2025年03月22日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A 1056    2024 08.21北九州市小倉北区 佃 収 ムーブ フェスタ講演に多くの皆様の参加を頂き感謝します

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A 1056 

  2024 08.21北九州市小倉北区 佃 収 ムーブ フェスタ講演に多くの皆様の参加を頂き感謝します

20240726

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 去る721日(日曜日)昼から、北九州市の中心部小倉北区は小倉城傍大手町のムーブに於いて佃収氏の講演会を行いました。昨年の120人には及びませんでしたが、今回も100人の方にお集まり頂きました。

 灼熱の炎天下に遠路お集まり頂いた多くの皆様には改めて感謝致します。

 佃 収講演を福岡県で行ったのはもうだいぶ前になります。久留米大学と当研究会が始めだったのですが、先行して佃収先生の出身地が熊本県玉名市であった事から、いち早く菊水史談会が中心となり20年近くに亘り何度も勉強会、講演会を行い、最大は玉名市に於いて10年ほど前に180人を集める講演会も行われています。九州王朝論など聞いたこともない…と言った肥後の風土の中、二十年近くに亘って佃収研究を支えてこられた地元の皆さんのご努力に感謝しています。先生も80代半ばとなり、今後いつまで継続できるか分かりませんが、今回の講演内容も凄みを増しており、通説派の御用学者の大嘘が暴かれ、殆ど邪馬台国畿内説論者の話が漫画にしか見えない状況にあります。次回は早くも11月に北九州での講演会を準備しますが、遠路お出で頂く佃先生の講演を今後も是非お聴き頂きたいと思います。253月も黒崎で行う)

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 昨年も北九州市のムーブ・フェスタで佃収講演を行いましたが、物珍しさもあ

ったからか、120人の参加を頂きました。

 今回、20人ほど参加が少なくなりましたが、その一端は当会が負っています。

 一昨年は熊本県から10人弱の動員を行いましたが、流石に遠過ぎるため見送った事と、佐賀県と久留米市からも10人程度の参加を見込んでいたのですが、主要メンバーの学会参加や、直前で佐賀の主要メンバーが入院してしまったためドライバーを失い、太宰府地名研究会からは昨年の半分以下の参加しか得られなかったのでした。ともあれ、昨年のムーブ・フェスタに対して比較するのは申し訳ありませんが、この手の講演会では良くある携帯電話が鳴るとか、私語が気になると言った事も全くなく、徐々に本来の古代史ファンが集まり始めたという印象を持ったのでした。さて、肝心の講演についてですが、以下です。


講演内容: テーマ:動乱の七世紀二人の女性天皇と額田姫王

“「豊王権」の推古天皇、「上宮王権」の皇極天皇、「天武王権」額田姫王”


 このテーマも ムーブ・フェスタ の趣旨に沿った女性活躍…と言った良くあるもののように見えますが、この女性天皇(女系ではない)を促進させようとする米国民主党の意向に沿うもので、民主党政権が潰れれば直ぐに変わる可能性のあるものであって、実際には目くじらを立てるほどの物でもないのです。

 何故かと言えば、豊王権(これも佃説ですが)、上宮王権(同様)も共に九州に成立した古代王権でしかなく、最後の天武王権にしても、天武天皇の父(名も消された)が白江戦を唐+新羅と激闘の末敗北した

九州王朝そのものであって、唐による太宰府の占領後、天武の時代に平穏に畿内と言うより奈良に本拠地を移した時から畿内政権がスタートしたのであって、天智系も所詮は琵琶湖に逃げ込んだ小豪族でさえない勢力だったのでした。所詮、通説派の大嘘は真実の探求には影響がないのです。佃研究に注目を!

 今回も、春先の1月講演と併せ、810時間のCD二枚組(MP3方式)で講演をパソコン、カー・ステレオ、MP3方式のソニーなどのCDプレイヤーでは聴く事が可能ですので、必要な方は、090-62983254までご一報ください。実費程度でお送りできます。この貴重な佃収講演をお聴き頂きたいと思います。かく言う私も45年前までは長く古田史学の会のメンバーでしたので、10年前から佃研究ですが20年前にお会いできていたらと思うばかりです。不正確になるため内容は以下のドキュメントで代行させて頂きます。

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外にも多数ありますが、紙面の制約で割愛します。カーステレオで聴ける佃収九州王朝論、パワー・ポイントで分かり易く理解できる古代史研究、それに百嶋神社考古学に基づく神代系譜、講演録音声CD、手書きデータスキャニングDVD…を必要な方は09062983254まで連絡を…8月は阿蘇高森でのトレッキンクです。゙

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「九州王朝」と言えば古田武彦九州王朝論が大半を占めますが、佃収先生は騎馬民族国家論で著名な江上波夫教授の東方文化学院(東大東洋文化研究所)の流れを汲む九州王朝研究者です。今後も継続します。

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古代史、神社研究の会で会員会費制を取っていません。直接月例研究会に参加されて結構です。

 佃収北九州小倉講演は100人の参加で終了しました。次は熊本県高森町への神社トレッキング


無題.png8月は盆休みとして一部を除き研究会は行いません。

2024721日(日)佃 収 講演へ!

※テキストとして使いますので『早わかり「日本通史」(概要編)新「日本の古代史」(佃説)』を!

※ご注意ください! 駐車場が少ないためお困りの場合は090-54775110牧野までご連絡下さい。

講 演 者: 佃 収 (埼玉県越谷市在住)

著書「古代史の復元@〜➇」外多数

日  時:2024721日(日)

1300講演開始〜(1230開場)

講演内容: テーマ:動乱の七世紀二人の女性天皇と額田姫王

“「豊王権」の推古天皇、「上宮王権」の皇極天皇、「天武王権」額田姫王”

 講演会場:北九州市小倉北区北区大手町114 北九州市立生涯学習総合センター ムーブ093-571-2735

 参加費 :1000『早わかり「日本通史」(概要編)新「日本の古代史」(佃説)』佃 収を使います!

佃 収講演については、引続き丁己歴史塾と提携し実施します(年3回)。皆様のご協力をお願いします佃田講演が行われる月は紫野市での太宰府地名研究会の月例会は休会とします。

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  8月盆明けの仮日 奥阿蘇神社トレッキング 太宰府地名研 “川上 猛の生誕地を探る” 雨天中止or延期   

日 時:818日(仮案)930集合 1000出発 参加費 1000円 連絡 090-6298-3254(お杖代 古川)

集 合熊本県高森町2216 スーパーM「フレイン」 参加費+資料代(500700円)弁当+お賽銭+雨具持参   

参加費:連絡 太宰府地名研究会 090-5289-2994(事務局中島)宿泊地は各自で確保を! 時間厳守

順路:@ 矢津田御霊神社 ➁ 祭場阿蘇神社➂ 野尻川上神社 尾下菅原神社 ➄ 草部吉見神社

余裕があれば、➄の前に永野祖母嶽神社も巡ります(順路は変更有…)参加できない方は25日(日)へ

8月神社トレッキングのご案内…7県から40人程度の参加の予定ですが、同一内容のトレッキングを二回に亘り18日の予備として25日も実施します。…18日参加できなかった方は25日にお出で下さい。09062983254

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2025年03月18日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A 1055 8.18、8.25 川上 猛の生誕地を探る高森町トレッキングへの配布資料

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A 1055 8.188.25 川上 猛の生誕地を探る高森町トレッキングへの配布資料

20240715

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


トレッキング参加の増加も予想される事から24818日と25日の二回の実施を考えており、18日は仕事だけど、25日なら行けるという要望に応える意味もある訳です。勿論、雨や台風による延期もある訳で、二回行えば大体救済ができるという事を考えての事でもある訳です。サブ.サイト新ひぼろぎ逍遥も…

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以下は、熊本のトレッキングに至るまでの佐賀川上、福岡早良、大分豊後大野を含めた配布資料です。

ひぼろぎ逍遥(跡宮)外管理者 古川 清久 090-62983254 日田市天瀬町在住

「川上 猛物語」 肥前、筑前、豊後、そして推定生誕地肥後高森までの前史

 佐賀市(旧大和町)に残る川上 猛 伝承

旧川上村は佐賀郡大和町と変わるも、昭和50年大和町教育委員会発行「大和町史」の『伝説・民話』に

●大願寺の山中で、熊襲が里の娘たちを集めて、大酒宴の最中、日本武尊に殺された。

●現在の健福寺の位置より一軒ほど北に、行基菩薩が創建したという健福寺跡があるが、そこに熊襲の墓と伝えられる墓碑が建っていたという、川上梟師に関する伝承が記されている(大願寺、健福寺は、共に大和町の北部)。…以下省略 このような話が書かれていた。引用文は、現在手元にないため、M44年生まれの元熊本市の職員で熊本県唯一の九州王朝論者と言って良い故)平野雅氏の古代史関係4著中「倭国史談」(異説「ヤマトタケル」)より引用、同著には、この外にも『佐賀県史跡名勝天然記念物調査報告』上巻中の、旧佐賀郡鍋島村大字蠣久に在る「蠣久府址」の説明に、

 往昔此地は九州一の都会、肥州の国府長岡ケ庄蠣久と云い、戸数三千、富豪巨商軒を連ねし所、此地斥鹵(セキロ)の地、蠣殻多かりきし。日本武尊尊河上村に熊襲追討、日向の国より兵船に乗りて蠣久津に到着し、蠣殻の上を歩みて河上村に至り給へ無題.pngり。文徳天皇天安二年勅許を以て、肥前国府市(いち)、藝州宮島市、筑州宰府市を開けりとぞ。…以下省略

佐賀の方はお分かりと思いますが、川上淀姫神社の裏手にある大和不動カントリー倶楽部のコース内に、旧健福寺の元寺が有り、境内地を売却しコースが造られた後失われた様ですが、同地内に川上 猛の墓誌もあり、当太宰府地名研究会のメンバーのM氏もコース建設中にその墓誌を実際に見たと言っているのです。

 これで、記紀にも書かれる川上 猛の誅伐の話の舞台が実は佐賀県の佐賀大和IC.付近で起こった歴史上の事実であった(最低でもその可能性がある)事がお分かり頂けたのではないでしょうか。

 大古と言っても、私たちは高々3世紀紀元200年代に起こった事と考えていますが、その頃までは、この地は有明海最奥部の言わばウォーター・フロントとも言うべき観潮域と言える地でした。

 それは、旧「鍋島」村や「蠣久」の地名が往古の地形を物語っているのです。

 さて、川上 猛は熊襲 猛と呼ばれています。勿論、肥前の人間は熊襲ではありませんので、猛はよそ者だったのです。では、何故、この地に盤踞していたのでしょうか?それは交易の為だったと考えています。

 有明海はコリオリの力によって、基本的に潮は反時計周りに流れています。このため、上げ潮に合わせ、船乗りすれば、労せずして当時の湾奥の地無題.png無題.pngにまで入り、物資の交換を行っていたと思うのです。戻るのも翌日の下げ潮それは、それ以外に余った物資で更なる利得を得る方法は無かったからです。勿論、強奪する事は可能ですが、リスクも多く、安定し継続的な利益を得るためには平穏に交易することが有利だったからです。

 ここで、淀姫神社を考えましょう。同社、実は淀姫も熊襲だったのです。

「佐賀県神社誌要」河上神社 祭神:與止日女神 大明神しかも、現在も神殿上部には男神を表す雄千木が掲げられており、隠されてはいますが実は川上 猛を主神としているのです。そして、実は、猛は死んではいないのです。それが次の早良の話になるのです。

無題.png❷ 福岡市早良区に移動した川上 猛一族

 我が百嶋神社考古学の師匠の故)百嶋由一郎は、川上 猛は、殺されたのではなく旧脊振村広滝で許され、背振を越え早良に落ち延び、そのご子孫は某神社の周りに今も纏まって住んでおられます。場所も、名前も分かっているが、可哀そうで申し上げられない…と講演で話したまま、亡くなられてしまったのでした。しかし、このままでは永久に不明のまま消えてしまう…と調べているうちに気付いたのが手書きデータの一枚でした(右)。何のことかお分かりにならないでしょうが、実は百嶋神代系譜に慣れてくると分かってくるのです。川上 猛、淀姫兄妹の母とは阿蘇の奈留多姫というお姫様だったのです。その母は、阿蘇宮司家初代惟人(コレヒト)の姉か妹で、阿蘇家の本流中の本流である事が分かるのです。つまり川上 猛は阿蘇氏だったのです。ただ、母の奈留多姫は、八坂刀女と名を改めこの原の諏訪神社にいた建御名方と共に信州諏訪に向かうのでした。この理由も今回は触れませんが、大体の見当が着くようになりました。では、話を進めましょう。このメモを見た時、奈留多姫が二人の母である事が分かっていましたので、早良の諏訪神社を調べれば良いと気づいたのでした。

 幸いなことに、佐賀に多いお諏訪さんも早良には一社しかなかったのでした。

 そして三年ほど前に、メンバーに呼び掛け十数名で同社の調査に入ったのでした。すると、境内には氏子の敬老会によって造られた立派な石碑が残されており、筆頭者から大神(オオガミ)さんがかなりの数深く彫り込まれていたのでした。もう、疑う余地はありません。大神さんこそ川上 猛の末裔で、1700年以上この地に住んでおられたのでした。しかも、土地をお持ちだったのでしょうか大邸宅ばかりだtったのです。こうして歴史の闇に消え失せる事だけは押しとどめる事が出来たのでした。地元でお尋ねすると、現在も9軒の大神さんがお住まいである事が分かったのでした。

無題.png仁比山神社に近い神埼市城原の白角折(オシトリ)神社が在りますが、こここそ、ヤマトオグナが川上 猛誅伐の為の策を練り、準備を行った場所であったと思われます。

旧脊振村役場前の兼大明神の不思議 この大明神には 日本武尊と吉備武彦神が祭られています。第十二代景行天皇の皇子 日本武尊がこの地に登られてみると賊の川上梟師の一党が大変な威勢を振るっていた 尊は天賦の智勇をもってこの賊を征伐された のち十六代仁徳天皇の御代に一社を創建し氏神とされた 氏子の崇敬が極めて厚く社殿は現地を中心に周囲に広がり大樹が生い繁っていたが 水害 道路要地等に削られ現状となった(脊振村誌より)日本武尊は判りますが、吉備武彦神までが何故祭神なのか理解できません。これが誅殺部隊だったのです。

背振を挟んで嫁とり婿取りか…太宰府地名研究会事務局長のN氏が背振一帯を探索していると、広滝の奥で70代のおばさんと出会い少しお話を聴いたそうですが、明治でも県を越えて百姓が嫁、婿の交換を行う事は無かったのですが、“私は福岡から嫁いでいます…”と話されていたそうです。これが直結するとも思えませんが、川上 猛の残存者と早良への移住者との情報交換親戚付き合いはあったはずです。

高良山直下の高良下宮社に淀姫の墓があった…これもここ2年余りで分かった事ですが、九州縦貫自動車道が建設されていた当時、祇園山古墳が削られたり、高良大社の最後の大祝オオホオリ家である鏡山家の大屋敷が道路敷地として買収されたりしていました。その後、鏡山家は土地を道路公団に売却し、うきは市に移住されていますが、その残地が高良下宮社の背後に幾らか残っていたのです。下宮社は何十回も入っていますが、境内の外にまでは気が回らず全く知らなかったのですが、この祇園社無題.pngの裏の旧鏡山家の残地に淀姫神社の墓なるものがあると、当会メンバーで「事代主のブログ」外を書かれている神社研究者のS氏(現筑紫野市)がこの淀姫の墓があると言い出し、皆が騒然となり、若手女性メンバーが走り回り鉄条網を搔い潜って墓を見出したのでした。「加輪髪媛」としていますが、紛うことなき下宮後背地にあるの淀姫の墓所です。百嶋神社考古学研究会通算 027新シリーズ 古川 清久“久留米の高良下宮社の境内隣接地に発見された「加輪髪媛」の墓所 ❷”百嶋神社考古学研究会 奈東 南雄 外をご覧下さい。

❸ 豊後大野に展開した大神一族

 川上 猛の姓が大神(オオガミ)と判ると、豊後大野の阿蘇大神一族との関係に思いが馳せるのに時間は掛かりませんでした。それが早良の原から豊後大野への思考の冒険でした。ましてや、川上 猛の推定生誕地が高森町の野尻川上神社付近であったと分かると、そこに川上渓谷を発見した大谷川は荒城の月の竹田市辺りから大野川となり、豊後大野を経由し大分市を潤す大野川となっている事を考えると、豊後の支配者が大神一族を中心とするものであった事までが一気に見えて来たのでした。

大分県の中央部を流れる母なる大野川は、その源を祖母山に発し、竹田盆地を貫流し、緒方、奥岳川等を合わせ、大分市戸次で大分平野に派し、別府湾に注ぐ100キロを超す一級河川です。その大野川の川上渓谷を降った一族こそが大神惟基…惟栄(宇佐神宮焼打)、荒城の月の岡城(実は大神城)であり、義経を総大将に頼朝と一戦を構え九州を切取ろうとした黒田と同様の動きを先行した阿蘇大蛇伝説の大神一族だったのです。大神一族に関心をお持ちになれば「」

穴森神社と宇多姫神社 どちらも今は竹田市になりましたが、どちらにも多分火山性の洞穴があります。古代の人は二つの大穴を見ると繋がっているのでは思うようです。特に穴森神社の風穴は巨大で直ぐに大蛇伝説が生まれた事でしょう。それほどの異観の確かに大蛇の棲み処に見えてくるのです。これを意識した川上 猛の後裔の後裔氏族と考えられる大神氏が大蛇の化身、祖母山の豊玉姫の孫とし強き武人と喧伝したのでしょう。こうして「平家物語」にまで書き留められる事にもなったのでしょう。

出生伝説 平安時代中期〜後期の大神惟基には不思議な出生伝説(蛇神婚伝説)があり、「平家物語」や「源平盛衰記」、「九州治乱記」、「大神氏系図」などに記される。「名刀幻想辞典」より

無題.png豊後国の山里に住んでいた娘の許に、身元の知れぬ男が毎夜通ってきて、娘は子供を身ごもってしまった。母に唆されて娘が男の狩衣に糸を通した針を刺し、その後をつけると、男は祖母山の麓の岩穴へと入っていく。娘が姿を見せるように請うと、男はついに大蛇の本身を現す。そして、狩衣に刺したと思った針は、大蛇の喉元に刺さっており、大蛇は、生まれてくる子供は男児で、武芸で九州二島に並ぶ者はないであろうと告げ、息絶える。やがて生まれた子は、大蛇が言うとおりの男児で、祖父から名を取って大太と名付けられた。成長が早く7歳で元服し、手足があかぎれでひび割れていたため「あかがり大太」と呼ばれたという。この緒方の三郎は、あかがり大太には五代の孫なり。このことから緒方惟義の五代前の祖とされる大神惟基が、あかがり大太にあたるとされている。MW05 大神惟基」より

祖母山は何故祖母山と呼ばれるのでしょう それは命名に関わる人物が豊玉姫を祖母とする人ではなくそう見立てたい人だったからでしょう。さすがに自分の祖母だと描き流通させるにはよほどの権力者しかないはずです。右図を参照右矢印1

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無題.png当地の伝承では、上記の『平家物語』で語られた内容と共に、一部の微細違いと共により詳細が伝承されています。祖母山大明神(健男霜凝日子神社)の化身である蛇神(穴森神社の神)の子を宿やどしたのは、豊後大野市清川町宇田枝(地図)に在した華御本姫とされています。華御本姫は、藤原伊周の娘で、父君薫育により和歌などの国風に堪た能であったことから歌媛様と称されていました。草木も眠る丑満時になると、その華御本姫のもとに端麗な若者が風の如く寝所を訪れ未明には煙の如く所も言わず名も語らず去るのでした。

詳しくはひぼろぎ逍遥、新ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)、百嶋神社考古学研究…を検索して下さい。

無題.png❹ 川上 猛の生誕地が分かった!

 阿蘇南郷谷の高森町でも外輪山外側の最奥部に鎮座する野尻川上神社(皆さん良くご存じのヤマトタケル命=後の日本武尊に誅伐された川上 猛の出生地の可能性あり)の重要性に気付き、本年8月の盆明けにこの一帯での神社トレッキングを行う事にしました。最も重要と考えているのは大谷川正面に鎮座する野尻川上神社です。この神社の価値は限りなく大きいのですが、皆さんにも理解して頂けるでしょうか。野尻川上神社の正面に置かれた同社の由緒を書いた石碑には、肥前の川上淀姫大神を勧請したと書いていた事でした。 肥前とは何の関係もないはずの阿蘇外輪山外の豊後との国境とも言うべき場所に、何故、遠く離れた肥前の神社を勧請しているのでしょうか?この一事を以てしても、この神社が川上 猛と淀姫(実は豊姫)の故地、もっと言えば生誕に関係する土地だったとしか思えないのでした。 最低でも、阿蘇氏にしても、出産に際しては母方の親元で安心して過ごすはずであって無題.png、川上 猛であれ淀姫であれ、母親(奈留多姫)の里である悲劇の雨宮姫の母にあたる阿蘇ツ姫(草部吉見の娘)の家で出産に臨んでいる可能性さえあるのです。

 阿蘇ツ姫を祀る神社は熊本市北区龍田の二宮陳内阿蘇神社であり、その意味は健磐龍の妃を祀るから二宮なのです。正に、阿蘇氏の本流中の本流の家で生まれた可能性があるのが川上 猛と淀姫だったはずなのです。 してみると、川上 猛とは大野川の源流とさえ言える大谷川(豊後竹田、大野を経由して大分市へと流れる大野川)が野尻川上神社正面から川上渓谷と呼ばれれている事は、佐賀の川上峡という地名さえも決定したとまで言えるのではないかとさえ思わせるのでした。以下はGoogleの検索画面です。そう考えると佐賀大和IC.付近は2000年前の有明海の汀線であり、川上淀姫神社が鎮座する場所はどう見ても嘉瀬川の川口であり、以前から怪しいと思っていたのでした。その意味でも謎が解けたのです。

また、話を変えますが、何故、阿蘇系の建御名方がウガヤフキアエズのお后だった奈留多姫を妃としたのかも少しながら分かってきたような気がします。この川上 猛へのテロ事件は、やはり古代の大事件だったのです。まず、川上 猛と淀姫は兄と妹であり、当時、久留米の高良山にいたと考えられるウガヤフキアエズと奈留多姫の子であり、母の奈留多姫は、阿蘇宮司家初代の惟人の姉か妹であり、正しく阿蘇家の本流の御姫様だった事になる訳です。しかも、当時阿蘇家は久留米の高良山を本拠地にしていたと思われる九州王朝の重要な実力部隊であった可能性があり、だからこそ舟で移動すれば有明海を挟んで目と鼻の先のような旧大和町一帯も交易拠点としても重要な場所だったからこそ川上 猛は盤踞していたのです。吉見岳の吉見は草部吉見の玄孫にあたる猛の崇める小丘だったのです。

千木を見る限り男神を意味しており、この神殿の主は淀姫ではない事を表しています(佐賀の淀姫と同じ)

続いてホトカミ様 野尻川上神社の基本情報から

大変有難いことに「熊本県神社誌」でも省略されている同社の祭神が表示されています。

御祭神

《合》阿蘇都比当ス,国龍神,比東芬q神,彦御子神,若比盗_,新彦神,新比盗_,若彦神,

《主》淀姫大神,仲哀天皇,応神天皇,神武天皇,武内大神,受持命,祓川大神,風神,霜神

以下、僭越ながら当方で解析させていただきます。合祀神は草部吉見の12神をご覧下さい。


《合》阿蘇都比当ス(草部吉見の娘),国龍神(草部吉見=彦八井耳=鹿島大神),比東芬q神,彦御子神,若比盗_,新彦神(ニュウヒコとお読みください。新比盗_も同様です),新比盗_,若彦神,


《主》淀姫大神(淀姫大神とは日本武尊に誅伐されるも福岡市早良区原の諏訪神社に移動した大神一族の意味で川上 猛と淀姫の兄、妹),仲哀天皇(久留米の高良大社に祀られる高良玉垂命=開化天皇の后の前夫),応神天皇,神武天皇(神武僭称贈る崇神=ハツクニシラススメラ命の可能性あり),武内大神,受持命(伊勢の外宮の豊受大神=アメノウヅメ=伏見稲荷),祓川大神(高原神楽の祓川神社の主神か?不明),風神(草部吉見その人),霜神(恐らく金山彦=鬼八、喜八伝承のカグツチ)


『野尻川上神社』は、高森町の東側、大谷川を臨む野尻地区の川上集落内にあり、神功皇后の御妹にあたる淀姫大神ほか9柱が祀られています。上を見ると17柱になるので8柱がさらに加わっています。古川

後は、由緒書きが彫り込まれた石塔をしっかりお読みください。そうすれば猛様の出身地と分かります。

川上 猛関連ブログ一覧

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1063 伊藤まさ子西原村勉強会へのご案内

20240808


太宰府地名研究会 古川 清久


夏季を中心に五回ほど、熊本市益城町の東隣、西原村で万葉集外の勉強会を行っています。

年によっても多少異なりますが、56789月に10人を超える程度の勉強会を続けてます。

 8月も20日に1330から勉強会が行われます。オープン参加ですので「万葉集」〜古代史、考古学(彼女は学者裸足です)に関心をお持ちの方には是非参加頂きたいと思います。


日 時   2024820日(日曜日)13301630

   講演者   伊藤まさこ(「太宰府・宝満・沖ノ島: 古代祭祀線と式内社配置の謎著者」)

参加費   500円            ブログ「地図を楽しむ・古代史の謎」著者

   テーマ     「梅花の宴後の旅人と憶良」


   会 場     俵山交流館萌の里(熊本県阿蘇郡西原村小森21153)から県道28号を200m降る俵山湧水そば 平田庵(熊本県阿蘇郡西原村小森18058)前の大邸宅 P20

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以下は20240808時点での同ブログのトップ画面(部分) 当日連絡先 090-62983254古川or090-5285-9108

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2025年03月16日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A 1054 川上 猛の妹淀姫=豊姫は…高良玉垂命の妃 探求編 ❸ 宮原誠一のblog神椿の杜 No.180 筑後川河北の王子宮は坂本命を祀る坂本神社@ の一部引用

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A 1054 川上 猛の妹淀姫=豊姫は…高良玉垂命の妃 探求編

宮原誠一のblog神椿の杜 No.180 筑後川河北の王子宮は坂本命を祀る坂本神社@ の一部引用

20240714


太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


筑前筑後の神社研究のエキスパート宮原誠一氏(blog「宮原誠一の神社見聞諜」改め)「神椿の杜」NO.180に川上 猛に関する記事がありますので、その最先端研究の一部を取り出しお読み頂きたいと思います。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


.豊姫(ゆたひめ)

鵜草葺不合命と奈留多姫(なるたひめ)の間の姫君で豊姫、「ゆたひめ」と申します。

熊襲タケル、後の河上タケルの妹で、安曇磯良の妃となられ、後に佐賀県大和の川上神社(與止日女神社)の河上大明神となられるのです。佐賀県神社誌要」では與止日女神と大明神二神と記載。(古川)


高良玉垂宮神秘書 第1条

(前略) 嫡男日神の垂迹 表筒男尊(安曇磯良)は、(神功)皇后の御妹豊姫と夫妻なり。その御子は、大祝 日往子尊と申すなり。この底筒男尊(開化天皇)、表筒男尊の二人は、皇后と共に皇宮におわします。三男月神の垂迹 底筒男尊、皇宮に住まわれる間、位を設け、大政大臣物部保連(やすつら)と申し給う。藤大臣は、干珠満珠を借り給う時の仮の名なり。

嫡男日神の垂迹 表筒男尊の大臣公をいかがすべきと仰せられれば、皇后やがてのたまう。添も天照大神の「ひまご」にておわします間柄、玄孫大臣物部大連(おおつら)と申し奉るべしとおおせけり。玄孫大臣と書いては、ひまご大臣と読めり。

(中略)

仁徳天皇時、神功皇后、崩御され、高良明神、豊姫、玄孫大臣安曇磯良、その子、大祝日往子尊、武内大臣は皇宮をともに出られる。武内大臣は、因幡国へ・・・

豊姫(ゆたひめ)と玄孫大臣は、肥前国川上に留まりて、豊姫は河上大明神となりたまう。高良大明神、甥の大祝日往子尊は九月十三日に高良の山に遷幸あり。

神功皇后が存命の時、皇宮にて三種神祇の取り扱いを協議された。玉璽は、高良大明神が預かり給い、宝剣は、神功皇后が持たれ、内侍は、玄孫大臣が預かり給うなり。

大祝は本名字「鏡山」と申すなり。大祝は職についての名なり。鏡山家は現在もうきは市に…(古川)


高良玉垂宮神秘書 第6条

安曇磯良は、筑前国にては志賀、日立国にては鹿島大明神、大和国にては春日大明神と申すなり。


高良玉垂宮神秘書 第7条

皇后の御妹に二人おわします。一人は宝満大菩薩一人は河上大明神になりたまう。これ豊姫(ゆたひめ)のことなり。


高良玉垂宮神秘書 第14

仁徳天皇、今は平野大明神と表わし給う。


高良玉垂宮神秘書 第183-187

五姓仕人:丹波氏、安曇氏、前田氏、草部氏、草賀部氏


豊姫(ゆたひめ)の兄である川上タケルは、熊襲の統領となって反旗を起こしましたが、ヤマトタケルに佐賀県背振の広滝(廣瀧神社)で成敗降服して、命は助けられます。その逆賊の妹豊姫は忠臣となって、15歳年上の義兄の安曇磯良と一緒になって天皇家を助けました。

佐賀県川上に與止日女神社があり、豊姫は河上大明神として鎮座されています。

また、福岡県糸島の志摩半島西の二見ヶ浦にある夫婦岩は安曇磯良と豊姫を祀るものであり、この糸島の夫婦岩は紀伊半島伊勢の二見ヶ浦の夫婦岩のモデルとなっています。(多くの人は誤解されているが、この夫婦岩は伊弉諾命・伊弉冉命を祀るものではありません)


高良玉垂宮神秘書 第142237

高良大菩薩(開化天皇)は神功皇后崩御のあと、住み慣れた大宰府の皇居を出で、甥にあたる日往子尊を連れて、宝満川を小船で下り、やがて筑後においでになり、まず久留米市大善寺に着岸。ここで御船を新造して大舟で漕ぎだし、大川市酒見に上陸。風浪の宮九九社大権現を祀り、さらに有明海に出て、こんどは大牟田市黒崎に上陸。ここからまっすぐ北に陸行して山門郡瀬高イチコウラ、八女郡人形原を経て高良山に登り、八葉の石畳を築いて地主神たる高樹神を退け、ついに、この高良山に鎮座になった。ときに仁徳天皇の御宇9月13日のことであったという。


高良大菩薩(開化天皇)は日往子尊を甥とよんでいます。日往子尊は安曇磯良と豊姫の子ですが、開化天皇は甥の日往子尊を自分の子のように扱っています。

どのような関係にあれば、この家族関係が構成されるのであろうか。

開化天皇(高良玉垂命)は豊姫からして約25歳の年下である。親子程の違いがあります。

豊姫は高良玉垂命の乳母あり、高良玉垂命の若き日の配偶者となられています。安曇磯良・豊姫は義兄姉となられています。


  豊姫は高良の神の配偶神である

  高良の神は朝鮮半島へ出征して凱旋して帰って来た(高良山雑考・古賀寿)


そして、豊姫は神功皇后の義姉となり、()玉依姫は義叔母になる。また、日往子尊は高良玉垂命の甥になる。それで、高良玉垂命、神功皇后、安曇磯良・豊姫、その子・日往子は家族同然に皇宮に住んでおられました。

高良玉垂宮神秘書で、「()玉依姫、豊姫が神功皇后の妹」とあるのは、立場上の問題であり、神功皇后は皇后として女性で最高の地位にあり、二人の姫君は立場上、臣下・妹となるのです。

このように、豊姫(ゆたひめ)は、開化天皇(高良玉垂命)の配偶者であり、神功皇后の妹として重要な地位に就つかれています。


.上津(本山)天満神社

福岡県久留米市上津の小高い丘に天満宮と思えない上津(本山)天満神社があり、その右奥に上宮・摂社と思える豊姫神社があります。由緒によれば、豊姫神社は上村(上津)区に鎮座していたものを大正14年現在地に移転したものであると伝えます。

そして、興味あることに、由緒は「『豊比当ス神』で高良の神(玉垂命神)の配偶神だと云われています」とあります。

高良玉垂命(開化天皇)の配偶神は、豊姫神社(久留米市北野町大城)の由緒、伏見神社(福岡県那珂川市山田)の由緒から、豊姫(ゆたひめ)となります。開化天皇の皇后は神功皇后で、豊姫は単に配偶者扱いです。

上津(本山)天満神社 福岡県久留米市上津町2077

正前には正八幡大幡主の六角灯籠です。


上津天満宮由緒

(前略) 本殿東奥に三つの祠があり、中央が豊姫宮(別名:乙姫宮)向かって右は若宮八幡宮、左は天神社です。共に上村(上津)区域に鎮座していたものを大正14年現在地に移転したもので、中央の祭神は女の神 安産の神「豊比当ス神」で高良の神(玉垂命神)の配偶神だと云われています。この神は一説によれば天長4年(827年)の勧請ともいわれ、その後、玉垂命神と相並んで神階を授けられ、寛平9年(897)には正四位上に叙されています。正史上の豊比盗_は玉垂命神と同殿かあるいは両宮相並んで鎮座していたもののようです。(案内板)


天満宮と子の日の松

当天満宮は御井町の高良大社と深い関わりを持っています。

古代より毎年旧正月初子()の日に氏子中にて同天満宮境内或いは付近の高良台より小松三本を根堀りし高良大社前に運び植えたといわれています。

「子の日の松」とは正月初めの子の日に野山ら出て小松三本を根引きし若菜を引いて遊び国家安泰を祈り延命息災を祝って宴遊する平安貴人公卿らの遊びであり宮中でも当日は「子の日の松」を賜る例がありました。

()三階松紋は九州王朝のシンボルです。

境内社殿を見れば松竹梅ゆかりの神社ですが、松は開化天皇(九州王朝)関係、竹笹は大幡主関係、梅は菅原公を意味します。この神社はこの三者のイメージがそろっています。


.高良玉垂命神社(高良大社)の豊姫神社

850年以前の高良玉垂命神社(高良大社)では、高良玉垂神(開化天皇)と豊姫神(ゆたひめ)は同殿か相殿に祀られていました。開化天皇と神功皇后は本殿に夫婦神として祀られていますが秘密となっています。


「文徳実録」の天安元年(857)に、「在筑後国従三位高良玉垂命、従五位下豊比盗_等。」の記事が見られます。天安2年以降はすべて、高良玉垂神命神と並んで授位されている。

天安2年(858)5月14日「高良玉垂神及び比盗_等正殿遇失火」とあり,高良玉垂神と豊姫神の両神は同殿であったか、相接していたと考えられています。

承暦4年(1080)炎上消失。以後、歴史的記録は途絶えます。


豊姫縁起(大城村郷土読本)

延享2年(1745)高良山僧正寂源によって高良山内に豊姫神社再興の請願が藩に提出されました。高良山古図に豊姫神社の神域ありとし、又天安年閏高良玉垂宮と豊姫神社正殿が失火に遭ったことは二神が同所に祀られていたことを証明するものだという理由からでした。赤司八幡宮の反駁がありましたが、高良山中に豊姫神社の再建がなされました。

高良山中の豊姫神社は明治6年(1873)式内大社の故に「もとの如く」高良社の相殿として遷宮が希望されましたが、かえって県社から郷社に降格されます。明治7年(1874)県社復活の願いが出され許可され、同時に本宮境内への遷宮希望も出されましたが、実現しませんでした。昭和20(1945)終戦後廃社となっています。

廃社の理由はわかりませんが、豊姫神が高良玉垂命神の配偶神で「ゆたひめ」神であり、「豊玉姫」神でないことが不利をもたらしたと推察しています。高良玉垂命神に配偶神があってはいけないのでしょう。豊姫は歴史の表に出ておられません。

かつての名社・豊姫神社(ゆたひめじんじゃ)の本宮も悠久の時を経て高良山から消え去ってしまいました。各地の豊姫神社は淀姫神社の淀姫(よどひめ)として名を留めていますが、豊姫と豊玉姫の混同混乱は現在も残っています。

しかし、「ゆたひめ」神を祀る遺構が、久留米市上津に豊姫神社の石祠として残されています。


.久留米市上津町の豊姫神社(上津天満宮境内)

上津天満宮本殿右後方に鳥居があり、三棟の石祠が並んでいます。

大正14年5月3日、東上村にあった豊姫神社を上津天満宮境内に移転したもので、式内論社で、祭神は「豊姫命」とされます。その鳥居扁額には「豊姫宮」とあり、石祠の中央に豊姫神社が祀られています。

三祠の中央に豊姫宮、右に若宮八幡宮、左に天神社。


豊姫神社(上津天満宮境内 福岡県久留米市上津町2077)


天神社()・豊姫宮()・若宮八幡宮()


祠の背面に東上村中組から鎮座したことが刻まれています。

東上村中組は現在地より北400mの所であったとされています。


式内社調査報告(24巻西海道) 皇学館大学 昭和53320日 抜粋

(豊姫宮祠背面の刻字)

豊姫宮ハ元東上村中組ニ鎮座アリシ社殿ヲ大正十四年 五月三日本山天満宮へ合祀シ後日石ノ小祠ヲ建立シ此處ニ遷座ス 大正十四年十月吉祥日建立


石祠内に棟礼が保存されていて、表に「天保十四年(1843)癸卯正月吉辰、奉再建豊姫神社宝殿一宇御井郡上津荒木上邑氏子(以下缺)、当村大工宮嵜伊七弟子同苗廣七」、裏に「従五位下川口甲斐守藤原朝臣常晴(缺)、遷宮(缺)」とある。


『筑後誌略』にも「御井郡上津荒木村ニ乙姫神トテ僅ハカリノ小社アル是ナリト云へり。」とある。すなはち、現在地より北四百米のところが旧地である。毎年正月初子ノ日に小松三本をここから掘りとつて、高良山広前に植え申すべき旨、27年己前、先々座主から申聞かせられてつづけている旨の『寛延年中の書上』が、『太宰管内志』に引かれている。このことはすでに『高良記』にもあり、江戸期に入ってのことではない。


上津本山の祭神は豊姫命、大城蛭尾の祭神は豊玉姫命の豊比盗_としている。

本山の豊姫神社の現宮司は田中定文氏で、氏子なし。


豊比盗_は「豊姫 ゆたひめ」と「豊玉姫 とよたまひめ」があり、「豊姫」は高良玉垂命神の配偶神であり、「豊玉姫」は彦火火出見尊の后です。

高良玉垂命神の配偶神「豊姫」は「ゆたひめ」と申します。「とよひめ」と呼ぶところに混乱の原因があります。豊玉彦には二人の姫君がおられ、豊玉姫と鴨玉依姫を総称して「豊姫 とよひめ」と申しました。

久留米市北野町大城の豊姫神社は「豊比盗_社」「止誉比盗_社」で豊玉姫を祀ります。

久留米市上津の本山の豊姫神社は「豊比盗_社」ではありません。豊姫神社(ゆたひめじんじゃ)です。別名・乙姫宮と案内がある所に混乱の原因があります。


今回、No.180 筑後川河北の王子宮は坂本命を祀る坂本神社 @ について改めて文章のみを切り出し淀姫の別の側面(開化天王の妃)としての側面を取り上げました。詳細は、前ブログor宮原誠一のblog神椿の杜をお読みください。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記