2024年02月29日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)ビアヘロ 225 大分県日田市の「有王社」を疑う

ひぼろぎ逍遥(跡宮)ビアヘロ 225 大分県日田市の「有王社」を疑う

20240110

太宰府地名研究会 (神社考古学研究班)古川 清久


 先行ブログ1003でこの神社についても書くとしていました。先延ばしにしていたものの、書ける時に書いておかないと思い直し書く事にしました。

 この神社も加々鶴トンネルの対岸(筑後川右岸)、夜明駅から志賀神社を経て夜明ダムの手前の小山に祀られているのです。

 ただ、有王社とはほとんど耳にしないもので全国的にも聴いたことが無いものです。

 地元の方々には立腹される方もおありかも知れませんが、天邪鬼の私が取り上げる以上、意味があると考えたのではなく、どうも本来の祭神が入れ替えられているのではないかと思った次第です。

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有王社(有王宮・天満宮・水天宮) カーナビ検索大分県日田市大字夜明3185番地


 勿論、こういったものは確定した通説などと言ったものではないのですが、浅ましいまでも既に地域で確立しネット上でも右から左まで同じ論調、結論に異議を唱えるのは袋叩きになりそうです。

 ただ、私の目からはあまりにも違和感が伴うため、大人げないとは思われそうですが、そういう事を押し通すのが神社の本質を探る者の使命なのです。

 上の地図を見れば分かる通り、同社がこの大蛇行地それもかなりの落差のある急流である事は想像が着くでしょう。

 これは夜明ダムが稼働する昭和28年以降かなり急激に流速が落ちている事を考えれば、筏流しを行ってきた船頭さんとは言わない中のりさんとしておきますが、最も緊張する危険な場所であった事はご理解いただけるのではないでしょうか。

 そして、先行するブログをお読み頂いた方には、既に、この九州山地を駈け降る最も緊張する容易に息の抜けない命懸けの場所だったはずなのです。

 私が最も違和感を抱いた理由は、その様な場所、それも筑紫、豊という緊張する国境に、何故、瀬織津姫(藤原が祓戸神別名として金山彦と博多の櫛田神社の大幡主の妹の埴安姫の間に生まれた櫛稲田姫)を祀る神社を置く必要性も必然性もない訳で、これも大原八幡宮が龍王ことヤタガラスを消そうとばかりに祀ったのではないかと考えたのでした。

 まず、有王という呼称は中国風の香りがするもので、類型として白王(白川伯王)、阿智王など僅かしか浮かんできません。

それは、この有王社を祀ったのは応神を呼び込んだ近畿大和朝廷の総督とも言うべき大原らしいからなのです。

 前置きが長くなりましたが、この一般的には聴いたこともない有王神社をなんとか乏しい知識で考えて見たいと思います。

 無題.pngそれではご覧いただきましょう。私も一度入っていますが、画像が無いため、しばらくはネットから拾えるもので代行し、後で入れ替えたいと思います。

 ただ、パワースポットとか大騒ぎし商売に繋げようとするさもしい方々のものとか、神社や行政の宣伝合戦の浅ましい派生サイトはできるだけ避けて穏やかで落ち着いた健全さを感じさせるものから使わせていただきます。以下、田舎暮らしdeほっ!様から…

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鬼と仏の国東半島めぐり 様より

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これで大体の概要はお分かり頂いたと思います。

 まず、私が違和感を抱いたのは神殿の千木が男神を示している事でした。その一事だけで、これが瀬織津姫ではないのではないかと思ったのでした。

 さらに言えば、参拝殿の上に置かれた龍の彫刻の板盤はどう見ても日田、津江、彦山から流れてくる筑後川を龍に見立てたものであり、日田の中心部に玉川町があるように、遠い古代に豊玉彦(海幸、山幸の神話に登場する龍王)=ヤタガラス(博多の櫛田神社の大幡主=カミムスビの子)を祀ったものであろうという気がしたのでした。


由緒 人皇八十代高倉天皇の御代、大蔵永秀の豊後国の関門守護を任として築城の櫛崎城に鎮座の処、宝永2年(1705)現今の地に御鎮座奉斎す。当時は有王宮と称す。       御祭神 瀬織津日女命


 そして、なんらかの動機で瀬織津日女命に替えられたのではないかとの思いが湧いてきたのでした。

 既に、大原八幡宮に応神を持ち込んだのが大蔵一族であり、彼らが大和朝廷の先兵=占領軍として多くの神無題.png々を塗り替え、摩り替え、歴史を変えて来た事は想像に難くなく、その延長上に日田の隅々まで占領政策が静かに広がってきたはずなのです。では、元々この地には誰が祀られていたのでしょうか?

 直ぐに頭に過り浮かび上がってきたものは蟻通神社でした。多分これに間違いはないでしょう。

 この祭神は中将(「平家物語」「源氏物語」にも中将は出てきますが、中国と外交官系を結んだものはこの称号が与えられるのです)とされ、八咫烏はその最初の一人なのです(中将姫とは別の概念)。

 和歌山県や大阪府にかなりの数の蟻通神社」「蟻通明神」があります。


「私のたなべ」田辺市観光協会 様より



蟻通しの由来

むかしのことです。ここ紀州田辺に外国の使者がやってきました。

その使者は『今から出す問題を解いてみよ もし解けなければ日本国を属国にしてしまう』といいました。そして、持ってきた法螺貝を出して、その貝に一本の糸を通すことを命じました。

日本の神がみは、この難問にたいへん頭を痛めました。その時、ひとりの若い神様が前に進み出て『私が法螺貝にその糸をその糸を通してみせましょう」といって貝の口からどんどん蜜を流し込みました。

蜜は、貝の中の複雑な穴を通り抜けて貝尻の穴へと流れ出しました。そして、この若い神様は蟻を一匹捕らえて糸で結び貝の穴から追い込みました。蟻は甘い蜜を追って、複雑な貝の穴を苦もなく通り抜けました。蟻の体には糸が結ばれていますから法螺貝には完全に糸が通ったのです。

これを見た外国の使者は『日の本の国はやはり神国である』と恐れその知恵に感服して逃げ帰りました。

日本の神がみは、たいそう喜んで『我国にこれほどの賢い神があるのを知らなかった』といって、その若い神様の知恵をほめました。そして、蟻によって貝に糸を通したことにより蟻通しの神と申し上げるようになりました。今では知恵の神とあがめられています。


ここで私の方からもコメントを加えさせて頂きます。蟻通神社の話は民衆に受けたらしくある時期流行し伝承も祭神も多くの変化を見せています。ただ、中将とは中国に派遣された外交官級の優秀な人が送られる称号で、本来は博多の櫛田神社の大幡主(カミムスビ)の子の豊玉彦(八咫烏)の事であったと百嶋神社考古学では理解しています。まず、阿波から熊野は忌部の国であり、この忌部こそ宗像三女神の一族=白族であり、阿波から泉佐野と言う同社の分布もそれと対応しています。

そして、玉の曲がった穴に蟻を使って糸を通すという故事から蟻通神社の名が生まれ、加えて、紀州でも大蛇行の狭い急流の流れで木材の前後が選別されると言う事から、正しくこの加々鶴から夜明の渓谷で川流しの安全と筑紫から豊の国境の平安を願って置かれたのがそもそもこの中国風の有王神社の基層に存在した蟻王神社だったのではないでしょうか?

それが何故有王社に変わったのかは最後にお話ししましょう。


すさまじきもの 〜歌枕探訪〜神社(大阪府泉佐野市) 


蟻通神社(大阪府泉佐野市)無題.png

蟻通神社はもともと熊野古道沿いにあったものを、第二次大戦中に飛行場建設のために現在の地に移転された。このため、以前熊野古道を歩いた時、足を延ばして訪問してみようかどうか迷ったが、遠回りになるので結局断念したことがある。このたび車で泉南方面の故地巡りに出かけ、念願の訪問を果たした。この蟻通神社、こんな泉南の片田舎にありながら、なにかと由緒満載で、紀貫之、清少納言らのエピソードもあり、そして能の舞台にもなっている。

知る人ぞ知る、古典ゆかりの地である。まずは、紀貫之関連

蟻通神社の前を通る時は馬から降りなければならなかったが、紀貫之は馬から降りずに通ってしまったため、蟻通明神の怒りを買って、俄かに一天かき曇り、馬が動かなくなった。これに対し紀貫之が和歌を詠じて蟻通明神をなだめた、という話。…中略…


 無題.png蟻通神社 カーナビ検索 大阪府泉佐野市長滝814 

創建は、社伝によると なんと紀元93年!! 第9代開化(かいか)天皇の時代にできたのだそう!

わたしが大好きな、日本一の古墳の仁徳(にんとく)さんが第16代天皇その7代前の時代というと

弥生時代中期 弥生時代・・・!この頃に稲作りが始まったので五穀豊穣と国土開発を祈る目的で

国造りの神である大国主命(おおくにぬしのみこと)を祀ったのが始まりとされています しかし「蟻通」の名前が広まったのは平安時代のことこんな故事があります

***

歌人である紀貫之(きのつらゆき)が旅の途中、馬に乗ってこの神社を通りがかったとき日が暮れ、大雨が降りだし、馬が倒れましたそこへ老人が現れて「蟻通明神の境内を下馬しないで通った罰じゃ!」と。

そんなん知らんやん!!などとは言わず、貫之さんは歌を詠みました 「かきくもり あやめも知らぬ 大空に ありとほしをば 思ふべしやは」この歌に老人は「ホッホー!」と感心し「実はワシが蟻通明神でしたー★」と明かして消えていきそして馬は元気になって貫之さんは旅を続けることができましたとさ


蟻通神社、アリ通し、天武天皇 様から


さて、その頃中国の皇帝は、わが国を攻略しようという野望に燃えていた。しかし、実際に軍隊を派遣するには、なにか口実がなければならない。そこで皇帝は、帝を陥れる巧みな方策を考えついた。
 まず、使者をわが国に派遣すると、一本の材木を帝に献上させた。材木は表面を美しく削ってあり、長さは二尺(約六〇a)ほどである。「帝におうかがい申しあげます。このたび献上いたしましたこの材木の、いずれが本で、いずれが末でありましょうか」難題を吹きかけて、これに答えなければ、厳しく難詰する魂胆である。しかし帝は使者の質問に対してうまい解答が思い浮かばない。そこですっかり途方に暮れてしまった。朝廷に出仕して、このありさまを一部始終見守っていた中将は、帰宅ののち、両親にこのことを話した。「お父さん、お母さん、今日、朝廷ではこのようなことがありました。中国の皇帝の問いには、はたしてうまい答えが見つかるのでしょうか」「それはおまえ、簡単なことじや。早瀬に材木を投げ入れてみればよい。最初は材木も、水の中でくるくる舞うているであろうが、そのうちどちらかの端が先になって流れてゆくじやろう。そちらのほうが木の末にあたるのじゃ」翌日、朝廷に出仕した中将は、なにげない顔をして、帝に申しあげた。
 「私に名案がございます。ひとつ試してみましょう」そして人々を引き連れて流れの早い川の瀬に行き、材木を投げ入れると、先になったほうに印をつけて、使者に手渡した。するとやはり、そちらのほうが木の末であった。
 続いて中国側は、全長が二尺ほどもある二匹の蛇を献上してきた。姿形は二匹ともそっくり同じである。「謹んでおうかがい申しあげます。この二匹の蛇の、いずれがオスで、いずれがメスでありましょうか」今度の問いも難問である。内裏の中で即座に答えられる者は、ただの一人もいない。そこで中将は帰宅ののち、ふたたび両親にこのことを話した。「他愛もない。二匹の蛇を並べて、尾っぽのほうに細い枝を近づけてみるのじゃ。尾っぽを動かしたほうがメスの蛇じゃよ」中将の両親はこともなげに答えた。
 翌日、中将が帝の前で両親の教えたとおりにやってみると、はたして一匹だけが尾っぽを動かした。そこでそのように使者に告げ知らせると、これも正解であった。
それからしばらくすると、中国の皇帝は三度日の使者を派遣してきた。今回の献上品は、一個の玉である。一見しただけではなんの変哲もないただの玉のようであったが、細かく観察してみると、玉のちょうど反対側の表面に、二個の小さな穴がそれぞれ口を開けている。そしてそれが七曲がりに曲がりくねった小さな空洞によって、玉の内部でつながっているのであった。使者は仰々しく口上を述へ立てた。「この玉の穴に糸を通していただきとうございます。もっともわが国では、だれもが簡単にやってのける小細工ではございますが」今度という今度は帝も困り果ててしまった。「どんな手先の器用な人物でも、こればかりはできかねまする」朝廷に出仕する貴族・公卿たちから、はては下々の者に至るまで、みんな口をそろえてそのように答えた。そこで中将は、もしやと思い、今回も両親にたずねてみることにした。「造作もない。一匹の蟻に細い糸を結びつけ、一方の穴から中にもぐり込ませればよい。その時、もう片方の穴のまわりに蜜をまぶすことを忘れなければ、蟻は蜜の香りに誘われて、空洞を通って向こう側に行くはずじゃ」中将は参内すると、両親の教えてくれたことを、そのまま帝に進言した。さっそく朝廷ではそのとおりにやってみたが、はたして蟻は一方の穴から他方の穴へとくぐり抜け、糸は玉を貫通した。そこで帝は、糸の通った玉を使者に返還した。
「日本の国にも賢者はいるものだ」中国の皇帝は感嘆し、それからは難題を吹きかけてくることもなくなった。一方、帝の喜びようはたいへんなものであった。彼は中将を呼び寄せると、親しく声をかけた。「このたびのそちの働きはみごとであった。望みのものを申すがよい。官職も、恩賞も、思いのままに取らせよう」「恐れながら、私は官職も恩賞もほしくはございません。ただ年老いた両親とともに都に住むことを、お許しいただきとうございます」「それはたやすいこと。そちの好きにするがよい」帝は快く、中将の願いを聞き入れた。この知らせを開いて、国中の人はたいへん喜んだ。
その後、この中将は神として祀られるに至つた。これが今に残る蟻通明神のはじまりであるとされている。


 ここまで読まれた方はご苦労様でした。改めて謝意をお伝えします。

蟻通神社に有王社が覆いかぶさったと言う古川仮説に幾らかでも賛同して頂ければ幸いです。

そもそも瀬織津姫とは祓戸神として藤原が創り出したものであり、実は九州王朝の初期を支えた金山彦の娘である櫛稲田姫の事なのです。

当然にも、近畿大和朝廷として権力を握った藤原(旧阿蘇氏=多氏、宇治氏…)にとってはあまり有り難くない忌むべき神なのです。

その本拠地の一つである豊の国の支配者が豊玉彦=八咫烏=豊国主であり、中心部に玉川町がある事からも分かるのです。

当然にも、現在日田を支配している大原の一族=大蔵氏…は近畿大和朝廷の植民地総督として入府している訳で、この八咫烏の都であった日田からその出口である夜明に八咫烏を祀る蟻通神社が存在することを疎ましく思い続けたはずなのです。

そして、「鬼と仏の国東半島めぐり」瀬織津姫神 有王社:瀬織津日女祭祀 によれば、平安末期にお鬼洲浜紋章を使う大蔵一族(恐らく後漢の靈帝の一族の別れで阿智王の一族の可能性を考えています)が持ち込んだことが分かります。


無題.png有王社の由緒は案内板にあるように

「人皇八十代高倉天皇(平安時代末期11681183在位)の御代、大蔵永秀の豊後国の関門守護を任として築城の櫛崎城に鎮座の処、宝永二年(280年前)現今の地に御鎮座奉斎す。当時は有王宮と称す」とのことです。以前、宮司様に他の伝承がないか確かめましたら、「他に伝えられているものはない」とのことでした。

異称で祭られる場合が多い、瀬織津姫神ですが、この案内板をみるとなぜかほっとします。神を示しており、賽銭箱の上に龍王が置かれている事、筑後川を海人族が龍と見なしていた事、櫛稲田姫が王と呼ばれたことなど全くない事から乱暴な結論を出しました。ご批判は甘受致します。

ご祭神の瀬織津日女神は罪・穢れを大海原の持ち出で給う神との記載があり、大祓いの神としての認識で一柱で祭られています。境内神社に菅原神社と水天宮があります。


ここまで見て来て、縦切り千木が男神を示しており、賽銭箱の上に龍王が置かれている事、筑後川を海人族が龍と見なしていた事、櫛稲田姫が王と呼ばれたことなど全くない事から乱暴な結論を出しました。ご批判は甘受致します。


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後漢の中平4年(188年)10月に12代霊帝は「皇帝直属の常備軍」の創設を構想したと言われています。八咫烏=豊国主=八咫烏は百嶋最終神代系譜ではAD132の生まれですので時代は符合します。

そして、大蔵氏は霊帝の一族の阿智王の後裔の可能性があるのです。

私には、八咫烏に凹まされたのが気に入らなかったのではないかと思うのですが、結果、蟻通明神は有王宮に変わったのではないかと考えます。これを詳しく説明すると、更に別のブログが必要です。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ

2024年02月28日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)ビアヘロ 224 再び大分県日田市の「大原八幡宮」を考える

ひぼろぎ逍遥(跡宮)ビアヘロ 224 再び大分県日田市の「大原八幡宮」を考える

20240109

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 新年に入り短期間に56件の照会が入り、百嶋神社考古学関係の資料を欲しいと言った話が相次いで持ち込まれました。やはり正月休みで落ち着くと気になっていた事に取り組もうとおっとり刀で動き出したところです。

 5年ほど前でしたが、太宰府地名研究会は日田の大社(天領ですから単純には言えないのですが事実上の豊後国一宮)大原八幡宮への神社トレッキングを行っています。今回、このリポートは検索ナンバーだけで省略しますが、現在の公式の祭神、由緒を見ておきましょう。     以下 日田の市のHPより

大帯比売命(神功皇后)、誉田別尊(応神天皇)、比売大神を祀る県下有数の規模を誇る八幡宮。680年に靱負郷岩松ヶ峰(天瀬町鞍形尾)に示現された八幡神を祀ったのが起源とされる。9世紀半ばに、当時日田郡司であった大蔵永弘によって、杉原宮から現在の元宮に遷座され、1624年代官石川主殿守忠総により、元宮から現在の位置へ遷座された。遷座前の場所は元大原神社や元宮神社と呼ばれ、現在も江戸時代中期に再建された社殿が残る。境内最古の建築物である楼門は貞享4年(1687年)の築造、拝殿・幣殿・本殿は寛政6年(1794年)の築造といわれる。

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ひぼろぎ逍遥(跡宮)

697

物部の大原足尼命を祀る日田の大原八幡神社とは何か?

696

日田の大原八幡神社も物部の神社だった “大分県日田市の

大原八幡宮を疑い再考へと”

695

大原八幡神社は物部の神社だった “福岡県みやこ町の大原八幡神社”

694

大原八幡神社は物部の神社だった “福岡県苅田町の大原八幡神社”


 そもそも第一回目の日田の大原八幡宮の個人的な調査から20人ほどのメンバーでのトレッキングを行った当時はそれなりに真面目に調べていたのですが、関連して大原八幡の名を冠する福岡県の二社を調べてみたわけです。

 大分県の場合は宇佐八幡宮の力が強過ぎる事からか、明治初期の神名帖以外頼れないのですが、福岡県の場合はかなり詳しい「福岡県神社誌」があるためたちどころに連鎖反応を起こすことになるのです。

では、福岡県苅田町とみやこ町の大原八幡宮をご紹介させて頂きたいと思います。

前述の通り、日田市の大社は、大帯比売命(神功皇后)、誉田別尊(応神天皇)、比売大神を祀る県下有数の規模を誇る八幡宮…と言うのが大原八幡宮です。

以下、苅田とみやこについて、その主要部分を二つのブログからご紹介したいと思います。


福岡県苅田町の大原


694 大原八幡神社は物部の神社だった “福岡県苅田町の大原八幡神社” 20181031


20186月でしたか大分県日田市の大原八幡宮への太宰府、大分の合同トレッキングを行なっています。


無題.png大原八幡宮  大分県日田市田島2-184

 この時に、苅田町の大原八幡神社にもご案内しようと思ったのでした。勿論、八幡宮と名乗ってはいるのですが、以前、参拝させて頂いた時から、単にそうとは言えない出自が感じられたのでした。

とりあえず、同社のHPから拾ってみましょう。驚くことに物部系の神社なのです。

 日田の大原の祭神は 誉田別命・大帯姫命・比売大神

本稿は、20181216日で計画しているみやこ町、苅田町、行橋市へのトレッキングに関する基礎資料です。日田市の大原八幡神社という大社の勧請神社とのふれこみではあるのですが、どうも物部の匂いが濃厚な神社の様です。この点、大原八幡神社がバリバリの八幡神社である点を考えると、むしろ苅田町のそれは、なおも原型を留めていると言う印象を持ちます。苅田町の大原は日田の大原からの勧請神社と証言している訳で、「福岡県神社誌」を読む限り、日田の大原本体も元々は物部氏の神社だったのであり、それを裏から見れば大嘘を吐いている事にはなるのです。その意味では苅田町とみやこ町には讃辞美を送りたいのです。

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大原八幡神社    カーナビ検索福岡県京都郡苅田町新津(大字)1427


苅田町の大原八幡神社


御由緒 大原八幡神社の御祭神は、大原足尼命 現在の豊前・豊後の国造 饒速日命 大原足尼命の祖先・物部氏の祖神 応神天皇 第十五代天皇・八幡の大神 仲哀天皇 第十四代天皇・応神天皇の父君 神功皇后 応神天皇の母君 五柱の神であらせられ、この豊前、豊後の国の祖神であり、私共の繁栄を守護し給う大神として、人々に普く崇敬するところであります。

 大原八幡神社の創建については、御祭神大原足尼命が神功皇后の御代(西暦二〇九年ごろ)豊前、豊後の国造として、民を安じ徳望あり、とくにこのころ新津に港を造り公私船舶往還の港となり大いに栄える。

命が亡くなれると住民は、この徳を慕い大字新津字祖父墓の地に命の塚を造り祭る。

其後六世紀後半(西暦五七〇年ごろ)この京都地方を治めていた物部氏が祖先を同じとする命を、港の正面に恩塚山に大いなる塚(廟所)を造り氏神として祭る。

その後、饒速日命・応神天皇・仲哀天皇・神功皇后を御観請し現在に至る。

この間約一七〇〇余年のあいだ、地域の守護神として人畜平安、厄除開運、生産豊登は謂うに及ばず海上安全、航空安全、交通安全、旅行安全、土木建築安全、縁結び、子授け安産・子そだて、心の病・婦人の病、機織・和裁洋裁の上達等の尊い御霊験を現わされ、人々の厚き尊敬を集め、年を重ねて参拝者も増え続け、現在の発展に至っております。

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それは、九州王朝が唐新羅連合軍に敗北し漁夫の利を得た近畿大和朝廷の時代になり、宇佐が応神単立から徐々に一社三殿五柱の神社に変わっていったのに連動し、元々宮、元宮を経て大原が変わっていったのです。

このように祭神は政情の変化に併せ、ころころ変わるのであり、変わりたくもあり、変わらざるを得ないものなのです。ただ、その事を曖昧に糊塗しようとすることに後ろめたさが付き纏いはするのです。


福岡県みやこ町の大原


695 大原八幡神社は物部の神社だった “福岡県みやこ町の大原八幡神社” 20181031


無題.png本稿は、20181216日で計画しているみやこ町、苅田町、行橋市へのトレッキングに関する基礎資料ですが、日田市の大原八幡神社という大社の勧請神社とのふれこみではあるのですが、どうも物部の匂いが濃厚な神社の様です。

20186月でしたか、大分県日田市の大原八幡宮への太宰府、大分の合同トレッキングを行なっています。

 大原八幡宮 カーナビ検索 大分県日田市田島2-184

 この時に、苅田町の大原八幡神社にもご案内しようと思ったのでした。勿論、八幡宮と名乗ってはいるのですが、以前、参拝させて頂いた時から、単にそうとは言えない出自が感じられたのでした。とりあえず、同社のHPから拾ってみましょう。驚くことに物部系の神社なのです。 日田の大原の祭神は 誉田別命・大帯姫命・比売大神

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大原八幡神社古墳(左) 大原八幡神社(右) カーナビ検索 福岡県京都郡みやこ町勝山大久保3014


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しかし、ここにはニギハヤヒの後裔の10世の孫が拠点にしていた具体的な記述が書かれているようで、今後、九州王朝の豊国国造が置かれていた所在地としての認識を持って同地を調査すべき事が分かるのです。

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長髓彦の妹として御炊屋姫が宇摩志麻治命と書いてありますが、百嶋最終神代系譜では辛国息長大姫大目命は山幸ことニギハヤヒと海幸こと草部吉見と婚姻関係を結んでおり、各々の子はどちらから見ても、共に義理の姉妹、兄弟と言えない事も無い事から、実際にはどちらの系統なのかは良く分からないのです。

 一応、宇摩志麻治命が出ていますので辛国息長大姫大目命の事としておきますが、なお、鮮明ではありません。

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では、大原帯尼命とはどなたなのでしょうか?

 「大原足尼者…大原大明神旧事本紀日大原足尼命筑紫豊国国造等置部与曾命之命」と書かれている以上、相当な有力者であり、ニギハヤヒの後裔代であったと考えられそうです。

天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊=ニギハヤヒの九世の孫である 置部與曾命(おきべよそのみこと)の子…と「先代旧事本紀」の全文が書かれ、物部系の由緒がそのまま書かれていたのです。


十世の孫の淡夜別命(あわやわけのみこと)。大海部直(おおあまべのあたい)等の先祖。弟彦命の子供。次に大原足尼命(おおはらすくねのみこと)。筑紫豊国国造(つくしのとよくにのくにのみやつこ)等の先祖。置部與曾命の子供。 「文字獲得史考」によるとなるのです。

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文中にはニギハヤヒ、彦山の高木大神、草部吉見、香春岳のカラクニオオヒメオオメノミコト=アメノウヅメと天香語山命(新潟市の南の弥彦神社の主神)と物部の匂いがプンプンしますね。

 下書ですが、少し腰を据えて考えて見ましょう。円内は皆さん関係者の様です。


 百嶋由一郎氏が残された音声CD、手書きデータ・スキャニングDVD、神代系譜スキャニングDVDを必要とされる方は09062983254までご連絡下さい。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ

2024年02月25日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)ビアヘロ 223 再び大分県日田市の「加々鶴」地名を考える

ひぼろぎ逍遥(跡宮)ビアヘロ 223 再び大分県日田市の「加々鶴」地名を考える

20240108

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


新年早々、日田市在住の神社研究をされておられる方から問い合わせを頂き、近い所でもある事から、翌日、市の中心部に出掛けお会いすることにしました。

同世代の方であった事もあり話はスムーズに進みましたが、そこに後から同席された方が地名研究に思いを寄せる方だったのです。

しかも、小規模ながらも地域研究のグループからさらに活動を拡げたいと腐心されておられる方々だったのです。

相互に情報交流をできることもあり、更に当方が把握できていない地元の情報も得られる可能性もある事からご協力できる範囲で接触を深めたいと思った次第です。

さて本題に入りますが、以前、と言っても8年以上前になりますが、大分県日田市の「加々鶴」トンネルの「加々鶴」と言う地名についてブログを書いたことがありました。

 まずは、短いため、全文を掲載しておきます。


257 日田市の「加々鶴」地名について “「カカ」を「蛇」とする民俗学者吉野裕子説から

20151026 久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


久留米地名研究会の天ケ瀬温泉五馬高原研修所にいる事が多くなると、大分県日田市から久留米市や筑豊の田川市に向かう事が非常に多くなります。

そうなると、決まって、国道210号線の加々鶴(カカヅル)トンネルを抜け夜明ダム上流の夜明橋付近を頻繁に通過する事になります。以前から気にはしていたのですが、ようやく意味が分かりました。

今回は、この奇妙な「加々鶴」(カカヅル)という地名の話です。

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もう亡くなられて久しいのですが、吉野裕子という民俗学者がおられました。

 その著書の一つに非常に知られた「蛇」があります。

この論旨を我流に要約すれば、案山子(カカシ)とは田んぼの収穫を荒らすネズミや雀を追い払う蛇を擬制したものであり、「カカシ」の「カカ」が蛇の古語で、「シ」は人を意味している。

 それの説明として、正月の「鏡餅」の「カガミ」も「カカ」+「ミ」(巳)であり、蛇がトグロを巻いているものを、豊穣のシンボルとして、感謝を表したもの…になり、蛇の一種として「ヤマカガシ」があることも蛇が「カカ」と呼ばれていた痕跡となるのです。以下、ネット上から参考に…

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日本原始の祭りは、蛇神と、これを祀る女性(蛇巫=へびふ)を中心に展開する。
1.女性蛇巫(へびふ)が神蛇と交わること
蛇に見立てられた円錐形の山の神、または蛇の形に似た樹木、蒲葵(ピロウ=ヤシ科の常緑高木)、石柱など無題.pngの代用神や代用物と交合の擬(もど)きをすること。今も沖縄および南の島々に、祭祀形態として残る
2.神蛇を生むこと
蛇を捕らえてくること
3.蛇を捕らえ、飼養し、祀ること
縄文土器にはたくさんの蛇の文様が登場する。縄文人の蛇に寄せる思いは、次の2点である。これらの相乗効果をもって、蛇を祖先神にまで崇(あが)めていった。
1.その形態が男性のシンボルを連想させること
2.毒蛇・蝮(まむし)などの強烈な生命力と、その毒で敵を一撃で倒す強さ
埴輪の巫女が身につけている連続三角紋、装飾古墳の壁に描かれる連続三角紋・同心円・渦巻紋も、蛇の象徴であると推測される。
稲作の発達につれて弥生人を苦しめたのは、山野に跳梁(ちょうりょう)する野ネズミだった。ネズミの天敵は蛇である。弥生人は、ネズミをとる蛇を「田を守る神」として信仰したと思われる。
日本人は、蛇がトグロを巻いているところを円錐形の山として捉えてきた。それが円錐形の山に対する信仰につながる。三輪山はその名称がすでに神蛇のトグロの輪を意味し、神輪(みわ)山の意がこめられている。

日本の蛇信仰(吉野裕子著) - tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」より

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お分かり頂けたでしょうか?

この吉野裕子の「かかし」=蛇説については、久留米地名研究会の永井正範氏から教えられ、以前から気にはしていたのですが、加々鶴トンネルの上の高井岳にそれらしき形状(「おかがみ」山)を発見できなかった事から(ただし、一キロほど上流から見ると「おかがみ」山のように見えるため高井岳も可能姓はありそうです)、それっきりにしていたものです。ただ、良く考えると、国道210号(現386)線から嘉麻峠へと向かう211号線の夜明鉄橋北側の小山が、まさしく「おかがみ」山だったのです(次の写真)。

この一帯は夜明ダムが完成する昭和28年頃まで、筑後川流域の旧安楽寺領(太宰府天満宮の前身)などの杣山から切り出された木材が、古くは太宰府まで持ち込まれるために筏に編成されて下流に送られる中継地だったのです。

右岸からは彦山方面から大肥川が流れ込み、筏流しを行う海人族により多くの木材が編成される場所だったのです。そのような場所だからこそ変則的な交差点には志賀島の志賀海神社が祀られているのです。

あとは、グーグル・アースや国土地理院による地図閲覧システムなどで、現地をご自分で検証してご判断下されることをお勧め致します。

この一帯が「筑紫」「豊」の国境をなす場所である理由は、大蛇行部の険しい地形にあることは明らかですが、この蛇行する大峡谷は詰まり易く、時として大きな堆積を起こす事によって、ダム化する事によって上流部に水平堆積が進み日田の平野が形成されたとも言えそうです。

 この加々鶴地名の「カカ」は「オカガミ」山か「蛇行部」を以て、蛇を神と見なす海人族に「カカ」と名付けられた可能姓はあると思います。

 では、「鶴」はと言えば、蛇行地を蔦の蔓とも見立てられますし、鶴(鶴自体が蔓から付された名称でしょうが)の首状の地形に見える事から「鶴」が充てられたとも言えるでしょう。

 なお、地名研究では「鶴」地名は断崖地名(足摺岬)ともされますので申し添えます。

以上 ひぼろぎ逍遥257

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無題.png東京都に赤池濃の三女として生まれる。1934年女子学習院本科を卒業し、1936年に同院高等科を卒業。1942年『風のさそひ』を上梓。専業主婦となるが、日本舞踊を習っていたことから民俗学に関心をもち、1954年津田塾大学卒業、1970年著書『扇』を刊行、1977年「陰陽五行思想から見た日本の祭」により東京教育大学文学博士の学位を授与される。在野の学者として著書多数。全集全12巻がある。2008418日、心不全のため死去。


ウィキペディア 20240116 09:52

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加賀ではなく加々が正しいはずです。グーグルのミスでしょうね。


 加々鶴トンネルの下流23キロに夜明ダムと古代の筑紫、豊の国境があるのです。

 このような大蛇行の地形は低平地の泥地にはあるのですが、田栄神社付近は50100メートルを超える断崖絶壁の岩塊でありこの様な地形がどのように出現したのか今もって理解できないでいます。

 ともあれ、この地形こそが蛇に見立てられ、「カカ」と呼ばれた事は間違いないはずです。

 では、この地名を付した人々とは一体どのような人々だったのでしょうか?

 一言で言えば、海人族と言えば解かった様な気がするのですが、直ぐに同意を頂けるとも思ってはいません。

 この「海人族」という概念は、元々、宝賀 寿男(東大法学部出身の官僚から弁護士)が言い出したもので、学者ではないのでしょうが、何故かそれなりに定着しています。何やら、柳田先生を思い出します。

 一般的には九州でも中心部に近い豊後の山岳地帯の入口に近い場所に“どうして海人族が入っているんだ”と思われる方が多いかも知れません。筑後川河口からは優に7080キロはあるからです。

 それに答えるには、多少頭を働かせる必要があるかも知れません。そもそも筑後平野は列島でも最大級の平野である事は皆さん良くご存じでしょう。

 海に隣接する場所で平地ができるのは海の中に土砂が流れ込むと水平堆積が起こり平地ができます。

 類型になりますが、この現象が山中で起きるには、河川が土砂崩れなどで閉塞され自然のダム湖ができると水中では同じような堆積が起こり同様の平地が生じます。

 そこで決壊が起こり水が抜けるか、それを意図的に決堤させると一挙に大量の平らな農地ができるのです。勿論、安全のために少しずつ行ったでしょうが。

 これが全国に分布する蹴破り伝説であり、近い例では熊本県の阿蘇谷の健磐龍の蹴破り伝承であり、菊池、山鹿、植木に広がっていたと言われる古代湖「茂賀浦」です。

 そして筑後平野の最奥部に夜明ダムがあり加賀鶴トンネルがあるのです。つまり、筑後平野とは有明海の最奥部の痕跡地だった事が分かるはずなのです。

 とすると、海人族が今は筑後川と言われている古代久留米湾とでも言うべきところまで入っていた事はお分かり頂けるのではないでしょうか?

 その証拠と言うほどのものではありませんが日田市大字夜明の夜明駅のそばに神社が置かれています。それが志賀神社であり、博多湾の志賀島の海人族が祀ったものである事がお分かりになるでしょう。

 恐らくは、大肥川流域からも木材が流されこの地で筏が組まれていたのでしょう。

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そうすると、昭和28年に夜明けダムが造られた結果終了させられた筑後川の筏流し、川流しを行っていた人々がどのような人々であったかが蘇ってくるはずです。

 それは博多湾側から有明海に回ってきた志賀島の一族であり俗に海人族と呼ばれた人々だったのです。

 彼らのご先祖様達は筑後川の奥地まで入り込み、びっくりするような大木を切り出し、小さなものは現地で繰り抜き、大きなものは大川市の筑後川河口まで流し大船に仕立てていたはずです。

 そう考えれば、日田の奥の天ヶ瀬温泉も海人族が活動していたから付されたものである事が見えてくるはずです。海人が瀬温泉だったのです。

 また、平安朝どころか大和朝廷以前まで遡るはずですが、太宰府天満宮の前身の安楽寺領が日田周辺にも散見されます。これは古代の杣山の名残のはずで、現在の林野庁がでたらめな人工林を利権目的で増産し、売れもせずに災害を引き起こし続けているのとは対照的に急傾斜地を避け管理された林地=杣山が保たれ大寺院、寺社の用材をこの地で育て筑後川を利用し太宰府まで供給していたのです。

 既に、そのころまでには大木は太宰府近辺には無かったはずなのです。

 まあ、六十年ごとには改修の必要もあり、そのペースで森は育てられていたのであり、筑後川の河口まで運び大船を造る場合は左岸に流し、宝満川を利用して太宰府に運ぶ場合には右岸に振り分け、中流域に在ったと思われる多くの中州で早めに振り分け左右に移動させていたのです。

 そこに船越と言う地名(久留米市田主丸町船越)が現存している事は半ば歴史を証言しているのです。

 詳しくは、グーグル・マップなりグーグル・アースなりで、周辺の地形や環境を確認して頂きたいのですが、書く言う私自身は、この筑後川沿線の400メートルほどの国道トンネル(210号)がどうのとか言う話の前に、もしも吉野裕子先生が生前にこのトンネルを通っておられたら…と思うと、いつも冷静に考えることができず、ついつい燥いでしまう自分を恥じている事に気付いてしますのです。

そして、このことに気付いている人がどれくらいいるだろうと思い続けているのです。

 まずはこの周辺の地形を見て頂きたいと思います。

カカは夜明の大蛇行地であり、蛇のとぐろを意味しているはずで、ツルはこの一帯の険しい崖を意味しており、鶴と美しい字を当ててはあるものの、鶴首の蛇行と崖地のヅリ落ちるの意味が込められているのです。


 福岡市中央区赤坂 不知火書房 0927816962に 販価1575


 無題.pngもしも多少とも興味を持たれたら、筏流しの中乗りさんであった渡辺音吉さんの証言をお読み頂くと、この一帯の事がより鮮明に浮かび上がってくる事でしょう。

 そもそも、渡辺姓も渡りの部=渡部(愛媛の大山祗神社の一族)であり、物資や人員を搬送していた志賀島の海人族であることを証言しているのです。

まさしく中乗りさんの名としてもその人生を体現されているようです。

まだ、「カカ」が蛇を意味しているなど信じられないと思われる方は多いと思いますので僭越ながら補足させて頂きますが、蛇でも比較的大きいものにヤマカガシがありますね。これなどは蛇=ヘミ、ヘビが案山子である事を伝えています。

穀物生産を行うと、貯蔵していたものが雀や鼠に食い荒らされる事が最もまずい事で、船舶では鼠を退治するために猫が載せられ、田んぼには案山子が置かれました。

それはそのまま蛇を意味しており、表現は悪いですが、蛇人間を意味していたのです。

こうして蛇は穀物を守る神にまで高められ、富の象徴となり、とうとう財布の中にまで蛇の飾りが入れられ、趣味は悪いのですが数十年前まで蛇皮の財布が大阪のおばちゃんなどに珍重されたのでした。

従って、蛇神様とは富の象徴であり、決して邪教などとは考えないで頂きたいのです。

それは揚子江流域の春秋戦国の呉の国から稲=米を必死で携え持ち込んできた人々の思いが込められており、長江とは巨大な龍であり、蛇でもあったのです。

近年、揚子江ワニと言われる小型のワニが龍のモデルではないかとささやかれているのです。

そして、夜明ダムの近くには有王神社までがあるのですが、現在、この神社は近畿大和朝廷の植民地総督として進出してきた大原八幡宮=大蔵一族が祀る瀬織ツ姫とされています。

この原型を考えれば、これもヤタガラスを祀る神社だったのであろうと思うのです。これについては別稿とさせていただきます。この神社の祭神も実はカミムスビの神(博多の櫛田神社の主神=大幡主)の子豊玉彦(日田の中心部には玉川町がありますね)=ヤタガラス=龍王であり、海の龍は海蛇でもあるのですが、これが有王神社と関係がある事は次のお話にしたいと思います。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ