ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1120 波多氏と秦氏は違うのではないか
20250918
太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久
今年の3月に解散へと進んだ二県五市に跨る郷土史会=旧松浦党研究連合会が解散へと踏み出されたとお聴きしました。
佐賀県の唐津、伊万里、長崎県の松浦、平戸、佐世保を中心に数十年の間、県、市境を越える郷土史会が解散するに至ったのは惜しまれますが、ここ30年の日本社会の停頓と国民の疲弊を考えると、後進の育成と参加を呼び込むことが困難だったのはどの団体でも同様で、これまで連合会を支えてこられた長老の方々の決断は致し方なかったのではないかと思っています。
ところが、その中心の一つであった伊万里市の方々の中から新たな研究会の設立への動きが始まり、私にも参加のお誘いがあったのでした。
それについては、別の話に成りますのでここでは触れませんが、新たな研究会でも私に何か話をお願いしたいとのご相談があった事から、復刻版と書下ろし含め、新ひぼろぎ逍遥に急いで30本ほどのブログを書き上げました。その後、二回の打ち準備会合を経て9月20日に発会の運びになったのですが、僭越ながら私にお鉢が廻り何か話せとの依頼があり、その準備を行っているところです。
それについては、何れお話ししたいと思いますが、中近世は不得意なジャンルに成りますので、それを避けて以前から気になっていた“波多氏と秦氏は違うのではないか”“どう違うのか”を考えたいと思います。そして、太秦氏と金山彦系の人々とを改めて考え直す必要が有ると思うのです。
南、北波多村の「波多」とは何か
まず、伊万里には南波多村が、唐津にも北波多村があり、それらを整理する事から始めたいと思います。
そこで唐津で松浦党を辿ると、まず、西唐津から唐坊、佐志浜の佐志氏に触れる必要があります。
唐坊、唐房は唐以来の大陸との貿易用の拠点としての倉庫群、居留地があったと思われ、南島原市の口之津町にも同様の地名があります。


佐志将監神社 カーナビ検索 佐賀県唐津市佐志中通4043−1
こちらは、明治期の一村一社令の影響でしょうか、


八坂神社はそもそもスサノウを祀るもので、そのお妃となった櫛稲田姫は金山彦と埴安姫(博多の
櫛田神社の大幡主=カミムスビの妹)ですから金山彦、大幡主、大山祇の連合体の本拠地ですね。

稲荷神社は正体が隠されていますのでお分かりになり難いと思いますが、そもそも伊勢の外宮の豊受大神とは大山祇の長女(弟は大国主命、妹はコノハナノサクヤ)とスサノウとの娘なのです。
田島神社は、宗像大社か呼子の田島神社からの移動、勧請でしょうから、大幡主=カミムスビ系で、敵対的な関係にある神社は、阿蘇氏を陰で操る高木大神の彦山神社だけですね。
この一社は古代に置かれた監視役とも思いますが、この北波多とは、九州王朝系の金山彦、大幡主、大山祇の連合体集落と言えそうです。
では少し戻りましょう。唐津市自体がその傾向を表しているのです。ここの春日も監視役ですね。

全体を見ると、細部が見えなくなります。以下細切れで拡大します。


のデータによれば、熊野原神社【鎮座地】唐津市西寺町1363【御祭神】家津御子大神 熊野速玉大神 熊野夫須美大神 大山祇神 応神天皇 猿田彦命 神田五郎宗次霊
御覧の通り、博多の櫛田神社の大幡主=カミムスビが熊野速玉大神とあり、その実体は伊弉諾と別れ大幡主のお妃となった伊弉冉が熊野夫須美大神=熊野那智大社の主神です。そんな話は聞いたことがないと言われる方は、藤原がこさえた「日本書紀」のイザナミ、イザナギ周辺をお読みください。一書に曰くとして“もう別れましょう”…とはっきり書かれています。大山祇は当然として、応神天皇は藤原が押し込んだものでしょう。猿田彦もアメノウヅメの夫神ですが大幡主の臣下であり、アメノウヅメとは藤原に貶められていますが、伊勢の豊受大神であり同時に伏見稲荷様なのです。また八坂神社も妙見神社も全て櫛田神社の一族です。

のデータによれば、
唐津神社【鎮座地】唐津市南城内3−13【御祭神】底筒男命・中筒男命・表筒男命・神田宗次命・罔象女命・大直日神
底筒男命は高良玉垂の命=実は開化天皇、中筒男は贈る崇神天皇で(正統皇統に在らず)、開化天皇と御后(皇宮皇后)神功皇后の夫神(勿論、仲哀死後のですが)、表筒男はウガヤフキアエズと鴨玉依姫の間に生れた安曇野磯羅なのです。この話は込入っていますので、ここでは省略します。基本的には久留米の高良大社に残された「高良玉垂宮神秘書」に基づく百嶋神社考古学の内容です。この神社には良く残されていますね。罔象女命・大直日神はお分かりになり難いと思いますので、百嶋由一郎最終神代系譜からご覧ください。これは「高良玉垂宮神秘書」により作られています。罔象女命つまり神大市姫とは大山祇の長女で、実は伊勢の外宮様の母神であるため外宮様よりよほどお偉いのです。緑枠
大直日とは、分かりやすく言えば、阿蘇神社でも北宮とも言われる国造神社の神様で阿蘇神社よりも遥かに格上の神様です。後の藤原の祖と言える南阿蘇高森の草部吉見と宗像三女神の市杵島姫の間に生れた日枝神社、山王神社(佐賀は多い)、小城の松尾神社の主神でお酒の神様とされていますね。大幡主の子である八咫烏の実子で京都の下賀茂神社の主神鴨玉依姫が大恋愛の末に結ばれたのが大直日=大山咋(オオヤマクイ)なのです。

百嶋由一郎最終神代系譜
問題は何故大恋愛となったのかです。皆さんは山幸彦が海幸彦から釣り針(チ)を借りて、海に失い茫然自失となっている時、塩土老翁が龍王に会いに行くようにアドバイスしたという話をご存じでしょう。そこで山幸彦(実はニギハヤヒ=猿田彦)は、対馬の和多都美神社(木坂の海神神社ではないと思います)に行き、豊玉姫に出会うのです。三年添うのですが、豊玉姫が子育て放棄をしたため山幸は再び途方に暮れるのですが、代わりに乳母として送り込まれたのが鴨玉依姫だったのです。
ところがその稚児ウガヤフキアエズも成長し乳母とできてしまうのです(宮神秘書にはそれとなく書かれていますが)。その子が安曇野磯羅だったのです。これはさすがにまずいとウガヤフキアエズと八咫烏の後継者であるはずの鴨玉依姫は引き離されたことから、大直日と大恋愛となったのだと思います。
その切っ掛けを作った塩土老翁が製塩業者で、唐津湾の高島の宝当神社の傍にある塩屋神社です。
この主神がカミムスビこと大幡主であり塩作りの神様でもあるのです。塩屋は幾つもありますが。
南九州では、塩(筒)命と呼ばれており、製塩土器の事だなどとも言われているのです。
多分、焙烙鍋の様に塩水、焼き塩を入れて販売=交易=物々交換していたのです。焚火の傍に置けば塩が析出しますね。それを魚に付け食べていたのでしょう。

その古代の最重要の交易品であった塩を造っていたのが、大幡主揮下の猿田彦だったのです。
猿田彦の「猿」の獣偏を取ってみてください。袁田彦ですね。三国志の袁術も袁尚も大陸軍閥の袁世凱も塩の交易の関係者だった様です。まさか、猿田彦をソルト彦とまでは申し上げませんが。
ひぼろぎ逍遥 天草下島 御領 猿田彦神社 と検索して見て下さい。まだ現場が残っているのです。
308 塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! C 天草市五和町塩屋大明神正面の塩田跡
雲南省政府は,袁世凱が皇帝制を復活させたことに反発して 1915 年 12 月に護国戦争を発動
し,中央政府との間で激しい武力衝突を引き起こした。護国戦争における雲南省軍の戦費は 950
万元にのぼった。そのうち,167 万元を占めた第二位の財源が塩税収入である(首位が中国銀行
からの借款 200 万元)2)。雲南省の塩税収入は 1915 年には省税収の約 16%,翌 1916 年には約37%,1922 年には 54% を占めるなど3),財政の上で重要であった。その一方,全国塩税におけ
る雲南の比重は 1915 年では 4%,1920 年では 3%,1925 年では 1% など,微々たるものに過
ぎない4)。また河北の長蘆や四川,淮南などの塩が数省に及ぶ広大な市場を占めていたのと異なり,雲南塩の流通圏は四川や貴州の一部を含めつつも雲南一省から大きく広がることはなかった5)
。しかし,こうした雲南の状況は塩の自給自足に近い分,他省の影響が少ない点で塩の生産を営む地域社会とそれを擁する地方政府,そして中央政府との関連を端的に捉えるのには適している。
1913 年 4 月に袁世凱政権は善後大借款を導入し,各債権国が塩税管理を行うために稽核所が
全国に配置された。この稽核所は塩税管理だけでなく塩政改革にも関与した。雲南では省の塩政
を統括する塩運使の蕭しょう峻こんが 1915 年に塩政改革案を提議している。 (部分)
[論説] 中華民国北京政府期における雲南の塩政改革 (中川太介)による

淮南は山東半島の付け根で淮河の南ですが、袁術も袁尚も淮南でしたね。

これは、唐津市北波多村の南に隣接する伊万里市南波多村の西の黒川町、旧波多津村です
御覧の通り、我々が言うところの博多の櫛田神社〜宗像大社の辺津宮(田島)or呼子の田島神社が目立ちますね。その中心がまさに波多津漁港です。
半分の神社は見ていますが、少なくとも京都の太秦(秦の始皇帝の末裔氏族)を思わせるものはありません。
では、何故、波多津と呼んだのでしょうか?それは彼らが同じイスラエル系として始皇帝と姻戚関係を結んだ一族だったからです。その関係はご自分でご検討ください。まあ、大幡主の幡の意味か?
これが、九州王朝を支えた古代民族、氏族だったのです。

百嶋由一郎最終神代系譜(部分)
まず、瀛氏とは、始皇帝の姓名の嬴贏政(エイセイ、インチョン)に対応し、姻戚関係を結んだ上に製鉄の為に火山列島の倭国に先行して入っているのです。 その金山彦の一族と相互に姻戚関係を結んだのが、スサノウ系、大幡主(カミムスビ)系、大山祇系だったのです。数世代に亘って相互に姻戚関係を結び、実際には混血が進み、同族化していったのでした。配下は江南の倭人。 印象としては、伊万里市の波多津は博多の櫛田神社の大幡主の影響が色濃く出ている様で、波多津の波多とは大幡主の波多であろうと思うのです。
対して、北波多村の波多とは同じ「波多」でも金山彦系の要素が色濃く出ており(愛宕神社、八天神社、八坂神社)、暗いイメージを持つのは外洋への広がりを持った波多津と旧北波多村の内陸の製鉄を思わせる地域にも多少の民族的違いが見て取れるのです。
因みに、東北大学の田中 英道名誉教授(最近亡くなられましたが)も秦の始皇帝はイスラエル系と明言されていましたね。
百嶋由一郎に従う我々神社考古学の者にとっても同意できる事で、夏はともかく、殷、周、秦〜新はイスラエル系と認識しており、周王朝の末裔の呉の太伯の後裔としての倭国、そして、博多の櫛田神社の大幡主の一族(最終的に雲南省から列島に避退した白族=ペイツー)、稲荷を奉斎する大山祇系トルコ系匈奴(南匈奴)が主力の北波多末孫と…佐賀県北西部域の一端が見えて来たのです。


にお読み頂き有難いと思っています。





































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