2019年12月18日

657 “ピラミッドの法則”により肥後の11の神社が配置されている! C 両神社祭神編

657 “ピラミッドの法則”により肥後の11の神社が配置されている! C 両神社祭神編

20180930

太宰府地名研究会 古川 清久


 あと10キロも走れば黒川温泉です。

 この黒川温泉から流れ下る田の原川の河畔に鎮座するのが、あまりにも美し過ぎる小国両神社です。

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鎌倉期、旧小国郷でも今の南小国町にある満願寺地区は北条家の所領でした。

この神社の清冽さを考える時その事にいつも考えが及ぶのですが、溶岩渓谷に流れる清冽な水と同社を重ねて考えてしまうのです。

無題.png 中近世には疎い為、このようなことを考えても所詮は徒労に帰すことは承知の上ですが、この神社のたたずまいには何がしかの影響を与えているものと考えています。

 さて、同社の本質に少しでも迫りたいと思うのですが、まず、阿蘇系神社と呼ぶべきかに多少のたじろぎを感じています。

 それは、参拝殿に掛けられた幔幕(抱き鷹羽藤竜胆?)から来るものでしょう。勿論、抱き鷹羽も阿蘇系のシンボルではあるのですが、どうしても源氏の旗印が見えてしまうのです。

しかし、境内摂社に宮原祇園社(主神スサノウ)を見出す時、この神社の基層にこの一流の祭祀を意識してしまいます。

 また、境内地の神木に八角形の石囲いがあることにも、潜在化してはいるものの大山祗、大国主祭祀さえも感じてしまうのです。それはともかく現在の祭祀を考えます。

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「熊本県神社誌」178p 仁徳期 313400年創立

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まず、「熊本県神社誌」の“健磐龍命の御子 速瓶玉命”との記述が気になります。

速瓶玉命とは草部吉見と市杵島姫の間に産れた大山咋の別名なのです(日吉神社、松尾神社、日枝神社…でもある)。

それを健磐龍命の御子と言っている意味を無理にこじつければ、健磐龍命と天豊ツ姫(草部吉見の娘阿蘇都姫)との間に産れた雨宮姫 の夫神であることから雨宮姫の娘婿の意味で健磐龍命の御子と表現する場合もあり得るとすれば、健磐龍命の御子との表現もギリギリ許容範囲となるかも知れません。

 前置きが長くなりましたが、この雨宮姫と速瓶玉命=大山咋の間に産れた高橋大神、火宮大神の二神(つまり両神社)がこの神社の祭神となるのでしょう。

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百嶋由一郎神代系譜 017阿蘇系譜@(部分)


 さらに細かい話をしますが、百嶋由一郎神代系譜 017阿蘇系譜@に従えば、「小国両神社由緒略記」の“彦御子神阿蘇大宮司家祖神”との記述も雨宮姫と天忍日・新彦=興ツ彦の間に産れた惟人(阿蘇家初代)も、雨宮姫の御子ではあるものの系統の異なる天忍日を父神とする腹違いの兄弟神となるのです。

 ここまでは、現在の小国両神社の祭神として一応の解読を行なった事になるのですが、私達の目はそ霊場の基層、古層に向かわざるを得ないのです。

 何故ならば、その解読ができなければ、炎のピラミッドには凡そ到達などできないからです。

 ここで、「熊本県神社誌」を見て頂きます。菅原神社が異常に多いと気付かれる方もおられるでしょう。

 実際、阿蘇の神々しかないと思われている肥後ですが、実は三千数百社の神社の実に三分の一の千余社菅原系神社なのです。

特に菊池郡、阿蘇郡では半数を超えており、同社に於いてもそのことが反映されていると思うのです。

このことから分かるように天満宮、菅原神社…こそこの神社の基層にある祭祀であるはずなのです。

炎のピラミッドを如何なる人々が造りだしたのかを考える時、どうしてもこのスサノウ系の祇園社の祭祀を行ってきた人々がこれに関係しているのではないかと思うのです。

では、何故、そこまで言えるのでしょうか?

ここで、前ブログでご紹介した南阿蘇村の祇園神社と小国両神社の境内地の対称性に目を向けて下さい。車でも二時間以上離れた祇園社に異常なほどの対称性を見出すとすれば、このような技術や知識を継承した人々が炎のピラミッドに関与した人々だったと考える事に誤りがあるとは思えないのです。

 この境内地の対称性は、両地に同族が居住していたからこそ成立しいるはずで、このピラミッドの技術を列島にもたらした人々もこの人々だったのではないかと考えるのです。

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本著(縮刷版)53p

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今なお、湯布院と並んで圧倒的な人気を保持する黒川温泉に行かれた方でも、この小国両神社に足を延ばして頂きたいと思うものです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


百嶋由一郎氏が残された神代系譜、音声CD、手書きスキャニングDVDを必要な方は09062983254まで

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2019年12月15日

656 “ピラミッドの法則”により肥後の11の神社が配置されている! C 両神社数理編

656 “ピラミッドの法則”により肥後の11の神社が配置されている! C 両神社数理編

20180930

太宰府地名研究会 古川 清久


 今や全国区になって久しい黒川温泉は田の原川の河畔にできた温泉地ですが、この川の下流にあるのが小国町でその中心部に素晴らしいばかりの両神社があります。

 両神社とは奇妙な名ですが、同社の由緒にはこのように書かれています。

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小国両神社 カーナビ検索 熊本県阿蘇郡小国町宮原1670


ただ、この話は俗説に近く、高橋宮と火宮の二祭神が祀られる神社であるから両神社と呼ばれているのでしょう。

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本著図26-2 133p


 この阿蘇外輪山の北側のカルデラの外丘陵に鎮座する小国両神社と南阿蘇の祇園社(八坂神社)の境内地の相似性についてはそれだけで驚愕に値します。

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同じ様に川の傍に有る神社とは言いながら、車で二時間以上離れた見通す事も出来ない二つの神社が何故このような対称性、相似性を見せているかはそれだけで驚愕を感じてしまいます。

ここでは郡浦神社についてはふれませんが、この二社の関係については、最近、糸口を見出しました。

これについては、祭神編で取り上げます。

 ここでは、青枠の記述についても何故そのような数理性が生じているかを考えて頂きたいと思います。

 単に、夏至の日の出のライン上に神社の正中線が一致していると言った程度の話ではない事だけは無いのです。

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2019年12月12日

655 “ピラミッドの法則”により肥後の11の神社が配置されている! B 吉松宮 数理編祭神編

655 “ピラミッドの法則”により肥後の11の神社が配置されている! B 吉松宮 数理編祭神編

20180930

太宰府地名研究会 古川 清久


 これも何の変哲もない小さな神社ですが、本著『古代「火の国」の象徴「炎のピラミッド」の発見』104p〜に阿蘇神社の「卯の祭り」と「火振り神事」と「吉松宮三角形」として取り上げられている神社です。

 場所は赤水温泉の近く霜宮よりさらに西の一角にある神社で、何故この神社が重要であるかは未だに理解できずにいます。

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無題.png写真と図表が90度ずれていますが、直ぐ傍には豊肥線が横切っています。

 「神社誌」には延文五年(1360)に創立と書かれていますが、田尻宮司によれば、これらの神社の配置は6世紀頃(1500年前)には成立していると言われており、この点も、再度、確認したいと思っています。

 問題は、図17の吉松三角形の方で、これが、何故、重要なのかは未だに消化できていません。阿蘇中央の高岳を中心とする不等辺三角錐を造り火の山を抑え込むと言う思想性があるのかも知れませんがこれも課題です。  本著 図18 116p →

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17吉松宮三角形 本著110p


 小国両神社の位置が決まれば、俵山山頂によって俵山線が決まり、吉松宮が決められたのか?それとも高岳山頂を中心とするピラミッドが形成され吉松宮の位置決めが行われ俵山線が決定され両神社の位置決めが行われたのかのどちらかなのですが、これも田尻宮司にお尋ねしたいと考えています。

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火振(ひふ)り神事(しんじ)

更新日: 2010-11-02 () 19:47:17 (2888d)

 毎年3月20日前後、阿蘇神社三の宮・年称神(としねのかみ)は、お嫁(よめ)さんを迎えるのです。

 春祭りの申(さる)の日には、御前(ごぜ)(むか)えといって、お嫁さんを赤水の吉松宮(よしまつぐう)の南にある宮山(みややま)(乙姫山・鏡山・鷹山(たかやま)等ともいう)からお連れすることになっています。

 その日の朝、阿蘇神社から神主(かんぬし)さんと若者たち5・6人で迎えに行くのですが、目かくしをした神主さんが林の中の樫(かし)の木を手で探しあてます。最初、手にふれた枝がお嫁さんとされていました。真綿(まわた)で包まれた花嫁のご神体は、神主や若者達に守られて、浜神社(はまじんじゃ)〜横道(よこみち)〜渋川(しぶかわ)〜蔵原(くらばる)〜竹原(たかわら)を経()て宮地(みやじ)に向かいます。途中、それぞれの場所で決められた儀式(ぎしき)がありますが、西町(にしまち)の薬師堂(やくしどう)では花嫁であるご神体(しんたい)に樫の葉をかざり、ひえの御飯を供(そな)えます。宮地に入ると、塩井川(しおいがわ)で身を清め、白粉原(けしょうばる)では米の粉の白粉(おしろい)でおしゃれをします。

 辺(あた)りがうす暗くなった宮地の町中では、人々が思い思いに手にしたカヤを束(たば)ねた松明(たいまつ)に火をつけて、無題.png一行の到着を今か今かと待ち受けています。松明が打ち振られ、阿蘇神社の楼門(ろうもん)が闇(やみ)の中におごそかに浮かび上がると、やがて花嫁行列がしずしずと松明の光の輪の間を抜けて行きます。

 阿蘇神社での婚姻(こんいん)の式が終わると、御輿(おみこし)に乗り町中を抜けて川辺にある川辺土井(こうべんどい)へ向かい、左手で二矢放ちます(ひだり弓といいます)。

 三の宮の前を通る時、行列の一行は一言も言葉を交わしてはならず、物音(ものおと)も立てず静かに静かに通り過ぎて行きます。

 阿蘇神社・三の宮・年祢神と花嫁御前(はなよめごぜん)は、こうして結ばれる運びとなるのです。年称神は、彦八井命(ひこやいのみこと)・草部吉見神(くさかべよしみのかみ)・国龍神(くにたつのかみ)ともいい、農家にとって一番大切なお米の神様とされています。吉松宮には年称神、比東芬q神(ひめみこのかみ)が祭られています。


無題.pngによる


「熊本県神社誌」には国龍命外一柱としか書かれていないため地元のサイトを使わせて頂きましたが、草部吉見さんは市杵島姫や伊勢の外宮様を始めとして多くのお妃をお持ちでしたので判別が非常に難しいのですが、ここにいう阿蘇神社の三宮のお妃=四宮が誰かはこの際確定しておく必要があるでしょう。

まず、阿蘇家は神武天皇の孫と称し、健磐龍命(一宮)その妃神で阿蘇都比当ス(二宮)を始めとして以下の12柱の神を祀り「阿蘇十二明神」と称しています。通常言われる阿蘇12神です。


草部吉見神社ではなく阿蘇神社の12


無題.png一の神殿(左手)

一宮 -- 健磐龍命

三宮 -- 國龍神(二宮の父)

五宮 -- 彦御子神(一宮の孫)

七宮 -- 新彦神(三宮の子)

九宮 -- 若彦神(七宮の子)

二の神殿(右手)

二宮 -- 阿蘇都比当ス(一宮の妃)

四宮 -- 比東芬q神(三宮の妃)

六宮 -- 若比盗_(五宮の妃)

八宮 -- 新比盗_(三宮の子)

十宮 -- 彌比盗_(七宮の妃)

奥神殿(正面)

十一宮 -- 國造速瓶玉神(一宮の子)

十二宮 -- 金凝神(一宮の叔父)


 この阿蘇神社の三宮、四宮が祀られているのが吉松宮であるとして、では、四宮とは誰なのかを考えて見たいと思います。

 どなたも草部吉見神とそのお妃比東芬q神を祀る神社とまでは言われるのですが、百嶋由一郎氏の説から少し掘り下げると、見えてくるものがあるのです。

 まず、阿蘇家のための血筋であるからこそ阿蘇神社も火振り神事として受け入れているのであって、阿蘇家の血統に繋がるものであろうことは疑い得ません。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


 まず、阿蘇家が天皇家に繋がる一族とか健磐龍命が国龍命=草部吉見神の子であるとか、さらには神武天皇の子であるといった話まで拡大している事には多少の誇張と拡大解釈が横行しているのですが、百嶋由一郎氏が作成した最終神代系譜を読み解けばある程度の説明が着けられます。

 草部吉見(母神クラオカミ)と健磐龍(母神アイラツヒメ)とは同じ神沼河耳=クラオカミ=蘇民将来巨旦将来の巨旦(藤原が贈る綏靖天皇扱いにした)=金凝彦(真ん中の神殿の二座の一柱)の腹違いの兄弟であって親子ではありません。

 ただ、本物の(神武僭称贈る崇神ではないという意味で)神武天皇のお妃であったアイラツヒメが阿蘇家に払い下げられたことから健磐龍は形式的には神武天皇のお妃の子とも言えることから誇張が可能となっているのです。

 当然にも腹違いの弟である健磐龍が草部吉見の娘である天豊ツ姫=アソツヒメを妃としている事から兄弟とも親子とも言える関係にあるのです。

 古代の姻戚関係は複雑かつ移り変わりが激しい為分かり難いのですが、これを理解して頂ければ、ある程度舞台裏が見えてくるのです。

 そこで吉松宮の祭神に話を戻しますが、草部吉見神の数多いお妃の中で同社の祭神=阿蘇神社の四宮 -- 比東芬q神(三宮の妃)に相応しいのは高木大神=高皇産霊尊、高御産巣日神の次女である栲幡千千姫(タクハタチヂヒメ)命しかないでしょう。

 そうしなければ、現在の阿蘇家の正統性が確保できないからなのです。

 何故ならば、栲幡千千姫の娘である天豊ツ姫=アソツヒメと健磐龍の子である雨宮姫から阿蘇家初代惟人が産まれているからであり、草部吉見神と栲幡千千姫の間に産れた天忍日(興ツ彦)と雨宮姫との子でもあるからです。

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百嶋由一郎神代系譜 017阿蘇系譜@(部分)


そもそも草部吉見の「草部」とは「伽耶部」(カヤがベ)の意味であり(伽耶を草と表記)、高木大神の本拠地である半島の「伽耶」、先住者であった高木大神の一族の入婿の意味で、栲幡千千姫をお妃としているのです。だからこそ島原半島に近い側の阿蘇河口の西部に居を構え、そこから輿入れする儀式が行われていると考えるべきなのです。恐らく、それを「日下部」と読み替えさせたのは白村江の敗戦以降のトリックであり、倭国→日本国への転換(近畿大和を中心とする裏切り)へのコンプレックスだったのです。

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百嶋由一郎神代系譜 サニワ系譜(部分)黄枠の部分がより正確です


 ここで同社に発見した細やかな傍証を紹介しておきましょう。

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無題.pngピラミッドの底辺、底線は熊本市内の健軍神社に延びていますが、その正面から延びる参道は雲仙普賢岳を意識して造られているのです。

 雲仙岳直下の島原市にある四面神社こそこの高木大神を祀る神社なのです。

健軍神社(熊本市)の正面の雲仙は、南高来郡であり、南北高来郡〜阿蘇〜三田井(高千穂)は、元々、高木大神の支配領域であり、実質的には阿蘇家はその形を変えた継承者であって、実質的には、後の藤原氏となる草部吉見系阿蘇氏と健磐龍(実体は高木大神系)の強固なスクラムによって古代の大和朝廷が形成されていくことになったのです。


熊本市東区健軍本町にある健軍(けんぐん)神社には、神社から266.5度方向、43kmにある雲仙普賢岳(今は平成新山に隠れている)に向かって一直線に伸びている長さ1.2kmの参道があります。その風景は43kmの見えない参道が普賢岳まで続いているようでもあります。

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百嶋由一郎氏が残された神代系譜、音声CD、手書きスキャニングDVDを必要な方は09062983254まで

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