2022年11月01日

921 2021年大晦日に遭遇した稲荷社に九州からの移動を見た “愛媛県伊予市伊予稲荷神社”(上)

921 2021年大晦日に遭遇した稲荷社に九州からの移動を見た “愛媛県伊予市伊予稲荷神社”(上)

20220105

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


当会のエース級ブロガーのS氏が“年末年始に掛けて愛媛に行き大三島の大山祗神社を見たい”との話を受け、ほいほい話に乗せられ数年ぶりに四国遠征に向かいました。

3111時の佐賀関〜三崎のフェリーに飛び乗りお昼には三崎から八幡浜市に入り交通量の少ない海沿いのサンセット・ライン 国道378号線で伊予に向かう事にしました。

風も収まり長閑な凪の伊予灘を見ながらの旅は快適そのもので、主要道の国道56号線を使おうとは思いません。

ただ、民俗調査、神社調査では内陸部が重要なのですが、開放的な海の風景を楽しみたいという欲望は抑えられませんでした。このため今回も大洲、内子はパスしてしまいました。

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非常に調子良くスタートした調査旅行でした。天候もまずまずで、交通渋滞とも逆向きの為、快適な旅で申し分なかったからです。ましてや、同行者が神社に明るい「事代主のブログ」氏なのですから、これほど良い随行者はそれほどないのです。

ただ、当初、愛媛県の調査ということから話に乗ったのですが、四国に渡ると計画変更が入りました。

結局、徳島に行きたいとの事で、いつの間にか徳島の調査が8割方占める事になっていたのでした。

それは、フォロアーからの調査地の提案に彼がほいほい乗ってしまったために、何時しか徳島調査が中心になってしまったのでした。

そんなことは聴いていない!と腹だたしかったのですが、もっと自分で調査地を調べておけとの気持ちを抑え、渋々徳島に向かうことになってしまいました。

私も長距離の遠征調査旅行は過去何度となくやって来てはいるのですが、一般に調査地を広げると移動に時間とコストをかけすぎることに成り、自ずと調査が散漫になって良いことはほとんどないという経験を何度となくしているからでした。このため極力調査地を絞り込み、記憶が鮮明なうちにリポートを書き上げるべきと言うのが鉄則と思っていたからでした。このため、多くとも往復4500キロ程度の行程が、徳島市の南まで入るとなると、往復1200キロという3倍近いものになり、事実上関西の神社調査のような話になってしまったからだったのです。グダグダと、愚痴が過ぎ読者の方にはご迷惑だったかも知れませんが、結果ながら、誤りがある時でも素晴らしい神社に遭遇することもあるものです。

前置きが長過ぎましたが、ここから伊予稲荷神社の話には入ります。

伊予の神社と言えば、松前市の延喜式内伊豫神社が良く知られていますが、こちらは5年ほど前に参拝しています。山の伊予神社もあるのですが、こちらは徳島との都合上次回以降に廻すことにしました。

「延喜式神名帳」の名神大社とされる松前町神埼のそれに対し伊予市上野にももう一社伊予神社があり式内社の論社となっているため、次回はそちらに向かう事にしたいと思います。

今回、その印象から伊予稲荷も見るべきだとの感が働いただけだったのですが、急遽、下調べしていた伊予稲荷にハンドルを切ることにしました。それが良かったのです。

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伊豫稲荷神社 カーナビ検索 愛媛県伊予市稲荷1230


伊豫稲荷神社とは愛媛県伊予市にある平安時代初期より祀られる神社である。主神を宇迦之霊大神とし、社格は県社。神紋は三つ火焔玉。 新四国曼荼羅霊場第49番札所。伊予七福神の恵比寿神も祀る。

ウィキペディア 20220105 14:07


もう一度伊予市の神社を確認すると、湊神社があり、三谷神社があり、オオサザキ神社があり、全部回りたい気がします。

最近、伊予には神社に関心を持たれる方で友人ができましたので、身一つで船に乗って全神社調査をやってみたくなりました。これなら一日でもなんとかやれそうですね。船は最終23時代まで有のです。

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さて、我々百嶋神社考古学が書く神社リポートとは、町興し村興しのためのものでもなければ、通説派の話をそのまま垂れ流す神社解説でもなければ、スピリチュアル系の勝手な解釈でもありません。

この神社に感銘を受けたのは、近畿大和朝廷以前の九州の古代王権の痕跡を辿れる痕跡を見出せるからであり、その意味で気が付いた部分をご紹介してみたいと思います。始めに目に入ったのは藤棚でした。

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同社正面に置かれた藤棚

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「それがどうした」と言われそうですが、福岡県久留米市の高良大社に残された「高良玉垂宮神秘書」にも藤大臣が出てきます。高良玉垂命は藤が好きだったと記録されており、この玉垂命(実は後の藤原氏が第9代開化天皇と扱った)こそが藤を愛した天皇だったのです。

九州では藤棚が多くの神社に認められますが、これこそが近畿大和朝廷に先行する九州王権の最盛期を示すシンボルでもあるのです。

そして、最も有名なのが、福岡県八女市黒木の藤棚であり、その近くには旧星野村までがあったのです。

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そこで境内を見せて頂く前に宮司邸の表札を見ると、なんと「星野」様だったのです。

我々九州に住む者にとって星野と言えば、それは八女市の奥、現大字星野(旧星野村)以外ありえないのです。

下を見ると非常に興味深い事が判ります。現在こそ群馬県が中心地のように見えますが、これはどう見ても日本海側(新潟県)から北関東、そして南関東に入っている様に見えるのです。

まさか群馬から伊予に入っているとお考えになる方もおられないと思うのですが、恐らく福岡県八女市星野(旧星野村)から北の朝倉郡に入った人々の移動と考えられそうです。それを裏付ける様に、今治市にも朝倉地名があるのです。

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「星」紋は北極星を意味し、妙見菩薩信仰に由来する。「三つ星」は「大将軍」と左右の将軍を意味するという。実は我が古川家も三唐草付き丸に三星紋です。           福岡県八女市HPより

問題はこの時期ですが、恐らく朝倉郡(葦原中津国)が高木大神系に奪われて以来の現象のはずで、大三島への大山祗=トルコ系匈奴の開封によるもののように思えるのです。

これについては、以下をお読み下さい。大国主命が奪われた葦原中津国とは福岡県朝倉郡だったのです。


ひぼろぎ逍遥

177 大国主を出雲の神様と考えておられる方に対して僭越ながらも…

スポット 041 6.26 甘木朝倉「田神社探訪トレッキング」での驚愕すべき発見! @

スポット 042 6.26 甘木朝倉「田神社探訪トレッキング」での驚愕の発見! A

無題.pngスポット 042 6.26 甘木朝倉「田神社探訪トレッキング」での驚愕すべき発見! A

スポット050 筑前町に「日隅宮」を発見した!

ひぼろぎ逍遥(跡宮)

271 田神社(タノカンサー)は朝倉郡を中心に60社近く存在した

272 朝倉市(甘木)古賀の松尾神社は田神社(タノカンサー)だった!

ビアヘロ021 6.26 甘木朝倉「田神社探訪トレッキング」での驚愕すべき発見! @

ビアヘロ023 筑前町に「日隅宮」を発見した! 


これについてはパワー・ポイントを作成しています。実費程度でお送りします。本ブログは、朝倉で起こった出雲の国譲り問題を捨象しましたので分かり難いものになりましたがご容赦下さい。

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2022年10月27日

920 ザ・ドリフターズの志村けん の同級生だったという恵面(エズラ)さんの恵面姓とは何か? A

920 ザ・ドリフターズの志村けん の同級生だったという恵面(エズラ)さんの恵面姓とは何か? A

20200401

太宰府地名研究会 古川 清久


本稿は 815 ザ・ドリフターズの志村けん の同級生だったという恵面(エズラ)さんの恵面姓とは何か? @ の続編になりますのでそちらからお読み下さい。

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喜劇王 悲しすぎるよ 志村けんさん死去 コロナで急逝「危険身近に」による


当初、恵面さんとはその居住地(東村山)から言って、北関東を中心に展開し後に武士(モノノフ)と呼ばれた古代物部氏の一氏族だったのではないかと考えていました。

しかし、どうも「エズラ」という姓(呼称)が日本的でないことは明らかな上に、物部的でもない事からそれも違うのではないかと考えるようになりました。

そこで思い出したのが「旧約聖書」に「エズラ記」がある事でした。

無題.png旧約聖書にはヨシュア、ヨブ、イザヤ、エレミア、エゼキエル…外多くの記録書があるのですが、カソリックは別としてユダヤ教で最も重視されると言われるのが「エズラ記」なのです。

「バビロン捕囚」は良く知られています。新バビロニアのネブカドネザル2世によってユダ王国の民がバビロンへ捕虜として強制移住させられた事件です。

その後ペルシャのクロス王が新バビロニアを滅ぼし、紀元前6世紀にバビロン捕囚は一部解消されます。

さらに紀元前5世紀にもエズラによって第二次の帰還が行われエルサレムの城壁の改修が行われたのでした。この栄えあるユダヤ人の指導者こそエズラだったのです。


学者エズラの功績


BC539、バビロニア帝国に代わって支配者となった ペルシャ帝国のクロス王の勅令により、一部のユダヤ人がエルサレムに帰還し、 多くの困難を乗り越えて、神殿を再建(BC516)、続いて城壁を再建(BC444)します。 神殿の再建には総督ゼルバベルと祭司であり学者であるエズラが、 城壁の再建には総督ネヘミヤが大きな働きをしました。 このようにしてエルサレムの町が再建され、 「第七の月が近づくと、民はみな、いっせいに、 (城壁の)水の門の前の広場に集まって来」 (ネヘミヤ77281)ます。

Wikipedia 20200402 1701による(↓)

聖書のお話(学生向)による


無題.png皆さんまだ覚えておいでだと思いますが、日本が輝いていた時代(1979)いまや恥ずかしくさえ感じる「Japan as Number One」を出してくれたのが社会学者のエズラ・ボーゲル教授でしたね。その後竹中、小泉によって日本は奈落の底に叩き込まれるのです。

ただ、同教授は日本に警戒せよと言う警告の書として書いたのであって日本への敬愛の念を込めていたのではなかったのです。彼は今も健在でトランプに周近平との融和を訴えているのです。詳しくは、日経ビジネス2019/12/6を…(古川)

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バビロン捕囚


ここまで推定を越え想像に空想を加え、失礼を無視して北関東の恵面一族の起源を勝手に書いてきましたが、そのエズラの一流がどのようにして列島に入って来たかを考えて見たいと思います。

東京都の西には東村山の南には小平、国分寺、武蔵野、三鷹、日野、府中、調布市があり狛江市があります。

狛江市はかつて高麗=高句麗系渡来人が入った国と考えられましたが(最近は行政が否定してはいるようですが…)、それでも、埼玉県日高市に鎮座する高麗神社には高麗王若光の伝承があり同社自体が高句麗の後裔である事も含め、大量の高句麗系氏族が北関東一帯に展開した事は十分に考えられるのです。

事実「日本書紀」「続日本記」に記述があり、高句麗からやってきた日本にやってきた高句麗系氏族の中心に高麗王若光がいたはずなのです。


高句麗から日本に渡来してきた高麗王若光の生涯と埼玉県日高市にあるお墓


716(霊亀2)年に駿河・甲斐・相模・上総(かみつかさ)・下総(しもつふさ)・常陸・下野(しものつけ)の7国に居住していた高麗(こま)人1799人を移し、武蔵国高麗郡(現・埼玉県日高市や飯能市を中心に東西30km、南北10kmに渡る村々)が建郡された。その高麗人たち、そして彼らを統率し、高麗郡全体を治めたとされる、高麗王若光(こまのこしきじゃっこう)(?748)は異郷・高麗で何を考えて一生を終えたのだろうか。

高麗王若光「らしき」人物についての公式記録は、『日本書紀』(720年)内の、天智天皇5666)年10月に、高句麗(こうくり、BC37668)国王が飛鳥に送った使者のひとりに「玄武若光」がいたこと。 

そして『続日本紀』(797年)の、大宝3703)年4月に、朝廷から従五位下(じゅごいげ)の高麗若光に王(こしき)の姓(かばね)が与えられたということだけである。ここで言う「姓」は苗字のことではなく、臣(おみ)・連(むらじ)・朝臣(あそん)・眞人(まひと)などの称号のことで、「王」は外国の王族の血を引いた高位の者に与えられるものであったため、若光は高句麗王族の血縁者または高位の者であったことが窺い知れる。しかし「玄武若光」と「高麗若光」が同一人物であるかに否かに絡んだ記述は存在しない。また、694(持統8)〜710(和銅3)年まで日本の首都であった藤原宮(奈良県橿原市)跡東面大垣地区から出土した「□□(判読不能)若光」の文字がある木管が、高麗王若光と関連があると見られている。


我々、百嶋神社考古学の信奉者には、百嶋由一郎氏の話が耳に残っています。

「高句麗はユダヤ系ではなくイスラエル系です…」と言われていました。恐らくこのイスラエル系氏族と共にエズラの一族も列島に避退、進出…してきたのではないかと思うのです。

他に重要な説があればいつでも従いたいと思います。ご判断はご自由です。

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百嶋由一郎 010img004氏系譜


百嶋由一郎氏が残した神代系譜、講演録音声CD、手書スキャニングDVDを必要な方は09062983254

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2022年10月24日

919 ザ・ドリフターズの志村けん の同級生だったという恵面(エズラ)さんの恵面姓とは何か? @

919 ザ・ドリフターズの志村けん の同級生だったという恵面(エズラ)さんの恵面姓とは何か? @

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太宰府地名研究会 古川 清久


まだあまり馴染んでいない人から“あなたはどんな音楽が好きですか”などと問われると、“カルロス・ディサルリやオスワルド・プグリエーセ…など1930年代のアルゼンチン・タンゴが好きだ…などと始めから本性を現さず、「ドリフターズですかね…」などと皮肉を込めて答えてびっ無題.pngくりされる事が過去何度かありましたが、当然にも私の言うドリフターズとは、R&Bのザ・ドリフターズだった事は言うまでもありません。

ザ・ドリフターズ(The Drifters)はアメリカ合衆国の米国のドゥーワップやリズム・アンド・ブルースを歌ったコーラス・グループ。1953年に結成された当時は、ビリー・ワード&ザ・ドミノスの元リードテナー[注釈 1]であるクライド・マクファターのバックコーラスだった。「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第81位。『ローリング・ストーン』誌によると、マクファターが去った後のザ・ドリフターズは、1955年からその名称(権)を所有するジョージ・トレッドウェルにより雇われた低賃金のミュージシャンだったため、偉大なコーラスグループの中で最も安定感に欠けていた。トレッドウェル・ドリフターズの歴史には、ドリフターズの元メンバー(トレッドウェルの管理下ではない)による幾つかの分派グループを含め60人の歌手がいる。通常、これらのグループは「ビル・ピンクニーのオリジナル・ドリフターズ」「チャーリー・トーマスのドリフターズ」などのクレジット表記で識別されている。ウィキペディア20200401 0829 による

There Goes My Baby(1959)、「ラストダンスは私に」(1960)、「渚のボードウォーク」(1964)


これは、ある意味で他人への防衛反応でもあったのですが、元に戻せば、クレイジー・キャッツに続くコミック・バンドであり、今や1966年のザ・ビートルズ日本公演で前座を務めた事さえも忘れ去られた感のあるザ・ドリフターズの事でこれも五十年以上前の話になります。さて、当会の女性メンバーから“「恵面」(エズラ)姓とは何か“と言う問い合わせが飛び込んできました。熊本で子供食堂やら一人親家庭の支援などを行う全国区の団体Aの指導者でもあり、熊本地震で自宅も被害が出ている中、直ちに周辺で犠牲になった人々への炊き出しなど支援活動を行う立派な人(私は始めて出合った時からウイグル(トルコ系)の舞姫と呼んだ美形だけに、書き掛けのブログを中断し、とりあえず分かる範囲で簡単に調べてお答えする事にしました。多分、会議の合間に志村けんがコロナ・ウイルス禍によって亡くなったという報道を見て志村の同級生の東村山市の「恵面」さんという姓が気になり連絡してこられたのだと思います。

熊本地震で阿蘇大橋が崩れると半年も前から何度も大騒ぎをしていた霊能力(予知能力)のある女性だけに、何らかの直観がひらめいたからだと思うのですが、非常に面白い事に気付きましたので、当の恵面様にはご迷惑が掛かるかも知れませんが、歴史探究の可能性の確保の気持ちはあるものの、只の戯言として見過ごして頂きたいと思うものです。

志村けんと言えば、ザ・ドリフターズから抜けた荒井注の替わりに後で加わった知らぬ者はないほどの方ではあるのですが、東京都東村山市に住む幼馴染に「恵面」さんがおられた…と言う事で当方も直ぐにある種のイメージが湧いてきました。

 しかし、恵面(エズラ)姓とは驚くべきものです。どう考えても日本語の語感を持たず、明らかに渡来系の民族であろうと考えました。特に「恵」が含まれている事からして713年の「好字令」以降に文字を替えたとしてもその思いは変わらないほどのインパクトを伴うものでした。まず、全国でも100件以下のレアな姓であろう事は想像が着きます。例によって、「姓名分布&ランキング」を見る事にしましょう。

予想通り、10件あまりが北関東に集中している事が分かります。

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最大が東京都の6件で、東村山を中心とするものであろうことは一目です。

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狛江市には高句麗系の人々が組織的に入っている事は記録もあり、一般にもかなり良く知られていますが、まず、水を得にくいことから農村稲作に不適な北関東平野の荒野の一角に、大陸から半島経由で入って来た中近東方面の氏族(民族)ではないかと考えました。

 特に、分布のピーク(と言っても6件ですが)が東村山に有る事から、もう一つのイメージが膨らみます。

 何故なら、牟礼、群、室、村(ムレ、ムロ、ムラ…)とはシルクロード一帯の集落、砦集落、城塞集落をひく地名の可能性があり、東村山とは「村山」さんが集団で東に移動した事を表しているはずなのです。

 そこで、村山姓がどこに集中しているかを調べて見ました。粗方見当は付いていましたがこれほど鮮明に表れるとは思っても見ませんでした。

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田中角栄の出身地の西山町(現柏崎市)辺り、柏崎刈羽から十日町市、南魚沼一帯は、九州を追われた物部氏本隊が海路日本海を北上し時間を置いて東に山を越え北関東に入った震源地と考えてきました。

 詳しくは、ひぼろぎ逍遥から以下をお読み下さい。


295 北北東に進路を取れ! N 柏崎刈羽に筑豊から展開した二田物部を確認した     20160105


新潟の彌彦神社へと快調に走っている途中、有名な東京電力(株) 柏崎刈羽原発の辺りを通過していると、二田という地名と物部神社という表示がカーナビに飛び込んできました。

休憩も必要ですからこれ幸いでもあり、まずは見聞とばかりにハンドルを右に切りました。

場所はこれまた有名な出雲崎町の手前、柏崎刈羽原発の北東五キロほどの旧西山町です。

これほどはっきりした幟を揚げた物部神社も珍しいと思いますが、この「二田」が筑豊の物部25部族(「先代旧事本記」)の移動先の一つである福岡県鞍手郡小竹町新多=二田(ニイタ)であることは疑いようがありません。

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遠来の地であり軽々には語れないのは重々に分かっていますので、ここでは、筑後物部の筑豊への、さらには日本海側への展開の一例を発見したとだけとして、これ以上の深入りを止めておきますが、一目、社殿の造りは筑後物部の鞘殿の様式と見たいところです。

 ただ、雪深い土地柄ゆえの鞘殿かも知れないため単純な当て嵌めも危険かもしれません。当然、ガラスの温室風の参拝殿も寒さ対策としての土地柄のもたらすものの可能性も考えておくべきでしょう。

ここで面白いと思ったものに、社殿に付された神紋がありました。これまた、一目、徳川葵の原型とも言うべきものに見えるのですが、注意すべきは、この神紋が中世の豪族の物であるのか、古代に入った物部氏の一派が使っていた物かが分からないのが残念な限りです。

ここら辺りになると地域の文化、歴史への体系だった知識の蓄積がなければ判断できない領域になるのです。いずれにせよ、物部氏が後の武士階級に成長した可能性を示すものであり、その裏付けを発見したと言いたいところですが、当面は保留を余儀なくされそうです。

地元の郷土史家などとの接触も必要ですが、ただの物見遊山の旅人の質問においそれと耳を貸す識者もいないでしょう。しかし、物部氏から「モノノフ」と言う言葉が生まれ武士が生まれたとするのは痛快な仮説ではあります。

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参拝殿から神殿への鞘殿?(左) 古風な尻合わせ三つ葵紋は誰の物か?(右)

立ち葵から三つ葉葵、さらに徳川葵への変化の一つを表すものであれば興味深いものです。

尻合わせ三つ葵紋は徳川氏=松平氏がその初期に使っていた形跡があるようで、面白くなって来ました。

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敬愛するHP「倭国九州王朝」より

 ここで、いつも参考にさせて頂いている「苗字と家紋」… 無題.pngに助っ人を頼みたいと思います。以下。


 無題.png無題.png徳川家の三葉葵紋
 一般に徳川氏は葵紋であるのが定説化されている。水戸黄門で「頭が高い、この葵の紋どころが目に入らぬか」という 決め台詞が有名だ。

徳川家の三つ葉葵の原形は、二葉葵といわれている。この二葉葵を紋章とするのは、だいたいが加茂明神信仰から出て いる。二葉葵は京都の賀茂神社の神事に用いられてきやもので、別名カモアオイともいわれる。そして、加茂祭には 必ずこの二葉葵を恒例の神事よして用いたことから、この祭を葵祭という。
無題.png このように葵は、加茂祭に用いた零草であるため、この神を信仰した人々がこの植物を神聖視し、やがて、 これを家紋としたことは当然のなりゆきと言える。『文永加茂祭絵巻』に、神事の調度に葵紋が用いられているのが 見られる。このころから家紋として用いたようだ。写真:上賀茂神社の紋-二葉葵  葵紋が武家などの家紋となったのはかなり古い。『見聞諸家紋』によると、三河国の松平・本多・伊奈・ 島田氏らが戦国時代前期ころから用いていたとある。このなかで、本多氏の場合「本多縫殿助正忠、先祖賀茂神社職也、依って立葵を以って家紋と為す」と『本多家譜』にある。このことから、本多氏の祖先が賀茂神社の神官の出であることにちなんだことが知られる。
………
・家紋:立ち葵紋
 同じく、松平氏が葵紋を用いたのも加茂神社との関係に基づいたもののようである。松平氏は新田源氏の流れを汲むとされるが、室町時代は加茂朝臣と称しており、加茂神社の氏子であったことがある。これは松平三代信光が、三河国岩津村の妙心寺本尊の胎内に納めた願文に「願主加茂朝臣信光生年二十六歳」とあることでもわかる。このように、松平氏は加茂の氏子として葵紋を使っていた。その葵紋は二葉か三葉か確たるところはわからない。
 しかし、徳川氏の先祖とされる新田氏の家紋は「大中黒」または「一引両」である。徳川氏が先祖の家紋を引き継ぐとすればさきのいずれかでなくてはならない。松平氏に婿入りしたためにあえて新田の家紋を使わなかったのであろうと思われる。また、三代・信光の墓には剣銀杏の紋が付けられている。少なくとも信光の時代には、葵紋は定着していなかったようにも思われる。

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百嶋由一郎「ヤタガラスバリアシオン」神代系譜


この点に関しては我が百嶋先生もお気づきだったようです。新田義貞の家紋も○に一文字(一引き)。

徳川が、新多物部→二田物部→新田氏→徳川氏とすれば、面白いのですが、そのことをお示しするために、百嶋先生の資料から葵のヤタガラス神紋系譜をご覧いただきましょう。

これで、この二田(新多)物部からその延長が判れば良いのですが、結論を急ぐのは冷静に止めておきましょう。しかし、上賀茂=崇神の系統の可能性は高いのではないでしょうか?

「物部」とは職能集団であり、多くの民族(氏族)の複合体ですが、この二田物部がどの系統であるかを考える際に、この神紋から大枠では大幡主系と考える価値はありそうです。


百嶋由一郎氏が残した神代系譜、講演録音声CD、手書スキャニングDVDを必要な方は09062983254


追記)私達はこれまで筑後(筑後が起点ではなかった事は既に気付いていますが)から筑豊に展開した物部二十五部族を追い求めて来ました。

 ただ、物部氏でも「先代旧事本紀」の筆頭に書かれる最強の二田物部(ニギハヤヒ)を祀るとしか思えない新潟県の柏崎刈羽の二田物部神社を見出だした時、新潟県の「ニイ」、木枯紋次郎の上州新田郡三日月村の新田「ニッタ」(三日月村はフィクションですが新田郡は存在していました)も、新田義貞の「ニッタ」も、「新」を新しいと言う意味で「ニュウ」と表現する中近東系の民族が列島に入っている事を確信するのです。その延長に「恵面」姓も存在するはずなのです。

 ただ、どうもこの「恵面」の一族は、ニギハヤヒ系の物部氏ではないという思いが募っていました。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記