2019年11月28日

ビアヘロ109 呉国からの通信 “江蘇省在住の「列島の呉」の研究者との作業から…

ビアヘロ109 呉国からの通信 “江蘇省在住の「列島の呉」の研究者との作業から…                                                        

           20191004

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


暫くの間パソコンのメールへの対応ができなくなっていたことから数週間に亘って返信を怠っていました。ここで、他の方も含めて改めてお詫び申し上げます。

その一つに呉越同舟の呉に相当する江蘇省在住の中国の研究者から連絡が入っていました。

このメールも8月末のもので、まさしく一ケ月以上放置していたことになります。

話に入る前に、近々にオンエア予定の ひぼろぎ逍遥(跡宮)版 ビアヘロ 103 全国の九州王朝論者に向けて! 緊急報告“呉の大伯108代を南九州市に案内した” 20190805 を先行してお読みになる方が分かり易いのではないかと思います。余裕のある方は是非試みて下さい。

以下は、その一部です。

猛暑にも関わらず、メンバーの伊藤正子女史による研究会が二年目に入っています。

小規模ながらも熱心な方々が参集されるもので、今後どのような展開を見せるか関心を寄せています。

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私も731日の勉強会に参加したのですが、ドラマは勉強会終了後の夜10時から始まりました。

車中泊を決め込むつもりで車の冷房を入れネット検索を始めていると、大阪の内倉武久先生(元朝日新聞記者 三一書房、ミネルヴァ書房から四著ほか)から連絡が入りました。

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最近はそれほど頻繁には話していなかったのでこれは何事かと色めきだったのですが、案の定とんでもない話が舞い込んだのでした。

まだ、詳しい事情は聴いていないのですが、どうやら1994年刊の「謎の巨大氏族・紀氏」を書かれていたことから、列島に移動した呉の王族の末裔を探ろうと中国の江蘇省(上海に隣接)にお住いの呉 本立氏(実名を上げても問題はないと理解しますので)が列島の古代史研究者を求められ、古田武彦系の関東の組織である多元の会辺りに連絡され、下掲の謎の巨大氏族・紀氏」を書かれた内倉先生に逢われたのでした。

勿論、倭人は呉の太伯の末とか後裔といった話は古代史研究者の間では常識であり誰でも知っていることですが、山奥の奈良に呉の一族が避退したはずもなく、考古学協会や学会通説に尾を振るただの利権集団でしかない邪馬台国機内論者などにとっては面白い話でも金になるはずもなく、真面目に研究する人間など皆無であって、この問題を正面から取り上げる人など存在しないのでした。

唯一というのは多少問題があるかも知れませんが、そういった中では内倉研究は唯一のものだったかも知れません。

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そういった事情から、呉元教授(寧波師範大学英文学教授ほか)と随行者の田 晶氏(英語は元より日本語も読み書きができ英語も使う商社マンで日本の古代史にもよく精通されている)が大阪で3時間ほど内倉先生(何度も中国に行かれておられある程度の中国語は話されます)と面会され、実際にその末裔と考えられる人に会いたいとの希望から私の方にその案内を依頼されたのでした。

既に呉教授一行は福岡市内に移動されており、残り二〜三日しか滞在されないということもあって、どうしても夜のうちに話を着けるしかなく、急遽、鹿児島の川辺町の郷土史家の青屋先生や高良家に連絡し大体の了解を得た上で中国のお二方と新幹線に新八代駅で合流する事にしたのでした。

薩摩川内市で降り、昼食にはまだ早かったことからレンタカーで加世田(現南さつま市)に向かうことにしました。

勿論、レンタカーの方が機動性に優れ便利で安いのですが、外国の方を乗せて事故でも起こすと厄介ですので、急ぐこともありタクシーで向かうことにしました。

加世田で昼食を済ませ、青屋先生をお乗せして高良酒造に向かいましたが、6年前に何度も出向き周辺調査を行った事が鮮明に浮かび上がってきます。

御当主とお会いしましたが私を良く覚えておいでで、話はとんとん拍子で進みました。

この高良家は現在でも久留米の高良大社に造られたお酒(勿論甕造りの焼酎ですが)を毎年奉納されており、それだけでも高良玉垂命との関係が焙りだされます。

中でも、奥様からお聴きした「嫁いできたときに姑さんからお聴きしたのですが、当家は今は「高良」を名乗っていますが本当の姓は「紀」です…とのことでした」は実に象徴的で、家伝とはかくも強固なのかと思い知らされたのでした。

これらについては非常に面白い話がいくつもありますので、九州王朝論者であるならば勿論の事、まだ、ご存じでない方は「ひぼろぎ逍遥(跡宮)」から以下の6本程度をお読みいただきたいと思います。


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

356

高 良(コウラ)“薩摩に避退した九州王朝系氏族を発見した” E

355

高 良(コウラ)“薩摩に避退した九州王朝系氏族を発見した” D

354

高 良(コウラ)“薩摩に避退した九州王朝系氏族を発見した” C

353

高 良(コウラ)“薩摩に避退した九州王朝系氏族を発見した” B

352

高 良(コウラ)“薩摩に避退した九州王朝系氏族を発見した” A

351

高 良(コウラ)“薩摩に避退した九州王朝系氏族を発見した” @


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パワー・ポイントも作成していますので希望の方は1000円程度の実費でお送りできます。09062983254

ご同行頂いた中国からのお二人も系譜の冒頭にはっきりと「紀姓」と書かれていたことからそれだけでも納得され、同族として感激されたようですが、当方からの質問にも幾つかお答え頂き納得した部分もありました。

 一つは地元の青屋先生から“春秋戦国の呉と三国志の呉には関係があるのか?”との質問が出されました。これについては、“呉の孫氏の一族に妃を送り込む一族が春秋戦国の呉の一族の後裔だった”とのお話(具体的には孫権の母親が呉氏だった)で、その点は私も含めて以前から抱いていた疑念が氷解しました。この事実は当方も承知していましたが、その継続性については知識が無くよく理解できたのです。

呉夫人は、中国後漢末期の女性。揚州呉郡呉県の出身。孫堅の正妻。弟に呉景。子は孫策・孫権・孫翊・孫匡・女子1人。呉において武烈皇后の諡号を贈られた。『三国志』では呉太妃と呼ばれている。

ウィキペディア


無題.png系譜を確認される呉 本立教授(左)と高良酒造当主(右)




さて、ここから今回の少しばかり厄介な話になります。呉教授ではなく、日本語の会話から読み書きまでできる田昌さんからメールが入りました。 



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またもや手に余るご質問から、しばし、閉口していましたが、気を取り直して少し調べてみることにしました。と、言っても、皆さんも何のことだかチンプンカンプンかと思います。

 勿論、これだけではどなたもお分かりにならないでしょう。当然にも、資料が添付されています(次葉)。

 25年も前のかなり古いものですが、古田武彦氏へのサポート団体であり続けた九州王朝論者の多元的古代(関東)の機関誌3199410.3 掲載されたものです。これは熊本の九州王朝論者として孤塁を守られた故)平野雅廣(日+廣)氏が書かれた論文に関するご質問だったのです。

これについては短文である上に問題もないと思いますので古川の責任で全文を掲載します。

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以下同誌35p 文字が小さくて読辛いと思いますが、重要なものですので是非お読みください。

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現在は消されているものの、かつて熊本県菊池市の中心部に「姑蘇」(コソ)という地名が存在しており、それが南禅寺の学僧であった桂庵の「島隠集」に書き留められている事を平野先生が書かれているのです。

 この文章というよりも、著書 倭国王(くまそ)「火ノ国山門」平成8115日の冒頭の文章に関わるご質問を頂いたのでした。

私は辛うじて平野先生の4著を全て持っており、一応は一通り目を通していることから多少は理解できますが、既にほとんどの九州王朝論の研究者が鬼籍に移っておられます。

お笑い種ですが、九州王朝論の研究会を自称する九州〇〇の会とかのメンバーも熊本の孤高の九州王朝研究者であった平野先生の著書どころか、故)古田武彦先生の初期三部作さえまともに読んだこともない方々ばかりとなり、通説派の学芸員とか教育委員会関係者の邪馬台国畿内説まがいの話に平服しているありさまなのですから実に情けない限りです。さぞや古田先生も嘆いておられる事でしょう。

「こいつら一体何やってるんだ…」少しは口パクだけではなく自分の頭と手足を使い労を惜しまず調査でもなさったらいかがでしょうか。遠い中国からでも関東〜関西〜鹿児島へと足を延ばし調査に来られているのですから。

研究者面されるのであれば少しは自分で調べて頂きたいものです。少し話が逸れました軌道に戻ります。


無題.png桂庵 玄樹(けいあん げんじゅ、1427応永34年)- 15086月28永正56月1))は、室町時代後期の臨済宗薩南学派を形成した。桂菴 玄樹と表記される場合もある。

長門国赤間関出身。9歳のとき出家し、上京して京都南禅寺惟肖得巌景徐周麟らに学んだ。その後、豊後国万寿寺に赴いて学問を学び、大内義隆に招かれて郷里長門国永福寺住持となったが、1467には遣明船の三号船士官となってに渡海して蘇州などを遊学する。1473日本に帰国したが、応仁の乱による戦禍から逃れるため、石見国に避難した。1478島津忠昌に招かれて大隅国正興寺日向国竜源寺の住持となる。さらに島津忠廉に招かれて、薩摩国の桂樹院で儒学を講じた。また、伊地知重貞と『大学章句』を刊行(1481)して宋学の普及に努めたことから、薩南学派の祖として名を成した。

日本で初めて朱熹の『四書集註』を講義した岐陽方秀が施した訓点を玄樹が補正し、更にそれを南浦文之が改訂したのが「文之点」である。文之点は、近世、四書読解の主流となった。

その後、建仁寺南禅寺の住持となり、1502に薩摩に東帰庵を営んで同地に住んだ。1508年、82歳で死去。著書に『家法倭点』、『島陰文集』、『島隠漁唱』など多数ある。


フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』20191004 0947による(ウィキを引用すると学者や学芸員に馬鹿にされますが、嘘よりは余程ましなので、当方は嫌がらせの意味で利用しています)。


@  お分かりの通り、平野先生が著書で触れられた「島隠集」とはそれらの総称かと考えられます。

A  長門国(現山口県)下関の赤間関出身 → 京都南禅寺→ 豊後国万寿寺 → 豊、筑、肥の三州に居住 菊池重朝にも呼ばれ熊本県菊池市隈府に滞在中に隈府の「姑蘇」辺りに居住した … 応仁の乱の主役の一人である大内義隆から招かれ長門国永福寺住持となる → 明に渡海 蘇州に遊学(この時期菊池氏は金峰山の南麓を拠点に明と貿易を行っている) → 応仁の乱で石見(現島根県)に避退 → 島津忠昌に招聘され大隅国(現鹿児島県東部)正興寺、日向国(現宮崎県)竜源寺、島津忠簾に招聘され薩摩国(現鹿児島県西部)で桂樹院で講義

B  よって薩南学派を形成する…「桂庵」は桂樹院から号されたのかその逆なのかは不明。

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これで、ご質問の一部はお分かりになられたかと思います。

漢詩の解読までしたいともできるとも思いませんが、「姑蘇臺上月明の天」は菊池の隈府の姑蘇で歌われたものなのでしょうか。「臺」が書かれている以上、通常言われるところの鞠池城の丘陵を描いてのものなのでしょう…また、江蘇省の方には「長門」はお分かりにならなくて当然ですが、現山口県の長門市から萩市一帯を出でて幾年」を経たる。としておきましょう。

分かりにくいのは、「貞上人肥陽より来る」です。

原田 種真の「肥陽軍記」は肥前の龍造寺種信の話ですので、一般には使われない「肥陽」という言葉は肥前、肥後の肥州であり、ここでは佐賀県を意味しているはずです。

 次の“南国寧んぞ千里の友無けんや”は鹿児島県に移動して貞上人を迎えての気持ちを詠じたものでしょう。

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今回、江蘇省の方に説明するために当方も丁寧に書きましたが、改めて「姑蘇」地名が菊池の隈府に存在したものと再認識したところです。

 この菊池に存在した「姑蘇」は湿地帯の辺であったはずで、呉の国と同様の高床式の館が存在していたのではないかとあらぬ想像を廻らしているところです。

 しかし、改めて平野先生の研究には頭が下がります。

 肥後のような保守的な所に於いて九州王朝論に自ずと辿り着き、最後まで孤塁を守られた先見性、誠実さには頭が下がります。菊池辺りの某研究会で行政や教育委員会に向けて弁を振いつつ古田史学の会にも潜入したさもしい宮司などとは雲泥の差を感じてしまいます。

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「神来」と書き「オトド」と読みますが、こここそ呉の後裔たる王族が住み着いていた場所であろうと考えています。

住宅地の周辺には多くの田畑がありますが、それは河川改修の結果できたもののはずで、古代には隈府地区(右手菊池の中心部)から多少離れ、湿地帯に囲まれた島か岬状の安全な場所であった様に思えます。 

正確に言えばここは隈府ではないはずです。この「神来」こそ呉の王族の居留地であったはずです。

付近の神来貴船神社は十五年も前に一度訪れていますが、そのうち足を運びたいと思っています。

御面倒でも情報をお持ちの方は当方までご一報ください。09062983254 古川

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ

2019年11月22日

ビアヘロ108 菊池一族は阿蘇系とは異なる民族だった!

ビアヘロ108 菊池一族は阿蘇系とは異なる民族だった!

201900910

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


ここ一年で ひぼろぎ逍遥+ひぼろぎ逍遥(跡宮)に以下の四本をアップしています。

ひぼろぎ逍遥

723

菊池氏とは熊襲(トルコ系匈奴)であった “ようやくその尻尾を掴んだ”

ひぼろぎ逍遥(跡宮)

712

亡命した菊池氏によって持ち込まれた狭上(サエ)稲荷神社が

今も西米良村の最深部で息続ける(下)

711

亡命した菊池氏によって持ち込まれた狭上(サエ)稲荷神社が

今も西米良村の最深部で息続ける(上)

ビアヘロ105 菊池一族とは大山祗系民族だった!“内倉武久氏らと宮崎熊本県境の狭上稲荷神社に…”  


 このため、本稿もビアヘロ版105の続編とお考え頂いて構いません。

 日本人は単一民族であり奈良県辺りにあった卑弥呼の邪馬台国から大和朝廷へと発展し遍く列島に広がって行ったなどと惚けた宣伝に載せられる方ならいざ知らず、南島は元より江南から淮河から半島から渡って来た多くの民族によって列島民族が形成されてきたという至って常識的かつありうる話から言えば、玄関口に近い肥後は黒潮の分流が流れ込む土地でもあり、初来の訪問者が住み着いた土地であるはずなのです。従って半島〜大陸に侵入を繰り返した多くの民族の一部も避退進出を含め入っているはずなのです。

ここ五〜六年あまり、南北朝争乱期を中心に跋扈した菊池氏は阿蘇氏とは別の氏族というより全く別の民族ではないかと考え無題.pngてきました。一つの疑念は菊池市の南部の中心領域に「赤星」という地名が存在する事でした。赤星と言えば直ぐに頭に浮かぶのが「先代旧事本紀」ですが、同時に頭を過るのが歌舞伎の「白浪五人男」の赤星十三郎でした。多分、出雲(阿国)から発生した歌舞伎のこと出雲が物部の本拠地の一つであった事が分かれば新たな関係性が見えてくるでしょう。面白い事に隣の山鹿市中心部には十三部(ジュウザブ)とも読める地名まであるのです。多分赤星十三郎の名の採用に関係しているかも知れません。後段でも触れますが大国主命とは大山祗の子であり(百嶋由一郎最終神代系譜)出雲とは物部氏の本拠地だからです。    

話は跳びますが、島根県大田市にニギハヤヒの裔のウマシマジを主神とする物部神社が在る事を思い起こして下さい。       


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赤星と言えば直ちに「天津赤星」が頭に浮かびますが、この物部氏の中核勢力たるニギハヤヒに直結する集団が赤星(後の筑紫弦田物部か…)であり、その地名が存在すること自体菊池氏が阿蘇氏とは全く異なる民族ではないかと考えざるを得なかったのです。


天津赤星 …なお,〈明の明星〉〈すばる()〉〈北斗七星〉〈宵の明星〉はそれぞれの項目を参照されたい。天津赤星(あまつあかぼし)《旧事紀》の天神本紀にある。饒速日(にぎはやひ)尊に従って天降り供奉したとあり,尾張国神名帳に赤星大明神というのがこれらしい。…    「コトバンク」による


本来これだけでも気付くべきでしたが次に疑問を持ったのが家紋でした。

菊池氏と言えば皆さんご存じの並び鷹羽が良く知られています。これからは菊池氏が阿蘇氏の兄弟分にしか見えませんね。しかし、元々は日足紋を使っている事は分かっています(普通は鎌倉期の第8代菊池能隆辺りからとされますが)。それ自体がある種の偽装である事にようやく思い至ったのでした。

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左から菊地氏が元々使っていた八日足紋 ⇒ 並び鷹羽紋 阿蘇氏でも健磐龍系が使う違い鷹羽紋


 ここで、宮方として義を全うした南北朝の忠臣氏族菊池氏…といった先入観を取り除き、菊池氏が阿蘇氏とは全く別の民族ですらある物部氏であったと考えたら一挙に謎が解けてくるのです。

 13世紀後半から鎌倉幕府執権体制の崩壊から始まりますが、直接的には室町期の13361392年までの60年ほどの内乱期が南北朝時代とされます。ここでも九州の宮方(阿蘇氏、菊池氏、五条氏、黒木氏…)が屈服する事によって全国が平定される事になるのでした。この時、南朝方として戦う宮方連合軍内に於いて、多くの氏族が参画してくる中にあって、正統皇統を主張する宮方にとって武家=武士(モノノフ)=物部(モノノベ)に直結する菊池氏が宮方勢力と理解される事を嫌い(朝敵の熊襲が宮方に入るとは何事だ!と言われる事を避けたのではないか?)、阿蘇氏の神紋である鷹羽紋を使い阿蘇氏の一派の様に装ったと考えると何とか謎が解けるのです。鎌倉初期までは日足紋を使っているようですが、徐々に物部隠しが始まっていたように思えます。では、菊池氏が阿蘇氏とは全く別の一族で物部氏と言えるのでしょうか?この菊池氏の出自を探るために時間を費やしました。しかし、何とかその糸口が得られたのです。


菊池氏とは大山祗の後裔氏族だった


 さて、熊本県人吉盆地の奥の奥、宮崎県の西の国境に西米良村がありそこからさらに10キロ入る辺境の地に狭上稲荷神社という神社があります。この神社が如何に価値あるものであるかは言い尽くしようがありません。これまで三度参拝し見えて来た認識を進め更に一般にも広くお知らせしようと思うものです。

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狭上稲荷神社 カーナビ検索 宮崎県西米良村村所503 社務所宮司宅(左)参拝道を歩む内倉武久氏(右)


 この狭上稲荷神社は西米良村という宮崎県でも辺境中の辺境の地にあるのですが、村の中心部の村所地区からも7キロ登りさらに3キロ谷底へ降りるとようやく辿り着く正しく大変な場所の僅かな小平地に鎮座している稲荷神社です。しかも同社の傍には伝大山祗の墓とする古墳までがあるのです。この古墳には石棺もあるらしいのですが、後述の「石櫃」地名と関係があるのではないかと考えています。

 実は、同社への道は川沿いに上がる直行ルートが本来の参道の様で、川沿いに今も上がってはこられるようですが、車で入る事が出来る道がないため、現況では延々10キロの山道で迂回し入るしかないのです。


九州山地中央部の山間地、一ツ瀬川と板谷川の合流点に位置する。地内には二基の古墳があり、小川の古墳一基とともに西米良古墳として県史跡に指定されている。一基は菊池記念館の裏の山中にあり、一基は当社の南側に位置している。

旧称狭上稲荷大明神と称し、創立年月日は不詳であるが、社蔵の由緒記によれば次のごとくである。

皇御孫尊阿田之長屋にご臨座し、大山祇命の娘、姉の磐長比唐畏れ給い、妹の木花咲哉比東ワ十鈴川上川に去ってしまった。大山祇命は跡を慕いて狭上の深川に跡を垂れ給う。爰に御陵あり、しかし空国にして祭る者がなかった。世降りて当社御陵を知る人も稀になっていた。時に天正年中、山中堂栄、煮田之尾勝房・山佐礼左近・西世法師の四人兄弟狭上の東西南北に柴の庵を結んで露命を繋いでいた。西世法師の夢に白髪の老翁が現れ、我は是れ大山祇命なり、我陵を以て稲荷を祭り尊敬せば汝が子孫長久なる事疑う事なし、と言われた。西世法師山谷の狐魅我を犯すとしてそのままにしていた。また夢見があったので此の神を祭り尊敬すると日数を経ずして白狐稗粟大小豆を携えて来て西世法師に与えた。その後米良佐太夫の時に新たに社を建立した。その子孫の米良半右衛門と言う者が球磨表に越したので、その後中武氏神司となりここに居住した。この由緒によれば、創建は古く菊池氏の入所後、氏の弟米良佐太夫の再興に係り、その子孫によって代々護持されてきたものである。

宮巡 〜神主さんが作る宮崎県の神社紹介サイト〜 運営:宮崎県神道青年会

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 第二回目は熊本の女性メンバーなど6名で入りましたが、今回、当会の新メンバーであり人吉盆地の一角でblog「ひろっぷ」を書き続けておられるM女史に、芦北町の郷土史グループ「野坂の浦」メンバーの吉田先生、さらに大阪から来られた内倉武久先生の3人をお連れしました。

 四人の思いは各々あったでしょうが、少なくとも私が最も関心を持っていたのは南北朝期に宮方として闘い続け敗れ去った菊池氏が何者であるかをさらに多くの観察通者の目で掴むことにありました。

 九州の中近世史を考える上でも菊池氏は無視できませんが、実は九州の古代史を考える上でも決して無視できない存在でもあるのです。簡単に言えば岩手県が顕著なのですが、東北地方に菊地、菊池姓を名乗る方が大量におられる事は知られています。

 中近世期に同氏の目立った移動が確認できないため、恐らく八世紀以前の九州王朝の時代に何らかの理由で展開しているのではないかとも考えて来ました。

南朝方菊池氏…云々だけで凝り固まっておられる方は別として、我々九州王朝論者にとって、この菊池氏が何者であるかについてはこれまで闇に包まれてきました。普通はその氏族が奉斎する神社の祭神や家紋を見れば凡その見当が着くのですが、菊池氏については、それが効かなかったのです。

 例えば神社ですが、いくら多くの菊池系神社を踏もうが祭神は菊池武光、武時、始祖の則隆…ぐらいで一向に祭神が見えてこないのです。

 唯一、33番神楽でも知られ菊池氏の逃げ城と言われた現宮崎県西都市 東米良の銀鏡(シロミ)神社だけに磐長(イワナガ)姫(通説で大山祗からコノハナノサクヤと共に送られるも返されたと言う酷い話に仕立てられた)が祀られ僅かにその痕跡を感じていましたが、ようやくその意味が見えて来たのです。

先に狭上稲荷神社の祭神を再度確認しましょう。


 銀鏡(シロミ)神社 カーナビ検索 宮崎県西都市大字銀鏡492

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地元の〜神主さんが作る宮崎県の神社紹介サイト〜運営:宮崎県神道青年会 によれば 大山祇命 倉稲魂命 大宮姫命 大己貴命 菊池武光公及びその祖先 となりますし、同社の由緒に依れば、大山祇命 蒼稲魂命(恐らく倉稲魂命) 大己貴命 大己貴命 菊池武光公及びその祖先となり鹿児島県だけに分布する大宮姫伝承の大宮姫命は含まれてはいません。

 確認したい方は以下をお読み下さい。いずれにせよ菊池一族が奉斎する神々の見当がある程度は着くのです。これに銀鏡神社の磐長姫を考えれば菊池氏が何者かの見当が大凡着くのではないでしょうか。

 同社由緒の全文は以下で確認できます。


711

亡命した菊池氏によって持ち込まれた狭上(サエ)稲荷神社が今も西米良村の最深部で息続ける(上)


では、我が百嶋由一郎最終神代系譜で確認して見ましょう。

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稲荷様とは伊勢の外宮の豊受大神こと辛国息長大姫大目姫(大山祗の長女神大市姫の娘)です。

これらから読み解けば、狭上稲荷の祭神(当然にも稲荷を含む)の全てが大山祗のファミリーであり、菊池氏が奉斎する神々がウマシアシカビヒコチ(トルコ系匈奴=大昭君系親漢派の南匈奴)と天御中主命(白族)の後裔であることが分かるのです。

 では、銀鏡神社の主神の磐長姫(通説でコノハナノサクヤの姉とされる)の方はどうなのでしょうか?

 その前に磐長姫が誰かが分かっておられない方が多いと思います。

 これについては、当方のバックナンバー ひぼろぎ逍遥(跡宮)020 細石神社とは何か?などを読んで頂くしかないのですが、分かり易いのは ひぼろぎ逍遥 487 安産の里無津呂の神々 子安神社 ジネコ神社協賛プロジェクト @ かも知れません。


487

安産の里無津呂の神々 子安神社 ジネコ神社協賛プロジェクト @


 一応の説明を致しますが、率直に言えばかなり分かり難いと思います。このため、先に分かり易い方の簡略化した説明をしておきます。

@  コノハナノサクヤは確かに高木大神の息子であるニニギのお妃になります(その子が糸島半島の桜谷神社の古計牟須姫命)。しかし、百嶋翁の話によると数年で別れ、豊玉彦=ヤタガラスの傘下に入り事実上のお妃のお一人となります。

A  とすると、ヤタガラスの姉がアカルヒメ=磐長姫ですから、コノハナノサクヤにとってアカルヒメとは義理の姉になるのです。

 これが磐長姫がコノハナノサクヤの姉とされる仕組みなのです。しかし東米良の銀鏡神社の祭神がイワナガヒメとされた理由は不明です。もしかしたら天御中主命の勢力(白族)の支援を期待しての事だったのかも知れません。これで菊池氏が大山祗系の氏族である事がお分かり頂けるのではないでしょうか?

前述の如く通説では木花之佐久夜毘売は、ホデリ(ホアカリ?)、ホスセリ、ホオリの三柱の子を産むとしますが百嶋神社考古学ではそれを認めません。また、磐長姫と木花之佐久夜毘売とが実の姉妹である事も認めません。また、無関係でもないと言うより、むしろ関係性の強い従妹のような関係なのです。

B  南北朝期に阿蘇氏と連携し戦い続けた菊池氏でしたが、彼らが自らの素性、つまり熊襲であった事を隠す必要が有り阿蘇氏と同様の鷹羽紋に変更し阿蘇氏一派つまり熊襲ではないと偽装した可能性が浮かび上がってきました。つまり朝敵と言われないための配慮だったのです。今後も探索します。

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まず、百嶋神社考古学で、イザナミはイザナギと別れた(神話では黄泉の国で喧嘩別れした事になっていますが)後、博多の櫛田神社の大幡主のお妃となり豊玉彦=豊国主=ヤタガラスとアカルヒメを産みます(これには多くの傍証がありますがここでは省略します)。


以下、百嶋由一郎最終神代系譜と極秘系譜(部分)

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敢て、分かり難い方の解説を行なえば、磐長姫は博多の櫛田神社の大幡主(白族)を父神として金山彦(瀛氏)の妹神であるクマノフスミ(イザナミの後の神名)を母神として生まれたアカルヒメ(スサノウのお妃で姫島に戻ってきた)とします。

一方、コノハナノサクヤヒメ大山祇(越智族)を父神として、博多の櫛田神社の大幡主の妹である埴安姫母神として産れた大国主命の妹とします。このため妙な表現になりますが、父神も母神も異なるものの、アカルヒメの父神とコノハナノサクヤヒメの母神が兄妹であることから、腹違いで種違いの従姉妹といった関係にはなるのです。これは勿論伏せられていますが、百嶋先生がこの事実を把握された事により、問題が鮮明になってくるのです。これを神話では姉妹としていますが、アカルヒメこと磐長姫が醜かったから返されたとする神話には、阿蘇氏の後裔としての藤原の作為が感じられ、金山彦系を貶める意図があるように思えるのです。

ただ、磐長姫の名誉のために申しあげておきますが、イワナガヒメ=アカルヒメは新羅の王子様であったスサノウから逃げて国東半島正面の姫島に上陸したとされているのであって、スサノウが但馬の出石に追いかけてきたほどの女神であったとすれば、到底醜かったなどとは思えないのです。

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百嶋由一郎015金印神代系譜(部分)


百嶋由一郎氏の講演録CD神代系譜、手書きスキャニングDVD等を必要とされる方は09062983254まで


熊襲トルコ系匈奴については以下の系譜から読み取ってください。これまで何度も申し上げてきた事ですが、故)百嶋由一郎氏は大山祗系の人々とは半島の金海金氏であり、金首露王とアユタヤ王国王女(高木大神の同族)から送り込まれた許黄玉との間に産れた金越智氏と白山姫(白族)との間に産れているとお考えだったようです。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ

2019年11月07日

ビアヘロ106 古田史学の会の四国の組織の離脱に思う“古田武彦を失った九州王朝論者の未来とは”

ビアヘロ106 古田史学の会の四国の組織の離脱に思う“古田武彦を失った九州王朝論者の未来とは”

20190831

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


古田史学の会でもかなり大きな組織力を持った愛媛の会が離脱を宣言しました。

私自身が同会の末席を汚す立場にある事から一応は考えを整理し公表しておこうと考えます。

思えば17歳の高校時代に宮崎康平の「まぼろしの邪馬台国」を読み、大学に入っても直ぐに古田武彦の「『邪馬台国』はなかった」以下の初期三部作を読み、かなり早い段階で九州王朝論に取り込まれていたようです。いまや半世紀近くが経ったことになります。

ただ、穴掘り考古学の連中の大嘘に気付き、どんなに精緻な報告書が出されようが結局は京都学派にとって都合の良い結論が出される構造が出来上がっていることから、早い段階で侮蔑の対象でしかなくなっていました。

その代わりに進出したのが照葉樹林文化論であり民俗学であり神社研究だったのですが、現在、主軸にしている神社研究はここ十数年程度のものでしかありません。

しかし、フィールド・ワークは数十年来のものであって、継続して来た地名調査と併せこれらが後の神社研究に大いに役立っている事は間違いないでしょう。

 最終的に百嶋由一郎氏の神社考古学に遭遇することにより九州王朝論に魅了されている者としても非常に特異な位置に立つことになったのでした。

 しかし、ここ数年で百嶋神社考古学の影響を受けた研究者、観察者のブログだけでも全国で2030を数えるに至り、最低でも神社研究に於いてはかなりの影響力を持つに至るところまで来たようです。

 当初は貴重この上ない百嶋由一郎氏の業績の主要部分だけでもなんとか残したいという使命感だけで始めた作業でしたが、この側面から九州王朝論を再構成して行くと、やはり百嶋由一郎氏が主張した“「古事記」の95%は嘘“という主張が正しいと理解できるようになっていったのでした。

 ここまでくると、「日本書紀」より「古事記」が原型を保っているとか、二倍暦年といったものに疑問を抱く様になってきました。

 もう何度も書いてきましたが、倍に伸ばしているのではなく、年数が誇張されているどころか年代も偽装され、天皇でなんでもない民族も全く異なる只の臣下などが天皇扱いされ挿入されている事に気付くに至るや、元々偽装された記紀を基礎に九州王朝論を組立てる事に意味が無い事に気付いたのでした。


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

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和風諡号から考えてみた


@  神武 神日本磐余彦天皇(カンヤマトイワレヒコノスメラミコト)       九州王朝正統皇統

A  綏靖 神渟名川耳天皇(カンヌナカワミミノスメラミコト)            阿蘇系(黎族)

B  安寧 磯城津彦玉手看天皇(シキツヒコタマテミノスメラミコト)         大幡主(白族)

C  懿徳 大日本彦耜友天皇(オオヤマトヒコスキトモノスメラミコト)      九州王朝正統皇統

D  孝昭 観松彦香殖稲天皇(ミマツヒコカエシネノスメラミコト)          阿蘇系(黎族)

E  孝安 日本足彦国押人天皇(ヤマトタラシシヒコクニオシヒトノスメラミコト)玉名半阿蘇系(黎族)

F  孝霊 大日本根子彦太瓊天皇(オオヤマトネコヒコフトニノスメラミコト)   九州王朝正統皇統

G  孝元 大日本根子彦国牽天皇(オオヤマトネコヒコクニクルノスメラミコト)  九州王朝正統皇統

H  開化 稚日本根子彦大日日天皇(ワカヤマトネコヒコオオヒヒノスメラミコト) 九州王朝正統皇統

I  崇神 御間城入彦五十瓊殖天皇(ミマキイリビコイニエノスメラミコト)       黎族+白族

J  垂仁 活目入彦五十狭茅尊(イクメイリビコイサチノミコト)         宮崎生目神社主神

K  景行 大足彦忍代別天皇(オオタラシヒコオシロワケノスメラミコト)    玉名半阿蘇系(黎族)

L  成務 稚足彦天皇(ワカタラシヒコノスメラミコト)               素性系統不明

M  仲哀 足仲彦天皇(タラシナカツヒコノスメラミコト)            九州、山口に痕跡

N  応神 誉田別天皇(ホンダワケノスメラミコト)               宇佐素性系統不明

O  仁徳 大鷦鷯天皇(オホサザキノスメラミコト)               九州王朝正統皇統


一応、16代までの天皇の和風諡号を「日本書紀」に沿って並べて見ました。

 百嶋神社考古学では@、C、F、G、H、M の6代だけは呉の太伯の流れを汲む正統皇統の天皇と考えます。では、それ以外の10人の人物はとお考えになると思いますが、

2代贈)綏靖天皇とは、現在、阿蘇神社の神殿最奥部に祀られている金凝彦(神沼河耳命)であり、第3代贈)安寧天皇が誰かは謎だったのですが、現在のところ博多の櫛田神社の大幡主(天理教の主神でもある)ではないかと考えています(研究会内部には他の人物への比定もあり、なお、検討中です)。

 第5代贈)孝昭天皇は、阿蘇高森の草部吉見神社の主神(ヒコヤイミミ)とされています。

 第6代贈)孝安天皇は、熊本県玉名市の疋野神社の「波比岐神」=大族日置氏の祖とされています。

 第10代贈)崇神天皇は、福岡県那珂川町の現人神社、博多の住吉神社の主神とされている年若の開化天皇の臣下とされていました。第11代贈)垂仁天皇は、宮崎市の生目神社の主神。

 第12代贈)景行天皇は、第6代贈)孝安天皇(玉名市の疋野神社)の子であり山鹿市の大宮神社の主神とされていますが、これについては疑いを持っています(景行伝承は存在していたと考えますが明治期に主神にされた可能性が高い)。

 俗に欠史8代とか9代とか通説では文字どおりの架空の神話扱いにされている部分を議論しているのであり、学会通説に阿ねて尾を振る教育委員会や学芸員といった利権まみれの方々からは、当然ながら狂人扱いにされる事は覚悟の上の話になります。

 奈良から日本が始まったとか邪馬台国は奈良にあったとしか考えられない考古学協会が作成した嘘話に取り込まれた方々はどうでもよいとして、少しでもまともな思考ができる最低でも邪馬台国九州説、九州王朝論の立場に立たれる方々でも、二倍年暦(倭人は一年を二年とする「其俗不知正歳四節但計春耕秋収為年紀」)といった考え方で納得されている方が多いと思います。

 ところが、実際には血統も民族さえも繋がらないただの臣下でしかない人物が後に贈る天皇扱いとされ、

全く整合性のない皇統譜が造られている事が見えて来ました。勿論、藤原氏が自らの側に取り込みたい有力氏族の祖を天皇に仕立てただけなのですが、これが、タラシ系とかイリ系などと言われる事と関係しているのです。これは、宮内庁、神社庁は十分理解されているはずなのです。

元々、「古事記」の95%が嘘、「日本書紀」は部分的に正しい事を書いていると言われた百嶋先生でしたが、「阿蘇ご一家神代系譜」などに、前述した初期の天皇、贈天皇、別王が実際には誰であったのかについてのメモ(ヒント)を残しておられました。まずは、その事についてご紹介しておきます。以下省略

 私達はこのような皇統を信じ込まされていたのです。しかしそのごまかしのベールを取り去れば真実の九州王朝の皇統が蘇ってくるのです。これが記紀を真に受けるか疑いつつ探索するかの違いなのです。

 後は、この裏取りの作業を続けるのみで、我々の任務はその延長上に存在しているのです。

 我々はいつしか九州王朝論でも非常に異なる立場に踏み込んでしまった事に気付くのですが、今さら後戻りしようとはとても思いませんし思えもしません。

 それほど百嶋由一郎氏が残した研究業績は素晴らしいものだったと思うばかりです。

 このため文献史学の中心の古田研究からどれだけ離れているか、逸脱しているかを基準に議論される事には情けなさを感じるのですが、一つの基準だけで正統性を競う事の危うさを感じるばかりです。

 勿論、通説派の畿内説論者とか記紀に摺合せをする考古学協会などの追従者の方々に対しては、尚も正統性を感じますし、その限りでそのような組織が存続を続けこの連中への攻撃を緩めない事には重要な意味を感じますが、真実の九州王朝の姿を描く作業ができないのならば、記紀を巡る部分的な改竄を暴く作業だけでは大衆を惹きつけ続ける事はできないと思うのです。

 勿論、今回の組織的対立、分裂について私達はどちらに組しようとは思いません。

 むしろそのような情念こそが研究を前進させるものと考えています。

当然にも組織の規模によって古代史の研究団体の価値など図れるはずなど全くないのです。

 現在、自前の研究者を失って久しい福岡市を中心とする九州○○史の会なるものを丸抱えで抱え込もうとしているようです。要は草刈り場と化しているのですが、九州に居ながら自前の研究を行わない只の邪馬台国九州説を語る会、良くて九州王朝説を楽しむ会のメンバーを抱え込んだとしてどれほど価値があるのかと思ってしまうのです。

しかし、会を強化すると言う事は、始めは突飛に思えても何がしかの真実が存在するのではないかと許容し、独自の研究を奨励し適当なアドバイスや支援を行わなければならないはずなのです。

 それこそが会を強化し前進を補償するものなのです。

 ましてや、この会が古田武彦の限界を超えると称し独自の研究体制を追求していた事を知る者としては、その姿勢や研究への情熱は一体どうなってしまったのかと問わずにはおられないのです。

 指導部が潰え去り何の情念もない調停者のようなどこにでもいる人物がトップになると堕落は進みます。

 要は、研究し論文発表するのは九州外の古参メンバーだけであって、九州は発表の舞台と印刷所と化して久しいのです。それとて会報が百部程度でしかなく、それでも会内の議論反論を認めないと言うのですから真面目な研究者が意欲を失い離脱を示し始めているのです。

 特にこの外部の古参研究者達は教条的な(彼らの言葉として)古田史学の会からの追放者であったことから、古田史学の会による会の実質的な吸収は許しがたい事であってかなり大きな軋轢をもたらすことになるでしょう。

 いずれにせよ、荒金、兼川とキラ星の如き意欲的な研究者を失った段階で解散しておけば恥を晒す事もなかったでしょうが、いまや通説派の教育委員会関係者と学芸員などの通説まがいの話を拝聴し平伏しているのですから、九州王朝論への侮りを受けないうちに態度をきめるべきではないかと思うものです。

 ここでかく言う我々はと言えば、早い段階で百嶋神社考古学という極めて衝撃的な研究に接触し、その異色の九州王朝説に惹きつけられました。そしていつしかその衛星として取り込まれている事に気付いていたのでした。

 しかし、もし、九州王朝論を幾分でも身に付けていなければその重要性は全く理解できなかったはずです。その意味で改めて古田武彦氏の業績には敬意を表したいと考えています。

 ただ、四国の会の組織的離脱から見れば、我々壱百嶋神社考古学の者などは異端中の異端、しかも古田説とは大いに異なる立場にある訳で、四国の会と古田史学の会中枢部との対立など些細な感情的行き違いに過ぎないと思えるのです。その意味では、我々こそが真っ先に排除されるべき危険分子なのですが、いつでも切り捨てられる覚悟は当の昔にできているつもりです。

 それよりも、九州王朝の本拠地に於いて多くの現場を調査し探究を続けている者としては、少数であっても新たな研究スタイルに進出でき、全く新たな発見の連続に日々追われる状態にあり、それが可能なに改めて喜びを感じているところです。

 ともあれ、九州○○史の会の主要な研究者の一人であったU氏も、“自分では何も研究も調査もしていないくせに発表を封殺するとはつまらない連中だ…今後は原稿も送らない”と言われている始末なのです。

 このU氏とは頻繁に連絡し九州の山奥まで一緒に調査に入っているのですが、このような立派な研究者からさえ見放されるのですから彼らが如何に堕落しきった人々であるかが思い知らされると言うものです。

 ともあれ、我々は尚も未知の世界の探求に突き進みたいと考えています。

 卑しくも九州王朝説の立場に立つ研究会のメンバーであり他の人々と異なり、九州の現場に住んでいるのならば尚更、その優位性を生かして自ら調査し、記録を残し、尚且つ発信すべきはずなのです。

 それこそが、古田武彦が一生を掛けて守り抜き将来を託した九州王朝研究説の将来への展開であり未来のはずなのです。

 村興し町興しから果ては世界遺産登録まで多くの郷土史会、史談会といった連中と同様に、行政に接近し、地域興しに迎合し行政の芸人に成り下がる研究者、報告者さえも産み出す浅ましい状態にあることは何とも馬鹿げたことで、行政の提灯持ちとなる背徳者どもは早々に消えて欲しいものです。

現在、太宰府地名研究会は熊本、大分も含め、現地のフィールド・ワークを続けていますが、同会のHPには多くのblogがリンクされています。当方が運営するものは、古代史、地名研究、民俗学を対象とする「ひぼろぎ逍遥」と神社研究に特化した「ひ無題.pngぼろぎ逍遥」(跡宮)という二本立のblogによって月間2030本程度を配信し始めて5年目に入りましたが、既にネット上には1700本程度の記事が踊っています。勿論、主要なテーマは九州王朝の探究ですが、現在、三本立てのblogだけでも日量1,4001,500件(=年間50万〜60万件)程度のアクセスがあり、当面は年間70万件を目標としています。それ以上に連携するサイトの規模を考えてもグループ全体としては凡そ年間200250万件を軽く超えているものと考えています。この点、質が全く異なるハイ・レベルこの上ない格調高い古田史学の会の「新古代学の扉」が凡そ年間10万件=累計150万件程度であることを考える時、我々の下世話なサイトもそれなりに健闘している事がお分かり頂けるでしょう。当方の場合その背骨を支えてきたものは大学時代から読み始めた古田武彦3部作でしたが、後期三部作も含め、徐々に非古田、反古田系の九州王朝論にも目を向けるようになり、今や、佃収、内倉武久、米田良三…から神代史研究の第一人者であった百嶋由一郎神社考古学に焦点を絞った九州王朝論をも取り込み、blog連携を全国化しつつあります(次葉参照)。現在、当方のHP「太宰府地名研究会」「ひぼろぎ逍遥」、「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)、新ひぼろぎ逍遥 には25に近づくblogHPがリンクされています。このほとんどが多少の差こそあれ、久留米の高良大社に残された「高良玉垂宮神秘書」(コウラタマタレグウジンヒショ)をベース無題.pngとした百嶋神代史研究の影響を受けており、今のところ中心は北部九州にありますが、北は青森〜東関東、北関東、愛知、南は四国の高知県に百嶋九州王朝研究の立場から神社、古墳…を調べる文献史学派も含めた研究者、記録者、伝承回収者、映像収集家…のネット・ワークが急速に広がりつつあります。最低でも25人の研究者(只のブロガーじゃねいか…と言われそうですが、それでも恥をかかないようにと皆さん頑張って書かれておられるのです)が集まっておられるのであって、自らは何も調べようともせずに、他人の話を右から聴いて左に貫けて行くような只の「邪馬台国本」読みの愛好者ではないのです。勿論、最近スタートしたばかりの方もおられますし、休眠中だったものを復活させた方もおられます。しかし、最低、日量300件のアクセスでも年間では10万件にはなるのです。当然、全体では楽に年間150万件になると申し上げたのも極めて控えめな推計です。当方の二本立てと「常陸の国探検隊」に連動する「宮古の縁側日記」が先行していますが、この4本だけでも軽く100万件のアクセスにはなるのですから、実際には年間300万件超えでも決しておかしくはないのです。ブロガーとは自分で調べ記録を残し後世に残そうとしているのですから、若者が目も向けない本を出したり、100部程度、多くて500部程の会報を出すよりも余程効率の良い媒体となっているのです。ところが、○○研究会とか○○地名研究会などと名乗っていても、所謂「邪馬台国本」を齧っているだけとか、研究会とか称する団体に入って仲間内の研究と称する講演でも学会通説派が作成したパンフレットをコメントなしで無批判に配り、インターネットから引っ張り出した資料の継ぎ接ぎによるコピーで熱弁を振るう仲間内の講演も右から聴いて左に貫け、貰った資料さえもいつしか置いた場所も分からなくなってしまうようなものを研究会と思うかどうかの問題でしかないのです。凡そこのような団体では10年を待たずして何の成果も残すことなく雲散霧消し潰え去る事になるでしょう。ましてや、会計報告はやっても編集会議はおろか会報も出さないような団体では研究会でもなければ、外部にしか研究者もいない事になるのです。つまりカラオケ・クラブ同様の仲良しクラブの親睦会でしかないのです。今時本も出さずblogHPも持たない者とは研究者としては存在していない事と同義であり、研究者亡き研究会でしかないのです。そもそも九州王朝論とは国家権力が封印した禁断の研究であって真実であるが故に隠されたものなのです。そんなものを行政が認めるはずはないのです。このような権力に対する確固とした独立姿勢が肝要なのです。

このような方々は行政主導の村興し町興し果ては世界遺産登録などといった学会通説派の尻押し団体に堕落するか、教育委員会や学芸員との連携を取り組むどこにでもある通説派の団体に成り下がり、その一部が“私にも講演させてください”とばかりに卑しくもさもしい擦り寄りを見せることになるでしょう。

しかしそれでも研究者とはいるものです。ただ、彼らは群れないからこそ研究者なのであって、孤立しているからこそ独自の研究や発見ができるのです。このように研究者とは、親睦会紛いの何々研究会の傘の中の裾野に産まれ成長するのではなくあたかも電信柱の様に散らばっているのです。してみると、その電信柱のネット・ワークにこそ価値があるのです。ましてや、私達は百嶋由一郎という稀代の神社研究者の存在を知ったのですから、それを何とか後世に引き継ぎ、嘘で固められた「古事記」「日本書紀」、それを批判するとしてその延長上に組み立てられ登場した九州王朝論も通説の臍の緒を引き摺っている事に警鐘を鳴らすものです。

その意味で百嶋研究は本当の意味での九州王朝論に近接する強力なレーザー・メスなのかも知れません。

このため、どのような障害も抵抗も排除し後世に引き継ぐ任務まさにミッションを帯びているのです。

古田武彦を失い何の情念も持たない既存の九州王朝論では、いずれ、他愛もないただの「邪馬台国九州説」に後退し、ほどなく通説派に取り込まれていくことになってしまうでしょう。

あくまでも、研究会とは研究者とそれをサポートする人々による団体なのであって、ただの「邪馬台国本読み」の愛好会では一生を賭して切り開いた古田武彦九州王朝論を継承する事は決してできないのです。

不正なアクセス制限を行うことから新規のブログの掲載を中止したひぼろぎ逍遥に対し新たに開始した新ひぼろぎ逍遥の三本立ての掲載は神社専門の ひぼろぎ逍遥(跡宮)が日量1100件程度、一月から開始した新ひぼろぎ逍遥が日量200件程度、閉鎖した旧ひぼろぎ逍遥が250件程度(昨日は何故か900件)と望外な成功を得ています。今後5年ぐらいで年間100万件まで成長するかも知れません。

今後とも宜しくご支援をお願いいたします。

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本当にようやくですが、青森〜東関東に掛けて4件、愛知県2件、高知県1件、大阪府2件、大分県5件、福岡県11件の合計25件のグループが形成されました。

この外にも、鹿児島県、福岡県、山梨県…からも新規に参加される方もおられ検討しています。

人材を残す必要から、テーブルに着いた神代史研究会も研究拠点として残す方向で動いていますが、今は多くの研究者の連携を拡げ、独立した研究者のネット・ワークを創り、現場に足を運んで自らの頭で考えるメンバーを集めたいと考えています。そのためには少々の雨も寒さも厭わぬ意志を持ったメンバーこそが必要になるのです。勿論、当会にはこのブロガーばかりではなく、著書を持つ人、準備中の人は元より、映像を記録する人、神社のパンフレットを集める人、伝承を書き留める人、blogは書かないものの、徹底してネット検索を行い裏取りを行う人、ただひたすら探訪を続ける人と多くのメンバーが集まっているのです。全ては95%が嘘だと言いきった故)百嶋由一郎氏による神社考古学のエッセンス残すためです。

なお、「肥後翁のblog」」(百嶋テープおこし資料)氏は民俗学的記録回収者であって民俗・古代史及び地名研究の愛好家 グループ・メンバーではありませんがご了解頂いています。この間、百嶋神社考古学の流布拡散に役立っており非常に感謝しております。

百嶋由一郎氏の講演録CD神代系譜、手書きスキャニングDVD等を必要とされる方は09062983254まで

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ