太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「百嶋神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログを継続しています。


これにはプロバイダーを含め何時情報封殺が行われるかも知れないため、最低でも複数の発信媒体を準備しておくべきではないかと考えているからでもあります。


今後ともかなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史によるblogひもろぎ逍遥に対抗しようという意図はないのですが、華麗なひもろぎ逍遥に対して、緋色のボロ着で、神籬=ひもろぎ(ひぼろぎ)を逍遥=彷徨い歩き、神社を探るというほどの意味で、「ひぼろぎ逍遥」を随時書いて行くことにしたものです。ただし、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象なども認められます。


 さて、現在、ひぼろぎ逍遥とひぼろぎ逍遥(跡宮)との合計のアクセス数は日量10001200件(年間4045万件)まで上がっています。


 同時に、連携する研究者によるblog20近くまで数を増やしており、全体では最低でも年間100150万件近いアクセス数を持っているものと思われます。


 当blogには九州王朝論から百嶋神社考古学へと向かわんとする多くの研究者、記録者、bloger…が参集されています。


 年に10回、10年でも高々100回程度の研究会でも大半は教育委員会関係者から学芸員といった利権まみれの方々通説を拝聴し心服するような、研究者亡き研究会は全く何の価値もないものと考えており、そのようなどこにでもあるような話を好まれる方々は、そこら辺りの既存の郷土史会、史談会に行かれ、村興し、町興し、世界遺産登録に拍手を送り、思いっきり尾を振られれば良いでしょう。


しかし私達は後ろ指を刺される様な探究に踏みとどまり、これまでの歴代の行政権力が隠し続けた真実の歴史の探求へと向かう人々への道標と成ろうと思うものです。




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2018年07月12日

475 突然涼しくなったので丹波丹後の神社調査に… F 竹野神社(京丹後市)初見

475 突然涼しくなったので丹波丹後の神社調査に… F 竹野神社(京丹後市)初見

20170911

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 丹後半島を一周すると經ケ御崎のタンカー座礁から流出油による汚染などが頭に過りました。

 初めて半島を一周したのは、問題のタンカーを目撃できた時期で道路もあまり整備されておらず、人が歩いていると思ったら何匹もの猿の群れだったり…と思い出深いものでした。

 あの頃からすると神秘性が失われ、その分落ち着いて考える事もできるようになってきました。

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 この座礁したタンカーを目撃しただけにそのロケーションと言い強い印象は消えていません。

この経ヶ岬には航空自衛隊の分屯基地(京都府京丹後市袖志無番地 第35警戒隊)が配置されており入間基地の分屯基地になるようです。

無題.pngまさに朝鮮半島と一衣帯水の地であり、多くの渡来系氏族が入ってくる地であることを再認識した次第です。

特に朝鮮半島の東半部から船で出れば自ずと但馬から丹後辺りに漂着するのは理の当然であり、古来、百済系(半島南西岸)というよりも新羅系の人々が雪崩れ込む環境にあった事が理解されるのです。

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式内社 丹後國竹野郡 竹野神社 大 旧府社
御祭神 
天照皇大神 斎宮神社 竹野媛命 建豊波豆羅和氣命 日子坐王命


竹野神社 カーナビ検索 京都府京丹後市丹後町宮249 0772-75-0600

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式内社 丹後國竹野郡 竹野神社 大 旧府社 御祭神 天照皇大神

斎宮神社 竹野媛命 建豊波豆羅和氣命 日子坐王命古くは「タカノ」と呼ばれていたが現在は「タケノ」。 社伝によると、

丹波大県主由碁理の娘で、開化天皇の妃であった竹野媛が年老いて後、天照大神を祀ったのが当社の起源。本殿脇の摂社・斎宮神社の祭神は、開化天皇皇子で丹波道主命の父である日子坐王命、開化天皇皇子で丹波竹野別の祖・建豊波豆羅和氣命、そして竹野媛命。一説には建豊波豆羅和氣命ではなく、竹野媛命の皇子・彦湯産隅命。…

境内には幾つかの境内社があるが詳細はわからなかった。『明治神社誌料』には、斎宮神社、門斎神社、伊豆神社、稲荷神社、十二神社、野々宮神社、厳島神社、愛宕神社の名が記されている。『式内社調査報告』には、上記に加え、上神明神社、下神明神社、大社、矢崎神社の名が載っている。 厳島神社は池の中の小祠だと思う。                               敬愛する玄松子による

伊豆神社は豊玉姫ですね。 ひぼろぎ逍遥(跡宮)から以下をお読み下さい。


438

伊豆能売の神とは何か? E “伊豆能賣の中間調査を終えて思う事” 

437

伊豆能売の神とは何か? D “伊豆能賣は 何故「イヅノメ」と呼ばれたのか?”

436

伊豆能売の神とは何か? C “遠賀川左岸に伊豆能賣を発見した ”遠賀町の伊豆神社“ 

435

伊豆能売の神とは何か? B “遠賀川右岸の二つ目の伊豆神社の元宮か?”久我神社 

434

伊豆能売の神とは何か? A “二つ目の伊豆神社” イヅノメの神が少し分かってきました

433

伊豆能売の神とは何か? @ “遠賀川河口の両岸に伊豆神社が並ぶ”

432

出雲の長浜神社の岐の神 “長浜神社再訪”




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百嶋由一郎金神神代系譜


四道将軍(しどうしょうぐん、古訓:よつのみちのいくさのきみ)は、『日本書紀』に登場する皇族(王族)の将軍で、大彦命(おおびこのみこと)、武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)、吉備津彦命(きびつひこのみこと)、丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)の4人を指す。

『日本書紀』によると、崇神天皇10年(紀元前88?)にそれぞれ、北陸、東海、西道、丹波に派遣された。なお、この時期の「丹波国」は、後の令制国のうち丹波国、丹後国、但馬国を指す。 教えを受けない者があれば兵を挙げて伐つようにと将軍の印綬を授けられ、翌崇神天皇11年(紀元前87年?)地方の敵を帰順させて凱旋したとされている。なお、崇神天皇は3世紀から4世紀の人物とされている。

『古事記』では、4人をそれぞれ個別に記載した記事は存在するが、一括して取り扱ってはおらず、四道将軍の呼称も記載されていない。また、吉備津彦命は別名で記載されている。

また、『常陸国風土記』では武渟川別が、『丹後国風土記』では丹波道主命の父である彦坐王が記述されている。

四道将軍の説話は単なる神話ではなく、豊城入彦命の派遣やヤマトタケル伝説などとも関連する王族による国家平定説話の一部であり、初期ヤマト王権による支配権が地方へ伸展する様子を示唆しているとする見解がある。事実その平定ルートは、4世紀の前方後円墳の伝播地域とほぼ重なっている。

大彦命は、孝元天皇の第1皇子で、母は皇后・鬱色謎命(うつしこめのみこと)。開化天皇の同母兄で、娘は崇神天皇皇后の御間城姫命(みまきひめのみこと)、垂仁天皇の外祖父に当たる。舟津神社(福井県鯖江市)、敢国神社(三重県伊賀市)、伊佐須美神社(福島県会津美里町)、古四王神社(秋田県秋田市)等に祀られている。敢国神社の社伝によると同神社より北東1.5Kmの所に位置する御墓山古墳は大彦命の御陵とする。敢国神社の鎮座する三重県伊賀市は大彦命の子孫である阿閉臣(阿敢臣)の発祥の地とされる伝承も残されている。

武渟川別は、大彦命の子。阿倍朝臣等の祖と伝えられる。津神社(岐阜県岐阜市)、健田須賀神社(茨城県結城市)等に祀られている。

また『古事記』によれば、北陸道を平定した大彦命と、東海道を平定した建沼河別命が合流した場所が会津であるとされている。(会津の地名由来説話)。このときの両者の行軍経路を阿賀野川(大彦命)と鬼怒川(武渟川別)と推察する見解が哲学者の中路正恒から出されている。

吉備津彦は、孝霊天皇の皇子で、母は倭国香媛(やまとのくにかひめ)。別名は五十狭芹彦(いさせりひこ)。吉備国を平定したために吉備津彦を名乗ったと考えられているが、古事記には吉備津彦の名は出てこない。桃太郎のモデルの一つであったとも言われている。吉備津神社、吉備津彦神社(岡山県岡山市)、田村神社(香川県高松市)等に祀られている。

丹波道主命は、古事記によると開化天皇の子、彦坐王の子。なお、古事記では彦坐王が丹波に派遣されたとある。母は息長水依比売娘(おきながのみずよりひめ)。娘は垂仁天皇皇后の日葉酢姫(ひばすひめ)。景行天皇の外祖父に当たる。神谷神社(京都府京丹後市)等に祀られている。

無題.png20170911 15:29による

 無題.png当然ながら四道将軍も近畿大和朝廷が送り込んだものなどとされていますが、とんでもない大嘘で、九州王朝の開化天皇=高良玉垂命が臣下でしかない崇神以下に命じて送り込んだもので、全て九州に縁のある将軍なのです。

 この竹野神社にもその一派たる丹波道主命の一族が入っているため開化の名が出てくるのです。

 従って、神殿の扉にも三五の桐紋が打たれており、この一族が天皇家と姻戚関係にある事を示しているのです。金神系譜を読み取る事から始めましょう。多分筑後の旧竹野郡(久留米市)と関係があるのです。


 研究目的で百嶋神代系譜を必要とされる方は09062983254までご連絡ください

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2018年07月09日

474 突然涼しくなったので丹波丹後の神社調査に… E 宇良神社(伊根町)浦島神社再々訪

474 突然涼しくなったので丹波丹後の神社調査に… E 宇良神社(伊根町)浦島神社再々訪

20170910

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 丹後半島東岸の伊根と言えば伊根の舟屋を思い出される方が多いでしょうが、我々が気にするのは浦島太郎を祀るとする宇良神社になります。

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宇良神社 カーナビ検索京都府与謝郡伊根町本庄浜191 0772-33-0721

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浦嶋(ウラシマ)神社は、京都府与謝郡伊根町本庄浜にある神社で浦嶋伝説が伝わり宇良(ウラ)神社とも呼ばれています。


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今回は地元伊根町の町誌(史)をコピーしてきましたので現在検討中です。

 これに抵触する内容に触れるのは残念ではありますが、書く方の都合もあり、とりあえずリポートを優先させました。

いずれこれについても書くことになるでしょう。

まず、浦島神社の手前(当然、天橋立方面から丹後半島反時計回りで北上していますが)で、かなり衝撃的なものを発見しました。

それは、朝妻という地名の発見でした。

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農協の朝妻給油所に向こうに見える朝妻駐在所それに朝妻公民館です

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久留米にお住まいの方はどなたもご存じですが久留米高良大社直下の朝妻の人々の移動に思えます


 今回三度目の訪問になりましたが、目的は、もう一度、浦島神社の浦の島子以外の祭神の確認にありました。

無題.png 勿論、インターネットでも確認できるのですが、神社を見る人間にはそれなりの目があり、一般の方には見当が着かない消された祭神まで想像が及ぶのです。

 浦嶋神社の由緒書は興味深いものがありました。

 それは、大山祗(月読命)は把握していましたが、ネットでは発見できなかった祓戸神が祀られていた事でした。

 まず、始めに目についたのは参道(どちらかと言えば境内か?)宇良神社との石塔でした。

 これが元宮を表すものか、宇良神社への寄進もしくは単なる表示のための物かは不明です。

 まさか、祭神としての浦之嶋子が外に出されている訳ではないでしょうが、このようなところから解析して行かなければならないのです。

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社殿左手には浮島があり弁財天こと市杵島姫になりそうです。一方、社殿右手の森の中にも小さな祠があり「コノミヤ」とお聴きしました。

 これが宮津の籠(コノ)神社の意味か?胡の宮なのか判別がつきません。

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一方、神殿(本殿)の一つの角だけに祠があり、何らかの謂れのあるものと見ました。

 普通は艮(ウシトラ)の鬼門封じに思うのですが、大体の方角が北東方向でありそれで良いようなのですが、社務所の女性(巫女とお呼びして良いか?)が「方角が一致しないので…」と言われたのを不思議に思っています。多少は社殿の向きが変わったのかも知れませんが何とも言えません。

 祭神問題については現在調査中ですので別稿とするとしても、神社縁起の相殿神の祓戸神についてはコメントを加えて来ましょう。


祓戸大神(はらえどのおおかみ)とは、神道において祓を司どる神である。祓戸(祓所、祓殿)とは祓を行う場所のことで、そこに祀られる神という意味である。

神職が祭祀に先立って唱える祝詞である「祓詞」では「伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に 禊祓給ひし時に生り坐せる 祓戸大神等」と言っており、祓戸大神とは、日本神話の神産みの段で黄泉から帰還した伊邪那岐が禊をしたときに化成した神々の総称ということになる。

なお、この時に禍津日神、直毘神、少童三神、住吉三神、三貴子(天照大神・月夜見尊・素戔嗚尊)も誕生しているが、これらは祓戸大神には含めない。「祓詞」ではこの祓戸大神に対し「諸諸の禍事罪穢有らむをば祓へ給ひ清め給へ」と祈っている。

『延喜式』の「六月晦大祓の祝詞」に記されている瀬織津比売・速開都比売・気吹戸主・速佐須良比売の四神を祓戸四神といい、これらを指して祓戸大神と言うこともある。これらの神は葦原中国のあらゆる罪・穢を祓い去る神で、「大祓詞」にはそれぞれの神の役割が記されている。

瀬織津比売(せおりつひめ) -- もろもろの禍事・罪・穢れを川から海へ流す

速開都比売(はやあきつひめ) -- 海の底で待ち構えていてもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込む

気吹戸主(いぶきどぬし) -- 速開津媛命がもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込んだのを確認して根の国・底の国に息吹を放つ

速佐須良比売(はやさすらひめ) -- 根の国・底の国に持ち込まれたもろもろの禍事・罪・穢れをさすらって失う

無題.png速開都比売を除いてこれらの神の名は『記紀』には見られず、『記紀』のどの神に対応するかについては諸説あるが、上述の伊邪那岐の禊の際に化成した神に当てることが多い。

本居宣長は、瀬織津比売を八十禍津日神(やそまがつひ)に、速開都比売を伊豆能売(いづのめ)に、気吹戸主を神直日神(かむなおび)に当て、速佐須良比売は神名の類似や根の国にいるということから須勢理毘売命(すせりびめ)に当てている(当てているだけでその神と同一視されるほどのものではない)。『中臣祓訓解』『倭姫命世記』『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』『伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記』は伊勢神宮内宮荒祭宮祭神の別名として瀬織津姫、八十禍津日神を記している。  


祓戸大神を祀る主な神社

佐久奈度神社(滋賀県大津市)

日比谷神社(東京都港区)

浦嶋神社(京都府与謝郡伊根町)             ウィキペディア(20170911 08:29による


浦嶋神社があったことから長々と引用しましたが、祓戸神についてはあまり遭遇しない事もあり、何故、浦嶋神社に祀られているかも不明です。

ただ、大祓に関係しており藤原が関係しているためその事を頭に入れて考えなければなりません。つまり、後付けの意味です。

ただ、ウィキペディアを見ようが実体は見えてこないでしょうから、頻繁に活用している百嶋由一郎最終神代系譜からご紹介しておきます。

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まず、瀬織津比売からお話を始めましょう。この女神を追っておられる神社フリークの女性も散見しますが、実はスサノウのお妃となった櫛稲田姫の事なのです。

気吹戸は、勿論、瀬織津比売の父神である金山彦であり、母神は月読命=大山祗の娘である大市姫(アイラツ姫)ではなく、博多の櫛田神社の大幡の妹である埴安姫であり、この場合主の称号で気吹戸と称しているのです。

 従って、本物の神武天皇のお妃となったアイラツヒメとスサノウのお妃となった櫛稲田姫とは腹違いの姉妹となるのです。

 速佐須良比売(鴨玉依姫)とは京都の下賀茂大社の主祭神です。

ヤタガラス=豊玉彦とスサノウと別れた後の櫛稲田姫との間に産まれたのがヤタガラスの後裔としての鴨玉依姫なのです。

しかし、スサノウとは…とお考えかも知れませんが、スサノウの子である長脛彦の問題があり、切り替えが起こっているようです。

速開都比売(豊秋ツ姫)はタクハタチヂヒメの姉にあたる高木大神=高御産巣日神、高皇産霊尊の長女となります。

 ただ、何故、祓戸神が祀られているかは不明です。

 さて、今回、浦島神社を訪ねた理由は、祀られている月読命の周辺を探る事が目的でした。

 浦島太郎と共に祀られる月読命とは一体何なのでしょうか?勿論、トルコ系匈奴の大山祗なのです。

 これについては、これまでのblogで何度か書いていますので丹念に読まれる方には浦島太郎が誰であり、山幸彦が誰の子であるか、鹿児島のタノカンサーが何者であるのか、そしてその協力者が誰であったのかの謎が解明するのです。

 まず、宮崎県の日南海岸でも有名なウガヤフキアエズを祀る鵜戸神宮の手前に野島神社と言う古社があります。そこは浦島太郎を祀る神社とされ塩土老翁=塩筒翁と猿田彦=ニギハヤヒ=山幸彦が祀られているのです。

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関心をお持ちの方は、以下をお読みください。


ひぼろぎ逍遥(跡宮) 278 梅雨明け直前 日南市にアイラツヒメを探るたった四人のトレッキング

271  田神社(タノカンサー)は朝倉郡を中心に50社近く存在した

083 タノカンサーの正体とは何か?“甘木公園の田神様(タノカンサー)福岡県朝倉市から”

301 日南海岸の野島神社の塩筒大神(塩槌翁)と猿田彦(白髭大明神)の複合が肥後にも…

ひぼろぎ逍遥         スポット070 海の山幸彦 “熊本神代史研究会(仮称)への胎動”      


 外にも幾つも書いていますが、まずはこれぐらいからお読み頂きたいと思います。

 藤原氏によって第3代天皇と祀り上げられただけですが、相当の実力者だったことは間違いがないはずで、以前から該当者を考えて来ました。安寧天皇とされた人物こそ浦島太郎の別名を持った塩土老翁こと博多の櫛田神社の主神の大幡主(当然、製塩業者、渡洋航海者、大帆船を操り貿易を行っていた)でありヤタガラスの父神であり山幸彦=ニギハヤヒ=猿田彦の父神にあたる人物なのです。

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いずれにせよ、丹後半島一帯には大量の月読命=大山祗命=トルコ系匈奴の一族が入っているようです。

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2018年07月06日

473 突然涼しくなったので丹波丹後の神社調査に… D 大宮売神社(京丹後市)下

473 突然涼しくなったので丹波丹後の神社調査に… D 大宮売神社(京丹後市)下

20170910

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


再度、大宮売神社を考えますが、故)百嶋由一郎氏からは、全国にある大宮神社、大宮之売神社の中には大宮之売神社(オオミヤノメノオオカミ)がかなり含まれており、一般的には伊勢の外宮の豊受大神=伏見稲荷を祀る神社とされるのですが、それは誤りで、本当の神は豊玉姫であろうと言われていたのです。

この神社を見る時、その痕跡がある程度残されているように思えます。

主祭神の大宮比売命、若宮比売命(大宮売・若宮売)の解析はやっていませんでした。

大宮比売命が豊受大神で、若宮比売命(大宮売・若宮売)が豊玉姫で良いようです。

そして、山幸彦=ニギハヤヒ=ヒコホホデミ=猿田彦から見れば、いずれもお妃神にあたるのです。

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この場合、猿田彦と考えられる庚申社        豊玉姫の祖父神となる大幡主


 この辺りからは、物部氏への弾圧と併せ、祭神としてのニギハヤヒの追放、貶めが関係しているはずで、百嶋神社考古学でも最も難解な部分になってきます。

その上に、ニギハヤヒと言う物部の権化のような神様を介して微妙な位置づけになるお二人だけに、両勢力の共存を意味し祀られたものか、ニギハヤヒが猿田彦として貶められて以降もお妃神が共に祀られているだけでも面白いのですが、豊受大神系氏族と豊玉姫系の氏族の入替り、均衡と見たいのですが、どうしても政争を、争乱を考えてしまうのは物部系神社への偏見かもしれません。

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同社御由緒

 さて、前blogで引用させて頂いた

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には、以下のように書かれていました。


男神像とはどうしたことであろうか、当社は男神は祀っていないはずなのだが、丹波道主命像か、神像が男か女かは慥かにわかりにくい。
「何で朝鮮を拝む、オマエらは天皇陛下だけを拝んでおればよい」と官憲が怒ったというが、そんなバカはバカゆえに滅びた、これは日本の権力の古来からの思い上がった観念であり、一般の国民には関係のない見方で、朝鮮だろうが何も関係がない、当社を祀る氏子たちのご先祖だと見られる。
こうした事を書けば、あるいはここの神主さんが怒るのでは、といった心配はないようである。一般に神社は右翼で皇国史観に立ち、朝鮮などは根拠もなく見下しているのがアタリマエ、自分が祀る神がどこの神かとかは考えてみたこともないのがトウゼンのオカシナ世界のようだが、天皇側の神を祀る神社ならともかくも、そうでもない地元庶民の神を祀った神社まで、そんなことはマネしなくてもよかろう、当社はそうした王権側いいなり史観の立場ではないようである(エライ)。中央公論社の『朝鮮と古代日本文化』という書があって昭和53年に発行されている。巻頭言のための座談会というのがあって、上田正昭・金達寿・司馬遼太郎が座談会をしている。


 丹後の国二宮の大宮売神社の七十を過ぎた御老人の神主さんから長い手紙がきて、「是非来い」と言うんです。ぼくが丹後のほうを書いた後なんです。城崎に行く途中寄ったんですが、その神主さんが言われるのには、「神主というのは皇国史観があたり前だったが、このごろはそれがばからしくなった」というので、びっくりしました。神社の由緒書も新しく東アジア的視点で書いてあるので、「これはだれが書いたんですか」と尋ねますと、御本人が書いたと言うんです。」


とある。だいたい大宮売と書いてどうしてオオミヤメなのか、「売」は「比売」とかいてヒメと、或いは「売布」と書いて「メフ」と読むが、「売」はどうして「メ」と読めるのか、中国式でも和式でも読めないではないか。古い万葉仮名の甲類のメで、日本ではそうした万葉時代だけの当時のたぶん渡来知識人(たぶん百済系)たちの用法、日本の漢字の一番初期の用法でいま読める人はめったにあるまい、あるいは朝鮮式でなかろうか、と考えているのだが、ワタシにはその知識はない。


 上田正昭・金達寿・司馬遼太郎…と言えば、何でも朝鮮半島で説明しようとされる印象を持つため敬遠していますのでその部分は置くとして、関心を持つのは、


「金 丹後の国二宮の大宮売神社の七十を過ぎた御老人の神主さんから長い手紙がきて、「是非来い」と言うんです。ぼくが丹後のほうを書いた後なんです。城崎に行く途中寄ったんですが、その神主さんが言われるのには、「神主というのは皇国史観があたり前だったが、このごろはそれがばからしくなった」というので、びっくりしました。神社の由緒書も新しく東アジア的視点で書いてあるので、「これはだれが書いたんですか」と尋ねますと、御本人が書いたと言うんです。」


の部分です。「神主というのは皇国史観があたり前だったが、このごろはそれがばからしくなった」と言われるのですから、神社には固有の伝承や独自の文書を読むことができる立場にあられるとすれば、これだけの神社ですから、府神社庁から御咎めの有るような内容にも触れられる立場と考えられるのです。

それは、470 突然涼しくなったので丹波丹後の神社調査に…A 京都府京丹後市の地名に関して で取り上げた「ついでに初見ながら言いたいことを言っておけば、周枳(スキ)は渡来系氏族(民族)によって持ち込まれたもので、「白村江の戦い」のスキ=村、城塞都市、砦集落の「スキ」「サク」「スク」… であろうと考えています。」の部分に関連して、この地にはトルコ系匈奴と考える大山祗〜大国主命系の金官伽耶から入って来たウマシアシカビヒコヂの一族を見るからです。

 豊玉姫のもう一人の夫神にあたるのが大国主命であり、ここには権力の交代を見るのであり、隣の但馬では豊岡市の出石の一角にスサノウ系氏族を押し込めた大山祗〜大国主命系を見る思いがするのです。

 「スキ」はペトロパブロフスク、ウラジオストック(ストークツク)の転化でステップ・ロードの地名語尾なのです。ひぼろぎ逍遥 470津奈木という地名について “木とは半島の城のこと”を参照の事。

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