2022年03月15日

ビアヘロ193 「早良区に移動したその後の 河上 猛」小規模講演会向けに用意したレジュメ 

ビアヘロ193 「早良区に移動したその後の 河上 猛」小規模講演会向けに用意したレジュメ 

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太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


パワー・ポイントを使い講演するのは便利ではあるのですが、実際の作業となると実に大変で、その基となるブログを作った上で、次に講演用のパワー・ポイントを、パソコンが苦手と言う方のためにも手書き資料を別途用意し、さらにパソコンを使う方のためにCDDVDでの資料を作る場合さえあるのです。

 昔のように、単にお話をさせて頂くだけの方がどんなに楽か考えさせられるばかりです。

 さらに参加できなかった方のためにICレコーダーで音声記録を残し、CDに焼いて配布してくれなどと言われれば、もういい加減にしてもらいたい…と言いたくなるのです。

 しかし、少しでも古代、神代の真実を伝え、残したいと思えば、頚肩腕症候群で二週間寝込もうともやらざるを得ないのです。ともあれ、二つのパワポを準備しました。

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左は一度現地某寺院で講演に使用していますが、今回発表したいのは、年末年始に掛けて取り組んだ続編にあることは言うまでもありません。

 ところが、この「古事記」「日本書紀」に登場する「倭建命」「日本武尊」の説話の舞台が、佐賀県の旧大和町の川上峡であるなどと知る人などいるはずもないのですから、本来は左からお話しし、続編に入るべきなのですが、これについては実験的に、“ヤマトオグナに許された後の河上 猛のその後”の話を先行し、次に元々の佐賀県側(長崎自動車道佐賀大和インター)周辺の話に戻ろうと思うものです。

 何故ならば、福岡市早良区の話は実に臨場感があり、とても神代の話には思えない鬼気迫る現実味があるからで、その延長上に本編に踏み入る方がよりリアルに思えるのではないかと思うからです。

 とはいっても、事前資料は用意せざるを得ません。この現場が、古代の有明海の湾奥の現佐賀市であったという話から始めることにします。ただ、また同じようなブログを書いても二重になるだけですから概略だけを箇条書きにしたいと思います。

@  40年ほど前、旧「大和町史」の拾い読みをしていると、淀姫神社の西の山の中腹に河上 猛の墓(墓があったとの表示)との伝承が存在したと言った記述があることを知りました。一方、以下。

A  戦時中に熊本市役所にお勤めだったのですが、熊本では稀有の九州王朝論者である平野雅廣(日偏が着く)氏が「倭国史無題.png談」外3著を残されています。この「倭国史談」37pには異説「ヤマトタケル」という小稿が収められており、「佐賀県史跡名勝天然記念物調査報告」上巻に「蠣久府址」の説明文を掲げられ、「往古此地は九州一の都会、…戸数三千、富豪巨商軒を連ねし所、…日本武尊河上村に熊襲追討…」と。また 旧川上村は佐賀郡大和町と…昭和50年の同町「大和町史」の伝説民話にも ●大願寺の山中で、熊襲が里の娘たちを集めて、大酒宴の最中、日本武尊に殺された。…そこから一キロ北に行基が創建したという健福寺跡があるが、そこに熊襲の墓と伝えられる墓碑が建っていたという、川上梟師に関する伝承が記されている(大願寺、健福寺は共に大和町北部)。淀姫神社についても…

 無題.png「脊振村(現神埼市)広滝 で許された河上猛とその一族はその後背振山を越え福岡市早良区に移り住んだ」とは我が師百嶋由一郎だった。この話をどこから回収されたかは今後の課題ですが、まずは、真実を探る事に一生を掛けた先生らしいとの想いが募ります。では、早良のどこなのか?誰なのか?は百嶋由一郎の強烈な影響を受けた十数名の人々(百嶋先生の面授の弟子)が等しく抱き続けた謎に踏み入りましょう。 私は五年ほど前から早良の南から虱潰しに神社を廻ることから始めましたが埒が明かず結局徒労に帰しました。そこで、年末から百嶋由一郎が残した手書き資料を探し出しました。驚くことに、河上 猛の母奈留多姫は八坂刀女と名を改めアスハ(後の建御名方)と道行に走った。と書かれていたのです。では、早良区の諏訪神社はと言えば、原の諏訪神社しかないのです。しかも、M氏の情報によると八坂刀女が石碑の由緒書きに書いてあるという情報までもたらされました。そこで現地のフィールド・ヲーカーのN氏と111日、諏訪神社を踏むと、裏には大神氏以下、佐賀にもなじみのある多くの名前が付されていたのです。

 後日、「福岡県神社無題.png誌」で確認すると、以前の宮司家の名も掲載されており、河上 猛の一族とはこの一族だったのではないかとの推測が一応は立ったのでした。後は現地伝承を両面から探る作業を行うことになりますが、恐らくこれも徒労に帰すでしょう。ともあれ、当面の課題はクリアしました。

 そこで、栄えある河上 猛のその後の姓が大神だったとしましょう。直ぐに頭を過るのは豊後竹田から豊後大野に掛けて盤踞した阿蘇の大神一族の事でした。後には辛島氏などと並び称せられる宇佐神宮の宮司家=大神比義の一族となり「平家物語」にまで登場するのです。彼らは祖母山に豊玉姫を祀りました。それは河上 猛から見て祖母だったからであり、祖母山の名はここに端を発していたのです。さらに言えば、この一帯に異常にも広がる「ウガヤフキアエズ王朝説」も猛にとっての父とは久留米高良山にいたウガヤフキアエズだったからなのです。この説の底の浅い構造に改めて興ざめしたのでした。

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2022年02月24日

ビアヘロ192 福岡市早良区の諏訪神社の由緒略記を寄贈された方々のご出身地を知りたい 

ビアヘロ192 福岡市早良区の諏訪神社の由緒略記を寄贈された方々のご出身地を知りたい 

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太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


凡そ明治のころまでは、皇室、大名家、高級官僚…といった高位の人々を除き、県を越えて嫁を貰ったり、養子婿を貰ったりするという事は無かったと言われていました。

 だからと言って、犬や狸のように半径一〜二キロからと言うこともなく、うちの一族は決まってどこどこの集落から嫁嬢さんを貰う習慣があり、間違っても通婚の習わしの無い集落からは嫁取り婿取りはしなかったという事は普通に理解される事だったのです。

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今までこそフリッピンやブラジルなどからお嫁さんを貰ったり、息子がオーストラリア留学でイタリア人のお嬢さんを連れてきてしまった…と言った話がありますが、百年前までは100人に1人もない事だったのです。

 なんでそんな話を持ち出したのかと言うと、もしかしたらこの神社氏子の方々の全部とは言わないものの、1700年以上も前にかなり纏まった数の方達が背振山を越えてやってきたのではないかと考えているからです。

 情報が限られた中、それでも河上 猛の末裔の一族が山を越え、この地に辿り着いたのではないかという神代史の消された事実を発掘できるかも知れないという淡い希望性を探ろうとしているからです。

 ここまで言えば罵声が飛んできそうですが、そういう方たちは通説派の学芸員などが言うご追従説を聞いて信じ込んでいれば良いだけでこのような方々には真実の発掘など決してできないだけの事なのです。

 まず、江戸期の藩政時代に百姓は姓が無かったなどと平然と語る方々がおられますが、仮に百姓身分だったとしても本家が武家の場合は分家は百姓身分で無名になっていたのですし、そもそも滅ぼされ敗残した武家はお家再興を目指し、荒野の開拓を行いながらも家名を持ち続けた人々もいたのです。

 つまり、幕藩体制下では、百姓は氏姓を持たない、使わない事にしていただけだったのです。

 勿論、最下層に落とされた土地を持たない小作人も居たでしょうし、逃散した人々も居たでしょう。

 だからと言って明治以前の百姓が一切姓を持っていなかったなどと考えるのは早計過ぎるように思います。

 ただ、我々が考える3世紀の背振を挟んだ佐賀、福岡のかなりの有力な人々に共通する姓氏を探ろうとすることは無謀と言われる事には理がある訳で、暴走は承知の議論なのです。

 仮に河上 猛の一族が早良に移動したとしましょう。

 彼らは追放された猛に近い一族(首謀者)だけで移動しているはずで、佐賀県の旧大和町一帯にこの地と繋がりのある人々がいたはずで、娘や婿のやり取りは間断なく行われていたのではないかと思うのです。

 すると、明治になり大ぴらに氏姓を主張できるようになったならば、山を挟んでどの名を採用するかは同族付き合いの中で、自ずと決められたのではないかとまでは言えそうなのです。

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そこで、昭和61年にこの壽和会に名を連ねられた30人ほどの長老の方々の姓が佐賀とどれぐらいの対応を示しているかを見てみたいと思います。

 まず、筆頭の大神 様です。河上 猛の母君である奈留多姫とは明らかに阿蘇系の人物です。

 百嶋由一郎最終神代系譜で考えても、阿蘇の初代統領とされる惟人の妹か姉なのですから、後の藤原が阿蘇家を起点としている事を考えれば、有力な家系である事は言うまでもないでしょう。

 また、大神一族は、阿蘇大蛇伝説で知られる豊後大野の緒方三郎惟栄(緒方、尾形、大神…)に繋がり、宇佐神宮焼討ちなど「平家物語」にもその名を轟かす豪族でもあったのです。

 ちなみに荒城の月の岡城も本来は大神城であり、義経を招き入れ、頼朝と一戦やらかそうとした剛の者だったのです。

 当然、佐賀にも大神姓はあり、大賀と合わせ、有力家系である事は言うまでもありません。

 それほど多くはありませんが、早良の真南の様な場所に大神さんはおられるのです。

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大蛇の末裔という伝説をもつ大神(おおが)惟基の子孫です。
惟基は大和国大神(おおみわ)氏が下向し土着したとも、宇佐八幡宮創始に関わった
宇佐大神(おおが)氏ともいい、代々大野郡の郡司であったと考えられています。

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平氏の大宰府掌握後、惟栄は重盛(清盛嫡男)と主従関係を結び、緒方荘の荘官から豊後武士団の棟梁となり、優れた指導力を発揮しますが、九州に支配力を強めていた平家に反発し、頼朝挙兵後、重盛の家人でありながら兵を挙げ、反平氏の中心的人物として目覚ましい活躍をしました。
 緒方荘は祖母山北西一帯にあり、中世には108村を併せ持つ大領でした。

平家物語・義経伝説の史跡を巡る

次に、武田姓を考えましょう。

関東武士団武蔵7党などにも武田があるのですが、古くは熊本の小国にいたと思っています。

海援隊の武田鉄矢氏のご母堂は北里柴三郎の生家の北側の領地を持つ大地主だったと聴いており、家勢を失った後、母君が博多に出て来て育てられたため海援隊では武田姓を名乗ったとされているので、甲斐姓も含め、甲信に覇を競った武田氏も熊本起源ではないかと考えています(これは何れ別稿としなければなりませんね)。

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最も興味深いのは、槙 姓です。

 槙とは古くは有力者の棺をこさえる素材であり、それだけで身の引き締まる思いのする樹種(高野槙)ですが、この槙姓を持つ方が、早良の南に大量に居られるのです。

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真っ赤になっており50家を拾えますが、佐賀市から神埼市そして吉野ヶ里町と古代でも要地に分布されておられ、その意味で、ヤマトタケルの伝承の残る 白角折(オシトリ)神社 佐賀県神埼市の神社がある一帯でもあり、非常に興味深いところです。

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小田姓も佐賀にはたくさんお住まいですが、明らかに系統が異なると思われる真鍋姓も佐賀県には多いのです。有名な那珂川町(当時)の真鍋大覚(九州帝国大学物理学)の真鍋姓です。

 真鍋大覚は自らイスラエル系と自ら言っていた様ですし、ここでは対象外かも知れません。

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全てを取り上げても良いのですが、ここらでやめておきましょう。

 諏訪神社の氏子の壽和会の方々は、福岡市の中心部で戸建て住宅をお持ちなのですから、それこそ地方の人々から見れば垂涎の的ともいえる資産家の方々ですから、1700年の時を経て平安を得たのでしょうか?

 探索はまだまだ続きます。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ

2022年02月21日

ビアヘロ191 福岡市早良区に移住した河上 猛(熊襲 猛)の一族が住み着いた現地を確認した 

ビアヘロ191 福岡市早良区に移住した河上 猛(熊襲 猛)の一族が住み着いた現地を確認した 

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太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


  本稿は 923 ヤマトオグナに誅伐された栄えある河上 猛は許され 今もその一族は福岡市早良区に住んでいる 2022010 の続編になりますので、前ブログを読まれた上こちらをお読み下さい。


当会の主要メンバーの大半は百嶋先生が残されたメッセジ「さらにタケルは許され、その一族は今も山を越えた福岡市早良区にまとまって住んでおられます。分かっているけど可哀そうで公表できない…」については十分に承知されていましたが、我々が活動出来る寿命も残り1015年程度であるこ事を考えるとそろそろ決着を着けなければならないと考え作業に乗り出したのでした。

当初、メンバーの女性2名を加えて4名で行く予定でしたが、事務局のN氏の出発が遅れるため、調整が着かず、結局、事務局長と私だけで現地の再確認に向かいました。

朝から午前中一杯雨が降った後、午後3時頃から出掛けたのですが、現地に着くとかなり冷え込んでおり、私にとっては寒い中での初参拝となりました。

実は、午前中は朝7時半ぐらいから某ホテルで10人弱の女性を対象に2時間ほど愛媛県伊予市の伊予稲荷神社についての話をした後、徒歩で福岡市の中心部に鎮座する住吉神社の参拝に行っておりました。

企業などの初詣か多くの参拝客が境内を埋めており、その隙間を縫って私にとっては30年ぶりの参拝となった訳です。

ともあれ、目的地であるの福岡市早良区原の諏訪神社に訪れたのは夕方4時頃でした。

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 参拝殿は壁がない土間に屋根を掛けた風が通る形式のもので、古い時代のそれである事が分かります。

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広い境内であるにも拘わらず境内は清掃が行き届き、塵一つ落ちていません。神社の維持が難しくなっている時世柄、地域の方々の神社への尊崇の念とご努力には改めて頭を下げさせて頂きたいと思います。

 無題.pngその一角に氏子の老人会に相当する年長者による壽和会によって寄贈された由緒略記、記念碑、顕彰碑(このような表現が適切かどうかは分かりませんが)が建てられていました。

 昭和61年ですから36前に建てられたものですが、材質と彫が良いため今尚鮮明に読めるものでした。

 表(参道側)は同社の由緒であり、裏は寄贈された古老の方々の名を書きとめたものですが、少し変わった内容が書かれているのです。

室町後期と言うよりも、実質戦国時代の初期と言った方が適切で、既に関東から甲信地方では騒乱が始まっていたのです。

 その頃に下諏訪に行き建御名方ではなくお妃の八坂刀女を勧請していると言うのです。

解読に誤りがなければですが…。

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これは何とも奇妙な話であり、この地におられる方が、八坂刀女(旧名 奈留多姫)と何らかの関係があると考えられそうなのです。八坂刀女=奈留多姫は百嶋先生の解読であり、定説ではありません。

 我々もその勢いで考えている事からそちらに傾斜して話すのはご容赦願いたいのですが、普通に考えても不思議な感じがするのです。ただ、当方も後で気づいたのですが「神話を科学する(神社探訪)」氏もそう解読されています。

以下…。無題.png


建御名方(建南方) 実は建御名方は事代主の兄弟では無く倭国大乱の折、南九州を本拠地としていました。建南方は南九州の熊襲の頭領で長髄彦の乱に呼応して「建南方の乱」を起こしました。

しかし、建南方は父・春日大神(天忍穂耳命)に説得され降伏しました。

そして、周囲から奈留多姫(なるたひめ 母は雨宮姫)を妻に世話してもらい、奈留多姫は八坂刀売(やさかとめ)と改名して二人の新天地・信州諏訪へ旅立ちました。その際 奈留多姫は一族・熊襲及び阿蘇家の人たちを福岡市早良に残して行きました。


また、当会メンバーの宮原誠一氏(「宮原誠一の神社見聞諜」)No.146 光と影の奈留多姫を祀る福岡県糸島の産宮神社 でも以下のようにお書きになっています。


No.145奈留多姫不在の福岡県篠栗町の諏訪神社」の奈留多姫の続きです。
奈留多姫(なるたひめ)は諏訪大社の祭神・建御名方神(たけみなかたのかみ 建南方)の妃で、諏訪にあっては、八坂刀売神(やさかとめのかみ)と名を変えられました。
福岡市西区にあっては、奈留多姫と名乗られ、鵜草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)の妃でした。奈留多姫は天忍穂耳命の御子・天忍日命と雨宮姫との間の姫君です。
「奈留多姫」も「八坂刀売」も、この名称は『記紀』には出て来ません。
福岡県糸島市波多江駅南に奈留多姫を祀る産宮神社(さんのみやじんじゃ)が鎮座です。
奈留多姫の名称で祀る神社は、糸島市波多江の産宮神社が唯一ではないでしょうか。
産宮神社の奈留多姫命は安産守護の神様として広く崇敬されています。
奈留多姫は懐妊に当たり、胎教を重んじ、豊玉姫、鴨玉依姫の両神の前にて、「月満ちて生まれん子は端正なれば永く以て万世産婦の守護神ならん」と誓い出産に臨まれています。
産宮神社の社説とは異なりますが、
鵜草葺不合命と奈留多姫の間の御子がクマソタケル(後の川上タケル)と豊姫(ゆたひめ)です。
建御名方と奈留多姫の間の御子が息長宿禰です。息長宿禰と葛城高額姫の姫が息長足姫(神功皇后)で、息長足姫は開花(ママ)天皇の皇后です。
『記紀』では、孫娘の息長足姫は開花(ママ)天皇の皇后ということは伏せられますが、神功皇后で有名です。

息子のクマソタケルはクマソの頭領となって天皇家に乱を起こされ、ヤマトタケルに成敗されます。
兄の川上タケルの反乱の後始末で、妹の豊姫は汚名を灌ぐため大変苦労され、天皇家(開花天皇)に尽くされます。孫娘の息長足姫が開花天皇の皇后となられと、豊姫は神功皇后よりも年上ですが、妹として活躍されます。
奈留多姫の子息は天下の反逆者・川上タケルであり、孫娘の息長足姫は開花(ママ)天皇の皇后となられ、奈留多姫は光(栄光)と影(反乱)の持ち主です。
糸島市波多江の産宮神社の社説では、主祭神は奈留多姫で、夫の「鵜草葺不合命」と鵜草葺不合命の妃の「鴨玉依姫」は脇神となっています。
しかし、社殿の造りは、鵜草葺不合命が主祭神で、妃の奈留多姫と鴨玉依姫は相殿となっています。

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由緒略記にも書かれているのですが、参道入り口に置かれた神社標柱も住吉の紋章であり、諏訪の神紋のはずの諏訪梶=所謂梶紋ではないのです。これも不思議なことです。

九州全般でもあまり梶紋を見掛けませんが。

 従って、やはり仮に諏訪の神を祀るとするも、元々は住吉や奈留多姫に関係が深い一族の神社だったのではないかと言う疑念が付きまとうのです。

 唐人町に住んでおられた百嶋由一郎氏がこの神社を見ていなかったとは到底考えられません。

では、百嶋神代系譜をベースに再度考えて見ましょう。

 八坂刀女とは奈留多姫が早良に移動した後、夫であるウガヤフキアエズ(久留米の高良大社)から離れ、原因は別でしょうが、同じく敗残した建御名方と道行となり諏方に移動する時期以降の名であり、阿須波(建御名方)の神と共に諏訪に移動しているのです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


 元々、誅伐は受けたものの旧背振村の広滝辺りで許され、その一族は山(脊振)を越え福岡市早良区に纏まって住み着いたと言われていました。

 そもそも、河上 猛(熊襲 猛)の墓があり、河上 猛は旧大和町の大願寺廃寺付近で酒盛りを行っていた…と言った話が川上峡に近い真言宗健福寺に伝承が残っており、旧「大和町史」(現佐賀市)にも書き留められているのです。また、これについては熊本市在住で唯一の九州王朝論者であった平野雅廣(日+廣)氏の「倭国史談」でも取り上げられていたのでした。ただ、佐賀市に合併され見向きもされていません。

ただ、この川上峡温泉(淀姫神社付近)一帯で起こったテロ事件はともかくとして、旧脊振村の広滝で許され早良に移動したという話の出所については、百嶋由一郎氏がどういった経緯で入手した話であったかは未だに掴めていません。今後の課題です。河上猛の墓とされるものが付近の某ゴルフ場の一角にあるらしいのですが、これも当会の事務局長に調査を頼んでおります。

河上 猛が誅殺を免れ早良に移動したとすれば、力を発揮したのは母である奈留多姫(後の八坂刀女)のはずです。

草部吉見=ヒコヤイミミと健 磐龍とは腹違いの兄弟ですが、健 磐龍と草部吉見の娘である阿蘇ツ姫の間に生まれたのが雨宮姫で、その子が阿蘇宮司家初代の惟人(阿蘇家は速甕玉と雨宮姫の子としますが…)と奈留多姫なのです(どちらが年嵩化は阿蘇家資料により不明です)。

そして、その奈留多姫と久留米の高良大社にいたウガヤフキアエズ(母:豊玉姫 父:山幸彦)の間に生まれたのが河上 猛であり、妹の豊姫(ユタ姫)=淀姫となるのです。「高良玉垂宮神秘書」参照のこと

また、この淀姫がウガヤフキアエズの息子である安曇磯良(表筒男命)と夫婦となっているのです。

してみると、奈留多姫(後の八坂刀女)が阿蘇系の血を引いた一応熊襲と呼べないこともない人物であり、その子河上 猛が熊襲と理解されたとするのも半分ぐらいは正しい事にはなるのです。

ここまで考えてくると、河上 猛そのものを探すことはできないとしても、八坂刀女=奈留多姫をキー・ワードに探れば、河上 猛が移動した早良の神社が分かることになるのです。

そして、それに符合する神社が早良区には一社だけ存在したのです。


@  河上 猛の母である奈留多姫=八坂刀女の名が建御名方の妃として由緒略記に出ている事。

A  建御名方が妃として八坂刀女を妃としている事。


八坂刀賣命やさかとめのみこと 別名 妻科神:つましなのかみ

八坂斗売命/八坂斗女命/八坂刀女命/八坂登賣命/矢坂斗女命:やさかとめのみこと

前八坂刀売神:まえのやさかとめのかみ 八坂刀自神:やさかとじのかみ

……

建御名方命の后神として、諏訪神社下社(春宮、秋宮)に祀られる神。建御名方命との間に二十二柱の御子神をもうけた。安曇の女神とする説がある。               敬愛する「玄松子」より 


B  諏訪神社ではあるものの梶紋を使わず左三つ巴紋を使っている事。

C  これは若しかしたら元は建御名方を祀る神社ではなく、奈留多姫の夫であるウガヤフキアエズの神紋=高良大社は表紋として左三つ巴紋を使っている可能性がある事。

D  ウガヤフキアエズは表筒男命、開化天皇=高良玉垂命は底筒男命であり、高良大社の主であった。

E  ちなみに高良大社は表紋として住吉の紋である「左三つ巴紋」を使っているのです。

F  つまり奈留多姫の夫の神紋が標柱に描かれている可能性があるのです。

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ここまで見てくると、栄えある河上 猛の一族は、母の奈留多姫と共に早良に移動したと言えそうに思うのです。

 探求と調査は今後も続けますが、これ以上の成果が容易に見つかるとも思えません。

 しかし、我々の内部においても非常にロマンチックでありつつも、誰も知らない話を回収し後世に伝えることが可能になったとまでは言えそうですので、今後、現地伝承の回収に可能な限り作業を移しブログとしては閉じる事とします。

 ちなみに、後継氏族は名を変え住んでおられると…百嶋先生はどういう名であるかも分かっているが…と言っておられました。

 私にも多少見えます。しかし、好い加減なこととを言うなと言う声も頭を過ます。

 一方、記録に留めなければ潰え去る事が確実なため、ここでは勇気を持って仮説として申し上げておきたいと思います。

 阿蘇系の姓が何であるかは分かりますが、はっきりしているのは大神氏であり、小国の武田姓もその一つであろうと思います。確かに、神社の傍には数件の大神様の家もあります。

 今後の作業待ちと言うところですが、事務局長のN氏の手腕に期待したいと思います。

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阿蘇大蛇伝説で有名な平家物語にも登場する英雄大神氏ですが、緒方、大賀、尾形、岡…と幾つかの同族としてのバリエーションもあり、起点は阿蘇外輪山の東側、豊後大野、豊後竹田の一族の展開とも言えそうです。

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しかし、真鍋、白水、米田…という阿蘇系からかなりかなり離れたヘブライ系氏族らしきものもあり、それが諏訪系かどうかは不明です。

全ては今後の作業となりそうです。

 百嶋先生の講演録である音声記録にもこの部分について話されている所がありますが、河上 猛、淀姫=兄妹説、そもそもヤマトオグナによる熊襲 猛退治話なるものが近畿大和朝廷による権威付け説話でしかなく、通説なるものが如何に愚かで信用できないものであるかをここでも表した様に思うのです。

百嶋由一郎氏が残された神代系譜DVD、音声CD、手書きデータ・スキャニングDVD…を必要とされる方は09062983254まで

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