2026年07月12日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1135(後) 宇佐市 駅館川河口の川上神社は和歌山の丹生川上神社だった!       “不思議なまでの集中を見せる金屋の南姓はやはり八咫烏(橘一族)の末裔だった”

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1135(後) 宇佐市 駅館川河口の川上神社は和歌山の丹生川上神社だった!

      “不思議なまでの集中を見せる金屋の南姓はやはり八咫烏(橘一族)の末裔だった”

        20260107

 太宰府地名研究会(編集員) 古川 清久


黄色い円内に橘紋がはっきり写り込んでいますね、金屋の庄屋であった南一郎平の一族が橘一族と分かります。こうして、これまで67年間に亘って悩んでいた謎が解けたのでした。

橘の家紋を使う(許される)一族は、造化三神と呼ばれ天地開闢の神の神産巣日神(カミムスビ)で、具体的には博多の櫛田神社の大幡主から讃岐〜阿波〜更に紀州に展開した忌部であり、幕末まで生き延びた天皇家の宮廷祭事司る白川伯王家とも重なる天皇家の重要な外戚でもあった一族です。

その直系の実子が豊玉彦、豊国主(大分は明らかに豊の国ですね)、八咫烏…など二十も三十も多くの呼び名を持つ最重要氏族の末裔なのです。この一族が魏の皇帝に送った遣いが難升米なのですから。大分の方には馴染みのある話ですが、国東半島の「奈多神社」(みかん=橘、トキジクのかくのみを取りに行った田道守)ここに半島から姫島を経由し同社に移動して来たアカル姫の話が残っていますね、福岡市東区の奈多宮とも重なり、正しくカミムスビ系の根拠地が駅館川河口の金屋地区にも展開していた事が分かるのです。

当然にも、橘諸兄、橘奈良麻呂、県犬養三千代…は知られていますが、奈良時代後期、757年(天平宝字元年)に勃発した、藤原仲麻呂の専横を打倒しようとするも失敗し、橘奈良麻呂の変以降の橘氏は源平藤橘でも、中級以下の貴族として地方の豪族として零落していったのでした。あまり知られてはいなのですが(勿論、歴史の背後というか底流で動いているため)、実際には、伊勢を根拠地に、八咫烏の後裔氏族が石清水八幡宮を軸に関東武士団を纏め貴族化した藤原氏(阿蘇氏、多氏)を抑え込み、鎌倉幕府、室町幕府から戦国期を経て徳川政権まで続く武家の支配を打ち立て政権の背後で復活しているのです。 

無題.pngここで、橘氏について分かり易い話を一つご紹介しますが、柑橘類の一つにスダチとカボスが在りますが、これも京都の下賀茂神社の賀茂族=加茂族=橘氏が運んできたトキジクの実の一つなのです。それは、スダチとは酢 橘で、カボスは鴨族、加茂族が持ち込んだ酢の意味なのです。

カボスはカモスの意味でM音とB音の入れ替わり現象は、日本語の呉音と漢音の問題で、烏帽子をカブル、カムル、目(メ、マ)を瞑(ツブル)る、瞑(ツムル)が同様である事でもお分かり頂けるでしょう。

改めて南一郎平(改名尚=久)に敬礼!私には、難升米に通じる尚(ショウ)を選んだようにも思えるのです。では、まだ紙面に余裕がありますので、一般的には殆ど知られていない古代の外交通史の話をして見たいと思います。


大夫 AIによる概要

239年に卑弥呼が魏に遣いを送ったとき、皇帝から与えられた称号

卑弥呼は、中国の魏(ぎ)に239年(景初2年)に使者を送り、大夫の難升米(なしめ)らを派遣しました。これに対し魏の皇帝は、卑弥呼に「親魏倭王(しんぎわおう)」の称号と金印、銅鏡などを授け、倭国との関係を正式に認めました。これは、倭国の統一と地位向上を図るための外交戦略でした。


この大夫の意味は今や吉原の高級花魁としてしか知られていませんが、本来は中国の官位で、日本では律令制下の五位以上の高官を指しているのです。

周王朝における大夫 AIによる概要

周王朝における「大夫(たいふ)」とは、封建制の下で諸侯に仕える家臣階層の一つで、卿(けい)の下、士(し)の上に位置する小領主・役職者を指し、周王や諸侯から領地を与えられ、国政に参加する貴族層でした。彼らは領地を持ち、武力や政治力で実権を握ることもあり、春秋時代以降には実権が有力な大夫の手に移り、士の階層が台頭するなど、身分制度は変遷していきました。

これらの事からも分かるのは、倭人は呉の太白の後とか裔…と言われる様に、春秋戦国の呉国(つまり呉越同舟の呉…直接には自決した夫差の末裔が列島への逃亡した人々、若しくはそれに協力を依頼された一族)だから周の大夫を名乗っているのです(現段階では後者を想定していますが)。

当然ながら当時、上海は海の底で存在しませんので、蘇州から舟山列島を経て列島へと入った呉の末裔の外交官として入った難 升米の末裔が南姓を名乗っているのではないかと考えているのです。

当然、渡洋航海できる船を操ることが出来、尚も、天文、地理、暦、言語に通じた優秀な人物が送り込まれている事は間違いが無く、元々は博多の那の津辺りから建国間もない魏に答礼朝貢しているのです。

無題.pngただ、その博多に拠点を置いていた想定九州王朝の八咫烏が活躍した時代から500年は降る時代になると(具体的には7世紀の半ば以降の白村江の大敗北以降)、宗像を本拠地としていた天武の父と天武帝は、無抵抗に本拠地を奈良に移します(佃収説)。その後阿蘇氏をルーツとする藤原氏による天智系に皇統が替わるに至ると、この八咫烏の後裔氏族は瀬戸内海航路(宇佐と浪速)に対応し、本拠地を移しているのです。その大阪の浪速高津の宮の手前にもう一つの拠点を置き、船倉に大量の穀物を積載し東に運んで行ったはずなのです。当然、密封空間では発酵が始まるのですが、分離し塩を加え、また、発酵を留めるなどの工程を加えます。

一部を酒なり醤油(当時はまだ醪=モロミでしょうが)なり、味噌なりに分離する必要が生じ、神戸の東灘区辺りに分離するための工場、作業場が必要になったはずなのです。これが、廻船業者というか古代には輸出入業者にとっては非常に重要な要請だったのです。

ここも、東に移動した奈多であり、博多の那の津なのです。そこまで解れば、何故、灘の生一本の多くの醸造業者が資金を注ぎ込み、灘高校(灘中学校・高等学校)=兵庫県神戸市東灘区にある日本最高水準の男子進学校として知られる私立中高一貫校が創られたのかまでが分かって来るのではないかと思うのです。

無題.png因みに、この灘高校を創ったものこそ柔道の講道館で知られる嘉納治五郎の一族を中心とする人々であり、宇佐の金屋とも通底しているはずなのです。

彼は、灘の生一本でも良く知られる菊正宗酒造の一族で治五郎まで作られているのです。

これまで、列島の歴史は開国と鎖国を繰り返してきました。江戸時代の鎖国は良くしられていますが、遣唐使の廃止も含め、鎌倉政権の元寇期には元(実質は朝鮮人と江南軍は福建の反漢族)と直接対決していますし、豊臣政権期は対外開放と言うより対外進出さえも行っています。

このように国際情勢の変化により対外政策は一定であった訳ではないのです。

このように渡洋航海もできる人々とは、時に自国の政権の政策と衝突する事も多々生じるのです。

最近は忘れられていますが、江戸期にアユタヤに進出した山田長政なども衝突した人物の一人でしょうか…。

こうして、貿易業者とか現代では大手商社といったものは、時の政権とか海外勢力からの圧力には敏感なのです。このため時の権力から独立した優秀な若者を自前で養成し、必要な時には何時でもそのネット・ワークを擁して自らの要望を実現しようとしてきたのです。

ある意味で、大隈重信の早稲田もそのような意図を感じますし、福沢諭吉の慶応も上智(これは悪魔のイエズス会系ですので要注意ですが)も同様でしょう。

当然にも異論どころか非難も有ろうかと思いますが、私にはそう見えるのです。

そうです、灘の生一本も恐らく八咫烏系の橘一族の人々であり、全国に廻船業の拠点としての港(湊)を置き、正面の海を灘と呼んでいたのでした。

以前、海上保安庁の把握している「灘」地名を調べたことがありましたが、鹿島灘、相模灘、遠州灘、熊野灘、播磨灘、備後灘、燧灘、安芸灘、周防灘、伊予灘、響灘、玄界灘、天草灘、日向灘と列島全域に灘地名があり、何故、灘と呼ばれ、湊と表記されるかが見えて来るのです。

つまり、当時も列島全体がこの一族の商圏に成っている事が分かるのです。

無題.pngではここで、川上神社の分布を見てみましょう。ここで注意を要するのは、当方は、淀姫神社がかなり川上神社と呼ばれている事を承知している事から、どうも社名も九州では川上神社という名称が規制されている様にも見えるのです。事実、当の宇佐の川上神社は牛頭天皇社とされていますし、名護屋の川上神社が牛頭天皇社とも呼ばれている事が気になっています。

多くの九州の川上神社が、最も重要な和歌山の丹生川上神社(上、中、下社)と繋がっている事が今は良く判るのです。

無題.png

では、関西では良く知られている丹生川上神社(中社)を軸にご紹介しておきましょう。


無題.png

重複にはなるのですが、話を換えて、特攻基地でもあった宇佐空こと柳ヶ浦の海軍航空隊の正面に、酒造業者、味噌製造業者、醤油醸造業者の建物が残っている事と、船を使う廻船業者と醸造業者の事をお話ししたいと思います。ここで紙面が尽きました。詳しい川上神社の分布は前掲のバック・ナンバーを、また、今後各予定の続編もお読み頂きたいと思います。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1135(前) 宇佐市 駅館川河口の川上神社は和歌山の丹生川上神社だった!       “不思議なまでの集中を見せる金屋の南姓はやはり八咫烏(橘一族)の末裔だった”

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1135(前) 宇佐市 駅館川河口の川上神社は和歌山の丹生川上神社だった!

      “不思議なまでの集中を見せる金屋の南姓はやはり八咫烏(橘一族)の末裔だった”

        20260107

 太宰府地名研究会(編集員) 古川 清久


本稿は、新ひぼろぎ逍遥に7本書いた難升米を探る話の続編になります。

余裕があればそちらを先行してお読みいただきたいと思います。

それは2026年の松の内は終わり、皆様方が一斉に仕事始めとばかりに仕事を始められる6日の話でした。本来はちょっとだけご案内するだけのつもりだったのですが、ひょんなことから宇佐の川上神社にまで行くことになり、本格的にご案内する事になりました。しかし、瓢箪から駒でした。

そのある種退屈な作業の予定だったところが、これまで56年掛けて作業して来た言わば結論と言っても良い棚ボタの様な有難い結論に辿り着いたのでした。

正に天からの恵みを得たような思いで何やらお年玉を頂いた様な思いがしています。

今回、当会に新たに参加された神社フリークと言っても良い女性があまりにも天気が良いので、一人でも宇佐の川上神社に行こうかと口走った事から、手拍子でそれならガイドしても良いと動き出したのが発端でした。こういう時にドラマは起こるのです。

ただ、神社研究を続ける人にしかお判り頂けないマニアックな話をお届け致します。

新ひぼろぎ逍遥

755

宇佐の駅館川河口に難升米の一族の後裔を発見したか?“宇佐市

金屋町の川上神社の南姓の集中”

747

宇佐の金屋の南姓は難升米の後裔氏族か?(再々考)“全国の

川上神社の祭神を調べよう”

746

宇佐の金屋の南姓は難升米の後裔氏族か?(再考)“一体川上

神社とは何なのか?”

745

宇佐の金屋の南姓は難升米の後裔氏族か?(補足)“宇佐空

への哀愁”

744

宇佐の金屋の南姓は難升米の後裔氏族か?(下)“金屋地区は

廻船業者の街”

743

宇佐の金屋の南姓は難升米の後裔氏族か?(中)“金屋の

南さんとは何か”

742

宇佐の金屋の南姓は難升米の後裔氏族か?(上)“駅館川

河口を見下ろす川上神社”

無題.png

一回のブログのUPにも制限は有る事から、前提となる話を遡ってご説明することは重ね重ねに成る事から、ご面倒でも先行ブログの拾い読みでもして頂けることを前提に書くことにします。

 このため、今後とも、数本のブログを加える可能性がありますので敢えて申し上げておきます。

 78年前宇佐の駅館川右岸の旧宇佐空(柳ヶ浦航空隊)対岸の断崖地に建てられた川上神社を参拝し、現地には牛頭天皇の神額の鳥居が置かれ、その祠も同社の屋根の高さ程の崖地上段に実際牛の置物が置かれ、須佐能と稲荷の祭祀が認められるも、その低段の境内地には神名が明らかではない参拝殿神殿を持つ神社が存在していたのでした。それが川上神社と呼ばれている様なのです。

 もう56度は参拝を重ねており、以前からその不思議さが残っていたのですが、今回、余りの好天に誘われ、久しぶりと言っても一年にはならないでしょうが、正月松の内明けの日に参拝する事になったのでした。

 殊更、この神社を目的にしたのは、依然ブログに書いた南姓の異常な多さを見せる事でした。

 この南姓は、外に出た者のも含んでいるのでしょうが、氏子と思われる寄進者の棟札を見る限り、氏子の2/3を超える78割には成る異常な多さを示していたのでした。

無題.png

200戸を超えない地区で南姓と森姓が多いと聴きましたが、特に上の写真では南様が多いのです


 この事を認識して以来、関係者にも当たりましたが、最後は兼務社からも迷惑ですと言われるほどになり断念せざるを得なかったので。この南姓については、難升米の末裔の一族だったのではないかとの思いが消せませんでした。ただ決め手が乏しく提案していただけだったのですが、今回、松の内の跡片付けに来られていたのでしょうか、偶然にも区長(ご迷惑になるといけませんので名は伏せますが)様と偶然にもお会いして、かなり参考に成るお話を色々とお聴きしました。

 そのお話の中で、私が興味を惹かれたのが「南一郎平」の神社と言うより顕彰碑と言う方が正確な

施設があるとお聴きしたのです。それは南氏の素姓が分かるかも知れないと思ったからでした。

無題.png NHK朝ドラ「南一郎平」誘致推進協議会(構成団体)作成のパンフをお持ちで、宇佐学マンガシリーズD日本三大疎水の父 南一郎平まで頂いたのでした。まあ村興し町興しなのですが。

 以前から、この疎水(農業用水路=九州では「井手」とも)の存在はある程度承知していましたが、基本的には日豊線外側の明治以降の干拓地向けの用水路の延長程度の理解しかなかったのでした。まさか17キロ上流の安心院盆地の駅館川支流の津房川に頭首工(取水口)を造り、駅館川右岸にサイホン工や水道トンネル更には石造りのアーチ型通水橋までも造る大工事だったのでした。詳しくは広瀬井手略図を見て下さい。考えれば川面の低い駅館川の水を引くには安心院辺りに成るのです。

 ここからは私の話になります。難升米(百嶋神社考古学=八咫烏)の時代から1600年は後の時代の人々に投影している訳で容易に理解頂けるとは考えてはいないのですが、今回、南尚神社を発見し密かにイメージが一気に膨らんだのでした。

 それは後の話として、もう少し時代が離れた話を続けさせてください。中近世はおろか近代など門外漢ですので右の高尚なマンガ本に全面依存しますが、一郎平は結果二度の入牢を含め艱難辛苦の末に資材は失うも父の願いを達成し遂には大事業を完遂するに至ります。まさに偉大で無私な人物だったのでした。

 当初、3000両と見込み日田の豪商広瀬久兵衛に借用を依頼し事業は始まるのでした。ただ、多くの難工事や災害も起こる中、幕末から明治に亘る難工事の末最終的には一万両の大工事となり、南一郎平は資財を失うも工事は完了するに至るのでした。

 その後、この人物は用水路工事の大土木工事の経験を乞われたのか、三大疎水で知られる福島県の猪苗代湖から郡山市に水を送る安積(アサカ)疎水、栃木県の那須疎水、京都の琵琶湖疎水…外を完成させ、現業社なるゼネコンの萌芽の様な企業興すことになるのです。

 不正確になりますのでここで止めさせて頂きますが、このような気骨のある偉人を生み出したのが幕末〜維新期の宇佐の金屋だったのです。


漸く宇佐の金屋の「南」姓が如何なる人々であったが見えて来た


さて、ここからが我が百嶋神社考古学の世界に話に入る事に戻る事に致します。

始めに掲載した先行ブログをお読み頂ければ、宇佐の金屋の川上神社に異常なまでの南姓の集中は、何らかの政治情勢の変化と経済構造の激変が関係しているはずだと思い書いたものでした。

当時もこの南姓は難升米の後裔氏族の改名によるものではないかと考えたものでした。

 今回、新たなブログを書き加える事にしたのは、半ば証明とも言えるような事実に遭遇したからでした。

 この広瀬井手を成功させた南一郎平を祀る神社(実際には顕彰碑と集会所なのでしょうか)がある事を金屋の区長様からお教え頂いた神社に行くことにしました。始めは周辺の醸造業所を案無題.png内しようと考えその後に参拝することにしたのですが、同社の地番が分からず迷ってしまいました。私は半ば諦めてしまいました。ただ同行の女性は熱心で、郵便局で聴いた場所を少し探した後、直ぐに南尚神社を見つけ出したのでした。この同行者のおかげで辿り着くことが出来たのでした。私だけではこの幸遇を掴めたかどうか分かりません。やはり神社調査は大人数ではできませんができるだけ複眼で行うべきで、少し驚いています。やはり調査は複数で行う方が相乗性を増すのです。少し大げさな表現をしますが、その後想定を裏付ける事実に驚愕したのです。前置きが長くなりましたが、それが左の祠でした。

☚ 南尚神社 宇佐市高森(地番不詳)

無題.png

現地には南尚神社の顕彰碑=南神社建立の際の記念写真を描いた看板が置かれていたのです

AIによる概要

無題.png橘紋 (たちばな) 日本の実用家紋 ZIP (AI, PNG, PSD) - 家紋藝術 ...

橘氏の紋章は「橘紋(たちばなもん)」で、日本固有の柑橘類である「橘」の実と葉を図案化したもので、不老長寿や永久不変の象徴とされ、平安時代から名門氏族である橘氏が用いたことから、源氏・平氏・藤原氏と並び称される格式高い紋章です。代表的な使用家として井伊家(彦根橘紋)があり、その他にも多くの武家や旗本で使用され、文化勲章のデザインにも採用されるなど、現代でも広く親しまれています。

 写真でお分かりの通り、この南一族は橘一族の後裔氏族だったのです。

 現地に入り、私も写真を撮っていますが、明らかに橘一族で、橘一族のルーツが八咫烏なのです。

橘氏は、敏達天皇の後裔、美努王(ミヌオウ)の子、葛城王(橘諸兄)らが臣籍降下した一族で伊勢を拠点に、天皇家に后を送り込む一族で神産巣日之命(造化三神一つ)具体的には博多の櫛田神社の大幡主でその子が八咫烏=豊国主=豊玉彦(正しく豊の国の主ですね)…であり、後に彼らの後裔氏族が「常世の国」から非時香菓(トキジクノミ)を持ち帰ったとされる田道間守(タジマモリ)の功績にちなんで「橘」の氏を賜りました。勿論、その意味とは冬でも青葉を絶やさぬため未来永劫繫栄すると橘姓を名乗ったのです。しかし、実際には奈良麻呂の変以降、藤原=阿蘇氏=多氏に追い落とされ中級以下の地方豪族と成るのでした。九州王朝が白江戦後に滅び畿内に権力が移った事から本拠地も移った事が分かるのです。

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大分県ホームページ「南一郎平」より

無題.png

最初の画像はグーグル・マップの南尚神社のものですが、これは2026年に当方で撮影したものです

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2026年07月09日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1134 研究会とは別に二人で廻った2026年新春三社詣り “初参拝 地元の参拝者おじさんの可愛いワンコと巡った日田市大山町の烏宿神社”

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1134 研究会とは別に二人で廻った2026年新春三社詣り

初参拝 地元の参拝者おじさんの可愛いワンコと巡った日田市大山町の烏宿神社

        20260104

 太宰府地名研究会(編集員) 古川 清久


 以前から参拝したいと思いながらも、500m級の山の頂に在る神社という修験者級の神社故に恐れをなし敬遠して来た神社ですが、元気な若手と言っても参拝だけならばいざ知らず、神社トレッキングとか神社研究には青年が加わるにはどうしても経験が必要で、バリバリの若手が入って来ることは通常ありません。勿論、我々がやっているのは宗教色のない純粋(と言っても通説とは全く異なりますが)、どちらかと言えば過激な神社研究会ですから、どうしても真実を追求する気持ちと根気が必要になるのです。ところが、半年ほど前から知り合いになった50代にしか見えない元気な60代そこそこの女性が近くに住んでおられたのでした。

 お話しをお聴きすると、私が昨年も恒例の甲信越の神社調査に入っている時期に高速を駆け貫け、出雲から三保神社を日帰りしたという凄い行動力のある女性だったのです。

 一言に出雲往復と言っても、当会の日田の研修所から走っても、山口市が200キロ、益田市で280キロ、出雲市が400キロ、更に松江市の先の美穂ケ関となると、500キロに近づくのです。

その往復なのですから、長距離トラックの運ちゃんでも敬遠しそうな大変ハードな行程になるのです。それほどまでして、何故、そこに行くのかは、まだ良く判りませんが、基本は高速を使わない(料金を払わなくて済むところは利用しますが)、私なら通常は益田までで車中泊ですね。

 前置きが長く成り過ぎましたので、烏宿神社に戻りましょう。

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烏宿神社 カーナビ検索 大分県日田市大山町西大山5458番地(通称小切畑)


この神社は、ほぼ、山頂と言っても良いような500mに近い場所にあります。

ただ、400m(これは標高の意味ではありません)ほど手前に駐車場が在り、そこから階段と山道を登る事に成るのですが、まあ、なんとか苦しまずに上がれる程度の傾斜で小学校低学年でも元気な子ならば、オンブをねだられずに良い体と根性を鍛えるに絶好の神社と言えるでしょう。

まずはお薦めの一社で、私も腰が引けていただけでもっと早く来れば良かったと思うばかりです。

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この掲示板は神社の中腹にあるもので、近くには、奥日田温泉 うめひびき(大分県日田市大山町西大山 4587 番地)があります。

この掲示板まで辿り着けば、車なら後は案内板が設置されており、神社直下の駐車場までは10分とは掛からないのです。丁度、神社に到着した頃ワンコの吠える声が聴こえてきました。参拝者に随行し初詣に付いて来ていたのです。有難くこの地元の方から昔の神社の話を色々お聴きしました。

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この神社を意識したのは56年前でしたが、一目、八咫烏を主神として祀る神社であろうと思いました。それは、博多の櫛田神社の大幡主=神産巣日神の実子であり、烏宿神社と言う名称そのものが八咫烏を表しており、日田市自体が豊の国の上に志賀島の海人族が入っている事も明らかだからです。そもそも、我が研修所がある日田市天瀬町自体が、海人(アマ)族の町の意味である上に、大山町、小石原村(現東峰村)と上津江、中津江方面に、大山村からの水も集め、夜明ダムが造られるS28年まで筑後川に日田杉を筏として流し、大宰府政庁、大川市へと流し、船を造り、政庁の寺社建築として送り込んできた事が一目だったからです。

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烏宿山山頂から北を望む


 何故、八咫烏を祀る神社と考えたかは、多少説明を要します。

まず、博多の櫛田神社の大幡主=カミムスビとは天理教の主神(天理王の神)とも同体であり、その子が豊玉彦=八咫烏なのです。以下、百嶋由一郎最終神代系譜(部分)でご確認ください。

無題.png

それを証明しているのが、国道(久留米〜日田)から夜明の鉄橋(道路橋)を渡る傍らに志賀海神社が在り、そもそも日田市天瀬町自体が海人族を表している事でも見えて来るのです。

 夜明ダムを過ぎ、杷木町から旧朝倉町に入ると、朝倉市の天理教朝倉大教会が在ります。

 もうお分かりでしょう。烏が集まる院とは博多の櫛田神社のカミムスビの一族が集まり泊まる場所でもあったのです。

この事を知っていた事から、日田市大山町の烏宿神社も同様だと考えたのでした。

 京都の烏丸通、烏丸池は元より、栃木県 那須烏山市(ナスカラスヤマ)、東京都港区新橋(旧烏森

町)と愛知県名古屋市中村区・中川区(烏森町)に存在し、福岡県で言えば福岡市中央区警固の小烏

神社、田川郡糸田町の烏尾峠…など累例はかなりある事から直観が先に体を動かしたのでした。

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これらが、八咫烏に関係する地名であるとの確信は堅かったのでした。

 ところが、現地に行くと山名は日田ですから烏宿(ウシュク)山と漢音で呼び、神社の名は(カラトマリ)神社と呼ばれ、どうも意図的に変更され偽装の匂いさえ感じたのでした。

 学者、教育委員会、学芸員…は通説に靡き自己保身しかしないため信用できませんので、ここでは民間人の祭神を見ておきましょう。


 同社 祭神

主祭神:天忍穂耳尊

配 神:武盤建尊(神武天皇)、応神天皇、高良玉垂命(武内宿禰)、菅原道真    無題.png

無題.png

御祭神 武磐建尊(神武天皇)とありますが、健磐龍命(神武天皇の孫神)の意味と思われます

合志市の矢具神社にも「健磐龍命(玉依姫の御子神)=神武天皇」と書かれていました。

阿蘇神社の一の宮、健磐龍命は、神武天皇説、の真偽はわかりません 何せ神代の話ですから

無題.png

 当会のメンバーも書いておられましたので、ご紹介しておきます。

祭神

天忍穂耳尊 武盤建尊(神武天皇) 応神天皇 高良玉垂命(建内宿禰) 菅原道真

(現地案内板より)

鳥宿神社の由来 文武天皇の慶雲2年(紀元705年)役の小角が善瞳鬼と共に紀州熊野から豊前英彦山に巡来して峰を拓き給へ更に当山に来住すること7年、鳥宿山を開拓して神山霊場とした。

寛和元年(紀元985年)日田郡司大蔵永季が社殿を創建した。

永季より16代の郡司大蔵永秀、永隆兄弟が源平の戦いで平家方に捕われた時、五社権現の助けにより難をまぬがれ、大将義経のもとに帰って戦功を建て、凱旋して鳥宿山に社殿を建て、神霊を斎き奉り、大山庄の庄社として崇め祭らせた。

建久5年(紀元1194年)当国太守大友能直が当地に下向の折、三苫若狭に命じて宝殿を再営させた。

応永6年、永正2年の2度に亘って鰐口が奉納され、之は現存して県の重要文化財に指定されている。

天正年間(紀元1580年代)竹田岡城主田北紹鉄が城を築いてたてこもった。

慶長年間(紀元1600年)○○建替、享和3年(紀元1803年)社殿建替、そして昭和4年(紀元1929年)現在の銅板葺社殿に建て替えた。神武天皇の名前が武盤建尊と書いて有りますね!

当会の主要メンバーのS氏の 無題.pngより


 さて、祭神の解析に踏み込みますが、これを見た時、我を疑い一瞬、我が目を疑いました。

 まず、天忍穂耳尊=草部吉見(大蔵氏が日田を任された思われる9世紀以降ではなく)が阿蘇高森の日向の高千穂を見下ろす草部地区に拠点を置き、高木大神の次女栲幡千千姫命を妃に貰い受け、事実上のタカミムスビ系への入婿として伸上がった時期辺りのつもりですが、高千穂から久留米高良山更に彦山に本拠地を移す(もしかしたら久留米を除き高千穂と彦山を拠点化していたかも知れません=それは高良山直下の高樹神社の由緒を読むと同地から追放されている様ですので)、時期の事です。以下、少し見辛いのですが、百嶋由一郎「阿蘇ご一家」神代系譜をご覧ください。

無題.png

百嶋由一郎阿蘇御一家神代系譜(部分)


 詳しくは当方の関連ブログを探して頂きたいのですが、簡略化して言えば、本物の初代神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)=勿論、ハツクニシラススメラミコトではない神武僭称贈る崇神(藤原が第9代とした)の本物の御后=吾平津姫(宮崎県日南市油津)で金山彦の長女は、神武の子で後の第4代威徳天皇を産んだ後、子育て中に神武が神武巡行(神武東征は開化天皇=高良玉垂命の指揮下で崇神が開化の腹違いの兄大彦が行った四道将軍)に旅立った事から不和となり、タカオカミこと金凝彦に夫を換え生まれたのが健磐龍だったのです。この事は阿蘇宮司家も十分承知しているはずなのです。つまり、第4代威徳と健磐龍は吾平津姫に育てられた可能性が有るのです。

 ちなみにこの神沼河耳は阿蘇神社の最奥神殿に現在も祀られています(禰宜でも宮司でもそう説明します)。一方、吾平津姫は蒲池姫と名を変え、不知火海に面した郡浦神社の主神として祀られています。重ねてこの金凝彦と吾平津姫との間に生れたのが、現在の阿蘇神社の主神健磐龍なのです。

 ただ日本的理解からすると、天皇の御后つまり皇后(廃后)を貰い受けたからと言って、それが本物の神武天皇とするなどどのように考えてもイカサマか単なる勘違いか、悪意ある皇統の簒奪でしかないため、この様な不誠実な事は日本人的な感性とは異なるとしか思えないのです。

 この様な事を行うのは、阿蘇氏でも草部吉見(健磐龍の腹違いの兄で後の藤原の祖)に取り入り事実上の九州の副都とも言えそうな日田の植民地総督の様な存在となった大原八幡宮の一族=大蔵氏でしか有りえない様に思うのです。そして、実は大蔵氏も後漢の霊帝の末裔の亡命者なのです。

繰り返し重複に成りますが、(現地案内板より)事代主のブログより…


鳥宿神社の由来

文武天皇の慶雲2年(紀元705年)役の小角が善瞳鬼と共に

紀州熊野から豊前英彦山に巡来して峰を拓き給へ更に当山に来住すること7年、

鳥宿山を開拓して神山霊場とした。

寛和元年(紀元985年)日田郡司大蔵永季が社殿を創建した。

永季より16代の郡司大蔵永秀、永隆兄弟が源平の戦いで平家方に捕われた時、五社権現の助けにより難をまぬがれ、大将義経のもとに帰って戦功を建て、凱旋して鳥宿山に社殿を建て、神霊を斎き奉り、大山庄の庄社として崇め祭らせた。

建久5年(紀元1194年)当国太守大友能直が当地に下向の折、三苫若狭に命じて宝殿を再営させた。

応永6年、永正2年の2度に亘って鰐口が奉納され、之は現存して県の重要文化財に指定されている。

天正年間(紀元1580年代)竹田岡城主田北紹鉄が城を築いてたてこもった。

慶長年間(紀元1600年)○○建替、享和3年(紀元1803年)社殿建替、

そして昭和4年(紀元1929年)現在の銅板葺社殿に建て替えた。


 そもそも白江戦=白村江戦で大敗北を喫した倭国=九州王朝は、防衛しやすい日田に臨時首都を置いていた可能性が高く、豊国主とも豊玉彦とも呼ばれた八咫烏の末裔がその時代にも活動していたはずなのです。元は、高良玉垂命が祀られており(お妃は仲哀死後の神功皇后)…「高良玉垂宮神秘書」をお読みください…。九州王朝が滅んだ後は阿蘇氏=藤原がやりたい放題状態になり、日田にも元々大原、元大原から応神が持ち込まれる事にもなったのです。この構造は宇佐神宮に鷹居八幡神社から持ち込まれた事と全く同じ構造なのです。その意味でも消せなかったのが高良玉垂命(建内宿禰では勿論ない)であり日田市の中心部に玉川町が在り(子の豊玉彦の意味)、近くには玉垂神社と黒男神社が別社、別神として存在しているのです。ご不審に思われる方は是非現地をご確認下さい。

武盤建尊(神武天皇)応神天皇高良玉垂命(建内宿禰)菅原道真

 無題.png当然にも、阿蘇氏に取り入り日田代官職を得たのですから健磐龍を神武天皇だ ぐらいは大蔵氏は言うのでしょうが、それが真実なら八咫烏の像が何故置かれているかが全く分からなくなるのです。

カミムスビの子である八咫烏を嫌っている阿蘇氏の事を知るが故無題.pngに大蔵氏が胡麻を摺ったのか、阿蘇氏主導で従っただけなのかは分かりませんが、どちらにせよ大して差は無いはずです。

 そう考えるのは、それなりの知見を持つからです。その前に、まず以下をお読みください。

 20年ほど前に元々あった金の烏像は盗まれたそうです。それもワンコの飼い主からお聴きしました。

白江戦を倭国の総力を揚げて闘ったのは天武天皇の父親で(本拠地は宗像から太宰府一帯)、それを引き継いだのが天武天皇だったのですが(佃収九州王朝説)、恐らく阿蘇氏、高木大神、天智系の裏切りによって、800隻の軍船の半数が撃滅され、不思議と400隻は逃げ帰っているのです(中小路駿逸説)。

この九州王朝の敗戦の結果、天武帝は本拠地を安全な奈良に移すのですが、それは7世紀以降の話

であって、唐新羅連合軍に敗残した結果、太宰府が占領され(恐らく久留米も?)、その百済領占領軍の武官鎮将劉仁願に送り込まれた文官の郭務悰の支配工作を受ける時代に成ると、その後の九州王朝後の近畿大和朝廷の支配を受ける事になったのです。その後、その代理人として送り込まれたのが、日下部氏=彦坐王(開化の子とされていますが、それは「名目的な意味です」と言ったのも故百嶋由一郎でした)その彦坐王(ナガスネヒコの妹オキツヨソタラシと草部吉見の子)から日田を後漢の霊帝の一族が継承したのです。それが、大蔵氏、財津氏であり、詳しく知りたい方は下の辺りから読み始めた方が分かり易いでしょう。

 ひぼろぎ逍遥(跡宮)

697   物部の大原足尼命を祀る日田の大原八幡神社とは何か?

696   日田の大原八幡神社も物部の神社だった “大分県日田市の大原八幡宮を疑い再考へと”

695   大原八幡神社は物部の神社だった “福岡県みやこ町の大原八幡神社”

694   大原八幡神社は物部の神社だった “福岡県苅田町の大原八幡神社”

 この大蔵氏に象徴される一族は、皆さん良くご存じの漢帝国の初代劉邦の後裔氏族で、王莽の「新」を挟む前漢〜後漢に跨る王朝で、所謂中国本土を支配した漢族そのものの政権だったのです。

 実質、漢族と言われるのはこの辺りまでの人々であって、その後の、魏、呉、蜀の辺りに成ると、

北方系騎馬民族に追い立てられ、実質的には異民族とも言うべき、隋、唐(こいつらは半島から遼寧省から東北部に展開していた実質は鮮卑族)なのです(連動して日本語の呉音漢音も変化した)。

無題.pngその最後らしい漢族も、とうとう列島に亡命しているのです。

それは、後漢も霊帝(第12代)の時代に成ると、宦官の十常時に皇位継承の決定権迄奪われ、半島経由で列島に移動するしか無くなってしまったのでした。

 この一族は、多くの臣民を率いて入っているため、別姓を名乗っているケースが多く、その中心的氏族には、田尻、原田、秋月、笠、龍、坂上に前述の大蔵、財津、阿智、伊東(?)…と多くの名を使いつつ姻戚関係を深めており、かなりの有力な氏族に成っているのです。

 有名なのが、「男はつらいよ」に登場した帝釈天の御前様役として知られる笠智衆さんです。この方もこれも初代劉邦の劉氏を置き換えた姓なのです。同様に、鳥栖、基山方面に多い龍も同様の置き替えであることは一目なのです。笠智衆の場合は熊本県玉名市の旧小天町の某浄土真宗系(本願寺派)の跡継ぎだったのですが、どうしても映画界に進む事を諦めきらず、松竹の俳優に成ったのでした。

 この阿智王の話を知ったのは、熊本県庁の東隣で建築会社を営んでおられた田尻様に劉邦以来100代の系譜を見せて頂き、熊本市の西の金峰山中腹に劉邦、霊帝、阿智王の廟を建てられている事も知り、何度かトレッキングを重ねたことがあったのでした。

 一度、田尻様の御本家に呼ばれたことがありましたが、その裏手の崖の上に笠智衆の旦那寺が在り、正しく同族である事が良く分かったのでした。

実際、久留米市内にも「笠」姓が異常に多く、若しかしたら劉氏の一族ではないかと思っていたのですが、これについてはクリーン・ヒットだった訳です。一方、日田市の大原八幡宮に目を移すと、神社研究者としては絶対に許すことのできない祭神の入れ替え、偽装、隠蔽が目に余り、九州王朝を抑え込むために、大蔵の一族が近畿大和朝廷の先兵=植民地総督として振舞っていた事が鮮明になったのでした。

 彼らは、元々の祭神が何であろうと一切ためらいが無く、応神天皇を積極的に受け入れ、阿蘇氏右矢印1藤原氏の指揮下に入るのです。

 朝倉市の三奈木神社と南の平野部の林田の三奈木神社の祭神が全く異なるのも、山の三奈木神社一帯が後に大蔵氏の支配下に入っているからだろうと考えています。

 もう紙面が在りませんので関心をお持ちになる方は前述した先行ブログ辺りからお読みください。

 この社を大蔵氏が建てたとしても、それは元々あった神社を再建したのであって、その基底部には八咫烏や高良玉垂命への祭祀がそもそも存在していたのです。そうでなければ、烏が置かれるはずがないのです。

恐らく大蔵氏はこれらの祭祀の影を消したかったはずなのです。しかし、残さざるを得なかったのです。

 こちらも情報を求めていますので誤りの指摘も含め何かお気づきの点は090-62983254でご連絡下さい。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記