2023年02月24日

949 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)❺ 上田市 生島足島神社 (上)

949 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)❺ 上田市 生島足島神社 (上)

  20220905

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


元々、上田市ではこの神社を見るつもりでいました。ところが真田氏の本拠地の神社が山家(ヤマガ)神社である事、前ブログで取り上げた前山鹽野神社が勅使殿を持ち呉橋を持つとんでもない重要な神社である事を知り、この生島足島神社の影が薄くなるほどでした。

ともあれ、上田市で最初に参拝したのは生島足島神社だったのです。

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ここにも安芸の宮島の厳島神社と同型の鳥居が置かれています

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まず、足島大神では誰が祀られているかも分からないと思います。正直、そのようにされているのでしょう。そもそもこの足島大神と重なるかどうかも知られていないのですが、同社のご由緒に書かれる二柱の大神とは一体どなたなのでしょう。

これらが分からなければ、皆さんはお賽銭をあげて帰ってきただけのことになるのです。

御朱印帳を持って参拝されるのは結構ですが、できれば祭神にも目を向けて背後に存在する歴史も考えて頂きたいものです。

この難問に関しても、我々、百嶋神社考古学の者には多少の見当が着くのです。といっても百嶋由一郎最終神代系譜があるからですが、少なくとも失意の建御名方が来た時(由緒では諏訪に下降する途すがらこの地にお留まりになり、二柱の神に奉仕し米粥を献ぜられてたと伝えられ、その故事は今も御籠祭という神事として伝えられています)には二柱の神が祀られていたという事になるのです。

と、言っても、この生島足島神社の主神考えるとき、この二柱を纏めて足島大神と考えるのにはかなり

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百嶋由一郎(手書き資料)スキャニング・データ・ファイル4/4から


の疑問を抱いてしまいます。多分具体性のある真実の伝承と強権により軌道修正された見解の混合です。

 勿論、百嶋由一郎に従えば、二神は、海幸彦(草部吉見=ヒコヤイミミ)と沖ツヨソ足姫(ナガスネヒコの妹)となるでしょう。

 しかし私には、二神とはナガスネヒコ(彼は殺されていない可能性もあるので)と沖ツヨソ足姫の兄+妹で、足島大神が金山彦にも思えてしまうのです。


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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


 まず、百嶋先生の説をそのまま理解すれば、イザナギとイザナミの子であり新羅の王子様であったスサノウがアシナヅチ、テナヅチに囲まれ悲しんでいた櫛稲田姫を救い妃とします(神話ではそうなっていますね…勿論、我々はその現場は熊本県の山鹿市の大宮神社周辺の話と考えていますが、詳しくは以下を)、そのスサノウと櫛稲田姫の間に生まれたナガスネヒコの妹の息ツヨソ足姫なのです。


 ひぼろぎ逍遥(跡宮)

485

ヤマタノオロチ退治異伝(「高良玉垂宮神秘書」)“宮原誠一研究のご紹介”

284

大宮神社と猿田彦大神 C 転載 “櫛稲田姫(クシナダヒメ)は

熊本県山鹿市で産まれた! ”

283

大宮神社と猿田彦大神 B “大宮神社の地主神が大宮神社の主祭神か?” 

282

大宮神社と猿田彦大神 A “大宮神社の猿田彦大神石塔と摂社群” 

281

大宮神社と猿田彦大神 @ “山鹿市の大宮神社とは何か?


 その後、ナガスネヒコは本物の神武天皇(神武僭称贈る崇神ではないという意味で)と衝突し(恐らくその原因はスサノウの姉の処遇を巡りスサノウ系と阿蘇系が衝突した可能性があると考えていますが…)、その結果敗残した金山彦系+カミムスビ系の勢力が弱くなり、始めはカミムスビの子のである豊玉彦=ヤタガラスの妃となっていた息ツヨソタラシ姫は阿蘇の草部吉見ことヒコヤイミミ=鹿島大神の妃となるのです。それが、生島足島神社の事実上の主神である二柱なのです。

にもかかわらず、主祭神が生島大神ではなく足島大神と書かれている事から考えれば、この神社の底流には、ナガスネヒコの乱で敗残した金山彦系(「古事記」では石析神=アシナヅチ・根析神=テナヅチ、「日本書紀」では磐裂神・根裂神の神と呼ばれる櫛稲田姫の父母神そして東日本ではカガセオと呼ばれるナガスネヒコ…)の系統流れているように見えるのです。

そうでなければ、主神が生島大神であっても良いはずなのです。

にもかかわらず、足島大神を主神としているとすれば、アシ(足)ナヅチの足島大神=金山彦こそを祀る神社、敗残するも栄光ある高貴な神社が生島足島神社に思えるのです。

しかし、初見の神社を云々する資格などないのであって、先ずは考えを進める事にしましょう。

 神橋と呼ばれる呉橋(宇佐神宮、薦神社…様)の参拝殿奥の上宮本殿の千木は男神を示しています。

 もしこれが武甕槌(ヒコヤイミミ)を表す物とすれば草部吉見も偉くなったものだと思ってしまうのですが、多分違うでしょう。恐らくここには天皇と勅使以外は亘ることが出来ない場所だったのです。

 そうすると、前ブログで取り上げた境外摂社の諏訪神社や同じく神橋=呉橋と勅使殿を持つ前山鹽田神社との関係が気になってくるのです。そして鹿教湯温泉の呉橋も不思議ですね。

無題.png前ブログ掲載の前山鹽田神社の神橋


 この呉橋、勅使門、勅使殿問題は、以下と併せご検討ください。


これについて詳しくは「ひぼろぎ逍遥(跡宮)480482」をお読みください。

482

突然涼しくなったので丹波丹後の神社調査に… M 

朝来市の足鹿神社再訪

481

突然涼しくなったので丹波丹後の神社調査に… L 

朝来市の赤淵神社の驚愕 下

480

突然涼しくなったので丹波丹後の神社調査に… K 

朝来市の赤淵神社の驚愕 上

ただ、何故、但馬〜播磨 国界に近い朝来市と上田市に勅使門、勅使殿が置かれているかは益々分からなくなりました。

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神橋とされていますが、宇佐神宮並みの高級な呉橋ですね


ヨソ足姫のオキは「瀛」の文字を使うのですが…彼女とヤタガラスの関係が分かる系譜をご覧下さい

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百嶋由一郎 細密系譜原本(部分)


なお、境内社の秋葉社=軻遇突智神とは金山彦の事であり、秦の始皇帝とも同族として姻戚関係を結んだ(イスラエル系)神であり、このため一つ前の神代系譜の真ん中に位置する瀛氏(始皇帝の姓は)嬴政(エイセイ=インチョン)でしたね。

このため宗像三女神の市杵島姫も本来は瀛ツ島姫と表記するのです。

従って、この生島足島神社にも関係する奥ツ彦、奥ツ姫の「奥」も実は「瀛」の置き換えなのです。

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において、摂社(下社・下宮)には諏訪大神が祀られる信濃屈指の古社です。と書かれている意味も、八坂刀女と名を変えた阿蘇系の奈留多姫と手に手を取って事実上の幽閉地の諏訪へと道行された途上通過された古い諏訪社に示されるように既にその時には存在した古社であると主張されているのです。

 一般的に諏訪の建御名方は出雲から追放されたとお考えだと思います。ただ、実際には二重三重の誤りに近く、大国主の国譲りの現場は島根県の出雲などではなく、彦山の南北の朝倉郡と筑豊の田川郡を奪われており(奪ったのは高皇産霊神、草部吉見=ヒコヤイミミ=マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミ)、沃土を失い追放された先が出雲の国だったのです。

 このことが分からないと頓珍漢な話になる訳で、まずは、ひぼろぎ逍遥(跡宮)からお読み下さい。


914

出雲の国譲りは筑前の旧朝倉郡から筑豊〜豊前に

掛けての旧田川郡、行橋市一帯で起こった

 建御名方の一族(物部氏)の大半は故地の鹿児島県に逃げ南方神社(同県には100社近くあるはずです)を奉斎していますが、その一部は博多港、遠賀川河口から船で直江津に入り諏訪にはいっているはずです。小浜辺りから琵琶湖を経由し岐阜から塩尻経由もありえますが、同社の伝承は日本海ルートを今に伝えている事になるのです。

この建御名方の移動の時期についてですが、それについては、ひぼろぎ逍遥(跡宮)923928931934936 辺りが参考になるかと思います。恐らく2世紀半ばの頃だと考えています。


936

ヤマトタケルの熊襲退治時代の勉強会を熊本県西原村でも行います ⓫

935

櫻に埋もれる佐賀県有田町の山田神社について

934

ヤマトタケルの熊襲退治時代の佐賀県東部とはどのような土地だったのか?下 ❿

933

ヤマトタケルの熊襲退治時代の佐賀県東部とはどのような土地だったのか?上 ❾

932

早良の諏訪神社を「福岡県神社誌」から見ると ❽

931

河上猛がヤマトタケルに許された旧脊振村広滝とは ❼ 

930

続)愛媛県の神社調査を本格化させたい(下調べ) A

929

愛媛県の神社調査を本格化させたい(下調べ) @

928

続)大神一族とは河上 猛の後裔だったのではないか? ❻ 

927

大神一族とは河上 猛の後裔だったのではないか? ❺ 

926

「早良区に移動したその後の 河上 猛」小規模講演会向けに用意したレジュメ ❹ 

925

福岡市早良区の諏訪神社の由緒略記を寄贈された方々のご出身地を知りたい ❸ 

924

福岡市早良区に移住した河上 猛(熊襲 猛)の一族が住み着いた現地を確認した ❷

923

ヤマトオグナに誅伐された栄えある河上 猛は許され

今もその一族は福岡市早良区に住んでいる ❶


 荒唐無稽な話にお付き合い頂きどうもありがとうございました。

 ただ、書き漏らしている点が残っていますので、続編を書きたいのですが、その前に、この生島足島神社について、元百嶋神社考古学グループに一旦は参加され後に自ら離脱された「常陸の国ふしぎ探検隊…」というブログの初期のものに書かれた生島足島神社リポートをお読み頂きたいので、勝手ながら全面転載致します。

 なお、内容については異論を持って反論を提起するものではありませんが、この神社を解読するためには多くの知恵を投入する必要があるため敢えて離脱されたブログを取り上げるものです。

 彼、彼ら(二つのブログのグループですので)が離脱された理由はお聴きしましたが、元々、百嶋神社考古学研究会には多くの研究者が参集され違った立場、異なった角度から多くの研究が行われネット上にも発表が行われています。これ等の一部に百嶋由一郎が主張している内容とは異なるものがあったとしても、修正しろとか閉鎖せよ…と言った封殺を行うつもりはありません。

 それは、九州王朝論者の民間研究組織でも同様で、「古田先生が間違っているとでも言うのか!」などと教条的な封殺への動きが出ると、多くのメンバーが委縮し、将来の研究者が育たなくなるからです。

 このため、仮に百嶋見解と全く異なるものであったとしても、言論上、研究上は排除するべきではないと理解しているからです。私たちは創価学会でも統一教会でもイエズス会でもないのです。彼らは出版の自らの著書の出版上の立場からそうされたとは思いますが、当会にはここ五年ほどの間に多くの優秀な研究者、神社探訪者、古文書の記録者、講演者、ブロガー…、しかも、たくさんの若手のメンバーが加わってきており、通説派の学者や教育委員会関係者や学芸員といった自己保身に走る連中や、村興し町興し果ては邪馬台国シンポジウム(全国には百ケ所もの邪馬台国候補地があります…)や、大嘘に近い世界遺産登録…と言った利権に群がるさもしい集団には成りたくはありませんので、何の富も得ることなく最後まで研究を続けられた百嶋由一郎氏や佃収先生(こちらはまだまだ研究を継続されていますが)や米田良蔵氏の精神を引継ぎ古代の真実に迫りたいと考えています。

 実際、頼もしい優秀な若手メンバーが急増しています。むしろ多すぎて対応に苦慮している程です。

 他人が調べた話を聴かずに聞いて翌月には何の話だったかも覚えていない方をいくら集めても全く意味がなく、後継者もなくいずれは消え失せてしまうだけのことになるのです。


百嶋由一郎が残した神代系譜、講演録音声CD、手描きデータスキャニングDVDについては09062983254まで

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2023年02月21日

948 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)❹ 上田市 前山鹽田神社

948 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)❹ 上田市 前山鹽田神社

  20220902

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 方々の神社を見て回り、夕暮れが近づく頃に向かったのが前山鹽田神社でした。

 「鹽」の文字が入っているだけで、鹽土翁=神皇産霊神(博多の櫛田神社の主神=大幡主)若しくは、最低でもその近縁の神が祀られているとの思いが走りました。

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前山鹽野神社 カーナビ検索長野県上田市前山1681


 既に日が陰り、暗くなっていた事から、当方の写真はかなり手振れが酷く使えませんでした。

 このため、市のホーム・ページから素晴らしい写真がありましたので、勝手ながら使わせていただきました。

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前山鹽野地区は雨が少ない地区との事で、古代には米が得られない豊かとは言えない土地に何故か県社が

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画像は敬愛する「玄松子」様

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拝殿は写真のように、間口、奥行共に同じ長さで、楼門造りといって二階建てになっています。屋根は切妻〔きりづま〕で銅板葺です。軒の組物などに朱色の色付けがされています。なお二階建ての拝殿は県内では珍らしく、建築の形式上貴重な建物です。また拝殿の正面に「勅使殿〔ちょくしでん〕」の額が掲げてあります。これは本来の御門屋〔みかどや〕のことを御帝屋〔みかどや〕と呼びますので、後に勅使殿と書いたものでしょう。                       「上田市の文化財」より

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敬愛する「玄松子」様の記事より


 全ては見る訳にはいかないため、インターネットで上田市の神社を全て拾い出し、始めは呉橋(屋根付きの渡河橋)があったからこれは見なければいけないと思い選んだだけだったのですが、どうやらどえらい神社を発見したと今は思っています。

 それは、まず、呉橋の存在に理解を持たないと先に進めないのです。

 宇佐神宮とその西10キロほどの所にある薦神社(宇佐神宮でも勅使道と説明はしていますが宇佐から何故西に向かう勅使道があるかを説明できないのです)にも呉橋がありその先の豊前市の大富神社には勅使井戸が置かれており平安以降勅使道は使われていないと書かれているのです。

 これは、近畿大和朝廷の古代官道ではないからで、その以前、宇佐に呉の太伯の後裔(周王朝の流れを汲む正当皇統)の神々が祀られる神社だったから呉橋が置かれていたのです。

 間違っても応神などが渡ることなど許されない橋だったのです。

 実は、これと同じ現象に遭遇したことがありました。それは7年ほど前、兵庫県但馬地方でも天空の城で知られる朝来市の神社調査を行っていた時の事でした。

ここで粟鹿神社、赤淵神社という二つの神社に遭遇したのです。

ここにもどう考えても近畿大和朝廷のものとは考える事の出来ない勅使門が残されていたのです。

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粟鹿神社 兵庫県朝来市山東町粟鹿2152  0796-76-2465  創建507or和銅元年以前

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赤淵神社 兵庫県朝来市和田山町枚田2014 0796-72-3610  常色年間or大化元年645


 勅使門には天武天皇白鳳元年(673)建立と書かれる(白鳳)(常色)も九州年号ですね。

これについて詳しくは「ひぼろぎ逍遥(跡宮)480482」をお読みください。

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突然涼しくなったので丹波丹後の神社調査に… M 

朝来市の足鹿神社再訪

481

突然涼しくなったので丹波丹後の神社調査に… L 

朝来市の赤淵神社の驚愕 下

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突然涼しくなったので丹波丹後の神社調査に… K 

朝来市の赤淵神社の驚愕 上

ただ、何故、但馬〜播磨 国界に近い朝来市と上田市に勅使門、勅使殿が置かれているかは益々分からなくなりました。

今のところ、近畿大和朝廷に先行する九州の政権(筑豊の物部氏)が瀬戸内海ではなく対馬海流に乗り日本海側に北上し、但馬、丹後、上越、越中、越後に避退した人々がいたのではないか。

そして、白江戦で敗北する前の九州の政権の残滓がこの勅使門、勅使殿なのではないかと考えているのです。

勿論、応神天皇、和気清麻呂以降の宇佐神宮にも呉橋があり、現在でも天皇と天皇の勅使以外は呉橋を渡ることは許されないのですが、それは、宇佐に応神が祀られ九州の宗廟が宇佐に移行する8世紀半ばまでは、そこには呉の太伯の血を継承する姫(紀)氏の一族が支配する王統の権威が存在してからなのです。

 それが、出雲、播磨、甲信越だったのか?は今後とも継続する課題です。

 また、追放された筑豊の物部氏、建御名方の一族、近畿大和に歯向かった安曇族らが逃亡の末落ち着いた場所の一つが安曇野であり、和田峠の向こう側、つまり北関東だったのではないかと考えるのです。

 どちらにせよ、日本海から逃げ込む安住の地=山上楽園とは、諏訪であり松本であり、甲斐であり、信州、甲斐の最深部であり、武蔵野であり、北関東、東関東、一帯だったはずで、物部は武士として藤原氏を叩き潰す事になりそれは明治維新まで続くのです。

 上越市(直江津)、柏崎刈羽辺りから入った物部が関東武士団に成長したのです。武田も真田も…。

 では、最後に祭神を確認しておきましょう。


本殿前には二階建楼閣造の拝殿(勅使殿)がある。境内案内図や式内社調査報告では、境内左手流造の社殿が勅使殿となっている。とはこれも「玄松子」様。


御祭神

素盞嗚尊 大己貴尊 少彦名尊


創祀年代は不詳。式内社・鹽野神社の論社の一つだが根拠は薄いらしい。社伝によると、白鳳元年四月出雲大社より、塩野入の鷲岩に勧請されていたが、後に現在地・塩野へ遷座。塩野大明神と称されて、西塩田の産土神であった。永禄十一年(1568)四月、武田信玄が社領十貫文を寄進。天正十五年(1587)真田昌幸がさらに七貫文を寄進。この頃から、単に大宮とも称するようになったという。

明治六年四月村社に列し、その後、郷社、県社へと昇格した。


再び敬愛する「玄松子」様の記事より

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なお、上田市内には同名の塩野神社(保野字塩野429)があり、延喜式内社は自分の方だとの争いがあったとも言います。してみれば相当の権威ある神社だったとまでは言えそうです。

 辺りも暗くなり、カメラの手振れで酷い目になりますが、長旅の疲れも手伝って憧れの別所温泉を浴びようと共同浴場に向かいました。

百嶋由一郎が残した神代系譜、講演録音声CD、手描きデータスキャニングDVDについては09062983254まで

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2023年02月18日

947 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)❸ 上田市 山鹿神社

947 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)❸ 上田市 山鹿神社

  20220820

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


次の訪問地は上田市です。信州上田と言えば真田幸村しか頭に浮かばないのが私であってそんな人間が上田の神社について語るなど僭越至極ですが、知識も持たぬ遠来の異邦人のリポートとなります。

ただ、城を見たいのではなく、真田が如何なる人々なのかを知りたいのです。当然にも神社を見ます。

まずは、真田の中心地を訪ねましたが、それは比較的傾斜のある山手の丘陵の中心部にありました。

それはともかく、真田と言えば猿飛佐助や霧隠才蔵に象徴される真田十勇士や六文銭or六連銭(リクレンセン)の紋章ぐらいしか知らないのですから先ずは恐る恐ると言ったところになります。

ただ、六文銭からは素性は見えてきません。仏教の六道の六文銭とはわかりますが、ルーツは探れません。

実は、真田家は、六文銭だけではなく「結び雁金」(ムスビカリガネ)や「州浜」(スハマ)を使っていたと分かり少し見えてきました。これは現地でも気付きましたが、ここら辺りになるとネットだけでは分からないのであり、どうしても現地踏査が必要になるのです。

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まず、上田市には真田神社(長野県上田市二の丸1-1-12)があり、歴代城主が祀られています。

 対して、この真田氏の本城がある丘陵の中心部にある神社の名称が山家(ヤマガ)神社なのです。

 我々九州に住む者にとって山鹿と言えば熊本県山鹿市の山鹿なのですが、後でこれは間違いであって、福岡県の山家(筑前山家)以外にはないと思うに至りました。この事実は衝撃的でした。

 勿論、北九州市若松区には山鹿という同名の地名があり、外にも二つの対応する地名(花房、台)もあることから、これは熊本→北九州と移動しているのではないかと考えていました。ただ、これは「山家」です。

 現在、上田市全域の神社の祭神を検討していますが、関係があるのかないのかは分からないでいます。

 それは、真田氏自体がどのようなルーツを持つかが分からないからで、清和源氏、木曽義仲、海野氏、滋野氏…との説も読ませていただきましたが、古代から戦国期の真田の間には1000年もあり、殆どたどり着けないと思うばかりです。ただ、彼らのご先祖様は九州から日本海沿いに新潟まで入り直江津から信濃に入っているはずなのです。

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ここまで見てくるとようやく真田氏もしくは真田氏が居城を置いた上田に住み続けたであろう人々の起源が見えてきました。まずは同社の祭神を見ましょう。白山大権現を祀ることは言うまでもありません。


祭神:大国主神 伊邪那美神(イザナミ) 菊理媛神(ククリヒメ)

        相殿:日本武尊 神八井耳神      境内:真田神社(真田塁代)


この神々からは祭神がかなりばらついており、真田氏が一体如何なる神を奉斎していたかが分かりにくいのですが、まず、祭神の菊理媛神(ククリヒメ)とは天御中主命の別名であり、白山大権現が脱漏している訳ではないのです。

 菊理媛とは本来は潜るの意味であり(大阪府富田林市の美具久留御魂神社)、さらに言えば白山姫とも同体なのです。逆に言えば、祭神を菊理媛神と書いている事は山家神社御由緒に書いている白山大権現とが同一神である事を示してもいるのです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


 一般的にある氏族が自らの神社に守護神として神を祀る場合、それは祖先神である場合が多く、その意味で真田のルーツを考えているのですが、一つの提案として下記の六文銭以前の真田の紋章が洲濱(スハマ)であったことから、その紋章が黄枠の一つ安曇磯良の後裔だとしたら、多少の整合性が得られるのです。この場合、5代遡れば白山姫(権現は神仏混交の表現)に辿り着くのです。

 もう一つは、相殿の孤立した神八井耳神の存在からのアプローチです。この神は阿蘇氏の一流で、最終的に権力を握った藤原氏のルーツであり、真田も古くは藤原氏の一派としている事から受け入れただけのものかも知れません。

 ただ、この神社の社名となっている「山家」が鴨玉依姫と大山咋の大恋愛事件(朱塗りの矢事件で知られる)現場=筑前山家である事を考えれば、左の黄枠の後裔氏族であるかも知れません。

 何れにせよ、九州の物部地帯から離脱し遠賀川河口から北上し直江津辺りから信濃の最奥部に移動したか、大国主命を祀筆頭神として祀っている事から、その起源を福岡県筑前町の大己貴神社(於保奈牟智神社)に求めることから(オオナムチは出雲の人ではなく、九州の筑後川北岸を奪われたために出雲にひっこししたのです)、同じ筑前町の山家とも対応するのです。

物部氏が武士(モノノフ)になったと考えられるのです。

 この問題については、以前のブログをお読みになっていないと理解できないと思いますので、以下のブログなどから読まれ、パワー・ポイントを手に入れることもできますのでお考えいただきたいとおもいます。

そもそも大国主の国譲りの話、総じて出雲神話は「古事記」だけに存在し、「風土記」などにも記述がありません。

ひぼろぎ逍遥(跡宮)

ビアヘロ023 筑前町に「日隅宮」を発見した! 

ひぼろぎ逍遥

スポット 041 6.26 甘木朝倉「田神社探訪トレッキング」での驚愕すべき発見! @

スポット 042 6.26 甘木朝倉「田神社探訪トレッキング」での驚愕の発見! A

スポット 042 6.26 甘木朝倉「田神社探訪トレッキング」での驚愕すべき発見! A

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最後に比較的珍しい山家と四阿屋(東)という地名についてお知らせしておきましょう。


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この二つの地名は県境を挟み比較的近い同一文化圏と思われ、無視はできないと思っています。


百嶋由一郎が残した神代系譜、講演録音声CD、手描きデータスキャニングDVDについては09062983254まで

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