2026年03月29日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1120 波多氏と秦氏は違うのではないか

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1120 波多氏と秦氏は違うのではないか

20250918

太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


今年の3月に解散へと進んだ二県五市に跨る郷土史会=旧松浦党研究連合会が解散へと踏み出されたとお聴きしました。

佐賀県の唐津、伊万里、長崎県の松浦、平戸、佐世保を中心に数十年の間、県、市境を越える郷土史会が解散するに至ったのは惜しまれますが、ここ30年の日本社会の停頓と国民の疲弊を考えると、後進の育成と参加を呼び込むことが困難だったのはどの団体でも同様で、これまで連合会を支えてこられた長老の方々の決断は致し方なかったのではないかと思っています。

ところが、その中心の一つであった伊万里市の方々の中から新たな研究会の設立への動きが始まり、私にも参加のお誘いがあったのでした。

それについては、別の話に成りますのでここでは触れませんが、新たな研究会でも私に何か話をお願いしたいとのご相談があった事から、復刻版と書下ろし含め、新ひぼろぎ逍遥に急いで30本ほどのブログを書き上げました。その後、二回の打ち準備会合を経て920日に発会の運びになったのですが、僭越ながら私にお鉢が廻り何か話せとの依頼があり、その準備を行っているところです。

 それについては、何れお話ししたいと思いますが、中近世は不得意なジャンルに成りますので、それを避けて以前から気になっていた“波多氏と秦氏は違うのではないか”“どう違うのか”を考えたいと思います。そして、太秦氏と金山彦系の人々とを改めて考え直す必要が有ると思うのです。


南、北波多村の「波多」とは何か


 まず、伊万里には南波多村が、唐津にも北波多村があり、それらを整理する事から始めたいと思います。

そこで唐津で松浦党を辿ると、まず、西唐津から唐坊、佐志浜の佐志氏に触れる必要があります。

 唐坊、唐房は唐以来の大陸との貿易用の拠点としての倉庫群、居留地があったと思われ、南島原市の口之津町にも同様の地名があります。

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佐志将監神社 カーナビ検索 佐賀県唐津市佐志中通40431


 こちらは、明治期の一村一社令の影響でしょうか、

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八坂神社はそもそもスサノウを祀るもので、そのお妃となった櫛稲田姫は金山彦と埴安姫(博多の

櫛田神社の大幡主=カミムスビの妹)ですから金山彦、大幡主、大山祇の連合体の本拠地ですね。

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稲荷神社は正体が隠されていますのでお分かりになり難いと思いますが、そもそも伊勢の外宮の豊受大神とは大山祇の長女(弟は大国主命、妹はコノハナノサクヤ)とスサノウとの娘なのです。

 田島神社は、宗像大社か呼子の田島神社からの移動、勧請でしょうから、大幡主=カミムスビ系で、敵対的な関係にある神社は、阿蘇氏を陰で操る高木大神の彦山神社だけですね。

 この一社は古代に置かれた監視役とも思いますが、この北波多とは、九州王朝系の金山彦、大幡主、大山祇の連合体集落と言えそうです。

 では少し戻りましょう。唐津市自体がその傾向を表しているのです。ここの春日も監視役ですね。

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全体を見ると、細部が見えなくなります。以下細切れで拡大します。

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無題.png無題.pngのデータによれば、熊野原神社【鎮座地】唐津市西寺町1363【御祭神】家津御子大神 熊野速玉大神 熊野夫須美大神 大山祇神 応神天皇 猿田彦命 神田五郎宗次霊

 御覧の通り、博多の櫛田神社の大幡主=カミムスビが熊野速玉大神とあり、その実体は伊弉諾と別れ大幡主のお妃となった伊弉冉が熊野夫須美大神=熊野那智大社の主神です。そんな話は聞いたことがないと言われる方は、藤原がこさえた「日本書紀」のイザナミ、イザナギ周辺をお読みください。一書に曰くとして“もう別れましょう”…とはっきり書かれています。大山祇は当然として、応神天皇は藤原が押し込んだものでしょう。猿田彦もアメノウヅメの夫神ですが大幡主の臣下であり、アメノウヅメとは藤原に貶められていますが、伊勢の豊受大神であり同時に伏見稲荷様なのです。また八坂神社も妙見神社も全て櫛田神社の一族です。

無題.png無題.pngのデータによれば、

唐津神社【鎮座地】唐津市南城内313【御祭神】底筒男命・中筒男命・表筒男命・神田宗次命・罔象女命・大直日神

 底筒男命は高良玉垂の命=実は開化天皇、中筒男は贈る崇神天皇で(正統皇統に在らず)、開化天皇と御后(皇宮皇后)神功皇后の夫神(勿論、仲哀死後のですが)、表筒男はウガヤフキアエズと鴨玉依姫の間に生れた安曇野磯羅なのです。この話は込入っていますので、ここでは省略します。基本的には久留米の高良大社に残された「高良玉垂宮神秘書」に基づく百嶋神社考古学の内容です。この神社には良く残されていますね。罔象女命・大直日神はお分かりになり難いと思いますので、百嶋由一郎最終神代系譜からご覧ください。これは「高良玉垂宮神秘書」により作られています。罔象女命つまり神大市姫とは大山祇の長女で、実は伊勢の外宮様の母神であるため外宮様よりよほどお偉いのです。緑枠

大直日とは、分かりやすく言えば、阿蘇神社でも北宮とも言われる国造神社の神様で阿蘇神社よりも遥かに格上の神様です。後の藤原の祖と言える南阿蘇高森の草部吉見と宗像三女神の市杵島姫の間に生れた日枝神社、山王神社(佐賀は多い)、小城の松尾神社の主神でお酒の神様とされていますね。大幡主の子である八咫烏の実子で京都の下賀茂神社の主神鴨玉依姫が大恋愛の末に結ばれたのが大直日=大山咋(オオヤマクイ)なのです。

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百嶋由一郎最終神代系譜


問題は何故大恋愛となったのかです。皆さんは山幸彦が海幸彦から釣り針(チ)を借りて、海に失い茫然自失となっている時、塩土老翁が龍王に会いに行くようにアドバイスしたという話をご存じでしょう。そこで山幸彦(実はニギハヤヒ=猿田彦)は、対馬の和多都美神社(木坂の海神神社ではないと思います)に行き、豊玉姫に出会うのです。三年添うのですが、豊玉姫が子育て放棄をしたため山幸は再び途方に暮れるのですが、代わりに乳母として送り込まれたのが鴨玉依姫だったのです。

 ところがその稚児ウガヤフキアエズも成長し乳母とできてしまうのです(宮神秘書にはそれとなく書かれていますが)。その子が安曇野磯羅だったのです。これはさすがにまずいとウガヤフキアエズと八咫烏の後継者であるはずの鴨玉依姫は引き離されたことから、大直日と大恋愛となったのだと思います。

 その切っ掛けを作った塩土老翁が製塩業者で、唐津湾の高島の宝当神社の傍にある塩屋神社です。

 この主神がカミムスビこと大幡主であり塩作りの神様でもあるのです。塩屋は幾つもありますが。

 南九州では、塩(筒)命と呼ばれており、製塩土器の事だなどとも言われているのです。

 多分、焙烙鍋の様に塩水、焼き塩を入れて販売=交易=物々交換していたのです。焚火の傍に置けば塩が析出しますね。それを魚に付け食べていたのでしょう。

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その古代の最重要の交易品であった塩を造っていたのが、大幡主揮下の猿田彦だったのです。

 猿田彦の「猿」の獣偏を取ってみてください。袁田彦ですね。三国志の袁術も袁尚も大陸軍閥の袁世凱も塩の交易の関係者だった様です。まさか、猿田彦をソルト彦とまでは申し上げませんが。

ひぼろぎ逍遥 天草下島 御領 猿田彦神社 と検索して見て下さい。まだ現場が残っているのです。

308 塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! C 天草市五和町塩屋大明神正面の塩田跡


 雲南省政府は,袁世凱が皇帝制を復活させたことに反発して 1915 12 月に護国戦争を発動

し,中央政府との間で激しい武力衝突を引き起こした。護国戦争における雲南省軍の戦費は 950

万元にのぼった。そのうち,167 万元を占めた第二位の財源が塩税収入である(首位が中国銀行

からの借款 200 万元)2)。雲南省の塩税収入は 1915 年には省税収の約 16%,翌 1916 年には約37%,1922 年には 54% を占めるなど3),財政の上で重要であった。その一方,全国塩税におけ

る雲南の比重は 1915 年では 4%,1920 年では 3%,1925 年では 1% など,微々たるものに過

ぎない4)また河北の長蘆や四川,淮南などの塩が数省に及ぶ広大な市場を占めていたのと異なり,雲南塩の流通圏は四川や貴州の一部を含めつつも雲南一省から大きく広がることはなかった5)

。しかし,こうした雲南の状況は塩の自給自足に近い分,他省の影響が少ない点で塩の生産を営む地域社会とそれを擁する地方政府,そして中央政府との関連を端的に捉えるのには適している。

1913 4 月に袁世凱政権は善後大借款を導入し,各債権国が塩税管理を行うために稽核所が

全国に配置された。この稽核所は塩税管理だけでなく塩政改革にも関与した。雲南では省の塩政

を統括する塩運使の蕭しょう峻こんが 1915 年に塩政改革案を提議している。    (部分)

[論説] 中華民国北京政府期における雲南の塩政改革 (中川太介)による

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淮南は山東半島の付け根で淮河の南ですが、袁術も袁尚も淮南でしたね。


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これは、唐津市北波多村の南に隣接する伊万里市南波多村の西の黒川町、旧波多津村です


御覧の通り、我々が言うところの博多の櫛田神社〜宗像大社の辺津宮(田島)or呼子の田島神社が目立ちますね。その中心がまさに波多津漁港です。

 半分の神社は見ていますが、少なくとも京都の太秦(秦の始皇帝の末裔氏族)を思わせるものはありません。

 では、何故、波多津と呼んだのでしょうか?それは彼らが同じイスラエル系として始皇帝と姻戚関係を結んだ一族だったからです。その関係はご自分でご検討ください。まあ、大幡主の幡の意味か?

 これが、九州王朝を支えた古代民族、氏族だったのです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)

 無題.pngまず、氏とは、始皇帝の姓名の嬴贏政(エイセイ、インチョン)に対応し、姻戚関係を結んだ上に製鉄の為に火山列島の倭国に先行して入っているのです。 その金山彦の一族と相互に姻戚関係を結んだのが、スサノウ系、大幡主(カミムスビ)系、大山祇系だったのです。数世代に亘って相互に姻戚関係を結び、実際には混血が進み、同族化していったのでした。配下は江南の倭人。 印象としては、伊万里市の波多津は博多の櫛田神社の大幡主の影響が色濃く出ている様で、波多津の波多とは大幡主の波多であろうと思うのです。

 対して、北波多村の波多とは同じ「波多」でも金山彦系の要素が色濃く出ており(愛宕神社、八天神社、八坂神社)、暗いイメージを持つのは外洋への広がりを持った波多津と旧北波多村の内陸の製鉄を思わせる地域にも多少の民族的違いが見て取れるのです。

 因みに、東北大学の田中 英道名誉教授(最近亡くなられましたが)も秦の始皇帝はイスラエル系と明言されていましたね。

 百嶋由一郎に従う我々神社考古学の者にとっても同意できる事で、夏はともかく、殷、周、秦〜新はイスラエル系と認識しており、周王朝の末裔の呉の太伯の後裔としての倭国、そして、博多の櫛田神社の大幡主の一族(最終的に雲南省から列島に避退した白族=ペイツー)、稲荷を奉斎する大山祇系トルコ系匈奴(南匈奴)が主力の北波多末孫と…佐賀県北西部域の一端が見えて来たのです。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2026年03月26日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1119 昨年途中で中断した越中の南魚沼の神社調査に入ります

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1119 昨年途中で中断した越中の南魚沼の神社調査に入ります

20250913

太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


 漸く研究会のスケジュールを搔い潜って、恒例の甲信越への神社調査になんとか入る事ができそうになってきました。

 と言うのは、一ケ月もの調査旅行に出るにも、今年はちょっとした問題があり、うちのニャンコ(ミキ)さんをいつも預かってもらっている方が住居を移そうとされている事からタイミングが合うかどうかが問題だったのです。元々、どうしても貰って欲しいと言われたと言ってきた仲介者にお願いしているからなのです。

 予定では10月下旬の出発で11月下旬までに戻ってくる予定なのです。それ以上遅くなると、甲信越は雪が降り始め、それこそ戻ってこれなくなる可能性が有るのです。

実際、昨年も越後湯沢からの帰路にはそれなりに雪が積もっていたので、11月になると用心しなければならないのです。

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今回も山中湖湖畔の友人の別荘を利用させて頂き、そこを拠点に、名古屋に行ったり、黒部に行ったり、魚沼に行ったりと調査は全域に広がります。

 宿泊可能なのは山中湖の別荘と、今年に関してはあと一ケ所お伺いする中巨摩郡も某寺院にお伺いする必要があるのですが、そういう屋根の有るところでキチンと調査の結果を纏め写真を整理し記録を残さないと、調査旅行ではなくただの観光旅行にしかなりませんので、どうしても拠点は必要になるのです。

 ただ、昨年の様に天候が悪いと、図書館などで文書を書かなければならず、全て車中でパソコン入力を続けることもできないため、調査ポイントとデータ管理をキチンとしないと土地勘がない所ほどあやふやな内容になってしまいかねないのです。今回の最大の目的地は石上神社と大林寺です。

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次に、巡るのは東電の柏崎刈羽原発の柏崎市に編入された旧西山町の二田物部神社です。

きちんと、二田と書かれており、物部25部族の二田物部であることは明らかで、筑豊から避退した物部氏の上陸地がここだった事を証言しているのです。それが群馬の仁井田なのですね。

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西山町と言えば、故)田中角栄の出身地でしたね、してみると、彼も物部25部族筆頭二田物部、つまりニギハヤヒ(天照国照彦天穂明櫛玉饒速日命)の一族、末裔だったのではないでしょうか。

驚くことに、この神社の神紋は徳川家の初期の紋章を掲げているのです。

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詳しくは、初期のひぼろぎ逍遥(アメブロ)から

295 北北東に進路を取れ! N 柏崎刈羽に筑豊から展開した二田物部を確認した 20160105

をお読みください。

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こちらは十年前に訪問していますが、同行予定の埼玉県所沢市のT氏が見ていないため案内する予定です。

 彼もブロガーで、以下の「神代の浜辺…」をどんどん書いておられます。

関東方面の方はこちらをお読み下さい。

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そして、もし良ければ、そのまま、富山県の黒部まで足を延ばそうかとも考えています。

 目的地は、百嶋由一郎の八咫烏関連神代系譜で現地を見ていなかった八意大市彦神社です。

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八心大市比古神社(やごころおいちひこじんじゃ) カーナビ検索富山県黒部市三日市3185

祭神 大山祇神・少彦名神・軻遇突智神を主祭神とし、合祀神として天照皇大神を祀る

八心はともかく、大市から大山祇系の神社であることは一目ですね。今でこそ、そう言えますが、

この八心大市比古神社は非常に分かり難い神社だったのです。

 漸く、最近になって分かってきましたが、以下をご覧ください。

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2026年03月24日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1118 20250817 早良区原の諏訪神社第二次トレッキング配布資料の公開

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1118 20250817 早良区原の諏訪神社第二次トレッキング配布資料の公開

                     20250808

太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


 最近は、ヒート・アイランド現象で暑過ぎるために屋内での研究会の方がましなのですが、お盆もあり無理にお誘いもしにくいのです。それで勢い中止する方向で動いていました。

 ただ、だからこそ普段行かない神社とか、一度やったトレッキングでも参加できなかった方達を対象に二度目のトレッキングを行うというのに都合が良く、逆に12社に限定で、後は懇親会にしましょうと言うのが今回の企画です。

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まず、箇条書きで概略を説明します。

➊ 倭建命による熊襲 猛退治(古事記では誅殺)

記紀で表現は異なりますが、“九州の熊襲を討伐し、大和朝廷の支配を広げました”としますね、

古事記は「古事記」において、「西の熊襲猛二人あり」という記述は、景行天皇がヤマトタケル(倭建命)に、服従しない無礼な熊襲の猛者二人を討伐するよう命じた場面で登場します。

➋ ヤマトオグナの出撃拠点は佐賀県神埼市の白角折神社とされています。まあ現地での話ですが。

日本武尊が熊襲征伐のときに白角折神社から的に向かって矢を射たという伝説から幣作りのおしとり部と関連があるという説、西方の国を制圧するときに鳥が白い角を持ってきて、戦況が有利になったことから「おしとり」と呼ぶようになったという説があります。「神埼の成り立ちと神埼祥荘」

➌ 実際にはこの地から出撃し西の佐賀市(旧大和町)川上峡の淀姫神社辺りに居た猛を誅殺した…

➍ この現場が淀姫神社西1キロほどに在る大願寺地区辺りだったのではないかと言われています。

➎ 「記」「紀」はヤマトタケルノミコトが女装して熊襲の宴に潜入し、首領であるクマソタケルを討ち取ったとします。

➏ ところが、故)百嶋由一郎は神埼市脊振村広滝で川上 猛は許され(助命)福岡市早良区の某所に移され今もその一族はその地に纏まってお住まいになっておられます。その名も場所も分かっているが可哀そうで申し上げられない…と言われ鬼籍に入られました(いずれ伝えるつもりだったはず)。

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無題.pngこの広滝神社(兼大明神)には祀られる神とは異なる川上 猛誅抜の話が残されているのです。恐らく、百嶋先生は、まだ、伝承が残っている間にこの話を聴きだし…たのだと思います。そして、助命された一族が今も早良区の原の某所に居られることも掴んだのではないかと思います。

既に、ここまでの話は、川上 猛@Aに書いていますので、この二つパワポからお読み下さい。

概略で良い方は、以下の2本のblogをネットからひぼろぎ逍遥(跡宮)から読んでださい。

934

ヤマトタケルの熊襲退治時代の佐賀県東部とはどのような土地だったのか?下 ❿

933

ヤマトタケルの熊襲退治時代の佐賀県東部とはどのような土地だったのか?上 ❾

今回のテーマは、恐らく抑留でしょうが、一族ごと移された川上 猛の一族は名を改め、今も某所に居られると言う話に成ります。


932

早良の諏訪神社を「福岡県神社誌」から見ると ❽

931

河上猛がヤマトタケルに許された旧脊振村広滝とは ❼ 

928

続)大神一族とは河上 猛の後裔だったのではないか? ❻ 

927

大神一族とは河上 猛の後裔だったのではないか? ❺ 

926

「早良区に移動したその後の 河上 猛」小規模講演会向けに用意したレジュメ ❹ 

925

福岡市早良区の諏訪神社の由緒略記を寄贈された方々のご出身地を知りたい ❸ 

924

福岡市早良区に移住した河上 猛(熊襲 猛)の一族が住み着いた現地を確認した ❷

923

ヤマトオグナに誅伐された栄えある河上 猛は許され今もその一族は

福岡市早良区に住んでいる ❶


現在は、誅伐に動いた側のヤマトオグナも畿内からやって来たのではなく、東隣の神崎市の旧背振村からか川上峡に侵入したのではないかと探求を進めています。

 昼食はどうしましょうか?イオンにも二店ほどありますが、…どうしましょうか?近くにもレストラン・ビレッジ、餃子王将原店、meat kitchen あぽろん、資さんうどん原店などあります。

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blog「地図を楽しむ・古代史の謎」tizudesiru.exblog.jp 管理者 伊藤 まさ子(福岡市)

無題.png無題.png講演 「持統〜元明期 天武から天智への皇統の変更があった」

講演者プロフィール

「太宰府・宝満・沖ノ島」“古代祭祀線と式内社配置の謎”著者

 不知火書房(092-781-6962) 僅かに残部あり…¥1980.-

同書の著者、古墳、古代瓦…考古学、古代史、「万葉集」…の研究者でもあり現在も熊本、福岡…数カ所で考古学、古代史、「万葉集」の勉強会を継続中。御年不明…分かってますが。

講演内容「天智王権の復活(長屋王誣告事件)橘奈良麻呂の変で天武の皇統は断絶した

8はお盆でもあり、熱中症を避け炎天下で何社も巡る大規模な神社トレッキングは行いませんが、新メンバーの参入もあることから以前行った企画ですが、希望者だけを対象に二度目の神社探訪を行います。福岡市早良区原のイオンPに集合福岡市早良区原6丁目2752一社限定で直ぐ北に鎮座する原の諏訪神社の探訪会を行います。皆さんは建御名方のお妃八坂刀女ですが、百嶋由一郎研究では、この地から建御名方とお妃の八坂刀女(実は川上 猛の母=阿蘇高森の奈留多姫)が諏訪に向かうのです。故)百嶋由一郎が喝破した 川上 猛 移配地 直ぐ隣の諏訪神社のトレッキングと涼しい場所で食事会、懇親会を行います。参加費は一社ですので、資料代込みで通常の半額とします。(追加仮案)余裕のある方は、終了後春日市商工会議所敷地内の大那彦(大国主命の幼名)で祀られる白元社と白川伯王益壽稲荷もご案内します。当会事務局の中島により大国主は出雲の人でない事を確認したいと思います。

太宰府地名研究会は(第3週)17(日)or24(日)1社程度の神社探訪懇親会を企画します。17日が雨の場合は翌週に延期の予定です。希望が在れば両日も行います。参加費資料代半額500817日、1030〜 集合場所:福岡市早良区イオン原店(福岡市早良区原6丁目2752

テーマ:ヤマト・タケルに誅罰されるも助命された河上 猛の福岡市早良区の抑留地を探る要予約

集合場所:福岡市早良区イオン原店(福岡市早良区原6丁目2752

お杖代 :編集員 古川(ブログ「ひぼろぎ逍遥」外…管理者)

後に日本武尊となるヤマト・タケルに助命された川上 猛の福岡市早良区の某所を訪ねます。日本武尊が向かった琵琶湖の北の伊吹山は脊振村の伊福だった!神埼市に姉川、うきは市にも妹川が、琵琶湖に注ぐ姉川古戦場(信長、浅井朝倉激突)の上流にも妹川が在る。そして、神功皇后の母方の一族が脊振に〜父方の一族が三瀬に住んでいた(三瀬村杠「野波神社」と「下ノ宮」)。そして琵琶湖の北岸の長浜にも、突飛に思えても滋賀県の長浜、米原も福岡市の長浜、糸島の前原なのです。故)百嶋由一郎が秘密にしていた川上 猛の移送(配流)地が漸く分かりました。既に3年前に15人程で探索していますが、参加されてない方達も居ますので早良区原の諏訪神社を探索します。昨年の川上 猛の生誕地を探る南阿蘇高森町の神社トレッキング(延べ50人参加)同様の重要なトレッキングになります。以下は9月の講演予定。

日時 2025921日 日曜日(1300〜)

会場生涯学習センター(福岡県筑紫野市二日市南1-9-3

講演内容「二千年の天文台址」〜七幸神社古譜考」〜

講演者 壱之寺住職小島宗光(伊万里市):松浦党研究会

不明な点については、当会サテライト事務局JR春日駅西口 前自然食レストランくるま座 中島 茂まで090-5289-2994 or 編集員 古川 清久090-62983254まで

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ヤマトタケルの熊襲退治時代の佐賀県東部とはどのような土地だったのか?下 ❿

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ヤマトタケルの熊襲退治時代の佐賀県東部とはどのような土地だったのか?上 ❾

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早良の諏訪神社を「福岡県神社誌」から見ると ❽

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河上猛がヤマトタケルに許された旧脊振村広滝とは ❼ 

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続)大神一族とは河上 猛の後裔だったのではないか? ❻ 

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大神一族とは河上 猛の後裔だったのではないか? ❺ 

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「早良区に移動したその後の 河上 猛」小規模講演会向けに用意したレジュメ ❹ 

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福岡市早良区の諏訪神社の由緒略記を寄贈された方々のご出身地を知りたい ❸ 

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福岡市早良区に移住した河上 猛(熊襲 猛)の一族が住み着いた現地を確認した ❷

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ヤマトオグナに誅伐された栄えある河上 猛は許され今もその一族は

福岡市早良区に住んでいる ❶


まず、百嶋由一郎が残した最終神代系譜から今回の神々の系統をお考え下さい

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通説派の系譜を見ても何も分かりません。百嶋先生に依りましょう。河上 猛をご覧ください。

 川上 猛は淀姫の兄です。父は、久留米の高良山辺りに居たはずのウガヤフキアエズ、母は阿蘇宮司家初代とされる惟人の姉か妹かである以上、阿蘇家の本流中の本流になります。

しかも悲劇の雨宮姫とは建磐龍と草部吉見の娘である天豊ツ姫(阿蘇ツ姫)の両方の血が注がれている以上、阿蘇家のプリンスとプリンセスだった事になるのです。では、何故、ヤマトタケルによるテロを受けたのでしょうか?ここからは、私の推定になります。

 それを理解するには、ナガスネヒコの乱まで遡る必要が有りそうです。

 ヤマトタケルの素性を考えると、その父が天足彦(他の百嶋系譜では彦坐王でもあると)でその弟が建御名方(奈留多姫はウガヤと別れ諏訪に行く)なのです。

 この彦坐王と建御名方は草部吉見がナガスネヒコの乱を鎮圧しているようで、その証拠にナガスネヒコの妹を戦利品の様に側室にしている事が分かるからです。

 この二人は、間違いなく初期九州王朝を支えた金山彦の娘である櫛稲田姫とスサノウの血を引く長

髄彦の妹、瀛津世襲足(日本書紀は気長足姫尊=神功皇后としますが)が誅殺した草部吉見の子として生れた事を恨んでいたはずなのです。その恨みがヤマトタケルにも引き継がれているのです。

 その背後に居たのが八咫烏後裔、鴨玉依姫だったと考えているのですが、これはまだ検討中です。

では、更に話を進めましょう。

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後は、何故建御名方と奈留多姫が共に諏訪へと向かったのかが分かれば、全体像が浮かび上がってきます。ご存じの通りと言うか公開されないため良くは分からないのですが、諏訪の宮司家は元々守矢家で、諏訪大社上社は今もその系統だと思います。甲信越の調査のため毎年山中湖の友人の別荘に行くのですが、いつも上社には参拝しています。

 ソロモン王の神殿はエルサレムのシオン山がモリヤであるのですから、守矢の名はその延長にあると考えています。

 そこに何故、建御名方が行ったのかは、今は良く判ります。それは、阿蘇氏というか木大神、天照、正勝吾勝草部吉見に対する恨み、報復の意味があったと思うのです。

 それは、百嶋由一郎最終神代系譜を見れば分かる通り、ヤマトタケル同様、イスラエル系の金山彦

の血を汲む人物だったからに外ならないのです。

 スサノウの母は伊弉冉であり金山彦の妹ですし、櫛稲田姫の父も金山彦ですから、長髄彦の妹瀛津世襲の血を汲む建御名方、ヤマトタケル、その父ある彦坐王=天足彦も同様です。

 分からないのは、草部吉見の曾孫になる奈留多姫が建御名方に同行したのかです。

 今のところ、川上 猛を阿蘇の宮司家が守ってやらなかった事への反発だとは言えない事はないのですが、それ以上は不明です。しかし、この事件は神代の一大事件だった事だけは確実なのです。

 その後、「宮原誠一の神社見聞諜」の宮原さんから連絡が入りました。ありがたいことに古川説を補強する内容でした。それは、諏訪神社の境内に祠があるそうで、1500年代に諏訪神社から勧請されたものがあり八坂刀唐祀っているというのです。

 この名は、阿蘇ツ姫ではなく孫の奈留多姫が建御名方と一緒になって以降の名であり、奈留多姫=八坂刀唐祀る祠であった事が判るのです。恐らく、その祠の裏にはこれを諏訪から持ってこられた氏子の有志が居られるはずで、その方々こそ栄えある熊襲 猛の後裔氏族である可能性が非常に高いのです。

宮原さんはネット情報でこれを拾われたようですが、O女史もさることながら万葉集の専門家であるI女史、宮原誠一氏、事務局の中島氏…の共同研究によって百嶋先生が敢えて伏せられた真実に迫る話も蘇るかも知れません。次報をお待ちください。改めて現地を踏み改めて報告をさせて頂きます。

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広い境内であるにも拘わらず境内は清掃が行き届き、塵一つ落ちていません。神社の維持が難しくなっている時世柄、地域の方々の神社への尊崇の念とご努力には改めて頭を下げさせて頂きたいと思います。

 その一角に氏子の老人会に相当する年長者による壽和会によって寄贈された由緒略記、記念碑、顕彰碑(このような表現が適切かどうかは分かりませんが)が建てられていました。

 昭和61年ですから36前に建てられたものですが、材質と彫が良いため今尚鮮明に読めるものでした。

 表(参道側)は同社の由緒であり、裏は寄贈された古老の方々の名を書きとめたものですが、少し変わった内容が書かれているのです。

 室町後期と言うよりも、実質戦国時代の初期と言った方が適切で、既に関東から甲信地方では騒乱が始まっていたのです。

 その頃に下諏訪に行き建御名方ではなくお妃の八坂刀女を勧請していると言うのです。

 解読に誤りがなければですが…。

 境内を丹念に見て回りましたが、決定的な証拠の様なものは見出せませんでした。

ただ、寿和会という氏子の長老によって奉納された一際目立つ立派な記念碑に目が止まりました。

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一方、当会メンバーで事代主のblogを書かれているS氏が「神話を科学する(神社探訪)」でこのように書かれています。


建御名方(建南方) 実は建御名方は事代主の兄弟では無く倭国大乱の折、南九州を本拠地としていました。建南方は南九州の熊襲の頭領で長髄彦の乱に呼応して「建南方の乱」を起こしました。

しかし、建南方は父・春日大神(天忍穂耳命)に説得され降伏しました。

そして、周囲から奈留多姫(なるたひめ 母は雨宮姫)を妻に世話してもらい、奈留多姫は八坂刀売(やさかとめ)と改名して二人の新天地・信州諏訪へ旅立ちました。その際 奈留多姫は一族・熊襲及び阿蘇家の人たちを福岡市早良に残して行きました。

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これを見てハッキリ判りました。これも差し障りがあるため、口頭でお知らせします。

一応、簡単にヒントを出しています。荒い熊襲の解釈に従えば、川上 猛は熊襲とされていますし、阿蘇氏も一分と考えれば、豊後大野の阿蘇大蛇伝説が頭に浮かんで来ました。

百嶋先生も強調されておられました。

 それでハッキリと理解できたのです。それはパワー・ポイントの三番目、四番目の話に繋がるのです。


@ 河上 猛の母である奈留多姫=八坂刀女の名が建御名方の妃として由緒略記に出ている事

A 建御名方が妃として八坂刀女を妃としている事

八坂刀賣命やさかとめのみこと 別名 妻科神:つましなのかみ

八坂斗売命/八坂斗女命/八坂刀女命/八坂登賣命/矢坂斗女命:やさかとめのみこと

前八坂刀売神:まえのやさかとめのかみ 八坂刀自神:やさかとじのかみ……

建御名方命の后神として、諏訪神社下社(春宮、秋宮)に祀られる神。建御名方命との間に二十二柱の御子神をもうけた。

安曇の女神とする説がある。               敬愛する「玄松子」より


鳥居について


諏訪神社ではあるものの梶紋を使わず左三つ巴紋を使っている事。

これは若しかしたら元は建御名方を祀る神社ではなく、奈留多姫の夫であるウガヤフキアエズの神紋=高良大社は表紋として右三つ巴紋を使っている可能性がある事。

ウガヤフキアエズは表筒男命、開化天皇=高良玉垂命は底筒男命であり、高良大社の主であった。

ちなみに高良大社は表紋として住吉の紋である「左三つ巴紋」を使っているのです。

つまり奈留多姫の夫の神紋が標柱に描かれている可能性があるのです。

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ここまで見てくると、栄えある河上 猛の一族は、母の奈留多姫と共に早良に移動したと言えそうに思うのです。

 探求と調査は今後も続けますが、これ以上の成果が容易に見つかるとも思えません。

 しかし、我々の内部においても非常にロマンチックでありつつも、誰も知らない話を回収し後世に伝えることが可能になったとまでは言えそうですので、今後、現地伝承の回収に可能な限り作業を移しブログとしては閉じる事とします。

 ちなみに、後継氏族は名を変え住んでおられると…百嶋先生はどういう名であるかも分かっているが…と言っておられました。

 私にも多少見えます。しかし、好い加減な事を言うなと言う声も頭を過ます。

 一方、記録に留めなければ潰え去る事が確実なため、ここでは勇気を持って仮説として申し上げておきたいと思います。

 阿蘇系の姓が何であるかは分かりますが、はっきりしているのは大神氏であり、小国の武田姓もその一つであろうと思います。確かに、神社の傍には数件の大神様の家もあります。

 今後の作業待ちと言うところですが、事務局長のN氏の手腕に期待したいと思います。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記