2020年01月17日

ビアヘロ 116「宮原誠一の神社見聞牒」からD “熊鹿文・熊津彦は大幡主・金印王ではないか?”

ビアヘロ 116「宮原誠一の神社見聞牒」からD 熊鹿文・熊津彦は大幡主・金印王ではないか?”

                                                                      20191128

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 メンバーの宮原誠一氏による「宮原誠一の神社見聞牒」にかなり重要な論文が連続して掲載されています。ご好意により全文を転載させて頂く事になりました。

 我々は九州王朝論者のほんの一角に存在しているだけの存在ですが、唯一、一般の九州王朝論者と異なる事があります。

戦前の国家神道化による反省からか戦後の古代史研究の主軸とされた海外史書+穴掘り考古学でした。

しかし、その手法に対する深い疑問から九州王朝の現場である九州島に残された多くの痕跡を辿る事から再度光を当て神社探訪を行ってきました。荒唐無稽な話として無視され続けてきた神社研究ですが、それが大きな展開を見せ始めました。そのきっかけとなったのが当時福岡市中央区唐人町にお住まいだった80代の故)百嶋由一郎氏でした。先生の話は始めはそれこそチンプンカンプンでしたが、その細い糸を繋ぎ繋ぎ、勿論、ブロガーばかりではないのですが、現在、数十枚の神代系譜と講演録をベースに全国で30名近い研究者が日夜ブログを書き、全体では控えめに見ても年間200300万件のアクセスを得ているものと思われます。当方だけでも、3ブログ[ひぼろぎ逍遥+ひぼろぎ逍遥(跡宮)+新ひぼろぎ逍遥]で年間60万件を超えています。

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これはひぼろぎ逍遥(跡宮)の11月実績ですが、日量平均アクセスは1000件を超えこれだけで年間40万件、他の二ブログと併せ日量1,500件程度(年間60万件)のアクセスとなっています。いつかは百万件超えを目指していますが、百嶋神社考古学の影響を受けたブログは、

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となっています。2020年度も宜しくお願いしたいと思っております。          (古川)

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No.127 熊鹿文・熊津彦は大幡主・金印王ではないか?             2019-11-11 11:00:00

宮原誠一の神社見聞牒(127)
令和元年(2019)1103
令和元年(2019)1111

No.127 熊鹿文・熊津彦は大幡主・金印王ではないか?


「松野連<倭王>系図」の系図の流れ(親子兄弟関係)、注記はあてになりませんが、記載される名前は信頼できるようです。この系図は、呉の太伯王家姫氏白川伯王家(大幡主)
阿蘇家多氏が"ごっちゃ"になって記載されているのではないかと思うのです。


<倭王>系図
この系図には、歴代系統の名前ばかりで、細かい事蹟は記されていないが、鈴木真年の考証注記かと思われるものが付記されている。左側の()内は、鈴本真年による注記と思われる。()
系図原本は『日本書記』作成に使用された後、大和朝廷に都合の悪い系図は召し上げられたまま、返還されなかったのではあるまいか。従って提出当時に写本を作る余裕もなかった倭王遺族としては、不確かな記憶を頼りに、『松野連〈倭王〉系図』を再調製したものと思われる。これが、点在する名前洩れや時代錯誤した事蹟傍注の原因になっているのではあるまいか。


平野雅廣氏著『倭国史談』


あまり当てにならない系図と思いきや、熊鹿文(くまかや 熊津彦)について以外な記載がなされています。
「松野連<倭王>系図」で熊鹿文(熊津彦)の注記では「後漢光武中元二年正月私通漢土受印綬
僭称委奴國王」と、鈴木真年の記載があります。
宇閇王(うえおう)の注記では「後漢光武帝中元二年正月貢献使人自称大夫賜以印綬」とあります。


後漢書』倭伝(范曄<はんよう 398-445>編集) では、
 「建武中元二年 倭奴国奉貢朝賀 使人自称大夫 倭国之極南界也 光武賜以印綬」
 ()建武中元二年(57)、倭奴国が奉貢朝賀す。使人は自ら大夫を称す。
 倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす。
とあり、武中元二年(57)、倭奴国が奉貢朝賀し、「漢委奴國王」の金印を光武帝から印綬されたことになっています。
その倭国王が宇閇王(うえおう)であると、前回で私は見たのでした。


しかし、「松野連<倭王>系図」で熊鹿文(熊津彦)の注記では、熊津彦が「委奴國王」を僭称して、光武帝に私通漢土して印綬した、とあるのです。
つまり、熊津彦は委奴國王と成り済まし皇帝に朝貢して金印を受けているのです。
「委奴國王」は「いと国王」とも「わのな国王」とも読めます。
実は、記録には現れませんが、那()国の王様・大幡主は子息・豊玉彦を使者に密かに朝貢しているのです。それが私通漢土という表現なのでしょうか。
そして、使者の豊玉彦は「中郎将」の称号を受け、日本では「中将」様と呼ばれているのです。使者の豊玉彦は明確な国王の名称を誤魔化すために、どのような解釈でもとれる国王名を使用したと推測します。つまり、「委奴國王」は「わのな国王」とも「いと国王」ともとれるのです。このことが、「倭奴國王」「倭國王」の表記の混乱の原因かもしれません。

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金印「漢委奴國王」
          大幡主が受けたとみられる金印
「漢の倭の奴国王」

松野連<倭王>系図の流れ、代々の親子関係等あまり信頼できませんが、大幡主の年代は倭面土國王師升の時代と重なり、光武帝の時代ではありません。
熊津彦こと大幡主は倭の奴国王として、金印の「漢委奴國王」を僭称して、印綬したのではないでしょうか。その金印が、現存する大幡主が受けた金印「漢委奴國王」となるのです。公的に倭国王は存在しても、奴国王は存在しないのです。
大幡主の時代は、倭面土國王帥升が朝貢した安帝の時代となりますが、帥升は金印を印綬されていません。
現存する金印「漢委奴國王」は豊玉彦を使者に「委奴國王」を僭称して、大幡主が印綬された金印となります。
後漢書が正しいのか、大幡主が倭国王帥升を僭称されて金印を印綬されたのか、真実はわかりません。
そして、鈴木真年は記録には現れない「那()国王・大幡主は子息・豊玉彦を使者に『委奴國王』を僭称して密かに朝貢した」ことを知っていたことになります。

すると、光武帝から印綬された球磨の宇閇王への金印は「漢倭國王」ということになります。この金印は、ヒミコの金印「親魏倭王」と同様に、未だ見つかっていないことになります。宇閇王の金印「漢倭國王」は球磨の神殿原に収蔵されていたのかもしれません。倭国に金印が三個印綬されたのか?金印の偽造説も含めて謎だらけです。


それで、松野連<倭王>系図の熊鹿文=熊津彦は大幡主ではないかと思えるのです。現在使用される熊本県の「熊」は、本来は「隈」でした。大幡主ご一統が造られた村は「○隈」と称することが多く、代表に、福岡市の「七隈」、嘉麻市の「大隈」等があります。
大幡主は「隈王」、さらには「球磨王」と呼ばれたのではないかと推察するのです。
(
「熊」の字は「隈」「球磨」を貶めた字とみます)
また、松野連<倭王>系図に熊津彦と難升米の親子の記載があります。

ヒミコの朝貢の折、難升米(ょう)は「中郎将」の称号を受けており、この関係は大幡主(熊津彦)・豊玉彦(中将)親子関係に相当します。帥升、ヒミコ、大幡主、豊玉彦は同時代の人であり、この関係から難升米は豊玉彦に相当することになります? 松野連<倭王>系図が正しいとした話です。

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松野連<倭王>系図(平野雅廣氏著『倭国史談』)


熊本県球磨地方では、太伯王家姫氏と白川伯王家の大幡主は共存された時期があったと推察するのです。それが、「松野連<倭王>系図」では"ごっちゃ"になって記載される原因となったのではないでしょうか。

  (球磨)鹿文=熊(球磨)津彦=大幡主=隈王=球磨王

熊野神社祭神の「大幡主」は尊称であり、本当の名前(諱 いみな)、その他の尊称がひとつも見あたりません。もしかしたら、大幡主の名前は「隈津彦」「球磨津彦」かもしれません。
「熊野神社」の名称も「熊の神社」「隈の神社」「隈王神社」が基底にあったのでしょう。

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須玖岡本遺跡の王墓の上石を一旦移したすぐ近くの熊野神社の境内

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奴国の丘歴史資料館敷地に移された須玖岡本遺跡の王墓の上石1999(平成11)

春日市奴国の丘歴史資料館パンフ資料1999(平成11) 福岡県春日市岡本3丁目57

メンバーの宮原誠一氏による「宮原誠一の神社見聞牒」を継続してお読みください。


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須玖・岡本遺跡/須玖岡本遺跡 弥生/奈良 福岡県春日市岡本町5丁目・2-929596.


百嶋神社考古学に関する資料を必要とされる方は09062983254までご連絡ください。

百嶋由一郎氏による講演録音声CD、神代系譜スキャニングDVD、手書き資料スキャニングDVDほか
posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ

2020年01月16日

ビアヘロ 115「宮原誠一の神社見聞牒」からC 下 “金印の委奴國王と面土國王帥升と球磨郡あさぎり町”

ビアヘロ 115「宮原誠一の神社見聞牒」からC 下 金印の委奴國王と面土國王帥升と球磨郡あさぎり町”

                                                                      20191127

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 メンバーの宮原誠一氏による「宮原誠一の神社見聞牒」にかなり重要な論文が連続して掲載されています。ご好意により全文を転載させて頂く事になりました。

 宮原誠一氏は筑後地方を中心(久留米市の高良大社を軸)に40年間以上に亘って神社研究を続けて来られました。現在、「邪馬台国」研究者などと嘯く人々の大半が戦後の風潮によって神社研究を荒唐無稽なものとして事実上無視しています。海外の史書+穴掘り考古学こそ戦後の科学的古代史の手法とでも錯覚されたのでしょうが、これとても京都学派と解放同盟の利権構造によって纏向遺跡が卑弥呼の墓などと言ったデマが平然と流されているのですからそれにそのまま便乗するとしたら全く意味がないのです。

 現在、穴掘り考古学に精通し最も熱心で活発な活動を続けてこられた元朝日新聞記者でミネルヴァ書房などから4著を公刊された内倉武久氏も当方のグループとのブログのリンクを張っておられます。

今回はこの「松野連系図」がテーマになっていますが、これを初期段階から研究し世に出された同氏もつい最近福岡市を中心とする似非九州王朝論者の○○古代史の会を見限り離脱されたと聞き及んでいます。

 自らは現場に足を運ぶこともなく、ただただ他人の研究を拝聴して分かったような気になっているだけの団体は何の成果もなくいずれ歴史の屑籠に放り込まれるだけなのです。           (古川)

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宮原誠一の神社見聞牒(126)
令和元年(2019)1028

No.126 金印の委奴國王と面土國王帥升と球磨郡あさぎり町


4.熊本県球磨郡あさぎり町上(うえ)北の神殿原


あさぎり町本町を中心に北・東が旧免田村、南が旧上村(うえむら)、東が旧岡原村(おかはる)になります。その旧三村の接点部に「神殿原 こうどんばる」があります。
字のごとく神殿が建つ丘です。どの大王時代の「神殿」であるか分かりません。
大王の住居地としては平地にありますので、戦術的防御からみて不適です。むしろ「委奴国 いとこく」の中心部の象徴として神殿があったのかもしれません。誰を祀った神殿かは不明です。
金印は委奴国王が賜綬されたもので、代々、倭王が引き継ぐもので、墳墓の副葬品にされたとは思えません。後世、金印はこの神殿原の神殿に奉安されたのかもしれません。
実はこの地域を金印に絡む調査が明治の初期に密かになされている可能性があるのです。


「ひろっぷ」さんからお聞きした話 2019-01-28
免田(面田)と上村の境に「木原」があります。
神殿原の中の地名です。つまり神殿原の姫原(木原)となります。現在、南陵高校が建っている場所の前辺りです。殿原開拓社の話をブログに書いていたのですが
(https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12399572697.html)
この神殿原開拓団の本来の目的は、私はおそらく開拓だけではなく遺跡発掘にあったと思っています。相良藩時代には神殿原は全くの原野。手を触れる事を避けていたかのようです。
「何も見つからなかった」・・の話は本当はどうなのか・・?
その後の神殿原開拓社のメンバーの尋常でない出世・・凄く不思議です。
特に「宗像 政(むなかた ただす)」氏
嘉永712(1854130) - 大正7(1918年)27日)
日本の政治家、官僚。衆議院議員および貴族院議員、県知事。別名、田村 政。
※埼玉・青森・福井・宮城・高知・広島県知事を歴任。
1912
(大正元年)東京府知事を任ぜられる。
1918
(大正7年)27日貴族院議員(勅撰議員)となる。
さらに、「田中賢道」氏
閔妃(ミンビ)暗殺事件の首謀者の一人。
岡原村史には、田中賢道の戸籍は最期まで岡原村にあった事は記録にとどめておかねばならない、と書かれていました。熊本市生まれにも関わらず生涯本籍を岡原村から動かさなかった理由は・・?


神殿原開拓社が開拓した土地に「木原(姫原)」が含まれていた事はとても重要な意味を持つのではないでしょうか…


「姫原 ひめはる」は「姫氏天皇家(王家)の丘」という意味で、王家の住まいです。
「神殿原」の中の「姫原」という地名は重要です。姫氏天皇家(倭王)を象徴する地域と考えます。
神殿原地域は球磨盆地の中央にあり平地です。明治期まで耕作地として使用されていない、人手が入っていない原野のままで放置? されてきた。
それは、やはり、球磨の人達は、この地が古代からの神聖な土地として意識され伝承されてきたからではないでしょうか。
 神殿原開拓社の調査は、古代の委奴国の何らかの手掛かり掴めたのではないか。
その内容は、現在の日本の古代史を根底から覆すもので、厳重に秘密にされた。
出世した開拓社の主だった人達は、金印の何かを知っておられる。しかし、それは硬く口封じられている、と思うのです。

5.あさぎり町免田の才園古墳の鎏金獣帯鏡と遺跡


あさぎり町免田西に岡留熊野座神社が鎮座ですが、その西に才園古墳(さいぞんこふん)遺跡があります。その副葬品で目を引くものが、金メッキ(鍍金)された鎏金(りゅうきん)獣帯鏡です。
中国の鏡の研究者である王士倫氏によると、三国志時代(3世紀)に中国の江南地方(呉の領域)でつくられたものという。鍍金鏡は中国でもたいへん貴重なもので、日本では3枚しか出土していない。(福岡県糸島市の一貴山銚子塚古墳、岐阜県大野町の城塚古墳)
 
      鍍金鏡「鎏金獣帯鏡」熊本県球磨郡あさぎり町 才園古墳出土

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鎏金獣帯鏡(金神獣鏡)
直径11.7cm、厚さ3mm 青銅鏡(白銅鏡)の背面全体に分厚く鍍金
1938
年出土
外側の文字「吾作明竟幽凍三商彫刻無極■大吉羊宜侯王家富昌師百■楽衆神見容命長」
簡訳「われ明鏡を作り、三商を幽凍し、極悪なく、大吉祥よろしく、王家さかえ、衆は楽しみ、神を見、姿命長し」
  ひろっぷ「古代・中世・近世の繋がり 先祖について」
  『球磨 あさぎり町の遺跡からの出土品』2017-09-25 参照
  
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12313557213.html


日本では3枚しか出土していない鍍金の鏡
 熊本県球磨郡あさぎり町免田西(永才)1248:才園古墳
 福岡県糸島市二丈田中:一貴山銚子塚古墳
 岐阜県揖斐郡大野町野:城塚古墳

鍍金された鎏金(りゅうきん)獣帯鏡の出土は、あさぎり町と福岡県糸島市との繋がりを思わせます。また、免田式土器は福岡県糸島の三雲南小路遺跡(細石神社の西隣)でも出土しています。
あさぎり町と福岡県糸島市との繋がりは明らかであり、委奴國と面土國と魏志倭人伝の伊都国は繋がります。

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深田出土の免田式土器(あさぎり町深田西 明廿) あさぎり町HPから
深田公民館せきれい館で展示
(
)胴部最大径20.0cmの重弧文長径壷で、弥生時代後期と製作と推定。
胴部に凹線文、重弧文あり優美な姿である。
(
)口径8.4cm、高さ40cm、胴部最大径30cmで弥生時代後期の重弧文土器。
胴部に凹線文、ボタン状貼付文、竹管文、重弧文、刻目文が施されている。


福岡県の「遺跡調査機関」への球磨郡あさぎり町の「ひろっぷ」さんの思いです。


細石神社と免田式土器
細石神社周辺と球磨は関わりがあります。私のブログ『球磨弁とヘブライ語』で触れたのですが
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12410694963.html
免田式土器は九州北部では出土例が少ないと言われていますが、その少ない出土遺跡とは九州北部の免田式土器出土遺跡
福岡県
 三雲遺跡(糸島市三雲 細石神社の西隣)
 安国寺遺跡(久留米市)
 亀の甲遺跡(八女市亀甲)
 甘木山遺跡(大牟田市甘木) 他
佐賀県
 二塚山遺跡(三養基郡上峰町)
 みやき遺跡(武雄市橘町綿の木) です。
ちなみに、福岡県の「遺跡調査機関」では九州北部では出土例が少ないと言われている免田式土器が三雲遺跡で発見されていた事を重要視されていない・・と言うか、触れようとはされていないような気が私は以前からしておりました・・・
                                 ひろっぷ 2019-10-23


現代の考古学者、特に、近畿を古代列島の中心と考える学者さんは、意識的に古代の九州の歴史を歪曲し、無理に「古代列島の中心は近畿」と呪縛されておられるのではないか。私は機会ある毎に申します。


「日本の古代史は、熊本県球磨の古代史がスッポリ抜け落ちています。球磨の古代史が明らかにならなければ、日本の古代史は正確ではありません。」

参考資料 松野連<倭王>系図

平野雅廣氏著『倭国史談』200088日 熊本日日新聞

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備考 名前、住居など以外、左側の()内は、鈴本真年による注記と思われる。
     本系図については、尾池誠著「埋もれた古代氏族系図」参照


松野連<倭王>系図


「松野連<倭王>系図」は、幕末から明治時代にかけて、古代氏族の系譜収集に生涯を費した在野の研究家、鈴木真年の厖大な集成本中の一つである(ただし草稿写本)。
この系図には、歴代系統の名前ばかりで、細かい事蹟は記されていないが、鈴木真年の考証注記かと思われるものが付記されている。地名など一部は、あるいは原本のままかもしれないが、これについて、論考『埋もれた古代氏族系図』の著者、尾池誠氏は、次のように書いている。


私はかなり早い時期に既に名前のみの系図になっていたのではないかと推理する。『日本書記』を編纂するにあたって、編者は主な氏族譜や記録を資料として用いた。当然松野連の『倭王系図』も「景行紀」において採用された。それは「態襲」の「謀叛」として、厚鹿文・?鹿文・市乾鹿文・市鹿文・取石鹿文などを登場させたものだった。『日本書記』完成後に松野連が見たものは、当然伝世の歴代倭王の事蹟とはおよそかけはなれたものだったであろう。
かつての倭王の事蹟が、大倭朝廷に対して、はばかられるべきものであることを考慮して、倭の五王の事蹟をはじめとする伝来のほとんどの記録の抹消を余儀なくされたことであろう。このため「牛慈」が服降したという以前は、歴代名のみという極めて特異な系図と化してしまったのである。・・・


松野氏の居所分布についてみると、二代目の「順」は委奴に居す、とあり、肥後から筑紫へ移った分家の存在がある。
国会図書館所蔵系図には、「呉王夫差の支庶忌(字は慶父)、孝昭天皇三年(前四七三)来朝して火国菊池郡山門に住す」とある。後代の「宇也鹿文(別名、鬼毛理)」の傍注には、「火国菊池評山門里住、永初元年十月通漢」とあるので(静嘉堂文庫所蔵系図)、本家は続いて肥後にあったものと考えられる。
(
中略)
私の手許にあるのは二通りの系図写本であるが、主として始めの部分に世代数の差、名前の違いが見られるゆえ、もともと別の二系統の系図があったのではないかと考えられ、それが後世のある時期において、一つのものに統合されたものではないかとも推察される。
私の考えでは、系図原本は『日本書記』作成に使用された後、大和朝廷に都合の悪い系図は召し上げられたまま、返還されなかったのではあるまいか。従って提出当時に写本を作る余裕もなかった倭王遺族としては、不確かな記憶を頼りに、『松野連〈倭王〉系図』を再調製したものと思われる。これが、点在する名前洩れや時代錯誤した事蹟傍注の原因になっているのではあるまいか。
例えば、卑弥呼や壹与などの比定が果たして確実か疑わしいものがあるし、事蹟についても、第一系図の宇閇「後漢光武帝中元二年正月貢献(57)」や、玖志加也「永初元年十月貢献(107)」の後の刀良の傍注が「宣帝時遣使礼漢(地節7年、前68)」と、年代順が混乱している。
また、第二系図の迮鹿文には、「景行十二年熊襲梟帥也」(82)としている横に、「新羅阿達羅尼師今廿年遣使」(173)と並べている。これは卑弥呼の最初の遣使の年で、『三国史記』にも出ているが、成務天皇43年に当たるのである。
景行紀に出る市鹿文は、女性で、「火国造」を賜ったとあるが、傍注に、「魏正始八年立為王、景初二年貢奉、被称壱歟」とある。壱与が王となったのは13歳の時で(247)、景初二年(238)卑弥呼の朝貢と混記している。
第一系図に卑弥鹿文がいるが、これが卑弥呼ではあるまいか。「鹿文」は尊称と思われるが、これの付いた名が十数名もあるからだ。
彼女の死後、宗女壱与が王位に就いたが、第二系図の市鹿文がそれで、第二系図が宗家で肥後にあり、第一が分家で筑紫にあったものであろうか。それが交替で王位に就き、後で、一本になったものであろう。
日本武尊に殺された川上梟帥(取石鹿文)は、第一・第二系図に重複している。

また、第二系図の宇也鹿文は、火国菊池に住むとあり、「永初元年十月通漢」の注があるが、『後漢書』の同年(107)に朝貢した倭国王帥升と同一人物であろう。ただし、第一系図の玖志加也(加志古)にも同様の注があるので、やはり重複であろう。
第一の宇閇と第二の態鹿文にも同じく、「後漢光武帝の中元二年正月貢献、印綬を受けた」旨の注記があるが、志賀島の金印のことであることは明らかである。
両方の系図に、名前が異なるのに同じ事件の注が付いているということは、肥後と筑紫双方の後継者それぞれが、お互い相談する機会もなく、不確実な記憶によって注記した結果ではあるまいか。
私の手許にあるのは、系図再製以後江戸期まで、子孫代々書き継いで来た原本を基に、鈴木真年が手を入れた写本原稿(そのコピー)と考えられる。傍注にある「国・評・里」と「国・郡」制による住所の混記から察すると、原本の成立は『日本書記』に成立からあまり下らぬ時期に、傍注を伴ったものが一応出来ていたのではないだろうか。鈴木がことさら「郡」と「評」とを後年において別記することはあり得ないと思うからである。
考えるに、この系図には前記に指摘したいくつかの欠点は認められるものの、「日本書記」態襲征伐記事に見る名称や、中国史書に現われる倭の五王との名前の一致からして、無視することのできないものがある。
(
以下略
)

鈴木真年 略歴
天保2(1831)江戸神田鎌倉河岸で出生。
幼名房太郎のち今井源太郎、また真年と改める。竹亭また不存と号す。源牟知良と改名、新田愛氏と号す。俳号・松柏。
栗原信充に入門。主に系譜学を学ぶ。紀州藩士となり、系譜編纂事業に任ず。
明治政府の弾正台勤務。司法省へ転じ、文部省図書館員を兼務。参謀本部編纂課へ転出。東京地学協会社員。山縣有朋・田中光顕邸で『古事記』講義を続け、交詢社名誉会員。
帝国大学で『大日本編年史』編纂に従事。晩年主として系譜編纂に従事し、傍ら態野神社を中心として、国学校の設立に尽力。明治27(1894)没、64才。


百嶋神社考古学に関する資料を必要とされる方は09062983254までご連絡ください。

百嶋由一郎氏による講演録音声CD、神代系譜スキャニングDVD、手書き資料スキャニングDVDほか
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2020年01月15日

676 何度も足を運んでいる宗像大社ですが… B “神湊の津加計志宮に大国主命の痕跡を探る”

676 何度も足を運んでいる宗像大社ですが… B “神湊の津加計志宮に大国主命の痕跡を探る”

                                     20181024

太宰府地名研究会 古川 清久


 宗像大社の東側を北に流れ玄海灘に注ぐ釣川の河口、宗像大社の中津宮が鎮座する宗像大島へのフェリーの出船場にもほど近い所に 津加計志宮 (津加計志神社)があります。

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思えば、津加計志宮についてはこれまで何度か目にしていたものの、放置していただけに恥ずかしい限りでしたが、やはり、最低でも地元の町誌程度には目を通しておくべきでした。

出典は旧玄海町の教育委員会が編纂していた「神湊・江口の史話と伝説」(吉武謹一)です。

幸いに地元在住のひぼろぎ逍遥の読者からご紹介を頂き、以下、その全文を掲載させて頂きました。

お読み頂ければ分かりますが、宗像大社のお膝元としか言いようのないこの神社には、大国主の八世の孫とされる阿多賀多須命大国主命のお妃のお一人のタゴリヒメ(百嶋神社考古学では豊玉姫)が祀られているのです。

このことによって、直ちに宗像大社を云々できるとは思いませんが、宗像の一族がどのような流れの方々であったのかが多少とも見えてきた様なのです。

それは、まず、全文をお読み頂いてからにしましょう。きっと宗像大社の謎を解く一端が見えてくるのではないかと思います。

実は、福津市と宗像市には大国主を祀る神社が数社あります。福津市の楯崎神社と宗像市(岡垣町手野)の大国主神社です。ご紹介は次に回すとして、ここでは以下をお読み頂きます。

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宗像三女神について以前から気になっていた事があります。

 それは、九州の西岸では市杵島姫(サヨヒメ)に頻繁に遭遇し、東岸では豊玉姫(タゴリヒメ)が増えてくるという現象です。

 丁度その境界が神湊辺りになるのですが、市杵島姫は豊玉彦の姉のアカルヒメの娘であり、豊玉姫は彦山の高木大神の長女である豊秋ツ姫と豊玉彦との間に産れたプリンセスです。

 これは地域的な棲み分けなのか、権力交替によって生じたものなのか分かりませんが、金山彦系が第一期の九州王朝を支え、第二期を大国主系が支え、第三期は神功皇后〜といった印象を受けています。

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「宗像氏の初代の大領」の「大領」の意味が分かり難いと思います。故)古田武彦氏の「郡評論争」にこの「大領」が出ていたことを思い出しましたので「新古代学の扉」からご紹介しておきます。

 この大領とは九州王朝時代の阿田方須命の官職名であった事がお分かり頂けると思います。

大化の改新と九州王朝  古田武彦

郡評論争 … そして戦後になりまして、坂本太郎さんの弟子というか、大学の学生でありました井上さん(発表当時は教養部の講師か助教授)の研究発表がされたわけです。その内容は津田氏の疑いには根拠がある。証拠は一点に限定して論じたいのだが、要するに大化改新の詔勅では郡という行政単位を使って

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述べられている。郡司とか、郡に関する規定とか具体的に数字も挙げて述べられているし、大領、少領というような長官名副官名もでてくるのです。ところが金石文に依ってみると郡という行政単位が使われた痕跡がない、(七世紀後半)、それらは皆評である。評という行政単位が使われていた。例としてレジメに挙げておきました。この例をみても評を使い郡を使われた跡がない。するとこの点をとっても大化改新の詔勅というものを信用するわけにはいかない、という口頭発表をされたわけです。…

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記