太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2017年02月19日

296 大宮神社と猿田彦大神 O “猿田彦は何故猿田彦と呼ばれたのか?”

296 大宮神社と猿田彦大神 O “猿田彦は何故猿田彦と呼ばれたのか?”

20160822

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


再掲 「ひぼろぎ逍遥」065 四公(シコウ)神社とは何か?


福岡県豊前市に四公神社と呼ばれる、見慣れない聞き慣れない小社があります。

この存在については、六年前に百嶋先生からお聴きしていましたが、非常に分かり難い場所にあることから何回行ってもいつも見つけることができず、従って実感も湧かないことからそれっきりにしていたものです。

ようやく三年ほど前でしたが、豊前火力周辺の貴船神社を調べている時に偶然発見し、先生が言われていたのはこの神社の事だったのだと気づきました。

当時は重要さも全く理解できなかったことから、気付いた時には既に数年が経過してしまっていました。

まず、一般的には見つけることも殆どできない場所にあります。

もちろん他地域に類型はありませんし、現地に行っても何の縁起も解説もない。このため付近で聴いても誰も知らないといった類のもので、気付かなければ今でも分からないままのものだったことでしょう。

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上の二社は豊前火力の正面、八屋地区の狭い路地を抜けたところにある四公神社です(八屋字汐入、八谷字浦町)。

この場所も覚えておくことは非常に難しく、カーナビでポイントを押さえておかなければ、おいそれとは再訪できません。

事実、この場所を探して走り廻っている内に大冨神社に近い山田地区四郎丸に新たに別の四公神社を発見しました。それが、下の神社です。

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今回、三〜四つの四公神社が確認できましたが、問題はその意味であり、誰が誰を祀ったのかです。

一応、インター・ネットで検索すると、豊前市による「神社一覧」があり、猿田彦、猿田彦+恵比寿神とされています。

実は、この「猿田彦説」も、百嶋先生が「まだ、豊前には四公神社が残されていますか?」と問い合わせされた際に、教育委員会側から逆に「誰が祀られているのかお教え願いたい」と言われ、「恐らく猿田彦=山幸彦が祀られているのではないかと考えている…」と答えられた事からのもののようなのです。

これについて百嶋先生の話を思い出すと、「猿田彦という意味自体に赤米研究田という意味がある…」「米の生産を進めその取り分を四公六民に定めたことから四公の意味が生じているのではないか…」「アマテラスオオミカミの依頼によってお米の古代米、赤米の研究をなさって、お子様のウガヤフキアエズまで継承されており…」と言われていました。

まず、赤米です。民俗学では知られた話ですが、種子島の宝満神社のお田植え祭という神事に猿田彦が登場します。

その外にも、鹿児島県の川辺町(現南九州市)の飯倉神社(「高良酒造」の高良家が宮司)のお田植え祭に猿田彦が登場するのを内倉武久氏と一緒に見たことがあります。

このように、かつて(数十年前まで)は高良大社でも行われていたお田植祭が南九州にもかなりの広がりを見せていたようなのです。そして、その多くに猿田彦の陰が認められるのです。

ここで、始めに俗な結論を申し上げておけば、そもそも猿田のサルとは、シャーリータのシャリであり、銀シャリのシャリなのです。

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種子島の宝満神社では宝満御神楽猿田彦舞が舞われます。


銀シャリは仏舎利塔のシャリ、シャリコウベのシャリとの説が横行しているようですが、サンスクリット語では、ご飯を「シャ−リ」とも呼ぶそうですので、全く見当違いでもないようです。

今のところ、非常に大雑把ながら、大和朝廷に先行する九州王朝において、猿田彦=山幸彦は、ヤゴローどんとして南九州への水田稲作の導入に働き掛けた痕跡として、各地のお田植神事に猿田彦が登場しているのではないかと考えているところです。


下野敏見 著 「南九州の伝統文化」(ネット上にPDFファイルがあり全文を読めます)

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なお、蛇足になりますが、本州では、佐田大神(大山咋神、日吉神社、松尾神社…)を猿田彦だとする向きがありますが、佐田大神(出雲の佐田神社…)は猿田彦では全くないので申し添えます。

 これについては、現在、当の出雲の佐田神社も神社庁の圧力に屈して猿田彦を受け入れていますが、ネット検索を詳しく行えば、それが祭神の入れ替えでしかないことがお分かりになるでしょう。


ネット上に「ひぼろぎ逍遥」051 出雲の佐田神社と安心院の佐田神社 としても公開しています

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 10:55| Comment(0) | 日記

2017年02月16日

295 大宮神社と猿田彦大神 N “ひぼろぎ逍遥051 出雲の佐田神社と安心院の佐田神社 再掲”

295 大宮神社と猿田彦大神 N “ひぼろぎ逍遥051 出雲の佐田神社と安心院の佐田神社 再掲”

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太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

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051 出雲の佐田神社と安心院の佐田神社


一般的に、出雲といえば出雲大社と大国主命しか頭に浮かびませんが、写真は出雲の二ノ宮とされる佐田神社です(出雲一ノ宮は出雲大社と熊野大社ですが)。

新暦の11月の深夜に行われる神等去出(カラサデ)神事で知られる古社です。

この佐田神社の祭神こそ大山咋(オオヤマクイ)神であり、アマノフスミノミコト、同時に松尾神社、日枝神社、山王神社、日吉神社、日枝山王権現から比叡山にも関係があるのですが、一般には猿田彦と混同され、酷いものにあっては佐田大神とは猿田彦以外ではありえない…といった強弁がまかり通っているようです。

逆に言えば、九州外では猿田彦を佐田大神とする向きさえあるようで、それは全くの誤りであり、このことは神社庁も知り尽くしているはずなのです。

この点、九州では猿田彦と佐田大神は分離され別神であるとの分離(認識?)だけは確立しているとも言えそうです。

ここで、肝心の佐田神社の公式ホーム・ページを見ると、例によって祭神を 佐太大神(さだのおおかみ)=猿田毘古大神(さるたひこおおかみ) としているのはもとより、追従するいくつかのサイトも知ってか知らずか(多分無知なのでしょうが)猿田彦とするものが目立ちます。

「出雲国神仏霊場」というサイトにおいても祭神を 主神佐太大神(さだおおかみ)=猿田彦(さるたひこ)大神 としています。

 ふだん採用しないウィキペディアを見ると、この部分については、神社庁の統制が効かないのためか、


佐太大神[編集]

正殿の主祭神である佐太御子大神は『出雲国風土記』に登場する佐太大神と考えられる。佐太大神は神魂命の子の枳佐加比売命を母とし、加賀の潜戸で生まれた。神名の「サダ」の意味には「狭田、すなわち狭く細長い水田」という説と「岬」という説とがある。とし、

明治維新時に神祇官の命を受けた松江藩神祠懸により、平田篤胤の『古史伝』の説に従って祭神を猿田彦命と明示するように指示されたが、神社側はそれを拒んだ。

現在において神社側は、佐太御子大神は猿田彦大神と同一神としている。と、非常に正しいことを書いています。

これでは、ウィキペディアを馬鹿にする学会、識者といえども少しは見習うべきかもしれません。

ここで、皆さんに是非読んでいただきたいサイトがあります。

佐太神社(さだ)http://www.mitene.or.jp/~hayamine/file3/sada.htmです。

詳しくは、直接、全文を読まれることをお勧めしますが、最低でも、明治以来の神社庁による露骨な干渉が多少はお分かりになるでしょう。佐田大神と猿田彦が別神であったことを示す貴重な証言と言えます。


佐太神社(さだ)

岸崎左久次の『出雲風土記紗』には、この社を三社とした上で、一社は熊野大神と大穴持命、一社は佐田大神、一社は瓊々杵尊・伊弉冉尊・天照大神の三神であると説明している。

 永享十一年(1439)三月十八日の四郎三郎他十一名の 「起請文」(東福寺文書)に 「特者当州杵築太明神・佐陀三社太明神」 の語が見える、少なくとも南北朝期にはすでにこの三殿並立の形ができていた。 天正六年(1578)の 「佐陀大明神御本体ヲ智事」 云々と題する当社幣主祝宮川清秀の手控には、「ここは当国の鬼門故に三つの社を建て並べ、八百萬の神々を勧請するが、主神は皇孫瓊々杵尊であり、かつ伊弉諾・伊弉再の二神を併せ祀る」 というふうに述べている。


 次いで江戸時代の初めに成ったと思われる、かの神能 「大社(おおやしろ)」を見ると、そのクセの段に、「三つの社を建て並べ、伊弉諾・伊弉冉は中の社と思召、左の社には天照大神・月の神、右の社には水蛭子・素盞嗚これなり」 とあって、ここに三殿の祭神が、より具体的に説かれ、しかし主神は諾再二尊ということになってくる。


 寛文年間(1661〜73)の 「佐陀大明神縁起」 には 「中正殿者伊弉諾・伊弉冉二尊勧請社也。 北之社者穂仁似々貴尊也。 亦天照大神・天赤女勧請社也。 南之社者月神・蛭子・索盞嗚尊也」 とあり、天和四年(1684)孟春の 「秋鹿郡佐田大社之記」 には 「正殿、速玉之男・事解男、北殿、天照大神・皇孫命、南殿、五男外ニ一座伝授」 とある。 ここに速玉之男命・事解男命・五男神というものが出てくるのである。佐太神社 三社


 享保二年(1717)の『雲陽誌』の記述となってくると、正殿は 「伊弉諾尊・伊弉冉尊・事解男命・速玉男命・秘説、都て五座の神をまつる」、北殿は 「天照大神・月弓尊、都て二座の神をまつる」、南殿は 「素盞嗚尊・秘説四座の神をまつる」 というのであって、これでおおむね幕末まで一貫する。


 明治維新を迎えると、神祗官の指示を仰ぐ松江藩神祠県から、この祭神について強硬な示達を受けることとなった。 正殿の秘説一座の神名を顕示し、かつこれを『古史伝』の説に従って 「猿田彦命」 とせよというのである。 これは当社にとって根本をゆるがす大問題なので、正神主以下、祖法を楯に挙って反対した。 しかし藩は聞かず、明治三年六月に至り、これを 「佐太御子神」 として顕示することに結着した。 しかしそれでもなお納まらず、同十二年に至り、主神を 「佐太大神」 とし、諾再二尊を配祀神であるということに改めたが、さらに十八年、この 「佐太大神」 を 「佐太御子大神」 と書替えるに至った。


 無題.png 現在では、正殿は佐太御子大神・伊弉諾尊・伊弉冉尊・事解男命・速玉男之命、北殿は天照大神・瓊々杵尊、南殿は素盞嗚尊・秘説四座、ということになっている。 当社では、明治維新時の松江藩神祠県との紛争の結果として、いわば偶然にも古代の佐太大神の御名をふたたび顕示することとなったのであるが、それにしても古代末ないし中世以来と思しき、伊弉諾・伊弉冉・事解男・速正之男、あるいは天照大神・瓊々杵尊・素戔嗚尊といった神名は、これを依然として顕示することとなっている。 またそもそも三殿並立という形はこれをあくまでも守っているのであるが、これが古代以来のものでなかろうことは、叙上の次第によって明白であろう。


 このサイトは五年ほど前から気付いていましたが、いつ横槍が入り消されるか分かりません(既に検閲が存在していた戦前と同様の状況が目前です)。非常に貴重な証言と言えるでしょう。

佐田神社も神社庁の魔手=神社の継承権を認めないと言う手段により、捻じ曲げられてしまったのでしょう。

 彼らは、自らの言いなりになる神社を増殖し、さもしくも文字通り天下りして行くことになるのです。

 この傾向は現在も続いており、戦前の軍国主義を呼び込んだ国体明徴運動は、対米戦争完敗(ボロ負け)と言う愚かな結末を迎えたのです(ざまあない)。

 今度は如何なる大破産と国民の不幸を齎すことになるのでしょうか?実に楽しみな限りです。

佐田大神は猿田彦に非ず


では、なぜこのようなことが平然とまかり通るのでしょうか?

山幸彦とその敵対勢力であった海幸彦の流れの何時しか融合(手打ち)した神祇勢力=中臣(藤原)神道こそが、国体を救うと称し、国体に巣食っているからであると聴き及んでいます。


 さて、皆さんはこの猿田彦大神が何者かお分かりでしょうか?実は海幸山幸神話の主人公、山幸彦なのです。神社庁関係者も知的な人は恐らくご存知でしょう。決してそうだとは言わないでしょうが。

 このことについても、何時か書きたいと思っています。

猿田彦は山幸彦


繰り返しますが、佐田大神は大山咋(オオヤマクイ)神であり、同時に松尾神社、日枝神社、山王神社、日吉神社、そして、日枝山王権現に繋がるのです。それが明確に分離されている九州以外は、ほぼ、塗り潰されてしまったようです。

既に、考古学、古代史、報道、選挙…と、すべての分野で嘘がまかり通るようになっていますので、これぐらい何だ!と思われるでしょうが、所詮そのような国なのです。

 ここで、佐田大神が初めに居た場所をご紹介しようと思います。

 既に、この神社の神官も祭神が大山咋命であることはご存じではなくなっておられます。

 ただ、この地(宇佐市安心院佐田)から福岡県朝倉市佐田に、さらに、佐賀県の小城市(松尾酒造も関係あり)に移動した後、太宰府近辺(筑前山家)に多くの伝承を残していると某神社考古学者から聴き及んでおります。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 14:19| Comment(0) | 日記

2017年02月12日

294 大宮神社と猿田彦大神 M “鹿島、香取でご存じの香取神社の経津主も猿田彦大神なのです”

294 大宮神社と猿田彦大神 M “鹿島、香取でご存じの香取神社の経津主も猿田彦大神なのです”

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太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


茨城県の鹿島神宮に対して千葉県に香取神宮があります。

香取神社は千葉県から埼玉県に掛けて多くの神社が展開しています。

鹿島神社の話はしませんが(こちらは草部吉見…)、この香取神宮の主祭神も実は猿田彦大神なのです。

すると、海幸、山幸が利根川、霞ケ浦を挟んで蟠踞している事がお分かり頂けると思います。

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「日本書記」ではフツヌシ命はアマテラス大神の命を受け、天孫降臨に先立ち

タケミカヅチ命とともに出雲国に降り、国譲りを成功させたとされています


経津主神は武甕槌神と関係が深いとされ、両神は対で扱われることが多い。有名な例としては、経津主神を祀る香取神宮と、武甕槌神を祀る鹿島神宮とが、利根川を挟んで相対するように位置することがあげられる。また、春日大社では経津主神が建御雷神らとともに祀られている。これは香取神宮・鹿島神宮のある常総地方が中臣氏(藤原氏)の本拠地だったため、両社の祭神を勧請したものである。また、鹽竈神社でも経津主神・建御雷神がシオツチノオジとともに祀られている。

経津主神の正体や神話の中で果たした役割については諸説がある。…(中略)…なお、『先代旧事本紀』では経津主神の神魂の刀が布都御魂であるとしている。『古事記』では、建御雷之男神の別名が建布都神(たけふつのかみ)または豊布都神(とよふつのかみ)であるとし、建御雷之男神が中心となって葦原中国平定を行うなど、建御雷之男神と経津主神が同じ神であるかのように記載している。

布都御魂を祀る石上神宮が物部氏の武器庫だったとされることから、経津主神も本来は物部氏の祭神だったが、後に擡頭する中臣氏の祭神である建御雷神にその神格が奪われたと考えられている。

ウィキペディア(20160809 18:30による


もう皆さんも経津(フツヌシ)が山幸彦=猿田彦=ニギハヤヒ=五十猛(イタケル)=石上(イソノカミ)…であることがお分かりになったと思います。

 草部吉見(海幸彦)、猿田彦(山幸彦)共々、神武東征ならぬ神武御巡幸の随行者として東日本に入っている可能性があるのです。

 その後、これらの神々を奉斎する氏族が東日本に入っている事は想像するに難くありません。

 では、何故経津主と呼ばれるのでしょうか?

 「主」は、天御中主を筆頭に、大幡主、豊国主(ヤタガラス)、大国主、経津主(山幸彦)、事代主(蛭子)、天之甕主…と大幡主(白族)系の神々の尊称であることは見当が着きます。

 これについては、百嶋由一郎氏は“現地(雲南省昆明)の青銅器にも「主」が刻まれている”と言われていました(滇(てん、簡体字: , 拼音: Diān)は、前漢時代の紀元前3世紀頃から、雲南省東部の滇池周辺にあった滇人による西南夷の国)。では、経津、布都…とは何でしょうか?

 まず、香取神社が鎮座する千葉県には富津(フッツ)市がありますね。隣は君津市ですね。

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しかし、それは移住地であって、本来の震源地は九州島にあり、猛島神社(五十猛を祀る)が鎮座する長崎県島原市の布津(旧布津町)だろうと考えています。

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実は、五十猛命を祀る(ニニギ説もあり)荒穂神社(基山、太宰府、嘉麻…に数社)に近い、鳥栖市にも布津原町があります。

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 遠い古代、猿田彦=五十猛…を奉祭する諫早から有明海を中心とする海人集団が、第二拠点とも言うべき山鹿の猿田彦軍団と共に、房総半島で上総(カズサ)に向かったと考えています。

 その根拠はと問われれば、同一神を奉祭神社が存在し、経津(フツヌシ)=フツの主と呼ばれている事、千葉県と有明海沿岸に「フツ」「フッツ」と呼ばれる地名が存在している事ですが、千葉県富津市、君津市が在る一帯を上総(カズサ)と呼びますね、「かずさ」と呼び習わしていたから、下の「カズサ」と併せて上総、下総(シモウサ)とされたのだろうと考えています。

 では、何故、カズサと呼ばれているのでしょうか?

 それは、有明海の出口である、口之津の隣町の南島原市の加津佐(カズサ)という地名が持ち込まれたからだろうと考えています。

 隣の口之津は明治から昭和初期に掛けて大貿易(上海向石炭積出港)であり、さながら海員学校が置かれた口之津は、ある時期、国際貿易港の様相を呈していました。

 一般的には、博多港、唐津港、呼子港が注目されていますが、海流を考えれば、直ぐわかるように、有明海を出れば、そこには対馬海流が流れており、半島、大陸、インドシナへの航路が開かれていたのです。

大幡主の配下にあった山幸彦=経津主は、島原半島の布津、加津佐を拠点に活動していたのです。

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猿田彦=経津主は口之津、加津佐から列島に展開した

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 23:55| Comment(0) | 日記