太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「百嶋神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログを継続しています。


これにはプロバイダーを含め何時情報封殺が行われるかも知れないため、最低でも複数の発信媒体を準備しておくべきではないかと考えているからでもあります。


今後ともかなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史によるblogひもろぎ逍遥に対抗しようという意図はないのですが、華麗なひもろぎ逍遥に対して、緋色のボロ着で、神籬=ひもろぎ(ひぼろぎ)を逍遥=彷徨い歩き、神社を探るというほどの意味で、「ひぼろぎ逍遥」を随時書いて行くことにしたものです。ただし、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象なども認められます。


 さて、現在、ひぼろぎ逍遥とひぼろぎ逍遥(跡宮)との合計のアクセス数は日量10001200件(年間4045万件)まで上がっています。


 同時に、連携する研究者によるblog20近くまで数を増やしており、全体では最低でも年間100150万件近いアクセス数を持っているものと思われます。


 当blogには九州王朝論から百嶋神社考古学へと向かわんとする多くの研究者、記録者、bloger…が参集されています。


 年に10回、10年でも高々100回程度の研究会でも大半は教育委員会関係者から学芸員といった利権まみれの方々通説を拝聴し心服するような、研究者亡き研究会は全く何の価値もないものと考えており、そのようなどこにでもあるような話を好まれる方々は、そこら辺りの既存の郷土史会、史談会に行かれ、村興し、町興し、世界遺産登録に拍手を送り、思いっきり尾を振られれば良いでしょう。


しかし私達は後ろ指を刺される様な探究に踏みとどまり、これまでの歴代の行政権力が隠し続けた真実の歴史の探求へと向かう人々への道標と成ろうと思うものです。




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無題.png読者の皆さんに…真実の神社研究へのご支援を…


太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久




ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥の読者の皆様、また、グループのブログをお読みの皆様、暑い中、丹念無題.pngにお読み頂き有難いと思っています。


 古田武彦が亡くなり、また、百嶋由一郎氏が亡くなり数年が流れました。


 当初、貴重極まりない百嶋研究の一部でも残せないだろうかと考え、手書きデータや神代系譜文書のDVD化、音声データの保存、複製、宣伝という作業を続けて来ました。しかし、単にデータの保管、配布の体制を確立するだけでは継承ができないと考え、blogで百嶋研究の説明、現場実調を徐々に進め公開してきました。この結果、全国にも理解者が増え始め、神社研究ではなんとか特異な勢力を形成できる所まで漕ぎ着けました。


 既に、百嶋研究の一部でも接点を持った全国の二十五人を超えるブロガーが独自の側面から研究を進めておられますし、ブログは書かないまでも、神社調査を行い記録を残している方もおられます。


 勿論、統一性は取れてはいませんし、なかなか難解な内容だけに、解明できない問題についてはメンバーの若い世代に託すことになるでしょうが、なお不明なものは後世の研究者に期待する事に成るでしょう。


 百嶋先生と知り合いになったのは七年ほど前だったと思いますが、もしも後数年生きておられたならばもう少し古代、神代の謎を継承できたかも知れません。しかし、未熟な者だけで作業を行わざるを得なかった事から今尚皆さんにご迷惑をお掛けしているものと理解しております。


しかし、私達の能力を考えれば、むしろ上出来といったものかも知れません。


さて、メンバーの背骨を形成している中心的思想とは、当然にも九州王朝論です。


 百嶋先生も“私も九州王朝論が分かっていない人に神代史を教えても意味がないし、教えたくないですね…”と言われていた事が今でも耳に残っています(吾は百嶋由一郎の面受の弟子なり!)


さて、四月の近江〜但馬、五月の糸魚川〜諏訪〜山梨、六月の青森と15日間づつ三度に亘って長躯の神社調査を行いました。


ぶっ続けで調査すれば良さそうですが、落ち着いてリポートも書かなければならず、研究会のスケジュールもあってそういう訳にも行かず、各々3,0004500キロの往復の調査とならざるを得なかったのです。


今後も、三重、和歌山、岐阜、福井…と、よりきめ細かい調査に入るつもりですが、もはや資金が底を尽きつつあります。


元々、福島の原子力災害辺りから、これ以上行政機関に留まりたくないとの思いが募り、後先き考えずに58歳で早期退職した事から(当時上の娘は大学に在学中だったのですが)年金と言ってもギリギリ暮らせる程度の物で、なんとかここまで働かずに神社調査を行ってきましたが、既に限界点を越え始めたようです。事実、当会は研究を優先するためメンバーから会費を取る事なく僅かな参加費で運営しています。


人手不足の時代、まだ、働こうと思えば職はあるはずですが、拘束時間が長くなれば、研究を進める事ができないまま人生の終末期を迎える事にもなりかねず、できるだけ体力がある間に遠距離の調査に入りたいと思っています。このため、出来る事ならばこのまま神社研究に専念したいものと考えています。


基本的には年金生活で何とかやっていますので、月額であと二〜三万増やせれば、車の維持、車検、保険、介護保険料、研修所の維持、研究会の組織化、ネット規制に対応するためにもう一つ別の発信のためのサイトの準備……と増加する負担にも対応できるのではないかと考えています。


今後、研究内容を保全するためにも、外付けハード・ディスクをタイム・カプセル化して鍾乳洞に保管する(太陽フレアによる磁気データの消失への対策)とか、研修所の維持、後世に残すためにユーチューブ化してオンエアするなど新たな作業に入る必要も生じており、もし可能であれば、通説とは全く異なる百嶋神社考古学の保護と継承のためのご支援をお願いできないかと考えています。


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年間一口2000円以上の任意の百嶋神社考古学研究会の支援会員となって頂ければ、九州においでになった際に会員待遇として温泉付き研修所に一泊お泊めできます。九州での神社調査の拠点として活用下さい。


振込用の銀行預金講座、郵便貯金番号は以下の通りです。


 大分銀行 若宮支店 000093−7505802 フルカワ キヨヒサ


 ゆうちょ銀行 店番 778 預金種目 普通預金 口座番号 1165562 氏名上に同じ


また、もし差支えなければ、以下のメールにお名前と住所と電話番号を以下のメールに送信して頂き、カンパした旨の連絡を頂ければ、神代系譜のDVD(既にお持ちの場合はそれに代わる音声データなど)をお送りできるものと考えています。


 携帯のメール・アドレス ariakekai@ezweb.ne.jp携帯 09062983254 (常時対応)


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2019年02月11日

542 近江散歩 D 石作神社 “滋賀県長浜市木之本町”

542 近江散歩 D 石作神社 “滋賀県長浜市木之本町

20180413

太宰府地名研究会 古川 清久


話は前後しますが、高島市安曇川町から長浜市の中心部に移動する途中で気になる神社を発見し慌てて引返しました。

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石作神社、玉作神社(イシツクリ、タマツクリ)は、滋賀県長浜市に鎮座する神社である。式内社で旧社格は県社。

中世以降の度々の戦禍により創祀の年代・由緒は不詳。近隣の水田に「石作」という塚があり、禁足地となっており、旧社地との伝承がある。明治9年(1876年)に村社、同18年に郷社、大正11年(1922年)には県社に列格した。

ウィキペディア(20170413 20:01による


鎮座地は『和名抄』楊野荘に属していた。中世は石作荘だった。

 当社は伊香郡の式内社である石作神社と玉作神社を延宝五年(1472)に合祀したもの。千田集落の南に古字石作があり、石作神社の旧地とされる小丘があり、紅梅の老樹があったと言う。ここから勾玉、管玉、砥石などが発見されたと言う。

 石作神社は石作部の祀る神社であって、祭神を祖神の天火明命としている。玉作神社は玉作部に関わる神社であり、玉祖命を祀ったのである。別名を天明玉命や玉屋命と言う。

 石作神社、玉作神社ともに創建年代は不詳。

玉姫物語

むかし、千田は、石作りの庄と呼ばれていました。

 この里に、そうざえもんという人が住んでおりました。

 そうざえもんさんには、名を玉姫という、それは美しい娘さんがありました。

 そして、このことを、どこから伝え聞いたのか、伊吹の山に住む伊吹の三郎という男が、この娘をひと目みたいと里へやってきました。

 伊吹の三郎は、大変な怪力をもった大男でした。その上、里をあらしまわり、人々からは、大層恐れられておりました。

 三郎は、草屋根の下で、無心に玉を磨いている玉姫の姿にひと目ぼれしてしまいました。そしてさっそく「娘をわしにくれ。」と、そうざえもんさんに頼みました。

 そうざえもんさんは、「嫁にはやsれぬ。」と恐る恐る、でも、きっぱりことわりました。

 怒った三郎は、伊吹の山の岩石を石作りの庄めがけて投げつけました。投げつけた石はその里の岩田という田に落ちました。

 今も、その石が、千田のお宮さんにまつられており、伊吹の三郎の手の跡が残っているのが見られるということです。

敬愛する「神奈備」による

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祭神は天火明命と玉祖命とする


 非常に上品で印象深い神社であり、縁起は縁起として尊重しますが、祭神については異論があります。

 元より政争の激しかった近江の事、祭神を入れ替えることを持って生延びてこられた事は十分に想像が着きます。どうもこの神社もその一例だと思えてしまうのです。

 まず、玉の祖の命という祭神は博多の櫛田神社の大幡主命かその先祖神の事であり、ヤタガラス=豊玉彦の親神、祖父神でしょう。豊前、周防(古代の豊の国)などにこの神社を56社は確認しています。

 ただ、この神社では玉姫(豊玉姫)に準えているようで、玉作とは女性神を意図しているようです。

 何故、この神社の縁起を疑うかと言えば、甲信〜関東に掛けて分布する磐裂命、根裂命の事を知っているからです(天之加々背男命=アメノカカセオノミコトと共にこの磐裂根裂神=イワサクネサクノカミ)。要はカガセオこと長脛彦(岐神)とはスサノウと櫛稲田姫の流れを汲む金山彦系(実は物部の本流)であり、逆賊ナガスネヒコ系の祭神を隠す必要があったからだと思われるのです。

石作はアブラハム、ヤコブのイサクかも…この話はまた別に。金山彦はイスラエル系の神なので菅…。

では、玉作神とされているのは如何なる神様なのでしょうか?

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百嶋由一郎氏の資料(音声CD、神代系譜DVD、手書き資料)を必要とされる方は09062983254まで

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2019年02月09日

541 近江散歩 C 熊野神社 “島根県松江市八雲町熊野”

541 近江散歩 C 熊野神社 “島根県松江市八雲町熊野

20180408

太宰府地名研究会 古川 清久


 近江〜丹波〜丹後の調査の帰路、休養が必要なこともあり温泉も併設されている松江市の熊野神社を訪れました。

 二十年ほど前に一〜二度訪問したことがあるのですが、当時は、まだ、神社の祭神に対して強い関心を持つに至っておりませんでした。このため、実質的には初見の神社と言えるかも知れません。

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意宇川河口には出雲国国府跡もあり、この流域が古代出雲の中心地、若しくはハート・ランドだった事は疑い得ません。

当然にもこの上流に鎮座する熊野神社が出雲大社に対してどのような関係にあるかに思いが馳せます。

まずは、島根県神社庁の「県内神社のご案内」の資料を確認しますと、スサノウを祀る神社となっています。

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このような祭神を考える時に重要な事は、仮にスサノウを祀るとしても、スサノウとクシナダヒメとの間に産まれた人々がスサノウを祀る場合もあれば、元々スサノウを奉斎する一族が住み着いていた場合もあるでしょう。

もう少し広げれば、百嶋神社考古学の立場からは、イザナミとイザナギの間に産まれたとしますので、イザナミ系、イザナギ系の後裔氏族のいずれかがスサノウを祀る場合もあるでしょう。

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同社掲示板


まず、イザナギ、イザナミのイザナギが祀られていない事がお分かり頂けるのではないでしょうか。

この傾向はある程度熊野系の神社を巡っておられる方は大体ご存じではないかと思います。

かなり一般的な傾向で、イザナミ、イザナギをセットで祀るのは多賀神社程度になります。

これを示唆するものにイザナギとイザナミのやり取りがあります。

日本書紀の一書では穏やかに話し合いを行い、イザナミが「もう別れましょう」と言うと、イザナギ命が「お前には負けないつもりだ」と妙なことを言って唾を吐いたときに生まれたのが、速玉男命(実は大幡主)と言われ、そして、そのままイザナギ命が黄泉の国の穢れをパパっと掃ったときに生まれたのが事解男命(実は金山彦)とされています。

イザナミとは金山彦の妹にあたる女神であり、ある意味でスサノウは金山彦の後裔である事が幾分かはお分かり頂けるでしょう。だからこそ博多の櫛田神社には大幡主と共にスサノウが祀られているのです。

そう思えば、この熊野大社にも金山彦系の荒神社が置かれている事も腑に落ちるのです。

その上に、そもそも櫛稲田姫とはイザナミの兄神の金山彦と大幡主の妹神である埴安姫との間に産まれたプリンセスであることから、この神社はプリンセスとプリンスを中心とする金山彦系が色濃い神社である事が見えてくるのです。

つまり、十束一担げに出雲系などと短絡するのではなく、より大幡主系(白族)にシフトした出雲大社に対して、金山彦系の神社が熊野大社と呼ばれている事を考える必要があるのです。

さらに重要な事は、この地に住み着いた人々も、九州からの移住者であって、スサノウとクシナダヒメが出会った場所も九州(熊本県山鹿市)であり、大国主命も少彦名命も福岡県内で活動していたのです。

これについてはひぼろぎ逍遥(跡宮)から以下をお読み下さい。


300

大宮神社と猿田彦大神 S “総括:百嶋由一郎神代系譜と猿田彦”

299

大宮神社と猿田彦大神 R “広島県庄原市の蘇羅比古神社にも山幸と豊玉姫が…”

298

大宮神社と猿田彦大神 Q “岡山県津山市の大美禰神社も天宇受賣命を祀る古社”

297

大宮神社と猿田彦大神 P “『儺の国の星 拾遺』の真鍋大覚は猿田の意味を知っていた”

296

大宮神社と猿田彦大神 O “猿田彦は何故猿田彦と呼ばれたのか?”

295

大宮神社と猿田彦大神 N “ひぼろぎ逍遥051 出雲の佐田神社と安心院の佐田神社 再掲”

294

大宮神社と猿田彦大神 M “鹿島、香取でご存じの香取神社の経津主も

猿田彦大神なのです”

293

大宮神社と猿田彦大神 L “福岡県豊前市の四公神社“

292

大宮神社と猿田彦大神 K “全国展開された猿田彦大神“

291

大宮神社と猿田彦大神 J “古代日向のヤゴローどん も猿田彦なのです“

290

大宮神社と猿田彦大神 I “山幸彦=猿田彦のもう一つのルーツについて”

289

大宮神社と猿田彦大神 H “猿田彦専門のサイトから”

288

大宮神社と猿田彦大神 G “猿田彦がニギハヤヒで山幸彦であることについて”

287

大宮神社と猿田彦大神 F “山幸彦=ニギハヤヒは博多の櫛田神社の主神の

大幡主の子であった”

286

大宮神社と猿田彦大神 E “佐野経夫(神理教教団)と菊鹿町「吾平」の

ウガヤフキアエズ陵”

285

大宮神社と猿田彦大神 D “佐野経夫(神理教教団)と猿田彦大神”

284

大宮神社と猿田彦大神 C 転載 “櫛稲田姫(クシナダヒメ)は熊本県

山鹿市で産まれた! ”

283

大宮神社と猿田彦大神 B “大宮神社の地主神が大宮神社の主祭神か?” 

282

大宮神社と猿田彦大神 A “大宮神社の猿田彦大神石塔と摂社群” 

281

大宮神社と猿田彦大神 @ “山鹿市の大宮神社とは何か?


従って、この松江の山奥と言っても、古代の中心地である意宇川沿いの豊穣の地に住み着いた人々とは金山彦系の人々であって、より海人族の匂いのする出雲大社系の人々とは系統が多少異なる事が分かるのです。

なお、宇加能御魂神とは伊勢の外宮の豊受大神=伏見稲荷=アメノウヅメであり、スサノウとミヅハノメ(大山祗命の嫡女)との間に産まれたこれまた最高格式の女神なのです。

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同社参拝殿

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


ここまで分かれば、和歌山県の熊野との関係が気になりますが、それは長くなりますのでまた別稿とさせて頂きます。しかし、神紋を見ると亀甲紋に「大」の字が付されています。

この亀甲紋は博多の櫛田神社が起源であって(断じて出雲大社ではない)、「大」の文字の意味も「太一」の意味かも知れません(これは保留しますが)。丸に大なら大丸デパートか丸大ハムでしょうが…。

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スサノウの母君は良いとして、ここでもイザナギはどうしたのでしょうか?祀られていませんね。

故)百嶋由一郎氏の凄い所は、多くの神社の調査の結果、イザナミはイザナギと分かれており、博多の櫛田神社の大幡主と一緒になっていると突き止められているのです。

同社のHPには以下のように書かれています。

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さしずめ私達もそのような扱いを受けるのでしょうが、滋賀県の多賀神社の様にイザナギ、イザナミをセットで祀る神社もあれば、熊野神社の様にイザナギを祀らない神社も相当数存在するのです。

もしも、誤った紹介記事…と言われるのであれば、まず、この点だけでもご説明頂きたいと思うものです。

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最後に博多の櫛田神社前の掲示板には櫛稲田姫を右の様に書かれていました。

「マカミフル」とはそのまま解釈しますが、実際にはどのような意味があるのでしょう。

これは今のところ分かりませんので将来にまわすとして、アシナヅチとテナヅチこそ金山彦と、大幡主の妹である埴安姫であり、最後に掲げられている造化三神の神皇産霊尊こそ大幡主であり、ヤタガラスの父神にあたるのです。

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上で言うならば、中が素盞嗚尊(祇園宮)の紋、左が大幡主命(櫛田宮)の紋、そして右側が天照皇大神(大神宮)の紋になります。


百嶋由一郎氏の資料(音声CD、神代系譜DVD、手書き資料)を必要とされる方は09062983254まで
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2019年02月06日

ビアヘロ078 日田の大原八幡神社も物部の神社だった “大分県日田市の大原八幡宮を疑い再考へと”

ビアヘロ078 日田の大原八幡神社も物部の神社だった “大分県日田市の大原八幡宮を疑い再考へと”

20181031

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


日田の大原八幡宮と言えば、実質的には西豊後(そんな区分けは公式にないのですが)の一の宮とも言うべきもので、過去二度ほどトレッキングも行った大社でした。

以下もは年程前に書いたものですが、最近でも二度目のトレッキングを行なっています。以下再掲載。


058 豊後は日田の大社 大原八幡宮も元は高良玉垂命を祀る神宮だったのか!“2015新春日田三社詣りトレッキングより”


無題.png太宰府地名研究会主催の新春日田三社詣りトレッキングを行いましたが、日田の玉垂宮を見た後、日田の官庁街の中枢部にある大原八幡宮に廻りました。豊後の一の宮に劣らぬ実に立派な神社です。

豊後と言えば、北の柞原八幡宮、南の西寒多八幡宮の二社(この両社が豊後の一宮)が頭に浮かびますが、我々にとっては、筑後東隣の日田の大原八幡宮が実質的な一宮のイメージとなります。今回、玉垂宮から大原へと巡った理由は、「大原八幡宮」も元は高良玉垂命を祀っていたのではないかということにありました(この神社の鎮座地日田市田島も宗像大社(本来は大国主命)の大字田島から付されたものですね)。

現在、西の総社日田の大原八幡宮は誉田別命(ホンダワケノミコト)、大帯姫命(オオタラシヒメノミコト)比売大神(ヒメオオカミ)を祀っています。

今回も学者の権威を認めたくないため馬鹿にする意味で学者が馬鹿にする「ウィキペディア」を敢えて引用させて頂きます。学者の嘘より素人の真面目な研究を採用させて頂きます。

日田の八幡神社の初見は天武天皇白鳳9年(680靱負郷岩松峰(日田市天瀬町金場の北)に宇佐の鷹の居の社にいます神と名乗る神が現れ、社(鞍形尾の宮)を建てて祀ったことが初めである。慶雲元年(704)、杉原のの下に神が降りて村の女に神懸かり、「岩松の峰の神」を名乗って「杉原が便宜よいのでここにきた」と告げたとして、社を建てて祀ったというのが大原八幡宮の前身である杉原宮である。

貞観13年(871)若しくは仁寿2年(852)に、当時日田郡司であった大蔵永弘によって、杉原宮から現在の元宮に遷座され、宇佐神宮より橋本公則を迎え社司としている。建久4年(1193)、九州探題大友能直が、東の総社を柞原八幡宮、西の総社を大原八幡宮として鎌倉鶴岡八幡宮の参拝礼式に改めさせたといわれる。


ここも宇佐神宮と同様に比売大神を三女神としていますが、九州年号の「白鳳」が銘記されています。


「杉原宮から現在の元宮に遷座され」の元宮が何かは奇妙ですが今後の課題としておきます。

鷹居社も太宰府地名研究会のトレッキングで訪問しましたが、豊後では早くも七世紀から八世紀の変わり目に高良の神に替わり応神が出張って来ているようです(古田武彦が言う701年に九州王朝が消える…)。

一方、「高良玉垂宮神秘書」にも天平勝宝元年(749750)前後に「九州の宗廟を八幡に譲る」(104p)と書かれています。

全体としては八世紀半ばに高良大社(実際は高良玉垂神宮)は祭祀権を宇佐神宮に奪われたようですが、豊後に於いては、半世紀早く高良と宇佐八幡が入れ替わり始めたようです。

無題.png 個人的には四度目の参拝でしたが、トレッキング参加の皆さんに“この大原八幡宮にも「高良玉垂神宮」としての痕跡が残されている事”を確認してもらうのが最大の目的でした。

 では、物証としての痕跡を見て頂きましょう。

まずは、参拝殿正面最上部に打たれた五七の桐の神紋です。

 本殿最上部にも同様の神紋が十六葉菊(これは後鳥羽が定めたものですが…)と共に打たれています。

 これは、何度も言う様ですが、高良玉垂命の神紋です。

 無題.png以前の文書をお読み出ない場合は、「ひぼろぎ逍遥」 153 超高格式瀬高玉垂宮の神功皇后像が消えた “みやま市河内の高良玉垂の宮”他をお読みください。

 では、その妃である神功皇后の神紋はというと、表参道階段脇に置かれた数個の灯篭に三五の桐紋が打たれています(十六葉菊が削られてもいるようですが…)。

 蛇足になりますが、本殿上には非常に珍しい日田大原八幡宮特有の剣(鬼)洲浜紋がありました。

これは、メンバーから教えて頂いたものですが、大蔵氏=財津庶家(実はその方のご関係)のもので、これを使う一族も実は高良玉垂命の流れを汲む紀氏なのです。


大蔵氏


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東漢氏の一族で、壬申の乱の功臣である大蔵広隅を祖とする。姓は直のち忌寸・宿禰・朝臣。大蔵氏の名は大蔵に仕えたことに由来するが、東漢氏の祖・阿智使主が播磨国明石郡大蔵谷に館を構えたことに由来するとの説もある[要出典][2]http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%94%B5%E6%B0%8F
大蔵氏は春実以降、代々大宰府府官を務め、子孫は九州の原田氏・秋月氏・波多江氏・三原氏・田尻氏・高橋氏の祖となって繁茂し、大蔵党一族と呼ばれる。
また幕末の尊皇攘夷の志士で福岡藩士の平野国臣(大蔵種徳)は、春実の三男種季の子孫という。
秦氏の内で大蔵の出納を務めた者が大蔵を称した。雄略朝において初めて大蔵官員を設置し、秦酒を以て長官としたという。氏姓は大蔵秦公のち秦大蔵造。
後漢の王の阿多倍の直接の子孫 は坂上氏、大蔵氏、内蔵氏、永嶋氏、阿倍氏、です。 坂上氏は坂上田村麻呂として有名  ...
http://www.aoki.cc/cgi-bin/upbbs/upbbs.cgi?bbs=upbbs&page=1&num=377&view=1


「世界史掲示板(荊の紀氏)」より


無題.png境内社も大山祇、大国主、住吉三神、松尾様=大山咋、稲荷(豊受大神)様と九州王朝の家臣団が揃踏みです。

大山祇も大国主も?と思われるかも知れませんが、「記」「紀」神話に騙されてはいけません。いずれも九州王朝の臣下なのです。

最後に、大原八幡宮の参拝殿の神額を見て頂きましょう。

「八幡宮」の書体が少し変わっていますね。これは鳥文字と言われるもので、菅原道実候の一族の影響下にあるもので、鷽替え神事の鷽を模したものなのです。

日田市の東、九重町には菅原地区があり、太宰府で死んだとされる菅侯は、藤原の刺客を避けこの地に秘かに潜伏し、地元の有力者の一族に道真侯の種を残しておられると聴いております(現在も末裔が…)。

その後、鹿児島の薩摩川内市の奥地に移動し、藤川天満宮付近で余世を全うされた様で、現地には多くの伝承が残されています。

これについても「ひぼろぎ逍遥」019 道真は薩摩川内、旧東郷町藤川で余生を送った!をお読みください。それと関連するかは不明ですが、この大原八幡宮の社家、もしくは有力氏子にこの菅原系(ナガスネヒコ系&ヤタガラス系)のどちらかの氏族が関係している事は間違いないでしょう。神額の鳥は六羽(?)は描かれているようですが分かりますか。

以上再掲載

 ところが、大原八幡なる神社が豊前にも二社ある事に気付き(実際には以下の如く)、その二社は日田の大原からの勧請だと(「福岡県神社誌」)言っているのです(前ブログ参照のこと)。

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調べ始めると、山陰、山陽から畿内、北関東まで広い分布を示している事が分かって来たのです。

 では、何故、大原と言う呼称が成立しているのでしょうか?と言うよりも、そもそも、全国に分布する大原八幡宮、大原八幡神社とは同じタイプの神社なのでしょうか?

 この一事をもってしても、単なる郷土史会、史談会程度の視野では一種の神社の本質さえ掴めないで記紀や神社庁のデータや由緒だけで理解できたような気がして満足している事がお分かり頂けるのではないでしょうか?

 ましてや政情の変化に併せ祭神を隠し、あるいは復活させ、あるいは合祀するなどされている者からその神社の本質に迫る事が如何に難しいかがお分かり頂けるのではないでしょうか?

 どうやら、日田、みやこ、苅田の三社に関してはニギハヤヒ、大原足尼(「先代旧事本紀」ニギハヤヒ十世の孫…)…の神社である可能性があるようなのです。

 それには前ブログを読まれれば分かりますが、

702 大原八幡神社は物部の神社だった “福岡県苅田町の大原八幡神社”

703 大原八幡神社は物部の神社だった “福岡県みやこ町の大原八幡神社”

ニギハヤヒ、大原足尼命…との祭祀が日田の大原からの勧請であると書いているから分かったのであって、最低でも「福岡県神社誌」にはその片鱗がある訳で、日田の大原は「大分県神社誌」といったものが存在しない上に、当方がそこまで探っていなかった事の結果でしかないため、大分県の場合使う明治の「神社神名帳」を大分のブロガーで、メンバーの「ひとつあがりのカフェテラス」氏から頂く予定ですので、最期に写しを添付しておきます。

 少なくとも、日田の大原では、この事はそれこそ日田隠しにされている訳で、神社調査が容易ではないことに痛感させられますのです。

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以下は一例ですが、千葉県流山市の大原神社(三階菱も豊玉彦系=小笠原家の家紋)の画像ですが、祭神が全く異なる事はお分かり頂けるでしょう。下調べとしても大変な作業になります。

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祭神:《主》瀬織津比当ス,速開津比当ス,気吹戸主命,速佐須良比当ス

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 23:38| Comment(0) | ビアヘロ