太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「百嶋神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログを継続しています。


これにはプロバイダーを含め何時情報封殺が行われるかも知れないため、最低でも複数の発信媒体を準備しておくべきではないかと考えているからでもあります。


今後ともかなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史によるblogひもろぎ逍遥に対抗しようという意図はないのですが、華麗なひもろぎ逍遥に対して、緋色のボロ着で、神籬=ひもろぎ(ひぼろぎ)を逍遥=彷徨い歩き、神社を探るというほどの意味で、「ひぼろぎ逍遥」を随時書いて行くことにしたものです。ただし、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象なども認められます。


 さて、現在、ひぼろぎ逍遥とひぼろぎ逍遥(跡宮)との合計のアクセス数は日量10001200件(年間4045万件)まで上がっています。


 同時に、連携する研究者によるblog20近くまで数を増やしており、全体では最低でも年間100150万件近いアクセス数を持っているものと思われます。


 当blogには九州王朝論から百嶋神社考古学へと向かわんとする多くの研究者、記録者、bloger…が参集されています。


 年に10回、10年でも高々100回程度の研究会でも大半は教育委員会関係者から学芸員といった利権まみれの方々通説を拝聴し心服するような、研究者亡き研究会は全く何の価値もないものと考えており、そのようなどこにでもあるような話を好まれる方々は、そこら辺りの既存の郷土史会、史談会に行かれ、村興し、町興し、世界遺産登録に拍手を送り、思いっきり尾を振られれば良いでしょう。


しかし私達は後ろ指を刺される様な探究に踏みとどまり、これまでの歴代の行政権力が隠し続けた真実の歴史の探求へと向かう人々への道標と成ろうと思うものです。




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無題.png読者の皆さんに…真実の神社研究へのご支援を…


太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久




ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥の読者の皆様、また、グループのブログをお読みの皆様、暑い中、丹念無題.pngにお読み頂き有難いと思っています。


 古田武彦が亡くなり、また、百嶋由一郎氏が亡くなり数年が流れました。


 当初、貴重極まりない百嶋研究の一部でも残せないだろうかと考え、手書きデータや神代系譜文書のDVD化、音声データの保存、複製、宣伝という作業を続けて来ました。しかし、単にデータの保管、配布の体制を確立するだけでは継承ができないと考え、blogで百嶋研究の説明、現場実調を徐々に進め公開してきました。この結果、全国にも理解者が増え始め、神社研究ではなんとか特異な勢力を形成できる所まで漕ぎ着けました。


 既に、百嶋研究の一部でも接点を持った全国の二十五人を超えるブロガーが独自の側面から研究を進めておられますし、ブログは書かないまでも、神社調査を行い記録を残している方もおられます。


 勿論、統一性は取れてはいませんし、なかなか難解な内容だけに、解明できない問題についてはメンバーの若い世代に託すことになるでしょうが、なお不明なものは後世の研究者に期待する事に成るでしょう。


 百嶋先生と知り合いになったのは七年ほど前だったと思いますが、もしも後数年生きておられたならばもう少し古代、神代の謎を継承できたかも知れません。しかし、未熟な者だけで作業を行わざるを得なかった事から今尚皆さんにご迷惑をお掛けしているものと理解しております。


しかし、私達の能力を考えれば、むしろ上出来といったものかも知れません。


さて、メンバーの背骨を形成している中心的思想とは、当然にも九州王朝論です。


 百嶋先生も“私も九州王朝論が分かっていない人に神代史を教えても意味がないし、教えたくないですね…”と言われていた事が今でも耳に残っています(吾は百嶋由一郎の面受の弟子なり!)


さて、四月の近江〜但馬、五月の糸魚川〜諏訪〜山梨、六月の青森と15日間づつ三度に亘って長躯の神社調査を行いました。


ぶっ続けで調査すれば良さそうですが、落ち着いてリポートも書かなければならず、研究会のスケジュールもあってそういう訳にも行かず、各々3,0004500キロの往復の調査とならざるを得なかったのです。


今後も、三重、和歌山、岐阜、福井…と、よりきめ細かい調査に入るつもりですが、もはや資金が底を尽きつつあります。


元々、福島の原子力災害辺りから、これ以上行政機関に留まりたくないとの思いが募り、後先き考えずに58歳で早期退職した事から(当時上の娘は大学に在学中だったのですが)年金と言ってもギリギリ暮らせる程度の物で、なんとかここまで働かずに神社調査を行ってきましたが、既に限界点を越え始めたようです。事実、当会は研究を優先するためメンバーから会費を取る事なく僅かな参加費で運営しています。


人手不足の時代、まだ、働こうと思えば職はあるはずですが、拘束時間が長くなれば、研究を進める事ができないまま人生の終末期を迎える事にもなりかねず、できるだけ体力がある間に遠距離の調査に入りたいと思っています。このため、出来る事ならばこのまま神社研究に専念したいものと考えています。


基本的には年金生活で何とかやっていますので、月額であと二〜三万増やせれば、車の維持、車検、保険、介護保険料、研修所の維持、研究会の組織化、ネット規制に対応するためにもう一つ別の発信のためのサイトの準備……と増加する負担にも対応できるのではないかと考えています。


今後、研究内容を保全するためにも、外付けハード・ディスクをタイム・カプセル化して鍾乳洞に保管する(太陽フレアによる磁気データの消失への対策)とか、研修所の維持、後世に残すためにユーチューブ化してオンエアするなど新たな作業に入る必要も生じており、もし可能であれば、通説とは全く異なる百嶋神社考古学の保護と継承のためのご支援をお願いできないかと考えています。


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年間一口2000円以上の任意の百嶋神社考古学研究会の支援会員となって頂ければ、九州においでになった際に会員待遇として温泉付き研修所に一泊お泊めできます。九州での神社調査の拠点として活用下さい。


振込用の銀行預金講座、郵便貯金番号は以下の通りです。


 大分銀行 若宮支店 000093−7505802 フルカワ キヨヒサ


 ゆうちょ銀行 店番 778 預金種目 普通預金 口座番号 1165562 氏名上に同じ


また、もし差支えなければ、以下のメールにお名前と住所と電話番号を以下のメールに送信して頂き、カンパした旨の連絡を頂ければ、神代系譜のDVD(既にお持ちの場合はそれに代わる音声データなど)をお送りできるものと考えています。


 携帯のメール・アドレス ariakekai@ezweb.ne.jp携帯 09062983254 (常時対応)


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2018年09月13日

495 肥後、薩摩国境の温ノ谷に息づく神社を参拝して見た “水俣市湯ノ鶴温泉の湯出神社”

495 肥後、薩摩国境の温ノ谷に息づく神社を参拝して見た “水俣市湯ノ鶴温泉の湯出神社”

20171103

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 不知火海沿岸の人々の人生を水俣病と言う国家ぐるみの作為と不作為によって台無しにされたのが、旧厚生省とチッソの城下町であった水俣市ですが、水俣病が顕在化し始めた当時、市街地に住んでいる人々は薄々窒素の毒水が入った魚は危ないとして水俣湾で捕れた魚が売れなくなり、影響を深刻に理解していなかった山で売られていたことから、町から遠く離れた山でしか水俣湾の魚が売れず、こうして市街地から遠く離れた山間部にも水俣病が拡散されたのでした。

 丁度、福島の米とか魚などが深刻に意識されていない西日本で格安で売られている事と同じ現象がかつても起こっていたのでした。

 一般的には水俣湾に臨む湯ノ児温泉が知られていますが、アクセス道路の不備から今や人波が消えた忘れられた温泉の谷が湯ノ鶴温泉でした。

 数十年前、鹿児島県側の山側から、一度、訪れた事があったのですが、この地域に足を踏み入れていない事を思い出し、今般、熊本で集まりを持ったついでに足を延ばしたのでした。

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早速、「熊本県神社誌」の水俣市の部分を調べましたが、全く掲載されていないのです。

 相撲場、桟敷席もあり、それなりに古い神社である事は分かるのですが、全く掲載されていないと言う事は、この地が薩摩藩との国境の要衝の地であり、侵攻路の集落であった事が関係していたのかも知れません。

 これについては熊本県神社庁で調べて見るつもりですが、どうせ何も分からないのではないかと思うばかりです。

 後は自分で判断するしかありません。

 幸いにこの神社は顔の見える神社であり、とりあえず由緒書だけは残されていました。


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神社の由緒書きをそのまま信じるかどうかは絶えず意識していますが、ここには他に摂社、境内社の類が存在しない事から、この縁起は真実を伝えていると思われます。

 まず、一般的に肥後に出雲の神様が祀られていると言うこと自体が不釣り合いである上に、無理して偽装するならば、肥後に出雲の神様を持ち込むはずはないからです。

 ただ、この事によって、通常、大国主命が肥後に祀られないと理解されるのは短絡になりますので敢て否定申し上げておきます。

 熊本市西区の西里付近の川東大名己貴神社は隠れた大国主命祭祀の痕跡ですし、山鹿市志々岐の志々岐阿蘇神社の最奥部に大国主命祭祀(大国主大明神)の巨大神額が残されており、江戸時代までは普通に大国主命が祀られていた事が分かるのです。

 これ以外にも大国主命祭祀の痕跡はあるはずなのですが、肥後はその痕跡潰しが著しかったという印象だけは深まっています。

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狭い谷間に五軒ほどの旅館が並ぶ湯ノ鶴温泉


 肥後の最辺境部だからでしょうが、ここにも大国主命祭祀を発見した事はそれなりの発見でした。

 神社庁関係者の方に逆にお尋ねしたいのですが、何故、この神社が神社誌に掲載されていないのか?また、何故、出雲の神様とされる(あくまでもされるですが…)大国主命がこの僻陬の地に存在しているのかを御説明頂きたいものです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


この大国主命祭祀問題については ひぼろぎ逍遥 492 百嶋神社考古学が描く列島の古代 A 全国の九州王朝論者の皆さんに! “出雲神話とは” を読んで頂きたいのですが、今のところこの現象の解析については、幾つかの仮説を立てています。

百嶋由一郎最終神代系譜を見て頂ければお分かりの通り、大国主命は大山祗(トルコ系匈奴=熊襲)と埴安姫(雲南省昆明から海南島を経由して列島に進出した白族)の間に産まれた大幡主(博多の櫛田神社の主神でヤタガラスの父神)の配下の入ったプリンスなのです。

当然にもコノハナサクヤヒメとその父神である大山祗は、西都市の都萬神社や石貫神社で祀られており、石貫神社正面には大山祗命の墓とされる古墳(第2古墳群)までがあるのであって、宮崎県都農町に鎮座する日向国一の宮の主祭神が大国主命である事を考え合わせると、球磨川以南の南九州にはこのトルコ系匈奴と考える人々が大量に侵入し、北の卑弥呼の一族を圧倒していた時代が存在していたのではないかと考えています。

このため、球磨川流域でも大国主命、大山祗祭祀を確認しており、九州王朝の中期と考えていますが、この祭祀形態が筑後川流域にまで広く展開していた時代があったのではないかと考えています。

と、ここまでは言えるのですが、そのまま直線的に平面化して良いかどうかは、まだ疑問を持っています。

と、いうのは、大国主命、大山祗祭祀の基層に菅原神社系祭祀(勿論道真は象徴でその両親を意味する二つの流れ)を発見する事が多い事から、その痕跡がどこかに残されていないかを考えていました。

すると、観光用掲示板の隅でしたが、集落の下手にもう一つの神社を見出しました。

 一般的に肥後の神社は阿蘇系ばかりと考えられているようですが、肥後の3500社を考える時、1300社が菅原系であるという事実があります。

 そう考えて、その神社を見に行くと、案の定天満宮でした。

 つまり、この集落の下層には、道真に象徴される、両家(金山彦系と大幡主、ヤタガラス系)祭祀が存在していた可能性を思わせるのでした。

 そう思って街並みを散策していると、菅原系に見掛ける梅鉢紋が認められる事に気付きました。

 やはり、大国主命祭祀が覆い被さってくる前には、確実にスサノウ系、金山彦系祭祀が存在していた事が見て取れるのでした。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 11:15| Comment(0) | 日記

2018年09月10日

ビアヘロ063 上総国の龍宮 一宮町 玉前神社 (下)

ビアヘロ063 上総国の龍宮 一宮町 玉前神社 (下)

20180723

太宰府地名研究会 古川 清久


 ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)の右のリンケージ・サイトに未知の駅 捄フサがあります。

 千葉県在住の女性によるものですが、非常に質の高いトップ・クラスの歴史、地名、神社研究…のブログです。当グループと提携してまだ一年にもならないのですが、我々が最も重視している、千葉、茨城の東関東から福島(阿武隈山系)をカバーして頂ける素晴らしい研究者と期待しています。

私の予備知識は多摩地区、埼玉(元は前玉)の東としての玉前(前は崎、先でもあり東の意味もあるのです 豊後の国東と同様)程度です。

 このエリアでは、無題.pngのお二人が百嶋神社考古学の立場を理解された上で研究を進められていますが、新たに強力なスタッフが加わられたと考えています。

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さて、ひぼろぎ逍遥(跡宮)の ビアヘロ060 天照大御神の母神は播磨の佐用町で祀られている “百嶋神社考古学概論入門編 A”を掲載しました。

 無題.png天照と神武が同時代などと言えば通説派の方々は笑い飛ばされるでしょうが、百嶋神社考古学では、呉の太伯の後裔列島大率の子である神武の腹違いの姉大日孁貴(オオヒルメノムチ)が後に対外的にも卑弥呼と呼ばれ、最後に天照大御神と祀上げられた事を知っているのです。

 このため、天照大御神の母神を祀る播磨の佐用都比売神社の境内摂社を取り上げたことから、無理を承知で、神武天皇の母神(我々は神玉依姫と呼びますが)を祀る玉前神社のリポートをお願いしたところ、一週間程度で素晴らしいい報告をして頂きました。

 既に、オンエアされていますので、皆さんも彼女による 上総国の龍宮 一宮町 玉前神社 を他稿と併せお読み頂きたいと思います。


悠久の昔、山の神である鵜茅葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)が海の神である玉依姫命(タマヨリヒメノミコト)を見初め、契りを結ばれました。そしてお生まれになった神武天皇をはじめとする神々は、海までつながっていると伝えられる井戸から水路を通って、九十九里浜まで流れていかれました。

(同社HPによる)

 では、部分的に重複しますが後篇をお読み頂きましょう。


白子神社 白子町関5364 無題.png



すごい彫刻と男千木以下Wikipediaより永承3年(1048年)八斗村太夫野に大国主大神を勧請し奉祭したことが当社の創祀という。その後、大治元年(1126年)里人が海岸で潮を汲んでいると南方沖より白亀が漂着し、その甲羅の上に白蛇がわだかまっていた。

霊感を感じた里人が「神様ならお登り下さい」と潮汲みの柄杓を差し出すと柄を登ってきたので、これを神と崇め八斗村太夫野の社へ合祀したと伝えられている。

久安3(1147年)に現鎮座地の関へ遷祀し、治承元年(1177年)千葉氏の祈願所と定められ、宝永5(1708年)には正一位の極位を授けられ白子大明神の社号を賜った。

近世南白亀郷12ヶ村の総鎮守であり社号は白子町の町名の起こりである。

宝暦12(1762年)再建の現本殿と、矢大神(随神像)は、白子町の有形文化財に指定されている。

また境内の樹木群は白子町の天然記念物に指定されている。

甲羅の上に白蛇がわだかまっている白亀なんて、まんま玄武ですね。白子神社の側を流れる川の名前も伝説にちなみ、「南白亀川ナバキガワ」といいます。

玄武は北斗星信仰の妙見神と関わりが深いです。

千葉神社の妙見神は童子の姿で玄武に乗った姿で顕現したといいます。

白子神社の北辰大帝は北極星を神格化した神様で星空で唯一動かない星であることから、大陸では皇帝を表す「天皇大帝」と呼ばれました。

他にも「太一」や「妙見菩薩」とも同一視されています。白子神社では「北辰大帝」と称しています。

「白」の字の点が龍の顔に見えます無題.png

この「北辰大帝」こそ神玉依姫のダンナさんである「呉の太伯君」ではないかと考えています。


無題.png県内にたくさん星信仰の神社がありますが北辰大帝を奉斎する神社はいまのところ白子神社しか知りません。

そして白子町という町名の由来にもなった白子です。白族出身である神玉依姫に縁があるとしか思えないネーミング。族の孫の住む地、という意味でしょうか。

そして白子町を中心に広がる、ある小字の存在に驚きました。一宮の玉前神社から九十九里町まで、海岸線から内陸約1キロ付近に同じぐらいの間隔をあけて八大龍王が祀られています。

八大龍王は天太玉命(豊玉彦)の別名で、神玉依姫は彼から見ると父の姉です。

注目したいのが、その鎮座地の地名なのです。

なんと「龍宮」という言葉が使われているのです。

地籍までは調べられなかったので正確な小字名が不明な鎮座地が多いのですが列記すると、一宮町新地甲字龍宮下  諏訪神社がある一宮町一宮字龍宮・下龍宮  八雲神社がある一宮町東浪見字龍宮台  八坂神社がある長生村一松丙字龍宮台に鎮座、ほか上龍宮・中龍宮  海神社長生村一松戊  龍宮神社白子町古所字龍宮下・龍宮後・龍宮台  龍玉神社白子町八斗字北龍宮台・南龍宮台・龍宮台・龍宮下  八龍神社白子町幸治字龍宮  八大龍神社白子町驚字龍宮下  面足神社がある白子町剃金字龍宮台  八龍神社白子町五井字龍宮台  八大龍神白子町浜宿  龍宮神社白子町南今泉  竜神神社白子町牛込字竜神下  龍野神社大網白里市北今泉字北龍輪・北龍輪下・南龍輪・南龍輪下・竜神後・竜神前  八大龍王九十九里町真亀  龍宮神社九十九里町細屋敷  龍神社九十九里町粟生  龍神神社・龍神社以上19カ所。龍に関係のない神名の神社は、もしかしたら境内社に龍神が祀られているかもしれません。

地図の青いマークをご覧ください。

これは古代の海岸警備地の跡なのではと感じました。

玉前神社が創建された頃ではなく、もっと後の時代の事だと思いますが、厳重な警備をしなければならない理由が白子神社にあったのかもしれません。

等間隔で警備員を置いた「龍宮台」、そこには守るべき「龍王」がいた、なんて想像するとワクワクしますね!!でも神社の創建より北辰大帝が祀られたのは後じゃない?という声が聞こえましたよ!私もそう思っていたのですが、とある事実を知り納得がいったのです。

それが私幣禁断に類似する禁令です。

以下Wikipedia。私幣禁断とは、一般には天皇家の祖霊を祀る伊勢神宮を天皇・皇后・皇太子以外が祀ることを禁じたことを言う。これに似た内容の禁令が以下のように出されている。

796年日本の天皇は北斗七星を祀ることを禁じた。罰則として 「法師は名を綱所に送り、俗人は違勅の罪に処せ」 と規定した(『類聚国史』 「延暦十五年」)。

799年斎宮が伊勢神宮へ行くに際して 「京畿の百姓」 に 「北辰に灯火を奉る」 ことを禁じた(『日本後紀』 「延暦十八年九月」)。811年斎宮が伊勢神宮へ行くに際して九月の一ヵ月間、「北辰を祭り、挙哀改葬等の事」 を禁じた(『日本後紀』 「弘仁二年九月一日」)。

835年斎宮が伊勢神宮へ行くに際して九月の一ヵ月間、「京畿」 での 「北辰に火を供えること」 を禁じた(『続日本後紀』 「承和二年八月二日」)。967年施行の 『延喜式』 は斎宮が伊勢神宮へ行くに際して 「九月一日より三十日まで、京畿内、伊勢、近江、等の国、北辰に奉灯し、哀を挙げ、葬を改むる」 ことを禁じた。なお、1811年伊勢神宮の私幣禁断は解かれたが、北極星および北斗七星の祭祀解禁の時期は不明である。このことからわかるのは@北辰信仰は一定の時期、禁止されていたA北斗七星への星信仰は長く禁止されていたB北斗信仰は天皇家の祖霊に繋がる?です。これを知って、あ〜だから妙見信仰の粟飯原氏は千葉氏と手を組んだのか〜とか、白子神社ももしかしたら隠して奉祀していた御祭神を完全にOKになってからやっと表に出したのかな〜とか、表に出すために白亀と白蛇の話が生まれたのかな〜とか、でも「白」に拘るところがやっぱり白族だな〜とか、いろいろ考えてしまいました。白子神社本殿の神紋は忌部を現わす三光紋。それなのに祀られているのは大宜都姫ではなく男神。やはり神玉依姫のダンナさんの太伯君じゃないかなーと思うのです。そしてトドメの証拠なコチラ。玉垣神社睦沢町下之郷371現地取材に行けていないので画像がありません、スミマセン。

グーグルマップで見ていただきたいです(土下座)平城天皇が創建した六社の一つで元は若宮神社でした。御祭神はなんと神日本磐余彦なのです!神玉依姫の御子=若宮だから若宮神社だったのです!何時から玉垣神社に社名が変更になってしまったのか不明ですが、これも正体を隠そうとしての事だと思います。これまでに県内で何度か「神武天皇」の板碑や石碑は見たのですが、大きな神社で、しかも「神日本磐余彦」での奉斎は初めてです。玉垣神社鵜羽神社は平城天皇が創建した六社及び現在上総十二社祭に参加している12社の中でも別格扱いです。この事実からも玉前神社と深く関係する神社であることが読み取れます。

ただし一つ残念なのは、現在の玉前神社は元々の鎮座地ではないということです。

実はすでに安房国一宮安房神社、下総国一宮香取神宮も取材しているのですが、他の一宮に比較して規模が小さすぎる!!摂社末社も少ない!!おかしい!と思い玉前神社の歴史を調べたところ、永禄9年(1566)に里見氏と北条氏の対立による戦禍で一宮城が落城、玉前神社も焼失していることが判明。

この時社家を含む城兵300名余りが御神宝を奉じて海上郡守・海上刑部左衛門常忠を頼り飯岡に逃れます。なぜなら飯岡には玉之浦(現在の九十九里海岸)を挟んで一宮・玉前神社と対になる、もう一つの玉崎神社が鎮座していたからです。途中敵の襲撃を受け東金市田間にて草叢に隠れて一夜を明かしますが、闇の中御神宝が輝き里人に発見されました。

しかし事情を知った里人から情を受けて無事に飯岡へと向いました。

里人はこの出来事から当地に玉崎神社を勧請、村の名前も「玉村」となったといいます。(現在は「田間」になっています)その後、玉前神社の御神宝はしばらく飯岡の玉崎神社にありましたが天正5年(1577)に一宮町に戻ります。

しかしすでに宮地の所有権が変わっており困ったようですが、里見義頼が土地を寄進して復興できたといいます。(現宮地は義頼が寄進した地ではないそうです)では元はどこにあったかですが、私は城山公園付近に鎮座していたのではないかと考えています。

ということでFloodMapsで海の高さを+20mに設定した地図をごらんください。

見えますか?上総国一之宮玉前神社の文字。海の底ですね。海の高さを+20mにした根拠は、実はもう千葉県の一宮はすべて取材しているのですが、創建年代は古い順に書くと安房神社→玉前神社→香取神宮だと考えておりまして、安房神社で発見された古代海人の遺骨があった海蝕洞窟が海の側にあったとしてFloodMapsを調整すると+30mなのです。縄文海進は次第に海水が引いていったので、玉前神社では+20mとしました。


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ちなみに玉垣神社と鵜羽神社はこうなります。

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水際に鎮座する形になりますね。現・一宮町に神が上陸したのは釣ケ崎海岸であったと伝承は伝えます。

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東京オリンピックではここがサーフィン大会の会場になるそうです。伝承ではこの海の沖に豊玉姫の化身の鰐鮫がいるとのこと、サーファーの人達を見守っておられるのでしょう。

釣ケ崎の地名由来は山幸彦が釣りをしたから、という「海幸山幸」の物語の舞台が当地ということになっています。九州の伝承がそのまま伝わっているところからも黒潮に乗って船で遥々やってこられたんだな〜と感じます。「上総十二社祭」では当地に御神輿が集結します。千葉県では御神輿の御浜下りが普通なのですが、この神事も他の土地から船で渡ってきた祖霊を想っての儀式なんだろうなと思います。海を渡ってきた神々が水浴びをしたという地がこちら。


神洗神社一宮町綱田

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こちらは玉前神社の元宮であると言われています。玉前神社の宮司さんも認めておりました。

神洗池長い船旅で塩でベトベトだったでしょうから、真水は嬉しかったでしょうね。

特に女性であれば猶の事。こちらは海の高さが+20mだと・・・

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ちゃんと地上ですね。神々は上陸して割とすぐに真水を発見できたのでしょう。最後に玉前神社・白子神社の境内社を記載します。玉前神社の境内社本殿からは遠い場所にそれぞれ鎮座してました。

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十二神社・・・一宮町内にあった12社を合祀した神社愛宕神社  軻愚突智命八幡神社  誉田別命三島神社  事代主命白山神社  白山比売命日枝神社  大山咋命山神社   大山祇命浅間神社  木花開耶姫塞神社   八衢比古命・八衢比売命・久那斗命蔵王神社  大物主命粟島神社  少彦名命熊野神社  櫛御毛野命水神社   罔象女命

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三峯神社 不明

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稲荷社  不明 白子神社の境内社 本殿の後方、左右に鎮座。

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八幡神社 誉田別尊(本殿からみて右に鎮座) 仮安置 子安神社 木花咲耶姫大神

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面足神社 面足尊(本殿からみて左に鎮座) 仮安置 須勢理姫大神・事代主大神

オマケ 今回の取材で一番のオドロキ↑イケメン様!!!これからは面足尊をイケメン様とお呼びいたします。


お分かり頂けないかもしれませんが、息を呑むばかりのほぼ完璧なリポートを頂きました。

 これで、この間頭の片隅に張っていた蜘蛛の巣が解消されました。一点、加えれば、「●三峯神社 不明」は北関東、埼玉は秩父市の三峰神社と考えます。浅田真央さんが御注進の神社で参拝客急増の神社で、三つ鳥居(殷の鳥居)から金山彦〜長髄彦系の神社と思います。これについても、スポット110 三峯神社の殷の鳥居 ”金山彦系神社(埼玉県秩父市)”としてひぼろぎ逍遥に掲載しています。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ

2018年09月09日

494 高良大社と宮地嶽神社の謎を解くみやま市山川町の謎の神社

494 高良大社と宮地嶽神社の謎を解くみやま市山川町の謎の神社

20171103

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


今回は、以前からの懸案であった山川町の山神宮の意味をようやく理解できる端緒無題.pngが掴めましたので、途中経過ながらその一端をご紹介することにしました。

 場所は、筑後、肥後(九州王朝時代の筑紫と肥前の…)の国境の山川町(現みやま市)の南関インターに近い一角です。

 対応が遅れたのは、高良神社が背後に存在する事に気付かなかったからでした。

何度か訪問していましたが、当時は、山神宮の境内地だけを探し、高良神社の片鱗も無い事からそこで思考をストップさせてしまっていました。しかし、メンバーの大石氏はその裏手の小丘の上にも高良神社が置かれている事を掴んでいたのでした。

その事を最近になって教えられ、やっとスタート・ラインに立てたのでした。

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この神社がどれほど重要かは語り尽くせませんが、捏造され塗り潰された列島古代史の一端を垣間見せる筑後でも最も重要な現場がこの二社の祭祀連合体だったのです。

実は、百嶋先生の話を聴いていても、最も理解できなかった部分が、久留米の高良大社と福津市の宮地嶽神社の関係でした。

現在把握できているだけの範囲でお話し致しますが、筑紫舞が継承され九州王朝系と呼んで間違いない宮地嶽神社は、現在、神功皇后と勝村大明神(藤勝村)、勝頼大明神(藤勝頼)を祀る神社とされています。

ネット上でも、この勝村、勝頼という近世風の氏名から古代(若しくは神代)のものではないとして、祭神を宗像徳善とその臣下ぐらい…などと好い加減な見当を付けた意見が提出されていますが、まさに表面だけを浚った通説風の浅い追従論でしかなく、それも、宮地嶽古墳の主を宗像徳善…云々(Nダニ…)といった話が小田富士雄説の修整により潰れた事によっていずれは自然消滅していく事でしょう。

まず、宮地嶽神社は、現在、同社の祭神を神功皇后とその臣下である藤勝村、藤勝頼とされています。

百嶋神社考古学では、高良玉垂命(実は開化天皇)と仲哀死後の神功皇后との間に産れた第二子、第三子(朝日豊盛命、夕日豊盛命=九躰皇子の二子、三子…長子は仁徳天皇)とします。

このため、宮地嶽神社では高良玉垂命を伏せざるを得ない圧力があり、祭神までも変えていると理解しています。

一方、列島最高の権威を持った神宮以上の存在の神社であった久留米の高良大社も、本来は高良玉垂命と神功皇后それに仁徳を祀る神社であったはずなのですが、こちらは神功皇后と仁徳とを隠し全く無関係を装う事を持って生延びたのでした。

何故、そのような事が言えるかというと、筑後の重要な高良宮、玉垂宮といったものには、この高良玉垂命と神功皇后を主神として祀った痕跡が複数あり、それ以外にも、高良神社と、若宮神社として仁徳を祀る祭祀が国東半島を始めとして山梨…全国にも数多く拾えるからです(これについては半端な数ではないので「ひぼろぎ逍遥」跡宮のバック・ナンバーをご覧くしかありません)。

要は、本来、同一の祭祀(宮地嶽神社での高良玉垂命は、まだ、天皇にはなっていない、四王子山から高良山に上り天皇となる)の神社であったものを、宮地嶽神社ではワカヤマトネコヒコを隠し、一方、高良大社ではオキナガタラシヒメを隠す事を持って九州王朝の背骨を押さえ九州を平定したと考えるのです。

これこそが列島の神代と言うよりも古代史の最大の謎の部分であり、全国の九州王朝論者の方々にあってもほとんど理解されていないのです。

それは、フィールド・ワークの欠如(勿論、東北北海道の方々には中々要求できませんが…)による文献偏重が齎したものです。

九州王朝論者でも、ほとんど、百嶋神社考古学の学徒だけが懸命に取り組んでいる状態なのです。

従って、如何に古田精神を継承しようされても、現場に入らない方々ばかりでは、「高良玉垂宮神秘書」に書かれた右の部分の一端さえも理解できずに、95パーセントが嘘(百嶋由一郎氏)と言われた「記」、少しは本当を書いている「紀」の藤原の罠に陥り、通説派にあしらわれてしまう構造にあるのです。

まさに、「記」「紀」をベースに古代の解明をされる方々の熱意と努力には敬意を表しますが、これ以外にも「高良玉垂宮神秘書」(コウラタマタレグウジンヒショ)には多くの謎が隠され閉じ込められており(例えば欠史八代と言われる天皇の中にも多くの九州王朝系の臣下が天皇として差し入れられている…)、これらの謎を解明する事無く九州王朝論云々する事は、ほとんど、素振りや空振りに近く、それ以下の「全国邪馬台国シンポジウム」などに取り組んでおられる方々、ましてや邪馬台国畿内説論者などという方々のお話に至っては、ほとんど漫画に近い構造になっているのです。

このような列島古代史の最大の謎であり同時に罠の部分を解明する鍵になるのが今回の山神宮であり、この地が山川町であることも、久留米市の高良大社直下の山川町(校区)に九躰皇子を祀る高良皇子神社、坂本宮が存在している事を意識せざるを得ないのです。

百嶋先生が話されていた事を再構成すると、あれほど重要な天皇と皇宮皇后のご夫婦でありながら、宮地嶽神社でも高良大社でも夫婦別れをさせられている。

それを、年に一度ぐらいは夫婦をご一緒になる様にお祀りをさせようではないか…と判断し、表(下)は、宮地嶽神社、裏、奥(上)は高良神社という形で祭祀を行った形が認められる事から、この神社(山神宮)を創ったのは、恐らく、菅原道真公であろうと思います…。横に道真公もちゃっかり祀られておられます…。と言われていました。

この分離された高良玉垂命と神功皇后を復元しようとした神社ではあったのですが、現在は山神宮(山神社)として大山祗を祀る神社とされています。

神社を見ると、三階松の神紋が打たれ、神功皇后と仁徳と考えられる神像、道真公と思われる人像が下宮と言える山神宮の神殿に納められているのです。

逆に言えば、偽装して本当の祭神を守っているとも言えそうですが、現地のヒアリングを行っていないためこれ以上の踏み込みは許されないでしょう。

では、その神社をご覧頂きましょう。

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参集殿は 左から左三つ巴、三階松、梅鉢の神紋

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では高良神社に参りましょう

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神殿の御簾の内側には高良玉垂命が鎮座されていました 御簾を揚げる事から打上(ターシャン)神社と呼ばれる高良神社もありますが(大阪府) 神殿には鍵も掛けられておらず 少し開いていましたので きちんと閉める必要もありその前に少し覗かせて頂きました 「高良玉垂宮神秘書」では底筒男は月神とされています 高良玉垂命は月神でもあることから右三つ巴とも対応します

神像は一体で 御幣では三神とされている意味は 下宮の山神宮の神功皇后+若宮+高良玉垂命と理解しています これもいつ隠されるか分からない貴重な神社であり 第一級の文化遺産ですが 歴史ファンと称する方々も、村興し町興し宜しく宗像の馬鹿騒ぎしか関心がないようです

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:15| Comment(0) | 日記