2026年05月11日

ビアヘロ 261 新ひぼろぎ逍遥 1164 の先行掲載 ひぼろぎ逍遥1164 消えた神功皇后 = 本稿は後日ひぼろぎ逍遥(跡宮)に掲載の予定です

ビアヘロ 261 新ひぼろぎ逍遥 1164 の先行掲載

ひぼろぎ逍遥1164 消えた神功皇后 = 本稿は後日ひぼろぎ逍遥(跡宮)に掲載の予定です

20260421

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


❶ 堀切玉垂神社(現仁神社) みやま市瀬高町河内31443


一言で言えば、高良玉垂命=第9代開化天皇と仲哀死後の神功皇后とが夫婦であった事を今に伝える神社です。まず、同社正面の肥前鳥居にも驚きますが、社殿の荘厳さに圧倒させられます。

高良大社は高良玉垂命=第9代開化天皇を祀るも開化の名と神功皇后を消し、宮地嶽神社は神功皇后を祀るも高良玉垂命=開化天皇を隠し、九州王朝のシンボルであった二つの巨大神社を引き裂き、阿蘇氏=後の藤原氏に乗っ取られた近畿王権は、九州王朝の痕跡を消し去ったのでした。

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ただ、以下をご覧ください。日本国政府が公的に発表する際のシンボルが五七桐紋ですが、これは天皇家の皇族でも天皇家の一族を表し、五三桐紋は天皇家と姻戚関係を結んだものの使用できる紋章なのです。つまり、五七は高良玉垂命、五三は神功皇后を表しており、かつては両者を表すかなり大きな等身大クラス(誇張過ぎかも知れませんが)の人形が祀られていたのでしょう。開化隠しは進駐軍対策だと思いますが、玉垂隠しの後、今から178年前に神功皇后も隠されたようです。

 元は、神功皇后様がお祀りされていたのですが、2014年中に移されているようです。

 神功皇后であることは玉垂宮とも呼ばれており高良玉垂命(第9代開化天皇)が祀られている事は明らかであり、現在でも天皇家の紋章である五七桐紋と五三の桐紋が置かれている以上、天皇家と天皇家の姻戚関係に在る一族である以上、神功皇后であることは間違いがないのです。

 当会のメンバーで「高良玉垂宮神秘書」を読みこなしているメンバーは今もかなりおられま無題.png無題.pngすが、山川町郷土史会の研究もさることながら、第8代孝元天皇を祀るのが高良下宮社であり、開化天皇と仲哀死後の神功皇后が夫婦であったことは確実なのです。

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聖母宮とは神功皇后を祀る神社であり、最も規模が大きいものは熊本県山鹿市の聖母八幡宮です。

通説は応神天皇の母との触れ込みですが、とんでもない大嘘で、長子が仁徳天皇=シレカシ命以下、朝日豊盛、暮日豊盛…など、高良玉垂命と神功皇后の実子5人と皇后の連れ子4人の9人を祀る神社が九躰皇子を祀る九体神社(みやま市高田町岩津897)に後で参拝します。

これら久留米の高良大社に残された「高良玉垂宮神秘書」を読まれればお分かり頂けます。

詳しくは、ひぼろぎ逍遥 055 みやま市河内に超高格式の玉垂宮が存在する を先に読まれると分かられます。 153 超高格式瀬高玉垂宮の神功皇后像が消えた “みやま市河内の高良玉垂の宮”

 付近にある聖母宮と玉垂宮が隣接すること自体も、お二人が夫婦であったことを示していますし、「宮神秘書」14pにもはっきり夫婦と書いてあります。

さらにグーグル・マップを見ると面白い事実に気づきます。矢部川を渡るとそこは柳川市です。勿論、古代には柳川市は海の底で中世の藤原純友の弟純乗が有明海の通商破壊戦で活躍した時代に芦原や島ができる巨大な湿地帯になるのですが、この事から、柳川側が新興地である事が分かります。

そこに応神天皇を祀る鷹尾神社、大和町鷹ノ尾地区が在ることからも、後発地帯に藤原の息の掛かったエージェントの応神が防衛線を引くかのように立塞がっているのが良く分かります。

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鷹とか隼で応神天皇を表現していますね。「古事記」でも隼別(ハヤブサワケ)で表現していますね。

宇佐の境外摂社が鷹居社ですし、京都など隼神社は誉田別尊を祀ります。福岡県小郡市の横隈隼鷹神社外多くの例が在ります。


 ❸ こうやの宮(磯上物部神社) みやま市瀬高町太神1674

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分


無題.pngこうやの宮なる奇妙な名の神社がある事は良く知られていますが、神社研究を怠ってきた古代史家には何のことだか分かっておられないようです。騎馬民族風の武人の人形が七枝刀の様なものを持っていますが、磯上物部神社の名の通り、7代孝霊天皇のお后である卑弥呼宗女伊予=細姫に対して兄(ウマシマジ)から贈られたもので、こうやの宮が別名磯上物部神社と呼ばれている事からも推定が可能です。

 ニギハヤヒ=山幸彦=猿田彦=彦火々出見…と伊勢の外宮様(辛国息長大姫大目命)との間に生まれたのがイヨでその伏見稲荷でもある物部を象徴する女神を后としたのが孝霊天皇になるのです。良く七枝刀を手にする女神を卑弥呼と誤っている方がおられますが、卑弥呼宗女イヨ様なのです。何でも卑弥呼に仕立てたがるのは商売目的ですね。

 我々百嶋神社考古学の者にとってはこのこうやの宮を含む旧瀬高町一帯は九州王朝の王族の居留地、パレスと考えてきましたが、この地に残されていた宝物は奈良に差し出さされ、その痕跡を残すためにこうやの宮が造られたものと考えています。

暫く前まで、この地には田中神社が在り(現在も残っているのかも知れませんが)、恐らくその一族が保管していた物と考えています。故)百嶋由一郎はこの地には五七桐紋を持つ田中姓の方がお住まいに成っており恐らく孝霊天皇、イヨに繋がる一族だろうと申していました。、


以前、「ひぼろぎ逍遥」055 みやま市河内に超高格式の玉垂宮が存在する 20140327 において、旧瀬高町に鎮座する超高格式玉垂宮について書いています。



詳細を知りたい方には055の全文をお読み頂くとして、そこでは、概略このように書いていました。

(中略)

写真は九州王朝論者の間にも殆ど知られていない玉垂神社です。


辺りは一面の水田地帯でしかなく、森を探せば辿り付けますが、どうしてこのような所にこれほどの高格式の玉垂宮があるか大変不思議に思えます。

有明海沿岸道路に近接する大牟田市の黒崎の先端に玉垂宮があるように、古代にはこの地も有明海に突き出した岬だったのかも知れません。

無題.png非常に興味深いことにここに住む人のほとんど全てが物部氏を思わせる河野姓です。 

また、七支刀で著名な太神宮こうやの宮にも近く、正面には七世紀に起源を持つかと思わせる肥前鳥居が現存しています。皆さんも一度訪ね見られてはいかがでしょう?

「この神社こそ、玉垂宮の原型を今に留める高格式の玉垂宮であり、本当の祭神がそのまま残されている」と教えてくれたのは、例の故神社考古学者でした。

(中略)

まず、このような場所に、なぜ、これほど多くの大きな社殿が立ち並んでいるのでしょうか、勿論、それは後世の事としても、山門(神社の場合は山門とは呼ばないでしょうが)屋根にも、本殿の屋根にも五七の桐、三五の桐が描かれています。

 ただならぬ神社であることは一目で分かりましたが、重要なのは神殿の御簾の中です。

 打上式の御簾の内側には一体の女神像が置かれ三五の桐の神紋が飾られています。

 もう一つは、五七の桐の神紋だけが飾られています。恐らく、元は男神像もあったのでしょうが、何時の時代かに外されたのだと思います。

 つまり、五七の桐、三五の桐を象徴とする夫婦神、つまり、高良玉垂命と神功皇后が祀られているのです

 神功皇后は仲哀天皇の妃というのは正しいのですが、その期間は極めて短く、その後はずうっと死ぬまで添い遂げていると言うのがその理由で、その痕跡は、高良大社で販売(\10,000)されている「高良玉垂宮神秘書」(コウラタマタレグウジンヒショ)にあります。

 これこそが、日本の古代の最大の真相であり、記紀をそのままに信じられない理由なのです。詳しくは別稿としますが、ここでは、現場にはこういう歴史の宝物が落ちていることをお知らせするにとどめます。

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みやま市玉垂宮正面の肥前鳥居


さて、122021日に掛けて行った益城町トレッキングの帰路、多久市在住の神社研究者のA氏を同社にお連れしたところ、神殿に鎮座されているはずの神功皇后像がありませんでした。

当然にも神社側のご判断で保管のために移されたものと考えますが、その背後に、その筋(神社庁)の意図が透けて見えた思いがした瞬間でもありました。

当方もこの貴重な神社資料が散逸することを恐れ、後世に伝えるためにも重要と判断し、少しでも多くの方が参拝され多少とも神社の経営に寄与できるようにと考えた事から、そのまま保存される事を期待し、当時も御神映を公表することを控えていました。

しかし、このような事が起こる事になれば、非常に悲しい事ですが真実をお伝えする必要があるものと思慮いたします。

数年前の瀬高町トレッキング当時も、四十人近い多くの方が参拝され(お賽銭も入れられるように小呼び掛けもいたしました)確認されていましたが、その中の方からお借りしてお知らせしたいと思います。

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打上式の御簾の内側には一体の女神像が置かれ三五の桐の神紋が飾られています。

 もう一つは、五七の桐の神紋だけが飾られています。恐らく、元は男神像もあったのでしょうが、何時の時代かに外されたのだと思います。

 つまり、五七の桐、三五の桐を象徴とする夫婦神、つまり、高良玉垂命と神功皇后が祀られているのです


と書いただけで、映像の公表は保留しておりましたが、お分かり頂けた事と思います。

高良玉垂宮神秘書」の断片を掲載していますが、この記述を裏付ける言わば物証がこの瀬高玉垂宮であり、高良玉垂の命の妃は、「記」「紀」で仲哀天皇の妃で応神天皇の母親とされる神功皇后なのです。

なお、五七の桐、三五の桐は、それぞれ高良玉垂命と神功皇后の神紋であり、一族としては、木瓜紋、住吉の神紋が使い分けられていたようです。

また、高良玉垂宮神秘書」では、第八代孝元天皇の三男=月神=底筒男命が神功皇后の夫であり、表筒男命=大川風浪宮の安曇磯羅が神功皇后の妹である豊姫の夫となります。

この関係については、百嶋最終神代系譜と「高良玉垂宮神秘書」と間に一分食い違いが認められ、「高良玉垂宮神秘書」では神功皇后の二人の妹の豊姫が宝満大祝と、もう一人が佐賀県の淀姫神社の大祝となったとされるのに対して、百嶋神社考古学では、安曇磯羅の妃がウガヤフキアエズの子である逆賊河上タケル(熊襲)の妃が豊姫(ユタヒメ)=淀姫とします。その理由は分かりませんが、今後も検討作業が必要でしょう。

いずれにせよ、この辺りに古代史の最大の謎、九州王朝の消滅、正当皇統の廃絶、新興勢力による歴史の改ざん、欠史八代問題、応神の系統による九州王朝隠しの理由が存在しているようです。

だからこそ、どのあたりからかは不明ですが、正しい歴史を消そうとする人々が存在している事だけは事実のようです。

どうやら、私達の探求は猛獣の尾を踏み始めたようです。逆に、真実の一端を垣間見た思いがします。

私達はこのような真実が隠される事に怒りは感じません。そうしなければ身の保身が叶わぬ人々を哀れとも情けないとも思う限りです。

真実を明らかにしなければ信頼を失うのは世の常であり、神社への尊崇の念は益々潰え去る事になるでしょう。

百嶋翁からお聴きして手探りで始めた神社調査でしたが、私達の調査の方向が正しい事を逆に証明された思いがしています。

現在、牛島稔太氏のHPや当方のブログなどを経由して本当の神代、従って真実の歴史を知りたいと考えられている方々から直接お話しを聴きたいとの問い合わせが増えています。

若い方から年配の方までかなりハイ・レベルの質問をお受けしています。

当方は、知り得ているものから抑制し配慮して公開していましたが、真実を捻じ曲げようとされる方々妨害には対抗せざるを得ません。全国から寄せられる熱心な神社研究者には手持ち資料をお渡しし資料の保全と分散を図りたいと思っています。

イスラム原理主義者の組織はピラミッド型の管理しやすい上意下達の組織ではなく抵抗力のあるブドウの房型の組織(アルカイーダー)を取っていると言われますが、既にその感覚で資料の保管を含め対抗したいと考えています。

本来、静かに秘かに限られた範囲で継承したいと考えていましたが、どうやらそれは許されないようです。

併設されている現仁神社の意味も少しずつ理解できるようになってきました。

この一年余りで百嶋神社考古学は多くの賛同者を得られるようになってきました。

「古事記」の九割は嘘、「日本書紀」はほんの少しだけ本当の事が書かれている云々は百嶋翁の言いでしたが、それを基礎に、金科玉条の如く振る舞う古代史学会、歴史学会、神代史学会、そして、日本書紀を最高の基準として年代を決定している考古学会の底の薄さに失笑を禁じえないとの思いを深めているこの頃です。


高良大社は福岡県久留米市御井にある。明治以前は高良玉垂宮(たますだれぐう)のち高良宮、高良社、玉垂宮、高良玉垂宮などと呼ばれた。高良玉垂命を主神とし、相殿に八幡大神、住吉大神を奉斎している。
仁徳天皇78年(390)鎮座と伝えられ、履中(りちゅう)天皇元年(400)の創建という。嵯峨天皇の弘仁9年(816)11月、名神に列し、貞観11年(869)3月従一位、宇多天皇の寛平9年(897)には正一位を授与された。筑後国一の宮・九州総社・鎮西十一ヶ国の宗廟と称えられた。
神主物部道麿(もののべみちまろ)の子、美濃里麿(みのりまろ)に神託があり、それによって大祝(おおはうり)家三男隆慶を社僧にしたという。その子孫は江戸時代前まで48世続き、盛時には神宮寺御井寺(みいでら)の座主(ざす)として千余名の僧徒を支配した。
旧国幣大社。現社殿は万治3(1660)年の造営になる権現造で、社宝の紙本墨書平家物語覚一本12冊とともに国の重要文化財に指定されている。
みやま市では分社は堀切の「玉垂神社」がある。ほかに大分県日田市十二町・八女郡水田町・大刀洗町・大牟田市岬があり福岡県の筑後地方周辺に点在する。

HPみやま市のお宮(総合編)より

高良玉垂宮(たますだれぐう)と書かれていますが、大阪にも版図を広げた九州王朝のシンボルは住吉神社と打上神社=高良神社ですが、その打上の意味は、御簾のすだれを上げる意味であると百嶋先生は言われていました。

みやま市の地元でも「たまたれ」などとは呼ばず、「たますだれぐう」とされ原形を保たれておられることに改めて敬意を表したいと思います。

そもそも「たまたれ」は日本語の語感としてはおかしく、もしそのように言うならば「たまたらし」が正しいのですが、「たますだれ」が正しいのです。

事実、現地にはその形式が残されていますし、中国語のターシャン(助動詞になるのですか物事を引き起こす場合には「打」ターが付されます)が打上神社の意味なのです。

まさか、打上神社まで隠せとお達しは出されないと思うのですが…、どうやら日本は第三次世界戦争に巻き込まれる事になりそうで、何が起こっても不思議ではないようです。

既に戦前の「国体明徴運動」以上の統制下にあるようです。以下省略…

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ

2026年05月09日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1124 大山祇命は月読尊と同体なのか? “宮原誠一の神社見聞諜から”

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1124 大山祇命は月読尊と同体なのか? “宮原誠一の神社見聞諜から”

20250926

太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


 「古事記」で月読命、「日本書紀」で月夜見尊とするこの神を百嶋神社考古学では大山祇と同体とするのですが、この認識は我々だけのもので、百嶋由一郎から結論だけを得ておりその根拠を聴いていないため未だに解明できない謎なのですが、メンバーの宮原誠一氏の見解を再度確認したいと思い転載させて頂きます。

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No.107 月読神社は誰を祀る.大山祗か?大国主か?それとも


全国に存在する月読神社は数少ないですが、祭神は月読命(ツクヨミ)=大山祗となります。しかし、最近、月読神社に立ちますと、そうでもないような気がするのです。

複数の男女神が祀られているようなのです。まずは、大山祗、月読命の解説からです。


1.八岐大蛇(やまたのおろち)神話に因む長髄彦と大国主命


古事記神話に三貴子(みはしらのうずのみこ)の神様がおられる。

伊邪那岐命(イザナギ)が黄泉国から帰って、筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原で禊祓をし、その時、右目から生まれた神様が、月読命です。左目から生まれた神様が天照大神、鼻から生まれた神様が須佐之男命(素盞鳴尊)で、この三柱を三貴子とします。


祓詞(はらえことば)

  「掛けまくも畏き 伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に

   御禊祓へ給ひし時に生り坐せる祓戸の大神等 諸諸の禍事 罪 穢 有らむをば

   祓へ給ひ 清め給へと白す事を 聞こし食せと 恐み恐みも白す」

三光神社(さんこうじんじゃ)の祭神は天照大神、月読尊、素戔嗚尊とされますが、三光とは太陽、月、星の光を指します。

 太陽=天照大神

  月=月読尊

  星=素戔嗚尊、又は、その子長髄彦(ながすねひこ)

となります。

天照大神、月読尊、素戔嗚尊は、記紀が言うように姉兄弟の関係ではありません。全く別個の家系関係です。

祓戸の大神(はらえどのおおかみ)は次のようになります。

 @気吹戸主(いぶきどぬし)

  速開津媛命がもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込んだのを確認して

  根の国・底の国に息吹を放つ

 A瀬織津比売(せおりつひめ)

  もろもろの禍事・罪・穢れを川から海へ流す

 B速佐須良比売(はやさすらひめ)

  根の国・底の国に持ち込まれたもろもろの禍事・罪・穢れをさすらって失う

 C速開都比売(はやあきつひめ)

  海の底で待ち構えていてもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込む


祓戸の大神の通称名は次のようになります。

 @ 気吹戸主(金山彦)

 A 瀬織津比売(櫛稲田姫)

 B 速佐須良比売(鴨玉依姫=神直日)

 C 速開都比売(万幡豊秋津姫)


長髄彦と天津甕星

日本書紀における「長髄彦 ながすねひこ」の記述が「神代下」第九段一書第二にあります。

「天に悪しき神あり。名を天津甕星(あまつみかほし)という。又の名は天香香背男(あめのかがせお)。請う、まずこの神を誅(ほろぼ)して、その後に下りて葦原中国を撥(おさ)めよう。」


長髄彦は「天の悪しき神。名を天津甕星」という。又の名は「天香香背男」という。甕星は金星。香香背男は蛇。キリスト教聖書に出てくる「落ちた天使、明けの明星」金星と蛇のルシュファーと同じ表現になっています。

三光の星は金星、そうであれば、星神は長髄彦となります。

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o    以前神社調査していますが、大分県中津市に元三光村が編入されています。このナガスネヒコに関係する神社を巡った事がありましたが、大分県佐伯市がかなり多く、佐賀県鹿島市、熊本県、南小国町、そしてこの旧三光村は元より、福岡県飯塚市、うきは市にも辿れます。ただ、中津の三光村は昭和293月、深秣・山口・真坂の三村が合併し、三和村となり、同日改称して三光村となっており、三光に関係するかはまだ確信が持てません。(古川)


長髄彦と倭国大乱

呉の系統の神武天皇およびそのお姉さんである天照大神、その呉の系統の一番尊い方々に次ぐ尊いお方が素戔鳴尊です。それで、素戔鳴尊のご一統がどこにどのようにして住んでいらっしゃるかの一部を申し上げます。日本にもたくさん素戔鳴尊の子孫がいらっしゃいます。その証拠に、一番派手に、スサノヲ・スサノヲをやってる一番派手なお祭りは何処のお祭りですか?京都の祇園祭、博多の櫛田神社の祇園祭。博多の方が古いです。

最初に日本で天皇家に逆らったとてつもない有名人は、神武天皇とけんかなさった方、素戔鳴尊のお子さん長髄彦です。長髄彦が反を起こされた。その後、僅かの時間をおいて、狗奴国の乱が起こった。この二つの反と乱でもって魏志倭人伝にいう「倭国大いに乱る」となった。この乱の終結の事務処理をしたのが、春日大神となっている。

倭国大いに乱れるの時、神武天皇が福岡の方から避難して、宮崎の方、鹿児島の方に移動なさって(姫城 ひめぎ の名で残っている)、そこでなんとか話をまとめて、いつの間にか、ありもしない「ヤマタイ国」ができあがった。「ヤマタイ国」はありませんよ。しかし、ヤマタイ連合はありますよ。


その倭国大乱の前の九州王朝初期の頃、大山祗と金山彦との百年戦争がありました。

八岐大蛇(ヤマタノオロチ)の説話は大山祗と金山彦との争いを説話化したものと云われています。大山祗と金山彦との百年戦争と言われ、八岐大蛇の説話の材料にされ、金山彦夫妻が足名椎(あしなつち)夫妻、大山祗はオロチに例えられる。その争いを仲裁したのが素戔嗚尊ということです。

結果、大山祗は金山彦の妻・埴安姫を奪取、素戔嗚は金山彦の娘・櫛稲田姫と大山祗の娘・罔象女を得ることになります。

八岐大蛇の舞台は熊本県の菊池川(肥の川)が流れる山家地方と推定しています。

大山祗と埴安姫との間に誕生されたのが、罔象女神、大国主、木花開耶姫となります。


八岐大蛇と月読命

八岐大蛇問題で、えーコンチクショウと怒った人物がいました。えーコンチクショウと言われたのは長髄彦とその親父である素戔鳴尊です。怒った人物は誰かというと「武蔵大国魂」です。通称「大国主命」です。この方が活躍なさったのは出雲の国と勘違いさています。この方が活躍された場所は決して出雲ではありません。この方が、武蔵大国魂として活躍なさった場所は武蔵国です。

この後の喧嘩があって少し格下げて、月読命は大山祇の神と名乗ってらっしゃいます。


(大国主命)と星(長髄彦)は夜に光を相争う関係ですから、月読尊と素戔鳴尊の仲が悪いのは当然かもしれません。太陽(天照大神)は月と星に勝りますが、天照大神がオオヒルメムチの若い頃は素戔鳴尊の父伊弉諾尊の家来でした。福岡県那珂川から福岡市檜原(ひばる)におられた時のことです。それだけ伊弉諾尊の出自は良かったのです。


狗奴国の乱により、月読命は大山祇の神と名乗られ、四国へ配転。

大国主命は狗奴国の乱の張本人・大山祇(月読命)の息子であり、その張本人と同じ責任を取らないといけない立場にあった。大国主命は「国譲り」の形で責任を取られます。

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これは百嶋由一郎の講演での話をテープ起こしされた牛島さんのネット・データですかね…非常に貴重な話です。(古川)


2.月読神社と月読命


全国に存在する月読神社は数少なく、九州の月読神社は秘密の神社とされ、その実態がよく分りません。九州北部で有名な月読神社があります。


 二田の月読神社

 福岡県久留米市田主丸町益生田(二田)

 祭神:月夜見命


 壱岐の月読神社 

 長崎県壱岐市芦辺町国分東触464

 祭神:月読命・月夜見命・月弓命

 鎮座 鎮座年数は不詳であるが、顕宗天皇3年(487年)にはすでに存在していた。

 縁起 顕宗天皇3(487年)阿閉臣事代という官吏が天皇の命を受けて朝鮮半島の任那

に使いにでる。その際に人に月の神が神がかりしまして「土地を月の神に奉納せよ、そう

 すればよい事があろう」という託宣があった。それを朝廷に奏したところ、これを受けた

 朝廷は壱岐の県主の押見宿禰に命じて壱岐の月読神社から分霊させ京都に祀らせた。


月読神社関連の名前のつく神社は全国で80社余り、境内社を含めると100超えると想定されます。三重県の伊勢神宮の内宮の月読神社、外宮にある月夜見神社、長崎県壱岐の月読神社、京都府の松尾大社の横500m程に摂社月読神社があります。松尾大社摂社月読神社は壱岐の月読神社の分霊です。壱岐の月読神社は、壱岐の豪族・壱岐氏が航海の安全を祈るため祭祀しています。

壱岐の月読神社、福岡県田主丸町二田の月読神社共に詳しい創立が不明であり、月読神社の創起は謎に包まれています。


(1) 二田の月読神社

二田の月読神社の由緒はありませんが、明治に二田の月読神社を勧請した田主丸町東町の月読神社の由緒に二田の月読神社の由緒が書かれています。


由緒(案内板)

天文3年正月(1534年)(御原郡高橋城主)三原三河守長種の弟・次郎三郎が城内の月読神社を、竹野郡二田村(:久留米市田主丸町石垣)に創建す。明治136(1880年)篤志家により当地へ勧請す。開運眼病平癒の神様として崇敬者多く三夜様と敬稱す。


二田の月読神社の創立に、御原郡高橋城主三原三河守長種の弟・次郎三郎が関わったとありますが、長種の弟・次郎三郎は実在しません。筑後大蔵高橋氏及び同族の原田氏は大山祗系の流れではないのです。よって、月読神社と所縁がありません。

そもそも、田主丸町二田は古代、二田郷と呼ばれ、二田物部(トルコ系匈奴)の地でありました。二田の地に二田物部氏が奉斎する月読神社が古くから存在してもおかしくないのです。(当ブログ「No.7 田主丸町・月読神社 考」参照)


   二田・月読神社 福岡県久留米市田主丸町益生田(二田)

   祭神:月夜見命

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地図は古川が付加したもの

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(2) 壱岐の月読神社

壱岐の月読神社の祭神には、月読命()・月夜見命()・月弓命()と月読三神が祀られています。月夜見命が中殿ですので主祭神でしょう。二田の月読神社も主祭神が月夜見命なのです。

一般に、月読は新月、月弓は三日月、月夜見は満月と言われます。


「考察と妄想族」Misasan blog 2019-01-29

イザナギとイザナミ&山幸彦と豊玉&牽牛と織姫の共通したエピソードは、離婚、別居、年一婚()。要は訳あって離れているということ!

で、イザナギとイザナミの結びをやり直さなければならない。など語る宗教家もいますが!

misasanの場合、要は、女神不在の時代の幕開けを危惧した神話ではないかと、そのくらいに思っています。そして、スサノオがヒミコとの誓約(うけい)の対決は、いつも上手く行かなかったのではないかと。

そして、ツクヨミの三貴子(みはしらのうずのみこ)と言えば、月弓命は三日月、月読命は新月、月夜見命は満月で国外退去?!


月夜見と満月にイメージがぴったりの女神が大山祗ご一統におられるのです。「かぐや姫」といわれた木花開耶姫です。木花開耶姫は二田と同じ水縄連山の麓、田主丸町竹野の神社に多く祀られています。熊本県球磨では木花開耶姫は月読二十三夜姫と言われています。


さらに、月神といえば、超大物の神様がおられます。月神の物部保連(やすつら)こと玉垂命=開化天皇です。紋章の一つが三日月。これに相当する大山祗ご一統の神様が大国主命です。

すると、自然に、月読命は大山祗神、月弓命は大国主命、月夜見命は木花開耶姫という構図が出来上がるのです。


(3) 東町の月読神社

二田の月読神社を何度も訪れると、祭神が一柱でないようなのです。

主祭神は月夜見命ですが、もう一柱の月読命が祀られているようです。

東町の月読神社の祭神は月読命で、二田の月読神社から勧請されています。二田の月読神社の祭神が月夜見命と月読命であれば説明がつくのです。


田主丸町の二社の月読神社には、「うさぎ」がシンボルとして置かれています。

私は昔、この神社の「うさぎ」は満月の中の影に関連するものとみていました。

しかし、「大国主命と白うさぎ」の古事記神話(稲羽の素兎)を考えますと、月読神社→月弓命=「大国主命と白うさぎ」であってもいいのです。「満月の中のうさぎ」「大国主命と白うさぎ」は月読神社の共通「うさぎ」でもよいのです。


   東町・月読神社 福岡県久留米市田主丸町田主丸546-1(東町)

   祭神:月読命

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東町・月読神社の扁額の額縁の模様は神鉾神社(祭神:八千矛神=大国主命)と同じ半菊が四方に打ってあります。菊紋は大国主命の紋章であることを考えますと大国主命は月読の神の一柱とみてよいようです。

(4)
京都の月読神社が松尾大社の摂社になれるのか?
月読神社が松尾大社の摂社になるとは普通考えられません。
松尾大社の祭神は大山咋神(おおやまくい)です。
大山咋神は大国主の養子、市杵島姫の連れ子です。市杵島姫にとって大国主は二番目の夫となるのです。
もし、月読神社が大国主を祭神として祀ってあれば、大国主は義理の父として関連づけがとれるのです。大山咋神は別名・大物主であり、大国主は義理の大物主となります。

よって、大国主を月読神社の一祭神と前提にすれば、月読神社が松尾大社の摂社となりうるのです


月読神社(松尾大社の摂社)の鳥居  扁額の額縁はクマソ物部を表わす

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「とっておきの京都プロジェクト」

https://totteoki-kyoto.jp/9540/から借用しました

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京都の月読神社の扁額額縁は熊本県球磨郡の岡原霧島神社(あさぎり町岡原南)と王宮神社(多良木町黒肥地)の額縁と同じです。この球磨の二社は月読関係の祭神が主祭神でしょうか?大山祗神、大国主命、木花開耶姫が基底にあると考えられます。


3.仁徳天皇を祀らない若宮神社


若宮神社の祭神は「仁徳天皇」で、開化天皇の「若宮」という意味です。

ところが、仁徳天皇を祀らない若宮神社が存在するのです。

大山祗ご一統の月読命、木花咲耶姫を祀る神社で若宮神社があるのです。


Misasan blog「滋賀巡り」2019-04-13 にて、

滋賀県甲賀市の若宮神社を紹介して頂きました。拝読して驚きました。

この若宮神社は橘族が関連する神社で、祭神は月読命、神紋は橘です。


     若宮神社 滋賀県甲賀市土山大河原1092

     祭神 月読命

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Misasan blog「滋賀巡り」2019-04-13 から


社伝によれば、奈良時代初期の養老2年(718年)に創立。

この神社の特徴は、神主が氏子の中から毎年選ばれて奉祀されます。当番の神主は厳しいしきたりを守りながら一年間奉祀されます。奈良時代から千数百年続けられています。

例祭日は1015


1015日の大祭には、拝殿前にて御湯(みゆ)式が行われ、この神事は巫女さんが拝殿前で熱湯に笹の葉を浸し、身に振りかけて五穀豊穣と無病息災を祈念して舞を奉納されます。

境内には橘紋付き「馬」の銅像があります。


祭神の月読命とは誰でしょうか。大山祗(月読命)は橘紋を使用されません。

大山祗の若宮()とすれば、罔象女神、大国主、木花開耶姫となります。木花開耶姫の紋章は桜紋です。木花開耶姫と瓊瓊杵尊との間に姫君の古計牟須姫(こけむすひめ)がおられます。古計牟須姫の紋章は橘紋で、「古計牟須橘紋」と言われます。橘紋の始まりでしょうか?「若宮」とは木花開耶姫の子・古計牟須姫を指すのでしょうか。

甲賀の若宮神社は祭神を隠されているようです。


清流と緑と紅葉の郷「大河原」へようこそ無題.png

      http://www.ac-koka.jp/~mrd03201/

      http://ookawara.shiga-saku.net/e1200578.html

      拝殿前の御湯(みゆ)

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福岡県糸島市にも同様の若宮神社があります。


  若宮神社 福岡県糸島市志摩船越292

  福岡県神社誌に記載なし

  糸島市志摩船越桜谷に鎮座で、かつては桜谷神社と称した。

  祭神は、苔牟須売神(こけむすめ)、木花開耶姫(このはなのさくやひめ)

  なお、祭神の苔牟須売神とは地元では盤長姫命(いわながひめ)と伝承されている。

  糸島郡誌に「寛永元年(1624)115日、浦の漁人仲西市平の妻に神告ありて、

  初めて勧請せしという。文政六年再建せり。」とあり。


  若宮神社 福岡県糸島市志摩津和崎300

  祭神 木花開耶姫


古計牟須姫(こけむすひめ)は木花開耶姫と瓊瓊杵尊との姫君で、古計牟須姫の紋章は橘紋です。親子で祀られていることになります。古計牟須姫が主祭神のようです。

北隣の引津神社の祭神は御年神で古計牟須姫とは夫婦で、社が夫婦並んで祀られていることになります。その子が「武国凝別命」で筑紫水沼君の祖となります。

橘族は女系が主流となります。日本の歴史は男系表示ですが、それでは本当の歴史はわかりません。すべての人に父母(男女)があるように、日本の歴史は男系女系同時に見る必要があります。女系橘族が歴史の表舞台に出られたのが孝謙天皇(女帝)です。孝謙天皇の祖母が「県犬養三千代」で、元明天皇から橘姓を賜っています。


月読命の若宮と言えば大国主となりますが、月読命と木花開耶姫が「若宮」の関係になるのか不明です。おそらく、木花開耶姫・瓊瓊杵尊の若宮が古計牟須姫でしょう。


志摩船越の若宮神社の神額、京都の月読神社の神額、壱岐の月読神社の神額、球磨郡の岡原霧島神社の神額の額縁はそれぞれ皆同じなのです。共通する祭神は木花開耶姫となります。

月読神社の主祭神が月夜見命であることを考えると、

 月読神社の主祭神=月夜見命=木花開耶姫

という構図が浮き上がるのです。


月読命は男性説、女性説あり、月読命は男性神ですが、女性説も根強くあります。

木花開耶姫が「かぐや姫」といわれるように、月夜見と満月にイメージがぴったりの女神です。月読神社の祭神が、月読命(大山祗)のみならず、大国主(月弓)、木花開耶姫(月夜見)がおられるのかも知れません。月読神社は謎の多い神社です。


#月読神社#大国主#月読命#若宮神社#木花開耶姫#古計牟須姫


ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1125 続)大山祇命は月読尊と同体なのか? “宮原誠一の神社見聞諜から”〜続く

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2026年05月06日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1123 長崎県松浦市の 月読神社についての作業ノート

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1123 長崎県松浦市の 月読神社についての作業ノート

20250925

太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


長崎県壱岐市に月読神社があります。百嶋神社考古学では大山祇=月読命としますが、通説と言うこともないのですが、一般的には同一神としては理解されていないのです。

 ところが、松浦党のエリアに入ると、稲荷社の存在が急に増え、大山祇祭祀が急増するのです。

 今般、松浦党研究連合会(唐津、伊万里、松浦、平戸、佐世保を中心に最盛時500名を数える県境を跨ぐ大規模な郷土史会が形成されていたのです)が、253月で連合会が解散したのでした。

 その後、佐賀県伊万里市の残存メンバーを中心に新しい研究会を始めたいので私にも参加して欲しいとの依頼があったのが6月でした。この話はここまでとして話を進めます。

 一方、昨年、山梨県の身延山の日蓮宗の関係者から「大山祇命と月読命は同体かどうか…」との照会が行われていたのでした。

 問題は、故)百嶋由一郎からは結論しか聴いておらず、何故、そう言えるかについては話を聞いていなかったのです。

 それなりに、民俗学的な帰納演繹によって、幾つかアプローチはしているのですが、更に探求が必要と考えていたのでした。

 そうした中、松浦市の月読神社が在る事に気づき、先入観を排して考察を進めたいと考えているのです。まず、AI様からご紹介しましょう。


AIによる概要 松浦党と関連のある「月読命」を祀る神社は、長崎県松浦市にある「月読神社」が考えられます。大山祇神社がご祭神として「月読命」を祀っているか、また松浦党との直接的な関連性については、検索結果からは具体的な関連性は見つかりません。


AIによる概要 松浦市に鎮座する大山祇神社(または大山津見神社)には、月読命(ツクヨミノミコト)は主祭神や合祀神として祀られているという情報は、一般的な神社の情報やこの地域の神社情報からは見当たりません。大山祇神社は通常、山の神様である大山祇命(オオヤマツミ)、その娘である木花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)、そしてその姉の岩長比売命(イワナガヒメノミコト)を祀っているためです。月読命は月を司る神様であり、一般的に大山祇命とは異なる神様とされています。

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無題.png

ウィキペディアを見ると、以下の様に書かれています。 無題.png202509251418による


月讀神社(つきよみじんじゃ)は、長崎県壱岐市芦辺町国分東触に鎮座する神社である。橘三喜延喜式内社名神大社)であると査定したが、これは誤りであるとされる[1]

祭神 [編集]

現在の祭神は月夜見命、月弓命、月読命3柱である。3柱はいずれも同神である。本来の祭神は「山の神」であったが、橘三喜の比定によって月読命が祭神であるとされるようになった[1]

歴史 [編集]

延宝以前の由緒来歴は不明。延宝4年(1676)に平戸藩の命を受けて壱岐島の式内社の調査を行った橘三喜が当神社を式内名神大社の「月読神社」に比定し、同年61日に藩主松浦鎮信により石祠と神体として木鏡1面が奉納され、以後しばらくは式内社とされたが、それ以前は特段の祭祀設備もなく単に「山の神」と称されるのみであった。三喜が式内社と認定したのは鎮座地が「清月(きよつき)」と呼ばれていたからであったが、別に「ふかつき」とも呼ばれており、その語源は「ふかふち」であると見られるので[2]、この三喜の判断は誤りであり、本来の月読神社は箱崎八幡神社であるとされる[1]

mutsu-satoshi.comより

主な月読命を祀る神社

      月読宮(三重県伊勢市)

伊勢神宮の別宮で、皇大神宮(内宮)の近くにあります。

      月読神社(京都府京都市西京区

松尾大社の摂社であり、古くから安産祈願の神様としても崇められています。

      日御碕神社(島根県出雲市)

出雲神話に登場する神を祀っており、天照大神の弟神である月読命も祀られています。

その他の月読命を祀る神社

      月読神社(京都府京田辺市)

延喜式内社で、源頼朝から神馬の献上があったと伝わる古社です。

      三日月神社(茨城県つくば市など)

三日月に願いをかける「三夜様の月待ち信仰」の中心地として、月読命を祀る神社が多く存在します。

      西照神社(徳島県美馬市)

天照大御神が天岩戸に隠れた際に降臨したとされる月読命が主祭神として祀られています。

月読命の神格

月読命は日本神話に登場する三貴子の一人ですが、その神話上の登場は少なく、謎の多い神とされています。全国に点在する月読命を祀る神社では、単なる夜の神というだけでなく、地域ごとに異なる信仰や伝承によって多様な神格として信仰されているのが特徴です。


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【コラム】神社の源流を訪ねて(56栗原 猛

壱岐から京都へ遷座した月読(つきよみ)神社

 壱岐は対馬より小さいが、山が少なく平野部が多いので、対馬より広々とした感じだ。月読神社は、フェリーの着いた郷ノ浦港からバスとの連絡が合わずに結局、タクシーで行くことになった。約10分ぐらいである。急な石の階段は大きな彬林の中にあるが杉の下枝が払われているので明るい。このところ若い観光客の人気のスポットになっているという。                              
 祭神は月夜見命、月弓の命、月読命の三柱で、同神とされるが、その昔の祭神は山の神だったという。月読命は伊邪那岐命と伊邪那美命によって、天照大御神の次に生まれたとされる神で、暦、潮の干満など月にまつわるすべての行い、航海の安全などの願い事を聞くとされる。

 平戸藩の命を受けて延宝41676年)に橘三喜が壱岐の式内社の調査を行った。それ以前の由緒来歴の資料はないとされ、橘の比定によって、月読命が祭神であるとされ、以後式内社とされたが、壱岐氏の末裔の吉野家に伝わる文書などから、この三喜の判断は正確ではなく、本来の月読神社は箱崎八幡宮であるとされている。

 月読神社というと、京都市の松尾大社の境内にも同名の月読神社がある。日本書紀によると、壱岐の県主(あがたぬし)の先祖である忍見宿禰(おしみのすくね)が、壱岐から分霊したとされる。                     

 分霊された経緯について「日本書紀」(720年成立)の顕宗天皇3487)年2月の条は、こう記している。阿閇臣事代(あべのおみことしろ)が任那に使いし、壱岐を通過したところ、月神が託宣し「我が祖高皇産霊、預(そ)ひて天地を溶(あ)ひ造(いた)せる功有(ま)します。宜しく民地を以て我が月神に民地を奉れ。若し請いの依(まま)に我に献らば、福慶あらむ」とのたまふ。事代、是に由りて、京に還りて具(つぶさ)に奏す。奏るに歌荒樔田を以てす。歌荒樔田は山背国葛野郡に在り。壱岐県主の先祖押見宿禰、祠(まつり)に侍(つか)ふ。                    

つまり松尾大社境内の月読神社は、5世紀に壱岐の県主「忍見宿弥(おしみのすくね)」が壱岐から分霊し、さらに伊勢神宮の内宮の月読宮と、外宮の月夜見神社も、ともに壱岐の月読神社の分霊とされる。壱岐の月読神社は全国の月読社の元宮とされ、一方、京都の松尾神社の境内にある月読神社は、全国に点在する80社以上の月読神社の総本社という関係になっている。 この松尾大社は、新羅からの渡来系秦氏の氏神とされることから、月読神社も秦氏の信仰が厚かったと思われる。ちょっとそれるが、秦系氏族は大きな渡来集団で、米作り、須恵器、製鉄、医療、灌漑、都市づくりなどの技術者がそろっていたといわれる。海洋交通にも従事していたから、航海の安全や潮の満ち引きと関係から月神にも関心があったのだろう。また、波多野、太秦、畑、羽田、秦野、幡野、大秦野などの名前は、秦氏を共通の祖先にしているといわれる。

元に戻って、対馬の古代史研究家の永留久恵氏は、この月神の託宣に続いて日神の託宣が続く。日神とは対馬の阿麻氐留神社の祭神のことで、この日月両祭神がわが祖(みおや)と呼んだ高皇産霊は、対馬の高御魂、壱岐の高御魂とみられること、対馬県直は、日神を祀り、壱岐の壱岐県主は月神を祀っていたのであろうことを特に着目される。   
 また月読神社の周辺には神社が集中していて、小さい神社を含めると壱岐全体で1,000社以上になるという。日本一神様の密度が高い地域になっている。
 農耕に欠かせない日神と月神、それに先に見た雨を祀る雷命神社もあって、壱岐と対馬の神社信仰は、日本の神社信仰に大きな影響を及ぼしていると思われる。(202307/18)  以上 (2023.7.20)



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  【延喜式神名帳】月読神社(名神大) 壱岐島 壱岐郡鎮座
          (関係社)
山城国 葛野坐月読神社
   【現社名】月読神社
   【住所】長崎県壱岐市芦辺町国分東触464
       北緯334759秒、東経1294325
   【祭神】中 月夜見尊 左 月弓尊 右 月読尊
   【例祭】922-23日 例大祭
   【社格】旧無格社
   【由緒】顯宗天皇3年(487)壱岐県主の祖押見宿禰が創祀

 貞観元年(859)正月22壱従五位上 延宝4年(1676)6月橘三喜は藩命で月読神社と比定

   【関係氏族】壱岐氏
   【鎮座地】移転の記録は無い 【祭祀対象】【祭祀】【社殿】本殿拝殿
   【境内社】
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中略…

月読神社
『神社明細帖』に「月読神社、但式内無氏子。勧請年月不詳。社地一反八畝十四歩半」、 『壱岐国神社田畑帳』に「月読神社、廿四座之内、畑方三舛蒔村中より小祭り有り」と記されている。
延喜式巻十に「月読神社名神大」とあり、また『三代実録』二巻にも貞観元年(859)正月27日「壱岐島従五位下海神、住吉神、兵主神、月読神、並従五位上」とあり、月読神社が従五位上に叙せられているのを見ることが出来る。『神社帳』も「当社ハ嵯峨天皇之草創而所載延喜式に壱岐国二十四座之内壱岐郡国分村月読神社名神大」 としている。
しかしながら、『特撰神名牒』は「今按延宝の調また明細帳、長崎県式内社記ともに国分村にありとす、神社考に国分邑深渕の岸の上山端に山の神と称するあり、この深渕を訛りてふかつきと云り、其渕今埋りて猶水の溜 れる渕の跡あり、きよつきとも云ふ。延宝の時きよつきの名に因て月讀神社と定む、然れとも延宝以前社なかりしほどなれば式社にはあるべからずと見え、式社沿革考に式社累考に箱崎邑と記せしや正しからむ其は内殿の棟札に『箱崎八幡宮壱岐国壱岐郡月読宮釣瓶荘潮安郷奉造内殿一宇大宰大弐兼筑後守藤原景資』右の傍に『正慶元年』左の傍に『壬申8月5日』大宮司云云伊岐末茂云云とある文による時は月読神社は箱崎村宗社八幡宮と御同殿にます神ならん、箱崎邑釘丘郷天月の里に天月神社あり是其古社なるべしと云る證ありて聞ゆれば箱崎邑と定めて可ならん」と記している。

芦辺町町史


 無題.png0323 壱岐島にある、全国月読神社の総本社「月讀神社」(長崎県)


月読尊(つくよみのみこと)(月夜見尊、月弓尊も同じ読み、同一神)は、古くは山の神ともされていました。暦・潮の干満など、月にまつわるすべてを司り、安産、健康、病気平癒のほか、豊作、大漁、商売繁盛などの御利益があります。


同様に、以下も

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無題.png様も


表記

*「先代旧事本紀」屋主田心命

*「新撰姓氏録」彦屋主田心命

概要

阿閇氏(アヘウジ)等の祖とされる大彦命の孫。伊賀臣等の祖。伊賀国阿拜郡(阿閇郡とも)を本貫地としたとされます。事蹟等の記述は見られません。

阿閇氏は紀には登場しますが記には登場しません。これはおそらく元明天皇の諱が「阿閉皇女」であり、阿閇氏の血を引いていることから、紀に取り上げられたものと思われます。紀は元明天皇次代の元正天皇の御宇に成立、記は元明天皇の御宇に成立しています。

阿閇氏と関連する氏族と考えられるのは阿倍氏。「日本古代氏族事典」(佐伯有清編)に於いて、「この両者が本来同一の氏である可能性、もしくはきわめて近い関係の氏であった可能性も否定できない」としています。

両氏について「一般的に知られる」系図を掲げておきます(「古代豪族系図集覧」近藤敏喬氏による)

*阿倍氏(安倍氏)

8代孝元天皇━━大彦命━━武渟川別命━━豊唐別命━━雷別命━━安倍阿加古宿禰(阿倍氏の祖)━━大籠━━忍国

*阿閇氏(阿閉氏・敢氏・饗氏)

孝元天皇━━大彦命━━大稲輿命━━彦屋主田心命━━大伊賀彦命━━稚子━━阿閇國見(阿閇氏の祖)

宝賀寿男氏は大彦命が孝元天皇皇子ではなく、多氏の始祖である神八井耳命の曾孫とみています。

阿倍氏と阿閇氏が分岐したのは大彦命の子たち武渟川別命等の時。同母兄弟には大稲輿命・組結命・御間城姫命・得彦宿禰(波多武日子)がいます。

ただし阿閇氏と阿倍氏との間には、はっきりと分別されていないと見受けられる箇所があります。また後裔には重複する名前もいくつか見られます。例えば阿倍氏の大籠や忍国が後の時代に阿閇氏にも見られます。

両氏の間で系図を共用していた、両氏の間で擬制的な関係が見られるとするのは、日本古代史学者である横田健一氏。

宝賀寿男氏氏(日本家系図学会会長・家系研究会会長)は安倍氏(阿倍氏)本宗家の動向が、4世紀半ば〜6世紀前半頃まで不明であるのは、「応神天皇の皇位簒奪に際して、旧王統側の忍熊王側についたからではないか。忍熊王側の将軍で最後は琵琶湖に沈んだ難波吉士氏の祖が伊佐比宿禰で、阿倍一族が疎まれたという仮説がある」としています。

こういった事情に、横田健一氏が言う阿倍氏の動向が阿閇氏に擬制されていたことが重なったのが原因かと考えます。

阿閇氏は伊賀臣の他に佐々貴山君、阿閇臣の祖でも。

横田健一氏は「阿閇氏の一考察」の中で以下のように述べています。

━━一族の出自は朝鮮と関係が深く、紀にもあるように任那との渉外に従事し使者となり、それに関連して供膳を職掌(食物供献儀礼)として職を与り天皇の側近で奉仕した。その出自から外交に携わり、朝廷の政治の一局面を支えるため、神がかりの託宣にも関わった。また新嘗服属儀礼に、そして祭祀・卜占にも従った━━

志田諄一氏は「古代氏族の性格と伝承」の中で以下のように記しています。

━━阿閉氏の「あえ」は「饗(あえ)」ること、天皇に食膳奉仕を氏族の仕事とすること、から由来する

孝元天皇紀に、「大彦命は阿倍臣・膳臣・阿閉臣・狭々城山君・筑紫国造・越国造・伊賀臣、凡そ七族の祖也」とあります。

膳氏(カシワテノウジ)からは「料理の祖」とされる磐鹿六鴈(イワカムツカリ)等を輩出(屋主田心命とは兄弟)。膳氏は以降、天皇の供御の料理や供饌の事、いわゆる食膳に奉仕しました。氏族の分布も若狭国や志摩国を始め、海産物等が多く採れる地域に顕著に見られます。横田健一氏が言う「宮廷の食物供献儀礼」は膳氏と同じもの。

阿閇氏の本貫地は伊賀国阿拜郡(阿閇郡)。伊賀国一ノ宮であり大彦命を祀る敢國神社。四道将軍として派遣された大彦命に従い、主に糧食の部門を担当、北陸道に進出しその沿道に子孫を残していったものと思われます。

氏姓制度研究の大家である太田亮氏は、「大和宇陀郡から伊賀の名張に出て、それから阿拝郡を經て此國に入り、甲賀郡、蒲生郡などを過ぎて北陸に出られた」と述べています(日本國誌資料叢書第三巻 近江國)

「先代旧事本紀」国造本紀の高志国造の条には、「志賀高穴穂朝御世、阿閇臣祖屋主田心命三世孫市入命定賜国造」とあり、高志国まで進出していたことが窺えます(宝賀寿男氏はこれを否定している)

越中国に鎮座する中川熊野神社、道神社(いずれも式内比定社)は屋主田心命を祀ります。

近江国伊香郡の現在の高月町に「阿閉(あつじ)」という阿閇氏の痕跡があります。伊香郡は息長氏等が製鉄鍛冶を行っていたことで知られる地。阿閇氏がこちらに進出し、製鉄鍛冶を行っていたと見ているのは先にも登場した横田健一氏。

大彦命が四道将軍として向かった北陸道へは、東山道を経由することになります。東山道から北陸道への分岐点となるのが伊香郡の「高月」。

琵琶湖西側には和珥氏が製鉄を行っていましたが、そちらは砂鉄を原料としていた手法。それに対し阿閇氏が行ったのはより新しい、鉄鉱石を原料とした手法。

これによりヤマト王権内での「勢力」は、和珥氏が阿閇氏に取って替わられ、さらに擬制した阿倍氏に移っていったとみています。

またさらに北上して継体天皇擁立にも関わり、さらに勢力を増長させたのであろうとも。息長氏や坂田氏とも良好な関係を築いたことと思われます。

これはまた同じく伊賀国山田郡に鎮座する阿波神社との繋がりを想定させるもの。そちらは息長田別命を祖とする阿波臣が奉斎したと考えられる社。阿波臣の同族たちが継体天皇擁立の主体を為しました。これら阿波臣と同族である息長氏を始め酒部公や建部公、別公等の近江国犬上郡から坂田郡を拠点とした氏族と連携したものと思われます。

比自岐神社の西側に築かれる「石山古墳」が屋主田心命の墳墓とする説があります。

全長120mの前方後円墳。4世紀後半の築造。円筒埴輪列があり、多数の家形埴輪が出土。石室には3つの槨があり、中央槨と東槨は政治的首長、西槨は祭祀的首長と見られています。

他説として、大和国高市郡に住む垂仁天皇の妾腹の子の円目王(圓目王、ツブラノメノオオキミ)が、伊賀の比自支和気の娘を娶って妻としたという記述があり、比自支和気とその娘、さらに近親者が葬られたというものも(参照 → 比自岐神社)


系譜

祖父 … 大彦命

大稲輿命(比古伊那許志別命)

大伊賀彦命

兄弟 … 磐鹿六鴈(イワカムツカリ)

祀られる神社(参拝済み社のみ)

[伊賀国田守神社(伊賀市蔵縄手)

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