ビアヘロ 261 新ひぼろぎ逍遥 1164 の先行掲載
ひぼろぎ逍遥1164 消えた神功皇后 = 本稿は後日ひぼろぎ逍遥(跡宮)に掲載の予定です
20260421
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
❶ 堀切玉垂神社(現仁神社) みやま市瀬高町河内3144−3
一言で言えば、高良玉垂命=第9代開化天皇と仲哀死後の神功皇后とが夫婦であった事を今に伝える神社です。まず、同社正面の肥前鳥居にも驚きますが、社殿の荘厳さに圧倒させられます。
高良大社は高良玉垂命=第9代開化天皇を祀るも開化の名と神功皇后を消し、宮地嶽神社は神功皇后を祀るも高良玉垂命=開化天皇を隠し、九州王朝のシンボルであった二つの巨大神社を引き裂き、阿蘇氏=後の藤原氏に乗っ取られた近畿王権は、九州王朝の痕跡を消し去ったのでした。

ただ、以下をご覧ください。日本国政府が公的に発表する際のシンボルが五七桐紋ですが、これは天皇家の皇族でも天皇家の一族を表し、五三桐紋は天皇家と姻戚関係を結んだものの使用できる紋章なのです。つまり、五七は高良玉垂命、五三は神功皇后を表しており、かつては両者を表すかなり大きな等身大クラス(誇張過ぎかも知れませんが)の人形が祀られていたのでしょう。開化隠しは進駐軍対策だと思いますが、玉垂隠しの後、今から17〜8年前に神功皇后も隠されたようです。
元は、神功皇后様がお祀りされていたのですが、2014年中に移されているようです。
神功皇后であることは玉垂宮とも呼ばれており高良玉垂命(第9代開化天皇)が祀られている事は明らかであり、現在でも天皇家の紋章である五七桐紋と五三の桐紋が置かれている以上、天皇家と天皇家の姻戚関係に在る一族である以上、神功皇后であることは間違いがないのです。
当会のメンバーで「高良玉垂宮神秘書」を読みこなしているメンバーは今もかなりおられま
すが、山川町郷土史会の研究もさることながら、第8代孝元天皇を祀るのが高良下宮社であり、開化天皇と仲哀死後の神功皇后が夫婦であったことは確実なのです。


聖母宮とは神功皇后を祀る神社であり、最も規模が大きいものは熊本県山鹿市の聖母八幡宮です。
通説は応神天皇の母との触れ込みですが、とんでもない大嘘で、長子が仁徳天皇=シレカシ命以下、朝日豊盛、暮日豊盛…など、高良玉垂命と神功皇后の実子5人と皇后の連れ子4人の9人を祀る神社が九躰皇子を祀る九体神社(みやま市高田町岩津897)に後で参拝します。
これら久留米の高良大社に残された「高良玉垂宮神秘書」を読まれればお分かり頂けます。
詳しくは、ひぼろぎ逍遥 055 みやま市河内に超高格式の玉垂宮が存在する を先に読まれると分かられます。 153 超高格式瀬高玉垂宮の神功皇后像が消えた “みやま市河内の高良玉垂の宮”
付近にある聖母宮と玉垂宮が隣接すること自体も、お二人が夫婦であったことを示していますし、「宮神秘書」14pにもはっきり夫婦と書いてあります。
さらにグーグル・マップを見ると面白い事実に気づきます。矢部川を渡るとそこは柳川市です。勿論、古代には柳川市は海の底で中世の藤原純友の弟純乗が有明海の通商破壊戦で活躍した時代に芦原や島ができる巨大な湿地帯になるのですが、この事から、柳川側が新興地である事が分かります。
そこに応神天皇を祀る鷹尾神社、大和町鷹ノ尾地区が在ることからも、後発地帯に藤原の息の掛かったエージェントの応神が防衛線を引くかのように立塞がっているのが良く分かります。

鷹とか隼で応神天皇を表現していますね。「古事記」でも隼別(ハヤブサワケ)で表現していますね。
宇佐の境外摂社が鷹居社ですし、京都など隼神社は誉田別尊を祀ります。福岡県小郡市の横隈隼鷹神社…外多くの例が在ります。
❸ こうやの宮(磯上物部神社) みやま市瀬高町太神1674


百嶋由一郎最終神代系譜(部分)
こうやの宮なる奇妙な名の神社がある事は良く知られていますが、神社研究を怠ってきた古代史家には何のことだか分かっておられないようです。騎馬民族風の武人の人形が七枝刀の様なものを持っていますが、磯上物部神社の名の通り、第7代孝霊天皇のお后である卑弥呼宗女伊予=細姫に対して兄(ウマシマジ)から贈られたもので、こうやの宮が別名磯上物部神社と呼ばれている事からも推定が可能です。
ニギハヤヒ=山幸彦=猿田彦=彦火々出見…と伊勢の外宮様(辛国息長大姫大目命)との間に生まれたのがイヨでその伏見稲荷でもある物部を象徴する女神を后としたのが孝霊天皇になるのです。良く七枝刀を手にする女神を卑弥呼と誤っている方がおられますが、卑弥呼宗女イヨ様なのです。何でも卑弥呼に仕立てたがるのは商売目的ですね。
我々百嶋神社考古学の者にとってはこのこうやの宮を含む旧瀬高町一帯は九州王朝の王族の居留地、パレスと考えてきましたが、この地に残されていた宝物は奈良に差し出さされ、その痕跡を残すためにこうやの宮が造られたものと考えています。
暫く前まで、この地には田中神社が在り(現在も残っているのかも知れませんが)、恐らくその一族が保管していた物と考えています。故)百嶋由一郎はこの地には五七桐紋を持つ田中姓の方がお住まいに成っており恐らく孝霊天皇、イヨに繋がる一族だろうと申していました。、
以前、「ひぼろぎ逍遥」055 みやま市河内に超高格式の玉垂宮が存在する 20140327 において、旧瀬高町に鎮座する超高格式玉垂宮について書いています。
詳細を知りたい方には055の全文をお読み頂くとして、そこでは、概略このように書いていました。
(中略)
写真は九州王朝論者の間にも殆ど知られていない玉垂神社です。
辺りは一面の水田地帯でしかなく、森を探せば辿り付けますが、どうしてこのような所にこれほどの高格式の玉垂宮があるか大変不思議に思えます。
有明海沿岸道路に近接する大牟田市の黒崎の先端に玉垂宮があるように、古代にはこの地も有明海に突き出した岬だったのかも知れません。
非常に興味深いことにここに住む人のほとんど全てが物部氏を思わせる河野姓です。
また、七支刀で著名な太神宮こうやの宮にも近く、正面には七世紀に起源を持つかと思わせる肥前鳥居が現存しています。皆さんも一度訪ね見られてはいかがでしょう?
「この神社こそ、玉垂宮の原型を今に留める高格式の玉垂宮であり、本当の祭神がそのまま残されている」と教えてくれたのは、例の故神社考古学者でした。
(中略)
まず、このような場所に、なぜ、これほど多くの大きな社殿が立ち並んでいるのでしょうか、勿論、それは後世の事としても、山門(神社の場合は山門とは呼ばないでしょうが)屋根にも、本殿の屋根にも五七の桐、三五の桐が描かれています。
ただならぬ神社であることは一目で分かりましたが、重要なのは神殿の御簾の中です。
打上式の御簾の内側には一体の女神像が置かれ三五の桐の神紋が飾られています。
もう一つは、五七の桐の神紋だけが飾られています。恐らく、元は男神像もあったのでしょうが、何時の時代かに外されたのだと思います。
つまり、五七の桐、三五の桐を象徴とする夫婦神、つまり、高良玉垂命と神功皇后が祀られているのです。
神功皇后は仲哀天皇の妃というのは正しいのですが、その期間は極めて短く、その後はずうっと死ぬまで添い遂げていると言うのがその理由で、その痕跡は、高良大社で販売(\10,000)されている「高良玉垂宮神秘書」(コウラタマタレグウジンヒショ)にあります。
これこそが、日本の古代の最大の真相であり、記紀をそのままに信じられない理由なのです。詳しくは別稿としますが、ここでは、現場にはこういう歴史の宝物が落ちていることをお知らせするにとどめます。

みやま市玉垂宮正面の肥前鳥居
さて、12月20〜21日に掛けて行った益城町トレッキングの帰路、多久市在住の神社研究者のA氏を同社にお連れしたところ、神殿に鎮座されているはずの神功皇后像がありませんでした。
当然にも神社側のご判断で保管のために移されたものと考えますが、その背後に、その筋(神社庁)の意図が透けて見えた思いがした瞬間でもありました。
当方もこの貴重な神社資料が散逸することを恐れ、後世に伝えるためにも重要と判断し、少しでも多くの方が参拝され多少とも神社の経営に寄与できるようにと考えた事から、そのまま保存される事を期待し、当時も御神映を公表することを控えていました。
しかし、このような事が起こる事になれば、非常に悲しい事ですが真実をお伝えする必要があるものと思慮いたします。
数年前の瀬高町トレッキング当時も、四十人近い多くの方が参拝され(お賽銭も入れられるように小呼び掛けもいたしました)確認されていましたが、その中の方からお借りしてお知らせしたいと思います。

打上式の御簾の内側には一体の女神像が置かれ三五の桐の神紋が飾られています。
もう一つは、五七の桐の神紋だけが飾られています。恐らく、元は男神像もあったのでしょうが、何時の時代かに外されたのだと思います。
つまり、五七の桐、三五の桐を象徴とする夫婦神、つまり、高良玉垂命と神功皇后が祀られているのです。
と書いただけで、映像の公表は保留しておりましたが、お分かり頂けた事と思います。
「高良玉垂宮神秘書」の断片を掲載していますが、この記述を裏付ける言わば物証がこの瀬高玉垂宮であり、高良玉垂の命の妃は、「記」「紀」で仲哀天皇の妃で応神天皇の母親とされる神功皇后なのです。
なお、五七の桐、三五の桐は、それぞれ高良玉垂命と神功皇后の神紋であり、一族としては、木瓜紋、住吉の神紋が使い分けられていたようです。
また、「高良玉垂宮神秘書」では、第八代孝元天皇の三男=月神=底筒男命が神功皇后の夫であり、表筒男命=大川風浪宮の安曇磯羅が神功皇后の妹である豊姫の夫となります。
この関係については、百嶋最終神代系譜と「高良玉垂宮神秘書」と間に一分食い違いが認められ、「高良玉垂宮神秘書」では神功皇后の二人の妹の豊姫が宝満大祝と、もう一人が佐賀県の淀姫神社の大祝となったとされるのに対して、百嶋神社考古学では、安曇磯羅の妃がウガヤフキアエズの子である逆賊河上タケル(熊襲)の妃が豊姫(ユタヒメ)=淀姫とします。その理由は分かりませんが、今後も検討作業が必要でしょう。
いずれにせよ、この辺りに古代史の最大の謎、九州王朝の消滅、正当皇統の廃絶、新興勢力による歴史の改ざん、欠史八代問題、応神の系統による九州王朝隠しの理由が存在しているようです。
だからこそ、どのあたりからかは不明ですが、正しい歴史を消そうとする人々が存在している事だけは事実のようです。
どうやら、私達の探求は猛獣の尾を踏み始めたようです。逆に、真実の一端を垣間見た思いがします。
私達はこのような真実が隠される事に怒りは感じません。そうしなければ身の保身が叶わぬ人々を哀れとも情けないとも思う限りです。
真実を明らかにしなければ信頼を失うのは世の常であり、神社への尊崇の念は益々潰え去る事になるでしょう。
百嶋翁からお聴きして手探りで始めた神社調査でしたが、私達の調査の方向が正しい事を逆に証明された思いがしています。
現在、牛島稔太氏のHPや当方のブログなどを経由して本当の神代、従って真実の歴史を知りたいと考えられている方々から直接お話しを聴きたいとの問い合わせが増えています。
若い方から年配の方までかなりハイ・レベルの質問をお受けしています。
当方は、知り得ているものから抑制し配慮して公開していましたが、真実を捻じ曲げようとされる方々妨害には対抗せざるを得ません。全国から寄せられる熱心な神社研究者には手持ち資料をお渡しし資料の保全と分散を図りたいと思っています。
イスラム原理主義者の組織はピラミッド型の管理しやすい上意下達の組織ではなく抵抗力のあるブドウの房型の組織(アルカイーダー)を取っていると言われますが、既にその感覚で資料の保管を含め対抗したいと考えています。
本来、静かに秘かに限られた範囲で継承したいと考えていましたが、どうやらそれは許されないようです。
併設されている現仁神社の意味も少しずつ理解できるようになってきました。
この一年余りで百嶋神社考古学は多くの賛同者を得られるようになってきました。
「古事記」の九割は嘘、「日本書紀」はほんの少しだけ本当の事が書かれている云々は百嶋翁の言いでしたが、それを基礎に、金科玉条の如く振る舞う古代史学会、歴史学会、神代史学会、そして、日本書紀を最高の基準として年代を決定している考古学会の底の薄さに失笑を禁じえないとの思いを深めているこの頃です。
高良大社は福岡県久留米市御井にある。明治以前は高良玉垂宮(たますだれぐう)のち高良宮、高良社、玉垂宮、高良玉垂宮などと呼ばれた。高良玉垂命を主神とし、相殿に八幡大神、住吉大神を奉斎している。
仁徳天皇78年(390)鎮座と伝えられ、履中(りちゅう)天皇元年(400)の創建という。嵯峨天皇の弘仁9年(816)11月、名神に列し、貞観11年(869)3月従一位、宇多天皇の寛平9年(897)には正一位を授与された。筑後国一の宮・九州総社・鎮西十一ヶ国の宗廟と称えられた。
神主物部道麿(もののべみちまろ)の子、美濃里麿(みのりまろ)に神託があり、それによって大祝(おおはうり)家三男隆慶を社僧にしたという。その子孫は江戸時代前まで48世続き、盛時には神宮寺御井寺(みいでら)の座主(ざす)として千余名の僧徒を支配した。
旧国幣大社。現社殿は万治3(1660)年の造営になる権現造で、社宝の紙本墨書平家物語覚一本12冊とともに国の重要文化財に指定されている。
みやま市では分社は堀切の「玉垂神社」がある。ほかに大分県日田市十二町・八女郡水田町・大刀洗町・大牟田市岬があり福岡県の筑後地方周辺に点在する。
HPみやま市のお宮(総合編)より
高良玉垂宮(たますだれぐう)と書かれていますが、大阪にも版図を広げた九州王朝のシンボルは住吉神社と打上神社=高良神社ですが、その打上の意味は、御簾のすだれを上げる意味であると百嶋先生は言われていました。
みやま市の地元でも「たまたれ」などとは呼ばず、「たますだれぐう」とされ原形を保たれておられることに改めて敬意を表したいと思います。
そもそも「たまたれ」は日本語の語感としてはおかしく、もしそのように言うならば「たまたらし」が正しいのですが、「たますだれ」が正しいのです。
事実、現地にはその形式が残されていますし、中国語のターシャン(助動詞になるのですか物事を引き起こす場合には「打」ターが付されます)が打上神社の意味なのです。
まさか、打上神社まで隠せとお達しは出されないと思うのですが…、どうやら日本は第三次世界戦争に巻き込まれる事になりそうで、何が起こっても不思議ではないようです。
既に戦前の「国体明徴運動」以上の統制下にあるようです。以下省略…


にお読み頂き有難いと思っています。








うやの宮なる奇妙な名の神社がある事は良く知られていますが、神社研究を怠ってきた古代史家には何のことだか分かっておられないようです。騎馬民族風の武人の人形が七枝刀の様なものを持っていますが、



松野連系図については倭王、倭国、九州王朝に直結する



シオン修道会がシオンの丘を体現している訳ではありませんが、良く知られているため持ち出しただけです。

















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