2024年05月18日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)1007 日田市大原八幡宮の元、元々宮を当会の宮原誠一氏が報告されています ➊

ひぼろぎ逍遥(跡宮)1007 日田市大原八幡宮の元、元々宮を当会の宮原誠一氏が報告されています ➊

20231117

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久



 今回、日田に於ける地域調査にようやく重い腰を上げた事から既に56本のブログを新規で書き改訂していますが、大原八幡宮の元宮、元々宮について書かれている方がおられます。

 当会のメンバーで筑前筑後神社研究のエキスパートとも言うべき宮原誠一氏です。

 今回、この2稿を加えるとさらに日田の本質が明らかになってきますので全文を掲載させていただきます。

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No.158 大波羅(大原)八幡宮の元元宮・鞍形尾神社

宮原誠一の神社見聞牒(158) 

令和2年(2020)1111

No.157 大波羅(大原)八幡宮から見る三人の八幡様」の補足資料@ です。
大分県日田市田島に鎮座する大波羅八幡宮(大原八幡宮)は現在の田島に鎮座するまで三回の遷座を行っています。
場所的には二回の遷座です。杉原元宮神社と元大波羅(大原)神社は隣接の状態にあります。

■大波羅(大原)八幡宮の変遷
 1.神降の岩松ヶ峯 680年、日田市天瀬町馬原の鞍形尾に霊現
 2.鞍形尾神社 日田市天瀬町馬原500に社殿建立
 3.杉原元宮神社 704年、鞍形尾から求来里村の杉原に遷座
 4.元大波羅(大原)神社 871年、初代日田郡司大藏永弘が社殿を新設し、
   杉原元宮を北側の求来里(神来町)に遷座
 5.大波羅(大原)神社 1624年、日田永山城主石川忠総が神来町から現在の
   田島大原へ遷座。明治6(1873)「大波羅神社」を「大原神社」と号す

大原八幡神が霊現した大波羅(大原)八幡宮の元元宮、天瀬町岩松ヶ峯(馬原 まばる)の鞍形尾神社の補足資料となります。

■鞍形尾神社の概要
鞍形尾神社 大分県日田市天瀬町馬原500(字鞍形尾 くらがとう)祭神 八幡大神

由緒(旧案内板)

豊西記によれば元慶元年9月朔日(877)、此の地(岩松ヶ峯)に八幡御示現せり

神白馬によって昇天し玉鞍松下にあり、依って岩松改め鞍形尾と号せりと

又造領記には弘仁2年(811)、郡司鬼蔵大夫(大蔵永弘)、宇佐八幡を請して来り、岩松が峯に勧請し奉ると記されている。

祭典 2月19日、20日にして古来村民の信仰厚し

                  昭和41年4月1日  天瀬町教育委員会

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造領記は当てになりませんが、豊西記(江戸時代)によれば、「八幡神は白馬に乗り岩松ヶ峯に霊現され昇天された。八幡神が昇天したあと、松の木の下に玉の鞍が残されていたことから、岩松を改めて鞍形尾(くらがとう)と呼んだ。」とあります。
『豊後國志』に「白鳳9年(680)秋、八幡大神の降格の瑞(きざし)あり。始め岩松峯に祭り、後に杉原に移す」とあります。

無題.png白鳳9年(680)、日田郡(ひたのこおり) 靭負郷(ゆきいのさと)馬原村(まばるむら)の岩松ヶ峯に八幡大神が顕現し、岩松ヶ峯に鞍形尾(くらがとう)神社が創祀されました。
■車で岩松ヶ峯の鞍形尾神社まで行けます

国道210号線から金場の市道に入り、岩松ヶ峯の鞍形尾神社まで車で一気に登ります。

  市道から林道への入り口、小型車(5ナンバー)の短い車体であれば通行可です
  途中の離合帯は3箇所で、離合帯では警笛を鳴らして下山車を待ちます。

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()神社下の林道が変っています、高圧送電線も東の本宮の左に移動しています。


■鞍形尾神社の行宮跡


鞍形尾神社に着く前に「神降」扁額の鳥居があります。
さらに、鳥居の奥へ進むと「行宮跡」の石碑があります。さらに300m程進むと鞍形尾神社に着きます。

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 奥のヘアピンカーブを右に曲がり上るとすぐに行宮跡の鳥居前に出ます。

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 扁額に「神降」とあります

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行宮跡は岩松ヶ峯の頂ではありません。東約300mの鞍形尾神社の本殿がある所が「峯の頂」となります。行宮跡が霊現の地と見ています(未確認)
北東方向の同天瀬町馬原(本村)の大分自動車道の下には豊玉彦を祀る高住神社があり、磐座 神社の形式で祀られています。
さらに東の同天瀬町馬原(高塚)には有名な高塚愛宕地蔵尊(金山彦)があります。
その北には月出山岳(かんとうだけ)があり、その麓に月出山(かんとう)集落があ
ります。月出山とは不思議な地名で意味深です。
天瀬(あまがせ)という地名も意味深ですが、玖珠川の「天の瀬」という意味でしょうか。
天瀬町馬原(まばる)の山々は霊験の地です、不思議な感覚を覚えます。

「月出」と「馬原」は大山祗・大国主に関係する名称ですが、牛馬の守護神は筑後川(千歳川、玖珠川)の水神・荒五郎の豊玉彦です。
馬原(まばる)は大山祗、金山彦、豊玉彦に関係する神聖な地となるのでしょう。


大原八幡神(祭神・八幡大神)は石清水八幡・豊玉彦=豊国主・豊玉彦となります。


■高塚愛宕地蔵尊の由来(高塚愛宕地蔵尊HP)
大分県日田市天瀬町馬原(高塚)3740
https://takatukasan.com/takatsuka/
今から千二百年余年前の天平12(740)行基という偉い僧が聖武天皇の命を承けて、筑紫の国を巡られました。
帰路、豊後の国日田郡を経て求来里村杉原に至り、緑深い東西の地形を眺めたとき、行基は身の引きしまるような霊気と、言いようのない有り難さに心を打たれ『この地こそ、国や人々の悩みを救う大権現様の出現される霊地に違いない』と予言されたのでした。
行基はそれから岩松ヶ鼻(現在の天瀬町馬原の鞍形尾)を通って、この高塚の里に着かれました。
山中で一心に地蔵菩薩を念じていた或る晩のこと、東南方にそびえる大きな公孫樹(いちょう)の中辺に、突然、金色の光を放つ三個の玉を見たのです。行基はおどろき、我が祈りが地蔵菩薩に届いたおしるしであろうと、なお一心に祈り続けました。
夜が白みかけても玉の光はおとろえません。行基は従者をしりぞけ、ひとり、いちょうの大木に登ってみると、三個のうち、ひときわ光る一個は乳房の形をした宝珠でした。
宝珠を捧げて地に降り立った行基は早速、みずからのノミをにぎって一体の地蔵菩薩を彫り、里人たちに『まことの心をもって宝珠、地蔵菩薩に祈願するなら広く万物は産み栄え、一切のご利益を与えられよう』と説かれたのでした。
その後、いちょうの大木は『乳銀杏』(ちちいちょう)と呼ばれ、永い歴史の間、子宝を恵む霊樹、母乳をさずける霊樹、子供のすこやかな成長をかなえてくださる霊樹として、人々の崇敬を集めてきました。
行基は天平21(749)2月2日、82才で亡くなりました。その後、天暦6年(952)2月、行基の御遺徳を偲んだ里人たちが、大いちょうのかたわらに小さな御堂を建立し、行基のきざんだ地蔵菩薩を祀ったのが『高塚愛宕地蔵尊』の始まりです。
※行基が求来里村(くくりむら)杉原に至った時、鞍形尾神社は求来里村杉原に遷座しています。
愛宕勝軍地蔵

勝軍地蔵は別名、天村雲命地蔵尊と呼ばれ、大分県天瀬の高塚地蔵尊でよく知られています。勝軍地蔵の制作者は聖徳太子であり、金山彦の別称の一つです。なお、本地蔵は大分県日出町の愛宕神社にあり、この分霊が高塚地蔵尊となります。
私の近くにも天村雲命地蔵尊が祀られています
No.60
水沼君の「潟の渟名井」と丹後の「與佐の真名井」 2018513
益影井がある大城小学校の南に筒井天満宮が鎮座されています。
境内の観音堂は豊姫神社の本寺堂であり、「天眞名井」を「潟の渟名井」として、ここにおさめられたという天村雲命(あめのむらくものみこと)の地蔵尊が祀られています。「アメノムラクモ」といえば、金山彦の「天叢雲の剣」を連想します。
豊姫縁起では、天孫降臨の時、従った神様に「熊野忍蹈命 くまのおしほみのみこと」がおられ、別名、熊野久須毘命(くすびのみこと)という、金山彦です。

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行宮跡から東へ鞍形尾神社に向かいます、300m程進むと神社に着きます

林道から玖珠川対岸(左岸)を望む女子畑の山並み

■鞍形尾神社

行宮跡から東へ300m程進むと鞍形尾神社に着きます。5台程の駐車場有り。

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社頭、駐車場横の大形常夜燈、その先に石段、中央の木陰に鳥居が見えます
鞍形尾神社 大分県日田市天瀬町馬原500(字鞍形尾 くらがとう)祭神 八幡大神

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拝殿、茅葺屋根に板金が被せてあります

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拝殿内の神輿  本殿左には豊玉彦ゆかりの天満宮が鎮座です
参考までに、天瀬町誌によると、鞍形尾神社の祭神は誉田別天皇、速須佐之男神、宇迦之御魂神、猿田日古神、大宮能賣神、菅原神となっています。

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社殿を後にします

■杉原元宮神社への遷座
慶雲元年(704)、鞍形尾に鎮座する八幡大神は、求来里村杉原の杉の梢(こずえ 木の先端)に降り、村の乙女に神懸かりして、「永く豊前の地を守らむ」と神託の後、杉の元に白幣が出現したと伝えられる。故に、その所に神祠を建て、八幡大神は鞍形尾より遷座したと伝わる。
「神託の後、杉の元に白幣が出現したと伝えられる」とありますが、実際には顕現の印として白幣を立てたのでしょう。

行基740年「求来里村杉原」に至った時、緑深い東西の地形を眺め、身の引きしまる霊気を感じ、言いようのない有り難さに心を打たれ『この地こそ、国や人々の悩みを救う大権現様の出現される霊地に違いない』と言っています。求来里村、馬原村は霊地なのでしょう。

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2024年05月15日

1006 大分県日田市の「有王社」を疑う

1006 大分県日田市の「有王社」を疑う

20240110

太宰府地名研究会 古川 清久


 先行ブログ1003でこの神社についても書くとしていました。先延ばしにしていたものの、書ける時に書いておかないと思い直し書く事にしました。

 この神社も加々鶴トンネルの対岸(筑後川右岸)、夜明駅から志賀神社を経て夜明ダムの手前の小山に祀られているのです。

 ただ、有王社とはほとんど耳にしないもので全国的にも聴いたことが無いものです。

 地元の方々には立腹される方もおありかも知れませんが、天邪鬼の私が取り上げる以上、意味があると考えたのではなく、どうも本来の祭神が入れ替えられているのではないかと思った次第です。

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有王社(有王宮・天満宮・水天宮) カーナビ検索大分県日田市大字夜明3185番地


 勿論、こういったものは確定した通説などと言ったものではないのですが、あさましいまでも既に地域で確立しネット上でも右から左まで同じ論調、結論に異議を唱えるのは袋叩きになりそうです。

 ただ、私の目からはあまりにも違和感が伴うため、大人げないとは思われそうですが、そういう事を押し通すのが神社の本質を探る者の宿命であり使命なのです。

 上の地図を見れば分かる通り、同社がこの大蛇行地それもかなりの落差のある急流である事は想像が着くでしょう。

 これは夜明ダムが稼働する昭和28年以降かなり急激に流速が落ちている事を考えれば、筏流しを行ってきた船頭さんとは言わないので、一応、中のりさんとしておきますが、最も緊張する危険な場所であった事はご理解いただけるのではないでしょうか。

 そして、先行するブログをお読み頂いた方には、既に、この九州山地を駈け降る最も緊張する容易に息の抜けない命懸けの場所だったはずなのです。

 私が最も違和感を抱いた理由は、その様な場所、それも筑紫、豊という緊張する国境に、何故、瀬織津姫(藤原が祓戸神別名として金山彦と博多の櫛田神社の大幡主の妹の埴安姫の間に生まれた櫛稲田姫)を祀る神社を置く必要性も必然性もない訳で、これも大原八幡宮(大蔵一族外)が龍王ことヤタガラスを消そうとばかりに祀ったのではないかと考えたのでした。

 まず、「有王」という呼称はそれだけでも中国風の香りがするもので、類型として白王(白川伯王)、阿智王など僅かしか浮かんできません。

それは、この有王社を祀ったのは応神を呼び込んだ近畿大和朝廷の以降の植民地総督とも言うべき日下部〜大原らしいからなのです。

 前置きが長くなりましたが、この一般的には聴いたこともない有王神社をなんとか乏しい知識で考えて見たいと思います。

 それではご覧いただきましょう。私も一度参拝していますが、画像が無いため、しばらくはネットから拾えるもので代行し、後で入れ替えたいと思います。

無題.png ただ、パワースポットとか大騒ぎし商売に繋げようとする騒々しくさもしい方々のものとか、神社や行政の宣伝合戦の浅ましい派生サイトはできるだけ避けて穏やかで落ち着いた健全さを感じさせるものから使わせていただきます。以下、田舎暮らしdeほっ!様から…

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鬼と仏の国東半島めぐり 様より

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瑠璃の星写真・イラスト・旅日記 『邪馬台国ラプソディ』 聖地巡礼 26 夜明けの有王社 様より

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 これで大体の概要はお分かり頂いたと思います。

 まず、私が違和感を抱いたのは神殿の千木が男神を示している事でした。その一事だけで、これが瀬織津姫(勿論、藤原の祓戸神とすれば金山彦なら良いのですが)ではないのではないかと思ったのでした。

 さらに言えば、参拝殿の上に置かれた龍の彫刻の板盤はどう見ても日田、津江、彦山から流れてくる筑後川を龍に見立てたものであり、日田の中心部に玉川町があるように、遠い古代に豊玉彦(海幸、山幸の神話に登場する龍王)=ヤタガラス(博多の櫛田神社の大幡主=カミムスビの子)を祀ったものであろうという気がしたのでした。


由緒 人皇八十代高倉天皇の御代、大蔵永秀の豊後国の関門守護を任として築城の櫛崎城に鎮座の処、宝永2年(1705)現今の地に御鎮座奉斎す。当時は有王宮と称す。       御祭神 瀬織津日女命


 そして、なんらかの動機で瀬織津日女命に替えられたのではないかとの思いが湧いてきたのでした。

 既に、大原八幡宮に応神を持ち込んだのが日下部〜大蔵一族であり、彼らが大和朝廷の先兵=占領軍として多くの神々を塗り替え、摩り替え、歴史を変えて来た事は想像に難くなく、その延長上に日田の隅々まで占領政策が静かに広がってきたはずなのです。では、元々この地には誰が祀られていたのでしょう。

無題.png 直ぐに頭に過り浮かび上がってきたものは蟻通神社でした。多分これに間違いはないでしょう。

 この祭神は中将(「平家物語」「源氏物語」にも中将は出てきますが、中国と外交官系を結んだものはこの称号が与えられるのです)とされ、八咫烏はその最初の一人なのです(中将姫とは別の概念)。

 和歌山県や大阪府にかなりの数の「蟻通神社」「蟻通明神」があります。


以下、「私のたなべ」田辺市観光協会 様より


蟻通しの由来

むかしのことです。ここ紀州田辺に外国の使者がやってきました。

その使者は『今から出す問題を解いてみよ もし解けなければ日本国を属国にしてしまう』といいました。そして、持ってきた法螺貝を出して、その貝に一本の糸を通すことを命じました。

日本の神がみは、この難問にたいへん頭を痛めました。その時、ひとりの若い神様が前に進み出て『私が法螺貝にその糸をその糸を通してみせましょう」といって貝の口からどんどん蜜を流し込みました。

蜜は、貝の中の複雑な穴を通り抜けて貝尻の穴へと流れ出しました。そして、この若い神様は蟻を一匹捕らえて糸で結び貝の穴から追い込みました。蟻は甘い蜜を追って、複雑な貝の穴を苦もなく通り抜けました。蟻の体には糸が結ばれていますから法螺貝には完全に糸が通ったのです。

これを見た外国の使者は『日の本の国はやはり神国である』と恐れその知恵に感服して逃げ帰りました。

日本の神がみは、たいそう喜んで『我国にこれほどの賢い神があるのを知らなかった』といって、その若い神様の知恵をほめました。そして、蟻によって貝に糸を通したことにより蟻通しの神と申し上げるようになりました。今では知恵の神とあがめられています。


ここで私の方からもコメントを加えさせて頂きます。

蟻通神社の話は民衆に受けたらしくある時期流行し伝承も祭神も多くの変化を見せています。

ただ、中将とは中国に派遣された外交官級の優秀な人に贈られる称号で、本来は博多の櫛田神社の大幡主(カミムスビ)の子の豊玉彦=豊国主(八咫烏)の事であったと百嶋神社考古学では理解しています。

まず、阿波から熊野は忌部の国であり、この忌部こそ宗像三女神の一族=白族であり、阿波から泉佐野と言う同社の分布もそれと対応しています。

そして、玉の曲がった穴に蟻を使って糸を通すという故事から蟻通神社の名が生まれ、加えて、紀州でも大蛇行の狭い急流の流れで木材の前後が選別されると言う事から、正しくこの加々鶴から夜明の渓谷で川流しの安全と筑紫から豊の国境の平安を願って置かれたのがそもそもこの中国風の有王神社の基層に存在した蟻王神社だったのではないでしょうか?

それが何故有王社に変わったのかは最後にお話ししましょう。


すさまじきもの 〜歌枕探訪〜神社(大阪府泉佐野市) 


無題.png蟻通神社(大阪府泉佐野市)

蟻通神社はもともと熊野古道沿いにあったものを、第二次大戦中に飛行場建設のために現在の地に移転された。このため、以前熊野古道を歩いた時、足を延ばして訪問してみようかどうか迷ったが、遠回りになるので結局断念したことがある。このたび車で泉南方面の故地巡りに出かけ、念願の訪問を果たした。この蟻通神社、こんな泉南の片田舎にありながら、なにかと由緒満載で、紀貫之、清少納言らのエピソードもあり、そして能の舞台にもなっている。

知る人ぞ知る、古典ゆかりの地である。まずは、紀貫之関連

蟻通神社の前を通る時は馬から降りなければならなかったが、紀貫之は馬から降りずに通ってしまったため、蟻通明神の怒りを買って、俄かに一天かき曇り、馬が動かなくなった。これに対し紀貫之が和歌を詠じて蟻通明神をなだめた、という話。…中略…


無題.png 蟻通神社 カーナビ検索 大阪府泉佐野市長滝814 

創建は、社伝によると なんと紀元93年!! 第9代開化(かいか)天皇の時代にできたのだそう!

わたしが大好きな、日本一の古墳の仁徳(にんとく)さんが第16代天皇その7代前の時代というと

弥生時代中期 弥生時代・・・!この頃に稲作りが始まったので五穀豊穣と国土開発を祈る目的で

国造りの神である大国主命(おおくにぬしのみこと)を祀ったのが始まりとされています しかし「蟻通」の名前が広まったのは平安時代のことこんな故事があります

***

歌人である紀貫之(きのつらゆき)が旅の途中、馬に乗ってこの神社を通りがかったとき日が暮れ、大雨が降りだし、馬が倒れましたそこへ老人が現れて「蟻通明神の境内を下馬しないで通った罰じゃ!」と。

そんなん知らんやん!!などとは言わず、貫之さんは歌を詠みました 「かきくもり あやめも知らぬ 大空に ありとほしをば 思ふべしやは」この歌に老人は「ホッホー!」と感心し「実はワシが蟻通明神でしたー★」と明かして消えていきそして馬は元気になって貫之さんは旅を続けることができましたとさ


蟻通神社、アリ通し、天武天皇 様から


さて、その頃中国の皇帝は、わが国を攻略しようという野望に燃えていた。しかし、実際に軍隊を派遣するには、なにか口実がなければならない。そこで皇帝は、帝を陥れる巧みな方策を考えついた。
 まず、使者をわが国に派遣すると、一本の材木を帝に献上させた。材木は表面を美しく削ってあり、長さは二尺(約六〇a)ほどである。「帝におうかがい申しあげます。このたび献上いたしましたこの材木の、いずれが本で、いずれが末でありましょうか」難題を吹きかけて、これに答えなければ、厳しく難詰する魂胆である。しかし帝は使者の質問に対してうまい解答が思い浮かばない。そこですっかり途方に暮れてしまった。朝廷に出仕して、このありさまを一部始終見守っていた中将は、帰宅ののち、両親にこのことを話した。「お父さん、お母さん、今日、朝廷ではこのようなことがありました。中国の皇帝の問いには、はたしてうまい答えが見つかるのでしょうか」「それはおまえ、簡単なことじや。早瀬に材木を投げ入れてみればよい。最初は材木も、水の中でくるくる舞うているであろうが、そのうちどちらかの端が先になって流れてゆくじやろう。そちらのほうが木の末にあたるのじゃ」翌日、朝廷に出仕した中将は、なにげない顔をして、帝に申しあげた。
 「私に名案がございます。ひとつ試してみましょう」そして人々を引き連れて流れの早い川の瀬に行き、材木を投げ入れると、先になったほうに印をつけて、使者に手渡した。するとやはり、そちらのほうが木の末であった。
 続いて中国側は、全長が二尺ほどもある二匹の蛇を献上してきた。姿形は二匹ともそっくり同じである。「謹んでおうかがい申しあげます。この二匹の蛇の、いずれがオスで、いずれがメスでありましょうか」今度の問いも難問である。内裏の中で即座に答えられる者は、ただの一人もいない。そこで中将は帰宅ののち、ふたたび両親にこのことを話した。「他愛もない。二匹の蛇を並べて、尾っぽのほうに細い枝を近づけてみるのじゃ。尾っぽを動かしたほうがメスの蛇じゃよ」中将の両親はこともなげに答えた。
 翌日、中将が帝の前で両親の教えたとおりにやってみると、はたして一匹だけが尾っぽを動かした。そこでそのように使者に告げ知らせると、これも正解であった。
それからしばらくすると、中国の皇帝は三度日の使者を派遣してきた。今回の献上品は、一個の玉である。一見しただけではなんの変哲もないただの玉のようであったが、細かく観察してみると、玉のちょうど反対側の表面に、二個の小さな穴がそれぞれ口を開けている。そしてそれが七曲がりに曲がりくねった小さな空洞によって、玉の内部でつながっているのであった。使者は仰々しく口上を述へ立てた。「この玉の穴に糸を通していただきとうございます。もっともわが国では、だれもが簡単にやってのける小細工ではございますが」今度という今度は帝も困り果ててしまった。「どんな手先の器用な人物でも、こればかりはできかねまする」朝廷に出仕する貴族・公卿たちから、はては下々の者に至るまで、みんな口をそろえてそのように答えた。そこで中将は、もしやと思い、今回も両親にたずねてみることにした。「造作もない。一匹の蟻に細い糸を結びつけ、一方の穴から中にもぐり込ませればよい。その時、もう片方の穴のまわりに蜜をまぶすことを忘れなければ、蟻は蜜の香りに誘われて、空洞を通って向こう側に行くはずじゃ」中将は参内すると、両親の教えてくれたことを、そのまま帝に進言した。さっそく朝廷ではそのとおりにやってみたが、はたして蟻は一方の穴から他方の穴へとくぐり抜け、糸は玉を貫通した。そこで帝は、糸の通った玉を使者に返還した。
「日本の国にも賢者はいるものだ」中国の皇帝は感嘆し、それからは難題を吹きかけてくることもなくなった。一方、帝の喜びようはたいへんなものであった。彼は中将を呼び寄せると、親しく声をかけた。「このたびのそちの働きはみごとであった。望みのものを申すがよい。官職も、恩賞も、思いのままに取らせよう」「恐れながら、私は官職も恩賞もほしくはございません。ただ年老いた両親とともに都に住むことを、お許しいただきとうございます」「それはたやすいこと。そちの好きにするがよい」帝は快く、中将の願いを聞き入れた。この知らせを開いて、国中の人はたいへん喜んだ。
その後、この中将は神として祀られるに至つた。これが今に残る蟻通明神のはじまりであるとされている。


 ここまで読まれた方はご苦労様でした。改めて謝意をお伝えさせていただきます。

蟻通神社に有王社が覆いかぶさったと言う古川仮説に幾らかでも賛同して頂ければ幸いです。

そもそも瀬織津姫とは祓戸神として藤原が創り出したものであり、実は九州王朝の初期を支えた金山彦の娘である櫛稲田姫の事なのです。

当然にも、近畿大和朝廷として権力を握った藤原(旧阿蘇氏=多氏、宇治氏…)にとってはあまり有り難くない忌むべき神なのです。

その本拠地の一つである豊の国の支配者が豊玉彦=八咫烏=豊国主であり、中心部に玉川町がある事からも分かるのです。

当然にも、現在日田を支配している大原の一族=大蔵氏…は近畿大和朝廷以降の鎌倉政権の植民地総督として入府している訳で、この八咫烏の都であった日田からその出口である夜明に八咫烏を祀る蟻通神社が存在することを疎ましく思い、思い続けたはずなのです。

そして、「鬼と仏の国東半島めぐり」瀬織津姫神 有王社:瀬織津日女祭祀 によれば、平安末期にお鬼洲浜紋章を使う大蔵一族(恐らく後漢の靈帝の一族の別れで阿智王の一族の可能性を考えています)が持ち込んだことが分かります。



無題.png有王社の由緒は案内板にあるように

「人皇八十代高倉天皇(平安時代末期11681183在位)の御代、大蔵永秀の豊後国の関門守護を任として築城の櫛崎城に鎮座の処、宝永二年(280年前)現今の地に御鎮座奉斎す。当時は有王宮と称す」とのことです。以前、宮司様に他の伝承がないか確かめましたら、「他に伝えられているものはない」とのことでした。

異称で祭られる場合が多い、瀬織津姫神ですが、この案内板をみるとなぜかほっとします。男神を示しており、賽銭箱の上に龍王が置かれている事、筑後川を海人族が龍と見なしていた事、櫛稲田姫が王と呼ばれたことなど全くない事から乱暴な結論を出しました。ご批判は甘受致します。

ご祭神の瀬織津日女神は罪・穢れを大海原の持ち出で給う神との記載があり、大祓いの神としての認識で一柱で祭られています。境内神社に菅原神社と水天宮があります。


ここまで見て来ると、縦切り千木は男神を示しており、賽銭箱の上に龍王が置かれている事、筑後川を海人族が龍と見なしていた事、櫛稲田姫が王と呼ばれたことなど全くない事から乱暴な結論を出しました。ご批判はいか様にも甘受致します。

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後漢の中平4年(188年)10月に12代霊帝は「皇帝直属の常備軍」の創設を構想したと言われています。八咫烏=豊国主=八咫烏は百嶋最終神代系譜ではAD132の生まれですので時代は符合します。

そして、大蔵氏は霊帝の一族の阿智王の後裔の可能性があるのです。

私には、八咫烏に凹まされたのが気に入らなかったのではないかと思うのですが、結果、蟻通明神は有王宮に変わったのではないかと考えます。これを詳しく説明すると、更に別の論考が必要になります。



鬼界島流人譚の成立 谷口広之 ・ 1980 より


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2024年05月12日

1005 再び大分県日田市の「大原八幡宮」を考える

1005 再び大分県日田市の「大原八幡宮」を考える

20240109

太宰府地名研究会 古川 清久


 新年に入り短期間に56件の照会が入り、百嶋神社考古学関係の資料を欲しいと言った話が相次いで持ち込まれました。

やはり正月休みで落ち着くと気になっていた事に取り組もうとおっとり刀で動き出したところです。

 5年ほど前でしたが、太宰府地名研究会は日田の大社(天領ですから単純には言えないのですが事実上の豊後国一宮)大原八幡宮への神社トレッキングを行っています。今回、このリポートは検索ナンバーだけで省略しますが、現在の公式の祭神、由緒を見ておきましょう。    以下 日田の市のHPより

大帯比売命(神功皇后)、誉田別尊(応神天皇)、比売大神を祀る県下有数の規模を誇る八幡宮。680年に靱負郷岩松ヶ峰(天瀬町鞍形尾)に示現された八幡神を祀ったのが起源とされる。9世紀半ばに、当時日田郡司であった大蔵永弘によって、杉原宮から現在の元宮に遷座され、1624年代官石川主殿守忠総により、元宮から現在の位置へ遷座された。遷座前の場所は元大原神社や元宮神社と呼ばれ、現在も江戸時代中期に再建された社殿が残る。境内最古の建築物である楼門は貞享4年(1687年)の築造、拝殿・幣殿・本殿は寛政6年(1794年)の築造といわれる。

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ひぼろぎ逍遥(跡宮)

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物部の大原足尼命を祀る日田の大原八幡神社とは何か?

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日田の大原八幡神社も物部の神社だった “大分県日田市の大原八幡宮

を疑い再考へと”

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大原八幡神社は物部の神社だった “福岡県みやこ町の大原八幡神社”

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大原八幡神社は物部の神社だった “福岡県苅田町の大原八幡神社”


 そもそも第一回目の日田の大原八幡宮の個人的な調査から20人ほどのメンバーでのトレッキングを行った当時はそれなりに真面目に調べていたのですが、関連して大原八幡の名を冠する福岡県の二社を調べてみたわけです。

 大分県の場合は宇佐八幡宮の力が強過ぎる事からか、明治初期の神名帖以外頼れないのですが、福岡県の場合はかなり詳しい「福岡県神社誌」があるためたちどころに連鎖反応を起こすことになるのです。

では、福岡県苅田町とみやこ町の大原八幡宮をご紹介させて頂きたいと思います。

前述の通り、日田市の大社は、大帯比売命(神功皇后)、誉田別尊(応神天皇)、比売大神を祀る県下有数の規模を誇る八幡宮…と言うのが大原八幡宮です。

以下、苅田とみやこについて、その主要部分を二つのブログからご紹介したいと思います。


福岡県苅田町の大原


694 大原八幡神社は物部の神社だった “福岡県苅田町の大原八幡神社” 20181031


20186月でしたか大分県日田市の大原八幡宮への太宰府、大分の合同トレッキングを行なっています。


大原八幡宮 無題.png大分県日田市田島2-184

 この時に、苅田町の大原八幡神社にもご案内しようと思ったのでした。勿論、八幡宮と名乗ってはいるのですが、以前、参拝させて頂いた時から、単にそうとは言えない出自が感じられたのでした。

とりあえず、同社のHPから拾ってみましょう。驚くことに物部系の神社なのです。

 日田の大原の祭神は 誉田別命・大帯姫命・比売大神

本稿は、20181216日で計画しているみやこ町、苅田町、行橋市へのトレッキングに関する基礎資料です。日田市の大原八幡神社という大社の勧請神社とのふれこみではあるのですが、どうも物部の匂いが濃厚な神社の様です。この点、大原八幡神社がバリバリの八幡神社である点を考えると、むしろ苅田町のそれは、なおも原型を留めていると言う印象を持ちます。苅田町の大原は日田の大原からの勧請神社と証言している訳で、「福岡県神社誌」を読む限り、日田の大原本体も元々は物部氏の神社だったのであり、それを裏から見れば大嘘を吐いている事にはなるのです。その意味では苅田町とみやこ町には讃辞、賛美を送りたいのです。

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大原八幡神社    カーナビ検索福岡県京都郡苅田町新津(大字)1427


苅田町の大原八幡神社


御由緒 大原八幡神社の御祭神は、大原足尼命 現在の豊前・豊後の国造 饒速日命 大原足尼命の祖先・物部氏の祖神 応神天皇 第十五代天皇・八幡の大神 仲哀天皇 第十四代天皇・応神天皇の父君 神功皇后 応神天皇の母君 五柱の神であらせられ、この豊前、豊後の国の祖神であり、私共の繁栄を守護し給う大神として、人々に普く崇敬するところであります。

 大原八幡神社の創建については、御祭神大原足尼命が神功皇后の御代(西暦二〇九年ごろ)豊前、豊後の国造として、民を安じ徳望あり、とくにこのころ新津に港を造り公私船舶往還の港となり大いに栄える。

命が亡くなれると住民は、この徳を慕い大字新津字祖父墓の地に命の塚を造り祭る。

其後六世紀後半(西暦五七〇年ごろ)この京都地方を治めていた物部氏が祖先を同じとする命を、港の正面に恩塚山に大いなる塚(廟所)を造り氏神として祭る。

その後、饒速日命・応神天皇・仲哀天皇・神功皇后を御観請し現在に至る。

この間約一七〇〇余年のあいだ、地域の守護神として人畜平安、厄除開運、生産豊登は謂うに及ばず海上安全、航空安全、交通安全、旅行安全、土木建築安全、縁結び、子授け安産・子そだて、心の病・婦人の病、機織・和裁洋裁の上達等の尊い御霊験を現わされ、人々の厚き尊敬を集め、年を重ねて参拝者も増え続け、現在の発展に至っております。

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以下、「福岡県神社誌」下巻 

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それは、九州王朝が唐、新羅連合軍に敗北し漁夫の利を得た近畿大和朝廷の時代になり、宇佐が応神単立から徐々に一社三殿五柱の神社に変わっていったのに連動し、元々宮、元宮を経て大原が変わっていったのです。

このように祭神は政情の変化に併せ、ころころ変わるのであり、変わりたくもあり、変わらざるを得ないものなのです。ただ、その事を曖昧に糊塗しようとすることに後ろめたさが付き纏いはするのです。


福岡県みやこ町の大原

695 大原八幡神社は物部の神社だった “福岡県みやこ町の大原八幡神社” 20181031(バックナンバーから)


無題.png本稿は、20181216日で計画しているみやこ町、苅田町、行橋市へのトレッキングに関する基礎資料ですが、日田市の大原八幡神社という大社の勧請神社とのふれこみではあるのですが、どうも物部の匂いが濃厚な神社の様です。

20186月でしたか、大分県日田市の大原八幡宮への太宰府、大分の合同トレッキングを行なっています。

 大原八幡宮 カーナビ検索 大分県日田市田島2-184

 この時に、苅田町の大原八幡神社にもご案内しようと思ったのでした。勿論、八幡宮と名乗ってはいるのですが、以前、参拝させて頂いた時から、単にそうとは言えない出自が感じられたのでした。とりあえず、同社のHPから拾ってみましょう。驚くことに物部系の神社なのです。 日田の大原の祭神は 誉田別命・大帯姫命・比売大神

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大原八幡神社古墳(左) 大原八幡神社(右) カーナビ検索 福岡県京都郡みやこ町勝山大久保3014

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しかし、ここにはニギハヤヒの後裔の10世の孫が拠点にしていた具体的な記述が書かれているようで、今後、九州王朝の豊国国造が置かれていた所在地としての認識を持って同地を調査すべき事が分かるのです。

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長髓彦の妹として御炊屋姫が宇摩志麻治命と書いてありますが、百嶋最終神代系譜では辛国息長大姫大目命は山幸ことニギハヤヒと海幸こと草部吉見と婚姻関係を結んでおり、各々の子はどちらから見ても、共に義理の姉妹、兄弟と言えない事も無い事から、実際にはどちらの系統なのかは良く分からないのです。

 一応、宇摩志麻治命が出ていますので辛国息長大姫大目命の事としておきますが、なお、鮮明ではありません。

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では、大原帯尼命とはどなたなのでしょうか?

 「大原足尼者…大原大明神旧事本紀日大原足尼命筑紫豊国国造等置部与曾命之命」

と書かれている以上、相当な有力者であり、ニギハヤヒの後裔代であったと考えられそうです。

天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊=ニギハヤヒの九世の孫である 置部與曾命(おきべよそのみこと)の子…と「先代旧事本紀」の全文が書かれ、物部系の由緒がそのまま書かれていたのです。


十世の孫の淡夜別命(あわやわけのみこと)。大海部直(おおあまべのあたい)等の先祖。弟彦命の子供。次に大原足尼命(おおはらすくねのみこと)。筑紫豊国国造(つくしのとよくにのくにのみやつこ)等の先祖。置部與曾命の子供。 「文字獲得史考」によるとなるのです。

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文中にはニギハヤヒ、彦山の高木大神、草部吉見、香春岳のカラクニオオヒメオオメノミコト=アメノウヅメと天香語山命(新潟市の南の弥彦神社の主神)と物部の匂いがプンプンしますね。

 下書ですが、少し腰を据えて考えて見ましょう。円内は皆さん関係者の様です。


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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記