2019年10月04日

ビアヘロ104 全国の九州王朝論者に向けて!緊急報告“肥後に後漢の霊帝の後裔が入っていた”

ビアヘロ104 全国の九州王朝論者に向けて!緊急報告“肥後に後漢の霊帝の後裔が入っていた”

20190805

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


ビアヘロ版103に於いて呉(春秋戦国)の108代とする呉氏を南さつま市に案内し、同族である紀姓高良氏に面会して頂いた事をお知らせしました。

御当主とお会いしましたが私を良く覚えておいでであったことから話はとんとん拍子で進みました。

この高良家は現在でも久留米の高良大社に造られたお酒を毎年奉納されており、それだけでも高良玉垂命との関係が焙りだされます。

中でも、奥様からお聴きした「嫁いできたときに姑さんからお聴きしたのですが、当家は今は高良を名乗っていますが、本当の姓はです…とのことでした」は実に象徴的で、家伝とはかくも強固なのかと思い知らされたのでした。

これらについては非常に面白い話がいくつもありますので、九州王朝論者であるならば勿論の事、興味をお持ちの方は「ひぼろぎ逍遥(跡宮)」から以下の6本程度をお読みいただきたいと思います。


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

356

高 良(コウラ)“薩摩に避退した九州王朝系氏族を発見した” E

355

高 良(コウラ)“薩摩に避退した九州王朝系氏族を発見した” D

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高 良(コウラ)“薩摩に避退した九州王朝系氏族を発見した” C

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高 良(コウラ)“薩摩に避退した九州王朝系氏族を発見した” B

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高 良(コウラ)“薩摩に避退した九州王朝系氏族を発見した” A

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高 良(コウラ)“薩摩に避退した九州王朝系氏族を発見した” @


無題.png

パワー・ポイントも作成していますので希望の方は1000円程度の実費でお送りできます。09062983254


ご同行頂いた中国からのお二人も系譜の冒頭にはっきりと「紀姓」と書かれていたことから、それだけでも納得され、同族として邂逅を感激されたようですが、当方からの質問にも幾つかお答え頂き納得した部分もありました。

 一つは鹿児島県でも良く知られた郷土史家の青屋先生から「春秋戦国の呉と三国志の呉には関係があるのか?」との質問が出されました。

 これについては、呉の孫氏の一族に妃を送り込む一族が春秋戦国の呉の一族の後裔だったとのお話(具体的には孫権の母親が呉氏だった)で、その点は私も含めて以前から抱いていた疑念が氷解しました。

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系譜を確認される 呉 本立教授と高良酒造当主(左) 系譜を開かれる五年前のご当主(右)


九州王朝論者の内部では、以前から、八世紀初頭、鹿児島県(薩摩、大隅、日向の一部)の一帯に最末期の九州王朝系勢力が避退(あるいは敗残)し、新興の大和朝廷に抵抗したのではないかと推測していました。

加世田を中心とする南さつま市の東隣に、北から頴娃、知覧、川辺の三町で形成された南九州市は、中でも最も可能性が高い一帯かもしれません。

主要には「続日本紀」の“衣評督等反抗”の記事によるものですが、この一翼をになったのではないかと思われる氏族と遭遇したのではないか考えています。

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五年前に見せていただいた同家の家系図 上はその冒頭部分 「紀姓」とも「橘」とも…


とりあえず、中国からのお二人を高良家にご案内し3時間ほどお話をお聴きすることができましたのでほっとしましたが、現在、随行者の田 晶氏と呉と日本(主要には熊本)との間で呉と日本との関係の痕跡を色々と拾い出しやり取りを行っています。

 雲南省、貴州省、四川省からネパール、ブータンなどの東亜半月弧の少数民族地帯と列島文化複合とを研究する照葉樹林文化論(中尾佐助、佐々木英明…)は一時期脚光を浴びましたが、春秋戦国の呉国と九州特に熊本との関係を探る研究者などいるはずもなく(そもそも山奥の奈良県などに周王朝の末裔の呉の太伯王の後裔が入ってくるはずもなく、近畿大和朝廷を賛美するものではないため誰一人として研究者など出てくるはずがないからですが…要は学問商売が成り立たないからです)、事実上未開の研究分野と言えるのです。


 この旧呉の国(現江蘇省)からの客人をご案内しある程度の初期リポートを書き終えたら、新たなテーマと遭遇する事になりました。今回はこの話になります。

 この話を熊本で伊藤正子勉強会にも参加されておりトレッキング・メンバーでもあるF女史にお話ししたところ、“熊本市内に紀氏かもしれない系譜を持つ方がおられるとの耳寄りな話を聴き込みました。

 同女史のお陰で意外と早く面会の機会を得て熊本市内の事務所で話をお聴きすることができました。

 一応、フルネームは避けますが、お会いしたのは田尻と言われるご高齢ながらも現役の会社の経営者の方でした(と言っても現役の一級建築士としてご活躍の方で当方など遠く及びもつかない矍鑠の方ですが)。

 ご挨拶もそこそこに早速飛び出てきたのが漢帝国の始祖の劉邦から始まる系譜だったのです。

実際にはA3一枚のコピーだったのですが、そこには驚くべき事が書かれていたのです。

それは「大蔵姓田尻氏正統系譜」肥後国玉名郡玉水村立花田尻家系譜 とされるもので、皆さん“項羽と劉邦”で良くご存じの漢帝国の始祖劉邦から始まる連綿たる系譜であり、その一枝としての田尻家ご当主101代とするものだったのです。

そもそも綾部は漢(アヤ)の置き換えで、文、綾…は漢氏ではないかとか言われる事は一応知っていました。

ところが、百嶋先生が言われていた八女の黒木の一族と関係の深い原田と田尻は同族であったという事が事例として良く理解できましたし、この間謎であった日田の大原八幡宮の宮司家であった大蔵氏(財津氏)も実は獻帝の流れを引く漢の皇族の末裔だった事が分かってきたのです。

また、“原田氏が重要な氏族で一族の事を調べている方がおられ私のところにも電話で聞いてこられた方がおられた…”と水俣病で知られた故)原田正純教授から直接お話をお聴きしてもいました。

さらに言えば、久留米には笠(カサ)姓の方がかなりおられ、龍姓もあることから、もしかしたらこの「笠」姓は笠 智衆の「笠」同様、劉備玄徳の「劉」姓の置き換えではと考えてきました。

お話では @自らの一族は中国から渡ってきたものとは家伝として聞いてきた。A日本でも比較的知られる後漢の第26代霊帝から続く第28代獻帝の別れの漢の皇族の第31代阿智王が応神期に列島に移住してきた。B鎌倉期に頼朝から金峰山に領地を貰い住み着いた…。外にも多くの興味深い話を聴きましたが、ここでは第一報としてさわりの部分だけ、つまり基本的なことだけをお知らせすることにしたいと思います。

 では、系譜をご覧いただきましょう。

 前漢後漢を通じて、〜26代霊帝〜28代獻帝辺りまでは中国の系譜のままですが、それ以降は家伝のものとお聴きしました(後漢靈帝之曾孫 阿智王)。

 事実、第29代以降は「帝」の称号が地方皇族としての〇〇「王」に変りますから、第31代漢皇族阿智王(応神天29年帰化)の時に列島に移住したものと考えられます。

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七姓漢人… 阿知使主(阿知王)については『日本書紀』『続日本紀』『新撰姓氏録』などに日本への帰化についての記録がある。『日本書紀』によれば、応神天皇209月、倭漢の祖の阿智使主と、その子都加使主が、17県の党とともに帰化した。

続日本紀』延暦四年(785年)六月の条によれば漢氏(東漢氏)の祖・阿智王は東方の国(日本)に聖人君子がいると聞いたので帯方郡から「七姓民」とともにやってきたと、阿智王の末裔氏族東漢氏出身の坂上苅田麻呂が述べた。

右衞士督從三位兼下総守坂上大忌寸苅田麻呂等上表言。臣等本是後漢靈帝之曾孫阿智王之後也。漢祚遷魏。阿智王因牛教。出行帶方。忽得寳帶瑞。其像似宮城。爰建國邑。育其人庶。後召父兄告曰。吾聞。東國有聖主。何不歸從乎。若久居此處。恐取覆滅。即携母弟迂興徳。及七姓民。歸化來朝。是則譽田天皇治天下之御世也。於是阿智王奏請曰。臣舊居在於帶方。人民男女皆有才藝。近者寓於百濟高麗之間。心懷猶豫未知去就。伏願天恩遣使追召之。乃勅遣臣八腹氏。分頭發遣。其人民男女。擧落隨使盡來。永爲公民。積年累代。以至于今。今在諸國漢人亦是其後也。臣苅田麻呂等。失先祖之王族。蒙下人之卑姓。望 。改忌寸蒙賜宿祢姓。伏願。天恩矜察。儻垂聖聽。所謂寒灰更煖。枯樹復榮也。臣苅田麻呂等。不勝至望之誠。輙奉表以聞。詔許之。坂上。内藏。平田。大藏。文。調。文部。谷。民。佐太。山口等忌寸十一姓十六人賜姓宿祢。 - 続日本紀』延暦四年六月条

新撰姓氏録「坂上氏条逸文」には、阿智使主と同時期の来日である七姓漢人(朱・李・多・皀郭・皀・段・ 高)およびその子孫、桑原氏佐太氏等と、仁徳天皇の時代に阿智使主が朝鮮半島から連れてきたとされる村主氏が記されている。

ウィキペディア(Wikipedia20190816 0822による

 この系譜を見てこの間感じていたいくつかの問題への謎を解くことができるとともに、さらに深入りできる新たな謎解きへの糸口を見出しました。

@  故)百嶋由一郎氏が間違いなくアーリア系と話しておられた田尻氏が原田氏と同族であったこと。漢族と言ってもその内部にはシルクロードの終着点であった邯鄲辺りには多くの西域の人々が入っていたのであって、単に漢族として一括りにはできないかも知れないのです。

A  以前トレッキングでも取り上げましたが、事実上西豊後の一之宮とも言える日田市の大原八幡宮の社家でもあった大蔵氏(財津氏)の一族が、この阿智王の後裔であったと分かったのでした。


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

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物部の大原足尼命を祀る日田の大原八幡神社とは何か?

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日田の大原八幡神社も物部の神社だった “大分県日田市の大原八幡宮を疑い再考へと”

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大原八幡神社は物部の神社だった “福岡県みやこ町の大原八幡神社”

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大原八幡神社は物部の神社だった “福岡県苅田町の大原八幡神社”

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福岡県苅田町での神社と古墳のトレッキングから 今回は資料だけをお見せします


B  この系譜からはさらに重要な情報が得られます。第34代(阿智王の孫)から36代まで坂上姓を名乗っているのです。直ぐに坂上田村麻呂が頭をよぎりますが、第40代に有名な7世紀半ばの阿部比羅夫が記載されていますので、「日本書紀」が坂上田村麿の東北制圧の業績を近畿大和朝廷の業績と見せ掛けようと時代を繰り下げてないとも限らないので、もしかしたらこの坂上姓3代は無関係ではないのかも知れません。しかし、田村麻呂は8世紀末とされることからこの3代は直接的には繋がりません。しかし、後から見せていただいた原田氏の系譜(原田一族側で作成されたかなり大きな一族資料)には坂上田村麻呂がはっきり書かれていますので無視できません。


坂上 田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)は、平安時代公卿武官。名は田村麿とも書く。忌寸のち大忌寸、大宿禰。父は左京大夫坂上苅田麻呂官位大納言正三位兼右近衛大将兵部卿。勲二等。贈従二位。 忠臣として名高く、桓武天皇に重用されて、軍事造作を支えた一人であり、桓武朝では二度にわたり征夷大将軍を勤める。蝦夷征討に功績を残し、薬子の変では大納言へ昇進して政変を鎮圧するなど活躍。死後平安京の東に向かい、立ったまま柩に納めて埋葬され、軍神として信仰の対象となる。現在は武芸の神として親しまれ、多くの伝説、物語を生んだ。


C  前後しますが、第40代として阿部比羅夫が登場します。阿部姓はここだけですが、その理由は阿部貞任宗任の近畿大和朝廷への抵抗があったためかも知れません。


阿倍 比羅夫(あべ の ひらふ)は、7世紀中期(飛鳥時代)の日本の将軍。氏姓は阿倍引田臣冠位大錦上越国守・後将軍大宰帥を歴任した。斉明天皇4年(658)から3年間をかけて日本海側を北は北海道までを航海して蝦夷を服属させ、粛慎と交戦した。

ウィキペディア(Wikipedia20190816 1134による


D  この阿智王の後裔氏族にとって大きな発展期となったものは第47代征西将軍大蔵朝臣春實(正五位太宰少弐貮 豊前、筑前、肥前、対馬を支配下に置く)であり、その後大蔵から原田に改姓する頃には福岡県大牟田市三池を拠点としています。

E  ただ、この系譜は阿智王後裔の一つのブランチでしかないことは理解しておくべきでしょう。

55代原田実種=肥後初代田尻主計頭から肥後田尻氏が始まったとしています。しかし、単に頼朝から与えられた時から始まったとすることも単純すぎ、元々の故地であった可能性もないとは言えないでしょう。それについては後段で議論します。とりあえず、非常に魅力的な系譜について概括しました。


さて、漱石の「草枕」に峠の茶屋が出てきますが、熊本市の西に聳える金峰山のかつての自らの領地(鎌倉〜室町〜南北朝期)であった地に阿智王の拝堂が造られ劉邦、霊帝、阿智王が祀られています。

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付近には峠の茶屋、芳野郵便局、岳龍寺がありますが、ここでは芳野郵便局の住所を書いておきます。

多少分かりづらいので、不明なら同局に尋ねられたら分かりやすいかも知れません。

 数日後、別資料もお見せしますとの事で再び訪問しましたが、これもその一つで、原田一族側から作成された「大蔵朝臣原田家歴傅」です。ここにも同様の先祖が掲げられています。重複しますが、再度確認します。注目すべきは40代と42代の間に分家として坂上田村麿がはっきり書かれていることです。

 「原田家歴伝」と田尻家系譜とには恐らく起点が異なるか数え方が違うためか二代ほどずれが生じていますが、田尻家系譜の43代が田村麿の代理なのか田村麿と関係のある方が書かれていることになります。

 なお、写真は田尻家当主ご夫妻が「原田家歴伝」を頂いた原田一族の研究者を尋ねられた時(20年程前)の写真です。

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無題.png実はこの神社は当方の会のトレッキングでも訪問した福津市の神社で、現在は女性の宮司が跡を継いでおられる 年毛神社(福岡県福津市勝浦943 пF 0940-52-3774)のようです。

先代の宮司が原田一族の研究者だったのではないかと思われます。

 実は、この神社に伝わる資料にかつてこの地が松浦潟と呼ばれていたとの記録があり、これだけをもって魏の使いが入った末羅国だとして卑弥呼の邪馬(壹)国筑豊説に導いた九州王朝論者があり、田川郡内で講演を続けています。

 最後に面白い話をお知らせしましょう。

 この田尻一族系譜を見せて頂いた田尻家101代ご当主の旦那寺は皆さんどなたもご存じの山田洋二監督の映画「男はつらいよ」フーテンの寅さんに登場する帝釈天御前様こと笠智衆の生家の寺だったのです。

 無題.png以前から金峰山に漢の後裔の氏族が入っているとの噂は承知しており、もしかしたら笠智衆(俳優としての名も実名を採用)の笠(リュウ)は劉備玄徳の劉氏の「劉」ではないかと考えてきました。

 図らずも、劉氏の後裔の田尻氏がこの寺(浄土真宗本願寺派)の檀家であったという事はその可能性がかなり高くなったのです玉名郡玉水村(現玉名市天水町)立花に浄土真宗本願寺派来照寺の次男として生まれる)

 そうです、御前様も劉氏の一族だった可能性が高いのです。

 このことに気づいたのは久留米市に笠姓が対岸の鳥栖市にも龍姓が多いことに気づいていたことがきっかけでしたが、この点でも仮説が幾分裏付けられた事になり、謎の一端がほぐれてきた思いがしています。

一般的にこの劉邦後裔東漢氏については、岡山県倉敷市辺りから奈良に入ったとされますが(阿智神社がありますね)、半島からの入口は九州西岸だったはずですし、帯方郡から同行した「七姓民」の姓名(池園、浦志、鬼木、中園、水上、窪、石井、牧園、富田、鳥越)の分布を見ると、単純に奈良から全国に展開したとはとても考えられず、それも考えて見たいと思っています。次報でこの問題に触れます。

 そこまで風呂敷を広げないとしても、漢の末裔が肥後に入っていることを示す好例であることだけは間違いないのです。

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次葉の一部

                                                                                  

編集上紙面に限界がありますので、次代については割愛します。個人的に必要とされる方は対応します。

原田、田尻、大蔵、財津、坂上、阿部、笠、龍…の一族の皆さん自らのルーツをお考えになったらいかがでしょう。多少のアドバイスは可能ですので、当方にご連絡頂ければ、多少はお手伝いできると思います。09062983254まで。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ

2019年09月28日

ビアヘロ103 全国の九州王朝論者に向けて!緊急報告“呉の大伯108代を南九州市に案内した”

ビアヘロ103 全国の九州王朝論者に向けて!緊急報告“呉の大伯108代を南九州市に案内した”

20190805

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


猛暑にも関わらず、メンバーの伊藤正子女史による研究会が二年目に入っています。

小規模ながらも熱心な方々が参集されるもので、今後どのような展開を見せるか関心を寄せています。


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私も731日の勉強会に参加したのですが、ドラマは勉強会終了後の夜10時から始まりました。

車中泊を決め込むつもりで車の冷房を入れネット検索を始めていると、大阪の内倉武久先生(元朝日新聞記者 三一書房、ミネルヴァ書房から四著ほか)から連絡が入りました。

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最近はそれほど頻繁には話していなかったのでこれは何事かと色めきだったのですが、案の定とんでもない話が舞い込んだのでした。

まだ、詳しい事情は聴いていないのですが、どうやら1994年刊の「謎の巨大氏族・紀氏」を書かれていたことから、列島に移動した呉の王族の末裔を探ろうと中国の江蘇省(上海に隣接)にお住いの呉 本立氏(実名を上げても問題はないと理解しますので)が古代史研究者に接触を求められ、古田武彦系の関東の組織であった多元の会辺りに接触され、下掲の謎の巨大氏族・紀氏」を書かれていた内倉先生との接触に繋がったようなのです。

勿論、倭人は呉の太伯の末とか後裔といった話は古代史研究者の間では常識であって、誰でも知っていることですが、山奥の奈良に呉の一族が避退したはずもなく、考古学協会や学会通説に尾を振るただの利権集団でしかない邪馬台国機内論者などにとっては面白い話でも金になるはずもなく、真面目に研究する人間など皆無であって、この問題を正面から取り上げる人など存在しないのでした。

唯一というのは多少問題があるかも知れませんが、そういった中では内倉研究は唯一のものだったかも知れません。

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そういった事情から、呉元教授(寧波師範大学英文学教授ほか)と随行者の田 晶氏(英語は元より日本語も読み書きができ英語も使う商社マンで日本の古代史もよく読まれている)が大阪で3時間ほど内倉先生(何度も中国に行かれておられある程度の中国語は話されます)と面会され、実際にその末裔と考えられる人に会いたいとの希望から私の方にその案内を依頼様されたのでした。

呉教授一行は福岡市内に残り二〜三日しか滞在されないこともあって、どうしても夜のうちに話を着けるしかなく、急遽、鹿児島の川辺町の郷土史家の青屋先生や高良家に連絡し大体の了解を得て中国のお二方と新幹線に新八代駅で合流する事にしました。

薩摩川内市で降り、昼食には早かったことからレンタカーで加世田(現南さつま市)に向かうことにしました。

勿論、レンタカーが便利で安いのですが、外国の方を乗せて事故でも起こすと厄介ですので、急ぐこともありタクシーで向かうことにしました。

加世田で昼食を済ませ、青屋先生をお乗せして高良酒造に向かいましたが、6年前に何度も出向き周辺調査を行った事が鮮明に浮かび上がってきます。

御当主とお会いしましたが私を良く覚えておいでで、話はとんとん拍子で進みました。

この高良家は現在でも久留米の高良大社に造られたお酒を毎年奉納されており、それだけでも高良玉垂命との関係が焙りだされます。

中でも、奥様からお聴きした「嫁いできたときに姑さんからお聴きしたのですが当家は今は高良を名乗っていますが本当の姓は紀です…とのことでした」は実に象徴的で、家伝とはかくも強固なのかと思い知らされたのでした。

これらについては非常に面白い話がいくつもありますので、九州王朝論者であるならば勿論の事、まだ、ご存じでない方は「ひぼろぎ逍遥(跡宮)」から以下の6本程度をお読みいただきたいと思います。


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

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高 良(コウラ)“薩摩に避退した九州王朝系氏族を発見した” E

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高 良(コウラ)“薩摩に避退した九州王朝系氏族を発見した” D

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高 良(コウラ)“薩摩に避退した九州王朝系氏族を発見した” C

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高 良(コウラ)“薩摩に避退した九州王朝系氏族を発見した” B

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高 良(コウラ)“薩摩に避退した九州王朝系氏族を発見した” A

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高 良(コウラ)“薩摩に避退した九州王朝系氏族を発見した” @


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パワー・ポイントも作成していますので希望の方は1000円程度の実費でお送りできます。09062983254


ご同行頂いた中国からのお二人も系譜の冒頭にはっきりと「紀姓」と書かれていたことからそれだけで納得され、同族として感激されたようですが、当方からの質問にも幾つかお答え頂き納得した部分もありました。

 一つは地元の青屋先生から春秋戦国の呉と三国志の呉には関係があるのか?との質問が出されました。

 これについては、呉の孫氏の一族に妃を送り込む一族が春秋戦国の呉の一族の後裔だったとのお話(具体的には孫権の母親が呉氏だった)で、その点は私も含めて以前から抱いていた疑念が氷解しました。

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系譜を確認される 呉 本立教授と高良酒造当主


351 高 良(コウラ)“薩摩に避退した九州王朝系氏族を発見した”@    一部を再掲載

2017012620130725)再編集

九州王朝論者の内部では、以前から、八世紀初頭、鹿児島県(薩摩、大隅、日向の一部)の一帯に最末期の九州王朝系勢力が避退(あるいは敗残)し、新興の大和朝廷に抵抗したのではないかと推測されていました。

加世田を中心とする南さつま市の東隣に、北から頴娃、知覧、川辺の三町で形成された南九州市は、中でも最も可能性が高い一帯かもしれません。

主要には「続日本紀」の“衣評督等反抗”の記事によるものですが、この一翼をになったのではないかと思われる氏族と遭遇したのではないか考えています。


高良一族が宮司を務めた川辺町宮の飯倉神社


資料の一つとして「最後の九州王朝 鹿児島県「大宮姫伝説」の分析」古賀達也(古田史学の会)後段に添付していますので参照して下さい。

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内倉武久氏(元朝日新聞考古学担当記者)が熊襲の軍馬と想定されている在来馬(現在、開聞岳の麓で50頭ほどが岩崎グループにより育成されている)との同行取材の帰路、頴娃町から川辺町に抜けたところ、同地に高良酒造なるものがあることに気付きました。写真は鹿児島県旧川辺町(現南九州市)の高良醸造所による甕つくり焼酎「八幡」。[蔵元] 高良酒造 [蔵元住所] 鹿児島県川辺郡川辺町宮 [焼酎の種類] 芋焼酎 [原材料] さつま芋(黄金千貫)・米麹  [] 白麹  [蒸留方法] 常圧蒸留 [アルコール度数] 25 [容量] 1,800ml[購入価格] 1,850

旧川辺町は薩摩半島南部の中ほどにありますが、その宮地区にこの高良酒造(0993-56-0181があります。こういう次第で、同社の存在に気付いたのはつい最近のことでしたが、この焼酎メーカーの一族が九州王朝と関係があるのではないかと思い始めたのは、その経営者の姓が「高良」である上に、隣の南さつま市まで広がる南薩のかなり広いエリアの中心的な神社であった飯倉神社の重要な社家であると知ってからでした。HP「姓名分布&姓名ランキング」によれば、現在、全国に1649件の「高良」姓があり、沖縄に最多の1158、福岡に125件、大阪に60件、鹿児島に58(以下略)が確認できますが、鹿児島の「高良」姓が最も集中するのが南九州市の一帯であり、これが、高良大社と無関係とは考えにくいように思います。

また、同市教育委員会に聴くと周辺にも高良神社がある(過去存在した記録が在る)と聴きました。   

一方、隣接する南さつま市にも「高良」地名、高良神社が確認できます(県神社庁)。

 飯倉神社とその周辺を調べ始めただけの段階であり軽々には言えませんが、祭神や古資料を見る限り、鹿児島県に特有の大宮姫伝承(「開聞故事縁起」他に残る、天智天皇の皇后が志賀の都から戻り、後に追ってきた天智天皇と添い遂げた…)との対応が見て取れ、直ぐに「続日本紀」に登場する衣(頴娃)評督、隼人の反抗、七二〇/養老四年、九州南部の隼人が大和の王権に対して起こした反乱で一年半に及ぶ戦いは隼人側の敗北で終結し九州南部における支配が確立したとするもの)が頭に浮かびました。

一方、九州王朝論者の一部には“最末期の九州王朝は奄美大島沖の喜界ケ島に亡命した”との説もあり、沖縄の高良(こちらはタカラと呼ばれます)姓も、薩摩から沖縄へと亡命し、九州王朝の大和王権徹底抗戦派の末裔の可能性があるのかも知れません。

大阪の高良姓も「タカラ」と呼ばれているのですが、今のところ、沖縄からの本土移住者と考えています。これらのことから、これ以降、南薩からは眼が放せなくなりました。 

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南九州市川辺町(市の中心は旧知覧町に置かれた)


ともあれ、内倉氏と高良酒造に向かいました。高良酒造の社長にお会いし、久留米の高良大社との関係をお尋ねすると、直ちに「毎年奉納させていただいています…」とのお答えを頂き、一族が、古来、高良玉垂宮を奉祭し続けている可能性があると理解しました。

また、元々の社家ではないものの、本来の社家が途絶えたため江戸期から代々飯倉神社の宮司を務めていたともお聴きしました。

話もそこ、そこに、すぐそばにある飯倉神社に向かうと、当日はたまたま御田植神事の大祭(高良大社では最近行われなくなっている)とかで、既に氏子以外の人々も集まり始めていました。


以下関心をお持ちの方は前掲ブログをお読み下さい。なお、高良酒造は甕造りにこだわられる本格的焼酎メーカーです。

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とりあえず、中国からのお二人を高良家にご案内し3時間ほどお話をお聴きすることができましたのでほっとしましたが、現在、随行者の田 晶氏と呉と日本(主要には熊本)との間で呉と日本との関係の痕跡を色々と拾い出しやり取りを行っています。

 雲南省、貴州省、四川省からネパール、ブータンなどの東亜半月弧の少数民族地帯と列島文化複合とを研究する照葉樹林文化論(中尾佐助、佐々木英明…)は一時期脚光を浴びましたが、春秋戦国の呉国と九州特に熊本との関係を探る研究者などいるはずもなく(そもそも山奥の奈良県などに周王朝の末裔の呉の太伯王の後裔が入ってくるはずもなく、近畿大和朝廷を賛美するものではないため誰一人として研究者など出てくるはずがないからですが…要は学問商売が成り立たないからです)、事実上未開の研究分野と言えるのです。以下は田氏からの依頼に対する返信メールの一部です。


本では照葉樹林文化論という研究ジャンルがあり、雲南、貴州、四川、ネパール、チベット、一帯の文化複合が日本にも及んでいるというというものがエキゾティックで流行した時代がありました。しかし、呉の国との直接的な関係を結ぶ文化複合を研究した人はおられません。従って個人的な作業しか存在しません。以下


食べ物 5 (ちまき?)

源のチマキの話は有名ですが、熊本、鹿児島は粽を良く食べる地域です。

とろろ芋は雲南省が原産ですがなぜか天草に都呂々という地区があり全国でとろろ芋と呼ばれています。これは呉と無関係かも知れません。

これはうちのメンバーの宮原(宏美)女史から聴いた話ですが、呉の国の稲が日本に入っていますが、当然稲モミを運ぶ際に水田雑草が持ち込まれます。江蘇省にしかないツクシガヤが宮原女史の住む人吉盆地の奥あさぎり町、多良木だけに現存しています。

食べ物ではありませんが、呉国にもいたはずの碁石燕シジミという蝶が人吉盆地一帯と日本の南北朝の拠点であった奈良県の吉野の丹生川上神社一帯だけに存在しています。

有形打製石斧という考古学の発掘事例ですが、人吉盆地で9例あります。これも呉の国のもので、人吉盆地特有のものです。

習わし 5

この手のものは論証がしにくいし事実が確認できにくいのですが、恐らく神祭り儀礼で1日、15日の祭礼は球磨郡に色濃く残っています。

これも四国の高知のメンバーの別役さんから聞いた話ですが、家の門の前に神様に備える榊(サカキ)を捧げる風習は呉の国のもので球磨郡に特有のものです。

日本の八幡神社の総本社とされる大分県宇佐市の宇佐八幡宮には呉橋と呼ばれるものが残っており、天皇家とその勅使しか渡ることができないとされています。宇佐八幡宮と呉橋で検索すると、画像がでます。これは菊池市のククチ城に残っていた八角楼の鼓楼があります。復元したものが現在もありますが、例の松野雷蔵の邸宅の直ぐ裏手の岡の上です。現在でも、呉橋、鼓楼を法隆寺の五重塔同様釘を使わずに造る少数民族がいますが、その技術は呉の王様のためのものだったと考えています。

松野雷蔵邸の正面、私が古代肥後の山門郷には吾平(相良)という地区があり、アイラトビカズラという蔓(極太の蔓)が現存して保護されています。現在でも、熊本県の天草の棚床と長崎県佐世保市の佐世保湾という渡洋航海の出船領域にだけ残っています。

外洋航海の筏には極太の蔓(カズラ)が必要になりますが、これは戦略物資だったと見えて、現存している場所が呉の国との通商権を持った九州王朝の渡洋拠点にだけ残っています。

一般的に良く知られた話としては、前開きの呉服を着る人は日本人のみで、下駄を履く風習も江南の湿田地帯と関係があるでしょう。下駄を履き、先割れの足袋を履き、呉服を着るのは日本人特有のもので、江南の文化そのものでしょう。

私は知らない話ですが、宮原女史の話では、鏡を割ったペンダントを持ち合う風習は呉の国と通底しているとの話を聴いています。人吉盆地に発掘例があるようです。詳しくは宮原女史のブログ「ひろっぷ」を検索してください。

キンモクセイという植物がありますが、これは雄木と雌木があり雄木の原木が現存しているようです。これも呉の国との関係があるようです。

地名  5つ (市房山?)

人吉の虎丘地名は消された痕跡があります。詳しくは宮原女史の「ひろっぷ」を検索して平川、平河、平江地名と「ひろっぷ」でダブル検索を試みてください。

広島の呉は海軍兵学校があったところですがこの水軍の呉を思わせる場所に海軍工廠や兵学校が置かれたことは非常に象徴的ですらあります。

熊本県天草市の隣町苓北町には都呂々地区がありますが、これは阿蘇氏のルーツである黎族が入っている痕跡だと考えています。

神社研究では説明できますが、それは省略し、雲南省麗江からメコン川(中国名ランソウ江:瀾滄江現ホーチミンを経由し海南島経由で天草に。多分、雲南省原産のトロロ芋を持ち込んだのではないかと思っています。

呉の国の地名は手掛けていないので今後拾いだしを心がけます。

うちのメンバーの宮原女史は50歳で非常に優秀で、多分呉の血(知)をひいています。まずは「ひろっぷ」を拾い読みしてください。


今回は中国からお連れした周王朝流れを汲む呉王夫差の後裔(姫姓)の方を高良一族(紀氏)に引き合わせることができました。

 なお、呉とは何かについて、発音から呉「ウー」であり、呉という文字も魚の形からきており、発音も同じであることから、もしかしたら倭人の倭も「ウー」であり、倭人とは魚の人(水人)という意味かも知れないとの事でした。関心をお持ちの方でさらに詳しく知りたい方は音声収録もしており資料は実費でお送りします。09062983254まで。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ

2019年08月24日

ビアヘロ 100 九州王朝研究に参加する人が少しずつですが徐々に増えています!  “市房山の神を発見したblog「ひろっぷ」女史に賛辞を送りたい…”

ビアヘロ 100 九州王朝研究に参加する人が少しずつですが徐々に増えています! 

“市房山の神を発見したblog「ひろっぷ」女史に賛辞を送りたい…”

20190206


太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 人吉盆地にお住いの女性ブロガーにM女史がおられます。新規の提携ブログでもありご紹介します。


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中華人民共和国蘇州市姑祖区平河路で検索すればグーグル・アースの地図が拾えるのでしょうが、恐らくここまで踏み込んだ方はおられなかったのではないでしょうか?

 現地を踏めない以上はせめてグーグルで…という発想がフィールド・ワークを忘れない探索者の執念を感じさせます。

 人吉盆地ではこの平川、平河姓の方が相良藩の重要氏族として多数おられる事から、この平川、平河姓も句呉から持ち出されたものである可能性を考えざるを得ないのです。

 まさに「ひろっぷ」女史の熱心さ以上の執念を感じさせます。

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無題.png蘇州を脱出した句呉の姫姓の一族が一端は人吉盆地にその安住の地、橋頭保を確保した可能性は十分に考えられます。

 今後とも、現地に住み史書に通じた「ひろっぷ」女史の活躍に期待したいと思います。

 九州王朝論の研究会とか言った振れ込みの会が有りますが、既に通説派の学芸員から教えを頂き平伏するような方々しかおられないのが偽らざる悲しい現実です。古田武彦の嘆きも想像を超えるものがあるでしょう。このように、研究者とは九州王朝論のファン・クラブと言った居心地の良い所には居ないもので、電信柱の様に独立して存在するのです。研究者を失ったらおしまいですね。ざまーない。くたばれ!

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 07:20| Comment(0) | ビアヘロ