2024年04月21日

1008 日田市の大原八幡宮の元宮〜元々宮を当会の宮原誠一氏が報告されています ➊

1008 日田市の大原八幡宮の元宮〜元々宮を当会の宮原誠一氏が報告されています 

20240118

太宰府地名研究会 古川 清久


 今回、日田に於ける地域調査にようやく重い腰を上げた事から既に56本のブログを新規で書き改訂していますが、大原八幡宮の元宮、元々宮について書かれている方がおられます。

 当会のメンバーで筑前筑後神社研究のエキスパートとも言うべき宮原誠一氏です。

 今回、この2稿を加えるとさらに日田の本質が明らかになってきますので全文を掲載させていただきます。

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No.158 大波羅(大原)八幡宮の元元宮・鞍形尾神社

宮原誠一の神社見聞牒(158)

令和2年(2020)1111

No.157 大波羅(大原)八幡宮から見る三人の八幡様」の補足資料@ です。
大分県日田市田島に鎮座する大波羅八幡宮(大原八幡宮)は現在の田島に鎮座するまで三回の遷座を行っています。
場所的には二回の遷座です。杉原元宮神社と元大波羅(大原)神社は隣接の状態にあります。

■大波羅(大原)八幡宮の変遷
 1.神降の岩松ヶ峯 680年、日田市天瀬町馬原の鞍形尾に霊現
 2.鞍形尾神社 日田市天瀬町馬原500に社殿建立
 3.杉原元宮神社 704年、鞍形尾から求来里村の杉原に遷座
 4.元大波羅(大原)神社 871年、初代日田郡司大藏永弘が社殿を新設し、
   杉原元宮を北側の求来里(神来町)に遷座
 5.大波羅(大原)神社 1624年、日田永山城主石川忠総が神来町から現在の
   田島大原へ遷座。明治6(1873)「大波羅神社」を「大原神社」と号す

大原八幡神が霊現した大波羅(大原)八幡宮の元元宮、天瀬町岩松ヶ峯(馬原 まばる)の鞍形尾神社の補足資料となります。

■鞍形尾神社の概要
鞍形尾神社 大分県日田市天瀬町馬原500(字鞍形尾 くらがとう)祭神 八幡大神

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由緒(旧案内板)
豊西記によれば元慶元年9月朔日(877)、此の地(岩松ヶ峯)に八幡御示現せり
神白馬によって昇天し玉鞍松下にあり、依って岩松改め鞍形尾と号せりと
造領記には弘仁2年(811)、郡司鬼蔵大夫(大蔵永弘)、宇佐八幡を請して来り、岩松が峯に勧請し奉ると記されている。

祭典 2月19日、20日にして古来村民の信仰厚し
                  昭和41年4月1日  天瀬町教育委員会

造領記は当てになりませんが、豊西記(江戸時代)によれば、「八幡神は白馬に乗り岩松ヶ峯に霊現され昇天された。八幡神が昇天したあと、松の木の下に玉の鞍が残されていたことから、岩松を改めて鞍形尾(くらがとう)と呼んだ。」とあります。
『豊後國志』に「白鳳9年(680)秋、八幡大神の降格の瑞(きざし)あり。始め岩松峯に祭り、後に杉原に移す」とあります。

白鳳9年(680)、日田郡(ひたのこおり) 靭負郷(ゆきいのさと)馬原村(まばるむら)の岩松ヶ峯に八幡大神が顕現し、岩松ヶ峯に鞍形尾(くらがとう)神社が創祀されました。
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■車で岩松ヶ峯の鞍形尾神社まで行けます

国道210号線から金場の市道に入り、岩松ヶ峯の鞍形尾神社まで車で一気に登ります。

  市道から林道への入り口、小型車(5ナンバー)の短い車体であれば通行可です
  途中の離合帯は3箇所で、離合帯では警笛を鳴らして下山車を待ちます。

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()神社下の林道が変っています、高圧送電線も東の本宮の左に移動しています
■鞍形尾神社の行宮跡

鞍形尾神社に着く前に「神降」扁額の鳥居があります。
さらに、鳥居の奥へ進むと「行宮跡」の石碑があります。さらに300m程進むと鞍形尾神社に着きます。

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 奥のヘアピンカーブを右に曲がり上るとすぐに行宮跡の鳥居前に出ます。

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行宮跡は岩松ヶ峯の頂ではありません。東約300mの鞍形尾神社の本殿がある所が「峯の頂」となります。行宮跡が霊現の地と見ています(未確認)
北東方向の同天瀬町馬原(本村)の大分自動車道の下には豊玉彦を祀る高住神社があり、磐座 神社の形式で祀られています。
さらに東の同天瀬町馬原(高塚)には有名な高塚愛宕地蔵尊(金山彦)があります。
その北には月出山岳(かんとうだけ)があり、その麓に月出山(かんとう)集落があ
ります。月出山とは不思議な地名で意味深です。
天瀬(あまがせ)という地名も意味深ですが、玖珠川の「天の瀬」という意味でしょうか。
天瀬町馬原(まばる)の山々は霊験の地です、不思議な感覚を覚えます。

「月出」と「馬原」は大山祗・大国主に関係する名称ですが、牛馬の守護神は筑後川(千歳川、玖珠川)の水神・荒五郎の豊玉彦です。
馬原(まばる)は大山祗、金山彦、豊玉彦に関係する神聖な地となるのでしょう。

大原八幡神(祭神・八幡大神)は石清水八幡・豊玉彦=豊国主・豊玉彦となります。


■高塚愛宕地蔵尊の由来(高塚愛宕地蔵尊HP)
大分県日田市天瀬町馬原(高塚)3740
https://takatukasan.com/takatsuka/
今から千二百年余年前の天平12(740)行基という偉い僧が聖武天皇の命を承けて、筑紫の国を巡られました。
帰路、豊後の国日田郡を経て求来里村杉原に至り、緑深い東西の地形を眺めたとき、行基は身の引きしまるような霊気と、言いようのない有り難さに心を打たれ『この地こそ、国や人々の悩みを救う大権現様の出現される霊地に違いない』と予言されたのでした。
行基はそれから岩松ヶ鼻(現在の天瀬町馬原の鞍形尾)を通って、この高塚の里に着かれました。
山中で一心に地蔵菩薩を念じていた或る晩のこと、東南方にそびえる大きな公孫樹(いちょう)の中辺に、突然、金色の光を放つ三個の玉を見たのです。行基はおどろき、我が祈りが地蔵菩薩に届いたおしるしであろうと、なお一心に祈り続けました。
夜が白みかけても玉の光はおとろえません。行基は従者をしりぞけ、ひとり、いちょうの大木に登ってみると、三個のうち、ひときわ光る一個は乳房の形をした宝珠でした。
宝珠を捧げて地に降り立った行基は早速、みずからのノミをにぎって一体の地蔵菩薩を彫り、里人たちに『まことの心をもって宝珠、地蔵菩薩に祈願するなら広く万物は産み栄え、一切のご利益を与えられよう』と説かれたのでした。
その後、いちょうの大木は『乳銀杏』(ちちいちょう)と呼ばれ、永い歴史の間、子宝を恵む霊樹、母乳をさずける霊樹、子供のすこやかな成長をかなえてくださる霊樹として、人々の崇敬を集めてきました。
行基は天平21(749)2月2日、82才で亡くなりました。その後、天暦6年(952)2月、行基の御遺徳を偲んだ里人たちが、大いちょうのかたわらに小さな御堂を建立し、行基のきざんだ地蔵菩薩を祀ったのが『高塚愛宕地蔵尊』の始まりです。
※行基が求来里村(くくりむら)杉原に至った時、鞍形尾神社は求来里村杉原に遷座しています。
愛宕勝軍地蔵

勝軍地蔵は別名、天村雲命地蔵尊と呼ばれ、大分県天瀬の高塚地蔵尊でよく知られています。勝軍地蔵の制作者は聖徳太子であり、金山彦の別称の一つです。なお、本地蔵は大分県日出町の愛宕神社にあり、この分霊が高塚地蔵尊となります。
私の近くにも天村雲命地蔵尊が祀られています
No.60
水沼君の「潟の渟名井」と丹後の「與佐の真名井」 2018513
益影井がある大城小学校の南に筒井天満宮が鎮座されています。
境内の観音堂は豊姫神社の本寺堂であり、「天眞名井」を「潟の渟名井」として、ここにおさめられたという天村雲命(あめのむらくものみこと)の地蔵尊が祀られています。「アメノムラクモ」といえば、金山彦の「天叢雲の剣」を連想します。
豊姫縁起では、天孫降臨の時、従った神様に「熊野忍蹈命 くまのおしほみのみこと」がおられ、別名、熊野久須毘命(くすびのみこと)という、金山彦です。

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行宮跡から東へ鞍形尾神社に向かいます、300m程進むと神社に着きます

林道から玖珠川対岸(左岸)を望む女子畑の山並み

■鞍形尾神社

行宮跡から東へ300m程進むと鞍形尾神社に着きます。5台程の駐車場有り。

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社頭、駐車場横の大形常夜燈、その先に石段、中央の木陰に鳥居が見えます
鞍形尾神社 大分県日田市天瀬町馬原500(字鞍形尾 くらがとう)祭神 八幡大神

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 鳥居の扁額は「八幡宮」

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拝殿、茅葺屋根に板金が被せてあります

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本殿、茅葺屋根に板金が被せてあります

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「波」の彫刻

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本殿向拝の「鯉の滝登り」彫刻

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拝殿内の神輿  本殿左には豊玉彦ゆかりの天満宮が鎮座です

参考までに、天瀬町誌によると、鞍形尾神社の祭神は誉田別天皇、速須佐之男神、宇迦之御魂神、猿田日古神、大宮能賣神、菅原神となっています。

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社殿を後にします

■杉原元宮神社への遷座
慶雲元年(704)、鞍形尾に鎮座する八幡大神は、求来里村杉原の杉の梢(こずえ 木の先端)に降り、村の乙女に神懸かりして、「永く豊前の地を守らむ」と神託の後、杉の元に白幣が出現したと伝えられる。故に、その所に神祠を建て、八幡大神は鞍形尾より遷座したと伝わる。
「神託の後、杉の元に白幣が出現したと伝えられる」とありますが、実際には顕現の印として白幣を立てたのでしょう。

行基740年「求来里村杉原」に至った時、緑深い東西の地形を眺め、身の引きしまる霊気を感じ、言いようのない有り難さに心を打たれ『この地こそ、国や人々の悩みを救う大権現様の出現される霊地に違いない』と言っています。
求来里村、馬原村は霊地なのでしょう。

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2024年04月18日

1007 日田市の奥まった谷川に代々木神社が在る

1007 日田市の奥まった谷川に代々木神社が在る

20240115

太宰府地名研究会 古川 清久


代々木と言えば東京の代々木であり、日本共産党という100年赤旗祭を行い100年労働者革命を起こそうともしない情けない自称革命党の本部がある地で知らぬ人のない土地ですが、代々木と呼ばれる土地も類型が乏しく、代々木性も常陸、大阪、福岡に僅かにあるばかりで、福岡では大牟田市に2件の例が確認できる程度です。


南は富ヶ谷付近までが代々木村であった。 代々木という地名は、現在の明治神宮南参道沿い(旧彦根藩井伊家下屋敷)に、旅人の目印として知られたモミの大木が、代々生えていたことに因む。     ホームズより

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代々木神社 カーナビ検索 大分県日田市大字小山689


 ここは日田でも筑後川左岸の南から注ぐ小渓の川沿いの地です。

不思議ですが、ここには代々木神社というものが鎮座しているのです。

 代々木という地名は、現在の明治神宮南参道沿い(旧彦根藩井伊家下屋敷)に、旅人の目印として知られたモミの大木が、代々生えていたことに因む。のだそうです。

 天領の日田なら井伊家のお屋敷の大木が代々生えていたから代々木だと言うのは分かりやすい地名の話になるのですが、ここが阿蘇に繋がる土地であるとすれば、少し思い当たる事もあるのです。

 それは井伊家のルーツが阿蘇の東の外輪山の一角である産山村ではなかったかと考えていることから、意外と代々木神社を祀ったという話は井伊家への忖度だったのではないかと思うのですが、それは、この地にも巨大なモミの木が生えていたという伝承なりが拾えれば繋がりとしてはより確度が高くなるのです。

 この神社はまだ参拝させていただいておりませんので日を見て参内したと思っていますが、図らずも井伊家とそのルーツと考えられる産山村との繋がりが垣間見えた気がしているところです。

 井伊と言う姓は伊井でもあり、一字の「井」が原形なのですが、対馬と産山村に異常な集積を見せているのです。

 この中国風の一字姓の「井」氏があるにも関わらず、日本からの遣唐使であり玄宗皇帝の近習にまでなった井 真成の墓が発掘され、井姓の日本人遣唐使の墓誌が出土するや、奈良の藤井寺市やら奈良県やらが村興し町興し宜しく大騒ぎし、井 真成とは遣唐使の藤井だろうと言った怪しげな説を持ち出し、対馬や産山の井姓は知りもしないで大騒ぎした事も忘れ去られているのです。


日本に帰国できなかった遣唐使の留学生・井真成。大阪府藤井寺市

 1023日、近鉄・藤井寺駅の南側の商店街を通りました。藤井寺市商工会の入口に井真成(いの まなり)の像がありました。

 阿倍仲麻呂達と一緒に留学生として唐へ渡り、時の皇帝・玄宗に仕え、帰国を間近に控えた36歳で亡くなった人物です。藤井寺出身といわれていて、藤井寺市のマスコットキャラは「まなりくん」です。

 藤井寺市公式キャラクター「まなりくん」プロフィール(藤井寺市役所のサイト)

 長年、忘れられた存在でしたが、2004年に西安(唐の都・長安)で墓誌が発見されました。

 余談ですが、この墓誌は建設業者がショベルカーで不法工事をしていた時、偶然発見されたもので、こっそりと民間の古物市場に売りに出されました。それを聞いた西北大学歴史博物館の賈麦明さんが古物市場へ行き、貴重な発掘物を安く買い上げたという話があります。不法工事に、掘り出し物を現金化したい業者。困った業者ですが、大事な発掘物が無事、保護されたのは幸いですね。

 余談につきましては在唐の日本留学生井真成墓誌の発見と新研究(国際日本文化センターの論文)に書いています。

 墓誌が見つかった事で、葬られた人物が井真成、国号が日本という事がわかりました。700年代になりますと中国大陸では「倭国」ではなく「日本」という認知になっている事がわかります上、日本も国号として「日本」を使っていた事もわかりますね。

 井真成の墓誌のレプリカは、藤井寺市立・生涯学習センター(アイセル シュラ ホール)に展示されています。

 墓の蓋(レプリカ)に刻まれた字を見ますと篆書体でした。隷書体や楷書でないため、読めない字があります。墓誌(レプリカ)には「日本」と刻まれていました。レプリカであっても歴史を感じる事ができました。

 井真成が藤井寺出身という根拠は「井」という姓から推測されたためです。

 唐では姓が1文字でしたので日本の留学生で唐風の姓を名乗っていた可能性があります。日本だと「井」という1文字の姓がないため、「井」がつく2文字の姓が考えられます。その中で出てきたのが葛井(ふじい)と井上の姓です。

 葛井氏は一昨日のブログ(藤井寺の地名になった葛井寺)で紹介しました百済王の末裔にあたる家系です。この2つの姓は藤井寺周辺の有力者でしたため、藤井寺出身ではないかと言われています。

 ところで遣唐使は船旅だけ見ても命がけです。聖徳太子の時代は朝鮮半島を沿った比較的安全航路が使えました。しかし新羅との関係が悪化したため、朝鮮半島に沿った航路が使えなくなり、荒波の東シナ海を横切る航路を使わざるえなくなりました。遣唐使は4隻にわけて出発しますが、2隻戻ってくれば成功というぐらい危険な航海でした。4隻にわけるのは、まさにリスク分散です。

 そして無事、唐へ渡れても、長安にたどり着くまでに山賊に襲われるかもしれないですし、日本にない伝染病にかかるかもしれません。今のような安全な旅ではありませんでした。

 そんな中、遣唐使で唐へ渡り、生きて帰った人達は運にも恵まれた人だといえますね。

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では、井伊家への天領側の忖度とかいった可能性があるのか?ですが、手掛かりは僅かしかありません。

実際にはこの神社は八幡神社らしいので、もし忖度ならば大原の一族化かとも思うのですが、それなら境内に祀るはずで、直ぐに安直な結論に飛びつくのは止めておきましょう。

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現在は、阿蘇市になっていますが、圧倒的に産山村に集中しており、村長から村議会議長から郵便局長から農協の組合長から全てが「井」さんなのです。対馬については皆さんでお調べください。

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以下は、日田の代々木神社です。

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神仏混交のままの様ですが、何戸の集落なのかどのような経緯でこの神社が生まれたのか早く話を聴いてみたいと思います。

 ただ、代々木が代々の古木と言った話は出来過ぎていてにわかには信じられません。

 そもそも、最後に「木」が付く地名は半島系の地名と言われていますが、ミマキ(イリヒコ)、タラキ(オキナガタラシヒメ)、カツラギ(カツラギノナガエソツヒコ)…などもその出身地を示しているのです。

 とりあえず、井伊家の屋敷内に代々の大木があったから代々木と言われたとするのですが、それはそれとして、先入観を排してしっかり見ることにしましょう。

 しかも神仏混交となると祭祀された神がなんであるかも判別は難しく気が重いのですが、非常に面白い神社だけに、まずは探査が必要と思います。

 以下は、東京の代々木八幡神社の由緒です。

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天祖神社は豊後の大分県玖珠町にも数社ありますが、まだこれだけでは手掛かりは掴めません。

 しかし、代々木と日田にしかないとは不思議でなりません。

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2024年04月15日

1006 日田市の南には何故大山町が隣接していたかを考える(下書き)

1006 日田市の南には何故大山町が隣接していたかを考える(下書き)

20240111

太宰府地名研究会 古川 清久


 日田市の南と言うか九州最大河川の本流が注ぐ渓谷側に大山町がありました。

近年(2005年)日田市と合併したのですが、どうもこの旧町に鎮座するかなりの神社が良く分からないのです。

 まあ、明治の神名帳まで遡ればある程度は分かるのですが、そもそも他県には存在する「大分県神社史」といった物が存在せず、祭神を調べるには不便を要するのです。

 これは、恐らく宇佐八幡宮の権威が圧倒する豊前豊後の事、全ての神社が主張することができず、それが遍く覆いかぶさり、本来の神社の叫びが届かない構造にあるのではないかと思ってしまいます。

 そう思ったのはネット上でも、大山町の神社の祭神が不詳とされているからです。

 まあ、全国には鳥取や富山の大山など大山町という名の町は数多くあるのですが、大山祇、その子大国主なり、コノハナノサクヤなりそれなりの大山祇ファミリーが祀られる神社があるものです。

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百嶋由一郎最終神代系譜


 この大山町という呼称は明治までは辿れるのですが、それ以前はどうなのでしょう。

 たかだか個人的ブログ程度でそこまで探求する必要はないのですが、大山町を通ると大山水天宮という神社とか、大山町木の花ガルテンという高額商品であるにもかかわらず繁盛を続ける施設があるなど、大山祇系の神社が在ってもおかしくはなく、事実、日田市内には大山祇神社も二社は確認できるのです。

 ところが、当の大山町で神社を見ると祭神不詳が続出する現象に出くわすと、これはただならぬものと思い始めたのでした。

 そこにあるのは日田の重層性なのです。地名や神社を見る限り、日田は古代有明海の最奥部の相対的に太宰府を首都とし高良山直下の久留米をウヲーター・フロントとすると、日田は内陸部の安全な副都の様な性格を持っていたのです。

 そのような要地であったからこそ天領とされたのでしょう。

 その南から驚異に備える副都防衛基地が大山町だった可能性があるのです。

 普通に考えれば、木花ガルテンが大山祗大神の娘を妃としたニニギの故事を意識した名称でしょうし、大山水天宮という神社が在る事だけが唯一その事を伝える痕跡なのです。

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それにしても日田市の神社を検索し、大山町を見ると、異常なほどに祭神不詳が浮かび上ります。

まず、インターネットで各地の神社を調べるのに便利なのはグーグルで「日田市 神社」と検索すると図上に全ての神社が出てきますが、そこで各々の神社をクリックすると個々のデータが出てきますが、大山町の神社が祭神不詳と出てくるわけで、8割方それならそのサイトは価値がないと言わざるを得ないのです。

日田の内側には大山祗神社があるのに、大山町に鎮座する大山水天宮が祭神不詳と言うのはいかにも不可思議で、こんなものは古事記にちょっとだけ登場するウマシアシカビヒコジ(金官伽耶)と妙見宮、白山姫の別名でも知られる天御中主命の間に生まれた大山祗が母神と子神として祀られたものとしか考えようが無いのです。

百嶋神社考古学でも最終神代系譜を見ればその姻戚関係は表現されています。

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そもそも、日隈、月隈、星隈…と言う隈地名は、福岡〜博多に集中する雑餉隈、干隈、田隈、七隈…と対応し、近畿大和政権が応神天皇を祀る宇佐八幡宮の西方進出から全国展開以前にはその久留米、太宰府、博多の文化圏の一部であっただろうことは容易に想像が可能でしょう。恐らくその時代までは、大山祇系の勢力はこの近畿大和朝廷に先行する倭国(ここでは一応倭国としておきますが)の直属の勢力であり、菊池、阿蘇、小国方面からの進入路も遮断できる防衛部隊の拠点地だったはずなのです。

 その意味では、鎌倉政権が小国に地頭を配置し萬願寺を拠点に小国から南小国に掛けて太宰府、久留米など西からの脅威に備えたことの裏返しと考えれば素直に理解できると思うのです。

 二百メートルもある杖立温泉から小国町への大渓谷を考える時、静ケ岳から下城に掛けて防衛ラインを敷けば、急坂を遡ることも大変な上に、上から100人の弓隊を配置するだけでも、3千の部隊を防ぐことが出来る場所だったのです。

谷底からの矢は全く届かず安全なうえに、谷上からの矢は一方的に大軍を叩けたはずなのです(戦艦大和のアウトレンジ戦法と同じですね)。

正しく、日田から小国に掛けての大峡谷は他に通路がないだけに、お互いに遮断できる戦略拠点だった訳です。

その意味では日田とは北部九州のハートランドとも言うべきもので、船によって古代有明海の最奥部を犯すとしても、既にその移動中に連絡が届き、十分な防衛体制が取れたのでした。

その意味では、夜明の大峡谷と急流は西からの脅威から日田を守る最大の難関だったのです。

だからこそダンワラ古墳付近から金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡と言われる鏡が出土したのです。


日田はヤタガラスの本拠地だった


 ここで、以前から気にしていた日田と飛騨の事を考えて見ましょう。

 「日田はヒダではない、ヒタと清む」(「街道をゆく」の原文かどうかは未確認ですが本質ではありませんのでパスします)と言ったのは司馬遼太郎でした。

 言うまでも無く藩政時代において、最も評価された学問所が天領の日田に置かれた広瀬淡窓の私塾咸宜園でした。

こうして官学としての咸宜園は漢学が普及しと言うより庶民でさえ漢音を優先し、女給や仲居までもが漢音で話したと言うのは成り行きと言え当然だったからかも知れません。

大阪出身で京都に職を得た司馬は全く躊躇うことなく日田は山襞(ヤマヒダ)の清音化と理解したのでしょう。

後漢王朝崩壊後の混乱から黄巾族の乱を経て皆さん良くご存じの三国志の時代に入ると、曹操はこの戦いに勝利するために東方の鮮卑族を傭兵化して取り込み、結果として次の隋、唐王朝の開朝への水路が開かれたのですが、結果、鮮卑族は自らの言語を被征服民の漢族に押付けるのではなく言語と文化を受け入れています。

ただ、言語特性と発音だけは変えられず、日本人が中国語を理解する意味での呉音から漢音へと変化を起こしているのです(M音→B音、H音→K音、濁音の清音化)。

その象徴的なものの一つが日田(ヒダヒタ)だとすると、広瀬の咸宜園もその象徴であるわけです。

とすると、司馬遼太郎がいともたやすく日田を飛騨高山の飛騨と結び付けた事は、「街道を行く」を読んだ直後には非常に違和感を抱いたのですが、仮にそれを受け入れると日田と斉藤道三の美濃の飛騨に関連を見出すのです。

それは、飛騨の高山と呼ばれる高山の旧国名の美濃と呼ばれる事は、日田市の南に美納という交差点があり、それが久留米の耳納山に連なるのも薄いながらも関連を思わせるのです。

加えて日田の豊後日田出土の漢金銀錯嵌珠龍文鉄鏡、飛騨高山一之宮神宝、曹操墓出土鉄鏡、(中国本土でもう一枚)出土しているのですから興味は尽きません。

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もしも日田と飛騨に関連があるとすると、日田からの移動も含め古代への新たな思いが浮かび上がってきたのです。

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