2026年05月15日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1126 大山祗とは月読命が貶められたもの!? @ の再掲載

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1126 大山祗とは月読命が貶められたもの!? @ の再掲載

20250926

太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


501 大山祗とは月読命が貶められたもの!? @ 20171128


 四国在住のブロガーでもあり、非常に熱心なメンバーのお一人から、「月読命」と「大山祗」を同一神とする百嶋神社考古学の立場について今一つ分からない…との疑問が呈せられました。

 優れた研究者の言ですので無視できない事から、今までに掴んだ限られた情報を繋ぎ可能な限り証明を試みて見たいと思います。

 個人的には百嶋由一郎という稀代の研究者を盲信するものでしかなく、単に百嶋研究を後世に継承したいと言う思いだけで作業している事からすれば、この問題には多少は気づいてはいたのですが、徐々に解決できるものと考え後回しにしていました。

 ところが、前述の事情から、多少急ぐ必要性があると判断し、これまで当方で把握しているジグソー・パズルの数少ないピースを繋ぎ合わせ証明せざるを得なくなった次第です。

 無論、「記」「紀」とは藤原が自らの権勢を強め維持するために都合良く仕立てたものでしかなく、隠したいものは隠し、貶めたいものは貶め、薄めたいものは薄め、無視したいものは無視している事は間違いがなく、このようなものを聖典視しそれ以外にはありえないとか?「紀」にはこのようにしか書かれていないのだからそんな話はお笑い草だ…といった議論を持ち込まれる方はそれで良いだけの事で、では「記」「紀」が絶対で、それ以外の説は全て誤りであるとされる根拠は何であるかとお尋ねすれば良いだけの事です。こいつらとは呼ばないものの、彼らとて「記」「紀」以外に依って立つ柱はないのです。漫画です。

 さて、元より隠されたものの裏を暴き、隠された真実に迫るには困難を要しますし、仮にこうではないかとしても、現場を見ておられない方の目からすれば、“その程度の事でしかないなら何の信憑性もない”などと否定される方が大半かも知れません。

 何分、「記」「紀」では遠い神代(神世の話)とする話ですから、決定的な証拠など望むべくもなく、民俗学的な帰納演繹的手法以外には取りようがありません。

 また、神代は主として九州島を舞台として起こっており(決して現「出雲」でもない)、利権塗れの畿内説論者などが一度も訪れていない場所で起こっているのですから、増々、非難を受けることは覚悟しておかなければなりません。

 では、嫌がらせの意味もありますが、学者、学会通説が無視し馬鹿にするウィキペディアから月読命と大山祗を考えて見ましょう。

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ツクヨミ

月読命(ツクヨミ、ツキヨミ)は、日本神話の神である。後世では一般に男神と考えられているが、記紀では性別の記述はない。

一般的にツクヨミと言われるが、伊勢神宮・月読神社ではツキヨミと表記される。 

神話での記述

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記紀(古事記と日本書紀)において、ツクヨミは伊弉諾尊(伊邪那岐命・いざなぎ)によって生み出されたとされる。月を神格化した、夜を統べる神であると考えられているが、異説もある(後述)。

天照大神(天照大御神・あまてらす)の弟神にあたり、須佐之男(建速須佐之男命・たけはやすさのお)の兄神にあたる[注釈 1]

ツクヨミは、月の神とされている。しかしその神格については文献によって相違がある。古事記ではイザナギが黄泉国から逃げ帰って禊ぎをした時に右目から生まれたとされ、もう片方の目から生まれた天照大神、鼻から生まれた須佐之男とともに重大な三神(三柱の貴子)を成す。一方、日本書紀ではイザナギと伊弉冉尊(伊耶那美・イザナミ)の間に生まれたという話、右手に持った白銅鏡から成り出でたとする話もある。また、彼らの支配領域も天や海など一定しない。

この、太陽、月とその弟ないし妹という組み合わせは比較神話学の分野では、他国の神話にも見られると指摘されている。

日本神話において、ツクヨミは古事記・日本書紀の神話にはあまり登場せず、全般的に活躍に乏しい。わずかに日本書紀・第五段第十一の一書で、穀物の起源として語られるぐらいである。これはアマテラスとスサノオという対照的な性格を持った神の間に静かなる存在を置くことでバランスをとっているとする説がある。同様の構造は、高皇産霊尊(高御産巣日神・たかみむすび)と神皇産霊神(神産巣日神・かみむすび)に対する天之御中主神(あめのみなかぬし)、火折尊(火遠理命(ほおり)・山幸彦)と火照命(ほでり・海幸彦)に対する火酢芹命(火須勢理命・ほすせり)などにも見られる。

ツクヨミの管掌は、古事記や日本書紀の神話において、日神たるアマテラスは「天」あるいは「高天原」を支配することでほぼ「天上」に統一されているのに対し、古事記では「夜の食国」、日本書紀では「日に配べて天上」を支配する話がある一方で、「夜の食国」や「滄海原の潮の八百重」の支配を命じられている箇所もある。この支配領域の不安定ぶりはアマテラスとツクヨミの神話に後からスサノオが挿入されたためではないかと考えられている。

ツクヨミはスサノオとエピソードが重なることから、一部では同一神説を唱える者がいる。

オオヤマツミ

オオヤマツミ(大山積神、大山津見神、大山祇神)は、日本神話に登場する。別名 和多志大神、酒解神。日本書紀は『大山祇神』、古事記では『大山津見神』と表記する。

神話での記述[編集]

『古事記』では、神産みにおいて伊弉諾尊と伊弉冉尊との間に生まれた。その後、草と野の神である鹿屋野比売神(野椎神)との間に以下の四対八柱の神を生んでいる。

天之狭土神・国之狭土神 天之狭霧神・国之狭霧神 天之闇戸神・国之闇戸神 大戸惑子神・大戸惑女神

『日本書紀』では、イザナギが軻遇突智を斬った際に生まれたとしている。

天之狭霧神の娘の遠津待根神は、大国主大神の8世孫の天日腹大科度美神との間に遠津山岬多良斯神を産んでいる。

オオヤマツミ自身についての記述はあまりなく、オオヤマツミの子と名乗る神が何度か登場する。 八岐大蛇退治において、素戔嗚尊(すさのを)の妻となる奇稲田姫(くしなだひめ)の父母、足名椎命・手名椎命(あしなづち・てなづち)はオオヤマツミの子と名乗っている。

その後、スサノオの系譜において、オホヤマツミ神の娘である神大市比売神(かむおほいちひめ)との間に大年神と倉稲魂尊(うかのみたま)をもうけていると記している。また、クシナダヒメとの間の子、八島士奴美神(やしまじぬみ)は、オオヤマツミの娘の木花知流比売(このはなちるひめ)と結婚し、布波能母遅久奴須奴神(ふはのもぢくぬすぬ)を生んでいる。フハノモヂクヌスヌの子孫が大国主大神である。

天孫降臨の後、瓊瓊杵尊はオオヤマツミの娘である木花之開耶姫と出逢い、オオヤマツミはコノハナノサクヤビメとその姉の磐長姫を差し出した。ニニギが容姿が醜いイワナガヒメだけを送り返すと、オオヤマツミはそれを怒り、「イワナガヒメを添えたのは、天孫が岩のように永遠でいられるようにと誓約を立てたからで、イワナガヒメを送り返したことで天孫の寿命は短くなるだろう」と告げた。

いずれも ウィキペディア(20171128 0917による

 概略はお分かりになったと思います。

言うまでもなく通説上は大山祗=月読命という方程式は成立せず、片鱗も見えません。

 ただ、予感程度ですが、「記」も「紀」でも影が薄く、存在性を疑わせるような印象を与えようとしている所が共通性を持っているのではないか…?とまでは言えそうです。

 ここで、通説から離脱されていると思われる方の説を見ておきましょう。


大山祇命の正体

 大山祗神(駿河国一宮三島神社他

 大山祗神は素盞嗚尊の妻の稲田姫の祖父として神話に登場する神である。伊予大三島の大山祗神社では天照大神の兄として、最古と言われている薩摩の大山祗神社ではニニギ命の妻吾多津姫の父として祀られている。これらは同一人物とは考えられない側面があり、その土地の有力者(縄文人?)を大山祗神と呼んでいることがうかがわれる。しかしながら、三島神社で祀られている大山祗命は行動実績を伴っている。東日本地域の一宮級の神社の祭祀の原点を探ってみると大山祗神であることが多い。地域の土着神である可能性もあるが、これは一人の同一人物と考えてみる。
 @ 大阪府高槻市の三島鴨神社は、淀川沿いに有り、大山祇命の最初の降臨地と言われている。事代主神が三島溝杙姫(玉櫛姫)に生ました姫が姫鞴五十鈴姫で、神武天皇の妃となった。また三島溝杙姫の父神が三島溝咋耳命、その父神が大山祇神となっている。また、この神は九州からやってきたとも伝えられている。饒速日尊は大和に侵入する時の伝説地をたどると、まさにこの周辺に上陸したと考えられる。また、伝承上他の人物で、大山祗神に該当するのはいない。このことより大山祗神と饒速日尊がつながる。
 A 伊予国大三島の大山祗神社には「わが国建国の大神で、地神・海神兼備の霊神で日本民族の総氏神として、日本総鎮守と申し上げた。大三島の御鎮座せられたのは、神武天皇御東征のみぎり、祭神の孫小千命が伊予二名島に(四国)に渡り神地御島(大三島)に祖神大山積命を祀った。」とある。「建国の大神」とくれば、素盞嗚尊・饒速日尊が該当する。日本の総氏神・総鎮守と言うのは素盞嗚尊の活躍が西日本限定であるので饒速日尊が該当する。また、小千命の祖神は「新撰姓氏碌」によれば、「饒速日尊」である。
 饒速日尊は各地を訪れた時、周辺の地勢を探るために、その周辺で最も高い山に登ったものと推察される。そのために、各地方の山に大山祇神が祀られ、「山の神」として崇拝されることになったのであろう。 


大山祇命とは

 大山祇命は東日本を中心に祀られている神である。山の神と考えられている。饒速日尊と同一人物と考えられる節があるが、瓊々杵尊の妻となった木花咲耶姫の父や、素盞嗚尊の妻の神大市姫の父など明らかに別人の要素もある。複数の人物が重なったものと考えられる。大山祇命の正体(古代史の復元)による

では、我が百嶋神社考古学の大山祗=月読命説も再確認しておきましょう。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


ご覧の様に、大山祗=月読命、ウマシアシカビヒコヂと白山姫=天御中主との子とします。


研究目的で百嶋神社考古学に関する音声CD、神代系譜、手書き資料…を必要とされる方は09062983254までご連絡ください。


 さて、この話を深く掘り下げるにあたって知っておいて頂きたい事があります。

 それは、宮崎県西都市の西都原第2古墳群に伝大山祗命の古墳と言われる柄鏡型前方後円墳が、その正面には古墳への参道階段を持つ石貫神社があり、付近には大山祗命の娘とされるコノハナノサクヤを主神として祀る都萬神社があり、正面には桜川が流れているのです(関東ではコノハナノサクヤヒメは「桜」姫と呼ばれているのですが、このことから元は九州だと考えられるのです)。

 まず、ひぼろぎ逍遥 535536の省略版をご覧ください。


535コノハナノサクヤヒメはサクラヒメだったのではないか @ 20171125


 20171122日も、宮崎県椎葉村の栂尾神楽に来ている最中に、どうしても西都原第二古墳群の伝大山祗古墳正面の石貫神社を見たいので案内して欲しいとの乱暴な話が舞い込んだ事から、急遽(と言っても夜通し神楽は参加するのですが)対応する事になり、翌朝10時まで続くはずの栂尾神楽を朝6時で切り上げ、早朝7時から集合場所の草部吉見神社正面の奥阿蘇物産館に向かい、9時から宮崎県西都市に向かいました。

 最初に向かったのは伝大山祗古墳でした。

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 この古墳の正面にある石貫神社が大山祗を祀る神社である事は以前にもお伝えしました。

 事実、石貫神社は大山祗を祀る神社としていますし、付近にはコノハナノサクヤを祀る都萬神社もあるのです。このためここでは別の側面にふれてお話ししたいと思います。

ひぼろぎ逍遥(跡宮) 340 旧石和町に物部神社があった “山梨県笛吹市春日居”の石尊神社 

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この石貫神社からは160数段の階段が伝大山祗古墳に向けて造られており、これほどの石段が寄進によって造られている事を考えれば、かつては整列して神社からこの陵に向けて参詣が行われていたものと思います。

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前方後円墳でも初期のものとされる柄鏡式型の伝大山祗古墳


 さて、この石貫神社からもそう遠くはないところにあるのがコノハナノサクヤヒメを祀る都萬(ツマ)神社です。

つまり、父は娘にあたる大山祗を祀る石貫神社とコノハナノサクヤを祀る都萬神社が揃っているのです。

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都萬神社 カーナビ検索 宮崎県西都市妻1  0983-43-1238


 この石貫神社が熊本県玉名市の新幹線玉名駅正面の石貫と関係があり、実は、山口県光市の石城山神籠石の山上神社の祭神が大山祇神、雷神、高龗神である事とも通底しており、遠くシルクロードのタシクルガン(中国名「石城山」)を起源としている事にまで気付くのです。

 新疆ウイグルは勿論のことアフガニスタンにまで何度も入っておられたようで、このシルクロードの石頭城(タシコルガン、タシクルガン)石頭山が「石城」とされ列島まで持ち込まれていると考えておられたのです。

 無題.png これまでにも何度も申し上げていますが、百嶋神社考古学では大山祗命=月読命はトルコ系匈奴で金官伽耶の金越智(ウマシアイカビヒコヂ)と天御中主の間に産れた、トルコ系匈奴の血を引くものとします。

 ついでに言えば腹違いの伯母と姪の関係に当たる本当の神武天皇のお妃に当たるアイラツヒメも匈奴の血を曳いたトルコ系の女性だったのです。

 ちなみに、アイラールはトルコ語の「月」を意味し、アイラツヒメとは月子ちゃんであり、月姫だったのです。

 とすると、父の大山祗が月読命(百嶋由一郎説)と呼ばれている事の意味も多少は見えて来るのです。

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手書きデータ 百嶋神社考古学03 「014猿田彦から女木島」による

研究目的で百嶋由一郎氏の資料を必要とされる方は09062983254までご連絡下さい

536 コノハナノサクヤヒメはサクラヒメだったのではないか A 20171125

 さて、コノハナノサクヤヒメを主神として祀る都萬神社の前にはきれいな川が流れています。

桜川と言いますが、桜川町まであります。

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都萬神社 カーナビ検索 宮崎県西都市妻1  0983-43-1238


コノハナノサクヤヒメが祀られている大山祗系神社には桜の紋章がふられていますし、ご覧の通り、本家本元の都萬神社の社務所にも桜が施されています。

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コノハナノサクヤヒメはコノハナノサクラヒメであったとさえ考えるのですが、列島人はR音(実際はL音)の発音さえ困難であったため、コノハナノサクヤと呼ばれたのではないかとさえ考えていますが、これについては確信が持てないため今のところ構想に留まっています。ただこの桜川と無関係でもないでしょう。と言うよりサクヤヒメが居たから桜川の名が残ったのではないかと思うのです。

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無題.png以下はネット上から拾った「樹木の文化誌」の一文ですが、サクヤヒメはサ クラヒメだったのです。これは百嶋先生が言われていた事ですが、晩年“関東に移動したコノハナノサクヤヒメは関東ではサクラヒメになっている…”つまり、関東ではサクラヒメと呼ばれている事が分かるのです。例えば江戸落語の古今亭志ん生師匠の小噺で、男女の恋について語ったもの 小噺の概略を申し上げておきましょう「どんな男でもご婦人には迷うものです。清水寺に清玄(せいげん)という立派なお坊さんがいたが、桜姫のために思い悩んだ。「どうか桜姫に会いたい、お姫に会いたいとお姫ばかりを恋しがっていた。けれど会えなかった。これは会えないわけですな、こっちが坊主で向こうが桜だから。坊主と桜がオチになっていますが、花札の坊主と桜の事で、志ん生の噺には方々に出て来ます。勿論、コノハナノサクヤヒメの話としては語られてはいないのですが、関東のコノハナノサクヤヒメはサクラヒメと呼ばれていた事が反映されていた可能性が高いのです。恐らく近畿大和朝廷に完全制圧された段階で本来のサクラヒメはサクヤヒメと呼ばれ書き留められ、晩年になって移動した結果、関東では原音が残ったのではないかと考えています。木花之佐久夜毘売、木花開耶姫と表記される以前の原音が「サクラヒメ」として残ったのではないでしょうか?今のところ仮説の仮説のような段階ですが、コノハナノサクヤヒメはサクラヒメと呼ばれていたからこそ桜をシンボルとしており、ニニギと別れたコノハナノサクヤは晩年に関東に移動し、富士山浅間神社に痕跡を残し関東の玉川=多摩川(ヤタガラス)の領域に移動したと考えています。

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コノハナノサクヤヒメの兄に当たる大国主命を祀る武蔵大国魂神社

百嶋神社考古学に関心をお持ちの方は 090-62983254までご連絡下さい 常時対応可

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2026年05月12日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1125続)大山祇命は月読尊と同体なのか?“宮原誠一の神社見聞諜から”

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1125続)大山祇命は月読尊と同体なのか?“宮原誠一の神社見聞諜から”

20250926

太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1124 大山祇命は月読尊と同体なのか? “宮原誠一の神社見聞諜から”〜の続き


 「古事記」で月読命、「日本書紀」で月夜見尊とするこの神を百嶋神社考古学では大山祇と同体とするのですが、この認識は我々だけのもので、百嶋由一郎から結論だけを得ておりその根拠を聴いていないため未だに解明できない謎なのですが、メンバーの宮原誠一氏の見解を再度確認したいと思い転載させて頂きます。

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全国に存在する月読神社は数少ないですが、祭神は月読命(ツクヨミ)=大山祗となります。しかし、最近、月読神社に立ちますと、そうでもないような気がするのです。

複数の男女神が祀られているようなのです。まずは、大山祗、月読命の解説からです。

東町・月読神社の扁額の額縁の模様は神鉾神社(祭神:八千矛神=大国主命)と同じ半菊が四方に打ってあります。菊紋は大国主命の紋章であることを考えますと大国主命は月読の神の一柱とみてよいようです。

(4)
京都の月読神社が松尾大社の摂社になれるのか?
月読神社が松尾大社の摂社になるとは普通考えられません。
松尾大社の祭神は大山咋神(おおやまくい)です。
大山咋神は大国主の養子、市杵島姫の連れ子です。市杵島姫にとって大国主は二番目の夫となるのです。
もし、月読神社が大国主を祭神として祀ってあれば、大国主は義理の父として関連づけがとれるのです。大山咋神は別名・大物主であり、大国主は義理の大物主となります。

よって、大国主を月読神社の一祭神と前提にすれば、月読神社が松尾大社の摂社となりうるのです


月読神社(松尾大社の摂社)の鳥居  扁額の額縁はクマソ物部を表わす


ここまでは前ブログの重複部分。(古川)

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京都の月読神社の扁額額縁は熊本県球磨郡の岡原霧島神社(あさぎり町岡原南)と王宮神社(多良木町黒肥地)の額縁と同じです。この球磨の二社は月読関係の祭神が主祭神でしょうか?大山祗神、大国主命、木花開耶姫が基底にあると考えられます。

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もう78年前になりますか、球磨川流域の郷土史会の女性リーダーのヒロップさんの案内で訪問しました。(古川)

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最近は参拝していませんが、国宝となった青井阿蘇神社に劣らぬ茅葺の素晴らしい神社です。

 この両社は宮原さんも行かれていますが、共に人吉盆地でも特に重要な神社です。(古川)

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3.仁徳天皇を祀らない若宮神社


若宮神社の祭神は「仁徳天皇」で、開化天皇の「若宮」という意味です。

ところが、仁徳天皇を祀らない若宮神社が存在するのです。

大山祗ご一統の月読命、木花咲耶姫を祀る神社で若宮神社があるのです。


Misasan blog「滋賀巡り」2019-04-13 にて、滋賀県甲賀市の若宮神社を紹介して頂きました。拝読して驚きました。この若宮神社は橘族が関連する神社で、祭神は月読命、神紋は橘です。


     若宮神社 滋賀県甲賀市土山大河原1092

     祭神 月読命

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Misasan blog「滋賀巡り」2019-04-13 から


無題.png

社伝によれば、奈良時代初期の養老2年(718年)に創立。

この神社の特徴は、神主が氏子の中から毎年選ばれて奉祀されます。当番の神主は厳しいしきたりを守りながら一年間奉祀されます。奈良時代から千数百年続けられています。

例祭日は1015


1015日の大祭には、拝殿前にて御湯(みゆ)式が行われ、この神事は巫女さんが拝殿前で熱湯に笹の葉を浸し、身に振りかけて五穀豊穣と無病息災を祈念して舞を奉納されます。

境内には橘紋付き「馬」の銅像があります。


祭神の月読命とは誰でしょうか。大山祗(月読命)は橘紋を使用されません。

無題.png大山祗の若宮()とすれば、罔象女神、大国主、木花開耶姫となります。木花開耶姫の紋章は桜紋です。木花開耶姫と瓊瓊杵尊との間に姫君の古計牟須姫(こけむすひめ)がおられます。

古計牟須姫の紋章は橘紋で、「古計牟須橘紋」と言われます。橘紋の始まりでしょうか?「若宮」とは木花開耶姫の子・古計牟須姫を指すのでしょうか。甲賀の若宮神社は祭神を隠されているようです。


清流と緑と紅葉の郷「大河原」へようこそ

      http://www.ac-koka.jp/~mrd03201/

      http://ookawara.shiga-saku.net/e1200578.html

      拝殿前の御湯(みゆ)


無題.png

福岡県糸島市にも同様の若宮神社があります。


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若宮神社 福岡県糸島市志摩船越292

  福岡県神社誌に記載なし

  糸島市志摩船越桜谷に鎮座で、かつては桜谷神社と称した。

  祭神は、苔牟須売神(こけむすめ)、木花開耶姫(このはなのさくやひめ)

  なお、祭神の苔牟須売神とは地元では盤長姫命(いわながひめ)と伝承されている。

  糸島郡誌に「寛永元年(1624)115日、浦の漁人仲西市平の妻に神告ありて、

初めて勧請せしという。文政六年再建せり。」とあり。


  若宮神社 福岡県糸島市志摩津和崎300

  祭神 木花開耶姫


古計牟須姫(こけむすひめ)は木花開耶姫と瓊瓊杵尊との姫君で、古計牟須姫の紋章は橘紋です。親子で祀られていることになります。古計牟須姫が主祭神のようです。

北隣の引津神社の祭神は御年神で古計牟須姫とは夫婦で、社が夫婦並んで祀られていることになります。その子が「武国凝別命」で筑紫水沼君の祖となります。

橘族は女系が主流となります。日本の歴史は男系表示ですが、それでは本当の歴史はわかりません。すべての人に父母(男女)があるように、日本の歴史は男系女系同時に見る必要があります。女系橘族が歴史の表舞台に出られたのが孝謙天皇(女帝)です。孝謙天皇の祖母が「県犬養三千代」で、元明天皇から橘姓を賜っています。


月読命の若宮と言えば大国主となりますが、月読命と木花開耶姫が「若宮」の関係になるのか不明です。おそらく、木花開耶姫・瓊瓊杵尊の若宮が古計牟須姫でしょう。


志摩船越の若宮神社の神額、京都の月読神社の神額、壱岐の月読神社の神額、球磨郡の岡原霧島神社の神額の額縁はそれぞれ皆同じなのです。共通する祭神は木花開耶姫となります。

月読神社の主祭神が月夜見命であることを考えると、

 月読神社の主祭神=月夜見命=木花開耶姫という構図が浮き上がるのです。


月読命は男性説、女性説あり、月読命は男性神ですが、女性説も根強くあります。

木花開耶姫が「かぐや姫」といわれるように、月夜見と満月にイメージがぴったりの女神です。月読神社の祭神が、月読命(大山祗)のみならず、大国主(月弓)、木花開耶姫(月夜見)がおられるのかも知れません。月読神社は謎の多い神社です。


#月読神社#大国主#月読命#若宮神社#木花開耶姫#古計牟須姫

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2026年05月11日

ビアヘロ 261 新ひぼろぎ逍遥 1164 の先行掲載 ひぼろぎ逍遥1164 消えた神功皇后 = 本稿は後日ひぼろぎ逍遥(跡宮)に掲載の予定です

ビアヘロ 261 新ひぼろぎ逍遥 1164 の先行掲載

ひぼろぎ逍遥1164 消えた神功皇后 = 本稿は後日ひぼろぎ逍遥(跡宮)に掲載の予定です

20260421

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


❶ 堀切玉垂神社(現仁神社) みやま市瀬高町河内31443


一言で言えば、高良玉垂命=第9代開化天皇と仲哀死後の神功皇后とが夫婦であった事を今に伝える神社です。まず、同社正面の肥前鳥居にも驚きますが、社殿の荘厳さに圧倒させられます。

高良大社は高良玉垂命=第9代開化天皇を祀るも開化の名と神功皇后を消し、宮地嶽神社は神功皇后を祀るも高良玉垂命=開化天皇を隠し、九州王朝のシンボルであった二つの巨大神社を引き裂き、阿蘇氏=後の藤原氏に乗っ取られた近畿王権は、九州王朝の痕跡を消し去ったのでした。

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ただ、以下をご覧ください。日本国政府が公的に発表する際のシンボルが五七桐紋ですが、これは天皇家の皇族でも天皇家の一族を表し、五三桐紋は天皇家と姻戚関係を結んだものの使用できる紋章なのです。つまり、五七は高良玉垂命、五三は神功皇后を表しており、かつては両者を表すかなり大きな等身大クラス(誇張過ぎかも知れませんが)の人形が祀られていたのでしょう。開化隠しは進駐軍対策だと思いますが、玉垂隠しの後、今から178年前に神功皇后も隠されたようです。

 元は、神功皇后様がお祀りされていたのですが、2014年中に移されているようです。

 神功皇后であることは玉垂宮とも呼ばれており高良玉垂命(第9代開化天皇)が祀られている事は明らかであり、現在でも天皇家の紋章である五七桐紋と五三の桐紋が置かれている以上、天皇家と天皇家の姻戚関係に在る一族である以上、神功皇后であることは間違いがないのです。

 当会のメンバーで「高良玉垂宮神秘書」を読みこなしているメンバーは今もかなりおられま無題.png無題.pngすが、山川町郷土史会の研究もさることながら、第8代孝元天皇を祀るのが高良下宮社であり、開化天皇と仲哀死後の神功皇后が夫婦であったことは確実なのです。

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無題.png

聖母宮とは神功皇后を祀る神社であり、最も規模が大きいものは熊本県山鹿市の聖母八幡宮です。

通説は応神天皇の母との触れ込みですが、とんでもない大嘘で、長子が仁徳天皇=シレカシ命以下、朝日豊盛、暮日豊盛…など、高良玉垂命と神功皇后の実子5人と皇后の連れ子4人の9人を祀る神社が九躰皇子を祀る九体神社(みやま市高田町岩津897)に後で参拝します。

これら久留米の高良大社に残された「高良玉垂宮神秘書」を読まれればお分かり頂けます。

詳しくは、ひぼろぎ逍遥 055 みやま市河内に超高格式の玉垂宮が存在する を先に読まれると分かられます。 153 超高格式瀬高玉垂宮の神功皇后像が消えた “みやま市河内の高良玉垂の宮”

 付近にある聖母宮と玉垂宮が隣接すること自体も、お二人が夫婦であったことを示していますし、「宮神秘書」14pにもはっきり夫婦と書いてあります。

さらにグーグル・マップを見ると面白い事実に気づきます。矢部川を渡るとそこは柳川市です。勿論、古代には柳川市は海の底で中世の藤原純友の弟純乗が有明海の通商破壊戦で活躍した時代に芦原や島ができる巨大な湿地帯になるのですが、この事から、柳川側が新興地である事が分かります。

そこに応神天皇を祀る鷹尾神社、大和町鷹ノ尾地区が在ることからも、後発地帯に藤原の息の掛かったエージェントの応神が防衛線を引くかのように立塞がっているのが良く分かります。

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鷹とか隼で応神天皇を表現していますね。「古事記」でも隼別(ハヤブサワケ)で表現していますね。

宇佐の境外摂社が鷹居社ですし、京都など隼神社は誉田別尊を祀ります。福岡県小郡市の横隈隼鷹神社外多くの例が在ります。


 ❸ こうやの宮(磯上物部神社) みやま市瀬高町太神1674

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分


無題.pngこうやの宮なる奇妙な名の神社がある事は良く知られていますが、神社研究を怠ってきた古代史家には何のことだか分かっておられないようです。騎馬民族風の武人の人形が七枝刀の様なものを持っていますが、磯上物部神社の名の通り、7代孝霊天皇のお后である卑弥呼宗女伊予=細姫に対して兄(ウマシマジ)から贈られたもので、こうやの宮が別名磯上物部神社と呼ばれている事からも推定が可能です。

 ニギハヤヒ=山幸彦=猿田彦=彦火々出見…と伊勢の外宮様(辛国息長大姫大目命)との間に生まれたのがイヨでその伏見稲荷でもある物部を象徴する女神を后としたのが孝霊天皇になるのです。良く七枝刀を手にする女神を卑弥呼と誤っている方がおられますが、卑弥呼宗女イヨ様なのです。何でも卑弥呼に仕立てたがるのは商売目的ですね。

 我々百嶋神社考古学の者にとってはこのこうやの宮を含む旧瀬高町一帯は九州王朝の王族の居留地、パレスと考えてきましたが、この地に残されていた宝物は奈良に差し出さされ、その痕跡を残すためにこうやの宮が造られたものと考えています。

暫く前まで、この地には田中神社が在り(現在も残っているのかも知れませんが)、恐らくその一族が保管していた物と考えています。故)百嶋由一郎はこの地には五七桐紋を持つ田中姓の方がお住まいに成っており恐らく孝霊天皇、イヨに繋がる一族だろうと申していました。、


以前、「ひぼろぎ逍遥」055 みやま市河内に超高格式の玉垂宮が存在する 20140327 において、旧瀬高町に鎮座する超高格式玉垂宮について書いています。



詳細を知りたい方には055の全文をお読み頂くとして、そこでは、概略このように書いていました。

(中略)

写真は九州王朝論者の間にも殆ど知られていない玉垂神社です。


辺りは一面の水田地帯でしかなく、森を探せば辿り付けますが、どうしてこのような所にこれほどの高格式の玉垂宮があるか大変不思議に思えます。

有明海沿岸道路に近接する大牟田市の黒崎の先端に玉垂宮があるように、古代にはこの地も有明海に突き出した岬だったのかも知れません。

無題.png非常に興味深いことにここに住む人のほとんど全てが物部氏を思わせる河野姓です。 

また、七支刀で著名な太神宮こうやの宮にも近く、正面には七世紀に起源を持つかと思わせる肥前鳥居が現存しています。皆さんも一度訪ね見られてはいかがでしょう?

「この神社こそ、玉垂宮の原型を今に留める高格式の玉垂宮であり、本当の祭神がそのまま残されている」と教えてくれたのは、例の故神社考古学者でした。

(中略)

まず、このような場所に、なぜ、これほど多くの大きな社殿が立ち並んでいるのでしょうか、勿論、それは後世の事としても、山門(神社の場合は山門とは呼ばないでしょうが)屋根にも、本殿の屋根にも五七の桐、三五の桐が描かれています。

 ただならぬ神社であることは一目で分かりましたが、重要なのは神殿の御簾の中です。

 打上式の御簾の内側には一体の女神像が置かれ三五の桐の神紋が飾られています。

 もう一つは、五七の桐の神紋だけが飾られています。恐らく、元は男神像もあったのでしょうが、何時の時代かに外されたのだと思います。

 つまり、五七の桐、三五の桐を象徴とする夫婦神、つまり、高良玉垂命と神功皇后が祀られているのです

 神功皇后は仲哀天皇の妃というのは正しいのですが、その期間は極めて短く、その後はずうっと死ぬまで添い遂げていると言うのがその理由で、その痕跡は、高良大社で販売(\10,000)されている「高良玉垂宮神秘書」(コウラタマタレグウジンヒショ)にあります。

 これこそが、日本の古代の最大の真相であり、記紀をそのままに信じられない理由なのです。詳しくは別稿としますが、ここでは、現場にはこういう歴史の宝物が落ちていることをお知らせするにとどめます。

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みやま市玉垂宮正面の肥前鳥居


さて、122021日に掛けて行った益城町トレッキングの帰路、多久市在住の神社研究者のA氏を同社にお連れしたところ、神殿に鎮座されているはずの神功皇后像がありませんでした。

当然にも神社側のご判断で保管のために移されたものと考えますが、その背後に、その筋(神社庁)の意図が透けて見えた思いがした瞬間でもありました。

当方もこの貴重な神社資料が散逸することを恐れ、後世に伝えるためにも重要と判断し、少しでも多くの方が参拝され多少とも神社の経営に寄与できるようにと考えた事から、そのまま保存される事を期待し、当時も御神映を公表することを控えていました。

しかし、このような事が起こる事になれば、非常に悲しい事ですが真実をお伝えする必要があるものと思慮いたします。

数年前の瀬高町トレッキング当時も、四十人近い多くの方が参拝され(お賽銭も入れられるように小呼び掛けもいたしました)確認されていましたが、その中の方からお借りしてお知らせしたいと思います。

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打上式の御簾の内側には一体の女神像が置かれ三五の桐の神紋が飾られています。

 もう一つは、五七の桐の神紋だけが飾られています。恐らく、元は男神像もあったのでしょうが、何時の時代かに外されたのだと思います。

 つまり、五七の桐、三五の桐を象徴とする夫婦神、つまり、高良玉垂命と神功皇后が祀られているのです


と書いただけで、映像の公表は保留しておりましたが、お分かり頂けた事と思います。

高良玉垂宮神秘書」の断片を掲載していますが、この記述を裏付ける言わば物証がこの瀬高玉垂宮であり、高良玉垂の命の妃は、「記」「紀」で仲哀天皇の妃で応神天皇の母親とされる神功皇后なのです。

なお、五七の桐、三五の桐は、それぞれ高良玉垂命と神功皇后の神紋であり、一族としては、木瓜紋、住吉の神紋が使い分けられていたようです。

また、高良玉垂宮神秘書」では、第八代孝元天皇の三男=月神=底筒男命が神功皇后の夫であり、表筒男命=大川風浪宮の安曇磯羅が神功皇后の妹である豊姫の夫となります。

この関係については、百嶋最終神代系譜と「高良玉垂宮神秘書」と間に一分食い違いが認められ、「高良玉垂宮神秘書」では神功皇后の二人の妹の豊姫が宝満大祝と、もう一人が佐賀県の淀姫神社の大祝となったとされるのに対して、百嶋神社考古学では、安曇磯羅の妃がウガヤフキアエズの子である逆賊河上タケル(熊襲)の妃が豊姫(ユタヒメ)=淀姫とします。その理由は分かりませんが、今後も検討作業が必要でしょう。

いずれにせよ、この辺りに古代史の最大の謎、九州王朝の消滅、正当皇統の廃絶、新興勢力による歴史の改ざん、欠史八代問題、応神の系統による九州王朝隠しの理由が存在しているようです。

だからこそ、どのあたりからかは不明ですが、正しい歴史を消そうとする人々が存在している事だけは事実のようです。

どうやら、私達の探求は猛獣の尾を踏み始めたようです。逆に、真実の一端を垣間見た思いがします。

私達はこのような真実が隠される事に怒りは感じません。そうしなければ身の保身が叶わぬ人々を哀れとも情けないとも思う限りです。

真実を明らかにしなければ信頼を失うのは世の常であり、神社への尊崇の念は益々潰え去る事になるでしょう。

百嶋翁からお聴きして手探りで始めた神社調査でしたが、私達の調査の方向が正しい事を逆に証明された思いがしています。

現在、牛島稔太氏のHPや当方のブログなどを経由して本当の神代、従って真実の歴史を知りたいと考えられている方々から直接お話しを聴きたいとの問い合わせが増えています。

若い方から年配の方までかなりハイ・レベルの質問をお受けしています。

当方は、知り得ているものから抑制し配慮して公開していましたが、真実を捻じ曲げようとされる方々妨害には対抗せざるを得ません。全国から寄せられる熱心な神社研究者には手持ち資料をお渡しし資料の保全と分散を図りたいと思っています。

イスラム原理主義者の組織はピラミッド型の管理しやすい上意下達の組織ではなく抵抗力のあるブドウの房型の組織(アルカイーダー)を取っていると言われますが、既にその感覚で資料の保管を含め対抗したいと考えています。

本来、静かに秘かに限られた範囲で継承したいと考えていましたが、どうやらそれは許されないようです。

併設されている現仁神社の意味も少しずつ理解できるようになってきました。

この一年余りで百嶋神社考古学は多くの賛同者を得られるようになってきました。

「古事記」の九割は嘘、「日本書紀」はほんの少しだけ本当の事が書かれている云々は百嶋翁の言いでしたが、それを基礎に、金科玉条の如く振る舞う古代史学会、歴史学会、神代史学会、そして、日本書紀を最高の基準として年代を決定している考古学会の底の薄さに失笑を禁じえないとの思いを深めているこの頃です。


高良大社は福岡県久留米市御井にある。明治以前は高良玉垂宮(たますだれぐう)のち高良宮、高良社、玉垂宮、高良玉垂宮などと呼ばれた。高良玉垂命を主神とし、相殿に八幡大神、住吉大神を奉斎している。
仁徳天皇78年(390)鎮座と伝えられ、履中(りちゅう)天皇元年(400)の創建という。嵯峨天皇の弘仁9年(816)11月、名神に列し、貞観11年(869)3月従一位、宇多天皇の寛平9年(897)には正一位を授与された。筑後国一の宮・九州総社・鎮西十一ヶ国の宗廟と称えられた。
神主物部道麿(もののべみちまろ)の子、美濃里麿(みのりまろ)に神託があり、それによって大祝(おおはうり)家三男隆慶を社僧にしたという。その子孫は江戸時代前まで48世続き、盛時には神宮寺御井寺(みいでら)の座主(ざす)として千余名の僧徒を支配した。
旧国幣大社。現社殿は万治3(1660)年の造営になる権現造で、社宝の紙本墨書平家物語覚一本12冊とともに国の重要文化財に指定されている。
みやま市では分社は堀切の「玉垂神社」がある。ほかに大分県日田市十二町・八女郡水田町・大刀洗町・大牟田市岬があり福岡県の筑後地方周辺に点在する。

HPみやま市のお宮(総合編)より

高良玉垂宮(たますだれぐう)と書かれていますが、大阪にも版図を広げた九州王朝のシンボルは住吉神社と打上神社=高良神社ですが、その打上の意味は、御簾のすだれを上げる意味であると百嶋先生は言われていました。

みやま市の地元でも「たまたれ」などとは呼ばず、「たますだれぐう」とされ原形を保たれておられることに改めて敬意を表したいと思います。

そもそも「たまたれ」は日本語の語感としてはおかしく、もしそのように言うならば「たまたらし」が正しいのですが、「たますだれ」が正しいのです。

事実、現地にはその形式が残されていますし、中国語のターシャン(助動詞になるのですか物事を引き起こす場合には「打」ターが付されます)が打上神社の意味なのです。

まさか、打上神社まで隠せとお達しは出されないと思うのですが…、どうやら日本は第三次世界戦争に巻き込まれる事になりそうで、何が起こっても不思議ではないようです。

既に戦前の「国体明徴運動」以上の統制下にあるようです。以下省略…

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ