2025年04月01日

ビアヘロ244(後) 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る(実踏編)⓯ 続山梨県 若宮八幡神社(追補)

ビアヘロ244(後) 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る(実踏編)⓯ 山梨県 若宮八幡神社(追補)


20221005

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

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再掲 超細密金神系譜(部分)


十年秋七月丙戌朔己酉、詔群卿曰「導民之本、在於教化也。今既禮~祇、災害皆耗。然遠荒人等、猶不受正朔、是未習王化耳。其選群卿、遣于四方、令知朕憲。」九月丙戌朔甲午、以命遣北陸武渟川別遣東海吉備津遣西道丹波道主命遣丹波。因以詔之曰「若有不受教者、乃舉兵伐之。」既而共授印綬爲將軍。壬子、、到於和珥坂上、時有少女、歌之曰…

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九州王朝論者でも私達の様な過激な論者の内部では、この四道将軍も九州王朝が直接九州から(もしくは九州王朝の植民領域から)派遣したものと考えています。

百嶋由一郎氏は、藤原によって第十代とされた贈)崇神も、実は九州王朝の正統皇統第九代開化天皇=高良玉垂命のはるかに年長の臣下でしかなかったとされていました。

勿論、それを天皇に格上したのは藤原がその流れから出ている事、その勢力を傘下として取り込むためのものであったからであり、当然、四道将軍も九州から直接派遣された可能性が高いと考えているのです。

さて、大彦は第9代開化天皇(高良玉垂命)と同様、第8代孝元天皇の子であり、いわば年かさで腹違いの兄弟になるのです。

 さらに言えば、福津市の宮地嶽神社の数代前までの歴代の宮司家は阿部家であり、それは近畿大和朝廷成立後の奥州安倍氏の滅亡後に送り込まれた安部の宗任、貞任(実は貞任の末子が許された宗任の一族として九州に戻ってきている)の一族が九州北岸の海人族の頭目として崇められ宮地嶽神社の宮司家として復帰していたと考えられるのです。

 恐らく宮地嶽神社のお膝元の津屋崎を起点に、九州王朝の植民国家として丹波、吉備、北陸、東海(舞鶴、敦賀から東海へ)と進出した一派に大彦(珍彦=ウヅヒコ)に同行し北陸から甲斐にまで進出した人々がいた可能性を考えているのです。

 後に贈)崇神の息子である豊城入(ニュウ)彦も埼玉など北関東(上毛野君や下毛野君は豊城入彦の後裔)に進出している形跡があるのですが、これも九州王朝の臣下として崇神の一族が展開したと考えています。

 まぼろしの九州王朝宮廷舞を継承するとする宮地嶽神社と、武田氏との濃厚な関係を見せるぶどう寺大善寺とが等しく三階松の神紋を掲げているという事実を考える時、両者を繋ぐものは、この九州王朝が派遣した四道将軍の大彦の北陸から甲州への展開としか思えないのです。

 そこまで考えてくると、冒頭に掲げた国宝薬師堂の最頂部に掲げられた神紋の意味も多少異なった意味合いを持っている事が見えて来ました。

 門光(唐花)を守るかのようにあしらわれた三階松は、武田氏を支える三枝氏を意味しており、傍系とは言え、武田氏も九州王朝の一族であり、その臣下の実働部隊として三枝氏のスクラムを意味している事が分かるのです。

では、武田氏の家紋を考えて見ましょう。言うまでもなく武田氏の家紋は四割菱とされています。

一般的に戦国武将の家紋は、戦闘用の旗指物として増産する必要と遠方からも判別できる必要性があることから簡素化される傾向がありますが、実は四割菱ばかりではなく、花菱(門光)も使用しているのです。

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武田氏の家紋は有名な「割菱」すなわち「武田菱」である。武田氏の専用なので、武田菱の名が起こった。しかし、このほかに「花菱」も用いた。多くは、裏紋または控え紋として花菱を用いたが、女性などはやさしさを表わすために花菱を多用した。しかし、この花菱も菱形を花の文様に転化させたもので、根本は変わらない。すなわち、武田氏はいずれにしても「菱」紋で代表される。
 紋のいわれはさまざまに言いなされているが、かなり古くから用いられたことは間違いない。菱それ自身は、正倉院の御物の裂にもあるが、武田氏がこれを紋として用いたとおぼしき証拠が残っている。それは、塩山市にある菅田神社の「楯無の鎧」にこの紋が付けられている。この鎧は平安時代に作とみられるが、これに割菱も花菱もともに付いている。これが家紋とは断定できないが、武田家の重宝に付けられていることは重要な意味がある。この時代から、菱文様は武田氏と密着していたことは窺われる。
 これについて『見聞諸家紋』には、武田氏の紋に対して

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頼義男新羅三郎義光の末孫也。従四位下。伊予守鎮守府将軍。童名千手丸。永承五年。後冷泉院依勅。奥州安倍頼時攻。是時詣住吉社。新平復夷賊。干時有神託。賜旗一流。鎧一領。昔神功皇后征三韓用也。神功皇后鎧脇楯者。住吉之御子香良大明神之鎧袖也。此裙之紋。割菱也。三韓皈国後。鎮座於摂津国住吉。以奉納干寳殿矣。今依霊神之感応。干源頼義賜之。可謂希代也。頼義三男新羅三郎義光雖為季子。依父鐘愛伝之。即旗楯無是也。旗者白地無紋。鎧有松皮菱。故義光末裔当家為紋。 と記されている。
 すなわち「この鎧は住吉神社の神託で、武田氏が拝領した、それに菱文様が付いているのだから、これは家紋とみてよい」というものである。…

 特に「多くは、裏紋または控え紋として花菱を用いたが、女性などはやさしさを表わすために花菱を多用した。」と書かれている部分には関心を持っています。

俗に女流家紋とか裏紋と言われるものですが、もしも、百嶋由一郎氏が残したメモの通り、孝元天皇の皇別氏族としての大彦が武田氏の祖とすれば、この一族が近畿大和朝廷などの後裔ではないはずで、何故なら学会通説は欠史8代として近畿一帯には何らの痕跡もないことから(そんなものある訳がないのです。何故なら、七世紀以前の近畿大和は、主要な古代史の舞台では全くないからです)崇神以前は全て架空のものとしたのですから。

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門光が九州王朝の正統皇統を示すものであることを知っている方にしか分かっていただけないのですが、故)百嶋由一郎氏からは、通常、久留米の高良大社表掲げられている左三つ巴の住吉の神紋と木瓜(モッコウ)紋は、臣下の神紋で本来の九州王朝正統皇統の神紋ではなく“本物の神紋は内部に隠されています…”と聞かされていました。

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ただ、四割菱は承知していましたが、当時は(と言うより近年まで)、武田氏の神紋が門光とは理解しておらず、その分対応が遅れたのでした。

してみると、ひぼろぎ逍遥(跡宮)345 勝沼にも高良神社があった “山梨市の大井俣窪八幡神社”

で書いた、甲州市勝沼から直ぐの山梨市に八幡神社にかなり大きな高良神社と若宮神社が摂社として置かれている事も、第8代孝元天皇の大彦の一族が甲斐に進出している事を考えればすんなりと理解できるのでした。

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最後に、百嶋メモに書かれていた敢國(アヘクニ)神社を敬愛する「玄松子」氏のサイトからご覧頂くことにしましょう。

 敢國(アヘクニ)神社の敢(アヘ)が九州王朝、孝元天皇の大彦の後裔の阿部氏の(アベ、アヘ)に通底している事がお分かり頂けたのではないでしょうか?


敢國神社 三重県伊賀市一之宮877


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御祭神 大彦命 少彦名命 金山媛命 配祀 九所社 六所社


「敢國」と書いて、「あへくに」と読む。阿拝郡に居住した、阿閉氏が祀ったと考えられ、祭神は、その祖神・大彦命孝元天皇の皇子・大彦命は、阿部臣・膳臣・阿閉臣・狭狭城山君・筑紫国造・越国造・伊賀臣の祖。阿閉臣は、大彦命の子・大稲輿命の子孫。当社の北1Kmには、大彦命の墓と言われる御墓山古墳がある。境内社の祭神は、以下の通り。

大石社 不詳一座・須佐之男命・金山比古命・大日孁貴命・大山祇命 神明社 天照大御神

子授け神 祭神不詳 若宮八幡宮 仁徳天皇 楠社 楠正成・藤堂元甫結社 高皇産霊尊・手間天神

市杵島姫社 市杵島姫命 六所社 伊弉諾尊・伊弉册尊・日神・月神・蛭児・素盞嗚尊

九所社 祭神不詳 南宮山山上 境外社・浅間社 木華開耶姫命     敬愛する「玄松子」氏による

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こうして、ぶどう寺の三階松紋(孝霊、孝玄、開化)、花菱=門光(「高良玉垂宮神秘書」では門光)=唐花紋が武田信玄の建てた韮山の武田八幡宮の神殿脇殿に打たれていた唐花紋に端を発した武田信玄九州王朝後裔説は何とか解決が着きました。結局、五年前のぶどう寺探査の中間報告の延長上に武田信玄の一族が位置していた事が分かったのでした。つまり、開化天皇と神功皇后との長子仁徳(九州王朝のシンボル)を義理の兄弟である大彦=新羅三郎の一族(大彦は新羅から入っています)が奉斎したのでした。


百嶋由一郎が残した神代系譜、講演録音声CD、手書きデータスキャニングDVDを必要な方は09062983254まで

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2025年03月31日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A 1060坂本命は四道将軍に繋がるのか? ❷

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A 1060坂本命は四道将軍に繋がるのか? 

20240731

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


では、ウィキペディアの記事を個別、具体的に検証していきましょう。四道将軍 20250206 10:42による


四道将軍 四道将軍(しどうしょうぐん、古訓:よつのみちのいくさのきみ)は、『日本書紀』に登場する皇族(王族)の将軍で、大彦命(おおびこのみこと)、武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)、吉備津彦命(きびつひこのみこと)、丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)の4人を指す。[1]

『日本書紀』によると、崇神天皇10年にそれぞれ、北陸、東海、西道、丹波に派遣された。なお、この時期の「丹波国」は、後の令制国のうち丹波国、丹後国、但馬国を指す教えを受けない者があれば兵を挙げて伐つようにと将軍の印綬を授けられ[1]、翌崇神天皇11年、地方の敵を帰順させて凱旋したとされている[2]。なお、崇神天皇は3世紀から4世紀の人物とされている[3][4]。『古事記』では崇神天皇の章に、大毘古命を高志道(こしのみち)に、建沼河別命を「東の方十二道」に、日子坐王(ひこいますのみこ、日本書紀では彦坐王)を旦波国にそれぞれ遣わしたとの記載がある。また、崇神天皇の3代前である孝霊天皇の章に、大吉備津日子命(吉備津彦命)と若日子建吉備津日子命(日本書紀では稚武彦命)の2柱が「針間を道の口として吉備国を言向け和し」た、とある。四道将軍の名称は記載されていない。また、『常陸国風土記』では武渟川別が丹後国風土記』では丹波道主命の父である彦坐王が記述されている。四道将軍の説話は単なる神話ではなく、豊城入彦命の派遣やヤマトタケル伝説などとも関連する王族による国家平定説話の一部であり、初期ヤマト王権による支配権が地方へ伸展する様子を示唆しているとする見解がある。事実その平定ルートは、4世紀の前方後円墳の伝播地域とほぼ重なっている。


大毘古命を高志道(こしのみち)は、何度も取り上げて来た安部氏と考えられます。

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百嶋由一郎俗称金神系譜(部分)


 武内宿祢の兄になる大彦=第9代開化天皇=九州王朝の高良玉垂命の腹違いの兄(年嵩)が新潟〜東北に派遣され、その末裔が安部貞任、宗任の一族となっているのです。


阿倍氏(読み)あべうじ

改訂新版 世界大百科事典「阿倍氏」の意味・わかりやすい解説

阿倍氏 (あべうじ)

古代の豪族安倍とも記す。発祥地は大和国十市郡安倍(現,奈良県桜井市)であろう。《日本書紀》では孝元天皇の皇子大彦命を祖とし,古事記》では大彦命の子建沼河別(たけぬなかわけ)命を祖とする。阿倍氏が政界に姿をあらわすのは,宣化天皇のとき,大臣蘇我稲目らの下で大夫(まえつぎみ)(大臣や大連に次ぐ地位)に任ぜられた阿倍大麻呂が最初である。大化改新の際には阿倍倉梯麻呂くらはしまろ)は左大臣に任ぜられたが,それは彼が政界の長老であり,またその女小足媛(おたらしひめ)が孝徳天皇の妃となっていたためであろうといわれる。斉明朝には越(こし)国守阿倍比羅夫が東北の日本海方面の蝦夷を征し,また粛慎(みしはせ)を討つなど北陸・東北方面に注目すべき活動を示している。元来阿倍氏が早くより北陸や方面に勢力を張っていたことは,同氏を伴造(とものみやつこ)とする丈部(はせつかべ)がこの方面に多く分布することからも察せられるが,伝承の上でも大彦命と建沼河別命は崇神天皇のとき,四道将軍としてそれぞれ北陸と東海方面へ派遣されており,また崇峻天皇のとき,阿倍臣(欠名)は北陸道に遣わされたという。阿倍氏は684年(天武13朝臣(あそん)の姓を賜っているが,このころ阿倍氏は布勢(ふせ),引田(ひけた),久努(くな),長田(おさだ)などいくつかの系統に分かれており,694年(持統8)布勢御主人(みうし)は阿倍諸氏の氏上となり,以後阿倍御主人と称した。その死後704年(慶雲1)前出の比羅夫の子引田宿奈麻呂(すくなまろ)が阿倍朝臣の姓を賜り,その後引田系を阿倍氏の正宗であると主張している。しかしいずれにしても御主人は701年(大宝1)右大臣に,宿奈麻呂は719年(養老3大納言にまで昇っており,このころは阿倍氏にとってよき時代であったと言えよう。なお平安時代中期の有名な陰陽家安倍晴明は御主人の系統に連なると言われる。阿倍氏にはまた大嘗祭に吉志舞(きしまい)を奏するという特殊な職務がある。吉志舞は新羅の服属儀礼を芸能化したものと言われ,難波吉士らの間に伝えられたと思われるが,阿倍氏がこれを統率するようになった後,みずから奏するようになったのであろう。
執筆者:後藤 四郎

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報


同著を出版されて直ぐにお会して以来のお付き合いですが、今年も含め、当会でも何度もご講演頂いています。

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安部 丞さん(級p彦建設社長)

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20150609日 「安倍氏」のルーツを探して、20年以上かけ県内外を調べて回った、安部さん。先日、「豊後安倍氏の伝承」が題名の約550nの本を、自費出版した。
 安部さんは、明治時代になるまで、旧野津原村(現大分市野津原)で庄屋を務めた「安部家」に生まれ、先祖は、前9年の役(1051年〜1062年)で滅ぼされた「奥州安倍氏」にたどり着く。(明治時代に安部に変更)
 安部家は、家伝によると、平安時代に初代安倍良隆が大宰府から、稙田荘の目代(役人)として、大分郡稙田荘一ノ瀬に居を構えたことにはじまる。鎌倉時代に大友氏が豊後国に入国してからは、大友氏に仕え、室町時代に所領だった「豊饒」を名乗り、大友家加判衆、筑後守護守を務めた。しかし、慶長5年(1600年)9月13日、別府石垣原で、大友義統と黒田如水(官兵衛)の合戦で、大友氏が滅亡。この合戦で安部さんの13代前にあたる豊饒弾正忠宗鑑が一族郎党を率いて出陣し討ち死にするが、大友氏への忠義が認められ、子孫は野津原で、御目見江株町別当を世襲し、野津原村と隣接の権現村の庄屋を兼務した。
 安部さんは、小さいころから、「安倍氏」の歴史を父親から聞かされて育った。大学4年生の時に父親が亡くなり、それ以来、家に伝わる古文書を読み解き、「安倍氏」の歴史検証をライフワークとしてきた。「日本の歴史では、奥州安倍氏の出自が蝦夷(北海道の古称)、俘囚(朝廷に属した蝦夷のこと)とされてきたが、それは大きな間違い。正三位大納言阿倍安仁につながる系譜である」との自説を唱える。
 「安倍氏」の歴史検証の旅では、県内外で、多くの遠い親戚たちと交流を深めた。安倍姓の人たちと交流する中で、同族意識の高さを感じ、「不思議な縁によって人は結ばれている」と話し、先祖への感謝の気持ちを忘れてはならないという。
 大分県や福岡県は、「安部」「阿部」「安倍」の姓が、全国的にみても非常に多い。「あべ」姓の人たちは、みんな遠い親戚かもしれない。「豊後安倍氏の伝承」は、店頭では販売しないが、興味のある方は、1冊5000円で提供する。詳細は、安部さんが社長の七瀬観光開発(097〈588〉0111)まで。郵送の場合は、別途送料510円が必要。


そもそも、安部氏を含む四道将軍は九州王朝でも開化天皇が臣下の崇神を指揮して東日本も含む当方への侵攻を行ったもので、畿内大和政権などが行ったものではなかったのです。


神話での記述 大彦命は、孝元天皇の第1皇子で、母は皇后の欝色謎命(うつしこめのみこと)。開化天皇の同母兄で、娘は崇神天皇皇后の御間城姫命(みまきひめのみこと)、垂仁天皇の外祖父に当たる。舟津神社(福井県鯖江市)、敢国神社(三重県伊賀市)、伊佐須美神社(福島県会津美里町)、古四王神社(秋田県秋田市)等に祀られている。敢国神社の社伝によると同神社より北東1.5Kmの所に位置する御墓山古墳は大彦命の御陵とする敢国神社の鎮座する三重県伊賀市は大彦命の子孫である阿閉臣(阿敢臣)の発祥の地とされる伝承も残されている

武渟川別は、大彦命の子。阿倍朝臣等の祖と伝えられる。津神社(岐阜県岐阜市)、健田須賀神社(茨城県結城市)等に祀られている。

また『古事記』によれば、北陸道を平定した大彦命と、東海道を平定した建沼河別命が合流した場所が会津であるとされている。(会津の地名由来説話)。このときの両者の行軍経路を阿賀野川(大彦命)と鬼怒川(武渟川別)と推察する見解が哲学者の中路正恒から出されている。

吉備津彦は、孝霊天皇の皇子で、母は倭国香媛(やまとのくにかひめ)。倭迹迹日百襲姫命は姉である。別名は彦五十狭芹彦(ひこいさせりひこ)吉備国を平定したために吉備津彦を名乗ったと考えられている。桃太郎のモデルの一つであったとも言われている。吉備津神社、吉備津彦神社(岡山県岡山市)、田村神社(香川県高松市)等に祀られている。

丹波道主命は、古事記によると開化天皇の子の彦坐王の子。なお、古事記では彦坐王が丹波に派遣されたとある。母は息長水依比売娘(おきながのみずよりひめ)。娘は垂仁天皇皇后の日葉酢姫(ひばすひめ)。景行天皇の外祖父に当たる。神谷神社(京都府京丹後市)等に祀られている。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


吉備ツ彦 桃太郎は九州王朝の孝霊(藤原が後に天皇扱いにした)の子、何れもハイイロネ、ハイイロチ姉妹の子であり、指揮官である開化天皇の年嵩の臣下であり武官にあたるのです。

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丹波道主命は、古事記によると開化天皇の子の彦坐王の子。なお、古事記では彦坐王が丹波に派遣されたとある。母は息長水依比売娘(おきながのみずよりひめ)。娘は垂仁天皇皇后の日葉酢姫(ひばすひめ)


 古事記の95パーセントは嘘という故)百嶋由一郎でしたが、これもその一端で、彦坐(ヒコイマス)王は、ナガスネヒコを討伐した可能性のある草部吉見がその妹を戦利品とし妃として生まれたもので、開化の子ではないのです。


丹波道主命は、開化天皇の子ではないのですが彦坐王の子。

「百嶋由一郎は金神神代系譜で彦坐王そのものが草部吉見とナガスネヒコの妹の天足彦の子で名目的に子としているとメモを残しています」(「」内は編集時点で古川が加筆したもの20250206 10:59

古事記では彦坐王が丹波に派遣されたとある。のは違うようですね。

丹波道主命の母は息長水依比売娘(おきながのみずよりひめ)。で良いのです。 

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今回の作業論考 坂本命は四道将軍に繋がるのか? ➊❷ はそのというタイトルには繋がりませんでしたが、解明のための作業の一環とご理解下さい。

この問題に踏み込んだのは、東海地区で活動されている「古代史山ちゃんブログ」のY氏の論考を発端としています。

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詳しくは、以下の本稿全文をお読み頂きたいと思います。


第七十七話 「贈応神天皇」(3 2022.03.12 写真 高良御子神社の案内板  出典:宮原誠一氏“神社見聞牒”No.70高良九躰皇子と坂本命と 

   二人の門神様@

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高良御子神社(こうらみこじんじゃ)が伝える九躰皇子(くたいおうじ)○応神天皇とは誰か


1.高良御子神社(こうらみこじんじゃ)が伝える九躰皇子(くたいおうじ)

高良大社の境内摂社である高良御子神社に九躰皇子が祀られています。

九躰皇子とは、開化天皇の九人の皇子を指します。

斯礼賀志命(しかれしのみこと)神・朝日豊盛命(あさひとよさかりのみこと)神・暮日豊盛

命(くれひとよさかりのみこと)神は神功 皇后との御子ですが、那男美命(なおみのみこと)

神・坂本命(さかもとのみこと)神は神功皇后の連れ子説(神功皇后と贈仲哀天皇との御子)

もありますが、故百嶋氏はツヌガアラシトこと贈崇神天皇と五十鈴比売との王女国片比売(くに

かたひめ)との御子としています。


今回、柏崎刈羽の奥の新潟県南魚沼市に坂下神社を発見した事から、若しかしたら四道将軍に随行したのではないかと考えたのでした。今後、現地に入れば何か発見できるかも知れないと思っているところです。今後とも探索は続きます。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 23:43| Comment(0) | 日記

2025年03月28日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A 1059坂本命は四道将軍に繋がるのか? ➊

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A 1059坂本命は四道将軍に繋がるのか? 

20240731

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 記紀に「四道将軍」に関する記述があります。久留米市にも「豊城」という大字があります。

当然にも、豊城交差点もあり、私自身も頻繁に通過し見掛ける事から、故)百嶋由一郎も「豊城入彦は大分と久留米を頻繁に移動して実際にも同地に居たのですよ…」と語っておられたのをいつも思い出します。

今秋10月末から、埼玉県所沢市在住の百嶋神社考古学メンバーのT氏と南魚沼への神社調査に入るため、この問題を解決出来ぬまでも問題点を整理しておく必要があると考え、この厄介な問題にメスを入れる事にしたものです。

日本海側を北上した大彦の一族(安部氏)と東関東に入った崇神の息子?親族?が出会ったから会津と言う…と言った話は良く知られていますが、来年にも会津一帯の神社調査に入りたいと考えている事から早めに取り掛かろうとしたものです。始めに、再度、おさらいをしましょう。ウィキペディアを馬鹿にする向きがある事は承知していますが、嘘つきの通説派の御用きき。学者などよりは余程信頼できるのです。

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久留米市田主丸町豊城

それを物語るかのように崇神の妃を祀る神社がこの延長の日田〜大分への街道筋にあります。

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日田市 五十鈴姫神社カーナビ検索大分県日田市天瀬町合田2450

五十鈴姫は事代主と活玉依姫の間に生まれた姫君

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四道将軍 四道将軍(しどうしょうぐん、古訓:よつのみちのいくさのきみ)は、『日本書紀』に登場する皇族(王族)の将軍で、大彦命(おおびこのみこと)、武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)、吉備津彦命(きびつひこのみこと)、丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)の4人を指す。[1]

『日本書紀』によると、崇神天皇10年にそれぞれ、北陸、東海、西道、丹波に派遣された。なお、この時期の「丹波国」は、後の令制国のうち丹波国、丹後国、但馬国を指す。 教えを受けない者があれば兵を挙げて伐つようにと将軍の印綬を授けられ[1]、翌崇神天皇11年、地方の敵を帰順させて凱旋したとされている[2]。なお、崇神天皇は3世紀から4世紀の人物とされている[3][4]

『古事記』では崇神天皇の章に、大毘古命を高志道(こしのみち)に、建沼河別命を「東の方十二道」に、日子坐王(ひこいますのみこ、日本書紀では彦坐王)を旦波国にそれぞれ遣わしたとの記載がある。また、崇神天皇の3代前である孝霊天皇の章に、大吉備津日子命(吉備津彦命)と若日子建吉備津日子命(日本書紀では稚武彦命)の2柱が「針間を道の口として吉備国を言向け和し」た、とある。四道将軍の名称は記載されていない。

また、『常陸国風土記』では武渟川別が、『丹後国風土記』では丹波道主命の父である彦坐王が記述されている。

四道将軍の説話は単なる神話ではなく、豊城入彦命の派遣やヤマトタケル伝説などとも関連する王族による国家平定説話の一部であり、初期ヤマト王権による支配権が地方へ伸展する様子を示唆しているとする見解がある。事実その平定ルートは、4世紀の前方後円墳の伝播地域とほぼ重なっている。


神話での記述 大彦命は、孝元天皇の第1皇子で、母は皇后の欝色謎命(うつしこめのみこと)。開化天皇の同母兄で、娘は崇神天皇皇后の御間城姫命(みまきひめのみこと)、垂仁天皇の外祖父に当たる。舟津神社(福井県鯖江市)、敢国神社(三重県伊賀市)、伊佐須美神社(福島県会津美里町)、古四王神社(秋田県秋田市)等に祀られている。敢国神社の社伝によると同神社より北東1.5Kmの所に位置する御墓山古墳は大彦命の御陵とする。敢国神社の鎮座する三重県伊賀市は大彦命の子孫である阿閉臣(阿敢臣)の発祥の地とされる伝承も残されている。

武渟川別は、大彦命の子。阿倍朝臣等の祖と伝えられる。津神社(岐阜県岐阜市)、健田須賀神社(茨城県結城市)等に祀られている。

また『古事記』によれば、北陸道を平定した大彦命と、東海道を平定した建沼河別命が合流した場所が会津であるとされている。(会津の地名由来説話)。このときの両者の行軍経路を阿賀野川(大彦命)と鬼怒川(武渟川別)と推察する見解が哲学者の中路正恒から出されている。

吉備津彦は、孝霊天皇の皇子で、母は倭国香媛(やまとのくにかひめ)。倭迹迹日百襲姫命は姉である。別名は彦五十狭芹彦(ひこいさせりひこ)。吉備国を平定したために吉備津彦を名乗ったと考えられている。桃太郎のモデルの一つであったとも言われている。吉備津神社、吉備津彦神社(岡山県岡山市)、田村神社(香川県高松市)等に祀られている。

丹波道主命は、古事記によると開化天皇の子の彦坐王の子。なお、古事記では彦坐王が丹波に派遣されたとある。母は息長水依比売娘(おきながのみずよりひめ)。娘は垂仁天皇皇后の日葉酢姫(ひばすひめ)。景行天皇の外祖父に当たる。神谷神社(京都府京丹後市)等に祀られている。


考古学上の成果 大彦命に関しては、埼玉県の稲荷山古墳から発掘された金錯銘鉄剣に見える乎獲居臣(ヲワケの臣)の上祖・意冨比垝(オホビコ、オホヒコ)と同一人である可能性が高いとする見解が有力である[5]。このことから、四道将軍が創作された神話ではなく、実際に伝承された祖先伝説を元に構成されたことを示している。

崇神天皇陵に比定されている行燈山古墳(墳丘全長約242m、後円部直径約158m、後円部高さ約23m)と吉備津彦命の陵墓参考地(大吉備津彦命墓)である中山茶臼山古墳(墳丘全長約120m、後円部直径約80m、後円部高さ約12m)はサイズがほぼ21の相似形であることが指摘されている[6]


脚注 ^ a b 「以大彦命遣北陸。武渟川別遣東海。吉備津彦遣西道。丹波道主命遣丹波。因以詔之曰。若有不受教者。乃挙兵伐之。既而共授印綬為将軍。」日本書紀(朝日新聞社本)

^ 「四道将軍以平戎夷之状奏焉。」日本書紀(朝日新聞社本)

^ 『日本の歴史 第1巻 神話から歴史へ』中央公論社,1964 文庫新版,2005,ISBN 978-4122045477

^ 『古事記』は崇神天皇の没年を戊寅年と記し、258年または318年とする説が有力である。

^ 川口勝康(首都大学東京教授)は次のように解説する。「稲荷山古墳出土の鉄剣銘文中の乎視居臣 (おわけのおみ) なる人物の系譜にみえる上祖の意富比魁は、オホヒコとよまれ、記紀の大彦命にあたる可能性が高い(平凡社『世界大百科事典』)」。また、岸俊男(京都大学名誉教授)は次のように解説する。「ヲワケを東国国造の系譜に属する者と考える説と、上祖オホヒコを記紀に阿倍臣や膳臣 (かしわでのおみ) の始祖としてみえる孝元天皇の皇子大彦命とし、あるいは杖刀人は阿倍臣に従属する丈部(はせつかべ) であるとみて、ヲワケを中央豪族の一員と考える説に大きく見解が分かれている(平凡社『世界大百科事典』)」。安本美典は、『本朝皇胤紹運録』によると「大彦命」の孫は「豐韓別命」であり、鉄剣銘文の「意富比垝(オホヒコ)」の孫「弖已加利獲居(テヨカリワケ)」と読み方が似ているとする(倭王武と雄略天皇 稲荷山古墳出土鉄剣銘文)。また、豐韓別命は武渟川別の子とされるが、鉄剣銘文では弖已加利獲居は多加利足尼の子である。

^ 安本美典 『巨大古墳の主がわかった! JICC出版局 1991年。行燈山古墳は文久の修陵の際に修復が行われており、被葬者については異説もあること、また中山茶臼山古墳は吉備の中山の自然の地形を利用して築造されていることに注意。

^ 『ここまでわかった! 「古代」謎の四世紀』 新人物文庫 2014 ISBN 978-4-04-600400-0 p.171.

^ 同『ここまでわかった! 「古代」謎の四世紀』 p.171.

^ 同『ここまでわかった! 「古代」謎の四世紀』 p.161. 以下略載省略


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』20240731 08:36


無題.pngせて、関 裕二氏の 神社が語る関東の古代氏族 (祥伝社新書)を急いで読まなければなりません。問題意識は、関 裕二 氏の 北関東の雄、上毛野氏は本当に天皇の子孫か(上毛野と下毛野トヨキイリヒコの子孫たち ほか)と同じではないかと思います。併せて、ヤマトタケル伝説と海人族の足跡(つくられた四道将軍の派遣伝承平定した東で崇拝されるヤマトタケル ほか)も。

 今夏、40人規模で南阿蘇高森町の「熊襲 猛の出生地を探る」神社トレッキングを行うため、かなり重なるのです。


書名 :神社が語る関東の古代氏族 (祥伝社新書)

著者 :関 裕二 出版者:祥伝社 出版年:20193

◎本のあらすじ

東国は藤原氏が支配する政権によって「蛮地」とされ、蔑まれていく。しかし、東が西に比べて未開だったことは一度もない。関東の歴史は、豊かな縄文時代、巨大古墳を造営した時代から、強い武家を輩出し、ついに藤原氏独裁を転覆する時代まで、連綿とつながっているのである。本書は、古墳や出土物だけが注目されてきた関東の古代を、神社伝承やその奉斎氏族の歴史などからたどる。すると上毛野氏や渡来系氏族だけでなく、中央でも活躍した物部氏や蘇我氏、忌部氏、多氏、出雲系氏族などの足跡が浮かび上がってきた。

◎目次

序章 つくられた「西高東低」の史観(坂東、山東、関東豊かな縄文王国 ほか)

第1章 ヤマトタケル伝説と海人族の足跡(つくられた四道将軍の派遣伝承平定した東で崇拝されるヤマトタケル ほか)

第2章 北関東の雄、上毛野氏は本当に天皇の子孫か(上毛野と下毛野トヨキイリヒコの子孫たち ほか)

第3章 点在する出雲系神社の謎(武蔵国造は出雲系なぜ関東の国造になった? ほか)

第4章 改竄された古社の由緒(土着の民を野蛮視する『常陸国風土記』香取・鹿島は戦略的拠点 ほか)

◎著者紹介

関 裕二

1959年、千葉県生まれ。歴史作家。日本古代史を中心にユニークな視点から執筆活動を続けている。著書多数(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

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前述の五十鈴姫(父:事代主、母:活玉依姫)とツヌガノアラシト(ミマキニュウヒコ)の間に生まれた国片姫(事代主の関係者は「片」が付されるが開化天皇(九州王朝高良玉垂命)との間に生まれたのが坂本の命なのです。これを祀るのが南魚沼の八海山坂本神社なのです。

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百嶋由一郎神代系譜006 橘系譜


1060に続く

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記