太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2017年06月19日

346 蘇民将来 巨旦将来と百嶋神代系譜

346 蘇民将来 巨旦将来と百嶋神代系譜

ひぼろぎ逍遥 ひぼろぎ逍遥(跡宮)共通掲載

20161217

太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川  清久


以前、118 蘇民将来(ソミンショウライ)巨旦将来(コタンショウライ)として、宮崎県五ヶ瀬町鞍岡の祇園神社の「蘇民将来 巨旦将来」伝承を取り上げた事がありました。

近年、パワー・スポット・ブームで参拝客が増加している神社と聞いています。

もう一度「蘇民将来 巨旦将来」伝承を思い出して頂きましょう。

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蘇民将来出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (20161219 21:41による


無題.png蘇民将来護符(神戸・祇園神社)


蘇民将来(そみんしょうらい、非略体: 蘇民將來蘓民將耒巨旦将耒、など)とは日本各地に伝わる説話、およびそれを起源とする民間信仰である。こんにちでも「蘇民将来」と記した護符は、日本各地の国津神系の神(おもにスサノオ)を祀る神社で授与されており、災厄を払い、疫病を除いて、を招く神として信仰される。また、除災のため、住居の門口に「蘇民将来子孫」と書いた札を貼っている家も少なくない[1]。なお、岩手県県南では、例年、この説話をもとにした盛大な蘇民祭がおこなわれる。陰陽道では天徳神と同一視された。

説話 古くは鎌倉時代中期の卜部兼方釈日本紀』に引用された『備後国風土記』の疫隈国社(えのくまのくにつやしろ。現広島県福山市素盞嗚神社に比定される)の縁起にみえるほか、祭祀起源譚としておおむね似た形で広く伝わっている。

すなわち、旅の途中で宿を乞うた武塔神(むとうのかみ、むとうしん)を裕福な弟の将来(『備後国風土記』では「或本作巨旦將來也」とあり、巨旦将来〈こたんしょうらい〉と表記され、金神のこととされる)は断り、貧しい兄・蘇民将来は粗末ながらもてなした。後に再訪した武塔神は、弟将来の妻となっていた蘇民の娘にの輪を付けさせ、それを目印として娘を除く弟将来の一族を滅ぼした。武塔神はみずから速須佐雄能神(スサノオ)と正体を名乗り、以後、茅の輪を付けていれば疫病を避けることができると教えたとする。

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同社御由緒


 まず、縁起に依れば、曽男神(スサノウ)並びに冠八面大明神(クラオカミ)が主神であるとしているようです。しかし、御由緒の冒頭にはスサノウ、オオナムチ、イザナミが名を連ねています。

 奇妙ですが、多分、曽男神(スサノウ)並びに冠八面大明神(クラオカミ)が先住神で、後に三神+八神となったものと考えて良いのではないかと思います。

 少し分かり易いように一つずつお話をする事にしましょう。

 縁起による主神の曽男神(スサノウ)と冠八面大明神(クラオカミ)とは、百嶋由一郎氏の神代系譜(クラオカミ、タカオカミ系譜)によればお分かりの通り弟と姉になります。

 しかも、この神社は祇園山の裾野の祇園神社であり、通常祇園神社とはスサノウを祀る神社なのですから、クラオカミが祀られていてもおかしくはないどころか、むしろぴったりの場所となります。

 さらに驚くことに、この集落自体が鞍岡であり、クラオカミ=冠八面大明神を祀る地域を表している、どころか、クラオカミとは、この鞍岡に居たからこそクラオカミと呼ばれていたのではないかとまで思えるのです。

祇園神社 宮崎県西臼杵郡五ヶ瀬町鞍岡6066


 そこで、残りの神様を考えて見ましょう。伊弉册尊(イザナミ)は言うまでもなくこの二柱の神様の母神になりますから、当然と言えば当然で、奇稲田姫もスサノウのお妃ですから全く違和感はありません。

 「古事記」ではクシナダヒメを囲んで泣いていたとされる足名椎、手名椎もクシナダヒメの親神ですから当然の配神になります。

 そして、問題の蘓民將耒、巨旦将耒ですが(両方とも雲南省麗江から進出してきた黎族)、蘓民將耒とは阿蘇高森の草部吉見=春日大神=武甕槌=鹿島大神の叔父にあたる神八井耳にあたり、巨旦将耒とは熊本地震で楼門が倒壊した阿蘇神社の最奥の神殿に祀られている金凝彦こと神沼河耳の事なのです。

 最後にこの祇園神社が鎮座する鞍岡は宮崎県五ヶ瀬町の一大字になりますが、神武皇兄五瀬(イツセ)命とは、この五ヶ瀬町の五瀬(ゴカセ)から取られた名前なのです。

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ところが、祇園神社では御由緒にクラオカミ=神俣姫が書かれていません。

勿論、境内摂社の神としては書かれているのですが、闇淤加美神が、何故、そのような扱いになっているのかは分かりません。

実は西南方向1キロほどの所に祇園神社の境外摂社として冠八面大明神「古我武禮神社」があります。

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この冠八面大明神 古我武禮神社の由緒を読むと、間違いなくスサノウとクラオカミがこの地に居たのではないかと思いが高まって来るのですが、さらに重要なのは旅の途中で宿を乞うた武塔神(実は仏教化されたスサノウ)が一夜の宿を求めた相手方の蘓民將耒(恐らく草部吉見周辺)、 巨旦将耒(恐らく阿蘇神社周辺)であることを考えると、蘇民将来巨旦将来伝承も、この肥後、日向国境い一帯を舞台として起こった事のようなのです。

単に浮ついた一過性のパワー・スポット・ブームだけでではなく、この宮崎県五ヶ瀬町と熊本県阿蘇高森の草部吉見神社一帯の神代史に目を向けて頂きたいものだと思うものです。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 21:39| Comment(0) | 日記

2017年06月14日

345 勝沼にも高良神社があった “山梨市の大井俣窪八幡神社”

345 勝沼にも高良神社があった “山梨市の大井俣窪八幡神社”

ひぼろぎ逍遥 ひぼろぎ逍遥(跡宮)共通掲載

20161209

太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川  清久

 山梨県甲州市勝沼の隣に山梨市があります。

 三階松、門光の神紋を打つ勝沼のぶどう寺大善寺からも直ぐ行けるところですが、大井俣窪八幡神社があります。道すがら、多少、気になって参拝させて頂いたのですが、愕くことに、高良神社と若宮神社が、立派な社殿の摂社として鎮座していたのでした。

 フィールド・ワークも馬鹿にならないと実感したのですが、このような幸遇はめったなにないものです。

 しかも、ひぼろぎ逍遥 416 那須与一の那須神社に高良神社を発見した! 北関東への神社調査 @

でお知らせしたような小さな境内社ではなく、堂々たる摂社の様であり、感動をさえ覚えました。

 どう考えても、この甲州まで九州王朝の氏族が進出しており、その痕跡が残されている事が見えて来たのでした。

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はじめに目に飛び込んで来たのは浮島状の社だったことから、直ぐに市杵島姫だと分かりましたが、どうやら、現在の宇佐神宮の中殿=第二殿の比売大神こと宗像三女神がごっそり移され末社扱いされているようなのです。

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当然にも、祭神の入れ替えが行われた事が一目で分かります。

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貞観元年(859)に宇佐神宮を勧請したとありますが、宇佐神宮が現在の一社三殿三神として神功皇后が加えられた時期に相当し、それまでは、高良神社、若宮神社が主で、背後の末社が鎮座していたのではないかと思うのです。

まず間違いなく比売大神こと宗像三女神は宇佐神宮勧請時点で持ち込まれたものでしょう。

では、本殿を御覧いただきましょう。

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御覧のとおり、北殿とされる仲哀天皇が宗像三女神を追い出したようです。

摂社若宮八幡神社は寛治7年(1094)武田信玄の祖新羅三郎が勧請したと言う話は驚きです。

武田信玄のルーツが、何故、九州王朝の最後の天皇である仁徳を別に祀ったかは謎です。

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堂々たる摂社ですが、間違いなく若宮神社と書かれています

驚いたのは向かって左端に置かれた高良神社の存在でした。

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 高良神社の後ろには武内宿禰が祀られていますが、後ろの方が偉いので、立場が逆転しています

 一般的に本州に入ると高良玉垂命とは武内宿禰のことだとされていますし、そう強弁する輩にも良く遭遇しますが、こちらでは、正しくも明確に分離されています。

そして、神殿背後こそ、本当に偉い神様がおられるのですが、神殿裏にはさらに多くの神々が…

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本殿背後の境内社 北野天満宮 道祖大神 久住大神 大宮神社 山王神社 八釼大神 白山大神 松尾大神

 まず、山梨県にも古田武彦九州王朝論に触れた方は少なからずおられると思うのですが、まずは、こういった神社も考えて頂きたいと思います。

 我々の目からは、九州王朝の天皇(実は藤原により第10代とされた開化)と、その子であり応神天皇の子などととんでもない濡れ衣を被せられた九州王朝最後の天皇(仁徳)が揃って大切に祀られているのです。

 恐らく、神社庁の最高位の特急神官クラスはこれらの背景も全て知っているはずなのです。

 神社庁が知らないとしても宮内庁は知っているはずなのです。

 九州王朝論を馬鹿にする薄汚い利権まみれの通説派の学者から学芸員とか考古学協○などといった間の抜けた利権集団の方々も少しは自分の頭で物事を考える事をしないとそのうち大恥をかくことになるのではないでしょうか?

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:40| Comment(0) | 日記

2017年06月13日

344 勝沼ワインの里の大善寺 E “ぶどう寺にはなぜ「国宝ぶどう薬師」像があるのか?”(追補)

344 勝沼ワインの里の大善寺 E “ぶどう寺にはなぜ「国宝ぶどう薬師」像があるのか?”(追補)

20161204

太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川  清久


三枝氏とは何者なのか?


大善寺 (甲州市)

正確な創建年代は不明だが、寺伝に拠れば奈良時代に行基の開創を伝え(延慶3年(1310年)「関東下知状」)、本尊である薬師如来像の様式などから創建は平安時代前期と考えられている。薬師堂は天禄2年(971年)に三枝守国による建立とする伝承がある。(天文14年(1545年)「大善寺諸堂建立炎上記」)によれば、在庁官人として甲府盆地東部の東郡地域で勢力を持った古代豪族である三枝氏の氏寺とされる。

ウィキペディア(20161204 22:46による


この三枝氏が三階松の家紋を使う事から、ようやく大善寺そのものを表す紋章ではなく、スポンサーとしての三枝氏を表しているという事に気付きました。

では、三枝氏とは何者なのでしょうか?


三枝氏は三枝連(さいぐさのむらじ)の流れで、三枝連は天津彦根命の末裔であるという。「三枝連」の由来は顕宗天皇の治世の時、諸氏を集めて祝宴が開かれた際、庭に三茎の草があり、これを天皇に献上して三枝連を賜ったという逸話に由来するとされる。しかし、この説に『寛政重脩諸家譜』は疑いを示している。

山梨県甲州市に所在する柏尾山経塚は、出土した経銘文により平安時代の康和5年(1103年)に勧進僧・寂円により造営されたと判明する。康和5年在銘の経筒には関係者として三枝守定・守継ら三枝氏の一族の名が見られる。また、山梨県笛吹市の福光園寺本尊の吉祥天像は鎌倉時代の寛喜3年(1231年)に仏師・蓮慶により制作されたとする墨書銘を有し、檀越として三枝氏の一族の名も記されている[7]

ウィキペディア(20161204 22:52による


しかし、三階松の家紋を使う一族が天津彦根命の末裔と知って驚きました。

天津彦根命とはスサノウと子産み争となり天照が産んだ五柱の男神の一つだったからです。


天津彦根命

アマツヒコネは、記紀等に伝わる日本神話の神。

『古事記』では「天津日子根命(あまつひこねのみこと)」、『日本書紀』では「天津彦根命(あまつひこねのみこと)」、他文献では「天都比古禰命」とも表記される。

アマテラスとスサノオの誓約の際にアマテラス(天照大神)の玉から生まれた男神5柱のうちの1柱で、多くの氏族の祖とされる。

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三枝氏は甲斐源氏が発祥する遥か以前に、大和朝廷から甲斐に派遣された国守級の在庁官人の出身であることは疑いない。『日本書記』の福草部の姓氏録に「三枝連」の名が見え、『続日本後記』の承和十一年(844)の項にも三枝直平麻呂の名が見えている。
三枝氏前史
 このように三枝氏は甲斐の古豪族で、律令時代には郡司をつとめ、甲斐の産物を大和朝廷に献納していたものと思われる。昭和三十七年、山梨郡勝沼町柏尾山の工事現場で康和五年(1103)銘の経筒が発掘された。それには、大善寺の大檀那三枝宿禰守定・守継、藤原朝臣基清らが経筒を仏前に供え、見晴らしのいい柏尾山に埋めるまでの経過が刻まれていた。経筒に刻まれた守定・守継が戦国時代に武田氏に仕えて活躍した三枝守友の遠い先祖であることは間違いないだろう。ちなみに、大善寺は三枝氏が創建した関東でも屈指の古刹である。

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ところが、通説、定説は良いとして、この天津彦根命と言うのが少し理解しにくい一族なのです。

 以下は、百嶋由一郎氏が作成した「鳥子系譜」と呼んでいるものの一部で、唯一、この系譜にだけ天津彦根命がでて来ます。

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百嶋由一郎氏作成「鳥子」神代系譜(部分)


驚くことに、阿蘇氏でも、現在、阿蘇神社の一番奥の神殿に金凝彦(カナコリヒコ)の名で祀られている神沼河耳のことなのです。

 実は藤原氏によって第2代綏靖天皇と格上げされた有力人物であり、スサノウの姉の神俣姫との間に阿蘇高森の草部吉見(所謂春日大神=武甕槌=鹿島大神…)を得ている古代に於いてはトップ・クラスの有力者なのです。

 しかも、お妃が神俣姫(丹生津姫)となると鉱物採取、金属精錬に長けた一族であることは明らかで、古代には甲州の金、銀の開発にも力を持っていたことが容易に想像できるのです。

 ただ、阿蘇氏の神沼河耳の後裔氏族とする三枝氏が三階松の神紋を家紋として採用しているという事に繋がりを見出せないでいたのです。

そうするうち、百嶋神代史研究会のU女史(こちらはフィールド・ワークを抑えてただひたすら百嶋資料とネット検索で全国の神社を調べていると言う九州では最も百嶋神社考古学に精通した方です)からアドバイスを受けていると、三枝氏の「三枝」は「サエ」であり「佐用」「佐與」のことで、宗像三女神の筆頭市杵島姫(別名が佐用姫、佐代姫)を意味しているのではないかと言われたのでした。

しばし、面食らいましたが、確かに可能性があるのです。

まず、天津彦根命の第二代の草部吉見=武甕槌大神は市杵島姫への入り婿となり、大山咋=松尾大神=佐田大神(断じて猿田彦ではない)=日吉神社、日枝神社=山王神社の父となっているからです。

始めは、三枝氏の三枝は三階松を意味しているのだろうと安直に考えてはいたのですが、三枝が「佐用」「佐與」「佐用」の置換えだったとは驚きました。

興味をお持ちの方は、兵庫県佐用町の佐用神社、福岡県飯塚市の厳島神社外をお調べ下さい。

ひぼろぎ逍遥(跡宮)230白川伯王家源流の神社初見“飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)”

ひぼろぎ逍遥(跡宮)273 兵庫県佐用町の佐用都比売神社とは何か? 他も参考になるでしょう。

してみると、栄えある三枝氏とは、子産争いでスサノウと天照が共に産み分けた両系統から共に血を受けた有力氏族だったことが見えて来たのです。

ここら辺りが武田氏滅亡後も徳川氏の重臣となった三枝氏の手腕を思わせるところです。

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百嶋由一郎「阿蘇ご一家」神代系譜(部分)


 まだ、納得されていない方は多々おられると思いますので、少し分かりやすい例をお示ししましょう。

 奈良県桜井市に狭井神社があり、奈良市の大物主神社の摂社率川神社や同社の「三枝祭」といったものまでがあります。

 まず、狭井神社ですが、祭神は換えられているようですが、市杵島姫は鎮女池に残されています。

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また、奈良市の率川神社では、さいぐさの祭が行われています。

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さいぐさのまつり【三枝祭】

古代律令祭祀の一つで,孟夏(陰暦4)の祭。当時の令の解説書《令義解》によれば,〈率川社(いさがわのやしろ)の祭なり。三枝花を以て,酒吹iみか)に飾りて祭る。故に三枝という〉という。《延喜式》の四時祭の規定では,小祀とされた。三枝花は,その枝が三岐に分かれるところからの命名で,一説に百合花という。率川社(率川神社)は,奈良県桜井市に鎮座する大神(おおみわ)神社の摂社で,奈良市内にまつる。この祭は,平安末ごろには衰退したものと思われ,《公事根源》では,2月と11月の項に率川祭が記され,三枝祭との混同さえうかがえる。

世界大百科事典 第2版の解説 による


この率川神社も、祭神を媛蹈韛五十鈴姫命 (御子神) 中殿 狭井大神(御父神)向かって左殿 玉櫛姫命(御母神)向かって右殿 としてはいますが、事代主(蛭子)系一族が祭神、伝承を換えている事が私達の目から見れば分かるのです。しかし、それを説明するには膨大な説明が必要になるためここでは、省いておきます。ただ、市杵島姫は鹿島大神(甑島にも鹿島町がありますね)と共に(実はご夫婦で大山咋をお産みになっています)薩摩の阿多から甑島を経て、東へ、そして甲府(天津司舞の天津司神社)へも、果ては男鹿半島まで神武東征ではない即位前の神武巡行に随行されていますが、説明は困難です。

ここでは、三枝祭のシンボルは笹ユリとか山百合とされていますが、実は鹿児島県いちき串木野市沖に浮かぶ鹿児島県甑島の鹿の子ユリの事であることだけを申し上げておきます。

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三枝祭

     このお祭りは、『さいくさのまつり』と申し、毎年六月十七日に執り行われる

     当社の御例祭であります。

     このお祭りの起源は古く文武天皇の大宝年中に属し、御本社で行われる鎮花祭

     はなしずめまつり)と共に、特殊な神事として由緒深いお祭りであります。そ

     の名の起こったわけは、三枝(さいくさ)の花(笹ゆりの花)をもって酒樽を

     飾ってお祀りするからであると思われます。

     むかし、当社の御祭神媛蹈鞴五十鈴姫命が本社三輪山の麓、狭井川のほとりに

     御住居になり、その附近には笹ゆりの花が美しく咲き乱れていたことが国史に

     見えておりますが、その御縁故によって後世御祭神をお慰め申す為に酒樽に笹

     ゆりの花を飾っておまつりする様になったと言い伝えられています。笹ゆりの

     花は本名佐韋(さゐ)といいますが、三枝祭はこの故事によるのであります。

     このお祭は古くから国家の祀典として重んぜられ、光孝天皇の御代には勅田を

     奉られ、醍醐天皇の御代、この祭儀は神祇官から幣物を祝(はふり)につけて

     日を選んで行われ、又馬寮から神馬を献られるなど非常に丁重なお祭が行われ

     たのでありますが、後世いつの間にか中絶していたのを明治十四年再び古式の

     祭儀に復興せられ、現在に及んでいるんであります。

     このお祭の特に異なっている点は、黒酒、白酒を『吹iそん)』『缶(ほとぎ)』

     と称する酒垂ノ盛り、その酒垂フ周囲を三輪山に咲き匂う百合の花でふさふさ

     と飾り、優雅な楽の音につれて神前に御供えされる事であります。又神饌は古

     式により熟饌に御調理申し上げて折櫃に納め、柏の葉を編んで作ったふたをし、

     黒木の御棚にのせて御供えいたします。この三枝祭は本社の鎮花祭と共に、疫

     癘の鎮遏を祈請することを本旨とするお祭であります。」

  

三枝(さくさ)の花

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花にまつわるエトセトラ による


 結局、三枝とは鹿の子ユリの事であり、それをこよなく愛した市杵島姫は別名佐與媛と呼ばれ、飯塚市鹿毛馬の厳島神社の傍にも「佐與」という大字が残され、兵庫県佐用町には佐用神社があり市杵島姫が祀られているのです。

ひとまず、三枝氏の一端を垣間見た思いがしますが、なかなか容易に結論までは到達できないようです。

 ただ、今回、勝沼の大善寺に訪れ、一番驚いたのは、三枝氏によって建立された国宝薬師堂の最上部に、三枝氏の三階松に囲まれた門光=唐花紋を発見した事でした。

 この神紋は九州王朝との関係を取り沙汰される福岡県久留米市の高良大社の内部に密かにおさめられている神紋であり、現在、高良大社では近畿大和朝廷によって支配されて以降(749〜)臣下としての木瓜紋と住吉の左三巴だけを表に出していますが、故)百嶋由一郎門光氏からは門光=唐花紋が伏せてあるとお聴きしています。

 この事は当の高良大社では十分にご存じのことだと理解しています。

 この神紋を発見したとき、実は、宮地嶽神社の三階松以上に驚きました。ここでは公開されていますのでじっくりご覧ください。

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 ここでは、門光=唐花を両脇から三階松が支える構図になっており、三枝氏の一族の思いを垣間見た気持ちがします。

 してみると、ぶどう寺こと柏尾山大善寺とは久留米市大善寺玉垂宮天台宗大善寺と無関係などとは全く言えなくなったようです。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:21| Comment(0) | 日記