2026年03月01日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1111 肥前、筑後の古瀬、小瀬さんは巨勢氏の後裔氏族ではないか?

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1111 肥前、筑後の古瀬、小瀬さんは巨勢氏の後裔氏族ではないか?

                     20250716

太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川清久


巨勢氏が何者であるかを見る際に、「巨勢」姓ではなく「巨瀬」姓で「名字由来net」で読むと文句なし佐賀県であることが分かります。これは本家と分家or臣下という要素が反映されているのではないかと思います。

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これは、私が佐賀県の出身であることもあり子供のころから多くの古瀬さんとのお付き合いが在った事もありますが、巨勢川が佐賀市を流れているのを知っていた事もあった訳です。

 従って、巨勢川という河川名が在り、巨勢姓の分布も佐賀を示している事からこの部分では完全な対応を見せているのです。

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次に、一般的な巨勢氏の理解見ておきましょう。


巨勢氏 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』20250716 12:42による


巨勢氏 氏姓   巨勢臣 のち巨勢朝臣 氏祖    許勢小柄宿禰 種別    皇別 本貫     大和国高市郡巨勢郷 著名な人物    巨勢男人 巨勢比良夫 巨勢徳陀 巨勢人 巨勢奈弖麻呂 巨勢野足 巨勢金岡 浄円院 ? 後裔紀州徳川家属旗本2家(武家) 凡例 / Category:

巨勢氏(こせうじ)は、「巨勢」を氏の名とする氏族。

大和国高市郡巨勢郷(現在の奈良県御所市古瀬)を本拠とした古代豪族である。巨勢の表記は、許勢・許世[要出典]・居勢・己西・既洒[要出典]にも作る。姓は初め臣おみであり、天武天皇13年(684年)八色の姓制定に伴い朝臣へ改姓した。

概要

記紀などの所伝によれば、孝元天皇の子孫で、武内宿禰の次男である許勢小柄宿禰を始祖とする。6世紀以降、朝鮮半島との外交・軍事に従事することによって台頭した新興豪族であり、継体天皇朝に大臣となった男人を始め、欽明天皇朝の稲持、崇峻天皇朝の猿・比良夫、推古天皇朝の大摩呂などが大夫(議政官)クラスの人物として見えているが、その系譜関係については明確でない。飛鳥時代にも、孝徳天皇朝の徳陀は左大臣、天智天皇朝の人は御史大夫として活躍した他、奈良時代に入ってからは麻呂と邑治が中納言、奈弖麻呂は大納言に昇っている。平安時代初め、初代の蔵人頭に任じられて中納言に昇った野足を輩出した後、公卿に昇った者はいない。大和絵巨勢派の祖である金岡は野足の曾孫。

動向

6世紀初め - 継体天皇朝に男人が大臣となり、娘の紗手媛・香々有媛を安閑天皇に嫁がせる。

用明天皇2年(587年) - 比良夫が丁未の乱に参加し、物部守屋を討滅する。

大化5年(649年) - 徳陀が左大臣となる。

天武天皇元年(672年) - 人が壬申の乱で近江方に加担し、流刑に処される。

天武天皇13年(684年) - 黒麻呂・紫檀が朝臣姓を賜る。

天平勝宝元年(749年) - 奈弖麻呂が従二位大納言に叙任される。

弘仁元年(810年) - 野足が蔵人頭に補任される。

巨勢忠善が紀州徳川家に仕え、徳川吉宗が将軍となると旗本となった。その後至信、至忠(以下省略)と続く。

巨勢氏の起源と系譜

(問い)九州の筑後地方の古代史を勉強しておりますが、貴ホームページの「雀部という氏」項に、「筑後から起った巨勢臣一族」との記述があり、この巨勢臣について大変興味を覚え、連絡させていただきました。

 @「筑後」とは、今の地名でいえば、どのあたりになるのでしょうか。

 A巨勢臣の名は何というのでしょうか。

 Bその他、この巨勢臣に関するものをご教示お願いします。

 (福岡県久留米市の妹川様より、2011.3.28受け)

 (樹童からのお答え)


 奈良に於いても、葛城、巨勢の表記は幾つもある事から、桂木、古瀬、巨瀬…の表記も転化は元より、実際には原形でだったのではないかとさえ考えています。

 では、遠い近畿大和の大族になった葛城の巨勢一族とはいったい何者なのかを改めて考え直す必要があるのではないかと思います。

 これは、単に近畿大和朝廷に先行して登場した葛城王朝…と言った仮説、風説が在る中で、その起源を脊振村にまで求める突飛な話があるはずも無い事は論を待ちません。

その点、古くから旧脊振村鹿路の桂木に注目し一言主神社が対応すると見抜き、九州王朝の本拠地の一つである高良山一帯のルーツさえも現佐賀市久保泉町から旧脊振村の鹿路に在ったと見無題.png抜いた故)百嶋由一郎の慧眼には頭を下げざるを得ません。

 私達は、今夏も150人規模の佃 収(埼玉在住の非古田武彦系九州王朝論者)の講演を取り組みましたが、この80代後半の老古代史研究者も葛城の一言主神社を手掛かりに、佐賀県三養基郡みやき町天建寺に鎮座する葛城神社を調べられていました。

私が佃研究に関心を持った10年前も、現在の干拓地に鎮座する同社は山中のどこかに本宮が在るはずで、みやき町のそれは後世の移設か入植者による持ち込みだろうと思いますと申し上げたのですが、残念ながら関心は持たれなかったようです。

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この桂木は、現在、飯塚市に隣接する桂川町、飯塚市建花寺の桂郷神社、糸島市桂木、北九州市の香月にも、また、香月姓(昔の佐賀県知事にも香月が居ましたが)、香月姓は佐賀県内にもかなりあるようです(戦後直ぐの佐賀県知事も香月でしたね)。これらもどうも葛城、桂木一族に重なるのです。

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無題.png古樹紀之房間 様より

1 巨勢氏の概要

 巨勢氏は、大和国高市郡巨勢郷(奈良県高市郡高取町西部)を本拠とした古代雄族で、議定官としては、大化時の左大臣徳陀古から始まり、天武天皇十三年には臣姓から巨勢朝臣姓を賜わり、近江朝の御史大夫(大納言相当)の人(比等とも書く名前)は壬申の乱のときに近江方につき流刑となったが、その子・奈弖麻呂は大納言になり、その後も一族から中納言の邑治・麻呂や参議堺麻呂などを輩出し、平安前期の中納言野足まで顕官として朝廷にあった。その後の官人としては中下級として低迷するが、平安前期九世紀後葉の宮廷画家・巨勢金岡は絵画の名人で大和絵巨勢派の開祖となり、後裔は興福寺大乗院絵仏師、東寺絵所職として活動した。また、大神神社の祠官・越氏や京都大工の棟梁の中井氏はその末流とされる。

 巨勢氏の祖は、『記』孝元段によると武内宿祢の二男(『三代実録』には五男)、許勢小柄宿祢とされるが、不明なことが多い。巨勢氏の史料初見は、突然登場して継体天皇元年に大臣となった巨勢(許勢)男人臣であり、その娘の紗手媛・香々有媛はいずれも安閑天皇妃となったことが『書紀』に見える。男人臣は、継体天皇を迎えるという大伴金村大連の提案に賛意を表して、即位後は大臣となり、娘二人が安閑妃となっている事情から、継体の登場とともにその支持勢力の巨勢氏が力を伸ばした。いま高取町西部の市尾駅北方近隣にある市尾墓山古墳(全長六六Mで二段築成)は馬具などを含む豪華な副葬品、埴輪X式、木製埴輪などを出して六世紀前半の古墳とされ、男人の墳墓とする見方(河上邦彦氏など)がある。近隣には、国際色豊かな副葬品をもつ宮塚古墳(全長約五〇M)もある。この辺りから、西南の巨勢寺塔跡のある御所市古瀬にかけての地域が巨勢氏の主要居住地とみられている。古瀬の宮ノ谷には巨勢山口神社もあり、巨勢寺の付近を巨勢川が流れる。

 欽明朝には欠名の許勢臣が任那日本府の卿となり、男人の孫くらいの世代に比良夫臣が用明二年(587)に物部守屋大連を滅ぼす際に活動し、その同世代の許勢臣猿が崇峻朝に任那再興の将軍となり、『上宮法王帝説』に見える巨勢三杖大夫などを経て、大化時の徳陀古につながっていくが、男人と徳陀古との間の現伝系譜には数代の欠落があって、その間の許勢本宗の歴代や動向は不明である。

 許勢小柄の母は、葛城襲津彦と同じ葛城国造荒田彦の娘・葛比売ともいうから、もっとも葛城本宗に近い姓氏ともいえそうだが、その傍証もふくめ、系譜を裏付けるものが何もなく、おそらく紀・平群(筑前国の志摩・早良郡の出か)、的(筑後国生葉郡の出か)などの諸氏と同様、祖を武内宿祢とするのは後世の系譜附会であって、北九州に出自をもつものとみられる。大和でも、神武侵攻時に和珥坂下土酋として居勢祝が見えるが、神武軍により誅されたというから、その流れではなさそうである。

 以下に、巨勢氏の起源関係の検討をしてみる。

                  的(イクワ)は神崎市の白角折神社も在る大字です(古川)

2 巨勢氏の祖先と起源

 系譜所伝によると、巨勢小柄の後は、その子の「乎利−河上−男人」と続くとされるから、この系譜が正しければ、始祖の小柄は仁徳朝頃の人となる。同族には雀部(ささべ・さざきべ)臣・軽部臣があったと伝えるが、雀部氏のほうから系譜に異議が出された。すなわち、『続日本紀』天平勝宝三年(751)二月条に、正六位下内膳司典膳の雀部朝臣真人は、「継体・安閑天皇の御世に大臣となって仕えた雀部朝臣男人は、同祖である巨勢の名をとり、治部省管理の系譜には誤って巨勢男人大臣と記されているから、それを雀部大臣と改め名を長代に伝えたい」と奏言し、当時の氏の代表者たる大納言奈弖麻呂もこれを認めたことから、この願いは許されている。これが史実であれば、巨勢臣を名乗る前の本姓は雀部臣だったことになる。

 『姓氏録』左京皇別の雀部朝臣の条では、祖の星河建彦宿祢が、応神朝に皇太子の大雀命に代わって御膳に奉仕し監督をしたので、その姓氏・雀部を負ったといい、子孫は雀部の伴造であって大膳職や内膳司の膳部(かしわで)に任じた者が多かったというから、雀部朝臣真人の奏上に巨勢男柄の子と見える星川建日子(星河建彦宿祢)は、年代的に考えると、実際には巨勢小柄の親であった可能性がある。

 なお、上記の系譜と符合しないが、『紀氏家牒』には、「建彦宿祢−巨勢川辺宿祢(亦曰く軽部宿祢)−巨勢川上宿祢−巨勢男人宿祢」という内容の記事が見えており、この系譜だと、世代的に「巨勢小柄=建彦宿祢」ということで同一人になりそうでもあり、判断が困難である。ここで、巨勢氏の祖は巨勢小柄と同人かその父となる建彦宿祢まで遡ったが、それより先を具体的に探ることはできない状態となっている。

 雀部については、仁徳天皇(大雀命)の御名代であるが、全国的に多く分布するので、姓氏・系譜は一概に言えず、かつ、不明なことが多いが、『古事記』神武段に神八井耳命の後に雀部臣・雀部造があるというから、これらが皆、同族であったとすれば(君、連、直は別系統)、雀部臣については、神八井耳命の後裔で多臣の同族を称した肥君・阿蘇君一族であったという系譜が考えられる。そうすると、北九州の

筑肥に繁衍した建緒組命一族の流れで、筑紫国造・火国造と同族であったということになる。

ここで、雀部に関して 無題.png雀部臣を見て見ましょう。


許勢小柄宿禰 武内宿禰(姓) 後裔氏族 雀部朝臣/紀朝臣

説明

 武内宿禰後裔氏族のひとつ。天武13年(684)に朝臣姓を賜った。『古事記』では、許勢小柄宿禰(武内宿禰の子)の後裔氏族として、許勢臣・軽部臣とともにあげられている。神八井耳命(神武天皇の御子)の後裔氏族にも雀部臣がおり、意富臣ら18氏族と同族関係にあったとされるが、こちらは朝臣姓を賜っていない。ほかにも宿禰・連・造・君・直姓の雀部氏が確認できるが、いずれも武内宿禰の後裔を称する雀部臣(朝臣)とは別族とみてよい。雀部朝臣は持統5年(691)に「墓記」を提出した18氏族のひとつに数えられるが、氏人の具体的な活動がみえるのは8世紀中葉以降である。天平勝宝3年(751)に雀部朝臣真人が、『日本書紀』にみえる「巨勢男人大臣」は正しくは「雀部朝臣男人」であり、それが許勢朝臣の系図に竄入してしまったと訴えた。巨勢朝臣の氏上であった奈弖麻呂は真人の訴えが正しいことを認め、「巨勢大臣」は「雀部大臣」に改められたという。このとき真人は雀部朝臣の氏上であったと推測されるが、その官位は典膳(内膳司の次官)正六位下にすぎず、ほかの叙爵者も確認できないような状況であった。しかし真人の訴え以降は、道奥(陸奥)・広持・虫麻呂、女官では東女と続けて叙爵者を輩出しており、「雀部大臣」の存在が雀部朝臣の地位に影響を与えた可能性が考えられる。しかしそれは長くは続かなかったようで、平安時代以降の叙爵者としては、弘仁14年(824)の家継、元慶3年(879)の宜子が確認できる程度である。なお経緯は不明であるが、斉衡元年(854)に氏人の春枝が林朝臣並人とともに、同じ武内宿禰後裔氏族の紀朝臣に改姓している。

 『新撰姓氏録』には、応神天皇の時代に星河建彦宿禰(雀部臣の祖)が、ときに皇太子であった大鷦鷯尊(オホサザキノミコト、のちの仁徳天皇)に代わって御膳を管掌し、そのため大雀部の名を賜ったとの伝承を載せる。この伝承からは雀部の名の由来とともに、雀部朝臣が膳部に任じられる負名氏であったことが読み取れる。実際に、先述した真人は典膳の職にあり、また貞観7年(865)に内膳司内の死穢を隠匿して罰せられた祖道も典膳であったことから、少なくとも9世紀後半までは負名氏の実態をともなっていたようである。

参考文献 佐伯有清『新撰姓氏録の研究』考証篇第2(吉川弘文館、19823月)


 まあ、これが権威ある通説派の説明ですが、我々百嶋神社考古学の者はこれを否定します。

そこで、百嶋由一郎 0162 超細密神代金神系譜(部分)をご覧ください。

通説派は高良玉垂命を武内宿祢とします。しかも、屋主忍男武雄心命(佐賀県武雄市の武雄神社の主神)と山下影姫との間に生れたのが武内宿祢とするのです。

対して、百嶋由一郎の多くの神代系譜は久留米の高良大社に奇跡的に残った、「高良玉宮神秘書同紙背」により作られています。これには海幸山幸の名は使わないものの、その原型と思われる話が冒頭から書かれており、当然にも「古事記」、「日本書紀」以前に遡るものと考えています。

 当然ながら、この武内宿祢を仲哀死後の神功皇后(皇宮皇后命)を正妃とした開化天皇とします。しかも、藤原が第8代とした孝元天皇と山下影姫とヤマトトトヒモモソ姫との間に生れているのです。それを近畿大和は孝元の腹違いの息子の大彦と武内宿祢(タケシウチノスクネ)が山下影姫との子という事にして、九州王朝の開化天皇(呉太伯の血を引く)の存在を消そうととしているのです。

 無題.png要は年齢の近い腹違いの兄を高良玉垂命と偽装しているのです。

倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと/やまとととびももそひめのみこと、生没年不詳)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族(王族)。

7代孝霊天皇皇女で、大物主神(三輪山の神)との神婚譚や箸墓古墳(奈良県桜井市)伝承で知られる、巫女的な女性である。

ウィキペディア(Wikipedia20250718 21:10 による


では、真実を伝える百嶋氏の神代系譜をご覧ください。

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百嶋由一郎 0162 超細密神代金神系譜(部分)

百嶋由一郎が残した神代系譜でも最も難解で、一々調べながら解読しなければならない系譜です。

この中でも、武内宿祢の父が屋主忍男武雄心であるとするのも偽装か誤りで、久留米市の中心部の西を流れる筑後川の対岸(右岸)に鎮座する千栗(チリク)八幡宮の境内社「武雄社」の記録にその実態が描かれているのです。まあ、それはともかくも、藤原が決めただけの第8代孝元天皇と山下影姫の間に生れた兄大彦は良いとして、弟武内宿祢が高良玉垂命なのだと仕立てられているのです。

 有馬藩久留米入府による有馬裁定によっても、開化天皇などではなく武内宿祢としているのです。

 有馬裁定も、結局は通説に屈服したものだったのでしょう。

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ここまで見てくると、漸く後に藤原となる草部吉見系(東方に進出した阿蘇氏=雲南省起源の黎族)による偽装が鮮明になり、尚且つ、それを受け入れざるを得なかった神代勝利の一族の系譜を落ち着いて見ることが出来ることになるのです。

 まあ、とんでもない偽装を遣らかしたもんですが、この高良玉垂命=藤原が第9代とした呉の太伯と神功皇后との間に生れた仁徳天皇の弟朝日豊盛命こそが巨勢氏のルーツと考えられるのです。

 ここで、少し注意を要する事が有るのですが、近畿大和朝廷(これも佃収説によれば、白村江の大敗北の結果、天武天皇が本拠地を生駒山の東の奈良盆地に移したことから始まるのですが、…)それに先行して、仁徳天皇(藤原によって第16代とされたオオササギ…聖帝)は浪速高津の宮(上方落語に登場する「高津の富」の「仁徳さん」)に先行し既に九州王朝神霊東遷が行われているのです。 

それまで奈良はまだ開拓が始まったぐらいだったはずなのです。まあ、4世紀の初めの話です。

 それを前提に考えますが、白江戦の大敗北による太宰府占領(恐らく久留米も)による7世紀半ば以降に本拠地を列島の深部に移したの天武系の勢力も実は広義の九州王朝の勢力だったのです。

 その、生駒の東麓に本拠地を移したのが葛城一族なのか、既に4世紀の初めの安志奇命(恐らく神功皇后の連子)の一族が直接的な葛城一族の末裔と伝えているのです。

 そこに、巨勢氏も新たに混住している様に見えるのです。

 そうすると、あくまでも葛城一族は神功皇后の連子と言われる葛城長江曽都毘古の流れを汲む人々で、そこに、長子なのか次三男なのかは不明ですが(古代は末子相続で長子は新天地の開拓に入るのです)、開化天皇と神功皇后の実子で次男の朝日豊盛命の一族が移動していったのではないかと思うのです。

再掲載


佐賀(脊振村)〜福岡(うきは市)〜そして奈良の御所市(葛城の東)に移動した巨勢氏


 長年神社を調べていると、うきは市がどのような氏族、それどころか、大げさに表現すれば如何なる民族が住み着きどのような提携関係を結んでいたかと言った事までが見えてくるのです。

 一応、あまりハッキリと申し上げると反発される方も居られることから控えますが、大まかに言えば、うきは市でも西の吉井町に金山彦系が、東の浮羽町に大山祇系が展開し、筑後川沿岸というか、古代久留米湾岸とでも言うウオータ―・フロントに志賀島の海人族が展開しているようです。

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通説では奈良県御所市も巨勢氏の大きな居住地だったとされていますが、そこを見ると巨勢氏が居たと思われる、地域が浮かび上がってきます。


故)百嶋由一郎が残した90枚の神代系譜(スキャニングDVD)、MP3による40時間の演録音声CD、手書きデータスキャニンクDVDを必要な方は090-62983254まで

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2026年01月27日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1110 巨勢氏を考える ❹ うきは市 藤波ダムの妹川と合所ダムの姫治

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1110 巨勢氏を考える ❹ うきは市 藤波ダムの妹川と合所ダムの姫治

                     20250707

太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久

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冒頭からネット画像の連続で恐縮ですが、興味深いことに筑後川を挟んで北西に位置する佐賀県神埼市と南東に位置する福岡県うきは市に姉川と妹川という地名対応が認められる上に、それがセットで琵琶湖の北の伊吹山の姉川、妹川に飛んでいる事が見えてくるのです。

 ただ注意を要するのは、それが川上 猛を誅殺したとまで書いているヤマトタケル=日本武尊の話を畿内に持って来たかった近畿大和朝廷が創りでかしたテーマ・パークなのか、実際に地名を持って移動した氏族がその時代かずっと後世にか…移住したのかも含め、まだ確信を持てずにいるのです。

 事実、佐賀県神埼市(旧背振村)に「伊福」という集落地名が今も在り、姉川の合戦で知られた滋賀県の「伊吹山」(伊福地名の移動か置き換え)として更なる対応を見せているのです。

 これらについて滋賀県の伊吹山、姉川、妹川については、まず、以下からお調べ下さい。

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詳しくは、民話「姉川と妹川」の成り立ちと地理的背景 安井 雅彦1 冨永 晃宏2

【土木史研究 講演集 Vol.38 2018年】

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そして、神埼市「的」(「イクワ」:これがうきは市の「生葉」を経て、浮羽、うきは市になっている)に、川上 猛誅殺ならぬ誅罰の出撃拠点となった、白角折(オシトリ)神社が鎮座している事を見れば、川上 猛が盤踞していた場所もその西の現佐賀市(旧大和町)の川上峡=淀姫神社一帯であった事までもが見えてくるのです。

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これは、関連するも別の話になりますので、佐賀(旧大和町)、福岡(福岡市早良区)、大分(豊後大野)、熊本(高森)…の、ひぼろぎ逍遥バック・ナンバーをお読み頂くか、パワー・ポイントを入手してお調べ下さい。

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佐賀(脊振村)〜福岡(うきは市)〜そして奈良の御所市(葛城の東)に移動した巨勢氏


 長年神社を調べていると、うきは市にどのような氏族、それどころか、大げさに表現すれば如何なる民族が住み着きどのような提携関係を結んでいたかと言った事までが想像できてくるのです。

 一応、あまりハッキリと申し上げると反発される方も居られることから控えますが、大まかに言えば、うきは市でも西の吉井町に金山彦系が、東の浮羽町に大山祇系が展開し、筑後川沿岸というか、古代久留米湾岸とでも言うウオータ―・フロントに志賀島の海人族が展開しているようなのです。

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通説では奈良県御所市も巨勢氏の大きな居住地だったとされていますが、そこを見ると巨勢氏が居たと思われる、地域が浮かび上がってきます。

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063 神埼の櫛田宮内の二つの稲荷神社の祭神 に於いて、太宰府地名研究会は、去る419日、「東肥前の神々」として、25人規模の現地トレッキングを行いました。

“テーマは旧神埼郡(旧脊振村)に葛城(桂木)、一言主神の故地を探る“(旧脊振村には現在も桂木、永江、長江という字が残ります)というものでしたが、各々の参加者はそれぞれ得るものがあったと思います。…と書いています。では、その旧脊振村鹿路の桂木バス停と鹿路神社をご覧いただきましょう。

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そもそも「日本書紀」によれば、神功皇后は夫(とされる)仲哀天皇と供に、反乱を起こした九州の熊襲を成敗しょうと筑紫にやって来たとしますが、その途中で仲哀は戦死します。
 武内宿禰と六男の長江曽都昆古(ナガエソツヒコ)後の葛城襲津彦(カツラギソツヒコ)の協力もあり熊襲を討とうとするのですが、彼らを支援していた朝鮮の新羅を討つ為に、妊娠中にもかかわらず皇后は出産を遅らすために石を布で腹に巻き、武内宿禰親子を従え渡海して新羅を攻撃し滅ぼし、百済、高句麗は戦いもせず平伏させ凱旋し応神を産むのですが、その後皇后は幼少の応神を摂政として助けたとされています。まあ創られた話なのでしょうが。
 また、その治世においては半島との交流を進めるとともに、百済からは王仁博士が鍛冶工や服織工を率いて移住し、論語十巻、千文字一巻を献上し儒教を伝えたとします。

まず、神埼市の吉野ケ里丘陵の西には王仁神社があるのですが、それについては別稿とするとして、旧脊振村腹巻には永江という字が、鹿路神社がある鹿路地区には桂木という地名が今も確認できるのです。

 では、曽都(襲津)は?と問われそうですが、敢えて言えば、佐賀市の西の牛津が「ソツ」に当たりそうです。まず、最低でも、古代、お隣の三根郡には葛城郷がありました。


三根郡  太宰管内志 葛木一言主神社 葛木郷 物部經津主神 物部郷 漢部郷 米多郷 千栗郷 千栗八幡社〔雄略天皇紀〕身狭村主青の記事、〔和名抄九巻〕三根郡千栗物部米田財部葛木三根郷と葛城郷  角川 日本地名大辞典 佐賀県より                       


当町(三根町)は海抜34mの沖積層からなる平地部のため史跡は乏しい。石井・持丸・本分などに貝塚があり,出土品としては石器・土器などが発見され,本文遺跡からは甕棺・紡錘車・石包丁や獣骨などが出土している。弥生時代は海岸線であったと思われる。

  三根の地名は「肥前国風土記」に「同じき(ママ)天皇(景行天皇)行幸しし時,(中略)此村に宿りましき。天皇,勅りたまひしく,〈夜裏は御津甚安穏かりき。此の村は天皇の御寝安の村と謂ふべし〉とのりたまひき。因りて御寝と名づく。今は寝の字を改めて根と為せり」とあるところから呼ばれるようになったと思われる。古来,この里は平和で豊かな人間味あふれる至誠の民の住むところであったと伝えられている。また,「肥前国風土肥」にみられる景行天皇の征伐説話は三根にも及び,この地方に対する大和朝廷の勢力を物語るものとして注目される。

  嶺県主の存在は,大和朝廷の勢力圏にあったと思われる。また,「肥前国風土記」「延喜式」「和名抄」などによると,神埼郡は三根が分離しないころは,15郷からなる最大のものであり,筑紫米多国造の勢力基盤であったといわれている。そして三根は県主の勢力圏の上に成立していたといわれている。三根郡司に海部直鳥の名が推定される。米倉二郎氏が「肥前国風土肥(ママ)」の各郡の復原条里数を推定したものによると,三根は530里となっている。これは条里区画が漸進的に開発され,その田数が増加したものであるといわれる。


「和名抄」には三根郡葛城郷が見え,「三代実録」貞観15年(873916日の条に葛木一言主神のことが見え,筑後川に近い天建寺宇土居内に祭祀されていた式外社の1つであることから,当郷は天建寺一帯に比定される。一言主は大和国(奈良県)葛城山の神で,のち葛城神社となった。

葛城神社〈三根町〉  角川 日本地名大辞典 佐賀県より                       もどる

  三養基郡三根町大字天建寺字土居内にある神社。旧村社。祭神は葛木一言主命。創建年代不明。貞観15916日に正六位上から従五位下となっている(三代実録)。一言主命は大和国葛上郡葛城山の神であり,当地にいたとされる葛城部によって勧請されたと伝えられる。明治6年村社となる。なお,当社から天建寺一帯が,「和名抄」に記す葛木郷であったといわれている。

葛木郷〈三根町〉  角川 日本地名大辞典 佐賀県より                       もどる

 無題.png〔古代〕平安期に見える郷名。「和名抄」三根郡五郷の1つ。刊本の訓は「加都良木」,伊勢本の訓は「加津良木」。式外社の葛木一言主神が三根町天建寺に祭祀されていることから,天建寺付近に比定される。また郷名から葛城部の存在が考えられる。「肥前国風土記」によれば,漢部郷に忍海漢人を連れてきて兵器を製造させたと記すが,忍海漢人と葛城氏との深い関連を考えると,忍海漢人と葛城氏が同時に移住してきた可能性が強い。


「九州の山と伝説」(元菊池地名研究会メンバーの牛島稔太のHP

みやき町天建寺土居内の葛城神社

天建寺橋で筑後川を渡ると直ぐのところにあります

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無題.png葛城一言主神社の南東の裾野に長柄神社があります。

 「長柄神社 (御所市)」を検索すると、

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』20250710 15:47による 以下…


長柄神社(ながらじんじゃ)は、奈良県御所市名柄にある神社。式内社で、旧社格は村社。別称を「姫の宮」とも。祭神 祭神は次の1柱。下照姫命 (したてるひめのみこと)

文献では他の祭神説として、事代主命説や高照姫命説が挙げられている。事代主命説は『新撰姓氏録』「大和国神別 地祇 長柄首」条において長柄首(長柄氏)の祖を「天乃八重事代主神」と記すことによるもので、高照姫命説は「長柄比売神社」の俗称のある葛木御歳神社が高照姫命を配祀することによるものである。元々は長柄首が祖神を祀ったが、のちに葛城一言主神社や高鴨神社の姫宮とする伝承が生じ、高照姫命(事代主の妹神)説や下照姫命(味耜高彦根命の妹神)説が生じたとする説もある。


所詮、通説とはこのようなものですが、葛城の長柄神社は、高良玉垂命と仲哀死後の神功皇后の間に生れた5人の実子と神功皇后の連子(仲哀の子か仲哀との子)4人の第3子=葛城長江曽都毘古(葛城氏の祖)と考えられるのです。


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無題.png久留米の高良山の大祝の一族(神代勝利は戦国期に高良山=九州王朝の本拠地奪還の為に龍造寺氏と一大決戦を行った)で、高良大社を追われた古代九州王朝で高良玉垂命と神功皇后の子である朝日豊盛命(許勢小柄=許勢小柄)の末裔である神代勝利の一族に依って継承された神代家系図に書かれた長子シレカシノミコト(実はオオササギノミコト=仁徳)以下5人の実子と、那男美命以下4人の義理の兄弟姉妹の安志奇命こそが、カツラギノナガエソツヒコであり、長柄神社の本当の祭神ではないかと考えています。

 現在、御所市の神社を見ながら奈良の葛城が九州王朝の一族の一流れによって開拓されたのではないかと調べているのです。

このため巨勢氏のルーツは佐賀(脊振)右矢印1福岡(うきは)右矢印1奈良(御所)右矢印1一部逃亡、追放は間違いなく、近畿大和朝廷の成立前後に葛城のかなりの部分が後の藤原(多氏=阿蘇氏)によって制圧された様に見えるのです。

右の神代勝利の一族の系譜に違和感が有るのですが、それは孝元天皇の下に彦太忍信命、続いて玉垂命となっている事です。彦太忍信命とは第8代孝元天皇皇子で、武内宿禰の父または祖父であるとしている事です。彦太忍信命は偽装

 これは、有馬の久留米入府に伴う裁定によるものか、それ以前の全国的な高良玉垂命=開化天皇&高良玉垂命=武内宿祢に於いて、九州以外では一律(完全では無いのですが)武内宿祢である事実に合わせ自己保身せざるを得なかったのかどちらかなのでしょう。

 生き延びるためにはやむを得なかったのでしょう。

 御所市は30年前に一度入っただけですが、今後も探求を続けます。

  情報をお持ちの方は090-62983254まで。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2026年01月24日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1109 巨勢氏を考える ❸ 続 巨勢氏と古代の桂木

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1109 巨勢氏を考える ❸ 続 巨勢氏と古代の桂木

                     20250706

太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


故)百嶋由一郎から高良大社に本拠地を置いた初期九州王朝は、現在の佐賀市久保泉の奥から脊振山南麓中腹の現神埼市(旧脊振村)鹿路の桂木に存在し、昔は「高良」という表記も残っていた…といった話まで聴いていました。一言主神社が鎮座する山内(サンナイ)の古代でも安全な小集落です。

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だからこそ、戦国期まで高良大社奪還を願い山内(サンナイ)に立籠もった神代勝利を祀る勝宿神社や神代家累代の御霊屋と呼ばれる素晴らしい墓所が置かれ、その忠実な臣下であった猿田彦=五十猛=山幸彦=ニギハヤヒを祀る琵琶湖の白髭神社の元宮(川筋に4社)が在るのです。

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桂木バス停が残る鹿路(ロクロ)集落 奈良の葛城のルーツです


当然、葛城長江曽都毘古の名の起源もこの地に在るはずです。以前(もう十年になりますか)、旧脊振村の教育委員会の男性に確認したことが有りましたが、脊振村には「長江」という小字も残っていたのです。桂木と長江は在りますが、「曽都」が同地には有りませんでした。

 ただ、現小城市牛津町の牛津は確かに「ソツ」ですよね。

 まず、開化天皇と神功皇后の間に生れた第4子渕志命の平群から考えましょう。

 そこで、「平群」について当会メンバーの「事代主のブログ」のS氏の葛城襲津彦(8)を見ていると、平群の地名比定をされていましたので、そのまま使わせて頂きます。


『和名類聚抄』によれば、毘伊(ひい、現在の城南区樋井川付近)、能解(のけ、現在の福岡市早良区野芥付近)、額田(ぬかだ、現在の西区野方付近)、早良(さわら、現在の城南区鳥飼付近)、平群(へぐり、現在の早良区羽根戸から金武付近)、田部(たべ、現在の早良区小田部付近)、曽我の7郷があったとされる。

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福岡県の葛城・平群・曽我・古代早良郡の地図

                                    【日本書紀】

葛城襲津彦(8)

福岡県の葛城・平群・曽我 (今回は、福岡県の古代の地名の資料です。)

※簡単に朝鮮半島と往来していた

訳をしていて思ったのは、ソツビコたちに大変機動性がある事です。軍はもちろん、弓月の君や王の妹なども日韓を簡単に往来しています。

ですから、この話の舞台は、福岡市の早良区や西区を中心とした話ではないかと思うようになりました。

当時の朝鮮半島への航路は唐津経由か志賀島経由でした。

『和名類聚抄』によると、福岡市西部を中心に平群や曾我、額田、田部などがあった事が書いてあります。大和地方と似た構成です。ですから、渡来人たちは福岡市にまず、拠点を置いて、それから大和地方に移動したと考えるのがナチュラルです。そうすると、どちらにも平群などがある理由が分かります。

『和名抄』に早良郡に平群や曽我があった事が書いてあった。

「早良郡」ウィキペディアより (早良郡で検索すると出て来ます。)

『和名類聚抄』によれば、毘伊(ひい、現在の城南区樋井川付近)、能解(のけ、現在の福岡市早良区野芥付近)、額田(ぬかだ、現在の西区野方付近)、早良(さわら、現在の城南区鳥飼付近)、平群(へぐり、現在の早良区羽根戸から金武付近)、田部(たべ、現在の早良区小田部付近)、曽我の7郷があったとされる。

※真鍋大覚氏による伝承 『儺の国の星・拾遺』

p244

筑紫で孝元帝(前214158)から清寧帝(480484)の間に玄界灘の交易を掌握していた平群は近東系

の出であって、月氏のササンの子孫であったと思われる。筑前早良の由来は「ささのあまのはら」で、平

群氏が百済人をここに租界させた。

p245

昔、祖先に「かひ」と「とひ」の二つの氏族があった。「かひ」とは夏至を元日とする氏族であり、「とひ」は冬至を元日とする氏族であった。かすかな口伝ではあるが、平群氏は望旦夏至に固執し、曾我氏は朔旦冬至に改革したと説かれる。

皇極帝(645)年はまさに暦法の採否をめぐって中大江皇子の激烈な論争と対決が背景にあったことを心得なければならない。

「そが」は素娥と書き、月の東洋的異称であった。これに対して、「へぐり」は平群と書き、月の西洋的異称であった。

和名抄には筑前国早良郡の条に、まだ平群、蘇我の郷名が記録されているが、今はない。

所は脇山であって、改名の由来は文書にはない。月を女人に事寄せる泰西の民族の伝統に「わき」なる異邦人の租界の古称を重ねて作り上げたものと古老は語っていた。

賀茂の氏族は日本の開拓者であった。刀剣の類を作り上げるよりも、むしろ百姓の鋤鍬の方を主としていた。北方系の胡人であった。

『儺の国の星』p155 早良戸栗(へぐり)は、かつての平群氏の故郷であった。

無題.pngp196

大和の笠置の山々の名は、筑紫の葛城から神功皇后(201269)の御宇に遷したものと伝えられる。葛城の峰は香椎宮から太宰府の東の空に連なる。

葛城氏が竈門山系と水縄山系を領有して南方貿易を独占していたのに対し、平群氏は背振山系と志摩山系を治めて北方貿易を掌握していました。せふりの語源は「へぐり」に在ったと語られますが、日繰(ひぐり)すなわち天文暦法の家系を示す古語であります。


 旧脊振村から平群(ヘグリ)までは脊振を北へ越え降れば一日もあれば直ぐに届くのです。

決して奈良の話ではないのです。

もう一つ、順序が逆になりましたが、第3子暮日豊盛命こと蘇我石川の宿禰に触れたいのです。

 この蘇我の石川麻呂とも呼ばれる人物については、高良山直下の山川町の方々からお話をお聴きした際に、同人物の直系の末裔の人も住んで居ますよと…いともたやすく話して頂いた方が居られたことを今も思い出します。だから、片田舎の奈良の話ではないのです。

 まあ、この話は単なるエピソードですが、次は脊振村を東に流れ下り、吉野ケ里辺りに注ぐ、城原川の話をして見たいと思います。

 旧脊振村役場(現神埼市脊振支所)の正面を南東に流れ下る水の豊かな、急流、清流が在ります。

 現在、佐賀県でもダムもの無く最も水量の豊かな城原(ジョウバル)川に何の必要性もない、ダムが造られようとしているのです。

 勿論、国交省は過去の洪水被害を誇張し、“もしダムを造らないで被害が出たらダムに反対している人達は責任が取れるのか…”と言った脅しを、下っ端から中堅幹部共が何度も行っているのです。

じゃあお聴きしますが、今まで、ダムの操作ミスや洪水によって流された家屋の補償を行ったことが一度でも行ったことが有ったかを考えれば(いつも、天災、自然災害にしてますよね)、無理してでも徹底的に環境を破壊しダムを造り、国交省河川局のダム屋がゼネコンに天下りして自分達だけ良い思いをしようとしているだけの事なのです。そんな見え透いた脅しに乗って知事も市長も見え透いた反対はするものの、最後は財務省の糞官僚同様、自らの損得しか考えていないのです。

 そもそも、山の上の小河川までコンクリートの三面張りの雨樋に変え、大雨が降ったら一気に流れ出し、雨が上がればカラカラになるような保水力も、水生生物も一切失われるような物にしてしまい、洪水を引き起こしているのは国土交通省と連動するチョッカイ議員とか土建屋共なのです。

 勿論、行政によって下流に洪水を引き起こしているのは、国交省だけではありません、全く売れもせず(今や都会のマンションは鉄とコンクリートとガラスとプラスチックと僅かな外材=米松)、大雨によって洪水に更なる破壊をもたらす人工林崩壊から流木、倒木の流失が大規模に始まってしまっているのです。

 無題.png結果、林野庁の私的な利権を維持するためだけの意味のない林業の放置の結果、山林の保水力の喪失から山林の土壌流失と砂漠化による両省による、森林と河川が国土と国民と国民経済への脅威となっているのです。

 緊急的対策としては二十年前から人工林に火を掛けろと言い続けているのですが、それは、自然林の復活を最も経費を掛けずにやれるからだったのです。

 ところが、何故か昨年秋から異常なほどの山火事が始まっているのです。それは太陽光パネルを設置するために、伐採、搬出、貯留(そうやったとしても放置にしかならないため)中国と連動した在日中国人、不法入国者の企業体がやっているはずなのですが、太陽光発電プラントを設置するために発火、失火として皆伐する方が簡単で経費が掛からないからなのです。

 話がそれましたので軌道を戻しますが、その城原川が蘇我石川麻呂の石川ではないかと考えているのです。

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非常に乱暴な話をすれば、佐賀県の脊振山系南麓の東半分は基本的に花崗岩質の土地で、川にもそれが現れているのです。ご覧の通り、花崗岩の岩塊が押し流されるのが城原川であり、粒子が小さくても砂程度の大きさで、泥が少なく清流となり砂と硬花崗岩が大半でそれらがゴロゴロ転がっているのが城原川なのです。

 すると水ではなく石が流れる川という印象を与えるのです。

桂木集落が今でも存在し、開化天皇と神功皇后の間に生れた第三子=暮日豊盛命が蘇我石川麻呂と呼ばれているとすると、それはこの川にちなんで名付けられたか、後に自らそう名乗った事も考えられるのです。

それほど強烈な印象を与える清流が城原川なのです。これが何の価値もないダムによって徹底的に破壊され、多くの伝承と地形が消失する危機が目前に迫っているのです。

 財務省から予算を引き出す事だけのために持ち込まれた多目的ダムという詐術が利用され続けたのですが、ここは洪水調節のための(と言っても実態はダム屋の失対事業でしかないのですが)穴開きダムであり、流水だけは一応は残るのです。

しかし間違いなく巨大な破壊が起こり清流の貴重な魚などが消される事になるのです。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記