2026年05月24日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1129 月読神社の総本社もともとは山の神だった(長崎県壱岐市)

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1129 月読神社の総本社もともとは山の神だった(長崎県壱岐市)

20251013

太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


我が百嶋神社考古学の者にとって、結論だけは分かっていながら、それが何故そう言えるのかが置き去りにされているものに、月読命大山祇という公式があります。

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百嶋由一郎 最終神代系譜(部分)


勿論、経験的に大山祇系の神社が鎮座する裏山に三日月山が在ったりする例に幾つも遭遇している事から疑問は持っていなかったのですが、ただ、何故そう言えるのかについては、百嶋由一郎からは聴いていなかった事から改めて問われると、答えに窮する事に成ったのでした。

ただ、以前から鍵は壱岐の島の月読神社に在りそうだという事は見当が着いていました。

私が頻繁に壱岐島を訪れていたのはもう30年も前の話であって、まだ、本格的に神社を探訪することまではやっていなかったため全く身についていなかった事は致し方無かったのでした。

そうした中、昨年の晩秋に山梨県の日蓮宗(身延山)のご住職からの問い合わせを頂き、これは本気で調べなければならないと思い始めたのでした。

その後、このテーマで十本ほどブログを書くに至りましたが、今般、佐賀〜長崎に跨る旧松浦党研究連合会の解散に伴い、伊万里で新たな研究会を再興するので参加しないか…とのお誘いを頂くと、壱岐と松浦党との関係も無視できないことから、改めて、この連合会のエリアに繋がる唐津市〜伊万里市〜松浦市〜平戸市〜佐世保市へと拡がった中近世史の郷土史会の研究内容に、我々、神代史〜古代史を対象とする門外漢がどこまで役に立つかは無視して、このエリアを神社研究の立場から改めて考え直すと、大山祇系の祭祀が異常に多いことに気づくに至ったのでした。

どうせ、倭寇、海人族の領域だから、恵比須さんや底筒男命様…ぐらいしか祀っていないであろうと思っていると、とんでもないことに海なのに何で大山祇系の神が異常なほど多いのかという事実に驚愕したのでした。それらが伏線となって、この重大な月読命大山祇いう大問題に取り組む事にせざるを得ないと考えているところです。


月読神社の総本社もともとは山の神だった(長崎県壱岐市

このブログのタイトルも、 無題.png 引用したものです。

月読神社を探るには壱岐が起点となりますので、

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壱岐の中央部で博多港からのジェット・ホイルが着く芦辺港と西の勝本町湯本温泉の中間辺り


そもそも、通説派とは異なる九州王朝説の立場に立つ少数派の中でも、自分の頭で物事を考えるそのまた一部の人々の中では、この月読神社こそ高木大神のドラ息子のニニギこと瓊瓊杵尊(ニニギ)

の天孫降臨以前に列島に進出していた人々が居たはずで、それが地神と呼ばれているのです。

 それこそが大山祇系であり、半島南部の金官伽耶から壱岐の中央部に橋頭堡を築き九州本土の糸島半島への侵略を行ったのではないかと囁きあっていたのでした。 

それが金海金氏=ウマシアシカビヒコジの一族で百嶋神社考古学では大国主命の祖父でもあるトルコ系南匈奴(王昭君の後裔)とするのです。

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勿論、百嶋神社考古学は別の見解を持っており、スサノウは伊弉冉と伊弉諾の子である事は申し上げておきます。

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近畿大和朝廷の意向に沿った話をそのまま受け入れても何の意味もないので、違う見解をご紹介しましょう。ウィキペディア(20251017 21:23による


月讀神社(つきよみじんじゃ)は、長崎県壱岐市芦辺町国分東触に鎮座する神社である。橘三喜が延喜式内社(名神大社)であると査定したが、これは誤りであるとされる[1]


祭神

現在の祭神は月夜見命、月弓命、月読命3柱である。3柱はいずれも同神である。

本来の祭神は「山の神」であったが、橘三喜の比定によって月読命が祭神であるとされるようになった[1]


延宝以前の由緒来歴は不明。延宝4年(1676年)に平戸藩の命を受けて壱岐島の式内社の調査を行った橘三喜が当神社を式内名神大社の「月読神社」に比定し、同年61日に藩主松浦鎮信により石祠と神体として木鏡1面が奉納され、以後しばらくは式内社とされたが、それ以前は特段の祭祀設備もなく単に「山の神」と称されるのみであった。三喜が式内社と認定したのは鎮座地が「清月(きよつき)」と呼ばれていたからであったが、別に「ふかつき」とも呼ばれており、その語源は「ふかふち」であると見られるので[2]、この三喜の判断は誤りであり、本来の月読神社は箱崎八幡神社であるとされる[1]


関連して、当会の主筆「宮原誠一の神社見聞諜」No.262 阿蘇の神々 国造神社の神 の後段に以下の文書が有ります。


月読神社
国造神社の案内所で宮川のおばちゃんに出会い、国造神社の古い絵図を見せてもらいました。山城まい様が、阿蘇神社に大切に保管されている四百年前の国造神社の古い絵図を紹介されています。その絵図を見ると、昔の国造神社は朱の柱に白壁です。この形式の神社は天照女神と正八幡大幡主を祀ります。現在の社殿は、寛文12(1672)、肥後熊本藩第3代藩主細川綱利によって造営されていますので、その以前の姿でしょう。
まるで、龍宮神社です。大分県由布市湯布院町の宇奈岐日女神社も同様です。

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朱の柱と白壁の配色社殿は天照女神(瀬織律姫・水神)・大幡主を祀ります。
宇奈岐日女(うなきひめ)は楮(こうぞ)の栽培を司る神様で、木綿(ゆうば)大神と呼ばれていた。木綿(ゆふ)とは、楮(こうぞ)のことであり、それを原料とした布のこととなります。天照女神は養蚕の神でもあり、織姫神です。
 同様の古絵図が、福岡市箱崎の筥崎八幡宮です。現在の茶色の社殿でなく、朱の柱に白壁の社殿です。(メッセージ10)
筥崎八幡宮 福岡県福岡市東区箱崎一丁目22-1

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阿蘇社、高良社、若宮八幡、乳母子社、多賀塔、筥松が楼門横に描かれています。
筥崎八幡宮の境内社に阿蘇社、高良社、若宮八幡宮があります。筥崎八幡宮に阿蘇社と高良社があるのが驚きです。祭神は共通ということでしょうか。福岡市の筥崎八幡宮の祭神も天照女神と大幡主です。月読神社の祭神は月夜見命(天照女神)と月弓命(大幡主)ではないか。
壱岐芦辺町の月読神社に筥崎八幡宮が勧請されて、海裏神社から箱崎八幡神社となっています。「壱岐神社誌」によれば、芦辺町箱崎に式内月読神社が創立され、次に海神が配祀され海裏神社(海裏宮)となり、後に筥崎八幡宮が配祀され箱崎八幡神社となっています。
芦辺町の箱崎八幡神社 (相殿の月読神社)
長崎県壱岐市芦辺町箱崎釘の尾触1294

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海裏神社(海裏宮)
(
) 豊玉彦命 (とよたまひこ)
   豊玉姫命 (とよたまひめ)
八幡神社
(
) 品陀和気命 (ほんだわけ 応神天皇)
   仲津日賣命 (なかつひめ)
   帯仲日子命 (たらしなかひこ 仲哀天皇)
  息長帯日貴命 (おきながたらしひめ 神功皇后)
(
相殿)月読神社
   
天月神命 (あめのつきかみ 月夜見命、月姫、月天、天照女神)
(
相殿)高御祖神社
   
高皇産霊神 (たかみむすび 月弓命、日天、正八幡大幡主)

  日本書紀の顕宗天皇紀では、遣任那使の阿閉事代に「月神」が憑依し、「我が祖先の高皇産霊命は溶けあっていた天地を創造した功績がある。民地を私に奉れ。私が請うままに献上するならば、福慶があるだろう」と宣託し、阿閉事代は京に帰って天皇に詳しく申し上げると、山城国葛野郡の歌荒樔田(うたあらすだ)が月神のために与えられ、壱岐県主の祖の押見宿禰が祭祀を行ったとされる。この話に登場する「月神」は天月神命であると考えられている。Wikiから

京都市西京区松尾大社の境外摂社の月読神社は、箱崎八幡神社の月読神社から分祀されたとされる。高御祖神社から分祀されたのが、奈良県橿原市の目原坐高御魂神社とされる。高御祖神社
壱岐市芦辺町諸吉仲触9

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嵯峨天皇時代の弘仁2(811)創建。紀州田澄の熊野権現を勧請し、延貨の調(1676)、平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査により式内社高御祖神社と改められる。
祭神
高皇産霊大神 (たかみむすびのかみ 正八幡大幡主)
伊聾諾大神 (いざなぎのかみ)
伊奘再大神 (いざなみのかみ)
(
相殿)
天日神命 (月弓命、日天、正八幡大幡主、熊野速玉男神=薬師如来)
天月神命 (月夜見命、月天、月姫、天照女神、熊野牟須美神=千手観音)
壱岐芦辺町国分の月讀神社(つきよみ)
長崎県壱岐市芦辺町国分東触464

無題.png

壱岐の月讀神社HP https://tsukiyomijinja.com/yuisyo/

祭神
月読命 ()
月夜見命 (中・天照女神)
月弓命 (左・正八幡大幡主)

由緒
延宝以前の由緒来歴は不明。
延宝4年(1676)に平戸藩の命を受け、壱岐の式内社調査を行った橘三喜が当神社を式内名神大社の「月読神社」に比定し、藩主松浦鎮信によって石祠と神体として木鏡一面が奉納され、以後しばらくは式内社とされたが、それ以前は特段の祭祀設備もなく単に「山の神」と称されるのみであった。

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境内社 月読神社 左は月夜見命、右は月弓命


本来の祭神は「山の神」であったが、
平戸藩の橘三喜の比定によって月読命が祭神とされました。
Wiki
では、これは「誤り」とされていますが、「山の神」は大山祗の神であり、月読命とされます。さらに、山の神で月読命は天照女神と正八幡大幡主です。
よって、橘三喜の比定も、あながち間違いとは言えないようです。


ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1130 月読神社の総本社|もともとは山の神だった(長崎県壱岐市)へ続く

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2026年05月21日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1128 伊万里市の楠久神社から思考の暴走を行うと何が見えるか?

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1128 伊万里市の楠久神社から思考の暴走を行うと何が見えるか?

20250928

太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


 佐賀県伊万里市に楠久、楠久津があり、楠久神社が鎮座しています。

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無題.png佐賀県伊万里市の中心部から車で10分も走れば東山代町に楠久という印象的な地名があり、楠久神社が鎮座しています。

今般、松浦党研究連合会の解散に伴う新たな研究会開始に多少関与したことから少しずつでも松浦の神社を調べていこうと思います。

ここには、松浦党進出以降のかなり詳しい由緒書きがありますのでまずはここから考えて見たいと思います。

画像が小さく不鮮明ですので、ここでは 「楠久(くすく)神社」様がネット上にリライトされておられますので、そちらをお読み頂こうと思います。

御祭神 応神天皇・須盛男命・菅原道真・言代主命・大山祇神・塩竈神・倉稲魂命・猿田彦神・大安女神・大名持神・綿津見神


由緒

大治年間(延久元年(1069))松浦党太祖「源大夫久公」宇野御厨検校(西・北・南松浦地方、天皇家の荘園で、後、伊勢大神宮荘園となる。)の命を奉じ、京都より北松浦郡今福に下向し、梶尾城を築く。

次いで、その孫、松浦党第二代党祖「源四郎大夫直公久安年間(11451250)」は、本城を山之寺に置き、その政庁を東山代村の里舘に設け(青幡神社の南東百間)北松浦郡・有田郷・壹岐及び彼杵郡を始める。「源直公」没後、その子「山代源六郎圍公」(山代の祖)をして山代郷を治めさせ、他子(八人)を各地(大川・有田・今福・他)に封ず。

「山代圍公」の六世の孫に「山代源三郎正公」ありて山代郷を治め、後、舎弟「楠久源三郎安公」をして楠久に分封(財産分け)す。「安公」は楠久越山に館を設け、楠久を治め、守護神として「大行神社」を建設す、と云う。当時は元弘年間(13311333)であり、元弘3年楠久家は官軍に属す。

元来、楠久は伊万里湾上の海辺にして、各地入江を生じ住民点在、各地に小祠を祭りて大正時代にいたる。

大正7(1918)96日、八幡神社境内に「大行神社・天満神社・福山神社」を合祀して、次いで大正7(1918)1220日「楠久神社」と改称す。・・・・・

境内由緒書き より。

無題.png伊万里市山代町楠久の旧道から入った小高い丘の上に鎮座する楠久神社。約700年前の元弘年間、松浦党の流れをくむ山代源三郎の舎弟で、当地を治めていた楠久源三郎安公が守護神として建立した「大行神社」が楠久神社の始まりとされています。

2018/08/06 08:30無題.png

同社は「佐賀県神社誌要」にも記載がないためネット情報だけで考えてしまいます。


祭神 応神天皇・須盛男命・菅原道真・言代主命・大山祇神・塩竈神・倉稲魂命・猿田彦神・大安女神・大名持神・綿津見神 

これらは、系統だった祭神ではなく如何なる氏族の神社であるかが全く見えてきません。

特に大安女神は全く聞いた事のない方で、この神社の特異性を表しています。江南の神でしょう。

更に、スサノウの意味なのでしょうが、この表記は始めて見ました。

倉稲魂命は一般には分かり難いと思いますが、スサノウの姉の神俣姫で良いでしょう。

塩竈神は海幸山幸神話で釣針を失った山幸に龍宮に行くようにアドバイスした塩土老翁で、博多の櫛田神社の大幡主(カミムスビ神ですね)製塩の神様なのです。

大名持神は大国主で良いとして、綿津見神は塩竈神の息子の八咫烏=豊玉彦=龍王でしょう。

周辺の神社が圃場整備事業などで集められた事でも無ければこのようなバラツキは無いように思わないのですが…もう少し調べることにしましょう。

こういう時は少し思考の冒険に入りたいと思います。

好い加減と言われればそれまでですが、所詮、初期の仮説とはただの思い付きでしかないのです。

それは、楠久、楠久津と言うかなり珍しい地名であり、それを取り込んだ楠久神社の社名です。

当初、松浦党研究連合会の解散から始まった新たな研究会に参加することになった時にも「楠久」という不思議な意味の分からない地名が話題になった時にも、一応、沖縄の城(グスク)の可能性はあるんですが…といった話はしたのですが、ただその語源自体が分からないでは只の思い付きでしかなく、それ以上は先に進まなかったのでした。

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百嶋由一郎 最終神代系譜(部分)


ただ、この東山代町楠久の西隣の行政単位である山代町にはそのまま「城」(ジョウ)という地区までがあるのです。

グスク)(那覇空港の傍に豊見城市が在りますね)とは、沖縄や奄美諸島の石で囲まれた集落、城塞都市を意味する言葉で、単なる城郭だけでなく、聖域や村落機能も持っていました。琉球王国時代と言うか日本に先行する百年前には琉球の戦国時代が存在したのです。

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霧寄神社という社名は同地区が高い

急傾斜地で西から入る湿った空気が峰

にあたり雨雲が湧く事から付された社

名ではないかと思うのです。


まず、「楠久」という地名がどうもこの地以外には無いようなのです。

姓名としては、楠田、楠木、楠、楠井…は在るのですが、全国的にも地名としての楠久は無いのです。

当然、「楠木」姓は良く知られており、と言うより知らぬ者のない姓なのです。勿論、楠木正成のそれですね。

その楠とは何なのか、単なる楠の木の意味では無いのではないかと考えるところから冒険が始まったのでした。

確かに、伊万里湾にも楠の木は有るのですがその意味ではない…と仰るのならば、逆に楠木正成の本願地である河内には楠があるのですか?と問いたいのです。

では、樟、樟に対応する似た地名はあるのでしょうか?

大分県に玖珠が在ります。しかも、表記は算盤(ソロバン)珠算検定試験の「珠」が使われており、これは本来「シュ」と(インテグラルエス)の発音がされていた可能性があるのです。

皆さんは与謝野鉄幹、与謝野晶子をご存じだと思います。

鉄幹は京都市左京区の出身であり、天橋立辺りに縁が有るかは分かりませんが、本名であり現在の与謝野町は旧与謝郡から取られているようです。


京都の与謝野町の由来は? AIによる概要

与謝野町の町名は、2006年に合併した旧加悦町、岩滝町、野田川町が属していた「与謝郡」に由来し、また、与謝蕪村や与謝野晶子といった文人ゆかりの地であることから、これらの要素を合わせて名付けられました。


ここでも、元々 謝 を「シャ」と発音していた可能性があるのです。

これらの問題に関しては、以前、京丹後市の大宮神社の鎮座地が周枳(スキ)とシュウの音を拾っている事から、遠賀川河口から日本海側に逃げた物部氏と関係があると考えており、興味をお持ちの方は以下をお読み頂きたいと思います。

アメブロ 初期の ひぼろぎ逍遥から

 


523 突然涼しくなったので丹波丹後の神社調査に…A京都府京丹後市の地名に関して20170905


 無題.png京丹後市で最も見たい神社と言えば当然にも大宮売()神社(祭神:大宮売神+若宮売神)となります。

 この神社についても報告するつもりなのですが、今回、同社の鎮座地についてイメージが湧いてきましたので、報告とは別に取り上げて見たいと思います。

この神社の鎮座地の周枳(スキ)が気になるのです。枳はカラタチ。

 当然にも周防の国は「スオウ」と読みますが、普通は、周瑜、周期、歯周病、円周率…と「シュウ」と読む方が圧倒的なのです。

 こういった場合、周防の国の例があるように「スキ」と読むのは何らおかしくないと言う方が直ぐに出てこられるのですが、古くは「シュウキ」と呼んでいたから「周」の文字が当てられたのではないかと考えているのです。

ここまで、申し上げて、次の冒険に踏み出しましょう。


コトバンク


クシュ(その他表記)Cush; Kush ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「クシュ」の意味・わかりやすい解説

クシュ Cush; Kush

クシとも呼ばれる。古代エジプト人が今日のスーダン地方を呼んだ名称。古代ギリシア人はエチオピアと呼んだ。 2000年頃ナイル第2急流以南をさしていたらしいが,まもなくヌビア全地方をいうようになった。古代エジプトの支配下におかれることが多かったが,エジプトを支配したクシュ王朝も出現した。黄金,香料,黒檀,ダチョウの羽毛,毛皮などの特産品があり,これらの品物はエジプトに運ばれた。ユダヤ人はこの地方の民の始祖をノアの第2子ハムの長子クシュであるとした。『七十人訳聖書』『ウルガタ訳聖書』に「クシュの地」とあるが,その正確な位置は推定の域を出ない。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について


ここでクシュをウィキペディアで見ると…   『ウィキペディア(Wikipedia)』 202251007 09:06

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クシュ(Kushは現在の南エジプトと北スーダンに当たる北アフリカヌビア地方を中心に繁栄した文明。最も早い時代にナイル川流域で発達した文明の一つである。クシュ人の国はエジプトの領域内への進入の時期の後で発展した。クシュの文化は、並存していた期間は短いが、エジプト新王国と相互に影響を与え合っていた。

なお、基本的にスーダンのあたりを本拠地とした王国だが、古い時代の文献ではエジプト以南を「エチオピア(アイティオピア)」と呼んでいたので、クシュ人を「エチオピア人」と呼んでいる場合もある(『ユダヤ古代誌』第1巻第62[1]など)。

起源

最初の発達した社会がエジプト第1王朝(紀元前3100年頃 - 紀元前2890年頃)の時代ごろヌビアに現れた。クシュの国として知られている最初の国はケルマ王国で、紀元前2600年ごろに興り、ヌビアの全てとエジプトの一部を支配した。文字資料が発見されていない上、エジプトの資料もめったに言及していないので、これらの人々についてはほとんど知られていない。

紀元前2500年頃、エジプトが南に移動し始めた。私たちの持つクシュに関する知識のほとんどはエジプトの記録によっている。しかしエジプトの勢力拡大は、エジプト中王国の凋落によって止まった。紀元前1500年ごろエジプトの拡大は再び始まったが、このときは組織化された抵抗に遭遇した(歴史家たちはこの抵抗が多種多様な都市国家に由来するものなのか、一つの統一された帝国に由来するものなのか確信を持っていない。独立した国家という観念が土着のものなのかエジプト人から持ち込まれたものなのかということにも議論の余地がある)。エジプトは優勢で、この地域はトトメス1の支配下におかれ「植民地化」された。トトメス1世の軍隊はたくさんの堅固な要塞を築いた。クシュはエジプトに金や奴隷・家畜・香辛料をはじめとする様々な資源を供給した。クシュの兵士は弓矢にすぐれ、戦象を使い、エジプトの傭兵としても活躍した[2]

紀元前11世紀にエジプトでの内部抗争により「植民地」支配が崩壊して、ヌビアのナパタに本拠地を置いた王国の独立運動が起こった。この王国は植民地の政権を転覆させた地元民によって支配された。エジプトの文化と技術の影響は、例えば、ピラミッドの建築や(→「ヌビアのピラミッド」)、土着の神と同一視されたエジプトの神々の崇拝などにはっきりと見ることができる。クシュの聖地ジェベル・バルカルをエジプトのアメン神と結びつける信仰も広まっている[2]


実は、キヨスク、キオスクも関係するのです。駅の売店ですね…。これもウィキペディアです。

まだ、どちらが関係が深いかはこれからですね。


キオスク(ペルシア語: کوشک / kušk; トルコ語: köşk; 英語: kiosk)は、中東や地中海沿岸などで発達した、庭園の簡易建造物。東屋やガゼボなどと同じく小さな建物で、全面または一部の面に壁がなく、外に開放されている。


言語表記

日本語で『キオスク』の各国語表記は、アラビア語: كشك(文語アラビア語発音:kushk(クシュク)、口語アラビア語発音:koshk(コシュク)他)[1]; タガログ語: kyos; ウルドゥー語: khoka; ロシア語: киоск; フランス語: kiosque; ギリシア語: κιόσκι; ドイツ語: Kiosk; ポーランド語: kiosk; チェコ語: kiosek; ポルトガル語: quiosque; ルーマニア語: chioşc; ブルガリア語: кьошкkyoshk; クロアチア語: kiosk セルビア語: киоск / kiosk; スペイン語: quiosco / kioscoなど。


キオスクの歴史

キオスクは、イランからインドにかけての庭園によく設けられていた。13世紀にはペルシア人からトルコ人に伝わり、オスマン帝国では宮殿や庭園などにキオスクが建てられた。イスタンブールのトプカプ宮殿の周囲には、多数のキオスクがあるほか、オスマン帝国の支配下にあった地域、例えばギリシアなどにもキオスクのある庭園が残る。

イスタンブールのトプカプ宮殿にあるチニリ・キョシュク。

無題.pngキオスクという語はペルシア語のクシュク(kuškに由来し、「日陰をつくる物」を指していた。これがトルコ語でキョシュク(köşk)になった。「キョシュク」は現在でも、オスマン建築の中でも宮殿や邸宅の離れといった住宅建築を指すのに使われる。当初は木造で、後には石造などでも建てられたキョシュクは、表面は石や金属やタイルなどで覆われ、2階建て以上の高さがある建物であった。トルコなどには、皇族や貴族が夏や冬に住みかえて過ごすための邸宅や離れが多数残っている。特に夏用の邸宅は風を取り入れるために開口部が大きい。18世紀にはヨーロッパにオスマン文化の影響が及び、庭園に「キオスク」と呼ばれる休憩用の建物が建てられるようになり、造園に際しての重要な要素となるに至った。ギリシアの都市によくみられる型のキオスク。

無題.png現在のヨーロッパ、ロシア、アメリカなどでは、キオスクとは仮設小屋の一種で、一方の壁面に大きく開いた窓があるものを指す。キオスクを使う商人も多く、道路や公園などにキオスクを設置して新聞、雑誌、地図、ライター、タバコ、菓子など安いものを売っており、新聞スタンド・雑貨屋・駄菓子屋の機能を果たしている。ロシアでは、道端や公園など場所問わず設置されている小さな商店を指す。ソビエト連邦の崩壊・ロシア市場経済成長と共に、大手スーパーチェーンの進出や浸透により数は少なくなりつつある。日本ではJRグループの駅売店がキヨスクと呼ばれている。


楠久とは何か?についてとんでもない話を持ち出しましたが、この話は、豊後の玖珠がクシュ(「日本書紀」はクズ人ですね…だから玖珠町の隣に九重町もあり九重山もあるのです)だったのではないかと気付いて以来温めて来た仮説です。

神社探訪を続けていると、ここには大山祇系の村上水軍、越智氏、河野水軍、渡部…大山祇系が大量に入っている事は分かりますし、一般にも(豊後森家)良く知られていますが、元々、大山祇系の拠点でもあった所だから、大三島から陸に上がった河童状態にされたのです。

しかし、玖珠には高良玉垂命が祀られ、神功皇后との間に生れた仁徳を祀る神社も中心部に在り、天御中主命を祀る神社も在るのです。

神代、古代より、金山彦系、大山祇系、カミムスビ系の本拠地の一つだった事が神社と地名から良く見えるのです。

特に大山祇系は後には新羅ですが金官伽耶の金海金氏であり、トルコ系匈奴の東西分裂後に残った東匈奴の南北分裂によって生じた南匈奴=王昭君の末裔で、その子が、神大市姫、大国主命、コノハナノサクヤなのです。それを古事記は大国主を出雲の人に仕立てているのです。

そこまで解れば、キオスクという語はペルシア語のクシュク(kuškに由来 がリアルに見無題.pngえてくるのです。

ペルシャもイスラム化される前から始まっていたはずですが、トルコ系もイラン(アーリアンの転化したものがイランなのです)系も混血が進んでいたのです。アフガニスタンの最大多数派民族パシュツーンもペルシャ系であり、アレクサンドルス(マケドニア、ギリシャ系)以来、2000年の間に実質的には、イスラエル、ユダヤ系も含め混血が進んでおり、列島にもその余波は及んでいたはずなのです。

そういえば、クシュに関係があると思える人物に、トランプ氏の娘婿クシュナー氏がいましたね

トランプの娘イヴァンカの夫でトランプの娘婿ジャレッド・クシュナー ジャレッド・コーリー・クシュナー(Jared Corey Kushner1981110日 )

クシュナー家は1949年に祖父母がベラルーシからポーランドを経て米国へ移民したユダヤ人で、ホロコーストからの生還者である。

私にはこのクシュク(kuškは、そのまま楠久に思えますね。

無題.png

AI様も 福岡市西区にある飯盛山(いいもりやま)は、標高382mの三角形の美しい山で、古


無題.png代から信仰の対象とされてきました。と書いています。この同地の飯盛神社は伊弉諾を祀っていない金山彦直系の神社なのです。


飯盛神社は福岡市の西区、早良平野の中心です 古代からの宮殿築城に相応しい「四神相応の地」と謂われます 東に清流室見川、南に早良平野の田園、西に北から南に延びる背振山系、北には玄海灘に浮かぶ島々、即ち此の飯盛山を神奈備とします 天孫降臨の砌に天太玉命(アマノフトタマノミコト)が伊弉冉尊(イザナミノミコト)を奉齋するを起源とします 上宮に伊弉冉尊、中宮に五十猛尊を奉齋し…同社由緒

無題.png
無題.png





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2026年05月18日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1127 松浦市の鎮西伊勢分宮 姫神社とは何か?

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1127 松浦市の鎮西伊勢分宮 姫神社とは何か

20250928

太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


 無題.png長崎県松浦市の鎮西伊勢分宮という社名そのものに惹かれて本ブログを書くに至りました。

 思えば、同社正面の御厨港に通ったのは40年も前の話でした。

 それは、この港からフェリーに乗って頻繁に黒島に渡り防波堤から魚釣りをしていたからでした。ただ、当時は魚釣りしか考えておらず、同社の存在など考えもしていなかったのです。

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実際、伊万里湾の一番外側の外海を感じさせる穴場と言うより殆ど他の釣り人に遭遇しない有難い釣り場だったのです。では、神社と出船場の関係を見ましょう。

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そもそも御厨港とは御(み)厨(くりや)処の意味で、神様にお供えする御贄(オニエ)を調理する場所なのです。この意味は、傍に在る若宮神社こそが相応しく、今でこそ廃社寸前の様に成ってはいますが、本来は若宮様こそが贄を供えられる主だったはずなのです。

 それを強く意識したのは、鳥取県大山町の鳥取県 御来屋漁港を訪問した時でした。

 ここは、後醍醐天皇が名和長年の導きで建武の新政(建武の中興)が開始された現場なのですから、普通は、名和神社こそが贄が供えられる宮…と見えるのですが、周辺の神社を巡り、やはり住吉神社こそ御来屋漁港の贄が供えられる神社と思ったのでした。

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それは、住吉神社の祭神:底筒之男命・中筒之男命・上筒之男命の住吉三神に加え、神功皇后・大山祇命大己貴命事代主命菅原道真公 の底筒之男命こそ仲哀死後の神功皇后を妃として第9代開化天皇でもある久留米高良大社の高良玉垂命の長子こそ若宮神社の主でもあり別名仁徳天皇として知られるシレカシノミコト(通説派はオオササギとしますが)こそが相応しいと考えたのでした。

 そんな話は聞いたことがない…と言われる方は多いでしょうが、久留米の高良大社に残された「高良玉垂宮神秘書」こそ隠された神代の謎を解く重要な道標なのです。

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濱に上がった新鮮な魚が御厨処で直ちに調理され、正面の住吉神社に届けられた姿が目に浮かぶようです。せっかくですから名和神社もご紹介しておきます。

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長年公の御名は初め長高といわれ、村上天皇の第七皇子具平親王を源とする村上源氏の流れを汲む。鎌倉時代の中頃、曽祖父行明の時に但馬から伯耆に移り、汗入郡長田に居を構えられた。

父行高の時に名和の庄に移り、名和氏を称す。当時の公について、『太平記』など古文書は筆を揃えて「いとまうに富めるが類ひろく心もさかしく」、「家富一族広くして心かさある者」と書き記しており、公が諸業の振興に力を尽くし、また思慮深い人柄であったことが窺われる。

元弘3年(1333)閏223日、前年鎌倉幕府によって隠岐に流されておられた後醍醐帝がひそかに島を遁れ出られ、公に救いを乞われた。

公は直ちに帝を船上山へお遷しし、一族郎党を集めて、攻め寄せる幕府軍から帝をお護りされた。帝は殊の外お慶びになり、公の名を長年と改めるようおおせられた、左衛門尉、伯耆守に任じられた。また、自分を船にたとえれば汝は水、「三心相応の謂れあり船を以って吉事となす」として、家紋を改めよと手ずから帆かけ舟を描かれ、御製とともに下された。忘れめや よるべも波の 荒磯を御舟の上に とめし心をその後、名和氏屋敷跡の一小祠に始まり、氏殿神社、名和神社へと場所を変え、長年公は祀られるようになった。


九州には馴染みのない人物の様に思われていますが、20年ほど前に八代周辺の神社を調べていて、名和氏が球磨川を堀として、南側に盤踞した事を知りました。


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南北朝争乱期に球磨川(

肥後国)以南で活躍した名和氏は、肥後国南部を本拠とし、南朝の有力御家人として地域を支配下に置きました。特に名和長年・長重父子らが南朝の忠臣として足利幕府に抵抗し、肥後国で南朝勢力を支えました。

名和氏について

         本拠地: 肥後国(現在の熊本県)南部、球磨川沿いに本拠地を置いていました。

         出自: 『太平記』などにも名が見られる有力御家人であり、南朝の有力な支持勢力でした。

         主な人物:

         名和長年: 南朝を支持して抵抗し、1333年に京都で後醍醐天皇を奉じて幕府を滅ぼすのに貢献しました。肥後国に戻った後も南朝の勢力を支えました。

         名和長重: 長年の息子で、父の遺志を継いで南朝のために戦いました。南朝の後醍醐天皇や良成親王を守護し、球磨川以南の地域で南朝の勢力を維持しました。

            活動: 南朝に忠誠を誓い、足利尊氏・尊氏の弟である足利直義の率いる北朝勢力に対抗しました。

            地域支配: 特に名和氏は球磨川以南の地域、つまり肥後国南部を実質的に支配し、南朝方の拠点として地域をまとめました。この地域での南朝の勢力維持は、彼らの忠誠心と武力に支えられていました。

南北朝争乱期における名和氏の重要性

         南朝の支柱: 肥後国南部という地理的に南朝の重要拠点であった地域で名和氏が南朝を支えたことは、南朝の抵抗力を維持する上で大きな役割を果たしました。

         地域への影響力: 球磨川以南での名和氏の支配は、地域住民や他の勢力にも影響を与え、南北朝の争乱を単なる朝廷間の対立ではなく、地域レベルの勢力争いとしても展開させる一因となりました。

最終的に室町幕府3代将軍・足利義満の調停により南北朝が合一されると、名和氏も北朝側(室町幕府)に服従することになり、南北朝時代の争乱は終結しました。


また、話が逸れましたが、松浦市の御厨に話を戻します。


無題.png伊勢神宮の神官であった初代宮司森川九朗正弘大人伊勢神宮の分霊を捧じ伊勢を船出し(その時963年・応和399日)に御厨町泉に着船する。
964年、康保元年神原(現在の中野地区)に鎮座姫大明神と社号を奉り、その75年後、御祭神の霊夢により、4代宮司森川内記祇弘(ないきまさひろ)の代に、現社域に社殿を遷座し、(長久元年・1040321日)今日に至る。
平成15年・御鎮座1040年祭、来る平成251050年祭を迎える。


祭神 天照皇大御神 

 無題.pngただ、天照が主神と言うのは、本来の伊勢神宮の性格から言って、積極的に受け入れたものではないように思うのです。そう思うのは、伊勢神宮に天照が持ち込まれるのは百年以上は遅れ「倭姫命世紀」で知られる倭姫以降の話でそれまでは外宮しかなかったのです。

 藤原氏と伊勢神宮とは面従腹背どころか、実質的には敵対関係でしかなく、明治まで近畿大和朝廷は公式参拝をしていないのです。

 それは藤原の祖である、10代贈る崇神の祖父草部吉見(海幸彦)と伊勢の外宮の豊受大神(伊勢外宮)の後の夫とは山幸彦は=ニギハヤヒ=猿田彦だからなのです。相殿に祀られる彦彦火瓊々杵大神天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)」は、饒速日命(ニギハヤヒ)が置き替えられたものの様に思えるのです。そして、雨に打たれはしないものの神殿外に祀られる猿田彦神社の主こそ本来の主神豊受大神(アメノウヅメ)=姫神社の主神の後の夫神であり、ニギハヤヒそのものなのです。玉屋大神もニギハヤヒ=猿田彦の可能性があります。


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無題.pngこのような疑問点は多くあるものの、この姫神社の価値は言うまでもなく貴重な一社と言えるでしょう。

そう考える理由は、「鎮西伊勢分宮」という社名に在ります。

 皆さんは、国東半島の姫島正面に別宮社が在る事をご存じでしょうか。こちらもフェリーの出船港ですが、正確には「伊美別宮社」と言いますが、表向きには近畿大和朝廷の庇護下に在る宇佐神宮の権威を受け応神天皇を祀りますが、その神殿背後には高良玉垂命とその長子仁徳こと若宮社を祀っているのです。

 国東とは六郷満山で知られる仏教王国ですが、この地の神社は奈良麻呂の変(757)で力を削がれた、橘一族―忌部―(カミムスビ〜八咫烏〜)の神社であり、岩清水八幡宮(男山)の別宮社の意味なのです。この岩清水八幡宮別宮社、伊勢神宮別宮が全国の旧橘一族の領域に隠然たる力を維持し、鎌倉政権を打ち立て、多くの支配領域を維持していたのです。

 これらの鶴岡八幡宮、伊勢神宮、石清水八幡宮のネット・ワークの一つが松浦の御厨の地にも存在していたのです。

 私は、若宮神社こそ御厨所で準備された供物が運ばれる神社であったと確信しています。

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若宮神社 カーナビ検索 長崎県松浦市御厨町田代免788番地


 同社のネット情報には、以下が出て来ます。


若宮神社は何の神様を祀っていますか?

宇佐神宮の摂社。 除災難・厄難の神様として崇拝されている。 大鷦鷯命(おおささぎのみこと)、大葉枝皇子(おおばえのみこ)・小葉枝皇子(こばえのみこ)・隼総別皇子(はやぶさわけのみこ)・雌鳥皇女(めどりのひめみこ)の五柱の神々が祀られている。2024/02/07


 最近のデータですが、これは「古事記」の仁徳記の記述をそのまま持ち込んだだけのもので、宇佐神宮の中宮と同一の認識の価値の全く無いものです。

 真実の仁徳は仲哀死後の神功皇后を后とした現在久留米の高良山の高良玉垂命=藤原が第9代とせざるを得なかった高良玉垂命=開化天皇なのであり、その事も鎮西伊勢分宮 姫神社側では伝えられていると思うのです。

 この五柱の神は実体を隠すために行われた近畿大和朝廷による偽装でしかないのですが、何故か頭隠して尻隠さずで、高良山直下の久留米市山川町の皇子宮坂本宮に行かれれば、一目瞭然に神功皇后と開化天皇の間に生れた5柱の実子シレカシノミコト=仁徳、朝日豊盛命、暮日豊盛命…以下略の五柱の実子と、4柱の仲哀との子(連子)or仲哀の側室の子だと考えています。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記