太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「百嶋神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログを継続しています。


これにはプロバイダーを含め何時情報封殺が行われるかも知れないため、最低でも複数の発信媒体を準備しておくべきではないかと考えているからでもあります。


今後ともかなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史によるblogひもろぎ逍遥に対抗しようという意図はないのですが、華麗なひもろぎ逍遥に対して、緋色のボロ着で、神籬=ひもろぎ(ひぼろぎ)を逍遥=彷徨い歩き、神社を探るというほどの意味で、「ひぼろぎ逍遥」を随時書いて行くことにしたものです。ただし、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象なども認められます。


 さて、現在、ひぼろぎ逍遥とひぼろぎ逍遥(跡宮)との合計のアクセス数は日量10001200件(年間4045万件)まで上がっています。


 同時に、連携する研究者によるblog20近くまで数を増やしており、全体では最低でも年間100150万件近いアクセス数を持っているものと思われます。


 当blogには九州王朝論から百嶋神社考古学へと向かわんとする多くの研究者、記録者、bloger…が参集されています。


 年に10回、10年でも高々100回程度の研究会でも大半は教育委員会関係者から学芸員といった利権まみれの方々通説を拝聴し心服するような、研究者亡き研究会は全く何の価値もないものと考えており、そのようなどこにでもあるような話を好まれる方々は、そこら辺りの既存の郷土史会、史談会に行かれ、村興し、町興し、世界遺産登録に拍手を送り、思いっきり尾を振られれば良いでしょう。


しかし私達は後ろ指を刺される様な探究に踏みとどまり、これまでの歴代の行政権力が隠し続けた真実の歴史の探求へと向かう人々への道標と成ろうと思うものです。




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2018年05月25日

ビアヘロ048 火の君とは歴代の橘一族だった B 緊急提言 全国の九州王朝論者に告ぐ! “橘一族とは白族!”

ビアヘロ048 火の君とは歴代の橘一族だった B 緊急提言全国の九州王朝論者に告ぐ! “橘一族とは白族!”

20171225

太宰府地名研究会 古川 清久


 さて、前blogAは受け入れられない方は多いでしょうが、ここからお話しする内容は九州で起こった話であって多少は信じて頂けるかも知れません。

 そもそも橘一族とは県犬養三千代(=アガタのイヌカイのミチヨ) 天智天皇4年(665年)の女官三千代以降のものとされていますが、ここで取り扱う意味としては、県犬養三千代以前、天御中主以降の大幡主系とも熊野系とも忌部とも呼ばれる人々の総称として使う場合もありますので、その点、多少は逸脱して使うことをお許し願いたいと思います。

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いずれにせよ石清水八幡とか賀茂神社の氏子の方々とか、橘姓、立花姓、白土姓、加計姓、宮原姓、別役姓…を始め、橘の家紋を使う家系の方々には興味深い話にはなるでしょう。

 勿論、現在でも橘性の方はおられますが、藤原氏と何度も激突した橘一族の本流は徐々に名を変え、何とか生き延びようとした様に感じていました。

ただ、身贔屓と思われそうで気が引けるのですが、特に重要な橘一族の正統の直系とは「奈良麻呂の変」に於いて藤原氏と激突した橘氏の本流(全体の半分程度の印象ですが)であり、叛乱、クーデター(あくまで藤原による論理)で放逐された橘一族こそ本流に思えるのです。

その本流中の本流の一派が鎌倉期に佐賀県の武雄市橘町(明治の橘村の後継)に居を移した(実は故地に戻ってきた)の橘 公業(タチバナノキンナリ)の流れであり、それ故に今も杵島山の西側(九州王朝論者の間では良く知られた有名なおつぼやま神籠石の正面に奈良麻呂の変の立太子道祖王の墓が置かれているのです)。

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杵島山西麓に置かれた伝道祖王墓


詳しくは「ひぼろぎ逍遥」掲載の「杵島」以下のバック・ナンバーをお読み下さい。

和泉式部が何故辺鄙な肥前の国の杵島山の東西の麓から中央の橘 道貞(最初の夫)に嫁げたか、橘の諸兄を祀る潮見神社が存在するのか、何故、杵島山東麓に百済の王族が亡命してきたとの伝承が残り、和泉式部の生誕地伝承があるのかもお分かりになると思います。


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恐らく堤雄神は底筒男命(底筒男命=開化天皇=高良玉垂命)、丹生神は豊玉姫(ヤタガラスの娘=大幡主の孫)、稲佐神が不明ですが本来は大幡主ではないかと考えます。それは出雲の因佐神社が地元では、速玉(はやたま)さんと呼ばれている事でも分かります。ただし国譲りの結果、鹿島大神=武甕槌が覆い被さっているのかも知れません。「稲」は「因」の置換えで忌部、市杵島姫の本来「瀛」ツ島姫(イン)なのです。速玉さんは熊野速玉大社の大幡主(博多の櫛田神社の主神)ですね。

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橘奈良麻呂の乱

事件前史[編集]橘奈良麻呂の父の左大臣橘諸兄は、聖武天皇の治世に政権を担当していた。

743(天平15年)、難波行幸中の聖武天皇が病に倒れた時、奈良麻呂は佐伯全成に対し小野東人らと謀り、次期天皇に黄文王を擁立する旨の計画を漏らす。既に738(天平10年)の段階で、皇女の阿倍内親王が皇太子に立てられていたが、奈良麻呂が「皇嗣立てることなし」と皇太子が存在しないと述べている。当時の女帝は全て独身(未婚か未亡人)であり、1代限りで終わる阿倍内親王ではなく、男性の皇位継承者を求める動きが背景にあったと考えられている。

749(天平21/天平感宝元年/天平勝宝元年)、聖武天皇が譲位して阿倍内親王(孝謙天皇)が即位すると、天皇の母の光明皇太后に信任されていた藤原仲麻呂が皇太后のために新設された紫微中台の長官(紫微令)に任命される。仲麻呂は孝謙天皇からも寵愛深く、急速に台頭してゆく。一方、阿倍内親王の皇位継承に批判的と見られていた橘諸兄親子の勢力は次第に衰退することとなった。藤原氏の台頭に危機感を抱いた奈良麻呂は、11月の孝謙天皇即位大嘗祭の時、佐伯全成に再び謀反の計画を謀った。しかし全成が謀反への参加を拒絶したため謀反を実行することが出来なかった。

755(天平勝宝7年)、諸兄の従者佐味宮守から、諸兄が酒宴の席で朝廷を誹謗したとの密告があった。聖武太上天皇はこれを問題としなかったが、翌756(天平勝宝8年)2月、これを恥じた諸兄は辞職した(2年後諸兄は失意のうちに75歳で死去)。

同年4月、聖武上皇不豫の際黄金を携えて陸奥より上京した佐伯全成に対して三度謀反の計画を謀った。このとき奈良麻呂は大伴古麻呂を誘い、大伴佐伯両氏族をもって黄文王擁立を告げるが佐伯大伴両氏はともにこれを拒絶した。同年52日、聖武太上天皇が崩御する。太上天皇の遺言により道祖王が立太子された757(天平宝字元年)4月、道祖王が孝謙天皇の不興を受けて廃され、代わって仲麻呂が推す大炊王(淳仁天皇)が立太子される。

陰謀の計画と発覚[編集]仲麻呂の専横に不満を持った奈良麻呂は、不満を持つ者たちを集めて仲麻呂を除こうと画策する。同年6月287月22)、山背王が孝謙天皇に「奈良麻呂が兵をもって仲麻呂の邸を包囲しようと計画している」と密告した。7月27月26)、孝謙天皇と光明皇太后が、諸臣に対して「謀反の噂があるが、皆が逆心を抱くのをやめ、朝廷に従うように」との詔勅を発した。

しかし、その日の夜、中衛府の舎人上道斐太都から、前備前小野東人に謀反への参加を呼びかけられたと仲麻呂へ密告があった。仲麻呂はただちに孝謙天皇に報告して、中衛府の兵を動かして前皇太子道祖王の邸を包囲し、小野東人らを捕らえて左衛士府の獄に下した。翌7月37月27)、右大臣藤原豊成中納言藤原永手らが小野東人を訊問。東人は無実を主張した。その報告を受けて、孝謙天皇は仲麻呂を傍らに置いて、塩焼王安宿王黄文王、橘奈良麻呂、大伴古麻呂を前に「謀反の企てがあるとの報告があるが自分は信じない」との宣命を読み上げた。

ところが同日事態は急変する。右大臣豊成が訊問から外され、再度、永手らを左衛士府に派遣し小野東人、答本忠節(たほのちゅうせつ)らを拷問にかけた。東人らは一転して謀反を自白した。その内容は、橘奈良麻呂、大伴古麻呂、安宿王、黄文王らが一味して兵を発して、仲麻呂の邸を襲って殺して皇太子を退け、次いで皇太后の宮を包囲して駅鈴と玉璽を奪い、右大臣豊成を奉じて天下に号令し、その後天皇を廃し、塩焼王、道祖王、安宿王、黄文王の中から天皇を推戴するというものであった。

ウィキペディア(20171225 0846による

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佐賀県の通称杵島山


 村興し町興し宜しく、和泉(好字令以前の人ですから本来は泉姓なのですが…)式部と言い道祖王と言い全国に幾つかの伝承地がある事は十分に承知しています。このためその話に刃向うつもりはありません。

 と言うよりも、それらの伝承地は当方のフィールド・ワークでもある程度は確認してはいるのです。

しかし、この肥前の火ノ君の領域の橘氏に関わる伝承には、八代の妙見宮と一衣帯水の文化圏と人の繋がりを感じるとともに、この杵島山周辺から有明海最奥部一帯に広がる濃厚な妙見(北辰)信仰、大幡主の子である龍王(=豊玉彦=ヤタガラス)龍神信仰を見る時、不知火海〜有明海を大幡主系の支配領域と認識する事は十分に可能なのではないかと思うのです。

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杵島山は古代には島だったでしょう。その南の端、八代の妙見に向かった岬状地は今でも龍王崎と呼ばれており、その先端には海童神社が鎮座しています(龍宮海童ですね)。

そして、この境内には対馬の墓制を思わせる「龍王崎古墳群」(群集墓)が存在しているのです。

横穴式石室と思われるものもありますが、小さな石を使った小さな石室だけの物もあり、積み石型の墳墓はやはり大陸から朝鮮半島を経由して国内に広がっていますが、後には広く全国に広がり東西日本でも多くの石積みの古墳が見られます。この群集墓は古墳に発展する古墳時代の方墳や円墳、前方後円墳などの原型のように見えます。

この手の土の代わりに石を多用し岬に葬る古墳は対馬でも幾つか見たことがあります。

この点、大幡主=塩土老翁の子であるヤタガラスこそ対馬の海神神社or和多都美神社の主神=龍王と考える者としては、長崎県でも橘姓が集中する対馬には興味がひかれるのです。

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このヤタガラス=龍王(神仏混交風には八大龍王)説については、イヅノメ神=豊玉姫(通説とは異なる鴨玉依姫のこと)の解析が役に立つと思います。ひぼろぎ逍遥(跡宮)から以下を参考にして下さい。

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最後に、佐賀県南部の海岸線(干拓があまりにも延びていますが、古代の海岸線周辺も含めて)には多くの海神神社、海童神社、龍王神社があります。

普通の道路マップでも確認できますので、改めて「龍王」とか「八大龍王」とか「八龍神社」が何であるかをお考え頂きたいと思います。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:37| Comment(0) | 日記

458 宗像沖ノ島世界遺産登録といった愚行が半潰れになって多少はほっとした!

458 宗像沖ノ島世界遺産登録といった愚行が半潰れになって多少はほっとした!

ひぼろぎ逍遥 ひぼろぎ逍遥(跡宮)共通掲載

20170512

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久



 宗像沖ノ島世界遺産登録に関して諮問勧告が行われた…といった話が流れたのは数日前の事でした。

普通なら、オリンピック誘致と同様、ちょうちん行列とまでは言わないまでもお祭り騒ぎになるはずなのですが、実質的には沖ノ島だけの認定の方向しか示されず、宗像大社〜宗像市を中心とする所謂肖り集りへの思惑は(当面)大きく外れた形になったのでした。

このため、マスコミもそれなりに落ち着いた(一部には落胆した…云々)報道をしていました。

まず概略を把握して頂く為に、ネット上の産経、読売を拾いましたが、全ての大手マスコミは全てある種の権力(必ずしも行政と同義ではない)の回し者であって、その広報誌、回覧板としか考えていませんので、この二つを選んだことにも特別な意味はありません。

しかし、この報道を知って喜んだのは私だけではありません。

そもそも、日本の価値ある歴史的遺跡、伝統、文化を、何故、ユネスコ(United Nations Educational, Scientific and Cultural)のようなヨーロッパ不良貴族の成れの果ての様な方々に判定され、格付けまがいの事まで行われなければならないのか!

また、その何の権威もない連中に評価され、町興し村興し、地域振興の美名のもとに、浅ましくもさもしくも肖り集ろうとする見苦しさを公然とさらけ出している事に疑問を感じないのか!…と、この民族の精神もかなぐり捨てた恥知らずな構造には以前から非常に不快に感じていました。

結局は利用できる物は何でも利用し、税金を一部の方々だけが取り込もうとする構造が透けて見えるのでした。

東京オリンピックにしても、溜め込むに溜め込まれた膨大な富を大手ゼネコンなど特定の勢力だけが潤うような支出は、明らかな無駄遣いと言うより不正な流用でしかなく、本来は、貧困児童や貧困家庭の救済とか、もっともっと将来を見据えた重要な投資に回されるべきもののはずなのです。

行政とは特定の人々だけが潤うような無駄遣いは厳に慎むべきであり、「経世済民」をこそ考えるべきであるとは、行政の長や土建屋ケインズ主義者によってさえも声高に叫ばれていた常套句だったはずなのです。

仮にこのような構造の上に歴史遺産登録が行われたとしても、古代の真実を発掘する事にも、探究する事にも一切繋がらず、重要な遺跡さえも関連する公共事業などで破壊され、文化遺産そのものが捻じ曲げられ偽装されるのが目に見えるようだっただけに、半ば喜び、どうせなら完全に潰れて欲しかったと言うのが正直な感想でした。

まあ、そこまでは望むらくもなく、まずは、不幸中の幸いといったところと言うのが実感でした。

今後もこのような外国の勢力への拝跪、依存の構造は続くでしょうが、日本人としての誇りも文化も伝統も一切をかなぐり捨てた危機的で愚かな流れには抗議せざるを得ないのです。




sp100-2 【産経新聞号外】宗像・沖ノ島 世界遺産へ


 政府に5日入った連絡によると、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産に、福岡県の古代遺跡「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」を登録するようユネスコの諮問機関、イコモスが勧告した。ただし、沖ノ島以外の4つの資産は除外された。7月2〜12日にポーランドのクラクフで開かれるユネスコ世界遺産委員会で正式決定される見通し。登録されると、日本国内の世界遺産は文化遺産17件、自然遺産4件の計21件となる。

 宗像・沖ノ島と関連遺産群は4〜9世紀の大陸との交流にまつわる古代遺跡。九州と朝鮮半島の間の玄界灘にあり航海安全と交流成就を祈る国家的祭祀(さいし)が行われた沖ノ島(宗像大社沖津宮(おきつみや)と本土の宗像大社、祭祀を担う豪族が築いた新原(しんぱる)・奴山(ぬやま)古墳群など8件の国指定史跡で構成する。

 島そのものが神体とされる沖ノ島は入島制限の禁忌が守られており、古代の祭祀跡がほぼ手つかずで残る。昭和29〜46年に実施された調査で、金製指輪や銅鏡、シルクロードを経てもたらさ
れたとみられるカットグラス碗(わん)の破片など祭祀で供えられた奉献品約8万点が出土。全てが国宝に指定され、「海の正倉院」と呼ばれるようになった。 
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2017512日(金)


「宗像・沖ノ島」世界遺産に登録勧告 8件中4件は除外




sp100-3 文化庁は5日、世界文化遺産への登録を目指す古代遺跡「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」(福岡県)について、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の諮問機関が登録を求める勧告をしたと発表した。構成資産の半分の4件を除くことが条件。7月の世界遺産委員会で登録が正式に決まる見通し。登録されれば国内では5年連続、21件目の世界遺産となる。       (2016年9月、福岡県宗像市の沖ノ島)

福岡県宗像市の沖ノ島=共同原生林の中にある宗像大社沖津宮(上)

宗像・沖ノ島と関連遺産群は4〜9世紀に航海の安全を祈る古代祭祀(さいし)が行われた九州北部の沖ノ島(宗像大社沖津宮)や大島(同宮遥拝所、同大社中津宮)、九州本土の同大社辺
sp100-4 津宮、祭祀を担う豪族が築いた新原(しんばる)・奴山(ぬやま)古墳群など宗像、福津両市の8件の国指定遺跡で登録を目指していた。

 諮問機関の国際記念物遺跡会議(イコモス)は、このうち大島と九州本土の4件を除く沖ノ島付近の4件について世界遺産への登録を勧告した。

 沖ノ島には国家的な祭祀の遺跡が残り、指輪や鏡など大陸との交流を示す奉納品が出土。約8万点が国宝に指定されている。島全体が神体とされ、今も一般の立ち入りを制限している。


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と、ここまでは見苦しいばかりの町興し、村興し、世界遺産登録…肖り運動の文化破壊、民族の誇りの放棄への危惧の話でしたが、ここからは各論としての宗像沖ノ島問題に踏み込むことになります。

 この宗像、沖ノ島世界遺産登録への運動を推進したのは言うまでもなく宗像市と宗像大社でした。

 それは、宗像市のHPをご覧になればお分かりになるでしょう(後段に一部を掲載)。

それも大風呂敷を広げ、福津市や古賀市などもダシに使い無理やり巻き込みながら、おらが町の振興のためとばかりになりふり構わず突き進んだのでした。まさに、宗像主導でついでにお零れを回すので協力しろと言わんばかりの印象を受けたのは当方ばかりではなかったでしょう。

このため、宮地嶽神社の巨大円墳の被葬者も宗像徳善君とかその縁続きの人物であり、宮地嶽神社も宗像の君の配下の一族なのだ!などと言ったとんでもない大嘘が垂れ流される始末だったのです(○ダニとその一部エピゴーネン)。

そもそも、現在、沖ノ島がみあれ祭として宗像族、宗像大社が中心となり行なわれているとしても、これが沖ノ島の深層としての古代祭祀まで遡るという証拠は一切ないのであって、事実、初期段階から沖ノ島の発掘調査を行ってきた小田富士雄氏は近年その見解を修正しているのです。

まずは、沖ノ島祭祀について小田富士夫氏の修整説を見て頂きましょう。

記事の内容は専門的で俄かには分かりづらいのですが、岩上祭祀から岩陰祭祀、半岩陰半露天、露天へと変遷してきた古代祭祀において、最も重要な後期の岩上祭祀に当たる沖ノ島21号祭祀遺跡の遺物と同時期の大首長墓(大王級)大型古墳である福津市勝浦峰の畑古墳(100m超前方後円墳)との間に対応が認められるとの見解が提出されているのです(20121026日西日本新聞)。

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このことは、長らく元九大(実は奈良教育大)の○ダニ氏などが主張してきたところの(最近修整せざるを得なくなったようですが)、沖ノ島古代祭祀だろうが、宮地嶽巨大古墳だろうが、何でも「近畿大和朝廷の傘下=影響下にあった地元土豪(ここでは後の宗像徳善の君に繋がる一族)が関係している」などといったほとんどデマに近い非常に怪しげなものであったことが鮮明になった瞬間でもあったのです。

古来、最低でも福津市のエリア(本来は神湊以南)は志賀島の安曇族のエリアと言われており、相島も含め、新原・奴山古墳群(津屋崎古墳群)に宮地嶽巨大古墳、さらには、昨年馬具一式が発掘され話題となった古賀市の船原古墳なども、全て宗像徳善の君に繋がる一族などのものではなく、安曇族を支配下に置いていた一族のものであるという(安曇族の大王の配下といった話もありますが、逆に陸軍に支配された海軍陸戦隊にさえ見えるのです)地元に通用する普通の考え方が再考できることになってきたのでした。

福津市勝浦峰の畑古墳(100m超前方後円墳)との間に対応が認められるとの見解が提出されている事は極めて衝撃的で、沖ノ島の古代祭祀は福津市、古賀市から福岡市にかけての人々が祭祀を行っていた、少なくとも志賀島側の海人族(安曇族)が関与していた可能性を示すものだったのであり、既に鼻息の粗かった沖ノ島宗像族祭祀(権)圏説が早くも崩れ去っていたのでした(実際は沖ノ島は九州王朝の宝物庫だったのです)。



世界遺産登録活動

 「沖ノ島を世界遺産に」という声は2002年に行われた沖ノ島物語実行委員会による「宗像大社大国宝展」をはじめとする市民の活動から高まり始め、世界遺産登録を目指す動きへつながりました。そして沖ノ島(宗像大社沖津宮)、沖津宮遙拝所、宗像大社中津宮、宗像大社辺津宮、新原・奴山古墳群から構成される「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」は20091月にユネスコの世界遺産暫定リストに記載されました。

現在、宗像市、福岡県、福津市、市民団体、経済団体、文化・教育団体等で構成する「宗像・沖ノ島と関連遺産群」世界遺産推進会議を設立し、地域の人々によって受け継がれてきた遺産を人類共通の遺産として未来の世代に引き継いでいくことを目的に世界遺産登録活動に取り組んでいます。


そもそも、このような怪しげで根拠薄弱な背景の元動いていたのが宗像大社と宗像沖ノ島祭祀だったのですが、これに関する疑問は既に当方のグループばかりではなくネット上には飛び交っており、当然ながら諮問する側も多くの情報は収集しているはずで、ささやかながらも当方の見解も拾っているはずなのです。もしそうでなければ、表面の風評しか拾えない無能なウォッチャー、アナライザーとしか言いようがないのです。

恐らくこれらの事が文化庁、ユネスコにも多少は伝わったはずであり、当然、ダシとして利用されただけの形の古賀市、福津市の不満も伝わっていたはずなのです。

こうして、危うい事を避ける官僚の自己保身が働いたか…無難な沖ノ島祭祀のみの登録へと動いた可能性も考えられるのです。

ただ、IOCやFIFAのように一旦は脅しを掛け、結果、賄賂をよこせと言うメッセジである可能性も否定できない事から、最後まで、どんでん返しも考えておく必要はあるでしょう。

所詮は日本の伝統も文化も知らない、ましてや、列島の王権引いては古代史など一切知らない外国勢力の格付けやアドバイスなどどうでも良い事なのです。

冒頭で述べた如く、日本古来の文化伝統とその物証としての歴史的遺産をユネスコ如きのキリシタン伴天連の不良貴族の末裔どもに認定して頂くと言う奴隷根性は置くとしても、沖ノ島に限定された認定勧告は常識的な落としどころといったところで(本当はこんなくだらないミシュランまがいの格付けなど辞めるべきなのですが)、今のところ、表面的にはFIFAやIOCの様な賄賂話はなかったことから比較的クリーンな決着といった事になるのかも知れません(繰り返しになりますが、まさか賄賂をよこせと言うメッセジではないでしょうから…くれぐれも…両者の動きに注目し監視を続けようではありませんか)。

なお、これまで何度となく書いていますが、宗像大社の本来の祭神は大国主命であり、近畿大和朝廷(藤原)が捏造した現出雲は九州からの国譲りの結果成立した新出雲としてのテーマ・パークでしかないのです。

だからこそ、志賀島、宗像の沖に沖ノ島があり、現出雲の沖に隠岐の島があるのです。

これらの話については、ひぼろぎ逍遥 177 大国主を出雲の神様と考えておられる方に対して僭越ながらも…他多くを書いていますので内部検索を行い拾い読みして下さい。

なお、ネット上の中にかなり重要な証拠に近いものが発表されています。I女史作成のパワー・ポイントデータからご覧いただきましょう。


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「万葉集」に証拠が残っていたのです


坂上郎女は京に帰るとき宗像の神(おおなむち・少彦名)に祈りに立ち寄った。

この歌からわかるのは、ここでは宗像神は三女神ではないこと、勝浦まで船で来たこと(道に上がり)、名児山は昔からその名がついていたこと、その名児山と聞いても自分が我子を思う心は深く何の慰めにもならないと歌い上げていること。(伊藤)


大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ、生没年不詳)は、『万葉集』の代表的歌人。大伴安麻呂 と石川内命婦の娘。大伴稲公 の姉で、大伴旅人 の異母妹。大伴家持 の叔母で姑でもある。『万葉集 』には、長歌 短歌 合わせて84首が収録され、額田王 以後最大の女性歌人である。


13歳頃に穂積皇子 に嫁ぐが霊亀元年(715 )に死別。一説に宮廷に留まり命婦として仕えた。この頃首皇子(聖武天皇 )と親交を持ったらしく、後年個人的に歌を奉げている。 その後に藤原麻呂 の恋人となる。しかし、麻呂とも早くに死別し、養老 末年頃、異母兄の大伴宿奈麻呂 の妻となり、坂上大嬢 坂上二嬢 を産んだ。しかし、彼とも33歳頃に死別したと思われる。その後は、任地の大宰府 で妻を亡くした大伴旅人 のもとに赴き、大伴家持 大伴書持 を養育したといわれる。帰京後は佐保邸に留まり、大伴氏 の刀自(主婦)として、大伴氏の一族を統率し、家政を取り仕切ったのだろう。その作風は多分に技巧的でありながらも、豊かな叙情性をも兼ね備えている。しかし、彼女の数多い男性との相聞歌は、恋の歌になぞらえて、彼らへの親しみを表したものであったり、実体験ではないのではないかとも言われている。

坂上郎女の通称は坂上の里(現奈良市法蓮町北町)に住んだためという。 ウィキペディア」による

 大友坂上郎女という重要人物の証言だけに非常に重い資料と言えるでしょう。最低でも、宗像大社の祭神は三女神などではなく出雲神話の神とされる「大国主命」「少彦名命」だったのです。

 出雲神話の舞台は九州だったのではないか?とした仮説は俄かに信憑性が高まってきました。

 きっかけは飯塚市桂川町に「出雲」という交差点があることに気付き、凡そ出雲神話など縁がないはずの九州各地に多くの大国主祭祀が拾えたからでしたが、さらに、日向の一の宮である都濃神社の主祭神が大国主であることや、宗像市、筑前町、熊本市、日置市、鹿児島市…にも大国主命を主神とする神社が存在している事を確認して行ったからでした。どうやら、「出雲」隠し「九州王朝」隠しの入口に入ってきたようです。今後とも、出雲神話の痕跡を探ることになりそうです。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:23| Comment(0) | 日記

2018年05月21日

457(後) 盛り蕎麦と掛け蕎麦  “籠池氏と加計氏とはどのような人々なのか?”

457(後) 盛り蕎麦と掛け蕎麦  “籠池氏と加計氏とはどのような人々なのか?”

ひぼろぎ逍遥 ひぼろぎ逍遥(跡宮)共通掲載

20170713

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


この安芸太田町加計に長尾神社という目立たない神社があるのですが、ひぼろぎ逍遥 322 春本番!安芸太田から邑南町の神社探訪 D “広島県旧加計町中心部の長尾神社”では、このように書いています。


いずれにせよ、旧加計町から安芸太田一帯は物部氏を思わせるものが多数感じられます。

その本体が何であるかを判断する根拠の一つに厳島神社の一族=白族=大幡主=ヤタガラスが関係している事だけは確かです。

また、「紀氏の荘園・姓(国別 )」によれば、


鎌倉時代の終わり頃(1331頃)大田川の上流、戸河内町に来栖という土豪がいてこの土居を中心に勢力を張った。郷内に各地に一族、庶家を分封して所領の確保をはかる、太田郷。

栗栖氏の先祖は京都の「栗栖野」(現在の山科区栗栖野)に住んでいたという説がある(栗栖氏の先祖は石清水八幡宮第32代神主の田中宗清の子となっている)「発坂城」は栗栖氏の総領家が代々本拠にしたといわれる。

この地方は古くから厳島神社の社領であり、栗栖氏は厳島神社の神主家である藤原氏の支配下の神領衆の一人とも言われている。

HP「紀氏の荘園・姓(国別 )」より


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この加計の一帯に厳島神社の宮司家の一族が入っている事は確実なのです。

では、この加計という地名はどこを起源としているのでしょうか?

これについても、ひぼろぎ逍遥 369 安芸太田の長尾神社と飯塚市鹿毛馬の厳島神社 でこのように書いています。

それは、加計インターの「加計」という地名についての話です。これについては前回のリポートを書く時点でも気付いていましたが、この地に住み着いていた人々のルーツについて思い当たる事があるのです。

厳島神社からの宗像三女神の勧請で、加計(カケ)地名ならば、この地に住み着いた人々は、福岡県飯塚市の鹿毛馬(鹿毛馬神籠石で著名)からの移住者、若しくは縁故者としか考えられないのです。

飯塚市鹿毛馬の地名の意味は鹿毛の間の意味で、中間、赤間、福間、和間、須磨、大間…といった湾奥地名の一つで(古代遠賀湾の最奥部)、本来、地名の根幹は「鹿毛(カケ)」=「加計」にあります。

しかも、この地にある飯塚市鹿毛馬の厳島神社は、本来は宗像大社や宮島の厳島神社よりも遥かに高格式の神社(白川伯王家)と考えられ、その一族、縁故者の移住(避退)によって、この安芸太田の地に入られたのだと思うものです。


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この鹿毛馬の厳島神社については、ひぼろぎ逍遥230 白川伯王家源流の神社初見 “飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)”外で書いていますので参考にして下さい。

 なお、地図の「鹿毛馬」の隣の大字が「佐與」であることがお分かり頂けると思いますが、厳島神社の社名のルーツである市杵島姫(瀛津嶋姫)の別名である佐與、佐用、佐用…であることがお分かり頂けると思います。市杵島姫はこの地で産まれたか?幼少期をすごされたからこそ佐用姫とも呼ばれたのです。


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詳細はこれらを読んで頂くとして、広島県の出身とされる加計学園の加計 晃太郎氏が、この白川伯王の一族の後裔のお一人であり、この一帯で有名な「加計隅屋鉄山」の経営者の一族の後裔の人物である可能性も非常に高いように思うのです。


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さて、ひぼろぎ逍遥(跡宮)106 白川伯王家の源流の神社初見 “飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)”にはこのように書いていました。


百嶋由一郎先生から“飯塚市鹿毛馬の某神社が白川伯王の流れを汲む本家であり、厳島神社の元宮、白川伯王家の源流の一族の神社である”と聞かされていました。

 正面の鹿毛馬(カケノマ)神籠石については、過去何度か訪れていましたが、神籠石の踏査などをやると大抵はくたびれ果ててしまい、目の前の神社でさえ見に行こうなどとは中々思わないものです。

 また、飯塚市の中心部からもそれほど遠いところではないため、何時でも行けるとなると意外と足が向かわなかったのでした。とは言え何時かは時が訪れるものです。

今回は、筑豊でも香春神社(縁起式内社)の再撮影など田川郡内を走り回っていたのですが、急に思い立ってカーナビで距離を測ると、山越えルートで移動すれば15キロ、20分もあれば行ける事に気付き、天気も良い事から課題であったその某神社(百嶋先生は最後まで公表されませんでしたので)に向かう事にしました。


以前も触れた事がありますが、「白川神道」など聴いた事もないという方のために、学者の権威を無視するためにも、敢えて彼らが無視する ウィキペディア(20150417 2030を紹介させて頂きます。


白川伯王家(しらかわはくおうけ)、又は白川家(しらかわけ)とは花山天皇の皇孫の延信王清仁親王の王子)から始まり、古代からの神祇官に伝えられた伝統を受け継いだ公家である。皇室祭祀を司っていた伯家神道(白川流神道)の家元

白川家(しらかわけ)は花山源氏を出自とする堂上家である。花山天皇の皇孫の延信王(のぶざねおう)が源姓を賜り臣籍降下して神祇官長官である神祇伯に任官されて以降、その子孫が神祇伯を世襲するようになったために「伯家」とも、また、神祇伯に就任してからは王氏に復するのが慣例であったことから「白川王家」とも呼ばれた。


白川伯王家の成立

白川家の特徴は、神祇伯の世襲と、神祇伯就任とともに「」を名乗られたことである。「王」の身位天皇との血縁関係で決まり、本来は官職に付随する性質のものではない。非皇族でありながら、王号の世襲を行えたのは白川家にのみ見られる特異な現象である。以下、このことに留意しつつ白川家の成立について説明する。

…中略…

吉田家との地位逆転

室町時代になると、代々神祇大副(神祇官の次官)を世襲していた卜部氏吉田兼倶吉田神道を確立し、神祇管領長上を称して吉田家が全国の神社の大部分を支配するようになり、白川家の権威は衰退した。江戸時代に白川家は伯家神道を称して吉田家に対抗するも、寺社法度の制定以降は吉田家の優位が続いた。

家格は半家、代々の当主は近衛中将を経て神祇伯になった。

江戸時代の家禄は200石。他に神祇領・神事料100石。


王号返上と家系断絶

明治時代になると王号を返上し、白川家の当主の資訓子爵に叙せられた。資訓の後を継いだ資長には実子がなく、伯爵上野正雄北白川宮能久親王庶子)の男子の養子に迎えたが、後にこの養子縁組は解消となり、白川家は断絶となる。



白川伯王が何かついては、既にひぼろぎ逍遥 159 秦の始皇帝と市杵島姫、173
博多の櫛田神社の祭神とは何か?で説明していますので詳しい説明は省きます。

 ただ一点、明治期になり神祇官の指示によって白王姓を名乗るのはまかりならん(天皇家に対して不敬である)として「白王」姓を「白土」姓に変更され、この宮司家は白+(土+、)を名乗っているのです。

ここまで見てくると、加計姓を名乗った人々とは、朝倉日田の大災害で多くの人々が犠牲になっている最中に、自らの世界遺産登録を喜ぶ今の宗像大社や安芸宮島の厳島神社などよりも遥かに高格式の飯塚市鹿毛馬(カケノマ)の厳島神社に起源を持つ白族(博多の櫛田神社の大幡主の一族)であり、下賀茂、上加茂にも通じる豊玉彦、ヤタガラスの後裔、つまり裏天皇家の一族の様に見えるのです。

では、安倍晋三と仲良しのお友達だった方々との関係が、何故、ガタガタし始めたのでしょうか?

今年の二月に スポット095 朝鮮半島が北主導で統一される! 20170224 で、以下のように書いていました。

既に、ダビデ=デイビッド・ロックフェラーの後継となったキッシンジャーは、再度、親中派(実はマキャベリストの等距離外交派)の小沢を担ぎ出そうと、既に安倍降ろしが始まっているのではないかと思えるのです。まず、森友学園を巡る動きが何故唐突に生じたのかも考えて見るべきでしょう。

かつて小沢と袂を分かった小池がどう動くか、情報に操作されるB層はどうにでも操れると尚も考えているのです。

そういえば、電通が何故叩かれているかも考えてみるべきでしょう。

籠池氏と加計氏は共々日本会議のような安倍政権を支えたお友達なのでしょうが、そもそも系統の異なる勢力の方なのでしょう。

今回、籠池氏は切り捨てられ、加計氏はまだ関係を維持している(安倍を切り捨てることをためらっている)と思われます。

この温度差は、統一教会なども含め、安倍を支えた勢力内部に内紛、衝突が起こっており、既に内部分裂が起こっている可能性が考えられますが、奥の院の様子は伺い知る事はできません。

この延長上に現在もあるのですが、安倍の応援団として動いていたヤタガラス系の人々が、キッシンジャー(彼は伝統的親中勢力であることは明らかですね)が引き継いだとされるロックフェラー系ユダヤ・マフィアの指示で反中国を標榜する安倍を降ろす方向で動き始めたのかも知れません。

ここでは厳島神社の一族がどのような流れなのかを百嶋由一郎最終神代系譜で確認しておこうと思います。


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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


この黄枠の三姫君こそ三女神=市杵島姫、豊玉姫(タゴリヒメ)、鴨玉依姫(タギツヒメ)なのです。

白川伯王〜大幡主〜ヤタガラスの後裔なのです。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 08:51| Comment(0) | 日記