2020年01月17日

ビアヘロ 116「宮原誠一の神社見聞牒」からD “熊鹿文・熊津彦は大幡主・金印王ではないか?”

ビアヘロ 116「宮原誠一の神社見聞牒」からD 熊鹿文・熊津彦は大幡主・金印王ではないか?”

                                                                      20191128

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 メンバーの宮原誠一氏による「宮原誠一の神社見聞牒」にかなり重要な論文が連続して掲載されています。ご好意により全文を転載させて頂く事になりました。

 我々は九州王朝論者のほんの一角に存在しているだけの存在ですが、唯一、一般の九州王朝論者と異なる事があります。

戦前の国家神道化による反省からか戦後の古代史研究の主軸とされた海外史書+穴掘り考古学でした。

しかし、その手法に対する深い疑問から九州王朝の現場である九州島に残された多くの痕跡を辿る事から再度光を当て神社探訪を行ってきました。荒唐無稽な話として無視され続けてきた神社研究ですが、それが大きな展開を見せ始めました。そのきっかけとなったのが当時福岡市中央区唐人町にお住まいだった80代の故)百嶋由一郎氏でした。先生の話は始めはそれこそチンプンカンプンでしたが、その細い糸を繋ぎ繋ぎ、勿論、ブロガーばかりではないのですが、現在、数十枚の神代系譜と講演録をベースに全国で30名近い研究者が日夜ブログを書き、全体では控えめに見ても年間200300万件のアクセスを得ているものと思われます。当方だけでも、3ブログ[ひぼろぎ逍遥+ひぼろぎ逍遥(跡宮)+新ひぼろぎ逍遥]で年間60万件を超えています。

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これはひぼろぎ逍遥(跡宮)の11月実績ですが、日量平均アクセスは1000件を超えこれだけで年間40万件、他の二ブログと併せ日量1,500件程度(年間60万件)のアクセスとなっています。いつかは百万件超えを目指していますが、百嶋神社考古学の影響を受けたブログは、

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となっています。2020年度も宜しくお願いしたいと思っております。          (古川)

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No.127 熊鹿文・熊津彦は大幡主・金印王ではないか?             2019-11-11 11:00:00

宮原誠一の神社見聞牒(127)
令和元年(2019)1103
令和元年(2019)1111

No.127 熊鹿文・熊津彦は大幡主・金印王ではないか?


「松野連<倭王>系図」の系図の流れ(親子兄弟関係)、注記はあてになりませんが、記載される名前は信頼できるようです。この系図は、呉の太伯王家姫氏白川伯王家(大幡主)
阿蘇家多氏が"ごっちゃ"になって記載されているのではないかと思うのです。


<倭王>系図
この系図には、歴代系統の名前ばかりで、細かい事蹟は記されていないが、鈴木真年の考証注記かと思われるものが付記されている。左側の()内は、鈴本真年による注記と思われる。()
系図原本は『日本書記』作成に使用された後、大和朝廷に都合の悪い系図は召し上げられたまま、返還されなかったのではあるまいか。従って提出当時に写本を作る余裕もなかった倭王遺族としては、不確かな記憶を頼りに、『松野連〈倭王〉系図』を再調製したものと思われる。これが、点在する名前洩れや時代錯誤した事蹟傍注の原因になっているのではあるまいか。


平野雅廣氏著『倭国史談』


あまり当てにならない系図と思いきや、熊鹿文(くまかや 熊津彦)について以外な記載がなされています。
「松野連<倭王>系図」で熊鹿文(熊津彦)の注記では「後漢光武中元二年正月私通漢土受印綬
僭称委奴國王」と、鈴木真年の記載があります。
宇閇王(うえおう)の注記では「後漢光武帝中元二年正月貢献使人自称大夫賜以印綬」とあります。


後漢書』倭伝(范曄<はんよう 398-445>編集) では、
 「建武中元二年 倭奴国奉貢朝賀 使人自称大夫 倭国之極南界也 光武賜以印綬」
 ()建武中元二年(57)、倭奴国が奉貢朝賀す。使人は自ら大夫を称す。
 倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす。
とあり、武中元二年(57)、倭奴国が奉貢朝賀し、「漢委奴國王」の金印を光武帝から印綬されたことになっています。
その倭国王が宇閇王(うえおう)であると、前回で私は見たのでした。


しかし、「松野連<倭王>系図」で熊鹿文(熊津彦)の注記では、熊津彦が「委奴國王」を僭称して、光武帝に私通漢土して印綬した、とあるのです。
つまり、熊津彦は委奴國王と成り済まし皇帝に朝貢して金印を受けているのです。
「委奴國王」は「いと国王」とも「わのな国王」とも読めます。
実は、記録には現れませんが、那()国の王様・大幡主は子息・豊玉彦を使者に密かに朝貢しているのです。それが私通漢土という表現なのでしょうか。
そして、使者の豊玉彦は「中郎将」の称号を受け、日本では「中将」様と呼ばれているのです。使者の豊玉彦は明確な国王の名称を誤魔化すために、どのような解釈でもとれる国王名を使用したと推測します。つまり、「委奴國王」は「わのな国王」とも「いと国王」ともとれるのです。このことが、「倭奴國王」「倭國王」の表記の混乱の原因かもしれません。

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金印「漢委奴國王」
          大幡主が受けたとみられる金印
「漢の倭の奴国王」

松野連<倭王>系図の流れ、代々の親子関係等あまり信頼できませんが、大幡主の年代は倭面土國王師升の時代と重なり、光武帝の時代ではありません。
熊津彦こと大幡主は倭の奴国王として、金印の「漢委奴國王」を僭称して、印綬したのではないでしょうか。その金印が、現存する大幡主が受けた金印「漢委奴國王」となるのです。公的に倭国王は存在しても、奴国王は存在しないのです。
大幡主の時代は、倭面土國王帥升が朝貢した安帝の時代となりますが、帥升は金印を印綬されていません。
現存する金印「漢委奴國王」は豊玉彦を使者に「委奴國王」を僭称して、大幡主が印綬された金印となります。
後漢書が正しいのか、大幡主が倭国王帥升を僭称されて金印を印綬されたのか、真実はわかりません。
そして、鈴木真年は記録には現れない「那()国王・大幡主は子息・豊玉彦を使者に『委奴國王』を僭称して密かに朝貢した」ことを知っていたことになります。

すると、光武帝から印綬された球磨の宇閇王への金印は「漢倭國王」ということになります。この金印は、ヒミコの金印「親魏倭王」と同様に、未だ見つかっていないことになります。宇閇王の金印「漢倭國王」は球磨の神殿原に収蔵されていたのかもしれません。倭国に金印が三個印綬されたのか?金印の偽造説も含めて謎だらけです。


それで、松野連<倭王>系図の熊鹿文=熊津彦は大幡主ではないかと思えるのです。現在使用される熊本県の「熊」は、本来は「隈」でした。大幡主ご一統が造られた村は「○隈」と称することが多く、代表に、福岡市の「七隈」、嘉麻市の「大隈」等があります。
大幡主は「隈王」、さらには「球磨王」と呼ばれたのではないかと推察するのです。
(
「熊」の字は「隈」「球磨」を貶めた字とみます)
また、松野連<倭王>系図に熊津彦と難升米の親子の記載があります。

ヒミコの朝貢の折、難升米(ょう)は「中郎将」の称号を受けており、この関係は大幡主(熊津彦)・豊玉彦(中将)親子関係に相当します。帥升、ヒミコ、大幡主、豊玉彦は同時代の人であり、この関係から難升米は豊玉彦に相当することになります? 松野連<倭王>系図が正しいとした話です。

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松野連<倭王>系図(平野雅廣氏著『倭国史談』)


熊本県球磨地方では、太伯王家姫氏と白川伯王家の大幡主は共存された時期があったと推察するのです。それが、「松野連<倭王>系図」では"ごっちゃ"になって記載される原因となったのではないでしょうか。

  (球磨)鹿文=熊(球磨)津彦=大幡主=隈王=球磨王

熊野神社祭神の「大幡主」は尊称であり、本当の名前(諱 いみな)、その他の尊称がひとつも見あたりません。もしかしたら、大幡主の名前は「隈津彦」「球磨津彦」かもしれません。
「熊野神社」の名称も「熊の神社」「隈の神社」「隈王神社」が基底にあったのでしょう。

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須玖岡本遺跡の王墓の上石を一旦移したすぐ近くの熊野神社の境内

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奴国の丘歴史資料館敷地に移された須玖岡本遺跡の王墓の上石1999(平成11)

春日市奴国の丘歴史資料館パンフ資料1999(平成11) 福岡県春日市岡本3丁目57

メンバーの宮原誠一氏による「宮原誠一の神社見聞牒」を継続してお読みください。


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須玖・岡本遺跡/須玖岡本遺跡 弥生/奈良 福岡県春日市岡本町5丁目・2-929596.


百嶋神社考古学に関する資料を必要とされる方は09062983254までご連絡ください。

百嶋由一郎氏による講演録音声CD、神代系譜スキャニングDVD、手書き資料スキャニングDVDほか
posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ

2020年01月16日

ビアヘロ 115「宮原誠一の神社見聞牒」からC 下 “金印の委奴國王と面土國王帥升と球磨郡あさぎり町”

ビアヘロ 115「宮原誠一の神社見聞牒」からC 下 金印の委奴國王と面土國王帥升と球磨郡あさぎり町”

                                                                      20191127

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 メンバーの宮原誠一氏による「宮原誠一の神社見聞牒」にかなり重要な論文が連続して掲載されています。ご好意により全文を転載させて頂く事になりました。

 宮原誠一氏は筑後地方を中心(久留米市の高良大社を軸)に40年間以上に亘って神社研究を続けて来られました。現在、「邪馬台国」研究者などと嘯く人々の大半が戦後の風潮によって神社研究を荒唐無稽なものとして事実上無視しています。海外の史書+穴掘り考古学こそ戦後の科学的古代史の手法とでも錯覚されたのでしょうが、これとても京都学派と解放同盟の利権構造によって纏向遺跡が卑弥呼の墓などと言ったデマが平然と流されているのですからそれにそのまま便乗するとしたら全く意味がないのです。

 現在、穴掘り考古学に精通し最も熱心で活発な活動を続けてこられた元朝日新聞記者でミネルヴァ書房などから4著を公刊された内倉武久氏も当方のグループとのブログのリンクを張っておられます。

今回はこの「松野連系図」がテーマになっていますが、これを初期段階から研究し世に出された同氏もつい最近福岡市を中心とする似非九州王朝論者の○○古代史の会を見限り離脱されたと聞き及んでいます。

 自らは現場に足を運ぶこともなく、ただただ他人の研究を拝聴して分かったような気になっているだけの団体は何の成果もなくいずれ歴史の屑籠に放り込まれるだけなのです。           (古川)

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宮原誠一の神社見聞牒(126)
令和元年(2019)1028

No.126 金印の委奴國王と面土國王帥升と球磨郡あさぎり町


4.熊本県球磨郡あさぎり町上(うえ)北の神殿原


あさぎり町本町を中心に北・東が旧免田村、南が旧上村(うえむら)、東が旧岡原村(おかはる)になります。その旧三村の接点部に「神殿原 こうどんばる」があります。
字のごとく神殿が建つ丘です。どの大王時代の「神殿」であるか分かりません。
大王の住居地としては平地にありますので、戦術的防御からみて不適です。むしろ「委奴国 いとこく」の中心部の象徴として神殿があったのかもしれません。誰を祀った神殿かは不明です。
金印は委奴国王が賜綬されたもので、代々、倭王が引き継ぐもので、墳墓の副葬品にされたとは思えません。後世、金印はこの神殿原の神殿に奉安されたのかもしれません。
実はこの地域を金印に絡む調査が明治の初期に密かになされている可能性があるのです。


「ひろっぷ」さんからお聞きした話 2019-01-28
免田(面田)と上村の境に「木原」があります。
神殿原の中の地名です。つまり神殿原の姫原(木原)となります。現在、南陵高校が建っている場所の前辺りです。殿原開拓社の話をブログに書いていたのですが
(https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12399572697.html)
この神殿原開拓団の本来の目的は、私はおそらく開拓だけではなく遺跡発掘にあったと思っています。相良藩時代には神殿原は全くの原野。手を触れる事を避けていたかのようです。
「何も見つからなかった」・・の話は本当はどうなのか・・?
その後の神殿原開拓社のメンバーの尋常でない出世・・凄く不思議です。
特に「宗像 政(むなかた ただす)」氏
嘉永712(1854130) - 大正7(1918年)27日)
日本の政治家、官僚。衆議院議員および貴族院議員、県知事。別名、田村 政。
※埼玉・青森・福井・宮城・高知・広島県知事を歴任。
1912
(大正元年)東京府知事を任ぜられる。
1918
(大正7年)27日貴族院議員(勅撰議員)となる。
さらに、「田中賢道」氏
閔妃(ミンビ)暗殺事件の首謀者の一人。
岡原村史には、田中賢道の戸籍は最期まで岡原村にあった事は記録にとどめておかねばならない、と書かれていました。熊本市生まれにも関わらず生涯本籍を岡原村から動かさなかった理由は・・?


神殿原開拓社が開拓した土地に「木原(姫原)」が含まれていた事はとても重要な意味を持つのではないでしょうか…


「姫原 ひめはる」は「姫氏天皇家(王家)の丘」という意味で、王家の住まいです。
「神殿原」の中の「姫原」という地名は重要です。姫氏天皇家(倭王)を象徴する地域と考えます。
神殿原地域は球磨盆地の中央にあり平地です。明治期まで耕作地として使用されていない、人手が入っていない原野のままで放置? されてきた。
それは、やはり、球磨の人達は、この地が古代からの神聖な土地として意識され伝承されてきたからではないでしょうか。
 神殿原開拓社の調査は、古代の委奴国の何らかの手掛かり掴めたのではないか。
その内容は、現在の日本の古代史を根底から覆すもので、厳重に秘密にされた。
出世した開拓社の主だった人達は、金印の何かを知っておられる。しかし、それは硬く口封じられている、と思うのです。

5.あさぎり町免田の才園古墳の鎏金獣帯鏡と遺跡


あさぎり町免田西に岡留熊野座神社が鎮座ですが、その西に才園古墳(さいぞんこふん)遺跡があります。その副葬品で目を引くものが、金メッキ(鍍金)された鎏金(りゅうきん)獣帯鏡です。
中国の鏡の研究者である王士倫氏によると、三国志時代(3世紀)に中国の江南地方(呉の領域)でつくられたものという。鍍金鏡は中国でもたいへん貴重なもので、日本では3枚しか出土していない。(福岡県糸島市の一貴山銚子塚古墳、岐阜県大野町の城塚古墳)
 
      鍍金鏡「鎏金獣帯鏡」熊本県球磨郡あさぎり町 才園古墳出土

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鎏金獣帯鏡(金神獣鏡)
直径11.7cm、厚さ3mm 青銅鏡(白銅鏡)の背面全体に分厚く鍍金
1938
年出土
外側の文字「吾作明竟幽凍三商彫刻無極■大吉羊宜侯王家富昌師百■楽衆神見容命長」
簡訳「われ明鏡を作り、三商を幽凍し、極悪なく、大吉祥よろしく、王家さかえ、衆は楽しみ、神を見、姿命長し」
  ひろっぷ「古代・中世・近世の繋がり 先祖について」
  『球磨 あさぎり町の遺跡からの出土品』2017-09-25 参照
  
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12313557213.html


日本では3枚しか出土していない鍍金の鏡
 熊本県球磨郡あさぎり町免田西(永才)1248:才園古墳
 福岡県糸島市二丈田中:一貴山銚子塚古墳
 岐阜県揖斐郡大野町野:城塚古墳

鍍金された鎏金(りゅうきん)獣帯鏡の出土は、あさぎり町と福岡県糸島市との繋がりを思わせます。また、免田式土器は福岡県糸島の三雲南小路遺跡(細石神社の西隣)でも出土しています。
あさぎり町と福岡県糸島市との繋がりは明らかであり、委奴國と面土國と魏志倭人伝の伊都国は繋がります。

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深田出土の免田式土器(あさぎり町深田西 明廿) あさぎり町HPから
深田公民館せきれい館で展示
(
)胴部最大径20.0cmの重弧文長径壷で、弥生時代後期と製作と推定。
胴部に凹線文、重弧文あり優美な姿である。
(
)口径8.4cm、高さ40cm、胴部最大径30cmで弥生時代後期の重弧文土器。
胴部に凹線文、ボタン状貼付文、竹管文、重弧文、刻目文が施されている。


福岡県の「遺跡調査機関」への球磨郡あさぎり町の「ひろっぷ」さんの思いです。


細石神社と免田式土器
細石神社周辺と球磨は関わりがあります。私のブログ『球磨弁とヘブライ語』で触れたのですが
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12410694963.html
免田式土器は九州北部では出土例が少ないと言われていますが、その少ない出土遺跡とは九州北部の免田式土器出土遺跡
福岡県
 三雲遺跡(糸島市三雲 細石神社の西隣)
 安国寺遺跡(久留米市)
 亀の甲遺跡(八女市亀甲)
 甘木山遺跡(大牟田市甘木) 他
佐賀県
 二塚山遺跡(三養基郡上峰町)
 みやき遺跡(武雄市橘町綿の木) です。
ちなみに、福岡県の「遺跡調査機関」では九州北部では出土例が少ないと言われている免田式土器が三雲遺跡で発見されていた事を重要視されていない・・と言うか、触れようとはされていないような気が私は以前からしておりました・・・
                                 ひろっぷ 2019-10-23


現代の考古学者、特に、近畿を古代列島の中心と考える学者さんは、意識的に古代の九州の歴史を歪曲し、無理に「古代列島の中心は近畿」と呪縛されておられるのではないか。私は機会ある毎に申します。


「日本の古代史は、熊本県球磨の古代史がスッポリ抜け落ちています。球磨の古代史が明らかにならなければ、日本の古代史は正確ではありません。」

参考資料 松野連<倭王>系図

平野雅廣氏著『倭国史談』200088日 熊本日日新聞

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備考 名前、住居など以外、左側の()内は、鈴本真年による注記と思われる。
     本系図については、尾池誠著「埋もれた古代氏族系図」参照


松野連<倭王>系図


「松野連<倭王>系図」は、幕末から明治時代にかけて、古代氏族の系譜収集に生涯を費した在野の研究家、鈴木真年の厖大な集成本中の一つである(ただし草稿写本)。
この系図には、歴代系統の名前ばかりで、細かい事蹟は記されていないが、鈴木真年の考証注記かと思われるものが付記されている。地名など一部は、あるいは原本のままかもしれないが、これについて、論考『埋もれた古代氏族系図』の著者、尾池誠氏は、次のように書いている。


私はかなり早い時期に既に名前のみの系図になっていたのではないかと推理する。『日本書記』を編纂するにあたって、編者は主な氏族譜や記録を資料として用いた。当然松野連の『倭王系図』も「景行紀」において採用された。それは「態襲」の「謀叛」として、厚鹿文・?鹿文・市乾鹿文・市鹿文・取石鹿文などを登場させたものだった。『日本書記』完成後に松野連が見たものは、当然伝世の歴代倭王の事蹟とはおよそかけはなれたものだったであろう。
かつての倭王の事蹟が、大倭朝廷に対して、はばかられるべきものであることを考慮して、倭の五王の事蹟をはじめとする伝来のほとんどの記録の抹消を余儀なくされたことであろう。このため「牛慈」が服降したという以前は、歴代名のみという極めて特異な系図と化してしまったのである。・・・


松野氏の居所分布についてみると、二代目の「順」は委奴に居す、とあり、肥後から筑紫へ移った分家の存在がある。
国会図書館所蔵系図には、「呉王夫差の支庶忌(字は慶父)、孝昭天皇三年(前四七三)来朝して火国菊池郡山門に住す」とある。後代の「宇也鹿文(別名、鬼毛理)」の傍注には、「火国菊池評山門里住、永初元年十月通漢」とあるので(静嘉堂文庫所蔵系図)、本家は続いて肥後にあったものと考えられる。
(
中略)
私の手許にあるのは二通りの系図写本であるが、主として始めの部分に世代数の差、名前の違いが見られるゆえ、もともと別の二系統の系図があったのではないかと考えられ、それが後世のある時期において、一つのものに統合されたものではないかとも推察される。
私の考えでは、系図原本は『日本書記』作成に使用された後、大和朝廷に都合の悪い系図は召し上げられたまま、返還されなかったのではあるまいか。従って提出当時に写本を作る余裕もなかった倭王遺族としては、不確かな記憶を頼りに、『松野連〈倭王〉系図』を再調製したものと思われる。これが、点在する名前洩れや時代錯誤した事蹟傍注の原因になっているのではあるまいか。
例えば、卑弥呼や壹与などの比定が果たして確実か疑わしいものがあるし、事蹟についても、第一系図の宇閇「後漢光武帝中元二年正月貢献(57)」や、玖志加也「永初元年十月貢献(107)」の後の刀良の傍注が「宣帝時遣使礼漢(地節7年、前68)」と、年代順が混乱している。
また、第二系図の迮鹿文には、「景行十二年熊襲梟帥也」(82)としている横に、「新羅阿達羅尼師今廿年遣使」(173)と並べている。これは卑弥呼の最初の遣使の年で、『三国史記』にも出ているが、成務天皇43年に当たるのである。
景行紀に出る市鹿文は、女性で、「火国造」を賜ったとあるが、傍注に、「魏正始八年立為王、景初二年貢奉、被称壱歟」とある。壱与が王となったのは13歳の時で(247)、景初二年(238)卑弥呼の朝貢と混記している。
第一系図に卑弥鹿文がいるが、これが卑弥呼ではあるまいか。「鹿文」は尊称と思われるが、これの付いた名が十数名もあるからだ。
彼女の死後、宗女壱与が王位に就いたが、第二系図の市鹿文がそれで、第二系図が宗家で肥後にあり、第一が分家で筑紫にあったものであろうか。それが交替で王位に就き、後で、一本になったものであろう。
日本武尊に殺された川上梟帥(取石鹿文)は、第一・第二系図に重複している。

また、第二系図の宇也鹿文は、火国菊池に住むとあり、「永初元年十月通漢」の注があるが、『後漢書』の同年(107)に朝貢した倭国王帥升と同一人物であろう。ただし、第一系図の玖志加也(加志古)にも同様の注があるので、やはり重複であろう。
第一の宇閇と第二の態鹿文にも同じく、「後漢光武帝の中元二年正月貢献、印綬を受けた」旨の注記があるが、志賀島の金印のことであることは明らかである。
両方の系図に、名前が異なるのに同じ事件の注が付いているということは、肥後と筑紫双方の後継者それぞれが、お互い相談する機会もなく、不確実な記憶によって注記した結果ではあるまいか。
私の手許にあるのは、系図再製以後江戸期まで、子孫代々書き継いで来た原本を基に、鈴木真年が手を入れた写本原稿(そのコピー)と考えられる。傍注にある「国・評・里」と「国・郡」制による住所の混記から察すると、原本の成立は『日本書記』に成立からあまり下らぬ時期に、傍注を伴ったものが一応出来ていたのではないだろうか。鈴木がことさら「郡」と「評」とを後年において別記することはあり得ないと思うからである。
考えるに、この系図には前記に指摘したいくつかの欠点は認められるものの、「日本書記」態襲征伐記事に見る名称や、中国史書に現われる倭の五王との名前の一致からして、無視することのできないものがある。
(
以下略
)

鈴木真年 略歴
天保2(1831)江戸神田鎌倉河岸で出生。
幼名房太郎のち今井源太郎、また真年と改める。竹亭また不存と号す。源牟知良と改名、新田愛氏と号す。俳号・松柏。
栗原信充に入門。主に系譜学を学ぶ。紀州藩士となり、系譜編纂事業に任ず。
明治政府の弾正台勤務。司法省へ転じ、文部省図書館員を兼務。参謀本部編纂課へ転出。東京地学協会社員。山縣有朋・田中光顕邸で『古事記』講義を続け、交詢社名誉会員。
帝国大学で『大日本編年史』編纂に従事。晩年主として系譜編纂に従事し、傍ら態野神社を中心として、国学校の設立に尽力。明治27(1894)没、64才。


百嶋神社考古学に関する資料を必要とされる方は09062983254までご連絡ください。

百嶋由一郎氏による講演録音声CD、神代系譜スキャニングDVD、手書き資料スキャニングDVDほか
posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ

2020年01月14日

ビアヘロ 114「宮原誠一の神社見聞牒」からC 上 “金印の委奴國王と面土國王帥升と球磨郡あさぎり町”

ビアヘロ 114「宮原誠一の神社見聞牒」からC 上 金印の委奴國王と面土國王帥升と球磨郡あさぎり町”

                                                                      20191127

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 メンバーの宮原誠一氏による「宮原誠一の神社見聞牒」にかなり重要な論文が連続して掲載されています。ご好意により全文を転載させて頂く事になりました。

 宮原誠一氏は筑後地方を中心(久留米市の高良大社を軸)に40年間以上に亘って神社研究を続けて来られました。現在、「邪馬台国」研究者などと嘯く人々の大半が戦後の風潮によってか神社研究を荒唐無稽なものとして事実上無視しています。海外の史書+穴掘り考古学こそ戦後の科学的古代史の手法とでも錯覚されたのでしょうが、これとても京都学派と解放同盟の利権構造によって発掘予算を関西で独り占めにしたいとの思惑から邪馬台国九州説、ましてや九州王朝説などといったものが考古学協会から排斥されているのです。従って、畿内説と九州説の対立の背後に予算配分の問題が存在しているのであって、二度と再び吉野ケ里遺跡の様なものが出て来てもらっては困るのです。

 さて、最も熱心で活発な活動を続けてこられた元朝日新聞記者でミネルヴァ書房などから4著を公刊された内倉武久氏も当方のグループとのブログのリンクを張っておられますが、今回はこの「松野連系図」がテーマになっています。これを初期段階から研究し世に出された同氏も福岡市を中心とする似非九州王朝論者の○○古代史の会を見限り離脱されたやに聞き及んでいます。

 自らは現場に足を運ぶこともなく、ただただ他人の研究を拝聴して分かったような気になっているだけの団体は何の成果もなくいずれ歴史の屑籠に放り込まれるだけなのです。

他人の研究を中途半端に聴いて脳みそを介せず右から左に通過させるだけの人々は何の痕跡もなく消え失せるのであってこういった輩を相手にしていても何の意味もないのです。(古川)

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宮原誠一の神社見聞牒(126)
令和元年(2019)1028

No.126 金印の委奴國王と面土國王帥升と球磨郡あさぎり町


前記事「No.124 金印「漢委奴國王」は志賀島から出土したのですか?」にて、金印の委奴國王と面土國王帥升がおられた地域を熊本県球磨郡あさぎり町と想定しました。

『後漢書』倭伝に「建武中元二年 倭奴国奉貢朝賀 使人自称大夫 倭国之極南界也 光武賜以印綬」(建武中元二年(57)、倭奴国が奉貢朝賀す。使人は自ら大夫を称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす。) とあります。
金印を光武帝から57年賜綬された時の状況で、ここに「倭国之極南界也」とあります。金印を賜綬された「委奴国王」は倭国の南端にあったことになります。
倭国の南端は南九州です。

さらに、50年後、「永初元年(107)、倭国王帥升等は生口百六十人を献じて、請見を願う。」、続けて、北宋版『通典』では「安帝永初元年 倭面土國王師升等獻生口」(安帝永初元年(107) 倭面土國王師升等が生口を献じた。) とあります。
「倭面土國王帥升」の國王師升は呉の太伯王家姫氏(九州王朝国王)であり、「倭面土國」は熊本県球磨郡免田村(現あさぎり町免田)に比定されます。
倭国王・帥升は南九州におられたのです。

金印の委奴國王と面土國王帥升がおられたと見られる熊本県球磨郡あさぎり町の神社と遺跡を検討します。

   松野連<倭王>系図(平野雅廣氏著『倭国史談』200088日 熊本日日新聞)

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1.松野連<倭王>系図からみる「委奴国王」


「委奴国 いとこく」は熊本県球磨郡免田村(現あさぎり町免田)を中心とした球磨郡一帯であり、二代目の順王は球磨郡一帯を委奴国と定めたと推考しています。
「委奴国」の九州北部への移動が「魏志倭人伝」にいう伊都國となります。


松野連<倭王>系図
この系図には、歴代系統の名前ばかりで、細かい事蹟は記されていないが、鈴木真年の考証注記かと思われるものが付記されている。左側の()内は、鈴本真年による注記と思われる。()
系図原本は『日本書記』作成に使用された後、大和朝廷に都合の悪い系図は召し上げられたまま、返還されなかったのではあるまいか。従って提出当時に写本を作る余裕もなかった倭王遺族としては、不確かな記憶を頼りに、『松野連〈倭王〉系図』を再調製したものと思われる。これが、点在する名前洩れや時代錯誤した事蹟傍注の原因になっているのではあるまいか。   平野雅廣氏著『倭国史談』


松野連<倭王>系図は、系図の作成経緯からして「曖昧」が存在することを前提として進め、第一系図は難升米まで、第二系図は宇也鹿文までを対象とします。
松野氏の居所分布についてみると、二代目の「順」は委奴(いと)に居す、とあり、肥後から筑紫へ移った分家とされる。国会図書館所蔵系図には、「呉王夫差の支庶忌(字は慶父)、来朝して火国菊池郡山門に住す」とある、となっていて、呉王は菊池から出発したことになりますが、熊本県球磨に住したことがすっぽり抜けています。

注記をお書きになられた方(鈴木真年)は・・人吉・球磨の事を全く御存じ無かった・・と言うより念頭にも無かったのであろう・・と私は考えます。
ブログ「松野連系図と千早振る神々の時代の球磨と帆船」2019-03-17「ひろっぷ」


呉の太伯王家姫氏は忌王を初代に熊本県八代に上陸し熊本県球磨郡に移って来られます。
松野連系図では、いきなり、熊本県菊池から始まっていますが、松野氏の居所を考慮しますと、先祖は菊池から始まったと推定されたのでしょう。
中国史書に関係する倭王を松野連系図から拾うと、
光武帝建武中元二年(57)に関係する倭王は宇閇王(第一系)熊鹿文(第二系)
安帝永初元年(107) に関係する倭王は玖志加也(第一系)宇也鹿文(第二系)
熊本県球磨郡の地名と重なる倭王は、
宇閇王(うえおう)  → あさぎり町上  → 委奴國王(いとこくおう)
玖志加也(くしかや) → あさぎり町久鹿 → 倭国王帥升(めんどこくおう)

上村(うえむら)
かつて熊本県球磨郡にあった村。
2003
41日、同郡内の免田町、岡原村、須恵村、深田村と新設合併(平成の合併)し、あさぎり町となった。現在では、旧村域はあさぎり町上地区となっている。
あさぎり町沿革
1889
41日、町村制施行により、現在の町域にあたる以下の村が発足。
        球磨郡上村・皆越村・免田村・岡原村・須恵村・深田村
1895
127日、上村が皆越村を編入。
1937
41日、 免田村が町制施行、免田町となる。
2003
41日、 球磨郡上村、免田町、岡原村、須恵村、深田村の5町村が対等合併し、あさぎり町が発足。町名の由来は秋から春にかけて球磨盆地にしばしば発生する朝霧から名づけられた。

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合併前の町村名・字名
上東(上村上甲)、上北(上村上乙)、上南(上村上丙)、上西(上村上丁)、皆越(上村皆越)、岡原北(岡原村宮原)、岡原南(岡原村岡本)、須恵(須恵村)、深田北(深田村北)、深田西(深田村西)、深田東(深田村東)、深田南(深田村南)、免田東(免田町甲)、免田西(免田町乙)


松野連系図からみる中国史書に関係する倭王は
光武帝建武中元二年(57)の金印の委奴國王は宇閇王(うえおう)
安帝永初元年(107)の倭面土國王師升は玖志加也(くしかや)=玖志王

と、私は結論づけました。


2.あさぎり町免田を中心とする神社群


あさぎり町免田を中心とする一帯には、古代の重要な神社、地名があります。
人吉球磨には天子神社が12社、大王神社が5社あります。この多さは異常と言えます。
特に、あさぎり町旧上村には三社の天子神社です。あさぎり町全町では五社の天子神社です。この地域には神殿原(こうどんばる)があります。
また、錦町には天子神社が二社、大王神社が三社あり、この地域には高原(たかんばる)があります。
あさぎり町、錦町には古代の重要な何かがある? と思うのです。
 
天子神社群
 1 多良木町牛島の天子神社
 2 あさぎり町上南・麓の天子神社
 3 あさぎり町上東・石坂の天子神社
 4 あさぎり町上西・塚脇の天子神社
 5 あさぎり町久鹿の天子神社
 6 あさぎり町深田・草津山の天子神社
 7 錦町一武・本別府の天子神社
 8 錦町木上南・平良の天子神社
 9 相良村柳瀬・三石の天子神社
 10 山江村山田合戦峰の天子神社
 11 山江村城内の天子神社
 12 人吉市中神町古屋敷の天子神社
 13 錦町京峰の天下(あもい)神社

大王神社群
 1 錦町木上東・荒田大王神社
 2 錦町木上東・平河大王神社
 3 錦町・西村大王神社
 4 山江村・山田大王神社
 5 あさぎり町・深田大王神社
 6 多良木町黒肥地・王宮神社

3.あさぎり町久鹿の天子神社


あさぎり駅の北、球磨川の近くに久鹿(くしか)の天子神社が鎮座です。
「天子」と名が付くことから、皇帝、天皇を祀る神社と想定されますが、当時の球磨には皇帝、天皇はおられません。神武天皇は初代天皇ですが、天皇とは称していませんでした。「大王」が最高称号です。

久鹿の天子神社 熊本県球磨郡あさぎり町免田東838

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天子神社の由来
祭神 景行天皇(大足彦忍代別尊おおたらしひこしろわけのみこと)
例祭日 旧12月3日
鎮座地 面田町(字久鹿)838番地
沿革
創建は不詳であるが、伝説によれば第12代景行天皇が熊襲ご親征の折、輦駕(れんが)を止めた所といわれ、天皇(天子様)の御人徳をしのび、この地に神社が創建されたという。
神社西下の湧水池は「御手洗湧川ゆごう」と呼ばれ、天皇が湧き出る清水を御手水(ちょうず)として使われたといわれ、その名が残っている。


現地の神社案内板では、祭神は景行天皇となっています。
景行天皇こと大足彦は天皇ではありません。天皇に即位されていません。日本書紀によって与えられた()天皇です。まして、景行天皇による熊襲親征などありません。
由緒は日本書紀に沿って作られたものでしょう。
社号は「天子神社」です。祭神は皇帝、大王以上の位の方となります。
球磨には大王神社がありますので、祭神はそれ以上の方となります。

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祭神のヒントが球磨川対岸の深田の草津山(しょうずやま)の天子神社にありました。

深田草津山の天子神社 熊本県球磨郡あさぎり町免田西1685

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ひろっぷ「古代・中世・近世の繋がり 先祖について」
       天子神社にお伺いしました 2017-06-13
       https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12283326015.html
       天子神社の御神紋について 2017-10-28
       https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12323615604.html
       を参照ください。


 鳥居にはフリーメイソンのデバイダーと曲尺(かねじゃく)の略称紋が描かれていました。
「フリーメイソン」から連想するものは石工です。球磨には石を材料とした石倉があます。この技術も古代人からの引継ぎでしょう。古代人の石工物といえば、エジプトのピラミッドです。そこに携わったものはイスラエル・ユダヤ民族。その流れは、流れ流れて日本列島に渡来しているのです。その民族をエジプトから脱出率いた主導者は「モーセ」です。
 球磨の古代人は、遠い先祖の偉大な出来事を数千年経った後でも、石工の技術を引き継ぎ、このような神社の形でモニュメントとして残したのでしょうか。
大山祗系(トルコ系匈奴)のご一統が、この石工の技術を持っておられます。石組、石垣の技術は現代でも生かされています。古墳時代の石室は、この方達によってもたらされたと、考えています。その集団が熊本県北部、北筑後、瀬戸内海の小豆島の人達です。

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フリーメイソンのシンボルマークの一つ  深田草津山の天子神社の紋

フリーメイソン通説(Wikipedia)から要約
石工組合としての実務的メイソンリーが前身として中世に存在した、とする一説。
石工団体を元にした名残りとして、石工の道具であった直角定規とコンパスがシンボルマークとして描かれ、内部の階位制度には「徒弟、職人、親方」の呼称が残っており、集会においては、元は石工の作業着であるエプロンを着用する。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ