2020年01月03日

ビアヘロ119 2020年1月26日(日) 「宮原誠一の神社見聞牒」から天照大御の根拠地を探るTR

ビアヘロ119 2020126日(日) 「宮原誠一の神社見聞牒」から天照大御の根拠地を探るTR

20200126

太宰府地名研究会 古川 清久

オープン参加(一般の方も気楽にご参加ください)資料代500円のみ 車での移動が必要になります


2020126日(日) 午前1100に糸島市役所に集合を…(列車利用の方はJR前原駅で拾います)

集合場所 糸島市役所 P西 カーナビ検索福岡県糸島市前原西1丁目1-11(乗合は調整します)

雨天の場合は3月に延期の予定…

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2020年三社詣り“糸島半島に天照大御神の痕跡を求めて”(10人程度の乗合は可能です事前連絡を!)


@  荻浦神社(おぎのうらじんじゃ) カーナビ検索福岡県糸島市荻浦144

A  ジョイフル 前原加布里店   カーナビ検索福岡県糸島市高田5丁目120(仮案)

B  油比神社(ゆびじんじゃ)   カーナビ検索  福岡県福岡県糸島市油比187

C  井田原神社(いだはらじんじゃ) カーナビ検索福岡県糸島市志摩井田原1

D  桜井神社            カーナビ検索  福岡県糸島市志摩桜井4227


「宮原誠一の神社見聞牒」の9月稿を基礎に重要な神社を検証します。


No.123 大日孁貴(天照大神)伝承の地・福岡市南部の檜原2019-09-29 18:00:00

宮原誠一の神社見聞牒(123)

令和元年(2019)0929

以下宮原論文の一部を掲載します…


3.高天原(たかまがはら)

『記紀』の神話からして、天照大神(大日孁貴)が青年期を過ごした地が高天原となります。
高天原は時代と共に移動しているのです。
 福岡県那珂川市山田 → 福岡県朝倉市山田 → 奈良県高天町 → (大加耶)高霊
那珂川市伏見宮の近くの氏子さんにお聞きしたのですが、ここ那珂川市の山田が「山田」地名発祥の地だそうです。福岡県朝倉市の山田の地名は、ここ那珂川の山田が移動していった、と言われました。
 やまいこく(邪馬壹国)=やまとこく(邪馬台国)=やまだこく → 山田
「やまい」「やまと」「やまだ」は全て同義語です。ヘブライ語で「神の島」「神の民」という意味になります。


百嶋講演「春日神社について」 20114

倭人伝にでてくる伊都国の長官は爾支「ニキ」、「キ」がついているので新羅系であることがわかる、将来、饒速日となる山幸彦(猿田彦)です。投馬国の長官は弥々「ミミ」、彦山の天忍穂耳である海幸彦です。倭人伝は、何十年かのことをごっちゃ混ぜにして圧縮して書いているので、そのまま信じると間違えてしまう。伊都の国は伊都、投馬国は宇佐です。そして、すこし時代がおくれて宇佐津彦が出てくる。宇佐津彦は生目(贈・垂仁天皇)です。足一騰がりの宮、これを生目が、神武天皇(本当は贈・祟神天皇)に献上したことになっている。()祟神天皇を神武天皇とわざと混同したい連中がいる。高木大神系統です。
ところで高木大神の故郷に日本の高天原がそっくりそのまま移転したことをご存知ですか?近鉄奈良駅の地名、高天です(あの付近の地名は高天町です)。ほら吹き集団はどこに一番多く住んでいたか。一番多いのは福岡県です。もちろん奈良県も多いです。熊本の第五高等学校付近の龍田から、奈良の立田(風神、雷神の立田神社)まで、阿蘇火山帯(中央構造線)でつながっている。阿武隈(=おおくま)、大隈、七隈、嘉麻市の中心部の大隈、これは大集落という意味です。博多の櫛田神社系統の大集落という意味です。
そして、奈良では葛木連山の葛木古道の中に高天神社があったが、次第にお賽銭が上がらなくなった。そして最終的には、この人たちは朝鮮半島の八万大蔵教のある高麗に移った。
朝鮮半島の高天原をご存知ですか?特に、福岡の筑後地区には朝鮮系の日本人が多いですね、その方たちは、未だ、日本人になりきれていない日本人、要するに、何でも朝鮮の味方をするのです。そのような人たちが、朝鮮半島の高霊(コリョン)というところに、現在の韓国の中心部近くに、日本の高天原の本物は高霊にありと堂々たる高天原を作っています。ところが作ったのは1999年です。それまで彼らはどこで活動したかというと、奈良の高天原、場所は葛木連山、御所市、あの地区に、勝手に九州の高天原を持って行って、向こうで、高天原活動の宣伝の基地にしていたというような高天原です。ところが盛んに2000年間ほら吹いて、がんばって金儲けいたしましたけれども、この頃はお金にならないようになってきた。人が信用しなくなってきた。お賽銭が上がらなくなってきたということで、打ち切りとなりましたね。とにかく、葛木高天原は1999年に朝鮮半島の高霊(コリョン)に移りました。
一番最初は九州の何処にあると言って盛んにほらを吹いていました。
高木一族、ニニギノミコトの一族。そのあとですね、勝手に高天原を奈良のほうに持っていきました。奈良葛城連山の奈良側のほうに持っていきました。その場所の名前は「高天原」、または原をとって「高天」ともいいます。
ところが、肝心かなめ、お賽銭をあげてくれていた日本人及び朝鮮人がさっぱり、特に、日本人がお賽銭をあげなくなった。信用されなくなった。彼らが言う高天原は信用されなくなった。
それまでの高天原は何処から持って行ったかというと朝倉から持って行っています。朝倉、朝倉、それが全然信用されなくなったから、とうとう根を上げて1999年に奈良の葛城を逃げ出して、朝鮮半島の高霊(コリョン)の方に逃げ出して、高天原を作ったんです。


4.大幡主と大日孁貴を共に祀る神社

福岡県に大幡主と大日孁貴を共に祀る神社が四社存在します。特に三社が糸島地方に鎮座です。大幡主の神は「国常立尊」あるいは「埴安命」の名で祀られています。
勿論のこと、櫛田神社は大幡主(櫛田大神)と天照大神(大日孁貴)を主祭神とします。

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櫛田神社三社を合わせると、大幡主(国常立尊)と天照大神(大日孁貴)を共に祀る神社が六社存在します。古代の日本史の舞台は北部九州沿岸部、南九州の球磨地方、八代地方といった所でしょうか。
佐賀県神埼の櫛田神社も当初は大幡主(大若子命)と天照大神を祀ります。後に、祭神の大幡主と天照大神が消えて、素戔嗚尊、櫛名田比売命、足名椎手名椎尊を祀る稲田神社(仮称)に変遷しています。
もしかしたら、一座に大幡主と天照大神を祀り、二座に素戔嗚尊、櫛名田比売命、足名椎手名椎尊が祀られていたのかもしれません。想像です。ここが神埼の櫛田神社のナゾですが、神埼に櫛田神社があるのもナゾです。
これらの神社は大幡主(国常立尊、大若子命、櫛田大神)と天照大神の二柱を祀る神社ですが、大幡主と天照大神を夫婦神として祀る神社ということです。
博多の櫛田神社の祭神・天照大神については、あまりに古くて記録にないと由緒にありますが、夫婦神として共に祀られる存在で、「夫婦神」とは記載できない事柄です。由緒をぼかしてあります。

井田原神社(いだはらじんじゃ)
所在地 糸島市志摩井田原1(糸島郡可也村大字井田原字天崎)
祭 神 国常立尊、天照皇大神
末 社 貴船神社(闇龗神)、福里屋神社(天神)

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油比神社(ゆびじんじゃ)
所在地 糸島市油比187(糸島郡前原町大字油比字本村)
祭 神 国常立尊、天照皇大神
菅原神は同町字油比に無格社天神社として祭祀ありしを合祀す
由 緒 埴安命、伊弉冊尊、天穂日命。もと十六天神と称す。

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荻浦神社(おぎのうらじんじゃ)
所在地 糸島市荻浦144(糸島郡前原町大字萩浦字前田)
祭 神 天照皇大神、国常立尊、菅原大神
由 緒 昔は老松天神と言った。一説には十六天神
末 社 保食神社(豊受大神)、厳島神社(市杵島姫命)

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No.128 糸島市桜井の岩戸宮の安曇磯良と金印


日本の歴史はほとんどが仮説の上に成り立っていると思っています。
金印の続きの話ですが、内容は事実を証明するものはなく、仮説の話です。
前回ブログの金印の要約です。

()国の王様・大幡主は子息・豊玉彦を使者に密かに朝貢しているのです。
そして、使者の豊玉彦は「中郎将」の称号を受け、日本では「中将」様と呼ばれているのです。使者の豊玉彦は明確な国王の名称を誤魔化すために、どのような解釈でもとれる国王名を使用したと推測します。つまり、「委奴國王」は「わのな国王」とも「いと国王」ともとれるのです。
現存する金印「漢委奴國王」は豊玉彦を使者に「委奴國王」を僭称して、大幡主が印綬された金印となります。

鈴木真年は記録には現れない「那()国王・大幡主は子息・豊玉彦を使者に『委奴國王』を僭称して密かに朝貢した」ことを知っていたことになります。


現存する金印「漢委奴國王」は、子息・豊玉彦を使者に那()国王・大幡主は「委奴國王」を僭称され、金印を印綬されたことになります。
それで、金印の印面を「漢の倭の奴国王」と、私は読みました。
今回は、2019年6月16日実施された神社トレッキング資料を参考にします。
No.111 糸島市天降神社中心のトレッキング資料」
https://ameblo.jp/kenbuncho2017/entry-12476314610.html

会の主目的は糸島の天降神社訪問でしたが、私にとっては金印調査が目的でした。
櫻井神社(與止姫神社)、浦姫神社がその対象神社となります。次に引津神社、若宮神社の古計牟須姫(こけむすひめ)の調査でした。ところが、当日出かけようとしても体が動かず、杖代(つえしろ)にもかかわらず出席できず、案内を主管の古川様に代わりをお願いした次第です。
糸島の桜井の與止姫神社は表記と異なり、安曇磯良と豊姫(ゆたひめ)を夫婦神として祀ります。その與止姫神社創設のきっかけを作ったのは、浦姫神社の祭神、浦新左衛門毎治(つねはる)の妻女・浦姫です。
慶長15(1610年)、寛永元年(1624)と短い期間に、糸島の浦村では神がかりの強力な霊能者が二人出現しているのです。慶長15年は糸島の浦の浦毎治の妻女で桜井神社の大宮司家です。寛永元年は糸島の志摩船越の若宮神社の創立者・仲西市平の妻で、仲西家は今でも引津神社、若宮神社の社人となられています。

1.安曇磯良と豊姫

大幡主(大海神おおわたつみのかみ)、豊玉彦(海神わたつみのかみ)、豊玉姫、彦火々出見命、鵜草葺不合命、安曇磯良(あずみいそら)、豊姫(ゆたひめ)の流れは、糸島・志摩半島の神社を巡りますと、その関連が見えてまいります。

安曇磯良・豊姫系図

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安曇磯良は大幡主の直系の子孫であり、金印を引き継ぐ資格と地位は十分です。
安曇磯良は開化天皇と義兄弟であり、新羅征討等共に行動された人物であり、皇宮に住み、神功皇后をして「日神 表筒男尊の大臣公は天照大神の「ひまご」にておわします間柄、玄孫大臣・物部大連(もののべおおつら)と申し奉るべしとおおせけり。玄孫大臣と書いては、ひまご大臣と読めり。」とあり、安曇磯良は天照大神の曾孫であり、玄孫大臣・物部大連と呼ばれています。また、住吉三神の一柱でもあるのです。

住吉三神を整理すれば
 表筒男尊 日神垂迹 玄孫大臣物部大連・安曇磯良 防府住吉神社の主祭神
 中筒男尊 ()崇神天皇 博多住吉神社の主祭神
 底筒男尊 月神垂迹 大政大臣物部保連・玉垂命・開化天皇 摂津住吉大社の主祭神

安曇磯良と豊姫の子・日往子(ひゆきこ)は、神功皇后が亡くなると、開化天皇に甥として連れられて高良山に上がり、高良大社の大宮司家・鏡山家の祖となるのです。
その開化天皇の九体皇子の一人・ナオミ姫と関係する播磨の姫路の黒田家は、江戸幕府より関が原の功績により筑前福岡藩に移封となります。第二代藩主黒田忠之公の時、浦姫の関連で桜井の與止姫神社を創建されます。
その黒田家に渡った金印は後に亀井南冥の係わることとなり、『金印弁』の鑑定口上書に記載されるごとく金印の志賀島出土説(志賀島は安曇磯良を祭神とする志賀海神社が鎮座する)となって日の目をみるのです。大幡主、豊玉彦、・・・安曇磯良の流れは、糸島桜井の安曇磯良から志賀島の安曇磯良へと安曇磯良に戻ってくるのです。

2.浦姫と桜井の與止姫神社

與止姫神社(よどひめ)が鎮座する桜井の北に「浦」の村があり、そこに浦姫伝説の浦姫神社があります。


浦姫伝説
慶長15(西暦1610年)のことです。糸島一帯が大暴風雨に襲われたとき桜井の三郎畑という小高い丘に大きな岩屋ができました。これを見ようと村人が大勢集まりました、その中の山伏が「神様の岩屋だから、人は出入りしてはならない」と厳かにいうと、人々は跪き拝むのでした。その人達の中に浦新左衛門毎治の妻女がいました。その夜妻女が眠りについていると、夢の中にその岩屋が現れ、その中に運ばれていきました。奥深いところで神々のお姿にふれ伏し拝みますとキラキラと輝く小石が飛んできて、顔に当たりました。夢から覚めた妻女は神のお告げのもと、五年の辛い修業を行い、正確な予言をするようになりました。その後、浦姫様と呼ばれ、評判は福岡の黒田忠之公にまで届きました。忠之公は、審議を確かめるため使者を遣わしましたが、「私には人の心など物事すべてがわかるのです」といって、使者の浦姫への疑念や城を出るときの様子などを、見透かしたように言い当てたのです。(中略)
忠之公は、その信じられないような能力に驚かれ、後に浦姫の話が事実と少しも違わないことを知るとその信頼は益々深まり、難しい事が起こる度に相談されたということです。


慶長15(161061日より2日、早暁に桜井を中心に雷鳴轟く大豪雨が降り、岩戸神窟が初めて開き、霊験あらたかな神様が出現された。その事は筑前国2代藩主黒田忠之公にも聞え、厚く崇敬され、寛永2年(1625)桜井大神宮を、寛永9(1632)桜井神社を創建されている。当初、桜井神社は、与止姫大明神(よどひめだいみょうじん)と呼ばれ、明治になって桜井神社と改称されている。


      浦姫神社 福岡県糸島市志摩桜井3315  浦毎治(つねはる)の妻女・乗蔵を祀る

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櫻井神社 福岡県糸島市志摩桜井4227

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3.本殿後の岩戸宮

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本殿後の岩戸宮は円墳の入り口に社殿を構えたものです。
慶長15(161061日より2日、早暁に桜井を中心に雷鳴轟く大豪雨が降り、相薗の古墳の岩戸が開きます。
その夜、浦毎治の妻女・乗蔵が眠りつくと、夢の中にその岩屋が現れ、その中に運ばれていきました。奥深いところで神々のお姿にふれ伏し拝みますとキラキラと輝く小石が飛んできて、顔に当たります。夢から覚めた妻女は神のお告げのもと、五年の辛い修業を行い、正確な予言をする霊能者・浦姫に新生されています。
 相薗の円墳の石室規模は全長約10m、玄室の高さ約5mと一般古墳を凌ぎます。
現在古墳の中には、当時の副葬品等の遺物はありません。まして、当時の記録も見当たりません。どんな副葬品があったのでしょうか。
糸島郡誌「筑前国志摩郡櫻井村與止姫神祠縁記」には当時岩窟には何もなかったと記す。
しかし、神窟の神は大綿積神と福岡県神社誌にも記載され、海神とはっきりしているのです。それは浦姫によって知ることができたものと推察します。
大海祗神(おおわたつみのかみ)は熊野神社の祭神・大幡主か、志賀海神社の祭神・安曇磯良となります。与止姫神社の性格から大海祗神は安曇磯良となります。いづれにしても、大幡主と安曇磯良が関係しています。
筑前二見ヶ浦には桜井神社の宇良宮(うらみや)として、夫婦岩に伊弉諾命と伊弉冉命を表向き祭祀しますが、本当は、安曇磯良と豊姫を夫婦神として祀るものです。
櫻井神社の祭神は警固三神ですが、櫻井神社は江戸時代までは與止姫神社でした。明治になって櫻井神社と改称しています。
櫻井神社は與止姫神社なのです。與止姫神社は安曇磯良と豊姫(ゆたひめ)を祀る神社なのです。
にもかかわらず、祭神の安曇磯良と豊姫は頑固に隠されているのです。
不思議です。櫻井神社は何かを隠されている、としか思えません。
安曇磯良と豊姫の名が表に出ては困ることがあるのでしょう。

    安曇磯良と豊姫を祀る夫婦岩 福岡県糸島市の志摩半島の二見ヶ浦

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4.金印「漢委奴國王」(漢の倭の奴国王)

金印「漢委奴國王」の問題は 金印がどこで発見され(本来どこにあったか) どのようにして黒田家に渡ったのか そして、亀井南冥の知るところとなり、志賀島出土説の発表となったのかの三点に尽きると思います。亀井南冥が『金印弁』の鑑定口上書に志賀島(しかのしま)金印出土を書き上げ、それが創作であったとしても、全く縁も所縁もない所に金印出土(発見)を求めるでしょうか。何等かの関連があるから、それなりの理由が見当たるから、志賀島と金印に関連性を見出せるから、志賀島に金印出土説が設定できたのではないでしょうか。
「志賀島」で古代と金印を連想させるものは、「志賀海神社」と「安曇磯良」です。

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志賀海神社(しかうみじんじゃ)
所在地 福岡市東区志賀島877
祭神  底津綿津見神、仲津綿津見神、表津綿津見神

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志賀海神社の祭神は底津綿津見神、仲津綿津見神、表津綿津見神であり、綿津見神(わたつみのかみ)という海神ですが、その神様の称号は至って抽象的で実態がイメージできません。
志賀大明神は安曇磯良であり、安曇磯良・豊姫・大海姫は鵜草葺不合命の子です。この三神を総じて、海祗(わたつみ)三神と称します。鵜草葺不合命は大海祗(おおわたつみ)です。
志賀海神社から安曇磯良と志賀島は連想できます。
また、志賀海神社は山誉め祭の神楽歌「君が代」の原型歌が奉納される珍しい神社です。
その中に「君が代」の歌詞の一部「さざれ石」「こけむす」がありますが、それに関係する神社が糸島市三雲の細石(さざれいし)神社、糸島市志摩船越の古計牟須姫(こけむすひめ)を祀る若宮神社です。伊都国(怡土国)、志麻国(志摩国)、志賀島は結びつくのです。


紙面が余りましたので ひぼろぎ逍遥(跡宮)から以下もご紹介します。併せお読み頂きたいと思います。


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福岡県糸島市の桜井神社再考(下)

718

福岡県糸島市の桜井神社再考(中)

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福岡県糸島市の桜井神社再考(上)


別の角度からの視点を求め広く多くの皆さんの参加を募ります。090-6298-3254 or 090-5289-2994まで!
posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 19:41| Comment(0) | ビアヘロ

2019年12月21日

ビアヘロ110 第二の天安門事件の悲劇が近づいている “大量のモロトフ・カクテルを準備せよ”

ビアヘロ110 第二の天安門事件の悲劇が近づいている “大量のモロトフ・カクテルを準備せよ”

                                                                      20191116

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 香港民主化運動は全く解決への展望もなくエスカレートしいよいよ臨界点を超えようとしています。

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まず二百万人のデモと言えば史上最大級の民衆運動と言えるでしょう。

 しかし、専門的香港ウォッチャーが数多くおられる中、ここではこの絶望的民衆運動に対し別の角度から所感を提出させて頂きたいと思います。

 ただの出世主義者のごますり女でしかないさもしいばかりの林鄭月娥(リンテイゲツガ)キャリー・ラムの思い上がった摺り寄り提案への反発を切っ掛けとして始まった香港暴動でした。

普通に考えれば、最終的には軍警(治安維持部隊)〜人民(弾圧)抑圧軍の戦車隊によって蹂躙される事になるしかなく、電気(3割本土)水道(広東省)生活物資(海外調達可能)のかなりの部分を中国本土に依存している香港に民主化から独立へと進むことができる客観条件が存在しない事は明らかでしょう。

そもそも、中国がドルなどのハード・カレンシーを得られる理由は香港ドルと米ドルの兌換が可能であってその結果中国がドルペックを維持できていたのですが、中国共産党幹部どもの関心は不正蓄財、マネロン、財産の国外持出のための金融センターがその意味で混乱する事の方が不安この上ないのであって、彼らにとってはその意味だけでもいち早く制圧したいと考えている事でしょう。

現在でこそ警察で対応していますが(裏では何でもやっているはずですが)、いずれ事態の収拾が不可能になれば本命の人民抑圧軍が登場してくるのは間違いないでしょう。

香港警察でお馴染みのジャッキー・チェンさえも共産党員なのですから救いは全くありません。

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そして、現在、一時的に動員力が減衰してきている事もあって、逮捕者や起訴された者も数千人に登っています。

最大二百万人のデモまで造りだしたある種の革命運動なのですから、本来ならば、これら拘束された人々をバスティーユ並みに襲撃し解放させることもできるはずなのです。

そして、不当な弾圧を行なった警察署長やキャリーラムの自宅などへの襲撃、放火、テロといった対抗的反撃無くしては権力側のやりたい放題になるはずなのです。こういった地下の軍事組織による牽制的武装闘争なくしては唯々諾々と逮捕され暴行を受けでっち上げ裁判へと持ち込まれてしまうだけなのです。

現在、民主化デモが最盛期を迎えていた頃の雰囲気を考えて見ると多少の衰退は否定できず、これが勢力の温存から次の大デモへの準備なのかも知れませんが、実際にもあまりにも展望が見えず、米国、英国は本より国際的な支援なり、香港沖への空母艦隊常時遊弋といった具体的な支援も期待できない中、声高な人権擁護の叫びにも拘わらずデモの衰退は仕方がないのかも知れません。

デモが最盛期を迎えていた910月の情勢からは、林鄭月娥氏辞任の話も現実味を帯びていただけに、今後、どのような展開を見せるか予断を許しません。

いっそ、一国二制度の香港返還時の条約を破っているのですから、イギリス議会選挙後のボリス・ジョンソンが変換条約の破棄ぐらいやっても一向におかしくはないのですが、フォークランドに比べてあまりにも遠く、相手も遥かに巨大なのです。


中国政府が香港長官の更迭検討か 英紙報道、来年3月までに林鄭月娥氏辞任の観測

20191023

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1166: 【香港】 投石機に弓矢、鉄菱 デモ隊が「中世的」な新戦術


2019/11/15() 22:26:02.93 ID:Qie1UZWX9


AFP=時事】警察と戦う香港の民主派デモ隊は、木製の投石機で火炎瓶を発射したり、大学のスポーツ学部から盗んだ弓矢を使ったりと、中世の技術を織り交ぜた新戦術を生み出している。

複数の大学が戦いの中心地となっており、学生たちは警察の脅威から自分たちのキャンパスを守らざるを得なくなったと語っている。学生側には、抗議運動の最前線に立つ黒服の「戦士たち」が加わっている。

強硬派のデモ参加者たちは、火炎瓶やれんがだけでなく意外ものまで持ち出し、装備を強化している。

大学の倉庫から持ち出してきた競技用やりや弓矢などのスポーツ用品を使ったり、テニスのラケットで催涙弾を打ち返したりしている。

さらに学生寮の椅子やマットレスも、バリケードの材料や、激しさを増す警察のゴム弾攻撃から身を守る盾として使われている。

こうした実用的な取り組みは、アジア屈指の近代都市である香港にありながら、中世的な要素も帯びてきた。

巨大な木製の投石機が一から造られた他、路上には警官隊の前進を妨げるためのくぎなどで作られた鉄菱(てつびし)が置かれたり、機動隊員を転倒させるためにれんがが積まれたりしている。

デモ隊は13日夜、同大学前にある中国本土と隣接する九龍(Kowloon)半島と香港の金融中心地をつなぐ主要トンネルを封鎖。警察に封鎖を突破された場合に備えて、投石機をトンネルの出入り口に向けた。

名門、香港中文大学(Chinese University of Hong Kong)でも12日夜に衝突が発生。警察はデモ隊が同大学を「武器工場」に変えたと非難した。

警察は14日、「暴徒たち」が橋から火炎瓶を落としたり、広範囲で放火をしたり、警察官を矢で射たりしていると非難した。【翻訳編集】 AFPBB News


さて、そこまで進むかどうかは不明ですが、最終的に人民弾圧(抑圧)軍の戦車が侵入してきた場合、香港での大規模な衝突が起こる可能性は否定できません。

 この際、絶望した労働者、学生による絶望的な武力闘争が勃発する可能性がないとは言えないでしょう。

 ただ、ここで都市部に大規模な戦車隊が侵入し逆に相当な被害が出た例がある事が頭に浮かんで来ます。

 それは半世紀遡る1956年のハンガリー動乱です。香港も全く同じことが起こらないとは言えないのです。

 と言っても私が産れたのが1953年(スターリンが死んだ年)であり、当時としては珍しかった三歳児幼児教育で幼稚園に通っていた時代の話なのであって、そういった事実をラジオに噛り付いて聴いていたと言った訳でさえありません。

 ただ、現代思潮社刊の「ハンガリー1956」を読み関連図書を読んでいた事から多少後付で探った程度の話であって、同書を改めて拾い読みして概略をご説明しようかと思っていた所、この事をコンパクトに纏めておられた方がありましたので有難く引用させて頂くことにしました(深謝)。


1956年(昭和31年)1023

ハンガリー動乱 、ついに市民が蜂起。首都ブタペストで、20万人のデモ隊がハンガリー治安警察と衝突。

ソビエト軍は19561023日と停戦をはさんだ1956111日の2回、反乱に対して介入。

1957年の1月にソビエト連邦は新たなハンガリー政府を任命。

この動乱で数千人の市民が殺害され、約25万人がり国外へ逃亡。

ハンガリーでは1956年革命と呼ばれる。

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ハンガリーは、戦後ソ連のスターリンに忠実だったラーコシ・マーチャーシュが全権を握っていた。

しかし、ハンガリーの生活水準は低く、労働者は工場の自主管理と労働組合の結成の自由を要求した。

農民たちも悲惨な状況にあり、農地の私有と耕作の自由を要求した。

ジャーナリスト・文筆家らも言論の自由を要求した。

学生は大学の環境を改善しようと学生の組織を設立していた。

国民全体が不平不満に充満していた。

独裁政党であったハンガリー勤労者党内でもラーコシらスターリン主義者を批判する改革派が台頭。

そこへソヴィエト共産党内部で行われたフルシチョフのスターリン批判演説が、幹部たちに大きな議論を呼び起こした。

1956718日、ラーコシは党書記長を辞任。

しかしその後任には、スターリン主義者のゲレー・エルネーを選出する。

これに反発した市民は、集会禁止令にもかかわらず、ブダペストで大規模なデモを行なった。

ここに、蜂起が勃発する事態が起こった。

フルシチョフは、幹部からの派兵の撤回を拒否。 ハンガリーに対する出兵が決定された。

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19561023日、ゲレーの退陣を求めて学生たちがブダペストでデモ行進し、多数の労働者もそれに加わった。

夜になりデモ隊と秘密警察との間で衝突が始まると、ハンガリー勤労者党指導部は急遽、大衆に人気のあった前首相ナジ・イムレを復職させる決定をした。

24日、ナジは正式に首相に任命され、その後ブダペストのソビエト軍も戦闘を停止した。

1025日、ナジは戒厳令を取り下げる。

街の人々の中にはソビエト軍の戦車に近付き、兵士と話し合う者もいた。

説得に応じたソビエト兵らの中には、ハンガリー人を戦車に載せ、国会前広場へと移動する者もいた。

ところが、突然発砲が始まった。

国会前広場は血の海と化し約100人が死亡、約300人が負傷。

この事件については秘密警察の発砲が原因であるとの見解もある。

最も激しい戦闘はコルビン劇場のあるコルビン広場で起こる。

民衆は火炎瓶を用いてソビエト軍部隊に抵抗した。

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1029日には警察、軍隊、市民による国民防衛隊が結成。

1030日にはソビエト軍撤退が開始された。

ところが同日午前9時頃、共産党ブダペスト地区本部で秘密警察隊員と民衆との間で衝突が始まる。

建物から出る武器を持たない秘密警察隊員らが次々と民衆により射殺される。

その後も命乞いをしながら出てくる秘密警察隊員や勤労者党書記らがリンチされた挙句、遺体が街路樹に晒し者にされる事態に発展する。

114日に新たなソビエト軍部隊(戦車2500両・15万人の歩兵部隊)が侵攻。

ソビエト連邦に支援されたカーダール・ヤーノシュが新しい共産主義政府を組織。

散発的な武力抵抗やストライキは1957年の中頃まで続く。

ナジはユーゴスラビア大使館に避難したが、ソ連軍に捕まり、ルーマニアに連行されて2年後に処刑された。

さらに、政権の閣僚や評議会を指導していた多くの市民がカーダール政府によって処刑された。

およそ1200人が処刑(1960年代、CIAの推定)された。

この動乱の結果として、ハンガリー側では死者が17000に上り、20万人が難民となって亡命、ソビエト側も1900人の犠牲者を出した。

不動王のブログ・名古屋分譲住宅による


ソ連軍死傷者:死亡 722 負傷 1,251  死亡 2,5003,000(推定)負傷 13,000(推定)難民 200,00

 結局、ハンガリー人民側の人物とも言われたナジ・イムレがソ連軍を導き入れ、多くの犠牲が出たのでした。ただ、終息には相当の期間を要し軍事的にはかなり大きな教訓というものが出ていたのでした。

それはビルに囲まれた都市でのゲリラ戦に対しては必ずしも戦車が役に立たない…という経験でした。

 ビルの上から雨霰と落とされる火炎瓶がかなり有効で、戦車がどんどん火だるまになって多くの車両が立ち往生し文字通り燃え上がる棺桶になったのでした。

 戦車とは基本的に戦車戦を想定している制圧兵器です。ビルなど上からの攻撃に対して機銃で反撃するにしても砲塔上部の蓋を開けざるを得ず、戦車砲で反撃するにも高角では砲撃が全くできなかったのです。

 しかも戦車は前部正面などは兵装が厚いのですが、上部は手薄で航空機など上からの攻撃には非常に弱いと言われているのです。

 無題.png『図解 戦車』のレビュー〜戦車の基礎知識〜


戦車の弱点 戦車は分厚い装甲が施されているが、全面にそれがあるわけではない。そもそも、装甲を分厚くしすぎると機動力が落ちるし、金もかかる。そのため、基本的に一番装甲を分厚くしているのは一番攻撃を受けやすい前面だけだ。側面や後ろは前面に比べると装甲が薄めである。とくに、後部はエンジンを積んでいるデザインのものが多いので、ここを狙われると弱い。

また、戦車は「地上での戦い」を想定して作られているため、天井部分は特に装甲が薄めである。そのため、飛行機から長砲身機関銃などで撃たれると成す術がない。最近は飛行機のみならず、アメリカのベルAH-1コブラに代表される対戦車ヘリなども登場していて、戦車の射程外からすばやく対戦車ミサイルを撃つことも多い。戦車は飛行機やヘリなど、上空からの攻撃にももろいのである。


 これが2000輌とも言われた大戦車群によってもなかなか制圧できず、多くの戦車がスクラップとなり、多くの犠牲者が出たと言われる理由なのです。

勿論、実際には万単位の犠牲者が出たとされる天安門事件のように、ガンジー主義宜しく素手で刃向い蹂躙されるのを由とするのであれば別ですが、絶望的闘いの中一矢でも報いたいとか政治的転換のきっかけを求めるとするのであれば、ビルの森(そこらじゅうビルですが)に誘い込み、火炎瓶の雨を降らせれば良いのです。このことは今尚命脈を保つ香港トロツキストは必ず知っているはずなのです。

 放水車から装甲車こその最良の標的であって、いつの時点で自律的反撃が開始されるのか、一方的弾圧に屈するかを注視しています。



無題.pngブタペスト


 かつて三派系全学連が火炎瓶を多用したのもブタペストでの有効性を知っていたからでした。

火炎瓶は当時のソ連の外相のモロトフ(悪名高きモロトフ リッベントロップ協定のモロトフですが)にちなんでモロトフ・カクテルと呼ばれたのでした。

 とにかく強面のソ連軍戦車がどんどん火に包まれていったのはかなり知られた軍事史のエピソードだったのです。実に戦車、装甲車へのビルからの火炎瓶攻撃は今尚非常に有効なゲリラ戦なのです。

 まず、一人一〜二本、つまり200400万本の火炎瓶(ペット・ボトル、ビール瓶は山ほどあるはずで…海外はℓ単位が多いようですが…)の雨が放り込まれれば、如何に大量の人民弾圧軍であっても容易には制圧できないでしょう。

しかし、仮に戦術的に勝利したとしても香港に未来はありません。電力、水、生活物資の大半を本土に依存し、金融中心としても、中国の仲介貿易に依存する香港に干渉されず安定した平和が齎されるはずはないのです。唯一、可能性があるのは中国崩壊であり、中国本土の共産党国家が弱体化している状態においては多少とも自由が享受できるかも知れません。

あくまでも単なる窓の開いた貿易拠点(実際には金融だけですが)としてですが。

 そもそも解放前の中国のように香港しか対外金融窓口が無かった時代、長崎の出島のような金融センター、貿易センターとしてその特権的を保てていましたが、多くの新興特区なり開放された都市が産みだされた今日、香港の特殊性、優位性はどんどん失われつつあります。

 最後に残された金融センターとしての優位性もいずれ消失し、巨大な本土に呑みこまれるのは目前です。

唯一、三国志の時代のような中国の分解、五胡十六国時代のような混乱、内乱…の中でのみ香港の開放性が得られる事が無いとは言えないかも知れません。

非常に残念ながら一般的には香港の民衆に未来はありません。

 思えば文化大革命当時、閉塞された中国大陸の真中で、労働者派とか左派などと錯覚された四人組によって弾圧された毛沢東に反対した湖南省無産者階級大連合(省無連)や五一六兵団といった極左派を含め、閉鎖された中国国内だけで数千万人の犠牲者を出したと言われる文革期に於いて、彼らの国内だけで殺し合いを繰り返していた時代(内部で殺し合いをしていればこれほどありがたいことはないのですが)、日本を含むその外側は非常に静かで安全で良かったのですが、今やウイグル、チベット…と危険な同化政策が取られるキチガイ国家の暴力が全世界を破壊し始めた様なのです。

 何時までパックス・アメリカーナが持ちこたえられるか非常に危険な様相を呈しています。

 明日の香港は明後日の台湾であり、一週間後の日本劣等民族なのかも知れません。

 しかし、その野獣を弾き返せる精神性を既に日本は失っています。それはマッカーサーによるアメリカの占領政策の結果なのですが、歴代の戦後の売国政権が将来せしめた結果でもあるのです。

 そもそも中国が社会主義国であったなどと誤解している方が多いようですが、毛の農民反乱軍は抗日闘争などほとんどやらずに只々逃げ回り勢力を温存し、日本の対米敗北を待ってその空白埋めただけであって、やったことは野蛮な農民軍が地主の土地を占拠し分配(後には国家が回収する)しただけであって、あろうことか都市に侵攻するや労働者組織、労働組合を徹底して解体し、外国勢力の一掃によって中原を共産党のネットワークで統一しただけのことなのです。

やったことは良くて統一国家の建設、ブルジョワ革命、地主階級の根絶、一部の買弁ブルジョワの追放(有償)、逃亡した外資系工場の国有化が行われた民族統一(といっても50以上の少数民族がいるのですが)だけで、社会主義革命の開始でもなければ、民主化なども全く存在しなかったと理解すべきでしょう。

 その後やたら評価され日本でも毛沢東を神の如く礼賛し崇め奉った間の抜けた人々が出たのですが(今なお続けている○○労働党などといった連中は狂気の沙汰としか言えませんが)、現在の中国を見れば一目瞭然であり、社会主義でも共産主義でもなかった事は明白でしょう。

 この点、最終的にスターリニスト官僚が勝利したとはいえ、一旦は労働者階級が権力を奪取したソ連邦とは全く性格が異なっており、中国は一度も社会主義国家にもなっていなかった=社会主義革命が起こっていなかった…と理解すべきなのです。

 だからこそソ連邦と異なり、資本と盗んできた技術が与えられた途端、その低賃金(農民工という名の奴隷)によって一気に資本主義が勃興したのでした。

 問題は文革の評価ですが、実際は失敗した経済政策の結果失った実権を回復するために毛が発動した権力奪還闘争を社会主義的に装っただけの話でであって、権力を回復した途端、さらに進もうとしたパリコンミューン型労働者共同体を目指した労働者組織や紅衛兵を徹底して粛清、処刑していっただけのことだったのです。それをやったのが奇妙にも左派などと言われた四人組だったのです。

 従って、土地の公有制は残るものの人民公社は解体し、資本主義が無制限に爆発したのが中国という巨大資本主義国家だったのでした。

 いずれにせよ中国共産党が共産主義を信奉している共産主義者の国とか社会主義の国などという馬鹿げた評価だけは一刻も早く止めるべきで、産業革命期のやりたい放題の資本主義的搾取とその一部の冨を独占した腐敗しきった共産党幹部が虎視眈々とその富を国外に持ち出し華僑として個人と一族が生き延びようとしているだけの絶望的監視国家と理解すべきなのです。

 このような化け物のような国家を造る中国共産党ために田中〜竹下〜…は膨大な援助を行い(勿論、一割のキックバックを懐に入れ一部を政治資金としたかっただけだったのですが)その大半が列島向けの兵器開発に向けられ、おまけに中曽根から竹中小泉による国富売り飛ばしと賃金の半減化と30年の経済停滞によって韓国からも馬鹿にされ、日々脅かされているのですから日中友好と親韓政策なる物が如何に愚かな亡国政策であった事が良く分かるのです。

 今や二階ら親中派は逆に中国の手下と成り下がり日本の冨を切り売りし生き延びようとしている番頭に成りきっているのです。

 まあ、やらない方が無難ですが、仮に反共産党労働者革命を再起動するとしてもその敵はスターリニスト中国共産党でしかなく、共産党の幹部どもを収容所に叩き込み思想改造を迫っても不可能でしょうから死ぬまで強制労働をさせるべきでしょう。

 中国には十数億の巨大な市場が転がっているとして色目を使った先進資本主義国でしたが、日本ばかりではなく大半の国家が殆ど投資した資本も回収できないまま終わる事になるでしょう。

 投資した金は泡となって消え失せ、意味のある不正蓄財は目先の効いた腐敗幹部によって大半持ち出され、回収は不能なはずです。それが歴史上続く新型の華僑なのです。

 戦後の日本は復員軍人や海外引揚者それに金儲けのために朝鮮から亘って来た在日…と膨大な余剰労働力を基礎とした安価な労働力と軍需産業が育んだ技術を民生に転化するという事によって戦後復興を成し遂げましたが、中国も膨大な農民工の低賃金奴隷労働によって異常なほどの低価格製品を大量に生産し、韓国、日本、ドイツ、台湾、勿論アメリカも追い落とし始めました。

 それは、飽く迄も盗んだ技術だったとしても所詮は盗まれる方が馬鹿なのであって、愚かな日本の中国派の様に自分から投げ出し提供しそのお零れを個人的にせしめると言う馬鹿げた行為に至っては言わずもがなだったのです。

 中国の発展は3億人程度の豊かな都市戸籍を持つ人々(これが中国人)がその二倍三倍の68億の農村戸籍のいわゆる農民工(中国に住むも実質的に非中国人扱いされる事実上の奴隷)により遥かに良い待遇で生活するという国家が出現したのでした。しかし、労働賃金の上昇によって中国で生産する事の魅力は消え、資本と技術の逃亡が始まっているのです。

 今後中国国内で激烈な階級闘争が開始され、その嵐のような炎の中で中国共産党が崩壊する事を望みますが、中国大陸のフライパンの上で多くの民衆が泣き喚き大量の犠牲者が産みだされる事になるでしょう。

 第二次文化大革命になるのか軍閥割拠による内乱に発展するのか五胡十六国のような国家分裂から大争乱に進むのか生きてる間に是非見たいと思っています。

 勿論、この腐り切った日本劣等民族の没落を見る可能性もあるのですが、腐り切った官僚と馬鹿政治家が再生産され続けた日本劣等民族の敗残国家の成れの果てと理解するしかないでしょう。

 と、ここまで書いて、林鄭月娥が「逃亡犯条例」改正案の正式撤回を発表しました。

勿論、これとて中国が本気で守るはずはないのですが、警察の過剰警備の結果被害を受けた人々への補償、関係者の処分、選挙制度の変更=自由選挙、林鄭月娥の自主退任、さらには英国と中国との香港返還協定の明らかな違反を理由に国連監視下に置くとか香港自治権の回復、イギリス領への復帰へと進めるべきでしょう。

ナチスドイツのミュンヘン協定を思い出せ!南沙諸島の埋立同様に中国共産党も協定など守るはずはないのです。

ビルの上から大量の火炎瓶の雨で人民抑圧軍の戦車隊を焼き尽くせ!

普段、「人権を守るべき…」などと調子の良い事をペラペラ喋っているアグネス張チャンもかつて「香港の学生デモは民主主義の破壊」などと言っているのです。こいつも親中共派の金持ちでしかないのです。

下も同種のさもしい人物で…レジーナ・イップ、アグネス・チャンといい林鄭月娥といい醜悪そのものですね。

無題.png

無題.png良く知られた彭述之まで遡る必要はないでしょうが、中国本土で労働者に依拠して闘争していたトロッキー派はロシア革命後のモスクワの中国人留学生グループと中国共産党から除名された陳独秀らを中心とするグループから形成されました。

しかし、上海、広東、香港…など都市部の労働者に依拠して活動していた本物の共産主義者の組織は毛の農民軍によって蹂躙され根絶やしにされましたが、70年を経てこれほどの労働者、学生、民衆の反乱を見せるとは隔世の感があります。

 既に、ただの農民反乱の指導者でしかなかった毛沢東の都市への侵入によって、労働者の反乱を組織すべき中国本土のトロツキスト党は実質的に根絶されており、現在必要とされている中国共産党を打倒する本物の労働者政党なり民主化への地下政党が求められているはずですが、歴史とは皮肉なものと言わざるを得ないでしょう。

 仮に、香港の民主化運動に勝利するチャンスが僅かにも与えられているとしても、頻発している中国本土の反共産党暴動との連携以外に道が無く、隣り合うマカオから中国本土の暴動と連携するネット・ワークの拡大とその地下組織の拡大なくしては勝利できないでしょう。

 こういったものを学生時代から読んでいたことから、毛沢東礼賛、ベトナム戦争反対、アメリカ帝国主義反対の怒号にも拘わらず、米帝とスターリニスト中国共産党への敵意を剝き出しにしていたのが私だったのでした。

このため極左からは極右と、極右からは極左と理解されていたのですが、今も中国への評価は一度として社会主義に踏み込んだ事のない共産党官僚による疑似的国家独占資本主義国家と考えています。


「中国トロツキスト回想録―中国革命の再発掘」

王 凡西 (), 矢吹 晋 (翻訳) 単行本: 284ページ 出版社: 柘植書房 (1979/08) 発売日: 1979/08


帰国したトロツキー派留学生は上海で「中国ボルシェヴィキーレーニン主義反対派」を結成し、上海芸術大学や新宇宙書店・天馬書店などを拠点に活動を開始した。この中国トロツキー派は一時、かなりの勢力に達し、中国共産党中央も警戒したが、当初は弾圧を控えた。とくに周恩来はソ連で訓練を受けた帰国留学生が党の財産になると信じて、むしろ歓迎し、任務を割り当てるときも差別をしなかった。この対応に乗じるかたちでトロツキー派は活動を広め、ついに大物を自派に加えることに成功する。無題.png中国共産党の創設者・陳独秀である。陳独秀は国共合作に反対で、上海クーデター後に行った汪精衛との連合失敗をコミンテルンから批判されて総書記を辞任していたが、トロツキー派の働きかけでトロツキー

の中国革命論に強い共感を示す。かくて、中国トロツキー派は陳独秀という金看板を得てより強固な地盤を築いたかに見えたが、直後から迷走が始まる。トロツキスト特有の内部分裂と中国共産党中央と国民党双方からの弾圧で四分五裂に陥ったのである。陳独秀も国民党に逮捕され、晩年は江津に引きこもって一九四二年に死去した。しかし中国トロツキー派はその後もしぶとく生き残り、なんと今も香港で活動を続けているのである。

 だが、この本で一番驚いたのは蒋経国の運命である。蒋経国は中山大学を卒業後、帰国を希望したが、中国共産党の反対で帰国できなかったため、ソ連赤軍に加わって軍人となった。「スターリンは明らかに中国の支配者とつきあう駒を握っておくために蒋経国を人質」にしたのだ。かくて、蒋経国はソ連のあちこちを走りまわり、労働者になったり、農家で暮らしたり、あらゆる苦しみをなめ尽くし、二度も危うく異郷で病死する憂き目にあったが、それでもなんとか生き延びて、ウラル機械工場の副工場長となってロシア娘と結婚し、一九三七年の第二次国共合作で帰国。蒋介石に許されて後継者に。すると、かつてのトロツキー派の同志たちは「蒋経国に身を投じ、蒋経国の共産党との闘争の参謀や助手となった」のである。なるほど、これで一つの謎がとけそうな気がする。台湾民主化が、白色テロで悪名高かった蒋経国による李登輝の後継者指名で軌道に乗ったことの謎が。自伝が書かれているようだが、未訳なので翻訳されることを期待する。 

 基本的に、本書は、中国共産党の路線から大きく逸脱しないように書かれた研究書だが、これまでタブーだった中国トロツキー派と陳独秀に光を当てた功績は大きい。


鹿島茂「週刊文春」「私の読書日記」2012/07/05 その1 唐宝林「中国トロツキスト全史」による

百嶋由一郎氏の講演録CD神代系譜、手書きスキャニングDVD等を必要とされる方は09062983254まで
posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ

2019年11月28日

ビアヘロ109 呉国からの通信 “江蘇省在住の「列島の呉」の研究者との作業から…

ビアヘロ109 呉国からの通信 “江蘇省在住の「列島の呉」の研究者との作業から…                                                        

           20191004

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


暫くの間パソコンのメールへの対応ができなくなっていたことから数週間に亘って返信を怠っていました。ここで、他の方も含めて改めてお詫び申し上げます。

その一つに呉越同舟の呉に相当する江蘇省在住の中国の研究者から連絡が入っていました。

このメールも8月末のもので、まさしく一ケ月以上放置していたことになります。

話に入る前に、近々にオンエア予定の ひぼろぎ逍遥(跡宮)版 ビアヘロ 103 全国の九州王朝論者に向けて! 緊急報告“呉の大伯108代を南九州市に案内した” 20190805 を先行してお読みになる方が分かり易いのではないかと思います。余裕のある方は是非試みて下さい。

以下は、その一部です。

猛暑にも関わらず、メンバーの伊藤正子女史による研究会が二年目に入っています。

小規模ながらも熱心な方々が参集されるもので、今後どのような展開を見せるか関心を寄せています。

無題.png

私も731日の勉強会に参加したのですが、ドラマは勉強会終了後の夜10時から始まりました。

車中泊を決め込むつもりで車の冷房を入れネット検索を始めていると、大阪の内倉武久先生(元朝日新聞記者 三一書房、ミネルヴァ書房から四著ほか)から連絡が入りました。

無題.png

最近はそれほど頻繁には話していなかったのでこれは何事かと色めきだったのですが、案の定とんでもない話が舞い込んだのでした。

まだ、詳しい事情は聴いていないのですが、どうやら1994年刊の「謎の巨大氏族・紀氏」を書かれていたことから、列島に移動した呉の王族の末裔を探ろうと中国の江蘇省(上海に隣接)にお住いの呉 本立氏(実名を上げても問題はないと理解しますので)が列島の古代史研究者を求められ、古田武彦系の関東の組織である多元の会辺りに連絡され、下掲の謎の巨大氏族・紀氏」を書かれた内倉先生に逢われたのでした。

勿論、倭人は呉の太伯の末とか後裔といった話は古代史研究者の間では常識であり誰でも知っていることですが、山奥の奈良に呉の一族が避退したはずもなく、考古学協会や学会通説に尾を振るただの利権集団でしかない邪馬台国機内論者などにとっては面白い話でも金になるはずもなく、真面目に研究する人間など皆無であって、この問題を正面から取り上げる人など存在しないのでした。

唯一というのは多少問題があるかも知れませんが、そういった中では内倉研究は唯一のものだったかも知れません。

無題.png

そういった事情から、呉元教授(寧波師範大学英文学教授ほか)と随行者の田 晶氏(英語は元より日本語も読み書きができ英語も使う商社マンで日本の古代史にもよく精通されている)が大阪で3時間ほど内倉先生(何度も中国に行かれておられある程度の中国語は話されます)と面会され、実際にその末裔と考えられる人に会いたいとの希望から私の方にその案内を依頼されたのでした。

既に呉教授一行は福岡市内に移動されており、残り二〜三日しか滞在されないということもあって、どうしても夜のうちに話を着けるしかなく、急遽、鹿児島の川辺町の郷土史家の青屋先生や高良家に連絡し大体の了解を得た上で中国のお二方と新幹線に新八代駅で合流する事にしたのでした。

薩摩川内市で降り、昼食にはまだ早かったことからレンタカーで加世田(現南さつま市)に向かうことにしました。

勿論、レンタカーの方が機動性に優れ便利で安いのですが、外国の方を乗せて事故でも起こすと厄介ですので、急ぐこともありタクシーで向かうことにしました。

加世田で昼食を済ませ、青屋先生をお乗せして高良酒造に向かいましたが、6年前に何度も出向き周辺調査を行った事が鮮明に浮かび上がってきます。

御当主とお会いしましたが私を良く覚えておいでで、話はとんとん拍子で進みました。

この高良家は現在でも久留米の高良大社に造られたお酒(勿論甕造りの焼酎ですが)を毎年奉納されており、それだけでも高良玉垂命との関係が焙りだされます。

中でも、奥様からお聴きした「嫁いできたときに姑さんからお聴きしたのですが、当家は今は「高良」を名乗っていますが本当の姓は「紀」です…とのことでした」は実に象徴的で、家伝とはかくも強固なのかと思い知らされたのでした。

これらについては非常に面白い話がいくつもありますので、九州王朝論者であるならば勿論の事、まだ、ご存じでない方は「ひぼろぎ逍遥(跡宮)」から以下の6本程度をお読みいただきたいと思います。


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

356

高 良(コウラ)“薩摩に避退した九州王朝系氏族を発見した” E

355

高 良(コウラ)“薩摩に避退した九州王朝系氏族を発見した” D

354

高 良(コウラ)“薩摩に避退した九州王朝系氏族を発見した” C

353

高 良(コウラ)“薩摩に避退した九州王朝系氏族を発見した” B

352

高 良(コウラ)“薩摩に避退した九州王朝系氏族を発見した” A

351

高 良(コウラ)“薩摩に避退した九州王朝系氏族を発見した” @


無題.png

パワー・ポイントも作成していますので希望の方は1000円程度の実費でお送りできます。09062983254

ご同行頂いた中国からのお二人も系譜の冒頭にはっきりと「紀姓」と書かれていたことからそれだけでも納得され、同族として感激されたようですが、当方からの質問にも幾つかお答え頂き納得した部分もありました。

 一つは地元の青屋先生から“春秋戦国の呉と三国志の呉には関係があるのか?”との質問が出されました。これについては、“呉の孫氏の一族に妃を送り込む一族が春秋戦国の呉の一族の後裔だった”とのお話(具体的には孫権の母親が呉氏だった)で、その点は私も含めて以前から抱いていた疑念が氷解しました。この事実は当方も承知していましたが、その継続性については知識が無くよく理解できたのです。

呉夫人は、中国後漢末期の女性。揚州呉郡呉県の出身。孫堅の正妻。弟に呉景。子は孫策・孫権・孫翊・孫匡・女子1人。呉において武烈皇后の諡号を贈られた。『三国志』では呉太妃と呼ばれている。

ウィキペディア


無題.png系譜を確認される呉 本立教授(左)と高良酒造当主(右)




さて、ここから今回の少しばかり厄介な話になります。呉教授ではなく、日本語の会話から読み書きまでできる田昌さんからメールが入りました。 



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またもや手に余るご質問から、しばし、閉口していましたが、気を取り直して少し調べてみることにしました。と、言っても、皆さんも何のことだかチンプンカンプンかと思います。

 勿論、これだけではどなたもお分かりにならないでしょう。当然にも、資料が添付されています(次葉)。

 25年も前のかなり古いものですが、古田武彦氏へのサポート団体であり続けた九州王朝論者の多元的古代(関東)の機関誌3199410.3 掲載されたものです。これは熊本の九州王朝論者として孤塁を守られた故)平野雅廣(日+廣)氏が書かれた論文に関するご質問だったのです。

これについては短文である上に問題もないと思いますので古川の責任で全文を掲載します。

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以下同誌35p 文字が小さくて読辛いと思いますが、重要なものですので是非お読みください。

無題.png

現在は消されているものの、かつて熊本県菊池市の中心部に「姑蘇」(コソ)という地名が存在しており、それが南禅寺の学僧であった桂庵の「島隠集」に書き留められている事を平野先生が書かれているのです。

 この文章というよりも、著書 倭国王(くまそ)「火ノ国山門」平成8115日の冒頭の文章に関わるご質問を頂いたのでした。

私は辛うじて平野先生の4著を全て持っており、一応は一通り目を通していることから多少は理解できますが、既にほとんどの九州王朝論の研究者が鬼籍に移っておられます。

お笑い種ですが、九州王朝論の研究会を自称する九州〇〇の会とかのメンバーも熊本の孤高の九州王朝研究者であった平野先生の著書どころか、故)古田武彦先生の初期三部作さえまともに読んだこともない方々ばかりとなり、通説派の学芸員とか教育委員会関係者の邪馬台国畿内説まがいの話に平服しているありさまなのですから実に情けない限りです。さぞや古田先生も嘆いておられる事でしょう。

「こいつら一体何やってるんだ…」少しは口パクだけではなく自分の頭と手足を使い労を惜しまず調査でもなさったらいかがでしょうか。遠い中国からでも関東〜関西〜鹿児島へと足を延ばし調査に来られているのですから。

研究者面されるのであれば少しは自分で調べて頂きたいものです。少し話が逸れました軌道に戻ります。


無題.png桂庵 玄樹(けいあん げんじゅ、1427応永34年)- 15086月28永正56月1))は、室町時代後期の臨済宗薩南学派を形成した。桂菴 玄樹と表記される場合もある。

長門国赤間関出身。9歳のとき出家し、上京して京都南禅寺惟肖得巌景徐周麟らに学んだ。その後、豊後国万寿寺に赴いて学問を学び、大内義隆に招かれて郷里長門国永福寺住持となったが、1467には遣明船の三号船士官となってに渡海して蘇州などを遊学する。1473日本に帰国したが、応仁の乱による戦禍から逃れるため、石見国に避難した。1478島津忠昌に招かれて大隅国正興寺日向国竜源寺の住持となる。さらに島津忠廉に招かれて、薩摩国の桂樹院で儒学を講じた。また、伊地知重貞と『大学章句』を刊行(1481)して宋学の普及に努めたことから、薩南学派の祖として名を成した。

日本で初めて朱熹の『四書集註』を講義した岐陽方秀が施した訓点を玄樹が補正し、更にそれを南浦文之が改訂したのが「文之点」である。文之点は、近世、四書読解の主流となった。

その後、建仁寺南禅寺の住持となり、1502に薩摩に東帰庵を営んで同地に住んだ。1508年、82歳で死去。著書に『家法倭点』、『島陰文集』、『島隠漁唱』など多数ある。


フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』20191004 0947による(ウィキを引用すると学者や学芸員に馬鹿にされますが、嘘よりは余程ましなので、当方は嫌がらせの意味で利用しています)。


@  お分かりの通り、平野先生が著書で触れられた「島隠集」とはそれらの総称かと考えられます。

A  長門国(現山口県)下関の赤間関出身 → 京都南禅寺→ 豊後国万寿寺 → 豊、筑、肥の三州に居住 菊池重朝にも呼ばれ熊本県菊池市隈府に滞在中に隈府の「姑蘇」辺りに居住した … 応仁の乱の主役の一人である大内義隆から招かれ長門国永福寺住持となる → 明に渡海 蘇州に遊学(この時期菊池氏は金峰山の南麓を拠点に明と貿易を行っている) → 応仁の乱で石見(現島根県)に避退 → 島津忠昌に招聘され大隅国(現鹿児島県東部)正興寺、日向国(現宮崎県)竜源寺、島津忠簾に招聘され薩摩国(現鹿児島県西部)で桂樹院で講義

B  よって薩南学派を形成する…「桂庵」は桂樹院から号されたのかその逆なのかは不明。

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これで、ご質問の一部はお分かりになられたかと思います。

漢詩の解読までしたいともできるとも思いませんが、「姑蘇臺上月明の天」は菊池の隈府の姑蘇で歌われたものなのでしょうか。「臺」が書かれている以上、通常言われるところの鞠池城の丘陵を描いてのものなのでしょう…また、江蘇省の方には「長門」はお分かりにならなくて当然ですが、現山口県の長門市から萩市一帯を出でて幾年」を経たる。としておきましょう。

分かりにくいのは、「貞上人肥陽より来る」です。

原田 種真の「肥陽軍記」は肥前の龍造寺種信の話ですので、一般には使われない「肥陽」という言葉は肥前、肥後の肥州であり、ここでは佐賀県を意味しているはずです。

 次の“南国寧んぞ千里の友無けんや”は鹿児島県に移動して貞上人を迎えての気持ちを詠じたものでしょう。

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今回、江蘇省の方に説明するために当方も丁寧に書きましたが、改めて「姑蘇」地名が菊池の隈府に存在したものと再認識したところです。

 この菊池に存在した「姑蘇」は湿地帯の辺であったはずで、呉の国と同様の高床式の館が存在していたのではないかとあらぬ想像を廻らしているところです。

 しかし、改めて平野先生の研究には頭が下がります。

 肥後のような保守的な所に於いて九州王朝論に自ずと辿り着き、最後まで孤塁を守られた先見性、誠実さには頭が下がります。菊池辺りの某研究会で行政や教育委員会に向けて弁を振いつつ古田史学の会にも潜入したさもしい宮司などとは雲泥の差を感じてしまいます。

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「神来」と書き「オトド」と読みますが、こここそ呉の後裔たる王族が住み着いていた場所であろうと考えています。

住宅地の周辺には多くの田畑がありますが、それは河川改修の結果できたもののはずで、古代には隈府地区(右手菊池の中心部)から多少離れ、湿地帯に囲まれた島か岬状の安全な場所であった様に思えます。 

正確に言えばここは隈府ではないはずです。この「神来」こそ呉の王族の居留地であったはずです。

付近の神来貴船神社は十五年も前に一度訪れていますが、そのうち足を運びたいと思っています。

御面倒でも情報をお持ちの方は当方までご一報ください。09062983254 古川

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ