2019年05月05日

573 糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 L “金山彦を祀る岐阜県大垣市の南宮大社”

573 糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 L “金山彦を祀る岐阜県大垣市の南宮大社”

2018017

太宰府地名研究会 古川 清久


 糸魚川から諏訪、甲府、身延の調査を終え、中山道を下って岐阜県庁付近で車中泊し、早朝から向かったのは南宮大社でした。

 あまり知られていない神社ですが、我々にとっては金山彦を祀る極めて重要な一社なのです。


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金屋児神社を別にすれば、金山彦を単独祭祀する神社も少ない上に、しかも堂々たる大社を参拝するのは初めてですが、関ヶ原の東、甲信越への入口とも言える場所に金山彦を祀る大社が存在する事には納得してしまいます。

 それは、甲信越から遠州、駿河、北関東をなどに入ると明らかに金山彦系の祭祀が濃厚になる事を知ると、どうしても岐阜辺りに変わり目を見出してしかるべきだったからです。

 ここで改めて金山彦を考えて見ましょう。

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金山彦神

無題.png金山彦神(かなやまひこのかみ)は、日本神話に登場する神である。

『古事記』では金山毘古神、『日本書紀』では金山彦神と表記する。金山毘売神(かなやまびめのかみ、金山姫神)とともに鉱山の神として信仰されている。

神産みにおいて、イザナミが火の神カグツチを産んで火傷をし病み苦しんでいるときに、その嘔吐物(たぐり)から化生した神である。『古事記』では金山毘古神・金山毘売神の二神、『日本書紀』の第三の一書では金山彦神のみが化生している。

神名の通り「金山」(かなやま、鉱山)を司る神で、嘔吐物から産まれたとしたのは、嘔吐物の外観からの連想によるものと考えられる。鉱山を司どり、また荒金を採る神とされ、鉱業・鍛冶など、金属に関する技工を守護する神とされている。岐阜県垂井町の南宮大社(金山彦神のみ)、南宮御旅神社(金山姫神のみ)、島根県安来市の金屋子神社、宮城県石巻市金華山の黄金山神社を始め、全国の金山神社で祀られている。


無題.png まず、百嶋神社考古学の者にとっては「古事記」の95%は嘘であり「日本書記」は多少は本当の話が書かれている程度のもので、藤原にとって都合が良いように書かれた捏造、偽装の書であるとしか考えていません。

 この百嶋神社考古学の立場から言えば、金山彦とは九州王朝の初期を支えた人物で、秦の始皇帝(ご本人もイスラエル系ですが)と姻戚関係を持って先行して列島に入ったイスラエル系の製鉄神でもあった人物なのです。

また、本物のカムヤマトイワレヒコ=神武天皇(ハツクニシラスこと神武僭称贈る崇神ではない)の本物のお妃であったアイラツヒメの父神であり、スサノウのお妃となった櫛稲田姫の父神でもあった人なのです。

 これまで何度も申し上げてきた事ですが、手っ取り早く納得して頂ける例としては、金山彦の血を引く市杵島姫(宗像三女神)の正式表記がツ島姫であり、秦の始皇帝の名が、姓は(エイ)、氏は趙(チョウ)、諱は政(セイ)という姓名の対応に何らかの関係性が表現されている事に気付かれると思います。

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金山彦と市杵島姫の関係が分かりにくいと思いますので補足しますが、イザナミはイザナギと別れた後クマノフスミ(熊野那智大社)と名を変え白川伯王系の大幡主のお妃になっておられ、その間に産まれたアカル姫(スサノウから逃れた…)の子が市杵島姫なのです。

 このため、市杵島姫とは栄えある金山彦の血を引くプリンセスだったと言えるのです。

 詳しくは ひぼろぎ逍遥(跡宮)の以下外をお読み下さい。

106

白川伯王家の源流の神社初見 “飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)”

 秦の始皇帝と姻戚関係を結んだイスラエル系の金山彦の一族は後に始皇帝の一族も避退してくるのですが、それに先行して列島へと渡海したことから、にさんずい偏を付し自らを区別したものと考えています。勿論、この話は故)百嶋由一郎氏が丹念に中国での調査を行われた上でお教え頂いたものです。


百嶋神社考古学に関する資料(神代系譜、音声CD、手書きデータ)を必要とされる方は09062983254まで

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2019年05月03日

572 糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 K “琵琶湖の北端の鹽津神社”

572 糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 K “琵琶湖の北端の鹽津神社”

20180509

太宰府地名研究会 古川 清久


2800キロにも及ぶ「糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅」の帰路も連休のラッシュの中、中央高速の恵那トンネルを通るのはもうこりごりで、帰路も一般道中心の旅をすることにしました。

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このため、諏訪市の西の長野県塩尻市まで移動し、木曽川沿いに旧中山道(中央本線沿い)中津川、恵那市ルートで琵琶湖を目指す事にしました。

従って、帰路に参拝した神社も糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 K “下塩津神社”…として書かせて頂きます。

途中、何社も目に入ったのですが、連休中の移動であり、次回以降にゆっくりと見せて頂く事とし、まずは岐阜まで安全に移動する事に集中しました。

ともかく中山道も百数十キロもの下り坂が続く比較的直線的な国道を走り抜ける事になり、何とか岐阜に辿り着いたのは夜も10時を廻った頃でした。

順番は前後しますが、早朝から岐阜市の隣の大垣市の周辺の神社を何社か周り、前回、近江散歩で取り上げた琵琶湖の北端にある塩津神社の兄弟神社なのか?前回、参拝できなかった鹽津神社を訪ねることにしました。

既に、ひぼろぎ逍遥(跡宮)538に於いて西浅井町塩津浜の塩津神社を取り上げました。


538

近近江散歩 A 塩津神社 “滋賀県西浅井町塩津浜”


近江散歩(447日)の初日の安曇川では、若宮神社(高良玉垂命と神功皇后の長子=仁徳天皇を祀る)を二社、大荒比古神社、大国主神社(五十猛神社)などに訪問し、早々にも主たる目的地である長浜を目指しました。

足早な理由は前回の近江調査で訪問できなかった塩津神社に行きたかったからでした。

 場所は戦国期の浅井、朝倉、徳川、織田の戦いで著名な賤ヶ岳の合戦で著名な賤ヶ岳の北西に位置する湖岸ですが、実は同名の下鹽津神社(滋賀県長浜市西浅井町集福寺455)があるのですが、こちらは、まだ訪問していない事からまたの機会にまわすとして、まずは、枝垂桜が美しい塩津神社をご紹介する事にしましょう。

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塩土老翁神とは山幸彦(実はニギハヤヒ=猿田彦)が釣針を失い途方に暮れている時に現れ、龍宮に行き龍王に逢う事を勧めた神として知られていますが、実は博多の櫛田神社の大幡主の事であり、ヤタガラス(実は龍王なのですが)の父神でもあるのです。

縁起は読み辛いでしょうから神社庁の由緒をご覧ください。

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御祭神 塩土老翁神 御神紋 三ツ巴

御由緒 当社創立の年代は詳かではないが、伝えるところに拠れば、上古この地「志波谷」に塩池あり。ささやかな池ながら、塩水間断なく湧出で、これを汲んで製塩の業を行うもの23戸あった。この人等その遠租塩土老翁神を祀り、後又縁の神、彦火火出見尊、豊玉姫尊をも合わせ祀るに至ったと伝える。玉朝時代以降縉紳顕門の来遊もあり、当社を崇敬せられたのである。わけても和気仲世近江呂介に任ぜられるや、数次参籠して霊示の随に、誉田別尊を本社境内に、瀬織津姫尊を境外に奉祀した。文和元年、足利高氏の子義詮、後光厳帝を奉じて当社に参拝され当地の熊谷兵庫直高、治左衛門尉直久等当社を崇敬し、社殿修復に尽くしたが元亀元年火災に罹り殿舎鳥有に帰した。嘉永年中伏見稲荷神社の分霊を勧請して、相殿に奉祀し、居成明神又稲荷神社とも称した。明治5年稲荷の神霊を境外地字清水に奉遷し、社名を塩津神社と復称し、同9年村社に、同17年、郷社に列した。延喜式内未定社。同43年神饌幣帛料供進神社に指定された。尚、当社は中葉「海北之宮」の別称があった。

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近江散歩で取り上げた塩津神社と兄弟の鹽津神社(親子かも知れませんが…?)を見ることができるのは楽しい限りです。

 普通は、塩津神社より奥にあるのですから、こちらが元々の親元の神社のような気はするのですが、十キロほど奥に入った西浅井の集福寺という集落は、高架となった鉄道橋(湖西線なのでしょうか北陸本線なのでしょうか)の奥にあり、そこに鹽津神社もあるのです。

 実際、西浅井の水田地帯も、かつては琵琶湖の浅い入江であったはずで、だからこそ、浅井、朝倉の浅井なんだ…などと好い加減な想定をしていました。

 いずれにせよ古代の海岸線を考える時、山に囲まれた安全な集落に鎮座するものこそが元宮の在るべき場所だったはずなのです。

 しかも、「沓掛」とは古代官道の痕跡地名であり、北陸、日本海へと貫ける要衝の地だけにその重要性は語り尽くせないところです。

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鹽津(下塩津)神社は集落の中心部にありました。付近には周りの山々から滲みだす清冽な水が滔々と流れています。

 これだけでも、見る価値のある神社です。

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まず、目についたのは五七の桐紋で、この神社が只ならぬ存在であることは明らかです。

 五七は天皇家の一族、三五は天皇家と姻戚関係を持つ一族が使う神紋なのです。

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神社の解説では不十分であったため、敬愛する「玄松子」氏に登場願いました。


境内の右端に社殿があり、本殿は覆屋の中にあるようだ。本殿の左横に、小祠・白山社。その横に二棟並んだ神明社がある。創祀の由来は、社伝によると、応神天皇が、皇子の頃、塩土老翁の託宣を得て、即位の後、大雀命・宇遅能和紀郎子命の二皇子にこの神を崇敬するように命じた。

そこで、二皇子は、淡海の集福蘇翁に命じ、仁徳天皇三年四月、浅井郡下塩津郷集福寺小松山小稲森に社殿を創立し、塩土老翁を鎮祭し、下塩津神社としたという。

醍醐天皇昌泰二年(899)、今出川大納言の二子で、天台僧の大法深が当社の社僧に任ぜられ、信仰していた熊野三所権現を勧請し、伊邪那岐命・伊邪那美命を配祀した。

社殿には、三つ巴・桐・菊の3種の紋が付いていたが、案内板に、神紋は、菊と桐とある。このように神紋を記載してくれるとありがたいな。

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どう見ても、塩津神社の元宮がここではないかとの思いを消せません。

 この素晴らしいばかりの鹽津神社を見ることができた事に感謝したいと思います。

 ヤタガラスの父神=塩土老翁=博多の櫛田神社の大幡主を奉斎する白族+安曇族が展開した琵琶湖の志賀島の頭目の一族が居地としていた地だったのではないかと思うのです。

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大幡主はあまり表に出てこられません。単独で祀られる神社は極めて珍しいとしか言えません。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


上の神代系譜をじっくりご覧頂きたいと思います。百嶋先生は、イザナミはイザナギと別れ、大幡主のお妃になっておられると言われていました。その後の名は那智大社のクマノフスミノミコトなのです。

してみると、イザナギと別れたイザナミが祀られているとも言えるのかも知れません。


百嶋神社考古学に関する資料(神代系譜、音声CD、手書きデータ)を必要とされる方は09062983254まで

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2019年05月01日

571 糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 J “諏訪大社(春宮)には呉橋がある”

571 糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 J “諏訪大社(春宮)には呉橋がある”

20180509

太宰府地名研究会 古川 清久


 既に、諏訪大社の秋宮については、ひぼろぎ逍遥(跡宮)567を書いていますが、これは秋宮からもそれほど遠くないところに鎮座する春宮についてのリポートです。


567

糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 F “諏訪大社(秋宮)再訪”


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信濃国一之宮諏訪大社下社春宮 カーナビ検索 長野県諏訪郡下諏訪町5828



所在地

上社本宮 長野県諏訪市中洲宮山1   TEL0266-52-1919

上社前宮 長野県茅野市宮川2030   TEL0266-72-1606

下社春宮 長野県諏訪郡下諏訪町193 TEL0266-27-8316

下社秋宮 長野県諏訪郡下諏訪町5828  TEL0266-27-8035

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まず、諏訪湖周辺にかなりの人口が集中している事は理解できるとしても、何故、これほどの大社が幾つも存在しているのかについては理解し難いものがあります。

 諏訪の人々の諏訪大社に対する尊崇の念が如何に強いかは窺い知れるとしても、あまりにも立派な大社が幾つもある事は異常ですらあります。

 さて、春宮の参道正面まで足を踏み入れると、呉橋(呉橋とは呼ばれてはいないのですが呉橋にしか思えません)が存在している事に度肝を抜かされます。

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呉橋についてはこれまでにも何度か取り上げました。

宇佐神宮(宇佐市)、薦神社(中津市)が九州王朝の古代官道に掛けられた呉橋であろうと言う話でしたが、このところ兵庫県朝来市の二つの勅使門(粟鹿神社、赤淵神社)を知るに及び、まさか、これも何らかの伝承があってのものではないかと言う思いを深めざるを得ません。

これが単に戦国期のある一人番匠の作なら気が楽になるのですが、同じ信州にも呉橋様の物があった事はこれ以外にも現物を確認している事から、かなりの裾野のある文化であり伝統を感じるのです。

 40年も前ですが、松本から鹿教湯温泉に足を運んだところで、呉橋様の物を見た記憶があります。

 事実、いずれ取上げますが、上社には勅使殿があったようなのです。

そして、「日本書紀」にも持統天皇が勅使を派遣したと書かれているのです(間違っても「日本書紀」を第一義的に引用するつもりはありませんので…)。

「日本書紀」691年 “持統天皇が勅使を派遣し須波神を祭らしむ”


諏訪大社上社本宮の北参道から大鳥居をくぐり、左に進んだ先に勅使殿が位置しています。

現在の勅使殿は、元禄三年(1690年)の創建。安政年間に大修理が加えられた「切妻流れ正面大唐破風造り」。建武二年(1335年)大祝即位の記録には、御門戸屋にて神事があり、社殿に布を敷いてそのうえに五穀を供えそこに大祝が着座したこと伝えられています。 当時の勅使殿は今の神楽殿の前あたりにあり拝殿の性格を持っていたといわれています。

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無題.png諏訪大社の上社は建御名方神を、下社は八坂刀売神(女神)を祀り、上社は建御名方神を、下社は八坂刀売神を主神として祀る。…と、また、下社の祭神は二月から七月まで春宮に鎮座しとは、夫婦神が共に移動するという意味なのでしょうか?

 それとも、上社から建御名方神が秋宮に移動するのでしょうか?

 初見に近いため理解力が足りないのは当然ですし良く分かりません。

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さて、春宮にもありましたが、ここにも子安神社として奴奈川姫(百嶋神社考古学では宗像の市杵島姫とする)が祀られていました。

 ピンボケで申し訳ありませんが、子安社は高志沼河姫命=お諏訪さまの御母君…と書かれています。

 新潟県糸魚川市の奴奈川神社の奴奈川姫(父阿蘇高森の草部吉見と母宗像大社の市杵島姫のプリンセス)に間違いありません。

 秋宮にも摂社と奴奈川姫祭祀が確認できていますので、建御名方命と併せて九州、出雲から日本海の糸井川、姫川から松本、諏訪、甲府…北関東一帯に展開していることが見えるのです。

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通常、我々にとっての若宮と言えば高良玉垂命(開化天皇)と仲哀死後の神功皇后との長子(嫡系九躰皇子の五人の皇子の筆頭)仁徳天皇(オオサザキ)と考えるのですが、ここでは建御名方彦別命…と書かれています。

 以下、伊豆早雄命と妻科比賣命…と興味深い神様が並んでいます。恐らく、伊豆早雄命はヤタガラス=豊玉彦(熊野で言えば速玉)と天豊津姫ではないかと思うのですが、これは大幡主の若宮(ヤタガラス)であり、これが大国主の子とされた建御名方とされているのではないかと考えています。

 これは直感だけですので誤りは覚悟の上です。

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春宮参拝殿

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百嶋神社考古学に関する資料(神代系譜、音声CD、手書きデータ)を必要とされる方は09062983254まで

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