975 気ままな上州への神社調査 ⓲ “上州の神社調査で最も感動した吉岡町の三宮神社”
20230518
太宰府地名研究会 古川 清久
埼玉県在住の百嶋神社考古学研究会メンバーのT氏と合流し、榛名山に向かう途中に遭遇したのが吉岡町の三宮神社でした。
何やら様子が違うので、何事かと思うと、春の大祭(呼称はご当社にお聴きください)だったのでした。

関東平野の奥の縁と言うか山際と言うかと言った所です
ブログも18〜20本(遠征前下調べ稿を併せれば25本)は書きそろそろ草臥れてきました。
後、多くとも⓴まで書いておしまいにしないと、良い気候での現地探訪ができなくなり、そのうち梅雨が始まります。5月21日の講演会(漢の劉邦の後裔後漢の霊帝の孫阿智王が列島に入っていた…田尻講演)以降はトレッキングを優先したいと思っています。話が逸れましたね失礼。
同行者のT氏と榛名山を目指して走っていると、何やら人の集まっている神社に遭遇しました。
祭が春先に行われる例は九州では、田植え祭などを除けば稀であり、実際には何だろうと思い行き掛けの駄賃とばかりに氏子さん達に混ざって見学させて頂きました。
では、まずは祭りをご覧下さい。

その後も、後から後から氏子の方々が増えて来てちょっとだけ見るつもりでいましたが、早くも二時間は経過していました。獅子舞見事!
今時、半被を揃え、練習を重ねた舞を奉納すると言う作業、練習を考えると、総代さん以下の方々のご努力には頭が下がります。
最近、子供の数がめっきり減ったと言う話は普通の事になりましたが、二〜三十年も前にタイムスリップした様な気さえしたのでした。
関東平野の片隅とは言え、それなりの人口のある都市近郊の地だけに本当に良いものを見せて頂いたと言う思いがしたのでした。大体、今時、笛を吹ける人を揃えるだけでも至難の業と言うべきところ、笛隊だけでも10名は降らないのですから驚きます。…と祭を正確にお伝えできていないのではと思いますがその点はよそ者の話としてお許しいただきたいと思います。祭は祭として本題に入ります。

境内の掲示板と石碑から
三宮神社(さんのみやじんじゃ)は、群馬県北群馬郡吉岡町大久保にある神社。式内社(名神大社)で、上野国三宮。
祭神[編集]
神体は一木彫の十一面観音像(室町時代作と推定、像長90センチメートル)である[3]。『神道集』には伊香保神里宮の本地仏は十一面と見え、その記載と一致する。
歴史 創建 伊香保神社(渋川市伊香保町伊香保)伊香保温泉街の一角。三宮神社はその里宮とされる。
創建は天平勝宝2年(750年)の勧請と伝えるが、詳らかでない。
中世の『神道集』では、「伊香保大明神」について「女体ハ里ヘ下セ給テ三宮渋河保ニ立セ御在ス、本地ハ十一面也」と見えることから、当社は伊香保神社(湯前神、渋川市伊香保町伊香保)の里宮にあたると考えられている。「伊香保」とは噴火の激しい榛名山を「厳つ峰(いかつほ)」と称したことによるとされるが、山宮の鎮座地は噴火に伴う堆積層のため耕作には不向きで、6世紀中葉頃の最後の噴火後数百年を経て湧出した温泉で発展した地になる。そのため、温泉湧出以前は里宮の三宮神社が祭祀中心地であったと見られ、その様子は現在も社名に「三宮」、すなわち上野国三宮を掲げることからも示唆される。上野国では以上の類例として、二宮赤城神社(里宮、前橋市二之宮町)と三夜沢赤城神社(山宮、前橋市三夜沢町)の関係がある。
当社の鎮座地は『和名抄』に見える上野国群馬郡有馬郷に比定されることから、奉斎氏族は古代氏族の有馬氏であったとされる。『新撰姓氏録』右京皇別 垂水公条では豊城入彦命(上毛野氏祖)子孫として「阿利真公」の人物名が見え、上毛野氏の一族と推測されている[4]。当地周辺では、一族のものと推測される多くの古墳も見られる。
なお、「三宮」の社名は祭神が3柱であるためとも、彦火火出見命が瓊瓊杵命の第三皇子であるためともする異伝があるが詳細は明らかでない。
概史 国史では、「伊賀保社」は承和2年(835年)に名神に列したと見えるほか、「伊賀保神」の神階が承和6年(839年)に従五位下、貞観9年(867年)に正五位下、貞観11年(869年)に正五位上、貞観18年(876年)に従四位下、元慶4年(880年)に従四位上に昇叙された旨の記載が見える。その神階は上野国において、貫前神に準じ、赤城神と同格になる。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では、上野国群馬郡に「伊加保神社 名神大」として、貫前神社・赤城神社とともに名神大社として記載されている。
長元3年(1030年)頃の『上野国交替実録帳』では、「正一位伊賀保明神社」の項に玉殿1宇・幣殿1宇・鳥居2基・向屋1宇・美豆垣1廻・荒垣1廻・舞人陪従屋1宇・厨屋1宇と記載がある。しかしこの社殿規模は貫前社・赤城社に劣り、他の式内小社・式外社と同格になる。そのためこの頃までには衰微したものと考えられ、伊香保の地に移ったのもこの頃と推測される。
『上野国神名帳』では、いずれも鎮守十社のうちで、総社本では3番目に「正一位伊賀保大明神」、一宮本では2番目に「正一位伊賀保大明神」、群書類従本では3番目に「正一位伊香保大明神」と記されている。同帳では、関連神名として「若伊賀保神」「伊賀保若御子明神」「伊賀保木戸明神」の記載も見える。
南北朝時代成立の『神道集』では、「上野国九ヶ所大明神事」や「上野国第三宮伊香保大明神事」に記述が見える。これらによると、伊香保神は貫前神(一宮)・赤城神(二宮)に次ぐ上野国三宮であるほか、湯前にある男体(本地仏:薬師如来)と、渋川保三宮の里宮にある女体(本地仏:十一面観音)とから成るという。
近世以降の三宮神社は衰微し、詳細は明らかでない。対して山宮は伊香保温泉とともに発展し、近世まで「湯前大明神」と称していたが、明治6年(1873年)に「伊香保神社」と改称している。現在では、里宮・山宮の間に祭祀関係はない。 三宮神社 (吉岡町)20230519 7:14より
現在では途絶えるも、朧気ながら伊香保温泉を山宮として祭祀が始まっていたことが推定されます。
ここで、敬愛する「玄松子」様を引用させて頂きます。複数の見解を見せて頂ければほぼ確実です。
より
式内社 上野國群馬郡 伊加保神社 名神大
御祭神 彦火火出見尊 豊玉姫命 少彦名命
群馬県吉岡町にある。境内地を、関越自動車道が通ったため。関越自動車道の西そばに鎮座。
吉岡町役場の南東1Kmほどの位置。道路そばに参道入口があり、木々の参道を北上して境内。一段高い境内は、綺麗に整備され、赤い社殿が美しい。天平勝宝2年(750)の勧請と伝えられ、伊香保神社の里宮で、上野国三宮と思われる神社。一説には、伊香保神社の古社地であるという。よって上野国神名帳群馬東郡の正五位上小伊賀保明神(一宮本では伊賀保別大明神)は古伊賀保明神である当社のこととする説もある。当社の南西4Kmには総社も存在し、国府に近く、周囲に古墳群もある。
三宮神社由来記
吉岡村大字大久保字宮の地に鎮座する三宮神社は天平 勝宝二年創祀の伝承をもつ古名社で彦火々出見命豊玉姫命少彦名命の三柱の神を奉斉している当社を三宮と 称する所以は三柱の神を祭るためでなく上野国三之宮 であったことによる九条家本延喜式神名帳には上野国 三之宮は伊賀保大明神とあり当社はその里宮の中心で あったと考えられる柳古代当地方の人々は榛名山を伊 賀保山と称しその山頂を祖霊降臨の聖地と崇め麓に遥 拝所をつくり里宮とした上野国神名帳には伊賀保神が 五社記載されてありその中心の宮を正一位三宮伊賀保 大明神と記している当地三宮神社が伊賀保神を祭る中 心地であったため三宮の呼称が伝えられたのである近 くに大古墳群の存在はそれを裏付ける当社を伊賀保神 とする由縁はその祭神にもよるが本殿に安置される 十一面観音像のあることがこれを証する南北朝時代の 延文年中編と推定される神道集所収の上野国三宮伊賀 保大明神の由来には伊賀保神は男体女体の二神あり男 体は伊賀保の湯を守護する薬師如来で女体は里に下り 十一面観音となるとある当社は古来十一面観音像を御 神体として奉安してきたのである慶應四年神仏分離令 が発せられると全国各地で神社内の仏教関係遺品が破 却された当地の先人は古来三宮神社の御神体として奉 安してきた十一面観音像を秘仏として密かに遺し今日 に伝えたのである昭和六十年秋の関越高速自動車道開 通に伴い当社境内地の一部も道路編入の止むなきにい たりこの機会に氏子一同相計り社殿および境内の整備 につとめ由緒ある当社の由来を後世に伝えんとし石碑 に刻んだ次第である
−境内石碑より−
伊香保風 吹く日吹かぬ日 ありといへど 吾が戀のみし 時無かりけり 萬葉集巻第十四上野国歌
万葉集のこの歌がうたわれた時代 (一四〇〇年前)は、榛名の二ツ岳 の噴火がくり返されて、榛名山は恐 ろしい怒りの山で怒ツ穂(イカホ) と呼んで、神として恐れあがめ信仰 の対象としていました。この里宮と して三宮神社(イカホ神社)がおか れてました。この歌の伊香保風は榛 名山からふき下す空っ風です。 ここで行われた歌垣でうたわれた 歌として祖先への敬愛の念をこめて 石に刻みます。
根幹部については引用で済ませて頂きましたが、それではあまりにも失礼なため、伊香保神社と三宮神社との関係についてお話をさせて頂きます。
伊香保神社を訪れたのはかれこれ35年ほど前の事でした。まだ、神社を調べ始めた訳でもなく、ただ、参拝に及んだだけでしたが、今は、長い急な階段の脇に多くの旅館が賑わい、脇の地下水路には温泉水の排水だと思うのですが、大変な勢いで流れていた事だけの印象でした。
その前に三宮神社は、上野国神名帳群馬東郡の正五位上小伊賀保明神(一宮本では伊賀保別大明神)は古伊賀保明神である当社のこととする説もある。天平古名社で彦三宮神社は火々出見命豊玉姫命少彦名命の三柱の神を奉斉している。との話に心が惹かれます。
現在では祭神が一部しか一致しないものの、それは千年を超す風雪の成す祭神の入替え、変化とも考えられるのです。
当初、三宮神社と伊香保神社との間に関係性が認められると知った際に、直ぐに頭を過ったのは、三宮神社の少彦名命の違和感でした。しかし、伊香保神社の元宮であるかどうかは別として、伊香保の祭神とされる大己貴命 少彦名命を見て収まりました。
そもそも、三宮神社の祭神である彦火火出見命豊玉姫命は皆さま良くご存じの海幸山幸神話に登場する男女神=夫婦神であり、海幸から借りた「ち」を失い途方に暮れている彦火火出見に龍宮に行けとアドバイスをしたのが塩土老翁(実はカミムスビ神=博多の櫛田神社の大幡主)であり、海神神社(和多都美神社)で龍王(ヤタガラス=カミムスビの子)の娘である豊玉姫と出会いウガヤフキアエズが生まれるのです。ところが豊玉姫の子育て放棄によって代わりに送られてきた乳母である鴨玉依姫が、後のウガヤフキアエズの子を成し、生まれたのが安曇磯羅だったのです。(福岡県久留米市の高良大社に残された「高良玉垂宮神秘書」冒頭) 伊香保温泉の伊香保神社と対応する神社であると言う説は私には正しく見えます。これで分かるように、本来、三宮神社とは海人族の神を祀る神社なのであり、本来、この地に住んでいたのはそのような稲作漁労の民だったはずなのです。
三宮神社というものも当然、カミムスビ系の民が奉斎する神社だったのです。
では、少彦名彦とはどのようにして祭祀に加えられたのでしょうか?
百嶋神社考古学では、北部九州に成立した倭人の国とは、白川伯王に加え、その姉である天御中主命と金海金氏(金首露王の後裔)であるウマシアシカビヒコヂ=その子大山祇命を軸に呉の太伯王の血を引く本物の神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)を担いでいたのです。
その初期を支えたのが金山彦+カミムスビ神の妹埴安姫であり、その後、大山祗の子である大国主命が九州の倭国を支えることになるのです。その大国主の国造の協力者だったのが 少彦名命であったとすると辻褄が合うのです。このあたりの話は古くからの読者は理解されると思いますが、それには2500本のブログのバック・ナンバーを探って頂くしかありません。代わりに百嶋神社考古学の精華と言うべき最終神代系譜をご覧頂ければと思います。
伊香保神社の大国主命以前の祭祀は山幸彦=彦火火出見命だったのではないかと言うのが、今回のテーマですが、実のところ馬鹿にされるような提案で恐縮なのです。
この山幸彦=彦火火出見命は後に伊勢の外宮の豊受大神の夫として採用され、末永く添遂げられています。実は、豊受大神とは伏見稲荷でありアメノウヅメなのです。
百嶋神社考古学では、この猿田彦の最初の根拠地となった佐賀県佐賀市の久保泉地区だとします。
白鬚神社は琵琶湖の北西岸に鎮座する猿田彦の神社として良くご存じだと思います。湖に浮かぶ鳥居が有名な神社ですね。そのルーツは佐賀県にあるのです。この直ぐ東が吉野ヶ里遺跡になるのですが、赤丸の円内にあるJRの駅が伊賀屋(イガヤ)と呼ばれているのです。
これは琵琶湖東岸の伊賀にも通底しており(ここにも、伊勢にも猿田彦神社が在る事はご存じでしょう)、それが伊香保にも関係があるのではないかと考えているのです。
伊賀屋(イガヤ)、伊賀(イガ)、伊香保(イカホ)…であり、下の最終神代の系譜でもニギハヤヒ=猿田彦は伊ノ大神と書かれていますね。さらに言えば、ニギハヤヒの本拠地であった筑豊地方の物部地帯にも頭に「伊」が付く地名が異常に多い事をご紹介したいと思います。
非常に好い加減な論証にもならない事を申し上げてそれこそ申し訳ないのですが、筑豊と言えば、先代旧事本紀に登場する25部族筆頭物部=天神ニギハヤヒ=天照国照彦…の本拠地鞍手郡から田川郡に掛けて、「伊…」地名が集積している事を持って論証ならぬ論証に代えたいと思います。
余裕がある方はグーグルで福岡県田川市とでも入力し、グーグル・マップを掲示して見て下さい。
以下は百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


故)百嶋由一郎は今の意味は「魔物を射る」と申しておりました。今山は地図には出せませんでした。