太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2017年11月02日

391 第三次奥出雲調査に行かなければならない

391 第三次奥出雲調査に行かなければならない

20170429

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


スポット099 奥出雲の仁田調査に行かなければならない において島根県仁多郡の調査に触れました。

これまで雲南市には何度か入っていましたが、奥出雲町までは入っていませんでした。

ところが、物部氏でもその筆頭に掲げられる二田物部の避退、拡散、展開地が現奥出雲町だったのではないかと気づき、二泊三日、往復1100キロの第一次奥出雲町神社調査(4月の第4週)を行いました。

と言っても、島根県神社庁作成の奥出雲町神社一覧から、直接、五十猛(ニギハヤヒ)を祭神とする4社を拾い出し実踏するだけの事でしたが、戻ってくると、やはり全ての神社を見る必要があるとの思いがつのり、再び、三泊四日、往復1100キロの第二次奥出雲町神社調査(4月の第5週)を行ったのです。

まとまった地域とは言え、奥出雲町の全ての神社を実際に踏み、実見し収録してくる事はこれまでにも無い事であり、それだけでも面白い試みでした。

結果、35社ほどを踏み、全体像が掴めると、ある程度の纏まらないイメージが湧いては消え、消えては湧いてくる様になりました。

言うまでもなく百嶋神社考古学では現出雲を古代出雲とはしません。

あくまでも博多の櫛田神社の大幡主が列島に展開した多くのエリアが出雲だったのであり、現出雲はその一つだっただけの事なのです。

大国主命もこの大幡主の配下として活動していた大山祗の子であり入り婿だったのであり、宗像大社の本当の祭神も大国主命であり(だから宗像の神殿には男千木が立っている)、本来、大国主命も少彦名命も北部九州で活動していたのです。

それは、これまで述べてきたところです。


ひぼろぎ逍遥

177 大国主を出雲の神様と考えておられる方に対して僭越ながらも…

176 少彦名命とは何か?

115 宗像大社の本来の祭神とは何か?以下。


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

067 少彦名命とは何か?

066 宗像大社の本来の祭神とは何か?

027 宗像大社は8世紀初頭まで三女神を祀っていなかった! “本当の祭神は大国主命”

021 宗像大社の祭神は三女神にあらず!!


今のところの認識は、通常出雲系と呼ばれる大幡主系氏族が、その理由は不明ですが、この奥出雲に移り住み、海岸部の出雲は近畿大和朝廷の占領支配を受け、テーマ・パーク化されたものと考えています。

 その結果、この奥出雲町には本物の大幡主(出雲)系の神々が凍結保存されているものと考えています。

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こうして行った35社の神社調査(全て初見)でしたが、実は一社だけ見落としていました。

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どうやら、写真はカメラ店に委託して確保できるのですが、やはり現地を実見する必要はある訳で、再び出雲を訪れる時に奥出雲に入る事になりそうです。


スポット099 奥出雲の仁田調査に行かなければならない

20170407

この間「先代旧事本紀」巻第三 天神本紀 筆頭二田物部の拠点を求めて調査を進めてきた事はお話ししていますが、既に、二田物部の故地には二田類似地名とニギハヤヒ祭祀とが共存している事実を認識している事から、これをメルクマールとして二田物部の移動を探っています。

現在のところ、最も南の@熊本県熊本市植木町田底二田に二田神社が…A福岡県八女市星野村仁田坂、仁田郷があり天照国照彦…祭祀が…B福岡県久留米市田主丸町石垣二田に二田月読神社(猿田彦祭祀あり)…C福岡県久留米市田主丸町中心部に三夜様=月読神社(猿田彦祭祀あり)が…D福岡県小竹町新多が…この地こそ二田物部の最大拠点だったと認識する研究者は多い E島根県太田市に全国最大の物部神社が存在している事は言うまでもなくF新潟県柏崎刈羽原発に近い西山町に二田があり物部神社が…さらにG秋田県潟上市天王字上江川に二田があり二田神社が存在している事まで確認してきました。

どうやら、日本海ルートで北に避退した二田物部が見えるのですが、島根県にはもう一つの避退地があった事に気付きました。

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それが島根県(出雲国)の仁多郡(ニタ)郡です。
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島根県神社庁/仁多郡奥出雲町 神社一覧を見ると

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仁多郡には五十猛を祀る神社が四社確認できます。これまでにも何度か入っていますがこの四社は未見の神社であり、現地を踏めば、物部の移動について何らかの痕跡を確認できるのではないかと考えています。

勿論、五十猛とはニギハヤヒの別名であることは言うまでもありません。

以前にも一度触れましたが、分かりやすい例がありますので再度ご紹介しておきましょう。

山陰本線五十猛駅、静間(ここも建葉槌命と関係がありそうですが)、太田市…と駅が続きますが、物部氏の最大拠点の傍に五十猛駅があることは象徴的ですらあります。

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いずれにせよ、神社調査は記憶が鮮明なうちに書かなければならないので、36社のリポートに取り掛からなければなりません。「島根県神社誌」を入手していない段階ですので不正確かも知れませんが始めます。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 13:40| Comment(0) | 日記

2017年10月27日

390 ダムに追われた石壺神社 “島根県雲南市木次町の石壺神社”

390 ダムに追われた石壺神社 “島根県雲南市木次町の石壺神社”

20170418

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川  清久

関連研究団体の常陸の国ふしぎ探検隊に“414日から416日に掛けて往復1100キロ二泊三日の行程で 島根県奥出雲町の4つのニギハヤヒ系神社の調査”を行っていると話すと、すかさず、隣の雲南市の石壺神社を調べてほしいと依頼されました。

彼らの関心がどこにあるのかは分かりませんがいずれレポートが公開されるはずで、現段階では当方は只のカメラマンであり道の肥し目の肥し程度の話でしかありません。

 しかし、初見の神社でありそれなりに成果はあるものです。島根県については神社誌を購入予定ですが、まずは、概略を地元のサイトからお読みください。

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石壺神社 カーナビ検索 島根県雲南市木次町平田1960

風土記:大原社

延喜式:―雲陽誌 :岩坪大明神(武雷命・齋主命・天津児屋根命・姫大神)

様 式:大社造変態

御祭神:武雷命・斉主命・天児屋根命・比売大神

合祀神:誉田別命・玉依姫命・息長足姫命(若宮八幡宮)・倉稲魂命(若宮神社)・少彦名命(若宮神社)

     蛭児命(岩船神社)

平成二十三年、斐伊川の上流に完成した尾原ダムから下流1kmに鎮座。旧社地は湖底に沈むこととなり現在の場所へ遷座された。前方に蛇行する斐伊川、後背は小山、周囲は圃場整備された田が広がる。境内は小規模にまとまっているが南面して明るく照らされていた。鳥居脇には狛犬が新調され、切妻の拝殿奥には大社造りの本殿が建つ。この他、本殿の右側には大蛇の口を象った尾呂地神社が、左側には杵築神社、社日神社などが見えた。

社頭の由緒に拠れば、風土記記載の大原社で『雲陽誌』には岩坪大明神と記される。旧社地は仁多郡尾原村内にあり、大蛇の様な斐伊川に囲まれた岩山であった。尾原村の名は、大蛇退治後その尾が祀られたことにも因む。同社には明治五年に村内安井の若宮神社、小端の若宮神社、法印宮谷の岩船神社を合祀。尾原ダムの建設により現在の地へ遷座、平成十二年晴れて遷宮を迎えた。

〈境内社〉

本殿の右側に尾呂地神社、左側には杵築神社、荒神社、社日神社が祀られる。尾呂地神社に蛇神、杵築神社に大山祇命・素戔嗚命・大己貴命、荒神社に山ノ神、社日神社に社日五神を各々祀る。

〈所在地〉

島根県 雲南市 木次町 平田


無題.pngによる


 まず、御祭神の武雷命、斉主命、天児屋根命、比売大神は多少違和感が付き纏います。

 武雷命を武甕槌=春日大神=草部吉見神と考えれば、天児屋根命は同一神であり重なっていると考えられますし、武雷命の雷を軸に崇神と考えれば系統は良いのですが、三世代ほどずれが生じそうです。

倉稲魂命(若宮神社)、少彦名命(若宮神社)が、なぜ、若宮神社とされているかも不明です。

 宇佐神宮にも若宮神社が置かれているように通常は仁徳=オオササギとなりそうですし、忌部のエリアを中心にヤタガラス=豊玉彦を大幡主の若宮とする例はありますが、息長足姫命(若宮八幡宮)、倉稲魂命(若宮神社)、少彦名命(若宮神社)を若宮との表現には遭遇した事がありません。

 実は、百嶋神社考古学では仁徳は高良玉垂命=開化天皇と神功皇后との間に産れた長子ですので、百歩譲って神功皇后を若宮としても、倉稲魂命、少彦名命が若宮とは不思議です。

 ただ、不必要で無駄なダムによって移転を余儀なくされたとしても、この神社が極めて重要な神社である事は、五角柱の天照皇大神、大己貴命、少彦名命、倉稲魂命、埴安命があるだけでも分かります。

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まず、木次町の木次とは日御碕の杵築であり、石壺さえも、磯壺であり五十壺の可能性を見ておくべきでしょう。つまり、石上神社、五十猛の磯、または、石槌の石と考えるべきではないかと思うものです。

 合殿の若宮八幡宮は仁徳(九州王朝の最後の天皇)を祀る神社だったのではないかと考えていますが、本当は金山彦、荒神を祀るものかも知れません。後は、常陸の国ふしぎ探検隊にお任せしたいと思います。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:21| Comment(0) | 日記

2017年10月24日

389 伊勢の外宮の豊受大神は伏見のお稲荷はん  “島根県雲南市吉田町吉田の兎比神社から”

389 伊勢の外宮の豊受大神は伏見のお稲荷はん  “島根県雲南市吉田町吉田の兎比神社から”

20170418

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川  清久

414日から416日に掛けて往復1100キロ二泊三日の行程で 島根県奥出雲町の4つのニギハヤヒ系神社の調査のために単騎長躯の足早な遠征を企画したことは既に述べましたが、目的地の奥出雲町の手前の雲南市吉田町の兎比神社に立ち寄りました。

 天気も良くなり正に桜満開の中、山里の神社を訪ねる事はそれだけでも心が和むものであり、運転の休養にもなるのです。

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兎比神社 旧称兎比社(トヒノヤシロ) 御祭神:足名稚命、手名稚命

 言うまでもなくスサノウのお妃となる櫛稲田姫の親神を祀る神社ですが、百嶋神社考古学ではこの二神を金山彦(父神)、埴安姫(母神)とします。ただ、なぜ兎比神社と呼ばれているかは不明です。

 兎比(トヒ)は「トビ」であり「トミ」であり(M音、B音の入れ替わり:つむるvsつぶる、かむるvsかぶる…)、富の長脛彦の後裔氏族が住み着いた可能性はあると思います。

 それは、スサノウと櫛稲田姫の間に産れたのが長脛彦であり、逆賊扱いにされた長脛彦を祀る神社とは言えないためお妃の二神を表に立てているのかも知れません。

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隅々まで手入れの行き届いた立派な神社です

兎比(トヒ)は「トビ」であり「トミ」であり(M音とB音の入れ替わり現象=目をつむるとつぶる、噛むとカブリツク…)と書きましたが、そう考えた理由は以下の蔦紋が打たれていたからです。

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神殿最上部には蔦紋が打たれています

この蔦紋(実はメノラーorハヌキヤ)を使う人々こそ栄えある長脛彦の流れを汲む可能性があるのです。

そういえば、同じ雲南市の三刀屋町殿河内にも出雲井神社(ナガスネヒコを祀る)がありますね。

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さて、境内には稲荷神社も置かれています。

 この解説に面白い記述があったためご紹介しておきます。

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「稲荷神社の御祭神は豊受姫大神であります。」と簡潔に書かれています

 全国至るところにあるオコンコン様ことお稲荷様ですが、その実体はほとんど知られていません。

 勿論、伏見稲荷とは伊勢の外宮の豊受大神であり、猿田彦=ニギハヤヒ=山幸彦のお妃である天宇津目命と知ってはいても(百嶋先生からもそう教えられているからですが…)、実際に稲荷様が誰なのかが公開されている現場に遭遇した事は全くありませんでした。

 しかし、この神社では「稲荷神社の御祭神は豊受姫大神であります。」とはっきり書かれていたのです。

 恐らく大半の稲荷は伏見稲荷の系統でしょうが、全てがそうだという訳でもないようです。

 さらに、その伏見稲荷の原点も福岡県春日市の白川白王益寿稲荷と考えています。

 当の百嶋先生も、「稲荷さんにも色々あります…」と言われていますのでこの点についてはなおも探究が必要でしょう。

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百嶋由一郎イヨ神代系譜(部分)


 この稲荷様は、始めは海幸彦を夫とし後には山幸彦を夫とします。

 この辺りが、伊勢神宮の外宮の傍に猿田彦が祀られていたり、椿神社や猿田彦神社があったり、海幸彦が祀られていたりする理由なのです(こんなことを言っても伊勢の禰宜どもはせせら笑うでしょうが)。

これについては別稿としましょう。

 最後に、なぜ、稲荷(イナリ)と呼ばれるかです?

 これについて最近になってようやくおぼろげながらも見当が付きはじめました。

 それは、豊受大神の夫である山幸彦が大伊乃伎神と呼ばれており、「イノキ」は「イナキ」の可能性があるのです。九州のU音は畿内のO音となる事が多い為、「イノキ」は「イナキ」なのです。イナイ→イナリ。

 足名稚命、手名稚命という神名が足と手の槌と考えれば(埴安姫は土師氏であり土型を造るの人なのです)つまり、足で踏む槌を使う男神、手で打つ槌を打つ女神とすれば、名(ナ)は所有の格助詞の「ノ」である事がお分かり頂けるでしょう。

 少彦名命(スクヒコミコト)の意味が分からない方が多いとは思いますが、「ナ」は所有の格助詞である「ノ」の古形の可能性があり(ソコオナゴ…)、別民族の言語が反映されている可能性もあるのです(これも九州のU音は畿内のO音)。

つまり、少彦名命とは福岡県春日市の須久の彦の命の意味でしかないのです。

 これについては、ひぼろぎ逍遥(跡宮)66.少彦名命とは何か?をお読み頂きたいと思います。

 つまり、大伊乃伎神とは稲城、稲木、稲置(イナキ、イナギ)であり、それが稲荷と書かれ「イナリ」と呼ばれたのではないかと考えるのです。当然、アントニオ猪木もこの後裔になるかも知れません(冗談?)。

 従って、稲城、稲木、稲置…さんは、この山幸彦=猿田彦=ニギハヤヒの後裔氏族である可能性があるのです。

 しかも、稲荷さんは稲と関係があるのです。事実、伏見稲荷には稲の模様が描かれています。

 それは、伏見稲荷の一番端に置かれた四大神社に謎を解く鍵があります。この神様が山幸彦なのです。

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祭神

(本殿内の神座)

(中央座) 宇迦之御魂大神【うかのみたまのおおかみ】倉稲魂神とも書かれております。

(北 座) 佐田彦大神【さたひこのおおかみ】    猿田彦命とも書かれております。

(南 座) 大宮能売大神【おおみやめのおおかみ】  大宮女命とも書かれております。

(最北座) 田中大神【たなかのおおかみ】

田中大神は大己貴神【おおなむちのかみ】と同一神であるとの説があります。

(最南座) 四大神【しのおおかみ】

四大神とは、五十猛命【いたけるのみこと】・大家姫【おおやつひめ】・柧津姫【つまつひめ】・事八十神【ことやそがみ】の四柱だとする説、一柱だとする説があります。


これについては、ひぼろぎ逍遥(跡宮)293 大宮神社と猿田彦大神 L “福岡県豊前市の四公神社“

をお読み頂きたいと思います。

 現在も伏見稲荷に祀られている四大神とは大分県豊前市に34社ほど残る四公神社の事であり、猿田彦を祀る(伏見稲荷の夫)神社で、猿田彦が稲作の普及のために尽力しており、その取り分を四公六民として分配した比率を表しており、それを四大神として継承したものが伏見稲荷の四大神なのであり、実は稲荷様の旦那様なのです。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 16:56| Comment(0) | 日記