2026年07月21日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1138 『雑録七幸神社史』(1) 小島宗光 掲載稿の掲載 ❶

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1138 『雑録七幸神社史』(1) 小島宗光 掲載稿の掲載 ❶

        20260125

 太宰府地名研究会(編集員) 古川 清久


昨年3月に解散した「松浦党研究連合会」を母体に伊万里を中心に結成された 古代のルーツを知る会の中枢メンバーである小島宗光住職の文書を月一本ペースで掲載して行くことに致しました。

「松浦党研究連合会」と言っても余りご存じない方が多いと思いますので簡単に説明申し上げます。 
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「松浦党研究連合会」は全国にある郷土史会、史談会…と言ったものになるのですが、この手の会は、普通は集まりやすい纏まった地域に根差しており、市郡域を越え益してや県境を越える研究会には成らないのでした。

 その中で、佐賀県伊万里市を軸に唐津市、更には、県境を西に越え、長崎県の松浦市、平戸市、佐世保市にまで広がる通常の行政単位を越えた広域の民間研究団体が存在していたのでした。結成は、昭和52年ですからもう少しで半世紀にまでなる大きな郷土史会が存在していたのでした。

 その会も後継者を失い、昨年の3月で解散を決め、中心となっていた伊万里市のメンバーによる独立した再建が開始されたのでした。

その際、私にも参加しろと言う要望があったのですが、中近世など門外漢のためかなりの躊躇いはあったものの参加にすることになったものです。

それは、私自身が三ツ星を家紋に持つ橘一族である上に、幕末まで有明海側で小規模な廻船業を行っていた家系であった事から松浦党の一派だったであろうとの認識を持っていたからでした。

もう一つは、当会の北部九州全域をカバーできる調査体制を創るためにも、佐賀県から長崎県をカバーする必要もあるからでした。 既に、福岡県久留米市、筑紫野市、北九州市、熊本県西原村、大分県も不定期で会合を持っている事から、私達が考えている九州王朝探求への条件が整うからでした。勿論、松浦党は壱岐、対馬、五島から余り知られてはいませんが、有明海、不知火海…にも広がりも見えるのです。その意味では、不得意な中近世にも踏み込む良い機会を与えて頂いたと思っています。

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『雑録七幸神社史』⑴

はじめに

 伊万里市内に古代天文台址があったと知る人は少ないのです。

 かく言う私も「ホシミ」という地名には長く興味をもってきました。韓国慶州視察の折に新羅時代の善徳女王(在位六三二〜六四七)が築いた瞻星台(チョムソンデ)が星を観察する宗教施設であったと知りました。日本書紀によれば天武天皇(〜六八六)が占星台を設置する条をのべるにより、古代天文観測の不可欠を追って垣間見たのです。

 日本では神社と天文台の関わりが密接であったことから@、国内調査を試みました。「ホシミ」と「テンモン」はその代表的な地名であり、詳細を一覧するには至っていませんが見てとれる場所はあります。神社と天文台の関わりは(後の章で)述べますが「西海道第一番札所七幸神社」の事例をもって佐賀県伊万里市山代町楠久の跡形は認知できます。

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烏ン枕誌面に投稿するきっかけとなったのは平成291126日に行われた『楠久・津歴史ふれあい館オープン記念シンポジューム(フォーラム)』」にさかのぼります。このときシロウオ部会・グランドゴルフ部会・ホシミ部会の三部門を置き、町の活性化と会館活動の具現化を諮ることが住民会議で採択されたその日の議決でした。その後の議論は音沙汰なしのままシロウオ部会とパークゴルフ部会は楠久津行政区が所管することになりホシミ部会は取り残されたまま放擲されたことを耳にしました。

フォーラムの場では私は説明を求められなが(ママ)既に宙に消え失せて、何処かで抹殺させた犯人がいるのです。私の無力感と悲憤はやがて消えるとしても、貴重な遺産を無下に放棄された慚愧は堪えられず、有形無形の遺跡、史跡や文化財が滅亡してきた過程と同種であり、ここに導き出された結論はいかがなものかと承服できません。せめて採用できなかったという経緯と説明はあって然るべきです。

 古代天文台址の検証をありていのまま議論して、すがたを消した史跡の存在を一層あきらかにし、せめて、区民の賛同と反証を厳格に捉えて叱正と修正を得たいのです。碩学の諸賢もまちづくりの同胞も忌憚のない意見をお寄せくださり誌上で明らかに致しましょう。

 既決された意見だったのであれば筋や必要性が提出者の私には届いていません。不要性であることが答えであるならば根拠を持たない棒にも箸にもかからない愚にもつかない、意見とも中傷ともつかない行為ではなく明瞭な御意見を求めます。喧嘩を売るなら理屈はいりませんが区民や地域にとって根拠が不明瞭であっては公開議論さえ成立しません。

 論文堤上の齟齬を避けるため、私なりに意見の所在を整理して異合があれば正します。

歴史的な立証を必要とするのであれば、史実を証明す傍証すなわち代理証明に委ねます。物理的な証拠が現存しないかぎり、偽証罪に問われないためにも真実を掘り下げて述べる必要があります。


七幸神社の「存在」

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地域のほとんどが記憶から失われた七幸神社を、なぜ私は再興する意志をかためるに至ったかを概述しなければなりません。その「存在」は地域の皆さんに全く無かったのではなく常套したものが世代と時代の変遷をともなって必要の優先度を失ったものと判断し経緯を要約して論点をまとめます。

 昭和二十九年に私が現住地に住むようになってから六十四年間、七幸神社の名は度々耳にしましたがすでに過去の沙汰です。名残を示す外観は皆無でごく一部の社地が残り、地主の川久保友助、深江智彦、山口晴興の三名が所有者として名を連ねながらも故人となられました。現在は楠久区が管理して壱之寺が借用しています。

 旧境内地は人手にわたり、地籍は畑や山林となって蝮の巣となっています。明治の初頭まで九州一円では有名を馳せた七幸神社を知る人は不在、由緒だけが健在です。

 在来のホシミの神様は皇大神宮さんの祭りとして中古賀地区の皆さんがうけつがれていますが、七幸神社の名を語られることはありません。このように民間伝承の分野では死滅状態と言えるでしょう。

 戸籍ともいうべき由緒の事跡はどうような仕組みによって斯様な経過を招いたのでしょうか。

 維新政府による神仏分離令が発布されて廃社に至ったのは明治四年一月四日のことです。神仏混交の修法をまじえて地域住民はもとより国内および国外ともユニバーサルな性格を発揮してきた七幸神社にはとどめの一撃でした。天文台を司る七幸神社は暦の発行と時報を伝える役権が県令に移行します。長崎出島との出入りになくてはならない相棒であった鍋島水軍とともにお払い箱となったのです。楠久六箇村(楠久村・福川内村・城村・峰村・大久保村・日尾村)と村社の存在が解体され、愈々上知令を持って傷を深め広げます。A

上知令(じょうちれい、あげちれい)は、一八四〇年代から一八七〇年代にかけて、江戸幕府明治政府が出した土地没収の命令です。

 由緒寺社の領地は治外法権下にありました。現代の法人法による公益保全の原則がそうであるように宗教法人の免税措置は既成の事実でした。

 ところが、領主の権力が消滅した時勢だから法的根拠も失われたのだと穿った苛斂誅求な解釈をもって、ときの明治政府は窮乏する財政の穴埋めを急ぐために没収することを強行したのでした。この破廉恥な政治行為は長いこと不問に伏され戦後長時間をかけて明かされます。教科書にも載せない、社会通念からも排除するという作為は百数十年を掛けて抹消されたのです。

 その一方では疑うような偏重主権がまかり通りました。

 明治四年(一八七一年)もしくは明治六年とされますが、伊勢神宮の大麻を全国700万戸に有料で強制配布を実施するBなど一連の神道優遇制度は富国強兵政策に利用される結果となります。

国教化政策による神社神道を皇室神道の下に再編成して軍国主義・国家主義とを連結しました。天皇を現人神(アラヒトガミ)とし、天皇制支配の思想的支柱としました。第二次大戦後、神道指令によって解体されましたが国民の宣撫特権が委ねられたこのときから度々の事変(戦争)は開始されたとみるべきです。C

 明治維新の激流に乗って門出した神社神道とすべての権利を剥奪された七幸神社の行く末は歴然の帰結が待っていました。楠久・津まちづくり活動の三つの意見をなさしめている根幹には今も脈々と流れる思想にあぶりだされた七幸神社の「存在」だと解釈するのは身勝手でしょうか。

国体神道偏重主義と廃仏毀釈運動により、やがてその反動思潮は檀家制度の寺院や集落神社への絶大な変容をもたらしました。明治二十三年(一八九〇)には一九万三二四二社あった神社数は現在八万一五〇八社となりました。特に合祀による減少は目を覆うばかりで、神官の需要は絶望的となりつつあります。D斯様に通例の不況神社のあり方では神社を再興し運営することも容易ではありません。

 しかし、神仏の教理教学をこえた神仏混交の協調体制や天文知識による自然観測は、青少年が求めている新しい課題環境の中にあります。

 「青少年に対する教育は学校が中心となっており、地域の青少年教育においては、その期待される役割を十分に果たしていない状況にある。」と、E平成204月に渡海紀三朗文科大臣が舵を切っていらい自然学習活動は一途に広がっています。

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写真は現在とおなじものです


七幸神社 所在地:佐賀県伊万里市山代町楠久5241


 世界は近代化がすすむにしたがって生物対応性社会が求められ、寺社の森は格好の聖地として解放されるべき理想的な舞台です。寺院と神社間に敵対視する理由や怨恨は全く存在しません。もともと二千数百年におよぶ日本の神さま仏さまは政権の利害に基づく神仏分離令に至るまで、すこぶるなかのよい親交を続けました。既成化されていない七幸神社は、これまでの神社にはない計り知れない可能性を具有しています。ほんの少し正気で判断すれば誰にでも納得できる事情です。

 七幸神社の再興を躊躇していた平成のはじめに、御神体らしき尊像がとどけられました。解放後七幸神社周辺の地主であった山口康彦家によって屋敷の整理中に発見、真贋のほどはさておき異常なほどに古い異国製の石像の発見でした。その尊像が埋められた場所は現在の七幸神社(KUSUKU)の丘です。この時から一気に勢みがついて走り出しました。数十年の歳月を重ねて平成二十八年四月十日に修祓が勤められ、再興がかなって仮被屋が葺かれ現在の姿形となりました。

『宮記』を主体とした論題の「七幸神社の背景を探る」とともに、当初の願望に述べた通りに反論者のご意見を含めて応需します。ご了承のうえご協力をおねがいます。


@「忘れられた天文台」 東海林郁三 近代文芸社

A 本光寺文書

B 神宮教院規則「第五条大麻ヲ全国ニ頒布スル事」

C 「近代の集落神社と国家統制」森岡清美著 吉川弘文館

D 『神道入門井上順孝著 平凡社新書

E 文科省中央教育審議会20文科第124

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七幸神社に参拝されたい方は、佐賀県伊万里市山代町楠久5241 

 直接的には佐賀県伊万里市山代町楠久52411壱之寺茶房(090-36067117をお訪ね下さい

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多少紙面が遺りましたので、「松浦党研究連合会」から生まれた新たな研究会の話を再開します。


 敗戦後であるにもかかわらず、ある種の解放的な時期を迎えると、多くの民間研究団体が自然発生的に出現します。

その背景には、会が一定の大きさに成ってくると、当初は独立した民間の自主的な研究会だったものも、成長してくると県教委、国立大学、県文化課…と言ったものに頼る傾向が生まれ、其れに応えるかの様に、中央情勢については私達にお任せ頂いて、地域については限定して余計な浅酌を避け事実だけを回収して下さい…と言った通説派の学者にとって都合の良い方向に捻じ曲げられる場合がある事を数多く聴いいているのです。

これ以降は本題から逸れますので紙数が余れば後段に掲載します。

 そして、結論は、記紀に集約し紛れさせられることになり、仮に熱心に真実を探ろうとする人々が在ったとしても、結局は旧態依然たる通説まがいの話に纏められ、後身の研究者が離れ若手の補充が失われると言う全国で見られる郷土史会、史談会、地名研究会…の解散、消失に繋がっている様に見えるのです。

こうして、最後は村興し町興し果ては世界遺産登録と言った言わば官製文化運動に絡めとられ、お粗末にも熱心な研究者であっても、最後は行政の芸人に成り下がり成りきると言った事にもなって行くのです。

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2026年07月18日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1137 続)宇佐市 駅館川河口の川上神社は和歌山の丹生川上神社だった!       “不思議なまでの集中を見せる金屋の南姓はやはり八咫烏(橘一族)の末裔だった”

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1137 続)宇佐市 駅館川河口の川上神社は和歌山の丹生川上神社だった!

      “不思議なまでの集中を見せる金屋の南姓はやはり八咫烏(橘一族)の末裔だった”

        20260124

 太宰府地名研究会(編集員) 古川 清久


本稿はひぼろぎ逍遥(跡宮)A1135 宇佐市 駅館川河口の川上神社は和歌山の丹生川上神社だった!の続編になります。

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上図は、「南」姓を「名字マップ」で検索したものです。

また、「南家の家紋」で検索すると、良く遭遇する★★民俗学の広場 https://folklore2017.com › kamo に“大阪府貝塚市畠中/伊予橘氏族: 「丸に橘紋」「菊水紋」”出てきます。

岸和田市の南に貝塚市が在りその南に泉佐野市があります。ここに橘紋を使う南一族が集中しています。

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一気に、同族と思われる橘紋を使用する南姓の人々の大阪側の集積地までが見えてきました。

 ここから進み過ぎた話を少し戻し、海人族の傾向を考えて見たいと思います。

 民俗学的な話をすれば、一般的に海人族は同族性が強いと共に、敬語をあまり使用しない上に、階級差が薄く、同名を使うと言われます。

 例えば、博多の沖に浮かぶ志賀島の志賀海神社の宮司家は有明海側の大川風浪宮も含め「安曇」氏であり、直属にはかなりの数の「坂本(阪本)」姓を名乗る人々が多数居られます。

AIによる概要

福岡県の志賀島(しかのしま)を本拠地とした古代の海人族「阿曇氏(あずみうじ)」と、その氏神である志賀海神社に仕えてきた坂本氏について、検索結果に基づきまとめました。

1. 志賀島と海人族・阿曇氏

本拠地と役割: 志賀島は古代の有力海人族「阿曇氏」の発祥地とされています。彼らは海神(ワタツミ)を信仰し、海や川の水運・交易・漁業を支配し、古代日本において重要な地位にありました。

志賀海神社: 志賀島に鎮座する志賀海神社(しかうみじんじゃ)は、阿曇氏が祖神である綿津見三神(わたつみさんしん)を祀った「海神の総本社」です。

歴史的変遷: 4世紀頃、神功皇后の三韓出兵を導いたとされる阿曇磯良丸(あづみのいそらまる)が表津宮を現在の勝山に遷座したという伝承があります。

2. 志賀島の「坂本氏」

庄屋と神職: 坂本氏は、志賀島の庄屋(村役人)を務めた家系であり、明治維新前は神仏習合の社僧坊「金剛山吉祥院」の僧侶でもありました。

氏子と社人: 志賀海神社の神職(社人)の中には「坂本」姓を持つ人が多く、現在も志賀海神社の氏子総代や関係者として、神事に携わっています。


 宇佐の金屋と貝塚の南姓も恐らく同族で、瀬戸内海航路を通じて古来多くの交易を続けて来た人々ではないかと考えられそうです。

 今回のテーマで、話を「卑弥呼が送った遣使の難升米」から「灘の生一本」の醸造者集団にまで拡げた背景には、船を操る海人族とは平時には運搬、交易、通商から付随する醸造業が関係する事が想定される上に、戦時下では先の大東亜の大戦でも分かるように多くの船が一気に徴用された事にも象徴される様に、大量の犠牲を出す海没の被害に遭った事は否定の使用がなく、灘高校が設立された背景にも海外との交易、渡洋航海を担える優秀な人材の育成が必須であったあった事が考えられるのです。

 その意味でも、柳ヶ浦の海軍航空隊=宇佐空の正面に今も痕跡を留める醸造業を見出した事から一

気に神戸の灘の生一本まで話が飛躍し面食らわれたかも知れません。

 しかし、こういった海事に携わる人々には、洋の東西を問わず世界の全てにも共通し、大きな収益と時として悲惨な海難にも遭遇する事は否定できない事なのです。

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そう考えると、上の酒造りイベントの記事までが大きなリアリティと伝統を呼び起こす事でもあったのです。ここだけをお読み頂く方は唐突に思われるでしょうが、以後、当方のバック・ナンバーを要約致します。

744 宇佐の金屋の南姓は難升米の後裔氏族か?(下)“金屋地区は廻船業者の街”

20190327

太宰府地名研究会 古川 清久


金屋界隈 川上神社周辺グラフィティ

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廻船業者は米だか麦だか豆だかを大量に詰め込み、ある種密閉した空間(船倉)で搬送を繰り返しますので、列島周辺では必ず発酵が始まり、腐りかけたものを何とか商品にできないかと考えいつしか倉庫業者、廻船業者は醸造業者になって行ったのです。

海水や塩はふんだんに確保できますし、大分でも臼杵のフンドーキン、フンドーダイの醤油メーカーを持ち出すまでもなく、多くの醸造業者が港湾に立地している事を考えれば良くお分かりになるでしょう。

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743 宇佐の金屋の南姓は難升米の後裔氏族か?(中)“金屋の南さんとは何か”(一部省略)20190327

単純過ぎますが、「難」さんが「南」さんに置き換わっているのではないか?と言うだけのものです。

また、もしかしたら「灘」さんも可能性があるのかも知れません。

さらに言えば、あくまでも日本語の呉音、漢音でしかないのですが、大陸の言語が4世紀前後に大きく変化し、結果、音博士を招聘せざるを得なくなったほどに、M音がB音に、N音がD音に変化し、日本人の姓もそれに対応し、「南」「灘」が「段」「団」「壇」…姓にも変化したとも考えられそうですが、総じてこれらの姓を持つ人々は、元々、同族であった可能性も考えておくべきなのかも知れません。

「南」と「団」が何の関係があるのかとお考えの方がおられるでしょうが、坊主読み 官学の武家読みで考えればお分かり頂けるかも知れません。一例です。

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この外にも、難(ナン/ダ ン)、男(ナン/ダン)、奴(ヌ/ド)…が浮かんで来ますが、後はご自分でご想像下さい。では、南姓の分布を見ましょう。

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これは、後段でも書きますが、灘姓が兵庫県に多く、宇佐では南姓で残ったのか、南姓を名乗る必要性が生じたのかは今後の課題ですね。また、大分県では壇姓は日田に集中しており、咸宜園の漢学重視の立場からの変名の可能性もありますが、系統だって調べないと思い付きだけに成りかねません。

何れにせよ、日田市は豊の国の西に向かった玄関口であり、太宰府、久留米に近い八咫烏=豊玉彦=豊国主の本拠地とも考えています。旧制日田中学校の校旗は隠されていますが三本足の烏らしいのです。

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気になったので日田市を調べましたが、大分県の壇さんは日田市に集中していました。


 何で壇ふみ、團 伊玖磨、の「ダン」までがと思われる方も多いと思いますが、老若男女(ろうにゃくなんにょ)の「ナンニョ」と男女平等の「ダンジョ」をお考えになれば、お分かり頂けるはずです。日本語に於ける呉音から漢音への変化は大陸の政権の変化により、古い中国人が駆逐され、鮮卑族の征服が起こった結果、古い坊主読みの呉音では大陸では通用しなくなった結果、和爾氏など音博士を呼んだのです。従って、南姓は古く仏壇の壇姓は新しいものになるのです。

744 宇佐の金屋の南姓は難升米の後裔氏族か?(下)“金屋地区は廻船業者の街”(一部省略)

20190327

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川上神社は非常に分かり難い場所に在るからでしょうが、ネット上にもほとんど情報が出て来ません。ただ、「邪馬台国と大和朝廷を推理する」氏の資料にこの川上神社が出てきます。

和間神社は熊襲を放つ放生会(私もたまたま15年前/執筆時 の放生会の祭礼の日に訪問しましたが)で知られた神社です。豊後高田の若宮八幡宮も既にひぼろぎ逍遥(跡宮)で取り上げた九州王朝の古代官道と推定勅使門の可能性を持つ神社ですので、どう見ても熊襲絡みの神社の可能性もあり同王朝の時代に成立した神社群です。従ってラインで繋がるように思えるのです。若宮八幡神社については以下をお読み下さい。

これについては ひぼろぎ逍遥(跡宮)

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20178月豊後高田トレッキング @ 若宮八幡神社(豊後高田市)


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2026年07月15日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1136 事実上のゼネコン 安藤ハザマ とは何か? “古代史、神社研究の視点から 安藤組と間建設の合併を考える”

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1136 事実上のゼネコン 安藤ハザマ とは何か?

“古代史、神社研究の視点から 安藤組と間建設の合併を考える”

        20260112

 太宰府地名研究会(編集員) 古川 清久


 ほぼ、理解して頂けない話とは思いますが、松の内は(九州、関東は7日まで)は関西(15日まで)という風習ですから、お屠蘇気分の延長でしか書けない様な話をしてみたいと思います。

 国道210号旧加々鶴トンネルの改良工事(実際にはバイパス・トンネル新設)ですが、新しいトンネルの名称は川下トンネルだそうです。これについては別に後段に廻させて頂きます。

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無題.pngそれはともかく、トンネルは既に貫通しており、年度内から遅くも翌年度中には仕上がる事になるのではと思っています。

 前掲の地図では場所が掴めないかも知れませんが、大分から福岡(古代なら豊後から筑前への国境)の県境を貫流する筑後川の断崖地を通過する国道210号線の現加々鶴トンネルのバイパス工事(実際には旧加々鶴トンネルの倍以上の延長に成る)が半ば竣工間際なのです。

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無題.pngさて、今回は公共工事の話をするつもりは有りません。

 私が取り上げたいのは、トンネル工事のエキスパートの安

藤組(かつて「実録安藤組狙撃編」など関東のヤクザ組織に

安藤組が在りましたが…勿論、無関係です)と間建設との間

には何らかの古代まで遡る関係が在るように思えるのです。

 始めに申し上げておきますが、念頭に在るのは東北の阿部

一族の後裔とも同族とも言われる弘前の安東氏と、大分県由布

市の東と言うか由布川左岸の旧狭間町に盤踞した狭間氏と阿

部氏の関係をどうしても意識してしまうのです。

 それは、東北の安倍一族のルーツは、大彦で古代の豊国(後の豊前、豊後)との思いが消せないからです。かつて、司馬遼太郎は戦国期の氏族同氏の関係が現代の財界人の友好関係にも継承されているとして、竹中工務店と松坂屋の例を挙げていた事を思い出します。

 まず、織田家の小姓が竹中工務店の祖であると言う話がネットに出て来ます。お試しください。

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AIによる概要

竹中工務店の「祖(はじめ)」は、初代竹中藤兵衛正高(とうべえまさたか)で、1610年(慶長15年)に織田信長の普請奉行を務めた後、大工棟梁として「大隈流」を創始し、神社仏閣の造営を始めた人物です。その後、代々宮大工として技術を継承し、江戸時代初期に名古屋で創業、明治期には三井家との縁を深め、三井銀行などの建設を手がけ、現在の竹中工務店へと発展しました。

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一方、…森蘭丸で知られる織田家の小姓の一人に伊藤蘭丸が居ました。


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竹中藤兵衛も伊藤蘭丸も厳しい信長様に仕えるのに疲れ宮大工や呉服商に転身したと言うのです。

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名古屋の「いとう屋」といえば、のちの「松坂屋」としてつとに名高いが、江戸時代には尾張藩御用達商人として藩財政に関わり、明治維新後は公金を取り扱い、伊藤銀行、東海銀行を経て、現在の「三菱UFJ銀行」に至っている。

もともとは、信長の小姓であった伊藤祐広の子が商人司を命じられたが、信長死後、家康より清須から名古屋への集団移住を命じられ、かの地で呉服小間物商「いとう屋」を創業したのが始まりである。強制移動させられた仲間うちには、後年、竹中工務店を興す竹中藤兵衛正高もいた。

その後「いとう屋」は地道な商いが功を奏し、元文5年(1740年)には 尾張藩の呉服御用となり、明和5年(1768年)、ついに江戸へ進出するまでになった。

いとう屋が松坂屋を買収

話しが変わるが、ちょうどこの頃、「江戸名物は伊勢屋、稲荷に犬の糞」と揶揄されたほど、江戸には伊勢屋を名乗る店が多かった。当時、伊勢屋はブランド化していたため、伊勢出身でない商人もこの屋号を利用したようである。

とくに伊勢は高級生地である木綿の生産地であったため、越後屋(のちの三越)など呉服店を出店するものが多かった。

4年(1707年)のこと、伊勢松坂の商人・太田利兵衛も江戸上野に呉服店を開業し、松坂屋を名乗った。ところが明和5年(1768年)、3代目のとき、事情で松坂屋は身売りせざるを得なくなり、江戸に進出したばかりの「いとう屋」に買収されることとなった。

このとき「いとう屋」のとった選択が、江戸市中で話題となった。通常、買収した場合、買われた側の名は消し去るのが常である。

ところが「いとう屋」は買収した相手の屋号を採り入れ、「いとう松坂屋」(大正時代、松坂屋となる)を名乗ることにした。

江戸に出てきたばかりの自分より、市中に知れ渡っている松坂屋の屋号を利用するほうが得策と判断したのであろう。家門を重んじる武家ではありえない発想である。

「いとう屋」は武家の出ではあるが、150年の年月を経て、すっかり商人の頭になっていたといえる。


 全文の引用は申し訳ないのでここまでとします。

 司馬遼太郎も、この話は竹中工務店か松坂屋か(若しくは地元郷土史会辺り)から聴き込んだ話でしょうが、今でも、松坂屋の建物は竹中工務店が請け、竹中のお歳暮などは必ず、松坂屋から調達すると言う慣行が生きていると言うのです。まさに500年も続く関係だと言うのです。

 このため、更に永い関係になるのですが、阿部一族と狭間氏との関係もと考えたのは思考の冒険と言うより暴走に成りますが、少し考えたいと思うのです。

 信長の人使いの荒さは時代劇では頻繁に描かれますが、それは豊臣、徳川がそう取られることを考え描いた可能性も在り、そのまま真に受けるべきではないでしょうが、普請奉行は作事方も同様の重役であり、それを辞めると言うのは余程辛かったとまでは言えそうです。

この話はここまでとし、そうした例も有りえるのです。

 ここからアンドウ間建設、ハザマ安藤建設の話に変ります。


安東一族とは何か?


AIによる概要 (「津軽 安東一族」で検索)

津軽安東一族(津軽安藤氏)は、前九年の役で敗れた安倍貞任の子・高星丸が津軽に逃れ、藤崎に本拠を置いて興した豪族で、鎌倉時代には北条氏の代官として津軽を支配、蝦夷(北海道)の統括も担いました。その後、津軽から秋田・檜山(湊安東氏と檜山安東氏に分裂・統合)へ勢力を移し、安東愛季の代に全盛期を迎えますが、江戸時代には秋田氏と改名し、所領を転封されて戦国大名としての独立は終焉を迎えます。

起源と津軽時代(鎌倉〜室町中期)

発祥: 平安末期、「前九年の役」で敗れた安倍貞任の次男・高星が津軽地方(現在の藤崎町周辺)に落ち延び、安東氏を名乗ったのが始まりとされます。

支配: 鎌倉時代には北条氏の代官として津軽を支配し、津軽半島の十三湊(とさみなと)を拠点に、蝦夷地の統括も行いました。

名称: この時期は「安藤氏」と表記されることが多いです。

南北: 津軽を根拠とする「下国家(津軽安藤氏)」と、出羽(秋田)に拠点を移した「上国家(湊安東氏)」に分かれました。


 特に九州の方達には、津軽の安東氏などと言っても一部の九州王朝論者の方々を除いて殆どお分かり頂けないでしょうが、権力を握った藤原氏(阿蘇系の多氏、宇治氏)は、九州王朝の大彦の血を引く奥州藤原氏を潰そうとして、配下に組み入れた後漢の霊帝(阿智王の一族)の末裔の坂上氏を派遣し、自らは手を汚さず奥州金と領土を得ようとしたと考えられるのです。

 前九年〜後三年の政治的激変の結果、


AIによる概要 (「前九年・後三年の役」で検索)

「前九年・後三年の役」とは、平安時代後期(11世紀)に東北地方で起きた二つの大規模な合戦で、前九年の役(1051-1062年頃)と後三年の役(1083-1087年頃)を指し、源義家が活躍し、奥州藤原氏の台頭のきっかけとなった戦いです。これら二つの合戦は、朝廷の支配下にあった東北の豪族(安倍氏、清原氏)と、源氏(源頼義・義家)が関与し、最終的に奥羽の支配権が奥州藤原氏へと移り変わる重要な歴史的転換点となりました。

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上図は謎の一族安東(安藤)氏の平安以降の変遷が垣間見えるものですが、消えた氏族の事多くの説が出あり、はっきりしないのです。ただ、安東姓を名乗る氏族が北海道南部、秋田の八郎潟に残っており、恐らく船を操る一族の末裔を感じさせるのです。

 何れにせよ、身延山の一帯にいた南部氏が岩手の北半から青森の東半部に東北の阿部氏の後裔としての安東氏も歴史の翻弄に揺れたことが分かるのです。

 以前から、九州王朝論者の内部でも東北の阿部氏は船を操り日本海航路を南北に移動し交易を行っていた人々の後裔と考えている人々があり、私もその端くれなのですが、そもそも岩手に菊池(菊地姓がここでは多いようですが)氏があるだけでも九州からの移動ではないかと考えて来たのでした。

 そもそも、正月の初詣でも九州では二番目の参拝者がある宮地嶽神社の4代前までは代々阿倍家(現在は櫛田神社)でしたし(一位は太宰府天満宮)、現在でも阿部家の本家は大分県に在るのです。

そもそも東北の安倍氏は大彦の末裔と言われており(以下AI様)、流石の通説派も嘘をつく訳にはいかなかったのです。


AIによる概要

安倍氏と大彦命(おおひこのみこと)は、大彦命が「安倍氏(阿倍臣など)」の祖とされ、日本の古代史における有力氏族の源流です。大彦命は第8代孝元天皇の皇子で、崇神天皇の時代に北陸方面へ派遣された「四道将軍」の一人として知られ、その子孫は各地に広がり、特に伊賀国「阿拝(あへ)」に住んで「阿拝氏」「安倍氏」などを名乗るようになりました。

大彦命について

出自: 孝元天皇と鬱色謎命(うつしこめのみこと)の第一皇子。

役割: 崇神天皇の命を受け、北陸地方の平定(征討)に向かった「四道将軍」の一人。

功績: 大和朝廷の支配権を全国に広げる上で、北陸での基盤確立に貢献。

子孫: 阿倍臣、阿閉臣、膳臣、越国造など多くの氏族の祖。特に伊賀国阿拝郡を本拠地とし、これが「安倍氏」の起源の一つ。

安倍氏との関係

系譜: 大彦命を始祖とする皇別氏族であり、その子孫は東北地方の豪族(奥州安倍氏)、陰陽道で有名な安倍晴明(土御門家)など多岐にわたる。…以下略載

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無題.png我が百嶋神社考古学に於いても、安倍氏は藤原が第9代とした開化天皇(后は仲哀死後の神功皇后)の腹違いの兄とします(上図 通称「金神系譜」)。


出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 202601210840


歌川国芳『日本百将伝』より大彦命の想像図

大彦命(おおひこのみこと[1]/おおびこのみこと[2]、生没年不詳)は、記紀等に伝わる古代日本皇族。『日本書紀』では「大彦命」、『古事記』では「大毘古命」と表記される。また稲荷山古墳出土鉄剣の銘文に見える「意富比垝」に比定する説がある。第8孝元天皇の第1皇子で、第11垂仁天皇外祖父である。また、阿倍臣(阿倍氏)を始めとする諸氏族の祖。四道将軍1人で、北陸に派遣されたという。


 この間、10年近く続けている秋の甲信越の神社調査(1ケ月)ですが、そろそろ終わり、今年から福島に入るつもりです。

 無題.pngその最初に会津に入りますがテーマは大彦の足跡を探るです。

 単純に現在の阿部氏が安倍、安東氏に繋がるかどうかは今後の課題ですがテーマは四道将軍です。

始めに、今回ゼネコンの安藤ハザマに拘った理由を御示します。

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偶然で調整中ですが、3月に古代安倍氏の研究者である 阿部貞隆氏無題.pngご講演頂く事にしています。

 同氏は2月に当会の提携団体佐賀県伊万里「松浦党研究会」後継会で講演のため3月に致します。

日 時:2026315日(日)13:00〜(会場確保済みです)

会 場:福岡県筑紫野市二日市南1丁目93生涯学習センター

テーマ:「安倍一族とは何か」再考(仮案)講演者:阿部 貞隆(大分市)建築家、建築会社社長 著書「豊後阿部氏の伝承」の外に「陸奥安部氏累代の古文書が語る逆説前九年合戦史」


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AIによる概要 「間組

間組の創業者は間猛馬(はざま たけうま)で、明治22年(1889年)に福岡県門司で鉄道土木請負業として創業しました。鉄道建設で技術を習得し、九州鉄道の工事を請け負って事業を軌道に乗せ、「ダムのハザマ」としてダム建設でも有名になり、後の安藤・間(現・安藤ハザマ)の源流となりました。


AIによる概要 安藤組

「安藤建設」と「安藤組」は、

元々は同じ「安藤組」という建設会社でしたが、別の「安藤組」(安藤昇氏が率いた)と混同しないように安藤建設(現:安藤ハザマ)と、株式会社安藤(元「安藤組」)のように別々の会社に分かれ、さらに安藤ハザマは旧安藤建設と旧ハザマが合併した経緯があり、複数の「安藤組」または「安藤」を名乗る建設関連会社が存在します。


安藤組、安藤建設に関しては非常に分かり難くこのAIの二つを見るだけでも注意を要します。

ただ、ここで取り上げるのはそういったゼネコン絡みの話ではありませんので、これ以上の追及には関心は有りません。

この話を取り上げたのは、その背後に間組と安藤組との間に何らかの古代にまで遡る関係が在ったとしたら面白いなあ…という思いから正月の初夢の様に仕立てて見た言わば余興とお考え下さい。

 それ以上の意味は有りません。

 ただ、もし、それが正しいとしたら、我々が考えている九州王朝の最盛期に王権を支配した第9代開化天皇(=高良玉垂命)と仲哀死後の神功皇后との間に生れた長子の仁徳天皇(オオササギノミコト)=久留米ではシレカシノミコトと呼ばれているのです。

 その父である開化天皇の腹違いの兄こそ安倍氏の祖であり、「日本書紀」にも四道将軍として日本海ルートで新潟県の柏崎刈羽辺りで上陸し魚沼市から福島に入り、太平洋ルートで進出した崇神の息子と会津で合流しているのです(日本海ルートを北上した四道将軍の大彦)。

 その際に、東北の現地に残留した人々こそが九州でも豊の国(大分)から進出した安倍氏だったのではないかと考えたいのです。

 まあこういった話は近畿大和こそ日本の中心であり、それ以外は邪説としか考えない方々は何も理解することなく消え去って頂ければ良いだけの事なのです。

 無題.png一方、大彦の後裔が安倍氏であり、本願地を大分市に置いていたという事は間違いないと考えていますが、間組、間建設のルーツも、もしかしたら現由布市の狭間町に盤踞した狭間氏だったら面白いと考えた訳です。

 間建設(間組)の創始者 間 猛馬は土佐藩氏との事ですが、明治の初めに九州(福岡県北九州市辺り)で創業とすれば、旧狭間町と関係があってもおかしくはないでしょうが、家紋は横木瓜らしいのです。これも高良大社の裏紋ですし、大分の間氏、狭間氏が大伴氏配下になっている事とも対応するのです。

 豊後の大伴氏(菅公も母方は伴の女とされています…)は、金山彦系の本家とカミムスビ系の博多の大幡主の一族との間に生れた一族だったからです。その流れがそのまま間猛馬氏に繋がる無題.pngかは不明です。間猛馬氏が元は土佐藩士と言われている事から柞原街道を抜け、臼杵、佐賀関、大分市に入り、北九州に入っているとすれば、狭間を知らなかったとは考え難く、阿部、安藤の一族も知っていたと思いますので、安倍氏と狭間氏とが隣接している関係も理解できる立場にあったと思うのです。改めて、トンネル工事の安藤とダム工事で知られる間組の合体は、勝手ながら古代を感じさせるかなり面白い話でした。 今やダムを造る場所が無くなっており、トンネル工事が主力にも成りつつ在りますが、老朽ダムの撤去、改修工事の需要も造られる事でしょう。拙著、「有明海異変」にも“税金のダム遣い”との一章を書きましたが…今後は自然を守る方向で技術を高めて欲しいものです。編集上、ここで切り、続編に繋ぐ事に致します。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記