2020年03月15日

ビアヘロ131  15年来の謎だった熊本県多良木町久米の思川(オメゴウ)の意味が少し解けてきた @ 思川

ビアヘロ131

 15年来の謎だった熊本県多良木町久米の思川(オメゴウ)の意味が少し解けてきた @ 思川

20191018

太宰府地名研究会 古川 清久


 熊本県の人吉盆地の奥に多良木町があり球磨郡六郷の一つとされた久米郷があったとされます。

 久米と言えば戦前は盛んに持て囃された「うちてしやまん…」の久米歌の久米氏の「久米」ですね。

 それこそ15年ほど前、荒金達也の二著に突き動かされ、球磨郡内の天子宮(天子神社、天子社)調査を行っていた当時(これについては全リポートの半分しかオンエアしていませんが…)、この手の神社が最も集中する球磨郡を手始めとして現地に入っていた時に遭遇したものでした。

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思川という文学的な字面に引き摺られるのも問題ですが、めったにない地名だけに当時も心動かされたのでした。

 特に付近には小田原提灯の小田原地名もあり、相良氏下向の関係かとも思いましたが、今回はこの地名の話になります。

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この15年前の天子宮調査にお手伝いいただいたのが郷土史家のS氏でしたが、この先生が思川を不思議に思われていたのが今も印象に残っています。

 当時も、有明海フォーラムという諫早湾干拓事業への抗議団体の中にあったことから多くのダム建設反対事業や河川事業に注目していた事から、十年ほど前に栃木県の思川総合開発事業の事を知り、栃木の有名な渡良瀬遊水地から流れ出す思川、これまた有名な明治の田中正造の足尾銅山に近い思川が流れる事に気付き、この地名が孤立した地名ではない事に気づいたのでした。

 そして、最近になって、鹿児島県姶良市や新潟県南魚沼市にも思川が流れている事に気付き、この遠く離れた四か所の思川の解明をそれこそ思い立ったのでした。

 多少は想像していたのですが、人吉盆地に蟠踞した長寿大名と言うより鎌倉以来の地頭、大領主の相良氏と関係がありそうだと気づいたのでした。では、栃木の思川をご覧頂きましょう。

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田中 正造は、日本の政治家。日本初の公害事件と言われる足尾鉱毒事件を明治天皇に直訴した政治家として有名。衆議院議員選挙に当選6回…

フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia2019 12:49 による


 足尾銅山の鉱毒を溢流させ沈澱池=実際は浸透池の様に使われていたのが渡良瀬遊水地なのでしょうが、そこに注いでいるのも思川なのです。


 渡良瀬遊水地は、小山市の南西端に位置し、小山市のほか、栃木県栃木市・野木町、群馬県板倉町、埼玉県加須市、茨城県古河市の442町にまたがる、面積約3,300haの日本最大の遊水地です。渡良瀬川・思川・巴波川の3河川が流れ込み、洪水を一時的にため込み、首都圏に住む人々の生命と財産を守る利根川治水の要です。

 また、渡良瀬遊水地は、本州以南最大の湿地にチュウヒをはじめとする絶滅危惧種183種を含む貴重な動植物が生息・生育する「自然の宝庫」となっています。多様な動植物が生息する自然豊かな場所となり、数多くの渡り鳥等も頻繁に利用することから、貴重な湿地として保全していくことの必要性が認められ、201273日に、国際的に重要な湿地として、ラムサール条約湿地に登録されました。

小山市 渡良瀬遊水地による


 実は、最近気づきましたが、鹿児島県姶良市にも思川が流れており、相良姓をお持ちの方もかなり住んでおられます。思川は、鹿児島県鹿児島市(旧鹿児島郡吉田町)、姶良市を流れて鹿児島湾(錦江湾)へ注ぐ二級河川。これについては相良氏一族が鹿児島に移り住んでいる事から、この思川については多良木町から派生したと考えて良いはずです。では、栃木の思川と多良木のそれとのベクトルはどちら向きなのでしょうか? その前に、一般的な相良氏の人吉進出から考えましょう。


鎌倉時代

相良頼景は、伊豆で兵を挙げた源頼朝に協力せず、その後も不遜な振る舞いを続けたため、鎌倉幕府が成立すると、頼景は肥後国多良木荘に追放された。しかし頼景はその後、頼朝に許され、多良木荘の地頭に任命された。さらに、頼景の長男・長頼二俣川の合戦で手柄を立て、人吉荘を与えられた。なお、頼景を相良氏の初代とする向きもあるようであるが、相良氏の史料『南藤蔓綿録』などでは長頼を初代とし、『人吉市史』もそれを採用しているためそれに準拠する。

頼景は死に際して多良木荘を惣領の長頼に与えたが、結局のところ分割相続によって長頼の子孫で各地の所領は分けられた。なかでも多良木荘(上球磨)の相良氏は上相良氏、人吉荘(下球磨)の相良氏は下相良氏と呼ばれ、相良荘に残った相良氏は遠江相良氏と呼ばれる。

フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia20191018 14:12による


 静岡から人吉盆地に入って来た時に相良氏が拠点を置いたのが多良木でした。

 従って、その際持ち込まれた地名と考えるのが順当ですが、後でそうではないらしい事に気付きます。

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一般には静岡の牧ノ原台地の裾野から相良氏が下向し相良氏と言う姓も持ち込んだと考えて良いのでしょうし、そう考えられています。

 しかし、私達には直ぐ傍に「波津」という地名があることから彼らも九州からの逃亡を経験した氏族だった事が見えてくるのです。

 一応、この地名は九州北岸に数件散見されますが、ここでは宗像大社のエリアの岡垣町波津をご紹介しておきます。後で意味が分かってきます。

 次に、相良姓の分布を確認しておきましょう。実は、人吉盆地にはそれほど相良姓は存在しません。

 これについては「ひろっぷ」というブログをお書きの当会のメンバーの宮原女史からお聴きしたのですが、相良家は本家だけが相良姓を名乗り分家、諸流、臣下は相良姓を名乗らないと言う法則性があったからで、人吉盆地外の相良領外の同族は相良姓を名乗る事が出来ると言う不文律があったというのです。

その事を頭に入れて解析を行ってください。実は右の青丸の地区に思川の謎解きができる鍵があるのです。

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相良姓が集中するのは豊前の豊前市(福岡県)から中津市(大分県)辺りなのです。秦氏が大量に入ったエリアです。

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しかし、全国分布に東西分裂がある事はお分かりでしょう。このことは、相良氏のルーツが九州であることを暗示しています。

 勿論、相良が源氏の命令によって九州に下向している事は間違いないでしょうから、福島の郡山、南相馬は元より、神奈川の三浦半島は元より、関東武士団の一流であった事は十分に推定できるでしょう。

 ここでは、思川のある栃木を引っ張り出すと宇都宮にピークが出て来ており、渡良瀬遊水地との関係も推定できそうです。

 そう考えていると、blog「ひろっぷ」のM女史から“現在の相良家本家の御殿様も埼玉におられる”との情報を入手しました。神奈川、静岡に展開する以前は埼玉〜栃木に縁を持つ一族だった事が見えてきた様に思えます。

 仮に、そうではなかったとしても、九州中央部そして九州北岸(それも宗像氏の領域)そしてさらに東へと移動した人々だった可能性が見えてきたのです。

 そこで、ネット検索で栃木の宇都宮周辺の情報を収集していると、


思川の名の由来が「田心姫命」であるという説が載っている資料は何かないか。

田心姫命(田心姫神などとも記す)については、『日本の神仏の辞典』(大島建彦ほか/編 大修館書店 2001p810に次のように説明がされています。

「たごりひめのみこと 【田心姫命・田凝比当ス】

 『日本書紀』巻一に所出。天照大神と素戔嗚尊の誓約で生まれた神。田心姫神とも

 (1)天照大神が素戔嗚尊の十握剣を三段に折り天真名井にふり濯いで噛み砕いて噴き出した息吹に生まれた神、

 (2)天照大神が御自身の八握剣を食べて生まれた神、

 (3)素戔嗚尊の八坂瓊之曲玉を天真名井に浮かべて瓊の中程をくい千切って噴き出した息吹に生まれた神、とする。『延喜式』所出の筑前国宗像神社三座の祭神。」

 また、湍津姫命(たぎつひめのみこと),市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)と共に「胸形大神(むなかたのおおかみ)」と総称されています。

 この三女神は、厳島神社をはじめ八幡宮・水神社の祭神に多いともあります。

 さて、そのように水に関係の深い田心姫命が思川の地名の由来であると記してある資料には、以下のものがありました。

(1)『さあ、思川へ行こう!』(小山市立博物館/編 小山市立博物館 2004

 p76 コラム「思川と伝説」

「(前略)もう一つの伝説は、寒川の胸形(むなかた)神社にまつわる物語です。この神社では、神様として田心姫命(たごりひめのみこと)を祀っていますが、この神様は水に縁のある女神なのです。そこで稲の豊作を祈る村人たちは、近くを流れる川の恵みの大きさをたたえて、田心姫の名前にある田心の二字を一字に縮めて、その名を思川とよぶようになったというのです。

(2)『式内社調査報告 第13巻 東山道2』(式内研究会/編 皇學館大學出版部 1986

 p656 【論社考証】(※旧字体は新字体に改め)

「【論社考証】 伴信友の『神名帳考証』には、「中里氏云、当郡網戸(クジト)村ニモ胸形神社アリテ思川ト云フ川傍ニ坐リ思川ハモト田心(タコリ)川ニテ田心姫ノ御名ニ由リテ胸形三女神ノ御社モ此地ニ坐セル也サテ田心ノ二字ヲ一字トシテイツノ程ヨリカ思川ト云ヒナラヘル也此地ノ社式内ニテ寒川村ナルハ式内ナル社ニアラズトゾ」という説が記されている。(後略)」

(3)『下野国寒川郡 古代・中世の軌跡』(小山市立博物館/編 小山市立博物館 1997) p18 網戸神社の解説文中 「(前略)後者は田心姫命を主祭神とする。田心姫命は、思川の名の由来ともいわれる。(後略)」                  無題.pngによる


十分にお分かり頂けたと思います。「思川」とは田+心=思川であり、田心姫(タゴリヒメ、タコリヒメ)=豊玉姫に因む名称だったのです。

 ここで、このお姫様の出自を明らかにしますが、宗像三女神とは勿論実の姉妹などではありません。

 ただ、同じ白族(中国の雲南省昆明、雲南省大里が最近の本拠地)が他の民族と姻戚関係を結んだプリンセス仲間と言えばお分かり頂けるでしょうか?豊玉姫で言えば、父神は豊玉彦=ヤタガラス、母神は高木大神(タカミムスビ)の長女の豊秋ツ姫とする高格式の御姫様なのです。

伴信友が『神名帳考証』で“寒川村ナルハ式内ナル社ニアラズトゾ”と書いている事とも対応するのです。何故ならば、寒川姫とは藤原氏の祖先である阿蘇高森の草部吉見=ヒコヤイミミと高木大神の次女である栲幡千千タクハタチヂヒメ)の間に産れたこれまたプリンセス=天豊ツ姫=阿蘇ツ姫=天比理刀

刀♀ヲ川姫=杉山姫を意味しており、寒川村との関係もより鮮明になったのです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


 ここまで読み込んでこられたら、思川が宗像三女神の田心姫を意味しており、この白族と高木大神と阿蘇氏の姻戚関係によって生じた氏族(新たな民族言っても良いでしょうが)の後裔が如何なる原因かによって展開し定着した場所であった事が推定できるのではないかと思うものです。

 紙面の問題からここらで話を打ち切り、思川と田心姫の話を次のブログに引き継ぎます。

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佐賀県と長崎県との有明海側の県境付近の佐賀県太良町(旧大浦町)の地図ですが、「田古里」「田古里川」という奇妙な地名があります。勿論、佐賀には吉野ケ里、伊万里と膨大な「里」地名はありますが。

 私の亡くなった母親の実家に近い土地だった事から小学校までは夏冬の休みに長期間住、有明海沿岸の野山を走り回っていました。その経験が拙著「有明海異変」不知火書房(福岡市)092-781-6962を書く切っ掛けにも遠因にもなっていたのですが、当時から奇妙な地名だなあと不思議に思っていました。

 これも思川だったのかも知れません。子供の時に抱いた謎が50年を超えてやっと解決したのかも…。続く

百嶋由一郎氏が残された神代系譜、音声CD、手書きスキャニング・データを必要な方は09062983254まで

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 21:52| Comment(0) | ビアヘロ

2020年03月12日

ビアヘロ130 讃岐うどんと餃子から粉食を考える “列島には粉食を好む民族が侵入している”

ビアヘロ130 讃岐うどんと餃子から粉食を考える “列島には粉食を好む民族が侵入している”

20191112

太宰府地名研究会 古川 清久


 何とも妙なタイトルであり妙な話になりますが徐々に意味は分かってくるのではないかと思っています。

 そもそもうどんは麺文化の一部であり広義の粉食でもあるのですが、ここでは特に腰の強いor弾きの強い麺とかいった食物を議論したいために敢て整合性のないタイトルを付ける事に致しました。

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今回も妙な話をしますが、箸休め程度の気楽な感覚でお読み頂きたいと思います。しばらくハードなテーマと取り組んでいた事からこちらも息抜きの意味で張りつめない話を書きたいと思います。

 まず、冒頭に今や全国を席巻した感のあるご存じ丸亀製麺の画像と店舗展開をお知らせしました。

 今や全国1000店舗を目指す勢いですが、企業としての展開ぶりには驚嘆すべきものがあります。

 少なくともご成功おめでとうございますと言うべきでしょう。

 ただ、全国が同じ味や食感で画一化される(実際はどうかは分かりませんが)事に対する一抹の不安と、場末の路地裏の小さな店でおばあさんが一所懸命に作られるうどんが消えていく事に対する悲しさ、寂しさ、もったいなさにも哀愁を感じてしまうこの頃です。

 さて、そろそろ本題に入りましょう。

 私は佐賀で産まれ長崎や熊本や福岡や大分といった北部九州で生活してきた人間ですが、糞忌々しいい役所に勤めていた事から人生の半分近くをただ喰うためだけに佐賀県などで過ごしてきました。

 このため、この腰の強い麺が嫌いで(好んで食べないだけで腹が減れば何でも食いはするのですが)、どうしてもしみついた食味へのこだわりと言うものは消しがたく、福岡(博多)や佐賀や熊本の様な柔らかいうどんの方がうまいとしか思わないのです。

 ところが、丸亀製麺の全国制覇の勢いはとどまる所を知らず、九州でも柔らかい麺のうどんチェーン店は勢いが削がれてるという印象を持つのは私だけでしょうか?

 ここで、うどんは断じて腰の強さだけではない、柔らかい食感のうどんも美味しいのですよ…と言っておこう思います。

 ここで問題としたいのは、この腰の強い讃岐風うどんの起源を考える前に、同じ粉食でも餃子を考えて見たいと思います。

 まず、日本の餃子と中国と言うか大陸の餃子はかなり異なっていると言われます。

 日本の場合は焼き餃子が大半で、大陸では逆に水餃子が主流です。ただし、中国と言っても江南になると有名な小龍包(ショウロンポウ)のような蒸し餃子(勿論焼いたものもありますが…)ややや皮の薄い餃子、小さな餃子が増えてきます。

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日本と違って中国でも北方では概して、皮も分厚く大きく具も日本に比べたら少なく、どちらかと言うと皮そのものを食べるもののようなのです。

 このため、水餃子でもご飯と一緒に食べる様な事はあり得ず、あくまでも餃子は主食としての粉を餃子と言う形で食べているのです。

 従って、油を張って焼いた餃子をご飯と一緒に食べる日本風の餃子文化は中国人には驚きを超えて違和感を抱くとまで言われてしまうのです。

 そこで、少し冷静に考えて見ましょう。

 中国でも満州といった北方ではお米が採れませんね、勢い彼らは小麦などの粉食を選択せざるをえなくなるのです。ここで粉を食べるという文化が成立するのです。

 中国でも南ではふんだんなお米が採れるために、小さな皮の薄い(粉そのものとしての皮を食べる事が目的ではないのですから)小龍包の蒸し餃子を炒飯と一緒に食べる事もあるようです。

 要は米が採れない地方から入って来た人々が粉食を行ない、粉食を好む事がお分かりいただけるのではないかと思います。

 では、何故大陸では水餃子になるのでしょうか?それは燃料が乏しいからなのです。

 極端に言えばモンゴル高原のような場所では付近に林が無ければ乾燥した羊の糞を拾い集め燃やすしかありませんし、それも節約せざるをえなくなるのです。

 ごま油も嵩張りますし、焼くよりも煮る方が効率が良い為水餃子が選択されたはずなのです。

 一方、列島では薮に覆い尽くされ燃料の調達には全く苦労しないのです。

 大陸でも北の方は粉の皮自体を食べるための分厚い餃子を燃料を節約しながら水餃子として慎ましやかに食べるのであって、江南の様に米がふんだんに採れ、燃料も豊かなところでは米を主食に時としておかずとしての小さく皮の薄い蒸し餃子や焼き餃子(照葉樹林文化の延長上に蒸す文化が広がっておりこの割合はかなり低いのですが)が食べられるのです。

 私達九州の西岸部(長崎、佐賀、福岡、熊本)に住む者はこの江南の文化圏の延長上に倭人と言うか海人族の文化を受入れているために非粉食としての腰のないうどんや薄皮の蕩ける様な餃子を好むのであろうと思うのです。

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長崎の浜の町商店街の片隅とか飲み屋街の思案橋周辺にはこの手の一口餃子の店があります


恐らく私には江南系海人族=倭人の血が流れている上に台湾引揚者の子孫であることから福建料理に色濃く馴染んでいる事からさらにその度合いが一層増しているのだと思うのです。

 少なくとも私は腰の無い(無い訳ではない)うどんを好み、薄皮の蕩ける様な餃子を好む人間なのです。

 では、その反対の、宮崎から大分に掛けて住み着いた人々とは何者なのでしょうか?

 やはりというか恐らく海人族でもなく倭人でもないはずなのです。

 どうもこれらの粉食を好む人々が宮崎=日向に端を発し大分県の南=豊後から愛媛=伊予、香川=讃岐へと広がり、長野=信州、山梨=甲州、北関東、福島…へと広がっている様なのです。

 それは、豊後の団子汁(一部肥後のやせ馬)であり腰の強い讃岐うどんであり、信州のオヤキであり甲州のホウトウであり、埼玉のフライでの様なのです。

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今のところ構想だけですが、粉食ロードとでも言うべき民族移動のルートがおぼろげながらも見えてきました。

 ここで、宮崎に端を発して…と書きましたが、どうも腰の強いうどんのルーツの一部に日向があるのではないかと気付いたのは近年の事です。

つまり讃岐ではなく宮崎ではないか?少なくともその嗜好性は間違いなく日向にも広がりを見せている訳で、宮崎もこの腰の強いうどんの領域であることにようやくきづいたのでした。

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大陸や半島を概括すると、北は雨が少なく気温が低く、米が採れずに麦、コーリャン…いわゆる粉食で、森が薄く=燃料が少なく、馬を多用する人々が住んでいますが、江南では逆に雨が多く気温が高く、米が大量に採れ…米食で、森が厚く=燃料が多く、船を多用します。

 倭人=海人族とは後者であり、少し遅れて列島に進出してくるのが前者です。

 それは、船、筏に馬を載せ繁殖させ橋頭保を確保し後続を待つにも時間が必要であったからだと思うのです。

 まず、九州が半島大陸からの窓口だった事は想像できるでしょう。

当然、江南の稲作漁撈の民は、九州でも北部九州の水の豊かな地域に広がったはずです。

ところが、火山灰土壌の稲作不適地の鹿児島、宮崎、大分県南部になると稲作の普及が遅れ江南系の稲作漁撈民ではなく馬を使う北の畑作民が徐々に住み着いたはずです(未開の荒れ地として放置されていた)。

 つまり、古代に於いて多数派であった江南の稲作漁撈の民が好んでは住み着かなかった、水が得にくい九州東岸(久住、阿蘇、霧島、桜島…という火山帯の東側は卓越する偏西風から火山灰が堆積し水はたちまち地下に浸透する)には畑作中心の粉食文化を持った人々が住み着いた可能性が高く、瀬戸内海も比較的雨が降りませんね…中部山岳地帯も稲作に適した耕地が少なく浅間、冨士と火山灰の土地なのです。

 ある意味では棲み分けとは言えますが、この稲作不適地に住み着いたのがシルクロードを移動して来た粉食文化を持った民族だったのです。

 そうです、照葉樹林文化論の影響から稲作漁撈の民ばかりが日本人のルーツと考えられていますが(それはそれで正しいのです)、それとは別に彼らが好んでは住み着かない稲作不適地(非照葉樹林文化帯)を埋めた人々が居たのです。そして、その人々はそれほど少なくもないのです。

 この粉食民族の代表が金武官伽耶のウマシアシカビヒコチと天御中主命の子である大山祗、大市姫系の人々であり、後発の高句麗(コマヒト)、太秦も新羅もそうかもしれません。

 特に重要なのが我々がトルコ系匈奴と考える大山祗、大市姫系の人々で、その震源地こそ宮崎県の宮崎市から西都市にかけての宮崎県南部であり、その大山祗と埴安姫(博多の櫛田神社の主神大幡主=カミムスビの妹)の間に産れた神太市、大国主命、コノハナノサクヤヒメなのです。

 だからこそ日向の南の日向一の宮都農神社の主神が大国主命であり、西都市の西都原第2古墳群に大山祗の墓と言われる祀る柄鏡型前方後円墳があり、正面に大山祗を祀る石貫神社があり、コノハナノサクヤを祀る日向国二宮都萬神社、が存在するのです。

 ついでに言えば、大国主命のパートナーであった建御名方を祀った南方神社が古代日向国には数多く存在しているのです。

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実際にはこれ以上ありますあとはご自分で…大国主は出雲の人ではない!


 従って、大国主命を出雲の国神様などとは決して考えない様にして下さい。

 これこそが藤原天皇制が造ったフィクションなのであり、簡単に言えば、古代出雲国とは藤原が造ったテーマ・パークなのです。

 以前もブログに書きましたが、これに加えて納豆食、馬肉の生食の問題もあり、興味深いのですが、馬刺し(馬肉の生食)については熊本、長野、山梨が顕著ですが、最近になって福島もかなり食べるらしく、相馬の馬追の福島もこのとぎれとぎれの連続線の一部であることが分かってきました。

また、いずれ詳しく書きましょう。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ

2020年02月29日

ビアヘロ128〜129 北九州市小倉北区で佃 収 講演を行います “全国の九州王朝論者に告ぐ”

ビアヘロ128〜129 北九州市小倉北区で佃 収 講演を行います “全国の九州王朝論者に告ぐ”

                                                                      20200203

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


無題.pngここ十年以上北九州を中心に活動を続けてこられた「丁巳(ヒノトミ)歴史塾」を中心に、一部太宰府地名研究会の協賛により 佃 収 先生の講演会を行ないます。

皆さんご存じの通り、多くの九州王朝論の立場に立つ研究者が高齢化や鬼籍に移動する事によって現役を撤退されています。

古田武彦氏を筆頭に米田良三、中小路駿逸…に留まらず、民間研究団体の指導者の多くが退役される時期に入り、今や九州王朝論の研究者としては、佃 収 先生 はその研究内容とその知見の素晴らしさから、最も力のある講演者であり、その生の講演を聴ける事は天恵とも言えるもので、41819日の熊本県和水町中央公民館(九州自動車道菊水IC12キロ)での連日講演(4時間づつ)に続き、平日ながら北九州市でも講演会を行ないます。


佃 収 講演 「倭人が北部九州に」に渡来する「天孫降臨」 (仮題)


主催:丁巳歴史塾(協賛:太宰府地名研究会)

2020421日(火曜日)130017001630〜質疑応答) 参加について:資料代1000

場所:小倉城庭園 研修室 カーナビ検索 北九州市小倉北区城内1-2 

                             連絡:牧野絹子 090-5477-5110

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 当方でも分かる範囲でお答えします09062983254(古川)

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以下 佃 収 新「日本古代史復元」より

以下一部からの切出です

第1章

弥生時代の「倭人」と「天孫降臨」

 1章を読む

紀元前1200年ころの「倭人」は中国呉地方に居た。日本は縄文時代である。約1000年をかけて「倭人」は中国大陸を北上し、渤海沿岸をまわり、朝鮮半島南部を経て、北部九州に渡来している。
「倭人」の一派である「天氏(安冕辰ウン氏)」は山東省の臨シを通り、ラン河の東(遼東)で箕子朝鮮と混血する。渤海沿岸を通り、大凌河の下流に在る医巫閭山の近くに建国する。「卑弥氏に国を譲り、朝鮮半島南部に「高天原」を建国する。前漢時代に北部九州に移る。これが「天孫降臨」である。
天孫降臨の地は福岡県福岡市西区の「吉武高木遺跡」である。「大型建物跡(長井宮)」と「墓(木棺・甕棺)」が出土している。『宮下文書』(『神皇紀』)に記録されている通りの遺跡が発掘された。
『宮下文書』は史実を正確に記録している。
天孫降臨のとき一部は有明海から佐賀県南部に上陸する。吉野ヶ里遺跡をはじめとして、甕棺墓を埋設する文化がはじまる。
天氏は吉武高木遺跡から前原市へ移り、「伊都(いつ)国」を建国する。対海国・一大国・末廬国・奴国・不彌国を支配して「伊都国王朝」を樹立する。
「倭人」の移動ルートを究明しているときに「中国の古代史」で「地名」の解釈が間違っていることに気付いた。
「万里の長城」の位置、「遼東」の位置、「箕子朝鮮」の位置、「漢の武帝が設置した四郡」の位置、「衛満朝鮮」の位置等はすべて間違っている。
『契丹古伝』に「天氏」は「殷(箕子朝鮮)と姻を為す」とある。「箕子朝鮮」の位置が重要になる。

第2章

後漢時代の「倭」と卑弥呼の「倭国」

 2章を読む

原本とは論文39,45,61号の順番を変えてあります

(1世紀〜3世紀中頃)
日本の古代の時代区分は大陸からの渡来人が新しい文化をもたらしたからである。
「桓帝・霊帝の末(160年、180年)」に朝鮮半島では「韓」と「ワイ」が近隣諸国を侵略する。
「韓」の南には「倭国」が在った。107年には「倭国王帥升」が居た。「倭国」は「韓」の侵略を受けて乱れる。これが「倭国大乱」である。
「韓」に追われて日本列島へ逃げて来た人々の一部は岡山県倉敷市に「楯築墳丘墓」を造る。
「ワイ」に追われた人々は朝鮮半島の東海岸に沿って南下し、日本海を渡り、山陰や北陸地方に「四隅突出型墳丘墓」を造る。
204年に公孫康は「韓」と「ワイ」を伐つ。追われて日本列島へ逃げた人々の一部は奈良県に入り、纒向遺跡を築く。「庄内式土器」がもたらされる。「古墳時代」の幕開けである。
「卑弥呼」は朝鮮半島南部の「倭国」の中の「卑弥国」の出自である。卑弥呼とは「卑弥国(卑弥氏)の出自で名を呼」という。
220年〜230年ころ、公孫氏に追われて北部九州に逃げて来て邪馬壹国(福岡市南区〜小郡市)を建国する。伊都国王朝と戦い、勝利して「景初二年(238年)」に朝貢し、「倭王」となる。日本列島に初めて「倭国」が誕生する。
卑弥呼の墓は福岡県小郡市の「津古生掛古墳」である。
狗奴国はその南の甘木市・朝倉郡にある。

第3章

神武東征(逃亡)と長髄彦

 3章を読む

(3世紀後半〜4世紀前半)
220年〜230年ころ、朝鮮半島の蔚山(ウルサン)から饒速日命が奈良県桜井市に渡来する。長髄彦の娘を娶り宇摩志麻治命を生む。ホケノ山古墳は饒速日命の墓である。長髄彦は纒向遺跡の王であり、箸墓古墳は長髄彦の墓である。
260年ころ伊都国王朝は邪馬壹国(倭国)との戦いに敗れる。王(神武天皇の父)は「伊都国(伊勢)・斯馬国(志摩)」の人々を率いて永住地を求めて三重県まで来る。伊賀で先住民と戦い戦死する。「伊都国王(伊勢国の王)」が埋葬された地が「伊勢神宮」となる。
「伊都国(伊勢)・斯馬国(志摩)」の人々が住み着いたところが今の「伊勢志摩」である。
265年ころ五瀬命は伊都国の人々を連れて永住地を求めて東へ逃げる。「神武東征(逃亡)」である。「五瀬(いつせ)命」とは「伊都(いつ)国の太子で名を瀬(せ)」という。
大阪の河内湖で長髄彦と戦い戦死して和歌山市に埋葬される。他の二人の兄も戦死する。神武天皇は和歌山県海南市(熊野)に来る。そこから内陸に入り、貴志川を下り、紀ノ川に出る。紀ノ川の支流の丹生川に一時建国する。そこが「紀伊国伊都郡」になる。吉野川を遡り、宇陀に出る。宇陀郡菟田野町に見田・大沢古墳群がある。四号墳から三種の神器が出土している。天孫降臨した「伊都国の神器」である。鏡は絹に包まれていた。絹を生産しているのは北部九州だけである。見田・大沢四号墳は「神武東征(逃亡)」が史実であることを立証している。
神武天皇は纒向遺跡の王である長髄彦と戦うが苦戦する。このとき宇摩志麻治命は長髄彦を殺して神武天皇に帰順する。神武天皇は纒向遺跡を支配して畿内を統一する。神武天皇の墓は桜井茶臼山古墳である。

第4章

崇神天皇の渡来

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(3世紀〜4世紀前半)
崇神天皇は渡来人である。崇神天皇は宮殿に天照大神・倭大国魂の二神を祀る。しかし共に住むのが不安であるという。そこで大国魂神を渟名城入姫命(ぬなきいりひめ)に祭らせる。然るに渟名城入姫命は髪は落ち、体は痩せ、祭ることができなかったとある。日本古来の神々は崇神天皇にとっては異宗教なのであろう。
また崇神天皇の世に疫病が蔓延して人民の大半が死亡したという。崇神天皇等が新しい病原菌を持ち込んだのであろう。
『古事記』に崇神天皇の崩年干支がある。崇神天皇は「318年」に崩じている。この時代に干支を使っているのは中国だけである。崇神天皇は中国からの渡来人であろう。
崇神天皇は瀬戸内海から淀川に入り、石清水八幡の「那羅山(京都府八幡市奈良)」に登り、行き先を木津川に決めて、木津川市椿井に住む。
木津川を挟んで武埴安彦と戦い勝利する。崇神天皇の墓は椿井大塚山古墳である。
崇神天皇は四道将軍を派遣して日本列島を支配する。日本列島を統一した最初の天皇(王)である。
『桓檀古記』に、「285年」に依羅国は鮮卑慕容カイに敗られて王は自殺し、子の扶羅が従者数千人を従えて白狼山を踰えて海を渡り、倭人を定めて王と為るとある。王子扶羅が「318年」に死去した崇神天皇であろう。
崇神天皇は大彦の娘を娶り、垂仁天皇を生んでいる。大彦は王子扶羅(崇神天皇)を助けて、「倭城」から渡来したのではないだろうか。「大彦」は日本語である。「倭城」は「卑弥氏」の故郷である。「大彦」は「卑弥氏」であろう。

第5章

貴国

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(4世紀後半〜5世紀初)
日本に「貴国」が存在したことを国民は知らない。「日本の歴史学者」が貴国を認めていないからである。
しかし「日本の歴史」で活躍する蘇我氏・巨勢氏・平群氏等は「貴国の宿禰(将軍)」である。
貴国は熊襲征伐をして「364年」に北部九州(筑前・肥前)に樹立した渡来人の国である。貴国の宿禰の本拠地は筑前・肥前である。
好太王碑の「倭」は「貴国」である。好太王碑に「辛卯(391)年に倭が海を渡り百済・新羅を臣民にした」とある。翌392年に『日本書紀』には「百済の辰斯王が貴国の天皇に無礼をした。そこで四人の宿禰を派遣すると百済国は王を殺して謝った」とある。前年の「391年に百済は貴国の臣民になっている」からである。
「倭の五王」の「倭国」が筑後に樹立するのは「410年」頃である。「391年」には「倭国」はまだ存在しない。
好太王碑に「407年」に「倭国」は高句麗と戦い壊滅的な打撃を受けたとある。これも「貴国」である。
倭讃・弟の珍は中国大凌河の上流の倭城で生まれ育った「卑弥氏」である。400年ころに「筑後」に渡来して衰退した貴国を敗り、「倭国」を建国する。「倭国」を称するのは「卑弥氏」である。「倭の五王」の時代がはじまる。
貴国の最後の天皇は「仁徳天皇」である。本拠地は佐賀県三養基郡みやき町白壁である。仁徳天皇は高句麗との戦いに敗れて、倭国に追われ、難波へ逃げる。仁徳天皇は土地を得るために「難波の堀江」を造り、河内湖の水を海に流す。こうして広大な土地を手に入れる。難波は繁栄して仁徳天皇は聖帝と呼ばれる。貴国が肥前から難波へ移ったのである。


全国の九州王朝論者の皆さん!

と言っても、その89割方が古田武彦系の九州王朝論の影響を受けた方が多いと思います。

ただ、その古田武彦ファンやその系統の古代史研究団体の関係者であっても、古田武彦を失って五年目を迎える時期になり、いよいよ研究者を失い多くの団体が総崩れの状態になりつつあるようです。

仮に会としては存続してはいるものの、独自の研究者を養成してこなかった事から指導者を失った所ほどその惨状は酷く、通説派の学芸員や教育委員会関係者の大嘘話に平伏しパチパイパチと拍手喝さいをする有様なのです。

事実上民間団体にしかありえない九州王朝研究ですが、それだからこそパーマネントな研究センターもなく、古田武彦はいなかった…、九州王朝はなかった…となりかねないのです。

そうした中、佃収先生だけは燦然と光り輝いており、古田九州王朝論では全く解決しなかった部分がどんどん謎解きが出来ているように思うのです。

今般、佃収先生をお招きして4時間近くお話をお聴きできる事は人生の宝のような一時です。

41819日の熊本県和水町での8時間連続講演に中一日で再びお話をお聴きできる幸せを享受したいと考えています。


丁巳歴史塾で古川がお話しします 北九州市小倉北区2020321日(土)13001700


講演内容  「釜蓋」(カマブタ)=永ノ尾 という奇妙な地名が北九州に集中する理由

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会場:北九州市立松本清張記念館 カーナビ検索 福岡県北九州市小倉北区城内2-3 093-582-2761


以降の日程


517日(土) 「若松の神々探訪トレッキング」 お杖代 古川 清久  (太宰府地名研究会)

620日(土) 「北部九州の古墳と北九州」       伊藤 まさ子(太宰府地名研究会)

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以降も継続し当会の顧問内倉武久氏など多くの講演者が登場します


太宰府地名研究会 宮原誠一(ブログ「宮原誠一の神社見聞諜」)、伊藤正子(ブログ「地図を楽しむ・古代史の謎」)、杉山宏治(ブログ「事代主のブログ」)、秋永祥治「息長氏は秋永氏である」の顛末記 ブログ、神田○○(ブログ「ひとつあがりのカフェテラス」)、田中○○(ブログ「磯良の海」)、宮原ひろみ(ブログ「ひろっぷ」)…以下省略 当会提携顧問 内倉武久(元朝日新聞記者)、井上悦文(書家)、大下隆司(古田史学の会元事務局長)…以下省略 


北九州市若松区の神社トレッキングへの資料として(詳細編) 丁巳歴史塾との合同企画


御杖代 太宰府地名研究会 古川 清久


2020517日(日) 遠賀川の東の神社を探ると九州王朝が見えてくる…トレッキング(案)


 オープン参加(一般の方も気楽にご参加ください)資料代500円のみ 基本は各自車の用意を…


2020517日(日) 午前1100にイオン若松ショッピングセンター 北九州市若松区二島1丁目3-1前日からの泊まり込みも可能です 北九州市若松区安屋3347 何有荘に事前に連絡を(050-5477-5110(列車利用の方はJR折尾駅で拾います…連絡を、また、前日からの宿泊可能)


集合場所 イオン若松  カーナビ検索 北九州市若松区二島1丁目3-1 雨の場合は7月に延期

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御㟢神社               笠松神社


2020年五月の連休明けに安上がりな泊まり込み神社トレッキングを行ないます“若松の山鹿島に!


@  戸明(とあけ)神社       カーナビ検索  北九州市若松区蜑住974

A  田(でん)神社         カーナビ検索  北九州市若松区2

B  十五社(じゅうごしゃ)神社   カーナビ検索  北九州市若松区有住684

C  十五社神社(じゅうご)     カーナビ検索  北九州市若松区有住684

D  ジョイフル若松小石店      カーナビ検索  北九州市若松区赤崎町8-25(仮案)昼食

E  笠松(かさまつ)神社      カーナビ検索  北九州市若松区安屋1976

F  白山(はくさん)神社      カーナビ検索  北九州市若松区小竹1946

G  御㟢(みさき)神社       カーナビ検索  北九州市若松区有毛2829 順路は調整します


前日の集合場所の何有荘は貯水池の畔の北九州にしては風光明媚な海岸沿いの丘陵地にありますが、牧野女史のアトリエとなっています。トレッキングは前日から泊まり込みが可能です(要連絡)一泊1000円(仮案)。近くには簡保の宿(北九州若松区大字有毛2829 пF093-741-1335もあります。

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付近には良く知られた千畳敷海岸があり五月には磯遊びもできるようなところです。

 博多から神湊までは志賀島の海人(アヅミ)族のそれより東は宗像族の、遠賀川流域には豊玉姫系の人々が住み着いていました。そこまでは私達も現地を踏み確認できていました。

 ただその東は思考の範囲に無く放置していましたが、今回、良い機会を得て少し調べて見ると非常に面白い神代〜古代史像が浮かび上がってきました。これを理解して古代史を再構築できればどれだけ素晴らしいかと想像するのですが、仮に九州王朝論者の方々であったとしても、洞海湾の奥で神功皇后を出迎えた熊鰐の話をする程度であってこれと言ったイメージを掴んでいません。

ところが、若松一帯は古墳が多い所である上に魚鳥池周辺の蜑住には海人族の居留地があったと見え、江川水道の通行権を握っていたようです。

 一方、源平争乱期の平家方に着いた山鹿水軍の「山鹿」があり「花房」という地名まであるとなると肥後との関係も考慮に入れておくべきでしょう。さらに小竹という物部の最重要拠点の地名まであるのです。


北九州市若松区には九州王朝系神社ばかりが鎮座していた…“若松の神社調査の下調べとして”


 最近、北九州一帯で活動されている某歴史塾との提携話が進んでいますので、改めて遠賀川右岸の山鹿(ここではそう呼ばせて頂きますが)島=江川の北岸一帯の神社を概括して見ました。

すると、天御中主〜大幡主(神産巣日神)〜ヤタガラスを中心に九州王朝を支えた一族が崇敬していたと思える神々が並んでいる事に気付きました。このため都市化のために遅れていた北九州方面への神社探査の先駆けとしてまずは若松辺りから神社調査を進めて見たいと思います。

今回は「福岡県神社誌」…と言った基礎的資料も含め先ず概要だけをお話しして見たいと思います。

実質的に北九州に入ったなあと実感する筑豊から玄海灘に注ぐ大河遠賀川東(右)岸の玄海灘側から作業をする事にしますが、以前、遠賀川河口に集中する「イヅノメ」を祀る神社群(45社)が実は宗像三女神のお一人の豊玉姫を祀る神社であることはご報告致しました。次葉以降省略

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百嶋由一郎氏が残された神代系譜、講演録音声CD、手書きスキャニング・データDVDを必要とされる方は09062983254までご連絡ください。

天氏と卑弥氏との二流の渡来ルートに関しては、佃 収 HP新「日本の古代史」()から

無題.pngを検索しお読み下さい。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ