太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「百嶋神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログを継続しています。


これにはプロバイダーを含め何時情報封殺が行われるかも知れないため、最低でも複数の発信媒体を準備しておくべきではないかと考えているからでもあります。


今後ともかなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史によるblogひもろぎ逍遥に対抗しようという意図はないのですが、華麗なひもろぎ逍遥に対して、緋色のボロ着で、神籬=ひもろぎ(ひぼろぎ)を逍遥=彷徨い歩き、神社を探るというほどの意味で、「ひぼろぎ逍遥」を随時書いて行くことにしたものです。ただし、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象なども認められます。


 さて、現在、ひぼろぎ逍遥とひぼろぎ逍遥(跡宮)との合計のアクセス数は日量10001200件(年間4045万件)まで上がっています。


 同時に、連携する研究者によるblog20近くまで数を増やしており、全体では最低でも年間100150万件近いアクセス数を持っているものと思われます。


 当blogには九州王朝論から百嶋神社考古学へと向かわんとする多くの研究者、記録者、bloger…が参集されています。


 年に10回、10年でも高々100回程度の研究会でも大半は教育委員会関係者から学芸員といった利権まみれの方々通説を拝聴し心服するような、研究者亡き研究会は全く何の価値もないものと考えており、そのようなどこにでもあるような話を好まれる方々は、そこら辺りの既存の郷土史会、史談会に行かれ、村興し、町興し、世界遺産登録に拍手を送り、思いっきり尾を振られれば良いでしょう。


しかし私達は後ろ指を刺される様な探究に踏みとどまり、これまでの歴代の行政権力が隠し続けた真実の歴史の探求へと向かう人々への道標と成ろうと思うものです。




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2018年01月17日

ビアヘロ028 高良大社と宮地嶽神社の謎を解くみやま市山川町の謎の神社

ビアヘロ028 高良大社と宮地嶽神社の謎を解くみやま市山川町の謎の神社

20170531

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


今回は、以前から懸案であった山川町の山神宮の意味をようやく理解できる端緒が掴めましたので、途中経過ながらその一端をご紹介することにしました。

 場所は、筑後、肥後(九州王朝時代の筑紫と肥前の…)の国境の山川町(現みやま市)の難関インターに近い一角です。

 対応が遅れたのは、高良神社が背後に存在する事に気付かなかったからでした。

何度か訪問していましたが、当時は、山神宮の境内地だけを探し、高良神社の片鱗も無い事からそこで思考をストップさせてしまっていたのですが、メンバーの大石氏はその裏手の小丘の上にも高良神社が置かれている事を知っていたのでした。その事を最近になって教えられ、やっとスタート・ラインに立てたのでした。

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この神社がどれほど重要かは語り尽くせませんが、捏造され塗り潰された列島古代史の一端を垣間見せる筑後でも最も重要な現場がこの二社の祭祀連合体なのです。

百嶋先生の話を聴いていて最も理解できなかった部分が、久留米の高良大社と福津市の宮地嶽神社の関係でした。

現在把握できているだけの範囲でお話し致しますが、筑紫舞が継承され九州王朝系と呼んで間違いない宮地嶽神社は、現在、神功皇后と勝村大明神(藤勝村)、勝頼大明神(藤勝頼)を祀る神社とされています。

ネット上でも、この勝村、勝頼という近世風の氏名から古代(若しくは神代)のものではないとして祭神を宗像徳善とその臣下ぐらいなどと好い加減な見当を付けた意見が提出されていますが、まさに表面だけを浚った通説風の浅い追従論でしかなく、それも、宮地嶽古墳の主を宗像徳善…云々(Nダニ…)といった話が小田富士雄説の修整により潰れた事によっていずれは自然消滅していく事でしょう。

まず、宮地嶽神社は、現在、同社の祭神を神功皇后とその臣下である藤勝村、藤勝頼とされています。

百嶋神社考古学では、高良玉垂命(実は開化天皇)と仲哀死後の神功皇后との間に産れた第二子、第三子(朝日豊盛命、夕日豊盛命=九躰皇子の二子、三子…長子は仁徳天皇)とします。

このため、宮地嶽神社では高良玉垂命を伏せざるを得ない圧力があり、祭神までも変えていると理解しています。

一方、列島最高の権威を持った神宮以上の存在の神社であった久留米の高良大社も、本来は高良玉垂命と神功皇后それに仁徳を祀る神社(同時に本拠地)であったはずなのですが、こちらは神功皇后と仁徳とを隠し全く無関係を装う事を持って生延びたのでした。

何故、そのような事が言えるかというと、筑後の重要な高良宮、玉垂宮といったものには、この高良玉垂命と神功皇后を主神として祀った痕跡が複数あり、それ以外にも、高良神社と若宮神社として仁徳を祀る祭祀が国東半島を始めとして山梨…全国にも数多く拾えるからです(これについては半端な数ではないので「ひぼろぎ逍遥」跡宮のバック・ナンバーをご覧くしかありません)。

要は、本来、同一の祭祀(宮地嶽神社での高良玉垂命は、まだ、天皇にはなっていない、四王子山から高良山に上り天皇となる)の神社であったものを、宮地嶽神社では、ワカヤマトネコヒコを隠し、高良大社ではオキナガタラシヒメを隠す事を持って九州王朝の背骨を制圧し九州を平定したと考えるのです。

これこそが列島の神代と言うよりも古代史の最大の謎の部分であり、全国の九州王朝論者の方々にあってもほとんど理解されていないのです。

それは、フィールド・ワークの欠如(勿論、東北北海道の方々には中々要求できませんが…)による文献偏重が齎したものです。

九州王朝論者でも、ほとんど百嶋神社考古学の学徒だけが懸命に取り組んでいる状態なのです。

従って、如何に古田精神を継承しようされても、現場に入らない方々ばかりでは、「高良玉垂宮神秘書」に書かれた右の部分の一端さえも理解できずに、95パーセントが嘘(百嶋由一郎氏)と言われた「記」、少しは本当を書いている「紀」の藤原の罠に陥り、通説派にあしらわれてしまう構造にあるのです。

まさに、「記」「紀」をベースに古代の解明をされる方々の熱意と努力には敬意を表しますが、これ以外にも「高良玉垂宮神秘書」(コウラタマタレグウジンヒショ)には多くの謎が隠され閉じ込められており(例えば欠史八代と言われる天皇の中にも多くの九州王朝系の臣下が天皇として差し入れられている…)、これらの謎を解明する事無く九州王朝論云々する事は、ほとんど、素振りに近く、それ以下の「全国邪馬台国シンポジウム」などに取り組んでおられる方々、ましてや邪馬台国畿内説論者などという方々のお話に至っては、我々から見ればほとんど漫画や良くて「日本昔話」に近い構造になっているのです。

このような列島古代史の最大の謎であり同時に罠の部分を解明する鍵になるのが今回の山神宮であり、この地が山川町であることも、久留米市の高良大社直下の山川町(校区)に九躰皇子を祀る高良皇子神社、坂本宮が存在している事を意識せざるを得ないのです。

百嶋先生が話されていた事を再構成すると、“あれほど重要な天皇と皇宮皇后のご夫婦でありながら、宮地嶽神社でも高良大社でも夫婦別れをさせられている。”“それを、年に一度ぐらいは夫婦をご一緒になる様にお祀りをさせようではないか…と判断し、表(下)は、宮地嶽神社、裏、奥(上)は高良神社という形で祭祀を行った形が認められる事から、この神社(山神宮)を創ったのは、恐らく、菅原道真公であろうと思います…。”“横に道真公もちゃっかり祀られておられます…。”と言われていました。

この分離された高良玉垂命と神功皇后を復元しようとした神社ではあったのですが、現在は山神宮(山神社)として大山祗を祀る神社とされています。

神社を見ると、三階松の神紋が打たれ、神功皇后と仁徳と考えられる神像、道真公と思われる人像が下宮と言える山神宮の神殿に納められているのです。

逆に言えば、偽装して本当の祭神を守っているとも言えそうですが、現地のヒアリングを行っていないためこれ以上の踏み込みは許されないでしょう。

では、その神社をご覧頂きましょう。


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優雅で美しい山門があり三階松の神紋が打たれています

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参集殿は 左から左三つ巴、三階松、梅鉢の神紋

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神殿は左三つ巴に三階松が守られている形

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なかなか格調高い社殿です

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では高良神社に参りましょう

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神殿の御簾の内側には高良玉垂命が鎮座されていました 御簾を揚げる事から打上(ターシャン)神社と呼ばれる高良神社もありますが(大阪府) 神殿には鍵も掛けられておらず、少し開いていましたので きちんと閉める必要もありその前に少し覗かせて頂きました 「高良玉垂宮神秘書」では底筒男は月神とされています 高良玉垂命は月神でもあることから右三つ巴とも対応します

神像は一体で 御幣では三神とされている意味は 下宮の山神宮の神功皇后+若宮+高良玉垂命と理解しています これもいつ隠されるか分からない貴重な神社であり 第一級の文化遺産ですが 歴史ファンと称する方々も、村興し町興し宜しく宗像の馬鹿騒ぎしか関心がないようです

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 11:40| Comment(0) | 日記

ビアヘロ027 「すだち」と「かぼす」のうしろにはヤタガラスが見える

ビアヘロ027 「すだち」と「かぼす」のうしろにはヤタガラスが見える

20170317

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 豊後での生活に慣れてくると、どうしても、「椎茸(どんこ)」や「かぼす」…と接することが多くなってきます。

 そこで、考えていたのですが、徳島の「すだち」は「酢の橘」の意味である事はあまり考えなくても理解できます。

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スダチ(酢橘、学名:Citrus sudachi)はミカン科の常緑低木ないし中高木。徳島県原産の果物で、カボスやユコウと同じ香酸柑橘類。名称の由来は食酢として使っていたことにちなんで、「酢の橘」から酢橘(すたちばな)と名付けていたが、現代の一般的な呼称はスダチである。

ウィキペディア 20170317 22:03による


 問題は大分の「かぼす」の意味で、何故、「かぼす」「カボス」…と呼ばれているのか?が分からないのです。

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カボス(臭橙、香母酢、学名:Citrus sphaerocarpa)は、ミカン科の常緑広葉樹、または、その果実で、柑橘類のひとつである。

カボスという名の由来は明らかではなく、文献で確認できるのも第二次世界大戦後のことである。

ダイダイの一種に「カブチ」、「カブス」などと呼ばれるものがある。平安時代の深根輔仁による『本草和名』に、「枸櫞」「和名加布知」などの記述があり、現代でも和歌山県から三重県にかけてダイダイを「かぶち」と呼ぶ地域がある。また、1603年ごろ発行の『日葡辞書』にはCabusuの記載があり、1709年(宝永7年)に刊行された貝原益軒の『大和本草』にも、「カブス」についての記載があって、その名の由来は、「柑子」(かむし、かむす)が訛ったものとも、乾燥した皮をいぶして蚊よけに用いるからとも記されている。さらに、愛媛県の一部で三宝柑を「かぶす」、大阪府の一部で文旦を「かぼそ」と呼ぶ地域があった。しかし、これらの柑橘類の名称と「カボス」との関連も不明である。

漢字の「臭橙」は熟字訓、「香母酢」は当て字である。

ウィキペディア 20170317 22:03による


 立派に調べておられる事は十分に分かりますし評価に値しますが、何とも分かるようで分からない説明に留まっています。

 そこまでの話ならば、当方も一つの仮説を出しておきたいと思いたちました。所謂、言うたもの勝ち!

 そう考えた背景には、阿波=徳島と言えば忌部の国=ヤタガラス(豊玉彦)の国という概念が存在していたからでした。

ではお話に入りましょう。

まずは、一例になりますが、「阿波忌部の世界」をお読みください。阿波の神社調査に関しては一通り目を通している有力サイトです。

部門展示(人文)

阿波忌部の世界

会期 2005.6.21(火)〜8.21(日)

執筆分担 はじめに・124=長谷川賢二、3=高島芳弘)

はじめに

 阿波忌部とは、古代の朝廷祭祀を担当した忌部氏に奉仕した集団です。吉野川市の発足に伴って消えた「麻植(おえ)郡」の名称は、阿波忌部にちなんだものとして知られているように、阿波の古代史を語る上で忌部の存在は重要です。
 この展示では、館蔵の考古・歴史資料により、阿波忌部の世界を紹介します。


1 阿波忌部とは何か

 古代の史料には「忌部」が多く見られますが、これらは2種類に分けられます。(1)中臣氏と並んで朝廷の祭祀を担当した忌部氏、(2)忌部氏に従属して王権に奉仕した職能集団である地方忌部です。阿波忌部は後者の一例です。地方忌部は阿波のほかにも、讃岐、紀伊、出雲などに置かれました。また、阿波忌部の一部が、房総半島に移住したともいわれています。 

阿波忌部は東遷したか

 『古語拾遺』には、次のような伝承が記されています。阿波忌部の一部が東国に移住し、彼らの居住したところを阿波から分かれたということで「安房(あわ)郡」と名付けたというのです。安房郡は、8世紀以後、安房国(千葉県)となっています。
 このような、阿波から安房への移住伝承は、黒潮の流れを踏まえたものである可能性があります。すなわち、黒潮に乗って移住した人たちがいたことを示唆するものといえるでしょう。
 しかし、現在知られている史料では、安房地方に忌部の分布は確認できません。したがって、阿波忌部の東遷伝承が事実だと断定することはできません。


2 文献に見る阿波忌部

 阿波忌部の存在は、8世紀以降の文献史料などから知られます。具体的な人名が記されたものもありますが、とくに、平安時代の『古語拾遺』や『延喜式』には、阿波忌部の役割などが詳しく記されています。これらから、阿波忌部が天皇の即位儀礼である大嘗祭に奉仕したことや、本拠地である麻植郡に、祖神である天日鷲命を祭った忌部神社があったことなどがわかります。


阿波〜和歌山〜奈良が、忌部というよりも、豊玉彦(ヤタガラス)の領域であった事は百嶋由一郎氏の話と併せこれまでにも何度となく触れてきました。

 その阿波に於いて、@ ダイダイを「かぶち」と呼ぶ地域がある。A 『日葡辞書』にはCabusuの記載があり B 貝原益軒の『大和本草』にも、「カブス」についての記載があって、その名の由来は、「柑子」(かむし、かむす)が訛ったものとも…となると、消し去る事の出来ない強烈なイメージが湧いてきました。

 それは、賀茂族=加茂族=鴨族=カモ族の酢橘だったのではないか?「カモの酢」という意味です。

 まず、橘一族が、白族と呼ばれる大幡主の一族であることが理解できれば、後は自ずからすんなりと分かってくるはずです。

 勿論、賀茂族とは、京都の上賀茂、下賀茂に象徴される大幡主〜ヤタガラス(豊玉彦)系の民族と言った意味です。

 その一族こそ橘一族であり、中国の白族であり、九州王朝を支えた有力豪族だったのです。


 県犬養三千代

県犬養 三千代(あがた(の)いぬかい の みちよ、天智天皇4年(665年)? - 天平5111日(73324日))は、奈良時代前期の女官。橘三千代ともいう。

生涯『新撰姓氏録』『尊卑分脈』によれば父は県犬養東人とされるが、東人の事跡は不明で、母も不詳。出生年月日も不明であるが、出仕時期から天智4年(665年)出生の可能性が考えられている。県犬養氏は屯倉を守護する伴造氏族のひとつで、壬申の乱では県犬養大侶が大海人皇子(天武天皇)に近侍し、天武天皇13年(684年)に宿禰姓を賜った中堅氏族。

三千代の出仕時期は不明であるが、天武8年(679年)には氏女の制により豪族女性の出仕年齢が15歳前後に定められ、三千代も同年に命婦として宮中に仕えたと考えられている。配属先についても不明であるが、和銅元年(708年)11月には即位直後の元明天皇から橘宿禰姓を賜っており、また養老5年(721年)5月には元明太上天皇の病平癒を祈念して仏門に入っていることから、天智天皇の娘で草壁皇子の妻となった阿閉皇女(元明天皇)に出仕した可能性が考えられている(義江 2009)。

はじめ敏達天皇系皇親である美努王に嫁し、葛城王(後の橘諸兄)をはじめ、佐為王(後の橘佐為)・牟漏女王を生む。

ウィキペディア20170322 16:32 による


 目を瞑る(ツムル)と言う言葉と目を瞑る(ツブル)と言う言葉が、発音は全く異なるものの、同じ意味を持っている事はお分かり頂けると思います。

当然、「ひもろぎ逍遥」も「ひぼろぎ逍遥」も同じ概念ですし、「カムル」も「カブル」もそうです。「カムリつく」と「カブリつく」も「湯あみ」と「湯浴び」も同様です。

このようにM音とB音とが入れ替わっても意味が全く変わらない言葉が日本語の中には驚くほどたくさんあるのです。

 とすると、「カボス」は「カモス」とも考えられそうだとお分かり頂けるのではないでしょうか?

 そうです、賀茂族か列島に持ち込んだ酢橘こそ「カモス」であり「カボス」であるという話になるのです。

 大分県が中心だったことから当然ですが、現在、ガボスは96%が大分県で生産されています。

地域的には、竹田市、豊後大野市、臼杵市といった豊後地方を中心に生産されているようです。

 最近、神社を詳しく調べて行くと、この領域も阿蘇氏、大蛇伝説の大神氏、金山彦、ヤタガラス…の領域であった事が分かって来るのですが、ここから構造線を辿って四国の脊梁山脈、徳島、和歌山、奈良と金属鉱床のラインと共に、柑橘系の橘一族のラインも通じていたように思えてきます。

 故)百嶋由一郎氏は、生前、伊勢は大幡主の領域であったと言われていました。

 その伊勢も現在三重県と呼ばれている事にも関心を持っています。

 それは、豊後大野にも三重町があり、一説には松尾芭蕉も豊後の三重辺りの出身だったと言う話まであるのです。

 この間、豊後の最奥部の神社調査を進めてきましたが、伊勢とは神武皇兄五瀬命(イツセノミコト)の伊勢ではないのか?宮崎県五ヶ瀬町、五ヶ瀬川とも関係があるのではないのか?

カボスとスダチにも関係があるのではないのか?といった話にまでイメージの暴走が止まらなくなっています。

また、阿波の神社調査にも行きたいと思っているのですが、思考の暴走を繰り返している中で、カボスの語源を考えてみただけの思い付きに過ぎませんので、その範囲でご理解いただきたいと考えているところです。


かぼす(香母酢)

かぼすと呼ばれるようになった所以は、かぼすの果皮を細かく刻み、蚊やりとしていぶして使用していたため、「蚊いぶし」から「かぶし」に転じ、そして現在の「かぼす」という名称に落ち着いたのです。


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こういった気楽な話であれば簡単なのですが、お考えは自由です。

恐らく、かぼす(香母酢)はかもす(賀茂酢)が起源であろうと考えています。

そして、持ち込まれたルートも海南島の加茂(チャマオ)からだったのではなかったかとさえ考えています。


賀茂族=博多の櫛田神社の大幡主の一族は、雲南省昆明から海南島を経由して列島に移動した白族の後裔であろうと言う話はこれまでにも何度となくお話ししています。

再度お読みになりたい方は、ひぼろぎ逍遥から以下などを参照下さい。


209 阿蘇の草部吉見と博多の大幡主の御先祖がおられた海南島について“コピーペーストも活用しよう”

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白族が住み着いたと思われる海南島南西部の加茂


posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 11:33| Comment(0) | 日記

ビアヘロ026 大山祗の子大国主は何故トルコ系匈奴と言えるのか? “宮古の縁側日記から転載” ビアヘロ026 大山祗の子大国主は何故トルコ系匈奴と言えるのか? “宮古の縁側日記から転載”

ビアヘロ026 大山祗の子大国主は何故トルコ系匈奴と言えるのか? “宮古の縁側日記から転載”

20170117

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

連携blogの「スピリィチュアル・ヒーラー宮古の縁側日記」に重要な記事が掲載されました。

「ひぼろぎ逍遥」、「ひぼろぎ逍遥(跡宮)」の読者にも是非読んで頂きたいと思いますので、許可を得て全面転載させて頂く事にしました。皆さんも、「…宮古の縁側日記」に注目を。


48 龍族大国主の複雑な事情@2017-01-11 11:24:10

きらきらあけましておめでとうございます〜きらきら今年もよろしくお願いいたします。

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出雲大社と言えば大国主神です。

日本書記ではスサノオの息子、古事記ではスサノオの6世孫、7世孫と判然としていません。

大国主には沢山の名前があります。

大國主大神

根国から帰ってきてからの名。大国を治める帝王の意

大穴牟遅神(おおなむぢ)

大穴持命(おおあなもち)

大己貴命(おほなむち)

大汝命(おほなむち)

播磨国風土記の表記

大名持神(おおなもち)

国作大己貴(くにつくりおおほなむち)

八千矛神(やちほこ)

須勢理姫との歌物語の名

葦原醜男

葦原色許男

葦原志許乎

あしはらしこを   根国での呼称「しこを」は強い男で武神

大物主神(おおものぬし)

古事記においては別の神、日本書紀においては国譲りの別名

大國魂大神(おおくにたま)

顕国玉神・宇都志国魂(うつしくにたま)

根国から帰ってからの名

伊和大神(いわおおかみ)

播磨国風土記での呼称

所造天下大神(あめのしたつくらししおおおかみ)

幽冥主宰大神(かくりごとしろしめすおおかみ)

杵築大神(きづきのおおかみ)

あまりに多すぎて覚えきれません。一体どんな人物なのでしょうか?

まず、大国主とは国を治める王様、王君と言う意味なので名前ではないのです。

固有名詞ではありません。

出雲の王様であるとするならば名前があるはずなのに具体的には記紀には書いてなのです。

漢字の成立は少なく見積もっても紀元前6世紀には成立していました。

紀元前2590年には漢字の元になった甲骨文字、象形文字等があります。

最古の漢字は殷の時代紀元前1046に占いの結果を書き残す為に使用されています。

大国主の名前は何と言ったのでしょうか?沢山の名前から推理して見ましょう。

大穴牟遅・大穴持・大己貴命・大汝命

おおなむじ・おおあなもち・おほなむち

似たような名前ですね。

元は一つだった名前の漢字のフリガナを変えて言い換えているようです。

ヒントは大物主(おおものぬし)です。

古事記でも大国主と大物主は別人だと言っています。

日本書紀おいては国譲り後の別名とあります。

大国主の神話は大国主にとっての都合の良い作り話ですが、いつものように作者は真実を織り交ぜています。

スサノオのいる根の国大国主なる人物は行ったのです。

播磨風土記に書いてあります。

スサノオの娘を嫁に貰いに行ったのです。

もちろん、断られました。

大国主はそのまま引っ込んでいるような性格ではありませんでした。

スサノオ軍団と戦い武力で勝ち取りました。

娘を略奪したのです。

スサノオの娘を連れて意気揚々と引き上げて行きました。

大国主には二人の妻がいます。

八上姫(ヤカミヒメ)

根の国からの帰還後では最初の妻とされる、こちらが略奪したスサノオの娘

辛国息長大姫(カラクニシナオオヒメ)

古事記ではアメノウズメにされています。

須勢理姫(スセリヒメ)

スサノオの息子の妻を略奪した最初の妻で正妻。

本名は瀛津襲足姫(オキツヨソタラシヒメ)

古事記では豊玉姫になっています。

都合二回戦っています。

狗奴国の乱

長髄彦の乱.....長髄彦はスサノオの息子で王子様。

古事記では、長髄彦は一方的な悪者。

大国主は一人で戦いに挑んだわけではありません。

沢山の兄達軍団(匈奴軍団)で、

スサノオ軍団(月氏軍団)に奇襲攻撃をかけたのです

何故、スサノオに断られ攻撃してまで娘達を得なければならなかったのか。

それは、サカ国スサノオとはあまりに身分が違いすぎたからです。

複雑な事情が大国主にはありました。(続く)


49 龍族大国主の複雑な事情A2017-01-12 23:11:04

大国主を取り巻く複雑な人間関係。

先ずは、大国主の名前です。

姓は(キム)

母方の出自がセレブです。

呼韓邪単于(こかんやぜんう)

燕の女王 王昭君(おうしょうくん)の子供の子孫、金朱露(キムスロ)の子孫です。

51年匈奴の王族呼韓邪単于は、漢に入朝して王昭君婿になりました。

wikiによれば姓を(りゅう)に変えた事になっています。

しかし王昭君の姓になどはないのです。

後世の辻褄合わせです。

前漢の高祖劉邦は主君である項羽より先に手柄を立て、下克上で漢王になりました。

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しかし、劉邦の死後皇后の呂氏一族の悪政により一族は粛清されました。

この時に劉邦一族の下克上は終わりを告げたのです。

後に地方に散った残党も処分されています。

5代目の孝文帝からきちんとした国造りが行われました。

6代目の孝景帝も父に習いました。

民から税金を取らない事や肉刑や宦官を廃止しました。

国は富、中国で興った国の中で一番豊かな時代「文景の治」言われています。

孝文帝は劉邦の子供という事になっていますが、たった一度、褥を共にしただけで生まれた子供なのです。

金朱露は金官伽耶の王様になっています。これは大きな誤魔化しです。

中国と朝鮮で歴史の捏造をしています。

金朱露は後漢の2代目皇帝劉荘です。

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前漢 孝武帝の時代に五銖銭を制定しています。

五≒皇帝

+

皇帝  金朱

皇帝 金朱(きむしゅ)が 造ったお金と言う意味です。

金朱露の名はここからきているのではと推測しています。

造ったのは燕の国です。

金朱露は燕の王様。

本当に漢と言う国はあったのでしょうか?

「漢書・後漢書」は文官出身の司馬遷が相当大袈裟に書いてある小説のようなものです。

全てを鵜呑みにはできませんね。

その金朱露の子孫の金超智(キムオチ)の娘の超智姫(別名 燕脂姫 エンジヒメ)の娘の

アイラツ姫(アカル姫)お母さんです。

それでは、お父さんはと言うと.....

劉邦の子孫であると言う事は間違いありません。

劉邦の出自は薛延陀族(せつえんだ)    賎民です。

河原よもぎ

河原ナデシコ

鉄奴隷

白菊

そのような立場から戦闘能力を買われ密偵から成り上がった強者です。

(密偵≒草の者)

河伯(ハベク)河童です。

朴氏です。

当然ですが、燕のお姫様と婚姻できません。

略奪したのです。

そして生まれたのが大国主です。

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母違いの兄  

猿田彦(サルタヒコ)   別名 饒速日(ニギハヤヒ)山幸彦

延陀彦(エンダヒコ)塩田彦→猿田彦

この方の姓は(パク)です。

からが出ています。

その兄に虐められた大国主。(続く)     参考 百嶋由一郎最終神代系譜

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参考 百嶋由一郎(高氏)系譜

連携blogの「スピリィチュアル・ヒーラー宮古の縁側日記」に重要な記事が掲載されました。

「ひぼろぎ逍遥」、「ひぼろぎ逍遥(跡宮)」の読者にも是非読んで頂きたいと思いますので、許可を得て全面転載させて頂く事にしました。

ただ、この第3 blog「建磐龍(たけいわたつ)が、大国主の別名です。」に至っては当方も理解の領域を超えており、目下のところ学習中と言ったところです。


50 龍族大国主の複雑な事情B2017-01-14 22:50:26

178年大国主30才。

決断を迫られていました。

頼みの綱だった後漢機能不全の末期状態。

南匈奴も否応なしに無益な戦いに繰り出され青息吐息でした。

大国主は大きな溜息を一つつき腰に剣を挿しました。

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自分を頼ってきている何人もの義兄弟、従兄弟、親戚を食べさせて行かなければならない。

あんなに幼い時に虐められたのに...今更。

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大国主は、呼韓邪単于と王昭君の子孫匈奴の貴種(王族階級)です。

これから、スサノオ(月氏軍団)と戦わなければならないのです。

又、父親と同じ事をするのかと思いました。

大国主に母の記憶はありません。孤独が憂鬱を生んでいました。

大国主の母はアイラツ姫(蒲田姫)です、

父は河伯(河童)

記紀では神沼河耳になります。

神沼河耳(河伯・河童)アイラツ姫を略奪して生まれた子供です。

神沼河と言う名前は女神を表しています。

男性の使う名前ではないのです。

神沼河姫アイラツ姫(アカル姫)です、どんな形であれ子供を産んだ事で夫婦になったので神沼河耳と名乗った事にしたのでしょう。

結局、大国主も同じ事をしました。

スサノオの娘と長髄彦の妻を略奪したのです。

阿蘇の蹴破り伝説で有名な建磐龍(たけいわたつ)が、大国主の別名です。

奥方の名前は豊秋津姫(とよあきつひめ)

別名・豊玉姫、瀛津襲足姫(おきつよそたらしひめ)

二人の子供は下照姫です。

もう一人青玉繋(あおたまかけ)と言う息子がいるようですが調査中です。

大国主は根の国に行きました。

根の国(あの世)に旅立った....38才でした。

大国主は匈奴の血が入っていたからと言って大雑把な性格ではありませんでした。

繊細な神経の持ち主だったのです。

根の国から帰ってきたのは、義理の兄山幸彦息子の大山咋(18)でした。

大山咋が大国主の跡を取ったのです。

大国主の奥方達は山幸彦の妻になりました。(レビラト婚、逆縁)

大国主亡き後、山幸彦率いる匈奴軍団は安住の地(倭国・九州)を得たのです。

スサノオ達にとっては不穏の幕開けでした。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 11:29| Comment(0) | 日記