2024年05月09日

1004 再び大分県日田市の「加々鶴」地名を考える

1004 再び大分県日田市の「加々鶴」地名を考える

20240108

太宰府地名研究会 古川 清久


新年早々、日田市在住の神社研究をされておられる方から問い合わせを頂き、近い所でもある事から、翌日、市の中心部に出掛けお会いすることにしました。

同世代の方であった事もあり話はスムーズに進みましたが、そこに後から同席された方が地名研究に思いを寄せておられたのです。

しかも、小規模ながらも地域研究のグループからさらに活動を拡げたいと腐心されておられる方々だったのです。

相互に情報交流をできることもあり、更に当方が把握できていない地元の情報も得られる可能性もある事からご協力できる範囲で接触を深めたいと思った次第です。

さて本題に入りますが、以前、と言っても8年以上前になりますが、大分県日田市の「加々鶴」トンネルの「加々鶴」と言う地名についてブログを書いたことがありました。

 まずは、短いため、全文を掲載しておきます。

257 日田市の「加々鶴」地名について “「カカ」を「蛇」とする民俗学者吉野裕子説から

20151026

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久



久留米地名研究会の天ケ瀬温泉五馬高原研修所にいる事が多くなると、大分県日田市から久留米市や筑豊の田川市に向かう事が非常に多くなります。

そうなると、決まって、国道210号線の加々鶴(カカヅル)トンネルを抜け夜明ダム上流の夜明橋付近を頻繁に通過する事になります。

 以前から気にはしていたのですが、ようやく意味が分かりました。

今回は、この奇妙な「加々鶴」(カカヅル)という地名の話です。


257-1

国道210号(現386号)線の加々鶴バス停



もう亡くなられて久しいのですが、吉野裕子という民俗学者がおられました。

 その著書の一つに非常に知られた「蛇」があります。


257-2


この論旨を我流に要約すれば、案山子(カカシ)とは田んぼの収穫を荒らすネズミや雀を追い払う蛇を擬制したものであり、「カカシ」の「カカ」が蛇の古語で、「シ」は人を意味している。

  それの説明として、正月の「鏡餅」の「カガミ」も「カカ」+「ミ」(巳)であり、蛇がトグロを巻いているものを、豊穣のシンボルとして、 感謝を表したもの…になり、蛇の一種として「ヤマカガシ」があることも蛇が「カカ」と呼ばれていた痕跡となるのです。 以下、ネット上から参考…



257-3


日本原始の祭りは、蛇神と、これを祀る女性(蛇巫=へびふ)を中心に展開する。
1.女性蛇巫(へびふ)が神蛇と交わること
蛇に見立てられた円錐形の山の神、または蛇の形に似た樹木、蒲葵(ピロウ=ヤシ科の常緑高木)、石柱などの代用神や代用物と交合の擬(もど)きをすること。今も沖縄および南の島々に、祭祀形態として残る
2.神蛇を生むこと
蛇を捕らえてくること
3.蛇を捕らえ、飼養し、祀ること
縄文土器にはたくさんの蛇の文様が登場する。縄文人の蛇に寄せる思いは、次の2点である。これらの相乗効果をもって、蛇を祖先神にまで崇(あが)めていった。
1.その形態が男性のシンボルを連想させること
2.毒蛇・蝮(まむし)などの強烈な生命力と、その毒で敵を一撃で倒す強さ
埴輪の巫女が身につけている連続三角紋、装飾古墳の壁に描かれる連続三角紋・同心円・渦巻紋も、蛇の象徴であると推測される。
稲作の発達につれて弥生人を苦しめたのは、山野に跳梁(ちょうりょう)する野ネズミだった。ネズミの天敵は蛇である。弥生人は、ネズミをとる蛇を「田を守る神」として信仰したと思われる。
日本人は、蛇がトグロを巻いているところを円錐形の山として捉えてきた。それが円錐形の山に対する信仰につながる。三輪山はその名称がすでに神蛇のトグロの輪を意味し、神輪(みわ)山の意がこめられている。

日本の蛇信仰(吉野裕子著) - tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」 より


257-2

お分かり頂けたでしょうか?

こ の吉野裕子の「かかし」=蛇説については、久留米地名研究会の永井正範氏から教えられ、以前から気にはしていたのですが、加々鶴トンネルの上の高井岳にそ れらしき形状(「おかがみ」山)を発見できなかった事から(ただし、一キロほど上流から見ると「おかがみ」山のように見えるため高井岳も可能姓はありそう です)、それっきりにしていたもののです。ただ、良く考えると、国道210号(現386)線から嘉麻峠へと向かう211号線の夜明鉄橋北側の小山が、まさしく「おかがみ」山だったのです(次の写真)。

この一帯は夜明ダムが完成する昭和28年頃まで、筑後川流域の旧安楽寺領(太宰府天満宮の前身)などのそま山から切り出された木材が、古くは太宰府まで持ち込まれるために筏に編成されて下流に送られる中継地だったのです。

右岸からは彦山方面から大肥川が流れ込み、筏流しを行う海人族により多くの木材が編成される場所だったのです。そのような場所だからこそ変則的な交差点には志賀島の志賀海神社が祀られているのです。

あとは、グーグル・アースや国土地理院による地図閲覧システムなどで、現地をご自分で検証してご判断下されることをお勧め致します。

以上 ひぼろぎ逍遥257

257-4

無題.png東京都に赤池濃の三女として生まれる。1934年女子学習院本科を卒業し、1936年に同院高等科を卒業。1942年『風のさそひ』を上梓。専業主婦となるが、日本舞踊を習っていたことから民俗学に関心をもち、1954年津田塾大学卒業、1970年著書『扇』を刊行、1977年「陰陽五行思想から見た日本の祭」により東京教育大学文学博士の学位を授与される。在野の学者として著書多数。全集全12巻がある。2008418日、心不全のため死去。


ウィキペディア 20240116 09:52

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加賀ではなく加々が正しいはずです。グーグルのミスでしょうね。


 加々鶴トンネルの下流23キロに夜明ダムと古代の筑紫、豊の国境があるのです。

 このような大蛇行の地形は低平地の泥地にはあるのですが、田栄神社付近は50100メートルを超える断崖絶壁の巨大岩塊地帯でありこの様な地形がどのように出現したのか今もって理解できないでいます。

 ともあれ、この地形こそが蛇に見立てられ、「カカ」と呼ばれた事は間違いないはずです。

 では、この地名を付した人々とは一体どのような人々だったのでしょうか?

 一言で言えば、海人族と言えば解かった様な気がするのですが、直ぐに同意を頂けるとも思ってはいません。

 この「海人族」という概念は、元々、宝賀 寿男(東大法学部出身の官僚から弁護士)が言い出したもので学者ではないのでしょうが、何故かそれなりに定着しています。何やら、柳田先生を思い出します。

 一般的には九州でも中心部に近い豊後の山岳地帯の入口に近い場所に“どうして海人族が入っているんだ”と思われる方が多いかも知れません。筑後川河口からは優に7080キロはあるからです。

 それに答えるには、多少頭を働かせる必要があるかも知れません。

そもそも筑後平野は列島でも最大級の平野である事は皆さん良くご存じでしょう。

 海に隣接する場所で平地ができるのは海の中に土砂が流れ込むと水平堆積が起こり平地ができます。

 類型になりますが、この現象が山中で起きるには、河川が土砂崩れなどで閉塞され自然のダム湖ができると水中では同じような堆積が起こり同様の平地が生じます。

 そこで決壊が起こり水が抜けるか、それを意図的に決堤させると一挙に大量の平らな農地ができるのです。勿論、安全のために少しずつ行ったでしょうが。

 これが全国に分布する蹴破り伝説であり、近い例では熊本県の阿蘇谷の健磐龍の蹴破り伝承であり、菊池、山鹿、植木に広がっていたと言われる古代湖「茂賀浦」です。

 そして筑後平野の最奥部に夜明ダムがあり、加賀鶴トンネルがあるのです。

つまり、筑後平野とは有明海の最奥部の痕跡地だった事が分かるはずなのです。

 とすると、海人族が今は筑後川と言われている古代久留米湾とでも言うべきところまで入っていた事はお分かり頂けるのではないでしょうか?

 その証拠と言うほどのものではありませんが日田市大字夜明の夜明駅のそばに神社が置かれています。それが志賀神社であり、博多湾の志賀島の海人族が祀ったものである事がお分かりになるでしょう。

 恐らくは、大肥川流域からも木材が流されこの少し上辺り筏が組み直しされていたのでしょう。

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 そうすると、昭和28年に夜明けダムが造られた結果終了させられた筑後川の筏流し、川流しを行っていた人々がどのような人々であったかが蘇ってくるはずです。

 それは博多湾側から有明海に回ってきた志賀島の一族であり俗に海人族と呼ばれた人々だったのです。

 彼らのご先祖様達は筑後川の奥地まで入り込み、びっくりするような大木を切り出し、小さなものは現地で繰り抜き、大きなものは大川市の筑後川河口まで流し大船に仕立てていたはずです。

 そう考えれば、日田の奥の天ヶ瀬温泉も海人族が活動していたから付されたものである事が見えてくるはずです。海人(アマ)ケ瀬温泉だったのです。

 また、平安朝どころか大和朝廷以前まで遡るはずですが、太宰府天満宮の前身の安楽寺領が日田周辺にも散見されます。これは古代の杣山の名残のはずで、現在の林野庁がでたらめな人工林を利権目的だけで増産し、売れもせずに災害を引き起こし続けているのとは対照的に急傾斜地を避け管理された林地=杣山が保たれ大寺院、寺社の用材をこの地で育て筑後川を利用し太宰府まで供給していたのです。

 既に、そのころまでには大木は太宰府近辺には無かったはずなのです。

 まあ、六十年ごとには改修の必要もあり、そのペースで森は育てられていたのであり、筑後川の河口まで運び大船を造る場合は左岸に流し、宝満川を利用して太宰府に運ぶ場合には右岸に振り分け、中流域に在ったと思われる多くの中州で早めに振り分け左右に移動させていたのです。

 そこに船越と言う地名(久留米市田主丸町船越)が現存している事は半ば歴史を証言しているのです。

 詳しくは、グーグル・マップなりグーグル・アースなりで、周辺の地形や環境を確認して頂きたいのですが、かく言う私自身は、この筑後川沿線の400メートルほどの国道トンネル(210号)がどうのとか言う話の前に、もしも吉野裕子先生が生前にこのトンネルを通っておられたら…と思うと、いつも冷静に考えることができず、ついつい燥いでしまう自分を恥じている事に気付いてしますのです。

そして、このことに気付いている人がどれくらいいるだろうと思い続けているのです。

 まずはこの周辺の地形を見て頂きたいと思います。

カカは夜明の大蛇行地であり、蛇のとぐろを意味しているはずで、ツルはこの一帯の険しい崖を意味しており、鶴と美しい字を当ててはあるものの、鶴首の蛇行と崖地のヅリ落ちるの意味が込められているのです。


無題.png もしも多少とも興味を持たれたら、筏流しの中乗りさんであった渡辺音吉さんの証言をお読み頂くと、この一帯の事がより鮮明に浮かび上がってくる事でしょう。

 そもそも、渡辺姓も渡りの部=渡部(愛媛の大山祗神社の一族)であり、物資や人員を搬送していた志賀島の海人族であることを証言しているのです。

まさしく中乗りさんの名としてもその人生を体現されているようです。

まだ、「カカ」が蛇を意味しているなど信じられないと思われる方は多いと思いますので僭越ながら補足させて頂きますが、蛇でも比較的大きいものにヤマカガシがありますね。

これなども蛇=ヘミ、ヘビが案山子である事を伝えています。

穀物生産を行うと、貯蔵していたものが雀や鼠に食い荒らされる事が最もまずい事で、船舶では鼠を退治するために猫が載せられ、田んぼには案山子が置かれました。


 福岡市中央区赤坂 不知火書房 0927816962に 販価1575


それはそのまま蛇を意味しており、表現は悪いですが、蛇人間を意味していたのです。勿論、「し」はヒト=「シト」(こちらが原型)であり、「あんしとたちゃ」…ですね。

こうして蛇は穀物を守る神にまで高められ、富の象徴となり、とうとう財布の中にまで蛇の飾りが入れられ、趣味は悪いのですが数十年前まで蛇皮の財布が大阪のおばちゃんなどに珍重されたのでした。

従って、蛇神様とは富の象徴であり、決して邪教などとは考えないで頂きたいのです。

それは揚子江流域の春秋戦国の呉の国から稲=米を必死で携え持ち込んできた人々の思いが込められており、長江も巨大な龍であり、蛇でもあったのです。

近年も揚子江ワニと言われる小型のワニが龍のモデルではないかとささやかれているのです。

そして、夜明ダムの近くには有王神社までがあるのですが、現在、この神社は近畿大和朝廷以来の植民地総督として進出してきた大原八幡宮=日下部氏〜大蔵一族が祀る瀬織ツ姫(藤原の祓戸の神であり、実は金山彦の娘である櫛稲田姫)とされています。

この原型を考えれば、これもヤタガラスを祀る神社だったのであろうと思うのです。これについては別稿とさせていただきます。この神社の祭神も実はカミムスビの神(博多の櫛田神社の主神=大幡主)の子豊玉彦(日田の中心部には玉川町がありますね)=ヤタガラス=龍王であり、海の龍は海蛇でもあるのですが、これが有王神社と関係がある事は次のお話にしたいと思います。

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2024年05月06日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)1003 熊本県玉名市の木の葉とは何なのか?(下)木の葉の基層を考える

ひぼろぎ逍遥(跡宮)1003 熊本県玉名市の木の葉とは何なのか?(下)木の葉の基層を考える

20231117

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


グーグル・マップの図表で熊本県玉東町(木の葉)の神社を再掲しています(町外の神社も表示されていますのでご注意を)。

これを「熊本県神社誌」搭載の神社と突き合わせると、霊雨山神社(霊雨、霊符はハ行転呼音?)、天子宮…が搭載されていない事は明らかです。その理由は分かりません。新興宗教では全くなく、神社誌以降の祭祀ではない事は明らかですので内部に温存されていたものかも知れません。

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木の葉の町境を好い加減に入れていますが、木の葉の西側、古代の菊池川と有明海との邂逅部(河口)の船溜まりと思われる場所がヤタガラスの領域でその範囲は木の葉ではなく、博多の櫛田宮の一族が、展開した港湾だったはずなのです。

梅林天満宮、出雲神社、熊野坐神社…が展開しています。

梅林天満宮も道真公の父方の流れを汲む天満宮のはずです。

 一方、木の葉の東側が現熊本市の旧植木町の池王宮などになるのです。池王とは余り聞かないものですが(愛媛の佐田岬に関連するものがあります)、多分菅公の父方のご先祖(ヤタガラス)を祀る神社ではないかと考えています。

 次に神社誌から木の葉を考えて見ましょう。

 既に、神社誌の2829pの集計を見れば、県3237社中、阿蘇系と言えるのは僅か294社で、菅原神社(天満)が1012社となっていることはおつたえしました。

 そこで、その事だけからでも、古代の熊本がとんでもない国だった事が見えてくるのです。

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まず、菅公が多い事は直ぐに分かります。肥後に多い阿蘇系はと言うと、応神を持ち込んだのは草部吉見(中央に進出した阿蘇氏=多氏=宇治氏…後の藤原一族)ですので、山北八幡宮は、実質、阿蘇系と言えるでしょう。宇都宮神社も同様です。ただ、彼らは畿内で権力を握って以降、伊倉や木の葉、玉名の重要度を認識し、後の支配者となったと思われます。

 もう一つ、年神社も大歳神=草部吉見=ヒコヤイミミですので、東に進出した阿蘇氏で良いでしょう。

 すると、この4社を除けば、木の葉の古代が浮かび上ってくるのです。

 冒頭の白山比唐ヘ八代の妙見宮の天御中主命の事ですので、博多の櫛田神社の大幡主=カミムスビ神の叔叔母となります。

 熊野坐神社が2社ありますが、忌部の神々=熊野本宮、熊野那智、熊野速玉となりますが、天御中主命〜カミムスビの造化三神の二神でこの一連の神々でしかないのです。

最後尾の天水分神も普通は天御中主命かも知れません(大山祗系のミヅハノメも水分神ですが同地には大山祗系がないため違うと思います)。

 最後に、神社誌も不詳としている畑神社ですが、大根が神様ではないはずで、秦氏を祀るもので良いでしょう。秦の始皇帝の一族が滅亡を機に列島に移動したのが秦氏ですのでその一派がこの地にも展開しているのです。

 稲荷神社は宇気母智神で伊勢の外宮様と同体である事をはっきりと描いています。

 菅原道真公はナガスネヒコの後裔の本家である「伴の女」とヤタガラス=カミムスビの跡継ぎの本家同志の婚姻によって成立しているため、阿蘇系の数社を除けば、全てカミムスビ系とナガスネヒコ系(菅公を表に出しナガスネヒコ系を引っ込めている)の神しかいない地域である事が分かるのです。

 そしてそのシンボルが天子宮、霊雨神社、畑神社とすれば木の葉の特異な性格と言えるでしょう。

 秦の始皇帝がイスラエル系であるとの説は常識に近いところですが、始皇帝と姻戚関係を結んだ金山彦の娘=櫛稲田姫がスサノウの間に生まれたのがナガスネヒコですね。すると、菅原神社はその系統に道真の覆いが掛けられている訳で、それに加えてスサノウ系も新羅の王子様で、白木地区があるとすれば木の葉とはそういったイスラエル系の居留地だった様に見えるのです。それが木の葉の印象なのです。

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木の葉の隣の下小田に育った百嶋由一郎が残した最後の神代系譜を半切りで最大に拡大したものです


90枚の神代系譜DVD、講演録音声CD30時間、手書きデータスキャニングDVDを必要な方は09062983254まで


 そもそも私が神社調査に踏み込んだ理由は九州王朝説を現場で裏どりする作業の一環から「天子宮」調査に踏み込み、125本ほどの短いブログを書き、一部は本ブログなどにも書いていますが、まだ神社研究の駆け出しも駆け出しだったため半分近くを公開し、後半は未公開に留めています。

 ただ、誰もやっていない領域だけにそのうち公開しようとは思っていますが、現在の活動を優先させているため時間が廻せないでいます。

 木の葉の南の小天町、玉名市伊倉があります。この地域も天子神社、天子宮が密集した地区で、この一帯を含めた全域がヘブライ系の人々が住み着いていると言えるのです。

 古田武彦の影響を受けた九州古代史の会の指導部の一人だった荒金氏が天子宮をアメノタリシホコとして著書に書かれていましたし、それに基づいて、実際にはそれを西日本全域に広げて調査したのが私の125本天子宮調査でしたが、タリシヒコ説は誤りで、途中で百嶋由一郎が言っていたモーゼ説が正しいと気づき、天子宮調査に意味を失ったと言うところが正直なところです。

 従って、この三地域を加え、球磨川流域そして人吉盆地全域、山鹿市までがこの勢力下に在った事が見えてきたのでした。稚拙な天子宮調査でしたが、百嶋由一郎氏の神社調査の素晴らしさに今更ながら感銘しています。

 今回、当会の活動に加わっていただいた方の出身地が木の葉だったため久しぶりに調査に乗り出したのですが、漸く全貌が見えてきましたが、一般には受け入れては頂けないと考えています。

 このため、現段階では二つほどの仮説を提出しておきたいと考えています。

 どう見ても、木の葉と言うのは地名としては一般的ではなく、他地域にも存在しない孤立した地名です。

 ただ、ここに来て一つの考えが浮かんできました。木の葉の木とは胡人の「胡」ではないか、つまり胡人の住み着いた居留地だったのではないかと言う仮説です。

 そして悪質なイエズス会のポルトガル宣教師もその事に気付いていたはずで、伊倉に上陸した宣教師達も阿蘇越えで、竹田市を経由し大分市の七瀬を経由し大伴宗麟の府内に移動していたのです。

そして、その地にも中国の超の領域の邯鄲(カンタン)=シルクロードの終着点から移動してきた人々が住み着いた土地にも似て、九州の東と西に胡人の住み着いた土地ができていたのです。

菅公を祀る神社が集中する玉名の東部域とはそのような胡人の地であり、当の菅原道真公も太宰府への都落ちと藤原氏による暗殺…を避け別府と大分の境の邯鄲辺りに潜行していたのです。

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邯鄲市は、中華人民共和国河北省南部に位置する地級市。京広線の沿線にあり、石炭業のほかセメント製造、鉄鋼業、紡績業、電子産業などが盛んであり、その交通の便から工業全体が伸びている。 戦国時代の趙の首府であり、日本ではとりわけ「邯鄲の夢」「邯鄲の歩み」の故事によって有名である。


ウィキペディア 20231118 10:34 による


大分市の邯鄲

274 大分市の「邯鄲」(カンタン)地名とは何か?

20160710

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 今回は地名の話をします。大分市に「かんたん」という奇妙な地名があります。

 大分から別府市に移動する時、一番込み合う所をようやく抜けた辺りですが、臨海道路と国道10号線が合流し別大国道に入って直ぐの所にあるのが問題の「かんたん」地区です。

漢字表記では「邯鄲」と書かれますが、一般的には“別府湾の昔の呼び名「邯鄲湾」から呼び習わされている”といったある種曖昧で中途半端な説明で済まされているようです。

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この事についても百嶋先生は菅原道真逃避行の件で話しておられましたが、要は中国の邯鄲からの移住者が住み着いていた地といった事でした。

 邯鄲それ自体は鈴虫だかこおろぎだかの蟲の名らしいのですが、中国のど真ん中の湖北省に邯鄲市があるのです。


邯鄲市(かんたんし)は、中華人民共和国河北省南部に位置する地級市。京広線の沿線にあり、石炭業のほかセメント製造、鉄鋼業、紡績業、電子産業などが盛んであり、その交通の便から工業全体が伸びている。

戦国時代の趙の首府であり、日本ではとりわけ「邯鄲の夢」「邯鄲の歩み」の故事によって有名である。

ウィキペディア(20160710 19:00による


 邯鄲市は、中国沿岸部に位置する河北省南部の都市です。 
 中国・戦国時代には趙の首府が置かれたことから、中国の古都として広く知られているほか、秦の始皇帝の出身地でもあり、歴史・文化遺産の豊富なまちでもあります。こうした歴史に根ざした邯鄲市には、この地にちなんだ故事成語が今にも多く伝えられ、とりわけ「邯鄲の夢」は日本人にも馴染みの深い故事として有名です。 
 近年は、石炭・鉄鉱石などの豊富な地下資源を生かし、石炭業やセメント製造、鉄鋼業などを中心とした工業都市として発展をしています。

人口・面積約1012万人 12,000平方キロメートル                大垣市のHPより

そういえば遊郭のある港町といった話は聴いたことがありました。


邯鄲(かんたん)遊郭

かつてこの地は風光明媚で知られ,明治十七年(1884)にここに港が開かれてからはいっそうにぎわいを見せたという。

今わずかに残る建物によって,当時の邯鄲遊郭のにぎわいを偲ぶことができる。

大分市の遊郭は大分港の西岸にあった。『全国遊郭案内』(昭和5年)によれば下記の通り。

大分港遊郭は大分県大分市大分港町に在って、日豊本線西大分で下車すれば西北約5丁、電車は「かんたん」に下車すれば宜しい。大分市は九州東海岸唯一の市で県庁の所在地、元大友氏の城下町で、城址は今県庁、水産試験場、女学校等に成っている。檜物細工は此処の特産物に成って居る。港町からは笠結島が見えて景色は殊によい。遊郭には貸座敷が22軒あって、娼妓は190人居る。

この地は現在、生石港町という地名で、おそらく港整備のために埋め立てた土地なのであろう。整然とした町割で、海に向かう目抜き通りに面して大店が軒を連ねている。建物外観は全て伝統様式であるが、戦後赤として営業したため1階玄関周りはモザイクタイルの張られた洋風に設えている。今や空き地になった敷地も目立ってきているが、これだけ残っていれば町並みとしての評価は高い。

参考文献 「赤線跡を歩く2」木村聡 自由国民社

blog「閑居六尺」より

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「邯鄲」についてのイメージをお持ちでない方も多いと思いますので、2006年の日中韓合作映画「墨攻」(酒見賢氏の歴史小説、それを原作とした森秀樹氏による歴史漫画がベース)にも邯鄲が出て来ましたのでもしかしたら覚えておられる方もおられるかも知れません。また、森秀樹氏による漫画では、虫を使った秦軍によって落とされた邯鄲城から、司路によって助けられた革離たちが理想郷を求め東へと出発する話があり、むしろこちらを読まれた方が邯鄲をよりご存じではないでしょうか?

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2000年前の戦乱の中国を描いた同名の人気コミックを映画化した歴史スペクタクル。10万の敵に囲まれた落城寸前の小国の城が、平和のために戦うという目的で助っ人にやって来た1人の“墨家”に救われる伝説の戦を壮大なスケールで描く。…中略…

ストーリー:紀元前370年頃、巷淹中(アン・ソンギ)率いる趙の10万の大軍が住民わずか4千人の梁城に攻め入ろうとしていた。梁王(ワン・チーウェン)は墨家に援軍を頼んでいたが時間切れで、降伏しようとした時に墨家の革離(アンディ・ラウ)という男がたった1人で城に到着する。彼は1本の矢で趙軍の先遣隊を退けてしまい……。

より


いずれにせよ、中国の春秋戦国時代、燕、趙、魏、秦、韓、斉、楚の七国の狭間で翻弄された邯鄲から、また、その後も続く政治変動の度に多くの民が列島を目指し辿り着いたことを思わずにはいられないのです。

無題.png

図面は『大陸西遊記』ホーム 無題.png より 下も邯鄲市

無題.png

いずれにせよ、大分市に「邯鄲」と書き「カンタン」と呼ばれる地名が存在している事は事実です。

 ただし、「地名」には戸籍がないことからいつ成立した地名なのか、その背景がどうであったのかも分かりません。かつては、別府湾も邯鄲(カンタン)湾と呼ばれた時代があったのです。

 ただ、河北省邯鄲は西域から胡人(ソグド人、後にペルシャ)の文化が入ったと言われています。

この点、百嶋先生が話されていた事ですが、菅原道真逃避行を受入れたのがこの邯鄲の人々であり、

彼らの先祖は遠く中国の邯鄲から逃れてきた人だったと言うのです。

 道真が大幡主の子であるヤタガラスの本家筋とスサノウの子ナガスネヒコの一族の本家筋の流れを汲む人であった事を知ると、奇妙な付合を感じてしまうのです。 先生の頭の中では、新羅の王子様のであるスサノウも遠くペルシャのスーサから東に移動した一族だったからです。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2024年05月03日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)1002 熊本県玉名市の木の葉とは何なのか?(中)木の葉の天子宮

ひぼろぎ逍遥(跡宮)1002 熊本県玉名市の木の葉とは何なのか?(中)木の葉の天子宮

20231115

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 今回、玉名市玉東町木の葉にルーツをお持ちの方が当会の活動に参加して頂く事になりましたので、この際中途半端に終わった同地の神社調査をやろうかと思うようになりました。

 そこで、1123日に二人で木の葉の神社を見て回ろうと思うに至りました。

 当時、リポートを書いていたのは木の葉の天子宮だけでしたので、この際、旧ひぼろぎ逍遥069 をお読み頂いても良いかなあと思い、ノスタルジックな思いだけでご紹介しておきます。

10年前はこの程度のただの探訪記でしかなかったのです。


069 玉名市玉東町木葉に新たな天子宮を発見した! 久留米地名研究会 古川 清久 20140506


天子宮、天子社、天子神社と呼ばれる謎の神社、奇妙な祠が、かなりの分布を示しています。

恐らくその分布は、九州ばかりか中京、関東地方、東北地方まで広がっているようです。

これまで、十年近くを費やし天子宮調査を行ってきましたが、現地確認への困難性から関西以西に調査を限定してきました。

将来、東日本の調査に踏み込むときが来るとは思いますが、今のところ、関西以東に関してはネット検索に留めています。

これについては、文字データだけでしたが、60本近くを古田史学の会の会報に掲載、従ってその一部を今でもネット上に見ることができるのですが、必要な画像も出ないことから今は掲載を中断しています。

いずれ、全編(全体で123本)を画像付きで配信したいと考えています。

このため、京都、岡山、但馬を含め調査を行ってきた123本で、一旦は作業を終了していました。

ところが、その後も新たな天子宮を発見したことから、昨年秋もリポートを加え、今回も追加リポートを書くことにしたものです。

と、言っても、ここでは、写真を紹介し、場所をお知らせするだけに留めます。

それは、天子宮に関しては神社関係の資料が乏しいと言うよりも、ほぼ、存在せず、現在のところ、分布の全体像を把握し、周辺の実調によって、逆に、真実に迫るしか無いのが実情だからです。

ただ、熊本県玉名地方も天子宮が集中している場所です。「肥後国誌」にも分布が集中していたことが記録されており、今回発見したものもその一部であることは疑いようがありません。

文献で確認できていたものが、現存していたことに気付いたものであり、それが、現状を紹介するに留める理由でもあるのです。

「肥後国誌」によれば、天子宮が数十社近く存在していたということについては、初期の天子宮リポート「伊倉」“天子宮は誰を祀るか?”で書いていますが、現存する天子宮、元は天子宮と呼ばれていたものは、今も、伊倉周辺(JR鹿児島本線肥後伊倉駅周辺)に数社確認できます。

今回の神社は、東町の木葉小学校付近に新たに発見したもので、付近の集落で今も管理され、年に一度お祭りが行われているようです。

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社殿こそ簡素ですが、住宅地にも近く、付近は半ば公園化されており、非常に清潔な雰囲気です。

この一帯は、加藤清正による、菊池川の流路の変更や横島干拓が行われる以前は、かなり近くまで海が入り込んでいたと思われる一帯で最も奥に位置する、当時の一等地のような場所だったようです。

それを示すかのように、今も付近には採石場の跡地が確認でき、当時は、船で石材が運ばれていたことから、船着き場も在ったことが想像できる場所であり、古代の汀線に沿って、北西に進めば、旧菊水町を経由して山鹿に入る交通の要衝でもあったような場所でもあるのです。

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参拝殿には真新しい榊が備えてあり、管理が絶えておらず、ここに古くから住み着いている人々が、菅原系の人々であることが分かるようです。

少し西の小田地区の手前には安楽寺という地名が残っており、安楽寺が太宰府天満宮の神宮寺であったことから、この地に、安楽寺系統の荘園、後の安楽寺領が存在していたことが推定でき、そのことからも地域の性格が多少とも理解できます。実は、この安楽寺領こそ、天子宮が最も集中した所であることは、「伊倉」のNO.3辺りをお読み頂ければ分かると思います。

また、直ぐ西側の集落には、熊野坐熊野神社があるなど、通常言われるところの出雲系集落があり、阿蘇氏や菊池氏や疋氏が跋扈していた場所ではない事だけは直ぐに推察できました。 

当初、天子宮は九州古代史の会におられた荒金卓也氏の説(倭王武/多利思北孤=日出る国の天子)に沿いその検証を行うために調査を行っていましたが、現在はそうではなく九州王朝の傘下に入ったヘブライ系先住者集団の奉斎する神ではないかと考えるように変わりました。

関心を持たれる方は「伊倉」“天子宮は誰を祀るか?”をネット上で検索してください。

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まだ紙面がありますのでここで木の葉=玉東町の神社を概観します。

熊本県神社誌に搭載されていない神社が在る事もご確認ください。

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上の地図を別に切り出したのには一つの理由があります。

 それは、稲佐熊野神社の「稲佐」という地名と霊雨神社には関係があるのではないかと言う事に気付いたからでした。

505 火の君の本体が見えた 熊本県八代市の霊符神社と小川町の霊符神社 20171207

以前、ひぼろぎ逍遥(跡宮)465 熊本県の興味深いエリア宇城市海東地区の霊符神社初見 に於いて火の君の中心地がこの地であり、「泉」地名も確認できるとしました。以下、一部を引用。

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これもその一つですが、「霊符神社」という奇妙な名の神社があるのです。結論から言えば八代の妙見神社の北上を考えれば符合するのですが、ここには百済の正統王族の避退を思わせる話があり、妙見と百済がそのまま繋がるとも思えない事から、尚、すっきりしないのです。まず、故)百嶋由一郎先生からは“八代の上に九州王朝の泉地区があります”という話を聴いていました。“八代の上“という表現から八代の妙見宮の上流の地区を探していたのですが、そうではなく、”八代の北“の意味で、当然、氷川流域の旧小川町、旧宮原町といった一帯で、元々、「火の君」の本拠地だったとの話もある場所なのです。

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ここで面白いと思ったのは百済の聖明王の一族の亡命の話です。これについては、過去何度かご紹介していますが、有明海の対岸、佐賀県の現白石町(旧有明町)に稲佐神社(百済の王族が祀られている)があり、この地へ火の君の世話で亡命したという話が残されているのです。それと同様の話をここでも拾ったのですからその裏を取ったような話なのです。


                   稲佐(イナサ)神社


杵島山の東麓、杵島郡白石町(旧有明町)に鎮座する神社です。        

稲佐神社は平安時代初期にはすでに祀られていました。『日本三大実録』の貞観3861)年824日の条に、「肥前国正六位上稲佐神・堤雄神・丹生神ならびに従五位下を授く」とあり、これが稲佐神社が正史に現われた最初の記録です。また、社記には「天神、女神、五十猛命をまつり、百済の聖明王とその子、阿佐太子を合祀す」と記されています。

平安時代になり、神仏習合(日本古来の「神」と外来の「仏」が融合)の思想が広まると、稲佐大明神をまつる稲佐神社の参道両側に真言寺十六坊が建立され、この一帯を「稲佐山泰平寺」と呼ぶようになりました。この泰平寺を開いたのは弘法大師(空海)であると伝えられていて、今も弘法大師の着岸した地点が「八艘帆崎」(現辺田)としてその名をとどめています。また、「真言寺十六坊」は、この地方の大小の神社の宮司の立場にあったと言われています。
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八艘帆が崎(ハスポガサキ)佐賀県白石町稲佐神社の境内地の端に残る掲示板


 ここには県道錦江〜大町線が通っているのですが、稲佐神社付近にこの地名が残っています。県道沿いの境内地と思えるところには、この八艘帆ケ崎の謂れについて書かれた掲示板が建てられています(平成四年四月吉日 大嘗祭記念 稲佐文化財委員会)。
 これによると、杵島山はかつて島であった。欽明天皇の朝命に依より百済の聖明王の王子阿佐太子が従者と共に火ノ君を頼り八艘の船でこの岬に上陸したとの伝承があるとされています(稲佐山畧縁記)。

百済の聖明王は仏教伝来にかかわる王であり、六世紀に朝鮮半島で高句麗、新羅などと闘ったとされていますが、五五四年に新羅との闘いの渦中に敵兵に討たれます。…以下省略。


八代のそれは妙見=北極星、北斗七星が信仰の対照でしたが、これも同種のものなのでしょう。一般的には旧八代郡の白木山神宮寺に鎮座した霊符神社が列島の最初のものとされていますので、これはその北への展開なのか、泉地名と火の君との関係からそれよりも遡るものなのかは今後の課題です。

私には「肥後国誌」以前が佐賀の久保泉に見えるのですが…。さてここから本稿を始めます。

太宰府地名研究会のメンバーには二人の宮原さんがおられます(また、熊本のメンバーにもお一人)。このお一人が橘一族の本流の後裔中の後裔であり、言わば橘一族の御本家の家系であることからその故地を探っていました。

それが熊本県の現氷川町(旧宮原町)であったことから「宮原誠一の神社見聞諜」の管理者である宮原誠一氏と二日間を掛けてこの一帯の神社20社余りを調査する事にしました。

氷川を挟む旧宮原町、旧小川町、旧竜北町のほぼ全ての神社を調査した事になりますが、泊地を八代市にした事から妙見神社と隣接する霊符神社にも足を延ばしました。かなり急な参道階段を上り詰めると霊符神社があります。済の聖明王の第三王子琳聖太子が伝えたのが霊符神である…とされていますが、間違いなく旧小川町の霊符神社と同様の祭祀であり、聖明王の一族を受入れたとされる火の君が如何なる人々であったのかまでも一気に垣間見えた思いがします。

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それは、肥前国、肥後国と間に筑紫国が貫入し言わば分断された二つの肥の国の支配者が、妙見宮に象徴される天御中主命=白山姫、白川伯王−豊玉彦=ヤタガラス−…遠く雲南省昆明から列島へと移動して来た白族(ペイツー)の後裔たる橘一族であった事、要するに火の君の一族とは熊本の白川という川の名までもを付した人々であり、恐らく阿蘇の熊野座神社の一族でもあること。

彼等は南朝方(宮方)として戦った事。さらに言えば、河童渡来伝承(キッパ族?)のある八代を考え、九千坊の筑後川の流域への移動(北上)が久留米の水天宮(本物の水天宮=天御中主命については宮原誠一研究が存在しますので、単に筑後川沿いの水天宮と考えない様に…)も無関係では無い事、奈良麻呂の変以降(島田丸が春日大社造営に際して何故河童を呼び寄せたのか…)の橘一族の没落と明治維新による復権など多くの事への解明の糸口が見えてきたのでした。してみると、この氷川流域の神社調査は重要過ぎるほど重要で、氷川流域一帯こそが九州王朝を支えた橘一族の元々の本願地であり、今後も絞り込んだ調査を進めたいと思うものです。

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霊符神社については、幾つかの先行ブログがありますので余裕のある方はネットから拾って下さい。

 もし、これが霊符神社であるとすれば、霊雨山神社は霊符神社である可能性が高いのです。

 REIUREIFUF音が付加されているだけですね。以下、 ウィキペディア20231117 12:56 を…


ハ行転呼(はぎょうてんこ)とは、日本語史における大きな音韻変化の一つで、語中・語尾のハ行音がワ行音へと変化した現象をいう。平安時代に起こり一般化した。このようにして成立したワ行音をハ行転呼音という。


 通説派は平安期以降と言うのですが、それは畿内こそが列島文化の中心と思い込み、主張したいだけの話で、恐らく、母音の重複は発音しにくいため子音を付加し滑らかに発音したいとの発音習慣が列島の玄関で発生しているのです。特に「稲佐」熊野坐神社の稲佐地名と佐賀県の杵島山の稲佐神社直下の掲示板を読まれたと思いますが、八代、小川、杵島についで百済系王族の亡命地が有明海沿岸に痕跡を留めている事は非常に面白い現象と思うのです。 ここでは霊雨山神社の方が原型を保っており、その後、呉音から漢音への移行が進むと、F音の転化によって霊符神社と社名を変えたのではないかと考えるのです。

 紙面が足らなくなりましたので、ここまでとします。
posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記