太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「百嶋神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログを継続しています。


これにはプロバイダーを含め何時情報封殺が行われるかも知れないため、最低でも複数の発信媒体を準備しておくべきではないかと考えているからでもあります。


今後ともかなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史によるblogひもろぎ逍遥に対抗しようという意図はないのですが、華麗なひもろぎ逍遥に対して、緋色のボロ着で、神籬=ひもろぎ(ひぼろぎ)を逍遥=彷徨い歩き、神社を探るというほどの意味で、「ひぼろぎ逍遥」を随時書いて行くことにしたものです。ただし、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象なども認められます。


 さて、現在、ひぼろぎ逍遥とひぼろぎ逍遥(跡宮)との合計のアクセス数は日量10001200件(年間4045万件)まで上がっています。


 同時に、連携する研究者によるblog20近くまで数を増やしており、全体では最低でも年間100150万件近いアクセス数を持っているものと思われます。


 当blogには九州王朝論から百嶋神社考古学へと向かわんとする多くの研究者、記録者、bloger…が参集されています。


 年に10回、10年でも高々100回程度の研究会でも大半は教育委員会関係者から学芸員といった利権まみれの方々通説を拝聴し心服するような、研究者亡き研究会は全く何の価値もないものと考えており、そのようなどこにでもあるような話を好まれる方々は、そこら辺りの既存の郷土史会、史談会に行かれ、村興し、町興し、世界遺産登録に拍手を送り、思いっきり尾を振られれば良いでしょう。


しかし私達は後ろ指を刺される様な探究に踏みとどまり、これまでの歴代の行政権力が隠し続けた真実の歴史の探求へと向かう人々への道標と成ろうと思うものです。




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無題.png読者の皆さんに…真実の神社研究へのご支援を…


太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久




ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥の読者の皆様、また、グループのブログをお読みの皆様、暑い中、丹念無題.pngにお読み頂き有難いと思っています。


 古田武彦が亡くなり、また、百嶋由一郎氏が亡くなり数年が流れました。


 当初、貴重極まりない百嶋研究の一部でも残せないだろうかと考え、手書きデータや神代系譜文書のDVD化、音声データの保存、複製、宣伝という作業を続けて来ました。しかし、単にデータの保管、配布の体制を確立するだけでは継承ができないと考え、blogで百嶋研究の説明、現場実調を徐々に進め公開してきました。この結果、全国にも理解者が増え始め、神社研究ではなんとか特異な勢力を形成できる所まで漕ぎ着けました。


 既に、百嶋研究の一部でも接点を持った全国の二十五人を超えるブロガーが独自の側面から研究を進めておられますし、ブログは書かないまでも、神社調査を行い記録を残している方もおられます。


 勿論、統一性は取れてはいませんし、なかなか難解な内容だけに、解明できない問題についてはメンバーの若い世代に託すことになるでしょうが、なお不明なものは後世の研究者に期待する事に成るでしょう。


 百嶋先生と知り合いになったのは七年ほど前だったと思いますが、もしも後数年生きておられたならばもう少し古代、神代の謎を継承できたかも知れません。しかし、未熟な者だけで作業を行わざるを得なかった事から今尚皆さんにご迷惑をお掛けしているものと理解しております。


しかし、私達の能力を考えれば、むしろ上出来といったものかも知れません。


さて、メンバーの背骨を形成している中心的思想とは、当然にも九州王朝論です。


 百嶋先生も“私も九州王朝論が分かっていない人に神代史を教えても意味がないし、教えたくないですね…”と言われていた事が今でも耳に残っています(吾は百嶋由一郎の面受の弟子なり!)


さて、四月の近江〜但馬、五月の糸魚川〜諏訪〜山梨、六月の青森と15日間づつ三度に亘って長躯の神社調査を行いました。


ぶっ続けで調査すれば良さそうですが、落ち着いてリポートも書かなければならず、研究会のスケジュールもあってそういう訳にも行かず、各々3,0004500キロの往復の調査とならざるを得なかったのです。


今後も、三重、和歌山、岐阜、福井…と、よりきめ細かい調査に入るつもりですが、もはや資金が底を尽きつつあります。


元々、福島の原子力災害辺りから、これ以上行政機関に留まりたくないとの思いが募り、後先き考えずに58歳で早期退職した事から(当時上の娘は大学に在学中だったのですが)年金と言ってもギリギリ暮らせる程度の物で、なんとかここまで働かずに神社調査を行ってきましたが、既に限界点を越え始めたようです。事実、当会は研究を優先するためメンバーから会費を取る事なく僅かな参加費で運営しています。


人手不足の時代、まだ、働こうと思えば職はあるはずですが、拘束時間が長くなれば、研究を進める事ができないまま人生の終末期を迎える事にもなりかねず、できるだけ体力がある間に遠距離の調査に入りたいと思っています。このため、出来る事ならばこのまま神社研究に専念したいものと考えています。


基本的には年金生活で何とかやっていますので、月額であと二〜三万増やせれば、車の維持、車検、保険、介護保険料、研修所の維持、研究会の組織化、ネット規制に対応するためにもう一つ別の発信のためのサイトの準備……と増加する負担にも対応できるのではないかと考えています。


今後、研究内容を保全するためにも、外付けハード・ディスクをタイム・カプセル化して鍾乳洞に保管する(太陽フレアによる磁気データの消失への対策)とか、研修所の維持、後世に残すためにユーチューブ化してオンエアするなど新たな作業に入る必要も生じており、もし可能であれば、通説とは全く異なる百嶋神社考古学の保護と継承のためのご支援をお願いできないかと考えています。


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年間一口2000円以上の任意の百嶋神社考古学研究会の支援会員となって頂ければ、九州においでになった際に会員待遇として温泉付き研修所に一泊お泊めできます。九州での神社調査の拠点として活用下さい。


振込用の銀行預金講座、郵便貯金番号は以下の通りです。


 大分銀行 若宮支店 000093−7505802 フルカワ キヨヒサ


 ゆうちょ銀行 店番 778 預金種目 普通預金 口座番号 1165562 氏名上に同じ


また、もし差支えなければ、以下のメールにお名前と住所と電話番号を以下のメールに送信して頂き、カンパした旨の連絡を頂ければ、神代系譜のDVD(既にお持ちの場合はそれに代わる音声データなど)をお送りできるものと考えています。


 携帯のメール・アドレス ariakekai@ezweb.ne.jp携帯 09062983254 (常時対応)


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2018年09月10日

ビアヘロ063 上総国の龍宮 一宮町 玉前神社 (下)

ビアヘロ063 上総国の龍宮 一宮町 玉前神社 (下)

20180723

太宰府地名研究会 古川 清久


 ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)の右のリンケージ・サイトに未知の駅 捄フサがあります。

 千葉県在住の女性によるものですが、非常に質の高いトップ・クラスの歴史、地名、神社研究…のブログです。当グループと提携してまだ一年にもならないのですが、我々が最も重視している、千葉、茨城の東関東から福島(阿武隈山系)をカバーして頂ける素晴らしい研究者と期待しています。

私の予備知識は多摩地区、埼玉(元は前玉)の東としての玉前(前は崎、先でもあり東の意味もあるのです 豊後の国東と同様)程度です。

 このエリアでは、無題.pngのお二人が百嶋神社考古学の立場を理解された上で研究を進められていますが、新たに強力なスタッフが加わられたと考えています。

無題.png

さて、ひぼろぎ逍遥(跡宮)の ビアヘロ060 天照大御神の母神は播磨の佐用町で祀られている “百嶋神社考古学概論入門編 A”を掲載しました。

 無題.png天照と神武が同時代などと言えば通説派の方々は笑い飛ばされるでしょうが、百嶋神社考古学では、呉の太伯の後裔列島大率の子である神武の腹違いの姉大日孁貴(オオヒルメノムチ)が後に対外的にも卑弥呼と呼ばれ、最後に天照大御神と祀上げられた事を知っているのです。

 このため、天照大御神の母神を祀る播磨の佐用都比売神社の境内摂社を取り上げたことから、無理を承知で、神武天皇の母神(我々は神玉依姫と呼びますが)を祀る玉前神社のリポートをお願いしたところ、一週間程度で素晴らしいい報告をして頂きました。

 既に、オンエアされていますので、皆さんも彼女による 上総国の龍宮 一宮町 玉前神社 を他稿と併せお読み頂きたいと思います。


悠久の昔、山の神である鵜茅葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)が海の神である玉依姫命(タマヨリヒメノミコト)を見初め、契りを結ばれました。そしてお生まれになった神武天皇をはじめとする神々は、海までつながっていると伝えられる井戸から水路を通って、九十九里浜まで流れていかれました。

(同社HPによる)

 では、部分的に重複しますが後篇をお読み頂きましょう。


白子神社 白子町関5364 無題.png



すごい彫刻と男千木以下Wikipediaより永承3年(1048年)八斗村太夫野に大国主大神を勧請し奉祭したことが当社の創祀という。その後、大治元年(1126年)里人が海岸で潮を汲んでいると南方沖より白亀が漂着し、その甲羅の上に白蛇がわだかまっていた。

霊感を感じた里人が「神様ならお登り下さい」と潮汲みの柄杓を差し出すと柄を登ってきたので、これを神と崇め八斗村太夫野の社へ合祀したと伝えられている。

久安3(1147年)に現鎮座地の関へ遷祀し、治承元年(1177年)千葉氏の祈願所と定められ、宝永5(1708年)には正一位の極位を授けられ白子大明神の社号を賜った。

近世南白亀郷12ヶ村の総鎮守であり社号は白子町の町名の起こりである。

宝暦12(1762年)再建の現本殿と、矢大神(随神像)は、白子町の有形文化財に指定されている。

また境内の樹木群は白子町の天然記念物に指定されている。

甲羅の上に白蛇がわだかまっている白亀なんて、まんま玄武ですね。白子神社の側を流れる川の名前も伝説にちなみ、「南白亀川ナバキガワ」といいます。

玄武は北斗星信仰の妙見神と関わりが深いです。

千葉神社の妙見神は童子の姿で玄武に乗った姿で顕現したといいます。

白子神社の北辰大帝は北極星を神格化した神様で星空で唯一動かない星であることから、大陸では皇帝を表す「天皇大帝」と呼ばれました。

他にも「太一」や「妙見菩薩」とも同一視されています。白子神社では「北辰大帝」と称しています。

「白」の字の点が龍の顔に見えます無題.png

この「北辰大帝」こそ神玉依姫のダンナさんである「呉の太伯君」ではないかと考えています。


無題.png県内にたくさん星信仰の神社がありますが北辰大帝を奉斎する神社はいまのところ白子神社しか知りません。

そして白子町という町名の由来にもなった白子です。白族出身である神玉依姫に縁があるとしか思えないネーミング。族の孫の住む地、という意味でしょうか。

そして白子町を中心に広がる、ある小字の存在に驚きました。一宮の玉前神社から九十九里町まで、海岸線から内陸約1キロ付近に同じぐらいの間隔をあけて八大龍王が祀られています。

八大龍王は天太玉命(豊玉彦)の別名で、神玉依姫は彼から見ると父の姉です。

注目したいのが、その鎮座地の地名なのです。

なんと「龍宮」という言葉が使われているのです。

地籍までは調べられなかったので正確な小字名が不明な鎮座地が多いのですが列記すると、一宮町新地甲字龍宮下  諏訪神社がある一宮町一宮字龍宮・下龍宮  八雲神社がある一宮町東浪見字龍宮台  八坂神社がある長生村一松丙字龍宮台に鎮座、ほか上龍宮・中龍宮  海神社長生村一松戊  龍宮神社白子町古所字龍宮下・龍宮後・龍宮台  龍玉神社白子町八斗字北龍宮台・南龍宮台・龍宮台・龍宮下  八龍神社白子町幸治字龍宮  八大龍神社白子町驚字龍宮下  面足神社がある白子町剃金字龍宮台  八龍神社白子町五井字龍宮台  八大龍神白子町浜宿  龍宮神社白子町南今泉  竜神神社白子町牛込字竜神下  龍野神社大網白里市北今泉字北龍輪・北龍輪下・南龍輪・南龍輪下・竜神後・竜神前  八大龍王九十九里町真亀  龍宮神社九十九里町細屋敷  龍神社九十九里町粟生  龍神神社・龍神社以上19カ所。龍に関係のない神名の神社は、もしかしたら境内社に龍神が祀られているかもしれません。

地図の青いマークをご覧ください。

これは古代の海岸警備地の跡なのではと感じました。

玉前神社が創建された頃ではなく、もっと後の時代の事だと思いますが、厳重な警備をしなければならない理由が白子神社にあったのかもしれません。

等間隔で警備員を置いた「龍宮台」、そこには守るべき「龍王」がいた、なんて想像するとワクワクしますね!!でも神社の創建より北辰大帝が祀られたのは後じゃない?という声が聞こえましたよ!私もそう思っていたのですが、とある事実を知り納得がいったのです。

それが私幣禁断に類似する禁令です。

以下Wikipedia。私幣禁断とは、一般には天皇家の祖霊を祀る伊勢神宮を天皇・皇后・皇太子以外が祀ることを禁じたことを言う。これに似た内容の禁令が以下のように出されている。

796年日本の天皇は北斗七星を祀ることを禁じた。罰則として 「法師は名を綱所に送り、俗人は違勅の罪に処せ」 と規定した(『類聚国史』 「延暦十五年」)。

799年斎宮が伊勢神宮へ行くに際して 「京畿の百姓」 に 「北辰に灯火を奉る」 ことを禁じた(『日本後紀』 「延暦十八年九月」)。811年斎宮が伊勢神宮へ行くに際して九月の一ヵ月間、「北辰を祭り、挙哀改葬等の事」 を禁じた(『日本後紀』 「弘仁二年九月一日」)。

835年斎宮が伊勢神宮へ行くに際して九月の一ヵ月間、「京畿」 での 「北辰に火を供えること」 を禁じた(『続日本後紀』 「承和二年八月二日」)。967年施行の 『延喜式』 は斎宮が伊勢神宮へ行くに際して 「九月一日より三十日まで、京畿内、伊勢、近江、等の国、北辰に奉灯し、哀を挙げ、葬を改むる」 ことを禁じた。なお、1811年伊勢神宮の私幣禁断は解かれたが、北極星および北斗七星の祭祀解禁の時期は不明である。このことからわかるのは@北辰信仰は一定の時期、禁止されていたA北斗七星への星信仰は長く禁止されていたB北斗信仰は天皇家の祖霊に繋がる?です。これを知って、あ〜だから妙見信仰の粟飯原氏は千葉氏と手を組んだのか〜とか、白子神社ももしかしたら隠して奉祀していた御祭神を完全にOKになってからやっと表に出したのかな〜とか、表に出すために白亀と白蛇の話が生まれたのかな〜とか、でも「白」に拘るところがやっぱり白族だな〜とか、いろいろ考えてしまいました。白子神社本殿の神紋は忌部を現わす三光紋。それなのに祀られているのは大宜都姫ではなく男神。やはり神玉依姫のダンナさんの太伯君じゃないかなーと思うのです。そしてトドメの証拠なコチラ。玉垣神社睦沢町下之郷371現地取材に行けていないので画像がありません、スミマセン。

グーグルマップで見ていただきたいです(土下座)平城天皇が創建した六社の一つで元は若宮神社でした。御祭神はなんと神日本磐余彦なのです!神玉依姫の御子=若宮だから若宮神社だったのです!何時から玉垣神社に社名が変更になってしまったのか不明ですが、これも正体を隠そうとしての事だと思います。これまでに県内で何度か「神武天皇」の板碑や石碑は見たのですが、大きな神社で、しかも「神日本磐余彦」での奉斎は初めてです。玉垣神社鵜羽神社は平城天皇が創建した六社及び現在上総十二社祭に参加している12社の中でも別格扱いです。この事実からも玉前神社と深く関係する神社であることが読み取れます。

ただし一つ残念なのは、現在の玉前神社は元々の鎮座地ではないということです。

実はすでに安房国一宮安房神社、下総国一宮香取神宮も取材しているのですが、他の一宮に比較して規模が小さすぎる!!摂社末社も少ない!!おかしい!と思い玉前神社の歴史を調べたところ、永禄9年(1566)に里見氏と北条氏の対立による戦禍で一宮城が落城、玉前神社も焼失していることが判明。

この時社家を含む城兵300名余りが御神宝を奉じて海上郡守・海上刑部左衛門常忠を頼り飯岡に逃れます。なぜなら飯岡には玉之浦(現在の九十九里海岸)を挟んで一宮・玉前神社と対になる、もう一つの玉崎神社が鎮座していたからです。途中敵の襲撃を受け東金市田間にて草叢に隠れて一夜を明かしますが、闇の中御神宝が輝き里人に発見されました。

しかし事情を知った里人から情を受けて無事に飯岡へと向いました。

里人はこの出来事から当地に玉崎神社を勧請、村の名前も「玉村」となったといいます。(現在は「田間」になっています)その後、玉前神社の御神宝はしばらく飯岡の玉崎神社にありましたが天正5年(1577)に一宮町に戻ります。

しかしすでに宮地の所有権が変わっており困ったようですが、里見義頼が土地を寄進して復興できたといいます。(現宮地は義頼が寄進した地ではないそうです)では元はどこにあったかですが、私は城山公園付近に鎮座していたのではないかと考えています。

ということでFloodMapsで海の高さを+20mに設定した地図をごらんください。

見えますか?上総国一之宮玉前神社の文字。海の底ですね。海の高さを+20mにした根拠は、実はもう千葉県の一宮はすべて取材しているのですが、創建年代は古い順に書くと安房神社→玉前神社→香取神宮だと考えておりまして、安房神社で発見された古代海人の遺骨があった海蝕洞窟が海の側にあったとしてFloodMapsを調整すると+30mなのです。縄文海進は次第に海水が引いていったので、玉前神社では+20mとしました。


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ちなみに玉垣神社と鵜羽神社はこうなります。

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水際に鎮座する形になりますね。現・一宮町に神が上陸したのは釣ケ崎海岸であったと伝承は伝えます。

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東京オリンピックではここがサーフィン大会の会場になるそうです。伝承ではこの海の沖に豊玉姫の化身の鰐鮫がいるとのこと、サーファーの人達を見守っておられるのでしょう。

釣ケ崎の地名由来は山幸彦が釣りをしたから、という「海幸山幸」の物語の舞台が当地ということになっています。九州の伝承がそのまま伝わっているところからも黒潮に乗って船で遥々やってこられたんだな〜と感じます。「上総十二社祭」では当地に御神輿が集結します。千葉県では御神輿の御浜下りが普通なのですが、この神事も他の土地から船で渡ってきた祖霊を想っての儀式なんだろうなと思います。海を渡ってきた神々が水浴びをしたという地がこちら。


神洗神社一宮町綱田

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こちらは玉前神社の元宮であると言われています。玉前神社の宮司さんも認めておりました。

神洗池長い船旅で塩でベトベトだったでしょうから、真水は嬉しかったでしょうね。

特に女性であれば猶の事。こちらは海の高さが+20mだと・・・

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ちゃんと地上ですね。神々は上陸して割とすぐに真水を発見できたのでしょう。最後に玉前神社・白子神社の境内社を記載します。玉前神社の境内社本殿からは遠い場所にそれぞれ鎮座してました。

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十二神社・・・一宮町内にあった12社を合祀した神社愛宕神社  軻愚突智命八幡神社  誉田別命三島神社  事代主命白山神社  白山比売命日枝神社  大山咋命山神社   大山祇命浅間神社  木花開耶姫塞神社   八衢比古命・八衢比売命・久那斗命蔵王神社  大物主命粟島神社  少彦名命熊野神社  櫛御毛野命水神社   罔象女命

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三峯神社 不明

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稲荷社  不明 白子神社の境内社 本殿の後方、左右に鎮座。

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八幡神社 誉田別尊(本殿からみて右に鎮座) 仮安置 子安神社 木花咲耶姫大神

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面足神社 面足尊(本殿からみて左に鎮座) 仮安置 須勢理姫大神・事代主大神

オマケ 今回の取材で一番のオドロキ↑イケメン様!!!これからは面足尊をイケメン様とお呼びいたします。


お分かり頂けないかもしれませんが、息を呑むばかりのほぼ完璧なリポートを頂きました。

 これで、この間頭の片隅に張っていた蜘蛛の巣が解消されました。一点、加えれば、「●三峯神社 不明」は北関東、埼玉は秩父市の三峰神社と考えます。浅田真央さんが御注進の神社で参拝客急増の神社で、三つ鳥居(殷の鳥居)から金山彦〜長髄彦系の神社と思います。これについても、スポット110 三峯神社の殷の鳥居 ”金山彦系神社(埼玉県秩父市)”としてひぼろぎ逍遥に掲載しています。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ

2018年09月04日

ビアヘロ062 上総国の龍宮 一宮町 玉前神社 (上)

ビアヘロ062 上総国の龍宮 一宮町 玉前神社 (上)

20180723

太宰府地名研究会 古川 清久


 ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)の右のリンケージ・サイトに未知の駅 捄フサがあります。

 千葉県在住の女性によるものですが、非常に質の高いトップ・クラスの歴史、地名、神社研究…のブログです。当グループと提携してまだ一年にもならないのですが、我々が最も重視している、千葉、茨城の東関東から福島(阿武隈山系)をカバーして頂ける素晴らしい研究者と期待しています。

私の予備知識は多摩地区、埼玉(元は前玉)の東としての玉前(前は崎、先でもあり東の意味もあるのです 豊後の国東と同様)程度です。

 このエリアでは、無題.png

のお二人が百嶋神社考古学の立場を理解された上で研究を進められていますが、新たに強力なスタッフが加わられたと考えています。
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さて、ひぼろぎ逍遥(跡宮)の ビアヘロ060 天照大御神の母神は播磨の佐用町で祀られている “百嶋神社考古学概論入門編 A”を掲載しました。

 天照と神武が同時代などと言えば通説派の方々は笑い飛ばされるでしょうが、百嶋神社考古学では、呉の太伯の後裔列島大率無題.pngの子である神武の腹違いの姉大日孁貴(オオヒルメノムチ)が後に対外的にも卑弥呼と呼ばれ、最後に天照大御神と祀上げられたと知っているのです。

 このため、天照大御神の母神を祀る播磨の佐用都比売神社の境内摂社を取り上げたことから、無理を承知で、神武天皇の母神(我々は神玉依姫と呼びますが)を祀る玉前神社のリポートをお願いしたところ、一週間程度で素晴らしいい報告を書いて頂きました。

 既に、オンエアされていますので、皆さんも彼女による 上総国の龍宮 一宮町 玉前神社 を他稿と併せお読み頂きたいと思います。


悠久の昔、山の神である鵜茅葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)が海の神である玉依姫命(タマヨリヒメノミコト)を見初め、契りを結ばれました。そしてお生まれになった神武天皇をはじめとする神々は、海までつながっていると伝えられる井戸から水路を通って、九十九里浜まで流れていかれました。

(同社HPによる)

 では、お読み頂きましょう。


上総国の龍宮 一宮町 玉前神社 2018-07-16 Mon 00:14


しばらく御無沙汰しておりました。弟橘姫シリーズまだ途中なのですが、HP「ひぼろぎ逍遥」の古川さんからの御依頼でコチラを先にお届けします。


上総国 一宮 玉前神社 千葉県長生郡一宮町一宮3048 一宮町の町名は上総国の一宮である玉前神社が鎮座していることに由来しています。

以下Wikipediaより。

式内社(名神大社)、上総国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。永禄年間(1558-1570年)の戦火により社殿および古記録等が焼失したため、創建年代は不明。他の文献等により、少なくとも鎮座以来1,200年以上経過していることは間違いないとされる。

延長5年(927年)成立の『延喜式神名帳』では、上総国埴生郡に「玉前神社 名神大」と記載され、名神大社に列している。

また、上総国一宮として崇敬を受けたとされる。江戸時代、貞享4年(1687年)に現在の社殿が造営される。1871年(明治4年)近代社格制度において国幣中社に列した。1900年(明治33年)と1923年(大正12年)には社殿等の改修が行われた。取材の一回目が雨だったのでリベンジで晴れの日にも行きました。そのため二種類の写真でお届けします。

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一の鳥居 リベンジの日は丁度夏越しの祓の日でした。

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拝殿 黒塗です。拝殿と本殿を横から

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内陣、神紋は菊だけ

左甚五郎が彫ったという「高砂」の御夫婦、近くで撮りたかった〜!さて、御祭神についてですが、古来より諸説ありまして列記すると、「大日本一宮記」高皇産靈弟生産靈一男・前玉命「神名帳頭註」高皇産靈孫前玉命「神社覈録」前玉命「舊事記」振魂尊子前玉命「国華萬葉記」高皇産靈尊の弟生産靈尊の一男(又、系図に振魂命とあり)前玉命などなど。記録では玉前神社の御祭神は「前玉命」で「男神」だと記されています。ですが玉前神社では御祭神を「玉依姫」としています。地元でも昔から玉依姫だと伝えられていたといいます。では玉依姫は玉依姫でも、どの玉依姫なのでしょうか。

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神社の御祭神でよくお名前を拝見する「玉依姫」ですが、実は三人いらっしゃるのはご存知ですか?

1人目は神日本磐余彦(初代神武天皇)を産んだ「」玉依姫。

2人目は天太玉命と雷古要姫イカコヤヒメ(櫛稲田姫)の娘の「」玉依姫。

3人目は鴨玉依姫と大山咋の娘の「活ハエ」玉依姫。

玉依姫たちは3人いるにも関わらず頭文字が抜けているために、どの玉依姫なのかわからなくなり、

御祭神に関して混乱が生じているようです。何故こんな状況になっているのか。

理由は「活」玉依姫の兄弟・賀茂別雷が子孫に崇神天皇と格付けされハツクニシラススメラミコトになっている事に起因しています。

古事記と日本書紀の中では初代神武天皇の功績が崇神天皇の手柄へとすり替えられています。

この捏造を押し通すには崇神の出自が判ってはまずかったのでしょう。

母が「鴨」玉依姫で妹に「活」玉依姫がいることを伏せておきたかった。

そこで奉斎する神社に頭文字を外すように指示したのが真相だと思います。

ちなみに玉前神社のパンフレットでは「玉依姫」は豊玉姫の妹で鵜茅葺不合の嫁としているので「鴨」玉依姫と考えているようです。


 しかし百嶋先生は生前、玉前神社の御祭神は「神」玉依姫であるとおっしゃっておられました。

今回の取材で何か証拠を得られるかと期待していたのですが・・・ひよっこの私にはわかりませんでした・・・(ガクリ)そこで玉前神社の歴史、近隣の神社との関係、周辺の地理も含めて調査を行いました。その上で判明した事実から検証したいと思います。まず神玉依姫とは一体何者なのかから。彼女は奴国王家・白川伯王の娘で大幡主の姉にあたります。そして姫氏の血を引く「呉の太伯君」の嫁となり神日本磐余彦=神武天皇を産んでいます。玉前神社の神紋に「八咫鏡に御統の内に前の字」があります。御統ミスマルとは古代の装飾品で現代でいえばネックレスの事です。

この神紋はもしかしたら八尺瓊勾玉を現わしているのかもしれません。御神体も玉だといわれており、赤い玉説、黒い玉説があります。また海から発見した玉を納めたという伝承もあるのですが、その数は8個だったり12個だったり様々です。共通して無題.pngいるのは「御靈代が玉」という点なので、これは間違いないと思います。玉前神社と近隣神社で行われる「上総十二社祭」は、海中から8個の玉を発見した際、平城天皇が霊夢を見て玉を奉斎する六社を創建したことに由来しています。

(現在は12社が参加しています)の六社は玉前神社の外、鵜羽神社(睦沢町岩井鎮座)南宮神社(一宮町宮原鎮座 元は宮原神社)二宮神社(茂原市山崎鎮座)三宮神社(睦沢町北山田鎮座)玉垣神社(睦沢町下之郷鎮座 元は若宮神社)です。この中で別格なのは鵜羽神社玉垣神社で、鵜羽神社の御祭神は彦火々出見(長髄彦)・豊玉姫・鵜茅葺不合の御一家です。例祭では他より早く祭礼が始まり、当神社のみ行う特殊神事があります。「一宮町史」によると鵜羽神社迎祭(九月十日)鵜羽神社の神輿、この日に玉前神社へ渡御する。

これには鵜羽神社より神職一名が立会い神輿・諸祭具をきよめ祭儀に列するのが古くからの慣例である。鵜羽神社旧神職毛に伝わる文書によると、鵜羽神社は彦火火出見命・豊玉媛を主神とし大同年間に大山祇尊を伊予国越知郡より分霊奉祀する由が記載され、玉前神社を御祖大明神と称し、渡御は竜宮臨幸の儀式を伝えるもので大同元年丙戌八月といわれる。とあります。

またこの日の直会の為に特殊なし神饌を用意します。

一つ目は「オホリ」または「牛の舌」といわれる9センチ×4、5センチぐらいの大きさの扁平状にした餅で12枚作ったもの。二つ目は「かすかみ」という一宮川で獲った鯔ボラを三枚に下ろし酢で鱠ナマスにし、それを濁酒の粕につけたもので一社伝来の神饌と伝えられているそうです。

また「房総志料続編」には「竜形餅」という平形の大小二枚の餅も記載されており、これは化して鰻に変ずると伝えられています。

これらの神饌は古来より矢前の役を継いできた河野姓の家の者が奉献する品を入れてきた俵状の藁つつみに入れて持ち帰り、後で鵜羽神社境内の小池に投じます。

神使の鰐にあげているのだそうです。

現在鵜羽神社の神輿が玉前神社にくる神事は鵜羽神社のウガヤが玉前神社の鴨玉依姫に会いに来るというストーリーになっています。ですが本来は神玉依姫ですから、解釈としては彦火火出見=懿徳がおばあちゃんに会いにきていることになりますね。ではダンナさんである「呉の太伯」はどこへ行ってしまわれたのか?コチラをご覧ください。


白子神社 白子町関5364 無題.png


すごい彫刻と男千木以下Wikipediaより永承3年(1048年)八斗村太夫野に大国主大神を勧請し奉祭したことが当社の創祀という。その後、大治元年(1126年)里人が海岸で潮を汲んでいると南方沖より白亀が漂着し、その甲羅の上に白蛇がわだかまっていた。

霊感を感じた里人が「神様ならお登り下さい」と潮汲みの柄杓を差し出すと柄を登ってきたので、これを神と崇め八斗村太夫野の社へ合祀したと伝えられている。

久安3(1147年)に現鎮座地の関へ遷祀し、治承元年(1177年)千葉氏の祈願所と定められ、宝永5(1708年)には正一位の極位を授けられ白子大明神の社号を賜った。

近世南白亀郷12ヶ村の総鎮守であり社号は白子町の町名の起こりである。

宝暦12(1762年)再建の現本殿と、矢大神(随神像)は、白子町の有形文化財に指定されている。

また境内の樹木群は白子町の天然記念物に指定されている。

甲羅の上に白蛇がわだかまっている白亀なんて、まんま玄武ですね。白子神社の側を流れる川の名前も伝説にちなみ、「南白亀川ナバキガワ」といいます。

玄武は北斗星信仰の妙見神と関わりが深いです。

千葉神社の妙見神は童子の姿で玄武に乗った姿で顕現したといいます。

白子神社の北辰大帝は北極星を神格化した神様で星空で唯一動かない星であることから、大陸では皇帝を表す「天皇大帝」と呼ばれました。

他にも「太一」や「妙見菩薩」とも同一視されています。白子神社では「北辰大帝」と称しています。



「白」の字の点が龍の顔に見えます無題.png


この「北辰大帝」こそ神玉依姫のダンナさんである「呉の太伯君」ではないかと考えています。


県内にたくさん星信仰の神社がありますが北辰大帝を奉斎する神社はいまのところ白子神社しか知りません。

そして「白子町」という町名の由来にもなった「白子」です。白族出身である神玉依姫に縁があるとしか思えないネーミング。族の孫の住む地、という意味でしょうか。

そして白子町を中心に広がる、ある小字の存在に驚きました。一宮の玉前神社から九十九里町まで、海岸線から内陸約1キロ付近に同じぐらいの間隔をあけて八大龍王が祀られています。

八大龍王は天太玉命(豊玉彦)の別名で、神玉依姫は彼から見ると父の姉です。

注目したいのが、その鎮座地の地名なのです。

無題.pngなんと「龍宮」という言葉が使われているのです。

地籍までは調べられなかったので正確な小字名が不明な鎮座地が多いのですが列記すると、一宮町新地甲字龍宮下  諏訪神社がある一宮町一宮字龍宮・下龍宮  八雲神社がある一宮町東浪見字龍宮台  八坂神社がある長生村一松丙字龍宮台に鎮座、ほか上龍宮・中龍宮  海神社長生村一松戊  龍宮神社白子町古所字龍宮下・龍宮後・龍宮台  龍玉神社白子町八斗字北龍宮台・南龍宮台・龍宮台・龍宮下  八龍神社白子町幸治字龍宮  八大龍神社白子町驚字龍宮下  面足神社がある白子町剃金字龍宮台  八龍神社白子町五井字龍宮台  八大龍神白子町浜宿  龍宮神社白子町南今泉  竜神神社白子町牛込字竜神下  龍野神社大網白里市北今泉字北龍輪・北龍輪下・南龍輪・南龍輪下・竜神後・竜神前  八大龍王九十九里町真亀  龍宮神社九十九里町細屋敷  龍神社九十九里町粟生  龍神神社・龍神社以上19カ所。龍に関係のない神名の神社は、もしかしたら境内社に龍神が祀られているかもしれません。

地図の青いマークをご覧ください。

これは古代の海岸警備地の跡なのではと感じました。

玉前神社が創建された頃ではなく、もっと後の時代の事だと思いますが、厳重な警備をしなければならない理由が白子神社にあったのかもしれません。

等間隔で警備員を置いた「龍宮台」、そこには守るべき「龍王」がいた、なんて想像するとワクワクしますね!!でも神社の創建より北辰大帝が祀られたのは後じゃない?という声が聞こえましたよ!私もそう思っていたのですが、とある事実を知り納得がいったのです。

それが「私幣禁断に類似する禁令」です。

以下Wikipedia。私幣禁断とは、一般には天皇家の祖霊を祀る伊勢神宮を天皇・皇后・皇太子以外が祀ることを禁じたことを言う。これに似た内容の禁令が以下のように出されている。

796年日本の天皇は北斗七星を祀ることを禁じた。罰則として 「法師は名を綱所に送り、俗人は違勅の罪に処せ」 と規定した(『類聚国史』 「延暦十五年」)。

799年斎宮が伊勢神宮へ行くに際して 「京畿の百姓」 に 「北辰に灯火を奉る」 ことを禁じた(『日本後紀』 「延暦十八年九月」)。811年斎宮が伊勢神宮へ行くに際して九月の一ヵ月間、「北辰を祭り、挙哀改葬等の事」 を禁じた(『日本後紀』 「弘仁二年九月一日」)。

835年斎宮が伊勢神宮へ行くに際して九月の一ヵ月間、「京畿」 での 「北辰に火を供えること」 を禁じた(『続日本後紀』 「承和二年八月二日」)。967年施行の 『延喜式』 は斎宮が伊勢神宮へ行くに際して 「九月一日より三十日まで、京畿内、伊勢、近江、等の国、北辰に奉灯し、哀を挙げ、葬を改むる」 ことを禁じた。なお、1811年伊勢神宮の私幣禁断は解かれたが、北極星および北斗七星の祭祀解禁の時期は不明である。このことからわかるのは@北辰信仰は一定の時期、禁止されていたA北斗七星への星信仰は長く禁止されていたB北斗信仰は天皇家の祖霊に繋がる?です。これを知って、あ〜だから妙見信仰の粟飯原氏は千葉氏と手を組んだのか〜とか、白子神社ももしかしたら隠して奉祀していた御祭神を完全にOKになってからやっと表に出したのかな〜とか、表に出すために白亀と白蛇の話が生まれたのかな〜とか、でも「白」に拘るところがやっぱり白族だな〜とか、いろいろ考えてしまいました。白子神社本殿の神紋は忌部を現わす三光紋。それなのに祀られているのは大宜都姫ではなく男神。やはり神玉依姫のダンナさんの太伯君じゃないかなーと思うのです。そしてトドメの証拠なコチラ。玉垣神社睦沢町下之郷371現地取材に行けていないので画像がありません、スミマセン。

グーグルマップで見ていただきたいです(土下座)平城天皇が創建した六社の一つで元は若宮神社でした。御祭神はなんと「神日本磐余彦」なのです!神玉依姫の御子=若宮だから若宮神社だったのです!何時から玉垣神社に社名が変更になってしまったのか不明ですが、これも正体を隠そうとしての事だと思います。これまでに県内で何度か「神武天皇」の板碑や石碑は見たのですが、大きな神社で、しかも「神日本磐余彦」での奉斎は初めてです。玉垣神社鵜羽神社は平城天皇が創建した六社及び現在上総十二社祭に参加している12社の中でも別格扱いです。この事実からも玉前神社と深く関係する神社であることが読み取れます。

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百嶋由一郎 極秘香良洲宮神代系譜


百嶋由一郎が残された音声CD、手書きスキャニング資料、神代系譜が必要な方は09062983254まで

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ

2018年09月01日

ビアヘロ 077 読者の皆さんに…真実の神社研究へのご支援を…

ビアヘロ 077 読者の皆さんに…真実の神社研究へのご支援を…

20180829

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥の読者の皆様、また、グループのブログをお読みの皆様、暑い中、丹念無題.pngにお読み頂き有難いと思っています。

 古田武彦が亡くなり、また、百嶋由一郎氏が亡くなり数年が流れました。

 当初、貴重極まりない百嶋研究の一部でも残せないだろうかと考え、手書きデータや神代系譜文書のDVD化、音声データの保存、複製、宣伝という作業を続けて来ました。しかし、単にデータの保管、配布の体制を確立するだけでは継承ができないと考え、blogで百嶋研究の説明、現場実調を徐々に進め公開してきました。この結果、全国にも理解者が増え始め、神社研究ではなんとか特異な勢力を形成できる所まで漕ぎ着けました。

 既に、百嶋研究の一部でも接点を持った全国の二十五人を超えるブロガーが独自の側面から研究を進めておられますし、ブログは書かないまでも、神社調査を行い記録を残している方もおられます。

 勿論、統一性は取れてはいませんし、なかなか難解な内容だけに、解明できない問題についてはメンバーの若い世代に託すことになるでしょうが、なお不明なものは後世の研究者に期待する事に成るでしょう。

 百嶋先生と知り合いになったのは七年ほど前だったと思いますが、もしも後数年生きておられたならばもう少し古代、神代の謎を継承できたかも知れません。しかし、未熟な者だけで作業を行わざるを得なかった事から今尚皆さんにご迷惑をお掛けしているものと理解しております。

しかし、私達の能力を考えれば、むしろ上出来といったものかも知れません。

さて、メンバーの背骨を形成している中心的思想とは、当然にも九州王朝論です。

 百嶋先生も“私も九州王朝論が分かっていない人に神代史を教えても意味がないし、教えたくないですね…”と言われていた事が今でも耳に残っています(吾は百嶋由一郎の面受の弟子なり!)

さて、四月の近江〜但馬、五月の糸魚川〜諏訪〜山梨、六月の青森と15日間づつ三度に亘って長躯の神社調査を行いました。

ぶっ続けで調査すれば良さそうですが、落ち着いてリポートも書かなければならず、研究会のスケジュールもあってそういう訳にも行かず、各々3,0004500キロの往復の調査とならざるを得なかったのです。

今後も、三重、和歌山、岐阜、福井…と、よりきめ細かい調査に入るつもりですが、もはや資金が底を尽きつつあります。

元々、福島の原子力災害辺りから、これ以上行政機関に留まりたくないとの思いが募り、後先き考えずに58歳で早期退職した事から(当時上の娘は大学に在学中だったのですが)年金と言ってもギリギリ暮らせる程度の物で、なんとかここまで働かずに神社調査を行ってきましたが、既に限界点を越え始めたようです。事実、当会は研究を優先するためメンバーから会費を取る事なく僅かな参加費で運営しています。

人手不足の時代、まだ、働こうと思えば職はあるはずですが、拘束時間が長くなれば、研究を進める事ができないまま人生の終末期を迎える事にもなりかねず、できるだけ体力がある間に遠距離の調査に入りたいと思っています。このため、出来る事ならばこのまま神社研究に専念したいものと考えています。

基本的には年金生活で何とかやっていますので、月額であと二〜三万増やせれば、車の維持、車検、保険、介護保険料、研修所の維持、研究会の組織化、ネット規制に対応するためにもう一つ別の発信のためのサイトの準備……と増加する負担にも対応できるのではないかと考えています。

今後、研究内容を保全するためにも、外付けハード・ディスクをタイム・カプセル化して鍾乳洞に保管する(太陽フレアによる磁気データの消失への対策)とか、研修所の維持、後世に残すためにユーチューブ化してオンエアするなど新たな作業に入る必要も生じており、もし可能であれば、通説とは全く異なる百嶋神社考古学の保護と継承のためのご支援をお願いできないかと考えています。

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年間一口2000円以上の任意の百嶋神社考古学研究会の支援会員となって頂ければ、九州においでになった際に会員待遇として温泉付き研修所に一泊お泊めできます。九州での神社調査の拠点として活用下さい。

振込用の銀行預金講座、郵便貯金番号は以下の通りです。

 大分銀行 若宮支店 0183−000093−7505802 フルカワ キヨヒサ

 ゆうちょ銀行 店番 778 預金種目 普通預金 口座番号 1165562 氏名上に同じ

また、もし差支えなければ、以下のメールにお名前と住所と電話番号を以下のメールに送信して頂き、カンパした旨の連絡を頂ければ、神代系譜のDVD(既にお持ちの場合はそれに代わる音声データなど)をお送りできるものと考えています。

 携帯のメール・アドレス ariakekai@ezweb.ne.jp携帯 09062983254 (常時対応)

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本当にようやくですが、青森〜東関東に掛けて4件、愛知県2件、高知県1件、大阪府2件、大分県5件、福岡県11件の合計25件のグループが形成されました。

この外にも、鹿児島県、福岡県、山梨県…からも新規に参加される方もおられ検討しています。

人材を残す必要から、テーブルに着いた神代史研究会も研究拠点として残す方向で動いていますが、今は多くの研究者の連携を拡げ、独立した研究者のネット・ワークを創り、現場に足を運んで自らの頭で考えるメンバーを集めたいと考えています。そのためには少々の雨も寒さも厭わぬ意志を持ったメンバーこそが必要になるのです。勿論、当会にはこのブロガーばかりではなく、著書を持つ人、準備中の人は元より、映像を記録する人、神社のパンフレットを集める人、伝承を書き留める人、blogは書かないものの、徹底してネット検索を行い裏取りを行う人、ただひたすら探訪を続ける人と多くのメンバーが集まっているのです。全ては95%が嘘だと言いきった故)百嶋由一郎氏による神社考古学のエッセンス残すためです。

なお、「肥後翁のblog」」(百嶋テープおこし資料)氏は民俗学的記録回収者であって民俗・古代史及び地名研究の愛好家 グループ・メンバーではありませんがご了解頂いています。この間、百嶋神社考古学の流布拡散に役立っており非常に感謝しております。

ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)は現在二本立てブログで日量11001200件(年間45万件 来年は50万件へ!)のアクセスがありますが、恐らくグループ全体では最低でも年間200万件のアクセスはあるでしょう。ちなみに昨日のアクセスは両ブログで日量2000件を超えています。毎日続けば良いのですが。

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