社の近くにある。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 01:22| Comment(0) | 日記