ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1135(後) 宇佐市 駅館川河口の川上神社は和歌山の丹生川上神社だった!
“不思議なまでの集中を見せる金屋の南姓はやはり八咫烏(橘一族)の末裔だった”
20260107
太宰府地名研究会(編集員) 古川 清久
黄色い円内に橘紋がはっきり写り込んでいますね、金屋の庄屋であった南一郎平の一族が橘一族と分かります。こうして、これまで6〜7年間に亘って悩んでいた謎が解けたのでした。
橘の家紋を使う(許される)一族は、造化三神と呼ばれ天地開闢の神の神産巣日神(カミムスビ)で、具体的には博多の櫛田神社の大幡主から讃岐〜阿波〜更に紀州に展開した忌部であり、幕末まで生き延びた天皇家の宮廷祭事司る白川伯王家とも重なる天皇家の重要な外戚でもあった一族です。
その直系の実子が豊玉彦、豊国主(大分は明らかに豊の国ですね)、八咫烏…など二十も三十も多くの呼び名を持つ最重要氏族の末裔なのです。この一族が魏の皇帝に送った遣いが難升米なのですから。大分の方には馴染みのある話ですが、国東半島の「奈多神社」(みかん=橘、トキジクのかくのみを取りに行った田道守)ここに半島から姫島を経由し同社に移動して来たアカル姫の話が残っていますね、福岡市東区の奈多宮とも重なり、正しくカミムスビ系の根拠地が駅館川河口の金屋地区にも展開していた事が分かるのです。
当然にも、橘諸兄、橘奈良麻呂、県犬養三千代…は知られていますが、奈良時代後期、757年(天平宝字元年)に勃発した、藤原仲麻呂の専横を打倒しようとするも失敗し、橘奈良麻呂の変以降の橘氏は源平藤橘でも、中級以下の貴族として地方の豪族として零落していったのでした。あまり知られてはいなのですが(勿論、歴史の背後というか底流で動いているため)、実際には、伊勢を根拠地に、八咫烏の後裔氏族が石清水八幡宮を軸に関東武士団を纏め貴族化した藤原氏(阿蘇氏、多氏)を抑え込み、鎌倉幕府、室町幕府から戦国期を経て徳川政権まで続く武家の支配を打ち立て政権の背後で復活しているのです。
ここで、橘氏について分かり易い話を一つご紹介しますが、柑橘類の一つにスダチとカボスが在りますが、これも京都の下賀茂神社の賀茂族=加茂族=橘氏が運んできたトキジクの実の一つなのです。それは、スダチとは酢 橘で、カボスは鴨族、加茂族が持ち込んだ酢の意味なのです。
カボスはカモスの意味でM音とB音の入れ替わり現象は、日本語の呉音と漢音の問題で、烏帽子をカブル、カムル、目(メ、マ)を瞑(ツブル)る、瞑(ツムル)が同様である事でもお分かり頂けるでしょう。
改めて南一郎平(改名尚=久)に敬礼!私には、難升米に通じる尚(ショウ)を選んだようにも思えるのです。では、まだ紙面に余裕がありますので、一般的には殆ど知られていない古代の外交通史の話をして見たいと思います。
大夫 AIによる概要
239年に卑弥呼が魏に遣いを送ったとき、皇帝から与えられた称号
卑弥呼は、中国の魏(ぎ)に239年(景初2年)に使者を送り、大夫の難升米(なしめ)らを派遣しました。これに対し魏の皇帝は、卑弥呼に「親魏倭王(しんぎわおう)」の称号と金印、銅鏡などを授け、倭国との関係を正式に認めました。これは、倭国の統一と地位向上を図るための外交戦略でした。
この大夫の意味は今や吉原の高級花魁としてしか知られていませんが、本来は中国の官位で、日本では律令制下の五位以上の高官を指しているのです。
周王朝における大夫 AIによる概要
周王朝における「大夫(たいふ)」とは、封建制の下で諸侯に仕える家臣階層の一つで、卿(けい)の下、士(し)の上に位置する小領主・役職者を指し、周王や諸侯から領地を与えられ、国政に参加する貴族層でした。彼らは領地を持ち、武力や政治力で実権を握ることもあり、春秋時代以降には実権が有力な大夫の手に移り、士の階層が台頭するなど、身分制度は変遷していきました。
これらの事からも分かるのは、倭人は呉の太白の後とか裔…と言われる様に、春秋戦国の呉国(つまり呉越同舟の呉…直接には自決した夫差の末裔が列島への逃亡した人々、若しくはそれに協力を依頼された一族)だから周の大夫を名乗っているのです(現段階では後者を想定していますが)。
当然ながら当時、上海は海の底で存在しませんので、蘇州から舟山列島を経て列島へと入った呉の末裔の外交官として入った難 升米の末裔が南姓を名乗っているのではないかと考えているのです。
当然、渡洋航海できる船を操ることが出来、尚も、天文、地理、暦、言語に通じた優秀な人物が送り込まれている事は間違いが無く、元々は博多の那の津辺りから建国間もない魏に答礼朝貢しているのです。
ただ、その博多に拠点を置いていた想定九州王朝の八咫烏が活躍した時代から500年は降る時代になると(具体的には7世紀の半ば以降の白村江の大敗北以降)、宗像を本拠地としていた天武の父と天武帝は、無抵抗に本拠地を奈良に移します(佃収説)。その後阿蘇氏をルーツとする藤原氏による天智系に皇統が替わるに至ると、この八咫烏の後裔氏族は瀬戸内海航路(宇佐と浪速)に対応し、本拠地を移しているのです。その大阪の浪速高津の宮の手前にもう一つの拠点を置き、船倉に大量の穀物を積載し東に運んで行ったはずなのです。当然、密封空間では発酵が始まるのですが、分離し塩を加え、また、発酵を留めるなどの工程を加えます。
一部を酒なり醤油(当時はまだ醪=モロミでしょうが)なり、味噌なりに分離する必要が生じ、神戸の東灘区辺りに分離するための工場、作業場が必要になったはずなのです。これが、廻船業者というか古代には輸出入業者にとっては非常に重要な要請だったのです。
ここも、東に移動した奈多であり、博多の那の津なのです。そこまで解れば、何故、灘の生一本の多くの醸造業者が資金を注ぎ込み、灘高校(灘中学校・高等学校)=兵庫県神戸市東灘区にある日本最高水準の男子進学校として知られる私立中高一貫校が創られたのかまでが分かって来るのではないかと思うのです。
因みに、この灘高校を創ったものこそ柔道の講道館で知られる嘉納治五郎の一族を中心とする人々であり、宇佐の金屋とも通底しているはずなのです。
彼は、灘の生一本でも良く知られる菊正宗酒造の一族で治五郎まで作られているのです。
これまで、列島の歴史は開国と鎖国を繰り返してきました。江戸時代の鎖国は良くしられていますが、遣唐使の廃止も含め、鎌倉政権の元寇期には元(実質は朝鮮人と江南軍は福建の反漢族)と直接対決していますし、豊臣政権期は対外開放と言うより対外進出さえも行っています。
このように国際情勢の変化により対外政策は一定であった訳ではないのです。
このように渡洋航海もできる人々とは、時に自国の政権の政策と衝突する事も多々生じるのです。
最近は忘れられていますが、江戸期にアユタヤに進出した山田長政なども衝突した人物の一人でしょうか…。
こうして、貿易業者とか現代では大手商社といったものは、時の政権とか海外勢力からの圧力には敏感なのです。このため時の権力から独立した優秀な若者を自前で養成し、必要な時には何時でもそのネット・ワークを擁して自らの要望を実現しようとしてきたのです。
ある意味で、大隈重信の早稲田もそのような意図を感じますし、福沢諭吉の慶応も上智(これは悪魔のイエズス会系ですので要注意ですが)も同様でしょう。
当然にも異論どころか非難も有ろうかと思いますが、私にはそう見えるのです。
そうです、灘の生一本も恐らく八咫烏系の橘一族の人々であり、全国に廻船業の拠点としての港(湊)を置き、正面の海を灘と呼んでいたのでした。
以前、海上保安庁の把握している「灘」地名を調べたことがありましたが、鹿島灘、相模灘、遠州灘、熊野灘、播磨灘、備後灘、燧灘、安芸灘、周防灘、伊予灘、響灘、玄界灘、天草灘、日向灘と列島全域に灘地名があり、何故、灘と呼ばれ、湊と表記されるかが見えて来るのです。
つまり、当時も列島全体がこの一族の商圏に成っている事が分かるのです。
ではここで、川上神社の分布を見てみましょう。ここで注意を要するのは、当方は、淀姫神社がかなり川上神社と呼ばれている事を承知している事から、どうも社名も九州では川上神社という名称が規制されている様にも見えるのです。事実、当の宇佐の川上神社は牛頭天皇社とされていますし、名護屋の川上神社が牛頭天皇社とも呼ばれている事が気になっています。
多くの九州の川上神社が、最も重要な和歌山の丹生川上神社(上、中、下社)と繋がっている事が今は良く判るのです。

では、関西では良く知られている丹生川上神社(中社)を軸にご紹介しておきましょう。

重複にはなるのですが、話を換えて、特攻基地でもあった宇佐空こと柳ヶ浦の海軍航空隊の正面に、酒造業者、味噌製造業者、醤油醸造業者の建物が残っている事と、船を使う廻船業者と醸造業者の事をお話ししたいと思います。ここで紙面が尽きました。詳しい川上神社の分布は前掲のバック・ナンバーを、また、今後各予定の続編もお読み頂きたいと思います。


にお読み頂き有難いと思っています。



内しようと考えその後に参拝することにしたのですが、同社の地番が分からず迷ってしまいました。私は半ば諦めてしまいました。ただ同行の女性は熱心で、郵便局で聴いた場所を少し探した後、直ぐに南尚神社を見つけ出したのでした。この同行者のおかげで辿り着くことが出来たのでした。私だけではこの幸遇を掴めたかどうか分かりません。やはり神社調査は大人数ではできませんができるだけ複眼で行うべきで、少し驚いています。やはり調査は複数で行う方が相乗性を増すのです。少し大げさな表現をしますが、その後想定を裏付ける事実に驚愕したのです。前置きが長くなりましたが、それが左の祠でした。
橘紋









当然にも、阿蘇氏に取り入り日田代官職を得たのですから
に大蔵氏が胡麻を摺ったのか、阿蘇氏主導で従っただけなのかは分かりませんが、どちらにせよ大して差は無いはずです。
その最後らしい漢族も、とうとう列島に亡命しているのです。














![image[2].png](http://chimei.sakura.ne.jp/sblo_files/hiborogi/image/image5B25D.png)