太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「百嶋神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログを継続しています。


これにはプロバイダーを含め何時情報封殺が行われるかも知れないため、最低でも複数の発信媒体を準備しておくべきではないかと考えているからでもあります。


今後ともかなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史によるblogひもろぎ逍遥に対抗しようという意図はないのですが、華麗なひもろぎ逍遥に対して、緋色のボロ着で、神籬=ひもろぎ(ひぼろぎ)を逍遥=彷徨い歩き、神社を探るというほどの意味で、「ひぼろぎ逍遥」を随時書いて行くことにしたものです。ただし、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象なども認められます。


 さて、現在、ひぼろぎ逍遥とひぼろぎ逍遥(跡宮)との合計のアクセス数は日量10001200件(年間4045万件)まで上がっています。


 同時に、連携する研究者によるblog20近くまで数を増やしており、全体では最低でも年間100150万件近いアクセス数を持っているものと思われます。


 当blogには九州王朝論から百嶋神社考古学へと向かわんとする多くの研究者、記録者、bloger…が参集されています。


 年に10回、10年でも高々100回程度の研究会でも大半は教育委員会関係者から学芸員といった利権まみれの方々通説を拝聴し心服するような、研究者亡き研究会は全く何の価値もないものと考えており、そのようなどこにでもあるような話を好まれる方々は、そこら辺りの既存の郷土史会、史談会に行かれ、村興し、町興し、世界遺産登録に拍手を送り、思いっきり尾を振られれば良いでしょう。


しかし私達は後ろ指を刺される様な探究に踏みとどまり、これまでの歴代の行政権力が隠し続けた真実の歴史の探求へと向かう人々への道標と成ろうと思うものです。




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無題.png読者の皆さんに…真実の神社研究へのご支援を…


太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久




ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥の読者の皆様、また、グループのブログをお読みの皆様、暑い中、丹念無題.pngにお読み頂き有難いと思っています。


 古田武彦が亡くなり、また、百嶋由一郎氏が亡くなり数年が流れました。


 当初、貴重極まりない百嶋研究の一部でも残せないだろうかと考え、手書きデータや神代系譜文書のDVD化、音声データの保存、複製、宣伝という作業を続けて来ました。しかし、単にデータの保管、配布の体制を確立するだけでは継承ができないと考え、blogで百嶋研究の説明、現場実調を徐々に進め公開してきました。この結果、全国にも理解者が増え始め、神社研究ではなんとか特異な勢力を形成できる所まで漕ぎ着けました。


 既に、百嶋研究の一部でも接点を持った全国の二十五人を超えるブロガーが独自の側面から研究を進めておられますし、ブログは書かないまでも、神社調査を行い記録を残している方もおられます。


 勿論、統一性は取れてはいませんし、なかなか難解な内容だけに、解明できない問題についてはメンバーの若い世代に託すことになるでしょうが、なお不明なものは後世の研究者に期待する事に成るでしょう。


 百嶋先生と知り合いになったのは七年ほど前だったと思いますが、もしも後数年生きておられたならばもう少し古代、神代の謎を継承できたかも知れません。しかし、未熟な者だけで作業を行わざるを得なかった事から今尚皆さんにご迷惑をお掛けしているものと理解しております。


しかし、私達の能力を考えれば、むしろ上出来といったものかも知れません。


さて、メンバーの背骨を形成している中心的思想とは、当然にも九州王朝論です。


 百嶋先生も“私も九州王朝論が分かっていない人に神代史を教えても意味がないし、教えたくないですね…”と言われていた事が今でも耳に残っています(吾は百嶋由一郎の面受の弟子なり!)


さて、四月の近江〜但馬、五月の糸魚川〜諏訪〜山梨、六月の青森と15日間づつ三度に亘って長躯の神社調査を行いました。


ぶっ続けで調査すれば良さそうですが、落ち着いてリポートも書かなければならず、研究会のスケジュールもあってそういう訳にも行かず、各々3,0004500キロの往復の調査とならざるを得なかったのです。


今後も、三重、和歌山、岐阜、福井…と、よりきめ細かい調査に入るつもりですが、もはや資金が底を尽きつつあります。


元々、福島の原子力災害辺りから、これ以上行政機関に留まりたくないとの思いが募り、後先き考えずに58歳で早期退職した事から(当時上の娘は大学に在学中だったのですが)年金と言ってもギリギリ暮らせる程度の物で、なんとかここまで働かずに神社調査を行ってきましたが、既に限界点を越え始めたようです。事実、当会は研究を優先するためメンバーから会費を取る事なく僅かな参加費で運営しています。


人手不足の時代、まだ、働こうと思えば職はあるはずですが、拘束時間が長くなれば、研究を進める事ができないまま人生の終末期を迎える事にもなりかねず、できるだけ体力がある間に遠距離の調査に入りたいと思っています。このため、出来る事ならばこのまま神社研究に専念したいものと考えています。


基本的には年金生活で何とかやっていますので、月額であと二〜三万増やせれば、車の維持、車検、保険、介護保険料、研修所の維持、研究会の組織化、ネット規制に対応するためにもう一つ別の発信のためのサイトの準備……と増加する負担にも対応できるのではないかと考えています。


今後、研究内容を保全するためにも、外付けハード・ディスクをタイム・カプセル化して鍾乳洞に保管する(太陽フレアによる磁気データの消失への対策)とか、研修所の維持、後世に残すためにユーチューブ化してオンエアするなど新たな作業に入る必要も生じており、もし可能であれば、通説とは全く異なる百嶋神社考古学の保護と継承のためのご支援をお願いできないかと考えています。


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年間一口2000円以上の任意の百嶋神社考古学研究会の支援会員となって頂ければ、九州においでになった際に会員待遇として温泉付き研修所に一泊お泊めできます。九州での神社調査の拠点として活用下さい。


振込用の銀行預金講座、郵便貯金番号は以下の通りです。


 大分銀行 若宮支店 000093−7505802 フルカワ キヨヒサ


 ゆうちょ銀行 店番 778 預金種目 普通預金 口座番号 1165562 氏名上に同じ


また、もし差支えなければ、以下のメールにお名前と住所と電話番号を以下のメールに送信して頂き、カンパした旨の連絡を頂ければ、神代系譜のDVD(既にお持ちの場合はそれに代わる音声データなど)をお送りできるものと考えています。


 携帯のメール・アドレス ariakekai@ezweb.ne.jp携帯 09062983254 (常時対応)


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2018年12月07日

ビアヘロ069 続)タシクルガン(石頭城、石城山)Ta Shi Ku Er Gan Lu 

ビアヘロ069 続)タシクルガン(石頭城、石城山)Ta Shi Ku Er Gan Lu 

20180728

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


現在は中国領ですが、アフガニスタン、パキスタンとの国境地帯、言いかえれば、アフガニスタンのカブール回廊入口の要衝にTa Shi Ku Er Gan Luタシクルガン(中国表記:石頭城、石城山)があります。

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他にも幾つかありますが、ユーチューブで【新疆】タシュクルガンの石頭城、【中国】タシュクルガンの石頭城へやってきた。などと検索すればかなりの記事が出てきて鮮明な画像が確認できます。

さて、話をさらに進めます。故)百嶋由一郎氏によれば、 “この一帯の人々(トルコ系匈奴)が、列島に侵入し「石頭城」「石城山」と言った地名を持ち込んでいる…。”それは、”熊本県玉名市と宮崎県西都市に同じ地名がある”とまで言われていました(これらについては後述します)。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


百嶋神代系譜の緑枠で囲った部分の金越智=ウマシアシカビヒコヂ〜大山祗〜大己貴(+神大市=罔象女神ミヅハノメ木花咲耶姫)の系統こそが列島に入って来たトルコ系匈奴と考えられていたようです。

ちなみに、本物の神武天皇の本物のお妃であったアイラツヒメも金山彦と大山祗トルコ系の神大市=罔象女神の間に産れたプリンセスであるためトルコ語の月=アイラールからアイラツ姫と呼ばれたのです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


無題.png中国領 塔什庫爾干=タシクルガン(石頭城、石城山)は、現在、ウイグル人(トルコ系とされる)が住み着いていますが、キルギス人もいるようです。このキルギスも、ギリシャに「キルキス」と言う都市名があり、元々はギリシャ系ではないかとも思うのですが、どうせこの辺りはトルコ系、ペルシャ系、ギリシャ系、ユダヤ系…の混血が進んでおり議論しても意味はないのでしょう。

写真は現代のウイグル人美女(良過ぎますかね)。

 いずれにせよ、かつてこの地はシルクロードの東西交易の要衝であり、塔什庫爾干の石城山は誇り高いこの地のシンボルだった時代があったのです。

 どうも、この中国表記の=石頭城、石城山が熊襲=トルコ系匈奴と共に列島に入っているようなのです。

以前から気にしていたのが長崎県川棚町石木(イシキ)、佐賀県神埼郡吉野ヶ里町石動(イシナリ)、鹿島市の石木津(イシキヅ)…でした。当時は奇妙な地名だなあ…程度だったのですが、故)百嶋由一郎氏がはっきり言われたのが、熊本県玉名市の石貫(石貫穴観音横穴や石貫ナギノ横穴群外多数の横穴式石室を持つ古墳群)、宮崎県西都市の石貫神社(オオヤマツミとコノハナノサクヤを祀る神社)であり、正面の西都原第 二古墳群に伝大山祗の墓=柄鏡型前方後円墳があるのです。

また、大分県にもあります。旧石城川村(湯布院と高崎山の間の山中の村)です。この由布市から大分市に向かう谷間の一帯も山神宮外大山祗〜大己貴祭祀が濃厚なエリアです。

この外にも、山口県光市の石城山神籠石、愛媛県越智郡上島町岩城(イワギ)は平安時代に「石城」の表記で記録のある地名で、そもそも大山祗を祀る瀬戸内海の大三島は愛媛県にあるのです。

さらに、東北の福島県の石城郡、いわき市・南相馬市の相馬の馬追を思い出して下さい。

いわき市のいわきは石木、岩木、磐城=タシクルガンなのです。

そして、出羽三山の湯殿山、羽黒山にも岩木山がありますね、ここも大山祗祭祀が非常に濃厚なところなのです。

 無題.png当然にも甲州騎馬軍団が跋扈した山梨県にも無いはずはありません。石和温泉の石和(今は笛吹市ですか)です。

ここからコノハナノサクヤを祀る富士山の河口湖一帯に掛けて、石尊神社が数多く拾えますが、これも、まず、大山祗=月読命なのです。まだまだありますが、このように実際にトルコ系の民族が入っているようなのです。

参考


「石貫神社」について ○創建:天平5(733)と伝えられています。○御祭神:コノハナサクヤヒメの父神のオオヤマツミノカミ。○オオヤマツミノカミ:山の神で、「天神」・「国神」・「海神」の三神の大神。○大祭日:1129日。石貫神社から169段の階段を上った西都原古墳群内の『大山祇塚(おおやまつみづか)』の前方部前で神事が挙行されます。                     西都市観光協会


先にひぼろぎ逍遥 641 タシクルガン(石頭城、石城山)Ta Shi Ku Er Gan Lu として石頭城、石城山を取り上げ、この地名が列島に大量に持ち込まれていると言う事を書きましたが、当然にもこの地名は中国本土にもかなり拾えるのです。

勿論、占領されているとは言えタシクルガン自体は今尚中国共産党の支配地ですが、ここではそれ以外のタシクルガンをご紹介したいと思います。

恐らく、列島の十倍以上はあるのではないかと考えていますが、なにぶんにも中国語に対応できていないネット上から分かる範囲で探して見る事にしました。

きっかけになったのは故)百嶋由一郎氏が残された手書きメモに石頭塞があることに気付いたからでした。勿論、支那(シナ)という地名が残る麗江の南の石頭塞です。


 その前に南京に石頭城がある事を思い出しました。


石頭城(せきとうじょう)は、中華人民共和国江蘇省南京市鼓楼区、清涼門の北に位置している城址。六朝の都である建康の西面を守る城塁であった。後漢末の212年(建安17年)に孫権により築城され、1988113日、国務院により全国重点文物保護単位に指定された。現在は城壁の一部が残り、その城壁の模様が鬼の顔に見えるということから、別称を鬼顔城とも称す。

清涼山の自然地形を利用して土と石で築城し、西と北の両面は長江に近接し、地勢はけわしかった。石頭城西南には烽火楼があり、長江上流と連絡を通じあった。またここには水軍の駐屯地で、長江最大の波止場であり、船舶1000艘を停泊させることができた。

石頭城から城壁に沿って北側は六朝の頃の城壁で、南に行けば清涼門である。石頭城の城壁の上を歩く場合は国防園に入る必要がある。

ウィキペディア(20180730 1515による


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戦国時代,周顕王三十六年(前333年)に楚が越を滅ぼした。この 時楚の威王が金陵邑を今の南京に建設した。同時に、今の 清凉山と呼ばれるところに城を築いた。秦始皇帝二十四年(前223年),楚を滅ぼし、金陵邑を秣陵?とした。三国時 代,孫権は、秣陵を建業と改称、清凉山 に石頭城を建設した。当時、長江は清凉山下流を流れていて、石頭城の軍事的重要性は突出していた。呉では、水軍もっ とも重要な水軍基地とし、以後数百年 間、軍事上の要衝となった。南北朝時代、何度も勝負の帰趨に大きな役割を果たした。

石 頭城は清凉山の 西の天然の障壁をなし、山の周囲に築城したもの。周囲7里(現在の6里)あり 北は大江に接し南は秦淮河に接している。南向きに二つ門があり、東に向かって一つ,南門の西に西門があった。内部に は石頭庫、石頭倉と呼ばれる倉庫があっ た。高所には烽火台があった。呉以降南朝でも重要性は変わらなかった。

ネット上の「旅行日記」による

「三国志」がお好きな孫権とか周瑜ファンの方には魅力的な所だと思うのですが、「旅行日記」にはこのように続けられています。


写真は、城壁の拡大写真。上端部分が、明代の磚築部分。六朝時代の城壁部分(真ん中の大きめの煉瓦部分)も、一応日干し 煉瓦を埋め込んだような構造となっている。磚築となったのは、東晋末と考えられる。東晋時代は、全土、主に城門だけが磚築となり、城壁は版築だった。南斉に至り、各城 で城壁が磚築となったと考えられている。それまでは土墻(版築城壁)と竹籬(竹を編んだ城門)だった。

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次は 阿蘇氏の故郷、雲南省麗江から北へ延びる茶馬古道の石頭城です。

これは、雲南省麗江の北の石頭城で、百嶋メモに出てくる「石頭塞」ではないようですが、「〜茶馬古道をゆく〜 宝山石頭城」からご覧ください。


麗江市内からは車で約4時間、村の上方にある駐車場まで分乗車で向かいます。

その地形から、見下ろすことのできる景色にまず、息を呑みます。

長江の支流、金狭江の峡谷にある巨大な岩の上に築かれた集落は、3方向が断崖絶壁となっており、

城砦と呼ぶにふさわしい佇まいを見せてくれます。

宝山石頭城は元代の1277年から1294年の間に築城されたと言われています。

当時、宝山州と呼ばれたこの地は、自然により形成された難攻不落の砦で、

この地に居住していた少数民族・ナシ族はかつて戦乱を避けるため、山腹に沿うようにして村を築きました。

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次は百嶋メモに出てくる雲南省麗江からずっと南の石頭塞です。

百嶋由一郎先生は生前、中国で400回飛行機に乗って8,000万円遣ったと言っておられましたが、西のタシクルガンばかりではなく、南の石頭塞にも足を運ばれていた事が分かります。

 解放前の中国ですから苦労も多かったと思いますが、文字通り半島、北京からコーカサスへ、そして雲南省、四川省、貴州省まで調査に飛びまわれたようです。

以下は貴州省の「石頭塞」ですが、雲南省にも「石頭塞」があるようです。

非常に分かり難く、検索を続けて調べましたが、云南省河哈尼族彝族自治州と書かれており雲南省昆明辺りからベトナムのハノイ(ハロン湾)に注ぐ紅河の近くにもあるのでしょう。

パーモはインパール作戦に出てくるビルマのバーモでしょうし、木姐(ムセー)もビルマ領にあります。

 従って、ここが百嶋メモに出てくる石頭塞ではなく、雲南省昆明のそれであり、さらに、中国迷爺爺の日記 中国好き独居老人の折々の思い というブログに出てくるプイ(布依)族の住む石頭塞もべつになります。このように、少し調べるだけでもかなり多くの石頭塞が拾えるのですが、現在の住民とこの地名を残した民族が一致している訳でもないと思います。結局、多くの石頭城型地名が確認できただけでした。


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百嶋手書きメモから


中国迷爺爺の日記 中国好き独居老人の折々の思い というブログがあります。


プイ族の住居 2010-02-01 12:11:46 | 中国のこと

 2006年3月に貴州省の西南部を旅した時に、少数民族のプイ(布依)族の集落に立ち寄った。プイ族は人口300万人くらいで、主に貴州省の西南部(黔西南プイ族ミャオ族自治州)に居住しているが、貴州の各地にも散在し、ほかに雲南省や四川省の一部やベトナムにも住む。
 訪れた村は石頭寨と言ったが、家々はすべて石造りで、このあたりのプイ族の集落の特徴らしかった。
 入り口のゲート。いろいろな銘盤が嵌め込まれているが、中に「貴州省 文明風景名勝区」というのがあった。プイ族の集落の中でもよく保存されているものなのだろう。

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事務室のような所に入ると、民族衣装姿の大柄な娘が出てきて、村の中の古い住居や住居跡を案内してくれた。ゲートから向かって左には小高い丘があり、そこに石造りの家が並んでいる。だいぶ古いものらしく頑丈な造りだが、住んでいない家もあった。

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倉庫らしい建物 土地廟。村の神を祭る。道教でも仏教でもない、産土(うぶすな)神のような原始的な信仰ではないか。

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石組み。鉄筋や漆喰は使っていないで見事に築かれている。
 途中で村を一望できる場所があった。現在の家屋の多くは平地に造られているようだ。

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上に行くほど古い住居があり、すべて廃墟になっている。どれもかなり大きなもので、このような高い場所にたくさんの石を運び建物を造ることは大変な労働だったのだろう。これらの多量の石材はどこから切り出されたものか。

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廃墟の道 石頭寨の傍にあった池。貴州でよく見られるカルスト地形の山が遠望される。

 石頭寨からの帰途の風景。この時期にはあちこちに菜の花畑がある。

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百嶋由一郎手書きスキャニング・データより

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ

2018年12月02日

ビアヘロ070 2019年年頭に那珂川市の神社を探索する “新春那珂川三社巡りトレッキングに参加を”

ビアヘロ070 2019年年頭に那珂川市の神社を探索する “新春那珂川三社巡りトレッキングに参加を”

20181109

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 思えば那珂川町でのトレッキングがそろそろ十年に近づく太宰府地名研究会での神社探訪の起点でした。その当時はまだまだチンプンカンプンのよちよち歩きでしたが、メンバーも年を重ね、少しは神社を見る目が成長しているでしょうから、那珂川市政(市制)スタートを機会に、再度、旧那珂川町でのトレッキング(オープン参加)を企画したいと思います。

 一応、2019年第3週、20日の日曜日を考えているのですが、あくまでも計画です。

 ここではこれらの神社探訪の基礎資料として、簡潔にその概略をお知らせしたいと考えています。


@     天御中主神社    カーナビ検索 福岡県筑紫郡那珂川町片縄東1丁目

A     地禄天神社     カーナビ検索  福岡県筑紫郡那珂川町中原6丁目7-8(地禄と十六は同じ)

B  十六神社      カーナビ検索  福岡県筑紫郡那珂川町那珂川町片縄北1丁目14-16 

C  現人神社      カーナビ検索  福岡県筑紫郡那珂川町仲3丁目7-8

D  安徳宮       カーナビ検索  福岡県筑紫郡那珂川町安徳36.

E  裂田神社      カーナビ検索  福岡県筑紫郡那珂川町安徳11.

F  伏見神社      カーナビ検索  福岡県筑紫郡那珂川町山田879

G  大山住神社     カーナビ検索  福岡県筑紫郡那珂川町別所687

H  日吉神社      カーナビ検索  福岡県筑紫郡那珂川町市ノ瀬441-1

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地図の外になりますがこの南、乙子神社から一キロほど上流に日吉神社があります


@   天御中主神社 

無題.png 通説派の学者に言わせると天御中主神社などというものは存在しない(そんなものが古代には片田舎の奈良の山の中などに有るはずがないのですが)と言われています。

 ところが、この那珂川(古代博多湾)の汀線にはどうも半島とも往来できる、正に最適と考えられる場所にこの神社が鎮座しているのです。

 何故そうなのかと言うと朝鮮半島伽耶の金海金氏(トルコ系匈奴)金越智のお妃となっておられたからで、容易に半島に移動できない近畿などにいたはずがないのです。

 この背後地も古墳と言われますが、この地には実際に妙見様が住んでおられたのではと思わせるのです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)以下も同様 金山彦+大幡主+大山祗のスクラムが分かります


A  地禄天神社

 無題.png古博多湾岸には千社近い「ジロク様」があり、それらを結ぶと古代の博多湾の汀線が現れるとも言われますが、博多では十六神社、寿老神社、地禄神社と呼ばれ、全て同じものと考えられますが、大幡主(博多の櫛田神社の主神で真ん中に鎮座されている神様)=ヤタガラスの父神でもあるのです。 

こちらも上の神代系譜の黄枠の神様を意味しているのです。

 七福神の寿老神も相互に準えられている様でもあるのですが、そもそも七福神も大幡主を中心とする白族の神様を表したもので、例えば市杵島姫が水の神様弁天様準えられているのです。地禄に行った場合は十六神社はパスします。

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B  十六神社 

地禄の置換えが十六なのであり、地禄神社と同種の神社とお考えください。

つまりこの地も大幡主の領域である事を表しているのです。

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C  現人神社

無題.png現仁とも現人とも書かれますが、戦前、天皇陛下は現人神であらせられる…と言われたその意味の神を祀る神社との振れ込みになっています。

この神社が博多の住吉神社の元社であり、実体は神武僭称贈)崇神天皇=ハツクニシメススメラミコト(阿蘇氏を起源とする藤原が第10代天皇などと格上げした)とされる神ですが、仲哀死後の神功皇后をお妃とした第9代開化天皇(高良玉垂命)の臣下でしかなかった人物で、耳川河口から東征をしたのも、四道将軍を送ったのもこの人物で、それを真実とすればその意味では功績の大きい人物だった事にはなります。この人物は自らを(勿論後の藤原氏がそうしたのです)、初代神武カムヤマトイワレヒコが自分であったかのように装っているケースに良く遭遇します。ちなみに上筒男命はウガヤフキアエズ(前住吉神)代表的なものは下関の住吉神社、底筒男命は開化天皇(後住吉神)であり代表的なものは大阪の住吉神社…となります。Bの現人神社については上の系譜を参照してください。

D  安徳宮

 無題.png言うまでもなく源平合戦の安徳帝の意味ですが、隣接する安徳台は実際に、本人かダミーかが避退し匿われていた可能性のある場所の一つです。最も可能性が高いのは久留米で、これについては「宮原誠一の神社見聞諜」などをお読み下さい。

 ただ、安徳帝については十人ほどの決死隊ダミーがいたと言われる上に、本物の安徳帝は奄美の喜界島に隠れ住んでいたとの話があります。実際に百嶋先生は二十年前までその後裔の○○代目安徳帝と文通をされており、また、奄美までの護衛にも八女の黒木の一族が関与していたとの話を音声で残されています。

 ちなみに、安徳姓が最も集中しているのも久留米市です。

 この中には、死を覚悟して安徳帝の身代わりを買って出た平氏の後裔もいたでしょうし、匿っていた組織の関係者もいた事でしょう。

久留米市に本社を置くブックランド安徳もその後裔の可能性があります。

 本物の安徳帝は始め対馬に逃げ、後に久留米から奄美に逃げたのです。

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E  裂田神社

裂田の溝(さくたのうなで)は、福岡県那珂川市にある灌漑用に作られた用水路である。日本最古の農業用水路としても知られており、疏水百選にも選ばれている。

『日本書紀』に、この用水路は神功皇后が三韓征伐の際当地にある現人神社の神田を灌漑するため造ったとの記述がある。

周囲の遺跡の発掘状況から、実際に造られたのは弥生時代との説もある。

江戸時代に貝原益軒が記した筑前国続風土記には取水堰の『一の井手』が「幅88間(約150m)。筑前国最大の堰である」との記述がある。

名前の由来については、『日本書紀』の記述によるとこの溝を掘っている時迩驚岡(とどろきのおか。現在の那珂川市安徳台)の辺りで大きな岩に突き当たり工事が一時中断した。そこで神功皇后が武内宿禰に命じて天神地祇を祀り祈りを捧げたところ雷が落ちて岩が裂けたため再び工事を行うことができた、との事から「裂田の溝」と呼ばれるようになったという。現在その場所には裂田神社という神社が祀られており、落雷によって裂けたという岩も現存する。

ウィキペディア(20181108 1330

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【裂田の溝ものがたり】
いまから二千五百年以上も前、むかしむかしの、そのむかし、おばあさんの、おばあさんの、そのまたずうっとおばあさんのころのおはなしです。
那珂川のゆたかな流れが博多の海に注ぎこみ、まわりには広い広い平野が見わたすかぎりにひろがって、その一番大切な中心となるところが、ふるさとの安徳村でした。
そして、安徳村にある大きな大地(安徳台)とそのまわりには、穴をほった上に木を組んで作った竪穴住居がたちならび、たくさんの人びとがにぎやかにくらしていました。
ところが、近くには那珂川のゆたかな流れがあるのに、川がひくくて、田んぼに入れる水を引くことができず、お米をたくさん作ることができませんでした。安徳村のたくさんの村人は、「こんな広い草原を田んぼにできたら、いいのになあ」「どげんかして那珂川の水をひきこむことができんやろうか?」「そしたら、おなかいっぱいお米がたべられるようになるのになあ」などど、口ぐちに話しあっていました。そんな日々が何年も何年もつづき、八百年の年月がすぎたあるとき、神功皇后が、新羅(いまの朝鮮半島)との戦いのために、安徳村にやってきました。皇后は、旅の無事と戦いの勝利を神々にいのり、那珂川から船出無題.pngしていきました。やがて、戦いに勝って無事帰ってきた皇后は、神々へのお礼のために、現人神社におまいりしました。そして、現人神にお米をささげるために、神田を開く、という知らせが村むらにつたわりました。「新しく神の田をつくるには、水を引かねばならん。そのためのみぞを作る大工事をおこなうぞ!」皇后の命令で、たくさんの兵士があつまりました。「みぞができれば、畑んなかに水がひけるばい!」「米ができるたい!」「おいしいお米がたべられるぞ〜!」喜び勇んだ村人たちも、あちらの村からこちらの村から、くわやすきを手にわれもわれもととびだしてきました。兵士も村びとも力をあわせて、川上の山田のあたりから、いっしょうけんめいほりすすみました。ちょうど、安徳台のあたりまでほりすすんだときでした。みんなの口から悲鳴があがりました。「わあ!こら、どげんしたらよかろうか〜」なんと、大きな大きな岩が行く手をふさいで、剣やすきやくわにもびくともしないのです。死にものぐるいでほってきたみぞを、ここであきらめるしかないのかと、人びとはがっくりとかたをおとして、すわりこんでしまいました。これを見た皇后は、武内宿禰という身分の高い家来に命令して、みぞをとおしてくれるよう、神がみにいのりをささげました。すると、どうでしょう!「ピカリ!バリバリバリ、ドッカーン!」いままで晴れわたっていた空が、とつぜんまっくらになったかと思うと、稲光が光って、耳をつんざくような音をとどろかせて、ものすごいかみなりが大岩に落ちたのです。あまりのすごさに、さすがの大岩も、とうとう裂けてしまいました。「ばんざ〜い!」「やったぞ〜!」人びとは手をとりあってよろこび、元気をとりもどし、またいっしょうけんめいほりはじめました。そして、今光村までほりすすんで、ついに平野に那珂川の水をひくことができるようになりました。こうして、まずしかった安徳の村むらは、ゆたかな水田に生まれかわり、何千人もの人がおいしいお米を食べられるようになりました。
人びとはお米つくりにはげみ、秋には、ゆたかにみのった稲穂で、村は黄金色にそまりました。この時から、このあたりを「とどろきの丘」とよび、このみぞを「裂田の溝」とよぶようになったということです。
この裂田の溝は、それから千六百年もの長い間、那珂川町の七つの村、山田・安徳・東隈・仲・五郎丸・松木・今光をうるおしつづけています。あなたが、いつもたべているごはんも、裂田の溝からひいた水でつくられたものなのです。あなたがざりがにをとったり、つりをしている小川も、裂田の溝から引かれたものなのです。このように、千数百年以上も前につくられたものが、いまもそのかたちのままはたらいて、わたしたちのくらしにやくだっているようなところは、日本中さがしてもほかにありません。わたしたちの祖先がのこしてくれた、すばらしい「裂田の溝」をたいせつにして、これからもずうっとまもりつたえていきましょう。


 実はこの神功皇后を祀るとするこの神社の文書によって神功皇后の本当の年齢(生年)が分かります…と百嶋先生は言われていました。

 そして、愕くことに、ここで神功皇后と後の開化が共に生活していた…とも言われていたのです。

右は「高良玉垂宮神秘書」

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F  伏見神社

伏見神社 鎮座地 福岡県筑紫郡那珂川町大字山田

御祭神 淀姫命 須佐之男命 大山祇神 神功皇后 武内宿祢

御祭礼 一月一日 歳旦祭

二月十一日 建国記念祭 四月十五日 春祭 七月十四日 祇園祭 須佐之男命祭日 県無形文化岩戸神楽奉納 七月三十一日 夏越祭 かやの輪を潜り罪穢を祓い無病息災を祈る 十月十七日 秋祭 五穀豊穣を謝し新藁御注縄を捧げる  十一月十五日 御火焚祭淀姫命遷座を願夜火焚祭を行ふ

御由緒

淀姫命は神功皇后の姉姫で千珠満珠を求め給う神徳の姫で欽明天皇二十五年十一月朔日佐賀の県に川上大明神として鎮座されたが託宣によって此の地に遷座され後異国襲来にそなえ神功皇后武内宿祢と共に京都伏見御香宮を合祭して伏見大明神と称す 須佐之男命は天正年間秀吉島津征伐の時博多市街兵火に罹り櫛田祇園の社にも兵火及ばんとするや御神体を当社に遷じ奉り博多住民も避難移住してより祇園祭行はる

鯰渕

社前那珂川の一之堰より上流伏見の渕、鐙の渕、風拝の渕を総称して「鯰渕」と言い「鞍掛鯰」の居る処神功皇后三韓征伐の時背振山に登られ灘の川を渡らせ給ふ時馬の鞍に魚が飛び上り皇后「なまづめ」たいと言はれその魚を鯰と名付け給ふ皇后三韓征無題.png伐の舟出で給う時無数の鯰群をして船を抱き水先案内し戦勝されてより神の使とされた。鯰は平時姿を見せぬが天下変事にはらわれる。元和元年大阪夏の陣、寛永十四年島原の乱明治二十七年日清戦争、明治三十七年日露戦争、大東亜戦争終戦前皮膚病「なまず」は絵馬を捧げて祈願すれば治った人多し

岩戸神楽 昭和二十九年十二月十三日 福岡県無形文化財指定あり


 故)百嶋由一郎氏は「京都の伏見稲荷のルーツです…」と言われていましたが、肝心の豊受大神が祭神とされていないのが不思議です。今後の課題です。


G 大山住神社

無題.png村社 山神社 筑紫郡岩戸村大字別所字上別所

祭 神 大山祇神,伊弉册神,久延毘古神

由 緒

 不詳明治五年十一月三日村社に被定。祭神伊弉册神は字上別所無格社熊野神社として祭祀ありしを祭神久延毘古神は字松尾無格社花亂神社として祭祀ありしを明治四十四年六月十五日合併許可。

例祭日 十一月十四日 主なる建造物 本殿,拝殿,弊殿 境内坪数 四百十七坪 氏子区域及戸数

 岩戸村大字別所 五十五戸 福岡県神社誌 中巻 空 sora そら


那珂川上流域は大山祗だらけですね…。

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脊振山系を越え有明海側に入るルートを制圧していたのも、大山祗系の人々だった事が歴然とします。


H 日吉神社

日吉神社  

那珂川町で蛍や川遊びが出来るスポットとしても親しまれている、中ノ島公園に隣接した日吉神社に行ってきました。那珂川町の水田を開拓する神とし古事記の天孫降臨の条に最初に登場し國津神として語られた猿田彦命(さるたひこのみこと)が祀られている神社としても親しまれています。家と家との間に真っすぐ続く参道の右手には広い水田が広がりカエルの鳴き声が聞こえてきそうな風景、何処となく故郷感あふれたそんな雰囲気に癒されてきました。敷地境内には木々が立ち並び、静かな涼みにも穴場!お勧めなスポットとなっています。また神社には、神前に供える栄木の一種とされる県指定天然記念物のオガタマの御神木が大きくたくましく立っています。拝殿の内部には立派な絵馬が奉納されており、とても古いものだろうと歴史を感じました。…                      福岡よかとこ より

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読めないでしょうが、最も注目しているのはこの神社の縁起です。故)百嶋由一郎氏が重要視していたのがこの由緒であり、同社の古文書だったのです。ちなみに市之瀬は百嶋先生の一族の以前の氏族名です。


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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ

2018年11月08日

ビアヘロ068 北海道は江差の姥神大神宮と宮地嶽神社 “九州王朝の神紋は蝦夷まで及んでいた”A

ビアヘロ068 北海道は江差の姥神大神宮と宮地嶽神社 “九州王朝の神紋は蝦夷まで及んでいた”A

20180730

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 この話は、故)百嶋由一郎の面受の者として、今でも耳に残っているのですが、実際に“宮地嶽神社(福岡県福津市)の三階松が江差まで行っている…“”開化天皇(高良玉垂命)とお妃である(仲哀死後)神功皇后との神霊が江差まで運ばれている…“と言われていました。

 当然、手書き資料にもそれが残されていますが、この姥神大神宮の渡御祭の山車にも三階松と抱き柏に菊の紋が打たれた幟が飾られているのです。


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確かに抱き柏に菊の紋が打たれた幟の山車には神功山との棟札が置かれており、もう一方の三階松が打たれた山車は開化天皇こと高良玉垂命のそれであると分かるのです。

勿論、現在の宮地嶽神社は主神を神功皇后とはしているものの、夫神である高良玉垂命は消えており、そのまま真に受ける方には理解できないと思います。

反対に、久留米の高良大社では高良玉垂命は残されているものの神功皇后が消されているのです。

このように、各々を消す事によって九州王朝の天皇制を掻き消しているのです。

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左が三階松(孝霊、孝元、開化の三代の九州王朝系天皇を表す)右は抱き柏に菊の神功皇后の神紋


 無題.png右は高良大社に奇跡的にも残された高良玉垂宮神秘書(コウラタマタレグウジンヒショ)の一節ですが、仲哀死後の神功皇后と孝元天皇の子ワカヤマトネコヒコとは夫婦となりと書かれ、仁徳天皇ことシレカシノミコト以下五人の皇子ももうけているのです。

 これらについては、ひぼろぎ逍遥(跡宮)7968などを丹念に読んで頂くしかないのでしょう。


79

宮地嶽神社と安曇磯羅 K “未来の宮地嶽神社参拝者のために”

68

宮地嶽神社と安曇磯羅 @ “五人寄れば文殊の知恵”


「記」「紀」の九州王朝隠しはその本拠地であった九州の現場にとどまらず、全国に及んでおり、この姥神神社の祭神とされる五柱(天照大御神、天児屋根大神、住吉三柱大神)の神(江差町HP)も、天照皇大御神・天児屋根神・住吉大神を祀る…(ウィキペディア)もそのまま真に受けるわけには行かないのです。

 まず、天児屋根神(藤原の祖)が祭神とされていることから、本来の祭神は高良玉垂命と神功皇后であったと考えられます(天児屋根の孫が崇神であるからです)。

 それが藤原の時代以降に祭神が替えられ、高良玉垂命(底筒男)、崇神(中筒男)、アヅミイソラ(表筒男)=住吉三神として、神功皇后の夫神である開化が住吉として薄められている上に、開化天皇と神功皇后(皇宮皇后命)は消されたと考えられるのです。

 ただ、天草〜博多…〜糸魚川〜十三湊〜江差と海路を通じて伝えられた山車の名称と神紋だけは消せなかったのです。

何故、そこまで断言できるかと思われるかも知れませんが、百嶋先生もメモに残されなかった証拠の一部を新たに発見しました。それが以下の画像です。

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無題.pngこの賽銭箱と幔幕に打たれた神紋こそ高良玉垂命=開化天皇の門光なのです。

 高良玉垂命と神功皇后の神紋:唐花(門光)と抱き柏に菊紋

 現在の高良大社の神紋は左三つ巴と木瓜紋とされていますが、木瓜は初期の臣下であった金山彦の神紋であり、ここにも偽装が施されているのです。

これについては高良大社の表面に現れる神紋だけではなく内部に残され祭りの時だけ現れる神輿に打たれた門光を知らなければ分かりませんが、この紋章こそが開化の本当の神紋なのです。

 このように謎解きには多くの関門があるのです。

ここでもう一つの問題に触れることにします。

江差町のHPには大神宮(こう呼ばれているのは天照が祀られているからでしょう 恐らく神社の昇格のために明治期に持ち込まれたものと考えられそうです)について以下のように書かれています。

そんな中で姥は、天変地異を事前に知らせることで人々から神様のように敬われ、折居様と呼ばれるようになりました。とある夜、神島(カムイシリ=今の鴎島)から虹のような光に草庵が照らされました。

この折居様についても触れておきたいと思います。島根県に折居神社があります。

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由緒書きの通り折居神が上賀茂神社の別雷神こと崇神天皇(神武僭称ハツクニシラススメラミコト)であることがお分かり頂けるでしょう。実はこの崇神も天皇ではなく九州王朝の開化の臣下だったのです。

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百嶋由一郎氏が残された音声CD、神代系譜、手書きデータを必要な方は09062983254で…

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 10:21| Comment(0) | ビアヘロ