2019年08月16日

ビアヘロ 096 阿蘇山上神社トレッキングから阿蘇氏始祖惟人の系譜を疑う

ビアヘロ 096 阿蘇山上神社トレッキングから阿蘇氏始祖惟人の系譜を疑う

20190403


太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 先に阿蘇山上神社の祭神が阿蘇神社の12神体制と異なる事はお話ししましたが、今回、改めて阿蘇神社の祭神を考える事にしました。

 阿蘇12神と言っても草部吉見系(年禰系外)神社は阿蘇神社とは異なる12神を祀っていますし、国造神社や小国両神社なども異なる祭神を持っている事は承知していますが、ここでは個別阿蘇神社の祭神を考える事にしたいと思います。

 最も重要なのは、事実上の阿蘇家の初代である阿蘇惟人の正統性をどのように描いているかについて考えたいのです。

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熊本地震によって楼門と参拝殿が崩壊したため三殿をそのまま見る事ができます。真ん中奥が贈る綏靖天皇(藤原が後付で第二代とした)他を祀る神殿、地震によって見渡せる風景出現したのかも知れません。

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阿蘇神社 カーナビ検索 熊本県阿蘇市一の宮町宮地3083-1


ご覧の通り「熊本県神社誌」は阿蘇氏初代を彦御子神=惟人命とし、その父神を速瓶玉命(阿蘇北宮=国造神社主神)としています。

当然、現在の阿蘇神社の宮司家が了承した見解とも一致していることでしょう。

 健磐龍命(草部吉見の実弟)と阿蘇津姫命(草部吉見の実娘)を速瓶玉命(阿蘇北宮=国造神社主神)と描いています。これはこれで簡略化されたものと見れば許せるのですが、かなり曖昧な系譜です。

一方、百嶋最終神代系譜によれば、速瓶玉命(阿蘇北宮=国造神社主神)は草部吉見と市杵島姫との子とし、同時に速瓶玉命は健磐龍命(草部吉見の実弟)と阿蘇津姫命(草部吉見の実娘)の子である雨宮姫を妃とし義理の子ともしているのです。当然ながら多くのお妃を持った神世の事、これも事実なのです。

ただ、「熊本県神社誌」による速瓶玉命には、阿蘇氏による何らかの政治的な思惑が反映されていると思うのです。

恐らくある時点に於いて中央で評判の高い速瓶玉命(大山咋、日吉、日枝、松尾…)に阿蘇氏の出自を求め偽装したのではないかと考えています。

今でも国造神社の主神とされる速瓶玉命の「玉」は豊玉彦の「玉」であり、豊玉彦の姉のアカルヒメ直系の市杵島姫を母神としているのです。

さらに言えば、速瓶玉命の「速」も熊野速玉大社=櫛田神社の大幡主の「速」を意味しているのです。

従って、阿蘇氏自らもある意味でヤタガラスに繋がる白族=天御中主命系との提携が反映されていると見るべきなのでしょう。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


 問題は、阿蘇惟人が速瓶玉命と雨宮姫の間に産れたのではなく八坂刀売の間に産れているにも拘わらず、速瓶玉命の子であるとしている事の意味を考えるべきではないかと思うのです。

 一つは肖りであろうことは明らかで、神武僭称贈る崇神天皇の代に速瓶玉命が肥後国造に任命され…が関係していると思います。

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阿蘇北宮参拝殿神額


菊池市の菊池川河畔に北宮阿蘇神社があり、これも阿蘇北宮系の神社…と言うより、北宮=速瓶玉命を主神として祀る神社と承知しますが、それは置くとして、上は阿蘇北宮の参拝殿に掲示される祭神です。


国造神社 延喜式神名帳に肥後国は四座が記されているが(健磐竜命神社・現阿蘇神社、阿蘇比盗_社・現阿蘇神社、国造神社、疋野神社)、その四座のうちの一座であり、熊本県内において、最も古い神社の一社である。肥後国誌によれば、崇神天皇の代に速瓶玉命が肥後国造に任命され、景行天皇18年に、国造神社を修造し祭典を整えたとある。

父親である阿蘇神社の主祭神健磐龍命と共に阿蘇の地を開拓し、農耕・植林などを指導したとされる速瓶玉命(はやみかたまのみこと、「国造本紀」によれば初代阿蘇国造)を主祭神とし、御妃、御子息の合わせて4柱の神を祀る。

現在の社殿は、寛文12年(1672年)、肥後熊本藩第3代藩主細川綱利によって造営された。明治5年県社に列した。

ウィキペディア(20190405 1021による

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では四柱です。「熊本県神社誌」によれば速瓶玉命外三神(一〜四宮)とだけ書いており、全く頼りになりません。今だにクニノミヤツコなどと惚けた読み方をしていますが情けない限りです。クオツオです。

推定ですが、速瓶玉命 雨宮姫 高橋神 速日神(もしかしたら速日ではなく天忍日=奥ツ彦=火の神を祀っているのかも知れません)と考えられ、この北宮には惟人は祀られてはいないようです。

 ただ、雨宮姫は天忍日=奥ツ彦=火の神との間に惟人と奈留多姫(糸島の産宮)を子としているのです。

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百嶋由一郎018阿蘇系譜@-2(部分)


百嶋由一郎氏が残された神代系譜、音声CD、手書きスキャニング・データを必要な方は09062983254まで


 いずれにせよ阿蘇惟人は速瓶玉命ではなく天忍日と雨宮姫の間に産れており、惟人の妹である奈留多姫(八坂刀売=建御名方命の后神として、諏訪神社下社:春宮、秋宮に祀られる神)は、国譲りに反対した建御名方の妃であり、ウガヤフキアエズとの間に逆賊熊襲タケル=川上タケルを儲けているのです。

 恐らく、天照大御神の背後にいたのは高木大神ですが、その命により国譲りの要求に最後まで抵抗した建御名方の妃となり、ウガヤフキアエズとの間に逆賊川上タケルを儲けた奈留多姫を妹とする惟人は、阿蘇氏の正統始祖としてはまずかった可能性が高く、しかし、尚もそのような実力を維持する勢力を認め、通りの良い義理の父である大山咋命=速瓶玉命の子とすることを持って阿蘇氏の正統性を持たせたのではないかと考えるのです。

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こちらは阿蘇神社の南門守社阿蘇の金凝彦は蘇民将来伝承の巨胆なのですのでいずれ再度とりあげます

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2019年08月14日

ビアヘロ 094〜095 平成の御代替わりの阿蘇山上神社トレッキングから阿蘇神社の祭神を再考する

ビアヘロ 094095 平成の御代替わりの阿蘇山上神社トレッキングから阿蘇神社の祭神を再考する

20190403


太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


先に 741 阿蘇山上神社から阿蘇氏の祭神を再考する 20190318 で書いたように阿蘇山上神社 を起点とするトレッキングが行われました。

 平成の御代替わりの一月前に熊本のメンバーでもあるF女史の呼び掛けによって阿蘇山上神社に参拝する企画が準備され、当方にもその話が持ち込まれました。

 このため、熊本県在住メンバーの数名を誘い参加する事になりましたが、阿蘇山上神社は数十年前に一度訪問した事があるだけで事実上初見になります。気温2度、時折、寒風が吹きすさぶ中での行軍となりましたが、雨は降らず、青空に変わりつつある好天に恵まれていました。

 ただ、阿蘇山頂神社ロープウェイは熊本地震によって被害を受けたため、解体作業が始まっていました。

 まさに阿蘇山上神社ならぬ阿蘇惨状神社だったのです。

幸いに参拝殿は残されており寒風を防いでくれており、しばし暖を取ったのでした。

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阿蘇山上神社 カーナビ検索 熊本県阿蘇市黒川808-3


 201941日の新元号発表直前10時に阿蘇山上に30人弱が集まりここから阿蘇神社〜北宮=国造神社へのトレッキングが始まりました。

 阿蘇山上神社はロープウェイの発車場の傍でしたが、耐用年数もあり再建予定なのでしょう。

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今回のトレッキングは私の企画ではありませんでしたが、普段、観光地に足を踏み入れない主義を持つためこの阿蘇山上神社は思考の外にあったのでした。今般、改めてこの神社の祭神を見直しましたが、所謂阿蘇神社の12神と異なる祭神を持っていたのです。


御祭神

以下の十二宮を祀る

一の神殿 左男神四柱  一宮 健磐龍命 三宮 國龍明神 五宮 彦御子明神 七宮 新彦明神 九宮 若彦明神

二の神殿 右妃神四柱  二宮 比当セ神 四宮 比東芬q明神六宮 若比当セ神八宮 新比当セ神 十宮 彌比当セ神

諸神殿 最奥  十一宮 國造明神(速瓶玉命) 十二宮 金凝明神 全国式内社御祭神

敬愛する「玄松子」による(四柱は五柱ではないかと思いますが)

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阿蘇山上神社の祭神は健磐龍、阿蘇都非媛命(草部吉見の娘神)、彦御子命(阿蘇惟人)の三神です。ただ、現在の阿蘇神社の12神とは異なり、起源が異なる事を考えさせます。これは後述します。


まず、阿蘇山上神社です。blog「地図で知る」の伊藤まさ子女史に教えて頂いたのですが、阿蘇高森の草部吉見神社と磐井の墓とされる岩戸山古墳(福岡県八女市吉田13961)を結ぶ線上に位置づいているのです。

と、言うよりも、岩戸山古墳は、草部吉見神社と阿蘇山上神社を結ぶ線上に造られている様なのです。


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このことが直ちに何を意味しているかは不明ですが、時代を考えると、岩戸山古墳が最も新しいと考えれば、古墳の被葬者が誰なのかを考える時に考慮せざるを得なくなり、また混乱を来してしまいそうです。

 自分が考える岩戸山古墳の被葬者の想定から外れた展開からしばらく悩まなければなりませんが、そのうち理由の解明もできるでしょう。こっそりお聴きすると女史は磐井を阿蘇系とお考えのようです。

 ただ、この阿蘇の山上祭祀も主張する年代(552年欽明期)祭神(現在の阿蘇神社の阿蘇12神体制)からは九州王朝系のものにしか思えないため、ありうる展開かも知れません。

 ちなみに九州年号は513年スタートでしたから時期としては九州王朝の初期のど真ん中、しかも、「貴楽」年号開始と対応する事から、むしろ積極的に九州王朝との関係を考えるべきでしょう。

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後で気づいたのですが、草部吉見神社に近い穴迫稲荷神社の神殿も貫いているようです


 稲荷様=豊受大神は夫神を海幸から山幸に換えていますので、それと関係しているかも知れません。

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2019年08月13日

ビアヘロ094 改めて玉依姫を考える “崇神は神武でではない!三人の玉依姫問題再考“(簡略版)

ビアヘロ094 改めて玉依姫を考える “崇神は神武でではない!三人の玉依姫問題再考“(簡略版)

20190612


太宰府地名研究会 古川 清久


玉依姫と言えば神武天皇を産んだとか、ヒコホホデミノミコトの妃となりウガヤフキアエズノミコトを産んだものの子育てを放棄し実家に帰った豊玉姫に代わって送り込まれウガヤフキアエズとの間に神武天皇を産んだ…とする我々から見ればインチキ神話で知られた女神様であることは皆さん良くご存じの通りです。まずは、以下ご確認下さい。


デジタル大辞泉の解説 たまより‐ひめ【玉依姫】《「たまよりびめ」とも》

神霊を宿す女性。巫女(みこ)などの称。

日本神話で、海の神の娘。鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)の妃となり、神日本磐余彦尊(かんやまといわれびこのみこと)(神武天皇)ら四子を産んだ。

賀茂伝説で、建角身命(たけつぬみのみこと)の娘。丹塗矢(にぬりや)(火雷神(ほのいかずちのかみ))と結婚し、別雷神(わけいかずちのかみ)を産んだ。


デジタル版日本人名大辞典+Plusの解説 玉依姫 たまよりひめ 記・紀にみえる女神。
豊玉姫の妹。
彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)と結婚した姉の生んだ鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)を養育し,のちその妃となり,神日本磐余彦尊(かむやまといわれびこのみこと)(神武天皇)ら男子4人を生む。古事記」には玉依毘売とある

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インチキ神話と申し上げた通りこれは藤原氏による偽装であり捏造である可能性が高いのです。

 その理由を簡単に説明すれば以下のようになります。


@   簡単に言うと、神日本磐余彦尊=神武天皇を産んだ本物の玉依姫とは百嶋由一郎最終神代系譜の左上の神玉依姫(大幡主=神産巣日神、神皇産霊尊の姉で天御中主系の女神)の事なのです。

この女神様は千葉県の玉前神社に主神として祀られ同社もそのように説明しています。


これについてはひぼろぎ逍遥(跡宮)千葉県の「未知の駅」女史によるリポートの転載をお読み下さい。


ひぼろぎ逍遥(跡宮)ビアヘロ6263神武天皇の母神を祀る玉前神社


ひぼろぎ逍遥   スポット208209神武天皇の母神を祀る玉前神社


A  一方、ごっちゃにされている、否、思惑があってそうしているのですが(藤原が意図的に持ち込んだ捏造)賀茂伝説で、建角身命の娘。丹塗矢火雷神と結婚し、別雷神を産んだ(これ自体は正しい)。

この玉依姫とは下賀茂大社の主神である鴨玉依姫(豊玉姫にとっては腹違いの妹)で、初代神武を産んだ神玉依姫とは全くの別人なのです。これについては当の下賀茂社も認識しておられるはずです。


 分かり難いと思いますが、百嶋由一郎最終神代系譜(部分)を見て頂ければお分かり頂けると思います。

 この別雷神こそ藤原が第10代と仕組んだ神武僭称贈る崇神(ハツクニシラス…)のことなのです。

後の藤原が開化天皇と神功皇后の年嵩の臣下でしかなかった鴨玉依姫の息子=ミマキイリヒコイニエノミコトを 第10代とし崇神を本物の初代神武天皇(カムヤマトイワレ…)に見せ掛けたいという思惑があっての偽装したのであって、これらがごちゃまぜにされ全く訳が分からなくなってしまっているのです。

 藤原の偽装はまだまだあります。

それは、ウガヤフキアエズと鴨玉依姫との間に産れたのは安曇磯羅であり、記紀が持ち上げるウガヤフキアエズの血は偽神武崇神には全く流れていないのです。

 贈る崇神を神武に見せようとする藤原は自らの先祖である崇神をウガヤフキアエズ(久留米の高良大社に残る「高良玉垂宮神秘書」ではこのウガヤを高良玉垂命と同等に格上げしていますが、その構造が記紀にも伝染しているのです)の子であると偽装しているのです。

 それも良くよく考えを巡らせば偽装の構造が多少は見えてきます。

贈る崇神にとって母神である鴨玉依姫を介して考えれば、一応は先夫であったウガヤフキアエズは義理の父にあたり、それを崇神に置き換えればウガヤの義理の子とは言えることになるのです。

 しかし、贈る崇神を何とか初代神武に見せ掛けようとした藤原の浅ましい思惑の結果、欠史8代架空問題が闊歩し、神代の最も重要な九州で起こった歴史が一切消され、インチキ神話と混乱が残されてしまったのでした。

 それを奈良の周辺だけを申し訳程度に調べ、何らの痕跡もないために欠史8代全て架空とやらかしたのが、早稲田の津田左右吉であり津田一派だったのです。

この時代こそ九州王朝そのものであり、痕跡として残された伝承は九州で起こったことだったのです。そんなものが奈良の片田舎の山の中などに在るはずがないのです。

 権力に尾を振る通説派の御用学者や学芸員共や九州王朝論者に於いても「古事記」を絶対視した構図と、

神武を産んだ神玉依姫(カムタマヨリヒメ)と贈る崇神を産んだ鴨玉依姫の違いがお分かり頂けたでしょうか?

 藤原氏の事実上の始祖とは黄枠で囲んだ阿蘇高森の草部吉見=ヒコヤイミミ(だからこそ藤原氏の私的な神社である春日大社には鹿島大神=武甕槌命を祀っているのです)であり、その子 大山咋の妃が鴨玉依姫である事を良い事に、神武天皇とは自らの先祖である崇神であり、崇神こそ神武だったとしたのが、古事記神話だったのです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)



百嶋由一郎氏が残した音声CD、神代系譜、手書きスキャニング・データを必要な方は09062983254まで

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ