2019年05月26日

583 出羽から陸奥への道 B “兵庫県豊岡市の高良神社”

583 出羽から陸奥への道 B “兵庫県豊岡市の高良神社”

20180612

太宰府地名研究会 古川 清久


 時系列的にも地域的にも書いていないため話は前後しますが、調査を終えて京丹後市から、兵庫県の但馬地方の豊岡市を通過する途中気になる神社があったため立ち寄ったところ、高良玉垂命の祭祀を発見した事から書き留めておきます。

 兵庫県の北半部=但馬国に関しては最初に注目し十五年前から調査に入ったエリアでした。

 御井の神、若宮神社はかなり拾いましたが、これまで、はっきりとした高良玉垂命の奉斎の痕跡を見いだせないでいました。

 しかし偶然とは恐ろしいもので、道を間違え豊岡市でも合併された旧日高町へと向かう道すがら、訪ねた神社に高良玉垂命が祀られていたのです。当然、意識するのは九州王朝の但馬への避退です。

 これについては、ひぼろぎ逍遥531533 但馬(上、中、下)をお読み下さい。

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ご覧の通り円山川に出石川が注ぐ合流部に鎮座する低湿地に鎮座する神社です。

通常、豊岡から養父、朝来へと向かう国道426号線(事実上の堤防上の道路)から降りた狭い一角であることからこれまでパス・スルーしてきたところでした。

 こういった神社にも敬愛する玄松子氏は足を運んでおられるのです。流石です。

 以下、少し引用させて頂きます。


式内社 但馬國城崎郡 女代神社 旧村社 御祭神 高皇産靈神 …(中略)…

通称は、お女代さん(おめしろさん)。女性っぽい雰囲気だが、祭神は高皇産靈神。ただし、豊受姫命とする説もあるらしく、また、当地のシャーマン的女性であるとする説も。 …(中略)…


御由緒

当社は延喜式神名帳に載する城崎郡二十一座の一社なり。

円山川と出石川合流の西窪地田園に囲まれ数百年の老樹の繁げれた宮地なり。御祭神は造化三神(天御中主神、神産巣日神、高皇産霊神)と賛えられ、高天原に在せられし神である。往古祝融の災害により創立年月詳ならずと雖も古社たる事明かなり。

仁寿元年正月正六位(文徳帝御宇・西暦八五一年)往古境内地五町四面なりしと伝えられる。当社御稜威の赫々たる事は古人の普く知るところにして、往古浮島明神と称せられ神殿が田圃の低地にあると雖ども円山川氾濫に際して未だ嘗て階段に浸水せしことなく浮島の名称空しからず、豊岡領主京極家は家臣をして洪水に際し詣拝せしめ実地測量せしめし事天和、元禄年間等一再ならず、僅かに数間の距離に於て数尺の水の高低あると伝え聞く。

然るに天正五年(安土桃山時代)社頭没収せられ其れがため祭祀衰えかつ寛永六年(江戸時代初期)神主住宅並に社務所・宝庫焼失し当時の古文書悉く烏有に帰し史料空し。其の後明和三年(徳川時代中期)古社大破せるを改築す。

文化五年(徳川時代後期)神祇伯白川資延王殿より社号の染筆を賜わる(由来神祇官西院に八神殿を設けられ宮中を始めて崇敬者篤かりしが神祇官荒廃後には白川、吉田家において共に八神殿を建てて奉斎せられしこと史実に明なり。当社の祭神は八神殿奉斎の御一座にあらせられるがため現在の御本殿掲載の社号の染筆を賜わったものなり)                      −『平成祭データ』−


由緒書きに“往古浮島明神と称せられ神殿が田圃の低地にあると雖ども円山川氾濫に際して未だ嘗て階段に浸水せしことなく浮島の名称空しからず”とあるように、境内に入ると川舟が一隻奉納されていました。

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次に目に留まったものは水盤の紋章でした。

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由緒書きなど表向きの見解はともかくも、この神社には別の歴史があるように見えます。

そもそも、祭神を当たり障りのない造化三神(天御中主神、神産巣日神、高皇産霊神)とするなど、それは表面上のものでしかなく、実際には別の祭神を持っているとしか考えようがありません。

水盤に打たれた澤瀉(オモダカ)は同社の紋章ともされています。

一般的にも八坂神社、祇園神社の宮司家などが使うもので、この神社の出自を考えさせられます。

まず、頭に浮かぶのは出石に押し込められたスサノウ系の痕跡を感じさせるものです。

 播磨、但馬では、スサノウ系(実質的には金山彦系)と大国主系との衝突の結果、大国主系が勝利した歴史があり、これについては百嶋神社考古学の立場から暗示されていた九州王朝内の金山彦系〜大国主系(大幡主系)の転換も関係しているように見えます。

 つまり、この神社が造化三神を祀る前には別の祭祀が存在していた事が垣間見えたのでした。

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その一つが境内に置かれた摂社に反映されていました。

 天満宮に祀られる菅原道真は長脛彦系(スサノウと金山彦の娘である櫛稲田姫)の本家である伴の女の一族と大幡主系の本家同志の姻戚関係によって成立した家柄であり、澤瀉紋を使う宮司家とはそのような一族であり、そこに高良大明神が共に祀られていたのです。

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この神社に関しては、古い祭祀が入れ替えられており、しかも、粗末に扱われる事無く丁重に祀られています。

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それを明らかに表現しているのが一番奥に祀られた秋葉神社(金山彦)です。

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百嶋由一郎極秘神代系譜@(部分)


 神社は時の権力に左右され祭神を入れ替えます。

 現在、時の要請に応じて祭祀されているものの、ほんの百年前には現在と異なる神々が祀られていることは多々あります。

従って、氏子には昔と異なる神を祀っているではないかと抗議をする権利はあるとは言えますが、時代に順応する人々は多数派であって、本来の祭祀を現在に於いても守り通す事はなかなかできないものなのです。

ただ、本来、金山彦やナガスネヒコを祀る集落が、いつの間にか征服者の祀る神々を祀らざるを得なくなると言う事は悲しい事であって、本来の祭神を祀りたい守りたいと言う思いは共通しているはずなのです。

こうして、古い祭祀も境内の一角に摂社、末社、分社…もしくは合祀として、甚だしい場合は宮司家や排斥された元宮司家の屋敷神として残される場合もあるのです。

 この点、征服王権によって全てが掻き消されてしまう大陸とか半島とは異なり列島の神々とは比較的に幸せだったとは言えるかもしれません。

 青森からの帰路、偶然に見出した一社でした。

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2019年05月25日

582 出羽から陸奥への道 A “山を森と呼ぶ人達”

582 出羽から陸奥への道 A “山を森と呼ぶ人達”

20180610

太宰府地名研究会 古川 清久


青森県弘前市を最後にいよいよ九州に向かって南下する時がやってきました。

弘前から国道7号線で日本海沿いに南下するのが無難で普通の選択なのでしょうが、同じ道を引き返して帰るは愚である…とばかりに、古代出羽の国の中心部を南下する事にしました。

勢い、105号線でマタギの里として知られる秋田県北秋田市阿仁辺りを通る事にしたのですが、その途中でかなり興味深い事に気付きました。

突然妙な話を持ち出しますが、皆さんは山を何と呼ばれているでしょうか?

山は山じゃないか…と言われるでしょうが、実はそうとも言えないのです。

 これまで、高知県の西部と言うか南部と言うか、当然ながら愛媛県の西南部も含むのですが、このエリアでは山は「〇〇森」と表記されているのです。

勿論、会話上では「山」で通じないなどという事はないのですが、地図をご覧になればお分かりの通り、大半、「〇〇森」と表記されているのです。

 これをどう考えるかですが、かつて山を普通に「森」(モリ)と呼ぶ人々が多数派であった痕跡ではないかと思うのです。

 この「〇〇森」は四国の西南部に広く分布しており、以前から注目していました。

 ところが、今回、青森、秋田、山形、福島…など東北地方の神社調査、民俗調査に入ったのですが、秋田県北秋田市の阿仁地域を横断したところ、「〇〇森」型表記が支配的である事に気付いたのでした。

 まず、山を「山」以外で表記する例は外にもあります。

 当然ながら「岳」「嶽」「峰」は普通に存在しますが、「山」でも「セン」と呼ぶ傾向も中国地方から兵庫県に於いてかなり見掛けるもので、大山(ダイセン)、氷ノ山(ヒョウノセン)、蒜山(ヒルゼン)、弥山(ミセン)、烏ケ山(カラスガセン)…これらは、一応、山岳修験のもたらしたものと理解しています。

 これで、山を「ヤマ」「サン」と呼ぶのが必ずしも当然とは言えない事がお分かり頂けたのではないかと思います。

 さて、ここで多少思い当たることがあります。

 そもそも「山」という文字はホコ(鉾、銛)の形をしています。

海神(ネプチューン)の持つ三叉槍の形が「やま」であるとすれば、祇園山笠の山鉾が「山鉾」(ヤマボコ)と呼ばれている事にも奇妙な付合を感じています。

 まずは、山が森と表記されている四国南西部の事例をご覧頂きましょう。

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これは高知県須崎市の西の津野町の○○森ですが、別に特殊なものではなく、四国南西部全域に普通に分布している一例ですので、後はご自分でお調べになって下さい。

 まだ、半信半疑かと思いますので愛媛県の例を出しておきましょう。

 司馬遼太郎の効果で良く知られるようになった西土佐の檮原町の直ぐ北の西予市○○森の例です。

 無論、山奥の集落には違いが無いのですが、恐らく四国全域には数百の○○森型表記が確認できるのではないでしょうか?

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まだまだありますのでご自分で


では、秋田県の○○森型表記をご覧ください。

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秋田県大館市、北秋田市の境界領域にある2峰ですが南西四国と東北に○○森型表記が残っているのか?


秋田県大館市、北秋田市の境界領域にある2峰ですが南西四国と東北に○○森型表記が残っているのでしょうか?いずれも辺境と言えば辺境の地ですので、通説派の学者の様に好い加減に答えれば、ただの方言でしかない…となるのですが、では、ただの方言ならば何故○○森と一致しているのか?と言えば答えに窮する事でしょう。

こうして、普通に考えれば列島の先住者たちに広く○○森型表記=表現が普遍的に存在しており、それが、○○山、○○岳、○○嶽、一部に○○峰(これは明らかに半島系でしょう)駆逐されていった様に見えるのですが、中間系と言うか移行期と考えられる表記も拾えます。

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この雄物川は秋田県南部の大仙市から北流し秋田市に注いでいますが、この一帯には○○森山型表記が拾え(南の横手市にも三ツ森山があります)、森とは山の事ですよ…と敢て説明しているような表記に見えるのです。

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山を「山」と呼ぶ人々が新たに進入し、山を「森」と呼ぶ人々を駆逐され始めた時期に成立した地名の様に見えるのですが、共存も垣間見えるのですが、どちらの民族(氏族)にも分かるようにと森でもあり山でもあるという「森山」表記が成立している様に見えるのです。

 では、山に対して「山」と呼び、「山」という表記を使っていた人々とは誰でしょうか?

 地図を見ればご覧の通り、「土筆森山」の隣の「伊豆山」には森が含まれていません。

 百嶋神社考古学の者には、この「伊豆」地名を使う人々とは大幡主系(白族)氏族であり、山を「森」と呼ぶ人々とは倭人の進出(侵入)以前に先住していた人々だったのではないかと考えるのです。


「伊豆」地名を使う人々とは大幡主系(白族)氏族であり…については、ひぼろぎ逍遥(跡宮)から以下をお読み頂ければある程度ご理解頂けるでしょう。


438

伊豆能売の神とは何か? E “伊豆能賣の中間調査を終えて思う事” 

437

伊豆能売の神とは何か? D “伊豆能賣は 何故「イヅノメ」と呼ばれたのか?”

436

伊豆能売の神とは何か? C “遠賀川左岸に伊豆能賣を発見した ”遠賀町の伊豆神社“ 

435

伊豆能売の神とは何か? B “遠賀川右岸の二つ目の伊豆神社の元宮か?”久我神社 

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伊豆能売の神とは何か? A “二つ目の伊豆神社” イヅノメの神が少し分かってきました

433

伊豆能売の神とは何か? @ “遠賀川河口の両岸に伊豆神社が並ぶ”


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これは田沢湖周辺を国土地理院地図から拾ったものですが、この部分切り取りの中にも○○森型表記が11、○○森山型表記が4、○○山型表記が5、○○岳表記が6例拾えます(岳、山が一例重複)。

 如何に○○森型表記が普通に存在している事がお分かり頂けるのではないでしょうか?

 詳しくはインター・ネットで「地理院地図」を検索され確認して頂きたいと思います。

 少し調べただけですが、青森、岩手、秋田、福島、山形、東北地方に広く見られる傾向である事が分かります。ただ、何故か山形県では数例しか拾えません。また、新潟県には村上市の鹿森山など僅かしか拾えないようです。

 恐らく、福島、新潟(新潟は東北=古代の出羽国)になると激減する事から、かつて、毛人、蝦夷と呼ばれた人々が普通に使っていた山の呼称が「森」だったのではないかと思うのですが、では、何故、四国の南西部と東北地方(この他にもあるかも知れませんが…)にしか認められないのでしょうか?

 全国の山の呼称を拾い出しているデータ・ベースでもあれば助かるのですが今後の課題です。

 これを単純に方言とか縄文人と弥生人といった対立構造で理解しようとする傾向には迂闊に乗れないのですが、私達、百嶋神社考古学の立場からは事代主系、恵比須(3000年以上前から入っている古古代ヘブライ系の)ではないかと考えています。

当然、アイヌも加え、漂白民としてのサンカ(山窩)にマタギの問題も横たわっています。

ここには未だ解読できない列島の民族成立に関わる問題が横たわっているようです。

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2019年05月24日

581 出羽から陸奥への道 @ “往復4500キロの大遠征”

581 出羽から陸奥への道 @ “往復4500キロの大遠征”

20180609

太宰府地名研究会 古川 清久


52728日に掛けての薩摩川内(道真は薩摩の藤川へ落ち延びた)への泊まり込みトレッキングを終えたのですが、予定していた31日の熊本のトレッキングが中止になった事から、実質三週間の余裕が出来ました。

三週間の時間的余裕があれば東北地方への遠征が可能になります。

東北には梅雨がありませんので、五月晴れが続いているようなもので、懸案だった秋田県男鹿市の真山神社と青森県五戸町の高良神社探訪…へと足を延ばす事にしました。

最低でも片道2000キロ近い遠征になることから、いくら燃費の良いホンダ・フィット・シャトルと言えども、往復160ℓ近い燃料消費(20,000円)となる上に、正味100時間の運転に耐えなければなりません。

予定では15日間を考えており、毎日8時間程度の運転が必要となります。

実際には道を間違えたり、急に思い立ったコースに入ったりとフィールド・ワークには色々な事が起こります。

勿論、人身事故や車の故障や私自身の体調の急変と言った不慮のトラブルさえ考える必要があり、実際には4500キロ近い行程になるでしょう。

思えば地球の半径が6000キロである事を考えれば、かなりの大遠征に成る事は間違いありません。

全て車中泊の予定ですから、燃料代と食費だけの勘定になるのですが、一般の方々の様に面白くもない上に危険だけが覆い被さる上に法外な料金をふんだくられる高速道路など利用するはずもなく(高速を使えば純粋な燃料代の五倍程度のつまり十万円近い出費になるでしょう)、そのうち、高速道路など誰も見向きもしなくなるでしょう。

豊かな旅とはその土地 土地の風物を楽しむ事であり、高速の「旅」など本来の意味での旅ではないのです。

理想は江戸期の旅であり、「東海道中膝栗毛」や「奥の細道」や古川古松軒(フルカワコショウケン)や頼山陽の世界になるでしょう。

ましてや、閉鎖された空間でトンネルと橋だけを見せられる航空機から新幹線やリニヤに至ってはお笑い草でしかないのです。

さて、4月の近江、5月の糸魚川〜山梨の調査は順調に行きましたが、今回はそれ以上の大遠征となるため極度の緊張に耐える精神力が必要となります。

暫く前、キリストの墓として知られた青森県新郷村の野田温泉の休憩室でブログを書き始めたのですが、初めての十和田湖、奥入瀬渓谷、戸来岳、五戸町の高良神社と好天に恵まれ順調に推移しました。

「日本中央碑」(十和田市)はあいにく休館日でパスしましたが、十三湊の安倍安東の拠点を実感する事ができ感慨もひとしおです。ついでに弘前市の鬼神社…と廻ったのですがポット出の新参者においそれと理解できるはずもなく、山形の出羽三山を見てようやく南に下る決心が着きました。

全体として好天に恵まれ、有難い限りでした。

朝は外気温が12℃まで下がりますが、日中は30℃近くまで上がり始めましたので、涼しい時間帯にしっかり睡眠を取らなければなりません。

しかし、百嶋由一郎氏が辿った神社を粗方廻る事が出来ましたので、アウトラインの把握はできるような気がしてきました。

今回の移動中にも、家族でテントを張って神社調査を行っておられる女性メンバーから何社かの代行調査の依頼を貰いました。

まずは、新潟県の手前、富山県朝日町の山崎神社をご紹介したいと思っていますが、地名や民俗学や古代史に関わる問題にも踏み込むことになるため、ひぼろぎ逍遥では地名や民俗学や古代史を、ひぼろぎ逍遥(跡宮)では神社を扱いタイトルとしての通し番号を共通とすることにします。

529日の夕方に出発した大遠征も、ようやく但馬の小代(オジロ)にまで辿り着き(残り6700キロ程度)、温泉に浸り畳の部屋の休憩室で休養しながら写真の整理を終え、記憶が鮮明な内にブログを書くことにしました。

最近、京丹後を通過する事が増えてきました。

但馬でも鳥取市から海岸沿いに香美町を経由して豊岡市に抜けるコースと、9号線で鳥取市から養父市を通過する場合が増えており、考えれば、四ケ月続けてこの小代温泉に浸っているようです。

ここは氷山(ヒョウノセン)とかハチ高原(ハチはすり鉢の「鉢」の意味です)といった明治期に開発されたスキー場にも近く、小代にも立派なスキー場があるのですが、衰えたりとは言え復活し始めたスキー・ブームに乗り遅れまいとあの手この手の振興策が行われているようです。

ただ、高度経済成長期に一気にブームとなったスキーも、バブル崩壊から売国奴小泉竹中改革のせいで国民の所得が半減し、大手企業がほとんど外資系ユダ金のものとなり(買いたたく為に経済成長が抑えられた日銀白川出てこい!)、非正規雇用の拡大、生産拠点の海外移転、切り捨てによる労働法の無視、競争激化…の中、特にまともな所得が得られない若者たちは、恋愛、結婚、子育て、次世代の再生産を諦め、結果、国民経済が縮小する中、三十年間の長期低迷から未だに浮揚できずに明らかな低落への道をひた走っているのです。このためスキーはおろか車からさえ遠ざかり、頼みの綱は韓国人や中国人と言った品性の低い連中で、国民所得の下った日本は昔の後進国並みの格安の旅ができる格好の観光地として扱われ、それを奨励しているのが行政権力と言うのですから情けない限りです。安倍は国慶節に日本観光を宣伝。

スキー場の目を覆うばかりの陰りから話が脱線しましたが、この小代は山も川も素晴らしく、何度も訪れたくなる隠れた温泉地です。

往復4,500キロにもなる大遠征のため、まだ、何から書き始めるか考えがまとまりません。

ここではウォーミング・アップを兼ねてこの小代温泉をご紹介する事にします。

最初から息抜き(閑話休題=本当の意味は違うのですが…)では先が思いやられますが、まだ、6700キロ以上ある帰路も残るため興奮が収まっておらず、直ぐには神社のリポートには入れない気分なのです。

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伊勢の松坂牛とは、本来、但馬牛の小代


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まず、不思議なことに…伊勢の松坂牛とは、本来、但馬牛の事なのです。


松阪牛の起源は松阪牛…ではなく、但馬地方に生息する「但馬牛」という牛です。

但馬牛は小型な牛で脂肪分が少なく、ほどよく筋繊維が含まれた良質な肉質を持っていました。

明治時代以降は肉専用の牛とされ、改良が進められながらも但馬牛のみを交配に用い、但馬牛の純血を保ってきました。そのため、他県の血統を入れない純粋な但馬牛が生産されているので、どの和牛よりも明確なルーツを持っています。

松阪牛、神戸牛、宮崎牛、近江牛などといった和牛の85%以上が但馬牛をルーツに持っているほど。

但馬牛という存在があったからこそ、現在の極上肉牛がいるのです。


無題.pngによる


当ブログをお読みの方には自明な事ですが、伊勢は博多の櫛田神社の大幡主=神産巣日神、神皇産霊尊、神魂命(その子がヤタガラス)と書かれる最高神の領域であり、但馬とは宗像大社の鎮座地の「田島」であり、佐賀県唐津市の田島神社の田島である事は、過去、何度も書いてきました。

つまり、大幡主、ヤタガラスと濃厚な関係のあるところだからこそ、本物の松坂牛の生産地が但馬であり小代になる事がお分かり頂けるのではないでしょうか。

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では、上の地図をご覧ください、矢田川がこの地から流れ下り日本海に注いでいる事がお分かり頂けるでしょう。この矢田川がヤタガラスと無縁であるはずはないのです。

その事が分かるだけでもこの小代温泉に入りに来る価値があると言うものです。


支配階級に迎合し媚びへつらったユダヤ人は出世しましたが、反対に権力に反抗・抵抗したユダヤ人達は中央・都市部から地方・山奥の河原等に逃れて最下層の賎民として扱われる事になりました。仏教の国教化によりユダヤ人の牛の屠殺が穢れたものとみなさ ...

「天皇家とユダヤ人」による

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鳥取から京都に掛けて国道9号線が氷ノ山(ヒョウノセン)の北麓を貫通していますが、そこから谷田川沿いに5キロほど山に入った所にあるのですが、渓流の美しさ、水の美しさ、山々の重なり、僅かばかりの良く手入れされた水田…と心惹かれる山間の景勝地です。

冬こそ雪に閉ざされますが、目の前を流れる渓流には清冽な水が注ぎ、夏でも都市部とは異なり冷涼な過ごしやすいひと時を提供してくれます。

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