2026年07月06日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1133 への新ひぼろぎ逍遥 943の転載(後) 北部九州の大彦(開化天皇の親族)の一族が武田氏となり九州に下向し金八先生になった…? ❶

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1133 への新ひぼろぎ逍遥 943の転載(後)

北部九州の大彦(開化天皇の親族)の一族が武田氏となり九州に下向し金八先生になった…? 

        20221207

 太宰府地名研究会(編集員) 古川 清久


熊本県南小国町にある満願寺(まんがんじ)の小国郷は鎌倉時代、執権・北条家の所領でした。

そして、1274年、文永の役の際に鎮西奉行となっていた北条時定が、国土安泰を祈願して建立したと伝わります。

満願寺の庭園は、庭内の心字の池の中心部に「都忘れずのつつじ」が植えられているなど、室町時代の趣があり、九州最古の庭園と言われています。

この満願寺には執権・北条時宗の姿として代表される肖像画「絹本著色伝北条時定像」があり、その価値から国の重要文化財に指定されています。

ただし、実際には北条時定の嫡子・北条定宗の像とも考えられています。

…中略…

そして、北条時定の兄である北条経時は、鎌倉幕府の第4代執権に、次兄の北条時頼は第5代執権となっています。

北条時定は、執権にこそなれませんでしたが、準じる家柄であることから鎌倉では将軍の側近を務めました。

また、北条時政以来、代々継承されてきた肥前・阿蘇社の所領を継いで、阿蘇時定と称します。

そして兄・北条時頼が死去すると、弘長4年(1264年)の百カ日仏事に際して、肥前・満願寺を開創したのです。

元寇となると、1281年に肥前守護となり、8月頃に鎮西として下向したとされます。

そして、北条為時(阿蘇為時)とも一時名乗りますが、1287129日には鎮西奉行となり、蒙古対策を担当しました。

北条時定には、北条時家、北条随時と言う子がいたようですが、まだ幼少だった模様で、1289年、養子である北条定宗に家督と肥前守護職を譲ります。

そして隠居すると、12901015日に博多にて死去しました。

このように、北条時定(阿蘇時定)は、鎮西に下向した阿蘇流北条氏(あそりゅうほうじょうし)の祖とされ、九州に土着しました。…

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 大分の由布院温泉、熊本の黒川温泉で知られるのも阿蘇郡南小国町で、その西の外れの奥まった隠里風の小集落には今も156軒の農家があり、戦前までは20軒の文字通り武田姓ばかりの集落だったそうです。


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集落を見下ろす一段と高い場所にあった武田イクさんの生家の跡地は現在農地に戻っています。

無題.pngこの集落の全てが鎌倉以降下向した武田一族の領地となったようで、確かに武田鉄矢氏は武田信玄と流れを同じくする新羅三郎の血を引く一族だったことになりそうです。

しかし、二割ほど少なくなったとは言え、九州中心部の一角に、武田信玄と同族の集団が集落を形成し、一時期は阿蘇氏をも制圧し、元寇を迎え撃ち、何時しか定着し、静かな山村で生を繋いだことは非常に興味深い話です。

始めは薄い期待を抱いてはいたものの、海援隊の武田鉄矢が南小国と縁があるとの話に驚きましたが、歴史とは驚くべきもので、身近なところに転がっているものです。

実際、集落に辿り着いたと途端に甲州菱、武田菱に出迎えられ、かなり詳しい話を地元の知己からお聴きし、平然と武田信玄と同族の末裔との話が平然と理路整然と聴かされると北条氏の揮下により進駐した武士団の中近世の駐屯地を発見したことに感動を覚えたのです。

鉄矢氏は三枚下しの番組では、武田氏と同族の後裔といった話は一切されませんでしたが、一時期、列島を制圧する勢いをも持った甲斐源氏、甲州武田氏の九州への下向(実は帰参)を確認できたのでした。


イクさんの生家跡地


ここでは前記の三本のブログではなくNHKファミリーヒストリーからご紹介しておきます。

20141121日放送 22:00 - 22:50 NHK総合

ファミリーヒストリー 武田鉄矢〜武田家の栄光と没落 見つかった母の肉声〜

 オープニング

武田鉄矢は65歳になった今もステージに立ち続けていた。有名にした出世作は「3B組金八先生」。近年では、太平記などで歴史上の人物を重厚な演技で熱演した。鉄矢は、日本を代表する演技派俳優として確固たる地位を築いている。山梨・甲斐市のコンサートなどで、鉄矢はトークタイムでかけがえのない母を話題にした。哲也を育てた母・武田イクには、波乱の幼少期があったという。武田鉄矢は、母は相当なお姫様だったが、一家が離散して博多に引き取られたらしいと話した。鉄矢はその真相を最後まで母に尋ねることが出来なかったと語った。番組で家族の歴史を取材したところ、熊本阿蘇の豪農が浮かび上がった。その武田家に不幸が襲いかかる。鉄矢の母・イクは、家族を守るために運命に立ち向かう。取材の結果を伝える日、鉄矢さんは初めて自らのルーツと向き合う。

武田鉄矢〜武田家の栄光と没落 見つかった母の肉声〜

福岡・博多区麦野。タバコ屋を営む鉄矢の実家から取材は始まった。鉄矢の姉、長女・ミヤさん、三女のスミヨさんが出迎える。今回の取材見つかったイクさんの新たな形見は、講演テープの数々。イクさんは晩年近隣のPTAなどに招かれ、自らの人生経験を語っていた。そのテープでは、故郷に付いて語られている。熊本県阿蘇郡南小国村中原で生まれたと語るテープが放送される。

 熊本阿蘇の豪農 武田家 激動の歳月

武田家母方のルーツは熊本県阿蘇郡に遡る。熊本・南小国町中原樋ノ口がイクのふるさと。住人の多くは、武田信玄や武田家の末裔と考えられている。鉄矢の曽祖父・武田喜十郎は、先祖代々樋ノ口で農業・林業を営む大地主。村民からも絶大な信頼を得ていた。武田喜十郎の頭痛の種は、喜十郎の長男、武田計早蔵(鉄矢の祖父)。武田計早蔵が熱中していたのは先物相場。儲かりそうな話を聞きつけては、父に金の無心をしていた。鉄矢の母、長女・イク、次女・キワと長男・豊ら3人の子どもたちも武田計早蔵に振り回されていた。鉄矢の叔母に当たる次女の穴井キワさんは、父親の強烈なキャラクターを今も鮮明に覚えている。

穴井キワさんは、「これが計早蔵おやじ」と写真を見せてくれた。メガネについて、伊達メガネだと明かし、昔にしてはしゃれとったと話し笑った。子どもたちにも贅沢をさせるのが大好きだった計早蔵。しかし家族は、稼業に興味を示さない姿に不安をいだいていたという。毎回実家から計早蔵が持ち出す金額は、200万円を下らなかったという。イクはその頃の様子を講演のテープで語っていた。しかし、昭和2年、武田喜十郎が死去。最大の後ろ盾を失った計早蔵の商売は、昭和金融恐慌によって、時代の荒波に飲み込まれようとしていた。九州だけで60の銀行が破綻に追い込まれた。複数の高利貸に手を出しており、行き詰まる計早蔵の実家に借金取りが押し寄せた。


そして計早蔵の妻、ヒロは、離婚を決意した。慰謝料は受け取らない代わりに、子供は引き取らない。ヒロの実家は、武田家をはるかに凌ぐ、阿蘇の名家だった。計早蔵に3人の子どもたちを育てることはもはや不可能だった。そこで口減らしのために、長女のイクが里子に出されることになった。イクわずか8歳は、他の兄弟達のために、博多の親戚宅にもらわれていった。更に悲劇が続く。昭和4年、長男・豊が食中毒が原因で急死。武田家の不動産の登記簿謄本の一部には、計早蔵が借金返済のため、所有権を次々に他人に移転させているのがわかる。穴井キワさんは父・計早蔵がたまに帰ってきた時のことを「あさってかえるけんね、といって出て行った、それが最後、それっきり会っていない」と話す。武田計早蔵はこの時を最後に家族の前から姿を消した。武田家は離散した。計早蔵の消息は今も一切わかっていない。


 以下も続きますが、お読みになりたい方はご自分で検索してお読み下さい。全文掲載は申し訳ありませ

んので。悪しからず。


最期に


武田信玄が第9代天皇開化(高良玉垂命)の腹違いの兄弟の一族“大彦”が新羅三郎のルーツと考えています。この点については百嶋由一郎氏の手書き資料にも記述があります。


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ひぼろぎ逍遥

961

信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)⓯ 続 山梨県

若宮八幡神社(追補) 

960

信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編) 山梨県

若宮八幡神社


 上の二本で武田信玄の晩年の居城でもあった韮崎城に近い武田八幡宮を取り上げています。そこで、九州から東方に侵攻した四道将軍の一派に大彦があったとすれば、武田の一族も元は九州起源となります。

 とすれば、大彦の一族は元々本体を九州に持っていたはずですから、土地勘があり、手駒も容易に調達できる集団を送込んでいるはずで、結果的には武田氏のルーツは九州であり、半島から進出した氏族であると考えるのです。その意味では武田氏のルーツを考える上での手掛かりの一つとは言えるのです。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1133 への新ひぼろぎ逍遥 943の転載(前) 北部九州の大彦(開化天皇の親族)の一族が武田氏となり九州に下向し金八先生になった…? ❶ 北部九州の大彦(開化天皇の親族)の一族が武田氏となり九州に下向し金八先生になった…? ❶

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1133 への新ひぼろぎ逍遥 943の転載(前)

北部九州の大彦(開化天皇の親族)の一族が武田氏となり九州に下向し金八先生になった…? 

        20221207

 太宰府地名研究会(編集員) 古川 清久


この間で甲信越の神社調査を続けて来ました。これについては、ひぼろぎ逍遥(跡宮)で、信州佐久の鯉太郎 外 多くを書いてきましたのでお読み頂いた方もあると思います。


968

信州佐久の鯉太郎(番外) 信州最奥部の呉橋と勅使堂(門) 上田市 前山鹽田神社

の切り出

967

甲信越の若宮八幡宮とは何なのか?

961

信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)⓯ 続 山梨県 若宮八幡

神社(追補) 

960

信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編) 山梨県 若宮八幡神社

959

信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)⓭ 長野県富士見町 若宮

八幡神社 

958

信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)⓬ 上田市 鹿教湯温泉の

呉橋 

957

信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)⓫ 佐久市 近津神社

956

信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)❿ 佐久市 若宮八幡神社 

955

信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)❾ 佐久市 高良社 

954

信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編) 小諸市 御影神社

951

信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)❼ 上田市 生島足島

神社 (下)

950

信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編) 上田市 生島足島

神社 (中)

949

信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)❺ 上田市 生島足島

神社 (上)

948

信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)❹ 上田市 前山鹽田

神社

947

信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)❸ 上田市 山鹿神社

946

信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編) 千曲市 佐良志奈

神社

945

信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編) 千曲市 武水分

八幡神社

944

信州佐久の鯉太郎 “千曲、上田、小諸、佐久遠征への下調べ”として

(企画編)⓪

  近稿にはストックとしてまだオンエアしていないブログもあります

349

勝沼ワインの里の大善寺 G “ぶどう寺と宮地嶽神社には何故「三階松の神紋」が

あるのか?”

348

勝沼ワインの里の大善寺 F “ぶどう寺にはなぜ「国宝ぶどう薬師」像が

あるのか?”(追補)A

345

勝沼にも高良神社があった “山梨市の大井俣窪八幡神社”

344

勝沼ワインの里の大善寺 E “ぶどう寺にはなぜ「国宝ぶどう薬師」像が

あるのか?”(追補)

343

勝沼ワインの里の大善寺 D “ぶどう寺にはなぜ「国宝ぶどう薬師」像が

あるのか?”(下)

342

勝沼ワインの里の大善寺 C “ぶどう寺にはなぜ「国宝ぶどう薬師」像が

あるのか?”(中)

341

勝沼ワインの里の大善寺 B “ぶどう寺にはなぜ「国宝ぶどう薬師」像が

あるのか?”(上)

213

勝沼ワインの里の大善寺 A “大善寺の全国的傾向”

212

勝沼ワインの里の大善寺 @ “山梨県甲州市勝沼町勝沼の五所神社の

神宮寺”


 勿論、三度四度(実際にはもっと多いのですが)と行ってきた甲信越への神社探訪の延長上に今夏の信州佐久の鯉太郎シリーズもある訳で、ぶどう寺から始まった調査の果てに武田信玄の一族も真田幸村の一族も北部九州から避退した人々だったのではないかとの思いが一層強まったのでした。

 武田信玄のルーツは常陸のひたちなか市の武田であると言った半ば定説の如き説が跋扈している事も承知してはいるのですが、武田氏のルーツは新羅三郎と言うのも良く知られた話である事から、九州を経由せずに真っすぐ常陸の太平洋岸に入ったとするのも奇妙であり、それ以前の経由地や起源を掘り下げるべきと思うもののです。

ともあれ、ここでは武田氏のルーツを考える上で興味深い話がありますので、逆方向から探ってみようと思います。

 勿論、これが武田信玄に繋がったからと言って、武田氏のルーツを探る助けにはならない事は十分に承知してはいますが、エピソード的に面白い話だけに取り上げてみようと思います。

 これが神社専門サイトのひぼろぎ逍遥(跡宮)ではなく新ひぼろぎ逍遥に書いた理由です。

 この話をする前にもう少しその伏線を話しておきたいと思います。

 何度となく入って来た甲信越ですが、高速を使わずに1000キロを車中泊で走り抜け一週間〜半月と調査旅行をするのはさすがにハードで体力と精神を消耗します。

 しかし、それが解消できるのは富士山が正面に見える友人の別荘が山中湖湖畔にあるからで、そこでの快適な環境が用意されているからこそ継続できるのです。

 実は、その別荘のオーナーが大学の親友で、武田という姓なのです。

 それだけならば偶然と思うのですが、彼の一族は元々熊本県南関町に住む一族で、それ以前は鎌倉期なのでしょうか肥後と筑後の国境の要害の地で(「平家物語」にも登場する重要な関の地なのです)大津山神社の付近に纏まって住んでいたと言うのです。

 つまり、関東武士団の武蔵七党の横山党の一派だったとも聴くのです。

 もしそうであれば、鎌倉政権が重要拠点を制圧するために送り込んだ先遣隊の後裔の可能性があるのです。その観点をキープしたうえで、南小国の武田一族を考えて見ましょう。武田鉄矢氏と絡むのです。

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赤丸が南関町、青丸が南小国町を示していますが、阿蘇氏への備えと国境警備のための下向ですね


南関町の武田一族は調査が遅れているので、先に南小国町の方から話をしてみます。

これは「三枚下し」だったか運転中に海援隊の武田鉄矢氏が話を聴いたことがきっかけでした。

武田鉄矢氏は福岡教育大在籍中に海援隊を結成しているのですが、学生時代の大半をバンド活動に費やし、とうとうテレビの人気番組だった金八先生にまでなった事はご存じの通りです。

 この武田という姓は元々お母さんの武田イクさんの姓で、この武田姓は南小国町中原に集中しているのです。

 ラジオで聴いた話ですから不正確ですが、北里柴三郎で知られる小国町に隣接する集落で、イクさんはそこの大地主の娘だったそうです。

 ただ、イクさんの祖父が亡くなられ、父が相場か保証なのかで家勢を失い、田畑を失ったため福岡に移り住むことになったと言うのです。

 武田鉄矢氏も元々はニ三十町歩の大地主の家系で武田信玄に繋がる甲州武田氏の一族の長の家系だったらしいのです。

簡略化した話で言えばそういったもので、これについては既にかなり詳しいブログを書かれている方がおられますので(三例出しておきます)関心をお持ちの方はお読み頂きたいと思います。以下。

  

武田鉄矢のファミリーヒストリー 

武田鉄矢の父親と母親の故郷は同じ熊本県阿蘇郡南小国町の

ファミリーヒストリー武田鉄矢〜武田家の栄光と没落……など

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場所は小国町から阿蘇大観峰に向かう国道212号線から一山西に越えた中原地区から更に入り込んだ樋の口という隠里風の小集落で、実際、現地に入ると公民館(集落コミュニティ・センター)の直ぐ傍には武田の四つ割り菱紋の打たれた蔵が目に入るなど、まずは、武田一族を派遣した鎌倉政権の屯田集落と言った雰囲気なのです。

 もしも、この樋の口集落で拾った武田の一族が甲州から入ってきていると言う伝承が正しいとすれば、少なくとも時の鎌倉政権が元寇に備え、北条家の重臣を南小国の万願寺に送り込み、藤原氏のルーツともいえる阿蘇氏に睨みを効かせ乍ら、多くの武士団を送込んでいた可能性は十分にあるのです。

 この中原に隣接する小国町下城も鎌倉御家人が送り込まれているという話を聴いています。

九州のど真ん中の高原地帯に拠点を置き、筑前、筑後、豊後の敵対勢力を撃退する最重要拠点だったことはまず間違いないところでしょう。

 事実、日田市から旧大山町を経て小国、南小国へと進行する場合、考えられるルートは、松原ダムの上流の下筌ダムから東に入るルートはあるも、杖立温泉から小国に進出する以外は考えられず、杖立温泉やその手前の松原ダム建設以前の松原から小国町への少なくとも200メートルはある大峡谷を進軍せざるを得ず、下城、中原から下に向けて撃たれる矢襖を抜け小国の大地に辿り着ける兵がどれほどいるかは容易に想像が着くのであり、正しくアウトレンジ戦法の恰好の餌食に成る事は想像に難くないのです。

杖立、津江の名の通りの大峡谷の要害は、防衛都市として選ばれた九州の経営拠点として準備されたものだったのです。


「満願寺と阿蘇流北条氏〜元寇や鎌倉滅亡にも関与した阿蘇の北条一族」 から

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2026年07月03日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1132“徳川の世良田東照宮から物部氏を考える”❺新ひぼろぎ逍遥(共通)

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1132“徳川の世良田東照宮から物部氏を考える”❺新ひぼろぎ逍遥(共通)

20251113

太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


新ひぼろぎ逍遥1131 群馬県太田市の世良田東照宮から関東武士団を考える  続新田=二田

20250902


この間、世良田東照宮について連載してきましたが漸く群馬県太田市まで足を運び参拝することが出来ました。

そこで神殿まで参拝が出来たことからこの神社の本質に迫りたいと思います。

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以下、同社の由緒書きをお読みください。徳川家のルーツが見えてきます。

実はウィキペディア以降の当方のブログでそれが分かって頂けるかも知れません。

以前から申し上げている筑豊の物部氏の後裔の可能性があるのです。


 そして、その証拠とも言えるものを神君東照大権現の神殿前テラスに見出したのです。

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以下世良田東照宮で検索した ウィキペディア(Wikipedia)』20250210  20:35による

世良田東照宮(せらだとうしょうぐう)は、群馬県太田市世良田町にある神社。「東照大権現」としての徳川家康を祭神とする東照宮1つである。1617元和3年)に駿河国久能山久能山東照宮)より下野国日光日光東照宮へ家康の遺骸を改葬した際に建てられた社殿を、1644寛永21年)に上野国世良田へ移築し、創建された。太田市内の他の社寺、館跡とともに「新田荘遺跡」として国の史跡に指定されている。

歴史[編集]

この地は新田氏の開祖・新田義重の居館跡とされ[要出典]、隣接する長楽寺は義重の供養塔もあり、歴代新田氏本宗家惣領が厚く庇護を与え、大いに栄えていた。関東に入った徳川氏は、新田氏から分立したこの地を発祥地とする世良田氏の末裔を自称していたため、徳川氏ゆかりの地ともされた。

世良田東照宮は寛永16年(1639)ごろ、長楽寺の再興に取り組んでいた天海に、3将軍徳川家光が命じて創建させたものであるという。当時家光は日光東照宮の造替を行っており、徳川秀忠が造営した日光東照宮奥社の社殿を世良田に移築したとされている。寛永19年(1642)ごろから工事を開始し、本殿の新築、神廟(本地塔)・拝殿・唐門の移築を完了し寛永21年(1644年)1011日に遷宮が行われた[1]。遷宮時には後水尾上皇の勅額の下賜を受けた[2]

江戸時代には神領200石を与えられ、歴代将軍によってしばしば修繕が行われた[3]。修復にあたり参拝する幕府役人は、御目身以上は拝殿廊下、御目身以下は拝殿階下で拝礼した[4]

1875明治8年)[要出典]神仏分離によって長楽寺から分離し、1877(明治10年)に村社、1879(明治12年)に郷社に列格した[5]


この問題については以前から関心をもっていました。

 それは、蘇我氏と物部氏の闘いの主戦場は九州であり、その結果、筑豊に展開していた物部25部族の多くが飯塚市から響灘に流れ出す遠賀川の河口から対馬海流に乗り日本海を北上し北陸から越国に移動したのではないかという仮説を立てていました。

 山陰から但馬への調査から更に北の日本海沿岸に目が向いたのは、そのフィールド・ワークが終わり、もっと奥の東日本の日本海沿岸から調査を始めようと青森〜岩手への調査に踏み込んだのが十年程前でした。

 柏崎、刈羽から新潟の彌彦神社に移動中、カーナビに物部神社の存在を見出し、急遽、ハンドルを切ったのが、西山町(田中角栄の出身地ですね)の二田物部神社との出会いでした。現在、アメブロでこのブログが検索に引っ掛からないのは(正確には順位を下げ検索上位に上がらないようにしているのでしょう)、アメブロの体質で、結果、離脱したのもそういった背景があったのですが、北北東に進路を取れ! N 柏崎刈羽に筑豊から展開した二田物部を確認した”入力すれば、完全には消されていませんので興味を持たれたら試してみてください。以下も関連するブログを幾つか挙げておきます。

ひぼろぎ逍遥スポット097(前) 全国の物部研究者の皆さんに

ひぼろぎ逍遥

584

高知県の物部川流域にひそりと息づく仁位田神社

295

北北東に進路を取れ! N 柏崎刈羽に筑豊から展開した二田物部を確認した

ひぼろぎ逍遥(跡宮)

459

二田物部のルーツは対馬の仁田だったのではないか?


神代から中世まで


何故、今回、不慣れな源家とか北条氏とか関東武士団というものに拘わっているかと言うと、関東一円に展開している神社群の多くの中に、筑豊から放逐された物部25部族筆頭としての天神ニギハヤヒ(山幸彦)と結びついた八咫烏、橘一族、石清水八幡宮の強い影響力を感じたからでした。

まずは、鎌倉政権の象徴とも言うべき鶴岡八幡宮の由緒書きをお読みください。


無題.png始まりは、鎌倉幕府を築いた源頼朝公の祖先源頼義が、京都の石清水八幡宮を勧請(神様の御分霊を他の地に還し祀ること)したことです。頼義は石清水八幡宮を篤く信仰しており、源氏の氏神として八幡神を鎌倉の由比ヶ浜辺に祀りました。 その後、源頼朝公が現在の地にお還しし、鶴岡八幡宮の基礎を造りました。

東国社会の中心的存在へ
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源頼朝公は鶴岡八幡宮を篤く崇敬しておりました。
治承4年(1180年)、源頼朝公が初の武家政権である鎌倉幕府の拠点を鎌倉の地に構え、同年に先祖ゆかりの八幡宮を現在の場所に遷し祀ります。

幕府、鎌倉、ひいては東国社会の守護神として篤い崇敬の誠を寄せたのです。さらに、幕府の重要祭事として、放生会や流鏑馬、相撲、舞楽など今日に継承される祭事を境内でとり行いました。

鶴岡八幡宮は東国社会の精神的中心、社会的中心だったのです。
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その証拠とまで言えそうな八幡宮が物部氏の本拠地筑豊最深部田川郡香春町に存在します。由緒によるとこちらが古いのです。物部25部族と鎌倉政権、石清水八幡宮=橘一族との関係は明らかです。

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鶴岡八幡神社 カーナビ検索福岡県田川郡香春町中津原404

仁平2(1152)10月、 鎮西八郎為朝公が豊後国臼杵から勾金庄南大原の館に移り、源氏の氏神である鎌倉の鶴岡八幡宮の御分霊を御勧請して奉斎するため、家臣尾張権守家任を新造の八幡宮造営の奉行と定め・・・ 


鶴岡八幡宮の歴史は、源頼朝公の祖先・源頼義(みなもとのよりよし)が、由比ガ浜に源氏の氏神として八幡神を祀ったことからはじまります。 その後、1180年に源頼朝公が現在の場所に遷して、現在の鶴岡八幡宮の基礎が造られました。鶴岡八幡宮は神社としてだけでなく、鎌倉の町づくりや文化発信の拠点としての面も。2024/10/31による


石清水八幡宮も伊勢神宮も九州王朝を支えた橘一族(その本体は雲南省の昆明、大理から亡命してきた白族)が祀ったもので、現在は京都の下賀茂神社に象徴される有力な人々の象徴と考えれば大方間違いはないだろうと思います。対して大陸でも漢族との闘いで協力した多氏(阿蘇氏、黎族)は天草の苓北町から白川を遡上し阿蘇でも阿蘇谷と呼ばれる外輪山北半に入っています。

この白族が最初に拠点としたところは熊本市の現千葉城町(後に千葉氏が入っているからです)熊本の表記は加藤清正が隈を熊に変えたもので、この隈地名(雑餉隈…)が九州の南にも広がります。主要には扇方に北部九州の佐賀、福岡、大分一帯に広がっている事でお判り頂だけるでしょう。

 この雲南省から亡命してきた二派が日本の開拓の主力となり日本人の骨格となったのですが、その後も千年近くは数十派の多くの渡来系氏族が入り列島にあまねく広がっていったのです。

 その中でも特に白族は先行して博多に亡命していた呉の太伯王の末裔から政権運営に協力して欲しいとして呼ばれ、熊本から福岡に移動しているのです(百嶋由一郎の言)。

 呉が滅ぶのが大雑把にBC500年ほどとすると、雲南省から海南島南西域を経由して亡命した二つの民族が列島に移動するのがBC300年辺りだったと思われます。

この話は別のテーマですので、先行ブログやパワー・ポイントをお読み頂くとして、先に進みます。

百嶋由一郎が残した90枚近い神代系譜のスキャニングDVD,40時間の講演録音声CDMP3方式)カーステレオ、パソコン対応、手書きデータスキャニンクDVDなどを必要とされる方は090-62983254まで゙

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