ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1111 肥前、筑後の古瀬、小瀬さんは巨勢氏の後裔氏族ではないか?
20250716
太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川清久
巨勢氏が何者であるかを見る際に、「巨勢」姓ではなく「巨瀬」姓で「名字由来net」で読むと文句なし佐賀県であることが分かります。これは本家と分家or臣下という要素が反映されているのではないかと思います。

これは、私が佐賀県の出身であることもあり子供のころから多くの古瀬さんとのお付き合いが在った事もありますが、巨勢川が佐賀市を流れているのを知っていた事もあった訳です。
従って、巨勢川という河川名が在り、巨勢姓の分布も佐賀を示している事からこの部分では完全な対応を見せているのです。

次に、一般的な巨勢氏の理解見ておきましょう。
巨勢氏 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』20250716 12:42による
巨勢氏 氏姓 巨勢臣 のち巨勢朝臣 氏祖 許勢小柄宿禰 種別 皇別 本貫 大和国高市郡巨勢郷 著名な人物 巨勢男人 巨勢比良夫 巨勢徳陀 巨勢人 巨勢奈弖麻呂 巨勢野足 巨勢金岡 浄円院 ? 後裔紀州徳川家属旗本2家(武家) 凡例 / Category:氏
巨勢氏(こせうじ)は、「巨勢」を氏の名とする氏族。
大和国高市郡巨勢郷(現在の奈良県御所市古瀬)を本拠とした古代豪族である。巨勢の表記は、許勢・許世[要出典]・居勢・己西・既洒[要出典]にも作る。姓は初め臣おみであり、天武天皇13年(684年)八色の姓制定に伴い朝臣へ改姓した。
概要
記紀などの所伝によれば、孝元天皇の子孫で、武内宿禰の次男である許勢小柄宿禰を始祖とする。6世紀以降、朝鮮半島との外交・軍事に従事することによって台頭した新興豪族であり、継体天皇朝に大臣となった男人を始め、欽明天皇朝の稲持、崇峻天皇朝の猿・比良夫、推古天皇朝の大摩呂などが大夫(議政官)クラスの人物として見えているが、その系譜関係については明確でない。飛鳥時代にも、孝徳天皇朝の徳陀は左大臣、天智天皇朝の人は御史大夫として活躍した他、奈良時代に入ってからは麻呂と邑治が中納言、奈弖麻呂は大納言に昇っている。平安時代初め、初代の蔵人頭に任じられて中納言に昇った野足を輩出した後、公卿に昇った者はいない。大和絵巨勢派の祖である金岡は野足の曾孫。
動向
6世紀初め - 継体天皇朝に男人が大臣となり、娘の紗手媛・香々有媛を安閑天皇に嫁がせる。
用明天皇2年(587年) - 比良夫が丁未の乱に参加し、物部守屋を討滅する。
大化5年(649年) - 徳陀が左大臣となる。
天武天皇元年(672年) - 人が壬申の乱で近江方に加担し、流刑に処される。
天武天皇13年(684年) - 黒麻呂・紫檀が朝臣姓を賜る。
天平勝宝元年(749年) - 奈弖麻呂が従二位大納言に叙任される。
弘仁元年(810年) - 野足が蔵人頭に補任される。
巨勢忠善が紀州徳川家に仕え、徳川吉宗が将軍となると旗本となった。その後至信、至忠(以下省略)と続く。
巨勢氏の起源と系譜
(問い)九州の筑後地方の古代史を勉強しておりますが、貴ホームページの「雀部という氏」項に、「筑後から起った巨勢臣一族」との記述があり、この巨勢臣について大変興味を覚え、連絡させていただきました。
@「筑後」とは、今の地名でいえば、どのあたりになるのでしょうか。
A巨勢臣の名は何というのでしょうか。
Bその他、この巨勢臣に関するものをご教示お願いします。
(福岡県久留米市の妹川様より、2011.3.28受け)
(樹童からのお答え)
奈良に於いても、葛城、巨勢の表記は幾つもある事から、桂木、古瀬、巨瀬…の表記も転化は元より、実際には原形でだったのではないかとさえ考えています。
では、遠い近畿大和の大族になった葛城の巨勢一族とはいったい何者なのかを改めて考え直す必要があるのではないかと思います。
これは、単に近畿大和朝廷に先行して登場した葛城王朝…と言った仮説、風説が在る中で、その起源を脊振村にまで求める突飛な話があるはずも無い事は論を待ちません。
その点、古くから旧脊振村鹿路の桂木に注目し一言主神社が対応すると見抜き、九州王朝の本拠地の一つである高良山一帯のルーツさえも現佐賀市久保泉町から旧脊振村の鹿路に在ったと見
抜いた故)百嶋由一郎の慧眼には頭を下げざるを得ません。
私達は、今夏も150人規模の佃 収(埼玉在住の非古田武彦系九州王朝論者)の講演を取り組みましたが、この80代後半の老古代史研究者も葛城の一言主神社を手掛かりに、佐賀県三養基郡みやき町天建寺に鎮座する葛城神社を調べられていました。
私が佃研究に関心を持った10年前も、現在の干拓地に鎮座する同社は山中のどこかに本宮が在るはずで、みやき町のそれは後世の移設か入植者による持ち込みだろうと思いますと申し上げたのですが、残念ながら関心は持たれなかったようです。

この桂木は、現在、飯塚市に隣接する桂川町、飯塚市建花寺の桂郷神社、糸島市桂木、北九州市の香月にも、また、香月姓(昔の佐賀県知事にも香月が居ましたが)、香月姓は佐賀県内にもかなりあるようです(戦後直ぐの佐賀県知事も香月でしたね)。これらもどうも葛城、桂木一族に重なるのです。

古樹紀之房間 様より
1 巨勢氏の概要
巨勢氏は、大和国高市郡巨勢郷(奈良県高市郡高取町西部)を本拠とした古代雄族で、議定官としては、大化時の左大臣徳陀古から始まり、天武天皇十三年には臣姓から巨勢朝臣姓を賜わり、近江朝の御史大夫(大納言相当)の人(比等とも書く名前)は壬申の乱のときに近江方につき流刑となったが、その子・奈弖麻呂は大納言になり、その後も一族から中納言の邑治・麻呂や参議堺麻呂などを輩出し、平安前期の中納言野足まで顕官として朝廷にあった。その後の官人としては中下級として低迷するが、平安前期九世紀後葉の宮廷画家・巨勢金岡は絵画の名人で大和絵巨勢派の開祖となり、後裔は興福寺大乗院絵仏師、東寺絵所職として活動した。また、大神神社の祠官・越氏や京都大工の棟梁の中井氏はその末流とされる。
巨勢氏の祖は、『記』孝元段によると武内宿祢の二男(『三代実録』には五男)、許勢小柄宿祢とされるが、不明なことが多い。巨勢氏の史料初見は、突然登場して継体天皇元年に大臣となった巨勢(許勢)男人臣であり、その娘の紗手媛・香々有媛はいずれも安閑天皇妃となったことが『書紀』に見える。男人臣は、継体天皇を迎えるという大伴金村大連の提案に賛意を表して、即位後は大臣となり、娘二人が安閑妃となっている事情から、継体の登場とともにその支持勢力の巨勢氏が力を伸ばした。いま高取町西部の市尾駅北方近隣にある市尾墓山古墳(全長六六Mで二段築成)は馬具などを含む豪華な副葬品、埴輪X式、木製埴輪などを出して六世紀前半の古墳とされ、男人の墳墓とする見方(河上邦彦氏など)がある。近隣には、国際色豊かな副葬品をもつ宮塚古墳(全長約五〇M)もある。この辺りから、西南の巨勢寺塔跡のある御所市古瀬にかけての地域が巨勢氏の主要居住地とみられている。古瀬の宮ノ谷には巨勢山口神社もあり、巨勢寺の付近を巨勢川が流れる。
欽明朝には欠名の許勢臣が任那日本府の卿となり、男人の孫くらいの世代に比良夫臣が用明二年(587)に物部守屋大連を滅ぼす際に活動し、その同世代の許勢臣猿が崇峻朝に任那再興の将軍となり、『上宮法王帝説』に見える巨勢三杖大夫などを経て、大化時の徳陀古につながっていくが、男人と徳陀古との間の現伝系譜には数代の欠落があって、その間の許勢本宗の歴代や動向は不明である。
許勢小柄の母は、葛城襲津彦と同じ葛城国造荒田彦の娘・葛比売ともいうから、もっとも葛城本宗に近い姓氏ともいえそうだが、その傍証もふくめ、系譜を裏付けるものが何もなく、おそらく紀・平群(筑前国の志摩・早良郡の出か)、的(筑後国生葉郡の出か)などの諸氏と同様、祖を武内宿祢とするのは後世の系譜附会であって、北九州に出自をもつものとみられる。大和でも、神武侵攻時に和珥坂下土酋として居勢祝が見えるが、神武軍により誅されたというから、その流れではなさそうである。
以下に、巨勢氏の起源関係の検討をしてみる。
的(イクワ)は神崎市の白角折神社も在る大字です(古川)
2 巨勢氏の祖先と起源
系譜所伝によると、巨勢小柄の後は、その子の「乎利−河上−男人」と続くとされるから、この系譜が正しければ、始祖の小柄は仁徳朝頃の人となる。同族には雀部(ささべ・さざきべ)臣・軽部臣があったと伝えるが、雀部氏のほうから系譜に異議が出された。すなわち、『続日本紀』天平勝宝三年(751)二月条に、正六位下内膳司典膳の雀部朝臣真人は、「継体・安閑天皇の御世に大臣となって仕えた雀部朝臣男人は、同祖である巨勢の名をとり、治部省管理の系譜には誤って巨勢男人大臣と記されているから、それを雀部大臣と改め名を長代に伝えたい」と奏言し、当時の氏の代表者たる大納言奈弖麻呂もこれを認めたことから、この願いは許されている。これが史実であれば、巨勢臣を名乗る前の本姓は雀部臣だったことになる。
『姓氏録』左京皇別の雀部朝臣の条では、祖の星河建彦宿祢が、応神朝に皇太子の大雀命に代わって御膳に奉仕し監督をしたので、その姓氏・雀部を負ったといい、子孫は雀部の伴造であって大膳職や内膳司の膳部(かしわで)に任じた者が多かったというから、雀部朝臣真人の奏上に巨勢男柄の子と見える星川建日子(星河建彦宿祢)は、年代的に考えると、実際には巨勢小柄の親であった可能性がある。
なお、上記の系譜と符合しないが、『紀氏家牒』には、「建彦宿祢−巨勢川辺宿祢(亦曰く軽部宿祢)−巨勢川上宿祢−巨勢男人宿祢」という内容の記事が見えており、この系譜だと、世代的に「巨勢小柄=建彦宿祢」ということで同一人になりそうでもあり、判断が困難である。ここで、巨勢氏の祖は巨勢小柄と同人かその父となる建彦宿祢まで遡ったが、それより先を具体的に探ることはできない状態となっている。
雀部については、仁徳天皇(大雀命)の御名代であるが、全国的に多く分布するので、姓氏・系譜は一概に言えず、かつ、不明なことが多いが、『古事記』神武段に神八井耳命の後に雀部臣・雀部造があるというから、これらが皆、同族であったとすれば(君、連、直は別系統)、雀部臣については、神八井耳命の後裔で多臣の同族を称した肥君・阿蘇君一族であったという系譜が考えられる。そうすると、北九州の
筑肥に繁衍した建緒組命一族の流れで、筑紫国造・火国造と同族であったということになる。
ここで、雀部に関して
雀部臣を見て見ましょう。
許勢小柄宿禰 武内宿禰(姓) 後裔氏族 雀部朝臣/紀朝臣
説明
武内宿禰後裔氏族のひとつ。天武13年(684)に朝臣姓を賜った。『古事記』では、許勢小柄宿禰(武内宿禰の子)の後裔氏族として、許勢臣・軽部臣とともにあげられている。神八井耳命(神武天皇の御子)の後裔氏族にも雀部臣がおり、意富臣ら18氏族と同族関係にあったとされるが、こちらは朝臣姓を賜っていない。ほかにも宿禰・連・造・君・直姓の雀部氏が確認できるが、いずれも武内宿禰の後裔を称する雀部臣(朝臣)とは別族とみてよい。雀部朝臣は持統5年(691)に「墓記」を提出した18氏族のひとつに数えられるが、氏人の具体的な活動がみえるのは8世紀中葉以降である。天平勝宝3年(751)に雀部朝臣真人が、『日本書紀』にみえる「巨勢男人大臣」は正しくは「雀部朝臣男人」であり、それが許勢朝臣の系図に竄入してしまったと訴えた。巨勢朝臣の氏上であった奈弖麻呂は真人の訴えが正しいことを認め、「巨勢大臣」は「雀部大臣」に改められたという。このとき真人は雀部朝臣の氏上であったと推測されるが、その官位は典膳(内膳司の次官)正六位下にすぎず、ほかの叙爵者も確認できないような状況であった。しかし真人の訴え以降は、道奥(陸奥)・広持・虫麻呂、女官では東女と続けて叙爵者を輩出しており、「雀部大臣」の存在が雀部朝臣の地位に影響を与えた可能性が考えられる。しかしそれは長くは続かなかったようで、平安時代以降の叙爵者としては、弘仁14年(824)の家継、元慶3年(879)の宜子が確認できる程度である。なお経緯は不明であるが、斉衡元年(854)に氏人の春枝が林朝臣並人とともに、同じ武内宿禰後裔氏族の紀朝臣に改姓している。
『新撰姓氏録』には、応神天皇の時代に星河建彦宿禰(雀部臣の祖)が、ときに皇太子であった大鷦鷯尊(オホサザキノミコト、のちの仁徳天皇)に代わって御膳を管掌し、そのため大雀部の名を賜ったとの伝承を載せる。この伝承からは雀部の名の由来とともに、雀部朝臣が膳部に任じられる負名氏であったことが読み取れる。実際に、先述した真人は典膳の職にあり、また貞観7年(865)に内膳司内の死穢を隠匿して罰せられた祖道も典膳であったことから、少なくとも9世紀後半までは負名氏の実態をともなっていたようである。
参考文献 佐伯有清『新撰姓氏録の研究』考証篇第2(吉川弘文館、1982年3月)
まあ、これが権威ある通説派の説明ですが、我々百嶋神社考古学の者はこれを否定します。
そこで、百嶋由一郎 016−2 超細密神代金神系譜(部分)をご覧ください。
通説派は高良玉垂命を武内宿祢とします。しかも、屋主忍男武雄心命(佐賀県武雄市の武雄神社の主神)と山下影姫との間に生れたのが武内宿祢とするのです。
対して、百嶋由一郎の多くの神代系譜は久留米の高良大社に奇跡的に残った、「高良玉宮神秘書同紙背」により作られています。これには海幸山幸の名は使わないものの、その原型と思われる話が冒頭から書かれており、当然にも「古事記」、「日本書紀」以前に遡るものと考えています。
当然ながら、この武内宿祢を仲哀死後の神功皇后(皇宮皇后命)を正妃とした開化天皇とします。しかも、藤原が第8代とした孝元天皇と山下影姫とヤマトトトヒモモソ姫との間に生れているのです。それを近畿大和は孝元の腹違いの息子の大彦と武内宿祢(タケシウチノスクネ)が山下影姫との子という事にして、九州王朝の開化天皇(呉太伯の血を引く)の存在を消そうととしているのです。
要は年齢の近い腹違いの兄を高良玉垂命と偽装しているのです。
倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと/やまとととびももそひめのみこと、生没年不詳)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族(王族)。
第7代孝霊天皇皇女で、大物主神(三輪山の神)との神婚譚や箸墓古墳(奈良県桜井市)伝承で知られる、巫女的な女性である。
ウィキペディア(Wikipedia)20250718 21:10 による
では、真実を伝える百嶋氏の神代系譜をご覧ください。

百嶋由一郎 016−2 超細密神代金神系譜(部分)
百嶋由一郎が残した神代系譜でも最も難解で、一々調べながら解読しなければならない系譜です。
この中でも、武内宿祢の父が屋主忍男武雄心であるとするのも偽装か誤りで、久留米市の中心部の西を流れる筑後川の対岸(右岸)に鎮座する千栗(チリク)八幡宮の境内社「武雄社」の記録にその実態が描かれているのです。まあ、それはともかくも、藤原が決めただけの第8代孝元天皇と山下影姫の間に生れた兄大彦は良いとして、弟武内宿祢が高良玉垂命なのだと仕立てられているのです。
有馬藩久留米入府による有馬裁定によっても、開化天皇などではなく武内宿祢としているのです。
有馬裁定も、結局は通説に屈服したものだったのでしょう。

ここまで見てくると、漸く後に藤原となる草部吉見系(東方に進出した阿蘇氏=雲南省起源の黎族)による偽装が鮮明になり、尚且つ、それを受け入れざるを得なかった神代勝利の一族の系譜を落ち着いて見ることが出来ることになるのです。
まあ、とんでもない偽装を遣らかしたもんですが、この高良玉垂命=藤原が第9代とした呉の太伯と神功皇后との間に生れた仁徳天皇の弟朝日豊盛命こそが巨勢氏のルーツと考えられるのです。
ここで、少し注意を要する事が有るのですが、近畿大和朝廷(これも佃収説によれば、白村江の大敗北の結果、天武天皇が本拠地を生駒山の東の奈良盆地に移したことから始まるのですが、…)それに先行して、仁徳天皇(藤原によって第16代とされたオオササギ…聖帝)は浪速高津の宮(上方落語に登場する「高津の富」の「仁徳さん」)に先行し既に九州王朝神霊東遷が行われているのです。
それまで奈良はまだ開拓が始まったぐらいだったはずなのです。まあ、4世紀の初めの話です。
それを前提に考えますが、白江戦の大敗北による太宰府占領(恐らく久留米も)による7世紀半ば以降に本拠地を列島の深部に移したの天武系の勢力も実は広義の九州王朝の勢力だったのです。
その、生駒の東麓に本拠地を移したのが葛城一族なのか、既に4世紀の初めの安志奇命(恐らく神功皇后の連子)の一族が直接的な葛城一族の末裔と伝えているのです。
そこに、巨勢氏も新たに混住している様に見えるのです。
そうすると、あくまでも葛城一族は神功皇后の連子と言われる葛城長江曽都毘古の流れを汲む人々で、そこに、長子なのか次三男なのかは不明ですが(古代は末子相続で長子は新天地の開拓に入るのです)、開化天皇と神功皇后の実子で次男の朝日豊盛命の一族が移動していったのではないかと思うのです。
再掲載
佐賀(脊振村)〜福岡(うきは市)〜そして奈良の御所市(葛城の東)に移動した巨勢氏
長年神社を調べていると、うきは市がどのような氏族、それどころか、大げさに表現すれば如何なる民族が住み着きどのような提携関係を結んでいたかと言った事までが見えてくるのです。
一応、あまりハッキリと申し上げると反発される方も居られることから控えますが、大まかに言えば、うきは市でも西の吉井町に金山彦系が、東の浮羽町に大山祇系が展開し、筑後川沿岸というか、古代久留米湾岸とでも言うウオータ―・フロントに志賀島の海人族が展開しているようです。

通説では奈良県御所市も巨勢氏の大きな居住地だったとされていますが、そこを見ると巨勢氏が居たと思われる、地域が浮かび上がってきます。
故)百嶋由一郎が残した90枚の神代系譜(スキャニングDVD)、MP3による40時間の演録音声CD、手書きデータスキャニンクDVDを必要な方は090-6298−3254まで


にお読み頂き有難いと思っています。











葛城一言主神社の南東の裾野に長柄神社があります。
久留米の高良山の大祝の一族(神代勝利は戦国期に高良山=九州王朝の本拠地奪還の為に龍造寺氏と一大決戦を行った)で、高良大社を追われた古代九州王朝で高良玉垂命と神功皇后の子である朝日豊盛命(許勢小柄=許勢小柄)の末裔である神代勝利の一族に依って継承された神代家系図に書かれた長子シレカシノミコト(実はオオササギノミコト=仁徳)以下




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結果、林野庁の私的な利権を維持するためだけの意味のない林業の放置の結果、山林の保水力の喪失から山林の土壌流失と砂漠化による両省による、森林と河川が国土と国民と国民経済への脅威となっているのです。
















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