2020年01月14日

ビアヘロ 114「宮原誠一の神社見聞牒」からC 上 “金印の委奴國王と面土國王帥升と球磨郡あさぎり町”

ビアヘロ 114「宮原誠一の神社見聞牒」からC 上 金印の委奴國王と面土國王帥升と球磨郡あさぎり町”

                                                                      20191127

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 メンバーの宮原誠一氏による「宮原誠一の神社見聞牒」にかなり重要な論文が連続して掲載されています。ご好意により全文を転載させて頂く事になりました。

 宮原誠一氏は筑後地方を中心(久留米市の高良大社を軸)に40年間以上に亘って神社研究を続けて来られました。現在、「邪馬台国」研究者などと嘯く人々の大半が戦後の風潮によってか神社研究を荒唐無稽なものとして事実上無視しています。海外の史書+穴掘り考古学こそ戦後の科学的古代史の手法とでも錯覚されたのでしょうが、これとても京都学派と解放同盟の利権構造によって発掘予算を関西で独り占めにしたいとの思惑から邪馬台国九州説、ましてや九州王朝説などといったものが考古学協会から排斥されているのです。従って、畿内説と九州説の対立の背後に予算配分の問題が存在しているのであって、二度と再び吉野ケ里遺跡の様なものが出て来てもらっては困るのです。

 さて、最も熱心で活発な活動を続けてこられた元朝日新聞記者でミネルヴァ書房などから4著を公刊された内倉武久氏も当方のグループとのブログのリンクを張っておられますが、今回はこの「松野連系図」がテーマになっています。これを初期段階から研究し世に出された同氏も福岡市を中心とする似非九州王朝論者の○○古代史の会を見限り離脱されたやに聞き及んでいます。

 自らは現場に足を運ぶこともなく、ただただ他人の研究を拝聴して分かったような気になっているだけの団体は何の成果もなくいずれ歴史の屑籠に放り込まれるだけなのです。

他人の研究を中途半端に聴いて脳みそを介せず右から左に通過させるだけの人々は何の痕跡もなく消え失せるのであってこういった輩を相手にしていても何の意味もないのです。(古川)

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宮原誠一の神社見聞牒(126)
令和元年(2019)1028

No.126 金印の委奴國王と面土國王帥升と球磨郡あさぎり町


前記事「No.124 金印「漢委奴國王」は志賀島から出土したのですか?」にて、金印の委奴國王と面土國王帥升がおられた地域を熊本県球磨郡あさぎり町と想定しました。

『後漢書』倭伝に「建武中元二年 倭奴国奉貢朝賀 使人自称大夫 倭国之極南界也 光武賜以印綬」(建武中元二年(57)、倭奴国が奉貢朝賀す。使人は自ら大夫を称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす。) とあります。
金印を光武帝から57年賜綬された時の状況で、ここに「倭国之極南界也」とあります。金印を賜綬された「委奴国王」は倭国の南端にあったことになります。
倭国の南端は南九州です。

さらに、50年後、「永初元年(107)、倭国王帥升等は生口百六十人を献じて、請見を願う。」、続けて、北宋版『通典』では「安帝永初元年 倭面土國王師升等獻生口」(安帝永初元年(107) 倭面土國王師升等が生口を献じた。) とあります。
「倭面土國王帥升」の國王師升は呉の太伯王家姫氏(九州王朝国王)であり、「倭面土國」は熊本県球磨郡免田村(現あさぎり町免田)に比定されます。
倭国王・帥升は南九州におられたのです。

金印の委奴國王と面土國王帥升がおられたと見られる熊本県球磨郡あさぎり町の神社と遺跡を検討します。

   松野連<倭王>系図(平野雅廣氏著『倭国史談』200088日 熊本日日新聞)

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1.松野連<倭王>系図からみる「委奴国王」


「委奴国 いとこく」は熊本県球磨郡免田村(現あさぎり町免田)を中心とした球磨郡一帯であり、二代目の順王は球磨郡一帯を委奴国と定めたと推考しています。
「委奴国」の九州北部への移動が「魏志倭人伝」にいう伊都國となります。


松野連<倭王>系図
この系図には、歴代系統の名前ばかりで、細かい事蹟は記されていないが、鈴木真年の考証注記かと思われるものが付記されている。左側の()内は、鈴本真年による注記と思われる。()
系図原本は『日本書記』作成に使用された後、大和朝廷に都合の悪い系図は召し上げられたまま、返還されなかったのではあるまいか。従って提出当時に写本を作る余裕もなかった倭王遺族としては、不確かな記憶を頼りに、『松野連〈倭王〉系図』を再調製したものと思われる。これが、点在する名前洩れや時代錯誤した事蹟傍注の原因になっているのではあるまいか。   平野雅廣氏著『倭国史談』


松野連<倭王>系図は、系図の作成経緯からして「曖昧」が存在することを前提として進め、第一系図は難升米まで、第二系図は宇也鹿文までを対象とします。
松野氏の居所分布についてみると、二代目の「順」は委奴(いと)に居す、とあり、肥後から筑紫へ移った分家とされる。国会図書館所蔵系図には、「呉王夫差の支庶忌(字は慶父)、来朝して火国菊池郡山門に住す」とある、となっていて、呉王は菊池から出発したことになりますが、熊本県球磨に住したことがすっぽり抜けています。

注記をお書きになられた方(鈴木真年)は・・人吉・球磨の事を全く御存じ無かった・・と言うより念頭にも無かったのであろう・・と私は考えます。
ブログ「松野連系図と千早振る神々の時代の球磨と帆船」2019-03-17「ひろっぷ」


呉の太伯王家姫氏は忌王を初代に熊本県八代に上陸し熊本県球磨郡に移って来られます。
松野連系図では、いきなり、熊本県菊池から始まっていますが、松野氏の居所を考慮しますと、先祖は菊池から始まったと推定されたのでしょう。
中国史書に関係する倭王を松野連系図から拾うと、
光武帝建武中元二年(57)に関係する倭王は宇閇王(第一系)熊鹿文(第二系)
安帝永初元年(107) に関係する倭王は玖志加也(第一系)宇也鹿文(第二系)
熊本県球磨郡の地名と重なる倭王は、
宇閇王(うえおう)  → あさぎり町上  → 委奴國王(いとこくおう)
玖志加也(くしかや) → あさぎり町久鹿 → 倭国王帥升(めんどこくおう)

上村(うえむら)
かつて熊本県球磨郡にあった村。
2003
41日、同郡内の免田町、岡原村、須恵村、深田村と新設合併(平成の合併)し、あさぎり町となった。現在では、旧村域はあさぎり町上地区となっている。
あさぎり町沿革
1889
41日、町村制施行により、現在の町域にあたる以下の村が発足。
        球磨郡上村・皆越村・免田村・岡原村・須恵村・深田村
1895
127日、上村が皆越村を編入。
1937
41日、 免田村が町制施行、免田町となる。
2003
41日、 球磨郡上村、免田町、岡原村、須恵村、深田村の5町村が対等合併し、あさぎり町が発足。町名の由来は秋から春にかけて球磨盆地にしばしば発生する朝霧から名づけられた。

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合併前の町村名・字名
上東(上村上甲)、上北(上村上乙)、上南(上村上丙)、上西(上村上丁)、皆越(上村皆越)、岡原北(岡原村宮原)、岡原南(岡原村岡本)、須恵(須恵村)、深田北(深田村北)、深田西(深田村西)、深田東(深田村東)、深田南(深田村南)、免田東(免田町甲)、免田西(免田町乙)


松野連系図からみる中国史書に関係する倭王は
光武帝建武中元二年(57)の金印の委奴國王は宇閇王(うえおう)
安帝永初元年(107)の倭面土國王師升は玖志加也(くしかや)=玖志王

と、私は結論づけました。


2.あさぎり町免田を中心とする神社群


あさぎり町免田を中心とする一帯には、古代の重要な神社、地名があります。
人吉球磨には天子神社が12社、大王神社が5社あります。この多さは異常と言えます。
特に、あさぎり町旧上村には三社の天子神社です。あさぎり町全町では五社の天子神社です。この地域には神殿原(こうどんばる)があります。
また、錦町には天子神社が二社、大王神社が三社あり、この地域には高原(たかんばる)があります。
あさぎり町、錦町には古代の重要な何かがある? と思うのです。
 
天子神社群
 1 多良木町牛島の天子神社
 2 あさぎり町上南・麓の天子神社
 3 あさぎり町上東・石坂の天子神社
 4 あさぎり町上西・塚脇の天子神社
 5 あさぎり町久鹿の天子神社
 6 あさぎり町深田・草津山の天子神社
 7 錦町一武・本別府の天子神社
 8 錦町木上南・平良の天子神社
 9 相良村柳瀬・三石の天子神社
 10 山江村山田合戦峰の天子神社
 11 山江村城内の天子神社
 12 人吉市中神町古屋敷の天子神社
 13 錦町京峰の天下(あもい)神社

大王神社群
 1 錦町木上東・荒田大王神社
 2 錦町木上東・平河大王神社
 3 錦町・西村大王神社
 4 山江村・山田大王神社
 5 あさぎり町・深田大王神社
 6 多良木町黒肥地・王宮神社

3.あさぎり町久鹿の天子神社


あさぎり駅の北、球磨川の近くに久鹿(くしか)の天子神社が鎮座です。
「天子」と名が付くことから、皇帝、天皇を祀る神社と想定されますが、当時の球磨には皇帝、天皇はおられません。神武天皇は初代天皇ですが、天皇とは称していませんでした。「大王」が最高称号です。

久鹿の天子神社 熊本県球磨郡あさぎり町免田東838

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天子神社の由来
祭神 景行天皇(大足彦忍代別尊おおたらしひこしろわけのみこと)
例祭日 旧12月3日
鎮座地 面田町(字久鹿)838番地
沿革
創建は不詳であるが、伝説によれば第12代景行天皇が熊襲ご親征の折、輦駕(れんが)を止めた所といわれ、天皇(天子様)の御人徳をしのび、この地に神社が創建されたという。
神社西下の湧水池は「御手洗湧川ゆごう」と呼ばれ、天皇が湧き出る清水を御手水(ちょうず)として使われたといわれ、その名が残っている。


現地の神社案内板では、祭神は景行天皇となっています。
景行天皇こと大足彦は天皇ではありません。天皇に即位されていません。日本書紀によって与えられた()天皇です。まして、景行天皇による熊襲親征などありません。
由緒は日本書紀に沿って作られたものでしょう。
社号は「天子神社」です。祭神は皇帝、大王以上の位の方となります。
球磨には大王神社がありますので、祭神はそれ以上の方となります。

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祭神のヒントが球磨川対岸の深田の草津山(しょうずやま)の天子神社にありました。

深田草津山の天子神社 熊本県球磨郡あさぎり町免田西1685

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ひろっぷ「古代・中世・近世の繋がり 先祖について」
       天子神社にお伺いしました 2017-06-13
       https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12283326015.html
       天子神社の御神紋について 2017-10-28
       https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12323615604.html
       を参照ください。


 鳥居にはフリーメイソンのデバイダーと曲尺(かねじゃく)の略称紋が描かれていました。
「フリーメイソン」から連想するものは石工です。球磨には石を材料とした石倉があます。この技術も古代人からの引継ぎでしょう。古代人の石工物といえば、エジプトのピラミッドです。そこに携わったものはイスラエル・ユダヤ民族。その流れは、流れ流れて日本列島に渡来しているのです。その民族をエジプトから脱出率いた主導者は「モーセ」です。
 球磨の古代人は、遠い先祖の偉大な出来事を数千年経った後でも、石工の技術を引き継ぎ、このような神社の形でモニュメントとして残したのでしょうか。
大山祗系(トルコ系匈奴)のご一統が、この石工の技術を持っておられます。石組、石垣の技術は現代でも生かされています。古墳時代の石室は、この方達によってもたらされたと、考えています。その集団が熊本県北部、北筑後、瀬戸内海の小豆島の人達です。

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フリーメイソンのシンボルマークの一つ  深田草津山の天子神社の紋

フリーメイソン通説(Wikipedia)から要約
石工組合としての実務的メイソンリーが前身として中世に存在した、とする一説。
石工団体を元にした名残りとして、石工の道具であった直角定規とコンパスがシンボルマークとして描かれ、内部の階位制度には「徒弟、職人、親方」の呼称が残っており、集会においては、元は石工の作業着であるエプロンを着用する。

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百嶋神社考古学に関する資料を必要とされる方は09062983254までご連絡ください。

百嶋由一郎氏による講演録音声CD、神代系譜スキャニングDVD、手書き資料スキャニングDVDほか
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2020年01月12日

675 何度も足を運んでいる宗像大社ですが… A “少し振り返って出雲と大国主命を考えよう”

675 何度も足を運んでいる宗像大社ですが… A “少し振り返って出雲と大国主命を考えよう”

                                     20181024

太宰府地名研究会 古川 清久


2017511日付でひぼろぎ逍遥(跡宮)に411第三次奥出雲調査に行かなければならない B

を書いています。


以下の小論は ひぼろぎ逍遥 403「百嶋神社考古学」概論 001 “出雲とは何か?”として書いたものですが、奥出雲の神々を考える上で重要ですので、百嶋神社考古学からどう考えるかをまず知って頂きたいと思います。

巷では大和朝廷に先行する「古代出雲王国」とか“九州王朝に先行する古代出雲王権”といった大げさな話が横行しているようですが、これは近畿大和政権による偽装ではないかという事を考え始めたのは最近の事でした。

@ “大国主を出雲の国の人だと思っておられる方がおられますが全くの誤りです。”と言われたのは故)百嶋由一郎氏でした。

A “出雲はいたるところにあったのです。”という奇妙な話をされていてこれまで意味が分からなかったのですが、最近になってようやく意味するところが分かるようになってきました。

恐らく先生が言いたかったのは、列島の開拓段階での事であり、全体としての大幡主系と言うか、白族(大幡主)、越智族(大山祗)、瀛氏(金山彦)の連合体とも言うべき忌部、卜部…が展開した入植地こそが出雲だった、現出雲はその多くの出雲の一つだったという意味だったようなのです。

B 従って、出雲を「イズモ」と読み呼ぶのは、本来、誤りで、出雲は「イン」と呼ぶべきなのです。

C つまり、忌部(豊玉彦)の展開した讃岐、阿波、紀国、忌部の一員であった大国主が後から展開した現出雲もそうであり、九州島内にも出雲地名(飯塚市桂川)があるように、この旧忌部が展開していた地域が、今もモザイク的、斑状に存在しているのです。

D 出雲は「出」をイズルの「イ」、「雲」をウンと読めば、「イ+ウン」で忌部の「イ(ム)ン」と一応は読めるのです。

E では、大国主はどこにおられたのでしょうか?これについては、既に、ひぼろぎ逍遥(跡宮) 024 「大国主は九州で生まれた“オオナビコ(大国主命=オオナムチの幼名)を祀る春日市の伯玄社”」で書いていますのでお読み頂きたいと思います。

F これを読まれれば、少彦名命が春日市の須久岡本遺跡のある須久に住んでいた須久の彦だったことがお分かり頂けるのではないでしょうか?「スクナ」は「スクノ」の古形であり、今でも「そこな御人」「そこな女子」といった言葉が落語などに留められている事が思い浮かばれます。所有の格助詞の「な」がスクナヒコナ命の意味つまり、スクの彦の命がその意味だったのです。すると、春日市商工会議所敷地内に残された伯玄社にオオナビコとスクナヒコナノミコトとは幼馴染であった事までが見えてくるのであり、神話の世界が現実の歴史の世界に引き下ろされて来るのです。

G 最後に、大国主の国譲りの結果、最終的に大国主もしくは、その配下の大国主の一党が移動していった旧出雲の一つが現出雲であり、移動先(移転先)が現出雲だったことが見えてくるのです。

H 従って、現出雲とは近畿大和朝廷が創ったものであり、因幡の白兎神話の舞台とか大国主が大怪我をしてウムギヒメ、キサガイヒメが介護に送り込まれた現場といいテーマ・パークでしかないのです。

I このことは、九州の大国主祭祀圏の再検討再調査が極めて重要であることを示しているのです。

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大己彦命


宗像の神と言えば、宗像三女神と誰もが考えておられるでしょうが、百嶋神社考古学では、祭神を「大国主命」とします(ウムギヒメ、キサガイヒメは宗像三女神のうちのお二人なのです)。

出雲神話の神様の「大国主命」が祀られているなどとんでもない話だ!と言われるかもしれませんが、それなりの痕跡はあるのです。

落ち着いて考える必要があるのですが、神社のフィールド・ワークを行っておられる方には分かることと思うのです。まず、出雲系と言われる神社が多いのは圧倒的に九州なのです。

これは、計量的に調査を行うことが難しいのですが、熊野神社、諏訪神社、祇園社、須佐神社というものがあまりにも目立ちすぎるのです。

しかも、唐津市湊の沖には、神集(カシワ)島と呼ばれる島まで鎮座しているのです。

古代この地で神無月に神集まりが行われていたのではないかと考えています。

勿論、宗像大社が誰を祀ろうが、それはその神社の自由であり、その時々の判断でどのようにされるともとやかく申し上げる立場にはありません。

ただ、私達が知りたいのは古代の真実であり、正しい古代史の姿だけなのです。


『古事記』『日本書紀』によれば、三女神は天照大神(あまてらすおおみかみ)と素戔嗚尊(すさのおのみこと)の誓約(うけい)のもとに誕生し、天照大神の神勅によって、大陸との交通の要路にあたる「海北道中(かいほくどうちゅう)」(宗像よ無題.pngり朝鮮半島に向かう古代海路)に降臨し、以降、国家の守護神として崇敬されています。また、「日本書紀」には、宗像三女神が「道主貴(みちぬしのむち)」、すなわち国民のあらゆる道をお導きになる最も尊い神として崇敬を受けていたことが 記されています。「貴」とは最も高貴な神に贈られる尊称です。

道主貴(※宗像三女神)以外には、伊勢神宮の 大日靈貴(おおひるめのむち)(※天照大神)、出雲大社の大己貴(おおなむち)(※大国主命)のみですので、宗像三女神が皇室をはじめ人々からいかに篤い崇敬を受けら れていたかがうかがえます。


今在海北道中 號曰道主貴 此筑紫水沼君等祭~是也


今には海の北道の中に在り、號(なづ)けて道主貴(ちぬしのむち)と曰う。 此は筑紫の水沼君(みぬまのきみ)等の祭(いつきまつ)る~、是也。【日本書紀 卷第一 第六段 一書第三 読み下し】


「古代史獺祭」(こだいしだっさい)による


これまで気付いていなかったのですが、宗像大社が、“三女神を 道主貴(ミチヌシノムチ)と最も尊い神として崇敬を受けていたとしている“こと自体が実は証明であると思うようになりました。

「貴」とは最も高貴な神に贈られる尊称です。は、それで良いのですが、この三女神を大国主命(大己貴)に戻せば整合性がとれ、本当の祭神が「大己貴」であったと証言していたように思えます。

これは、いつの時代かに「大己貴」が「道主貴」という畿内から半島や大陸への道を司る重要人物という意味に書き替えが行われたのでしょう。

さて、あまり知られてはいませんが、宗像大社には奥ノ院ともいうべき高宮(これも福岡市高宮と関係があるでしょう)がありますが、ここには出雲大社の「稀人の間」同様のものがあり、一部には大国主命が祀られているとも聞きます。

太宰府地名研究会のエース伊藤正子女史(「太宰府・宝満・沖ノ島」の著者)の講演の中にかなり重要な証拠に近いものが発表されました。伊藤女史作成のパワー・ポイントデータからご覧いただきましょう。

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「万葉集」に証拠が残っていたのです


坂上郎女は京に帰るとき宗像の神(おおなむち・少彦名)に祈りに立ち寄った。

この歌からわかるのは、ここでは宗像神は三女神ではないこと、勝浦まで船で来たこと(道に上がり)、名児山は昔からその名がついていたこと、その名児山と聞いても自分が我子を思う心は深く何の慰めにもならないと歌い上げていること。(伊藤)


大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ、生没年不詳)は、『万葉集』の代表的歌人。大伴安麻呂と石川内命婦の娘。大伴稲公の姉で、大伴旅人の異母妹。大伴家持の叔母で姑でもある。『万葉集』には、長歌短歌合わせて84首が収録され、額田王以後最大の女性歌人である。

13歳頃に穂積皇子に嫁ぐが霊亀元年(715)に死別。一説に宮廷に留まり命婦として仕えた。この頃首皇子(聖武天皇)と親交を持ったらしく、後年個人的に歌を奉げている。 その後に藤原麻呂の恋人となる。しかし、麻呂とも早くに死別し、養老末年頃、異母兄の大伴宿奈麻呂の妻となり、坂上大嬢坂上二嬢を産んだ。しかし、彼とも33歳頃に死別したと思われる。その後は、任地の大宰府で妻を亡くした大伴旅人のもとに赴き、大伴家持大伴書持を養育したといわれる。帰京後は佐保邸に留まり、大伴氏の刀自(主婦)として、大伴氏の一族を統率し、家政を取り仕切ったのだろう。その作風は多分に技巧的でありながらも、豊かな叙情性をも兼ね備えている。しかし、彼女の数多い男性との相聞歌は、恋の歌になぞらえて、彼らへの親しみを表したものであったり、実体験ではないのではないかとも言われている。

坂上郎女の通称は坂上の里(現奈良市法蓮町北町)に住んだためという。 「ウィキペディア」による


大友坂上郎女という重要人物の証言だけに非常に重い資料と言えるでしょう。

最低でも、宗像大社の祭神は三女神などではなく出雲神話の神とされる「大国主命」「少彦名命」だったのです。出雲神話の舞台は九州だったのではないか?とした仮説は俄かに信憑性を高めてきました。

 きっかけは飯塚市桂川町に「出雲」という交差点があることに気付き、凡そ出雲神話など縁がない熊本県山鹿市の志々岐神社に巨大な大国主命の石塔を見出だし、薩摩の吹上浜にも大国主を祀る大きな神社を発見したことでした。

 確認したい方は 熊本県山鹿市志々岐1852 志々岐阿蘇神社外 を訪ねて下さい。

 どうやら、私達は大和朝廷が仕組んだ「出雲」隠し「九州王朝」隠しの入口に入ってきたようです。

今後とも、九州の出雲神話の痕跡を探ることになりそうです。(以上)


新たな展開


 宗像大社を考える時、“ここまで踏み込まなければ新たな地平は求められない”との思いから再掲載しましたが、今回、宗像大社の東の遠賀川河口一帯のトレッキングを行なうに併せ、地元の読者から耳寄りな話を頂きました。

 故)百嶋由一郎氏からは“宗像大社の本来の御祭神は大国主命です”と言われていた声が今も耳に残っています。これまで、どうしてそんなことが言えるのかとの思いだけで調査を続けてきました。

僅かな進展は大伴坂上郎女の歌でしたが、それに加え、その痕跡と言えそうな新たな状況証拠が提供されたのでした。

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宗像大社の東側を北に流れる釣川の河口、宗像大社の中津宮が鎮座する宗像大島へのフェリーの出船場に近くに 津加計志宮 (津加計志神社)があります。

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津加計志宮 (津加計志神社) カーナビ検索 福岡県宗像市神湊951


676 何度も足を運んでいる宗像大社ですが… B 宗像大社に大国主命が祀られていた痕跡を探る!

に続く

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2020年01月10日

674 何度も足を運んでいる宗像大社ですが… @ “宗像大社を楢ノ木の神紋から考えましょう”

674 何度も足を運んでいる宗像大社ですが… @ “宗像大社を楢ノ木の神紋から考えましょう”

                                     20181024

太宰府地名研究会 古川 清久


太宰府地名研究会は10月に福岡市と北九州市の間で筑豊から玄海灘に注ぐ遠賀川河口一帯に鎮座する伊豆神社(恐らく豊玉姫を祀る)4社外へのトレッキングを行ないました。

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その集合場所を宗像大社正面P駐車場(現地集合)1100 としたのですが、早めに到着した事もあり、45人で、宗像大社の本来の御祭神である大国主が祀られていたと睨む 高宮を参拝したのでした。

トレッキング資料(26p)については、トップ・ページだけを次葉に掲載しておきます。

 宮地嶽神社に関してはこれまで二十数本と言わずブログを書いてきましたが、宗像大社に関しては数本しか書いていません。それは近畿大和朝廷の影を感じた事からする嫌悪感かも知れません。

 まず、百嶋説に沿い宗像大社の本来の祭神は大国主命である(お妃キサガイヒメ、ウムガイヒメが宗像三女神の二神)と考える上に、宗像沖ノ島祭祀が古来宗像一族のものであったかのような宣伝と世界遺産登録に異論を持っているからです。結果的には思惑が外れたものの以下をお読み頂くしかありません。

 ひぼろぎ逍遥(跡宮)

458

宗像沖ノ島世界遺産登録といった愚行が半潰れになって多少はほっとした!

 外、数本をお読み頂くとして、今回は別の側面からのお話しをしてみたいと思います。

当日は悪天候が続いた2018年にしては珍しく非常に天候が良かったうえに、駅伝大会やら世界遺産登録効果もあって参拝客が急増しているようでした。現在、世界遺産登録などという言わば勝手な格付けには徐々に批判が高まっています。日本に限りませんが、こういった日本の伝統も文化も殆ど知らない外国勢力に尾を振り格付けを有難がって利用すると言う売国政策によって、特定の地域や一部の寺社などだけが良い目に逢うと言う準(純)不正行為は、行政庁の有り方としても、また日本の文化政策から言っても許し難い行為と考えるのですが、戦後顕著となった列島占領の延長上の惨めさを再確認しているところです。

まあ、そういった話はおくとして、行き掛かり上図らずも宗像大社について書くことになってしまいました。ただ、まだまだ基礎調査の段階でしかなく、いずれ書くとしても今回はちょっとした思い付きや下調べ程度のものとして思いついた事を書きたいと思います。非常に前置きが長くなりました。

まず、あまり知られていない同社の神紋について考えて見たいと思います。

何らかの結論とかが理解できていると言ったものではなく共に考えて見たいと考える作業仮説程度のものであって、元より神社側が否定されれば一般的にはそれで結論とされてしまうものでしかないのです。

ただ、このような基礎研究、基礎調査無くしては一寸たりとも本質には迫れないのであって、その限りで無理を承知で踏み込みたいと思います。

無題.png
遠賀川は筑豊から玄海灘に注ぐ大河ですが、この河口の両岸に伊豆神社という神社が4社ほどあります。結論を無題.png急げばこの神社群は主神として豊玉姫(父神=豊玉彦、母神=豊秋ツ姫)を祀っています。ではその起源とは何でしょうか?現在、対馬の木坂の海神神社の裏山が伊豆山であり、その地名移動が厳原で、糸島半島の伊都、出雲、厳島、出石、伊豆、伊東(豆→東)の可能性を探っています。皆さんも頼朝と政子が逢引したという熱海の関八州鎮座伊豆山神社の伊豆もその起源が海神神社の裏山の伊豆山である事は疑い得ないのではないでしょうか?今回は、この宗像大社の支配氏族とも重なる伊豆能売を探るトレッキングになります。この大国主のお妃でもある伊豆能売神こそ大本教、世界救世教、崇教真光、真光文明教団…の神でもあるのです。

20181021日 日曜日太宰府地名研究会トレッキング遠賀川河口に伊豆能売の神を探る!  


「遠賀川河口に伊豆能売の神を探る!」(大本教系教団の神とは豊玉姫だった?)

20181021日 日曜 日 午前1100 集合〜出発 連絡は古川まで 090-6298-3254

宗像大社  宗像市田島2331

 駐車場に集合!                     緊急連絡 :090-5289-2994

大雨の場合は中止! ※参加費(資料代)500円 各自、弁当、お賽銭、傘持参の事…

訪問予定の神社

伊豆神社         カーナビ検索 福岡県遠賀郡遠賀町島津578

久我神社の隣にある報恩寺 カーナビ検索福岡県遠賀郡水巻町古賀1丁目121 093-201-5011

えぶり小学校       カーナビ検索福岡県遠賀郡水巻町えぶり2丁目31

伊豆神社         カーナビ検索 福岡県遠賀郡水巻町頃末北2丁目9-1

創作神とか埋没神などと言った不行き届きな評価に貶められた神(神とさえ扱われていない)という伊豆能賣の祭祀を太宰府地名研究会の中島 茂氏の手助けによって発見し、その正体が豊玉姫であること、また、それが何故伊豆能賣と呼ばれているかについて考えてきました。

あくまで仮説であり、将来、修正する可能性は留保しますが、大枠で考えて大幡主系の女神であり、大国主命のお妃か関係者であること、当然にも北部九州に関係する神(人物)になるであろうことは動かないと思います。

@  伊豆神社 カーナビ検索 福岡県遠賀郡遠賀町島津578

無題.png九州王朝論者の中でも九州に住む者は、神代史の大半は九州島を中心に起こっているとの確信は、勢い、その現場がどこかにあるはずであり、また、二千年近く経過したとしても何らかの痕跡は残っているはずであり、その可能性を探る事ができる環境にあるというある種の特権(距離の問題から北海道在住者にはなかなかできない)を持っているのです。

であるにも拘らず、自称九州王朝論者においても現場を一切見ようとせず、「記」「紀」に偏重した文献史学を中央の学者に沿って吹聴しようとする輩が跡を絶ちません。

まず、関東、関西にあったとしても現場に出る事を一切行わず、「記」「紀」を金架玉条の如く聖典化する人々には藤原によって閉ざされた古代の扉を開く資格は一切ないと言わざるを得ないでしょう。

簡単言えば、伊豆能賣 を埋没神などと評価した学者擬きは、逆に自らが「記」「紀」に埋没していた事を知るべきであり、情報化社会ではさらに一層埋没化して行くであろう事を考えるべきでしょう。

何のことはない…。キチンとした調査もやらず、「記」「紀」を崇めただけの事であり、近畿大和を中心に列島の古代史が展開したなどと言った馬鹿げたお伽話を信じた結果、奈良、京都周辺だけを調べて神代の神々の痕跡が一切無い事から(そんなことは当たり前なのですが)、やはりそれは架空(所謂欠史八代)…

ひぼろぎ逍遥(跡宮)

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伊豆能売の神とは何か? E “伊豆能賣の中間調査を終えて思う事” 

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伊豆能売の神とは何か? D “伊豆能賣は 何故「イヅノメ」と呼ばれたのか?”

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伊豆能売の神とは何か? C “遠賀川左岸に伊豆能賣を発見した ”遠賀町の伊豆神社“ 

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伊豆能売の神とは何か? B “遠賀川右岸の二つ目の伊豆神社の元宮か?”久我神社 

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伊豆能売の神とは何か? A “二つ目の伊豆神社” イヅノメの神が少し分かってきました

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伊豆能売の神とは何か? @ “遠賀川河口の両岸に伊豆神社が並ぶ”

先行して、イヅノメに関心をお持ちの方は上記外を…


さて、話を宗像大社に戻します。宗像大社は楢の木を神紋としています。何故でしょうか?宗像三女神と楢の木をイメージしても結論は出て来ませんね。ここで、故)百島由一郎氏が言われていた本来の祭神である大国主命と考えると、多少なりとも答えが出てきそうなのです。

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同社神殿に向かって右手にありますがかなりの大木の枝木が藤棚のような装いを見せています


 何故、楢木が神文に選ばれたのかについて考える事にはそれなりの価値があるでしょう。

 「記」「紀」に依るのも結構ですが、まずは関係があると思われる神社との相関を考えて見ましょう。

 天照とスサノウとの子産み争いとか誓約とか奇妙な話に仕立てられている五男三女神の話がありますが、

一応、その三女神を宗像の神として受け入れるとして、仮に百嶋神社考古学の立場から宗像の本当の祭神は大国主命であると考えれば少し見えてくるものがあるのです。

 大国主の子とされる二人の息子のうち、国譲りに即座に応じたとされる兄の事代主と、最期まで国譲りに抵抗したとされる弟の建御名方の神紋を見比べて見ましょう(百嶋説は子とも兄弟などともしない)。

神紋は神社ごとに多くのバリエーションがありますので、ここでは代表的なものを拾っています。

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事代主(事代主神社) 宗像大社 大国主と見た場合  建御名方(諏訪神社は諏訪だけでも4社)


皆さんどこか共通性があると思いませんか?何となく似ていますね、左の事代主=恵比須のマークは恵比須ビールでご存じでしょうが、通常は柏紋と言われていますし、宗像大社は楢紋とされています。

諏訪神社は梶紋とされ、親子三神(百嶋神社考古学ではいずれも大国主の配下であって子ではないのですが)とすれば、全て天狗様の団扇のような葉っぱであって、その事が目立たない様に柏、楢、梶…と各々主張しているのです。

 相互に、共通しているのは葉の葉脈であって、それが意味するものは、実はユダヤの燭台(ロウソク立)なのです。

 これを海人族がなぜなどと考えては凡そだめなのです。また、そのまま海人族の一派としての宗像族をイメージしては結論には辿り着けないのです。

宗像三女神(これも百嶋神社考古学では姉妹=スサノウと天照の誓約 ではなく従姉妹同士程度のものなのですが)、安曇族=志賀島の海人族の一派の上に担がれた天御中主、白川伯王〜大幡主〜豊玉彦=ヤタガラスの流れにある白族が元々はユダヤに通じる一族だった事を意味しているのです。

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高木大神系が使う梶紋(蔦紋)とメノラー(7本燭台)やハヌキヤ(9本燭台)

(「古代ユダヤ人は日本に来ていた」―実証的証明― 杣 浩二 078-291-5786をお勧めします)


「…梶の葉紋は夫々の葉の葉脈がメノラー(七本)やハヌキヤ(九本)の数となっており、その例を右記に示す…諏訪大社のミチクサ祭りに現れるアブラハムのイサクを幡祭に捧げる旧約聖書におけるユダヤの事件の事を考えると、明らかに梶の葉のメノラー、ハヌキヤが古代イスラエルに根ざしたシンボルと考える事が不可能ではないと考えられる」諏訪大社とメノラー(梶紋について) 

「古代ユダヤ人は日本に来ていた」65p

 今でも宗像大社にこの神紋はと尋ねると、“楢です”とのお答えを頂くそうですが(「玄松子の記憶」)、高貴な神社にしてはドングリが神紋というのも不思議です。私には、わざわざ建御名方とは無関係とするために敢て“ドングリの生る楢ですよ”と強調されている様に思えるのです。

つまり、反逆者としての諏訪大社の梶紋とは無関係ですよと言わんばかりに近畿大和朝廷への直結を売りにしているのではないかと考えてしまうのです。

 もしも、楢紋だけであれば気付かなかったはずです。

わざわざドングリまであしらっている事から、国譲りに反対した建御名方とは無関係であって、私どもは昔から近畿大和朝廷に忠誠をつくした一族ですとのメッセジを見て取ったのでした。

 勿論、これは作業仮説でしかなく責任は持てませんが、これが北部九州の海人族の東西分裂(今も続いていますが志賀島〜津屋崎の安曇族と宗像大社の宗像族とは仲が悪いのです)に関係しているのです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


 逆に言えば、これも宗像大社の高宮に祀られていた(いる)のが大国主命だったのではないかとする百嶋神社考古学の信憑性を感じさせるのです。

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丁度この境内に置かれた神木の楢の木から神殿の千木が見えます。

どう見ても縦切の男千木であって宗像三女神のものではなく主祭神が男神であることを示しています。

 「素人さんは良くそうおっしゃるんですが、そんなものは何の信憑性もないのですよ…」などと笑い飛ばす伊勢神宮辺りの禰宜を知っていますが、それは政治情勢への損得勘定から何度も祭神を入れ替え続けた結果いつしか整合性が取れなくなり説明できなくなったことを開き直っているだけであって、禰宜ながら自らの無関心のなせる業でしかないのです。本来、その嘲笑は自らに向けられるべきなのです。


百嶋由一郎氏が残した神代系譜、音声CD、手書きスキャニング・データが必要な方は09062983254まで

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記