ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1062
宮崎県西都市 東米良の銀鏡(シロミ)神社には、何故、「磐長姫」が祀られるのか? ❶
20240907
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
銀鏡神社と書いて、「シロミ」と読める方はそれほど多くはおられないでしょう。
この神社がある場所は、宮崎県西都市でも最奥部の僻陬の地になります。近年(と言っても1962年ですから60年以上前になります)、俗に東米良と呼ばれるかなりの部分が西都市に入ったからでした。
結果、西米良村だけが残り、東米良の多くが西都市と木城町に入り、米良東部が消えたのでした。
西米良村 15世紀初頭、菊池氏の末裔とされる米良氏が米良に移住。米良山14か村[5]の領主として当地を支配。江戸時代中期の承応年間(1652年 - 1655年)以降、現在の西米良村小川にあった小川城(米良氏屋敷)を居城とした。米良氏は明治維新後に菊池氏に改姓した。
米良山は元和年間(1615年-1624年)に人吉藩の属地とされ、廃藩置県(1871年)の際には人吉県(後に八代県、球磨郡の一部の扱い)となり、1872年に美々津県(宮崎県の前身)児湯郡に移管された。こうした歴史的経緯から米良地方は宮崎県(日向国)の他地域よりも熊本県(肥後国)球磨地方との結びつきが強い。これは現在も飲酒嗜好にも表れており、西米良村では球磨焼酎(25度の米焼酎、宮崎県内は20度の芋焼酎が主流)、特に高橋酒造の「白岳」が愛飲されている[6]。
ウィキペディア(20240907 14:21)による
それでは、銀鏡神社について考えていく事にしましょう。ただ、後には分かって頂けるとは思うのですが(?)、西都市に住む人々と、米良の菊池一族(総じて菊池市に住む人々も含めて)、つまり、永らく同地で自らの素性を隠し続けてきた人々とは(理解して頂けるかは別にして)同族と考えているのです。


これくらいでは分からないと思いますが、凄まじいほどの山奥の小集落に銀鏡神社が鎮座するのです
もう25年も前になりますか民俗学にかぶれていた頃でしたが、柳田國男が入った米良地区に対し、師匠の対象地を避け自らのフィールドとして宮本常一が入った椎葉村の栂尾に通い始めたのでした。
以後20年以上に亘り、椎葉の栂尾神楽に通った事を思い出します(現在、栂尾の33番神楽は、その舞台である栂尾神社への道路崩壊とその復旧の遅れによって5年近く休止が続いているのです…)。
とは言え、昔、銀鏡神楽も一度は見ておこうと、翌朝まで夜通し付き合いましたが、私にはどうしても阿蘇系(青井阿蘇神社系)の33番神楽の方が魅力的で素晴らしく思え、今もその気持ちは変りません。
ただ、ここから話を東米良の銀鏡神社に話を戻します。かなり、まだろっこしい話をしましたが、栂尾神楽への思い入れからどうしてもこの事には触れておかざるを得なかったのでした。
さて、ここからお手数ですが、5年前に書いたバック・ナンバーをお読み頂きたいと思います。
再掲載
ビアヘロ108 菊池一族は阿蘇系とは異なる民族だった! 201900910
ここ一年で ひぼろぎ逍遥+ひぼろぎ逍遥(跡宮)に以下の3〜4本をアップしています。
ひぼろぎ逍遥
723 | 菊池氏とは熊襲(トルコ系匈奴)であった “ようやくその尻尾を掴んだ” |
ひぼろぎ逍遥(跡宮)
712 | 亡命した菊池氏によって持ち込まれた狭上(サエ) 稲荷神社が今も西米良村の最深部で息続ける(下) |
711 | 亡命した菊池氏によって持ち込まれた狭上(サエ) 稲荷神社が今も西米良村の最深部で息続ける(上) |
ビアヘロ105 菊池一族とは大山祗系民族だった!“内倉武久氏らと宮崎熊本県境の狭上稲荷神社に…”
このため、本稿もビアヘロ版105の続編とお考え頂いて構いません。
日本人は単一民族であり、奈良県辺りにあった卑弥呼の邪馬台国から大和朝廷へと発展し遍く列島に広がって行ったなどと惚けた宣伝に載せられる方ならばいざ知らず、南島は元より江南から山東半島の淮河から、また、半島から渡って来た多くの民族によって列島民族が形成されてきたという至って常識的で、かつ、ありうる話から言えば、玄関口に近い肥後は黒潮の対馬分流が流れ込む土地でもあり、初来の訪問者が住み着いた土地であるはずなのです。従って、後に、半島〜大陸に侵入を繰り返した蛮族も含め、列島への避退、進出が繰り返され、多くの民族、氏族が、古来、入り続けてきたはずなのです。
ここ十年ほど、南北朝争乱期を中心に跋扈した菊池氏とは阿蘇氏と別の氏族というより、全く別の民族ではないかと考えてきました。一つの疑念の切っ掛けは、菊池市の中心領域に「赤星」という地名が存在する事でした。赤星と言えば直ぐに頭に浮かぶのが「先代旧事本紀」ですが、同時に頭を過るのが歌舞伎の「白浪五人男」の赤星十三郎でもありました。
多分、出雲(阿国)から発生した歌舞伎のこと出雲が物部の本拠地の一つであった事が分かれば、新たな関係性が見えてくるでしょう。面白い事に隣の山鹿市中心部には十三部(ジュウザブ)とも読める地名まであるのです。多分、赤星十三郎の名の採用に関係しているのでしょう。
後段でも触れますが、多くの人が古代出雲王国の主などと誤解
している大国主命とは、大山祗の子であり(百嶋由一郎最終神代系譜)、出雲も海人族と大山祇系氏族の本拠地だったからなのです。
話は跳びますが、島根県大田市にニギハヤヒの裔のウマシマジを主神とする物部神社が在る事を思い起こして下さい。さらに加えれば、久留米市の中心部にも十三部があるのです。これについても古いブログで書いていますが、散漫になりますので、ここでは触れません。推定ですが、大陸の漢帝国(十三都督府と)関連するのです。

繰り返しになりますが、赤星と言えば直ちに「天津赤星」が頭に浮かびます。この物部氏の中核勢力たるニギハヤヒに直結する集団が赤星(後の筑紫弦田物部か…)であり、その地名が存在すること自体菊池氏が阿蘇氏とは全く異なる民族ではないかと考えざるを得なかったのです。
天津赤星 …なお,〈明の明星〉〈すばる(昴)〉〈北斗七星〉〈宵の明星〉はそれぞれの項目を参照されたい。天津赤星(あまつあかぼし)《旧事紀》の天神本紀にある。饒速日(にぎはやひ)尊に従って天降り供奉したとあり,尾張国神名帳に赤星大明神というのがこれらしい。… 「コトバンク」による
本来これだけでも気付くべきでしたが次に疑問を持ったのが家紋でした。
菊池氏と言えば皆さんご存じの並び鷹羽が良く知られています。これでは菊池氏が阿蘇氏の兄弟分にしか見えませんね。しかし、元々は日足紋を使っている事は分かっています(普通は鎌倉期の第8代菊池能隆辺りからとされますが)。それ自体がある種の偽装である事にようやく思い至ったのでした。

ここで、宮方として義を全うした南北朝の忠臣氏族菊池氏…といった先入観を取り除き、菊池氏が阿蘇氏とは全く異なる民族であり、物部氏ですらあったと考えたら一挙に謎が解けてくるのです。
既に、13世紀後半から鎌倉幕府執権体制の崩壊から始まりますが、直接的には室町期の1336〜1392年までの60年ほどの内乱期が南北朝時代とされます。ここでも九州の宮方(阿蘇氏、菊池氏、五条家、黒木氏…)が屈服する事によって全国が平定される事になるのです。この時、南朝方として戦う宮方連合軍内に於いて、多くの氏族が参画してくる中にあって、正統皇統を主張する宮方にとって武家=武士(モノノフ)=物部(モノノベ)に直結する菊池氏が宮方勢力と理解されない事を嫌い(朝敵の熊襲が宮方に入るとは何事だ!と言われる事を避けたのではないか?)、よって、阿蘇氏の神紋である鷹羽紋を使い、阿蘇氏の一派の様に装ったと考えると何とか謎が解けるのです。鎌倉初期までは日足紋を使っているようですが、徐々に物部隠しが始まっていたように見えるのです。では、菊池氏が阿蘇氏とは全く別の一族で物部氏と言えるのでしょうか?この菊池氏の出自を探るために時間を費やしました。しかし、何とかその糸口が得られたのです。
菊池氏とは大山祗の後裔氏族だった
さて、熊本県人吉盆地の奥の奥、宮崎県の西の国境に西米良村があり、その中心地からさらに10キロ入る辺境の地に狭上(サエ)稲荷という神社があります。
この神社が如何に価値あるものであるかは言い尽くしようがありません。これまで三度参拝し、見えて来た認識を進め、更に、一般にも広くお知らせしようと思うものです。

狭上稲荷神社 カーナビ検索宮崎県西米良村村所503 社務所宮司宅(左)参拝道を歩む内倉武久氏(右)
この狭上稲荷神社は西米良村という宮崎県でも辺境中の辺境の地にあるのですが、村の中心部の村所地区からも7キロ登りさらに3キロ谷底へ降りるとようやく辿り着くという正しく大変な場所の僅かな小平地に鎮座している稲荷神社です。しかも同社の傍には伝大山祗の墓とする古墳までがあるのです。この古墳には石棺もあるらしいのですが、後述の「石櫃」地名と関係があるのではないかと考えています。
実は、同社への道は川沿いに上がる直行ルートが本来の参道の様で、川沿いに今も上がっては来られようですが車で入る事が出来る道がないため、現状では延々10キロの山道を迂回し入るしかないのです。
九州山地中央部の山間地、一ツ瀬川と板谷川の合流点に位置する。地内には二基の古墳があり、小川の古墳一基とともに西米良古墳として県史跡に指定されている。一基は菊池記念館の裏の山中にあり、一基は当社の南側に位置している。
旧称狭上稲荷大明神と称し、創立年月日は不詳であるが、社蔵の由緒記によれば次のごとくである。
皇御孫尊阿田之長屋にご臨座し、大山祇命の娘、姉の磐長比唐畏れ給い、妹の木花咲哉比東ワ十鈴川上川に去ってしまった。大山祇命は跡を慕いて狭上の深川に跡を垂れ給う。爰に御陵あり、しかし空国にして祭る者がなかった。世降りて当社御陵を知る人も稀になっていた。時に天正年中、山中堂栄、煮田之尾勝房・山佐礼左近・西世法師の四人兄弟狭上の東西南北に柴の庵を結んで露命を繋いでいた。西世法師の夢に白髪の老翁が現れ、我は是れ大山祇命なり、我陵を以て稲荷を祭り尊敬せば汝が子孫長久なる事疑う事なし、と言われた。西世法師山谷の狐魅我を犯すとしてそのままにしていた。また夢見があったので此の神を祭り尊敬すると日数を経ずして白狐稗粟大小豆を携えて来て西世法師に与えた。その後米良佐太夫の時に新たに社を建立した。その子孫の米良半右衛門と言う者が球磨表に越したので、その後中武氏神司となりここに居住した。この由緒によれば、創建は古く菊池氏の入所後、氏の弟米良佐太夫の再興に係り、その子孫によって代々護持されてきたものである。
宮巡 〜神主さんが作る宮崎県の神社紹介サイト〜 運営:宮崎県神道青年会

第二度目は熊本の女性メンバーなど6名で入りましたが、今回、当会の新メンバーであり人吉盆地の一角でblog「ひろっぷ」を書き続けておられるM女史に、芦北町の郷土史グループ「野坂の浦」メンバーの吉田先生、さらに大阪から来られた内倉武久先生の3人をお連れしました(M女史は都合で参加できませんでしたが)。石櫃は、まず石棺ですね。
四人の思いは各々あったでしょうが、少なくとも私が最も関心を持っていたのは南北朝期に宮方として闘い続け敗れ去った菊池氏が何者であるかをさらに多くの観察通者の目で掴むことにありました。
九州の中近世史を考える上でも菊池氏は無視できませんが、実は九州の古代史を考える上でも決して無視できない存在でもあるのです。簡単に言えば岩手県が顕著なのですが、東北地方に菊地、菊池姓を名乗る方が大量におられる事は良く知られています。中近世期に同氏の目立った移動が確認できないため、恐らく八世紀以前の九州王朝の時代に何らかの理由で展開しているのではないかとも考えて来ました。
南朝方菊池氏…云々だけで凝り固まっておられる方は別として、我々九州王朝論者にとって、この菊池氏が何者であるかについてはこれまで闇に包まれてきました。普通はその氏族が奉斎する神社の祭神や家紋を見れば凡その見当が着くのですが、菊池氏については、それが効かなかったのです。
例えば神社ですが、いくら多くの菊池系神社を踏もうが祭神は菊池武光、武時、始祖の則隆…ぐらいで一向に祭神が見えてこないのです。唯一、33番神楽でも知られ菊池氏の逃げ城と言われた現宮崎県西都市 東米良の銀鏡(シロミ)神社だけに磐長(イワナガ)姫(通説で大山祗からニニギにコノハナノサクヤと共に送られるも返されたと言う酷い話に仕立てられた)が祀られ僅かにその痕跡を感じていましたが、ようやくその意味が見えて来たのです。先に狭上稲荷神社の祭神を再度確認しましょう。
銀鏡(シロミ)神社 カーナビ検索 宮崎県西都市大字銀鏡492

地元の〜神主さんが作る宮崎県の神社紹介サイト〜運営:宮崎県神道青年会 によれば 大山祇命 倉稲魂命 大宮姫命 大己貴命 菊池武光公及びその祖先 となりますし、同社の由緒に依れば、大山祇命 蒼稲魂命(恐らく倉稲魂命) 大己貴命 大己貴命 菊池武光公及びその祖先となり、鹿児島県だけに分布する大宮姫伝承の大宮姫命は含まれてはいません。
確認したい方は以下をお読み下さい。いずれにせよ菊池一族が奉斎する神々の見当がある程度は着くのです。これに加え、銀鏡神社の磐長姫を考えれば菊池氏が何者かの見当が大凡着くのではないでしょうか。
同社由緒の全文は以下で確認できます。
711 | 亡命した菊池氏によって持ち込まれた狭上(サエ)稲荷神社 が今も西米良村の最深部で息続ける(上) |
では、我が百嶋由一郎最終神代系譜で確認して見ましょう。

稲荷様とは伊勢の外宮の豊受大神こと辛国息長大姫大目姫(大山祗の長女神大市姫の娘)です。
これらから読み解けば、狭上稲荷の祭神(当然にも稲荷を含む)の全てが大山祗のファミリーであり、菊池氏が奉斎する神々がウマシアシカビヒコチ(トルコ系匈奴=王昭君系親漢派の南匈奴の後裔)と天御中主命(白族)の後裔であることが分かるのです。
では、銀鏡神社の主神の磐長姫(通説でコノハナノサクヤの姉とされる)の方はどうなのでしょうか?
その前に磐長姫が誰かが分かっておられない方が多いと思います。
これについては、当方のバック・ナンバー ひぼろぎ逍遥(跡宮)020 細石神社とは何か?などを読んで頂くしかないのですが、分かり易いのは ひぼろぎ逍遥 487 安産の里無津呂の神々 子安神社 ジネコ神社協賛プロジェクト @ かも知れません。
487 | 安産の里無津呂の神々 子安神社 ジネコ神社協賛プロジェクト @ |
一応の説明を致しますが、率直に言えばかなり分かり難いと思います。このため、先に分かり易い方の簡略化した説明をしておきます。
@ コノハナノサクヤは確かに高木大神の息子であるニニギのお妃になります(その子が糸島半島の桜谷神社の古計牟須姫命)。しかし、百嶋翁の話によると数年で別れ、豊玉彦=ヤタガラスの傘下に入り事実上のお妃のお一人となります。このため保身の意味もあり八咫烏の一族を祀ったとも…。
A とすると、ヤタガラスの姉がアカルヒメ=磐長姫ですから、コノハナノサクヤにとってアカルヒメとは義理の姉にはなるのです。
これががコノハナノサクヤの姉とされる仕組みなのです。しかし東米良の銀鏡神社の祭神が磐長姫とされた理由は不明です。もしかしたら天御中主命の勢力(白族)の支援を期待しての事だったのかも知れません。これでも菊池氏が大山祗系の氏族である事がお分かり頂けるのではないでしょうか?
前述の如く通説では木花之佐久夜毘売は、ホデリ(ホアカリ?)、ホスセリ、ホオリの三柱の子を産むとしますが、百嶋神社考古学ではそれを認めません。また、磐長姫と木花之佐久夜毘売とが実の姉妹である事も認めません。また、無関係でもないと言うより、むしろ関係性の強い従妹のようなもなのです。
B 南北朝期に阿蘇氏と連携し戦い続けた菊池氏でしたが、彼らが自らの素性、つまり熊襲であった事を隠す必要が有り阿蘇氏と同様の鷹羽紋に変更し阿蘇氏一派つまり熊襲ではないと偽装した可能性が浮かび上がってきました。つまり朝敵と言われないための配慮だったのです。今後も探索します。(現時点での補足:磐長姫とはカミムスビの娘で八咫烏の妹のアカル姫であり、大幡主=カミムスビの娘なのです。ただ、アカル姫はスサノウの妃ともなっていることから、姻戚関係の結果、義理の姉妹とまでは言えるのです)。

まず、百嶋神社考古学で、イザナミはイザナギと別れた(神話では黄泉の国で喧嘩別れした事になっていますが)後、博多の櫛田神社の大幡主のお妃となり、豊玉彦=豊国主=ヤタガラスとアカルヒメを産みます(これには多くの傍証がありますが、ここでは省略します)。熊野は、本来、イザナギは祀らない。
敢て、分かり難い方の解説を行なえば、磐長姫は博多の櫛田神社の大幡主(白族)を父神として金山彦(瀛氏)の妹神であるクマノフスミ(イザナミの後の神名)を母神として生まれたアカルヒメ(スサノウのお妃で姫島に戻ってきた)とします。
一方、コノハナノサクヤヒメは大山祇(越智族)を父神として、博多の櫛田神社の大幡主の妹である埴安姫を母神として産れた大国主命の妹とします。このため妙な表現になりますが、父神も母神も異なるものの、アカルヒメの父神とコノハナノサクヤヒメの母神が兄妹であることから、腹違いで種違いの従姉妹といった関係にはなるのです。これらは勿論伏せられてはいますが、百嶋先生がこの事実を把握された事により、問題が鮮明になってくるのです。通説はこれを姉妹としていますが、アカルヒメこと磐長姫が醜かったから返されたとする神話には、阿蘇氏の後裔としての藤原の作為が感じられ、金山彦系を貶める意図があるように思えるのです。
ただ、磐長姫の名誉のために申しあげておきますが、イワナガヒメ=アカルヒメは新羅の王子様であったスサノウから逃げて国東半島正面の姫島に上陸したとされているのであって、スサノウが但馬の出石に追いかけてきたほどの女神であったとすれば、到底醜かったなどとは思えないのです。
以下、百嶋由一郎最終神代系譜と極秘系譜(部分)

