2026年07月01日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1131 山中湖湖畔の別荘から “2025年甲信の神社調査を考える” 

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1131 山中湖湖畔の別荘から “2025年甲信の神社調査を考える” 

20251106

太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


あっという間に晩秋となったかの様な印象を受ける11月上旬、富士山北麓と山中湖を望む湖畔の地から10日ぶりにブログを書き始めることになりました。

豊後から12.500キロを走り抜け、山中湖の友人の別荘に到着し、二泊余りの暫しの休養を経て、今回のテーマである南魚沼右矢印1柏崎刈羽右矢印1黒部右矢印1群馬県太田市世良田へと向かう車中泊の三泊四日の800キロの調査旅行に踏み出し、延べ2000キロ近く走り抜いた末、二度目の休養のために再び標高1000mの地に戻り主要な調査を無事終えた達成感と安心感に浸っているところです。

ここでは、まず、その経路をご紹介したいと思います。

山中湖村から、所沢の百嶋神社考古学のメンバーT氏と合流するために群馬県に向かいました。

通常、このルートを採ると180キロと近いのですが、山梨県側は良いのですが、まだ埼玉県側が道路事情が悪く、八ヶ岳の北麓を西に向かい、佐久市〜内山トンネル〜荒船山の断崖を右に見て群馬県仁井田から高崎に向かう方が楽なのです。この場合は高速を使っても210キロにはなり、一般道利用は50キロ以上は多くなるでしょう。

当然、金がなく時間だけは十分にあるため後者に成りますが、高速を使うと民俗調査には全く繋がらないため、極力、平道で移動しながら、寺社仏閣を見ていきたいのです。下は雁坂トンネル経由。

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臼井峠にせよ、内山トンネルにせよ、大変なルートで、山梨、長野、群馬という列島の脊梁山脈とも言うべき一帯に割拠した武田氏、上杉氏、真田氏、諏訪氏、物部氏…はとんでもない場所に展開していた事に今更ながら気づかされるのです。

 22日に大分を出て早くも2週間を超えていますが、戻ってきて漸く少しは落ち着き、このブログを書き始めた事になります。

26日に山中湖を出発し、ここから昨年中断した新潟県南魚沼郡舞子(石上神社+曹洞宗宝林寺)に向かい、引き続き柏崎刈羽の二田物部神社を同行のT氏に案内することが主要な目的だったのです。

そもそも、何故、南魚沼市でも舞子の石上神社に行き、昨年、雨に打たれ中止したとしても遠路、再び同地を訪れたのかは次のブログで書くことにします。

実は最後の群馬県太田市の世良田東照宮までもが全て一つのテーマで繋がっているのです。

暗くなり寒くもなってきたことから事前に格安の共同浴場を調べており、萌気園「さくり温泉」 健康館でゆっくりし、昨年雨に打たれた道の駅南魚沼に向かい、二回目の車中泊としたのでした。

翌日、更に西に向かい、親不知の大断崖を越え、神社に詳しい方でもあまり聴かれたことがないと思うのですが、黒部市の八心大市彦神社に向かうのが今回の私にとっての最も重要なテーマでした。

これも一般的にはほとんど知られていない八心大市彦神社については別稿としますのでここでは省略させて頂きます。

ともあれ、再度、親不知を戻り、糸魚川市に戻りT氏に奴奈川姫神社を案内し、白馬村経由で長野市の南から千曲市、小諸市辺りで、北山田温泉に入り小諸辺りの道の駅で車中泊して群馬に戻ったのでした。

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 山中湖湖畔の親友の別荘が有ることから行えて来た10年以上に亘って行ってきた甲信越の神社調査でしたが、最も重要であった関東武士団の成立の経緯が見えて来たことからそろそろ終了し、数度入ってはいたものの、いよいよ課題であるも非常に手薄だった福島〜宮城〜岩手の調査に入ろうと思っているところです。

 今回の調査は、北アルプスを一周するようなもので、現地での調査まで含めると九州からの移動とは別に1200キロ近い大遠征になりました。

 太宰府地名研究会の研修所がある日田市から山中湖村までは1250キロ近くありますが、往復で2500キロ、今回の北アルプス一周の1200キロ、これに加えて今回は身延山の奥宮にご案内頂き、加えて藤川流域の南部町、早川町に入っていますので、400キロを加え、4100キロの大遠征となった訳です。

 実際、成果は大きかったものの、車中泊で眼鏡のフレームを壊すは、2台持って行ったパソコンの不調で修理に10,000円使うなど出費は元より、一番心配だったのは交通事故でも起こすのではないかと冷や冷やで、安全に帰ってこれただけでも有難かったとほっとしているのが実情です。

 それでも、10年前の2016年に柏崎市の隣、南魚沼郡だった西山町(田中角栄の出身地)に二田物部神社を発見して以来の、課題であった徳川家とは宮崎をルーツとした物部氏(大山祇系トルコ系匈奴=南匈奴)だったと確認できたのでした。これについては、まずは以下をお読み下さい。


ビアヘロ015 北北東に進路を取れ! N 柏崎刈羽に筑豊から展開した二田物部を確認した対して、今後書くものは 徳川氏は西都市から九州西岸を北上し筑豊に進出した大山祇系トルコ系南匈奴であり、直接的には 宮若市宮田町の天照宮(ニギハヤヒ)系氏族だった!と言った内容になるでしょう。
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2026年06月25日

ビアヘロ 264 ひぼろぎ逍遥1156五年ぶりの伊予への神社調査 “南宇和郡鬼北町の黄幡神社” (下)

ビアヘロ 264

ひぼろぎ逍遥1156五年ぶりの伊予への神社調査 “南宇和郡鬼北町の黄幡神社” (下)

20260327     

太宰府地名研究会 古川 清久

広島郷土史探訪シリーズU消された広島の黄幡信仰

 このサイトは、郷土史を探訪するためのサイトです。特定の宗教や信仰を勧誘する目的はありません。

 古文書を引用する場合、原則的に、字体と仮名づかいは現代のものに改めます。

現在の広島市と、その周辺地域では、「黄幡」という中国由来の神が信仰されていたらしい。庶民には、「おんばんさん」という愛称で親しまれていた。

 今でも、広島市安佐南区には、黄幡神社が多数存在する。しかし、祭神は、別の神に変更されている。

 「おんばんさん」の愛称をもつ黄幡神社の分布は、安芸武田氏の勢力範囲とほぼ一致している。ただし、この地域で黄幡信仰が広まった時期は、安芸武田氏の滅亡(1541年)よりも後の時代であろうと思われる。

 江戸時代になると、黄幡大明神(現在の比治山神社)が、この地域の黄幡信仰の中心地になったと推察できる。

 明治の神仏分離により、外来の神を神社に祀ることが禁止された。ここで、広島の黄幡信仰は抹殺された。

 今でも、「黄幡」という名字の人がいちばん多い都道府県は、広島県である。しかも、広島市安佐南区に集中している。

  1章、真幡神社(広島市南区大河町)の鳥居の額には「黄幡神社」と刻まれている

2章、比治山(広島市南区)の「おんばんさん」

3章、比治山神社の原点は、俗称・黄幡谷にあった

4章、真幡社(広島市安佐南区山本)をめぐる謎

5章、盗まれた(?)ご神体の謎

6章、真幡社(広島市安佐南区山本)の社伝の総括と、東山本村の「おんばんさん」の悲劇

7章、中組部落の「おんばんさん」

8章、黄幡神社(安佐南区緑井)の社伝と、河川氾濫の記録

9章、黄幡公園と松原川

10章、広島市安佐南区川内の「おんばんさん」と、川内水軍衆

11章、北ノ庄村と温井村

12章、堤平神社その1、寛政八年「辰年の大水」

13章、堤平神社その2、古代山陽道と太田川水系が交差する交通の要衝

14章、堤平神社その3、第1回めの遷座

15章、堤平神社その4、第2回めの遷座

16章、堤平神社その5、黄幡という名字をもつ人々

17章、2024年堤平神社のリニューアルオープン(3度目の遷座)

18章、「おんばん」を正式名称とする黄幡神社

19章、恵毘須神社内にあるおんばんさん(武士供養の祠)

20章、安芸武田氏の滅亡と、おんばんさん(武士供養の祠)

21章、中調子八幡宮内の真幡社(旧、黄幡社)

22章、中調子八幡宮内の天満宮

23章、広島市安佐南区緑井・岩谷(いわや)地区の「おんばんさん」

24章、実在しない安芸武田家当主・武田義信の謎

25章、温井八幡神社その1、この地域の川の歴史

26章、温井八幡神社その2、安芸武田系開拓農民

27章、温井八幡神社その3、川内水軍衆と真宗寺院

28章、温井八幡神社その4、安芸武田家の紋章

29章、広島県安芸郡府中町の黄幡碑と府中村古跡帖

30章、尾首部落共同体の産土神

31章、府中町の黄幡碑と、多家神社の関係

32章、広島市安芸区畑賀地区の「おんばんさん」

33章、広島市東区中山地区の「おんばんさん」

34章、大内が越えた峠とは?

35章、広島市安芸区船越地区の「おんばんさん」

36章、広島市東区福田町の「おんばんさん」

37章、なかずの池と妙法寺跡

38章、水害と土砂災害からの守り神

39章、弘住神社に合祀された泉山黄幡社と、「おんばんさん」の湧き水

1章、真幡神社(広島市南区大河町)の鳥居の額には「黄幡神社」と刻まれている

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この神社は、真幡神社(広島市南区北大河町23-17)です。同じ敷地内に、地蔵寺という禅宗の寺院があります。江戸時代までは、神仏習合であったはずです。まずは、神社の社伝です。

 「真幡神社(旧称)黄幡社

 祭神 泉津道守神(ヨモツチモリノカミ)

 相殿神 寒座三柱神(サヤリマスミハシラノカミ)、金山毘古神(カナヤマヒコノカミ)

 当浦(大河浦のこと)は、荒天の際は海陸ともに往来極めて困難であって、災難を受けることが度々であった。そこで、神助を仰(あお)がんと1617年社殿を建てて黄幡社を勧請す」。(以上、社伝)

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背景の山は、黄金山(おうごんざん)です。江戸時代中期まで、黄金山は、広島湾にうかぶ島でした。広島藩の干拓事業により、1662年に陸続きとなりました。かつての島の名前は、仁保島です。仁保島には7つの入江があり、仁保七浦と呼ばれていました。大河浦(おおこうら)は、仁保七浦のひとつです。そこは、交通の難所でした。そこで、1617年(徳川家康が死亡した年の翌年)、ここに黄幡社を建てました。

この社伝には、3つの謎があります。

 謎1)黄幡神とは、どんな神か?

 謎2)どうして、社名と祭神が変更になったのか?

 謎3)今の祭神である泉津道守神(ヨモツチモリノカミ)や、寒座三柱神とは、どんな神か?

 謎1)黄幡神は、本来、中国の軍神です。日本では、道祖神として信仰されました。通常、道祖神とは、道端に祭られる交通安全の神です。さらに、精選版日本国語大辞典「道祖神」の項目では、「村境、峠などに祭られる時は、外来の疫病や悪霊を防ぐ神。また、『あの世』の入り口にある神」と記載されています。

 ここが交通の難所だから、黄幡社が建てられたのです。

 謎2)明治初期に、神仏分離令が発令されました。神仏分離とは、単に「お寺と神社を区別する」というだけのものではありません。外来の神を神社に祀ることが、禁止されました。そこで、名前を真幡神社と和風に改め、メイド・イン・ジャパンをよそおったのです。それでも、鳥居には「黄幡神社」と彫ってあります。

 神仏分離令により、他の多くの黄幡社が、社名と祭神を変更しました。

 広島市安芸区畑賀町寺迫132番地の大原神社も、別名は黄幡社です(第30章)。そして、現在の祭神は泉津道守神(ヨモツチモリノカミ)、植山姫命(ハニヤマヒメノミコト)、土安姫命(ハニヤスヒメノミコト)です。

 堤平神社(ていへいじんじゃ、第11章〜第16章)も、かつては黄幡社でしたが、現在の祭神は泉津導守神です。漢字で書けば、「道」と「導」が違っています。しかし、読み方は同じです。同社の社伝には、「鎮守祭神は泉津導守神にして、塞り(さえぎり?)の神とも申す」と記載されています。ヨモツチモリノカミは、「塞の神(境界を守る神)」でもあると信じられていたようです。

 広島県大竹市立戸1丁目14-26にある真幡神社も、江戸時代は黄幡社でした。祭神は、埴安彦神(ハニヤスヒコノカミ)です。

 広島市東区福田町には、今でも黄幡神社があります。祭神は、泉津道守神です。

 広島市東区中山中町12-41の大原神社も、かつては黄幡社でした。

 かつての黄幡神社の社名と祭神には、一定の法則があります。 社名の多くは、真幡神社に変更されました。また、一部は、大原神社に変更されています。真幡神社としておけば、「幡」の一文字は残ります。そして、黄幡(オウバン)と大原(オオハラ)は、かな文字で表記すれば似ています。人々の本心では、黄幡信仰を捨てたくはなかったのでしょう。


 かつての黄幡神社の祭神が、今では1)ヨモツチモリノカミ(泉津道守神、泉津導守神)、2)塞(さい)の神系(寒座三柱神、「塞りの神とも申す」)、3)火の神系(金山毘古神、植山姫命、土安姫命、埴安彦神)などに変更されています。「火の神系」の意味には、後ほど説明いたします。


3)本殿に祭られている泉津道守神(ヨモツチモリノカミ)は、この世界と黄泉の国(ヨミノクニ、死後の世界)の境を守る番人です。ある意味で、道祖神(境界を守って疫病や悪霊を防ぐ神であると同時に、「あの世」の入り口にある神)と言えます。

『日本書紀』巻第一(神代上)第五段、泉守道者(ヨモツチモリヒト)が登場します。そして、死者となったイザナミノミコト(妻)の言葉を、生きているイザナギノミコト(夫)に伝えています。この文面は、日本書記の本文ではなく、注釈です。「このような言い伝えもある」と、記載されているのです。そして、ヨモツチモリの名前は、ほとんど知られていません。

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日本書紀. 巻第1 - 国立国会図書館デジタルコレクション20ページ

 相殿に祭られる寒座三柱神(サヤリマスミハシラノカミ)は、「寒い所に座る神」ではありません。普通は、塞三柱神と書いて、サエノミハシラノカミと読みます。「塞」は要塞の塞であり、「塞(ふさ)ぐ」という意味もあります。村の境界を守る役割の道祖神です。

「塞神(さいのかみ)」とは、古来からある原始神の一つであり、村境に祀られ、悪疫悪神の侵入を防ぐ神であり、名称も形も様々です。

その中で、塞三柱の神とは、八衢比古命(ヤチマタヒコノミコト)・八衢比売命(ヤチマタヒメノミコト)・久那斗命(クナドノミコト)のことです。

 『日本書紀』では、泉津平坂(よもつひらさか)で、イザナミから逃げるイザナギが「これ以上は来るな」と言って投げた杖から、来名戸祖神(クナドノサエノカミ)が出現します。クナドとは、「来るな」という意味です。また、サエとは、さえぎるという意味です。「サエノカミ」の漢字表記は、「〜祖神」です。文字通り、道祖神としての役割が期待される神です。一方、『古事記』では、黄泉(よみ)の国から逃げ帰ったイザナギが、袴を投げ捨てます。その袴から、道俣神(チマタノカミ)が出現します。

 久那斗命(クナドノミコト、塞座三柱神の中の1つの神)と来名戸祖神(クナドノサエノカミ、日本書紀に登場し杖から出現した)は、同一とされています。また、道俣神(チマタノカミ、古事記に登場し袴から出現した)と八衢比古命(ヤチマタヒコノミコト)・八衢比売命(ヤチマタヒメノミコト)は同一とされています。

 黄幡神は外来の神であり、古事記と日本書記には登場しません。黄幡神を記紀に登場する神々に当てはめようと考えた人々が、少なからずいたはずです。道祖神(境界を守る神)としての性格があるので、泉津道守神や塞の神に当てはめられたのでしょう。

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相殿には、金山毘古神(カナヤマヒコノカミ)も祭られています。通常は、金山彦神と記載されす。イザナミノミコトが火の神カグツチを産んだ時、全身に大やけどを負って死に至ります。その時の吐物から、金山毘古神(金山彦神)は出現しました。その前に、大便からは埴安彦神(ハニヤスヒコノカミ)と埴安姫神(ハニヤスヒメノカミ)が出現します。便宜的に、これ等の神々は、「火の神系」と呼ぶことにしておきます。かつての黄幡神社の一部では、明治以後、祭神が「火の神系」に置き換えられました。

 黄幡神は外国由来の神ということもあって、日本古来の神を尊いと考える人々からはあまり「高級な」神とみなされなかったのかもしれません。死後の世界と関りをもつ神と同一視されたり、あるいは、吐物や排泄物から発生したとされる神々と同一視されたりしたようです。

第2章、比治山(広島市南区)の「おんばんさん」

 比治山も、黄金山(第1章)と同様に、かつては広島湾に浮かぶ島でした。日地島と呼ばれていました。本州と陸続きになったのは、西暦1500年代の後半と言われています。

現在の比治山神社が、江戸時代には、黄幡大明神と呼ばれていました。同じ境内に、勝楽寺(真言宗)がありました。第1章の真幡神社と同じく、江戸時代までは神仏習合の形をとっていました。

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 社伝によれば、もと黄幡(おうばん)大明神と称し、比治山南の谷(俗称ー黄幡谷)に祀られてました。その祠を、西暦1600年代(江戸時代初期)に榮雄(勝楽寺を開山した)が寺の境内(現今の社地)に移して、鎮守社としました。これが、比治山神社(旧、黄幡大明神)の起源です。

 やがて、広島藩から、毎年正月の門松の添木と、九月祭礼の湯立神事(ゆだてしんじ)の薪木を寄付されるようになりました。

 明治の神仏分離の時、黄幡大明神は、社名と祭神を変更しました。社名は比治山神社となり、祭神は主に出雲系の神々となりました。勝楽寺は、廃寺となりました。寺の住職・智等は還俗して志熊新と改名し、比治山神社の社掌となりました。

 この比治山神社を、地元の人々は「おんばんさん」と呼んでいます。

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NHK広島放送局の初代アナウンサー・薄田太郎さんが、1949年から1961年にかけて、「がんす横丁」というエッセイを中国新聞に連載しました。その記事の1つです。

 「(薄田太郎氏の知人が)『おんばんさん』比治山神社の側の道を登ってこの広場(御便殿跡広場)にでかけいたが、その途中には横綱常陸山が書いた『力抜山』のモニュメントがあった」。

 「(薄田太郎氏の知人は)おんばんさんの道を、二十号キャンパスに描いたが、この作品は戦後胡町筋にあった中井屋喫茶店にかかっていた」。

 参考文献)薄田太郎:がんす横丁.たくみ出版(株),137ページ,1973.

 「がんす横丁」のこの記事は、インターネット上にも公開されています。

 広島市と、その周辺地域の黄幡神社の多くが、「おんばんさん」の愛称で庶民から親しまれてきました。比治山神社(旧・黄幡大明神)の場合、社名と祭神が変更になった後も、「おんばんさん」の愛称は地元の人々に受け継がれたのです。

第3章、比治山神社の原点は、俗称・黄幡谷にあった

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かつて黄幡神の祠があった比治山の谷は、幕末になっても黄幡谷と呼ばれていました。1825年に完成した「芸藩通志」の広島府祠廟の項目に、「今に黄幡谷と称す(今でも黄幡谷と呼ばれている)」と、記録されています。

 中道豪一氏の研究(比治山に関する歴史と文化の再検討比治山周辺における谷と比治山神社史の検証を中心に)により、比治山の黄幡谷は、現在の段原南第一公園の付近であることがわかりました。この論文は、以下のサイトからダウンロードすることができます。

https://researchmap.jp/read0096456/published_papers/45526267/attachment_file.pdf

 段原南第一公園から、馬魂碑を通って比治山の山頂に向かう道があります。道の北側(動画の画面では右側)に谷があります。それが黄幡谷であったのかもしれません。断言はできません。すでに住宅が立ち並んでいる地域では、江戸時代と地形が違っている可能性もあります。知新集(広島藩の公式地誌)によれば、そこにあったのは小さな祠です。実際に、西暦1600年以前の比治山(旧、日地島)に大きな神社があったとする記録はありません。

 黄幡神は、日本人にはなじみの薄い神ではないでしょうか。どうして、この地域では、黄幡「大明神」に発展することができたのでしょうか。この地域には、黄幡神を信奉する集団があったのでしょうか。

 また、広島藩が、毎年正月の門松の添木と、九月祭礼の湯立神事の薪木を寄付していました。藩にとっては、大きな出費ではないでしょう。しかし、広島藩が寄付をするというだけで、藩はこの神社を重視するというメッセージになります。そこには、政治的な配慮があったのでしょうか。この地域で黄幡神を信奉する集団に、何か特別な政治力、経済力、または武力があったのでしょうか。

 実は、西暦1600年代の比治山神社の移転には、大きな謎があるのです。広島市安佐南区山本の真幡社との関係です。

4章、真幡社(広島市安佐南区山本)をめぐる謎

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真幡社(広島市安佐南区山本9丁目20-2)のすぐ近くには、安芸武田一族の菩提寺であった立専寺があります。この神社も、武田との関係は深かったはずです。安芸武田氏は、武田信玄を輩出した甲斐武田氏の親戚です。室町時代には、この地域の守護大名として君臨しました。武田が銀山城(かなやまじょう、古くは金山城と記載)を築いた山は、今でも武田山と呼ばれます。山本地区は、城下町でした。しかし。武田は毛利元就に滅ぼされました。

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社伝の全文は、以下のサイトに掲載しています。

謎に満ちた真幡社(広島市安佐南区山本)の社伝ー消された広島の黄幡信仰追補ー

 ここでは、要点だけを記載します。

 まずは、社伝の冒頭です。

 「安芸の国守護職として鎌倉初期、武田信光。信光は新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)の玄孫(げんそん、ひまご)、武田信義の子なり。初(はじめ)石和(いさわ)五郎又(また)は大膳大夫(だいぜんのだいぶ、またはおおかしわでのかみ)、承久(じょうきゅう)の功以てここに補せられ金山(武田山)に據(よ)り代々此の国を領し、五代武田伊豆信宗(むねのぶ)剏(はじめ)て金山城を築き子孫之を継ぐ」。

 武田信義は、源義光(通称、新羅三郎)の孫で、源平の合戦で活躍しました。武田信義の五男が、武田信光です。石和五郎は、信光の別名です。その役職は、大膳大夫でした。武田信光は、承久の乱(1221年)の功績により、安芸と甲斐の両国を領有することになりました。

 冒頭から、難解な文章が続きます。この部分は、芸藩通志(広島藩の公式記録)からの引用です。芸藩通志の原文には、「武田信光 信光は新羅三郎義光の玄孫にて武田信義の子なり、初石和(いさわ)五郎又大膳大夫、承久の功を以、安芸の国守護職に補せられる。金山城 即武田山なり、武田伊豆信宗、剏て此に築き、子孫相続て居守す」と記載されています。

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この社伝は、不可解です。社伝冒頭に武田氏のことが、長々と書かれています。

 ところが、この神社と武田の関係が書かれていません。そして、社伝の途中で急に、「古老の伝に黄幡さん(今の俗称)は村民の崇拝厚かりしに」と記されます。

1560年(永禄三年)に毛利元就は山本村の西部に平山八幡宮の本殿をを建てた(拝殿は以前からあった)。そして、八幡宮の本殿の梁(はり)の上の蟆股(カエルマタ)に、毛利の家紋を刻んだ。真幡社はその末社とみなされ、社紋に毛利家の家紋をかげることになった。少なくとも、広島藩の公文書である芸藩通志にはそう書いてある。だが、それは事実ではない。本当は、この神社は、武田氏と関係のある黄幡信仰の神社なのだ。そのように解釈すれば、首尾一貫します。

 その続きには、「徳川幕府後期ある時、ご神体を移し去られ比治山山麓(さんろく)の黄幡社(今の比治山神社)に祀られしとなり」とあります。それだけでも、謎めいていますしかし、「ご神体は盗まれた」とする別の言い伝えがあるのです。

第5章、盗まれた(?)ご神体の謎

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立専寺住職・武田庸全氏が1939年に記した「山本史」の記述です。

 時期は不明だが、東山本の黄幡大明神(現、真幡社)のご神体を盗んで比治山の上に持ち帰って祭った者がいる。夜な夜なご神体から「山本に帰る、帰る」という声が出て、実に不思議なことであった。神社を東山本の方向に向けて建て直したところ、山本に帰るという声は止んだ。その神社は、比治山の黄幡神社(今の比治山神社)である。

 比治山神社が西暦1600年代に移転した、という事実とは一致します。しかし、誰が何のために盗んだのでしょうか。

 広島城の落成は1599年です。その後、戦乱はほとんどありませんでした。1600年代の半ばになれば、城下町は整備されていたことでしょう。立地条件に恵まれて発展していく比治山神社を見て、山本地区の人は、「お株を奪われた」、「黄幡信仰の元祖は自分たちだ」という思いがあったのかもしれません。

 しかし、明治の神仏分離により、どちらの神社も祭神が黄幡神ではなくなりました。


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上の写真は、比治山の展望台から見た広島市安佐南区山本方面です。現在の比治山神社は、西向きに建てられています。大雑把にいえば、山本地区の方向です。移転前の比治山神社があったと推定される場所(段原南第一公園の辺り)は、比治山の東南部です。そこから山本方面は見えません。

本当は怖い武田山から宇品の花火見学武田山つれづれ日記


 昭和146月に山本9丁目の立専寺住職武田庸全氏が上梓した「山本史」の中の「敬神並宗教史」。


【引用開始】

当東山本には徃昔より黄幡大明神を鎮祭したる黄幡神社といへる小堂あり。

然る所その後(年時不詳)何者か社内の御祭神たる黄幡大明神の御神体を盗みて廣島の比治山の上に持ち帰り祭る、而るに夜な夜な御神体より「山本へ帰る帰る」との聲ありて実に奇瑞現はる、遂に神社を東山本の方向に向けて建て祭りしかば山本へ帰るの声止みしと、此の神社即ち比治山の黄幡神社にて今日尚存す。比治山の黄幡神社の古記録にも当社の祭神は元東山本より遷座したる旨記しありと、而し年時は其記なし。

此の事ありて東山本鎮座の黄幡社には祭神の御神体なくなりたれば当時当村住人大伴某なる者上京したる際京都にて猿田彦命の分霊を申し受け帰りて之の社内に安鎮し之を祭るが現在の御神体なりと、而して其の年時も不詳なり。

私按ずるに道の古来より当村に傳へらるる古老の説は事実ならん。

比治山の黄幡神社に其記録ありて以前神主が当村に取調べに来りし事あり、惜むらくは当村並びに比治山、共に其の年時を詳にせざることなり。

【引用終了】

 「山本史」は村内に見るべき郷土誌がないことを憂いた庸全氏が、病身を押して書き上げた1000ページにも及ぶ手書きの郷土史で、内容は昭和40年代に刊行されました。

投稿:ブログ管理人|20121028日(日)2138

以下は、私・上西の私見です。「比治山の黄幡神社の古記録にも当社の祭神は元東山本より遷座したる旨記しありと、而し年時は其記なし」と記載されていますが、原爆で焼失したかもしれません。また、今の比治山神社は黄幡信仰ではないので、このような記録を保管しておく必要もないでしょう。

貴重この上ないため、甲斐、安芸、伊予、土佐の黄幡神社を理解する手助けとして保存します。

ご尊命かどうかも分かりませんので、当方の判断でblogとして一部を保存させていただきました。

 連絡先 新ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)管理者 古川清久 090-62983254

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2026年06月20日

ビアヘロ 263 ひぼろぎ逍遥1155 五年ぶりの伊予への神社調査 “南宇和郡鬼北町の黄幡神社” (中)

ビアヘロ 263

ひぼろぎ逍遥1155 五年ぶりの伊予への神社調査 “南宇和郡鬼北町の黄幡神社” (中)

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太宰府地名研究会 古川 清久


話の急展開に驚かれたかも知れませんが、私自身もまさか神武巡行伝承のクライマックスとも言うべき山梨県の街中に鎮座する天津司神社の調査団の中心人物が黄幡(オウバン、キバタ)の神である事を失念していたのでした。

 この神武巡行伝承は筑豊から海路によって糸魚川辺りから松本経由か、上越市(旧直江津)辺りから善光寺経由で甲府盆地に入っているはずで、詳しくは、新ひぼろぎ逍遥1107大山祇は月読命なのかを考える ❶“天津司舞の天津司神社の再掲載”の前後のブログをお読み頂きたいと思います。

 余裕のある方は、この神社は市杵島姫と草部吉見を祀る二社となり徳島にも展開しているため以下もお読みください。

 神武巡行に参加した市杵島姫と草部吉見は旅行中に良い中に成り夫婦として早めに戻る事を許されている様なのです。

ひぼろぎ逍遥(跡宮)

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続)徳島の天津司神社 @〜A “四国の「もう一つの

歴史教科書問題」氏による近稿からの転載”

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徳島の天津司神社 @〜A  “四国の「もう一つの歴史教科書

問題」氏による近稿からの転載”

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阿波の天津賀佐彦神社は神武巡幸の痕跡なのか? 

“徳島県美馬市美馬町西荒川”

この神武巡行は九州王朝による列島の調査旅行であり、その中心メンバーには天照、神武(カムヤマトイワレヒコ)、山幸彦、海幸彦=草部吉見、市杵島姫=宗像三女神、金山彦、大山祇、ミズハノメ、埴安姫、阿蘇の神沼河耳=金凝彦のオール・キャストであり、数代下る神武東征伝承とは全く異なるのです。

 これは、開化天皇と神功皇后(夫婦)=「高良玉垂宮神秘書」の指揮下で、開化の腹違いの兄大彦(武田信玄、新羅三郎もその末裔…)が日本海ルートで会津に入り、東北一帯に展開し…その後裔が前九年の役の安倍貞任、宗任に繋がっているのです。

 神武僭称贈る崇神が行ったかの様に藤原=阿蘇氏=多氏が偽装していますが、中心的役割は大彦と考えています。神武を足一揚宮、一本柱揚宮とかで出迎えたのは崇神の子(ウサツヒコ…)であり、耳川から東征に出かけたのも推定でしかないのです。

決して騙されないようにしてください。「古事記」の95%は嘘と言ったのも百嶋由一郎でした。 ここまで書くと藤原系、神社庁、宮内庁もカンカンでしょうが、そう伝えています。

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神武御巡行は二世紀の半ばに行われた列島全域の調査旅行であり、天照大神、神武天皇(神武僭称贈るハツクニシラススメラミコト崇神ではないカムヤマトイワレヒコ)大幡主、豊玉彦=八咫烏、大山祇、罔象女神、金山彦、埴安姫、山幸彦=ニギハヤヒ=猿田彦、海幸彦=草部吉見、市杵島姫…随行者によるもので、筑豊から山口、広島、岡山など瀬戸内海にかなりの痕跡を留めています。

 神代の神々のオール・キャストで行われたもので、途中で市杵島姫と草部吉見は夫婦と成り、中途で戻る事が許された様なのです。その痕跡が前掲の天都司彦神社です。

 対して、神武東征は、ずっと時代が降り、第9代開化天皇と仲哀死後の神武天皇ご夫婦の指揮下で、ハツクニ崇神というより、開化天皇の腹違いの兄大彦の揮下で行われたもので、実権はその権威から日本海ルートで北上した大彦のはずなのです。多分、柏崎刈羽辺りから南魚沼郡から会津に入っているようです。今年の秋にも「神代の浜辺」(所沢市)のT氏と会津に入るつもりです。

 ここまでくるともう少しお話ししたくなります。百嶋由一郎は“その後お二人は薩摩の阿多(旧加世田町=現南さつま市)で村長さんの様な事をしておられました”と語っていました。

 これもあてずっぽうで調べたことが有ましたが、草部吉見と市杵島姫との間に生まれるのが大山咋=佐田大神=松尾様=日枝山王=日吉様が生まれますので、日枝神社を探せば金峰町の白川に日枝神社が在る事に気づきました。市杵島姫はスサノウと豊玉彦=八咫烏の妹のアカル姫が新羅の王子様アメノヒボコ=スサノウとの間に産んだ子ですから白川伯王を思わせる白川沿いに日枝神社があるのは合理的で、加世田一帯には34社の日枝神社が拾えます。

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今は会津にお住まいですが、5年ほど前でしたか、祖父母の家を処分するとして父と同地の日枝神社の近くにあった旧居に行かれた女性からお電話を頂いた事がありました。

 この方は、当方が出していた先行ブログを読まれて連絡を取ってこられたのでした。

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1046 南さつま市 阿多・白川の日枝神社について再び… 20240614

 神社や古代史に関心を持つ方で、薩摩半島の阿多と言う土地を知らない人はいないと思いますが、その一角に白川地区があり、日枝神社(金峰町)があります。ただ問題は祭神を猿田彦としている事です。

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この神社に関して20178月に以下を書いています。全文を残し画像など縮小し再掲載します。

461 南さつま市の辺境に市杵島姫と草部吉見の故地を発見した? 阿多の白川の日枝神社 

これは、「ひぼろぎ逍遥」517520で書いたものの関連ですので、「ひぼろぎ逍遥」に書くべきかも知れませんが、内容がかなり神社考古学に絡むものである事から(跡宮)で扱うことにします。

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僭越ながらも鹿児島の老古代史家からの照会に

お答えして 所感 CD

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僭越ながらも鹿児島の老古代史家からの照会に

お答えして 所感 B

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僭越ながらも鹿児島の老古代史家からの照会に

お答えして 所感 A

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僭越ながらも鹿児島の老古代史家からの照会に

お答えして 所感 @

517520は九州王朝論の導入部のような話であり、無関係と言えば無関係になりますので、これから話す事からは遠い話であり、恐らくこれで良いのでしょう。

いずれにせよ、この4〜5本のblogについてお話しするために350キロを走り貫き、南九州市の手前の南さつま市を訪れたのでした。

その二週間前には兵庫県但馬を訪問していたのですから距離は半分で直ぐに届く距離です。

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南九州市金峰町白川阿多の南東、旧加世田町の東に在ることがお分かり頂けますか?


実は、百嶋由一郎氏の音声記録の中に“阿蘇の草部吉見さんと市杵島姫はご夫婦として若いながら阿多で村長をされていました。”(不正確ですかね?)といった話をされていました。

この他にも、市杵島姫は甑島(甑島には鹿島がありますね、これも鹿島大神=草部吉見と関係があるのです)のカノコユリが好きで、別名の佐用姫とはサユリを愛したからではないかとも思うのですが、それはともかく、このお二人がどこにおられたかは百嶋先生から聴いておらず、市杵島姫がカノコユリと関係がある事だけは 437 勝沼ワインの里の大善寺(特別版)に触れています。どちらにしてもその話だけは耳に残っており、阿多を通過する度にその事を考えていました。

今般、南九州市川辺町を訪れたついでに、南さつま市に白川集落がある事に気付き、彼らはここに居たのではないかと考え、今回入って見ることにしました。市杵島姫は白山姫の後裔でもあるのです。

言うまでもなく、白川とは白川伯王(天御中主命)の一族が居た場所に付けられる地名であり、日枝も日吉大社=松尾大神を意味しており、草部吉見と市杵島姫の間に産まれた大山咋神=佐田大神を意味しており、まさにピッタリなのです。

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あの郵政省に蓄えられた国富を米国に売り飛ばした売国奴小○純一郎の父小○純也は東加世田村の出身でここからもそう遠くはない 後に神奈川に移り朝鮮銀行に勤務とか…

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日枝神社 カーナビ検索 鹿児島県南さつま市金峰町白川2076


縁起では祭神を猿田彦としています。鹿児島、宮崎は維新政府の中核だったためか、主要な祭神で祭神の入れ替えを行っている事が分かっていますので、真に受けることは出来ません。

全国でも草部吉見=海幸彦を祀る神社が非常に少ない事は事実です。

このことには海幸彦に対して山幸彦が勝利したことが反映されているのだと思いますが、この神社の祭神が猿田彦で無い事は明らかで、それは日枝神社や日枝という地名からも分かります。

面白いのは縁起にある“鎌倉期の橋口又太郎が白川宇治野に御神体を安置した”という部分であり、白川とは市杵島姫系統の象徴的な地名であり、宇治は阿蘇氏、それも阿蘇を健磐龍に任せ東に進出した本当の阿蘇氏を意味する多氏、宇治氏を意味する地名である事から、この時点までは、市杵島姫と草部吉見の共同祭祀は残っていたものと思います。

今後この地区の調査は心掛けますが、最早、痕跡は辿れないのではないかと思うばかりです。

多分、山幸彦=猿田彦祭祀に変えたのは島津か明治維新以降の人々だろうと思うものです。

少なくとも、白川、日枝、宇治、出水(泉)という地名がセットで在る事が脅威的で、二番目の地図の端に高良地名があり、ここにも高良神社がある事は既に書いています。

泉も初期の九州王朝を暗示します。九州王朝の初期の形態が辿れる重要な場所である事は明らかです。

元々加世田とは地名からも分かりますが、干拓地としての地名であり、本来、古代に人が住み着いていたのは微高地の阿多や安全で水の豊かな白川などであったはずなのです。

殊更、日枝という地名があり日枝神社として残っている事はもしかしたら大山咋はこの地で産まれたのではないかとまで思うのですが、無論、思考の冒険、暴走である事は否定しません。

しかし、水の豊かな古代の一等地です。

薩摩藩の国学者共は余程阿蘇系の神を受け入れるのが嫌だったのでしょうね…。

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大山咋=日吉=日枝こそお二人の神様の子神なのです

研究目的で百嶋由一郎神代系譜を必要とされる方は直接09062983254までご連絡下さい

8年前に書いたブログは以上のとおりでした。ところが、一週間ほど前に、兵庫県在住の女性から、この神社についてのご質問と百嶋神社考古学に関する資料を欲しいとの電話による照会が入りました。私もネット上に3000本にもならんとするブログを書いてきたため、どのブログの事を話しておられるのか分かりませんでしたが、しばらくして内容が分かってきました。

不正確かも知れませんが、どうやらこの神社のすぐ傍にお住まいだった祖父母が高齢のため亡くなられたようで、お父さんが家をかたずけに来られていたようで、この神社の祭神やその意味を理解すれば、自分たちがどのような存在であるかが分かるのではないかと考えられたようなのです。

以下は、この依頼をしてこられた方に対して同社の性格についてご説明した文面になります。


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