2023年12月31日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)ビアヘロ222 “富士山写真集” 20230524 の転載

ひぼろぎ逍遥(跡宮)ビアヘロ222 “富士山写真集” 20230524 の転載

20231129

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


ここでは休養の意味あり(さすがに19本目のブログとなると草臥れていますので…)、今回の上州(群馬県)を軸とする神社調査で思わず撮影した富士山の映像をお見せすることにします。

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山中湖村からの富士山(手前の山中湖に逆さ富士が多少分かります)でもこの放射状の雲は不思議ですね

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山中湖の湖上には逆転層によるものか雲が覆っています

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天候によっては怖いような富士山になることもあります


富士山は高峰の為、神社調査でも至るとこで見る事ができます ある意味幸せの一部かも知れません

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百嶋由一郎が残した神代系譜DVD、講演録音声CD、手書きデータスキャニングDVDを必要とされる方は090-62983254までご連絡ください

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2023年12月30日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)ビアヘロ 221 “上州調査を終え…来年以降の神社調査について”の転載

ひぼろぎ逍遥(跡宮)ビアヘロ 221 “上州調査を終え…来年以降の神社調査について”の転載

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太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


新ひぼろぎ逍遥977 気ままな上州への神社調査 “上州調査を終え…来年以降の神社調査について”


 今春の上州(群馬県)を中心とする神社調査は非常に面白いものでした。

 特に、埼玉県在住メンバーが同行した合同の調査旅行は非常に面白いもので、以前単独で調査に入った栃木県から福島県への再度の調査を行う展望も見えてきたことから、九州王朝の最大版図のほぼ全域をカバーできることになりそうです。

 ただ、伊勢、志摩、紀州の神社調査が終わっておらず、来年以降はこの三国を少しづつ見ていくつもりです。

 なんとかそのブログも20本は書きましたし、一応、書くべきところは書いたと思っています。

 ここでは上州を中心とする北関東の辺境部、そして、甲斐、信濃の勢力が如何なるものであったのかも朧気ながらも見えてきた様に思います。


上州への調査を終えて見えてきた事


 実は、大体の見当が着いていた事ですが、群馬県とは地力が弱く、尚且つ浅間山に象徴される多くの火山噴火によって降り積もった火山灰土壌によって降雨の大半がたちどころに地下に浸透し、所謂、水田稲作の適地が少なく、良く生きてこられた…思うばかりの土地柄なのです。

 勢い、トウモロコシ、ジャガイモ、蒟蒻で空腹を凌ぎ、命を繋いできた人々だったと思うのです。 

 従って、ここに住み着いたのは稲作農耕民ではなく、そういう土地でも生き延びる事の出来る粉食を好む人々のはずであり、副業として金属を掘り加工する冶金の人々だったはずなのです。

 それを担ったのは、浅間山、妙義山、榛名山、赤城山に拠点を置いた山岳修験の民であり、この副業と言うより本業こそが上州の経済を支えていたのではないかと思うのです。

 では、彼らは何処からやってきたのでしょうか?

 群馬の上州(ジョウシュウ)とは上野国、下野国の(こうずけのくに)とされています。

無題.png上毛野氏という氏族があります。上毛野氏は、「上毛野」を氏の名とする氏族。上毛野国造を歴任した。…と考えればそれで良いと思われる方はそれで良いのですが、この氏族は、我々百嶋神社考古学の者が神武僭称贈る崇神(祖父:草部吉見、祖母:市杵島姫、父:大山咋、母:鴨玉依姫)と理解する氏族で後の藤原氏に繋がる直系氏族とは言えるでしょう。

この第10代崇神天皇皇子の豊城入彦命を祖とする皇別氏族で、「上毛野君(公)」のち「上毛野朝臣」姓を称した。…となるのです。

勿論、関東武士団の本拠地とも考えられる上州においてその氏族がまま継続したなどとは考えてはいないのですが…総鎮守なる上州一宮を見ると、前橋の上野國総鎮守 総社神社(旧県社)は、以下を祀っているのです。

主祭神: 磐筒男命 磐筒女命 経津主命 宇迦御魂命 須佐之男命

には触っていない様に見えるのです。

特に崇神の息子である豊城入彦は第二赤城神社の主神として棚上げされているかのようなのです。

福岡県久留米市には豊城(トヨキ)と言う交差点が今もあるのですが、豊城入彦は豊の国に実際に住ん
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でいて後に久留米に移っていると言われたのは故)百嶋由一郎でした。四道将軍として関東に入っている

のでしょう。関心をお持ちの方には他に「豊城」と言う地名があるかを検索して頂きたいのです。

群馬県伊勢崎市には豊城町があります。他に長州の下関と防府にもあるのですがいずれにせよ、九州〜山口に居た人物である事はある程度推定できます)。何故なら、古代豊の国とは関門海峡を挟んだ両岸の国々を言うのであって、その痕跡として、既に下関市に合併された旧豊田町、豊野町…があったのです。

これらが、群馬同様の物部国である愛知県の豊田、豊川、豊橋、豊…とどの様な関係にあるのかについてはここでは構想だけですので触れません。

そのような名だたる氏族の国にしても、国貞忠治や大前田英五郎の存在が光り輝いている上に、フィクションとしても上州新田郡三日月村木枯し紋次郎のイメージが付き纏うのです。

無題.pngむしろ、付き纏うと言うよりも光り輝いている様にさえ思うのです。

 こう言うと群馬県民を愚弄するのかとお叱りを頂きそうですが、関東平野の奥座敷と言えば聞こえは良いものの、条件の良くない地にしがみ付いて、代を重ね生きてきた人々、あるは、浅間山に連なる周りの火山起源の険しい山々、赤城山、榛名山、妙義山、大船山…で金属を取り出し、冶金、金細工、鍛冶屋として生きていく人々として雄雄しく生きてきたのであり、単なる稲作農耕民とはある種異なる人々であり、それからこぼれ落ちた、望んで離脱した人々が憧れの渡世人であり、中仙道だったと思うのです。

 つまり、正業は金属生産加工集団であり、それが前述した総社神社にも象徴されているのです。

 このような本物の祭神を掲げ、幟を上げた神社が県社となれたのはどちらかと言うと少ないと思うのですが、この祭神には正しくも本物の神が反映されているようなのです。




祭神: 磐筒男命 磐筒女命 経津主命 宇迦御魂命 須佐之男命


 磐筒男命 磐筒女命はお分かりでしょうか?最後尾に置かれた須佐之男命の父母と言っても高貴な神様ですが、足名槌、手名槌と言い換えるべきで、神話では金山彦(カグツチ)埴安姫(カミムスビたる博多の櫛田神社の大幡主の妹)が櫛稲田姫を取り囲んで泣いていた…のに遭遇し、ヤマタノオロチを退治すると描いているのです。

詳しい話は省略しますが、ヤマタノオロチ退治に成功し、スサノウは櫛稲田姫を妃としているのです。


『古事記』では石析神・根析神、『日本書紀』では磐裂神・根裂神と表記される。

「イワサク・ネサク」 ウィキペディア2023052612:28 による


無題.png「磐裂根裂神(イワサクネサク)の子の磐筒男(イワツツノオ)と磐筒女(イワツツノメ)の生んだ子の經津主神(フツヌシ)が良いでしょう」と言いました。

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上は群馬県の稲荷神社で検索し、下は群馬県のヒコホホデミで検索したものです


 経津主は香取神社の祭神として有名ですが、実は、藤原の祖である、海幸彦=草部吉見の対抗馬の山幸彦で、そのお妃である宇迦御魂命は伊勢の外宮の豊受大神なのです(短期ですが前の夫は海幸彦)。

 磐筒男命 磐筒女命の名とは言え、ナガスネヒコの父であるスサノウを最後尾に置き換えても残したことが幸いしたかどうかは不明ですが、幸いにも県社とされ上州人は今も正しい県社を抱いているのです。

 ただ、金山彦が筆頭とされていること自体、群馬県の周りを取り囲む馬蹄形の火山性巨大山塊こそが、金山彦が跳梁跋扈しうるフィールドであり、何者にも属さない、独立独歩の職能集団を形成したのであり、それこそが上州であると思いたいのです。ここには天照は祀られていないのかも知れません。

 伊勢の内宮よりも外宮の神宇迦御魂命は実は稲荷様=伏見稲荷の神様でもあるのです。

 一度に全ての稲荷を表示することはできませんが、その夫となった山幸彦=猿田彦=ニギハヤヒこそが別の名前で大量に存在している事をご紹介しておきましょう。勿論、筆頭格の一之宮貫前神社が含まれていますね。しかし、何故かお妃の稲荷(辛国息長大姫大目命=アメノウヅメ=豊受大神)は川向うばかりです。検索の仕方でかなりバラツキが出ますが致し方ありません。

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百嶋由一郎最終神代系譜


 前橋の総社の祭神に説明を加え過ぎましたが、上州と言う国とは簡単に言えば金山彦=カグツチ(秦の始皇帝と姻戚関係を結んだイスラエル系の神)と、九州(遠賀川流域の筑豊地方)を追われた物部氏(ニギハヤヒ=山幸彦系)が逃げ込んだ国であったと言うべきでしょう。

 列島とは素晴らしい国土であったといつも思うのですが、僻陬の地とは通常は豊かではない人の住みつかない土地を言うでしょう。

その理由とは危険な土地(地震、火山爆発)、豊かではない土地(古代に於いては水が得られずに稲作が出来ない土地)となるのですが、その様な場所とは、九州では阿蘇から九重から阿蘇、祖母山、霧島、桜島…の東側に位置する日向国(宮崎、鹿児島)と大分県南部であり、富士山、妙義山、浅間山、榛名山、赤城山の西と言うよりもに位置する群馬県は、非常に似た条件を持った国なのです。

それは、前述した様に偏西風が卓越する北半球で火山帯の東側に位置する地は降灰によって稲作農耕民が住もうとせず、その意味で半ば捨てられていた地に粉食に適応した畑作農耕民が住み着いたと思われるのです。

これは大陸と言っても列島の西にある陸地の事ですが、ここでも同様で、大雑把に言えば、ほぼ、揚子江を境として、北には麦食(粉食)を好む草原、砂漠の民が、南には米食を好む稲作漁労の民が住み着いたのでした。

基本的に中国には火山がないため火山灰の問題は無視して良いのですが(偏西風は北京まで砂漠の砂を堆積させていますが…)、列島の場合は雨が多くても直ちに地中に染み込む火山灰土壌地では、この粉食を好む人々が定着しているのだと思います。

稲作不適地とは山が険しい事も関係しますので、甲斐、信濃、一部埼玉県も粉食が好まれ、オヤキ、ホウトウ、お切こみ、フライ…と、丸亀製粉に象徴される腰のある讃岐風うどんを好むのです。

間違っても、柔らかい博多風の饂飩などは絶対に好まれないのです。

そこまで来ると、県民性などと言う地方とか方言といった問題を超え、異民族を意識せざるを得ないのです。

上州を逃亡した物部氏の安住地と描いたのは、半ば正しく半ば間違いと言えますが、それは山岳地帯には金山彦系が展開し、下仁田町、富岡市などを中心にニギハヤヒ系が住み着いていると言う二重構造こそが上州の本質ではないかと思うのです。

これは遠く離れた外部の人間が神社から見た理解ですのでお叱りは覚悟の上であり、作業仮説としてお目零しをお願いしたいと考えています。

最後になりますが、群馬県はどうも違うと思い始めたのは、ここ数年の事でした。

それをはっきり認識したのは信州、甲斐、そして面倒ですので一括りに静岡県としますが、この一帯には異常なほどの若宮神社(主祭神:仁徳天皇)を祀る祭祀が集中しているのです。

ところが、上州に入るとそれが極端に減るのです。

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 この問題は新羅三郎を祖先とする甲斐の武田信玄が表向き応神を受け入れているものの本当に祀っているのは若宮神社のオオササギである事を知り、武田の祖が四道将軍として送り込まれた阿部氏=大彦である事に気付いたのでした。武田の祖は半島から入った人々なのですが、律儀にも、春秋戦国の呉(呉越同舟の呉)国の流れを汲む正当皇統開化天皇の長子の腹違いの兄弟としての関係を未だに護り通していたことが分かったのでした。詳しくは新ひぼろぎ逍遥ではなくひぼろぎ逍遥(跡宮)の967をお読み下さい。


967

甲信越の若宮八幡宮とは何なのか?


 上州が甲斐と異なる事に気付いたとしましたが、若宮を守る人々とは呉の太伯の血を引く正当皇統の天皇を祀る人々であり、強面の武田信玄にしてそうであったことに今更ながら感激するのです。

 一方、九州王朝は近畿大和朝廷による唐への内通か裏切りによって滅びますが(白江戦)、それにも拘わらず忠誠を貫いた人々が甲斐に居た事に気付いた事は望外の幸せでした。

 対して、神武天皇とナガスネヒコ(金山彦の孫に相当するスサノウの子)との関係から、金山彦系が群馬から北関東、東関東に展開したことにも理があると思うものです。それは正しく民族と民族との闘いだったのです。こうして古代史の謎の一端が多少とも理解できたと喜んでいるのは、九州王朝論をある程度は知り、百嶋由一郎という天才的神社考古学者を知り、今、佃収(埼玉県在住)と言うこれまた天才的研究者に繋がる事が出来た事に喜びを感じるこの頃です。上州と甲斐とはこれ程異なるのです。


 まだまだ書くべきことはありますが、徐々に上州から外に目を向けたいと思います。

 出来れば、数年のうちに二度目の栃木県への神社調査を行いたいとも思っています。

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「敢國」と書いて、「あへくに」と読む。阿拝郡に居住した、阿閉氏が祀ったと考えられ、祭神は、その祖神・大彦命孝元天皇の皇子・大彦命は、阿部臣・膳臣・阿閉臣・狭狭城山君・筑紫国造・越国造・伊賀臣の祖。阿閉臣は、大彦命の子・大稲輿命の子孫。当社の北1Kmには、大彦命の墓と言われる御墓山古墳がある。境内社の祭神は、以下の通り。

大石社 不詳一座・須佐之男命・金山比古命・大日孁貴命・大山祇命 神明社 天照大御神

子授け神 祭神不詳 若宮八幡宮 仁徳天皇 楠社 楠正成・藤堂元甫結社 高皇産霊尊・手間天神

市杵島姫社 市杵島姫命 六所社 伊弉諾尊・伊弉册尊・日神・月神・蛭児・素盞嗚尊

九所社 祭神不詳 南宮山山上 境外社・浅間社 木華開耶姫命     敬愛する「玄松子」氏による

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こうして、ぶどう寺の三階松紋(孝霊、孝玄、開化)、花菱=門光(「高良玉垂宮神秘書」では門光)=唐花紋が武田信玄の建てた韮山の武田八幡宮の神殿脇殿に打たれていた唐花紋に端を発した武田信玄九州王朝後裔説は何とか解決が着きました。結局、五年前のぶどう寺探査の中間報告の延長上に武田信玄の一族が位置していた事が分かったのでした。つまり、開化天皇と神功皇后との長子仁徳(九州王朝のシンボル)を義理の兄弟である大彦=新羅三郎の一族(大彦は新羅から入っています)が奉斎したのでした。














百嶋由一郎が残した神代系譜DVD、講演録音声CD、手書きデータスキャニングDVDを必要とされる方は090-62983254までご連絡ください

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2023年12月29日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)ビアヘロ220 2023年11月26日 キッコーマン講演の配布資料について

ひぼろぎ逍遥(跡宮)ビアヘロ220 20231126日 キッコーマン講演の配布資料について

2021125

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久



明日、筑前、筑後、肥後に本拠地を戻した復帰後二回目の講演を行います。

 当初は、筑前、筑後の神社研究の一人者である宮原誠一氏(blog「宮原誠一の神社見聞諜」)にトップ・バッターをお願いしており、12月も佃収講演の予定でしたので、私は神社トレッキングに回る予定でした(新春3社詣り)。

しかし、それも会場の問題やらなにやらから佃講演は新年1月に延期となり、11月は私が講演する羽目になりました。

そこで、何を話すかと考えると、頭に浮かんできたのは、この間甲信越の調査をやってきた延長に気付いた事でした。

それがキッコーマンも九州から碓氷峠を越えた物部氏によって造られたのではないかと言うとんでもない話でした。

ブログとして纏まったものを書いていなかったため、ブログからパワー・ポイントを作成するのでは間に合わず、直接、PowerPointを作成する形で講演に間に合わせました。

ただ、PowerPointだけでは高齢の聴衆には目が回るばかり…と言った事になりかねず、ある程度は骨子を纏めたレジュメは必要になります。

このため、パワポが完成した後、配布資料として用意したものを公開しようとしたものです。

一方、パワポは400シートを超える大きなものになり、とても全ての参加者に配布はできないため、パソコンをお使いの方にはCDとして会場で販売し、オフィスを内蔵されていない方にはSDUSBなどで配布することにしました。

では、簡略化した配布資料をお読みください。もしパワポを欲しい方がおられればどうせ余ると思いますので、500円+送料でお送りしたいと思います。090-62983254までご連絡下さい。

では、そのとんでもない仮説をお読みください。


丁巳歴史塾+太宰府地名研合同研究会(2310月)は二日市温泉で再開します

いよいよ北九州から筑前、筑後、肥後の九州王朝ラインの本拠地を戻し活動を再開します。

ただ、これまでの月例会の形は取らず、年に3回ほど丁己歴史塾と提携し佃 収先生の講演会を行います。このため同講演を丁己歴史塾で共催し、残る8回程度を筑紫野市で開催することになります。


 太宰府地名研究会1126日(日)13001119日を予定していましたが変更します。


日 時  1126日(日) 13001630 

講演者  古川 清久(「有明海異変」著者)ひぼろぎ逍遥(跡宮)外5ブログ+ユーチューブ

会 場  福岡県筑紫野市二日市南1丁目93の生涯学習センター   

テーマ  「後に『亀甲萬醤油』を造る人々は有明海沿岸から東に進出したのではないか」


千葉県野田市のキッコーマン醬油を知らぬ人のないものですが、何故、亀甲萬と呼ばれるのでしょう。

それは、多くの野田の醸造家が香取神社の氏子であり、その香取の神宝の鏡に三盛り亀甲紋が打たれていた事から亀甲萬(萬は亀は萬年)から名付けられているのです。この三盛亀甲こそ博多の櫛田宮の主神の大幡主を意味し、その配下の山幸彦の別名が香取宮の主神の布津主と分かれば、塩土翁と猿田彦が浮かび上ります。では、上総の国野田のカヅサの野田とは何でしょうか?それは島原半島南端の加津佐町でありそこには野田の浜があり野田小学校があるのです。そして肥後の氷川町と上天草市には5つの香取神社もあるのです。後は当日お話します。

来年1月のトレッキングは三社詣りとして「事代主のブログ」の杉山氏のガイドにより佐賀県神埼市の櫛田神社周辺の数社を詣ります。佃講演があるため翌2月の第1日曜日に行います。

参加費 会の活動エリアの拡大に伴い、今後、遠来の講演者をお呼びすることが増えてきます。このため、参加費として頂戴している資料代、講師謝金を多少値上げさせて頂きます。物価上昇もありますが、当面、トレッキングについては従来同様500円としますが、講演会に関しては維持が困難になりつつあります。当会は元々、会員会費制を取っていません。会への入会費、年会費もこれまで同様必要ありません。中学校の生徒会のような表面だけの会計監査などやる暇があったら調査研究に集中しましょう。

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太宰府地名研究会筑前復帰研究会 ❷ 20231126日 於:筑紫野市生涯学習センター

編集員 古川 清久


パワー・ポイントのタイトルは簡単にしています。正確なタイトルは「後にキッコーマン醤油を造る人々のご先祖様達は遠路有明海沿岸から北関東に向かったのではないか」という非常に長い題名になります。

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❶ 以前から上総(カズサ)の国って何なのだと考えていました。上総と書いてカズサとは読まないはずで、これには本来の地名、国名が音で残り行政区分を表す漢字表記が併存したのではないかと考えてきました。当然ながら、下総の国(現在の千葉県北部と茨城県南西部を主たる領域とする旧国名。北で常陸国と下野国、西で上野国と武蔵国、南で上総国、内海を挟んで相模国と接する ウィキが野田の醤油にはより近いため、実際には北関東(関東地方の北部、茨城県、栃木県、群馬県の3県を指した地域の呼称である。埼玉県を加えた4県を指すこともあり)でも下総から北関東に関する話になります。

この間、山中湖畔の親友の別荘を利用し何度となく新潟、長野、山梨、群馬、栃木、埼玉の調査を行ってきました。

これらから得られた知見と、ホームグランドである有明海沿岸を探索して来た事から自然と見えてきたものから今回のご報告が始まるのでした。その全てを配布資料として書く事は出来ない事はないのですが、200ページでも足りないため、ここでは要点だけを明示し、パワー・ポイントを使える方はそれを、そうでない方でも、既に公開しているブログを最後尾に明示しますので、そちらから詳細な記事を拾って下さい。

❷ このテーマを取り上げた切っ掛けは、かつて多くの船舶乗組員を生み出した海員学校で知られ戦前はあこがれの上海航路起点ですらあった国際貿易港があった口之津町(前身の久留米地名研究会でも泊まり込みのトレッキングを行いました)の隣にある町が加津佐町であることを知っていたのでした。

 しかし、そこに野田浜海水浴場があり、俗称野田町(野田名、野田小学校)が有る事まで分かると、千葉県と有明海沿岸との関係が浮かび上って来たのでした。キッコーマン醤油は香取神宮のお膝元野田市ですよね。

 そして、その主神が布津主(島原市にも火砕流の大災害を被った布津町がありますね)=山幸彦=五十猛=ヒコホホデミ=ニギハヤヒ=猿田彦である事を知ると、百嶋先生の話“五十猛=山幸彦の本拠地は島原市の猛島神社でした”という話も蘇ってきたのでした。こうして下総と有明海沿岸の関係が繋がったのでした。

❸ 数年前、宮原誠一氏をリーダーに氷川町(熊本県の宇土市と八代市の中間)の神社トレッキングを行いました。その際にも氷川町に香取神社を2社、そこから近い場所に鹿島神社も確認しました。それとは別に個人的に上天草市に3社の香取神社を確認していたのです。そうすると関東の氷川神社数十社も関係が辿れるのではと考えていますがこれは今後の課題です。

❹ それを遡ること数年、これも一部の方をトレッキングに同行してもらっていますが数度延べ10名以上の猿田彦が製塩を行っておりそれを祀る神社が確実なもので5社確認していたのです。代表的なものは水俣市の運藤公園傍のもので、元は塩田であったとの石塔が残っています。もう一つは口之津港からのフェリーが着く鬼池港に近い現天草市御領の猿田彦神社で、ここも地元の郷土史会が神社正面の水田が塩田であったと掲示しているのです。

 この神社は共に猿田彦を主神としていますが、実は必ず隠れた神像がもう一体置かれており、それが博多の櫛田神社の大幡主(塩土老翁で知られるカミムスビ神=塩釜神社の神でもある)なのです。

 加えて、天草が製塩地であったと知らない方が多いと思いますが、たばこ専売公社(塩専売も含む)の資料がネット上に公開されています。皆さん塩と言えば赤穂と思われるでしょうが実は違うのです。

最も古いのが明治89年のデータですが、それによると全国生産の3位が播磨の赤穂で、2位が徳川家のお膝元の浜名湖の遠州で、1位が肥前、実は現熊本の天草だったのです。

しかも、肥前の半数が遠州でその半数が赤穂でこの3国で全国生産の4割強となっているのです。

❺ ここまで分かってくると猿田彦の猿の獣ヘンを落とすと本来は三国志に登場する袁紹、袁術、袁世凱の「袁」であり、塩田彦だったのではないかとまで思い至るのです。

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➏ さて、猿田彦=ソルト彦説から離れ、亀甲萬醤油を考えましょう。亀甲萬は第一次大戦期に統一ブランドが成立しました。そのロゴマークは言うまでも無く亀甲紋になります。詳しく調べると香取神社の神宝の鏡の裏紋に三ツ盛亀甲が付されていた事から亀甲紋を採用し、亀は萬年から亀甲萬が8つの醤油醸造家が合併し新たな創業が行われたのでした。

 ここで、百嶋神社考古学からは三盛亀甲紋が大幡主=カミムスビ神であることから、この有力氏子の醸造業者も全て櫛田神社の配下としての香取神社の影響下の人々だと分かるのです。

 そこで亀甲萬の公式サイトを見ると、1915年の亀甲萬成立時点では茂木(モテギorモギ)7家、高梨家1家の提携によってキッコーマン醤油ブランドが成立しているのです。特に驚くのは8家の内7家が茂木(モテギ)姓である事です。茂手木、茂木姓は特に栃木県の足利市を中心に分布しており、群馬、栃木、埼玉の物部地帯に強い分布を見せています。高梨家は武田信玄と上杉謙信の川中島合戦の更に下流の下信濃北部の豪族ですので、どう見ても亀甲萬の醸造家のご先祖様とは糸魚川ではなく上越(旧直江津)から信濃、小諸、上田〜軽井沢〜碓氷峠を越え〜群馬に入った様に思えるのです。


➐ もう少し踏み込めば、それほど一般的でもない茂木姓が集積している事に非常に驚きを感じます。ただ、この事で見えてきた事もあるのです。

 それは、長崎市の東海岸にビワで知られる茂木町があることで、さらに言えば、江田船山古墳で知られる和水町(旧菊水町)の江田船山古墳に隣接するところに用木(モテギ)が有る事に気付いたのでした。

 このことから、長崎市の茂木(モギ)も元はモテギと呼ばれていたものが713年の好字令によってモギと呼ばれたことが推定できそうなのです。

無題.png これで、江田船山古墳出土鉄剣の銀象嵌の文字典奏人と埼玉県行田市の稲荷山古墳の丈刀人の対応を知る者として、菊水と北関東とに同じ茂手木、茂木姓、用木地名や姓名が有る事は、これらの人々が共に別れた同族だったことが見えてくるのです(久留米市の東うきは市にある「持木」もモテギです)。

 そしてこのモテギの意味も分かってきたのです。環濠集落の内側に掘られた空堀の内側に突き刺される防衛用の逆茂木の事だったのです。これを外向きに多数打ち込むことによって、防衛エリアに効率的に要員を配置し目的がより一層達成されやすくなるのです。

 これらのことから、茂木…地名、茂木…姓に関連する人々とは、このような環濠集落、城塞型都市、砦集落…と言った施設に関係する職能集団(工兵隊、軍属)だったのではないかと想像できるのです。

 皆さんご存じの通り、平安期の平将門の乱から源平争乱期を経て、鎌倉政権成立期の足利氏と新田氏の激突、その後の文字道理の戦国期の今川氏、北条氏、武田氏、織田氏、徳川氏、信玄VS謙信の多くの勢力の鬩ぎ合う場所であった事を考えれば、正しく、尖らせた木材、突破し難い逆杭、逆茂木を直ちに整備できる工兵隊は最も重要な人々だった事は容易に考えられるのです。

それらの人々が、その技術を持って、樽や桶を造り、平和産業としての味噌、醤油、酒などの醸造業に進出したと考えてもそれほど奇妙な話でもないのです。馬防柵を造り空堀を整備し用材を準備し城柵内の人員の、飲料水、食料、衣料、武具を準備できる人々と、戦闘要員とは別の戦い方があるのであって、彼らは平和な日常には城作内の工兵隊的な存在だったと考えるのです。そして、利根川を下れば、塩も魚もあり魚醬は作れるし、関東の水吐けの良い土地は穀物も与えてくれたのでした。パワー・ポイント以外の配


配布資料として作成。


 新ひぼろぎ逍遥と ひぼろぎ逍遥(跡宮)から

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宇佐の金屋の南姓は難升米の後裔氏族か?(下)“金屋地区は廻船業者の街”

 

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陸奥の志波彦神社 鹽竈神社 とは福岡県朝倉市志波から進出した

豊玉彦系氏族が奉斎する神社(下)

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陸奥の志波彦神社 鹽竈神社 とは福岡県朝倉市志波から進出した

豊玉彦系氏族が奉斎する神社(上)

ひぼろぎ逍遥(跡宮)

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氷川神社とは何なのか? ➋

993

氷川神社とは何なのか? ❶

961

信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)

⓯ 続 山梨県 若宮八幡神社(追補) 

960

信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)

 山梨県 若宮八幡神社

639

志波彦神社(塩竈市)の志波彦とは塩土老翁か豊玉彦か?

635

熊本県氷川町上有佐の香取神社について補足“「かんじょみさん」とは風読みさん?”

613

有明海、不知火海沿岸の猿田彦神社探訪から見えた神像の素性について

310

塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! E 鹽土老翁神から

猿田彦=ZALT彦説

309

塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! D 水俣市塩浜運動

公園の塩釜神社

308

塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! C 天草市五和町

塩屋大明神正面の塩田跡

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塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! B 天草市志柿の中之塩屋大明神

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塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! A 上天草市阿村の塩釜神社

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塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! @ 宮崎の野島神社から

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635 熊本県氷川町上有佐の香取神社について補足“「かんじょみさん」とは風読みさん?”

674 鹿島、香取も有明海〜不知火海一帯から移動したのでは ...


ひぼろぎ逍遥

スポット152 鹿島、香取は有明海沿岸から東に向かった

スポット093 ある神社の摂社の祭神が隠され逆に推定の正しさ ...


ひぼろぎ逍遥 370 キッコーマン醤油と博多の櫛田神社 ... この天草の二つの香取神社(香取社)は千葉県からの勧請と考える事はできるのです ...                  外にもまだまだあります

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ