2023年11月03日

972 気ままな上州への神社調査 ⓯ “群馬県甘楽郡甘楽町金光山白倉神社”

972 気ままな上州への神社調査 ⓯ “群馬県甘楽郡甘楽町金光山白倉神社”

20230511

太宰府地名研究会 古川 清久


 既に、戸隠神社を最後に今回の甲信+上州(一部、伊豆+駿河)への一ヶ月の神社参詣のレポートを一旦は閉じました。

 絶対書くべき事を書いてしまい気が楽になった以上、今後は気を抜いて少し自由に書いてみたいと思います。

 もうそろそろ、戻って来て一月になり、今や、チェーンを持って調査に行ったことが不思議に思えるほど暑さを齎す好天に恵まれ、毎年この時期に行ってきた温泉付き別荘と言うか研修所のウッド・デッキの塗装に取り組んでいるところです(まあ、少しずつやりますので、一週間は掛かるでしょう)。

 さて、関東在住メンバーのTと別れた後、一人で神社を廻っていると、金山彦系、天御中主系と思える神社をカーナビで見つけたためかなり走った後でしたが引っ返して参拝させて頂く事にしました。

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前橋、高崎、安中、富岡、藤岡、仁井田…と群馬県の中心部に近い一角に甘楽(カンラ)町があり白倉神社があります。

妙義山、榛名山、赤城山と名だたる物部系とも言える特殊な神々が祀られ、それらを奉斎する人々が山岳修験として支え、一旦必要がある時は直ぐに山々に立て籠もりパルチザンのような抵抗勢力を形成することが出来たはずなのです。

その延長上に赤城山の国貞忠治もあったはずで、一夜にして、一帯から300人もの命も捨てる子分が集まり、侍共も容易には手を出せなかったと伝えられているのです。

まあ、そんな話は忠治親分に失礼かも知れないのでヤメておきますが、それも山岳修験だらけの上州故なのかも知れないのです。まあ、江戸時代も悪代官とか越後屋みたいな連中は居たでしょうから…。

間違いなく義賊ですね!上州はヤクザ者、逃亡者と言えばお叱りを受けるでしょうが、私にとっては素晴らしく立派な人々が闊歩していたと言うイメージを持っています。

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さて、話がとんでもない方向に流れてしまいましたが、これほどの物部氏といわれる多くの職能集団が住み着いていた地帯ではあるとしても、平野部にもそのような祭祀があるのではないかと探していると、たまたまカーナビに白倉神社が浮かび、天狗の神社とも言われていることが分かれば間違いないと思い参拝に至ったのが同社でした。

 天狗はともかくとして初めに目についたのは立派な舞殿があることでした。

 由緒には「太々神楽」が継続されていると

書かれていました。同じ富岡、甘楽の神社のと合同か連携され継続されているのでしょう。

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和銅年間に小幡氏による鉱山開発に伴い金山彦を祀ったものである事が書き留められていました。

そして、天狗を奉斎していると言うこと自体、鼻の高い天狗に象徴される渡来系の集団と配下の人々が命かけで地下に潜り込み鉱脈を探り坑道を掘っていく危険を緩和するために祀ったものが、この神社の本質だったのです。

その意味では、群馬県一帯という古代には相当に山深い地域にはそれなりに有力な交易品としての金属精錬、冶金、探鉱などといった山師による産業が存在し、価値ある土地柄だった事が見えてくるのです。

百嶋由一郎が残した神代系譜にはその一端が書き残されています。最低でも榛名山の金山彦、赤城山のウマシアシカビヒコヂが見えてくるでしょう。以下ご覧ください。

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078超細密金神系譜 (2)


百嶋由一郎が残した神代系譜DVD、講演録音声CD、手書きデータスキャニングDVDを必要とされる方は090-62983254までご連絡ください

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JA甘楽のサイトに白倉神社本宮に関するものがありましたのでご紹介しておきます。

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2023年11月01日

971 15世紀の神殿がそのままの形で残されていた(補足) ”伊万里市波多津町畑津 田島神社“

971 15世紀の神殿がそのままの形で残されていた(補足) 伊万里市波多津町畑津 田島神社“

20230511

太宰府地名研究会 古川 清久


以下は以前公開した新ひぼろぎ逍遥950の本文です。

この間、佐賀県在住メンバーの増加に合わせ、少しずつですが佐賀でのトレッキングを行っています。

既に、トレッキングを行った所でもある事から、後から加わられた方については分離した形で小規模な現地探訪を行うことになります。これもそうした中の一つですが、伊万里湾に面して唐津市との境界に近い伊万里市波多津町に田島神社があります。 今回、最後尾で500年前の神殿建設痕跡をお見せします。

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田島神社 カーナビ検索 佐賀県伊万里市波多津町畑津1260


波多津町にはこの他に筒井地区、板木地区の二つの田島神社があり、その密度を考えるとこの波多津町とは田島神社の影響下にある土地である事が分かります。併せて、細い水路が神社と神宮寺と考えられる曹洞宗宝泉寺の正面まで船が入ったはずで、奥まった安全な土地に同社が置かれていたことが分かります。 

畑津 田島神社

    祭 神 多岐津姫   菅原道真   天忍穂耳命

        市杵島姫   伊弉諾命   伊弉冊命

        田心姫    大國主命

田心姫=豊玉姫は山幸彦の妃の後に大国主の妃になりますのでおかしくはありません。


  筒井 田島神社

    祭 神 湍津姫命   大山祗命

        田心姫命   猿田彦命     この枠内の3神は明治五年の無格社の追加とある

        市杵島姫   大山咋命

田心姫=豊玉姫は山幸彦の妃ですので、猿田彦=ニギハヤヒという表現もおかしくはないのです。

 市杵島姫は阿蘇高森の草部吉見の妃になり大山咋を生みますので母と子の関係です。


  板木 田島神社

    祭 神 田心姫命   三島大神   神皇産霊尊   高皇産霊尊

        湍津姫命   天満大神   大山祗命 この枠内の7神も明治五年の追加とある

        市杵島姫   品陀和氣命  倉稲魂命          以上「佐賀県神社誌要」

三島大神は愛媛の大三島の大山祗神社でしょうから三島大神と大山祗命とは重複に見えます。


祭神に系統的な統一性がないなあと感じていましたが、明治5年神仏分離令期の反映のようです。

奉斎神を見るとかなり異なった民族(刺激が強すぎますかね)が混住していたことが推察されます。

非常に近接した集落でこのような祭神が奉斎されているのは歴史の古さから来るものか、この三集落には異なった氏族であり、父方、母方で異なる家系が反映されているのかも知れません。


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「佐賀県神社誌要」は要点だけを纏めたもので無いより有難い程度のもので仕方がありません。
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唐津市呼子町の田島神社含めれば10社近い集積が確認できる訳で、宗像大社の辺津宮の大字田島も西から東へ展開したのではないかとの推定が可能かも知れません。

 1936年の「佐賀縣史蹟名勝天然き紀念物調査報告」の呼子町の田島神社の部分を読むとそう書いてもあるのです。


無題.png以下伊万里市のHP

(2009108日更新)国指定重要文化財 建造物 田嶋神社本殿

波多津町畑津1260番地 昭和62年(1987)6月3日指定       

無題.pngこの神殿がこれまで見てきたこともないとんでもなく素晴らしいものだったのです。

 再度、撮影をし直し皆様にお見せしたいと思います。

 ただ、SDカードを抜いていたため撮影できなかったのです。

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画像は「おまいり」より


佐賀県在住者の方はほぼご存じと思うのですが、太閤殿下の大陸進出の前線基地となった唐津市の呼子、旧呼子町の沖に浮かぶ壁島に田島神社(国幣中社)があり、宗像大社と同様の三女神が祀られているという事実です。

佐賀県唐津市呼子町加部島3965-1

主祭神: 田心姫尊 市杵島姫尊 湍津姫尊 まさしく宗像三女神です。

 では、安芸の宮島のルーツと考えている福岡県飯塚市鹿毛の厳島神社をご覧下さい。

 この神社は歴代白王家が守ってきましたが、明治の神祇官からの強要で「白王」姓は天皇に対して不敬として変名を命じられ渋々王の横一棒を抜き白土姓に変えておられます。宮司家男子だけは白+、を使用することにされています。

宗像三女神の筆頭に掲げられる事の多い市杵島姫(正確には瀛津嶋比賣命)命の名は由来する以上に、市杵島姫の幼名の佐與姫の佐與という大字が鹿毛に隣接して存在することから、市杵島姫はこの地に住んでいたから佐與姫とも呼ばれていた可能性が考えられるのです。

ちなみにこのは秦の始皇帝の(嬴政=エイセイ=インチョン)でもあるのです。

飯塚市鹿毛馬(かけのうま)の厳島神社は宗像三女神を祀るのは、宗像大社、安芸の厳島神社以上の神格を持った神社だったはずなのです。

そして、その構造は更に東に飛び、兵庫県但馬(田島)に隣接する佐用町の佐用都姫神社の市杵島祭祀にまで繋がっているのです。


無題.png 厳島神社 カーナビ検索飯塚市鹿毛馬1088


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このように宗像系氏族(基本的には天御中主命と金官伽耶にいたトルコ系匈奴ウナシアシカビヒコヂ=大山祗命の父神、大国主命の祖父神)は西から東に展開しているのです。これが畑津、筒井、板木の三社にも大山祗命、大国主命祭祀が残っているのではないかと考えています。

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 佐世保の沖、西海市には呼子ノ瀬戸、七ツ釜…玄海灘と対応する地名があるのです

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呼子の田島神社を考える時、佐世保から北上している可能性も見ておくべきなのですが、やはり重要なのは、秦氏の神社としての田島神社の東への移動を意識しておくべきで、分かり易い例は、唐津市湊(湊厄神社あり)の「湊」地名と、宗像大社の辺津宮正面の神湊の「湊」地名であり、この湊地名は日本海側に展開しているのです。

 山口県長門市仙崎、島根県太田市湊、温泉津町福光湊、鳥取県境港の湊町、鳥取県岩美郡岩美町湊神社、岡山県岡山市中区湊、兵庫県南あわじ市湊…まだまだありますが、これぐらいで、残りは皆さんで。

 では、宗像三女神を奉斎する氏族とは一体何なのかを考えておきましょう。

学者の世界でも始皇帝はイスラエル系であり、周王朝も同様だと言う話は比較的流通していますが、百嶋由一郎氏も同様の話をされていました。ここでは百嶋先生が残された最終神代系譜から改めて考察したいと思います。

ただ、三女神は姉妹であるなどと言った話は誤りですので、始めからそのような事は頭の片隅から消し去っておいていただきたいと思います。

 勿論、親族ではありますがかなり離れているものもあり、まあ、大きな葬儀などでは一堂に会することもあるだろうと言う程度の関係ではないかと思います。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分) これまでにも何度となく触れていますので説明はしませんが、鴨玉依姫が京都の下賀茂の主神になっており、豊玉姫は田心姫、市杵島姫はスセリ姫…に対応します。



無題.png国指定重要文化財 建造物田嶋神社本殿

波多津町畑津1260番地(伊万里駅より車で35分)

昭和62年(198763日指定


以下、前回、撮影に失敗していた肝心の部分500年前の神殿建設の痕跡を再度撮影しましたので、以下画像のみお見せ致します。

今回は、これだけがブログの目的となります。


 どうしてもこの神殿をご覧になりたい方は当方までご連絡ください090-62983254(古川)…


前回撮影の失敗から掲載できなかった中世神殿建設の精華を再掲載しご覧に入れます

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ご覧のように覆いが掛けられており一般の方が神殿を見る事はできません

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建造が難しいと思われる部分、精巧な技術が投入される部分にも手斧(チョウナ)の痕跡があります

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2023年10月27日

960 気ままな上州への神社調査 ❻ 山の国上州の妙義神社 “陰に置かれた金山彦…”

960 気ままな上州への神社調査 ❻ 山の国上州の妙義神社 “陰に置かれた金山彦…”

 20230324

太宰府地名研究会(百嶋神社考古学研究班) 古川 清久


妙義山、榛名山、赤城山と言えば、上州を囲む山岳修験の神社群として著名です。

それは、大東亜戦争以前に完成した巡洋戦艦榛名(艤装の後正式の戦艦に)、ミッドウェーで壮絶な終焉を迎えた空母赤城にもその痕跡をとどめています。

恐らく、艦内神社にも榛名神社、赤城神社の神々が祀られていた事でしょう。

先に、下仁田町、富岡市に入った事から、妙義山神社を書くことになりますが、富岡市内を北西方面(高崎市からは西)に走るとゴジラの背中の様な異様な山塊が見え始めます。

これが妙義山なのです。

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県民の方には失礼になると申し訳もないのですが、群馬県は言わば関東平野の袋小路の様な国で、西はこの妙義の大山塊、北は著名な碓氷峠、四阿山、榛名山、赤城山に、南は信州街道の南に聳える荒船山、両神山と多くの山々に囲まれ、僅かに東だけに開けた袋地のようなところなのです。

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大山塊への門番の様な神社ですが、どうみても山岳修験を意識してしまいます。

 それは、修験で知られる四阿(あずまや)山にも繋がるからで、信州真田氏の裏山が妙義山の繋がりなのです。

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猿飛佐助は架空とも言われますが、多分、真田十勇士の霧隠才蔵も山岳修験の延長の人だったのです


緑円の妙義山神社は信州側の支店のようなものなのでしょう。

 問題は、この神社が如何なる素性のもので、如何なる神を奉斎しているかです。

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現在の本社(本殿・弊殿・拝殿)  国指定重要文化財


祭神

日本武尊      景行天皇の皇子で、第14代仲哀天皇の父にあたる人物として有名な神様

豊受大神      伊勢の外宮の社神

菅原道真公  

権大納言長親卿   南北朝期 後醍醐帝の公卿


 どうもこの祭神にはバランスから合点が行かない印象を持ちます。

 日本武尊と豊受大神がどう結びつくのか?

 ヤマトタケルと伊勢の内宮の天照大御神ならば、伯母とされる倭姫命を介して関係性を辿れはするのですが、配神としては繋がりが薄く、何やら重要な神が脇に追いやられている様に見えるのです。

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境内社には、天狗社、水神社、愛宕社、厳島社、稲荷神社…が拾えるのですが、まず、水神社と厳島社があります。

通常、水神様と言うものの大半は、天御中主命、ミヅハノメ、厳島姫の三柱がほとんどであることから、厳島社がある以上、上殿の水神社はミズハノメのはずなのです。

そして、天狗社がある以上、隠された若しくは脇に移された神様(本来の主神)とは愛宕神社とされた金山彦以外にはないように思えるのです。

ここで、ようやくこの神社の本質が見えてきたのです。

 このような謎解きができるのが百嶋神社考古学の神髄で天上の百嶋由一郎氏に感謝するところです。

 天狗社は八天狗=求菩提山に象徴される金山彦系修験の本拠地ですが、後に国東半島と彦山の修験に挟撃され、豊前を撤退し西の肥前(佐賀、長崎)に拠点を移します。

 ミズハノメが水神とされていますが、神大市姫=ミヅハノメは大山祇の姉として金山彦の妃になっていることから、上殿には天狗社に象徴される金山彦系修験に固められていることが分かるのです。

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日本武尊ことヤマトタケルも金山彦の孫のオキツヨ足姫の流れを汲み息子の仲哀、従弟の景行(通説では父としますが)も祭神の日本武尊に繋がるのです。

ここまで見てくると、肥前(佐賀県小城市)に、何故、四阿山があるのかも納得が行くのです。

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四阿屋神社 カーナビ検索佐賀県鳥栖市牛原町1385


佐賀県鳥栖市には四阿屋神社があり、背後の修験の本拠地であった九千部山の麓には八天神社が複数存在するのです。

 お判りいただけたでしょうか、肥前の八天神社、四阿屋神社などをご確認いただければ、上田市の真田一族などもイスラエル系でもある金山彦の末裔であり、群馬県にも金山彦系の物部氏が大量に入っていることが分かってくるのです。勿論推定ですが、金山彦は同族として秦の始皇帝と姻戚関係を結んでおり、その後裔が、妙義山、四阿山神社…として繋がっているはずなのです。

 その事実を隠す必要が生じたのはナガスネヒコの乱以降の情勢変化もあったのではないかと思っています。

 その意味では、富岡製糸工場の富岡市が富岡と呼ばれていることも富のナガスネヒコに通じますし、上州の最奥部に妙義神社が在り、四阿山神社が在る事とも符合するのです。

長野県 上田の四阿山山頂 山家神社奥宮は四阿山神社とも呼ばれているのです。

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山家神社 奥宮 西宮(信濃社)カーナビ検索上田市菅平高原


 実は、埼玉県の奥秩父(旧両神村小森)にも四阿屋山があります。

 当然にも四阿山神社が在り、現在はゴルフ場がすぐそばまで迫っていますが、幸いなことに町指定史跡に指定されており、当面の保存は問題ないでしょう。

 問題はその神社の性格が継承されるかです。そのためにはこの神社の成立の背景を理解する必要があります。

 今回、山中湖の友人の別荘から降りて甲府市の北隣の山梨市から140号線に入り7キロの雁坂トンネル

を抜け降れば、旧両神村は問題なく通過できそうと考えました。当会の埼玉県在住メンバーのT氏と合流し榛名神社、赤城神社に参拝する前にこの神社にも参拝し踏み入りたいと考えたのでした。

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四阿山神社 カーナビ検索埼玉県神川町下阿久原1369


昭和44111日指定 所在地 神川町下阿久原1369

日本武尊が東征の折、この地にしばらく滞在したことから、後に住民が祠を建てて祀ったと伝えられています。四阿を古くは「あずまや」といったのは、日本武尊が妻を思い嘆いた言葉「吾嬬者耶」に由来するといわれています。祭神は日本武尊、橘姫尊です。


像は地元の 無題.png サイトから、上記文は神川町の公式HPより転載したもの


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“波己曽とは岩社(いわこそ)”との説もあるも、良く判らないのが、この意味です。

当然、キムダルスを持ち出すまでもなく、比売許曾神社、上許曾神社…があるように、許曾は社の朝鮮語の意味であろうことは確実で、何れ判る時も来たら良いと思っています。

もう少し紙面の余裕があることから、お話ししたいと思いますが、もう一人の水神さまで弁財天様の異名までも持つ市杵島姫様も波己曾社の隣に厳島社として鎮座されています。

 この厳島姫の「厳」は代字であって、本来は島姫と書いていたのです。問題はこのが秦の始皇帝の姓と関係があるのです。

 そうです、始皇帝はの名も蠃政(エイセイ=インチョン)蠃政とされているのです。

無題.png弁財天社


 それは、モーゼの血を引いていたと思われる金山彦は始皇帝と相互に姻戚関係を結び、製鉄技術を携え渡海し列島に入ったことによって氵(サンズイ偏)を付したのでした。

 さらに掘り下げれば、宗像三女神の筆頭とされる市杵島姫もスサノウとアカルヒメとの間に生まれた神であり娘なのです。

 もう一つ付加すれば、豊受大神(同社の看板とも言うべき伊勢の外宮様)も百嶋最終神代系譜をご覧になれば分かるように、金山彦の娘である櫛稲田姫を妃として、自らもミズハノメ(大山祇の娘であり大国主命の姉)を妃として伊勢の外宮様=辛国息長大姫大目命を生んでおり、この意味でも祀られて相当となるのです。

そして、伊勢の外宮様とは伏見稲荷と同体であることから稲荷神社そのものも、スサノウと神太市姫(ミヅハノメ)の子となることから妙義神社とは金山彦系の祭神と言ったもので固められている事が分かったのです。


無題.png稲荷社


一番違和感を持たれる秦始皇帝(ユダヤ人)金山彦説については以下をお読みください


106 白川伯王家源流の神社初見 飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院 共通掲載


318(後) 春本番!安芸太田から邑南町の神社探訪 @ ここにも忌部=瀛(イン)氏がいた!


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

838(前) 「秦の始皇帝はユダヤ人であった」と日本国史学会の学者が話している



百嶋神社考古学の神代系譜、講演録音声CD、手描き文書スキャニングDVDを必要な方は090-62983254まで

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