太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「百嶋神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログを継続しています。


これにはプロバイダーを含め何時情報封殺が行われるかも知れないため、最低でも複数の発信媒体を準備しておくべきではないかと考えているからでもあります。


今後ともかなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史によるblogひもろぎ逍遥に対抗しようという意図はないのですが、華麗なひもろぎ逍遥に対して、緋色のボロ着で、神籬=ひもろぎ(ひぼろぎ)を逍遥=彷徨い歩き、神社を探るというほどの意味で、「ひぼろぎ逍遥」を随時書いて行くことにしたものです。ただし、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象なども認められます。


 さて、現在、ひぼろぎ逍遥とひぼろぎ逍遥(跡宮)との合計のアクセス数は日量10001200件(年間4045万件)まで上がっています。


 同時に、連携する研究者によるblog20近くまで数を増やしており、全体では最低でも年間100150万件近いアクセス数を持っているものと思われます。


 当blogには九州王朝論から百嶋神社考古学へと向かわんとする多くの研究者、記録者、bloger…が参集されています。


 年に10回、10年でも高々100回程度の研究会でも大半は教育委員会関係者から学芸員といった利権まみれの方々通説を拝聴し心服するような、研究者亡き研究会は全く何の価値もないものと考えており、そのようなどこにでもあるような話を好まれる方々は、そこら辺りの既存の郷土史会、史談会に行かれ、村興し、町興し、世界遺産登録に拍手を送り、思いっきり尾を振られれば良いでしょう。


しかし私達は後ろ指を刺される様な探究に踏みとどまり、これまでの歴代の行政権力が隠し続けた真実の歴史の探求へと向かう人々への道標と成ろうと思うものです。




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2018年07月22日

ビアヘロ059 キリシタン史跡世界文化遺産登録に狂奔する列島文化の堕落を撃て

ビアヘロ059 キリシタン史跡世界文化遺産登録に狂奔する列島文化の堕落を撃て

20180630

太宰府地名研究会 古川 清久


長崎〜天草地方の潜伏キリシタン関連遺産 長崎の教会群とキリスト教関連遺産 ア津など潜伏キリシタン世界遺産へ ユネスコ機関が勧告…と行政から村興し町興しの見苦しくもさもしい運動が目に余るばかりの見苦しさを呈しています。

こういった運動をやっているのは上級官庁に尾を振る行政の長から議員は当然としても、教育委員会から郷土史家といった振れ込み人々なのでしょうが、こういった手合いは大体において大東亜戦では国威発揚の御先棒を担いだ人々でしょうし、幕府のキリシタン弾圧では時流に乗って真っ先に密告しお上に忠誠をたような種類の人々でありキリシタン弾圧に手を貸した人々であろうことは簡単に想像できるでしょう。

逆に、信念を曲げず信仰に死ぬキリシタンの精神性など一片もない連中に決まっているのでしょうが、ここでは純粋なキリシタンと弾圧の側に回った権力などといった安っぽい話をしようとするものではありません。世の中とは決してそのような単純な構造ではないのです。

 まず、ポルトガル宣教師たちが跋扈した戦国期から、豊臣政権下で徐々に強まる伴天連追放令、そして天草島原の乱以降、江戸期に何故キリシタンが禁制となり、金儲けだけを優先したオランダが慎重に貿易相手とされたのかが知らされていない中での愚行が、長崎〜熊本のキリシタン遺構のユネスコ認定となっている事を考えなければならないのです。

 多少、持って回った話をしましたが、個人的には豊臣政権から徳川政権に引き継がれたキリシタン禁教は実は全く正しかったと考えています。

 実は、私自身も明治期にアメリカから持ち込まれたプロテスタント系の某教団が経営する幼稚園に通い、クリスマス・キャロルで聖歌を歌いその教会で結婚式を挙げた者ではあるのですが、この事=江戸期の禁教については実に正しい対外政策を採ったものだと今も確信のような思いを持っています。

 この事によって日本は事実上の統一国家を打ち立て、独立性を保ち強力な武装(当時最大の鉄砲、大筒の保有国)の元、当時世界最高の教育水準と豊かさを保持する事になったのでした。

 では、キリシタンを擁護するかしないかを決め付ける前に、何故、そう言えるかを簡単に説明しておこうと思います。

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日本の婦女子をバダビアに売り飛ばしていたイエズス会系ポルトガル宣教師と貿易商人


 ほとんど知られてはないのですが、肥前、肥後にとどまらず豊後も含め大量の日本人婦女子がポルトガル船の船倉に入れられバダビア(インドネシア)などに売り飛ばされていたという隠された事実があるのです。この問題は以前も取り上げましたが、再度、取上げたいと思います。

 多くの情報が出ていますので、ヤフーでもグーグルでも 「ポルトガル宣教師」「人身売買」などでダブル検索を試みて見て下さい。後は、ご本人の判断にお任せいたします。

 こんなものはデマだとお考えになるのは結構ですが、そうだとしても自らが植えつけられているキリシタンへのイメージも所詮はマッカーサーの占領政府以来の事実上の検閲の結果与えられた餌のようなものでしかないはずなのです。


ポルトガルの奴隷貿易 アジア人の奴隷

ポルトガル人が日本人に1543年に初めて接触したのち、1617世紀を通じ、ポルトガル人が日本で日本人を奴隷として買い付け、ポルトガル本国を含む海外の様々な場所で売りつけるという大規模な奴隷交易が発展した。多くの文献において、日本人を奴隷にすることへの抗議とともに、大規模な奴隷交易の存在が述べられている。日本人の奴隷たちはヨーロッパに流れ着いた最初の日本人であると考えられており、1555年の教会の記録によれば、ポルトガル人は多数の日本人の奴隷の少女を買い取り性的な目的でポルトガルに連れ帰っていた。国王セバスティアン1世は日本人の奴隷交易が大規模なものへと成長してきたため、カトリック教会への改宗に悪影響が出ることを懸念して1571年に日本人の奴隷交易の中止を命令した。

ウィキペディア(20180630 19:16による


宣教師は奴隷商人と結託し、日本人を海外に輸出していた。これが豊臣秀吉を激怒させ、伴天連追放令にまで発展した。宣教師は決して布教に従事する平和的な存在ではない。

彼らは日本人の売買に関与し、秀吉はそれを止めさせるための交渉を行っていた。

戦国時代、合戦の後には捕虜の売買が日常的に行われており、人買いという商売も成立していた。豊臣秀吉は国内での人身売買を許さず、仲介人や船主を磔刑とした。秀吉の伴天連追放令は、人身売買の禁令を外国人にも発布したのと言えよう。秀吉の通訳であったロドリゲスは、死の間際まで秀吉は布教の話題を取り上げることはなかったと記している。

天文年間、弘治年間頃から主に九州の日本人、特に女性が宣教師によって海外に売られた。弘治元年十月(西暦1555年11月)、マカオの宣教師カルネイロは、多くの日本人がポルトガル商人に買われ、マカオに輸出されていると手紙に記した。やがて、宣教師らは人身売買が日本への布教を妨げると判断。それを受けたポルトガル国王は元亀元年三月六日(西暦1570年3月12日)、ポルトガル人が日本人の売買に関わることを禁止した。合わせて日本人奴隷の解放と、それに反する者の全財産を没収することが決まった。

このように一部の宣教師は人身売買に反対したが、イエズス会自体は人身売買を許可していた。国王の発布した法であっても拘束力は弱く、その後も日本人の売買は続いた。天正十五年、秀吉はコエリョに対し『五ヶ条の詰問』を叩きつけ、南蛮人が日本人を奴隷として売り買いし、他国へ『輸出』していることに激怒している。コエリョは日本人が奴隷を売るから買ったのだ、と反論。秀吉は南蛮人の奴隷売買を日本人が真似てしまったのだと言い返した。

この討論の直後、天正十五年六月十八日に伴天連追放令が発布された。同時に秀吉は、宣教師に海外に売られた日本人を直ちに帰国させるよう命じており、まだ日本の港にいる日本人奴隷は買い戻すよう命じた。慶長元年、イエズス会は奴隷商人への破門を議決。慶長二年四月、インド副王はポルトガル国王名で、日本人奴隷の売買、日本刀の輸出を禁じた。このようにイエズス会も日本人売買禁止令を出したが、従うポルトガル人は少なかった。…なぜこういった歴史を教えないのですか?

YAHOO知恵袋による


【黒歴史】イェズス会は奴隷貿易の先鋒だった説【人身売買】

日本の場合

16世紀から17世紀にかけての日本は大航海時代を迎えて列強となったポルトガル、スペイン、オランダ、イギリスなどのヨーロッパ諸国から、東南アジアにおける重要な交易相手としてだけでなく植民地維持のための戦略拠点としても重視された。

海に面した各地の諸大名が渡来する外国船から火薬などを調達し、(中略)日本からは輸出品:硫黄、銀、海産物、刀、漆器、そして日本人も奴隷として輸出されていた。

鉄砲や火薬の大きな需要を作り出しただけでなく、教会は宣教事業を大名たちに保証させたし商人は利潤の上がる奴隷売買にまで取引を広げていくことができた。

その結果として、彼らは東アジア地域の奴隷市場の拡大とその移送ルートの確保を見事達成した

イエズス会宣教師が絶賛した織田信長の所業とは 戦国九州奴隷貿易の真相に迫る(3)

ポルトガル商人はイエズス会の宣教師を介して対立する大名間の戦闘には鉄砲などの物資を一方に提供する手法でその軍事的バランスを巧妙に操っていた。

有馬や大村、大友のキリシタン大名がまさにそれである。

1560年代以降、イエズス会の宣教師たちは、ポルトガル商人による奴隷貿易が日本におけるキリスト教宣教の妨げになり、宣教師への誤解を招くものと考えた。

無題.png日本での奴隷貿易禁止の法令の発布を求めており、1571年には当時の王セバスティアン1世から日本人貧民の海外売買禁止の勅令を発布させることに成功した。

豊臣秀吉の伴天連追放令

1587年(天正15年)724日、豊臣秀吉は九州討伐の途上で当時のイエズス会の布教責任者であった宣教師ガスパール・コエリョを呼んで人身売買と宣教師の関わりについて詰問、即日奴隷の売買を含む南蛮貿易の禁止とキリスト教の布教を禁じるバテレン追放令を発布した。

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実はカトリックの司祭ではなく新教の牧師さんも証言されているのです。以下一部ですが紹介します。


日本の歴史教科書はキリシタンが日本の娘を50万人も海外に奴隷として売った事は教えないのはなぜか?                                 2006127日 金曜日

◆日本宣教論序説(16) 2005年4月 日本のためのとりなし

わたしは先に第4回「天主教の渡来」の中で、日本におけるキリシタンの目覚ましい発展と衰退の概略を述べました。しかし、ここではキリシタンがたどった土着化の過程について考察してみたいと思います。後で詳しく述ぺますが、わたしの先祖はキリシタンでありました。わたしは伊達政宗の領地であった岩手県藤沢町大籠(おおかご)地区での大迫害で生き残ったかくれキリシタンの末裔です。

今はプロテスタントの牧師ですが、わたしの中にはキリシタンの血が流れていると思います。三年前の夏、父の郷里藤沢町を初めて訪問してこの事実を知ってから、キリシタンについてのわたしの関心は以前より深くなりました。そしてキリシタンについての知識も少し増えました。四百年前のキリシタンを知ることが現代のわたしたちと深く関わってくると思いますので、先ず追害の理由から始めたいと思います。

1.キリシタン遣害の理由

宣教師ルイス・フロイスが暴君と呼ぶ豊臣秀吉が「伴天連(ばてれん)追放令」を発したのは、1587724日(天正15619)でした。これは天正(てんしょう)の禁令として知られる第1回のキリシタン禁止令です。それ以後徳川時代にかけて、次々に発せられた禁止令の理由をまとめると、次の五つになるでしょう。…中略…

(2)奴隷売買

しかし、アルメイダが行ったのは、善事ばかりではなく、悪事もありました。それは奴隷売買を仲介したことです。わた〕まここで、鬼塚英昭著「天皇のロザリオ」P249257から、部分的に引用したいと思います。

「徳富蘇峰の『近世日本国民史』の初版に、秀吉の朝鮮出兵従軍記者の見聞録がのっている。『キリシタン大名、小名、豪族たちが、火薬がほしいぱかりに女たちを南蛮船に運び、獣のごとく縛って船内に押し込むゆえに、女たちが泣き叫ぴ、わめくさま地獄のごとし』。ザヴィエルは日本をヨーロッパの帝国主義に売り渡す役割を演じ、ユダヤ人でマラーノ(改宗ユダヤ人)のアルメイダは、日本に火薬を売り込み、交換に日本女性を奴隷船に連れこんで海外で売りさばいたボスの中のボスであつた。

キリシタン大名の大友、大村、有馬の甥たちが、天正少年使節団として、ローマ法王のもとにいったが、その報告書を見ると、キリシタン大名の悪行が世界に及んでいることが証明されよう。

『行く先々で日本女性がどこまでいっても沢山目につく。ヨーロッパ各地で50万という。肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない。鉄の伽をはめられ、同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、もともとなれど、白人文明でありながら、何故同じ人間を奴隷にいたす。ポルトガル人の教会や師父が硝石(火薬の原料)と交換し、インドやアフリカまで売っている』と。…以下も重要な話が書きつづられています。


 長々と引用させて頂きましたが、この牧師が書かれた話は10年前にも読んだ記憶があります。

 当時も今も最も良く整理されているものと考えますので、検索の末、以下も是非お読み頂きたいと思います。

 まず、戦国時代、日本は直ぐに鉄砲を自給自足できるような高い技術を持つ国ではあったのですが(当時世界最大の鉄砲所有国)、黒色火薬の材料である硝石だけが自給できませんでした。

火山列島の日本は硫黄と木炭は潤沢にありましたが、硝石(硝酸カリウム)は僅かしか手に入らず、火薬一樽に対して婦女子が50人といった比率でポルトガル船に押し込められて奴隷貿易が行われていたのです。

その背景にカトリックが入った長崎、熊本、大分などでは、貧しい上に間引きをさせず、神からの授かりものとして許容力以上に子供が増え、大量に余った婦女子が輸出される構造がつくり出されたのでした。

 要は、アフリカからの黒人奴隷売買にスペイン、ポルトガル人宣教師が関与し、嵐で沈没しそうになった時には鎖に繋がれた奴隷がそのまま時化の海に放り込まれたり、伝染病に犯された奴隷がそのまま海に捨てられたりといった人非人であった事は良く知られていますが、アジアに於いてもポルトガル宣教師が関与し、小規模なと言っても大西洋の三角貿易の十分の一の一説35万人とか50万人といった話らしいのですが、これが神の遣いとするルイス・アルメイダとかヴァリニヤーノとかコエリヨのやったことであり、そもそもイエズス会とかカトリックの神父などといった連中はミッションを帯びた修道僧などと美化されてはいるものの、ただの奴隷商人の手先に近いものでしかなく、植民地支配の一翼を担った悪魔のような連中だったのです。

こうして今も日本の血をひいた人々が東南アジアからスペイン、ポルトガルに生きているのです。

 こういった歴史を知ってか知らずか(村興し町興しの調子者どもはどうせ知識を持ってなどいませんが)

この奴隷商人どもの手先でしかなかったキリシタン伴天連の尻尾に成り下がっているのです。

 そもそも、欧州の不良貴族の成れの果てどもが勝手に作ったユネスコなどと言うイカサマ団体には何らの正統性も権威も清廉さも中立性も存在しない非公共機関なのであって、こんな連中に拝跪し“世界遺産登録を宜しくお願いします“など、もろ手を挙げて大騒ぎする等恥知らずも良いところなのであり、ましてや、”キリスト教関連遺産ならユネスコに採用されやすいだろう”とロビイストなみに工作に狂奔する等(まさか賄賂などは贈っていないでしょうが?)、日本人としての知性も誇りなど欠片さえ持っていないのです。

 こいつらにはキリスト教への信仰心よりも地域振興への税金散布や公共事業費に興味があるのであって、キリシタン大名が次々と名乗りを挙げたように、文化遺産の保護さえも真面目には考えてはいないのです。

 このポルトガル宣教師がやった人非人にも劣る行為とイエズス会=カトリックのアジア人を畜生としか考えていない残虐性は現在も尚継続しているのですが、日本は文明開化の過程でロスチャイルドなどユダヤ金融資本が動かす大英帝国や米国に気兼ねして、決してキリシタン伴天連どもが行った残虐な事実を公表しようとも教育しようとも正そうともしていないのです。

 それが、現在もなお国際金融資本に日本の富が強奪され続けている原因であり、お人好しの日本人は、ただの金づるとしてユネスコと言う公共性も正統性もない団体に操られ続けているのです。

 日本人には一片の誇りも独自性もないのでしょうか?村興し町興しの愚か者どもをこそ軽蔑しなければならないのです。


日本人女性がポルトガル人やその奴隷に買われた時代 しばやんの日々も是非…

 無題.png前回の記事で、伴天連らが日本で布教活動を行なっていることは、わが国を占領する意図があることを秀吉が見抜いていたことを書いた。

中学や高校で学んだ歴史の教科書には宣教師らが渡来してきた目的がわが国の占領にあったなどとはどこにも書かれていないが、この当時のローマ教会やわが国に来た宣教師などの記録を読めば、かれらは単純にキリスト教を広めることが目的ではなかったことが容易に理解できる。

…中略…

…「神の僕の僕である司教ニコラスは、永久に記憶されることを期待して、以下の教書を送る。…

 以上に記した凡ゆる要件を熟慮した上で、我等は、前回の書簡によって、アルフォンソ国王に、サラセン人と異教徒、並びに、キリストに敵対するいかなる者をも、襲い、攻撃し、敗北させ、屈服させた上で、彼等の王国、公領、公国、主権、支配、動産、不動産を問わず凡ゆる所有物を奪取し、その住民を終身奴隷に貶めるための、完全かつ制約なき権利を授与した。

 …ここに列挙した凡ゆる事柄、及び、大陸、港湾、海洋、は、彼等自身の権利として、アルフォンソ国王とその後継者、そしてエンリケ王子に帰属する。それは、未来永劫迄令名高き国王等が、人々の救い、信仰の弘布、仇敵の撲滅、をもって神とみ国と教会に栄光を帰する聖なる大業を一層懸命に遂行するためである。彼等自身の適切な請願に対し、我等と使徒座の一層の支援が約束され、神の恩寵と加護がそれを一層鞏固なものとするであろう。

我が主御降誕の145418日、ローマ聖ペトロ大聖堂にて、教皇登位第8年」(『カトリック教会と奴隷貿易』p.76-77)

文中の「アルフォンソ」はポルトガル国王であったアルフォンソ5(在位:14381481)だが、この教書の意味することは重大である。ポルトガル国王とその伯父のエンリケ航海王子に対して、異教の国の全ての領土と富を奪い取り、その住民を終身奴隷にする権利をローマ教皇が授与しているのである。

…中略…


ルイス・フロイスの1588年の記録によると、薩摩軍が豊後で捕虜にした人々の一部は島原半島に連れて行かれて「時に四十名もが一まとめにされて、売られていた。肥後の住民はこれらのよそ者から免れようと、豊後の婦人や男女の子供たちを、二束三文で売却した。売られた人々の数はおびただしかった。」(「完訳フロイス日本史8」中公文庫p.268)と記されている。

キリシタン大名は日本人奴隷を売った金で、火薬の原料となる硝石を買い込んだようなのだが、その硝石が後に島原の乱で江戸幕府との戦いに使われたという。島原の乱については反乱軍の兵器の方が討伐軍よりもはるかに優位にあり、犠牲者も討伐軍の方が大きく、単純に農民一揆と分類されるような戦いではなかったのだが、この乱については別の機会に書くことにしたい。


この日本人婦女子の奴隷貿易にポルトガル宣教師が大きく関わり、所謂、キリシタンに帰依した大名もが、その事を知った上で関わっていた事がほとんど知らされていないのは、明治維新によってキリシタン禁教を続けて来た幕藩体制を悪く言いたいと言う要請と、維新を支援してくれたキリスト教圏を批判しないと言う配慮が存在した上に(明治維新もユダヤ金融資本の誘導が背後にある)、大東亜戦争の敗北による九年間のマッカーサーの占領政策によって敷かれた言論界と政権そのものがキリスト教圏を批判できないし批判しない(今でも天草島原の乱は幕府が非人道的な虐殺を行なったというのが定説化されている)という事に気付くはずなのです。

そして、かつてならキリスト教弾圧に率先して手を染めたような、さもしくも時流に乗ろうとする人々によって、今またキリスト教史跡の世界遺産登録に狂奔しているという恥ずべき事実に戦慄をさえ感じるのです。


今こそ日本の独自の文化と歴史を守るために村興し町興し世界遺産登録運動を排斥すべきなのです!

【ビアヘロの最新記事】
posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 10:22| Comment(0) | ビアヘロ

2018年07月21日

478 突然涼しくなったので丹波丹後の神社調査に… I 宍粟山中の大社 御形神社

478 突然涼しくなったので丹波丹後の神社調査に… I 宍粟山中の大社 御形神社

20170912

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 丹波丹後の踏査が目的でしたが、実は、もう一つ、但馬は朝来市の勅使門を持つ神社赤淵神社を見ることも予定していました。

 前回の但馬調査で見落としていた神社ですが、あまりにも重要なテーマですので一人で見るには余りにも勿体無く、急遽、大阪から内倉武久(元朝日新聞記者で「太宰府は日本の首都だった」ミネルヴァ書房外3著)氏を呼び出す事にしました。

 内倉氏との調整から、一日間宍粟市への調査に移動することにしましたが、その道すがら立派な神社を見る機会を得ましたので、ここでは兵庫の山中の大神社をご紹介する事にします。

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社殿には由緒が書かれた御影石が置かれています。かなり読み辛いのですが…とりあえず読むと、

「御祭神御形神社は葦原志許男神を主祭神とし右殿に月読神 天日槍神 左殿に高皇産霊神 須佐之男神 をあわせ祀る社である 葦原志許男神は大国主神の別の名だいこくさまのことである…」と続きます。

  播磨については、大国主命とスサノウの争いに高木大神(佐用都姫神社)も関係している事が分かりますね。

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伊和神社も素晴らしいのですが、このような山中の小さな町に何故これほどの大社が?と考えてしまいます。
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境内には幾つかの摂社が置かれていますが、佐閉神社とは恐らく佐用町の佐用都比売神社で侵入を遮る神社とされているようですが、実体は宗像大社の市杵島姫(別名佐代姫)の事だと思います。

社殿が立派な理由は重文指定がされており、昭和46年に二億円が掛けられています。それほどの大社なのです。

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天日槍命と葦原志許乎命が、黒土の志爾嵩に至りおのおの黒葛を三条(みかた)を投げて支配地を決定した。天日槍命の投げた三条は、すべて伊都志(出石)に落ちた。

葦原志許乎命の投げた黒葛は、一条が但馬の気多の郡に、一条は夜夫の郡に、そして、最後の一条が御方に落ちたため、三条(みかた:御方・御形)という地名となった。

天日槍命の投げた黒葛が出石に落ち、天日槍命を祭神とする出石神社があり、気多郡に葦原志許乎命を祀る気多神社が鎮座し、養父郡にも、大己貴命を祀る養父神社が存在。

そして、御方の地に葦原志許乎命を祀る当社が鎮座する。また、『播磨国風土記』には伊和大神が形見として、自分の杖を植えられたため御形とするという記述もある。

当初は当社の南東にある高峰山山頂に鎮座していたが宝亀三年(772)、御方里の山神社鎮座の小森に

一夜にして三本の大杉が鼎立する夢のお告げによって、社殿を造営し、現社地に遷座。

式内社・御形神社に比定される古社。

明治三十六年までは高見大明神とも称されまた、高皇産靈神を祀る社として「タカミさん」とも呼ばれ、三方東一宮とも称されていた。明治十九年に県社に列格してからは、単に県社ともよばれるようになった。社殿には茗荷紋が付けられていた。境内社は、社殿のある垣の手前右手に忠魂社、本殿の左右に佐閉神社日吉神社。その他にも境内社の祠らしきものがあったが社名は確認していない。

敬愛する玄松子による

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敬愛する玄松子氏のおかげで日吉神社であるとわかりました


玄松子氏は「明治三十六年までは高見大明神とも称されまた、高皇産靈神を祀る社として「タカミさん」とも呼ばれ…」と書かれています。

これによっても佐用神社には高木大神(高皇産靈神)の伯母=実は天照大御神の母神が祀られているようだ(故百嶋由一郎)とされている事(これについては「ひぼろぎ逍遥」跡宮273 兵庫県佐用町の佐用都比売神社とは何か?を参照のこと)との繋がりが見えるうえに、佐閉神社が佐用都比売神社の置換えである事が見えてきたのでした。伊和神社にもそのうち再訪したいと考えています。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2018年07月18日

477 突然涼しくなったので丹波丹後の神社調査に… H 朝来に移動中に遭遇した大生部兵主神社

477 突然涼しくなったので丹波丹後の神社調査に… H 朝来に移動中に遭遇した大生部兵主神社

20170911

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 今回の目的は丹後、丹波だけではなく、勅使門を持つもう一つの赤磐神社を見ることにありました。

 このため、一時は舞鶴、福井、石川ぐらいまで進出する事も考えたのですが、重要度から考えて赤磐神社を優先し兵庫県朝来市へ戻る事にしました。

 京都府から兵庫県(但馬)に向かうルートはこれまでにも何度も通過していますが、京丹後から朝来へとなると通常通らない但東町経由の初めてのルートになります。

当然にも新しい神社に遭遇する事になるでしょうが、道が結構ハードでくたくたになっていると、目の前におあつらえ向きの神社が見えて来ました。

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延喜式神名帳 大生部兵主神社 但馬国 出石郡鎮座


祭神 武速素盞嗚命 (配祀)武雷命 旧県社

天武天皇12年社地を移して齋祀 齊衡元年(856)現在地に遷座


 この神社は出石蕎麦で知られる豊岡市出石を流れる出石川の上流の支流の薬王寺川の畔にあり、言わば出石の最深部と言っても良いような場所に鎮座しています。

 このため、どう見てもスサノウ系、新羅系を意識してしまい、その偏見を持ってみたのですが、それでも良かったようです。

出石神社は、「記紀」に記される渡来新羅王子の天日槍の伝説の中心となる神社で、現在の祭神には天日槍=スサノウが色濃く反映されています。

このため、この神社も牛頭天王とありスサノウを祀る神社になるはずなのです。

すると、現在は豊岡市に入っているものの出石はスサノウ系の支配地であり、但東とはそのような土地である事が分かります。

 播磨、但馬は、播磨国風土記にあるようにスサノウ系と大国主系が争い、出石のみにスサノウ系が押し込まれ、他は全て大国主系が抑えたと言われており、その事を意識しながら解析する事になります。

「播磨国風土記」の記載では、播磨国の神である伊和大神と葦原志許乎命(大己貴神の別称・葦原醜男)は同神とみなせる。「風土記」では伊和大神は出雲から来たという。「伊和」の語源について「風土記」では神酒(みわ)から、或いは大己貴神が国作りを終えて「於和(おわ)」と呟いたためとする。(ウィキペディア)のですが、百嶋神社考古学では「伊和」は「石」の置換えで、「石木」「石来」「石城」がシルクロードの要衝タシクルガンの中国表記の「石城山」である事を知っています。

これについては ひぼろぎ逍遥 339 石尊神社とは何か? “山梨県笛吹市春日居”の石尊神社 外をお読み頂きたいと思います。

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境内に入ると 神社の掃除をしておられる方がおられました。

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昔は集落で担当を決めて当番制で掃除を行う風習がありましたが、少子化どころか無婚化、無産(財産、出産)化、高齢化、過疎化、氏子組織の解体、弱体化、村落共同体の消失によって、宮司家と周辺だけで行わざるを得なくなっているのです。

 現場で落葉を焼却する事も許されないご時世(産廃業者による働きかけにより利権化している)にも拘らず、きちんと掃除がなされ現地で焼却されている事に感動をさえ覚えましたが、この兵主神社の主はスサノウこと牛頭天皇になるのです。

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この神社には本格的な彫り物があります。

 社殿の造りも上から見れば十字型の屋根を持ち金山彦系の造りであることが分かります。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


 新羅の王子様スサノウのお妃となる櫛稲田姫は金山彦と博多の櫛田神社の大幡主の妹の埴安姫との間に産まれたプリンセスであり、スサノウ自身も金山彦のお妃であるイザナミの子である事からスサノウと櫛稲田姫の結婚とは系統は異なるものの金山彦系を色濃く反映したものだったのです。

 ここの場合はお妃であったアカル姫を追いかけて出石までやってきた段階であり単純には言えないのですが、社殿の形式から見れば、こういった事が頭に浮かんでくるのです。

敬愛する玄松子氏も「境内の左右に境内社の祠があるが、詳細は未確認。『平成祭データ』には、境内社として稲荷神社の名が載っている。」と書かれていますが、当方も見当が着きません。

 車に戻ると、掃除をされていた女性が神社のパンフレットをお持ちになり、「この神社は掲示板もなく何も分からない事からこれをお持ちください」と言われました。

 有難く頂きましたが、後でお話をお聴きに行くと、この方が宮司だったのです。

 結構若く、キャリア21年と言われていましたから、少子化で神社の後継者が消えて行く中でも女性宮司の奔りと言えるでしょう。

 但馬では朝来市の大社足鹿神社の宮司も女性でしたので、兵庫県では女性宮司の進出が早いのでしょうか。

 昔は考えられなかったのですが、時代は急ピッチで進んでいるのです。

 ただ、予想される過疎化は留まるところを知らず、神社の維持、行事の運営は何とかなるとしても、社殿の建て替えは絶望的と言わざるを得ないでしょう。

 もしかしたら私達は列島文化の象徴とも言える神社、寺院の在り様の最期の姿を見ているのかも知れません。多分、カトリック系の世界遺産登録が進んでいる事も列島文化を消失させる目的があり、それに乗るさもしい輩(村興し町興しの愚かな人々です)。これらに比べれば、くだらないテーマ・パークやレジャー施設や箱ものといったものは何の価値もないものなのですが、時代の移ろいとはそういったもので、こうして歴史は嘘で塗り潰され、歴史の深層=真相は消えて行く事になるのです。

最後に、兵庫県神社庁のデータでは武雷命(タケミカズチノミコト)が祀られている事になるのですが、その痕跡は外を見る限りは分かりませんでした。



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武雷命の表記は気になりますが(始めは崇神の雷と思いました)、百嶋神社考古学の立場からは、タケミカヅチは阿蘇の草部吉見神=海幸彦 その人であり、奈良の春日大社の表向きの神様になるのです。

 そうすると、敬愛する玄松子氏が「境内の左右に境内社の祠があるが、詳細は未確認。『平成祭データ』には、境内社として稲荷神社の名が載っている。」というコメントが俄かに信憑性を帯びてくるのです。

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それは、タケミカヅチ=海幸彦は伊勢の外宮の豊受大神=伏見稲荷の始めの夫神であり、後のそれがニギハヤヒ=山幸彦だからです。


研究目的で百嶋神代系譜を必要とされる方は09062983254までご連絡ください

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 23:58| Comment(0) | 日記