2021年02月18日

ビアヘロ175 丁巳歴史塾との合同神社トレッキング資料を公開します A 高宮八幡宮(飯塚市)

ビアヘロ175 丁巳歴史塾との合同神社トレッキング資料を公開します A 高宮八幡宮(飯塚市)

20201101

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 トレッキング順路 


@ 厳島神社   カーナビ検索 福岡県飯塚市鹿毛馬1088

A 高宮八幡宮  カーナビ検索 福岡県飯塚市伊岐須886-2

B 水祖神社   カーナビ検索 福岡県飯塚市庄司338-10

住所不明のため入口の庄司簡易郵便局の住所

C 水祖神社   カーナビ検索 福岡県飯塚市川津608-1 

                住所不明のため隣のグランドベルズ飯塚の住所

 D 水祖神社   カーナビ検索 福岡県飯塚市川津455

                 住所不明のため隣の阿弥陀寺(真言宗)の住所福岡県飯塚市川津467


A 高宮八幡宮 福岡県飯塚市伊岐須886-2


福岡県飯塚市に「伊岐須」という変わった地名の地域があります。

場所は、中心地の飯塚市役所から西に数キロといったところで、二瀬と言う地名があるからでしょうが河川邂逅部正面の小丘に高宮八幡宮が鎮座しています。

変わった地名という表現をしましたが、奈良時代のはじめ頃、和銅6年(713年)に「畿内七道諸国郡郷着好字」(国・郡・郷の名称をよい漢字で表記せよ)という勅令が発せられている事からの類推によるのです。一般的には二文字に依らない地名は、この好字令以前の既に確立し定着していた古い地名であった可能性があるからです。まず、始めに気になったのは伊岐須という地名の真ん中に「岐」がある事です。

当然にも神武天皇に弓を引いたとされる岐(クナトorフナト)の神=長脛彦を意識してしたのですが、あくまでもこれは切っ掛けでしかありません。

 実は、古代の常陸国の領域に東国三社と称せられる鹿島神社、香取神社、息栖神社があるのです。

 直ぐに「息栖」と「伊岐須」のどちらが古い地名であるかは単純には言えませんが、他に決め手がなければ、「好字令」(好字二文字にせよ!)以前の地名に思える飯塚の「伊岐須」の方が起源ではないかと考えてしまいます。以下、息栖神社HPより(省略)

この息栖神社は鹿島の武甕槌(実体は阿蘇の草部吉見=海幸彦)、香取の(実体はニギハヤヒ=猿田彦=山幸彦)に対して、天鳥船(その実体は長脛彦=天香香背男 カガセオ)とされ長脛彦ではないかとされているのです。

ただ、これは地名対応に過ぎず必ずしも神社が対応していると言う意味ではないことから早とちりは慎み冷静に考えて見る事にしましょう。

 

実は佐賀県唐津市の古代唐津湾の湾奥に伊岐佐ダム伊岐佐神社があり、兵庫県餘部にも伊岐佐神社があります。これらも長脛彦の一族の展開(逃亡)地と考えています。

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高宮八幡宮 カーナビ検索 福岡県飯塚市伊岐須8862

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長髄彦 長髄彦(ながすねひこ)は、日本神話に登場する人物である。『古事記』では那賀須泥毘古と表記され、また登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ)、登美毘古(トミビコ)とも呼ばれる。神武東征の場面で、大和地方で東征に抵抗した豪族の長として描かれている人物。安日彦(あびひこ)という兄弟がいるとされる。

饒速日命の手によって殺された、或いは失脚後に故地に留まり死去したともされているが、東征前に政情不安から太陽に対して弓を引く神事を行ったという東征にも関与していた可能性をも匂わせる故地の候補地の伝承、自らを後裔と主張する矢追氏による自死したという説もある。

旧添下郡鳥見郷(現生駒市北部・奈良市富雄地方)付近、あるいは桜井市付近に勢力を持った豪族という説もある。なお、長髄とは記紀では邑の名であるとされている。

登美夜毘売(トミヤヒメ)、あるいは三炊屋媛(ミカシキヤヒメ)ともいう自らの妹を、天の磐舟で、斑鳩の峰白庭山に降臨し無題.png饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の妻とし、仕えるようになる。 中世の武将の伊達家が長髄彦の子孫であると言われている[要出典]。 神武天皇が浪速国青雲の白肩津に到着したのち、孔舎衛坂(くさえのさか)で迎え撃ち、このときの戦いで天皇の兄の五瀬命は矢に当たって負傷し、後に死亡している。

その後、八十梟帥や兄磯城を討った皇軍と再び戦うことになる。このとき、金色の鳶が飛んできて、神武天皇の弓弭に止まり、長髄彦の軍は眼が眩み、戦うことができなくなった。日本書紀・神武紀には、この時の様子を次のように記している。

ここに長髄の名前が地名に由来すると記されているが、その一方で鳥見という地名が神武天皇の鳶に由来すると記されている。さてその後、長髄彦は神武天皇に「昔、天つ神の子が天の磐船に乗って降臨した。名を櫛玉饒速日命という。私の妹の三炊屋媛を娶わせて、可美真手という子も生まれた。ゆえに私は饒速日命を君として仕えている。天つ神の子がどうして二人いようか。どうして天つ神の子であると称して人の土地を奪おうとしているのか」とその疑いを述べた。天皇は天つ神の子である証拠として、天の羽羽矢と歩靱を見せ、長髄彦は恐れ畏まったが、改心することはなかった。そのため、間を取り持つことが無理だと知った饒速日命(ニギハヤヒノミコト)に殺された。    ウィキペディア(20170517 19:28による


では、高宮神社をご覧頂きましょう。石炭鉱害復旧事業が法外に大量投入された筑豊飯塚の事、この一帯も沈下が顕著であり、埋め立てによって結果この高宮は中ぐらいの高宮に変わったそうですが、それなりの微高地にこの神社は鎮座していました。


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高宮神社 カーナビ検索 福岡県飯塚市伊岐須885


まず、不思議なことに三の鳥居は大山神社となっていました


摂社に大山祗命、大国主命がおられる事から、あってもおかしくない鳥居ですが、小さな摂社の割にはあまりにも立派な鳥居である事からバランスが取れていない事は言うまでもありません。

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全て猿田彦の石塔で、数から考えてもこの一帯がある時期ニギハヤヒの勢力圏であった事を語っています


 藤吉郎が猿とされたのは徳川の意図が見えますし、柿本人麻呂が猿丸太夫とされた様に貶める意味が込められているのです。猿田彦を表すのに猨田彦とした理由は分かりません。

 獣編+袁ではなくと書かれていますが、これは貶められた名の猿ではないとの思い(猨田彦)が反映されているような気もしますが、猨田彦もサルタヒコ、エンダヒコと読むのです。

ただ、ウイキペディア氏も言われている様に、“長脛彦は饒速日命の手によって殺された、若しくは失脚後に故地に留まり死んだともされています。

百嶋神社考古学では猿田彦はニギハヤヒであり山幸彦になるのですが、これが神社の配神と関係でどのような位置付けになるのかは良く分かりません。

「日本書紀」神武天皇条に神武東征に先立ち天磐船に乗って大和に飛来した者があり、その名をニギハヤヒ(饒速日)というとします。

ニギハヤヒは大和の土豪の長髄彦の妹を娶り、初めはナガスネヒコと共に神武の侵攻に抵抗します。

しかし、神武とニギハヤヒはそれぞれの天羽羽矢を見せあうことによって互いに天神の子であることを認め合いニギハヤヒはナガスネヒコを殺して神武に降伏する事になるのです。

そしてニギハヤヒは物部氏の遠祖になったと言われるのですが、そのニギハヤヒは「古事記」では、磯城攻略後、疲れと飢えで動けなくなった神武への救援者として登場しています。

記紀によればニギハヤヒが飛来した所は畿内となってしまいます。

百嶋神社考古学では神武巡幸はあるが、神武東征を行ったのは崇神としますので、長脛彦と衝突した神武は初代神武であって崇神ではないのです。

このため、長脛彦がいたのは飯塚であり、後に富の長脛彦と言われるように、金富神社、大冨神社がある行橋〜豊前の一帯だったのではないかと考えるのですが、今後の課題です。

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この石塔上部の紋章が椿のように見え気になったのですが、社務所を見て氷解しました。椿は猿田彦のシンボルであることは伊勢の椿大神社でも明らかです。

 本殿に祀られている神様については後段に譲るとして、摂社から話を進めましょう。

 美保神社と言えば事代主ですが、実態として事代主は格下の神で、このような社が造られる事もまれで、そもそも数こそ多いものの違和感があります。

 無題.png鳥居との関係からも神殿上部の神紋(隅切り角に三引き)からも、本来、この社殿には次の大山祗大神と大国主命(実は親子)が入るべきなのです。

 このように、事代主命こと恵比須さんは少し格上げされ過ぎているようです。

 ある時代の高宮神社は、スサノウ、長脛彦を隠し、大山祗、大国主を前面に掲げる神社だったのかも知れないのです。


美保神社の神紋 三島神社の神紋

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大山祗神社(左)疫神社(恐らく忌部の社の意味でしょう)とされる大国主命を祀る摂社(右)


 無題.pngさて、高宮八幡宮の祭神です。まず、福岡市の高宮にも高宮八幡宮がありますが、玉依姫命、応神天皇、神功皇后の三柱を祀っておられます。

さらに気になるのは宗像大社の高宮です。それは、百嶋神社考古学では宗像大社の本来の祭神は大国主命とするからです。この大山祗神社の大山祗と、疫神社とする大国主命こそが、宇佐神宮が覆い被さってくる前の本来の祭神に見えるのです。そうでもなければ、大山祗神社の神額を付けた鳥居など造られるはずはないのです。

 勿論、この摂社があるからこの鳥居が寄進された可能性はあるのですが、元々大山祗神社の鳥居があった事から寄進された可能性もあるのです。 
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左)「福岡県神社誌」上巻 339p 右)現在の高宮八幡宮の由緒(2015年)


 祭神がコロコロ変わっているのには目が回りますが、昭和19年編纂の「福岡県神社誌」にある誉田別命(ホンダワケ)=別王応神、贈)仲哀天皇、スサノウという非常に特異な配神が気になるのか、現在は今の宇佐神宮に沿った祭神に変えられています(2015年)。

しかし、それでもスサノウを残すところがこの神社の非常に興味深い特異性を示しています。

 そこで、何故、宇佐八幡宮に関係がないスサノウが殊更に祀られているのでしょうか?

 一つの仮説を提出しておきたいと思います。

伊岐須の高宮八幡にはやはりスサノウの子である岐神(クナトノカミ)が見え隠れします。

それは「伊岐須」という地名が対応する東国三社の一つである息栖神社が長脛彦を祀るとする事からの類推でしかないのですが、スサノウの子がナガスネヒコである事から八幡宮に衣替えしても、なお、スサノウが祀られている事にその背景を見てしまうのです。

 さらに言えば、確かに仲哀天皇が祀られるタイプの八幡宮はあるのですが(大分市の柞原八幡宮…他) 、

長脛彦の妹である瀛津世襲足媛命(オキツヨソタラシヒメノミコト)から帯中津日子命(まさか中津市にいた訳ではないでしょうね)=仲哀も出てきている事から、それが高宮八幡宮に反映されているのではないかと考えるのです。

では、高宮とはと考えると、大山祗と大国主命祭祀が色濃く残っている事から始めはスサノウと金山彦の血を引いた祭祀から大山祗と大国主命の系統の祭祀へと移行し、最終的に阿蘇を起源とする藤原の息の掛かった宇佐神宮に覆いかぶさられたのがこの高宮八幡宮の性格ではないかと見たのでした。

簡単に言えば、昭和19年の「福岡県神社誌」の祭神である応神、仲哀、スサノウの三神を、スサノウ、長脛彦、仲哀とすれば、スサノウ〜長脛彦の妹瀛津ヨソ足姫(武内足尼)=菅原の一祖〜天足彦〜ヤマトタケル命〜仲哀天皇〜という栄えある本流が復元できるのです。


百嶋由一郎最終神代系譜(部分)   以下追補)

あくまでも思考の冒険であり、シュミレーションの一つですが、この神社は、当初スサノウ(新羅)系氏族、金山彦系氏族の祀る祭祀が成立し(スサノウと金山彦の娘櫛稲田姫の兄妹=長脛彦、オキツヨソタラシヒメ)、その後大山祗、大国主(トルコ系匈奴)系氏族への転換が起こり(これは立岩遺跡が甕棺から古墳へと変わっている事と対応する)、その後700年代半ばに宇佐神宮の影響下で八幡宮へと変わったものと考えられそうです。

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それが、大山神社との神額を持つ鳥居があり、大山祗、大国主命を祀る摂社がある意味であり、八幡宮としては異質なスサノウが残されている理由だろうと考えられそうです。

また、スサノウ(新羅)系氏族、金山彦系氏族の祀る祭祀が存在した時代があったはずです。

長脛彦の妹である瀛津襲足姫(オキツヨソタラシヒメ)の後裔には、天足彦、ヤマトタケルとその子仲哀天皇があります。そう考えれば、それが八幡神社となってもスサノウ、仲哀を残している理由かもしれません。このように、伊岐須という地名から常陸の息栖神社のカガセオ=長脛彦を推定したのですが、必ずしも的外れではなかったようです。

最後に伊岐須の意味ですが少し見当が付きました。「岐」の意味を調べてください。枝の様に二つに別れる所のことなのです。

つまり、この伊岐須は二瀬でもありますが、二又瀬の意味なのです。

そして、神社の前には象徴的な河川邂逅部がありますね。そうです。井(水路)の岐の洲が伊岐須の意味だったのです。従って、付近の伊川温泉の伊川地区も、井川の意味なのです。


関連メモ 無題.png岡山県宍粟市一の宮町「生栖」に鹿島神社があり二股川の上に池王神社が祭神はスサノウ…

 実は、古代の常陸国の領域に東国三社と称せられる鹿島神社、香取神社、息栖神社があるのです。

 直ぐに「息栖」と「伊岐須」のどちらが古い地名であるかは単純には言えませんが、他に決め手がなければ、「好字令」(好字二文字にせよ!)以前の地名に思える飯塚の「伊岐須」の方が起源ではないかと考えてしまいます。以下、息栖神社HPより

この息栖神社は鹿島の武甕槌(実体は阿蘇の草部吉見=海幸彦)、香取の(実体はニギハヤヒ=猿田彦=山幸彦)に対して、天鳥船(その実体は長脛彦=天香香背男 カガセオ)とされ長脛彦ではないかとされているのです。これも地名対応に過ぎず必ずしも神社が対応していると言う意味ではないことから早とちりは慎み冷静に考えて見る事にしましょう。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ

2021年02月15日

ビアヘロ174 丁巳歴史塾との合同神社トレッキング資料を公開します @ 厳島神社(飯塚市)

ビアヘロ174 丁巳歴史塾との合同神社トレッキング資料を公開します @ 厳島神社(飯塚市)

20201101

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


北九州の丁巳歴史塾との“武漢肺炎ウイルス退散神社トレッキング”に向けて “飯塚市水祖神社”外


既に何度も廻っている飯塚市ですが、漸く神社トレッキングを本格的に行える条件が整ってきたようです。これまでトレッキング資料については未公開としていましたが広く参加を集うことから公開する事としました。既に太宰府地名研究会で数回トレッキングを行なっています。

一部重複しますが、北九州中心の丁巳歴史塾とのトレッキング”に際して飯塚では最も重要な厳島神社とナガスネヒコが居たと考える高宮八幡神社を巡り“飯塚市水祖神社”を加える事にしました。


 トレッキング順路 


@ 厳島神社   カーナビ検索 福岡県飯塚市鹿毛馬1088

A 高宮八幡宮  カーナビ検索 福岡県飯塚市伊岐須886-2

B 水祖神社   カーナビ検索 福岡県飯塚市庄司338-10

住所不明のため入口の庄司簡易郵便局の住所

C 水祖神社   カーナビ検索 福岡県飯塚市川津608-1 

                住所不明のため隣のグランドベルズ飯塚の住所

 D 水祖神社   カーナビ検索 福岡県飯塚市川津455

                 住所不明のため隣の阿弥陀寺(真言宗)の住所福岡県飯塚市川津467



@ 厳島神社   カーナビ検索 福岡県飯塚市鹿毛馬1088

   

無題.png百嶋由一郎先生から“飯塚市鹿毛馬の某神社が白川伯王の流れを汲む本家であり、厳島神社の元宮、白川伯王家の源流の一族の神社である”と聞かされていました。正面の鹿毛馬(カケノマ)神籠石については、過去何度か訪れていましたが、神籠石の踏査などをやると大抵はくたびれ目の前の神社でさえ見に行きません。今回はこの崇高な神社をご案内致します。飯塚市の中心部から20分もあれば行ける神社(百嶋先生は最後まで公表されませんでしたので)に向かう事にしました。

以前も触れた事がありますが、「白家神道」など聴いた事もないという方のためにも、学者の権威を無視するためにも、敢えて彼らが無視するウィキペディア(20150417 2030から紹介させて頂きます。


白川伯王家(しらかわはくおうけ)、又は白川家(しらかわけ)とは花山天皇の皇孫の延信王清仁親王の王子)から始まり、古代からの神祇官に伝えられた伝統を受け継いだ公家である。皇室祭祀を司っていた伯家神道(白川流神道)の家元白川家(しらかわけ)は花山源氏を出自とする堂上家である。花山天皇の皇孫の延信王(のぶざねおう)が源姓を賜り臣籍降下して神祇官長官である神祇伯に任官されて以降、その子孫が神祇伯を世襲するようになったために「伯家」とも、また、神祇伯に就任してからは王氏に復するのが慣例であったことから「白川王家」とも呼ばれた。

白川伯王家の成立

白川家の特徴は、神祇伯の世襲と、神祇伯就任とともに「」を名乗られたことである。「王」の身位天皇との血縁関係で決まり、本来は官職に付随する性質のものではない。非皇族でありながら、王号の世襲を行えたのは白川家にのみ見られる特異な現象である。以下、このことに留意しつつ白川家の成立について説明する。…中略…

吉田家との地位逆転

室町時代になると、代々神祇大副(神祇官の次官)を世襲していた卜部氏吉田兼倶吉田神道を確立し、神祇管領長上を称して吉田家が全国の神社の大部分を支配するようになり、白川家の権威は衰退した。江戸時代に白川家は伯家神道を称して吉田家に対抗するも、寺社法度の制定以降は吉田家の優位が続いた。

家格は半家、代々の当主は近衛中将を経て神祇伯になった。江戸時代の家禄は200石。他に神祇領・神事料100石。

王号返上と家系断絶

明治時代になると王号を返上し、白川家の当主の資訓子爵に叙せられた。資訓の後を継いだ資長には実子がなく、伯爵上野正雄北白川宮能久親王庶子)の男子の久雄養子に迎えたが、後にこの養子縁組は解消となり、白川家は断絶となる。


白川伯王が何かついては、既にひぼろぎ逍遥 159 秦の始皇帝と市杵島姫、173博多の櫛田神社の祭神とは何か? で説明していますので詳しい説明は省きます。

 ただ、簡略化して言えば、秦の始皇帝と姻戚関係を結んだ金山彦の一族が、始皇帝の姓である「臝」を許され「瀛」(イン)を名乗り、その一族と強固な姻戚関係で結ばれた白族(白川伯王→博多櫛田神社の主祭神大幡主→豊玉彦=豊玉主=ヤタガラス)を含め強固な「瀛一族」が形成されたのです。

 この「瀛」という姓を名乗ることが許された神代の有名な人物に、宗像三女神の一人である市杵島姫=津島姫があるのですが、古代の社格について言えば、本当は宗像大社よりも上位の神社だったのです。

 その証拠に、九州王朝の巨大山城である鹿毛馬神籠石の正面に鎮座しているではないですか。

 ともあれ、社殿をご紹介致しましょう。

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無題.png神社縁起はご覧の通り宗像同様の配神(三女神)ですが、むしろ、宗像大社が、この厳島神社と同様だと表現する方が正しいはずなのです。ただ、これだけではこの神社の重要性は言い尽せない様に思います。

なお、牧野神社についても、もしかしたら百済の目支(マキ)国を意味しているかも知れません。

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筑前国総鎮守-櫛田神社

博多祇園山笠で有名な櫛田神社の神紋は上の通りです。勿論、祇園山笠の祇園は右の五花無題.png木瓜紋ですが、主祭神で ある大幡主は六角形の三盛り亀甲に五三桐をシンボルとしています。 ここで、鹿毛馬の厳島神社神紋を見て頂きましょう。 千木は女神である事を表していますが、三盛亀甲(これは剣付き唐花) これだけでもこの厳島神社が大幡主の傘下にあったことが分かります。宗像も確認しましょう。

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楢紋は、宗像大社の神紋。大社の御神木である楢の木から。
 『神社名鑑』には、梶紋とあるが、電話で確認したら楢であるとのこと。 
「玄松子の記憶」より

これだけでは何とも…と言われる方は多いでしょう。その向きには次の写真をご覧いただきましょう。


無題.png厳島神社の宮司家が「白土」を姓としている事が分かります、しかし、何故か土に「、」点が付いています



この厳島神社にも数軒の白土さんがおられる事が境内の氏子の名を見ても分かります。点のある白土さん、点の無い白土さんがおられるのですが、宮司家は明らかに点付きの「白土」様です。

 無論、点付きの「土」という文字はない訳で、普通ならこの理由は全く分からないはずです。

 しかし、百嶋先生は十分お分かりだったようで、明治期に当時の神祇官→神祇庁が同社に押し掛け、千年以上続いた「白王」姓をけしからんとして変名を迫った結果であるとされていました。


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結果、白川伯王の「王」の横一棒を抜いた「土」へと変更したという歴史を留めるために痕跡としての「、」を残されたのです。 川伯→白(土+)へと。 ※「、」は、栄えある王の横一文字を削らされた印ですね。

この「点」についての謂れを、ちょうど境内の掃除をされていた宮司(90歳)の息子さんにお尋ねしたところ、“五代前の宮司からそのように聴いています”とのお答えを頂きました。

白川伯王家の本流、源流であり御本家であるという意味がお分かり頂けたと思います。


106

白川伯王家の源流の神社初見 “飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)”


posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ

2021年02月12日

ビアヘロ173 鰐神社再訪 “佐賀県神埼市志波屋の二つの鰐神社”

ビアヘロ173 鰐神社再訪 “佐賀県神埼市志波屋の二つの鰐神社”

20201022

太宰府地名研究会 古川 清久


佐賀県神埼市というよりも吉野ケ里遺跡の北の山際の一角に志波屋と呼ばれる地区があり、二つの鰐神社(王仁神社)があり、少し下った場所に在る王仁神社の方には中国からのインバウンド狙いもしくは中国への肖りとしか思えない王仁氏来訪を伝承する施設まで造られているのです。

 勿論、以前から関心を持っていたのは県道脇に鎮座する方の寂れ草臥れた装いの鰐大明神の方である事は言うまでもありません。

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この神社の祭神が何なのか、この神社を創った(恐らく鰐氏を招請した)人々が誰であるかの話に入る前に、少し視野を拡げて考察して見ましょう。

 まず、「志波屋」という変わった地名です。3文字であることから「好字令」以前の地名である事は在る程度推定ができます。

当然にも「志波」が地名固有名詞の語幹であることは論を待たないでしょう。

恐らくこの「志波」という地名を付した集団こそが王仁博士を招聘した氏族であり、渡海能力のある(操船技術と渡洋航海が可能な船を準備できた)人々だったはずなのです。

直ぐに分かるのは近くの熊野宮であり、吉野ケ里遺跡の付近にも熊野神社が数社拾えることから熊野神社系統の氏族つまり博多の櫛田神社の大幡主系の人々だった事は一目です。

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確かに関係があるのです。

 この朝倉市に合併編入となった旧杷木町(大分自動車道杷木IC)には古くは杷木よりも勢力があった志波地区があり、これが神埼市の志波屋の移動ではないかと考えて来ました。

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仮想 神埼市志波屋 → 朝倉市志波 → …… 宮城県塩釜市 志波彦神社 鹽竈神社


 お考えください、「朝倉」地名は全国に30ケ所は拾え、戦国武将の朝倉義景のご先祖は室町期の大守護大名斯波氏の臣下だったのです。

このことについては、以前にも取り上げています。詳しくはこちらをお読み頂くとして、話を先に進めます。


 ひぼろぎ逍遥新ひぼろぎ逍遥

666

陸奥の志波彦神社 鹽竈神社 とは福岡県朝倉市志波から進出した

豊玉彦系氏族が奉斎する神社(下)

665

陸奥の志波彦神社 鹽竈神社 とは福岡県朝倉市志波から進出した

豊玉彦系氏族が奉斎する神社(上)

317

列島の「朝倉」地名コレクション  “狗那国拡散の痕跡地名か?“

146

「朝来」地名について B “朝倉氏と小佐氏”

145

「朝来」地名について A “但馬、朝倉、養父、志波” 

144

「朝来」地名について @  “兵庫県朝来市の朝来山から”


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

685

宮原さんに曳かれて天満宮へ “朝倉市古賀の天満宮は天満宮なのか?”

684

宮原さんに曳かれて朝暗神社へ “朝倉市須川の朝暗神社の基層には

誰が祀られているのか?”

633

鰐大明神が鎮座する佐賀県神埼市志波屋とは




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王仁神社参拝殿正面 この立派な方の鰐神社の正面には鳥が置かれ剣唐花紋が打たれていました


 この神紋は鴨玉依姫が使っていたもので、後には応神に渡されたもののようです。

これには草部吉見系氏族=後の藤原が関係していると見るべきでしょう。

既に以前の参拝の時からも、この王仁博士を招聘した氏族の見当は粗方付いていました。

それは、前述の通り熊野宮との関係からの推定でした。

立派な設えの鰐神社の由緒には以下の様にも書かれています。


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 王仁神社の背景に熊野神社があり、ある時代天満宮ともされていた事を考えると、参拝殿の屋根に鳥が置かれている意味も多少は伺えます。

 皆さんも天満宮、八幡宮などに鳥(鳩)文字を設えた神額を見たことが在られる方もおられるでしょう。



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 これは大幡主=カミムスビを奉斎する正八幡宮などを建てる氏族…橘一族が関係している事が見えてきます。彼らは大きな帆を持つ渡洋航海可能な大型船を駆使する集団であり、有明海に突き出した吉野ケ里の岬状の丘陵地の脇を流れる澪筋と大きな干満を利用し、直接接岸していた可能性さえ想定できるのです。

 だからこそ王仁の上陸地点、居留地さえも有明海側に準備していたはずなのです。

 繰り返しになりますが、重要なのは王仁博士を招聘した人々と招聘され渡海してきた大量の人々とは区別される必要はあり、結局「鰐族」とは何なのかを考えざるを得なくなります。

 ここで、改めて通説に沿った立場からの鰐氏とは何かを考えて見ましょう。


和珥氏(わにうじ) は、「和珥」を氏の名とする氏族。5世紀から6世紀にかけて奈良盆地東北部に勢力を持った古代日本の中央豪族である。和珥は和邇・丸邇・丸とも書く。

出自については2世紀頃、日本海側から畿内に進出した日の御子信仰または太陽信仰をもつ朝鮮系鍛冶集団とする説や、漁労・航海術に優れた海人族であったとする説がある。

また出自伝承に関し、和邇氏族は孝昭天皇の皇子・天足彦国押人命(天押帯日子命)から出たと称しているが、この天足彦国押人命という名は実体が殆ど無いものであり、和邇氏族の実際の上祖は天足彦国押人命の子とされる和邇日子押人命であったと考えられる。氏族名の「和邇」とは鰐のトーテムを意味すると考えられ、龍蛇、鰐信仰を持っていた海人族の安曇氏と同族で、その祖神は綿津見豊玉彦命であったと見られる。

ウィキペディア 20201022 12:46による


仮にこれが正しいとした上で孝昭天皇の皇子 天足彦国押人命(天押帯日子命)とされる天足彦が誰であるかを考えて見ましょう。

イスラエル系の金山彦と白族の大幡主の妹である埴安姫の間に産まれた櫛稲田姫がヤマタノオロチ神話を経てスサノウの妃となり産まれたのがナガスネヒコでその妹オキツヨソ足姫が草部吉見=ヒコヤイミミイとの間に産まれたのが天足彦なのです。

鰐氏が単なる渡来系氏族と言うよりもイスラエル系氏族とされる理由の一端にこの秦の始皇帝と姻戚関係を結んだ金山彦の一族「瀛」の後裔氏族としての性格に関係している可能性はあるのではないでしょうか。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


ただ、ここではこの議論にこれ以上は踏み込まず、宮城県の志波彦神社 鹽竈神社に繋がっている事をお知らせして終わりとします。こちらもスケールの大きな話であり、詳しくは前掲の10本ほどのブログをお読み頂きたいと思います。

新ひぼろぎ逍遥

665 陸奥の志波彦神社 鹽竈神社 とは福岡県朝倉市志波から進出した豊玉彦系氏族が奉斎する神社(上)

                                     

 仙台湾に向かう宮城県塩竈市に東北鎮護・陸奥国一之宮 志波彦神社 鹽竈神社 があります。

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 結論から先に言えば、この神社とは福岡県を西に流れる筑後川の北岸、現朝倉市の志波から持ち出された神社だと分かるのです。

 その話に入る前に、まずは同社の公式HPから、由緒、ご祭神を確認して頂きましょう。以下同社HP


鹽竈神社

鹽竈神社の御祭神は別宮に主祭神たる塩土老翁神・左宮に武甕槌神・右宮に経津主神をお祀りしておりますが、江戸時代以前はあまり判然とせず諸説があった様です。陸奥國最大の社として中古より崇敬された神社の御祭神がはっきりしないのは奇異な感じがしますが、呼称も鹽竈宮・鹽竈明神・鹽竈六所明神・或いは三社の神など様々あった様です。そこで伊達家4代綱村公は社殿の造営に際し、当時の名だたる学者を集めて研究せしめ現在の三神とし、又現在の別宮の地にあった貴船社と只州()宮は現在の仙台市泉区の古内に遷座されました。

鹽土老翁神は『古事記』『日本書紀』の海幸彦・山幸彦の説話に、釣り針を失くして困っていた山幸彦に目無籠(隙間のない籠)の船を与えワダツミの宮へ案内した事で有名ですが、一方博識の神としても登場しています。

武甕槌神(茨城県鹿島神宮主祭神)・経津主神(千葉県香取神宮主祭神)は共に高天の原随一の武の神として国譲りに登場し、国土平定の業をなした神です。社伝によれば、東北地方を平定する役目を担った鹿島・香取の神を道案内されたのが鹽土老翁神の神であり、一説には神々は海路を亘り、七ヶ浜町花渕浜(現在の鼻節神社付近)からこの地に上陸されたと言われ、又鹽土老翁神はシャチに乗って海路を渡ってきたと言う伝えもあります。

やがて鹿島・香取の神は役目を果たし元の宮へ戻りましたが、鹽土老翁神は塩釜の地に残り、人々に製塩法を教えたとされています。塩釜の地名の起こりともなっております。

御祭神の伝承の異説

日本を代表する古社、奈良県の春日大社の縁起を伝える『春日権現験記』(1309)によりますと武甕槌神は陸奥国塩竈浦に天降り、やがて鹿島に遷ったとされる注目すべき記述があります。

志波彦神社

志波彦神社は志波彦大神をお祀りしております。あまり馴染みのない御神名ですが、『延喜式』の神名帳に記載されている2861社の中でもわずか225社しかない「名神大社」と言う格別の崇敬を朝廷より受けていた神社です。

元々は東山道より多賀城に至る交通の要所宮城郡岩切村(現仙台市宮城野区岩切)の冠川の辺(現八坂神社境内)に鎮座しておりましたが、中世以降衰微の一途を辿り境内も狭隘だったため、明治4年の国幣中社列格の際に社殿造営の事が検討され、明治7年12月24日この地を離れ鹽竈神社別宮に遷座され、この際の御祭文に後日鹽竈神社境内に社殿を造営する旨が奏上されました。

大正11年当時の宮司山下三次が政府に造営の陳情をしましたが、翌年の関東大震災発生にて効を奏せず、次代古川左京宮司が時の政府に強く訴えかけてようやく昭和9年に着手、明治・大正・昭和の神社建築の粋を集め昭和13年に完成したのが現社殿です。造営前の社殿地には2階建て社務所が建っておりましたが現在の場所に降ろし、その場所に志波彦神社を建立しております。 紙面の関係でここまでとします。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ