太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2017年09月08日

373 大分、宮崎県境の山上神社へ “大分県佐伯市宇目町の鷹鳥屋神社”

373 大分、宮崎県境の山上神社へ “大分県佐伯市宇目町の鷹鳥屋神社”

20170324

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川  清久

 降りしきる雨の中、熊本、宮崎県境の五ヶ瀬町鞍岡の祇園神社周辺で二十数名規模のトレッキングを行い、高千穂から延岡に向かい、一旦は、これまで未踏の地であった延岡市北浦町三川内の数社を見た後、一転して北に向かい豊後大野に向かいました。

 それは見ておきたい神社があったからでした。

 延岡から大分にかけての祖母山、傾山、大崩山の東の一帯は、地形が非常に険しく、人口も薄く、ほんの三十年程前まではこれでも国道かと言った離合も叶わない悪路が続く秘境中の秘境といった場所でした。

 ダムが出来たことによる付け替え道路なのでしょうが、準高速道路と言っても良いような326号線沿線は風景が一変してしまいました。

 勿論失った物もあまりにも大きく、個人的には秘境としての神秘性が失われ、地域としての魅力の一切が失われてしまいました。

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このダムの底に沈められた集落の守り神だったと思われる神社が鷹鳥屋神社です。

同社には北川ダムからの取り付け道路を10キロ近く登らなければなりません。

 車が入る道なのかどうかも分からなかったのですが、離合もままならぬ急傾斜の林道を30分ほど走ると、

真弓という数戸ほどの集落に出くわしました。

 良くも、このような僻陬の地に住み着いたものと感服もしたのですが、一体如何なる情念がこの人達をこの地に導いたのかを思わざるを得ません。

 いつか、民俗学的関心を満たすためにも再度訪れて見たいと思わざるを得ません。

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さて、真弓の集落からはそれほど遠くはありませんでした。山頂に近い鞍部にかなり広い駐車場があった事から、恐らく祭礼の日には神楽が奉納されるのでしょう。

 その駐車場からは広葉樹林の中に歩道(工事用の車両は入るでしょうが)が延びていました。

 清浄かつ神威の満ち満ちた神社ですが、鷹鳥屋と言う名からヤタガラス系の神社と考えていましたが、神紋には違い鷹羽が設えられており、表面的には阿蘇系の神社と言えそうで、逆に愕かされました。

 神秘性を留める素晴らしい神社でしたが、祭神については宮司とお会いできそうですので、ここでは中途半端な話をする事はやめておきましょう。

 いずれ、神社神名帳を入手し改めて検討したいと思います。

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違い鷹羽の神紋(左)と珍しい鷹の狛犬(右)

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:39| Comment(0) | 日記

2017年09月04日

372 花本大神をご存知ですか? “博多の櫛田神社の花本大神と豊後大野の宇田姫神社について”

372 花本大神をご存知ですか? “博多の櫛田神社の花本大神と豊後大野の宇田姫神社について”

20170220

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川  清久


 博多の祇園祭と言えば山笠と併せ知らぬ人のない大祭ですが、その裏手にひっそりと、しかし、大きな石塔(石柱)が建てられています。

 そして、そこには「花本大神」と大書されているのです。

 これに関しては、等しく判を押したかのように「松尾芭蕉」の神号であるといった話で皆さん納得されているようです。ネット検索をして頂ければ例外なくそのように解釈されているのです。

 ところが、百嶋由一郎先生だけは、「そこにはごまかしがありますね…」といったコメントを残されているのです。

 恐らく、全てをご理解だったのだと思います。

勿論、これについてはただの手書きメモが残されているだけで、それ以上の事は聴かされてはいませんが、ようやく大方の見当が付いた事から後世の研究のためにも所見を残しておこうと思うものです。

 櫛田神社を筆頭に“芭蕉の神号“といった事で納得されている分には、それはそれで結構だと思うのですが、真実の歴史、古代を探索するものとしてはあり得ない話であり、ネット上に芭蕉の神号説が如何に大量に複製されていようが、孤立した旗を高く揚げておこうと思うものです。

 きっかけは、前述のとおり、百嶋由一郎氏が残された手書きメモでした。

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この花本大神に関わる百嶋先生のメモは以前から気にしていたのですが、少し調べれば分かる事ながらなかなか思い立たずに放置していました。

ところが、大分県豊後大野の神社調査を行っていると、同市の清川町に鎮座する宇田姫神社に遭遇しました。

この神社の由緒を読んで見ると、華の本の故事が書かれており、直ぐに博多の櫛田神社の花本大神の事が頭に過ってきたのでした。

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少し込み入った話になるため、ここでは短絡する(される)ことのないように、まずは同地の宇田姫神社の祭神である宇田姫様が「華の本」と呼ばれている(いた)事だけを理解して下さい。

 さて、宇佐神宮とも覇を競った大神一族が豊後の大野郡や直入郡に蟠踞していた事は知られています。

 特に有名なのは宇佐神宮焼き討ち決行し後に処断された緒方三郎惟栄は有名です。


緒方惟栄

緒方 惟栄(おがた これよし、生没年不詳)は、平安時代末期、鎌倉時代初期の武将豊後国大野郡緒方荘(現在の大分県豊後大野市緒方地区)を領した。通称は三郎。惟義惟能とも。祖母岳大明神の神裔という大三輪伝説がある大神惟基の子孫で、臼杵惟隆の弟。

平家物語』に登場し、その出生は地元豪族の姫と蛇神の子であるなどの伝説に彩られている。

宇佐神宮の荘園であった緒方庄(おがたのしょう)の荘官であり、平家の平重盛と主従関係を結んだ。治承4年(1180年)の源頼朝挙兵後、養和元年(1181年)、臼杵氏・長野氏(ちょうのし)らと共に平家に反旗を翻し、豊後国の目代を追放した。この時、平家に叛いた九州武士の松浦党や菊池氏・阿蘇氏など広範囲に兵力を動員しているが、惟栄はその中心的勢力であった。寿永2年(1183年)に平氏が都落ちした後、筑前国の原田種直・山鹿秀遠の軍事力によって勢力を回復すると、惟栄は豊後国の国司であった藤原頼輔・頼経父子から平家追討の院宣と国宣を受け、清原氏・日田氏などの力を借りて平氏を大宰府から追い落とした。同年、荘園領主である宇佐神宮大宮司家の宇佐氏は平家方についていたためこれと対立、宇佐神宮の焼き討ちなどを行ったため、上野国沼田へ遠流の決定がされるが、平家討伐の功によって赦免され、源範頼の平家追討軍に船を提供し、葦屋浦の戦いで平家軍を打ち破った。

こうした緒方一族の寝返りによって源氏方の九州統治が進んだとされる。

また惟栄は、源義経が源頼朝に背反した際には義経に荷担し、都を落ちた義経と共に船で九州へ渡ろうとするが、嵐のために一行は離散、惟栄は捕らえられて上野国沼田へ流罪となる。このとき義経をかくまうために築城したのが岡城とされる。その後、惟栄は許されて豊後に戻り佐伯荘に住んだとも、途中病死したとも伝えられる。

ウィキペディア20170320 19:55による


男と生まれたからにはかく在らん…と思わんばかりの武人としては実に素晴らしい経歴ですが、この緒方惟栄こそ、阿蘇大蛇伝説の大神惟基の後裔にあたるのです。

 この阿蘇大蛇伝説に関わる大分県竹田市の穴森神社については別稿としますので、ここでは触れませんが、この巨大洞窟を持つ穴森神社とこの宇田姫神社の洞窟とが通じているとの伝承から、自らを祖母山の大蛇の子であり化身であるとしたのが大神惟基であり、その後裔が緒方惟栄という話になるのです。

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つまりは、祖母山の大蛇伝説に準え自らを大蛇の子孫であるとして権威付けを行うために設らえたのが宇田姫(華ノ本)であり、祖母山の大蛇が宇田姫に通い産まれたのが大神惟基であるとしたのでした。

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さて、時代は流れ流れて戦国期から江戸時代に移りますが、博多の商人として名を馳せた大賀宗九がいました。

 この一族が櫛田神社の花本大神の石塔(石柱)を寄進したのではないか(後に造り替えられた可能性はあるのですが)?と百嶋由一郎氏はお考えだったのだろうと思います。

 だからこそ「花本大神」として大神一族の「大神」(オオガ)の名がはっきりと刻まれているのです。

 勿論、大神一族の全盛期は鎌倉以前に遡ります。

 しかし、歴史の波に呑まれ権勢を奪われ処断されるのですが、それに併せて元々存在していた「花本大神」は豊後の大神一族とは無関係であるとする必要性に駆られ、何時しか松尾芭蕉の神号との話に変えられたものと思われるのです。とにかく宇佐神宮焼き討ちをやった連中の後裔かも知れないのですから。

 本来は、このような背景を考察し深層を探る事こそが本来の歴史探究の作業であり、研究者の責務であるはずなのですが、村興し町興しから果ては西洋基準に踊らされた世界遺産登録だかに狂奔する文化的荒廃の元では真相は一向に見えて来る事はないのです。まあ、無様なものです。


大賀 宗九

大賀 宗九(おおが そうく、永禄4年(1561年) - 寛永7513日(1630623日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての博多商人。島井宗室・神屋宗湛とともに「博多の三傑」と呼ばれる。名は信好(のぶよし)。子孫は代々福岡藩黒田家の国元御用商人をつとめた。子の二代目は、茶人でもあった大賀宗伯。…中略…

大賀家は元々、大神氏の姓を名乗る豊後国の武士で、大友氏に仕えていた。父を早く失い、貧困に苦しんでいたが、主家の滅亡とともに武器商人に転身し、慶長から元和年間にかけて海外貿易を行なうようになった。この頃、中国人の助言により大賀に改名した。そして、長崎から明に渡り、20年以上海外で暮らし、巨万の富を得る。

のち大賀家は博多商人の筆頭町人となり、江戸時代を通じて博多部の管理を任され幕末まで続いた。家業は金融業を主とし(金貸し)で財をなした。大名貸しでは肥後細川藩、高鍋藩秋月家などに行っている。 博多商人の家格においては『大賀格』が基準とされる。(博多部は商人のみの街であり、武家が屋敷を持ったり住む事は無く、あくまで武家は福岡側に屋敷地を与えられた)大賀家自体は幕末明治を乗り越え、現在は福岡市で不動産業等を営んでいる。

ウィキペディア20170320 20:33による


 “大賀家は元々、大神氏の姓を名乗る豊後国の武士で、大友氏に仕えていた。”も正しいかどうかは今後の課題ですが、しかし、実は話はこれにとどまらないようなのです。

それは、宇田姫神社の祭神が本当に大神惟基を宿した「華の本」こと宇田姫だったのか?という問題は残るのです。そして、宇田姫神社の神額には「宇田社」とあります。

百嶋神社考古学では、大国主命と市杵島姫命との間に産れた下照姫こそ本来の「花本」であり、それを自らの権威付けのために大蛇伝説と絡め出自としたものこそ大神一族の「華本姫」の正体のようなのです。

 そして、その下照姫こそ百嶋由一郎神社考古学におけるウガヤフキアエズのお妃のお一人なのです。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 23:44| Comment(0) | 日記

2017年09月02日

371 蘇民将来 巨旦将来と百嶋神代系譜 C 宮崎県五ヶ瀬町鞍岡の祇園神社の更に深部へ

371 蘇民将来 巨旦将来と百嶋神代系譜 C 宮崎県五ヶ瀬町鞍岡の祇園神社の更に深部へ

20170214

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川  清久


 このところ宮崎県五ヶ瀬町鞍岡の祇園神社を何度も訪れ考え続けていますが、また、新たな問題を意識するようになりました。

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跡宮370 蘇民将来 巨旦将来と百嶋神代系譜 B 分離先行トレッキング において、何故、大山祗が、また、妙見社(アメノミナカヌシ)、冠八面大明神(クラオカミ)、権現神社(大幡主+クマノフスミ=イザナミ+ヤタガラス)という狗奴国系=匈奴系と大幡主(白族)系の神々が境内摂社として神殿には入れられていないのか?若しくは神殿から排除されているのかを考えていました。

 明治政府の廃仏毀釈と修験道廃止令によって修験道は姿を消しました(息の根を止められました)。

 まず幕藩体制を下から支えていた寺院勢力への優遇が消されるとともに、直後に起こった神仏分離への動きは神仏混合の神々を純化する事を口実に、パルチザン戦争さえも引き起こしかねない山岳修験の勢力も注意深く除去されたのですが、この大山祗の排除が朝敵の熊襲の除去、そして熊野系の排除が神仏分離による除去と考えれば、この現象も明治維新を契機に高々百数十年前に起こった事なのかも知れません。

 由緒に依れば、まず、神殿にはスサノウ、大国主、イザナミ、そして、奇稲田姫、五瀬命…(蘇民将来 巨旦将来は阿蘇系というか耳族=黎族=多氏ですのでここでは無視できます)と、金山彦系の瀛氏が残されている事に気付きます。

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さらに、この一帯には天狗の影も付き纏います。そもそも天狗には外来民族の気配が付き纏いますが、祇園神社にもその影が宿しています。


秋祭りにも「ヤンボシ踊り」や「山伏問答」などの山伏伝承があり、地名も「ヤンボシ」、「ヤンボシ塚」や山伏の象徴とされる天狗を祀った冠岳、奥儀(巻物)をご神体とする天狗神社など、山伏を彷彿とさせるところが随所に見られます。

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そして、この五ヶ瀬町一帯にも鉱山があったことが想像できるのです。


•三ヶ所鉱山(さんがしょ)

【廻淵】…銅・亜鉛・黄鉄鉱(明治時代中期〜1953年閉山)日窒鉱業(株)-西臼杵郡五ヶ瀬町

•荒谷鉱山…マンガン(1940年代〜閉山)-西臼杵郡五ヶ瀬町

•大祇鉱山…マンガン(1940年代〜閉山)-西臼杵郡五ヶ瀬町

日本の鉱山一覧

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/02/26 15:12 UTC )

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そこまで考えてくると、また新たなイメージが湧いて来ました。それは、祇園神社の傍に丁子(チョウジ)という集落があることに以前から気付ききになっていたのでしたが、多少ともその意味が分かってきたのでした。

 まず、「丁子」が何かをご存じない方が多いと思うので説明しておきましょう。


クローブ(英語: Clove)は、フトモモ科の植物チョウジノキ(Syzygium aromaticumsyn. Eugenia aromatica)の開花前の花蕾を乾燥させた香辛料の名。

原産地はインドネシアのモルッカ群島。日本では漢名に従って丁子、丁字(ちょうじ)、丁香(ちょうこう)とも呼ばれる。

クローブの花蕾は釘に似た形をしているため、中国では「釘」と同義の「丁」の字を使って「丁香」、「丁子」の名があてられ、フランス語では釘を意味する Clou と呼ばれ、英語の Clove もこれを語源とする。

非常に強い香気を持っているので、百里香という別名もある。

ウィキペディア20170315 0908 による

丁子紋
モルッカ原産の薬味や漢方薬の原材料、
日本には中国から伝来、その香と高貴性が尊ばれた。

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 インドネシアモルッカ群島原産のフトモモ科の植物でクローブのこと、ユーカリやグアバと同種の植物である。クローブの花蕾は釘に似た形をしているため、中国では「釘」と同義の「丁」の字を使って「丁香」「丁子」の名があてられた。
 非常に強い香気を持っているので百里香という別名があり、インドや中国では紀元前から殺菌・消毒剤に使われていた。また薬味や生薬の原材料でもあり、漢方薬では花蕾を公丁香と称し、果実を母丁香と称して医療に用いた。日本にもかなり古くから伝来していたようで、 正倉院の宝物のなかにも当時輸入され
た丁子がある。中世の貴族は花蕾を干して香料にし、薬としても役立てていたようだ。また、丁子は高貴薬で香料であったことから、七宝のひとつにも数えられている。
 無題.png図案化され紋章となったのは花蕾の公丁香であった。丁子が家紋に用いられるようになった理由は明確ではないが、貴重な輸入品であったこと、七宝に数えられていたこと、むかし行灯の燈芯が丁子形になると福徳入来の前兆として喜ばれたことなどから、紋章としても人気が出ていったようだ。丁子はときに丁字と書くこともあり、「十字の間違いかな?」とか「沈丁花のこと?」と勘違いするひともある。また、紋章の図柄を見て「大根の一種?」と間違うひともある。


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この丁子紋については、これまでにも古代史関係、神社調査の中で何度か出くわしてきました。

 そして、この家紋を使う人々には地域の有力氏族が多い事にも気付いていました。

 ただ、国際貿易とか外洋航路といった事との繋がりが凡そ認められない脊梁山地の麓の地域にどうして丁子紋をシンボルとする人々の痕跡があるのかはいまだ不明です。

 ここから先はただの引き延ばした仮説のそのまた仮説のような話でしかないのですが、瀛氏の金山彦と白族の大幡主の妹神にあたる埴安姫との間に産れたスサノウのお妃の櫛稲田姫(クシナダヒメ)から考えて見ましょう(この祇園神社では「奇稲田神」と…)。

「名字と家紋」氏も “紋章の図柄を見て「大根の一種?」と間違うひともある。”と書かれている様に、もしかしたら「違い剣」紋の使用を禁じられた氏族が抱き丁子を使用しているのではないかと言う考えです。

まず、博多の櫛田神社と佐賀県神埼市の櫛田神社を同一のものとして考える事は全くの誤りになります。

博多の櫛田神社とは櫛稲田姫の母神である埴安姫=大幡主系の妹の系統つまり大幡主系氏族を祀る神社であり、神埼市の櫛田神社とは櫛稲田姫の父神である金山彦の系統を祀る神社になるのです。

 もうお分かりでしょう。神埼の櫛田神社の神紋とは金山彦の神紋の一つのはずなのです。

 この問題についてはいずれ詳しく取り上げる事にしますのでここまでとしておきます。

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櫛田宮 カーナビ検索 佐賀県神埼市神埼町神埼419番地1 (神埼市庁舎隣)

実は先年亡くなった高倉 健も丸に抱き丁子紋の家らしいのですが、丁子紋とは本家以外は禁止された氏族の使う紋であり、丁子という地名に至っては、それを強要された人々の住む土地だったのかも知れません。

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思えば、平家の全盛期、神埼の荘は平氏の最大の貿易拠点だったのです。

ここでモルッカ原産の「丁子」が入手できなかったとは凡そ考えられないのですが、それで繋がりが発見できるかは今後の課題です。

神埼は平安後期には「神埼荘」と呼ばれる皇室領だった。忠盛は鳥羽上皇の信任が厚く、神埼荘の管理に当たっていた。神埼は日宋貿易の拠点で、忠盛は宋からの貿易品を大宰府に納めず、神埼荘で横取りしていたという話もある◆清盛は忠盛の死後、大宰府の大弐(だいに)官となって宋との交易を独占する。平治の乱の年には、肥前でも反乱が起き、鎮圧した清盛には杵島郡の大功田(たいこうでん)が与えられた。

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祇園神社の入口に置かれた由緒

 これまであまり気にしていなかった同社由緒でしたが、ここに来て再度考え直す事にしてみました。

 縁起自体に欽明が出てくることからして相当に古い神社である事は間違いないのですが、「冠八面大明神(闇龗神)正五位下の神階奉授の古い神社である」との記述から見て、この闇龗神が何故神殿に祀られていないのかは非常に奇妙です。

 さらに凄いのは「曽男神(素戔嗚尊)並びに冠八面大明神(闇龗神)正五位下の神階奉授の古い神社である」としている事です。

 まず、「曽男」の意味ですが、普通に考えれば熊襲の男という事になりそうです。

 勿論、スサノウはイザナギとイザナミの間に産れた新羅の王子様なのですが、そもそも、「多婆那国」とは熊本県玉名市ではないかとして、半島の学者も調査に入って来ていると聴いています。

 とすると、スサノウも「曽男」との表現は理解できるかも知れません。

もう一つの可能性は、蘇我、曽我、曾我…とは、金山彦(イスラエル)系の人々が住む地名との話を聴いており、「曽男」とはその意味なのかもしれません。

何故ならば、スサノウの母神であるイザナミは金山彦の妹神でもあるからです。


多婆那国とはいずこに

「多婆那国」とは、「三國史記」卷第一 新羅本紀第一 脱解尼師今の段に出てくる「脱解本多婆那國所生也 其國在倭國東北一千里」にある国名で、倭國はどこにあったかは分からないとは言え、日本の学者は元より朝鮮半島の学者も現在の「日本国」と解しているようである。日本()人が新羅の王とは娘婿(新羅第二代王南解次次雄の長女の夫という)とは言え穏やかならざることだが、当時の新羅は韓人と倭人が入り乱れていたようであり、韓人の勢力が強いときは韓人が王となり、倭人が優勢になると倭人が王となっていたようである。したがって、王家も三家(朴・昔・金)あったと言う。そのうち昔(ソク)氏が日系の王家で八名が王位に就いた。昔(ソク)姓は朝鮮半島でも珍しい姓のようだが、「三国遺事」によると箱が流れ着いたときに鵲(カササギ)がそばにいたことから鵲の字を略して「昔」を姓としたと言う。

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今回は思いっきり引っ張った話になりましたので、甘い仮説としてあまり真面目に考えないで下さい。

 ただ、このような思考の冒険の延長上に深層に辿り着ける場合もあるのです。


 あまり公開していない百嶋神代系譜から半島との古代を考え下さい。

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研究のために、百嶋由一郎音声データ、手書きデータ、神代系譜を必要とされる方は、随時090062983254まで直接ご連絡ください。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:34| Comment(0) | 日記