太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2017年07月26日

358 鳥 子(トリコ) “宇土の八兵衛の逃亡ルート” @

358 鳥 子(トリコ) “宇土の八兵衛の逃亡ルート” @

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 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川  清久

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西原村鳥子三之宮神社

熊本の大津から阿蘇に向かう大渋滞のバイパスをルート避け、白川沿いに立野を目指します。大津の森、吹田(フケダ)辺りに来ると、対岸に鳥子という変わった名の集落に遭遇します。ここにあるのが鳥子三之宮神社です。



本稿は6年前に書いたものを一部再編集し公開するものです。


熊本地震でも最も大きな被害が出たのが熊本市の南部の益城町から西原村ですが、今回はこの一帯で起こった悲しい事件とこの一帯の地名を考えて見る事にします。

時代は江戸初期の島原の乱(一六三七〜年)前後辺りまで降ります。

地名はかなり広いエリア(時として国外からも)の影響を受けて成立している部分あるため、単なる郷土史的感覚では本質に迫れない場合が多々あるものです。

以前、島原半島南端の口之津の苧扱川(おこんご)という地名があることに気付き、口之津の歴史民俗資料館の原田健夫館長にお尋ねしたところ、口之津史談会の会員が書かれた論文にこの地名に関する研究があることを知りました。

文中には久留米市内にもオコンゴ地名があると書かれていたこと事から研究テーマとして取上げたのですが、原田先生から新たに会報(3536号ほか)を頂きました。

今回は、“「島原の乱」直前に阿蘇山中で捕まった口之津の「八兵衛」について“という小論が書かれた会報が入っていましたが、同封のお手紙には、”この小論に登場する「とりのこの様」が、私(古川)の手持ち資料に挿入していた鳥子神社と関係があるのではないか“という質問が寄せられました。

もちろん八兵衛の出身地が肥後の宇土であり、その逃亡ルートも熊本から阿蘇に向かうものであったことから、恐縮のことながら、熊本地名研究会(当時)のメンバーでもある私にお鉢が廻ってきたもののようです。

この話自体は、去る、二月十日(日)に開催された「世界遺産登録シンポジウム」(2011)の席上において、九州大学大学院の服部英雄教授が“口之津の八兵衛”についてふれられたことから、原田先生がその根拠、出典を尋ねられ、『史料で綴る天草島原の乱』(全文を後段に掲載)に辿りつかれたものですが、今回の会報はこの資料にもとづいて一文にまとめられたものです。

内容は極めて単純で、キリシタンとされたか、本当のキリシタンであったか、一応は真宗門徒に転んだとされる(する)宇土出身の元キリシタンであった八兵衛さんが、逃亡の末に阿蘇の入口で捕縛され、直ちに処刑されたというだけのものです。ただ、この逃亡ルートに登場する“とりのこの様”がどこの何者かというお尋ねが含まれていたのです。


原田館長(口之津歴史民俗資料館)による書下文


元々は鶴田倉造氏の編集による「原資料で綴る天草島原の乱」本渡市発行(平成六年イナガキ印刷)という資料があるのですが、ここでは原田館長による口語訳の略文をご紹介します。


八兵衛は肥後宇土の生まれで,40年前に口之津にいた。その後,度々口之津に商いのために行った。

尋問を受けたこの年の10月初旬には「口之津水籠事件」が起り,「島原の乱」の発端となるが,通行人の取締りも厳しくなり,謀反人の詮索が始まった。

各地に手が延び,八兵衛は肥後国内で野宿をせざるを得なくなった。彼は24年前まではキリシタンだったが,1614年に真宗門徒になった。

取調べの中で,どうやら懐中に「肥後惣中様」と書かれた書状の包み紙を所持していたらしく,そのことを詰問され弁明に務めていることがわかる。尋問の結果,どうなったか。以下の文書で確認してみる。


以下は地名研究に関係のある逃亡ルートについて取上げます。


三日の夜、とりのこの様ニ参候


三日の夜には“とりのこの様”に参じそうろう…原文は掲載のとおりですが、八兵衛は宇土郡の大田(?)の出身で島原と熊本の間で商売をしていたようです。それが口之津水籠事件に関係したものか、ただの濡れ衣だったのかは置くとして、なぜか逃亡する羽目になり、最後は阿蘇南郷谷の入口の久木野町辺りで捕縛され直ちに処刑されるのですが、ここで取上げるのはそのルートと地名です。


※この資料に登場する地名を略載すれば下記のとおりです。


二九日  川尻          鉄道唱歌にも登場する熊本の次の駅がある町

熊庄          城南町 隅庄か?        

宇土の山々に野宿         宇土の意味は宇土郡と思われ岩古曽から豊野辺か

晦日   矢部に野宿       通潤橋の矢部の手前か?御船から入った辺りか

朔日   長六橋         焼餅を買う 国道三号線はこの橋で白川を渡る

その夜  木山 原に伏す     白川左岸 木山町

     戸島 原に伏す     白川左岸 戸島町

三日   山、西の原       阿蘇郡西原村

三日夜  とりのこの様に参候   阿蘇郡西原村鳥子

四日の朝 捕縛          阿蘇郡久木野村か?



まず、八兵衛は宇土郡の大田の出身とされていますが、宇土半島の北岸にあり“オウダ”と読む宇土市の網田以外に思い付くものがありません。

問題は“とりのこの様に参候”です。熊本空港の東に西原村鳥子(トリコ)があります。トルコと呼ぶとも聞きますが、ここでは、一応、「トリコ」としておきます。

“とりのこ”と“とりこ”と、多少、異なるようですが、これは、熊本の地名に明るい方ならば比較的簡単な話のように思います。

従って、『史料で綴る天草島原の乱』は、鳥子が“とりのこ”と呼ばれ、そこの長老と思しき者が“とりのこの様“と呼ばれていたこと書き留めたのであり、さらに、八兵衛がここを頼って逃亡したことが推測できるように思えます。ここでは、“とりのこの様”の意味が一応確認できたのではないかと思います    (なお、行政名は旧来のもの)。

それは、宇土、熊本、植木近辺にはこの手の、間に”の“が入る地名が他の地域に比べて異常に多いのです。大字単位で見ても、まず、白川を渡る大津町には引水(ひきのみず)が、八兵衛の出身地である宇土市には、弧江(こものえ)、硴江(かきのえ)、西田尻(にしたのしり)、宮庄(みやのしょう)が、宇土市の南には旧町名でさえあった宮原(みやのはら)が、同じく北の富合町には田尻(たのしり)、南田尻(みなみたのしり)、廻江(まいのえ)、城南町の丹生宮(にゅうのみや)、隅庄(くまのしょう:文中の熊庄と関係があるかも知れません)、舞原(まいのはら)が、熊本市の水前寺の南に田井島(たいのしま)、金峰山の南に池上町(いけのうえまち)、北熊本の八景水谷(はけのみや)、が、菊池郡合志町に上庄(かみのしょう)、福本(ふくのもと)が、鹿本郡鹿央町の梅木谷(うめのきだに)、中浦(ちゅうのうら)、玉名市の東玉東町の木葉(このは)、上木葉(かみこのは)…もう、これぐらいにしておきましょう。

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一応、表記を伴わない○○の○○型地名はこの一帯に限られているようです。その中心部の熊本市にこの手の地名が少ない理由は、後世による地名表記の改変(和銅)によるものと思われますが、そもそもは、この一帯がかつては海の底であり、後発の土地に新しい地名(と言っても数千年単位の話になります)が付されたからではなでしょう。

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久は久木野村 ↑

鳥子集落とは何か?


当然ながら、表記を伴う○○の○○型地名は益城町の「辻の城」ほか…がありますので、小字単位でカウントすれば、相当の例が拾え、かなり興味深い結果が出ることでしょう。ともあれ、これで、本来、虜(とりこ)の意味だったのでしょうが、“とりのこ”が“鳥子へと嘉字二字表記化されても“とりのこ”と呼ばれ続け、数百年前にも“とりのこの様”と記録されたのではないでしょうか。そして、○○の○○と呼び習わす、言語上の生理とでも言うべき傾向が書き留められ、現在、なお、地名として残っていることに感動をすら覚えるものです。

従って、『史料で綴る天草島原の乱』は、鳥子が“とりのこ”と呼ばれ、そこの長老と思しき者が“とりのこの様“と呼ばれていたこと書き留めたのであり、さらに、八兵衛がここを頼って逃亡したことが推測できるように思えます。ここでは、“とりのこの様”の意味が一応確認できたのではないかと思います。    (なお、行政名は旧来のもの)

話は変わりますが、この地名を考える時、何か言いようのない戦慄を抱くのは私だけでしょうか?

古代史に関する興味から対岸の大津町吹田、森の集落に入ったことがあります。

この際、俘囚移配の可能性を意識してついでにこの鳥子にも入りましたが、中心地と思しき場所に鎮座する三宮神社に九州では全く見かけない神々が祀られていることに驚いたことがあります。


天神地祇八百萬神(テンジンチガミヤオヨロズノカミ) 鳥子三宮神社 

屋船句々能智神 (ヤフネククノチノカミ?)

屋船豊愛媛神  (ヤフネトヨエヒメノカミ?)


そして、その直感はやはり正しかったように思います。何でも熊本地名研究会というのも芸がないようですが、同会は一九九七年に第十二回熊本地名シンポジウム「民俗と地名 俘囚と九州」を行なっています。

このシンポジウムに提出された報告の一つに柴田弘武(エミシ学会会長)氏による「移配された俘囚」というものがあります。一部分の引用で不正確になるかも知れませんがご紹介しましょう。


…もう一つ加えますと、私が五万分の一の地図を見ていてちょっとびっくりしたのは、上益城郡西原村の川原という所に「猿帰」(さるがえり)という地名がありますが、「猿帰」というのは面白い地名だなあと思うのですが、この資料にも書いておきましたが、「去返公嶋子」という蝦夷の名前が出てきます。これは岩手県遠野市を流れる「猿ケ石川」それと似ているなあという気がしています。またその西原村には「鳥子」という地名もありました。この「鳥子」は吉田東吾先生の『大日本地名辞書』には千葉県の「取香」(とっこう)は囚(とりこ)の転訛で俘囚が移配された所だと書かれておりますので、もしこの「取香」をそうだとすれば、肥後国の「鳥子」もなかなか魅力のある地名となりそうです。…


柳田の『遠野物語』に登場する「猿ケ石川」はつとに有名ですが、『延喜式』には俘囚料(稲)という税金の話が出てきます。中でも肥後は最大の数が記録されているのです。

八世紀の坂上田村麻呂の例を持ち出すまでもなく、大和朝廷による東国侵略によって大量の捕虜が九州に配流されたことは良く知られており、国を守る防人の話などとして、ある種美化されてもいますが、六六三年(六六ニ年説もありますが)の白村江の敗戦によって、唐の進駐軍(郭武宗)二千による太宰府占領を許すのですから、実際に半島と大陸に備える必要などほぼなかったのであり、むしろ、それ以上の比率で朝廷に従わない叛乱勢力や隼人への対策によって持ち込まれたと考えるべきでしょう。そして、その俘囚の移配された土地が鳥子や鳥井であり、熊本から鹿児島に数多く認められる、囲、覚井、栫(かこい)…と呼ばれる土地だったのではないかと思うのです。さらに、このような俘囚集落(移配による製鉄集落など)の一つが鳥子だったのではないでしょうか。

鳥子とはもちろん虜(トリコ)であり、囲はカコイを想定しています。これが的を得ているかどうかは、今後の研究に待ちましょう(ただし、現在、熊本地名研究会を含めて囲地名を俘囚と結び付けて考えている人はいませんので誤解がないようにお断りしておきます)。

大和朝廷=古代天皇家は東国から敗残奴隷として連行してきた人々を重要な街道筋や鉱山などに配置し、製鉄、冶金、皮革製造(武器製造)などに就け移動を禁じたであろうことは容易に想像できます。 

それらが、時として戦闘部隊として最前線に刈り出され、あるいは、兵站部門として武器の製造、修理に携ったことは間違いがないはずです。そして、口分田を与えなかった事の裏返しとして俘囚料が徴発されたとすることはそれほどおかしなことでもないのです。

ここで、再度、西原村周辺に目を向けましょう。まず、西原村宮山には白山姫神社という熊本では少ない神社があり、その前を流れる木山川を遡れば多々良地名が有ります。当然ながら古代の製鉄の痕跡地名ですが、柴田氏が指摘された“猿帰”の前に流れる川も金山川と呼ばれていることから、この一帯が金属精錬にかかわる土地であったことが分かります。一方、東北地方に濃厚に分布する俘囚刀(蕨手刀)が、九州でも、甘木、人吉、鹿屋などで数本発見されている事からも俘囚が九州における古代製鉄、刀剣の製造に深くかかわっていたと考えられているのです。

それを物語るかのように、白山姫神社の傍には秋田という地名が拾え、さらに、西原村隣の益城町にある熊本空港の南側には小谷(おやつ)という地名までがあるのです。これは、それなりの高台とは言え湿地を意味する関東のヤツ、ヤチ地名(世田谷、保土ヶ谷、千駄ヶ谷…の谷は例外なく台地の割れ目の湿地です)と見たいのですがどうでしょうか。

さらに、この同町の木山は八兵衛が潜んだ場所ですが、その傍らにある福原には、これまた奇妙な「左の目(サノメ)神社」があるのです。

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結論から先に言えば、これは、民俗学者谷川健一の『青銅の神の足跡』第二章目ひとつ神の衰落に登場する“柳田国男『一つ目小僧その他』の大胆な仮説”“たたら師の職業病の投影−天目一箇神の奇怪な姿”“天目一箇神が統合する片目と金属のイメージ”…などを思わせる製鉄、冶金集団の痕跡を今に伝えるものと思われます。

谷川氏は、柳田の説をさらに掘り下げ、息もつかせぬ興味深い独創的な推論を展開していますが、炉を睨みながら仕事をする踏鞴の人々は六十になるころにはおおかたどちらかの目の視力を失うのであり、一部には、片目や不愚者が積極的にこの産業に就いたことにふれています。

そこまで言わずとも、一般的に製鉄や冶金に携る人間には大量の火花や金屑の中で仕事をするために多くの目患いや片目がいたとされますが、火の粉、火玉の飛散によって、直接的に目を失う人が多かったことも想像に難くありません。

氏も書いておられますが、言うまでもなく“ひょっとこ”は火男や火吹男の訛りであり、メッカチさえも“目ッ鍛冶”の訛りなのです。いずれにせよ、これが製鉄や冶金にたずさわる人々を写し替えたものであることは明らかでしょう。このように考えれば、多くの“ひょっとこ”が、なぜ、片目として描かれているかが分かってくるのです。それを裏付けるかのように三宮神社の上手に風当という地名も拾えます。恐らくここでも山風や海風など谷に送り込まれる強風を利用した製鉄が行なわれていたことでしょう。もちろんこの一帯で弥生の製鉄址が発見されている事は言うまでもありません。

してみると、八兵衛が船から上がった川尻に今なお多くの鍛冶、刃物製造業者が成立している事を思う時、川尻に対して鳥子の人々が、古来、多くのかかわりを持ち、関わり続けてきたことが容易に想像できるのです。そして、そのような赤く滾る一本の銅(あか)い糸が延びていたからこそ、八兵衛は鳥子を頼り、日向の金山(土呂久、見立、名貫川、小丸川、一ツ瀬川…辺りか?)を逃亡の地として目指したのではないでしょうか。

さて、ここで目を向ける方向を変え、彼(八兵衛)の背景を考えてみましょう。

仮に、大田を網田とする時、この地が天草や島原に近く肥後でも比較的開放的気風の土地であった事や、貧しい半農半漁の土地であったこと事から、彼自身が俘囚集落の出身であったとは思えません。ただ、貧しい土地柄から別の食い扶持を求めて他の土地に出ざるを得なかった様には思えるのです。

川尻、益城、西原、南郷谷と、現在でも裏街道と言える道が阿蘇から東へと延びています。鳥子が俘囚集落であったのではないかという思いを持って以来、この道は製鉄から冶金、そして、刃物製造加工からその販売という、古代においても最も活気のある産業ルートだったのであり、大きな人の流れが白川の南に存在していたこと、さらには、川尻の人々が、元々は鳥子の人々だったのではないかなどという思考の冒険にまで踏み込むのです。

このように考えると、彼が当時の工業都市であった川尻に職を求めたとしても全くおかしな話ではないのです。恐らく、農家の下人(農業労働者)として働き、また、縫い針や鋏や肥後守といった小物を背負う、いわゆるショイ(背負い)小間物屋として各地を移動し売り歩いたはずで、そうした目的地の一つに島原や口之津があったのではないでしょうか。そして、川尻の刃物製造業者から商品を預かり、多くの土地を売り歩く中で、キリシタン伴天連や俘囚鍛冶のネット・ワークに深く結び付いていったのだと考えるのです。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 10:27| Comment(0) | 日記

2017年07月21日

357 贈)崇神天皇のお妃五十鈴姫を祀る神社が日田市天瀬町にある

357 贈)崇神天皇のお妃五十鈴姫を祀る神社が日田市天瀬町にある

20170131

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川  清久


福岡県の久留米市から大分県日田市を抜け別府、大分方面に向かう久大線沿いに走る国道210号線沿いに五十鈴姫神社があります。

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無題.png伊勢の五十鈴川は知られていますが、古代史に五十鈴姫が登場します。


ヒメタタライスズヒメ

ヒメタタライスズヒメ(媛蹈鞴五十鈴媛命)は、神武天皇の皇后である。

神武天皇は、東征以前の日向ですでに吾平津姫を娶り子供も二人いたが、大和征服後、在地の豪族の娘を正妃とすることで、天津神系と国津神系に分かれた系譜がまた1つに統合されることになった。

『日本書紀』では「媛蹈鞴五十鈴媛命」と記す。『古事記』では「比売多多良伊須気余理比売」(ヒメタタライスケヨリヒメ)と記し、別名、「富登多多良伊須岐比売」(ホトタタライスキヒメ)としている。

皇后の名の中にある「タタラ」とは、たたら吹きを指したり、その時に用いられる道具を示す場合もあり、このことは、皇后の出身氏族が、製鉄と深い関係がある東部出雲(島根県松江市、安来市、奥出雲町を含む)地域であったことを物語っていると考えられている(加藤義成『古事記参究』素行会(1986年)など)

ウィキペディア20170131 19:20 によ


無論、百嶋神社考古学の洗礼を受けた者が、このような神代系譜を真に受けている訳ではないのですが、この系譜に登場する初代(1)神武天皇に第10代贈)崇神天皇を偽装したい藤原の意図が透けて見える構造となっているのです。

 その話に踏み入る前に、まず、境内を見回すと、何故か花梨の木が二本神木宜しく植えられていました。

 また、他地区からの持ち込みの可能性もあるのですが、久留米水天宮(天御中主命)、お稲荷さん、密教法具を持った僧形の像が置かれていました。

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この水天宮、稲荷が元々の祭神だった可能性もあるのですが、今のところ何とも言えません。

無題.pngまず、この五十鈴姫は初代神武天皇のお妃などでは全くなく、贈)崇神のお妃と考えています。

贈)崇神の息子に豊城入(ニュウ)彦がいます。当然、豊の国にいたのです。百嶋先生は、“後に、久留米市豊城に入って住んでいた”と、話されていました。

そして、大分と久留米を繋ぐ街道筋に、その母(義理?)であり、贈)崇神のお妃を祀る神社があってもおかしくはないのです。

そして、元々あった水天宮や豊受大神(稲荷さん)を押し退けても、これまた、おかしくはないのです。

現段階では現地の神社の聴き取り作業ができていないためこれ以上の事は書けませんが、百嶋先生が作成された「荒木の静チャン+チビッ娘鮎チャン系譜」を見て頂きましょう。

少し小さい場合は縮尺を150%に上げて見て下さい。

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百嶋由一郎 「八女津姫系譜」


豊城入彦の母親とは違いますが、同じく贈)崇神のお妃である五十鈴姫(別名荒木の静チャン)は、事代主(古々代ヘブライ系)と活玉依姫(母=鴨玉依姫、父=大山咋)の間に産れているとします。

この五十鈴姫の娘国片姫も開化の側室になり、九躰皇子の四人を産んでいるようで、今のところ、この系統が後の九州王朝の正統皇統仁徳天皇など九躰皇子の五人の系統を脅かしていったのではないかと考えています。

系譜を見られれば分かる事ですが、この五十鈴姫をお妃とした贈)崇神(所謂神武僭称偽神武)はニニギの系統の古計牟須姫と贈)孝安天皇との間に産れた三沼君(三潴)の妹チビッ娘鮎チャンも妃としていますし、「景行紀」に登場する八女津姫について“いつも山中におられます”と言う猿大臣(海)=大海姫も妃としているのです。

チビッ娘鮎チャンとか荒木の静チャンとかおちゃらけた名称で馬鹿にされる方もおられるかも知れませんが、まず、郷土史、神社伝承と言ったもので、そのように呼ばれていたというものを知らないため、これ自体は、百嶋先生のおふざけかなとも考えています。ただ、後でこの事だったのかと気付かされるところが多いため、何らかの根拠がある可能性も捨て切れません。

チビッ娘鮎チャンは子供の頃の愛称としても、百嶋先生が、五十鈴姫を何故「荒木の静チャン」と呼んでいたかについては、この間考えあぐねていましたが、最近になって、当会の百嶋研究に精通したU女史が一つのヒントを与えてくれました。

それは、「静チャンをズズー弁で言って見たら分かりますよ…」だったのです。

「シズ」は「スンズ」ですね、それが、後に、五十鈴姫の「スズ」に置き換わった可能性、若しくは、元々、久留米市荒木周辺でも「スンズ」と呼ばれていた事さえも考えても良いのかも知れません。

当然ながら、雲州、伯州、つまり、島根県、鳥取県の辺境部を中心に東北の所謂ズズー弁に相当する言語特性が確認されている事はかなり知られています。

さらに、百嶋先生の講演録にも天草の一部に、ズズー弁に近いものがあったような話もされており、普通は、荒木の「シズ」チャンが、畿内から東日本で「スズ」チャンに置き換わったと考える方が合理的ではあるのですが、九州にもかつてズーズー弁が存在した可能性を鼻から排除する気にもなりません。

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今回は、初代神武天皇を僭称する贈)崇神天皇の一人の妃(五十鈴姫)の子=国片姫が九州王朝の高良玉垂命(開化)の妃として入り九躰皇子の四人(側室腹)を産んでいる可能性がある事を知って頂くだけにしておきます(百嶋先生は、崇神は神功皇后、開化よりかなり高齢の臣下だったと話されていました)。

なお、関東の「常陸の国探検隊」からはこちらにも「五十鈴姫神社がかなりある」との情報が寄せられています。

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参拝殿の神木のように花梨が植えられていました

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 22:58| Comment(0) | 日記

356 高 良(コウラ)“薩摩に避退した九州王朝系氏族を発見した” E

356 高 良(コウラ)“薩摩に避退した九州王朝系氏族を発見した” E

2017012620130725)再編集

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川  清久


再び再び川辺へ(第3次川辺調査)

@  川原谷(コウラダニ)

仕事や研究会関係のスケジュールもあり、また、先方の御都合からも、ぶっ続けの調査はできないことから、当然にも長躯四〇〇キロを走り貫き頻繁に通わざるを得なくなります。

今回は前回の永井正範氏にかわり福岡市在住の古田史学の会会員の浦田裕一氏の同行を得て再び快晴の川辺に入りました。

今回の予定は、前回慌ただしく聴き取りをさせて頂いた内容のうち不鮮明な部分を確認することと、川原谷(コウラダニ)にあると言われた古い時代の高良一族の墓を見せて頂くことが主要な目的です。

早々に前回お伺いした竹屋神社宮司のお宅にお伺いしました。

さすがに八十六歳の御高齢ですから、当方の車にお乗せしようと思っていたところ、ご挨拶する間もなく車を出し始められ、「ついて来てくれ」と言われました。

竹屋から南に小高い丘陵地帯を越え五キロも走ると直ぐに川原の集落に着きました。

一目、寂れた印象はありますが、巡回バスの停留所のそばに集落の祠がありました。もちろん、祠のそばにバス停が置かれたのですが、集落の精神的な拠り所であることが直ぐに分かります。

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川原集落の巡回バス停車場

祠の前の道路の両脇には全体で十戸ほどの住宅が並んでいます。

宮司は一旦ここに車を止め、祠の前に置かれた古い石塔をお見せになりましたが、さらに百メートルほど先に車を止められました。

しかし、何やら迷っておられるようで、どうも探されているものが見つからないようなのです。

宮司の話では、ご本人は、以前、この近くの小学校にお勤めだったようで、その当時の記憶を頼りに探されていたのです。最近は全く訪れておられないようで、現地と一致しないのようなのです。

そこで、この近くのお宅に事情を確認に行かれ、昔話から祠と墓の所在を確認されたのですが、小一時間近く二軒のお宅の御主人やら奥さんやらと早口の薩摩弁で話されているのを聴くと(これについてはICレコーダーで収録保存しています)、話が二転三転したうえで、結局、@戦時中に道路が拡張された。現在カーブ・ミラーと電柱が置かれている所に墓所があり石塔もあったが、それはその頃誰かが移動させた。A拡張される前の道路は五メートルほどの高さの丘を越えており、そこに集落の祠、氏神があったが、それは、現在の川原バス停の横の祠に移された。といったところで落ち着きました。とは言うもののこれは私の解釈です。

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どうやら、この墓所も祠も高良一族が飯倉神社の社家と竹屋神社の社家に兄弟で分かれる前に、つまり、宮司のお話によると和銅年間より前に居していた場所だったようで、ここからは勝手な理解ですが、最近ではほとんど両家では管理されておらず、宮司が同地の小学校に勤務されていたことから知っていたというものだったようです。

一応、それが分かったところで現地での聴き取り調査を終え、改めて墓所の跡地を見ることにしました。

カーブ・ミラーの隣接地は道路から畳六枚ほどをそのまま横に並べたような一軒間口の細長い土地が利用されないまま残されていました。

一目、土饅頭ですが、何かないかと探すと、古い石塔の基底部と思しき加工された切り石が残されていました。境界を示し残すための境石だったのかも知れません。それ以上は何も分かりません。

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加工された石が残る

次にバス停横の祠の確認に行きました。外には古い石塔が無造作に置かれています。二転三転したのですが、話が落ち着いただけで、はっきりしたことはなかなか分かりません。

古い高良一族の墓所に置かれていた石塔なのか、小丘に置かれた集落の氏神様のところに置かれていたものだったか、それともよそから持ち込まれたものかははっきりとはしません。見た目は鎌倉期に多い法輪塔の残骸のようにも見えます。

この川原谷を訪れて感じたことは、まず、川原に住まれている方が全部(ここはみんな川原だと地元の方から聴いたからですが)川原姓でなおかつ「コウラ」と呼んでおられること。集落の名も「コウラ」であることから、ここがある時代において高良一族の重要な拠点であった可能性があることこと。そして、何らかの事情で「川原」と表記を変えたように思えました。

高良家の古い時代の墓所と一族の氏神様が一応は確認できたとして、バス停横の祠の中におさめられた四基の社が気になります。なぜ四基なのかです。

今のところ、これについて一つの仮説を立てています。

指宿市にも山川町があるのですが、久留米の高良大社の山裾に山川町(通称)があり、九躰皇子として知られる皇子宮、坂本宮があります。

この九躰皇子はいずれも高良玉垂命の子として知られているのですが、会神社考古学顧問であった百嶋由一郎氏によれば、正統皇統の皇子宮が五柱、傍流が四柱とされていることです。

もしかしたら、この四基の社は坂本宮の四柱を意味しており、薩摩に下った高良一族とは、この流れなのではないかと考えています。


〔高良玉垂命と九人の皇子(九躰皇子)〕
高良玉垂命(初代)――――斯礼賀志命(しれかし)→隈氏(大善寺玉垂宮神職)へ続く
物部保連(やすつら) |
           |――朝日豊盛命(あさひとよもり) →草壁(稲員)氏へ続く
           |――暮日豊盛命(ゆうひとよもり)
           |――渕志命(ふちし)
           |――渓上命(たにがみ)
           |――那男美命(なをみ)
           |――坂本命(さかもと)
           |――安志奇命(あしき)
           |――安楽應寳秘命(あらをほひめ)                 ※読みは「草壁氏系図(松延本)」によった。

九州王朝の築後遷宮 玉垂命と九州王朝の都 古賀達也『新・古代学』古田武彦とともに 第4集 1999年 新泉社

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氏神様の社 御神体がなかったので石を入れたと宮司から聴きました

A 竹屋神社の宮司からの聴き取り

川原谷から戻る途中で再び宮司が車を止められ、現在の竹屋神社社家の墓を見せて頂きました。中でも目を引いたのはピンク石で知られる阿蘇の溶血凝灰岩に似た石で造られた灯篭でした。薩摩藩から拝領されたものであり、銘文から、後に系図を見せて頂く系図の物証とも言うべきものでした。

こういうものを見る時に注意すべきなのは何らかの痕跡が見いだすことができる場合があることです。今回もその例にもれず、良く見ると高良大社の裏紋というべき木瓜紋のようなものがあったのです。

ともあれ、早々に戻って宮司の書斎に上り込み、改めてお話をお聴きしました。確認したかったのは次の二点でした。

一つは、前回、宮司から聴いた「高良玉垂大明神を祀っている」は、単に一家の屋敷神として祀っているのか、神社そのもので祀っているのか?という点でした。

現在、神社庁の資料を見ると、竹屋神社の祭神は、「彦火火出見尊、豊玉姫…となっており、高良玉垂命の名は全く出ていないが、それは明治期辺りに変えられたのでしょうか?」とお尋ねすると、「神社の社格を上げるためによそから勧請した…」とのお答えを得ました。

以前から鹿児島、宮崎の神社はいくら調べても奥行きがなく、ほとんど意味がないという印象を持っていました。

ご存じのとおり、明治維新直後から新政府は官幣大社、県社、村社、郷社…の制度を持ち込み神職を公務員化しました。

それに併せて、「古事記」、「日本書紀」に出てこない神も大量に整理しますが、この傾向が維新政府の中枢を握った鹿児島県では特に著しく、多くの神社が生き残りのために祭神を隠し、入れ替え、少ないでしょうが捨て去るということが数多く発生したようです。

屋敷神についても念押しで確認しましたが、宮司のお話の延長には、当然、屋敷も氏神として高良玉垂大明神を祀っているとの意味が込められていました。

ついでながら、どこからその情報を得たのかを再確認したのですが、「親父(先代宮司)から聴いたということでしたが、改めて直接宮司からお聴きしてこの事が確認できました。

二点目です。「前回、和銅年間に飯倉神社の社家と竹屋神社の社家に分かれたと聴いたのですが、それは文書としてそのようなものが残っているのか、それとも家伝なのかということですが…」これについても、宮司は「親父からそう聴いた」と言われました。

その他にも色々とお教え頂きました。詳細は音声収録によるとして、家の屋根の瓦の一部と玄関の鴨居の一部に左三つ巴と木瓜紋があったのですが、これは二つとも高良大社の神紋であることからお尋ねすると、それは新築したときに業者がやったとのことで特別な意味はないようでした。恐らく、高良という姓から業者が気を利かしたのでしょう

また、家紋を確認させて頂けないかとお願いしていたところ、わざわざ紋付を持って来られ、高良酒造とは少し異なりますが同じ丁子紋であることが確認できました。

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丁子の紋付 飯倉神社社家は剣でしたが竹屋神社社家は丸です

そうこうするうちに、「普段は絶対見せんのだが…」と言われたうえで、系図を持っておいでになりました。

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竹屋神社家系図

それによると、系図の冒頭には堂々と武内宿祢、紀氏、橘の名が出ており、高良酒造の社長夫人が曾祖母さんから聴いたという紀氏が確認できたことになり、どうやらとんでもない話になってきたようです。


高良家系本家有之候微損古昔不詳武内宿祢孫紀(糸偏に巳)

姓是也然禁内致橘守仍為姓言傅也正本家筑後國武内宿祢也  

「筑後国武内宿祢也」も和歌山県の出身と思い込まされている畿内説論者には全く理解できないことでしょうが、母親である山下影姫を祀る神社が九州にしかないことを知る九州王朝論者にとっては当然のことでしかありません。

もう一つ宮司に見せて頂いたものに、鹿児島県神社庁川辺支部が作成した昭和五十五年版の「川辺地方内神社誌」よりもさらに詳しい地元郷土史家による神社資料の原本がありました。

これは、ノートに鉛筆で書かれたものですが、まだ、詳しくは読んでいないことから、散逸する前にスキャナーでデータ収録を行い、早急に解析を始めたいと考えています。

「川辺町郷土史追録」も川辺地方内神社誌であることから、その元データとなると貴重この上ないものであることは言うまでもありません。

明朝、高良酒造をお訪ねしました。

前回、社長夫人から聴いたことで不明瞭な点を確認することが目的でしたが、こちらでも、まず、現在の高良家の墓所を見せて頂きました。

飯倉神社の社家も近代で長男、次男の系統に分かれているようですが、一族からは数代前の川辺町長、現役の東大名誉教授などを輩出するなど名家であることは間違いありません。

戻ってきて、曾祖母から聞かれた「高良家はほんとは紀さんなのですよ…」という話は、自分の子にとっての曾祖母の意味なのか、御主人にとっての曾祖母の意味なのかを聴いたところ、御主人にとっての曾祖母の意味ということが確認でき、明治期に生きた高良家の内部からの証言であったことが確認できました。

そうこうしているうちに、ご主人が仕事を一段落で済ませられ、「こんな系図があるんですが・・・」と持ってこられたものは真新しい最近のコピーでした。

しかし、内容を見ると(重要な初めの方の系譜だけを見た限り)、竹屋神社で見せて頂いたものと同一であり、最低でも以下の部分は両家とも同一だったのです。

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系図を広げる高良酒造社長(左)と随行してくれた浦田会員(右)

高良家系本家有之候微損古昔不詳武内宿祢(糸偏に巳)

姓是也然禁内致守仍為姓言傅也正本家筑後國武内宿祢也

その後、社長自身が原本をお持ちになり、それは一部分ですが写真を撮らせていただき、コピーの方をスキャナーで保存させていただきました。

“高良家は今は高良と名乗っているが、本当は紀なんですよ”という意味は、この系図に表されていたのであり、同時に、倭人は呉の太伯の末であり、太伯の姓が姫(後には紀、木とする)であることと対応するものであることを示すものだったのです。

そしてこれまで個人的ながら、もしかしたら、橘氏も紀氏ではないかと考え続けてきた疑問をある意味で解決してくれたものでもあったのでした。


添付資料として音声とスキャンデータ、それに写真を付けています。

中間報告を書き上げましたが、直ぐに第四次の川辺調査を行ないます。

新たな情報が入ってくることは間違いありません。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:28| Comment(0) | 日記