太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2017年03月26日

309 塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! D 水俣市塩浜運動公園の塩釜神社

309 塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! D 水俣市塩浜運動公園の塩釜神社

20160919

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


正直言って、天草下島まで足を延ばして直ちにとんぼ返りして水俣まで向かうと言うのはバカバカしい上に、気がふれていると言われても仕方がないような事です。

 ただ、九月の3連休手前天草は、既に朝九時頃から下りが込み始めていましたし、三時を過ぎると身動きが取れなくなる事は十分予想できたため、いち早く天草を脱出したいという思いに駆られたからでした。

 十分な聴き取り調査を行うべきところもパス・スルーしたのはそのような背景があったからです。

 次のポイントは、水俣の手前の津奈木町岩城です。

 八代市の日奈久から南は南九州道の無料区間があり芦北町(桟敷町)までは直ぐに移動でき、目的地も直ぐに発見できました。

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路地裏と言っても良いような旧道のカーブの奥と言った場所に小さな祠がありました。勿論、古くは潮が入るような場所であることは言うまでもありません。

地番が合っているので間違いないと思いますが、祭神は猿田彦ではなく天照大御神となっています。

今のところこれ以上の情報は得られません。

ただ、天草市志柿の仲之塩屋大神宮が猿田彦と天照大御神の複合であった事を考えると、反ってこれもリアリティを感じさせてくれるもので、もっと多くのファクターを拾えればまた違った発見が得られるかも知れません。このような失敗が次の新たな発見を準備してくれているのかも知れないのです。

さあ、水俣まではあと一息です。


水俣市中心部の塩釜神社


水俣市は水俣川と湯出川の河川合流部に成立したもので、川が又になっている川俣、水俣がその地名の起源になっている事は言うまでもありません。

その合流部辺りから海向かって河川堆積物が蓄積された場所に、浜町、八幡町、古賀町、塩浜町、浜松町、築地、洗切町…が並んでいます。

「熊本県神社誌」によると目的の神社は八幡町にある事にはなっているのですが、地番、町編成が変わったものか、カーナビでは辿り付けません。

浜八幡宮は直ぐわかりましたが、目的の神社は一向に見つかりません。

 諦めて撤退しようとも思ったのですが、町名変更が行われたのならば、塩浜神社は、塩浜町に在るだろうと考え、カーナビから離れ、道路地図を見直すと、塩浜町付近に塩釜神社(塩浜神社と呼ばれていた可能性は十分にあるのですが…)が在るではありませんか。

 まず、間違いないと考え直ぐに現地に向かうと、水俣第二中学校と塩浜総合運動場との間に道路がありその一角に同社があったのです。

 一般的に海岸部の道路は旧堤防をそのまま道路になったものが多いため、この神社のある場所は旧堤防跡であることに気付きました。してみると、目の前の一段低い(11.5メートル)塩浜総合運動場こそ塩田跡ではないかとの思いが沸き起こりました。

 逸る気持ちを抑え早速社殿を見せて頂きましたが、案の定、ここでも御神体は二体(づつ)ありました。

 つまり、四体あったのですが、一目、古い御神体と新調された御神体の合計四体のようでした。

 それほど大きな神社ではないため、それ以上の情報は得られません。

 聴き取りを試みましたが、最近は神社に通じた方も少なく、路地にもほとんど人が出ておられないため聴くこともできません。

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この塩田起源の運動公園そばに残された耕地整理記念碑の記録を読むと、この塩田は拾八町二反三畝歩であったと書かれていました。

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塩釜神社と塩田、従って塩土老翁=大幡主と猿田彦命と製塩業との関係は濃厚であることが確認できたのでした。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 02:02| Comment(0) | 日記

2017年03月22日

308 塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! C 天草市五和町塩屋大明神正面の塩田跡

308 塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! C 天草市五和町塩屋大明神正面の塩田跡

20160919

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

本渡瀬戸ループ橋を渡って北に向かうと30分を要せず五和町御領に入ります。

 古くは繁盛したと思われる街並みのを通り抜け探し回りますが、一向にそれらしき神社に出くわしませんでしたが、再度、カーナビに御領5587を入力し直しようやくたどり着いた小丘に塩谷神社ならぬ塩屋大明神が鎮座していました。

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今回の調査探訪では、有名な神社でも豪華な社殿の大社でもないただの無格社級の神社ばかりを探査してきました。

 しかし、猿田彦を正面に立てた神社群の中に、その父親である大幡主(実は第3代安寧天皇)が封印されており、その正体が塩土老翁であり製塩の支配者、交易者=大船団の支配者だった姿が見えてきたのでした。

 その仮説の検証のための探訪でしたが、これほどはっきりとした半ば証拠のようなものに遭遇できるとは考えていませんでした。

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この手の無格社クラスの小社、祠に関してはほとんどまともな取り扱いがされておらず、社名さえも判読できないものが殆どと考えていたからです。

 この神社の正面には以下の由来がはっきりと書かれていたのです。

 恐らく、何らかの伝承が残されていたものでしょう。この塩田地帯が古代まで遡るものであっただろうことは疑い得ないように思います。

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ここでも、御神体は二体でした。

 もはや、猿田彦大神一神とされている「熊本県神社誌」に疑いを向けるのは致し方ないように思います。

 ただ、祭神が猿田彦一神とされた理由は分かりません。

 相当古い時代から猿田彦だけが許されたものの、大幡主は許されなかった、しかし、地元では祀られていた。

 つまり、海幸彦との関係が濃厚な阿蘇氏による大幡主隠しと山幸彦の猿田彦との貶めが考えられるのですが、あくまでも仮説でしかありません。

 藤原氏、そして阿蘇氏もともに阿蘇高森の草部吉見神社の主神=ヒコヤイミミの流れを持っているのです。

 この辺りの事情については既に伝承を探る時期を越えていると言う気がしますが、再度訪問し聴き取りを行ってみたいと考えています。

 次の写真はこの塩屋大明神正面に広がる水田を写したものです。

 江戸時代の塩田はもっと海に近い所にあるのですが、古代の水田はこちらだったと思います。

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それは、大明神の小字がこの水田に潮を入れ、吐き出す水門の管理できる場所に置かれている様に見えるからです。

ただ、現地のフィールド・ワーク、ヒヤリングが完全ではないため、ここまでで留めておきたいと思います。

 次の目的地である津奈木、水俣に大返しする事になりましたが、帰る途中に、別路を通ると、近くに江戸期からの塩田地跡との教育委員会の看板を見つけました。

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教育委員会ではなく御領まちづくり振興会によるものです

もはや、学会通通説に阿る教育委員会とか学芸員といった方々には、全く期待できない時代になっているようです。

 このような傾向は全国で認められます。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 15:08| Comment(0) | 日記

2017年03月18日

307 塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! B 天草市志柿の中之塩屋大明神

307 塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! B 天草市志柿の中之塩屋大明神

20160919

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

 次に向かったのは本土の瀬戸に近い天草上島の有明海側の志柿でした。

 五キロも走れば本土の瀬戸のループ橋に着く場所ですが、手前の島子地区を通り抜け、旧道に入れば仲之塩屋大明神に着きます。

 今回のテーマは、塩土老翁が実は第3代安寧天皇であり、博多の櫛田神社の主神である大幡主であり、浦島太郎であり、猿田彦=ニギハヤヒ=山幸彦の父神であるという仮説の検証作業です。

 その浦島太郎ではないかと思いを巡らしている大幡主の子かも知れない猿田彦の探索中に島子という集落に出くわすと、思わず反応してしまいます。

何故ならば、浦島太郎を祀る浦島神社の主神の一人は浦の島子だからです。


 …安寧天皇は、日本の第3代天皇。 和風諡号は、『日本書紀』では「磯城津彦玉手看天皇」、『古事記』では「師木津日子玉手見命…

ウィキペディア(20160919 13:50による

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 ここでも御神体は二つでしたが、「大幡主はあまり表にお出にならない…」とは百嶋由一郎氏の弁でした。

 どうやら、天照大御神に変えられているようですが、本来は大幡主だったとの確信を強めたのは、この背後地を見た時でした。

 古い時代の締切堤防としか思えない湾曲した道路に車を止めていますが、その内側には塩が引き込める浅い浜が広がっており、製塩が営まれていたのではないかと思うばかりの形状だったのです。

 当然、移動用の道路は、尾根伝いか、山裾の曲がりくねった浜野辺の道だったはずで、浅い海浜に塩水が入れられ、濃度の濃い塩水が付近の火力のある海岸性樹木で焚き揚げられ有力な交換物資としての塩阿が作られていたのだと思うのです。

 ここまで、考えてくると、不知火海に出たとされる不知火とは製塩のための炎だったかも知れないとも思いを馳せるのです。

 不知火を不知火海だけで出ていたものと考えてはいけません。

 戦前まで、島原でも不知火を見る事が出来たとの証言もありますし、東京オリンピックが行われた1964年(昭和三九年)に作られた島原市の盆踊り歌「本丸踊り」(向島しのぶ、ビクター少年民謡会:唄)「・・・沖の不知火沖の不知火ヨー、誰故燃える・・・」や、「島原の子守唄」(森山良子:唄)「沖の不知火、沖の不知火消えては燃える・・・」などの歌詞の中に“不知火”が歌い込まれているのです。

島原から不知火海が見えるはずはないことから、この不知火とは有明海(宇土半島北)の不知火の事なのです。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 12:58| Comment(0) | 日記