2023年11月01日

971 15世紀の神殿がそのままの形で残されていた(補足) ”伊万里市波多津町畑津 田島神社“

971 15世紀の神殿がそのままの形で残されていた(補足) 伊万里市波多津町畑津 田島神社“

20230511

太宰府地名研究会 古川 清久


以下は以前公開した新ひぼろぎ逍遥950の本文です。

この間、佐賀県在住メンバーの増加に合わせ、少しずつですが佐賀でのトレッキングを行っています。

既に、トレッキングを行った所でもある事から、後から加わられた方については分離した形で小規模な現地探訪を行うことになります。これもそうした中の一つですが、伊万里湾に面して唐津市との境界に近い伊万里市波多津町に田島神社があります。 今回、最後尾で500年前の神殿建設痕跡をお見せします。

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田島神社 カーナビ検索 佐賀県伊万里市波多津町畑津1260


波多津町にはこの他に筒井地区、板木地区の二つの田島神社があり、その密度を考えるとこの波多津町とは田島神社の影響下にある土地である事が分かります。併せて、細い水路が神社と神宮寺と考えられる曹洞宗宝泉寺の正面まで船が入ったはずで、奥まった安全な土地に同社が置かれていたことが分かります。 

畑津 田島神社

    祭 神 多岐津姫   菅原道真   天忍穂耳命

        市杵島姫   伊弉諾命   伊弉冊命

        田心姫    大國主命

田心姫=豊玉姫は山幸彦の妃の後に大国主の妃になりますのでおかしくはありません。


  筒井 田島神社

    祭 神 湍津姫命   大山祗命

        田心姫命   猿田彦命     この枠内の3神は明治五年の無格社の追加とある

        市杵島姫   大山咋命

田心姫=豊玉姫は山幸彦の妃ですので、猿田彦=ニギハヤヒという表現もおかしくはないのです。

 市杵島姫は阿蘇高森の草部吉見の妃になり大山咋を生みますので母と子の関係です。


  板木 田島神社

    祭 神 田心姫命   三島大神   神皇産霊尊   高皇産霊尊

        湍津姫命   天満大神   大山祗命 この枠内の7神も明治五年の追加とある

        市杵島姫   品陀和氣命  倉稲魂命          以上「佐賀県神社誌要」

三島大神は愛媛の大三島の大山祗神社でしょうから三島大神と大山祗命とは重複に見えます。


祭神に系統的な統一性がないなあと感じていましたが、明治5年神仏分離令期の反映のようです。

奉斎神を見るとかなり異なった民族(刺激が強すぎますかね)が混住していたことが推察されます。

非常に近接した集落でこのような祭神が奉斎されているのは歴史の古さから来るものか、この三集落には異なった氏族であり、父方、母方で異なる家系が反映されているのかも知れません。


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「佐賀県神社誌要」は要点だけを纏めたもので無いより有難い程度のもので仕方がありません。
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唐津市呼子町の田島神社含めれば10社近い集積が確認できる訳で、宗像大社の辺津宮の大字田島も西から東へ展開したのではないかとの推定が可能かも知れません。

 1936年の「佐賀縣史蹟名勝天然き紀念物調査報告」の呼子町の田島神社の部分を読むとそう書いてもあるのです。


無題.png以下伊万里市のHP

(2009108日更新)国指定重要文化財 建造物 田嶋神社本殿

波多津町畑津1260番地 昭和62年(1987)6月3日指定       

無題.pngこの神殿がこれまで見てきたこともないとんでもなく素晴らしいものだったのです。

 再度、撮影をし直し皆様にお見せしたいと思います。

 ただ、SDカードを抜いていたため撮影できなかったのです。

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画像は「おまいり」より


佐賀県在住者の方はほぼご存じと思うのですが、太閤殿下の大陸進出の前線基地となった唐津市の呼子、旧呼子町の沖に浮かぶ壁島に田島神社(国幣中社)があり、宗像大社と同様の三女神が祀られているという事実です。

佐賀県唐津市呼子町加部島3965-1

主祭神: 田心姫尊 市杵島姫尊 湍津姫尊 まさしく宗像三女神です。

 では、安芸の宮島のルーツと考えている福岡県飯塚市鹿毛の厳島神社をご覧下さい。

 この神社は歴代白王家が守ってきましたが、明治の神祇官からの強要で「白王」姓は天皇に対して不敬として変名を命じられ渋々王の横一棒を抜き白土姓に変えておられます。宮司家男子だけは白+、を使用することにされています。

宗像三女神の筆頭に掲げられる事の多い市杵島姫(正確には瀛津嶋比賣命)命の名は由来する以上に、市杵島姫の幼名の佐與姫の佐與という大字が鹿毛に隣接して存在することから、市杵島姫はこの地に住んでいたから佐與姫とも呼ばれていた可能性が考えられるのです。

ちなみにこのは秦の始皇帝の(嬴政=エイセイ=インチョン)でもあるのです。

飯塚市鹿毛馬(かけのうま)の厳島神社は宗像三女神を祀るのは、宗像大社、安芸の厳島神社以上の神格を持った神社だったはずなのです。

そして、その構造は更に東に飛び、兵庫県但馬(田島)に隣接する佐用町の佐用都姫神社の市杵島祭祀にまで繋がっているのです。


無題.png 厳島神社 カーナビ検索飯塚市鹿毛馬1088


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このように宗像系氏族(基本的には天御中主命と金官伽耶にいたトルコ系匈奴ウナシアシカビヒコヂ=大山祗命の父神、大国主命の祖父神)は西から東に展開しているのです。これが畑津、筒井、板木の三社にも大山祗命、大国主命祭祀が残っているのではないかと考えています。

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 佐世保の沖、西海市には呼子ノ瀬戸、七ツ釜…玄海灘と対応する地名があるのです

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呼子の田島神社を考える時、佐世保から北上している可能性も見ておくべきなのですが、やはり重要なのは、秦氏の神社としての田島神社の東への移動を意識しておくべきで、分かり易い例は、唐津市湊(湊厄神社あり)の「湊」地名と、宗像大社の辺津宮正面の神湊の「湊」地名であり、この湊地名は日本海側に展開しているのです。

 山口県長門市仙崎、島根県太田市湊、温泉津町福光湊、鳥取県境港の湊町、鳥取県岩美郡岩美町湊神社、岡山県岡山市中区湊、兵庫県南あわじ市湊…まだまだありますが、これぐらいで、残りは皆さんで。

 では、宗像三女神を奉斎する氏族とは一体何なのかを考えておきましょう。

学者の世界でも始皇帝はイスラエル系であり、周王朝も同様だと言う話は比較的流通していますが、百嶋由一郎氏も同様の話をされていました。ここでは百嶋先生が残された最終神代系譜から改めて考察したいと思います。

ただ、三女神は姉妹であるなどと言った話は誤りですので、始めからそのような事は頭の片隅から消し去っておいていただきたいと思います。

 勿論、親族ではありますがかなり離れているものもあり、まあ、大きな葬儀などでは一堂に会することもあるだろうと言う程度の関係ではないかと思います。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分) これまでにも何度となく触れていますので説明はしませんが、鴨玉依姫が京都の下賀茂の主神になっており、豊玉姫は田心姫、市杵島姫はスセリ姫…に対応します。



無題.png国指定重要文化財 建造物田嶋神社本殿

波多津町畑津1260番地(伊万里駅より車で35分)

昭和62年(198763日指定


以下、前回、撮影に失敗していた肝心の部分500年前の神殿建設の痕跡を再度撮影しましたので、以下画像のみお見せ致します。

今回は、これだけがブログの目的となります。


 どうしてもこの神殿をご覧になりたい方は当方までご連絡ください090-62983254(古川)…


前回撮影の失敗から掲載できなかった中世神殿建設の精華を再掲載しご覧に入れます

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ご覧のように覆いが掛けられており一般の方が神殿を見る事はできません

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建造が難しいと思われる部分、精巧な技術が投入される部分にも手斧(チョウナ)の痕跡があります

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2023年10月27日

960 気ままな上州への神社調査 ❻ 山の国上州の妙義神社 “陰に置かれた金山彦…”

960 気ままな上州への神社調査 ❻ 山の国上州の妙義神社 “陰に置かれた金山彦…”

 20230324

太宰府地名研究会(百嶋神社考古学研究班) 古川 清久


妙義山、榛名山、赤城山と言えば、上州を囲む山岳修験の神社群として著名です。

それは、大東亜戦争以前に完成した巡洋戦艦榛名(艤装の後正式の戦艦に)、ミッドウェーで壮絶な終焉を迎えた空母赤城にもその痕跡をとどめています。

恐らく、艦内神社にも榛名神社、赤城神社の神々が祀られていた事でしょう。

先に、下仁田町、富岡市に入った事から、妙義山神社を書くことになりますが、富岡市内を北西方面(高崎市からは西)に走るとゴジラの背中の様な異様な山塊が見え始めます。

これが妙義山なのです。

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県民の方には失礼になると申し訳もないのですが、群馬県は言わば関東平野の袋小路の様な国で、西はこの妙義の大山塊、北は著名な碓氷峠、四阿山、榛名山、赤城山に、南は信州街道の南に聳える荒船山、両神山と多くの山々に囲まれ、僅かに東だけに開けた袋地のようなところなのです。

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大山塊への門番の様な神社ですが、どうみても山岳修験を意識してしまいます。

 それは、修験で知られる四阿(あずまや)山にも繋がるからで、信州真田氏の裏山が妙義山の繋がりなのです。

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猿飛佐助は架空とも言われますが、多分、真田十勇士の霧隠才蔵も山岳修験の延長の人だったのです


緑円の妙義山神社は信州側の支店のようなものなのでしょう。

 問題は、この神社が如何なる素性のもので、如何なる神を奉斎しているかです。

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現在の本社(本殿・弊殿・拝殿)  国指定重要文化財


祭神

日本武尊      景行天皇の皇子で、第14代仲哀天皇の父にあたる人物として有名な神様

豊受大神      伊勢の外宮の社神

菅原道真公  

権大納言長親卿   南北朝期 後醍醐帝の公卿


 どうもこの祭神にはバランスから合点が行かない印象を持ちます。

 日本武尊と豊受大神がどう結びつくのか?

 ヤマトタケルと伊勢の内宮の天照大御神ならば、伯母とされる倭姫命を介して関係性を辿れはするのですが、配神としては繋がりが薄く、何やら重要な神が脇に追いやられている様に見えるのです。

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境内社には、天狗社、水神社、愛宕社、厳島社、稲荷神社…が拾えるのですが、まず、水神社と厳島社があります。

通常、水神様と言うものの大半は、天御中主命、ミヅハノメ、厳島姫の三柱がほとんどであることから、厳島社がある以上、上殿の水神社はミズハノメのはずなのです。

そして、天狗社がある以上、隠された若しくは脇に移された神様(本来の主神)とは愛宕神社とされた金山彦以外にはないように思えるのです。

ここで、ようやくこの神社の本質が見えてきたのです。

 このような謎解きができるのが百嶋神社考古学の神髄で天上の百嶋由一郎氏に感謝するところです。

 天狗社は八天狗=求菩提山に象徴される金山彦系修験の本拠地ですが、後に国東半島と彦山の修験に挟撃され、豊前を撤退し西の肥前(佐賀、長崎)に拠点を移します。

 ミズハノメが水神とされていますが、神大市姫=ミヅハノメは大山祇の姉として金山彦の妃になっていることから、上殿には天狗社に象徴される金山彦系修験に固められていることが分かるのです。

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日本武尊ことヤマトタケルも金山彦の孫のオキツヨ足姫の流れを汲み息子の仲哀、従弟の景行(通説では父としますが)も祭神の日本武尊に繋がるのです。

ここまで見てくると、肥前(佐賀県小城市)に、何故、四阿山があるのかも納得が行くのです。

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四阿屋神社 カーナビ検索佐賀県鳥栖市牛原町1385


佐賀県鳥栖市には四阿屋神社があり、背後の修験の本拠地であった九千部山の麓には八天神社が複数存在するのです。

 お判りいただけたでしょうか、肥前の八天神社、四阿屋神社などをご確認いただければ、上田市の真田一族などもイスラエル系でもある金山彦の末裔であり、群馬県にも金山彦系の物部氏が大量に入っていることが分かってくるのです。勿論推定ですが、金山彦は同族として秦の始皇帝と姻戚関係を結んでおり、その後裔が、妙義山、四阿山神社…として繋がっているはずなのです。

 その事実を隠す必要が生じたのはナガスネヒコの乱以降の情勢変化もあったのではないかと思っています。

 その意味では、富岡製糸工場の富岡市が富岡と呼ばれていることも富のナガスネヒコに通じますし、上州の最奥部に妙義神社が在り、四阿山神社が在る事とも符合するのです。

長野県 上田の四阿山山頂 山家神社奥宮は四阿山神社とも呼ばれているのです。

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山家神社 奥宮 西宮(信濃社)カーナビ検索上田市菅平高原


 実は、埼玉県の奥秩父(旧両神村小森)にも四阿屋山があります。

 当然にも四阿山神社が在り、現在はゴルフ場がすぐそばまで迫っていますが、幸いなことに町指定史跡に指定されており、当面の保存は問題ないでしょう。

 問題はその神社の性格が継承されるかです。そのためにはこの神社の成立の背景を理解する必要があります。

 今回、山中湖の友人の別荘から降りて甲府市の北隣の山梨市から140号線に入り7キロの雁坂トンネル

を抜け降れば、旧両神村は問題なく通過できそうと考えました。当会の埼玉県在住メンバーのT氏と合流し榛名神社、赤城神社に参拝する前にこの神社にも参拝し踏み入りたいと考えたのでした。

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四阿山神社 カーナビ検索埼玉県神川町下阿久原1369


昭和44111日指定 所在地 神川町下阿久原1369

日本武尊が東征の折、この地にしばらく滞在したことから、後に住民が祠を建てて祀ったと伝えられています。四阿を古くは「あずまや」といったのは、日本武尊が妻を思い嘆いた言葉「吾嬬者耶」に由来するといわれています。祭神は日本武尊、橘姫尊です。


像は地元の 無題.png サイトから、上記文は神川町の公式HPより転載したもの


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“波己曽とは岩社(いわこそ)”との説もあるも、良く判らないのが、この意味です。

当然、キムダルスを持ち出すまでもなく、比売許曾神社、上許曾神社…があるように、許曾は社の朝鮮語の意味であろうことは確実で、何れ判る時も来たら良いと思っています。

もう少し紙面の余裕があることから、お話ししたいと思いますが、もう一人の水神さまで弁財天様の異名までも持つ市杵島姫様も波己曾社の隣に厳島社として鎮座されています。

 この厳島姫の「厳」は代字であって、本来は島姫と書いていたのです。問題はこのが秦の始皇帝の姓と関係があるのです。

 そうです、始皇帝はの名も蠃政(エイセイ=インチョン)蠃政とされているのです。

無題.png弁財天社


 それは、モーゼの血を引いていたと思われる金山彦は始皇帝と相互に姻戚関係を結び、製鉄技術を携え渡海し列島に入ったことによって氵(サンズイ偏)を付したのでした。

 さらに掘り下げれば、宗像三女神の筆頭とされる市杵島姫もスサノウとアカルヒメとの間に生まれた神であり娘なのです。

 もう一つ付加すれば、豊受大神(同社の看板とも言うべき伊勢の外宮様)も百嶋最終神代系譜をご覧になれば分かるように、金山彦の娘である櫛稲田姫を妃として、自らもミズハノメ(大山祇の娘であり大国主命の姉)を妃として伊勢の外宮様=辛国息長大姫大目命を生んでおり、この意味でも祀られて相当となるのです。

そして、伊勢の外宮様とは伏見稲荷と同体であることから稲荷神社そのものも、スサノウと神太市姫(ミヅハノメ)の子となることから妙義神社とは金山彦系の祭神と言ったもので固められている事が分かったのです。


無題.png稲荷社


一番違和感を持たれる秦始皇帝(ユダヤ人)金山彦説については以下をお読みください


106 白川伯王家源流の神社初見 飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院 共通掲載


318(後) 春本番!安芸太田から邑南町の神社探訪 @ ここにも忌部=瀛(イン)氏がいた!


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

838(前) 「秦の始皇帝はユダヤ人であった」と日本国史学会の学者が話している



百嶋神社考古学の神代系譜、講演録音声CD、手描き文書スキャニングDVDを必要な方は090-62983254まで

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2023年10月24日

959 気ままな上州への神社調査 ➎ “憧れの下仁田町から富岡市への神社探訪 降り宮 貫前神社“

959 気ままな上州への神社調査 ➎ 憧れの下仁田町から富岡市への神社探訪 降り宮 貫前神社“

 20230324

太宰府地名研究会 古川 清久


 勿論、途中でも多くの神社を踏んではいますが、今回の上州での神社調査は、妙義山神社、赤城神社、榛名神社を軸に、降り宮で著名な富岡市の貫前神社や下仁田町の諏訪神社、山際稲荷神社などと併せ周辺に大量に分布する今宮神社を見る事でした。

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上州の今宮神社(恐らく咲宮、鷺宮…同様、山幸彦=猿田彦=ニギハヤヒ=布津主を祀る神社で、貫前神社もその最大の社と考えています)も同様の祭神を祀る神社ではないかと予測しているところです。

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一之宮貫前神社は群馬県富岡市一ノ宮、蓬ヶ丘(よもぎがおか)と呼ばれる丘陵の北斜面、俗に菖蒲(綾女・あやめ)谷といわれる渓間に南面して鎮座しています。
南の参道をのぼって総門に至り、そこから石段をくだった位置に社殿があり、いわゆるくだり参道となっています。
創立は社伝によると鷺宮(さぎのみや:現在の安中市)に物部姓礒部氏が氏神である経津主神(ふつぬしのかみ)をお祀りし、次いで鷺宮の南方、現在の社地に社を定めたのが安閑天皇の元年(西暦531年)とされてます。
天武天皇の時代に初の奉幣(ほうべい:天皇の命により神社に幣帛を奉ること)があり、当時遠く奈良の都にまで貫前神社の存在が知られていたといえます。
醍醐天皇の時代に編纂の始まった『延喜式』のなかの『神名帳』にも記載され、上野国一之宮として朝野をとわず崇敬をあつめてきました。明治時代に定められた社格は国幣中社であり、群馬県内では最高位でした。戦後社格制度が廃止されると「一之宮貫前神社」として神社本庁の包括となりました。

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建国の祖神 物部氏の氏神 刀剣の神 武道の神

経津主神は『日本書紀』などの国譲りの場面で神名がみえ、葦原中国(あしはらのなかつくに:日本の異称)平定に功績があったとされています。
『日本書紀』のみに登場し『古事記』には登場しない神で、香取神宮(千葉県香取市)・春日大社(奈良県奈良市)・鹽竈神社(宮城県塩釜市)に祀られています。
また、布都御魂(フツノミタマ)を祀る石上神宮(奈良県天理市)は物部氏の奉斎する神社であり、なおかつ武器庫であったとされていることから、日本神話のなかで争ったという諏訪の神・建御名方神への抑えの武器庫として、当地の物部姓を賜った石ノ上部(イソノカミベ・礒部氏・磯部氏)によって貫前神社が創建せられたとも考えられます。「刀剣の神。霊剣フツノミタマの神格化したものという説がある。藤原氏の祖神の一つ。葦原中国平定のため、タケミカヅチを従えて天降りするなど、事蹟はタケミカヅチと重なる部分が多いが、『出雲風土記』『出雲国造神賀詞』では天降りするのはフツヌシのみであるところから、武人物部氏の祭神であったフツヌシが、中臣氏の台頭によりその神格を次第にタケミカヅチに奪われたものと思われる。」『神道辞典』

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養蚕と機織りの神 生産の守護神

姫大神は正確な神名も祀られた由緒も伝わっておりませんが、一説には綾女庄(あやめのしょう:当地の古い呼称)に住んでいた渡来の高麗人(こまびと)が養蚕や機織りを伝え、その人々が奉賛していた古い神であるとも云われています。

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貫前神社 カーナビ検索群馬県富岡市一ノ宮1535


さて、祭神ですが、簡単に言えば海幸山幸神話の山幸彦=猿田彦=ニギハヤヒ=五十猛=布津主だからこそ、もう一つの降り宮である阿蘇高森の草部吉見神社 祭神=ヒコヤイミミ=海幸彦=関東風に言えば武甕槌=鹿島大神となるのです。

 俗に三大降りの宮などと言われ、日向の日南海岸の鵜戸神宮をその一つに数える風がありますが、このウガヤフキアエズを祀る神社は海食洞に神殿を置いたものであって、降りて行くのは当たり前の事でしかなく、本来の降りの宮とは、海幸と山幸という神代史の二大スターと言えばお分かりになるでしょう。

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ここで健経津主命と保食命(辛国息長大姫大目命)が祀られているという意味は、ご夫婦だからです。

姫大神なるものがお妃かどうかは良く判りませんが、可能性はあると思います。

 経津主と名を変えられていますが、それは元のお妃である豊玉姫に対する礼儀であり、山幸彦=ヒコホホデミを使用していないという意味と同じですね。それだけ分かれば問題はありません。

 県下に今宮が十数社ある事も分かりますし、稲荷が多い理由も、全ては物部の国だからなのです。

 そして、上州の奥さん達が強い(かかあ天下とカラッツ風)と言う意味も、養蚕で稼いでくれる奥様の存在によって、家の経済が回っていたという事実がありますが、元々、格上の伊勢の外宮様、つまり豊受大神=保食命に山幸彦=猿田彦が頭が上がらない関係である事から来ているのです。

 一方、行政単位は異なりますが、安中市には鷺宮 咲前(サキサキ)神社というものがあります。 

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咲前神社 カーナビ検索 群馬県安中市鷺宮3308


御祭神 健経津主命(たけふつぬしのみこと)
大己貴命(おおなむちのみこと)     武蔵大国魂神社に敬意を表しているという意味ですね
保食命(うけもちのみこと)       伊勢の外宮の豊受大神とは実はアメノウヅメであり

見稲荷でもあるのです(ウヅメは大目)

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これとて山幸彦と分かれば、広範な分布を示す今宮神社と併せ、上州には大量のニギハヤヒを祀る神社が在ることが分かってきます。

 その意味では上州とは、物部氏が逃げ込んだ山であり深い谷だったのです。

 では、どこから逃げ込んだのかと言えば考えられるのは九州の筑豊地方のはずです。

 分布図にも出ていますが、遠賀川流域の物部氏が対馬海流に乗り、浜田、江津、太田、出雲〜京丹後、〜新潟(柏崎刈羽〜二田物部神社が在る南魚沼郡西山町〜上州に入っているのです。

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ここで物部地名をおさらいしましょう敬愛するHP「倭国九州王朝」より


百嶋神社考古学の神代系譜、講演録音声CD、手描き文書スキャニングDVDを必要な方は090-62983254まで

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