2021年03月20日

ビアヘロ178 2021年3〜4月から 新たなブログ+動画をスタートさせるべく準備中です!

ビアヘロ178 202134月から 新たなブログ+動画をスタートさせるべく準備中です!

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太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


ここ数年でインターネットが一気に普及し、これまでの情報環境が一変した事は皆さんご承知の通りです。

 この変化に対応すべく研究会も組織の再編を迫られています。

 九州内の会員によるだけでも既に10本を超えるブログが動いていますが、その中から動画と連動できる物を作成し徐々に公開して行きたいと考えています。

 問題は編集作業であり、講演会の映像をそのまま公開する事もあるのですが、音声発信+ブログor音声+映像+ブログでの公開が手間を掛けずに重要な情報をそのまま発信できるのではないかと考えています。

 @ まず、ネット上に二つの窓口を開きます。

 A そこでは従来通り「百嶋神社考古学研究」というブログを出し、当然、そこでは写真、地図、文章、神代系譜…を見ることができます。

 B 次に対応するユーチューブ動画を開きます。そこではブログ公開者がアドリブで話してくれます。

 聴きたいだけの方は音声のみ、内容に踏み込みたい方は対応ブログを検索し、二つをネット上に開いて詳細をご覧ください。

 ユーチューブはテレビ・ジョンと同様ではあり利用価値は高いのですが、検索には不向きでタイトル以上の検索ができません。現状では音声検索ができないため、探し出す事が出来ません。

 このため、ブログ検索を行い、対応する動画を見れば、その部分を詳しく聴くことができるのです。

 その意味では、編集作業を軽減し、より進化した利用ができるものと思っています。

 実験的な試みですが、当会のメンバーの動画対応サイトもできるだけ取り込み多角的な利用を進めていきたいと思っています。

 このため、ひぼろぎ逍遥(跡宮)は従来通りですが、新ひぼろぎ逍遥をNO.800番で終了し、その分を百嶋神社考古学研究に引き継ぎたいと考えています。

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20210301スタート 百嶋神社考古学研究班事務局(090-5289-2994)中島


「百嶋神社考古学」はここ五年でかなり知られるようになりました。それはネット上にもこれを支持する研究者のブログが20本以上も静かに拡大しているからです。百嶋由一郎氏は20代から亡くなられる85歳まで60年以上の年月を費やし、国内の神社は元より中近東を含む半島から大陸を調べられた稀代の神社研究者(ご本人は日ユ同祖論が脚光を浴びていた戦前の「神社考古学」という言葉を使っておられました)でしたが、惜しくも宮地嶽神社での6時間講演を前に2015年頭に亡くなられました。まだお元気でしたから徐々に受け継ぎたいと考えていましたが、急逝により否応なくその業績を残す作業に向かう事になりました。先生は一般の神社研究者、古代史家、九州王朝論者にも及びもつかない大変な研究成果をお持ちでした。それは通説とは全く異なるものでした。良く言われていた事に「古事記の95%は嘘」という印象的な話もありました。大きな意味では九州王朝論者の範疇にあったのですが、我々が継承したものはその数パーセント程度のものであり、その業績の一部でも復元し継承できれば有難いと考えています。奈東南雄

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百嶋由一郎最終神代系譜(一部)


内容について質問があれば 09062983254 古川までご連絡下さい。


参加申込等:090-52892994 (中島)

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 09:10| Comment(0) | ビアヘロ

2021年02月27日

ビアヘロ177 景行記の八女津姫とは誰なのか? “八女津媛神社(福岡県八女市)”

ビアヘロ177 景行記の八女津姫とは誰なのか? “八女津媛神社(福岡県八女市)”

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太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


福岡県の現八女市(旧矢部村)に八女津媛神社があります。それこそ急峻な大渓谷に造られた日向神ダムを越えさらに山中に分け入った場所にある神社であることから、景行記に登場する有名な神社であるにも拘わらず、実際に現地を踏んだ方はかなり少ないのではないかと思います。

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10年程前でしたかこの地に頻繁に足を向けていた時期がありました。しかし、最近はあまり入ってはいません。また、この矢部村の地名について講演した事さえもあったのですが、その頃まではこの神社の女神様がどのような素性の方であるかについて全くの見当が着いていませんでした。


「日本書紀」によると、景行天皇が八女の県(やめのあがた)に巡行されたとき、「東の山々は幾重にも重なってまことに美しい、あの山に誰か住んでいるか」と尋ねられました。

そのとき、水沼の県主猿大海(さるのおおあま)が、「山中に女神あり、その名を八女津媛といい、常に山中にいる」と答えたことから八女の地名が起ったと記されています。

八女津媛神社はこの八女津媛を祭った神社で、創建は養老三年三月(719)と伝えられています。

八女の地名の起こりにもなった八女津媛は、弥生時代から古墳時代まで各地の豪族が治めていたクニの、女首長であり祭祀を行なっていた巫女の一人だったと思われます。

この時代は、魏志倭人伝に記されている邪馬台国の女王卑弥呼の様に、巫女の力を持った各地の女首長が、鬼道や呪術といった宗教的な行いによってクニを治めていたのです。

「鬼道」の「鬼」とは、古代では「神」と同じ意味を持っていましたので、「鬼道」とは「神道」と同じことになります。

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 いわゆる邪馬台国ファンなどにも景行巡幸に関する話は結構知られており、八女ツ姫も山奥深く住む女神としてご存じの方は多いようです。

 ただ、八女ツ姫が居たから八女という地名が生れたのは如何にも乱暴な創り話の類と言うべきでしょう。

 そもそも八女市の中心部にかなりの大型河川である矢部川が流れ、矢部村に八女津媛神社が在る訳で「矢部」と「八女」とは同一の固有名詞である事が推定されそうです。むしろそちらの方からアプローチをするべき問題であろうと考えています。

 これについてはかつて共に調査を行っていたN氏が「八女と矢部」としてこの二つは全く同一の地名であり、呉音、漢音に関わるM音とB音の入れ替わり現象を反映したものであるとの説を出しています。

 それについてはこれ以上触れませんが、何故、山奥に漢音系の「矢部」が地名として成立し、下流の平野部が古くから「八女」と呉音系の発音を残しているかについては、恐らく南北朝争乱期に宮方として蟠踞した五条家が漢音系の発音を好んだ(呉音は全く馴染みがない)ためではないかと考えています。

 今回、何故この神社を取り上げたかと言うと、熊本で神社トレッキングを行なっている2系統の一つのグループのメンバーからこの八女津姫がどのような素性の人であるかの問い合わせが来たからです。

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八女津媛神像


 一般的にはこの半磐座遺跡とも言うべき神社を訪ねられてもこの女神像が出迎えてくれるだけで、何の由緒書もなくなんとなくイメージだけを膨らませて見るものの、実体は掴めず空しく神社巡りをして帰るだけになるでしょう。この点については神社庁も公には具体的な情報を持っていないようで、「福岡県神社誌」にもほとんど記述といえるほどのものがないのです(下記)。

 つまり、八女津媛がこの一帯に住んで居たといったという伝承があるだけだったのだと思うのです。

 ところが、百嶋先生にはこの女神様の素性がお分かりだったようです。

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それは、百嶋家のご先祖が熊本県の玉名に移動する以前の本拠地が、福岡県八女市の黒木の一帯の相当に有力な家系の方(当然、津江神社:福岡県八女市黒木町今49の社家に近接する一族)であった事から、その内部に伝わる直接的な情報を得ておられたのだろうと思います。

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百嶋由一郎 八女ツ姫神代系譜


 お分かりでしょうか?皆さん良くご存じのニニギの命(タカミムスビの神の息子)とコノハナノサクヤ姫(大山祗の次女)の間に産まれた古計牟須姫(糸島にありますね)と贈る孝安天皇(玉名の疋野神社の主神)の間に産まれた筑後(久留米)の三潴の君の祖武国凝別の娘宇佐ツ姫(ウサツヒメ:ウサツヒコと共に開化の臣下でしかない崇神を神武として装い出迎えたとした)と贈る景行天皇の間に産まれたのが八女ツ姫なのです。さすがは百嶋由一郎氏ですね。師は八女の黒木を本願地としていたのです。

 さらに言えば、ウガヤフキアエズと市杵島姫の娘の下照姫(絶世の美女と言われた)の間に産まれた水沼の県主猿・大海姫(驚くことに女性なのです)こと八女津姫について景行に告げた随行者も描かれているのです。つまり、役者を全て描いておられたのでした。それは、日本書記の景行天皇条の話に登場する人物について、地元の神社に伝わる本当の話を回収できる地位にあった家系の方だったからです。

 それは、百嶋由一郎氏の御先祖が女の黒木の有力者の家系であり、後に玉名に移動し大地主となった(明治の所得番付百傑)家系だったからこそ景行の血筋も、八女津姫の血筋も全て把握されておられた事が分かるのです。景行は玉名の疋野神社の主神である贈る(藤原が自らの勢力に取り込むために第5代天皇扱いにした)孝安天皇の子になるのですが、こう言った隠された情報も十分得られる立場にあったのです。

 従って、景行とは近畿大和朝廷が熊襲を退治するために送ったものなのではさらさらないのであって、未だにこんなことを信じているのが通説派の畿内説論者なのです。

殆ど漫画の世界ですね。勿論、八女津姫が卑弥呼などではない事も言うまでもないことです。

尚、先生のメモに在る八幡古表神社(福岡県築上郡吉富町小犬丸353-1)の美奴売大神については長くなるため別稿とします。

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百嶋神社考古学に関する資料を必要とされる方は090-6298-3254までご連絡ください。全時間対応です。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ

2021年02月21日

ビアヘロ176 丁巳歴史塾との合同神社トレッキング資料を公開します B 水祖神社(飯塚市)

ビアヘロ176 丁巳歴史塾との合同神社トレッキング資料を公開します B 水祖神社(飯塚市)

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太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


B 〜 D 水祖神社   カーナビ検索 福岡県飯塚市庄司338-10…以下


 水祖神社とは全国的にも聴かない神社ですが、その祭神は弥都波能売神、罔象女神で良いでしょう。

『古事記』の神産みの段において、カグツチを生んで陰部を火傷し苦しんでいたイザナミがした尿から、和久産巣日神(ワクムスビ)とともに生まれたとしている。『日本書紀』の第二の一書では、イザナミが死ぬ間際に埴山媛神(ハニヤマヒメ)と罔象女神を生んだとし、埴山媛神と軻遇突智(カグツチ)の間に稚産霊(ワクムスビ)が生まれたとしている。     ウィキペディア(2020 0618 1805による

としても、何が何だかお分かりにならないでしょう。一般的に水の神というと天御中主命、市杵島姫、弥都波能売神とされますが、数は多くありませんが、これ以外にも幾つか別の神様である場合もあります。

一般的に天御中主=白山姫(ミククルミタマノオオカミ)と弥都波能売(罔象女)の二神は共に水の神様とされる事が多いのですが(大半)、水波能売命と書かれている事もそれを象徴しています。

勿論、逆に字面からかも知れませんが…。これも、農耕地の最上流に置かれている事も良く分かる気がします。さて、「記」「紀」の悪意に満ちた間の抜けた話よりも百嶋神代系譜を見ることにしましょう。

百嶋神社考古学では、ミヅハノメこと神大市姫とは大山祗と大幡主の妹の埴安姫の間に産まれた娘で、大国主命とコノハナノサクヤの姉になる事がお分かり頂けると思います。 あまり知られてはいませんが、大国主命、コノハナノサクヤヒメの実の姉に当たるスーパー・スター中のスーパー・スターなのです。

 まず、姶良市という名称からして大山祗と関係があるのではないかと思っていましたがその通りでした。

 また、本当の神武天皇(神武僭称贈崇神ではないという意味で)の本当のお妃だったアイラツヒメも、実はこの神大市姫と金山彦との間に産まれていたからアイラツヒメと呼ばれているのです。では、知られているようで、良く分からない罔象女(ミヅハノメ)神がどなたであるかをお知らせしておきます。

神代の大者中の大者同士、トルコ系匈奴の大山祇神(月読命)とヘブライ系白族の大幡主(博多の櫛田神社の主神)の妹との間に生まれたのが神大市姫=罔象女であり、スサノウのお妃にもなられ、次の時代の最も重要な神様、辛国息長大姫大目命=香春岳の主神、山幸彦=ニギハヤヒのお妃になるプリンセス豊受大神=伊勢外宮をお生みになるのです草部吉見など足元にも及ばぬどえらい超大物の女神様なのです。

最後ですが、水の神様と言えば、弁財天様が頭に浮かぶと思います。これは、宗像三女神の市杵島姫の事なのですが、この外に美具久留御魂(ミグクルミタマ)神もおられます。こちらも百嶋先生はお分かりだったようで、天御中主命(久留米水天宮)の事と言われていました。この外にも、天之水分神(アメノミクマリ)= 速秋津日子神(ハヤアキツヒコ)と速秋津比売神(ハヤアキツヒメ)のお二人の神様 天御中主命おられます。主に、天御中主命、罔象女、市杵島姫の三人の水の女神様が居られる事になり、中々直ぐには見分けが付かないでしょう。

これ以外にも 飯塚市有安247 に水祖神社が在ります。さて、ここからが最も重要なポイントです。

何故、この地に水祖神社が集中しているのでしょうか?百嶋神社考古学の立場からは、このミズハノメは大山祗の長女であり、大国主命、木花咲弥姫の姉に当る人物なのです。

 太宰府市から米の山峠を越え筑豊に入る古街道筋には多くの大山祗を祀る神社(大山祗神社、山神社…)が並んでおり、その延長上にこの神社群も存在していると考えるべきでしょう。

 また、甘木、朝倉、杷木の旧朝倉郡には60社の田神社が無格社に貶められその痕跡を留めています。

 実は、この一帯こそが本来の大国主命の領域でその地を彦山の高木大神+武甕槌=草部吉見=海幸彦= 東に向かった阿蘇氏(ヒコヤイミミは高木大神の次女のタクハタチヂヒメを妃とし事実上の入り婿となっている)が奪った(出雲国譲り)現場であり、その外延部には大山神社、大山祗神社、山神社…が分布しているのです。故)百嶋由一郎氏は鹿児島(一部宮崎)のタノカンサー=田神とは博多の櫛田神社の大幡主と大山祗のタッグ=擬神体と言われていました。

 こうして彦山を中心とする高木大神と阿蘇氏(草部吉見系)の領域と大山祗、大国主、ミズハノメ、山幸彦=ニギハヤヒ(恐らく大幡主の息子…)の領域が分けられ、大国主は山陰の出雲に追放されたのです。

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太宰府から飯塚(筑豊)へと抜ける九州王朝古代官道(米山峠)を睨む大山祗神社の延長に馬敷の大山祗神社(大山祗+コノハナノサクヤヒメ)が存在し、飯塚市平坦部の水祖神社(ミヅハノメ)に繋がる


442 トレッキングで訪れた馬敷の大山祗神社 “福岡県飯塚市馬敷”

スポット103 太宰府地名研究会4月期トレッキングで獲得した細やかな成果 で取り上げた飯塚市馬敷の大山祗神社をご紹介したいと思います。

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飯塚市馬敷の大山祗神社カーナビ検索 飯塚市馬敷…

現地は上馬敷公民館辺りですがかなり分かり辛い為地元の方に尋ねるしかありません

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→方向の山の中に入って行くのですが距離はさほどではありません


道が狭く舗装も完全ではなく傾斜もきつい為、2t車までは入りそうですが、普通車では、まあ、踏み込まれない方が無難でしょう。

結局、上馬敷の公民館辺りに車を止めて歩く方が良いのですが、山沿いの道を少し歩けば、突然、森の中に社殿が見えて来ます。

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大山祗神社参拝殿神殿


今回のトレッキングは、古代の筑紫と筑豊(太宰府と飯塚)を繋ぐ要路の米の山峠越えルートの途上に如何なる神社が並んでいるかを考えて頂く事でした。

勿論、大山祗神社が並んでいる事に気付いてトレッキングを組んだのですが、この奥まった山蔭にも大山祗神社が鎮座している事を見た参加者も驚いておられたようで、それなりの成果はあったようです。

森の中の神社はそれなりの神秘性を感じさせるものであり、それだけでもトレッキング参加者も満足されたようでしたが、まずは、石柱の桜の紋章と瓦の破片の桜の文様が大山祗の娘の木花咲耶姫を表す事を理解して貰えたようです。

この点、「福岡県神社誌」とも整合し問題はないようです。さて、大山祗神社が鎮座する「馬敷」ですが、実際には馬敷でも上馬敷にあり、隣には下馬敷があります。

この「馬敷」という地名が、熊本地震で全国的にも知られる事になった「益城」(熊本県上益城郡益城町)の置換え、民族移動による古地名の持ち込みによるものとの話は過去何度か行っています。

そして、その中間に存在するのが甘木(現朝倉市)であり、故)百嶋由一郎氏からは“甘木は、アマギと読んではいけません、甘シ木(ウマシキ)とお読みなさい”と聴いています。

宇摩志阿斯訶備比古遅(記) 可美葦牙彦舅尊(紀)…のウマシのはずなのですが、味師内宿禰(ウマシウチノスクネ)のウマシは「味」、「甘」で置き換えられるのです。

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この大山祗神社への参道の途中には別の麻敷神社があります。

無格社扱いなのか「福岡県神社誌」でも確認できません。

奥にある大山祗神社の元宮なのか不明ですが、同じく大山祗木花佐久屋姫を祀っているようです。

勿論、単なる地名の付合ではなく、神社、祭神、伝承…の対応を追求すべきなのですが、熊本はどころか、鹿児島+宮崎(古代日向国)に大山祗祭祀が色濃い広がりを見せている事は、神社に詳しい方ならば良くご存じの事と思います。

ちなみに、大山祗の墓と言われるものが宮崎県西都市の西都原第2古墳群にあり、大山祗を主神として祀る石貫神社(宮崎県西都市三宅4615−ロ)がその正面に鎮座しています。

娘の木花咲耶姫(コノハナノサクヤヒメ)を祀る神社が宮崎県西都市妻1に鎮座する都萬神社なのです。

当然にもこの一帯から北に向かって展開したのが、大山祗、木花咲耶姫祭祀であり、祭祀だけが独り歩きしたとは考え難く、当然、奉斎する民族、氏族も一緒に移動しているのです。

百嶋神社考古学では、宇摩志阿斯訶備比古遅と天御中主命との間に産れたのが大山祗であり、姉の越知姫であり、その大山祗と埴安姫との間に産れたのが神太市姫、大国主命、木花咲耶姫となるのです。

また、前述の石貫神社(宮崎県西都市三宅4615−ロ)の石貫の地名移動が熊本県玉名市の石貫であり、そこからそう遠くない和水町には、江田船山古墳が鎮座しているのです。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ