2023年11月21日

978 太宰府地名研究会の月例研究会会場を従来の筑前、筑後、肥後に戻そうと考えています

978 太宰府地名研究会の月例研究会会場を従来の筑前、筑後、肥後に戻そうと考えています

20230528

太宰府地名研究会 古川 清久


 この34年の間、北九州市に中心を置く丁己歴史塾からの依頼を受け、本拠地を九州の北東部である北九州市の小倉などで行ってきました。折しも武漢肺炎ウイルス下と重なるも神社トレッキングと併せ一度も中断せずに継続してきました。

 その意味では会の全力を上げて取り組んだとは言えるのですが、実際には、本拠地であった筑前、筑後、肥後からかなりの距離があることから、226月に行った佃収講演(60名)程度の参加でした。

今回は会場が150人の所である事から丁己歴史塾としてはチラシ3,000枚を作成し既に動き始めています。

 当然、当方も西からの動員を加える予定ですが、昨年は菊水史談会の40人講演(かつては熊本県玉名市〜和水町のエリアで180人の講演会を行っているのですが)と併せ何とか述べ100人の講演会を行った訳です。

 そこで、佃収講演は今後も北九州で取り組むとしても、我々の本願地での活動を効率よく継続して行うべく、再度、本拠地を西に戻し、熊本、佐賀、久留米も取り込んで継続したいと考えています。

 残念なのは大分在住メンバーで、ここには講演可能な研究者が5人もおられる事です。今後大分自動車道を利用する形で講演願えればと考えています。

 まあ、どこかを得ればどこかを失うのは道理であって、何れ結果が功を奏す事もあるのではないかと思っています。

 ただ、3年余りの経験だけから言うのは不見識の誹りは免れませんが、多少、思うところもあり、正しかったかどうかは10年後に判断したいと思っています。

 我々九州王朝論者と言っても、今、尚、少数派で或ることは十分に承知していますが、どうも北九州の方々、若しくは、近接する宗像市〜田川郡一帯の方々の反応は期待ほどでは無かったとの印象を得たことでした。

 既に古田武彦研究を乗り越えるとまで豪語していた九○古代史の会は九州王朝説の幟を降ろし只の古代史研究団体に成り下がっていますし、その一部であった田川郡内での九州王朝豊前説に乗った一部の研究者が一時期田川郡の全市町村の村興し町興しに肖って始めは物珍しさから参加者が急増したのですが、一二年の間に参加者も激減し、恥を晒しているだけの状態なのです。

 結局、田川郡のパン・フェスタだかケーキ・フェスタだか知りませんが、焼肉だかB級グルメなどで一時的な客寄せイベントに肖って協力する形で研究会への参加も急に減少し、九州王朝説はあの程度のものかと恥を晒すだけになっているのです。

 さぞかし、通説派の学芸員とか教育委員会関係者からは十二分に馬鹿にされている事でしょう。

 私は、ほぼ、450年前の九州王朝論創成期の雰囲気も多少は知っている(最低でも想像が着く)のですが、当時は古田武彦初期三部作などの圧倒的な衝撃もあり、自然発生的に九州王朝論が異常なほどの拡大を見せ、福岡県下でも北九州地区(豊前)に於いても、九州王朝論の立場に立つ研究会が存在していたことも承知していました。

このためそれなりの下地はあると思っていたからこそ、丁己歴史塾からの要請があった場合も、逆に本拠地を東にシフトしても良い経験になると考えて全面バックアップを行ってきたのでした。

 ところが、どうも蓋を開けてみるとそれは甘かったようで、“九州王朝論て何ですか?”といった感じで、こちらとしても、びっくりするような話、初めて聴いたような話を連発されつつも多くの講演者を送り込んだつもりでいたのです。でも、そう単純でもなかったのでした。

 どうもおかしいと気づいたのはに2年目に入ってからでした。

 簡単に言えば、どうも反応が弱い、薄い…、普通なら多くの講演者をを送り込んで各ジャンル、いろんな方向から証明をするもそれが何だ…という反応だったのです。

 特に呆れたのは契丹古伝とか先代旧事本紀とか上ツ文といった偽書扱いされているものを受け入れるような姿勢では集客が落ちる…と言った声が上がった事でした。

 記紀に偏重する通説派の方が問題であって、むしろ記紀こそが偽書でしかないのです。

 その事がハッキリわかったのは事務局中枢メンバーの一部にその傾向が認められたことで、このままでは会の存続に拘わるとの思いを強くしたのでした。

そこで急遽、西に(筑前、筑後、肥後)のラインに戻すことを考えたのでした。

 筑紫野市二日市温泉辺りとなると、西鉄とJRが並行して走っており、かなりの人口の集積と、水城、太宰府政庁、都府楼…と文化の集積が確認され、この一帯で研究会を行いたいと思います。

 白江戦の大敗北、唐による太宰府占領(都府楼)、天武朝の機内への移動…とこうした屈辱の亡国戦を経て、倭国は畿内に移動し、後に天智朝にひっくり返されてしまいます。

 瀕すりゃドンするを自で行くような政変劇ですが、こうして日本の骨格が固まってきたのです。

 何はともあれ、日本国はそれなりの国家として国際舞台で役割を担い、曲がりなりにも立派な国体を維持しています。


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太宰府地名研究会+丁巳歴史塾20236以降のスケジュール

7月期2023722(土)佃 収 講演会 資料代他 1000
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伊藤まさこ 阿蘇 西原村教室へのご案内   202365日(月曜日)13:30

講演テーマ:        「万葉集」巻20 に込められた意図を探る

861-2402 熊本県阿蘇郡西原村小森18058 俵山湧水そば 平田庵(萌乃里手前200m) 駐車場へ集合

連絡090-62983254 直ぐ傍ですのでお迎えに上がります。以下ホーム・グランドの変更について!

無題.pngここ3年ほど丁己歴史塾からの要請もあり北九州市小倉北区の生涯学習センターにおいて合同で研究会を行ってきましたが、今後の発展を考え小郡市や筑紫野市方面への移転を考えています。今のところ福岡県筑紫野市二日市南1丁目93の生涯学習セン無題.pngターなどを軸に北九州から筑前へとシフトする方向で検討中です。最近、熊本〜佐賀と新規の参加が望める事もあり、再度、西に戻す方が良いのではないかと考えています。ここはJR、西鉄が二本移行してアクセスしている事、駐車料金が要らない事からまずは最適ではないかと考えています。秋以降、新たに活動を始めたいと思っています。なお、佃収講演については、引続き丁己歴史塾と提携し継続したいと考えており、皆様のご協力をお願いしたいと考えています。


年間講演者リスト(仮案)


NO.

講演予定者名

経歴等

講演テーマ

居住地

備考

1

井上 悦文

書道家

草書体で解く邪馬台国の謎」他著

「邪馬台国は朝倉にあった」卑弥呼の墓は山田大塚古墳

日田市

 

2

阿部 貞隆

建築士



陸奥安部氏累代の古文書が語る逆説前九年合戦史」近著他

北九州の阿部一族について

大分市

 

3

伊藤 まさ子

ブロガー

「宗像・宝満・沖ノ島」著

北九州に残された古代史の謎

“古代祭祀線から見る神武東遷”

福岡市

 

4

大石 耕史

歯科技工士

blog「くじら通信」管理者

古遠賀湾の物部25部族について考える

久留米市

 

5

小島 宗光

曹洞宗僧侶

調整中

五つのテーマのどれでも話し致します

テーマの絞り込み中

伊万里市

 

6

田中 興人

醸造家

日本美術刀剣保存協会佐賀県支部長

古代の剣と刀について

伊万里市

 

杉山 宏治

建築士

Blog「事代主のブログ」管理者

香春神社と高良大社

筑紫野市

 

8

古川 茂

醸造家

blog「幡随院長兵衛」管理者

古代の酒と醸造業

“無法松と幡随院長兵衛”

佐賀市

 

9

阿部 裕治

古代史研究者

「晋国残影」著

磐井の乱とは何だったのか?継体紀、欣明紀から読み解く磐井

別府市

 

10

神田 浩

獣医師

blog「ひとつあがりのカフェテラス」管理者

速吸姫神社と関門海峡

大分市

 

11

江原 不可止宮司

大帯八幡社宮司

関門海峡と周防と姫島

姫島村

 

12

古川 清久

元自治体職員

「有明海異変」著

blogひぼろぎ逍遥(跡宮)外管理者

古代豊の国は関門海峡を挟んで長門まで及んでいた防府の玉祖神社とは何か?“

日田市

 

13

予備

宮原 誠一

Blog「宮原 誠一の神社見聞諜」管理者

神武と天照は福岡市南区柏原と桧原に住んでいた

久留米市

 

14

予備

Dr.大津 忠彦

出光財団イラク発掘調査団研究員

「イラクの洪水伝説とノアの箱舟」

イラク発掘調査の別バージョン

小郡市

 

15




予備

田尻 久善

建築士

熊本県住協代表

(漢 劉邦101)

「後漢霊帝末阿智王の一族が入っている」“長野県南端の昼神温泉郷=阿智村も大集落か?”講演者 田尻 久善 熊本県住協代表(劉邦101代)

熊本市

 

16

     

0

別枠 佃 収

古代史研究家

新「日本の古代史」(佃説)外著書多数

「倭の五王」の倭国(佃説)から再度

越谷市在住玉名市出身

 

 外にも講演可能な方はおられますが、年に10回程度の講演では椅子取りゲームになってしまいます。

当然にも、久留米市、熊本県西原村、小郡市、佐賀市などでのサテライト開催も含め自前でこれだけの論者を保持できれば教育員会関係者、学芸員などから通説まがいの話を聴き鵜呑みにする必要もないはずで独自の研究体制を維持できるはずです。


講演依頼も含めご提案があればご連絡ください。太宰府地名研究会(編集員)古川 090-62983254

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2023年11月18日

977 気ままな上州への神社調査 ⓴ “上州調査を終え…来年以降の神社調査について”

977 気ままな上州への神社調査  “上州調査を終え…来年以降の神社調査について”

20230525

太宰府地名研究会 古川 清久


 今春の上州(群馬県)を中心とする神社調査は非常に面白いものでした。

 特に、埼玉県在住メンバーが同行した合同の調査旅行は非常に面白いもので、以前単独で調査に入った栃木県から福島県への再度の調査を行う展望も見えてきたことから、九州王朝の最大版図のほぼ全域をカバーできることになりそうです。

 ただ、伊勢、志摩、紀州の神社調査が終わっておらず、来年以降はこの三国を少しづつ見ていくつもりなのです。

 なんとかブログも20本は書きましたし、一応、書くべきところは書いたと思っています。

 ここでは上州を中心とする北関東の辺境部、そして、甲斐、信濃の勢力が如何なるものであったのかも朧気ながらも見えてきた様に思います。


上州への調査を終えて見えてきた事


 実は、大体の見当が着いていた事ですが、群馬県とは地力が弱く、尚且つ浅間山に象徴される多くの火山噴火によって降り積もった火山灰土壌によって降雨の大半がたちどころに地下に浸透し、所謂、水田稲作の適地が少なく、良く生きてこられた…思うばかりの土地柄なのです。

 勢い、トウモロコシ、ジャガイモ、蒟蒻で空腹を凌ぎ、命を繋いできた人々だったと思うのです。 

 従って、ここに住み着いたのは稲作農耕民ではなく、そういう土地でも生き延びる事の出来る粉食を好む人々のはずであり、副業として金属を掘り加工する冶金の人々だったはずなのです。

 それを担ったのは、浅間山、妙義山、榛名山、赤城山に拠点を置いた山岳修験の民であり、この副業と言うより主業こそが上州の経済を支えていたのではないかと思うのです。

 では、彼らは何処からやってきたのでしょうか?

 群馬の上州(ジョウシュウ)とは上野国、下野国の(こうずけのくに)とされています。

無題.png上毛野氏という氏族があります。上毛野氏は、「上毛野」を氏の名とする氏族。上毛野国造を歴任した。…と考えればそれで良いと思われる方はそれで良いのですが、この氏族は、我々百嶋神社考古学の者が神武僭称贈る崇神(祖父:草部吉見、祖母:市杵島姫、父:大山咋、母:鴨玉依姫)と理解する氏族で後の藤原氏に繋がる直系氏族とは言えるでしょう。

この第10代崇神天皇皇子の豊城入彦命を祖とする皇別氏族で、「上毛野君(公)」のち「上毛野朝臣」姓を称した。…となるのです。

勿論、関東武士団の本拠地とも考えられる上州においてその氏族が継続したなどとは考えてはいないのですが…総鎮守なる上州一宮を見ると、前橋の上野國総鎮守 総社神社(旧県社)は、以下を祀っているのです。

主祭神: 磐筒男命 磐筒女命 経津主命 宇迦御魂命 須佐之男命

には触っていない様に見えるのです。

特に崇神の息子である豊城入彦は第二赤城神社の主神として棚上げされているかのようなのです。

福岡県久留米市には豊城(トヨキ)と言う交差点が今もあるのですが、豊城入彦は豊の国に実際に住ん

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でいて後に久留米に移っていると言われたのは故)百嶋由一郎でした。四道将軍として関東に入っている

のでしょうか?関心をお持ちの方には他に「豊城」と言う地名があるかを検索して頂きたいのです。

群馬県伊勢崎市には豊城町があります。他に長州の下関と防府にもあるのですがいずれにせよ、九州〜山口に居た人物である事はある程度推定できます)。何故なら、古代豊の国とは関門海峡を挟んだ両岸の国々を言うのであって、その痕跡として、既に下関市に合併された旧豊田町、豊野町…があったのです。

これらが、群馬同様の物部国である愛知県の豊田、豊川、豊橋、豊…とどの様な関係にあるのかについてはこでは構想だけですので触れません。

そのような名だたる氏族の国にしても、国貞忠治や大前田英五郎の存在が光り輝いている上に、フィクションとしても上州新田郡三日月村木枯し紋次郎のイメージが付き纏うのです。

無題.pngむしろ、付き纏うと言うよりも光り輝いている様にさえ思うのです。

 こう言うと群馬県民を愚弄するのかとお叱りを頂きそうですが、関東平野の奥座敷と言えば聞こえは良いものの、貧しい地にしがみ付いて、代を重ね生きてきた人々、あるは、浅間山に連なる周りの火山起源の険しい山々、赤城山、榛名山、妙義山、大船山…で金属を取り出し、冶金、金細工、鍛冶屋として生きていく人々として雄雄しく生きてきたのであり、単なる稲作農耕民とはある種異なる人々であり、それから落ちた、望んで離脱した人々が憧れの渡世人であり、中仙道だったと思うのです。

 つまり、正業は金属生産加工集団であり、それが前述した総社神社にも象徴されているのです。

 このような本物の祭神を掲げ、幟を上げた神社が県社となれたのはどちらかと言うと少ないと思うのですが、この祭神には正しくも本物の神が反映されているようなのです。


祭神: 磐筒男命 磐筒女命 経津主命 宇迦御魂命 須佐之男命


 磐筒男命 磐筒女命はお分かりでしょうか? 最後尾に置かれた須佐之男命の父母と言っても高貴な神様ですが、足名槌、手名槌と言い換えるべきで、神話では金山彦(カグツチ)埴安姫(カミムスビたる博多の櫛田神社の大幡主の妹)が櫛稲田姫を取り囲んで泣いていた…のに遭遇し、ヤマタノオロチを退治すると描いているのです。

詳しい話は省略しますが、ヤマタノオロチ退治に成功し、スサノウは櫛稲田姫を妃としているのです。


『古事記』では石析神・根析神、『日本書紀』では磐裂神・根裂神と表記される。

「イワサク・ネサク」 ウィキペディア2023052612:28 による


無題.png「磐裂根裂神(イワサクネサク)の子の磐筒男(イワツツノオ)と磐筒女(イワツツノメ)の生んだ子の經津主神(フツヌシ)が良いでしょう」と言いました。


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上は群馬県の稲荷神社で検索し、下は群馬県のヒコホホデミで検索したものです


 経津主は香取神社の祭神として有名ですが、実は、藤原の祖である、海幸彦=草部吉見の対抗馬の山幸彦で、そのお妃である宇迦御魂命は伊勢の外宮の豊受大神なのです(短期ですが前の夫は海幸彦)。

 磐筒男命 磐筒女命の名とは言え、ナガスネヒコの父であるスサノウを最後尾に置き換えても残したことが幸いしたかどうかは不明ですが、幸いにも県社とされ上州人は今も正しい県社を抱いているのです。

 ただ、金山彦が筆頭とされていること自体、群馬県の周りを取り囲む馬蹄形の火山性巨大山塊こそが、金山彦が跳梁跋扈しうるフィールドであり、何者にも属さない、独立独歩の職能集団を形成したのであり、それこそが上州であると思いたいのです。ここには天照は祀られていないのかも知れません。

 伊勢の内宮よりも外宮の神宇迦御魂命は実は稲荷様=伏見稲荷の神様でもあるのです。

 一度に全ての稲荷を表示することはできませんが、その夫となった山幸彦=猿田彦=ニギハヤヒこそが別の名前で大量に存在している事をご紹介しておきましょう。勿論、筆頭格の一之宮貫前神社が含まれていますね。しかし、何故かお妃の稲荷(辛国息長大姫大目命=アメノウヅメ=豊受大神)は川向うばかりです。検索の仕方でかなりバラツキが出ますが致し方ありません。

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百嶋由一郎最終神代系譜


 前橋の総社の祭神に説明を加え過ぎましたが、上州と言う国とは簡単に言えば金山彦=カグツチ(秦の始皇帝と姻戚関係を結んだイスラエル系の神)と、九州(遠賀川流域の筑豊地方)を追われた物部氏(ニギハヤヒ=山幸彦系)が逃げ込んだ国であったと言うべきでしょう。

 列島とは素晴らしい国土であったといつも思うのですが、僻陬の地とは通常は豊かではない人の住みつかない土地を言うでしょう。

その理由とは危険な土地(地震、火山爆発)、豊かではない土地(古代に於いては水が得られずに稲作が出来ない土地)となるのですが、その様な場所とは、九州では阿蘇から九重から阿蘇、祖母山、霧島、桜島…の東側に位置する日向国(宮崎、鹿児島)と大分県南部であり、富士山、妙義山、浅間山、榛名山、赤城山の西と言うよりもに位置する群馬県は、非常に似た条件を持った国なのです。

それは、前述した様に偏西風が卓越する北半球で火山帯の東側に位置する地は降灰によって稲作農耕民が住もうとせず、その意味で半ば捨てられていた地に粉食に適応した畑作農耕民が住み着いたと思われるのです。

これは大陸と言っても列島の西にある陸地の事ですが、ここでも同様で、大雑把に言えば、ほぼ、揚子江を境として、北には麦食(粉食)を好む草原、砂漠の民が、南には米食を好む稲作漁労の民が住み着いたのでした。

基本的に中国には火山がないため火山灰の問題は無視して良いのですが(偏西風は北京まで砂漠の砂を堆積させていますが…)、列島の場合は雨が多くても直ちに地中に染み込む火山灰土壌地では、この粉食を好む人々が定着しているのだと思います。

稲作不適地とは山が険しい事も関係しますので、甲斐、信濃、一部埼玉県も粉食が好まれ、オヤキ、ホウトウ、お切こみ、フライ…と、丸亀製粉に象徴される腰のある讃岐風うどんを好むのです。

間違っても、柔らかい博多風の饂飩などは絶対に好まれないのです。

そこまで来ると、県民性などと言う地方とか方言といった問題を超え異民族を意識せざるを得ないのです。

上州を逃亡した物部氏の安住地と描いたのは、半ば正しく半ば間違いと言えますが、それは山岳地帯には金山彦系が展開し、下仁田町、富岡市などを中心にニギハヤヒ系が住み着いていると言う二重構造こそが上州の本質ではないかと思うのです。

これは遠く離れた外部の人間が神社から見た理解ですのでお叱りは覚悟の上であり、作業仮説としてお目零しをお願いしたいと考えています。

最後になりますが、群馬県はどうも違うと思い始めたのは、ここ数年の事でした。

それをはっきり認識したのは信州、甲斐、そして面倒ですので一括りに静岡県としますが、この一帯には異常なほどの若宮神社(主祭神:仁徳天皇)を祀る祭祀が集中しているのです。

ところが、上州に入るとそれが極端に減るのです。

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この問題は新羅三郎を祖先とする甲斐の武田信玄が表向き応神を受け入れているものの本当に祀っているのは若宮神社のオオササギである事を知り、武田の祖が四道将軍として送り込まれた阿部氏=大彦である事に気付いたのでした。武田の祖は半島から入った人々なのですが、律儀にも、春秋戦国の呉(呉越同舟の呉)国の流れを汲む正当皇統開化天皇の長子の腹違いの兄弟としての関係を未だに護り通していたことが分かったのでした。詳しくは新ひぼろぎ逍遥ではなくひぼろぎ逍遥(跡宮)の967をお読み下さい。


967

甲信越の若宮八幡宮とは何なのか?


 上州が甲斐と異なる事に気付いたとしましたが、若宮を守る人々とは呉の太伯の血を引く正当皇統の天皇を祀る人々であり、強面の武田信玄にしてそうであったことに今更ながら感激するのです。

 一方、九州王朝は近畿大和朝廷による唐への内通か裏切りによって滅びますが(白江戦)、それにも拘わらず忠誠を貫いた人々が甲斐に居た事に気付いた事は望外の幸せでした。

 対して、神武天皇とナガスネヒコ(金山彦の孫に相当するスサノウの子)との関係から、金山彦系が群馬から北関東、東関東に展開したことにも理があると思うものです。それは正しく民族と民族との闘いだったのです。こうして古代史の謎の一端が多少とも理解できたと喜んでいるのは、九州王朝論をある程度は知り、百嶋由一郎という天才的神社考古学者を知り、今、佃収(埼玉県在住)と言うこれまた天才的研究者に繋がる事が出来た事に喜びを感じるこの頃です。上州と甲斐とはこれ程異なるのです。


 まだまだ書くべきことはありますが、徐々に上州から外に目を向けたいと思います。

 出来れば、数年のうちに二度目の栃木県への神社調査を行いたいとも思っています。

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「敢國」と書いて、「あへくに」と読む。阿拝郡に居住した、阿閉氏が祀ったと考えられ、祭神は、その祖神・大彦命孝元天皇の皇子・大彦命は、阿部臣・膳臣・阿閉臣・狭狭城山君・筑紫国造・越国造・伊賀臣の祖。阿閉臣は、大彦命の子・大稲輿命の子孫。当社の北1Kmには、大彦命の墓と言われる御墓山古墳がある。境内社の祭神は、以下の通り。

大石社 不詳一座・須佐之男命・金山比古命・大日孁貴命・大山祇命 神明社 天照大御神

子授け神 祭神不詳 若宮八幡宮 仁徳天皇 楠社 楠正成・藤堂元甫結社 高皇産霊尊・手間天神

市杵島姫社 市杵島姫命 六所社 伊弉諾尊・伊弉册尊・日神・月神・蛭児・素盞嗚尊

九所社 祭神不詳 南宮山山上 境外社・浅間社 木華開耶姫命     敬愛する「玄松子」氏による

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こうして、ぶどう寺の三階松紋(孝霊、孝玄、開化)、花菱=門光(「高良玉垂宮神秘書」では門光)=唐花紋が武田信玄の建てた韮山の武田八幡宮の神殿脇殿に打たれていた唐花紋に端を発した武田信玄九州王朝後裔説は何とか解決が着きました。結局、五年前のぶどう寺探査の中間報告の延長上に武田信玄の一族が位置していた事が分かったのでした。つまり、開化天皇と神功皇后との長子仁徳(九州王朝のシンボル)を義理の兄弟である大彦=新羅三郎の一族(大彦は新羅から入っています)が奉斎したのでした。














百嶋由一郎が残した神代系譜DVD、講演録音声CD、手書きデータスキャニングDVDを必要とされる方は090-62983254までご連絡ください

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2023年11月15日

976 気ままな上州への神社調査 ⓳ “富士山写真集”

976 気ままな上州への神社調査  “富士山写真集”

20230524

太宰府地名研究会 古川 清久


ここでは休養の意味あり(さすがに19本目のブログとなると草臥れていますので…)、今回の上州(群馬県)を軸とする神社調査で思わず撮影した富士山の映像をお見せすることにします。

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山中湖村からの富士山(手前の山中湖に逆さ富士が多少分かります)でもこの放射状の雲は不思議ですね 

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山中湖の湖上には逆転層によるものか雲が覆っています

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天候が回復すると逆さ富士が撮れました

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天候によっては怖いような富士山になることもあります


富士山は高峰の為、神社調査でも至るとこで見る事ができます ある意味幸せの一部かも知れません

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これは静岡県側、富士宮市の富士山本宮浅間大社境内から見た富士山、好天に恵まれ桜も負けそうです

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百嶋由一郎が残した神代系譜DVD、講演録音声CD、手書きデータスキャニングDVDを必要とされる方は090-62983254までご連絡ください

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