太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「百嶋神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログを継続しています。


これにはプロバイダーを含め何時情報封殺が行われるかも知れないため、最低でも複数の発信媒体を準備しておくべきではないかと考えているからでもあります。


今後ともかなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史によるblogひもろぎ逍遥に対抗しようという意図はないのですが、華麗なひもろぎ逍遥に対して、緋色のボロ着で、神籬=ひもろぎ(ひぼろぎ)を逍遥=彷徨い歩き、神社を探るというほどの意味で、「ひぼろぎ逍遥」を随時書いて行くことにしたものです。ただし、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象なども認められます。


 さて、現在、ひぼろぎ逍遥とひぼろぎ逍遥(跡宮)との合計のアクセス数は日量10001200件(年間4045万件)まで上がっています。


 同時に、連携する研究者によるblog20近くまで数を増やしており、全体では最低でも年間100150万件近いアクセス数を持っているものと思われます。


 当blogには九州王朝論から百嶋神社考古学へと向かわんとする多くの研究者、記録者、bloger…が参集されています。


 年に10回、10年でも高々100回程度の研究会でも大半は教育委員会関係者から学芸員といった利権まみれの方々通説を拝聴し心服するような、研究者亡き研究会は全く何の価値もないものと考えており、そのようなどこにでもあるような話を好まれる方々は、そこら辺りの既存の郷土史会、史談会に行かれ、村興し、町興し、世界遺産登録に拍手を送り、思いっきり尾を振られれば良いでしょう。


しかし私達は後ろ指を刺される様な探究に踏みとどまり、これまでの歴代の行政権力が隠し続けた真実の歴史の探求へと向かう人々への道標と成ろうと思うものです。




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2018年07月22日

ビアヘロ059 キリシタン史跡世界文化遺産登録に狂奔する列島文化の堕落を撃て

ビアヘロ059 キリシタン史跡世界文化遺産登録に狂奔する列島文化の堕落を撃て

20180630

太宰府地名研究会 古川 清久


長崎〜天草地方の潜伏キリシタン関連遺産 長崎の教会群とキリスト教関連遺産 ア津など潜伏キリシタン世界遺産へ ユネスコ機関が勧告…と行政から村興し町興しの見苦しくもさもしい運動が目に余るばかりの見苦しさを呈しています。

こういった運動をやっているのは上級官庁に尾を振る行政の長から議員は当然としても、教育委員会から郷土史家といった振れ込み人々なのでしょうが、こういった手合いは大体において大東亜戦では国威発揚の御先棒を担いだ人々でしょうし、幕府のキリシタン弾圧では時流に乗って真っ先に密告しお上に忠誠をたような種類の人々でありキリシタン弾圧に手を貸した人々であろうことは簡単に想像できるでしょう。

逆に、信念を曲げず信仰に死ぬキリシタンの精神性など一片もない連中に決まっているのでしょうが、ここでは純粋なキリシタンと弾圧の側に回った権力などといった安っぽい話をしようとするものではありません。世の中とは決してそのような単純な構造ではないのです。

 まず、ポルトガル宣教師たちが跋扈した戦国期から、豊臣政権下で徐々に強まる伴天連追放令、そして天草島原の乱以降、江戸期に何故キリシタンが禁制となり、金儲けだけを優先したオランダが慎重に貿易相手とされたのかが知らされていない中での愚行が、長崎〜熊本のキリシタン遺構のユネスコ認定となっている事を考えなければならないのです。

 多少、持って回った話をしましたが、個人的には豊臣政権から徳川政権に引き継がれたキリシタン禁教は実は全く正しかったと考えています。

 実は、私自身も明治期にアメリカから持ち込まれたプロテスタント系の某教団が経営する幼稚園に通い、クリスマス・キャロルで聖歌を歌いその教会で結婚式を挙げた者ではあるのですが、この事=江戸期の禁教については実に正しい対外政策を採ったものだと今も確信のような思いを持っています。

 この事によって日本は事実上の統一国家を打ち立て、独立性を保ち強力な武装(当時最大の鉄砲、大筒の保有国)の元、当時世界最高の教育水準と豊かさを保持する事になったのでした。

 では、キリシタンを擁護するかしないかを決め付ける前に、何故、そう言えるかを簡単に説明しておこうと思います。

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日本の婦女子をバダビアに売り飛ばしていたイエズス会系ポルトガル宣教師と貿易商人


 ほとんど知られてはないのですが、肥前、肥後にとどまらず豊後も含め大量の日本人婦女子がポルトガル船の船倉に入れられバダビア(インドネシア)などに売り飛ばされていたという隠された事実があるのです。この問題は以前も取り上げましたが、再度、取上げたいと思います。

 多くの情報が出ていますので、ヤフーでもグーグルでも 「ポルトガル宣教師」「人身売買」などでダブル検索を試みて見て下さい。後は、ご本人の判断にお任せいたします。

 こんなものはデマだとお考えになるのは結構ですが、そうだとしても自らが植えつけられているキリシタンへのイメージも所詮はマッカーサーの占領政府以来の事実上の検閲の結果与えられた餌のようなものでしかないはずなのです。


ポルトガルの奴隷貿易 アジア人の奴隷

ポルトガル人が日本人に1543年に初めて接触したのち、1617世紀を通じ、ポルトガル人が日本で日本人を奴隷として買い付け、ポルトガル本国を含む海外の様々な場所で売りつけるという大規模な奴隷交易が発展した。多くの文献において、日本人を奴隷にすることへの抗議とともに、大規模な奴隷交易の存在が述べられている。日本人の奴隷たちはヨーロッパに流れ着いた最初の日本人であると考えられており、1555年の教会の記録によれば、ポルトガル人は多数の日本人の奴隷の少女を買い取り性的な目的でポルトガルに連れ帰っていた。国王セバスティアン1世は日本人の奴隷交易が大規模なものへと成長してきたため、カトリック教会への改宗に悪影響が出ることを懸念して1571年に日本人の奴隷交易の中止を命令した。

ウィキペディア(20180630 19:16による


宣教師は奴隷商人と結託し、日本人を海外に輸出していた。これが豊臣秀吉を激怒させ、伴天連追放令にまで発展した。宣教師は決して布教に従事する平和的な存在ではない。

彼らは日本人の売買に関与し、秀吉はそれを止めさせるための交渉を行っていた。

戦国時代、合戦の後には捕虜の売買が日常的に行われており、人買いという商売も成立していた。豊臣秀吉は国内での人身売買を許さず、仲介人や船主を磔刑とした。秀吉の伴天連追放令は、人身売買の禁令を外国人にも発布したのと言えよう。秀吉の通訳であったロドリゲスは、死の間際まで秀吉は布教の話題を取り上げることはなかったと記している。

天文年間、弘治年間頃から主に九州の日本人、特に女性が宣教師によって海外に売られた。弘治元年十月(西暦1555年11月)、マカオの宣教師カルネイロは、多くの日本人がポルトガル商人に買われ、マカオに輸出されていると手紙に記した。やがて、宣教師らは人身売買が日本への布教を妨げると判断。それを受けたポルトガル国王は元亀元年三月六日(西暦1570年3月12日)、ポルトガル人が日本人の売買に関わることを禁止した。合わせて日本人奴隷の解放と、それに反する者の全財産を没収することが決まった。

このように一部の宣教師は人身売買に反対したが、イエズス会自体は人身売買を許可していた。国王の発布した法であっても拘束力は弱く、その後も日本人の売買は続いた。天正十五年、秀吉はコエリョに対し『五ヶ条の詰問』を叩きつけ、南蛮人が日本人を奴隷として売り買いし、他国へ『輸出』していることに激怒している。コエリョは日本人が奴隷を売るから買ったのだ、と反論。秀吉は南蛮人の奴隷売買を日本人が真似てしまったのだと言い返した。

この討論の直後、天正十五年六月十八日に伴天連追放令が発布された。同時に秀吉は、宣教師に海外に売られた日本人を直ちに帰国させるよう命じており、まだ日本の港にいる日本人奴隷は買い戻すよう命じた。慶長元年、イエズス会は奴隷商人への破門を議決。慶長二年四月、インド副王はポルトガル国王名で、日本人奴隷の売買、日本刀の輸出を禁じた。このようにイエズス会も日本人売買禁止令を出したが、従うポルトガル人は少なかった。…なぜこういった歴史を教えないのですか?

YAHOO知恵袋による


【黒歴史】イェズス会は奴隷貿易の先鋒だった説【人身売買】

日本の場合

16世紀から17世紀にかけての日本は大航海時代を迎えて列強となったポルトガル、スペイン、オランダ、イギリスなどのヨーロッパ諸国から、東南アジアにおける重要な交易相手としてだけでなく植民地維持のための戦略拠点としても重視された。

海に面した各地の諸大名が渡来する外国船から火薬などを調達し、(中略)日本からは輸出品:硫黄、銀、海産物、刀、漆器、そして日本人も奴隷として輸出されていた。

鉄砲や火薬の大きな需要を作り出しただけでなく、教会は宣教事業を大名たちに保証させたし商人は利潤の上がる奴隷売買にまで取引を広げていくことができた。

その結果として、彼らは東アジア地域の奴隷市場の拡大とその移送ルートの確保を見事達成した

イエズス会宣教師が絶賛した織田信長の所業とは 戦国九州奴隷貿易の真相に迫る(3)

ポルトガル商人はイエズス会の宣教師を介して対立する大名間の戦闘には鉄砲などの物資を一方に提供する手法でその軍事的バランスを巧妙に操っていた。

有馬や大村、大友のキリシタン大名がまさにそれである。

1560年代以降、イエズス会の宣教師たちは、ポルトガル商人による奴隷貿易が日本におけるキリスト教宣教の妨げになり、宣教師への誤解を招くものと考えた。

無題.png日本での奴隷貿易禁止の法令の発布を求めており、1571年には当時の王セバスティアン1世から日本人貧民の海外売買禁止の勅令を発布させることに成功した。

豊臣秀吉の伴天連追放令

1587年(天正15年)724日、豊臣秀吉は九州討伐の途上で当時のイエズス会の布教責任者であった宣教師ガスパール・コエリョを呼んで人身売買と宣教師の関わりについて詰問、即日奴隷の売買を含む南蛮貿易の禁止とキリスト教の布教を禁じるバテレン追放令を発布した。

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実はカトリックの司祭ではなく新教の牧師さんも証言されているのです。以下一部ですが紹介します。


日本の歴史教科書はキリシタンが日本の娘を50万人も海外に奴隷として売った事は教えないのはなぜか?                                 2006127日 金曜日

◆日本宣教論序説(16) 2005年4月 日本のためのとりなし

わたしは先に第4回「天主教の渡来」の中で、日本におけるキリシタンの目覚ましい発展と衰退の概略を述べました。しかし、ここではキリシタンがたどった土着化の過程について考察してみたいと思います。後で詳しく述ぺますが、わたしの先祖はキリシタンでありました。わたしは伊達政宗の領地であった岩手県藤沢町大籠(おおかご)地区での大迫害で生き残ったかくれキリシタンの末裔です。

今はプロテスタントの牧師ですが、わたしの中にはキリシタンの血が流れていると思います。三年前の夏、父の郷里藤沢町を初めて訪問してこの事実を知ってから、キリシタンについてのわたしの関心は以前より深くなりました。そしてキリシタンについての知識も少し増えました。四百年前のキリシタンを知ることが現代のわたしたちと深く関わってくると思いますので、先ず追害の理由から始めたいと思います。

1.キリシタン遣害の理由

宣教師ルイス・フロイスが暴君と呼ぶ豊臣秀吉が「伴天連(ばてれん)追放令」を発したのは、1587724日(天正15619)でした。これは天正(てんしょう)の禁令として知られる第1回のキリシタン禁止令です。それ以後徳川時代にかけて、次々に発せられた禁止令の理由をまとめると、次の五つになるでしょう。…中略…

(2)奴隷売買

しかし、アルメイダが行ったのは、善事ばかりではなく、悪事もありました。それは奴隷売買を仲介したことです。わた〕まここで、鬼塚英昭著「天皇のロザリオ」P249257から、部分的に引用したいと思います。

「徳富蘇峰の『近世日本国民史』の初版に、秀吉の朝鮮出兵従軍記者の見聞録がのっている。『キリシタン大名、小名、豪族たちが、火薬がほしいぱかりに女たちを南蛮船に運び、獣のごとく縛って船内に押し込むゆえに、女たちが泣き叫ぴ、わめくさま地獄のごとし』。ザヴィエルは日本をヨーロッパの帝国主義に売り渡す役割を演じ、ユダヤ人でマラーノ(改宗ユダヤ人)のアルメイダは、日本に火薬を売り込み、交換に日本女性を奴隷船に連れこんで海外で売りさばいたボスの中のボスであつた。

キリシタン大名の大友、大村、有馬の甥たちが、天正少年使節団として、ローマ法王のもとにいったが、その報告書を見ると、キリシタン大名の悪行が世界に及んでいることが証明されよう。

『行く先々で日本女性がどこまでいっても沢山目につく。ヨーロッパ各地で50万という。肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない。鉄の伽をはめられ、同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、もともとなれど、白人文明でありながら、何故同じ人間を奴隷にいたす。ポルトガル人の教会や師父が硝石(火薬の原料)と交換し、インドやアフリカまで売っている』と。…以下も重要な話が書きつづられています。


 長々と引用させて頂きましたが、この牧師が書かれた話は10年前にも読んだ記憶があります。

 当時も今も最も良く整理されているものと考えますので、検索の末、以下も是非お読み頂きたいと思います。

 まず、戦国時代、日本は直ぐに鉄砲を自給自足できるような高い技術を持つ国ではあったのですが(当時世界最大の鉄砲所有国)、黒色火薬の材料である硝石だけが自給できませんでした。

火山列島の日本は硫黄と木炭は潤沢にありましたが、硝石(硝酸カリウム)は僅かしか手に入らず、火薬一樽に対して婦女子が50人といった比率でポルトガル船に押し込められて奴隷貿易が行われていたのです。

その背景にカトリックが入った長崎、熊本、大分などでは、貧しい上に間引きをさせず、神からの授かりものとして許容力以上に子供が増え、大量に余った婦女子が輸出される構造がつくり出されたのでした。

 要は、アフリカからの黒人奴隷売買にスペイン、ポルトガル人宣教師が関与し、嵐で沈没しそうになった時には鎖に繋がれた奴隷がそのまま時化の海に放り込まれたり、伝染病に犯された奴隷がそのまま海に捨てられたりといった人非人であった事は良く知られていますが、アジアに於いてもポルトガル宣教師が関与し、小規模なと言っても大西洋の三角貿易の十分の一の一説35万人とか50万人といった話らしいのですが、これが神の遣いとするルイス・アルメイダとかヴァリニヤーノとかコエリヨのやったことであり、そもそもイエズス会とかカトリックの神父などといった連中はミッションを帯びた修道僧などと美化されてはいるものの、ただの奴隷商人の手先に近いものでしかなく、植民地支配の一翼を担った悪魔のような連中だったのです。

こうして今も日本の血をひいた人々が東南アジアからスペイン、ポルトガルに生きているのです。

 こういった歴史を知ってか知らずか(村興し町興しの調子者どもはどうせ知識を持ってなどいませんが)

この奴隷商人どもの手先でしかなかったキリシタン伴天連の尻尾に成り下がっているのです。

 そもそも、欧州の不良貴族の成れの果てどもが勝手に作ったユネスコなどと言うイカサマ団体には何らの正統性も権威も清廉さも中立性も存在しない非公共機関なのであって、こんな連中に拝跪し“世界遺産登録を宜しくお願いします“など、もろ手を挙げて大騒ぎする等恥知らずも良いところなのであり、ましてや、”キリスト教関連遺産ならユネスコに採用されやすいだろう”とロビイストなみに工作に狂奔する等(まさか賄賂などは贈っていないでしょうが?)、日本人としての知性も誇りなど欠片さえ持っていないのです。

 こいつらにはキリスト教への信仰心よりも地域振興への税金散布や公共事業費に興味があるのであって、キリシタン大名が次々と名乗りを挙げたように、文化遺産の保護さえも真面目には考えてはいないのです。

 このポルトガル宣教師がやった人非人にも劣る行為とイエズス会=カトリックのアジア人を畜生としか考えていない残虐性は現在も尚継続しているのですが、日本は文明開化の過程でロスチャイルドなどユダヤ金融資本が動かす大英帝国や米国に気兼ねして、決してキリシタン伴天連どもが行った残虐な事実を公表しようとも教育しようとも正そうともしていないのです。

 それが、現在もなお国際金融資本に日本の富が強奪され続けている原因であり、お人好しの日本人は、ただの金づるとしてユネスコと言う公共性も正統性もない団体に操られ続けているのです。

 日本人には一片の誇りも独自性もないのでしょうか?村興し町興しの愚か者どもをこそ軽蔑しなければならないのです。


日本人女性がポルトガル人やその奴隷に買われた時代 しばやんの日々も是非…

 無題.png前回の記事で、伴天連らが日本で布教活動を行なっていることは、わが国を占領する意図があることを秀吉が見抜いていたことを書いた。

中学や高校で学んだ歴史の教科書には宣教師らが渡来してきた目的がわが国の占領にあったなどとはどこにも書かれていないが、この当時のローマ教会やわが国に来た宣教師などの記録を読めば、かれらは単純にキリスト教を広めることが目的ではなかったことが容易に理解できる。

…中略…

…「神の僕の僕である司教ニコラスは、永久に記憶されることを期待して、以下の教書を送る。…

 以上に記した凡ゆる要件を熟慮した上で、我等は、前回の書簡によって、アルフォンソ国王に、サラセン人と異教徒、並びに、キリストに敵対するいかなる者をも、襲い、攻撃し、敗北させ、屈服させた上で、彼等の王国、公領、公国、主権、支配、動産、不動産を問わず凡ゆる所有物を奪取し、その住民を終身奴隷に貶めるための、完全かつ制約なき権利を授与した。

 …ここに列挙した凡ゆる事柄、及び、大陸、港湾、海洋、は、彼等自身の権利として、アルフォンソ国王とその後継者、そしてエンリケ王子に帰属する。それは、未来永劫迄令名高き国王等が、人々の救い、信仰の弘布、仇敵の撲滅、をもって神とみ国と教会に栄光を帰する聖なる大業を一層懸命に遂行するためである。彼等自身の適切な請願に対し、我等と使徒座の一層の支援が約束され、神の恩寵と加護がそれを一層鞏固なものとするであろう。

我が主御降誕の145418日、ローマ聖ペトロ大聖堂にて、教皇登位第8年」(『カトリック教会と奴隷貿易』p.76-77)

文中の「アルフォンソ」はポルトガル国王であったアルフォンソ5(在位:14381481)だが、この教書の意味することは重大である。ポルトガル国王とその伯父のエンリケ航海王子に対して、異教の国の全ての領土と富を奪い取り、その住民を終身奴隷にする権利をローマ教皇が授与しているのである。

…中略…


ルイス・フロイスの1588年の記録によると、薩摩軍が豊後で捕虜にした人々の一部は島原半島に連れて行かれて「時に四十名もが一まとめにされて、売られていた。肥後の住民はこれらのよそ者から免れようと、豊後の婦人や男女の子供たちを、二束三文で売却した。売られた人々の数はおびただしかった。」(「完訳フロイス日本史8」中公文庫p.268)と記されている。

キリシタン大名は日本人奴隷を売った金で、火薬の原料となる硝石を買い込んだようなのだが、その硝石が後に島原の乱で江戸幕府との戦いに使われたという。島原の乱については反乱軍の兵器の方が討伐軍よりもはるかに優位にあり、犠牲者も討伐軍の方が大きく、単純に農民一揆と分類されるような戦いではなかったのだが、この乱については別の機会に書くことにしたい。


この日本人婦女子の奴隷貿易にポルトガル宣教師が大きく関わり、所謂、キリシタンに帰依した大名もが、その事を知った上で関わっていた事がほとんど知らされていないのは、明治維新によってキリシタン禁教を続けて来た幕藩体制を悪く言いたいと言う要請と、維新を支援してくれたキリスト教圏を批判しないと言う配慮が存在した上に(明治維新もユダヤ金融資本の誘導が背後にある)、大東亜戦争の敗北による九年間のマッカーサーの占領政策によって敷かれた言論界と政権そのものがキリスト教圏を批判できないし批判しない(今でも天草島原の乱は幕府が非人道的な虐殺を行なったというのが定説化されている)という事に気付くはずなのです。

そして、かつてならキリスト教弾圧に率先して手を染めたような、さもしくも時流に乗ろうとする人々によって、今またキリスト教史跡の世界遺産登録に狂奔しているという恥ずべき事実に戦慄をさえ感じるのです。


今こそ日本の独自の文化と歴史を守るために村興し町興し世界遺産登録運動を排斥すべきなのです!

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 10:22| Comment(0) | ビアヘロ

2018年07月16日

ビアヘロ 055 「 天 皇 」 と 「 元 号 」〜自立王朝の創始宣言〜

ビアヘロ 055 「 天 皇 」 と 「 元 号 」〜自立王朝の創始宣言〜

金澤 弘毅(札幌市)


 二〇一九年四月に現在の天皇が退位され、翌五月に皇太子が新しい天皇に即位されることになりました。これに伴いこれまでの「平成」の元号も改められ、新しい元号(年号)となります。

 長い年月に培われ継続されてきたことゆえ、それでよしとするとしても、「天皇」という称号と地位や「元号」の始まりなど、その成りたちが全くわかりません。いつの時代に、どんな事情で、なにに由来して、誰が決めたのか、公式記録もなく公式見解もないまま定着してしまったようです。既成事実≠セけが何となく居座ってしまうこの国特有の風土なのでしょうか。昨今の政治問題にもみられる決定と進行の不透明さとよく似ています。

 この「天皇」と「元号」の出自の曖昧さにも、私は大和王朝に先行する王朝が存在した影≠感じとることができます。

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▼王者の称号としての「天皇」

 中国の神話では、天地開闢には盤古という神が、人間創生には女媧という神が登場します。そして『十八史略』には、この天地開闢と人間創生の時代に人間世界を治める帝王として、天皇氏・地皇氏・人皇氏がいて、住居を作った有巣氏と火を使って食事をすることを発明した燧人氏が人間生活を進化させたと書いています。このあと帝王は三皇(伏羲・神農・黄帝)から五帝(少昊・顓頊・帝嚳・帝堯・帝舜)へと神話伝説の時代が続きます。

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盤古            神農           舜帝


 歴史時代に入って「夏」「商(殷)」「周」の各王朝の王者は、権力の象徴である鉞(まさかり)の象形文字「王」を名のります。そしてこれらの王者は、天帝から地上を治める使命を与えられた者として「天子」と呼ばれます。

 最初に「皇帝」の称号を創造した秦の政王は、自ら三皇五帝を超えるものとして「始皇帝」と称しました。紀元前三世紀晩期のことです。

 「天皇」という日本列島での最高位の称号は、その漢風な字態からして出典が中国に由縁すると推測できますが、その動機も意義も始めた時期も全くわかりません。天皇家の大和王朝史である『古事記』『日本書紀』『続日本紀』も、この件については何も語ってくれません。この列島を代表する王者の称号なのにです。

 恐らく天地と人間の創生期の帝王のひとり、天皇氏に因んだものではないかと推測できますが、あるいは倭国の王者が阿毎(あま=天)氏を名のっていることにも関係するのかもしれません。いずれにしても中国の皇帝(天子)に対等を主張するに等しい「天皇」を称することは、内外に波紋を投ずる重大な国家意思の表明です。自立王朝の創始を宣言する行事が催されて当然のことで、天神地袛を祀る国家祭祀が行われ盛大な典礼が挙行されて、正史に記録されるべきことです。それが大和朝廷の記録にないのです。

 もし「天皇」の称号が、近畿ヤマト政権の創造で大和朝廷だけの固有の称号だとするならば、その意義と由来、創始の時期の記録がないことなど考えられず、不思議でおかしな現象というべきことです。当家に記録がないということは、その発祥創成に関与しておらず他からの継承か奪取によるものではないか、と疑われもしかたがないことです。ということは、大和王朝の王者の称号として「天皇」が定着する前に、既に別な権力者が「天皇」を称していた可能性は排除できないことになります。

 私はここにも、前王朝(九州王朝・倭国)が存在した影≠認めることができるのです。これは多元的史観による複眼的観察者としては当然の帰結で、最近の政権が質問封じに使う印象操作≠ネどという言葉では片づけられるものではありません。


▼「天子」ということ

 私が軍国教育を受けた小学校(国民学校初等科)三年までの幼少期、天皇陛下は「天子さま」でした。敗戦とともに昭和天皇が「人間宣言」をされ、新しい憲法で「象徴天皇」という位置づけになりました。戦中戦前の天皇は神さま同然だったのです。

「天子」とは「天帝の子」の意味で、天帝から地上を治める使命(天命)を授けられた王者のことです。王者に徳がなく治政が乱れると天命が革(か)えられ、王者は別な王者に変えられて王朝も交代します。これが「革命」の語源です。

 六〇七年に隋王朝に遣使をした倭国王の多利思比孤は、自分のことを「日出ずる処の天子」と称し隋の皇帝を「日没する処の天子」と表現して、隋の煬帝の機嫌を損ねました。しかしこれは倭王の単なる強がりなどではなく、立派に理由のあることだったのです。この時の倭国は既に自立して中国王朝の支配下になかったからです。

 三一六年に晋王朝は北方の異族に侵入され亡びます。王族が南遷して東晋を建国しますが、中原から北部一帯は五胡十六国の乱世を経て北朝が形成され、六世紀末まで南北朝時代が続きます。倭国は南朝を正統として六世紀初頭まで臣属してきますが、五一七年に独自の元号を建てて自立します。五八九年に北朝の隋が南朝を亡ぼして中国の統一王朝となりますが、倭国は南朝の帝業を継ぐ者としての大義名分の立場から、隋王朝に対等の地位を主張したのが「日出ずる処の天子…」の国書(外交文書)だったのです。

 こうした歴史の流れをみると、「天子」を自称した倭国の王者が中国の皇帝に対抗できる「天皇」を公称していた可能性があります。ところで「天子」を称したこの倭王が妻妾をもつ男性であるのに、この時の近畿ヤマト王権の王者は豊御食炊屋姫(トヨミケカシキヤヒメ=推古)という女性でした。ここから隋に使臣を遣わした倭国王が近畿ヤマト王権の王者ではないことが明らかになります。同時に何世紀も日本列島を代表してきた倭国がヤマト政権とは別な権力中枢であったことにもなります。従って「遣隋使は小野妹子」としてヤマト政権の実績としてきた史学界の定説≠ネど吹き飛んでしまいます。


▼「元号(年号)」のこと

 二〇一九年五月に新天皇の即位に伴い改元され、年号も新しくなります。

 これに関連する報道や解説・論評の全てが、わが国の最初の年号は六四五年の「大化」であるとしています。『日本書紀』に最初に登場した年号というだけが根拠のようです。そこには他の文献との照合・検証・公開論議の跡がみられません。

 年号には次のような意味があります。

(1)建元(元号を建てること)は中国の帝王(天子)の専権でした。時間と暦を支配統御することを意味します。

(2)臣属国や縁辺国が独自の年号をもつと、討伐の理由にされる恐れがありました。

(3)独自の年号をもつことは、その国が中国王朝の支配を離れ、自立して独自の王朝体制となったことを宣言したものとみなされます。

(4)王朝創始により建元された年号が断絶することなく続くことで、その王朝の継続が確認されます。

 もし六四五年の「大化」が本当に最初の年号であるならば、次の三点の疑問に納得できる解答ができなければなりません。

@  その前後に、王朝創始と建元の詔勅やその儀式典礼の記録が全くないこと。

A  七〇一年の「大宝」までの間に無年号の時代が長期間あること。

B  六〇七年に倭国王は既に「日出ずる処の天子」を自称していますが、自立王朝の証しである年号がヤマト政権の記録にはなかったこと。

 鎌倉時代編纂の古文書『二中歴(掌中歴・懐中歴)』に「九州年号」と呼ばれる年代歴があります。五一七年の「継体」から六九五〜七〇〇年の「大化」までの間、31個の年号が切れ目なく続き、七〇一年の大和王朝の年号「大宝」へとつながります。

 「九州年号」が九州王朝倭国が施行したものとするならば、前の三点の疑問も解けてきます。@は、倭国での記録が滅亡に際して亡佚したか、後継の大和王朝により抹殺(七〇八年の禁書刈り=jされた可能性があります。Aは、倭国滅亡による政権交代≠ワで切れ目なく年号が続いています。Bの六〇七年は九州年号の「光元」年間で、『書紀』の六四五年からの「大化」は九州年号の「命長」から「常色」年間に当たります。「天子」に対応する年号は、九州倭国では施行されていたことになります。

 日本列島で最初に施行された年号は五一七年の「継体」です。中国南朝の帝業を引き継ぐ自負と誇りが伝わります。史学界の定説≠謔閧煦齠〇年以上も昔です。

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九州年号 二中歴(掌中歴と懐中歴)


▼「天皇」という称号も「元号(年号)」も中国王朝との関係から理解しなければなりません。いずれも中国王朝の支配から自立して、独自の王朝体制を宣言する用語であったのです。当時の東アジアの国際情勢の中で、とても重要な意味をもつ政治的用語でもあったわけです。

 こうして考察を進めると、「天皇」も「元号(年号)」も大和王朝の創造ではないことが推断されます。別なところの別な王者の創造と施行、と考えられるのです。倭国(九州王朝)は、七世紀後期に介入した朝鮮半島の戦争に大敗して衰弱滅亡します。隠蔽されてきた「九州年号」が真実の歴史≠証言しています。

 「天皇」の称号は六世紀に九州倭国の王者が創始して、七世紀末期か八世紀初頭に大和朝廷が政権交代≠ノよりこれを引き継いだものだろう、と多くの研究者が考えています。私もそのひとりです。従って、長い間地方政権のひとつだった近畿ヤマト王権の始祖王まで遡り、神武天皇、仁徳天皇、雄略天皇などとその時代にはなかった「天皇」号を、全ての王者につけて平気な顔をしている史学界、教育界、言論界の見識の低さに、私は失望しています。


 わが国の歴史認識≠ヘ、近隣国に難癖をつけられるまでもなく、まだまだ未熟なようです。


 「天皇」と「元号」〜自立王朝の創始宣言〜  金澤 弘毅(札幌市)の掲載について


「ひぼろぎ逍遥」編集員 古川清久


今般、北海道の金澤さんから原稿を頂きました。

と、言うよりも、当方からお願いして掲載をお勧めしたのですが、金澤さんとは当方のフィールド・ワークの過程でひょんなことからお知り合いになったのですが、まだ、福津市の宮地嶽神社でお会いしただけの関係でしかありません。

当然ながら、北海道という土地柄から、所謂、文献史学派の研究者のお一人と言う事になるでしょう。

さすがに、北海道から九州王朝の現場の探訪など頻繁に行えるはずはなく、勢い文献史学に向かわざるを得なくなることは必然的で、厳冬期に家の中に閉じこもらざるを得ない北の国の方のこと、それだけ文献に向かい合う情熱は高まり知識を蓄えられている事と思います。

以前、同じく九州王朝を探究する仲間として、ご著書を頂いてもおります。

まだ、通販で手に入れることは可能のようですので興味をお持ちの方は試みて頂きたいと思います。

先方のご意向にもよりますが、今後も論文掲載をお受けできるのではないかと考えています。

今回は、本原稿の縦書きを横書きに変更して掲載する事にしました。

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異説古代史疑 平成私本書紀


金澤さんは札幌市にお住まいです。札幌に於いて九州王朝論の立場から列島の古代史を探るにはそれなりのご苦労があるのではないかと思いますが、冬に雪や氷に閉ざされる北海道のこと、その分研究にとっては拍車がかかるものとも考えております。

今後とも北の大地から九州の古代を探って頂きたいと思うものです。

さて、良く知られた「舜帝」は別にして、「盤古」は犬祖伝説と併せ内倉武久氏が取り上げられ、中国の少数民族地帯と南九州との関係を探求されておられます。

これに対してあまり馴染みがないのが「神農」神です。

中国大陸には今も「神農」神信仰(神農農薬研究所…ほか)があると聞き及んでいますが、実は、しばらく前まで我が列島内でもけっこう見掛けられていたのです。

「神農」は医療と農耕の知識を古代の人々に広めたとされており、それは最古の本草書とされる『神農本草経』に象徴されていると言います。

土地を耕し五穀をまき、農耕を伝え、また、薬となる植物の効用を知らせたとされています。

そして、農具や農薬や薬草などが市場などで取引され、彼らも薬草を売ったそうです。

このためか日本でもお祭りの時に神社の参道などで露天商がこの神農様のお札を屋台の端などに吊るしていたそうです。

的屋の寅さんが吊るしていたかは分かりませんが(的屋と香具師=ヤシとは別なのかも知れません)、縁日の露天商のある種の人々がこの神農様のお札を吊るす風習を持っていた…と言うより、そういった人々が大陸から渡って来て商売をする利権(ある種の特権)を持っていたのではないかと考えています。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 01:17| Comment(0) | ビアヘロ