2019年06月01日

586 出羽から陸奥への道 E “京丹後市峰山町金毘羅神社の狛猫”

586 出羽から陸奥への道 E “京丹後市峰山町金毘羅神社の狛猫”

20180614

太宰府地名研究会 古川 清久


 青森からの帰路、熊本の在住メンバーから福島神社(乙姫神社)を調べてほしいとの連絡が入り、少し軌道を曲げて網野町に廻りました。

 4月に伊藤女史一行と日本海最大の190mの前方後円墳を確認に廻った付近です。

 この傍に浦島太郎の住居伝承地があり浦野嶋子神社があり乙姫神社があるのですが、その話は後に回すとして、もう一つ要望のあった金毘羅宮に足を延ばしたのでした。

 京丹後市でも峰山町は京丹後市の中心部から海への出口である竹野と網野の分岐点のような場所で

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金毘羅宮という一般的にはかなり知られた神社ですが、元は違っていたのではないかと思ってしまいます。

 まず、大字「泉」という地名からも、猿田彦を思わせるのですが、この神社の祭神は

【 概 要 】−金刀比羅神社は文化8年に京極高備が金毘羅神社の本社の分霊を勧請して創建した神社です。峰山藩主京極家が篤く信仰し、社領の寄進や社殿の造営が行われました。神門(神社山門)は楼門造りの壮麗な建物で、秋は紅葉の名所として知られています。又、境内には全国的にも珍しい狛猫が建立されています。

【 場 所 】−京都府京丹後市峰山町泉

【 構 造 】−入母屋、銅板葺、三間一戸、八脚楼門

【 備 考 】−金刀比羅神社を創建した京極高備は峰山藩6代藩主京極高久の長男として生れ、天明8年(1788)に高久が幕府の若年寄に就任すると領内の行政を取り仕切るようになり、文化5年(1808)に高久が死去すると7代藩主となっています。文化9年(1812)には幕府の若年寄に就任し検地や寺社統治に尽力しています。

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この神社は藩政時代のものであって、真顔で議論するほどのものではないのですが、この神社の手入れの行き届いた美しさには感銘をさえ感じます。

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金毘羅神社は京極高備によってもたらされたものかも知れません。

 しかし、参道は二つあります。

この左側の参道こそ本物の元々の祭祀であり、「泉」という地名に対応する本来の祭祀だったように思います。

そこに、あるのは、稲荷であり猿田彦でした。

猿田彦と並殿する木島神社は、京都の太秦と同様に秦酒公が、天皇にたくさんの絹をうず高く積んで献上したとされており、蚕養神社とされています。養蚕、織物、染色の守護神として今も崇められています。

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稲荷神社(実は猿田彦のお妃である天鈿女命アメノウヅメを祀る)

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猿田彦が大幡主系(秦氏)の人であることがここでも分かりますね 狛犬ではなく狛猫の意味は不明

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八坂神社(スサノウ)と並殿されておられる方は見落としました

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金毘羅様ですが百嶋神社考古学では大山咋とします

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金毘羅神社の下には秋葉様(金山彦)が祀られていました


これら、金山彦、八坂神社(祇園神社)=スサノウ、猿田彦+天鈿女命(実は伊勢の外宮様)が、本来、峰山の人々が祀って来た本来の神々のはずなのです。

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狗は熊襲を意味しますので、金山彦系は熊襲を好まないため狛犬ではなく狛猫とされているのかも


一般的には大国主とか大物主とされますが百嶋神社考古学では大山咋神と考えます。周辺の神々はご自分でお考えください なお 金毘羅の意味はシルクロードのクンビーラ山が語源とします。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)百嶋先生は金毘羅は草部吉見と市杵島姫の子大山咋神とします

百嶋由一郎氏が残された神代系譜、音声CD、手書き資料を必要とする方は09062983254までご連絡を!


象頭山松尾寺の縁起によれば、大宝年間に修験道の役小角(神変大菩薩)が象頭山に登った際に天竺毘比羅霊鷲山(象頭山)に住する護法善神金毘羅(宮比羅、クンビーラ)の神験に遭ったのが開山の由来との伝承から、これが象頭山金毘羅大権現になったとされる。象頭山金毘羅大権現は、不動明王を本地仏とした。クンビーラ(マカラ)は元来、ガンジス川に棲む鰐を神格化した水神で、日本では蛇型とされる。クンビーラ(マカラ)はガンジス川を司る女神ガンガーのヴァーハナ(乗り物)でもあることから、金毘羅権現は海上交通の守り神として信仰されてきた。特に舟乗りから信仰され、一般に大きな港を見下ろす山の上で金毘羅宮、金毘羅権現社が全国各地に建てられ、金毘羅権現は祀られていた。

クンビーラはシルクロードのクンビーラ山から…    ウィキペディア(20180614 2344による

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2019年05月30日

585 出羽から陸奥への道 D “津軽は五所川原市の奇妙な日吉鳥居”

585 出羽から陸奥への道 D “津軽は五所川原市の奇妙な日吉鳥居”

20180614

太宰府地名研究会 古川 清久


今回の東北への探訪で最も北に行ったのは太宰治の出身地の津軽でした。

一般には石川小百合の津軽海峡見たさに竜飛崎まで進むのでしょうが、当方は十三湖周辺つまり謎の安東一族の領域を確認できればそれで良いだけで、竜飛の手前十数キロで日吉神社外を見て廻る事に終始してしまいました。

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十三湊といえば、謎の安東一族の拠点として知られています。


秋田(安東)氏 檜扇に鷲の羽/獅子牡丹(安倍貞任の後裔か?)

安東氏は元来、津軽地方の豪族であった。十三湊を本拠にして成長し、鎌倉末期ごろには藤崎城に拠る宗家上国家と、十三湊を無題.png本拠とした下国家とに分かれ、室町期の南部氏の津軽侵入によって、十三湊から蝦夷地に逃れ、まもなく出羽に戻って檜山に城を築き、そこを本拠とした檜山安東氏がいた。
 一方蝦夷地に渡らず、津軽から南下して秋田郡を支配し、湊に城を築いて勢力をもった湊安東氏がいる。ともに安部貞任の子高星の後裔と称している。両家は八郎潟北岸付近を境として、独自の領国制を展開していった。
安東=秋田氏の出自
 安東氏は、蝦夷の系譜に連なるといわれ、天正十七年(1589)まで蝦夷と蝦夷島(北海道)を支配していたのである。『秋田家系図』によれば、その祖は長髄彦の兄の安日王ということになっている。長髄彦とは、神武天皇の東征に抵抗して大和国生駒で誅されたという神話上の人物である。長髄彦の兄安日王は死罪を赦されて北海浜に流されて蝦夷の祖となり、その子孫がやがて蝦夷支配を認められ、前九年の合戦で名高い俘囚の長である安倍氏を経て、安東、秋田氏に至ったというのである。
 その真偽はともかくとして、北海放遂「鬼王安日」を蝦夷始祖とする見方は、鎌倉期の『曽我物語』などにみえ、秋田家の始祖とする安東氏も『吾妻鑑』などの「奥州夷」「蝦夷管領」と記され、室町時代の史料に「日の本(蝦夷)将軍』というように、各時代における史料にその素性と立場が記録されている。  いずれにしろ、安東=秋田氏の蝦夷氏の血を引く系譜と蝦夷の支配者としての立場は、鎌倉期から連綿として受け入れられ、現代に至っているもので、秋田家は日本国内の名族と呼ばれる家々のなかで、素性も系譜も多分に異なった名族であったといえよう。
 しかし、安東=秋田氏に関する関連史料はあまりに乏しく、近世大名として存続した秋田氏においてもその伝存文書は天正年間以後のものしかない。そして、名字に関しても、近世は秋田氏だが、それ以前は安東氏とも、下国氏、湊氏、さらには伊駒氏とも記されている。さらに、秋田の名字も中世以来のものであったのか、下国愛季の子実季に始まったものであったのかは、十分に検討されていないのである。
 系図も、「秋田家系図」「伊駒系図」「下国系図」「湊系図」「安東系図」「安藤系図」「藤崎系図」「安倍系図」などなど、名字を反映して、さまざまな系図が伝えられている。現在、「秋田家系図」として利用されるものにしても、十七世紀に作成された系図なのである。そして、それぞれの系図は鎌倉期以後の秋田家関連史料を記さず、多分の錯誤をみせている。このように、秋田氏の系譜・出自、名字の起こりなどは、多くの謎を抱えたまま、いまに続いているのである。

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 今般、十三湊を訪ねた理由は、基本的には九州王朝の影を見たからですが、最低でも「湊」という地名が付された港湾は、全て博多の櫛田神社の大幡主(ヤタガラスの父神=塩土翁=神産巣日神=安曇族の長)の影響下にあったと考えています。

 この大幡主の一族は、雲南省昆明の滇池の一帯に展開していた白族であり、秦の始皇帝の一族と姻戚関係を結んだ金山彦の一族と強力なスクラムを組んだ人々だったからこそ、サンズイ偏+秦を港湾のシンボルとしていたのです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


 この安東一族には金山彦〜長脛彦の影も付き纏いますし、安曇水軍の影も付き纏いますので十三湖=十三湊を目に入れておきたいと言う意味はお分かり頂けるのではないでしょうか。

 さて、安東氏の十三湊はシジミ汁も含めて十分に確認できましたので周辺の神社を見ていると、異様な鳥居が目に入りました。

 しかも、金山彦〜長脛彦系の三鳥居=殷の鳥居とは異なるもので、これまで何度か見掛けて気にしていたものでした。

 これは何故か日吉宮=日枝神社=山王宮…といった大山咋系の神社だけに認められるもので、それ自体も不明な上に、それが何故この十三湊の一角に置かれているかに至ってはなお不明です。

 五所川原(金木町)は太宰治の出身地として知られています。

 実際、青森の中でも辺境と言った印象は実感しましたが、冬場に至っては寒風に吹き晒され、骨まで凍るような生活が強いられる土地であり、太宰文学など素養も関心も持ちませんが、もしかしたら、彼らの中にもナガスネヒコ系か十三湊に寄港していた安曇族の血が注がれていたはずだとの思いを強くしたところでした。

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山王坊遺跡

山王坊遺跡は十三湖北岸、山王坊(さんのうぼう)川が流れる沖積地の奥まった山間部に立地する中世宗教遺跡です。

遺跡は山林に囲まれた日吉(ひえ)神社の境内地となっており、一帯は「山王坊」と呼ばれてきました。「山王」とは滋賀県大津市坂本にある日吉大社(ひよしたいしゃ)に祀られる大山咋神(おおやまくいのかみ)の別名であり、境内の入り口には山王鳥居(さんのうとりい)が参拝者を迎えてくれます。

地元の言い伝えでは、山王坊には阿吽寺(あうんじ)があったとか、南部氏によって焼き打ちにあったともいわれ、一帯は古来より霊地として大切に守られてきました。

これまでの発掘調査によって、中世における神仏習合(しんぶつしゅうごう)を示すの礎石(そせき)建物跡(建物の土台石)が極めて良好な状態で保存されていることが明らかとなり、平成292月に国史跡指定となりました。

山王坊・日吉神社の古記録

現在、日吉神社の祭神は大山咋命(おおやまくいのかみ)で、創建年は不明です。

文献史料に関しては山王坊に関する中世の同時代史料はなく、次ぎのように近世以降の古記録がわずかに残るだけです。

安永九年(1780)の『福山秘府』(ふくやまひふ)には、嘉吉三年(1443)、南部氏との抗争に敗れた安藤氏に付き従って、山王坊(さんのうぼう)・永善坊(えいぜんぼう)・万願寺實相坊(まんがんじじっそうぼう)が松前へ渡って行ったことが記されており、山王坊を名乗る人物が十三湊にいたことが分かります。

寛政八年(1796)、この地を訪れた菅江真澄(すがえますみ)は山王坊にかつて弘智法印(こうちほういん)が住んでいたと『外浜奇勝』(そとがはまきしょう)に記していますが、事実かどうかは分かりません。

また、江戸時代に寺子屋の教科書として用いられた『十三往来』(とさおうらい)には、十三湖周辺の情景が神社仏閣とともに描かれ中世十三湊の繁栄ぶりを伝えていますが、「山王坊」や「日吉神社」という名前は記されていません。

明治三年(1870)の『神仏混淆神社調帳』(しんぶつこんこうじんじゃしらべちょう)には、神仏分離(しんぶつぶんり)に伴って、これまでの山王宮をやめて日吉神社と改名し、相内村の飛竜宮(ひりゅうぐう)境内へ移したとあります。その後、明治九年(1876)の『新撰陸奥国誌』(しんせんむつこくし)には、相内村の北東に山王坊という小堂があると記されていることから、この間に日吉神社として現在の場所に戻ったものと思われます。

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孝季眩映 〈古代橘氏の巻〉 奈良市 太 田 齊 二 郎

 【起】

 古代阿部氏と東北との関わりは「東日流外三郡誌」をまつまでもなく、日本書紀などから明らかですが、橘氏については、鎌倉時代延応元年に「橘公業」が男鹿の地頭に任用されたということぐらいで、その後においても東北とはあまり深い関係はなかったというのが通説のようです。

 孝季の兄「橘太郎守季」の確認がはかどらず、「橘」さん達への電話作戦を思い付き、図書館の資料室で電話帳を開いた時に気づいたのですが、秋田市の人口三十万のうち八万人の旧土崎湊地区に、市内全体で約四十の「橘」のうち七割が集中していたのです。電話帳と「いにしえ」の関係はさておき、古代橘氏を調べることにしました。その結果「東日流外三郡誌」の世界を無視しては理解出来ない古代橘氏の意外な様相が見えてきたのです。

 【承】

 日本書紀などによれば、古代における橘、阿部両氏の動向は大略次のようです。

1. 「大彦命」と「武渟川別命(たけぬかわわけ)」は二人とも四道将軍の一員として、夫々北陸、東海へ派遣されていますが「続群書類従」の「安藤系図」には、この二人は親子として、「大彦命」の弟、「開化天皇」や、父親の「孝元天皇」とともに登場します。書紀では「大彦命」を阿部氏などの祖であるとしていますが「安藤系図」では彼の父親「孝元天皇」がその先祖として描かれています。

2. 謎が多いとされている聖徳太子。太子の父「用明天皇」は「白い国の詩(東北電力編)」によれば「橘豊日命」として宮城県に「下紐の石」、「姉歯松」などの伝説を残しています。

3. 書紀において推古天皇の大臣として登場する「阿部臣摩侶」と「阿部臣鳥子」は、先の「安藤系図」では親子として記載されています。

4. 「橘三千代」は「敏達天皇」の玄孫「美怒王」の夫人時代「葛城王」を産みます。王は万葉集巻十六によれば陸奥国へ派遣されたことになっています(前掲書)が、後に「橘諸兄」と改名します。尚、「敏達天皇」は「秋田次郎橘孝季系譜」にも出現し阿部一族と見なされています。

 「橘三千代」は「元明天皇(阿倍皇女)」の大嘗祭に供奉し忠誠を示したという理由で、和銅元年に「橘」姓を賜わったようですが、それだけのことで尊貴な?橘姓を賜わるというのは納得出来ません。彼女の父「県犬養連(宿祢)東人」は「安藤系図」の「東人」なる人物と、官位も時代も殆ど一致しており同一人を思わせます。「東人」も「元明天皇」も阿倍であり、「三千代」が賜った「橘」姓も、元々は阿倍と関係深い姓であったのではないでしょうか。

 多賀城碑に登場する「大野朝臣東人」も疑わしく感じます。碑文には「この城、大野朝臣東人の置く所」とあり、「置」の語意から彼が築城したものとは考えにくいのですが、築城が蝦夷側によるものとすれば、恵美朝猟による修造を主張するというこの記念碑にこもる、奈良側の雰囲気が伝わってくるような気がします。

5. 斉明紀には蝦夷と関わりのある「阿倍臣〈 名をもらせり)」、「阿部引田臣比羅夫」、「阿倍引田臣(名をもらせり)」と三人の「阿倍臣」が登場しておりますが、この三人は後に「安東」と名乗る一族として東北に残る同一人物であるとする通 説には賛成出来ません。斉明紀は明らかに別人扱いであり、「阿部引田臣比羅夫」と比べてその業績が圧倒的に勝る「阿部臣」について、書紀の編者が「その名を洩らす」など、とても信じ難いからです。この「阿倍臣」は「阿部水軍」のリーダーであって斉明紀は、蝦夷国の歴史を盗引したのではないかと、「近畿天皇家のルーツを探る(京大学生新聞平成九年十一月二十号)」は疑っています。

6. 孝徳紀において突然左大臣という要職で迎えられる「阿部倉梯麻呂大臣」は、「安藤系図」では「倉橋麻呂」(左大臣、本朝左大臣の始也。孝徳天皇即位日任左大臣)とあり、明らかに同一人物ですし、一方孝徳紀は彼に「橘郎女」なる娘の存在を認めています。

7. (元明)と三千代を(曾)祖母に持つ「孝謙女帝」も阿部姓です。

8. 諸兄の子で遣唐使「橘逸勢」の父でもある「橘奈良麻呂」は「秋田次郎橘孝季系譜」に、単に「奈良麻呂」として登場しています。

 【転】

 阿部安東氏に関係する系図は他にもありますが、これらの系図の中味が事実とすれば、何故に、天皇家は阿部氏との関係を深める必要があり、書紀は阿部一族が蝦夷の出自であることを明示しないのでしょうか。それともあまりに自明であるがために、その事に触れる必要もなかったのでしょうか。

 私にはこれらの疑問に答える力はありませんが、敢えて申し上げれば、蝦夷は和平派とアビ以来の歴史を誇る抗戦派の二派に分裂したのではないかと思っております。前者は積極的に天皇家に取り入り後の阿倍橘一族を形成しました。後者は同じ阿倍ではありますが、後に「安東」と名乗る一族として東北に残ることになりました。 このように考えますと、阿部氏を名乗る女帝たちも含め阿部一族が何のけれんもなく、むしろそれを誇るかのように、天皇家にとっては本来宿敵である「阿部」姓を名乗り、且つ要職に就くことが出来たのではないかという疑問が氷解するのです。

 残った抗戦派は厄介でした。古くから中国北東部との国交を保ち、幽玄の歴史「日の本」を名乗る誇り高い国だったのです。近頃は蝦夷国の名で唐にも接近しているようです。しかし、列島の覇権を目指す奈良王朝にとって白村江の敗戦がそのキッカケになったといわれる九州王朝の弱体化は、蝦夷攻略の絶好のチャンスでもあったのです。積極的にその牒略を展開したに違いありません。

 いつの間にか「蝦夷」はその呼称も「国」から「俘囚」に変わり、「称徳(孝謙)」後、非阿部である「光仁老帝」以降による積極策によって、ここに近畿天皇家による東北経営は完了したのです。

 しかし、「アテルイ」の頃から「奥州藤原氏」まで、中央政権による東北経営は騙し討ちの歴史でした。

 【結】

 通説に反し、橘氏が阿部氏と同族であり、天皇家とのただならぬ関係など、その背景がお解り頂けたものと思います。

 東北人の僻みの表現であるという人もいる「東日流外三郡誌」。しかしそれは、いにしえ以来のわだかまりを解消し、かつての誇りと自信の中身を明らかにする「黙示録」だったのです。

 佐竹藩は「東日流外三郡誌」の世界を知っていました。転封後の佐竹藩の経営姿勢について非難する研究者は少ないようです。入れ替わって安東氏が常陸に移封の際、居残った家臣たちを雇用し、後に安東家を離れ帰秋した旧家臣をも数多く再雇用したといわれております。湊城が狭いからというわざとらしい理由をつけて安東の気分が色濃く残る土崎湊を離れ、安東氏に由来するお寺の多くを、土崎湊から久保田城の近くに呼び寄せて庇護崇敬するなど、安東対策にはかなり神経を使っていたようでした。

 荒々しいながらあの余韻が堪らないという人もいる「土崎港祭」。秋田安東氏の中継地「男鹿」に始ったといわれている「ナマハゲ」の奇習。「湊城」址から出土し、現在は安東氏の土崎時代の菩提「湊福寺」の後身である「蒼龍寺」の寺宝として保管されている「鬼面」。私には、これらは皆、騙し討ちに遭った阿倍一族の恨みに漂う「アラハバキ」の残映に思われて仕方がありません。

 「湊福寺」は宍戸に転封の際「安日山高乾寺」と改名しました。安東一族は宗教に関係する時は安倍を名乗っていたそうです。これらは「安日彦」を偲んで当然のことですが、秋田に残る「生(伊)駒」姓も、先祖の故地、生駒山に因んだもので、先年、とある「生駒塗り」の店を訪ねた際、名前の由来を答えられた女ご主人の端正なお顔を今でも思い出すことが出来ます。

 【エピローグ】

 次は「菅江真澄」です。地元秋田には彼のファンや研究者が大勢おられます。イチから始めなければならない私には無謀の一語です。

 しかし、「失敗は素人の特権、間違いや足りぬところはプロが必ず助けてくれる」ことを信じ、大らかなアマチュア精神で頑張ろうと思っております。でもいつのことになるか全く自信はありません。

【附記】

 安東一族には「守季」の名前は多く、手持の資料だけで「盛季」を含めて七例もありました。補陀寺に残る「守季」の位牌については「橘太郎守季」のものである可能性は小さいかもしれませんが、とはいってもこの位牌は外見や当時の「盛季」に関する通説などから、十三湊最後の安東家当主「盛季」のものとは断定出来ないという方もいるそうで、いずれにしても四百年前のものかどうか、年代比定が必要ではないかと思いました。

インターネット事務局注記2001.10.31(データ分割の都合上、こちらの構成に移しました。)

 古田史学の会公式HP「新古代学の扉」より

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 今回、ささやかな成果がありました。それは、この日吉神社の正面の地名が「岩井」(「日本書紀」には「石井」)である事でした。

 我々百嶋神社考古学の立場の者には逆賊磐井は恐らく金山彦系(後裔はナガスネヒコ)ではないかと考えており(伊藤女史は阿蘇系と言われますが)安東一族との繋がりを多少とも見出した気がしています。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)日吉神社は草部吉見と市杵島姫の子大山咋神なのです


百嶋由一郎氏が残された神代系譜、音声CD、手書き資料を必要とする方は09062983254までご連絡を!


 その意味では木曾の身延から入った南部氏の侵入を受けた安東氏の鎮魂には望ましい祭祀のように見え、これは安東氏の祭祀ではないような気がします。

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比叡山の日吉神社


 最後に、三つ鳥居=殷の鳥居については取り上げてきましたが、今回、異形日吉鳥居について初めて触れました。

 しかし、この日吉鳥居は殷の鳥居に比べてかなり多いようです。

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2019年05月27日

584 出羽から陸奥への道 C “喜多方市の山三郷総鎮守 宗像神社初見”

584 出羽から陸奥への道 C “喜多方市の山三郷総鎮守 宗像神社初見”

20180613

太宰府地名研究会 古川 清久


青森での探訪を終え秋田〜山形〜福島へと東北地方の内陸部を南下し、喜多方辺りから〜新潟へと進む途上宗像神社を通過しました。

 早朝の通過でしたし、特別喜多方ラーメンを食べようとも考えなかったのですが、福島から南下したままだと北関東に入ってしまう事から、色々考えたのですが、結局、阿賀野川を下り新潟市郊外に出てそのまま賀茂市、三条市を通り抜け抜け日本海沿いの柏崎刈羽方面に出ようと考えたのでした。

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その道すがら図らずも宗像神社に遭遇した訳です。

 本州でも時おり宗像系の神社を見掛ける事はあるのですが、まさかこれほど遠いところまで広がりを見せているとは思いもよりませんでした。

 こういうところがフィールド・ワークの効果であり賜物でもあります。

 実は宗像神社が福島県から千葉県(白井市に2社)に掛けて散見されます。

旧山三郷総鎮守 宗像神社由緒には、


源頼義・義家親子が奥州征伐の時(前九年の役)家臣宗像某が、筑前の国宗像郡宗像神社の御分霊を奉じ軍に従い来りて、当社の西方約2kmの堂峰山に勧進された。


とあり、平安末期の言わば国策に乗った神社の様に見えるのです。

前九年、後三年の役の戦役=出羽、陸奥への攻略拠点、少なくとも宗教的拠点こそこの喜多方の宗像神社だった事が見えるのです。

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宗像神社由緒です

旧山三郷総鎮守 宗像神社由緒
御祭神 田心姫神 湍津姫神 市杵島姫神(後、弁財天に付会し、また市神として信仰)
御鎮座の由来・沿革
御祭神三柱の神々は、皇祖天照大神の御子神であらせられ、天孫降臨にさきだち天照大神の御神勅を奉じて筑前の国宗像の地にお鎮りになられました。九州と朝鮮半島を結ぶ玄界灘の真中にある沖ノ島に沖津宮(田心姫神)、海岸近くの大島に中津宮(湍津姫神)、そして陸地の田島に辺津宮(市杵島姫神)があり、この三宮を総称して宗像大社(旧官幣大社)と申し上げ、当神社の御本社です。
宗像三柱大神は、古事記・日本書紀等の古典によると、国つくりの前に天照大神によって「歴代の天皇を助け奉り、歴代の天皇からお祭りをけられよ」との御神勅を下された御神で、またの御名を「道主貴」とも申し上げ、国家と皇室を守護し奉り、国民のあらゆる道をお導きになる尊い大神であります。

(「宗像大社由緒記」より略記
伝えに曰く、当社は天喜年中(1053〜1058)源頼義・義家親子が奥州征伐の時(前九年の役)家臣宗像某が、筑前の国宗像郡宗像神社の御分霊を奉じ軍に従い来りて、当社の西方約2kmの堂峰山に勧進された。以来神威盛大にして繁栄した神社なりしが、天正年中(1573〜1592)伊達正宗の軍会津を攻める時の災禍に遭い、神殿及び社殿等ことごとく焼失する。その後郷俗類廃し祭奠の時を怠り、神祠荒れ果て60余年を経過。寛永年中(1624〜1644)当時、木曽組の郷頭斎藤孫右衛門清長(官命により舟岡邑から移住し小布瀬郷の長となる)霊夢に感じて、明暦元年(1655)資材を投じ良工をして神像を刻し、神殿・社殿を造営、堂峰山より現在の地に遷宮し、7月24日初めて祭祀の礼を執り行った。
寛文7年(1667)会津藩岨保科正之公の「神社改め」の祭、領内の神社を巡検し来った巡検使は、当社に及び、天然の神域なりと感嘆し、これが契機となって藩が援助して神域を整備した。延宝7年(1679)には郷頭斎藤茂左衛門清満の代に、藩主から修復料を賜り拝殿の普請を行なう。以来山三郷総鎮守と尊称し、代代の藩主社殿の修復料を給付、春秋の祭祀を行なうよう勧めた。
明治4年(1871)郷社に列せられる。その後神社の廃合整理により指定外村社に区分されたが、先年の神社制度改革によって社格を廃しして現在に至る。

(新編会津風土記・耶麻郡誌・蓮沼由道著「宗像神社記」より略記)
造営の沿革
安永8年(1779)神社の大普請成就。明治40年(1907)7月鳥居を石造に改築。昭和28年(1953)7月社殿の大改築(屋根替等)を行う。昭和30年(1955)御遷座300年を記念し、裏参道石段の新設整備を計り、昭和60年(1985)には大鳥居を改築する。
境内末社 諏訪神社 御祭神 建御名方命 

御神徳 辰・巳歳生まれの守り神 縁結び 安産 厄災消除 学徳成就 健康長寿 治山治水 所願成就
木曽のイチョウ(弁天様の大イチョウ)
樹齢400年余 樹高28m 胸高周囲6m福島県緑の文化財登録第64号 昭和58年2月17日指定
                                       宗像神社社務所

地元の方のブログと思われる「ビーズうさぎのハナちゃんです!!」に由緒をリライトされたものがありましたので有難く使わせて頂きました(深謝)。

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さて、立派な由緒書きでしたが表面的な祭祀を真に受ける事は当方の定石ではありません。

 この境内にはもう一つの祭祀が残されていました。

 これが、付近からの持ち込みだったとしても、この地に宗像祭祀が持ち込まれる以前には諏訪神社の祭祀が存在していた可能性があります。

 土地勘がない者として軽々には言えませんが、武家には諏訪の神の信奉者が数多くいます。

 それは、彼らの出自がそうさせるのですが、宗像の神が持ち込まれた後ではないと見るべきで、やはり、源家が進出する以前の奉斎の可能性がありそうなのです。

 ここでは憶測は止めて百嶋神社考古学の立場からの諏訪の神の出自だけを明らかにしておきましょう。

 無論、大国主命の子でありません、実は建御名方は阿蘇氏と長脛彦の間の末子なのです。

宗像氏で無い事だけは明らかですね。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記