太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「百嶋神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログを継続しています。


これにはプロバイダーを含め何時情報封殺が行われるかも知れないため、最低でも複数の発信媒体を準備しておくべきではないかと考えているからでもあります。


今後ともかなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史によるblogひもろぎ逍遥に対抗しようという意図はないのですが、華麗なひもろぎ逍遥に対して、緋色のボロ着で、神籬=ひもろぎ(ひぼろぎ)を逍遥=彷徨い歩き、神社を探るというほどの意味で、「ひぼろぎ逍遥」を随時書いて行くことにしたものです。ただし、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象なども認められます。


 さて、現在、ひぼろぎ逍遥とひぼろぎ逍遥(跡宮)との合計のアクセス数は日量10001200件(年間4045万件)まで上がっています。


 同時に、連携する研究者によるblog20近くまで数を増やしており、全体では最低でも年間100150万件近いアクセス数を持っているものと思われます。


 当blogには九州王朝論から百嶋神社考古学へと向かわんとする多くの研究者、記録者、bloger…が参集されています。


 年に10回、10年でも高々100回程度の研究会でも大半は教育委員会関係者から学芸員といった利権まみれの方々通説を拝聴し心服するような、研究者亡き研究会は全く何の価値もないものと考えており、そのようなどこにでもあるような話を好まれる方々は、そこら辺りの既存の郷土史会、史談会に行かれ、村興し、町興し、世界遺産登録に拍手を送り、思いっきり尾を振られれば良いでしょう。


しかし私達は後ろ指を刺される様な探究に踏みとどまり、これまでの歴代の行政権力が隠し続けた真実の歴史の探求へと向かう人々への道標と成ろうと思うものです。




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無題.png読者の皆さんに…真実の神社研究へのご支援を…


太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久




ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥の読者の皆様、また、グループのブログをお読みの皆様、暑い中、丹念無題.pngにお読み頂き有難いと思っています。


 古田武彦が亡くなり、また、百嶋由一郎氏が亡くなり数年が流れました。


 当初、貴重極まりない百嶋研究の一部でも残せないだろうかと考え、手書きデータや神代系譜文書のDVD化、音声データの保存、複製、宣伝という作業を続けて来ました。しかし、単にデータの保管、配布の体制を確立するだけでは継承ができないと考え、blogで百嶋研究の説明、現場実調を徐々に進め公開してきました。この結果、全国にも理解者が増え始め、神社研究ではなんとか特異な勢力を形成できる所まで漕ぎ着けました。


 既に、百嶋研究の一部でも接点を持った全国の二十五人を超えるブロガーが独自の側面から研究を進めておられますし、ブログは書かないまでも、神社調査を行い記録を残している方もおられます。


 勿論、統一性は取れてはいませんし、なかなか難解な内容だけに、解明できない問題についてはメンバーの若い世代に託すことになるでしょうが、なお不明なものは後世の研究者に期待する事に成るでしょう。


 百嶋先生と知り合いになったのは七年ほど前だったと思いますが、もしも後数年生きておられたならばもう少し古代、神代の謎を継承できたかも知れません。しかし、未熟な者だけで作業を行わざるを得なかった事から今尚皆さんにご迷惑をお掛けしているものと理解しております。


しかし、私達の能力を考えれば、むしろ上出来といったものかも知れません。


さて、メンバーの背骨を形成している中心的思想とは、当然にも九州王朝論です。


 百嶋先生も“私も九州王朝論が分かっていない人に神代史を教えても意味がないし、教えたくないですね…”と言われていた事が今でも耳に残っています(吾は百嶋由一郎の面受の弟子なり!)


さて、四月の近江〜但馬、五月の糸魚川〜諏訪〜山梨、六月の青森と15日間づつ三度に亘って長躯の神社調査を行いました。


ぶっ続けで調査すれば良さそうですが、落ち着いてリポートも書かなければならず、研究会のスケジュールもあってそういう訳にも行かず、各々3,0004500キロの往復の調査とならざるを得なかったのです。


今後も、三重、和歌山、岐阜、福井…と、よりきめ細かい調査に入るつもりですが、もはや資金が底を尽きつつあります。


元々、福島の原子力災害辺りから、これ以上行政機関に留まりたくないとの思いが募り、後先き考えずに58歳で早期退職した事から(当時上の娘は大学に在学中だったのですが)年金と言ってもギリギリ暮らせる程度の物で、なんとかここまで働かずに神社調査を行ってきましたが、既に限界点を越え始めたようです。事実、当会は研究を優先するためメンバーから会費を取る事なく僅かな参加費で運営しています。


人手不足の時代、まだ、働こうと思えば職はあるはずですが、拘束時間が長くなれば、研究を進める事ができないまま人生の終末期を迎える事にもなりかねず、できるだけ体力がある間に遠距離の調査に入りたいと思っています。このため、出来る事ならばこのまま神社研究に専念したいものと考えています。


基本的には年金生活で何とかやっていますので、月額であと二〜三万増やせれば、車の維持、車検、保険、介護保険料、研修所の維持、研究会の組織化、ネット規制に対応するためにもう一つ別の発信のためのサイトの準備……と増加する負担にも対応できるのではないかと考えています。


今後、研究内容を保全するためにも、外付けハード・ディスクをタイム・カプセル化して鍾乳洞に保管する(太陽フレアによる磁気データの消失への対策)とか、研修所の維持、後世に残すためにユーチューブ化してオンエアするなど新たな作業に入る必要も生じており、もし可能であれば、通説とは全く異なる百嶋神社考古学の保護と継承のためのご支援をお願いできないかと考えています。


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年間一口2000円以上の任意の百嶋神社考古学研究会の支援会員となって頂ければ、九州においでになった際に会員待遇として温泉付き研修所に一泊お泊めできます。九州での神社調査の拠点として活用下さい。


振込用の銀行預金講座、郵便貯金番号は以下の通りです。


 大分銀行 若宮支店 000093−7505802 フルカワ キヨヒサ


 ゆうちょ銀行 店番 778 預金種目 普通預金 口座番号 1165562 氏名上に同じ


また、もし差支えなければ、以下のメールにお名前と住所と電話番号を以下のメールに送信して頂き、カンパした旨の連絡を頂ければ、神代系譜のDVD(既にお持ちの場合はそれに代わる音声データなど)をお送りできるものと考えています。


 携帯のメール・アドレス ariakekai@ezweb.ne.jp携帯 09062983254 (常時対応)


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2019年01月24日

537 赤村の超巨大古墳をグーグル・アースで発見された方とリンクしました 早速「淀姫命」転載します

537 赤村の超巨大古墳をグーグル・アースで発見された方とリンクしました 早速「淀姫命」転載します

20180327

太宰府地名研究会 古川 清久


既に前ブログ 536 赤村の超巨大古墳発見の背景について “福岡県赤村内田の前方後円墳?”

ご紹介した無題.pngとリンクを張る事になりました。

 「古田史学の会」系の九州王朝論者であり、「東海の会」のメンバーでもある石田泉城氏は、本物の研究者中の研究者であることはブログのタイトルを見るだけでも分かります。

 特に「淀姫」に関して長文を書いている当方としてはコダイアリーに掲載されている「淀姫命」を掲載させて頂くことになりました。簡潔ですが必要な事は全て押えられており、どのようにして百嶋神社考古学の心臓部まで把握されているのか不明ですが、是非ともお読み頂きたいと思います。

 なお、当方の「淀姫」は太宰府地名研究会のHPから「淀姫」をお読み下さい。

では、コダイアリーの「淀姫命」をお読み下さい。以下。


「淀姫命」2017/8/31() 午後 10:44付け 石田泉城


これまで、高宮八幡宮の社伝、筑紫の磐余稚櫻宮や磐余池、磐瀬宮と朝倉橘広庭宮の関連、大津皇子の歌による筑紫の五十川村と曰佐村と譯語田舎、墨江中王に名などに関連して、第十七代履中が九州の天皇である可能性を探りました。

 さて、履中記の記事では、気になる地名が登場します。
 難波宮と石上神宮です。


本坐難波宮之時、坐大嘗而爲豐明之時、於大御酒宇良宜而大御寢也。爾其弟墨江中王、欲取天皇、以火著大殿。於是、倭漢直之祖・阿知直、盜出而乘御馬令幸於倭。故到于多遲比野而寤、詔「此間者何處。」爾阿知直白「墨江中王、火著大殿。故率逃於倭。」爾天皇歌曰、・・・・・・<歌の関係部分を省略>・・・・・故、上幸坐石上~宮也。
                                       
                                   (『古事記』)


 履中は、即位してからは磐余稚櫻宮にいたはずですが、この記事の難波宮は、父の仁徳の皇居である難波高津宮のことと思われます。

 この難波高津宮は、通説では、浪速高津宮(こうづぐう)(高津神社、大阪府大阪市中央区)としますが、先述のとおり筑紫・難波にも高津(たかつ)神社(福岡県筑紫郡那珂川町山田359-3)があり、その本宮は伏見神社本宮(福岡県那珂川町山田)です。

 ただ、仁徳記には、この説話以前に「大雀命、坐難波之高津宮、治天下也」とあり、また仁徳紀にも「都難波、是謂高津宮」と記述され、すでに仁徳の皇居については高津宮とされていますので、この履中記の難波宮を、高津宮と理解してよいのか、やや疑問が残りますが、一応、筑紫・難波の高津宮の本宮である伏見神社本宮としましょう。
 以前にも述べたように、筑紫・難波の高津神社の御祭神は、伏見神社本宮から頓宮された豊宇気毘売神とある一方、伏見神社本宮の由緒書きには、御祭神は、淀姫命を筆頭に、須佐之男命、大山祇神、神功皇后、武内宿禰とあり、豊宇気毘売神はありません。さらに、由緒書きには「淀姫命は神功皇后の姉姫で千珠満珠を求め給う神徳の姫で欽明天皇二十五年十一月朔日佐賀の県に川上大明神として鎮座されたが託宣によって此の地に遷座され・・・」とあり「淀姫命は神功皇后の姉」と書かれています。

 また「佐賀の川上大明神」を遷座されたとも記されます。その佐賀の川上大明神は、川の守護神である與止日女(よどひめ)大明神とされ、佐賀県佐賀市大和町大字川上にある與止日女(よどひめ)神社に祀られています。この神社は、淀姫神社、河上神社とも言われます。ただし、與止日女神社の由緒書きでは、「淀姫は神功皇后の」とされ、伏見神社本宮の由緒書きとは姉とで違っており混乱しています。

  一方、高津神社の御祭神である豊宇気毘売神については、食物・穀物を司る女神で、後に稲荷神と習合し同一視されるようになったので、稲荷神社である高津神社には、豊宇気毘売神が祀られるのは当然ともいえましょう。ただし、豊宇気毘売神は、淀姫命と同一ではないはずなので、やはりどこかで混乱しているように思われます。

  これに関して、百嶋神社考古学の神代系図(以下、百嶋神代系図)では、彦火火出見尊である山幸彦を父、豊玉姫を母として、その子が鵜草葺不合命になりますが、豊玉姫は子育てを放棄して竜宮に帰ってしまい、その代わりに異母妹の()玉依姫が子育てをします。鵜草葺不合命は、その育ての母である玉依姫と婚姻し、安曇磯良(表筒男)をもうけています。その安曇磯良の妻が、同父の鵜草葺不合命と奈留多姫の間に生まれた娘である豊姫(ゆたひめ)であり、玉姫・淀姫でもあります。

 したがって、鵜草葺不合命からすれば、豊玉姫が実母であって、()玉依姫は、乳母であり妻です。安曇磯良からすると豊玉姫が祖母であり()玉依姫が実母になります。また、豊姫(玉姫・淀姫)からすれば、()玉依姫は叔母であり義理の母という関係にありますので、豊玉姫と玉依姫は異なる人物であり、また彼女らは、豊姫(玉姫・淀姫)とも異なる人物です。
 なお、記紀では、神倭伊波礼琵古命(神武天皇)は鵜草葺不合命の子ですが、百嶋神代系図では、神武の別名の彦火火出見尊が鵜草葺不合命の父となりますので親子関係が逆転しているようです。
 整理すると次のようになります。

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ここに登場する姉の豊玉姫、妹の玉依姫は、それぞれ満珠、干珠に擬えられ、安曇族の海神豊玉彦の娘とされますので潮の干満に大いに関わりがあります。伏見神社本宮の由緒書きでは、その祭神の淀姫命は、「神功皇后の姉姫で千珠満珠を求め給う」と記されていますので、淀姫命を姉の豊玉姫に充てています。しかし、與止日女(よどひめ)神社の由緒書きでは、「淀姫は神功皇后の」とされ、伏見神社本宮の由緒書きとは姉と妹で違っています。いずれにしても「千珠満珠」の点では、淀姫命は、豊玉姫玉依姫の両方にかかわるようです。

 さらに、百嶋神代系図では、(ゆた)は、玉姫や淀姫と同一で、鵜草葺不合命の娘であって、河上タケルの妹(表筒男・安曇礒良の妻)に当たります。豊姫は、後に與止日女神社(川上神社)の河上大明神になりますので、豊姫淀姫とする百嶋神代系図と合致します。これに従えば、伏見神社本宮の御祭神の淀姫命は、豊姫と同一ということになります。

 一方、頓宮した高津神社では、その祭神を豊宇気毘売神とします。一説に、淀姫は豊玉姫であるともいいますので、本宮で祀る淀姫命豊玉姫とみなして、その豊玉姫と、豊受姫とを混乱しているのではないかと想像します。百嶋神代系図では、豊受姫は豊玉姫のいとこであり、豊受姫と豊玉姫は神としての役割も違うので同一人物とはいえません。また、海の神である豊玉姫と川の神である淀姫は同一とはいえませんが、時代の変遷とともに「千珠満珠」に関わる神として、豊玉姫は、淀姫へと移行・集約化してきたようです。

 以上を総合すると、淀姫命は、「千珠満珠」に関わり、大津波や洪水を防ぐ女神全般を包括する神を意味しているのではないかと思います。
 そして、淀姫命は、豊玉姫や玉依姫にも広くあてられる女神になり、百嶋氏が示すとおり、淀姫命は、豊姫や玉姫にあてられたのだと思います。

 さて、この玉依姫に「千珠満珠」を授けた山幸彦は、百嶋神代系図では、彦火火出見であり、また饒速日でもあるとされます。

 饒速日は、物部氏の祖であり、古くより天皇に関わっています。

 次回は、履中と物部の関係に焦点をあてます。

以上で引用部分終わり


いずれにせよ数年前まで全く知られていなかった百嶋神社考古学が多少とも浸透している事は驚きです。

 ここで、佐賀県のど真ん中を南に流れ降る嘉瀬川の畔に鎮座(嘉瀬川の上流の旧富士町上無津呂には河上の淀姫神社に50年先行する縁起を持つ淀姫神社がある)し、佐賀県西部から長崎県に数多く分布する淀姫神社は何故か京都の伏見に飛んでいるのです。

そして、淀姫の「淀」が新大阪駅の正面を流れる淀川の語源となっているのです。

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由緒

山城国乙訓郡の式内社。

元は桂川の対岸の水垂町に鎮座していたが、淀川改宗工事に際して淀城跡北の現在地に移転。

淀姫社、水垂社、大荒木神社とも呼ばれていた。

 『三代実録』に、貞観元年(859)に、正六位上与度神を従五位下の叙したとある。

 『寺院神社大事典山城編』には、旧鎮座地は『和名抄』の乙訓郡榎本郷の地であったと云われ、従って豪族榎本連の居住地と思われ、一族の祖神として祀られたとの説があるとしている。『姓氏録』によれば、左京神別に榎本連があり、道臣命十世孫佐弖彦之後也とある。大伴氏の系統だと高皇産靈神より発していることになる。

社伝によれば、応和年中(961〜964)千観内供が肥前国佐賀郡の河上神を勧請したことに始まるとされている。祭神の一の豊玉姫の説明であろう。


殆どの淀姫神社を実際に踏んだものとしては、何故、東の伏見に一社だけ飛んでいるのかという事が気になります。

ただ、糸島半島の桜井神社には淀姫神社の神額が残っており、元は淀姫であった事を思わせます。

また、これは最近発見したのですが、島根県石見八幡宮(石見銀山にも近い太田市)にも立派な境内社が存在する事を確認した事から、東方にもまだ存在する可能性は否定できません。

ただ、この程度ではピースが少な過ぎて、如何なる氏族が如何なる意図で淀姫祭祀を持ち出したのかという問題は解明できないでしょう。


百嶋神社考古学ではオウスノミコトに誅殺された河上タケルの妹の淀姫こそが豊姫とされウガヤフキアエズ命=表筒男命となるのですが、ここで、底筒男命たる開化天皇のお妃が神功皇后であるとすると、お表筒男命と底筒男命を兄弟と見做し、淀姫=豊姫(ユタヒメ=ユタカヒメ)を神功皇后の妹とか姉とかする混乱が生じているものと理解しています。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


百嶋神社考古学に関する神代系譜、音声CD、手書きデータ・スキャンニングDVDを必要とされる方は09062983254までご連絡下さい。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 09:00| Comment(0) | 日記

2019年01月22日

536 赤村の超巨大古墳発見の背景について “福岡県赤村内田の前方後円墳?”

536 赤村の超巨大古墳発見の背景について “福岡県赤村内田の前方後円墳?”

20180321

太宰府地名研究会 古川 清久


 本稿はひぼろぎ逍遥スポット151で公開したものの転載です。以下、現在、グーグル・アースでも容易に見いだせる古墳にしか見えない福岡県赤村の巨大丘陵が、(あくまでも)仁徳陵とされる大山(大仙山)古墳に次ぐとか匹敵する超大型古墳ではないかとの話が持ち上がり、地域を揚げて盛り上がっています。

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赤村に巨大な前方後円墳−。こんな話が、地元住民の間やインターネット上でささやかれ始めている。地元の古代史研究グループによると、現場の航空写真から鍵穴型丘陵の全長は約450メートル。日本最大の前方後円墳「大山(だいせん)古墳」(堺市)の墳丘長に迫る大きさとあって、古代史ファンからは「卑弥呼の墓では?」といった期待の声も聞かれる。

丘陵は同村の西端、内田小柳地区の雑木と竹に覆われた民有地で、東側を平成筑豊鉄道と県道418号が南北に走る。数年前から丘陵の形に着目してきた田川地域住民などでつくる「豊の国古代史研究会」の調査では、後円部に当たる部分は直径約150メートル。魏志倭人伝にある邪馬台国女王卑弥呼の墓の直径「径百余歩」とほぼ一致するという。

また、丘陵沿いの住民によると、東側にある後円部と前方部のくびれのような場所では、タケノコ掘り中に土器片が多数発見。周濠(しゅうごう)の部分に当たる丘陵西側脇には、以前から湿地が広がっていたという。現在まで発掘調査はなされておらず、真偽は謎のまま。田川地域の自治体の文化財担当者らは一様に、丘陵を「自然の地形」として、前方後円墳との見方を明確に否定している。

2018/03/20付 西日本新聞朝刊=


既に公開されてしまった事から申し上げますが、この古墳の存在については一部の九州王朝論者の間ではかなり知れ亘っていましたし、信用できる研究者に対しては秘密裏に情報を流してもおりました。

報道でも登場した福永晋三氏は五年ほど前から香春町講演を行っていますが、福永氏と私とが3〜4年程前の香春町での講演の直前に川崎町のN某氏から“こんな映像が見れるんですが…”として、私のパソコンを引っ張り出してグーグル・アースの画面やらN氏の手持ちの画像で確認したのが事の発端でした。

その後しばらくして元朝日新聞の記者でありミネルヴァ書房から「太宰府は日本の首都だった」外3著を出しておられる内倉武久氏をお連れして、現地の筍(タケノコ)山などに入り、高坏の破片となどの土器片を拾い、地権者である筍栽培農家の方からも大量の土器片を入れた箱などを見せて貰った事から、何とかオーバー・グランドに引き上げられないものかと工作を始めたのでした。

無題.pngそもそも傍流の九州王朝論者の一部には「豊前王朝論」なる概念があり、九州王朝の連合国家、分封制、分裂国家(南北朝ならぬ東西朝)といった様々な仮説が提出されていました。

 代表的なところでは大柴英雄の「豊前王朝」、坂田 隆氏、室伏志畔氏、佃収…と言った主として傍系の九州王朝論者の一群になるのですが、発見以来、私自身の当初の考え方としては始めから宣伝戦を行なうべきだというものでした。

それは、邪馬台国畿内説の最大の根拠とされてきた畿内の大型古墳群に対して、九州などには巨大古墳は存在しないし、あってはならないとするのが、利権集団としての考古学協会であり、その神輿に乗っている(その実使われている)京都学派なのであって、九州でどのように重要なものが出土しようが発見されようが、どうせ蓋をして重要なものほどコンクリートで固めてしまい、発掘調査費のほとんどを畿内で独占しようとの思惑があるからと考えてきました。

これこそが、古田武彦や九州王朝論が無視され攻撃され、他愛もない邪馬台国九州説までもが相手にされず、お伽話風のご当地邪馬台国説だけが許容されてきたのでした。

つまり、教育委員会や学芸員は元より、京都学派に占拠された今の発掘調査の現場では本物は蓋をされ、畿内説を補強する発掘調査や中程度の重要性を持った物だけを自分たちの都合で独占的に調査すると言う構造が存在し、通常は絶対に蓋をされてしまう恐れがあるのです。このため考古学の発掘調査の現場に精通した内倉武久氏は、蓋をすることが絶対にできないレベルの何らかの物証(羨道など)を得るところまで進め、その後公表するべきであろうと考えられ、その指導に従ってきたのでした。

私自身は、通説派はどうせ蓋をするに決まっているし、潰される事は決まっているのだから、一早く公表し、畿内に先行する豊前一帯の巨大古墳の存在(実はまだまだあるのです)を明らかにして、原子力村同様の京都学派による考古学村ぶりを炙り出し暴露すべきであると言ってきたのでした。

勿論、内倉氏の考え方が正論なのですが、現在の文化財保護法は京都学派のイニシアの元に独占的に発掘の権利を付与する構造になっており、時間だけが失われるだろうと考えていたのでした。当然にもN某氏に続き、いずれはグーグル・アースによって誰かが発見するだろうと思っていました。

そして、それが現実のものとなるのです。そのブログが公表されたのは2018年の1月でした。以下。

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古田史学の会系の名古屋の「東海の会」の石田さんによるものですが、その201818日付で公開された「福岡県田川郡赤村 巨大古墳地形」です(その続編もオンエアされていますので探して見て下さい)。

この第一発見者は、確かにN某氏でしたが、結果的にネット上に公表されたのは石田さんが最初だったのでした。当然、いずれは誰かが発見する事になったはずですし、いずれはAIの発達も含め、最終的には無視しひた隠しにしようとする通説の京都学派の横腹に風穴を空けて行く事に成るでしょう。

思えば、邪馬台国畿内説論者であり京都学派として大和説を主張した大御所の故)門脇貞二氏も、死ぬ間際には年来の持論である大和説と訣別し、「地域王国論」の立場から北九州説を主張したのでした。

彼によれば、邪馬台国の時代は、大和も吉備や出雲や筑紫など各地にあった王国の一つであって、それらの王国が競合しながら雄略朝前後に大和を中心に纏まったといった国家形成史を主張していたのです。

ただ、身内には“邪馬台国は九州にあったに決まっている…”と言っていたと言われていますので、所詮、京都学派とは利権によって形成されているだけのものである事が見えるのです。それはさておき、公開されたブログをお読み下さい。


福岡県田川郡赤村巨大古墳地形

 先に紹介した宮原遺跡は古墳と認められていないようですので私はこれを宮原古墳地形と称したいと思います。

 この宮原古墳地形の南方の福岡県田川郡赤村内田小柳において朱色を施した横穴式石室があったことが記録されており「小柳古墳」と名付けられています。しかし、香春町との境界付近に位置する低丘陵上に位置する古墳とされるのみで詳細は不明です。

(赤村文化財調査委員会編1976『郷土我鹿文化財を訪ねて』、赤村教育委員会編2008『赤村史』)

 福岡県田川市WEBサイトの筑豊地区埋蔵文化財発掘調査の記録(田川地域編)には、「遺跡調査リスト3」に「小柳古墳周辺」として、次のよくわからない写真が掲載されています。
http://www.joho.tagawa.fukuoka.jp/kiji0034837/3_4837_2363_up_w08gdxpb.pdf



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福岡県田川市WEBサイトの筑豊地区埋蔵文化財発掘調査の記録(田川地域編)より


 この写真は、東側から撮ったところと思います。

 そこで、私は平成筑豊鉄道の田川線の内田駅の北西辺りをGooglemapで眺めてみました。すると、方円墳(前方後円墳)と思われる地形が認められます。たぶん、これを前方後円墳状の地形として見つけたのは、私が初めてではないかと思います。


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<西からの鳥瞰>

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先の発掘調査の記録では、前方後円墳とは記されていませんが、航空写真で見る限り方円墳の形状が認められます。私が写真上で計測すると、350m程度の大きさと思われます。

宮内庁では仁徳天皇陵について、大阪府堺市堺区大仙町にある大仙陵古墳(大山古墳)を「百舌鳥耳原中陵」として治定されており、これが日本最大の墳丘長486mとされます。次いで誉田御廟山古墳(応神天皇陵古墳)の425m、さらに石津ヶ丘古墳(履中天皇陵)の365mとされることから、もし、小柳古墳が方円墳であるとしたならば、これらに次いで全国で3番手クラスの大きさと考えられます。
 また、実は小柳古墳の東にも、同程度の方円墳らしき形状が見られますが、こちらは全く調査されていないようです。開発がらみでないと調査されませんから致し方ないところです。


確かにグーグル・アースによって古墳を探ると言う手法は民間人ならではのものであって、N某氏の作業は他の行橋市内から豊前一帯までの古墳群に帯びており、その意味で先鞭を付けたものだったでしょう。

しかし、ネット上で公表して世間一般に知らしめたのは、結果でしかありませんが石田ブログとなり、ネット上の第一発見者は石田さんとなった訳です。既に意見が一致しており4月からリンクの予定です。

勿論、“自分が最初の発見者の栄誉に浴したい”などといったさもしいお考えは毛頭ないはずですが…。

ただ、350m程度の大きさというのは現地を踏み、付帯施設である環濠の問題などを考慮する必要性があり、直ちに二番目、三番目とは決めつけられない要素があって当面は保留する必要があるでしょう。

事実、内倉氏やN某氏と共に古墳を一周した際に、葺石の痕跡は実質的にはなかったものの、三段築成の跡や環濠の痕跡とも思える耕作放棄田やため池様のものも確認しており、実質的にそれを環濠と考えれば、二番手クラスの巨大古墳に成るとした内倉説の推定(可能性)は無視できない事になるのです。

皆さんも、まずは、平成筑豊鉄道田川線の内田駅周辺を検索される事から始めて頂きたいと思います。

ただ、残念なことに、九州王朝論者と自認する人々でさえ、現地を踏み薮を掻き分けて調べて見ようとされる方は極少数どころか皆無であって、大半は邪馬台国本読みの半通説紛いの方々ばかりと言った有様では京都学派の専横ぶりは今後とも続く事でしょう。

しかし、“あんなところにそんな大きな古墳などがあるはずはないんですが…”と言わざるを得なかった京都学派のNダニ氏(元は小学校の教員養成大学)の半ば引きつった記者会見は見ものでした。

今後どのようにしてこの巨大古墳(?)を無き物とされるのかは興味深い上に、日本の考古学会の在り様を見据えて行きたいと思うものです。ただ、直ちに「卑弥呼の墓」などとするのは村興し町興しには使えるのですが(坂田先生の説…外)、内倉氏は第28代宣化天皇(センカ)陵墓説を提案されています。

なお、朝倉市には本物の継体天皇の陵墓(巨大円墳)と思われるものがあるのですが(内倉説)、これは、また、別の機会にお話しする事にしましょう。既に一部はブログでご紹介しています(長田大塚古墳)。

最後に、赤村と言っても九州島内におられる方でもご存じない方が多いと思いますので、場所をお知らせしておくことにします。宇佐神宮への鏡を造った採銅所とか、有名な香春神社からも至って近い場所です。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2019年01月21日

535 九州王朝論にとっても神代史研究にとっても、土佐、伊予の神社調査は急務かつ極めて重要

535 九州王朝論にとっても神代史研究にとっても、土佐、伊予の神社調査は急務かつ極めて重要

20180313

太宰府地名研究会 古川 清久


 今般、伊予、土佐、石見を対象とした1500キロ10車中泊11日の神社調査を行いました。

 目的は33日の別役神社の例大祭に参加する事にありましたが、高知県の物部川流域を含め神社を踏み始めると、頻繁に訪れていた山陰の石見、出雲、因幡、伯耆…但馬以上に濃厚な神社群の存在にたじろいでいます。


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高知県には二千数百社の神社があるようですが、竹内荘市氏の「鎮守の森は今」によれば、我々が必死で追い求めていた、天御中主命の弟神と考えられる白皇(王)神社が44社存在するとあっさり書かれていたのでした。

 それどころか「先代旧事本紀」でも筆頭に掲げられる二田物部(仁位田、仁井田、仁多、新田…)と考える仁井田神社(恐らく天神ニギハヤヒを奉斎する)も47社存在し、九州王朝の最期の天皇と考えている仁徳=オオササギを奉斎する若宮神社も24社は存在する…事など。

 非常に濃厚な消された祭祀が残されている事に気付いたのでした。

 この間、山陰には数十回どころか百回近くは入っており、多くの神社を見て来ましたが、リポートに値するような特筆すべき神社は数えるほどしかありませんでした。

 それが、高知県には九州王朝時代つまり701年の崩壊以前の祭祀と考えられるものが大量に残存している事が分かって来たのです。

 これが、元々存在していたものがそのまま残ったものなのか、それとも九州からの避退の結果なのかについては、まだ、これからの調査の結果分かるかどうかも不明なのですが、どちらにしても、伊予と併せて、しばらく集中して調べる必要があるでしょう。

 これは初期段階の推定でしかありませんし、九州王朝の中枢部の神社を丹念に調べられた方でなければなかなか理解して頂けない事なのですが、前掲の「高知県内神社数内訳表」に掲載されている他の神社群がどのようなものかについて概略の見当をつけて見ましょう。

 まず、@河内神社が107社とされています。これは中国地方の周防から安芸などに掛けてかなり見掛けるのですが、祭神が不明で謎の祭祀です。これほどの数がありますので、何か手がかりが残されているかも知れません。

 A次に星神社ですが、これは恐らく神武天皇に逆らった逆賊の長脛彦の事で関東のカガセオと同一神ではないかと考えています。

 B大元神社は島根県の益田周辺に強い分布を示していますが、今のところ宇佐神宮の大元神社と考えています。

 C日吉は大山咋神で、日枝山王権現、松尾神社、佐田大神(猿田彦に非ず)と何度も申し上げてきた通りです。

 D石槌神社は、始めは誤って大幡主と考えていましたが、恐らく金山彦の事で、カグツチ(長脛彦の祖父神)とされる神様です。

 E海津見神社は豊玉彦=ヤタガラスと考えられて構いません。それでよいでしょう。

 F若宮神社は高良玉垂命(開化天皇)と仲哀亡き後の神功皇后との長子(九体皇子)仁徳のことなのです(「高良玉垂宮神秘書」)。

 G神母神社は全く分かりませんが、鴨、賀茂、加茂の下賀茂(ヤタガラス)、上賀茂系(崇神)の神社ではないでしょうか?

 H分かりにくいのは聖神社だと思います。百嶋神代系譜の一つに聖神社系譜がありますが、開化天皇の父神である孝霊、孝元、開化の孝元天皇(=物部の祖でもある)と考えられます。

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これは一例で他にも集中している場所があるのですが、香美市は聖神社が集中する場所です。

 無題.png右は美良布神社の正面にある聖神社の境内に置かれた石塔ですが、武内姓の方が氏子総代か宮司をされておられるのでしょう。系図と対応してお考えください。三階松の神紋は孝霊、孝元、開化の三代を意味しています。

 I三島(大山祗)、愛宕(金山彦)、春日(実はミズハノメですが今は阿蘇の草部吉見=鹿島大神)は良いでしょう。

 J白山神社は天御中主命=妙見宮=北辰神社=白山姫神社ですが、白皇(白王)神社の白川伯王の姉に当たる神様です。

 K新田神社は仁井田神社と同様でしょう。新田義貞そのものではないでしょうから。

 L白髪(髭)は猿田彦=山幸彦=ニギハヤヒで良いでしょう。

 分かる範囲で推定させて頂きましたが、長期滞在しかありませんが、今後、少しずつ調べさせていただきたいと思います。

全てを説明する事はできませんが、まずは、百嶋由一郎聖神社神代系譜をご覧頂きましょう。

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百嶋神社考古学に関する資料を必要とされる方は09062983254までご連絡ください

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記