2023年11月12日

975 気ままな上州への神社調査 ⓲ “上州の神社調査で最も感動した吉岡町の三宮神社”

975 気ままな上州への神社調査  “上州の神社調査で最も感動した吉岡町の三宮神社”

20230518

太宰府地名研究会 古川 清久


埼玉県在住の百嶋神社考古学研究会メンバーのT氏と合流し、榛名山に向かう途中に遭遇したのが吉岡町の三宮神社でした。

 何やら様子が違うので、何事かと思うと、春の大祭(呼称はご当社にお聴きください)だったのでした。

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関東平野の奥の縁と言うか山際と言うかと言った所です


ブログも1820本(遠征前下調べ稿を併せれば25本)は書きそろそろ草臥れてきました。

 後、多くとも⓴まで書いておしまいにしないと、良い気候での現地探訪ができなくなり、そのうち梅雨が始まります。521日の講演会(漢の劉邦の後裔後漢の霊帝の孫阿智王が列島に入っていた…田尻講演)以降はトレッキングを優先したいと思っています。話が逸れましたね失礼。

 同行者のT氏と榛名山を目指して走っていると、何やら人の集まっている神社に遭遇しました。

 祭が春先に行われる例は九州では、田植え祭などを除けば稀であり、実際には何だろうと思い行き掛けの駄賃とばかりに氏子さん達に混ざって見学させて頂きました。

 では、まずは祭りをご覧下さい。

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その後も、後から後から氏子の方々が増えて来てちょっとだけ見るつもりでいましたが、早くも二時間は経過していました。獅子舞見事!

 今時、半被を揃え、練習を重ねた舞を奉納すると言う作業、練習を考えると、総代さん以下の方々のご努力には頭が下がります。

 最近、子供の数がめっきり減ったと言う話は普通の事になりましたが、二〜三十年も前にタイムスリップした様な気さえしたのでした。

 関東平野の片隅とは言え、それなりの人口のある都市近郊の地だけに本当に良いものを見せて頂いたと言う思いがしたのでした。大体、今時、笛を吹ける人を揃えるだけでも至難の業と言うべきところ、笛隊だけでも10名は降らないのですから驚きます。…と祭を正確にお伝えできていないのではと思いますがその点はよそ者の話としてお許しいただきたいと思います。祭は祭として本題に入ります。

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境内の掲示板と石碑から


三宮神社(さんのみやじんじゃ)は、群馬県北群馬郡吉岡町大久保にある神社。式内社(名神大社)で、上野国三宮。

祭神[編集]

祭神は次の3柱。彦火火出見命豊玉姫命少彦名命

神体は一木彫の十一面観音像(室町時代作と推定、像長90センチメートル)である[3]。『神道集』には伊香保神里宮の本地仏は十一面と見え、その記載と一致する。

歴史 創建 伊香保神社(渋川市伊香保町伊香保)伊香保温泉街の一角。三宮神社はその里宮とされる。

創建は天平勝宝2年(750年)の勧請と伝えるが、詳らかでない。

中世の『神道集』では、「伊香保大明神」について「女体ハ里ヘ下セ給テ三宮渋河保ニ立セ御在ス、本地ハ十一面也」と見えることから、当社は伊香保神社(湯前神、渋川市伊香保町伊香保)の里宮にあたると考えられている。「伊香保」とは噴火の激しい榛名山を「厳つ峰(いかつほ)」と称したことによるとされるが、山宮の鎮座地は噴火に伴う堆積層のため耕作には不向きで、6世紀中葉頃の最後の噴火後数百年を経て湧出した温泉で発展した地になる。そのため、温泉湧出以前は里宮の三宮神社が祭祀中心地であったと見られ、その様子は現在も社名に「三宮」、すなわち上野国三宮を掲げることからも示唆される。上野国では以上の類例として、二宮赤城神社(里宮、前橋市二之宮町)と三夜沢赤城神社(山宮、前橋市三夜沢町)の関係がある。

当社の鎮座地は『和名抄』に見える上野国群馬郡有馬郷に比定されることから、奉斎氏族は古代氏族の有馬氏であったとされる。『新撰姓氏録』右京皇別 垂水公条では豊城入彦命(上毛野氏祖)子孫として「阿利真公」の人物名が見え、上毛野氏の一族と推測されている[4]。当地周辺では、一族のものと推測される多くの古墳も見られる。

なお、「三宮」の社名は祭神が3柱であるためとも、彦火火出見命が瓊瓊杵命の第三皇子であるためともする異伝があるが詳細は明らかでない

概史 国史では、「伊賀保社」は承和2年(835年)に名神に列したと見えるほか、「伊賀保神」の神階が承和6年(839年)に従五位下、貞観9年(867年)に正五位下、貞観11年(869年)に正五位上、貞観18年(876年)に従四位下、元慶4年(880年)に従四位上に昇叙された旨の記載が見える。その神階は上野国において、貫前神に準じ、赤城神と同格になる。

延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では、上野国群馬郡に「伊加保神社 名神大」として、貫前神社・赤城神社とともに名神大社として記載されている。

長元3年(1030年)頃の『上野国交替実録帳』では、「正一位伊賀保明神社」の項に玉殿1宇・幣殿1宇・鳥居2基・向屋1宇・美豆垣1廻・荒垣1廻・舞人陪従屋1宇・厨屋1宇と記載がある。しかしこの社殿規模は貫前社・赤城社に劣り、他の式内小社・式外社と同格になる。そのためこの頃までには衰微したものと考えられ、伊香保の地に移ったのもこの頃と推測される。

『上野国神名帳』では、いずれも鎮守十社のうちで、総社本では3番目に「正一位伊賀保大明神」、一宮本では2番目に「正一位伊賀保大明神」、群書類従本では3番目に「正一位伊香保大明神」と記されている。同帳では、関連神名として「若伊賀保神」「伊賀保若御子明神」「伊賀保木戸明神」の記載も見える。

南北朝時代成立の『神道集』では、「上野国九ヶ所大明神事」や「上野国第三宮伊香保大明神事」に記述が見える。これらによると、伊香保神は貫前神(一宮)・赤城神(二宮)に次ぐ上野国三宮であるほか、湯前にある男体(本地仏:薬師如来)と、渋川保三宮の里宮にある女体(本地仏:十一面観音)とから成るという。

近世以降の三宮神社は衰微し、詳細は明らかでない。対して山宮は伊香保温泉とともに発展し、近世まで「湯前大明神」と称していたが、明治6年(1873年)に「伊香保神社」と改称している。現在では、里宮・山宮の間に祭祀関係はない。     三宮神社 (吉岡町)無題.png20230519 7:14より


 現在では途絶えるも、朧気ながら伊香保温泉を山宮として祭祀が始まっていたことが推定されます。

 ここで、敬愛する「玄松子」様を引用させて頂きます。複数の見解を見せて頂ければほぼ確実です。

 無題.pngより

式内社 上野國群馬郡 伊加保神社 名神大

 御祭神 彦火火出見尊 豊玉姫命 少彦名命

群馬県吉岡町にある。境内地を、関越自動車道が通ったため。関越自動車道の西そばに鎮座。

吉岡町役場の南東1Kmほどの位置。道路そばに参道入口があり、木々の参道を北上して境内。一段高い境内は、綺麗に整備され、赤い社殿が美しい。天平勝宝2年(750)の勧請と伝えられ、伊香保神社の里宮で、上野国三宮と思われる神社。一説には、伊香保神社の古社地であるという。よって上野国神名帳群馬東郡の正五位上小伊賀保明神(一宮本では伊賀保別大明神)は古伊賀保明神である当社のこととする説もある当社の南西4Kmには総社も存在し、国府に近く、周囲に古墳群もある。


三宮神社由来記

無題.png吉岡村大字大久保字宮の地に鎮座する三宮神社は天平 勝宝二年創祀の伝承をもつ古名社で彦火々出見命豊玉姫命少彦名命の三柱の神を奉斉している当社を三宮と 称する所以は三柱の神を祭るためでなく上野国三之宮 であったことによる九条家本延喜式神名帳には上野国 三之宮は伊賀保大明神とあり当社はその里宮の中心で あったと考えられる柳古代当地方の人々は榛名山を伊 賀保山と称しその山頂を祖霊降臨の聖地と崇め麓に遥 拝所をつくり里宮とした上野国神名帳には伊賀保神が 五社記載されてありその中心の宮を正一位三宮伊賀保 大明神と記している当地三宮神社が伊賀保神を祭る中 心地であったため三宮の呼称が伝えられたのである近 くに大古墳群の存在はそれを裏付ける当社を伊賀保神 とする由縁はその祭神にもよるが本殿に安置される 十一面観音像のあることがこれを証する南北朝時代の 延文年中編と推定される神道集所収の上野国三宮伊賀 保大明神の由来には伊賀保神は男体女体の二神あり男 体は伊賀保の湯を守護する薬師如来で女体は里に下り 十一面観音となるとある当社は古来十一面観音像を御 神体として奉安してきたのである慶應四年神仏分離令 が発せられると全国各地で神社内の仏教関係遺品が破 却された当地の先人は古来三宮神社の御神体として奉 安してきた十一面観音像を秘仏として密かに遺し今日 に伝えたのである昭和六十年秋の関越高速自動車道開 通に伴い当社境内地の一部も道路編入の止むなきにい たりこの機会に氏子一同相計り社殿および境内の整備 につとめ由緒ある当社の由来を後世に伝えんとし石碑 に刻んだ次第である

−境内石碑より−

伊香保風 吹く日吹かぬ日 ありといへど 吾が戀のみし 時無かりけり 萬葉集巻第十四上野国歌


 万葉集のこの歌がうたわれた時代 (一四〇〇年前)は、榛名の二ツ岳 の噴火がくり返されて、榛名山は恐 ろしい怒りの山で怒ツ穂(イカホ) と呼んで、神として恐れあがめ信仰 の対象としていました。この里宮と して三宮神社(イカホ神社)がおか れてました。この歌の伊香保風は榛 名山からふき下す空っ風です。 ここで行われた歌垣でうたわれた 歌として祖先への敬愛の念をこめて 石に刻みます。


 根幹部については引用で済ませて頂きましたが、それではあまりにも失礼なため、伊香保神社と三宮神社との関係についてお話をさせて頂きます。

 伊香保神社を訪れたのはかれこれ35年ほど前の事でした。まだ、神社を調べ始めた訳でもなく、ただ、参拝に及んだだけでしたが、今は、長い急な階段の脇に多くの旅館が賑わい、脇の地下水路には温泉水の排水だと思うのですが、大変な勢いで流れていた事だけの印象でした。


無題.png伊香保神社


その前に三宮神社は、上野国神名帳群馬東郡の正五位上小伊賀保明神(一宮本では伊賀保別大明神)は古伊賀保明神である当社のこととする説もある。天平古名社で彦三宮神社は火々出見命豊玉姫命少彦名命の三柱の神を奉斉している。との話に心が惹かれます。


伊香保神社 祭神 大己貴命 少彦名命


現在では祭神が一部しか一致しないものの、それは千年を超す風雪の成す祭神の入替え、変化とも考えられるのです。

三宮神社    祭神 3柱 彦火火出見命 豊玉姫命 少彦名命 

伊香保神社   祭神 2柱 大己貴命        少彦名命


 当初、三宮神社と伊香保神社との間に関係性が認められると知った際に、直ぐに頭を過ったのは、三宮神社の少彦名命の違和感でした。しかし、伊香保神社の元宮であるかどうかは別として、伊香保の祭神とされる大己貴命 少彦名命を見て収まりました。

 そもそも、三宮神社の祭神である彦火火出見命豊玉姫命は皆さま良くご存じの海幸山幸神話に登場する男女神=夫婦神であり、海幸から借りた「ち」を失い途方に暮れている彦火火出見に龍宮に行けとアドバイスをしたのが塩土老翁(実はカミムスビ神=博多の櫛田神社の大幡主)であり、海神神社(和多都美神社)で龍王(ヤタガラス=カミムスビの子)の娘である豊玉姫と出会いウガヤフキアエズが生まれるのです。ところが豊玉姫の子育て放棄によって代わりに送られてきた乳母である鴨玉依姫が、後のウガヤフキアエズの子を成し、生まれたのが安曇磯羅だったのです。(福岡県久留米市の高良大社に残された「高良玉垂宮神秘書」冒頭) 伊香保温泉の伊香保神社と対応する神社であると言う説は私には正しく見えます。これで分かるように、本来、三宮神社とは海人族の神を祀る神社なのであり、本来、この地に住んでいたのはそのような稲作漁労の民だったはずなのです。

 三宮神社というものも当然、カミムスビ系の民が奉斎する神社だったのです。

 では、少彦名彦とはどのようにして祭祀に加えられたのでしょうか?

 百嶋神社考古学では、北部九州に成立した倭人の国とは、白川伯王に加え、その姉である天御中主命と金海金氏(金首露王の後裔)であるウマシアシカビヒコヂ=その子大山祇命を軸に呉の太伯王の血を引く本物の神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)を担いでいたのです。

 その初期を支えたのが金山彦+カミムスビ神の妹埴安姫であり、その後、大山祗の子である大国主命が九州の倭国を支えることになるのです。その大国主の国造の協力者だったのが 少彦名命であったとすると辻褄が合うのです。このあたりの話は古くからの読者は理解されると思いますが、それには2500本のブログのバック・ナンバーを探って頂くしかありません。代わりに百嶋神社考古学の精華と言うべき最終神代系譜をご覧頂ければと思います。

 伊香保神社の大国主命以前の祭祀は山幸彦=彦火火出見命だったのではないかと言うのが、今回のテーマですが、実のところ馬鹿にされるような提案で恐縮なのです。

 この山幸彦=彦火火出見命は後に伊勢の外宮の豊受大神の夫として採用され、末永く添遂げられています。実は、豊受大神とは伏見稲荷でありアメノウヅメなのです。

 無題.png百嶋神社考古学では、この猿田彦の最初の根拠地となった佐賀県佐賀市の久保泉地区だとします。

 白鬚神社は琵琶湖の北西岸に鎮座する猿田彦の神社として良くご存じだと思います。湖に浮かぶ鳥居が有名な神社ですね。そのルーツは佐賀県にあるのです。この直ぐ東が吉野ヶ里遺跡になるのですが、赤丸の円内にあるJRの駅が伊賀屋(イガヤ)と呼ばれているのです。

 これは琵琶湖東岸の伊賀にも通底しており(ここにも、伊勢にも猿田彦神社が在る事はご存じでしょう)、それが伊香保にも関係があるのではないかと考えているのです。

伊賀屋(イガヤ)、伊賀(イガ)、伊香保(イカホ)…であり、下の最終神代の系譜でもニギハヤヒ=猿田彦は伊ノ大神と書かれていますね。さらに言えば、ニギハヤヒの本拠地であった筑豊地方の物部地帯にも頭に「伊」が付く地名が異常に多い事をご紹介したいと思います。

非常に好い加減な論証にもならない事を申し上げてそれこそ申し訳ないのですが、筑豊と言えば、先代旧事本紀に登場する25部族筆頭物部=天神ニギハヤヒ=天照国照彦…の本拠地鞍手郡から田川郡に掛けて、「伊…」地名が集積している事を持って論証ならぬ論証に代えたいと思います。

 余裕がある方はグーグルで福岡県田川市とでも入力し、グーグル・マップを掲示して見て下さい。                    

以下は百嶋由一郎最終神代系譜(部分)

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田川郡糸田町、田川郡大任町今任原、田川市伊田、田川市伊加利、田川市猪位金、田川市位登、田川市猪国、田川郡福智町伊方、田川郡福智町市場…と、まだまだ、小字まで拾えば草臥れるほどの地名が回収できます。以下も博多湾に面した福岡市西区の地図です。正面の能古島にも白鬚神社が在り信仰券圏と分かりますが今津、今山、今宿…と言う地名があります。
無題.png

故)百嶋由一郎は今の意味は「魔物を射る」と申しておりました。今山は地図には出せませんでした。

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2023年11月09日

974 気ままな上州への神社調査 ⓱ “阿蘇の立野の大峡谷の岩戸神社は戸隠神社の元宮か?”

974 気ままな上州への神社調査 ⓱ “阿蘇の立野の大峡谷の岩戸神社は戸隠神社の元宮か?”

20230517

太宰府地名研究会 古川 清久


以前、ひぼろぎ逍遥に以下を書いています。以下再掲載します。


549 岩戸神社に行かねばならない “阿蘇は立野大峡谷の南崖に鎮座する重要な一社”  20171227


 通常、現地に訪れる事無くblogを書くなどあり得ない事(これまでにも例外が12ありますが)ですが、今回は逸る気持ちもあり下調べの意味もあることから未見の神社を書くことにしました。

 この神社にこれまで全く気付かなかった事は迂闊と言えば迂闊でした。阿蘇への進入路は熊本市側から入る通常のルートが4本程度あるのですが、そのいずれからも外れている上(江戸期まで南阿蘇に入る良く使われた「南郷往還」)にどこからも見えないようない岩肌に鎮座している神社だったからでした。

 この地がいかに重要かは、熊本大学の裏手に龍田山があり、立野の大峡谷が窄まっていることから、この地で西からの風が一気に風速を上げる場所だからであり、「日本書記」の“龍田の風を立野に祀る”という故事はこの地の事であって(古田史学の会の正木 裕が言う画期的な説)決して大風など吹かぬ辺鄙な奈良の話ではないのです。そして、風の神こそ支那都彦(シナツヒコ)草部吉見=ヒコヤイミミであり、雷神とは崇神(ヒコヤイと市杵島姫との間に産まれた大山咋と鴨玉依姫の子)の事なのです。

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おごりは禁物です。私が知らないとしてもうちのメンバーには神社に精通した人が数多くいる訳で、訪ねると熊本のF女史はグループのメンバーを動員し、地元の大津町が整備する前に道つくりを行ない神社の整備をしていたと言っていましたし、福岡のI女史はグーグル・アースの古代祭祀線が線上に載ったため入口まで入ったものの、蛇が苦手で逃げ帰って来たとか…知らぬは私ばかりだった訳です。

 いずれにせよ、ここにも大国主命、少彦名命祭祀を確認できる訳で、熊本では見過ごす事の出来ない重要な一社なのです。

 駐車場は十分にあるものの、一キロ足らずを広葉樹の森抜けて歩く必要があり、最低でも片道20分余りの参拝になるようです。

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無題.png関東在住メンバーの常陸の国ふしぎ探検隊の方々からは、この神社が信州の戸隠に移動していると言ってきているので、この点に注目して調査を進めようと考えています。

 ただ、今のところあちらの金山彦祭祀は確認できていない事から(戸隠中社の思兼命は金山彦ですので)、果たしてうまく繋がるかは現地に入って以降の事としたいと思います。

 年明け早々に、熊本のメンバー数人と現地に入る相談を進めているところです。

戸隠神社について
奥社参道中程、萱葺・朱塗りの随神門

 戸隠神社は霊山・戸隠山の麓に、奥社・中社・宝光社・九頭龍社・火之御子社の五社からなる、創建以来二千年余りに及ぶ歴史を刻む神社です。
その起こりは遠い神世の昔、「天の岩戸」が飛来し、現在の姿になったといわれる戸隠山を中心に発達し、祭神は、「天の岩戸開きの神事」に功績のあった神々をお祀りしています。
平安時代末は修験道の道場として都にまで知られた霊場でした。神仏混淆のころは戸隠山顕光寺と称し、当時は「戸隠十三谷三千坊」と呼ばれ、比叡山、高野山と共に「三千坊三山」と言われるほどに栄えました。
  無題.png江戸時代には徳川家康の手厚い保護を受け、一千石の朱印状を賜り、東叡山寛永寺の末寺となり、農業、水の神としての性格が強まってきました。山中は門前町として整備され、奥社参道に現在もその威厳を伝える杉並木も植えられ、広く信仰を集めました。

明治になって戸隠は神仏分離の対象になり、寺は切り離され、宗僧は還俗して神官となり、戸隠神社と名前を変えて現在に至ります。

戸隠には岩戸が飛んで行ったとの話がある訳で、当然、その投げられる元があるはずなのです

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)     必要とされる方は09062983254まで


以下は地元大津町のHPから 「熊本県神社誌」には見るべき記述はありませんので、ネット情報から。

岩戸神社

最終更新日:2022817

平成28416日に発生した熊本地震の影響により、現在岩戸の滝・岩戸神社への登山道を閉鎖しています。危険ですので、入山されないようお願いします。

 また、駐車場に入る手前の橋も被害があり、通行不可となっており、駐車できない状況です。

内牧の畑地区から、渓谷を登ること約1km、断崖絶壁から落ちる清流の下、深山幽谷の中にあります。

 神社は通称「飛佛」といい、これにまつわる任承があります。創建は永正4(1507)と棟札にあり大己貴神、少彦名神を祀り、併せて南北朝時代と推定される量感豊かな阿弥陀三尊も合祀され、今なお神仏混合の形を示す県下でも稀な神一社です。

伝説

 畑集落の山の上にある岩戸神社を「飛仏(トンボトケ)」といっています。江戸時代の初め、谷向こうの立野(南阿蘇村)の山野に観音堂があったといいます。ある年、野焼きの火で観音堂が燃えたとき、観音さんは難を逃れるために白川を越えて、ここまで飛んでこられたといわれ、それ以来この名がついたといいます。飛んできた時、豆ガラで目を突かれたのでこの集落では豆をつくらないそうです。

以下もう一本「神話と古事記」様より

岩戸神社 熊本県菊池郡大津町外牧  20160512

岩戸渓谷、勇壮な岩戸の滝が境内に接するマイナスイオン溢れる社

[住所]熊本県菊池郡大津町外牧 [電話]096-293-3115 - 大津町役場商業観光課


岩戸神社(いわとじんじゃ)は、熊本県菊池郡大津町にある神社。大津温泉・岩戸温泉の近く、岩戸渓谷の切り立った断崖絶壁の下にひっそりと鎮座する。通称は飛佛(とんぼとけ)という。御朱印の有無は不明。    創建は永正4年(1507年)と棟札にあり、室町時代となる。大己貴神少彦名神を祀る。
あわせて、南北朝時代と推定される量感豊かな阿弥陀三尊も合祀され、今なお神仏混合の形を示す県下でも稀な神社。江戸時代の初め、谷向こうの立野(南阿蘇村)の山野に観音堂があり、ある年、野焼きの火で観音堂が焼失した時、観音さんは難を逃れるために白川を越えて、当地まで飛んできた。

これが通称の由来で、飛んできた時、豆ガラで目を突かれたのでこの集落では豆をつくらないといわれる。

当社の鳥居から約1キロ、1の滝、2の滝、3の滝と三つの滝、いわゆる岩戸の滝の数々を眺め、ゆったりと散策できる参道となっている。
参道は、一部険しくなっており、長袖・長ズボン・スニーカーなど歩きやすい服装が推奨されている。
境内に接する滝(3の滝)は落差30メートル以上ともいわれ、勇壮で壮観。マイナスイオンに溢れたパワースポットとしても認知されている。


 百嶋由一郎は音声記録でも残していますが、戸隠神社について熊本から飛んで行った…と話しています。ただ、根拠とか由緒とかと関連付けては話していません。

 修験者の拠点があった事は間違いが無いと思いますし、岩戸神社という名称が(高千穂だとか阿蘇だとかなら普通に思えますが)何故この地に…と、しかも、普通なら肥後に大国主命、少彦命…を敢て祀っている事に逆に信憑性を感じてしまうのです。

 故)百嶋由一郎は「皆さん、大国主を出雲の人だと思い込まされてしまっていますが、こちらから移転した先が出雲何ですね…」と言っていたことを思い出します。

 今回、初めて戸隠に行った時も、この岩戸神社の事が引っ掛かっていました。

 ちなみに戸隠の神は以下の通りです。どう見ても畿内の勢力圏に入った後の祭神ですね。


天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)

天八意思兼命(あめのやごころおもいかねのみこと)

天表春命(あめのうわはるのみこと)

九頭龍大神(くずりゅうのおおかみ)

天鈿女命(あめのうずめのみこと)

高皇産御霊命(たかみむすびのみこと)

栲幡千々姫命(たくはたちちひめのみこと)

天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと  と祭神が全く異なる事から中断せざるを得ません。


 ただ、信濃が近畿大和朝廷にとって完全に自らの領域になって以降祭神の入替えが行われているはずで、摂社などで反証できるならばともかく、初見の神社でそのような芸当はできません。

 実は、この熊本県大津町の岩戸神社に関しては、宮崎県高千穂町にある明治の教派神道系新興宗教団体出雲大社教の高千穂教会が任務を終え、境内地、社殿を含めて売りに出ていた神社を買い取って社殿を修復し、見事な神社「ひのみこ社」(高千穂町 ひのみこ社 を検索して下さい。当方も、同社を含め高千穂88社の内20社はブログを書いています)として再建した F女史がグループのメンバーを動員し、荒れていた岩戸神社の参道を何度も何度も整備し、事実上管理が放棄されていた状態の参道を整備されていました。

 ところが、熊本地震の結果、この神社の参道直下にある、鳥居や駐車場へと入る橋が壊れた結果、現在も復旧ができていない有様の上に、神社への参道も通行禁止となっているため、私も駐車場手前までは行きましたが、今も入れないでいます。

無題.png

以下の新ひぼろぎ逍遥 を検索されれば 現在の神社庁統制下の神社とは異なる神社である事はお分かりいただけるでしょう。列島が危機の真っただ中にある中で、国民も国土も国の富も、国の文化も守ろうともせず、三年間も続いた武〇肺炎〇ィルス騒動(蓋を開ければ案の定五類のただの風邪)で困窮する人々が続出する中でも国難克服のための祈祷もせずに氏子そっちのけで高級車でゴルフ三昧の宮司もおられるようでは、ここ五〜十年で神社は実質的に半減するでしょう。しかし、県外からも多くの信者を集める ひのみこ社 は崇敬を集め地域の核に成長している事でしょう。


840

全国の神社が荒れていく中、売りに出された社殿+神社地を

買い取り再建する作業が始まった(追補)

839

全国の神社が荒れていく中、売りに出された社殿+神社地

を買い取り再建する作業が始まった(下)

838

全国の神社が荒れていく中、売りに出された社殿+神社地

を買い取り再建する作業が始まった(中)

837

全国の神社が荒れていく中、売りに出された社殿+神社地

を買い取り再建する作業が始まった(上)


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2023年11月06日

973 気ままな上州への神社調査 ⓰ “上州〜信州 国界碓氷峠の碓氷神社”

973 気ままな上州への神社調査 ⓰ “上州〜信州 国界碓氷峠の碓氷神社”

20230513

太宰府地名研究会 古川 清久


 今回は二度(延べ56日)群馬に入りました。

できるだけ多くの知見を得るためにと各々往路も帰路も変えたのですが、最後は碓氷峠を越え軽井沢を経由して戻ろうと考えていました。

恥ずかしながら、これまで“峠の釜めし”で知られる碓氷峠を越えた事がありませんでした。


峠の釜めしは、群馬県安中市にある「荻野屋」が製造・販売する駅弁である。 益子焼の土釜に入れられているという点が特徴の駅弁で、「日本随一の人気駅弁」と評されたこともある。     Wikipedia


碓氷峠(うすいとうげ)は、群馬県安中市松井田町坂本と長野県北佐久郡軽井沢町との境にある日本の峠である。標高は956メートル (m)。                         Wikipedia

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碓氷峠の連続めがね橋鐡道橋は良く知られていますが、と言っても、もはや知る人が消え始めています。少なくとも日本海側と関東=帝都を繋ぐ大動脈と考えていたことは間違いがないのです。

 そうでなければ、この難関の僻地にアプト式だかアブト式だかのドイツの技術を持ち込んでまでの工事はやらなかったはずなのです。

 ただ、25年ほど前に廃線になったとは言えこの鉄道橋が原型を留めている事には明治以来の旧国鉄の気迫と気概と技術への執着が今も日本人の気質に継承されている事に感動さえ覚えます。

 間違っても半島某国のSK○○〇○○〇などのとんでもない好い加減な仕事でないのだけは確かで、色々と問題はありますが、良い国に生まれ育ち終末を終える事が出来そうだと言う静かな喜びを噛みしめている所です。

 いずれにせよ、道路も鉄路も何時しか路線も変わり、新幹線や高速路に代わっていくのです。

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まあ、釜めしや百数十年現存している鉄道橋の話は終わりにして、碓氷峠の手前の安中市松井田に碓井神社が在ります。

これも事前調査で見ようと思っていた一社ですが、群馬県側でもかなり離れた手前に碓井神社が在るという事は、この碓井という地名は群馬側から付された地名である可能性が高いでしょう。

そういう意味では、この地名を付した人々の本拠地は群馬県側であり、そこに祀られている神々が分かれば、この地の成立が如何なる経緯で始まったかがおぼろげながらも見えてくるのではないかと思うのです。

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これは横川駅手前の信越線?です。正面奥は碓氷峠ではなく、この線路の延びた右手が碓氷峠になります。そして、碓氷神社は線路に向かう背中側にあるのです。

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簡単に言えば、神社への参道を線路が叩ききった様に見えるのです。

信越本線ですから、当時は本数も多かった事でしょう。最低でも跨道橋ぐらいは造られるべきだったのですが、踏切はあったのかも知れませんが、参道の正面ではないのです。

重要線路でもこのようなものは何度か見た事があります。

 旧郷社クラスでも配慮されない事はあるでしょう。ましてや村社クラスでは…となるのです。

 正面にも大きな谷が見えますが、案の定、ダムが造られています(中木ダム)。

 びっくりするのは御所平という字があるようで交差点名として残っているようなのです。

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導入部が長過ぎました。それほどの大社でありませんがご覧下さい。

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グーグル検索を行うと、始めから安心できる情報を頂けました。最近は「村興し」「町興し」「世界遺産登録」と言った行政がらみの旅行代理店だかグルメ宣伝高だか通販サイトなどと変わらぬものまで増えており、行政は行政らしい本来の民衆のための活動をすべきであってどうにかならないかと嘆くばかりです。早速引用させて頂きますが、私の考えが甘く早とちりであった事が分かりました。

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碓氷神社:群馬県安中市松井田町五料2131 


碓氷峠の熊野神社の分霊を勧請


取敢えずお読み下さい。簡潔ですが明瞭です。

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場所(旧碓氷郡五料村字御所平)JR西松井田駅より中山道(国道18号)沿いに西に徒歩約1時間。
標識がいたるところにあり旧道をたどるのは結構面倒。五料で信越線の向こうに鳥居が見える。
鳥居の側には「庚申塔」「二十三夜塔」の石碑が立つ。…

社殿は鳥居から急な石段を上り詰めた所に山を背にして鎮座。境内には社務所?、神輿倉庫?、石灯籠の他数基の石造物がある。本殿は覆屋に囲まれ見ることができない。拝殿を覗くと、「三社大明神」たる神額が掲げられていた。

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御祭神

速玉之男命、伊邪那美命、事解之男命 (御祭神は「上野国神社明細帳」より参照


御由緒

不詳 碓氷神社の創建は不詳であるが碓氷峠に鎮座する熊野神社の分霊を勧請したのが始まりと伝えられている。


建久年間(119099)、源頼朝浅間山巻狩の際当神社に祈願せられ、尚又当所境内に御所を置かれたにより地名を御所平と称す。南北朝時代に入ると碓氷郷一ノ宮となり広く信仰を広め、慶安年間(164852)に碓氷峠の熊野神社の里宮となり社殿を改築し碓氷神社と改称する。明治四十二年村内の各社を合祀する。(「松井田町誌」参照)


 必要な事は全て書かれています。ネットには県神社庁のサイトがあります。あるのかどうかも調べていませんが、さすがに「群馬県神社誌」まで買おうとは思いませんので非常に助かりました。まず、鳥居の側には「庚申塔」「二十三夜塔」の石碑が立つ。に関してですが、私が住む九州では、既に三夜待ち と呼ばれ、今では宴会そのものをそのように呼び習わしています。ただ、現在でも月待ち神事として伝統を守っている所もあります。これからも九州との関係を強く意識したのですが、関西圏では薄く、むしろ山梨など関東圏にこの風習が強く残っていると思っています。十三夜もあるのですが、二十三夜の遅い月の出から明け方まで火を焚き続け、酒盛りを行う風習がある事を複数知っています。これが関東に多い事に気付いたのは十年前でしたが、浅間神社を巡ると多くのこの講の石塔がが目につきます。


以下、「日本大百科全書(ニッポニカ)」より


旧暦23日の月待(つきまち)行事の一つで、全国に広く行われている。毎月行っている所もあるが、いちばん多いのは159月の3回に行っている例である。1123日は大師(だいし)講の日なので、この日も広く行われている。土地によっては二十三夜は男だけで、女は二十二夜にしている所もある。二十三夜の月は出が遅いので、当番の家に集まって簡単な酒肴(しゅこう)を前によもやま話をして待つ。二十三夜講をつくっている所では二十三夜塔という記念碑を立てている例もある。二十三夜の月のさまを見てその年の作物の豊凶を占っている土地もある。


祭神の 速玉之男命、伊邪那美命、事解之男命についてですが、皆さんこの神様に関する具体的なイメージが浮かびますか?

伊邪那美命は最も分かり易いはずで、国生み神話のイザナギ、イザナミの女神様の方ですね、では、何故、イザナギは祀られてないのでしょう。

これについては以前にも何度も書いていますので、改めては書きませんが、神社に詳しい方はある程度お気づきになっていると思いますが、有名な琵琶湖の多賀神社などではイザナミ+イザナギという夫婦神として祀られていますが、熊野系神社ではイザナギとイザナギが夫婦神で祀られているケースは少なく、大半はイザナミ単独で祀られている方が圧倒的に多いはずです。

それは分かれているからです。


第五段一書(十)

一書曰、伊弉諾尊、追至伊弉冉尊所在處、便語之曰「悲汝故來。」答曰「族也、勿看吾矣。」伊裝諾尊、不從猶看之、故伊弉冉尊恥恨之曰「汝已見我情。我復見汝情。」時、伊弉諾尊亦慙焉、因將出返、于時、不直默歸而盟之曰「族離。」又曰「不負於族。」乃所唾之神、號曰速玉之男次掃之神、號泉津事解之男。凡二神矣。及其與妹相鬪於泉平坂也、伊弉諾尊曰「始爲族悲、及思哀者、是吾之怯矣。」時、泉守道者白云〜

〜「有言矣、曰、『吾、與汝已生国矣、奈何更求生乎。吾則當留此国、不可共去。』」是時、菊理媛神亦有白事、伊弉諾尊聞而善之。

乃散去矣、但親見泉国、此既不祥。故、欲濯除其穢惡、乃往見粟門及速吸名門、然此二門、潮既太急。故、還向於橘之小門而拂濯也。于時、入水吹生磐土命、出水吹生大直日神、又入吹生底土命、出吹生大綾津日神、又入吹生赤土命、出吹生大地海原之諸神矣。不負於族、此云宇我邏磨茸。

現代文訳 第五段一書(十)

ある書によると……

イザナギはイザナミを追いかけて辿りついて、言いました。「わたしは、お前を失って悲しいから来たのだ」するとイザナミは答えました。「つながる者よ(=夫)。わたしを見ないでおくれ」イザナギは従わずに、イザナミを見てしまいました。イザナミはそれを恨み、恥じて「あなたはわたしの心を見た。わたしもあなたの心を見てしまった」と言いました。それでイザナギは申し訳なく思い、引き返そうとしました。そのときイザナミは黙って帰らせず「別れましょう」と言いました。イザナギは「負けない!」と言いました。その時吐いた唾が神となったのが速玉之男(ハヤタマノオ)といいます。次に穢れを払うと泉津事解之男(ヨモツコトサカノオ)といいます。二つの神が生まれました。

日本神話・神社まとめ による


 確かに分かれている様なのです。これについても、故)百嶋由一郎は“どうも大幡主(博多の櫛田神社の主神で実はカミムスビ神)と一緒になっているんじゃないか…”と気付いた(福岡県旧夜須町で…。と話しておられました。

 速玉之男(ハヤタマノオ)と言えば、熊野神社にお詳しい方は熊野速玉大社が頭に浮かばれるのではないでしょうか。その通りなのです。速玉が造化三神のカミムスビ神なのです。

 ついでに言えば、熊野那智大社の祭神が別れたイザナミであり、名を変えクマノフスミの命としているのです。

 この様に百嶋神社考古学は単純ではなくなかなか一筋縄では行かないのです。

 このため、事解之男命が誰なのかが非常に難しく、過去のブログでももしかしたら誤まって書いているかもしれませんが、大体、イザナギが死んで二人の神が生まれ変わるか生まれるという話が奇妙で、泉津事解之男(ヨモツコトサカノオ)が理解できないでいるのです。私も、過去、カミムスビかその子のヤタガラスだろうとか、金山彦だろうと書いていますが、混乱の結果です。

そもそも、この日本書紀の記述も非常におかしな書き方をしているのです。

どうせ、国文学者辺りに問うても解からないとしか言わないでしょう。マッカーサー以後の80年の米軍占領と、神社研究の禁止によって研究が途絶えているのです。勿論、今もです。

してみると、この神社も、かなり、原形を保った祭神である事が分かります。

一応、イザナミは良いとして、カミムスビと金山彦(カグツチ)としておきます。


不詳 碓氷神社の創建は不詳であるが碓氷峠に鎮座する熊野神社の分霊を勧請したのが始まりと伝えられている。


南北朝時代に入ると碓氷郷一ノ宮となり広く信仰を広め、慶安年間(164852)に碓氷峠の熊野神社の里宮となり社殿を改築し碓氷神社と改称する。明治四十二年村内の各社を合祀する。(「松井田町誌」参照)


 この様に、碓氷峠の熊野神社に行かなければと思いながらもパスしてしまい、安中市松井田に碓井神社を発見し、これで省略したのが間違いでした。

 また、九州からこの神社の為だけに出てくるのもたいへんで、まだ、チャンスはあると思いますが、少し確認作業は遅くなりそうです。これだけに関わっている訳には行きませんので。お許しください。

 どうやら、もう一度、軽井沢に行かなければならないようです。

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ご覧の通りイザナギは排除されていますね!これこそが熊野系神社の神髄なのです。


神社の縁起によれば、景行天皇40年(西暦110年)大和朝廷の命を受けた日本武尊は東国を平定し、武蔵国、上野国を経て碓氷坂に差し掛かった。折りしも濃霧により道に迷われてしまったが、その時紀国熊野山の神使霊鳥である一羽の大きな「八咫烏」が現れ、梛(なぎ)の葉を咥え来て尊の御前に落としながら道案内をした。そして尊は無事頂上に達することができた。尊はこれはまさに熊野の神のご加護とここに熊野の神を勧請したのが始まり。

 碓氷峠に立って自分が登って来た方角を振り返って見れば、そこには棚引く雲海が見られ、武尊はそれより海を連想され、東征の途中に相模灘で入水された弟橘姫(おとたちばなひめ)を偲ばれ、辰巳の方角(=東南の方角のことで関東平野が一望できる)に向かって「吾嬬者耶(あづまはや)」(=「愛しき我が妻よ」の意味)と3度嘆かれたという。

 以後ここより東の国を吾妻(あづま)と呼ぶこととなった。(日本書紀の記述による)これらの御由緒より、それに因んだ地名が残っている。例えば、神社の裏山の頂上を留夫山(とめぶやま)(=武尊の足を留めさせた場所の由緒から付いた名前)。あるいは、長野原(ながのはら)や長倉(ながくら)は、嘆きある原が語源と伝わっている。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記