太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2017年03月15日

306 塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! A 上天草市阿村の塩釜神社

306 塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! A 上天草市阿村の塩釜神社

20160919

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 台風が接近する17日、天ケ瀬温泉五馬高原研修所を出発し天草に向かいました。

 途中、熊本の益城町を通過するルートを選びましたが、まだ、倒壊した家屋が再建どころか撤去もできないで放置された状態になっています。

被災者の無念を考えると我慢がなりません。

 益城町で頻繁に訪れている神社に津守神社があります。

 社名のとおり、想定古代熊本湾の汀線といった場所に鎮座しているのが同社ですが、畿内の津守と併せ、まだ、正体が掴めずにいますのでここでは触れません。

 この神社を見たかったのは何故かこの神社だけはほとんど被害らしきものが無かったという話を聴いていたからでしたが、一部の石塔に被害が出てはいるものの、通常の修復で対応できるレベルのもので、周りの惨状を考えれば奇跡的に災害を免れたといったところなのです。

 以前から存じ上げている宮司がおられたことから半時間も話をしましたが、この地は岩盤がしっかりしておりその岩を削って社務所も造っているとの事、してみると、沖積地が揺れていて岩盤そのものは揺れてないといった事にもなるのですが、真偽のほどはともかくも、熊本人工地震の裏面の一部を見た思いがした瞬間でした。

 その日は宇城市の不知火海側で車中泊し、朝から天草の松島、上島、下島の三社+津奈木町、水俣市の二社の猿田彦を祀る塩○地名、社名を持つ五社の実見に入りました。


@  阿村神社摂社    塩釜神社    上天草市(旧松島町)阿村4208  祭神 猿田彦

A  志柿八幡宮摂社   中之塩屋大神宮 天草市(旧本渡市)志柿326    祭神 天照大神 猿田彦

B  御領神社摂社    塩谷神社    天草市(旧五和町)御領5587   祭神 猿田彦

C  津奈木阿蘇神社摂社 塩釜神社    熊本県津奈木町岩城2032     祭神 猿田彦

D  浜八幡宮摂社    塩浜神社    水俣市八幡町2630(当時)    祭神 猿田彦命


「熊本県神社誌」による


最初に向かったのは阿村神社でした。その境外摂社に塩釜神社が在るのです。

この阿村はかつて天草観光の中心地であった大矢野島から上天草島の松島の中心部から東の不知火海側の龍ヶ岳町、倉岳町、姫戸町に入る手前の大戸ノ瀬戸に面した静かな集落です。

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 この阿村神社の摂社として、阿村トンネルのそばある阿村保育園の傍らに鎮座しているのが塩釜神社です。

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集落の中心部に鎮座する阿村神社は阿蘇12神+天照以下3神=15社ですが、馬を使う阿蘇の神々が天草の神様に祭り上げられていること自体が異常であり、この古来船を操る海人族が住み着いていたとしか考えられない阿村の人々が崇めていた本来の神々は阿蘇の十五神などではなかったはずなのです。


宮地嶽神社の近くに鎮座していた塩釜神社

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阿村トンネルができてから龍ヶ岳、姫戸、倉岳など不知火海側の町に入るのが非常に便利になりました。

 それまでは、まさに陸の孤島と言った表現が正しく、船で移動していたのが天草の人々だったのです。

 その天草が文明化された切っ掛けとなったのが天草五橋の建設でした。

 この天草五橋(天草パール・ライン)の開通は1964年の東京オリンピックから二年後の1966年でした。

 この前後で、全島の車の保有台数が10倍に増えたと言われるのですから、その変化が分かると思います。

ただ、それでも上島、下島の不知火海沿岸は開発が遅れていたのですが、その入口とも言うべき場所にあるのが静かな入浜の泊地だったと考えられる阿村の集落だったのです。

 阿村神社の宮司から教えて頂いた塩釜神社への入口を少し違えて最初に辿り着いたのは宮地嶽神社でした。

 これは違うと少し移動すると直ぐに見つかりました。

 しかし、社殿を見せて頂き、愕くとも、案の定とも言えぬ感想を抱きました。御神体が二つ有るのです。

 経験的に分かるのですが、小さな鳥居が置かれたのが猿田彦で本当の神様が向かって左に置かれているようなのです。

 蝋燭立ても置かれ半ば仏様扱いにはなっていますが、恐らく、宮崎市の野島神社と同様の塩筒命と猿田彦の組み合わせと考えられそうです。

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左が想定大幡主=塩土老翁、右が猿田彦=ニギハヤヒ=山幸彦=ヒコホホデミ

 さて、この阿村集落は小さなエリアながら阿村神社を筆頭に多くの境外摂社が置かれています。

 このことは、それだけでも多くの民族、氏族が入り乱れた繁栄した港町だった事を思わせるのですが、非常に面白い組み合わせになっています。


阿村神社     阿蘇十二神+三神(十五柱神E)

※「熊本県神社誌」E型は天照大神・阿蘇12神・神武天皇を祀る五社とされています 

金刀比羅神社   金山毘古命 

一般的には大国主命、百嶋神社考古学では大山咋と考えますが、ここでは金山彦とされています。

鹿島神社     経津主命 これも鹿島が香取神社の経津主命となっていますが、明らかに間違っており、と言うのは簡単ですが、阿蘇氏が阿蘇の神様を押し付けてきた際に、猿田彦=経津主を祀る神社だったものを鹿島神社と改めた名残と見るべきで、実は猿田彦を祀る神社だったのではないかとも考えられそうです。 

住吉神社     三筒男神 当然ながら、底、中、表の住吉三神

塩釜神社     猿田彦

八坂神社     素盞鳴尊

菅原神社     菅公

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古代、江南から入ってきた船が、関門海峡の田ノ浦港と同様に、不知火海に抜けほっとできる安全な泊地が阿村一帯でした。

 恐らく、南や西から入ってきた人々が闊歩する国際貿易港の様相も持っていたのがこの一帯ではなかったかと思うのですが、再度訪問しゆっくり見せて頂こうと思っています。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:16| Comment(0) | 日記

2017年03月12日

305 塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! @ 宮崎の野島神社から

305 塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! @ 宮崎の野村神社から

20160914

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


既に、ひぼろぎ逍遥(跡宮)278 梅雨明け直前日南市にアイラツヒメを探る!たった四人のトレッキング において、海幸山幸神話に登場する塩土老翁と猿田彦(実は山幸彦=ニギハヤヒ)がセットで祀られる日南海岸の野島神社のお話をしましたが、どうもこの祭祀形態が先行して天草一帯にも広がっていたのではないかという事に気付きました。

 つまり、野島神社は一例であり、元々肥後を中心に不知火海、有明海、天草一帯に存在していたものが東九州にも廻り奇跡的に残されたという気がしてきたのです。

 重要なのは、この野島神社が浦島太郎を祀る神社としている点であり、浦島神太郎を祀る丹後半島の宇良神社の祭神の解析から、浦島太郎とは博多の櫛田神社の大幡主(実は第3代安寧天皇=タマテミ)ではなかったのか?さらにその子が山幸彦=猿田彦だったという事が見えて来たのでした(引用blog参照)。


安寧天皇 日本の第3代天皇。 和風諡号は、『日本書紀』では「磯城津彦玉手看天皇」、『古事記』では「師木津日子玉手見命」。


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百嶋由一郎(阿蘇ご一家)神代系譜

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 ここで、289 ひぼろぎ逍遥(跡宮)大宮神社と猿田彦大神 H “猿田彦専門のサイトから”でご覧いただいた一覧表をご覧頂きたいと思います(下)。

 黄色のマーカーの5社は塩○神社という社名になっています。

 恐らくこれらの神社は、製塩を行っていた人々により祀られていたはずであり、本来は塩土老翁を祀っていた(つまり、大幡主と猿田彦の親子)可能性があるのです。

 このデータについては一応「熊本県神社誌」で確認作業を行いましたが、祭神は猿田彦とされており、大幡主は確認できません。

 しかし、どのように考えてもこの5社の社名から考えると、大幡主を祀っていたと考えられます。

 それを消し去ったのは、阿蘇に十五社神社を大量に持ち込んだ阿蘇氏であろうと考えられます。

 つまり、龍王(豊玉彦or大幡主)を祀る神社を十五神社としたのです。龍王→十五(リュウオウ→十五)という訳です。

 これは、机上での推論ですので、台風が近づく中、二泊三日程度の行程で、この五社の調査に入りたいと思います。

 百聞は一見に若かず…か、犬も歩けば棒に当たる…か、初秋の雰囲気が広がり始めた五馬高原から苓州天草へと軽い調査に向かいたいと思います。


山幸彦 = 火遠理命(古事記)、彦火火出見尊(日本書紀)

海幸彦 = 火照命(古事記)、 火闌降命(日本書紀)

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 17:40| Comment(0) | 日記

2017年03月09日

304 打上神社と蟻通明神 

304 打上神社と蟻通明神 

20160914

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


百嶋由一郎氏と初めて接触した時期から頂いていた資料の中に次の物がありました。

 気には掛けてはいたのですが、未だ実踏には至らず、公開もままならないのですが、何時行けるかも分からないまま放置するよりは公開し、現地に近い方々に調べて頂く方が良いのではないか考えお知らせする事にしました。

 本来、現地も踏まずに勝手な翠勺を行うことは危険極まりないもので、ここでは憶測を抑え、簡単なコメントを加えるだけにしたいと思います。

 まず、打上神社です。

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打上神社 カーナビ検索 大阪府寝屋川市梅が丘1丁目


祭神  武内宿禰  配祀 八大竜王、八幡大神  摂社 住吉社、稲荷社、神明社


敬愛するHP「玄松子」による


「皆さんこの打上の意味がお分かりになっておられません」と言われていたのは百嶋翁でした。

勿論、打ち上げ花火の打ち上げのようですが、そうではなく、御簾の打上(ターシャンという中国語の表記)の意味で、極めて高貴な方の社殿との意味が込められていたのでしょう。

祭神が武内宿祢となっているのは全国的な偽装であり、高良玉垂命その人=第9代開化天皇を祀る超高格式神社の意味なのです。

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打上神社(高良神社)

高良大明神と脇神に八幡大神、八大龍王が祀られている本殿へとつづく参道にある大鳥居の前には、「高良神社」と刻まれた大きな石碑が建っている。これは、古くより高良宮、高良明神社として打上村の人々が崇敬していたが、明治時代初めに村社(神社の格式)指定により打上神社とされた。しかし、人々の敬愛の念が強く、今も地元では高良神社と呼んでいる。高い所にあるだけに、古墳石を使った役行者小祠(えんのぎょうしゃしょうし)のある高台に登れば、大阪平野を一望できる眺望がすばらしい。裏山には巨岩をくりぬいて造られた墓室がある極めて珍しい横口式古墳で、国指定史跡の「石宝殿古墳」もある。


HP「観光施設検索」による

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石宝殿


神殿に御簾が張られているところをご覧になった方は少ないと思います。

 実際、当方も数回の実例があるだけで、よほど高貴な神様なのだろうと思ったものでした。

 天皇の玉座には御簾が張られ直接見通す事が出来ないようになっていた事は良くご存じだと思いますが、

それが神社の神殿にも適用されたものだと考えられそうです。

 まず、関西地区で第9代開化天皇(愚かな御用学者どもが、初代神武を良いとこ取りし、欠史8代などと称して架空としていますが、実は神功皇后と末永く添い遂げた)にお会いになりたければ、住吉大社か、この打上神社に行かれたら良いでしょう。

 ちなみに、御簾の打上に遭遇したのは七支刀のレプリカントが置かれた福岡県旧瀬高町(みやま市)のコウヤの宮からも遠くない、みやま市河内の現仁神社に隣接する玉垂宮でした。

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蟻通神社


次は蟻通神社ですが、こちらはかなり知られた神社です。

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蟻通神社 カーナビ検索 大阪府泉佐野市長滝814


表向きは大国主命を祀る神社とされていますが、そうではありません。

 蟻通明神の御正体は中国から与えられた称号である中将を持つヤタガラス=豊玉彦なのです。


紀貫之の故事伝承のお話の後、神社に「蟻通(ありとおし)」と名をつけた由来のお話が続きます。 昔、唐土(もろこし)の国が日本を属国とするため提示した三つの難題に対して主人公の中将が老いた父の助言に従い帝に進言し、問題が解決されます。この三つ目の難題の答となった蟻に糸を結んで七曲りの玉に緒を通したという説話が「蟻通神社」の縁起、社名伝説となりました。智恵のある中将の父によって日本は難を逃れることができました。帝は、褒美を下賜しようとしますが、中将は、老いた両親を助けて欲しいと答えます。  当時、老人は都払いにするという決まりがあったからで、これを聞いた帝は感心して、この習わしを改め、世の人々に親孝行を奨励したといわれています。 後に、この孝養の深い中将と智恵のある両親は、蟻通明神として祀られました。

歌の意味は、「七曲がりに曲がりくねっている玉の緒を貫いて蟻を通した蟻通明神とも人は知らないでいるのだろうか」

同社HP

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これは下調べですので悪しからずご容赦

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 12:00| Comment(0) | 日記