978 太宰府地名研究会の月例研究会会場を従来の筑前、筑後、肥後に戻そうと考えています
20230528
太宰府地名研究会 古川 清久
この3〜4年の間、北九州市に中心を置く丁己歴史塾からの依頼を受け、本拠地を九州の北東部である北九州市の小倉などで行ってきました。折しも武漢肺炎ウイルス下と重なるも神社トレッキングと併せ一度も中断せずに継続してきました。
その意味では会の全力を上げて取り組んだとは言えるのですが、実際には、本拠地であった筑前、筑後、肥後からかなりの距離があることから、22年6月に行った佃収講演(60名)程度の参加でした。
今回は会場が150人の所である事から丁己歴史塾としてはチラシ3,000枚を作成し既に動き始めています。
当然、当方も西からの動員を加える予定ですが、昨年は菊水史談会の40人講演(かつては熊本県玉名市〜和水町のエリアで180人の講演会を行っているのですが)と併せ何とか述べ100人の講演会を行った訳です。
そこで、佃収講演は今後も北九州で取り組むとしても、我々の本願地での活動を効率よく継続して行うべく、再度、本拠地を西に戻し、熊本、佐賀、久留米も取り込んで継続したいと考えています。
残念なのは大分在住メンバーで、ここには講演可能な研究者が5人もおられる事です。今後大分自動車道を利用する形で講演願えればと考えています。
まあ、どこかを得ればどこかを失うのは道理であって、何れ結果が功を奏す事もあるのではないかと思っています。
ただ、3年余りの経験だけから言うのは不見識の誹りは免れませんが、多少、思うところもあり、正しかったかどうかは10年後に判断したいと思っています。
我々九州王朝論者と言っても、今、尚、少数派で或ることは十分に承知していますが、どうも北九州の方々、若しくは、近接する宗像市〜田川郡一帯の方々の反応は期待ほどでは無かったとの印象を得たことでした。
既に古田武彦研究を乗り越えるとまで豪語していた九○古代史の会は九州王朝説の幟を降ろし只の古代史研究団体に成り下がっていますし、その一部であった田川郡内での九州王朝豊前説に乗った一部の研究者が一時期田川郡の全市町村の村興し町興しに肖って始めは物珍しさから参加者が急増したのですが、一二年の間に参加者も激減し、恥を晒しているだけの状態なのです。
結局、田川郡のパン・フェスタだかケーキ・フェスタだか知りませんが、焼肉だかB級グルメなどで一時的な客寄せイベントに肖って協力する形で研究会への参加も急に減少し、九州王朝説はあの程度のものかと恥を晒すだけになっているのです。
さぞかし、通説派の学芸員とか教育委員会関係者からは十二分に馬鹿にされている事でしょう。
私は、ほぼ、4〜50年前の九州王朝論創成期の雰囲気も多少は知っている(最低でも想像が着く)のですが、当時は古田武彦初期三部作などの圧倒的な衝撃もあり、自然発生的に九州王朝論が異常なほどの拡大を見せ、福岡県下でも北九州地区(豊前)に於いても、九州王朝論の立場に立つ研究会が存在していたことも承知していました。
このためそれなりの下地はあると思っていたからこそ、丁己歴史塾からの要請があった場合も、逆に本拠地を東にシフトしても良い経験になると考えて全面バックアップを行ってきたのでした。
ところが、どうも蓋を開けてみるとそれは甘かったようで、“九州王朝論て何ですか?”といった感じで、こちらとしても、びっくりするような話、初めて聴いたような話を連発されつつも多くの講演者を送り込んだつもりでいたのです。でも、そう単純でもなかったのでした。
どうもおかしいと気づいたのはに2年目に入ってからでした。
簡単に言えば、どうも反応が弱い、薄い…、普通なら多くの講演者をを送り込んで各ジャンル、いろんな方向から証明をするもそれが何だ…という反応だったのです。
特に呆れたのは契丹古伝とか先代旧事本紀とか上ツ文といった偽書扱いされているものを受け入れるような姿勢では集客が落ちる…と言った声が上がった事でした。
記紀に偏重する通説派の方が問題であって、むしろ記紀こそが偽書でしかないのです。
その事がハッキリわかったのは事務局中枢メンバーの一部にその傾向が認められたことで、このままでは会の存続に拘わるとの思いを強くしたのでした。
そこで急遽、西に(筑前、筑後、肥後)のラインに戻すことを考えたのでした。
筑紫野市二日市温泉辺りとなると、西鉄とJRが並行して走っており、かなりの人口の集積と、水城、太宰府政庁、都府楼…と文化の集積が確認され、この一帯で研究会を行いたいと思います。
白江戦の大敗北、唐による太宰府占領(都府楼)、天武朝の機内への移動…とこうした屈辱の亡国戦を経て、倭国は畿内に移動し、後に天智朝にひっくり返されてしまいます。
瀕すりゃドンするを自で行くような政変劇ですが、こうして日本の骨格が固まってきたのです。
何はともあれ、日本国はそれなりの国家として国際舞台で役割を担い、曲がりなりにも立派な国体を維持しています。

太宰府地名研究会+丁巳歴史塾2023年6月以降のスケジュール
7月期2023年7月22(土)佃 収 講演会 資料代他 1000円
伊藤まさこ 阿蘇 西原村教室へのご案内 2023年6月5日(月曜日)13:30〜
講演テーマ: 「万葉集」巻20 に込められた意図を探る
〒861-2402 熊本県阿蘇郡西原村小森1805−8 俵山湧水そば 平田庵(萌乃里手前200m) 駐車場へ集合
連絡:090-6298−3254 直ぐ傍ですのでお迎えに上がります。以下ホーム・グランドの変更について!
ここ3年ほど丁己歴史塾からの要請もあり北九州市小倉北区の生涯学習センターにおいて合同で研究会を行ってきましたが、今後の発展を考え小郡市や筑紫野市方面への移転を考えています。今のところ福岡県筑紫野市二日市南1丁目9−3の生涯学習セン
ターなどを軸に北九州から筑前へとシフトする方向で検討中です。最近、熊本〜佐賀と新規の参加が望める事もあり、再度、西に戻す方が良いのではないかと考えています。ここはJR、西鉄が二本移行してアクセスしている事、駐車料金が要らない事からまずは最適ではないかと考えています。秋以降、新たに活動を始めたいと思っています。なお、佃収講演については、引続き丁己歴史塾と提携し継続したいと考えており、皆様のご協力をお願いしたいと考えています。
年間講演者リスト(仮案)
NO. | 講演予定者名 | 経歴等 | 講演テーマ | 居住地 | 備考 |
1 | 井上 悦文 書道家 | 「草書体で解く邪馬台国の謎」他著 | 「邪馬台国は朝倉にあった」卑弥呼の墓は山田大塚古墳 | 日田市 | |
2 | 阿部 貞隆 建築士 | 北九州の阿部一族について | 大分市 | ||
3 | 伊藤 まさ子 ブロガー | 「宗像・宝満・沖ノ島」著 | 北九州に残された古代史の謎 “古代祭祀線から見る神武東遷” | 福岡市 | |
4 | 大石 耕史 歯科技工士 | blog「くじら通信」管理者 | 古遠賀湾の物部25部族について考える | 久留米市 | |
5 | 小島 宗光 曹洞宗僧侶 | 調整中 | 五つのテーマのどれでも話し致します テーマの絞り込み中 | 伊万里市 | |
6 | 田中 興人 醸造家 | 日本美術刀剣保存協会佐賀県支部長 | 古代の剣と刀について | 伊万里市 | |
7 | 杉山 宏治 建築士 | Blog「事代主のブログ」管理者 | 香春神社と高良大社 | 筑紫野市 | |
8 | 古川 茂 醸造家 | blog「幡随院長兵衛」管理者 | 古代の酒と醸造業 “無法松と幡随院長兵衛” | 佐賀市 | |
9 | 阿部 裕治 古代史研究者 | 「晋国残影」著 | 磐井の乱とは何だったのか?継体紀、欣明紀から読み解く磐井 | 別府市 | |
10 | 神田 浩 獣医師 | blog「ひとつあがりのカフェテラス」管理者 | 速吸姫神社と関門海峡 | 大分市 | |
11 | 江原 不可止宮司 | 大帯八幡社宮司 | 関門海峡と周防と姫島 | 姫島村 | |
12 | 古川 清久 元自治体職員 | 「有明海異変」著 blogひぼろぎ逍遥(跡宮)外管理者 | 古代豊の国は関門海峡を挟んで長門まで及んでいた”防府の玉祖神社とは何か?“ | 日田市 | |
13 | 予備 宮原 誠一 | Blog「宮原 誠一の神社見聞諜」管理者 | 神武と天照は福岡市南区柏原と桧原に住んでいた… | 久留米市 | |
14 | 予備 Dr.大津 忠彦 | 出光財団イラク発掘調査団研究員 | 「イラクの洪水伝説とノアの箱舟」 イラク発掘調査の別バージョン | 小郡市 | |
15 | 予備 田尻 久善 建築士 | 熊本県住協代表 (漢 劉邦101代) | 「後漢霊帝末阿智王の一族が入っている」“長野県南端の昼神温泉郷=阿智村も大集落か?”講演者 田尻 久善 熊本県住協代表(劉邦101代) | 熊本市 | |
16 | |||||
0 | 別枠 佃 収 古代史研究家 | 新「日本の古代史」(佃説)外著書多数 | 「倭の五王」の倭国(佃説)から再度 | 越谷市在住玉名市出身 |
外にも講演可能な方はおられますが、年に10回程度の講演では椅子取りゲームになってしまいます。
当然にも、久留米市、熊本県西原村、小郡市、佐賀市などでのサテライト開催も含め自前でこれだけの論者を保持できれば教育員会関係者、学芸員などから通説まがいの話を聴き鵜呑みにする必要もないはずで独自の研究体制を維持できるはずです。
講演依頼も含めご提案があればご連絡ください。太宰府地名研究会(編集員)古川 090-6298−3254