2023年09月01日

ビアヘロ215 佃 収北九州市小倉講演に多くの参加を頂きました 特に遠方からの参加者に感謝します

ビアヘロ215 佃 収北九州市小倉講演に多くの参加を頂きました 特に遠方からの参加者に感謝します

(再掲載)                20230724

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 さる2023722日(土)1300〜 丁己歴史塾+菊水史談会+太宰府地名研究会の提携により

北九州市小倉北区大手町114号ムーブ 5F大セミナールーム(定員 165人)に於いて九州王朝論者の佃 収(非古田系)氏の講演会を行いました。

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於:TEL093‐583‐3939 FAX093‐583‐5107 会場 北九州市立男女共同参画センター・ムーブ


下は、昨年の65日の戸畑講演を呼び掛けたものですが、この時は大雨の中60人規模でお集まり頂きました。今回は、それを継続し行われたものでしたが、前回を上回る規模となりました。深謝します。



昨年の熊本県菊水史談会との提携による熊本〜北九州連続講演

佃収熊本講演は5/29 10:00(菊水IC1キロ)和水町中央公民館(連絡:090-3787-4460前垣)  6月期  要:参加費資料代(注意:内容変更有)

202265日(日)13:001700 特別講演

於:北九州市ウェルとばた 北九州市戸畑区汐井町16 093-871-7200

講演者 『古代文化を考える』(同人誌)主宰 佃 収

講演テーマ  無題.png熊本は「貴国から高市天皇」ですが、戸畑では「日本人の起源」〜「倭の五王」まで

「古代史の復元」シリーズ 1 倭人のルーツと渤海沿岸など10著を越える公刊後も挑み続ける現存する九州王朝論者の最先端、最高峰、最重要の九州王朝論の視点による研究内容(非古田系)です。ネットで佃収と検索すれば「日本古代史の復元」が出てきます。


 昨年は529日から65日に掛ける連続講演をお願いしましたが、今回は単独開催となり、佃収先生を埼玉県からお呼びして行うものになりました。このため、実際にはどれほどの参加を得られるかは蓋を開けるまでは正直予測がつきませんでした。

 ところが、開催時刻が近づくと165人収容の会場は、ほぼ満席状態に見えるほどの参加者でいっぱいになりました。これには少しトリックがあったようで、三人掛けのテーブルが基本二人掛けにされており、実際には120人で満席になる状態だったようです。

 まだ、正確な集計を行ってはいませんので詳細は不明ですが、これほどの参加が得られれば上出来だったのではないでしょうか。

 さらに、もしも日曜日の開催であったならば、動員できた数は3割増しにはなっていたはずで、日曜日の会場が確保できなかったため仕方がなかったのでした。現在、非正規雇用の増大、年金支給額の縮小によって死ぬまで働かされる状態になっており、既に支給年齢の70歳化を政府は決めているわけで、週休二日制など吹き飛び、土曜日にも働く方が激増しているのです。このため、本来、参加いただける方が減るのは致し方ないのです。まあ、120人近くならば感謝すべきと言えるのです。

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佃先生もお喜びでしたし、今後とも講演をしたいと言われていましたので、もしかしたら佃収講演は継続できるのではないかと考えているところです。

 ただ、3年半ほど丁己歴史塾からの要請を受け講演者を派遣してきましたが、太宰府、久留米方面での自前の講演会が手薄となっており、10月からは筑前〜筑後〜肥後のラインに戻し、太宰府、久留米の中間で、佐賀、熊本からも集まり易い筑紫野市での講演会に戻し、北九州市での佃講演が行われる場合はそちらを優先し共同開催したいと考えています。                (20230725)古川清久

何かお気づきの点、ご質問等があれば0906298-3254当方までご連絡下さい。

ひぼろぎ逍遥(跡宮)ビアヘロ215 20237月 佃 収 北九州小倉講演を終えて

20230728


太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 昨年の戸畑講演60人参加を引き継いで、小倉での講演会110120を終え、今後どうするのかを考える必要が出てきました。

 この3年半の間、北九州市を本拠地とした丁己歴史塾からの要請を受け、当会の研究者から講演者を派遣し、古代史、神社研究、万葉集、考古学…といったジャンルで多くの講師、講演者を送り月例会に対して講演やトレッキングなどを続けてきました。

当方も、遠方である事からメンバーを大量に送り込むことはできず、十名前後の参加者を送るのがやっとでしたが、昨年6月の佃収講演には、当会も20人越えのメンバーを送込み大雨の中、60人の集会が実現できたのでした。

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ただ、この実績があったため、多分やれるだろうと踏んだのが237月の小倉ムーブ講演でした。

230年前と異なり、週休二日制も実質崩壊し、土曜日は行けるけど日曜日は無理とか、平日なら何とかなるけど日祭日は仕事をしなければ食っていけない…と言った話が蔓延しており、この間の小泉竹中改革〜民主党政権、遡れば中曽根政権によって日本経済がガタガタにされてきた結果が今に齎らされている事を振り返る毎日ですが、売国政権が連続し、それを中断した安部政権が暗殺により岸田政権の浮遊という国難を思わざるを得ないのです。

結果、会の運営にも障害が出ており、なかなか総動員ができる日が少なくなっているのが偽らざる実情なのです。

それどころか、年金支給開始年齢を70まで引き上げようとするなど(竹中平蔵)、文字通り80まで働かされ、死ぬまで年金の恩恵にあずかれないという有様ではこういったイベントに参加者を呼び込むことは非常に難しい状況が出現している状況になっているのです。

今や、地元の郷土史会、史談会、地名研究会…と言ったものが解散し総崩れ状態となっており、代わりに行われているのが、行政主導の村興し町興し、世界遺産登録などと言った通説派の学者や教育委員会が幅を利かす大嘘イベントなのです。

典型的なのが、恐らく行政から金を引き出して行われている、全国〇馬台国シンポジウムと言ったもので、それが大嘘である事は、邪馬台国の候補地は全国至る所にあり候補地の数も100か所はありますので、イベントは終わりません…と言った好い加減な言説に信憑性がない事だけは確実でしょう。

酷いところでは、行政丸抱えの焼肉パーティーや、ホルモン焼き、お好み焼き…といったジャンク・フードの町興しイベントの余興で行われるものまで出てくる始末で、それに九州王朝論者と言った触れ込みの人物が燥いで好い加減な言説をまき散らすに至るや…九州王朝論者の風上にも置けない連中まで出てくる始末なのです。

こういった行政にあやかり九州王朝論などと嘯く連中が、学会、通説派の権力からお叱りを受けた際に抵抗できるとも思えず、道化とまでは言わないまでも、行政の芸人になりきり真実の追及=九州王朝の真実を探求する意思と組織を失えばor既に失っているならば、研究会とか古代史の真実の追及などと言った物とは凡そ言えるはずも無いのです。

実は当時の会場に於いて、参加者の古代史愛好家というか複数の九州王朝論者の方から当方にお話があり、福岡にはこの集まりの他にも講演会が行われており疑問を示されていました。

あの方々は、実質的には行政の芸人のようなもので…たまたま個人の郷土愛が行政の意向とマッチしただけで、自らの研究を継承させる組織も総じて九州王朝の研究を深める作業にも向かっていない…と思うと言えば、その通りですとの賛意を得たのでした。

まあ、どのような事をされようが自由であってそれはそれで良いのですが、佃収先生の資材を投げ打った研究姿勢に対して、これらの方々が人生を閉じる年齢になって、いったい何のために生きてきたのかを感じないのかと思うばかりです。

九州では老舗の九州王朝論の研究会である(あった)某(九州〇〇史の会)団体(元々は古田系の市民の古代研究会の団体だったのでしょうが、私も数年間入会し馬鹿々々しいと分かり離脱しましたが)も、最近、九州王朝説による自前の講演者失い、自ら闘ってきたはずの通説派の学芸員やら教育員会関係者の御高説に拍手喝さいを行う始末では九州王朝論者の団体の恥を晒し、通説派の講演者に馬鹿にされている有様なのです。

こうして、九州王朝論者の本拠地であるべき九州の地に於いて探求を続ける、まともな研究団体は消え失せると言いたい(今考えればそもそもそんなものも無かったのではないか)ところですが、実はそうでもなく、元々、まだ健全であった15年前ぐらいにおいても、真面目に現地に入り、調査を行う連中ではなかった事を知っているものとしては、こうなるのも必然だったと言えるでしょう。

その点、十数年に亘って、佐賀県の少し西の小さな駅の前にある安宿などに一か月間は逗留し調査された佃収先生の現場を重視する姿勢と精神的純潔さには今更ながら頭が下がる思いがするのです。

古田武彦が亡くなり、予想した通り、九州王朝論者の背骨であった九州古代史の会自体が分解過程に入っており、下手すれば、通説派によって「古田武彦はいなかった!」とされ大嘘で固めた邪馬台国畿内説論者などが跋扈する酷い状況にあると言えそうなのです。

今後とも佃収先生の講演会に取り組む事になりそうですが、埼玉県からお呼びするだけでも、旅費、宿泊に講師謝金を考えると、最低でも78万の経費を捻出する必要があり、80人程度の参加があれば、継続できるのではないか考えている所です。

この点を考えると、丁己歴史塾と太宰府地名研究会の提携は偶然としても、非常に良いカップリングであったと思っています。

事実、丁己歴史塾は、古田武彦氏と連携していた九州王朝論者の某氏の影響下にあった小グループが十数年前から活動を開始したもので、書く言う我々も20年ほど前に久留米を中心に活動を開始した地名研究会を母体にしていますが、これは偽装であって、谷川健一の久留米大学講演が行われたのを切っ掛けに地名研究会を設立したのが始まりだったのです。

それは谷川健一が地名研究会を作りましょうと呼び掛けた事を利用して始まったからであり、谷川健一の説ではなく、内部に古田九州王朝論を浸透させる事が目的で、表向き地名研究会を名乗ったのでした。

つまり、太宰府地名研究会と丁己歴史塾とは奇しくも九州王朝論者の傍流同士の連合体になっている訳で、少し正確が異なっているのは、当方は百嶋由一郎と言う稀代の神社考古学研究者の影響を良く受けた者が集まっており、百嶋神社考古学と古田武彦九州王朝論に限界を感じ、佃収研究に新たな展開を見た者に背骨を持っている組織である事なのです。

こうして、本来は消失直前にあった百嶋神社考古学と古田九州王朝論とは全く別の流れにあった江上波夫系の佃収先生の説に関心を持ったため、非常に稀な九州王朝論に立つ団体になっているのです。

佃収先生の事を知ったのは15年ほど前で、その当時は佃収先生は元より、米田良三氏などの説が飛び交っていた時代でした。

こうした背景を持って活動を継続した我々でしたが、百嶋神社考古学の驚愕の衝撃に直面した者達から多くの神社研究者やブロガーが生み出されると共に、ネット上に公開すると、百嶋由一郎が残した神代系譜の強力な力によって、全国規模で多くの神社考古学の影響を受けた人々が当方と提携し、ブログを書き始め、古田史学の会からも中京を中心とする最大下部組織の中にも相当の信奉者を生み出してくるなど、かなりのブロガーが全国規模で活動し始めたのでした。

こうして、佃収九州王朝説と百嶋神社考古学の影響を受けた特殊な枠を与えられ多くの研究者、神社調査者を持つ特異な団体が当方だったのです。

曲がりなりにも、貴重極まりない佃収先生の講演会を自前で行う事が出来ました。

今後どうするかは、はっきりしていませんが、年に23回は佃収講演会を北九州市で行い、当方は、本来の根拠地であった筑前、筑後、肥後のラインに戻し、筑紫野市の二日市温泉のエリアに戻し、月例会を続け、サテライトの佐賀、熊本、大分のメンバーを加えて研究会を続けたいと考えています。

特に、大分にはブロガーだけで5人、複数の著書を持たれる方も4人はおられるので、パーマネントな組織造りをすべきでしょう。ただ豊前、豊後は広過ぎます。新に佐賀の組織を造ろうとしていますが、私も含め九州王朝論など聴いたことも無い田吾作ばかりのお国柄であり前途多難で大変です。

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さて、皆さんも、邪馬台国畿内説などと言った既存の大嘘から離脱し、九州王朝説に立ち自らが信じられる研究を発見して頂きたいと思って止みません。

ただ、佃収研究は非常に体系的で、しかも時系列的に多くの政権が入れ替わった九州の政治状況を描いており、如何なる経緯で、世界でも稀有な列島の古代国家が形成されて来たかを理解できるのではないかと思うのです。

グーグルで「佃収」と入力すれば直ぐにトップページに上記の窓が登場し、その中には佃研究の主要な論説を読む事が可能になるのです。

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佃収氏は現在80を超え、尚も研究、講演を続けられています。

佃収九州王朝説は、その精緻な内容とその膨大な研究内容にも拘わらず、九州王朝論者の中でもそれほど知られてはいません。

書く言う私自身も佃研究を知ったのは10年前であり、徐々に読み深めていくうちに、その精緻さに驚き、一発屋の邪馬台国本を出して邪馬台国論争に参加したと満足している方々が多い中、35年近い研究を九州の現場に長期間入り丹念に続けてこられた事を知るにつけ、九州の現場に入る事も無く文献と思い込みだけで堂々と自説を展開する方々を見るにつけ、つくづく嫌悪感さえ覚えるほどです。

かく言う私は18歳から古田三部作を読み始め、50代から二十年近く古田史学の会にも参加してきましたが、「古田先生の言われたことが誤りだとでも言うのか…」と言った硬直化した姿勢に将来性が見えないと思いつつも尚会員であり続けたのは、それに輪を掛けた邪馬台国畿内説論者からさもしいばかりの職業的考古学協会系の商売人による通説派の大嘘つき共に対抗するにはそのような強固な組織があっても良いだろうと、期待はしないまでも容認し、敵対もしていなかったのですが、数年前に会を離れ、近年亡くなられた米田良三氏や佃収研究を拡散し、我々が新たに進出した百嶋神社考古学の全国的拡散を図ってきたところです。

今後とも、佃収研究の拡散はもとより、年に3回程度の講演会を続け、佃収先生の最後の研究活動を支えたいと思っている所です。

このため、小規模ながらも全国的ネットワークを持つ、百嶋神社考古学研究会の埼玉在住メンバーを、埼玉での講演会に入って頂き、IT技術を活用した展開をサポートしてもらう事も始めている所です。

昨年の佃収北九州市戸畑講演(60人)、今年の小倉講演(110人)を実現したのですが、既に、現地の九州市では提携団体の丁己歴史塾を中心に、今後とも年に3会程度の講演会を継続したいとの考えが出されていますが、当方は、この三年半余り、北九州での講演会に梃入れを行ってきたことから本拠地の筑前、筑後、肥後…の九州王朝の中心部での活動が手薄になっており、筑紫野市=二日市温泉での研究会再開へと秋から戻す方向で準備中です。

佃先生の年齢を考えると、ここ数年サポートを続ける必要がある事は自明ですが、当会の動員力を含め、支える事が可能かどうかはやって見なければ分かりません。


佃収講演については、北九州方面では090-54775110牧野、筑前筑後地区では090-6298-3254まで。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ

2023年08月05日

ビアヘロ214 佃 収北九州市小倉講演に多くの参加を頂きました 特に遠方からの参加者に感謝します

ビアヘロ214 佃 収北九州市小倉講演に多くの参加を頂きました 特に遠方からの参加者に感謝します

20230724

太宰府地名研究会 古川 清久


 さる2023722日(土)1300〜 丁己歴史塾+菊水史談会+太宰府地名研究会の提携により

北九州市小倉北区大手町114号ムーブ 5F大セミナールーム(定員 165人)に於いて九州王朝論者の佃 収(非古田系)氏の講演会を行いました。

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於:TEL093‐583‐3939 FAX093‐583‐5107 会場 北九州市立男女共同参画センター・ムーブ


下は、昨年の65日の戸畑講演を呼び掛けたものですが、この時は大雨の中60人規模でお集まり頂きました。今回は、それを継続し行われたものでしたが、前回を上回る規模となりました。深謝します。

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昨年は529日から65日に掛ける連続講演をお願いしましたが、今回は単独開催となり、佃収先生を埼玉県からお呼びして行うものになりました。このため、実際にはどれほどの参加を得られるかは蓋を開けるまでは正直予測がつきませんでした。

 ところが、開催時刻が近づくと165人収容の会場は、ほぼ満席状態に見えるほどの参加者でいっぱいになりました。これには少しトリックがあったようで、三人掛けのテーブルが基本二人掛けにされており、実際には120人で満席になる状態だったようです。

 まだ、正確な集計を行ってはいませんので詳細は不明ですが、これほどの参加が得られれば上出来だったのではないでしょうか。

 さらに、もしも日曜日の開催であったならば、動員できた数は3割増しにはなっていたはずで、日曜日の会場が確保できなかったため仕方がなかったのでした。現在、非正規雇用の増大、年金支給額の縮小によって死ぬまで働かされる状態になっており、既に支給年齢の70歳化を政府は決めているわけで、週休二日制など吹き飛び、土曜日にも働く方が激増しているのです。このため、本来、参加いただける方が減るのは致し方ないのです。まあ、120人近くならば感謝すべきと言えるのです。

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佃先生もお喜びでしたし、今後とも講演をしたいと言われていましたので、もしかしたら佃収講演は継続できるのではないかと考えているところです。

 ただ、3年半ほど丁己歴史塾からの要請を受け講演者を派遣してきましたが、太宰府、久留米方面での自前の講演会が手薄となっており、10月からは筑前〜筑後〜肥後のラインに戻し、太宰府、久留米の中間で、佐賀、熊本からも集まり易い筑紫野市での講演会に戻し、北九州市での佃講演が行われる場合はそちらを優先し共同開催したいと考えています。                (20230725)古川清久

何かお気づきの点、ご質問等があれば0906298-3254当方までご連絡下さい。
posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:28| Comment(0) | ビアヘロ

2023年07月28日

ビアヘロ 213No.217 大巳貴と大己貴による「おおなむち神社」“宮原誠一の神社見聞牒(217)転載”➁

ビアヘロ 213No.217 大巳貴と大己貴による「おおなむち神社」“宮原誠一の神社見聞牒(217)転載”➁

20230622

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


No.217 大巳貴と大己貴による「おおなむち神社」


宮原誠一の神社見聞牒(217) 令和5年(2023)0301


境内案内板の略記
仲哀天皇9年秋、(神功皇后)諸国に令して船舶を集めて兵甲を練らんとせし時、軍卒集い難し。皇后曰く、必ず神の心ならんとて大三輪社を立て刀矛を奉りたまいしかば軍衆自ずと聚る(日本書紀)
夜須郡に於保奈牟智(おおなむち)神社小一座あり、祭神は大己貴命であるが、今は大神大明神と称す。社殿は南に向い、東の間に天照大神、西の間に春日大明神を合わせ祭る。(延喜式神名帳)
大神大明神は弥永村にあり(筑前国続風土記)太宰管内志(伊藤常足編)によれば「筑前神社志」に、(神功)皇后より後に嵯峨天皇弘仁2年(811)勅願ありて、ご建立あり。 
日本書紀巻第八「仲哀天皇紀」巻第九「神功皇后紀」から
仲哀天皇2年正月、気長足姫を皇后とす。同3月、熊襲叛き、熊襲国を討たんとす。
仲哀天皇8年正月、穴門豊浦宮を興す。仲哀天皇9年2月、仲哀天皇崩御。
仲哀天皇9年3月、斎宮を営む。同年同月、熊襲国の羽白熊鷲を討たんとす。山門縣の田油津姫を討つ。兵甲を起し、船を整えて浪を渡り、財土(新羅)を求む。
仲哀天皇9年9月、皇后は兵卒を集めるも集まらず、大三輪社を建て刀矛を納め奉るとおのずと兵卒が集まる。仲哀天皇9年10月、新羅を討たんと、新羅に到る。
新羅を討たんと、兵卒を集めようとしたが集まらず、大三輪社を建て刀矛を納め奉ったらおのずと兵卒が集まったという。これが於保奈牟智神社(おおなむち)の創立とされています。
祭神は大己貴命を祀るが、今は大神大明神と称す。社殿は南に向い、東間(右側)に天照大神、西間(左側)に春日大明神を合せ祀る。
天照大神をいかなる由来で祀るか、述べてありません。
祭神は大己貴命、今は大神大明神と称す、とあります。
大神大明神は大山咋神です。その実父が春日大神と称する天児屋根命(あめのこやね)です。
当初の祭神が大己貴命(大国主)だったとしても、天照大神の存在が由来なく浮きます。
大山咋神にとって大国主は義理の父であり、一連の繋がりはあります。
一般に、大三輪神社は事代主を祭神とします。大神神社(おおみわ)は大物主の大山咋神を祭神とします。事代主と大山咋神は義理の兄弟です。
大三輪神社(おおみわ)の事代主、大神神社(おおみわ)の大山咋神と混乱します。
大物主になるともっと混乱します。
「嵯峨天皇弘仁2年(811)勅願ありて、社殿の建立あり、神職松木氏(本姓大神)先祖より宝永2年(1705)まで62代相続せり」とあります。現在の宮司は高氏(こうの)ですが、それ以前は松木氏(本姓大神 おおが)のようです。
それからすると、今の大己貴神社の祭神は鳥居の扁額の「大神大明神 おおがだいみょうじん」の大山咋神となります。大国主ではありません。いつの時代か祭神が大国主から大山咋神に入れ替わっています。しかし。社号だけは「大己貴神社」を維持されています。


  大神神社(おおみわじんじゃ)
  奈良県桜井市三輪1422
  主祭神:大物主大神(おおものぬしのおおかみ、倭大物主櫛甕玉命)
  配祀神:大己貴神(おなむちのかみ)少彦名神(すなひこなのかみ)
  摂 社:高宮社(日向御子神) 狭井神社 活日神社(高橋活日命)
      磐座神社(少彦名神) 市杵島神社

大国主と大山咋神(市杵島姫)と田心姫(事代主)
No.106 宗像三女神と宗像大社と大国主 201953日」から抜粋


豊玉姫は後に彦火々出見尊と離婚され、少名彦(すくなひこ)を連れ子に大国主と再婚され、名前を田心姫と改められます。大国主と少名彦は共に筑豊西一帯(葦原中国)の国造りに尽力され、少名彦は後の事代主(ことしろぬし)こと西宮(にしのみや)大明神です。
事代主は筑紫の夜須(今の福岡県甘木)に三年ほど滞在されたことがあり、そのことが西宮大明神縁起に記されています。少名彦は大国主と共に活動されたことが「疫神斎の護符」に名をとどめておられます。
市杵島姫は素盞嗚尊とアカル姫(磐長姫)の間に誕生されました。
若き天忍穂耳命と市杵島姫の新婚の地は鹿児島の甑島から薩摩半島の吾多にかけて過ごされました。市杵島姫は阿蘇族挙げて歓迎され、「波つき三つ鱗」の神紋を持った白龍様と崇められました。二人の間には、日吉神社祭神・大山咋(おおやまくい)の息子がおられ、若き日の名前は、天葺根命(あめのふきねのみこと)と申し、佐賀県小城一帯を支配されました。
倭国大乱の折、素戔嗚尊の息子・長髄彦の乱(前期倭国大乱)に呼応して、天忍穂耳命と長髄彦の姉・瀛津世襲足姫の息子・建南方(たけみなかた)も乱(後期倭国大乱)を起こされます。
大乱戦後処理により高木大神から離縁させられた市杵島姫は天葺根命を連れ子に大国主の妃となられ、大国主との間に下照姫(したてるひめ)が誕生されました。
市杵島姫は大国主との再婚により、連れ子の天葺根命は事代主と義兄弟となられ、事代主より酒造方法を教わり、松尾大社の酒造の祭神・大山咋、別名・佐田大神となられました。
大乱の始末の結果、天忍穂耳命は妃の天鈿女命(あめのうずめのみこと)と市杵島姫の二人の妃を失うこととになります。
大山咋は市杵嶋姫の連れ子として、事代主は田心姫(豊玉姫)の連れ子として、大国主との再婚により、大山咋神と事代主は大国主の義理の息子達となられるのです。
この三人の関係は次のようになります。
大国主を「義理の大物主」、大山咋を「真の大物主」、事代主を「代理の大物主」。
崇神帝が奈良県の纒向に移られた後、父・大山咋(佐田大神)を三輪山に祀られました。
大神神社(おおみわ)と大物主の誕生です。
大山咋神と事代主の二神は、筑前国田島の宗像神社の本殿の右外に、松尾神社(祭神大山咋神)、蛭子神社(少名彦)として祀られています。大国主を祀る神社は本殿の奥地の高宮でした。今は取り壊されて「高宮祭場」が残っています。宗像神社は本来、市杵嶋姫、田心姫、大国主の三神を祀る神社でした。ここに三人の大物主が誕生することになります。
一般に言われるように大物主は大国主ではなく、本当の大物主は大山咋神です。
この三人の関係を次のように扱っています。
  1.大国主 大己貴・八千矛神 義理の大物主 大神(おんが)大明神
  2.大物主 大山咋・天葺根命  真の大物主 大神(おおが)大明神
  3.事代主 少名彦・恵比須神 代理の大物主 大神(おおみわ)大明神

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境内社・八幡神社

案内では神功皇后・応神天皇を祀るとあります 「八幡」の八の字は正八幡大幡主の鳥文字です 応神八幡ではないようです
妙見神と大巳貴と大己貴
前ブログ記事の「No.216 白山宮白山姫(天照女神)と御中主神の大幡主」から「妙見」とは北極星の仏教語で、漢字の意味をそのまま当てれば「すぐれた眼力」となります。
「妙見神」とすれば、「見」を「海」として、「すぐれた海の神様」となります。
それは大綿津見神(おおわたつみ 大海祗)を指し、「わた」は海という朝鮮語です。また、「見」を「巳」として、「すぐれた龍()の神様」となります。(=大龍王=大巳貴)((むち)は宗廟の尊称です。)
妙見神は亀蛇(きだ)に乗って八代へ、亀蛇は大幡主の大型船です。
大巳貴は大国主とされていますが、大国主は越智族であり、龍族ではありません。大国主の母が草野姫(埴安姫)で龍族となります。よって、大国主は「大己貴」となります。
前記の由来で述べましたように、天照大神をいかなる由来で祀るか、由来記にありません。
天照大神が浮いています。
もし、大幡主を大巳貴として、大己貴神社以前に大幡主と天照大神を祀る大巳貴神社があったとしましょう。すると、社殿の形式、境内の構造物が説明できるのです。
そして後に、大国主の「大己貴」を祀る神社に入れ替わったと見るのです。
さらに、大己貴神社の社号はそのままで、大山咋神を祀る神社に祭神の入れ替えがあったと考えるのです。福岡県には大幡主と大日孁貴(天照大神)を共に祀る神社があり、福岡県筑前町(旧三輪町)には四社の大神宮(太神宮)があります。その中でも知られていない神社が、弥永の大己貴神社です。
現在の大己貴神社の祭神表記は大己貴命、天照皇大神、春日大明神ですが、古宮は大幡主と大日孁貴(天照大神)を共に祀る大巳貴神社があったと想定するのです。
それが、本殿の神額の「大神宮」です。本来なら鳥居扁額から「大神神宮」となるべきです。
大巳貴神社は大神宮の性格なのです。大幡主と女神の天照大神を祀る神社、いわゆる大神宮です。
拝殿の唐破風には、波、龍、亀(亀蛇きだ)、鳳凰の彫刻があります。鳳凰は開化天皇のシンボルです。さらに、対の松と蘇鉄があります。恐らく、昔は対で蘇鉄が植えてあったと思われます。二の鳥居の後には大幡主の六角台の六角灯籠です。本殿の神額は大神宮です。大幡主祭祀の痕跡です。
後に、祭神「大巳貴 大幡主」は「大己貴 大国主」と差し替えです。社号は大巳貴神社から大己貴神社に変更。神功皇后伝説により大神(おおが)神宮が上塗りされています。
由来記では大三輪神社となっていますが、大神(おおみわ)神社との混合使用でしょう。
大幡主は本殿から追い出され、境内社の八幡神社に祀られた。さらに、大国主は大山咋神と祭神の差し替えです。しかし、社号はそのままの大己貴神社に維持されたと考えるのです。
鳥居の扁額は「大神大明神 おおがだいみょうじん」「大神神宮 おおがじんぐう」です。大神大明神は「大山咋神」です。脇神の春日大神(天忍穂耳命)は大山咋神=大神(おおが)大明神の父となります。
大国主は本殿から追い出され、境内社に祀られた。それが、大己貴命と事代主は本殿後に祀られている石塔です。(ちょっとしっくりいきませんが)現在の表記です。社号は大己貴神社、主祭神は大神大明神の大山咋神です。脇神は、東間(右側)に天照大神、西間(左側)に春日大神(天忍穂耳命=天児屋根命)
天照大神は当初から祭神として維持されています。天照大神は大山咋神と直接の関係はありません。
春日大神は大山咋神の父神ということからでしょう。

大己貴神社の祭祀線
大己貴神社の社殿は次の二社に向かいます。
*鷂天神社 福岡県朝倉市上上浦230 (No.103)
 祭神 高皇産霊命(大幡主)、大日霊貴命
  由緒:元和年中(1681)、隼鷹神社(小郡市力武)より勧請
  境内社 大神社(埴安命=大幡主=神皇産霊神・大日霊貴尊)
 小郡市力武の隼鷹神社の祭神の高皇産霊神は高木大神でなく大幡主でした(No.208 209)
 鷂天神社の祭祀線は高良山奥院で、鷂天神社の古宮は高良神社です
*日吉神社 福岡県久留米市草野町矢作773 (No.012)
 主祭神 大山咋神 御魂社(古宮) 大国魂神(大幡主)、伊耶奈美命 日吉神社の祭祀線は宝満山上宮です。弥永の大己貴神社は大幡主、大日霊貴命、大山咋神と関係しています。
大己貴神社の参拝線は飯塚市立岩の熊野神社になります。近くの北の立岩神社は熊野神社の磐座(いわくら)です。この関係から、大己貴神社の古宮は大巳貴神社であり、祭神は大幡主、大日霊貴命(天照女神)であることを示しています。こうしてみると、草野町矢作の御魂社(古宮)の本当の祭神は大国魂神(大幡主)と大日霊貴命(天照女神)となります。
*日隅宮(うずのみや)
大己貴神社の近くの内村区の天神社の境内社に日隅宮があります。日隅宮は大国主の国譲りに登場する宮です。この日隅宮は現在の字・乃木松の天神社にありますが、江戸時代以前は乃木松の西隣の字・ウツノ宮にあったという。この宮の勧請は明治以降とされ、大己貴神社の大国主とは関係ないようです。

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神功皇后の新羅遠征は日本書紀のウソ
神功皇后の新羅遠征は日本書紀の創作です。
本当の当事者は開化天皇と安曇磯良です。それで、拝殿向拝の亀蛇、鳳凰、龍の彫刻があり、鳳凰は開化天皇のシンボルです。
すると、神功皇后の大己貴神社の起源と云われる日本書紀の記述の部分「新羅を討たんと、兵卒を集めようとしたが集まらず、大三輪社を建て刀矛を納め奉ったらおのずと兵卒が集まったという。これが於保奈牟智神社(おおなむち)の創立とされ、祭神は大己貴命を祀る」は宙に浮いてしまいます。
 私は問いたい。 大三輪社を建て大己貴(大国主)を祀り、剣矛を納めたら兵卒が自ずと集まった、とあり、どうして兵卒が自ずと集るのか?論理的な説明を日本書紀に聞きたい。日本書紀の創作であり、神話であるから説明不要とはいきません。開化天皇の痕跡が「鳳凰」の彫刻で残されているということは、開化天皇が新羅遠征を祈願された、その神社は、大幡主と天照大神を祀る「大巳貴神社」ではなかったのか、と思うのです。新羅遠征は大渡航作戦です。海と航海の大海神の大幡主を祀る神社に祈願されたとなります。その後、大幡主を祀る「大巳貴神社」は消され、大国主を祀る「大己貴神社」となった。
さらに、大己貴神社の祭神である大国主は消され、大神大明神の大山咋神が祭神となった。その時期は、第16次遣唐使派遣の伝教大師が関係する延暦23(804)以前と推察するのです。

最澄伝教大師は大己貴神社を素通りして奇志神社へ行った(No.119)
伝教大師は延暦23(804)16次遣唐使派遣の折、難波しそうになり、船中で航海の安穏を薬師仏(大幡主)に祈願され、帰朝の折は七仏薬師仏を彫刻せんことを誓いになられます。もう一隻の空海の乗られた舟も安全でしたが、ほかの二隻は遭難しました。
(
薬師如来の本地垂迹は大幡主)
翌年五月帰朝し、福岡県朝倉市楢原(奇志神社)を訪問され、自らの手彫りの薬師仏を奉安され、楢原山東光院薬真寺を開基され自らの手彫りの薬師仏を奉安されているのです。
また、延暦7(788)最澄22歳の時、自刻の薬師如来を本尊とする草庵、後に延暦寺根本中堂となる一乗止観院を創建され、伝教大師と薬師如来とは関係が深いのです。
ところが、伝教大師帰朝の折、足を運ばれたのは旧三輪町弥永の大己貴神社を通り過ぎて楢原に来られ、自らの手彫りの薬師仏を奉安されています。まるで、大国主命とは関係ないといった感です。
那珂川市市ノ瀬の山王宮の祭神は天御中主神(大幡主)、大己貴神、彦火々出見命です。並びは格式順ですが、最澄は彦火々出見命(猿田彦)を延暦寺の守護神とされました。彦火々出見命は事代主の実の父です。大国主命と事代主は義理の親子です。
伝教大師にとって、彦火々出見命、大幡主、大国主はセットでゆかりの神々ではなかったのかと思うのです。この神々が祀られているのが弥永の大己貴神社でなく、楢原の奇志神社だったのです。
すると、伝教大師の史実から、大国主を祀る大己貴神社が宙に浮いてしまうのです。

 
奇志神社 福岡県朝倉市(旧甘木市)楢原664
祭神 大己貴、少名彦、神功皇后(福岡県神社誌による)

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奇志神社は本来、大幡主、彦火々出見命、大国主、市杵島姫を祀ります

日本書記の神功紀で、荷持田村(のとりたのふれ)の羽白熊鷲(はしろくまわし)討伐のおり、皇后が朝倉秋月の入り口の目配山にて敵情視察する段がありますが、その目配山の麓に楢原地区があります。その楢原に大国主を主祭神とする奇志神社が鎮座です。社紋は神功皇后の紋があり、楢原地区の東には下渕(したふち)地区があり、ここに大国主を祀る老松神社が鎮座で、ここでの皇軍の陣地を「御府の森」といった。


熊野三所権現
熊野本宮大社 和歌山県田辺市本宮町本宮     家津御子大神(けつみこ)は阿弥陀如来
熊野速玉大社 和歌山県新宮市新宮        速玉大神(はやたま)は薬師如来
熊野那智大社 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山 牟須美大神(むすび)は千手観音
(
祭神の一般名称)
熊野本宮大社 主祭神・磐長姫(いわながひめ=阿加流姫・耀姫 あかるひめ)
熊野速玉大社 主祭神・速玉男命(はやたまお=大幡主 おおはたぬし)
熊野那智大社 主祭神・熊野夫須美命(ふすみ=元伊弉冉尊 いざなみ)
阿須賀神社  主祭神・事解男命(ことさかお=金山彦 かなやまひこ)

熊野十二所権現
社殿       神座      祭神名        本地仏
上四社  第一殿 西御前(結宮)  夫須美大神(伊邪那美)  千手観音
     第二殿 中御前(速玉宮) 速玉大神(大幡主)   薬師如来
     第三殿 証誠殿     家津御子大神(耀姫)  阿弥陀如来
     第四殿 若宮(若一王子) 天照大神       十一面観音
中四社  第五殿 禅児宮     忍穂耳命       地蔵菩薩
     第六殿 聖宮      瓊々杵尊命      龍樹菩薩
     第七殿 児(ちごの)宮  彦穂々出見尊     如意輪観音
     第八殿 子守宮     鵜草葦不合命     聖観音
下四社  第九殿 一万宮十万宮  軻遇突智命(金山彦)  文殊菩薩・普賢菩薩
     第十殿 米持金剛    埴安姫命       毘沙門天
    第十一殿 飛行夜叉    彌都波能賣命(罔象女) 不動明王
    第十二殿 勧請十五所   稚産霊命       釈迦如来

本地垂迹(ほんじすいじゃく)
仏教が興隆した時代に発生した神仏習合思想の一つで、神道の八百万の神々は様々な仏(菩薩や天部なども含む)が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)であるとする考え

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ