太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2017年06月09日

343 勝沼ワインの里の大善寺 D “ぶどう寺にはなぜ「国宝ぶどう薬師」像があるのか?”(下)

343 勝沼ワインの里の大善寺 D “ぶどう寺にはなぜ「国宝ぶどう薬師」像があるのか?”(下)

20161204

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川  清久


雨宮姫の論証


前ブログ 341 勝沼ワインの里の大善寺 B“ぶどう寺にはなぜ「国宝ぶどう薬師」像があるのか?”(上)において、以下のウィキペディア(2016 1306による記事をご紹介しました。


甲州(ぶどう)

甲州種の原産地はヨーロッパであるとされ、日本での甲州種の発見時期には甲州市勝沼地域の上岩崎・下岩崎を発祥とする2つの伝承がある。

一方の説は、文治2年(1186年)上岩崎の雨宮勘解由(あめみやかげゆ)という人物が、毎年327日に行われる石尊祭りに参加するために村内の山道を歩いていたところ、珍しい蔓草を発見したとする説である。雨宮勘解由はこの蔓草を家へ持ち帰って植えたところ、5年後に甘い果実がなったという。


この記事に登場する「雨宮」というかなり珍しい姓の方に対して思い当たるところがあるのです。

 まず、雨宮姓の全国分布をご覧ください。

 ぶどう寺のご住職お尋ねしたところ、甲州盆地には非常に多い姓との事でした。

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「姓名分布&ランキング」による


まず、山梨県が発信源であることは一目瞭然ですね。

ところが、以下の一覧表を見ると熊本県に1件だけ雨宮姓が確認できるのです。

この意味がお分かりの方はそれほど多くはないと思います。

それは、この姓が悲劇の雨宮姫に所縁のある方での可能性が非常に高いのです。

 まず、熊本県内には確認しただけで4社の雨宮姫を祀る神社があります。

 それについては、ひぼろぎ逍遥(跡宮)233 人吉盆地の雨宮神社(熊本県相良村)再訪 “悲劇の雨宮姫”などをお読み頂きたいのですが、この雨宮姓の方を発見し、甲州盆地に阿蘇氏が進出している事を神社の面からも実感したところです。

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ご覧の通りですが、熊本県宇城市に1件だけ雨宮姓の方が確認できるのです。

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この宇城市(旧不知火町)でもどこに所以の有る方であるかも多少の見当が付くのですが、それについては、ひぼろぎ逍遥(跡宮)082 神武天皇の正妃アイラツヒメ(蒲池姫)を祀る神社 “郡浦神社(熊本県宇城市三角町)”などについても関連してお読み頂かなければ理解できないかも知れません。

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百嶋由一郎極秘神代系譜(部分)


まず、非常に分かり難いのですが、雨宮姫のお母さんである天豊ツ姫は、高木大神=高御霊神の次女である栲幡千千姫命を母として阿蘇高森の草部吉見=所謂春日大神=武甕槌=鹿島大神を父として生まれたお姫様でした。

 ところが、列島大率呉の太伯の流れを汲む本物の神武天皇の子である懿徳天皇(藤原により第4代とされた)の皇后になっておられたのですが、皇后陛下かっぱらいか、駆け落ちか、浮気かは不明ですが、現在阿蘇の主祭神とされている健磐龍のお妃になられて雨宮姫を産んでおられるのです。

 しかしそれでも納まらず、最期は豊玉彦(ヤタガラス)のお妃として天日鷲をお産みになり、その御子が天富命の一族になっているようなのです(恐らくこれが栃木、茨城県境の鷲子山神社の一族につながるのではないかと考えています)。

 このように複雑というより怪奇ですらありますが、一面、古代とは大らかだったとも言えるようで、結果、阿蘇氏はこの事を隠していますし、この事実を気にしてか天豊ツ姫は、阿蘇ツ姫(健磐龍妃時点)→天比理刀刀iヒリトメ)→寒川姫(寒川神社も散見されます)→杉山姫(神奈川県一帯に多くの杉山神社が在りますね)と名を変えておられます。

そして、この栄えある皇后陛下の娘である雨宮姫は、後に、阿蘇の新(ニュウ)彦と一緒になられ、現在の阿蘇家を継ぐことになる阿蘇惟人の母となられ、神武僭称贈)第10代崇神天皇の父となる大山咋(阿蘇では速甕玉命と呼ばれる)、松尾大神、佐田大神…のお妃にもなられているのです。

この辺りは前後関係が不鮮明で解読作業中です。

この問題が非常に難しく、百嶋神社考古学の関係者の内部でも意見が分かれていますが、阿蘇家も神社庁も恐らく本当の事実は知っているはずで、是非公開し本当の歴史を明らかにして欲しいと思っているところです。

というのは、表向きの話であり、どうせそんなことは出来やしないし、最期まで隠そうとするであろうと言うのが偽らざる気持ちであり、むしろ隠し続けておいて欲しいものです。

いずれ、ウイキリークスのような状況になる事でしょう。

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研究目的で百嶋神代系譜、同講演音声CD、同手書きデータ等を必要とされる方は、何時でも09062983254までご連絡ください。

 現在、多くの神社研究者がフィールド・ワーク、インターネット検索、文献、古文書による研究と作業を続けていますが、関心をお持ちの方はオープン参加としているトレッキングにも、各地で行っている研究会合にも参加して頂きたいと思います。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:06| Comment(0) | 日記

2017年06月04日

342 勝沼ワインの里の大善寺 C “ぶどう寺にはなぜ「国宝ぶどう薬師」像があるのか?”(中)

342 勝沼ワインの里の大善寺 C “ぶどう寺にはなぜ「国宝ぶどう薬師」像があるのか?”(中)

20161204

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川  清久

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さて、「葡萄」という言葉をペルシャ語のbudauと仮定すれば、多少面白い事が見えて来ます。

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百嶋由一郎極秘神代系譜(部分)


百嶋神社考古学ではスサノウはイザナギとイザナミ(瀛氏の金山彦の妹でイザナギと別れた後、熊野フスミと名を変え櫛田神社の大幡主のお妃になっている)の間に産れた新羅の王子様であり、スサノウはペルシャの第二の都市である古都スーサにちなんでいるとします。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


スーサは、現在のイランの西南部に位置し、エラム王国時代、アケメネス朝ペルシャ時代には、王都として栄えた都市。現フーゼスターン州シューシュ。

ウィキペディア(20161204 14:26による


ここで武田信玄を考えて見ましょう。武田信玄が自らのルーツを新羅三郎としているのは有名です。諸説ある事は重々承知していますが、少し長いですが、以下が興味深いのでお読み頂いたいと思います。


今日は『武田信玄と朝鮮半島』の最終回です。四の五の言わず、本題を短めに書きます。信玄のルーツをたどると、先祖は『源義光:みなもと の よしみつ』と言います。彼の本名は『新羅三郎義光:しんらさぶろうよしみつ』といいます。日本での出身は近江、現在の滋賀県となっています。歴とした朝鮮半島渡来人であり、『新羅国:しらぎこく:신라국』の人です。

Wikipediaや、インターネットでは「滋賀県の新羅善神堂(三井寺の近く)で元服をしてこの名前を授かった、新羅人ではない」と書かれていますが、これは間違いです。私も最初の頃は、そう信じましたが、渡来人文化の書籍などで有名な、金達寿氏の『日本の中の朝鮮文化 7』にも武田信玄の先祖は渡来人と書かれています。その他、新羅善神堂や、静岡県浜松市史書などを調べると、分かってきます。これは明治以降に歴史を湾曲し、今に至るのだと私は思っています。詳しい内容は文章の後半に、私が簡単に書きましたので、お時間のある方はご参考にしてみてください。

つまり、前回書いたように『信玄の母の系統も朝鮮半島渡来人』『武田信玄直系も朝鮮半島渡来人の血筋』つまり武田信玄は朝鮮半島渡来人の血を、色濃く引き継ぐ人物ということになります。余談ですが信玄の旗『風林火山』の孫子の兵法も、中国から朝鮮半島渡来人が日本に持ち込んだものとされています。

そして、2013.5/13は、今からちょうど、440年前の1573.5/13に武田信玄が亡くなった日でもあるのです。さあ皆さんここまで知ったのですから、今日から武田信玄について、もっともっと知りましょう。

※源義光についての参考(お時間のある方はお読みください)

今回この結論に至るまで長い時間を費やしましたが、以下の内容でつながると思います。

浜松市に中田島砂丘という日本三大砂丘があります。この近くに新羅大明神という神社があります。だいぶ規模は小さくなり、中々見つけにくいのですが、これについて『浜松市史』の編集にたずさわった渥美清一氏が『浜松の新羅大明神と小笠原基長』という本にかなり詳しく書いています。

この本によると、浜松の新羅大明神は1723年の江戸時代に創建されたようです。そして小笠原基長が自分の祖神である滋賀県の新羅善神堂から勧請し、建てたそうです。さてこの小笠原基長という人物の先祖は、源義光で別名:新羅三郎義光であることから、新羅大明神を立てることは当たり前のことであったようです。ここで次の本になるのですが、小笠原基長は生前に『新羅大明神祀記』を書き残し、次の文章を残しています。

「新羅善神堂は元々朝鮮半島渡来人の大友氏の神社であり、創建を新羅三郎義光がたずさわり、その上、新羅大明神の氏人(同族の意味)である。」と書かれています。滋賀県の新羅善神堂は新羅系渡来人が建てただけでなく、義光自身が氏神を敬ったということなのです。また氏人とあることから新羅人ということも分かります。

つまりWikipediaや、インターネットなどで書かれている『源義光が新羅善神堂で元服して名前を新羅三郎義光にした』というのは間違いであり、源義光は歴とした渡来人だったのです。新羅三郎義光と名を改めたのは、先祖の名に戻りし行為だけでなく、自ら新羅一族の後裔(子孫)であることを名乗った行為だったのです。そしてその直径の子孫、武田信玄は母も父も渡来人の血を引く子孫なのです。


「『蒼天求白雲』〜結構知られていない日本史と朝鮮史の接点〜」による


学会通説の学者や教育委員会の学芸員などと称する方々は利権まみれの上に自己保身だけの集団ですので、在野の研究者の説にしか真実は拾えないと確信しています。こんなことは原子力災害、地震予知、火山予知などの無様な実例で皆さん十分にお分かり頂いているものと思います。

 ここで、ようやくペルシャ語のbudauと中国語の「葡萄」日本語の「ぶどう」の接点が見えて来ました。

 しかも、武田信玄の幼名が勝千代で、その子武田勝頼は、ワインの産地勝沼の奥に逃げ込み武田家は滅びるのです。もはや、葡萄がペルシャ語であるかギリシャ語であるかアラビア語であるかはあまり気にする必要はないと思います。中近東に広く栽培された葡萄はシルク・ロードを通ってきました。たった一粒の種でも持ち込まれれば列島にも根付いたのですから。その種を運んだ人(人々)がスサノウ系、新羅系の人々だったとして、甲州にはそういった人々を受入れる場所であった事が解ればそれで十分なのです。


黄泉平坂の葡萄


サノウ、イザナギ、イザナミを考えていると、多少、思いついたことがありました。

 イザナミが死んだのを悲しみイザナギが黄泉の国に行った時の話に既にブドウが出てくるのです。


男神・イザナギと一緒に国造りをしていた女神・イザナミが亡くなり、悲しんだイザナギはイザナミに会いに黄泉の国に向かう。イザナミに再会したイザナギが一緒に帰ってほしいと願うと、イザナミは黄泉の国の神々に相談してみるが、けして自分の姿を見ないでほしいと言って去る。なかなか戻ってこないイザナミに痺れを切らしたイザナギは、櫛の歯に火をつけて暗闇を照らし、イザナミの醜く腐った姿を見てしまう。怒ったイザナミは鬼女の黄泉醜女(よもつしこめ。醜女は怪力のある女の意)を使って、逃げるイザナギを追いかけるが、鬼女たちはイザナギが投げる葡萄や筍を食べるのに忙しく役に立たない。イザナミは代わりに雷神と鬼の軍団・黄泉軍を送りこむが、イザナギは黄泉比良坂まで逃げのび、そこにあった桃の木の実を投げて追手を退ける。最後にイザナミ自身が追いかけてきたが、イザナギは千引(ちびき)の岩(動かすのに千人力を必要とするような巨石)を黄泉比良坂に置いて道を塞ぐ。閉ざされたイザナミは怒って、毎日人を1000人殺してやると言い、イザナギは、それなら毎日1500人の子供が生まれるようにしようと返して、黄泉比良坂を後にする。

ウィキペディア(20161204 14:36による


してみるとイザナギは予め「葡萄」「筍」を用意していたのでしょうか?おかしな話ではありますが、所詮、「古事記」の95%は嘘というのは百嶋由一郎先生の常套句でした。

 しかし、スサノウの親父であるイザナギは葡萄を知っていたと考えられていたからこそ葡萄を投げて脱出したとされたのです(前ブログ)。

 その子であるスサノウ、そしてそのスサノウ系の人々が大挙甲斐に侵入したとすれば、葡萄の種の一粒でも持った人が随行していたと考える方がむしろ自然なのではないでしょうか?

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2017年06月03日

341 勝沼ワインの里の大善寺 B “ぶどう寺にはなぜ「国宝ぶどう薬師」像があるのか?”(上)

341 勝沼ワインの里の大善寺 B “ぶどう寺にはなぜ「国宝ぶどう薬師」像があるのか?”(上)

20161204

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川  清久


以前、ひぼろぎ逍遥(跡宮)において、甲州ワインで有名な ぶどう寺 が、まぼろしの九州王朝宮廷舞とも言われる筑紫舞で知られる福岡県福津市の宮地嶽神社と同様の三階松の神紋であることなどをお伝えしました。


213            勝沼ワインの里の大善寺 A “大善寺の全国的傾向”

212            勝沼ワインの里の大善寺 @“山梨県甲州市勝沼町勝沼の五所神社の神宮寺”

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同寺院ぶどう寺(柏尾山大善寺)の公式HPから


 同寺院からのご許可は頂いていますので見るだけでも有難い仏教寺院の荘厳さ風格の一端をご理解頂いたと思います。

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場所は甲州盆地の東の端といったところで、背後の山には中央本線のトンネルが、正面には中央自動車道の勝沼ICがあり、幹線国道の20号線の沿線という非常に分かりやすい便利の良い場所ですが、宿坊もあることから、まずは是非とも足を運んで頂きたい寺院です。


 今回、112日(2106)〜1120日に掛けて北関東、山梨の神社調査に入り、同寺院の宿坊にもお泊め頂いたことから、さらに踏み込んで三階松の神紋と、何故、ぶどう薬師像が置かれているかを考えてみたいと思うものです。

 そもそも、「ぶどう」と言う言葉自体に心が揺り動かされます。

 まず、「ぶどう」が本来の和語(実はそんなものは架空のもので実際には存在しないのですが…)、大和言葉(天照=卑弥呼の時代畿内大和はただの辺境の地であり方言地帯)と置き換えても良いのですが、そういった響きを持ちません。

 「スイカ」でさえも「西瓜」と同様にシルク・ロードから伝わった西方の果物(瓜)であることは受け入れられているにも関わらず、「葡萄」が外来語であることはあまり触れられてはいません。

この「葡萄」という外来語、それもかなり古い時代に持ち込まれた言葉であることは容易に想像が付きますが、ギリシャ語説、ペルシャ語説があり、未だはっきりと確立した定説を見ません。

一応、ネット上でほとんどの説を読ませて頂きましたが、神社研究の面から言えば、どうせトルコ語かペルシャ語辺りだろうと考えていました。

ペルシャ系言語budauが持ち込まれているとすると符合する面が多々ある事から、とりあえずはペルシャ語起源という線で考えて見たいと思います。

 そもそも葡萄の種や稲の粒や小麦の粒などといった小さなものは、戦略物資として禁輸し取り締まる事などできません。

 戦略物資とされた絹織物の原料を造る蚕でさえ冠だか髪の中に隠され何時かは持ち出されてしまったのですから(ホータン王に嫁ぐ中国の王女が、冠の中に蚕と桑の種を隠して持ち込んだという逸話)、どんな荒れ地でも乾燥地帯でも、否、乾燥地帯ほど僅かな水さえあれば甘い実を付ける葡萄はステップ・ロードといった乾燥地帯に生きるの民にとってはこの上もなく有難い果物だったに違いなく、シルク・ロードから列島に進入してきた人が生きるために携えなかったとは到底思えないものの一つだったはずなのです。

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イランの有名な果物と言えばザクロ。初秋のこの季節、市場のみならず道路脇には、ザクロを荷台に山積みにした小型トラックが多く見られるようになる。ザクロはペルシャ語で「アーナール」。

そして、アーナールと共に、秋になると「ペルシャの市場」に登場するのがアングール(ブドウ)である。

イランは知る人ぞ知るブドウの名産地。イランでは約30種類のブドウが市場に出回っている。生のブドウの実も勿論だが、ミックス・ナッツに含まれるレーズンもなかなか美味である。

イランへブドウが伝わったのは古代ペルシャ時代、エジプトから。

そして、シルクロード、中国を通って葡萄は我が国へともたらされた。

実は日本語の「ブドウ」という名前、ペルシャ語が語源だということをご存知の方は少ないのではないだろうか。ただ、ペルシャ語とは言っても、古代ペルシャ語、である。

アケメネス朝時代、ペルシャ帝国のフェルガーナ(現在のウズベキスタン)地方で、「ブータウ」と呼ばれていた品種が中国へともたらされ、中国で音写された「葡萄」という名前が、日本語にも採用されたのである。

シルクロードを通って古代のペルシャから日本へもたらされたものは、伝統・文化を見ても数多くあるが、広義の意味でのペルシャからもたらされた食材も、古代の文化交流の跡のひとつであろう。

またブドウと言えば、ワイン。有名なシラーズ・ワインは、イラン南西部の都市シーラーズにちなんで付けられた。シーラーズはもともとブドウの産地として有名で、イスラーム革命(1979年)前にはワインの名産地としても知られていた。

アルコール類が完全にご法度である現在のイランでは、シーラーズ産のブドウは、ワインの原料として海外へ輸出されているそうだ。

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良いものだと分かれば、もとより、良い品種ならばなおさら「種」は一世代でたちまち拡散します。

所詮、四六時中見回り個人で独占する事などできないからです。

 特に、干しブドウは有難いもので、黄檗宗僧侶の河口慧海が書いた「チベット旅行記」を持ち出すまでもなく、旅行に最適な携行食でもあったのです。

 では、勝沼にブドウを持ち込んだのはいかなる人々だったのでしょう。

 その前に、勝沼に於けるぶどう栽培はいつまで遡れるのでしょうか?


甲州(ぶどう)

甲州種の原産地はヨーロッパであるとされ、日本での甲州種の発見時期には甲州市勝沼地域の上岩崎・下岩崎を発祥とする2つの伝承がある。

一方の説は、文治2年(1186年)上岩崎の雨宮勘解由(あめみやかげゆ)という人物が、毎年327日に行われる石尊祭りに参加するために村内の山道を歩いていたところ、珍しい蔓草を発見したとする説である。雨宮勘解由はこの蔓草を家へ持ち帰って植えたところ、5年後に甘い果実がなったという。もう片方の説は雨宮勘解由に遡ること500年あまり、奈良時代の大僧行基がこの地に大善寺を建立した際に、ぶどうの木を発見したとする説である。これらの種が現在の甲州種であるとされている。ヨーロッパ原産の甲州種がこれほど古くからこの地区にあるのかなど、謎の部分が多い。江戸時代初期の甲斐の医師である永田徳本が、現在行われているぶどう棚による栽培法を考案したと言われている。

戦国期には日本におけるぶどう栽培を記した宣教師日記があるものの、考古学的には盆地西部の大師東丹保遺跡から中世の野生種ぶどうが出土した事例があるのみである。甲府城下町からは栽培種ぶどうが出土しているが、考古学的な栽培種葡萄の移入経緯は解明されていない。文献史料においては江戸期には葡萄をはじめ桃、梨、柿、林檎、栗、石榴、銀杏(または胡桃)の甲州八珍果と呼ばれる内陸性気候に適応した果樹栽培が行われ地域産物として定着しており、荻生徂徠『甲州紀行』などの紀行文や『甲斐国志』などの地誌類には勝沼がぶどうの産地であることが記されており、食の図鑑である『本朝食鑑』や農学者としても知られる佐藤信淵らの紀行文中でも甲州物産の第一に挙げられている。

江戸時代の長者ランキング「日本長者分限帳」天保7年(1836年)には西の前頭に甲州の大金持ち、大金屋善四郎がぶどうで財を成したとあるが、日本テレビ「木曜スペシャル」による調査では郷土史などで名前を発見することはできなかった。

また、俳人松尾芭蕉は「勝沼や 馬子も葡萄を食ひながら」の句を詠んでいる。正徳年間の検地帳によれば栽培地は八代郡上岩崎、下岩崎、山梨郡勝沼村、菱山村のごく限られた地域であったが、江戸など都市部を市場としてぶどうや加工品が生産され、甲州街道を通じて荷駄で江戸へ搬送された。江戸後期には栽培地が甲府近郊に拡大し、明治には殖産興業により産業化する。

ウィキペディア(2016 1306による


ぶどう寺のご住職のお話によると、この記事も部分的に混乱しているところがあるとのお話であり、雨宮勘解由の話にしてもぶどう寺の境内地との事であり、もう少し詳しく調べる価値(必要ではなく)があるだろうと思います。

 一般的には、米こそが主要作物であり、その増産にやっきになっていた藩政時代にぶどうの生産が推奨されるなどあり得ない話であり、ましてや山国の甲斐の事、その事情はさらに大きいはずで、とてもぶどうの生産などと考えてはいたのですが、ぶどう寺を行基が造ったという話、その時代まで栽培種のぶどうが勝沼の地に息づいていた事、水捌けのよい傾斜地(通常の作物の適地ではない事)を合わせ考えると、最低でも八世紀前後まで十分に辿れるのではないかと思うものです。

 そう考えるのは、大善寺が行基の時代に建立されたという話が本当であれば、その時に御本尊のぶどう薬師=薬師如来像がなかったなどとは考えにくいのであって、寺があるから御本尊が造られるのではなく、御本尊があるからこそ雨風を遮る覆いを掛けようとするのが道理であるからです。

 少なくとも、ぶどう寺=大善寺が建立された時点では特にぶどうを意識し民衆に豊かさと惠とを伝えようとする思想と、それを体現した甘いそれこそぶどう糖を与えてくれる薬師如来像が造られたと考える事は理に叶う事のように思えるのです。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:20| Comment(0) | 日記