2024年05月01日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)1001 熊本県玉名市の木の葉とは何なのか? (上)

ひぼろぎ逍遥(跡宮)1001 熊本県玉名市の木の葉とは何なのか? (上)

20231115

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 玉名市の東部域に旧玉東町があります。

何故かこの地域の中心部に在るJR鹿児島線の駅が「このは」と言うのです。

 木葉山が聳え、木葉川が有明海に注ぐのですから、きっと相当古い背景を持っているのでしょう。

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JR木葉駅


熊本駅から西voice5番目の駅ですから20分ほどで熊本市街地に入られる言わば大都市近郊の地になるでしょう。このため、熊本市役所、熊本城周辺の交通渋滞を知る人が列車と路面電車(トラン)で目的地に向かう需要はあるのではないかと思うのです。

ただ、木葉(このは)という地名が古いものならばちょっと変わった印象を持つのです。

玉名は古代から国際貿易の拠点であったことが容易に推定できるだけに、もしそうだとすると少し想像の暴走が起きてしまうのでした。

旧玉東町は玉名市の東と言うだけのものでしょうからやはり「木の葉」地名の方が気になるのです。


玉名が「タマキナ」or「タマイナ」と呼ばれたと言う話は良く取り上げられるのですが、そのような誰でもが取り上げるような通説擬きの話は、どこぞの地名研究会か史談会に任せておけば良いのであって、我々、佃収九州王朝説や百嶋由一郎神社考古学、平野雅(日+廣)古代史研究にシンパシーを寄せる当会にはタマキナだったなどと言う話は興味の対象外になってしまいます。


『日本書紀』景行天皇18年の記事では、玉名は「玉杵名邑」(タマキナムラ)とよばれていました。平安時代の『和名抄』には「多萬伊名」(タマイナ)。太宰府天満宮の『天満宮託宣記』には「玉井名」の文字があります。このことから「タマキナ」から「タマイナ」に音が変化して、最終的に今の「タマナ」になったと思われます。                                 玉名市HP


しかし、“熊本県玉名市(旧玉名村)は「土車(トゥチャ)の里」だった!”などと言えば、愕かれる方はかなり増えるのではないかと思います。では、次をお読みください。

以下、ひぼろぎ逍遥(跡宮) 265 熊本県玉名市(旧玉名村)は「土車(トゥチャ)の里」だった!

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これは「熊本県玉名郡誌」の一部で、「土車の里」(土車の荘)以降には、新幹線玉名駅正面の玉名大神宮、玉依姫(この玉依姫は鴨玉依姫か?)に関わる話が書かれています。

 では、「土車」とは一体何のことなのでしょうか?これも百嶋先生はご存じだったようでメモが残されていました。支那城の記事についても重要ですので次のブログで書く予定です。

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百嶋先生はどちらも黎族とされていますが、湖南省のこの地のトゥチャ(土家)族が多氏に随行して阿蘇グループ治下の玉名に入植した様です。…尚、玉名の古名はトゥチャ(土車の里)でした。と書かれています。…では、土車族(土舎、土家、土家族とも)をご紹介しましょう。勿論、阿蘇氏も黎族(猫族)。

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 実質800万人以上とも言うトゥチャを少数民族と言うかは疑問ですが、伝統的な衣装を着たトゥチャ族とミャオ族とペー族の女性(恐らく白い服を着たのが白=ペーツー=ペー族)。


トゥチャ族(中国語:土家族 ビジ語:ビジカ)は中華人民共和国が公認した55少数民族のひとつで、主に湖南省湖北省重慶直轄市(旧四川省)の交界地帯に住む。

人口約600万人、中国の民族の中で8番目多い。言語はシナ・チベット語族チベット・ビルマ語派に属する。長く漢族と交わって暮らしてきたため、現在ではトゥチャ語(ビジ語とモンズ語)を母語とする者は10万人未満程度とされ、ほとんどが中国語を母語としている。このように、民族の総人口と比較して母語人口が極端に少ない民族として、他に満州族(1000万人超えの民族であり、満州語を話せるのは5人以下)シェ族(総人口約80万人、シェ語を話せるのは1000人程度)が挙げられる。湖南省湘西土家族苗族自治州、湖北省恩施土家族苗族自治州が設置されている。なお、例えば、彝族の事を彝家などと呼ぶ事もある事から分かるように、「家」には「族」の意味も含まれている。そのため本来、土家でトゥチャ族の意味をなしており、これに族を加えるのは重複した表現である。しかし、西北に住むモンゴル系民族である土族と区別するためにも、重複した表現ではあるが土族ではなく、土家族を正式な民族名としている。

ウィキペディア(Wikipedia20160519 20:30による


 以下、ひぼろぎ逍遥(跡宮)265 熊本県玉名市(旧玉名村)は「土車(トゥチャ)の里」だった!


… 百嶋先生は「湖南省のこの地のトゥチャ族(土家族)が、多氏(阿蘇氏の事)に随行して、阿蘇グループ治下の玉名に入植したようです。尚、玉名の古名は、トゥチャ(土車の里)でした。」と書かれています。

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トゥチャ族は長い歴史をもつ民族で、その祖先は早くも2000年前から今の湖南省西部、湖北省西部一帯で生活し、その他の少数民族のように「武陵蛮」、「五渓蛮」と軽蔑されていた。宋代以後「土丁」、「土民」、「土兵」などと呼ばれた。漢民族の人たち多数移住してきてからは、「トゥチャ」が民族の称呼として現れた。トゥチャ族の人たちは自分たちのことを「ビツカ」と称し、「地元の人」という意味である。


 百嶋先生は玉名市の大地主家の御曹司でした。実際には戦後の農地解放で辛酸を甞める事になられたのですが、漢籍を諳んじ中国語を独学で学び、その中国だけでも400回飛行機に乗り8000万円は遣ったと言われているほどフィールド・ワークを重ねられた方だったからこそこの事実にも気付かれたのだと思います。漢族に最後まで抵抗を続けた誇り高き阿蘇氏や白族に加え土家もが海南島を経由し、列島に移動(亡命)して来たのです。では、最後に百嶋最終神代系譜の一部をご覧ください。

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右端の多氏が阿蘇氏ですが、赤○は阿蘇の草部吉見神=春日大神=海幸彦を、青○がヤタガラス、大幡主、天御中主を輩出した白族を意味しています。彼らが列島人の骨格を形成したのです。では土家は?

なお、研究のために百嶋神代系譜(全体で20種程度=現在は増えて90種)を希望する方は09062983254までご連絡下さい。…以上)

何故、ここで土舎族を取り上げたかと言うと、玉名が有明海でも水量が豊富な菊池川河口に位置する干潮時にも入られる天然の良港だったからと考えられるからです。


 もう一つの話に「多婆那国」とは玉名ではないかとして、韓国の学者までも調査に来ていたという話もあり、「三國史記」卷第一 新羅本紀 脱解尼師の「脱解本多婆那國所生也 其國在倭國東北一千里」…と言われているのです。

ただ、「タマナ」と「タバナ」は呉音と漢音の対抗現象が反映されており、目を「つむる」というか「つぶる」と言うか、帽子を「かむる」というか「かぶる」と言うか…など同義異音の例(M音、B音の対抗現象)が列島語の中に大量に存在しているのです。

この延長上につまり倭国人が新羅の王族だったという話で、それが新羅王族となるのです。

これもスサノウが新羅の王子様だったという話にまでなりかねない話で、まさしく玉名が国際貿易都市だった証左とも言えるのです。

 こういった話は結局決定的証拠に乏しく、そこから派生した多くの事実を帰納演繹的補強で証明するしかないのです。勿論、誰もやっていないのですが。ここでは玉名がそういった国際的な都市だった事を理解して頂ければ、何故、玉名の奥に江田船山古墳が存在するかも推定できてくるはずなのです。

 その延長上に玉名の伊倉にポルトガル宣教師どもの寄港地も存在したのです。彼らルイス・アルメイダ、ルイス・フロイスといった、奴隷貿易をやらかすイエズス会の侵略者どもが九重を越え大分の府内に陸路で移動していた事もあったのです。

 まあ、だいぶ前振りの話が長くなりましたのでそろそろ「このは」に入らなければなりません。

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古代の玉名、伊倉、木葉を考えながら、菊池川左岸を見る時大量の耕作地が存在することに気付きます。

 これらは菊池川が運んだ土砂が運搬堆積によることは一目で、伊倉がポルトガル船の船食、飲料水を伊倉の崖下の井戸から得ていた事は伝え聴くところですが、さらに遡る事一千年、想像できますが、紀元前後の海岸線を想像する時、安楽寺から木葉山の麓辺りまでは満潮時の静かな内湾、船溜りだったはずで、木の葉こそ当時のウォーター・フロントだったと思えるのです。船島など船溜りの名残かも知れません。

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木の葉のイメージが湧いてくると、漸くして次のイメージが湧いてきたのです。これは後でお話します。

 この地も多くの横穴墓が拾え、古くは大陸でも揚子江流域の人々が入っている様にも見えるのでした。

 さて、これから「熊本県神社誌」から木の葉がどのような土地であるかを考えて見ましょう。

 見難いと思いますのでページは改めますが、「熊本県神社誌」は記述の絶対量が少なく、祭神も主神+2随神といった程度の簡素な内容となっています。

このため、摂社、分社、末社…についても現場で確認する必要があり、そのままでは使い物にならないと言わざるを得ないのです。

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従って、現場を踏んで、全24社を見た上で尚間違いないと考えられる部分だけが正しいのではないかと思っています。

 木の葉の神社調査に入ったのは天子宮調査の関連でざっと見て回った15年ほど前の事でしたが、その当時はまだまだ駆け出しで、“奇妙な地域だなあ…”と言った感想を持っただけでした。

 それは今も同様です。実際、熊本県と言えば阿蘇神社だけが存在すると思い込んでおられる方が多いのです。ところが、実際は全く違うのです。

 神社誌の2829pの集計を見れば、県3237社中、阿蘇系と言えるのは僅か294社で、菅原神社(天満)が1012社となっているのです。

 この菅原神社を道真公と考えられるのはご自由ですが、そもそも9世紀の菅公を神様と考える方はおられないでしょう。

勿論、藤原が4人もの親族を失ったとして祟りを鎮めるために道真を祀れと新たに作られた神社もあるのですが、それとは別に、菅公のご先祖(父方のヤタガラス系と母方の金山彦の孫であるナガスネヒコ系)が隠されているはずなのです。それが熊本の大量の菅原神社の中に埋没し命脈を保っているはずなのです。

この金山彦系は秦の始皇帝(イスラエル系)との姻戚関係を結んだ元々イスラエル系の人々なのです。

 実際、木の葉でもこの傾向は顕著で、阿蘇系は24社中でも2社しかないのです。

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2024年04月27日

1010 日田市の大原八幡宮の元宮〜元々宮を当会の宮原誠一氏が報告されています 

1010 日田市の大原八幡宮の元宮〜元々宮を当会の宮原誠一氏が報告されています 

20240119

太宰府地名研究会 古川 清久


 日田で最も印象的で心惹かれる地名は花月、花月川でした。

 私は佐賀県の現在の武雄温泉駅前通りで育っており、幼少期には武雄温泉周辺や旧遊郭街にもちょこちょこ遊びに行き、紙芝居や旧遊郭街をちょろちょろしていたものです。

そのころの印象で最も頭に残っているのは花月という料亭で、温泉街の小山の一角に大きな木造の建物が残っていました。そのころは一体何のための建物だろうと思っていたものです。

この武雄温泉には花月と言う旅館もあったのを記憶しています。

最近、新たに花月と言う旅館が復活している様で、かなり興味を持っています。

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私の脳裏に残る遊郭跡と思われる巨大な建物の廃墟も、残った花月という旅館も復活した花月も百年を超える時の流れの一つなのでしょう。

この花月という名も、二十代にアルゼンチン・タンゴに嵌り、19301960年代のカルロス・ガルデルなどの歌のタンゴからオスバルド・プグリエーセ楽団などまさに熱中し長崎の一角に入り浸っていた頃、長崎の丸山遊郭の一角に花月があった事も脳裏に焼き付いており、花月という名には特に惹かれてしまうのでした。

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その頃、戦記物でもインパール戦記でも230冊近く読み漁りさすがに陸軍偏重を改め海軍の戦記物を読み始めると、当然、阿川弘之には遭遇するのは自然な流れだったのでしょう。

彼は1920年=大正9年生まれでしたが、昭和17年に東大の国文科を繰上卒業し海軍の予備学生として海軍に入っています。

この大正9年というのは実は私の父と同年配なのです。父は兄と同様に早稲田に行くつもりだったのですが、祖父の台湾の会社の経営が思わしくなっていたため金を掛けずにと陸軍士官学校に入りシンガポール攻略戦後の陸軍航空隊の新米将校になっていたのです。

その意味では阿川が内国勤務の海軍士官として終戦間際の海軍に入っているのですが、父よりも10年程長く生き2015年に亡くなっておられます。

阿川は文学部出身でもあったとおり、戦後、小説家として多くの本を書いておられます。

これは、本だったか講演だったか忘れてしまいましたが、「海軍と言うのは陸軍と異なり、勇ましいことを言わない、スマートな気質と言うものがあった…」(正確ではない部分はご容赦)としています。

確かに戦艦〜転用空母(信濃も含め)は旧国名が付され、高雄、妙高、摩耶…といった大型(一等)重巡洋艦は山の名を、同じく天龍、球磨、長良…小型(二等)軽巡洋艦は川の名を付されています。

 決して、陸軍のように勝鬨、忠勇、日本武尊と言った勇壮な名は決して付していないのです。

 駆逐艦についてもこの傾向は顕著で、峯風型(以下型は省略)、神風(これだけは勇壮かもしれませんが)、睦月、吹雪、綾波、暁、白露、朝潮、陽炎、夕雲、秋月…中止艦、未成艦もある中、最後に建造され実戦配備された艦が秋月型とされる花月だったのです。

 この秋月型には、秋月、照月、涼月、初月、新月、若月、霜月、冬月、春月、宵月、夏月…と言ったように、阿川は万葉集や源氏物語の世界だとしたのですが、口の悪い連中は町屋の名前ばかりじゃねいか…と言ったというのです。

 勿論、町屋とは武家ではない商家程度の意味でしかなく、結局は強烈なイメージを思わせる料理屋、旅館、遊郭の意味の遊郭の名ばかりじゃないかといった話があったという話を残しているのです。

比較的勇壮な神風型を見ると、朝風、春風、松風、旗風、追風、疾風、朝凪、夕凪となる訳で、多少勇壮な名を思わせるものもあるも、朝凪、夕凪と穏やかな風情を表しており、その意味で万葉集とか源氏物語といった評価は阿川の言う通りと同意をせざるを得ないのです。

この日田の盆地には、その勇壮な帝国海軍の艦船の名を思わせる地名が拾えます。


軽巡洋艦 三隈

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一等乙型 秋月型13番艦 花月

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もう一つ三日月という駆逐艦があるのですが、三日月と言う地名はかなりの数ありますので、日田市の三日月地名の専売特許にはならないのですが、一応取り上げさせていただきます。


睦月型一等駆逐艦 十番艦  三日月


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これらは駆逐艦の一覧ですが、無題.pngから引用させて頂いています。

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2024年04月24日

1009 日田市の大原八幡宮の元宮〜元々宮を当会の宮原誠一氏が報告されています ❷

1009 日田市の大原八幡宮の元宮〜元々宮を当会の宮原誠一氏が報告されています 

20240118

太宰府地名研究会 古川 清久


 今回、日田に於ける地域調査にようやく重い腰を上げた事から既に56本のブログを新規で書き改訂していますが、大原八幡宮の元宮、元々宮について書かれている方がおられます。

 当会のメンバーで筑前筑後神社研究のエキスパートとも言うべき宮原誠一氏です。

 今回、この2稿を加えるとさらに日田の本質が明らかになってきますので全文を掲載させていただきます。

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No.159 大波羅(大原)八幡宮の元宮・元大原神社

宮原誠一の神社見聞牒(159)

令和2年(2020)1120

No.157 大波羅(大原)八幡宮から見る三人の八幡様」の補足A です。

鞍形尾神社創建は680年、鞍形尾から求来里村(現 神来町かみくまち)の杉原へ遷座が704年で杉原元宮神社が創立されます。871年、初代日田郡司大藏永弘が杉原元宮を北側の求来里(くくり)に遷座します。杉原元宮と元大原神社は隣接しています。
辛島乙目が宇佐の鷹居社を造り八幡神を祀ったのが712年で、鞍形尾神社の創建、杉原元宮への遷座は鷹居社の創立の前となり、鷹居社との関係はありません。

鷹居神社 大分県宇佐市上田1435
祭神 仲哀天皇 神功皇后 応神天皇(現在の表記)
元明天皇和銅5年(712)、辛島()乙目が鷹居社を創建。

八幡大神の御社を最初に宇佐に奉建した霊地である。
辛嶋氏伝承では、八幡大神は、欽明天皇の御代、宇佐郡辛国宇豆高島(稲積山)に天降りし、宇佐郡馬城嶺(御許山)に現われ、乙梼ミ、泉社、瀬社、鷹居社、小山田社、宇佐神宮の地へと移ったとする。この八幡大神は正八幡大幡主です。
杉原元宮神社
慶雲元年(704)、鞍形尾に鎮座する八幡大神は、求来里村杉原の杉の梢(こずえ 木の先端)に降り、村の乙女に神懸かりして、「永く豊前の地を守らむ」と神託の後、杉の元に白幣が出現したと伝えられる。この時、その所に神祠を建て、鞍形尾より遷座したと伝える。
杉原元宮神社 大分県日田市神来町(大字求来里字元宮)
祭神 八幡大神

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左は六角燈籠 六角燈籠は大幡主系神社を意味します   右の鳥居は元大原神社の第一鳥居

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元大波羅(大原)神社
仁寿元年(851)、大蔵(鬼蔵大夫)永弘が初代日田郡司職に任ぜられる。
貞觀13(871)、大蔵永弘(おほくら ながひろ)が社殿を新設し、杉原元宮の鎮座地より求来里(神来町)に遷座。この頃、宇佐神宮の橋本公則(はしもと きみのり)氏を社司(宮司)として迎える。
元大波羅(大原)神社 大分県日田市神来町423(大字求来里字元宮)
祭神 八幡大神、比賣大神、息長帶比賣命(神功皇后)

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裏から見る第一鳥居

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  元大原神社の第二鳥居

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元大原神社の第二鳥居 ここは神来町(かみくまち 旧求来里村 くくり)です
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大幡主ゆかりの六角燈籠が一個残されています

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延喜15(915)、左殿に比賣大神、右殿に息長足姫命を勧請し、大波羅八幡宮(元大波羅神社)と称号す。この時、八幡大神は勧請されていません。元のままです。
建久4年(1193)、大友能直(おほとも よしなほ 鎮西奉行兼豊前・豊後守護)が大波羅八幡宮(大原八幡宮)を「豊西総社(豊後国の西の総本社)」と定め、宇佐八幡の拝礼形態から相模國の鶴岡八幡宮の拝礼形態に改めた。ということは、大原八幡神は石清水八幡・豊玉彦、豊国主・豊玉彦となります。
明治6(1873)に『元大原神社』と号す。


石清水八幡神=豊日別国魂(とよひわけくにたま)=豊国主=豊玉彦(通称)=水天龍王
古代豊国の祖とは、中津市の闇無浜神社(くらなしはま、別称・豊日別国魂神社・龍王宮)の祭神・豊日別国魂神となります。豊日別国魂神とは正八幡大幡主の王子・豊玉彦です。
豊の国は豊玉彦の領域でした。
瀬織津媛は櫛稲田姫であり、素戔嗚尊と分かれた後は、豊玉彦と一緒になられ、その両親の間の姫君が鴨玉依姫です。
豊の国は、正八幡大幡主、石清水八幡豊玉彦、鴨玉依姫(早吸日女)、大山咋神(日吉大神)、崇神天皇、応神天皇(誉田別命)と大幡主ファミリーの領域となります。
※このブログに記載している略記は橋本宮司から頂いた「大原八幡宮略記」を基本にしています。

八幡大神・正八幡大幡主を最初に宇佐嶋に祀った神社と人物
宇佐宮の八幡神の顕現は571年の宇佐の菱形池の出来事が良く語られます。
その状況は宇佐神宮HPに詳しく記載されています。

境内に建立されていた弥勒寺の僧、神吽が、鎌倉時代後半に纏めた『八幡宇佐宮御託宣集』には、欽明天皇32(571)辛卯、八幡大明神、筑紫に顕れたまふ。
豊前国宇佐郡厩峯菱形池の間に、鍛冶の翁有り。首甚だ奇異なり。これに因って大神比義(おおがのひぎ)、穀を絶つこと三年、籠居精進して、即ち幣帛を捧げて祈って言く。「若し汝神ならば、我が前に顕るべし」と。即ち三歳の小児と顕れ、竹葉に立ちて宣く。「我は是れ日本の人皇第十六代誉田の天皇広幡八幡麿なり。我が名は、護国霊験威力神通大自在王菩薩なり。国々所々に、跡を神道に垂れ、初て顕るのみ。」と記され、八幡大神がこの御霊水の辺りに初めてご顕現になったと伝えています。   宇佐神宮HP

下記の「宇佐嶋に関係する神社略記」をよく読んでいただくと、八幡神が宇佐の菱形池に顕現した時期に大神比義は存在していないことが分かります。特に郡瀬神社(ごうぜ)の由緒記では、

  欽明天皇32年、571豊前国宇佐郡宇佐の亀山(小椋山)の麓に三歳の小児と顕はれ
  坐して、「吾れは応神天皇の神霊広幡八幡麿なり」と大神比義翁に神託、元明天皇
  和銅3年(710)に同郡鷹居山(現東上田)にて大神比義翁と辛島()乙目に対して
  「吾れ神と成りて大空を翔れども栖まう処無し、以て御心荒たり」との神託に
  因り、勅定を得、神殿を建て斎き奉る。鷹居、瀬社是れなり。(後 郡瀬神社)
とあります。
571
年の八幡神が神託した人物は大神比義ではありません。また、顕現した神様は誉田別天皇ではありません、正八幡大幡主です。『日本書紀』の成立は養老4(720)で、「人皇第十六代誉田の天皇」の表記は571年には存在しません。
福岡県旧北野町大城の赤司八幡神社の豊姫縁起によれば、神託された人物は宇佐の君・池守(後の大宮司兼押領使)です。この時も、大神比義は存在しません。大神比義が現れるのは、和銅3年(710)鷹居山(現東上田)にて大神比義翁と辛島()乙目の両人に対して「吾れ 神と成りて大空を翔べども栖む処無し、以て心荒たり」と八幡神が神託された時です。これをきっかけに、和銅5年(712)、辛島乙目によって鷹居社が創立され八幡神を初めて祀ることになります。この時も大神比義の名は無理に由緒に書き込まれた感がします。
そして、聖武天皇神亀2年(725)神勅ありて、亀山(小椋山)に宇佐八幡宮が建立されます。宇佐八幡宮の始まりです。(詳しくは後の別稿で述べます)

宇佐嶋に関係する神社略記
 539年 欽明天皇即位
 545年 八幡古表神社創建
 571 八幡神が宇佐の地に現れ、大神比義が祀る(この時期、大神比義は存在しない)
 649年 酒井泉社建立。辛島()乙唐ノより宇佐大神が勧請された
 663年 白村江の戦い
 680 鞍形尾神社創建
 704 杉原元宮神社、鞍形尾から求来里村の杉原に遷座
 706年 稲積六神社(稲積神社)創建、稲積山に鎮座
 710年 乙盗_社創建
 710年 郡瀬神社創建
 712 辛島乙目が鷹居社を造り八幡神を祀る
 716年 辛島氏は鷹居社から八幡神を小山田社に移す
 725 宇佐宮亀山に一之殿(八幡大神)が造営
 729年 宇佐宮亀山に二之殿(比淘蜷_)が造営
 765年 妻垣神社建立
 823年 宇佐宮亀山に三之殿(神功皇后)が造営
 871 元大波羅神社、大蔵永弘が社殿を新設し北側の神来町に杉原元宮を遷座
 1624大波羅神社、石川忠総が神来町から現在の田島へ元大波羅神社を遷座
泉神社(酒井泉神社) 大分県宇佐市辛島1
祭神 應神天皇 仲哀天皇 神功皇后 仁徳天皇
追祀 宇饌持神 豊受姫神 宮比神 須佐之男神 市杵嶋姫神
大化4(649に建立され、辛島()乙唐ノより宇佐大神が勧請。
天平宝字3(763に霊泉で酒を造って八幡神に献じ、その残滴を注いだところから泉が湧き出たので「酒井泉社」と称するようになったと伝える。
稲積六神社(稲積神社) 大分県宇佐市大字中561
祭神 伊弉册尊 速玉男命(大幡主) 事解男命(金山彦)
追祀 国常立命 火産霊命 彦火々出見命
境内由緒には伊弉册尊・速玉男命・事解男命は文武天皇慶雲3(706)
後記三神は仁明天皇承和7(834)、ともに稲積山上に鎮座。
花園天皇応長4(1314)、山上より現在地に遷座。
乙盗_社(おとめ) 大分県宇佐市下乙女宮本1343
祭神 仲哀天皇 神功皇后 応神天皇
追祀 比売大神(三女神) 仁徳天皇 日本武尊 天児屋根命 別雷命
元明天皇和銅三年(710)、現位置である古代の古墳上に宮柱を鎮め、
神籬を設けて仲哀天皇 神功皇后 応神天皇の御三柱の御神霊を奉祀したのが創建
又、比売大神外御四柱の御神霊は其の後に追祀。
本社は乙比梼ミ 乙灯ェ幡宮 乙梼ミと称したが、明治4年乙盗_社と号す。
郡瀬神社(瀬社・ごうぜ) 大分県宇佐市樋田字瀬社187
祭神 仲哀天皇() 神功皇后 応神天皇
配祀 田心姫神 湍津姫神 市杵嶋姫神 大宮比盗_
欽明天皇32年、571豊前国宇佐郡宇佐の亀山(小椋山)の麓に三歳の小児と顕はれ坐して、「吾れは応神天皇の神霊広幡八幡麿なり」と大神比義翁に神託、元明天皇和銅3年(710)に同郡鷹居山(現東上田)にて大神比義翁と辛島()乙目に対して「吾れ 神と成りて大空を翔れども栖まう処無し、以て御心荒びたり」との神託に因り、勅定を得、神殿を建て斎き奉る。鷹居、瀬社是れなり。(後 郡瀬神社)
聖武天皇神亀2年(725)神勅あり、亀山(小椋山)に還り鎮まり坐せる。(現在の宇佐神宮)
鷹居神社 大分県宇佐市上田1435
祭神 仲哀天皇 神功皇后 応神天皇
元明天皇和銅5年(712)、辛島()乙目が鷹居社を創建。
八幡大神の御社を最初に奉建した霊地である。
「玄松子の記憶」鷹居神社より
 https://genbu.net/data/buzen/takai_title.htm
『明治神社誌料』
元明天皇和銅五年(712)の創建なり、宇佐縁起に曰く、
和銅元年宇佐郡内大河流西岸有勝地、東岸有松木、化鷹顕瑞、是大神之御心荒毘坐也、同五年 大神比義與辛島()乙目、依神託、以勅定令造神殿、鷹居瀬社是也、辛島勝自為祝職、同勝意布賣為禰宜、勝自之妹黒比賣 為采女、並御戸代田段進之、辛島勝波豆米為禰宜矣、霊亀二年託宣、此所路頭往還人無礼、就此等甚愍小山田林移住願給者云々」
また大宰管内志に云く、
「宇佐宮記に曰、敏達天皇元年(572)云々、大神化而為鷹飛翔虚空、時大神比義、辛島()乙女両人、三年之間断穀而 祈申時、神託云、吾化為霊神飛翔虚空、留無棲息志、心荒多利、其與利郡瀬仁移牟云々、和銅五年始造社、至霊亀二年 五箇年之間御鎮座」とあり、鷹居は多可為と訓むべし、里人云、鷹居社は宇佐郡上田村内にあり、田 笛より鷹居まで二里十町あり、神殿、拝殿、石鳥居あり、本宮を去る事十町余西にして松林の内にあり、今 は上田村の人是を祭る十二月中ノ卯ノ日官従五位下志摩守大神頼唯奉仕す
※辛島()乙目と辛島()乙女()は同一人
妻垣神社 大分県宇佐市安心院町妻垣字大門203
祭神 比淘蜷_(玉依姫命)八幡大神(応神天皇)神功皇后
古宮・足一騰宮創立不詳。
神亀2年(725)、宇佐亀山に宇佐宮一之殿が造営
天平元年(729)、比淘蜷_は宇佐宮二之御殿に祀られる。
天平神護元年(765)、勅使石川朝臣豊成に命じて神殿を共鑰山麓に創建させ、比淘蜷_と八幡大神を創祀したのが妻垣神社のはじまり。
弘仁13(823)、宇佐宮三之御殿造営より神功皇后を勧請。
※古宮の祭神は正八幡大幡主の姫君のアカル姫です。
大元神社 大分県宇佐市御許山 大分県杵築市山香町大字向野
祭神 比売大神(三女神)
創建不祥。宇佐神宮の上宮
古くは正八幡大幡主を祀ります。
大尾神社 大分県宇佐市南宇佐
祭神 八幡大神
称徳天皇・天平神護元年(765)創立、15年間、現在の上宮があった場所
孝謙天皇の御代の天平勝宝元年(749)八幡大神は比売大神とともに奈良に行幸、天平勝宝7(755)伊予の宇和に遷り、10年後奈多宮を経由して宇佐に御帰還になりましたが、大尾山の頂上に御鎮座するとの託宣があったので、天平神護元年(765)に造営使を遣わして御造営になり、ここに約15年御鎮座されました。
延暦元年(782)小椋山の本宮に還御、大尾神社には八幡大神の分霊が祀られ、大尾神社と称している。(宇佐神宮HP)
※大尾神社の八幡大神は正八幡大幡主です。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記