2026年05月11日

ビアヘロ 261 新ひぼろぎ逍遥 1164 の先行掲載 ひぼろぎ逍遥1164 消えた神功皇后 = 本稿は後日ひぼろぎ逍遥(跡宮)に掲載の予定です

ビアヘロ 261 新ひぼろぎ逍遥 1164 の先行掲載

ひぼろぎ逍遥1164 消えた神功皇后 = 本稿は後日ひぼろぎ逍遥(跡宮)に掲載の予定です

20260421

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


❶ 堀切玉垂神社(現仁神社) みやま市瀬高町河内31443


一言で言えば、高良玉垂命=第9代開化天皇と仲哀死後の神功皇后とが夫婦であった事を今に伝える神社です。まず、同社正面の肥前鳥居にも驚きますが、社殿の荘厳さに圧倒させられます。

高良大社は高良玉垂命=第9代開化天皇を祀るも開化の名と神功皇后を消し、宮地嶽神社は神功皇后を祀るも高良玉垂命=開化天皇を隠し、九州王朝のシンボルであった二つの巨大神社を引き裂き、阿蘇氏=後の藤原氏に乗っ取られた近畿王権は、九州王朝の痕跡を消し去ったのでした。

無題.png


ただ、以下をご覧ください。日本国政府が公的に発表する際のシンボルが五七桐紋ですが、これは天皇家の皇族でも天皇家の一族を表し、五三桐紋は天皇家と姻戚関係を結んだものの使用できる紋章なのです。つまり、五七は高良玉垂命、五三は神功皇后を表しており、かつては両者を表すかなり大きな等身大クラス(誇張過ぎかも知れませんが)の人形が祀られていたのでしょう。開化隠しは進駐軍対策だと思いますが、玉垂隠しの後、今から178年前に神功皇后も隠されたようです。

 元は、神功皇后様がお祀りされていたのですが、2014年中に移されているようです。

 神功皇后であることは玉垂宮とも呼ばれており高良玉垂命(第9代開化天皇)が祀られている事は明らかであり、現在でも天皇家の紋章である五七桐紋と五三の桐紋が置かれている以上、天皇家と天皇家の姻戚関係に在る一族である以上、神功皇后であることは間違いがないのです。

 当会のメンバーで「高良玉垂宮神秘書」を読みこなしているメンバーは今もかなりおられま無題.png無題.pngすが、山川町郷土史会の研究もさることながら、第8代孝元天皇を祀るのが高良下宮社であり、開化天皇と仲哀死後の神功皇后が夫婦であったことは確実なのです。

無題.png
無題.png

聖母宮とは神功皇后を祀る神社であり、最も規模が大きいものは熊本県山鹿市の聖母八幡宮です。

通説は応神天皇の母との触れ込みですが、とんでもない大嘘で、長子が仁徳天皇=シレカシ命以下、朝日豊盛、暮日豊盛…など、高良玉垂命と神功皇后の実子5人と皇后の連れ子4人の9人を祀る神社が九躰皇子を祀る九体神社(みやま市高田町岩津897)に後で参拝します。

これら久留米の高良大社に残された「高良玉垂宮神秘書」を読まれればお分かり頂けます。

詳しくは、ひぼろぎ逍遥 055 みやま市河内に超高格式の玉垂宮が存在する を先に読まれると分かられます。 153 超高格式瀬高玉垂宮の神功皇后像が消えた “みやま市河内の高良玉垂の宮”

 付近にある聖母宮と玉垂宮が隣接すること自体も、お二人が夫婦であったことを示していますし、「宮神秘書」14pにもはっきり夫婦と書いてあります。

さらにグーグル・マップを見ると面白い事実に気づきます。矢部川を渡るとそこは柳川市です。勿論、古代には柳川市は海の底で中世の藤原純友の弟純乗が有明海の通商破壊戦で活躍した時代に芦原や島ができる巨大な湿地帯になるのですが、この事から、柳川側が新興地である事が分かります。

そこに応神天皇を祀る鷹尾神社、大和町鷹ノ尾地区が在ることからも、後発地帯に藤原の息の掛かったエージェントの応神が防衛線を引くかのように立塞がっているのが良く分かります。

無題.png

鷹とか隼で応神天皇を表現していますね。「古事記」でも隼別(ハヤブサワケ)で表現していますね。

宇佐の境外摂社が鷹居社ですし、京都など隼神社は誉田別尊を祀ります。福岡県小郡市の横隈隼鷹神社外多くの例が在ります。


 ❸ こうやの宮(磯上物部神社) みやま市瀬高町太神1674

無題.png
無題.png

百嶋由一郎最終神代系譜(部分


無題.pngこうやの宮なる奇妙な名の神社がある事は良く知られていますが、神社研究を怠ってきた古代史家には何のことだか分かっておられないようです。騎馬民族風の武人の人形が七枝刀の様なものを持っていますが、磯上物部神社の名の通り、7代孝霊天皇のお后である卑弥呼宗女伊予=細姫に対して兄(ウマシマジ)から贈られたもので、こうやの宮が別名磯上物部神社と呼ばれている事からも推定が可能です。

 ニギハヤヒ=山幸彦=猿田彦=彦火々出見…と伊勢の外宮様(辛国息長大姫大目命)との間に生まれたのがイヨでその伏見稲荷でもある物部を象徴する女神を后としたのが孝霊天皇になるのです。良く七枝刀を手にする女神を卑弥呼と誤っている方がおられますが、卑弥呼宗女イヨ様なのです。何でも卑弥呼に仕立てたがるのは商売目的ですね。

 我々百嶋神社考古学の者にとってはこのこうやの宮を含む旧瀬高町一帯は九州王朝の王族の居留地、パレスと考えてきましたが、この地に残されていた宝物は奈良に差し出さされ、その痕跡を残すためにこうやの宮が造られたものと考えています。

暫く前まで、この地には田中神社が在り(現在も残っているのかも知れませんが)、恐らくその一族が保管していた物と考えています。故)百嶋由一郎はこの地には五七桐紋を持つ田中姓の方がお住まいに成っており恐らく孝霊天皇、イヨに繋がる一族だろうと申していました。、


以前、「ひぼろぎ逍遥」055 みやま市河内に超高格式の玉垂宮が存在する 20140327 において、旧瀬高町に鎮座する超高格式玉垂宮について書いています。



詳細を知りたい方には055の全文をお読み頂くとして、そこでは、概略このように書いていました。

(中略)

写真は九州王朝論者の間にも殆ど知られていない玉垂神社です。


辺りは一面の水田地帯でしかなく、森を探せば辿り付けますが、どうしてこのような所にこれほどの高格式の玉垂宮があるか大変不思議に思えます。

有明海沿岸道路に近接する大牟田市の黒崎の先端に玉垂宮があるように、古代にはこの地も有明海に突き出した岬だったのかも知れません。

無題.png非常に興味深いことにここに住む人のほとんど全てが物部氏を思わせる河野姓です。 

また、七支刀で著名な太神宮こうやの宮にも近く、正面には七世紀に起源を持つかと思わせる肥前鳥居が現存しています。皆さんも一度訪ね見られてはいかがでしょう?

「この神社こそ、玉垂宮の原型を今に留める高格式の玉垂宮であり、本当の祭神がそのまま残されている」と教えてくれたのは、例の故神社考古学者でした。

(中略)

まず、このような場所に、なぜ、これほど多くの大きな社殿が立ち並んでいるのでしょうか、勿論、それは後世の事としても、山門(神社の場合は山門とは呼ばないでしょうが)屋根にも、本殿の屋根にも五七の桐、三五の桐が描かれています。

 ただならぬ神社であることは一目で分かりましたが、重要なのは神殿の御簾の中です。

 打上式の御簾の内側には一体の女神像が置かれ三五の桐の神紋が飾られています。

 もう一つは、五七の桐の神紋だけが飾られています。恐らく、元は男神像もあったのでしょうが、何時の時代かに外されたのだと思います。

 つまり、五七の桐、三五の桐を象徴とする夫婦神、つまり、高良玉垂命と神功皇后が祀られているのです

 神功皇后は仲哀天皇の妃というのは正しいのですが、その期間は極めて短く、その後はずうっと死ぬまで添い遂げていると言うのがその理由で、その痕跡は、高良大社で販売(\10,000)されている「高良玉垂宮神秘書」(コウラタマタレグウジンヒショ)にあります。

 これこそが、日本の古代の最大の真相であり、記紀をそのままに信じられない理由なのです。詳しくは別稿としますが、ここでは、現場にはこういう歴史の宝物が落ちていることをお知らせするにとどめます。

無題.png

みやま市玉垂宮正面の肥前鳥居


さて、122021日に掛けて行った益城町トレッキングの帰路、多久市在住の神社研究者のA氏を同社にお連れしたところ、神殿に鎮座されているはずの神功皇后像がありませんでした。

当然にも神社側のご判断で保管のために移されたものと考えますが、その背後に、その筋(神社庁)の意図が透けて見えた思いがした瞬間でもありました。

当方もこの貴重な神社資料が散逸することを恐れ、後世に伝えるためにも重要と判断し、少しでも多くの方が参拝され多少とも神社の経営に寄与できるようにと考えた事から、そのまま保存される事を期待し、当時も御神映を公表することを控えていました。

しかし、このような事が起こる事になれば、非常に悲しい事ですが真実をお伝えする必要があるものと思慮いたします。

数年前の瀬高町トレッキング当時も、四十人近い多くの方が参拝され(お賽銭も入れられるように小呼び掛けもいたしました)確認されていましたが、その中の方からお借りしてお知らせしたいと思います。

無題.png

打上式の御簾の内側には一体の女神像が置かれ三五の桐の神紋が飾られています。

 もう一つは、五七の桐の神紋だけが飾られています。恐らく、元は男神像もあったのでしょうが、何時の時代かに外されたのだと思います。

 つまり、五七の桐、三五の桐を象徴とする夫婦神、つまり、高良玉垂命と神功皇后が祀られているのです


と書いただけで、映像の公表は保留しておりましたが、お分かり頂けた事と思います。

高良玉垂宮神秘書」の断片を掲載していますが、この記述を裏付ける言わば物証がこの瀬高玉垂宮であり、高良玉垂の命の妃は、「記」「紀」で仲哀天皇の妃で応神天皇の母親とされる神功皇后なのです。

なお、五七の桐、三五の桐は、それぞれ高良玉垂命と神功皇后の神紋であり、一族としては、木瓜紋、住吉の神紋が使い分けられていたようです。

また、高良玉垂宮神秘書」では、第八代孝元天皇の三男=月神=底筒男命が神功皇后の夫であり、表筒男命=大川風浪宮の安曇磯羅が神功皇后の妹である豊姫の夫となります。

この関係については、百嶋最終神代系譜と「高良玉垂宮神秘書」と間に一分食い違いが認められ、「高良玉垂宮神秘書」では神功皇后の二人の妹の豊姫が宝満大祝と、もう一人が佐賀県の淀姫神社の大祝となったとされるのに対して、百嶋神社考古学では、安曇磯羅の妃がウガヤフキアエズの子である逆賊河上タケル(熊襲)の妃が豊姫(ユタヒメ)=淀姫とします。その理由は分かりませんが、今後も検討作業が必要でしょう。

いずれにせよ、この辺りに古代史の最大の謎、九州王朝の消滅、正当皇統の廃絶、新興勢力による歴史の改ざん、欠史八代問題、応神の系統による九州王朝隠しの理由が存在しているようです。

だからこそ、どのあたりからかは不明ですが、正しい歴史を消そうとする人々が存在している事だけは事実のようです。

どうやら、私達の探求は猛獣の尾を踏み始めたようです。逆に、真実の一端を垣間見た思いがします。

私達はこのような真実が隠される事に怒りは感じません。そうしなければ身の保身が叶わぬ人々を哀れとも情けないとも思う限りです。

真実を明らかにしなければ信頼を失うのは世の常であり、神社への尊崇の念は益々潰え去る事になるでしょう。

百嶋翁からお聴きして手探りで始めた神社調査でしたが、私達の調査の方向が正しい事を逆に証明された思いがしています。

現在、牛島稔太氏のHPや当方のブログなどを経由して本当の神代、従って真実の歴史を知りたいと考えられている方々から直接お話しを聴きたいとの問い合わせが増えています。

若い方から年配の方までかなりハイ・レベルの質問をお受けしています。

当方は、知り得ているものから抑制し配慮して公開していましたが、真実を捻じ曲げようとされる方々妨害には対抗せざるを得ません。全国から寄せられる熱心な神社研究者には手持ち資料をお渡しし資料の保全と分散を図りたいと思っています。

イスラム原理主義者の組織はピラミッド型の管理しやすい上意下達の組織ではなく抵抗力のあるブドウの房型の組織(アルカイーダー)を取っていると言われますが、既にその感覚で資料の保管を含め対抗したいと考えています。

本来、静かに秘かに限られた範囲で継承したいと考えていましたが、どうやらそれは許されないようです。

併設されている現仁神社の意味も少しずつ理解できるようになってきました。

この一年余りで百嶋神社考古学は多くの賛同者を得られるようになってきました。

「古事記」の九割は嘘、「日本書紀」はほんの少しだけ本当の事が書かれている云々は百嶋翁の言いでしたが、それを基礎に、金科玉条の如く振る舞う古代史学会、歴史学会、神代史学会、そして、日本書紀を最高の基準として年代を決定している考古学会の底の薄さに失笑を禁じえないとの思いを深めているこの頃です。


高良大社は福岡県久留米市御井にある。明治以前は高良玉垂宮(たますだれぐう)のち高良宮、高良社、玉垂宮、高良玉垂宮などと呼ばれた。高良玉垂命を主神とし、相殿に八幡大神、住吉大神を奉斎している。
仁徳天皇78年(390)鎮座と伝えられ、履中(りちゅう)天皇元年(400)の創建という。嵯峨天皇の弘仁9年(816)11月、名神に列し、貞観11年(869)3月従一位、宇多天皇の寛平9年(897)には正一位を授与された。筑後国一の宮・九州総社・鎮西十一ヶ国の宗廟と称えられた。
神主物部道麿(もののべみちまろ)の子、美濃里麿(みのりまろ)に神託があり、それによって大祝(おおはうり)家三男隆慶を社僧にしたという。その子孫は江戸時代前まで48世続き、盛時には神宮寺御井寺(みいでら)の座主(ざす)として千余名の僧徒を支配した。
旧国幣大社。現社殿は万治3(1660)年の造営になる権現造で、社宝の紙本墨書平家物語覚一本12冊とともに国の重要文化財に指定されている。
みやま市では分社は堀切の「玉垂神社」がある。ほかに大分県日田市十二町・八女郡水田町・大刀洗町・大牟田市岬があり福岡県の筑後地方周辺に点在する。

HPみやま市のお宮(総合編)より

高良玉垂宮(たますだれぐう)と書かれていますが、大阪にも版図を広げた九州王朝のシンボルは住吉神社と打上神社=高良神社ですが、その打上の意味は、御簾のすだれを上げる意味であると百嶋先生は言われていました。

みやま市の地元でも「たまたれ」などとは呼ばず、「たますだれぐう」とされ原形を保たれておられることに改めて敬意を表したいと思います。

そもそも「たまたれ」は日本語の語感としてはおかしく、もしそのように言うならば「たまたらし」が正しいのですが、「たますだれ」が正しいのです。

事実、現地にはその形式が残されていますし、中国語のターシャン(助動詞になるのですか物事を引き起こす場合には「打」ターが付されます)が打上神社の意味なのです。

まさか、打上神社まで隠せとお達しは出されないと思うのですが…、どうやら日本は第三次世界戦争に巻き込まれる事になりそうで、何が起こっても不思議ではないようです。

既に戦前の「国体明徴運動」以上の統制下にあるようです。以下省略…

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ

2026年05月02日

ビアヘロ 260 新ひぼろぎ逍遥 1164 の先行掲載 ひぼろぎ逍遥1163 15年ぶりの瀬高町(現みやま市)への神社トレッキング資料の公開  20260410

ビアヘロ 260 新ひぼろぎ逍遥 1164 の先行掲載

ひぼろぎ逍遥1163 15年ぶりの瀬高町(現みやま市)への神社トレッキング資料の公開  20260410

= 本稿は後日ひぼろぎ逍遥(跡宮)に掲載の予定です                  20260421

    

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


オープン参加 資料代 1000 瀬高町と言っても分からない時代になりましたが、久しぶりに筑後地方の神社トレッキングを行います。お賽銭は各自用意して下さい。

無題.png

20265みやま市での神社トレッキン

日 時:2026517日(日)or雨天の場合は24日 10:00

 連休明けですが、人込みを避け遠くのトレッキングに出ましょう!(仮案)

 みやま市(旧瀬高町)を中心に神社を探る…

今回、特にお見せしたいのは堀切玉垂神社(現仁神社)です。高良大社より重要と言っても過言ではないのですが、残念なことにお見せしたいものは、現在、失われています。

ただ、暫く前まで、高良玉垂命と神功皇后が夫婦であった事の証拠が存在したのでした。


集合場所(本案) 道の駅みやま みやま市瀬高町大江2328

昼食 うどんのふじ家 道の駅みやま正面          

 集合場所(予備) みやま市瀬高町坂田873−1 大力うどんP 昼食も同店

探訪予定の神社無題.png

 堀切玉垂神社(現仁神社)は、西鉄江の浦駅の北東1.9kmほどのみやま市瀬高町河内(旧山門郡瀬高町大字河内字松原)実は筑後で最も重要な高良玉垂宮です。

現地は分かり難いため、みやま市瀬高町河内31443堀切公民館Pを目安においで下さい。

❷ 堀切聖母宮(泰仙寺)   みやま市瀬高町泰仙寺14 高良玉垂命と神功皇后

 こうやの宮(磯上物部神社)みやま市瀬高町太神1674  ここで昼食休憩になるでしょう

❹ 竹飯八幡宮        みやま市高田町竹飯14761

 九躰神社         みやま市高田町岩津897(岩津公民館に駐車を)

❻ 上楠田天満宮       みやま市高田町上楠田1264(参道右手にP有り

予備(駐車場が無いためパスする可能性あり)

※ 竹飯八幡宮 みやま市高田町竹飯1476

帰路は、北にはみやま柳川IC or 有明海沿岸道路、南には南関ICになるでしょう。

         集合場所           昼食(出発に支障なければ他も可) 

無題.png

❶ 堀切玉垂神社(現仁神社) みやま市瀬高町河内31443


一言で言えば、高良玉垂命=第9代開化天皇と仲哀死後の神功皇后とが夫婦であった事を今に伝える神社です。まず、肥前鳥居にも驚愕させられますが、社殿の荘厳さに圧倒させられます。

高良大社は高良玉垂命=第9代開化天皇を祀るも神功皇后を隠し、宮地武神社は神功皇后を祀るも開化天皇を隠し、こうして九州王朝のシンボルであった二つの巨大神社を引き裂き、阿蘇氏=後の藤原氏に乗っ取られた近畿王権は、九州王朝の痕跡を消し去ったのでした。

無題.png

ただ、以下をご覧ください。日本国政府が公的に発表する際のシンボルが五七桐紋ですが、これは天皇家の皇族でも天皇家の一族を表し、三互桐紋は天皇家と姻戚関係を結んだものの使用できる紋章なのです。つまり、五七は高良玉垂命、三五は神功皇后を表しており、かつては両者を表すかなり大きな等身大クラスの人形が祀られていたのです。ところが、始めは敗戦時だと考えられますが、開化天皇の178年前に神功皇后も隠されたようです。

無題.png

聖母宮とは神功皇后を祀る神社であり、最も規模が大きいものは熊本県山鹿市の聖母八幡宮です。通説は応神天皇の母との触れ込みですが、とんでもない大嘘で、長子が仁徳天皇=シレカシ命以下、朝日豊盛、暮日豊盛…など、高良玉垂命と神功皇后の実子5人と皇后の連れ子4人の9人を祀る神社が九躰皇子を祀る九体神社(みやま市高田町岩津897)に後で参拝します。

このように久留米の高良大社に残された「高良玉垂宮神秘書」を読まれればお分かり頂けます。

詳しくは、ひぼろぎ逍遥 055 みやま市河内に超高格式の玉垂宮が存在する を先に読めば意味が分かります。


無題.png153 超高格式瀬高玉垂宮の神功皇后像が消えた “みやま市河内の高良玉垂の宮” 聖母宮と玉垂宮が隣接すること自体がお二人が夫婦であったことを示していますし、「宮神秘書」14p にははっきり夫婦と書いてあります。

さらにグーグル・マップを見ると面白い事実に気づきます。

 矢部川を渡るとそこは柳川市です。勿論、古代には柳川市は海の底で、中世の藤原純友の弟が有明海の通商破壊戦で活躍した時代に芦原や島ができる巨大な湿地帯になるのですが、この事から、柳川側が新興地である事が分かります。そこに応神天皇を祀る鷹尾神社、大和町鷹ノ尾地区が在ることからも、後発地帯に藤原の息の掛かったエージェント応神が防衛線を引くかのように立塞がっているのが良く分かります。

無題.png

 鷹とか隼で応神天皇を表現していますね。宇佐の境外摂社が鷹居社ですし、京都など隼神社は誉田別尊を祀ります。福岡県小郡市の横隈隼鷹神社外多くの例が在ります。


❸ こうやの宮(磯上物部神社) みやま市瀬高町太神1674

無題.png
無題.png

百嶋由一郎最終神代系譜(部分


無題.pngうやの宮なる奇妙な名の神社がある事は良く知られていますが、神社研究を怠ってきた古代史家には何のことだか分かっておられないようです。騎馬民族風の武人の人形が七枝刀の様なものを持っていますが、磯上物部神社の名の通り、7代孝霊天皇のお后である卑弥呼宗女伊予=細姫に対して兄(ウマシマジ)から贈られたもので、こうやの宮が別名磯上物部神社と呼ばれている事からも推定が可能です。

 ニギハヤヒ=山幸彦=猿田彦=彦火々出見…と伊勢の外宮様(辛国息長大姫大目命)との間に生まれたのがイヨでその伏見稲荷でもある物部を象徴する女神を后としたのが孝霊天皇になるのです。良く七枝刀を手にする女神を卑弥呼と誤っている方がおられますが、卑弥呼宗女イヨ様なのです。何でも卑弥呼に仕立てたがるのは商売目的ですね。

 我々百嶋神社考古学の者にとってはこのこうやの宮を含む旧瀬高町一帯は九州王朝の王族の居留地、パレスと考えてきましたが、この地に残されていた宝物は奈良に差し出さされ、その痕跡を残すためにこうやの宮が造られたものと考えています。

暫く前まで、この地には田中神社が在り(現在も残っているのかも知れませんが)、恐らくその一族が保管していた物と考えています。故)百嶋由一郎はこの地には五七桐紋を持つ田中姓の方がお住まいに成っており恐らく孝霊天皇、イヨに繋がる一族だろうと申していました。


 ここで昼食休憩だろうと思いますが、有明海沿岸道路で戻れば直ぐだと思います。

無題.png

概して筑後地方は、柳川の立花うどんを筆頭に、うどん屋が多くしかも格安店が多い事で知られていますが、大力うどんもその一つです。上のメニューは一例ですがうどんのふじ屋のものです。

 筑後に入ると一気にうどん店が多くなる事をご存じだと思いますが、これも日向の火山灰土壌のため水田稲作が出来なかった大山祇系の人々の粉食文化(ヤセウマ、だんご汁、伊予、讃岐、阿波〜信州のオヤキ〜甲斐のホウトウ〜関東の食文化に繋がっている)のです。起点は日向です。

後半はみやま市でも高田町になります


竹飯八幡宮 みやま市高田町竹飯14761


無題.png

九躰神社みやま市高田町岩津(地番不詳のため傍の岩津郵便局の地番875−1

無題.png

9人の皇子を祀る神社の意味で、高良大社(福岡県久留米市)の摂社である高良御子神社(皇子宮、坂本宮で知られています)と同じ御祭神です。

祭神:高良玉垂命の子九躰王子

高良玉垂命=第9代開化天皇と仲哀死後の神功皇后との間に生まれた五柱の実子

斯禮賀志命(仁徳天皇 勿論、応神の子などは大嘘)、朝日豊盛命、暮日豊盛命(この二神は福津市の宮地嶽神社で神功皇后と共に祀られています)、神淵志命、谿上命

四柱は神功皇后の連れ子とされ仲哀との子とか仲哀の側室の子とも言われます。

神娜男美命、神坂本命、神安志奇命、神安樂應寳秘命

私の記憶では自民党の官房長官も務めた松野頼三(松野鶴平の子で松野頼久の父)の娘が嫁いだ

一族が寄進した神社で起源は明治以降とされています。この事は松野一族が九州王朝の一族であった事を物語っています。つまり、有名な松野連系図の一族です。

無題.png

無題.png松野連系図については倭王、倭国、九州王朝に直結する

問題ですが、松野頼三の話の行き掛り上取り上げました。

とにかく、筑後の最深部に入ると大変になります。


❻ 上楠田天満宮 みやま市高田町上楠田1264(参道右手にP有り

無題.png

大藤が有るだけで九州王朝系の神社と分かり祭神は菅原道真公。ワンコはもういないでしょう。

無題.png
posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 15:00| Comment(0) | ビアヘロ

2025年12月27日

ビアヘロ 259 新ひぼろぎ逍遥 837〜839 からの転載 全国の神社が荒れていく中、売りに出された社殿+神社地を買い取り再建する作業が始まった(下)

ビアヘロ 259 新ひぼろぎ逍遥 837839 からの転載

全国の神社が荒れていく中、売りに出された社殿+神社地を買い取り再建する作業が始まった(下)

20200812


太宰府地名研究会 古川 清久


全国の神社や氏子組織が壊滅しつつある今日、宮崎県高千穂町の一角で売りに出された神社の敷地と社殿を買い取り再建する運動が始まっています。

無題.png

仮称 ひのみこ社 カーナビ検索 宮崎県高千穂町上野(カミノ)4956地先 ※この地番は上野中学校


 さて、この神社の正面に四恩(シオン)岳がある事がお分かり頂けるでしょう。

 長年、神社調査を行ってきた者として解るのですが、神野、上野(カミノ、ウエノ…)と呼ばれる姓の人若しくは地名は何らかの形でイスラエル系、ユダヤ系と言われる人々との関係が辿れるのです。

 そもそも高千穂も高木大神(タカミムスビ系)の地域であり、故)百嶋翁もユダヤ系ではなくイスラエルだと言われていました。

 私達にはこの一帯に古くから住み着いておられる方々は遠く西方から移住された方々の末裔ではないかと考えています。

 シオン山とはイスラエルの聖地エルサレムの南にある山とされていますよね。

 少なくともそういった知識を持った人々が入っていた土地だったと考えるのです。


ここまでは 全国の神社が荒れていく中、…(上)で書いていたことです。

その時点では話を進めるため端折って飛ばしていました。

そこで、再度、四恩岳がイスラエルの聖地エルサレムの南丘のシオン山の置換えという話を蒸し返したいと思います。

無題.png

エルサレム シオン丘陵


実は“四恩幼稚園” “四恩保育園” “四恩こども園”…と言うものが全国にあります。


仏教では、人は生まれながらにして四つの恩を戴いているとされています。

これを四恩(しおん)と申しまして、国王(国家)、衆生、三宝そして父母の四つの恩です。

恩という字は心の上に因という字が乗っています。

因は「もとづく」とか「うけつぐ」という意味です。

「心」の上に「受け継いでいるもの」を乗せているのが「恩」なのです。

「受け継いでいるもの」とは「お陰」です。

私たちは様々な「お陰さま」を受けて生きているのです。

その四つの大きなお蔭さまが「四恩」です。

千葉 館山の曹洞宗のお寺 西光寺「法話」による


四恩四種の恩恵。思想が成立している。九世紀初めの般若三蔵訳『諸仏境界摂真実経』下では国王・父母・施主・衆生の四恩が説かれ、『大乗本生心地観経』二では、父母・衆生・国王・三宝の恩が説かれ、父母の恩は共通するが、如来の恩と説法師の恩が三宝の恩にまとめられ、新たに衆生の恩と国王の恩が加えられている。日本では四恩思想は早くから伝えられた。法隆寺金無題.png堂釈迦像の銘文や、東大寺法華堂の不空羂索観音像の縁起には四恩の語があり、『日本霊異記』上、三五では四恩のために絵の仏像を作ったとある。空海の著作中には四恩の語が多く見出され、それらは『心地観経』に基づくものと、それ以外のものとの二系統があるとされる。さらに明治期には『心地観経』と『党網経』の四恩説に基づき、『明治孝節録』『幼学綱要』『教育勅語』に示された儒教的な教育倫理に対する仏教者側の反動として、護法・報恩思想の復古運動が行われた。


 一応、仏教用語に「四恩」がある事は承知していました。

実はこの熊本から高千穂への国道を通過するたびに、非常に美しい山門を持つ神社が在る事に気付いていました。

 まだ詳しくは調べていませんが、江戸時代には仏教が事実上の国教とされていた事もあり、この地区の神宮寺的な存在がこの寺ではないかと思っていました。恐らく上野神社との対応があったのではないでしょうか。

 当然にも「四恩岳」の名称を与えたのもこの一族であり、この地域の首領的な存在であり指導的な立場に在ったのではないかと思っています。そこで、この寺を調べると、案の定、曹洞禅宗の名刹だったのです。


天理教も曹洞禅宗も全てヘブライ系です


 故)百嶋由一郎氏は、“道元もヘブライ人だし曹洞禅宗も全てヘブライ系です”と言われていました。

 この四恩岳が古くからシオン岳と呼ばれてきたものが後に、仏教用語の「四恩」とされたものか、単なる鎌倉以降のものか、国土地理院(陸軍測量部)以降のものかは不明ですが、付近には烏岳が二つ、愛宕山も二つあるなどどうみてもただ事ではないため、勝手ながらシオンの丘説を唱えておこうと思うものです。

 無題.pngシオン修道会がシオンの丘を体現している訳ではありませんが、良く知られているため持ち出しただけです。


シオン修道会(シオンしゅうどうかい、フランス語:Le Prieuré de Sion、英語:Priory of Sion)とは、1960年代以降のフィクション、ノンフィクションで扱われた秘密結社の名称である。

無題.png

この高千穂の上野という土地の面白さはとりあえず上野神社の祭神に良くあらわされています。

 一つはイザナミの夫であるイザナギが祀られていません。この点は大半の熊野系神社と同様です。

 我々百嶋神社考古学の者としては、“イザナミ(金山彦の妹)はイザナギと別れ博多の櫛田神社の大幡主=カミムスビ のお妃となっておられます”との説を受入れています。

 元々、高千穂が高木大神の領域であった事は既に述べていますが、にも拘らず、高木大神(タカミムスビ)そのものも、その息子であり、木花開耶比売命(コノハナノサクヤヒメ)の夫であったニニギノミコトも祀られてはいません。

 特に重要なのは、後に藤原氏の祖となる阿蘇系の草部吉見神(高木大神の次女のタクハタチジヒメの夫)も健磐龍命も祀られていない上に、藤原が追放した道真公は祀られているのです。

 してみると、高木大神のエリアであるはずの高千穂にも拘らず、高木大神系が排除されている事がかなり鮮明な特徴と言えるでしょう。

 最後に本物の神武天皇と本物の御妃であるアイラツヒメが祀られています。

これこそが本当の神武天皇の実像であり、宝石のような非常に価値ある祭神となっているのです。

 ここには近畿大和朝廷成立以前の九州王朝でも初期の神々が結晶として揃い踏みしている様に見えるのです。


御祭神

伊弉冉命(イザナミ)

事解男命(コサカオ)

速玉男命(ハヤタマオ)

木花開耶比売命(コノハナノサクヤヒメ)

日子火火出見命(ヒコホホデミ)

豊玉比売命(トヨタマヒメ)

鸕鷀草葺不合命(ウガヤフキアエズ)

玉依比売命(タマヨリヒメ)

神日本磐余彦命(カムヤマトイワレヒコ)

吾平津比売命(アヒラツヒメ)

花房比売命(ハナブサヒメ) ※まだ確定的に申し上げられませんがタクハタチヂヒメの可能性あり、草部吉見(ヒコヤイミミ)の妃となる以前の状態が反映されている様に見えるのです

神功皇后命(ジングウコウゴウ)

品陀和気命(ホンダワケ)

武内大臣命(タケウチノスクネ)

菅原道真公(スガワラミチザネ)  

無題.png

百嶋由一郎“漢倭奴国王印”神代系譜(部分)


長崎県の大村湾沿岸から諫早市、島原市に掛けての旧南北高来郡から高千穂町三田井の一帯は高木大神=タカミムスビの領域でした。

 そこに真空地帯の様に金山彦系、大幡主(カミムスビ)系と考えられるエリアが存在しているのです。


高来町(たかきちょう)は、長崎県北高来郡にあった町。 2005年(平成17年)31日に諫早市、多良見町、森山町、飯盛町、小長井町と新設合併し、新市制による諫早市の一部となった。

ウィキペディア 20200813 14:11 によ

無題.png

百嶋由一郎最終神代系譜(部分)

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ