太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2017年08月02日

361 蘇民将来 巨旦将来と百嶋神代系譜 A 鳥瞰

361 蘇民将来 巨旦将来と百嶋神代系譜 A 鳥瞰

20170211

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川  清久


先に、「ひぼろぎ逍遥」 extra038 蘇民将来 巨旦将来と百嶋神代系譜 として、本来、「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)に掲載すべきものを先行掲載しましたが、オンエア後になって、場所を分かって頂くための位置図を添付していなかった事に気付きました。

 今回は、蘇民将来 巨旦将来の本当の現場であると考えられる一帯の地図を改めて鳥瞰(俯瞰)する事にしました。

 一般的には「備後国風土記」逸文との関係からその現場は備後(福山)辺りであろうといった理解が普及しています。

当然、その一帯についてもフィールド・ワークを何回もおこなったのですが、どうもそうとは言えないようなのです。そこで、「ああ、ここにも蘇民将来 巨旦将来伝承が良く残っているなあ…」と思ったのが、この宮崎県五ヶ瀬町鞍岡の祇園神社だったのです。

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祇園山の麓の祇園神社の縁起に見る「蘇民将来、巨胆将来」


蘇民将来

無題.png蘇民将来(そみんしょうらい、非略体: 蘇民將來、蘓民將耒、 – 将耒、など)とは日本各地に伝わる説話、およびそれを起源とする民間信仰である。こんにちでも「蘇民将来」と記した護符は、日本各地の国津神系の神(おもにスサノオ)を祀る神社で授与されており、災厄を払い、疫病を除いて、福を招く神として信仰される。また、除災のため、住居の門口に「蘇民将来子孫」と書いた札を貼っている家も少なくない。なお、岩手県県南では、例年、この説話をもとにした盛大な蘇民祭がおこなわれる。陰陽道では天徳神と同一視された。

説話

古くは鎌倉時代中期の卜部兼方『釈日本紀』に引用された『備後国風土記』の疫隈国社(えのくまのくにつやしろ。現広島県福山市素盞嗚神社に比定される)の縁起にみえるほか、祭祀起源譚としておおむね似た形で広く伝わっている。

すなわち、旅の途中で宿を乞うた武塔神(むとうのかみ、むとうしん)を裕福な弟の将来(『備後国風土記』では「或本作巨旦將來也」とあり、巨旦将来〈こたんしょうらい〉と表記され、金神のこととされる)は断り、貧しい兄・蘇民将来は粗末ながらもてなした。後に再訪した武塔神は、弟将来の妻となっていた蘇民の娘に茅の輪を付けさせ、それを目印として娘を除く弟将来の一族を滅ぼした。武塔神はみずから速須佐雄能神(スサノオ)と正体を名乗り、以後、茅の輪を付けていれば疫病を避けることができると教えたとする。

蘇民将来の起源

武塔神や蘇民将来がどのような神仏を起源としたものであるかは今もって判然としていない。

武塔神については、密教でいう「武答天神王」によるという説と、尚武の神という意味で「タケタフカミ(武勝神)」という説が掲げられるが、ほかに朝鮮系の神とする説もあり、川村湊は『牛頭天王と蘇民将来伝説』のなかで武塔神と妻女頗梨采女(はりさいじょ)の関係と朝鮮土俗宗教である巫堂(ムーダン)とバリ公主神話の関係について関連があるではないかとの説を述べている。

蘇民将来についても、何に由来した神かは不明であるものの、災厄避けの神としての信仰は平安時代にまでさかのぼり、各地でスサノオとのつながりで伝承され、信仰対象となってきた。

ウィキペディア20170211 0938による

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宮崎県五ヶ瀬町祇園山山麓 鞍岡の祇園神社


 では、百嶋神代系譜(蘇民将来、巨胆将来)を御覧いただきましょう。

 これによると、まず、敵役の巨胆将来ですが、金凝彦(カナコリヒコ)とします。現在の阿蘇神社の神殿最奥部に祀られている神沼河耳(実は藤原によって第2代贈)綏靖天皇と格上げされた阿蘇神社の隠された主神)なのですが、再建途上にある阿蘇神社に行かれて禰宜にでも「金凝彦様は祀られておられますか?」と尋ねられれば、今でも直ぐに、「神殿の最奥部に祀られております」とお答え頂けるでしょう。

 実はこの神沼河耳の腹違いの兄弟が阿蘇高森の草部吉見神であり建磐龍命なのです。ただ、草部吉見の娘である阿蘇ツ姫を建磐龍命がお妃としている事から、同時に義理の親子とも言えるのです。

もう一人の主役である蘇民将来については、百嶋先生からもはっきりここに居たとの話を聴いてはいません。あくまで推定ですが、当然にも彦八井、神八井を祀る、草部吉見神社周辺高森町草部周辺の人であると考えています。理由は薄弱ながら簡単です。

草部吉見神社の縁起による祭神は以下の通りであり神八井命は外されているのですが、夏の大祭の時だけに見る事ができる草部吉見神社の神代系譜には神八井がきちんと書かれているのです。


一の宮 日子八井命    二の宮 比東芬q命   三の宮 天彦命    四の宮 天比当ス

五の宮 阿蘇都彦命   六の宮 阿蘇都比当ス  七の宮 新彦命    八の宮 彌比当ス

 九の宮 速瓶玉命     十の宮 若彦命     十一の宮 新比当ス  十二の宮 彦御子命


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この系譜は「ひぼろぎ逍遥」035を参照下さい

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百嶋神代系譜(蘇民将来、巨胆将来)部分


 そして、伝承には幾つかのバリエーションがあるのですが、スサノウは龍宮にお妃を貰いに行く途中一夜の宿を乞うたという話になっているのです。そのお妃こそアカルヒメであり、博多の櫛田神社の大幡主=塩土翁=神皇産霊の娘(系譜参照)であることも見えてくるのです。

 恐らく、この「蘇民将来、巨胆将来」伝承を継承しているスサノウ系氏族のいた土地こそこのスサノウの姉クラオカミを祀る五ヶ瀬町鞍岡であろうとまで考えざるを得ないのです。

 まず、最低でもスサノウはこの鞍岡の地を経由し滞在したと思います。

 単純には言えませんが、クラオカミこと神俣姫は鞍岡に居たからクラオカミと呼ばれていた可能性があり、しかも、伝承では後にスサノウから滅ぼされることになる巨胆将来のお妃ともなっている事を考え合わせれば、阿蘇からそう遠くないところでなければならないはずなのです。

してみると、鞍岡は十分に現実味があり符合する場所に居た事になるのです。

 さらに言えば、百嶋神代系譜では、巨胆将来=神沼河耳のお妃が神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)のお妃であったアイラツヒメを継承した(神武天皇とは別れている)事を考えれば、そのアイラツヒメの実の兄であった五瀬命(有名な神武皇兄イツセノミコト)もこの五ヶ瀬の地にいたからイツセノミコトと呼ばれている可能性を考えざるを得ないのです。

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すると、この本物の神武天皇、神沼河耳、アイラツヒメ(神武と別れた後に蒲鴨池姫としているのですがこの事を阿蘇宮司家は知っているはずですが否定されています)もこの一帯にいたのです。

 いずれにせよ、阿蘇一の宮と南阿蘇の高森とは直線で15キロ程度、さらに、五ヶ瀬町、鞍岡も高森から直線で15キロ程度である事を思えば、全ての関係者は阿蘇高森を中心とする半径20キロ程度の所に居た可能性があるのです。

 どのように考えても、阿蘇高森町草部を中心とするエリアでこの蘇民将来、巨胆将来伝承が生じたのであり、その後のスサノウ系氏族の移動に伴い全国にこの伝承が広がったと考えられるのです。

 しかし、この背後にはスサノウ系(新羅系と言うよりペルシャ系)氏族と、雲南省麗江から進出避退してきた黎族(阿蘇氏、多氏、宇治氏、耳族…)の間に生じた民族衝突が反映されているものと思うのです。

 皆さん、同時にこの話が現在の「茅輪神事」「茅輪潜り」に繋がっている事もお考えください。

 最後に、巨胆将来と推定される阿蘇の神沼河耳がスサノウ側からは意地悪をしたような扱いにはなってはいますが、神代(実は古代)には民族と民族の衝突が起こっているのであり、どちらが悪いと言う事はないのです。耳族も漢族と最後まで闘い大陸から避退したのであり彼等への共感も否定できないのです。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 10:18| Comment(0) | 日記

2017年07月31日

360 阿蘇氏が天皇家の一族であると言う理由について

360 阿蘇氏が天皇家の一族であると言う理由について

20170201

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川  清久


この間、阿蘇高森の草部吉見神社について多くを書いてきました。

 今回は、単に草部吉見神社に拘らず阿蘇氏について考える事にしたいと思います。

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HP「武家家伝」氏も「阿蘇氏は、…『阿蘇宮由来記』によれば、その先祖は神武天皇の皇子神八井耳(かむやいみみ)命とされ、第二代天皇の綏靖天皇の同母兄にあたるという。」と書かれている様に、阿蘇氏は自らが天皇家にも深く繋がる名族であるとしています。

これは阿蘇神社の阿蘇氏に限らず、高森の草部吉見神社に於いても同様です。


社名の草部は「クサカベ」と読む。祭神・日子八井命は、神武東征の時、日向高千穂より草部に入られ、しばらく川走の窟に住まわれた。後、今の草部吉見神社の所にあった池を干し宮居を定められた。土賊を平らげ、筑後国を鎮護し、皇業を翼賛した。また、神八井命の御子・健磐龍命(阿蘇大神)が下向の時之を迎えて、力を合わせて国土を開拓したという。当地に住まわれた時、襲ってきた大蛇を斬られ、焼かれた大蛇が血を流しながら逃げて行った所が血引原(地引原)。焼かれた所を灰原と言う。

主祭神は、神武天皇の御子・日子八井命。ただし「日本の神々」では、主祭神は神八井耳命となっている。

『古事記』では、神武天皇の御子を、日子八井命・神八井耳命・神沼河耳命の三柱としているが、『日本書紀』では、日子八井命の名は無く、『旧事本紀』では、日子八井命は神八井耳命の御子となっている。


敬愛するHP「玄松子の記憶」より

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731日の大祭で公開される草部吉見神社の神代系譜


勿論、百嶋神社考古学の立場から見た場合、草部吉見神社の神代系譜を正しいとは考えていません。

ただ、この阿蘇氏の言い分には僅かながら理があることだけは言えることからその部分を説明して見たいと思います。

神武天皇のお妃については「橿原宮で即位されたあと、媛蹈鞴五十鈴媛命(富登多多良伊須須岐比売命)を皇后とし、 日子八井命(『日本書紀』には登場しない)、神八井耳命、神沼河耳命(のちの第二代天皇・綏靖天皇)を生んだ」といった妙な話があるのですが、まずこれは、贈)崇神による偽装であり、贈)崇神が阿蘇氏の後裔で、藤原が仕組んだものと考えて良いでしょう。

初代神武天皇が橿原宮で即位した事はないのです。それは、贈)崇神の業績の誇張なのですが、当面、この話には踏み込まないでおきましょう。

故)百嶋 由一郎氏が残された系譜を御覧頂ければお分かりの通り、初代神武天皇の本当のお妃であるアイラツヒメ(吾平津姫)は、金山彦と越智ノ姫との間に産れていますが、懿徳天皇を御生みになった後に別れられ、阿蘇氏の神八井命の弟である神沼河耳との間に阿蘇の建磐龍を御生みになっています。

このため、懿徳天皇と建磐龍命にとっては共に母親が同じであり、義理の兄弟にはなるのです。

恐らく、この事が、阿蘇氏も天皇家の一族であると言いたがる(一応は言える)根拠となっているのです。

一般的には、離婚後の再婚先が阿蘇氏の神沼河耳(耳が付いていることから黎族と分かりますね)であっただけで、呉の太伯の後裔としての天皇家の血筋などとは言えないのですが、雲南省から入ってきた黎族としては、建磐龍にせよ、草部吉見にせよ、有力者である先住者民族への入り婿の要素が強く母系こそが重要であった古代に於いては、アイラツヒメを神武に送り込んだ民族(氏族)こそが重要であるとも言える訳で、二重の意味で阿蘇氏が天皇家の一族と主張する背景があるようなのです。

ただ、草部吉見の一族は黎族の本流として中央に進出しますが、建磐龍は阿蘇に留まり、その母系の一族の頭目として蟠踞することになったことが見えてくるのです。

今回は中途半端な話でしたが、このような部分を少しずつ解明していかなければ隠された真実には到達できないのです。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 10:42| Comment(0) | 日記

2017年07月28日

359 鳥 子(トリコ) “宇土の八兵衛の逃亡ルート” A

359 鳥 子(トリコ) “宇土の八兵衛の逃亡ルート” A

201701262011031)再編集

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川  清久

未開放部落の起源について


被差別部落成立の起源について論じるとなると全面展開になりますのでもちろんやりませんが、ここでは極めて簡略化したモデルを提出しておく事にします。

一般的には秀吉の太閤検地(刀狩)以来、主要には幕藩体制の下での士農工商という階級差別の維持固定化のために部落を温存し助長したことが今日まで残る未解放部落の起源とするものがあたかも正しい説のように語られます。しかし、これは明治の維新政府が幕藩体制(アンシャンレジーム)を悪しきものとして描きたかったがために、主として御用学者によって主張されたものであって、これもある種歴史の隠蔽偽造のために意図的に持ち込まれたまやかしであったはずなのです(秀吉が猿と蔑まれ貶められたのも、徳川が豊臣の復活を恐れたためなのですが、・・・)。

真の古代像を浮かび上がらせんとするには、さらに感性のアンテナを高く上げる必要があるような気がします。まず、沖縄、北海道は当然として、僅かな例外はあるものの基本的に北関東以北には被差別部落が存在しない事に気付かれると思います(早稲田大学作成地図参照)。

それは、戦争捕虜であったか奴隷であったかを問わず、均質な民族性に差別が生じ難いことは言うまでもありません。

俘囚が異なる民族の中に少数派として持ち込まれていたからこそ、言葉や生活習慣の違いから差別が生じ永続化したのであって、東国の奴隷を東国に置いていては差別どころか、叛乱が繰り返されることにしかならなかったのです。

この問題については、一九九三年に公刊された部落史研究者の高木 力氏による『部落の源流』(千二百年の悲愁)彩流社に詳しいのですが、大和朝廷(天皇家)の東国平定(侵略)によって発生した(直接に奴隷を獲得するためとする説もありますが)俘囚の移配にこそ、その起源を求めるべきであると考えます。

簡略化すれば、士農工商の上には公家(貴族)があり、最高位として天皇家が居たのであり(御用学者これに触れません)、逆にその下には、大和朝廷(もしかしたそれに先行する古代王権によって)=天皇家によって貶められた被差別民(征服された古代王族の末裔、追従者を含む)があったのであり、極論すれば天皇家が被差別民を創りだしたとさえ言えるかも知れないのです。

その後、朝廷の下僕として積極的に奉仕した一部の俘囚は地方権力の一部となった者、金属精錬、金属加工などで財をなす者などがあったはずで、後代には徐々に様相が変わっていったものと想像できます。このため、単純に俘囚集落が直接的に今日の被差別部落であると主張するものではないということも併せて申し上げておきます。

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古熊本湾が浮かび上がる


今回のテーマが新たな副産物を与えてくれました。それは、○○の○○という地名の呼称が、八兵衛氏の生の証言によって鮮明に浮かび上がった事もさることながら、現在もなおこのような古い呼称と表記が熊本市の外延部だけにいわばドーナッツ状に残っている事は、その内部が地名の成立期には、まだ、有明海が深く入り込む未開の巨大な湿地帯であったことを想像させます。

今回は大字単位で拾上げただけですが、このような○○の○○型地名群を繋げば、恐らく地名成立期前後の海岸線が浮かび上がるのではないかと思うものです。

一般的には考古学的な縄文貝塚ラインや縄文、弥生の遺蹟分布、地質学的な海成粘土層の分布によって海岸線が浮かび上がるのですが、もしも、旧小字単位で調査を行なえば、非常に安上がりにさらに詳細な推定ができるのではないかと思われます。特に面白いのは、文字通り海の中に田井島と表記し“タイノシマ”と呼ばれる半島か島が浮かび上がる事です。地元に住み、時間と資金に余裕のある方は試みて頂けないかと思ってやみません。

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鳥子の前を流れる白川を上流に向けて望む正面は阿蘇の立野の大峡谷


鶴田倉造氏編集「原資料で綴る天草島原の乱」

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作業メモ「鳥 子」


二〇一〇年八月、御井寺の住職を経由し、百嶋 由一郎という老神社研究者(旧草ケ江神代史研究会)から久留米地名研究会宛に手紙が送られてきました。

 簡略化すれば、鳥子とはヤタガラスの末裔を意味し、神武天皇に協力した製鉄集団の関係者の集落を思わせるものでした。

 それ自体には問題はありませんので、私信ながらその一部をご紹介致します。

 突然の文にて、ごめん下さいませ。一年分の机上の整理を致して居りましたら…地名準備事務局長(ママ)のお名前で 鳥子 云々が飛び出して参りました(八代から送ってもらったものかも?)。

鳥子(鷲子)の詳細は、超極秘になって居りますが、是非知りたい…の方には、許せる範囲の事をお知らせして居ります。

鳥子(トリノコ)はお二人居られますが、阿蘇家が大騒ぎ(列島をあげての大騒ぎでした)をした鳥子は、天日鷲・鳥子大神の方です。

 お役に立つかもしれない資料を少しおおくり致します。モモシマ 拝 (昭2生)

戦前の皇紀年表の皇紀79年の所を、手研耳を誅す。と記されて居ります。出版は遠慮致して居ります。

810-0063 福岡市中央区唐人町3丁目3番15号 百嶋 由一郎

п@092-712-2856

恐らく、百嶋さんとの接触のきっかけとなったのは、拙稿「鳥子」を八代の郷土史家にお渡したからだと思います。百嶋さんのお話の前に私の「鳥子」をご紹介いたします。

同封されていたメモより

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山陰の因幡、石見を始め、古代において製鉄が行なわれた地帯に矢田(島根県安来市矢田町)、鳥子(宮城県に集中)、鳥木(島根県安木市)、鳥上(島根県奥出雲町)、鳥ノ子山(島根県松江市鹿島)、鳥江、鳥屋神社(島根県斐川町)、谷田、八田・・・といった地名が拾えます。

古代製鉄集団の残す地名と考えていますが(伊福はもとより佐田も)、これらの氏族は通常の、農耕民、漁労民、通商民とは異なり、その特殊な技術によって時の権力から恐れられ或いは保護され或いは管理されていたと思われます。

この西原村の鳥子が俘囚起源かどうかは置くとしても、近代においても付近に鉱山があったことからも分るように、製鉄、冶金、金属加工に携わる氏族の住む土地であった可能性は十分考えられます。

俘囚移配が被差別と繋がるかどうかは別としても、ヤタガラスの一族が特殊な技術を持った渡来民であり、後には権力と繋がって行ったことは容易に想像が着きます。

彼らは、農耕民とは異なり、山里に隠れ住み、財をなす者も少なからず居たのではないでしょうか。

皆さんも、それほど多くはありませんが「鳥」(実は鷲や鳶などではなく三本足のカラスなのですが)が着く地名を考えてみては如何でしょうか。当然、重要であるため移動は禁止されていたはずですし、秘密を守るために外部との通婚も禁止されていた可能性もあるでしょう。ヤタガラスと被差別は多分に重なる部分があるのです。


城山鉱山跡 場所:益城町金山

ここでは,城山鉱山跡を見ることができます。
 軌道鉄索の基点から少し東に進むと鉱山跡に出ます。抗口はふさがれ,草が茂り,当時の面影は全くありません。

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金山川に下りてみると,ふさがれた抗口から湧き出た地下水が川に流れ込んでいる場所があります。これからも,鉱山の廃液のすごさを見て取ることができるでしょう。ここでは,鉱山跡のスラッジ(鉱滓)を見ることができます。
 川岸近くに積み上げてあります。掘り出した鉱石は,ここで簡単な精錬もされており,これはその時に出た残りカスです。                              
以下「益城町史」

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昭和三十二年十月十四日の熊日新聞は,城山銅山について,次のようなルポルタージュを掲載している。
 益城町津森から東へ四キロ,城山の麓にあるが,
城山と金山(かなやま)にまたがっているので金山銅山とも呼ばれている。江戸時代末期頃からすでに土地の富豪富永喜左衛門が銅の採掘を行った記録が残っている。明治になり,四国松山の藤田組,大正四年福岡の堀鉱業,同八年日本窒素と堀鉱業の共同経営,同十四年朝鮮製錬と月日の移るにつれ所有者も代わり,昭和三十年四月に葦北郡佐敷町の井上棟樹氏が所有者になり今日に至っている。
 当時の様子は,明治二十四年頃から銅山に出入りしていた下田卯一郎氏(79)の話によると,城山の山腹に掘られた九つの抗口からツルハシ,ノミの原始的道具で掘り出した鉱石を山の斜面に並んだ炭窯型の炉(七カ所)に入れ,コークスで加熱した後,九尺余りのフイゴで吹いて精錬していた。このため周囲の草木は一本残らず枯死して,山は不気味な様相を呈していたという。ムシロに梱包された製品は,一日二回,四十頭の馬で,当時は川船が通っていた赤井船着場に運ばれ,そこから船で木山,加勢川を下り,川尻から八代に送られていた。
 何分辺鄙な山の中で,経営も運賃が高くて採算がとれなかったと見え,銅を盛んに掘ったのは明治と大正の始めまでで,以後は壁の塗料として鉱石のカスが福岡方面に送られていたに過ぎない。
 一方,鉱山に付き物の鉱毒は,大正四年以前は採掘した鉱石も製品にして運んでいたため大したことはなかったが,同年六月頃から含銅微量の鉱石は,硫酸製造の原料として数百坪の土地に堆積,是が雨毎に流れたのに加えて,同十二年に閉鎖した抗口を,四,五年後に何者かが開放したため,坑内に充満した赤青色の水が金山川に流れ込み,川床,岩は赤く変色,魚その他の生物は絶滅した。鉱毒の惨状は,当時の記録によると,収穫皆無一町五反,五割減二十町,三〜四割減三十町におよび,良質の米を産出していた美田は壊滅的な損害を被ったと云われる。

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(以上、益城町町史より)                西原製鉄所跡


平安時代に使われていた古代の製鉄所跡。写真のように原形をとどめているのは全国でも例が少なく大変珍しい。「熊本県指定文化財」
 熊本県内に50ヶ所程古代の製鉄所跡が確認されているが、その内の10ヶ所は玉東町で確認されている。
http://www.town.gyokuto.kumamoto.jp/kankou.tokusanhin/bunkazai/bunkazai.htmを無断借用したもの。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 03:48| Comment(0) | 日記