太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2017年08月27日

370 蘇民将来 巨旦将来と百嶋神代系譜 B 分離先行トレッキング

370 蘇民将来 巨旦将来と百嶋神代系譜 B 分離先行トレッキング

20170213

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川  清久


 20173月、熊本のメンバー340人を対象に、宮崎県五ヶ瀬町鞍岡をエリアに4社を巡る神社トレッキングを企画しました。

 無題.pngただ、熊本地震の影響でこの一帯に入るルートにも障害が出ており、かなりの距離もあり、また、年度末でもあり、多くのメンバーが一度に集まる事はなかなかできませんでした。このため、当日参加できない方達を対象に何回かに分け現地を廻る小規模なトレッキングを行う事にしました。

 朝から素晴らしいばかりの青空が広がり、反って本番の20日が雨でなければという思いがつのります。

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調整のための分割開催ですが、下調べの意味もあり、未踏の天津神社への下見と言った意味もあります。

 由緒から見る限り、まず、本殿に祀られているのはスサノウ、オオナムチ、イザナミの三神であると考えられます。

 まず、注目して頂きたいのはイザナミが祀られてはいるもののイザナギがいないことです。

 百嶋神社考古学ではイザナミとイザナギはスサノウを産んだ後に別れており、ここではそれが反映された祭神になっている(熊野もそうですが、だから黄泉の国からイザナギは鬼女に追われ死んだことにしてあるのです)のです。

 百嶋神社考古学ではイザナミは瀛氏の金山彦の妹であり、五瀬命(イツセノミコト)の母なのです。

 そもそも祇園神社が鎮座する鞍岡は五ヶ瀬町にありますね。単なる偶然だと思われますか?

 祭神に奇稲田姫神=櫛稲田姫が書かれているのも、金山彦が大幡主の妹である埴安姫との間に産んだ姫神だからなのです。

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 無題.pngそして、蘇民将来、巨胆将来の巨胆将来こそが阿蘇神社の神殿最奥部に祀られている第二代綏靖天皇とされた神沼河耳命なのです(赤枠)。

 結局、神殿に祀られている祭神を見ると、祇園神社がイスラエル系=瀛氏の金山彦を中心にスサノウ系、金山彦系で固められた神社である事が分かるのです。

 では、何故か神殿から出された?若しくは境内摂社として神殿外に置かれた祭神を考える事にしましょう。

 まず権現神社から考えますが、誤植があります。

 それは最後尾の熊野天須美神です。

 これは、通常、熊野夫須美命などと表記される大幡主系=熊野系の主神のお一人、瀛氏の金山彦の妹であり、イザナミからクマノフスミと名を改められた五瀬命(イツセノミコト)の母神(熊野那智大社)であり、大幡主(熊野速玉大社)のお妃神なのです。

 良く分からないのが権現神社の筆頭に掲げられた家都御子神です。

 このような表記に出くわしたことがないため、分からないながらも一応の提案をしておきます。

 イザナミ改めクマノフスミ(熊野那智大社)と大幡主(熊野速玉大社)の御子神とすればヤタガラス=豊玉彦で良いはずで、×イチ夫婦の御家の御子神との表現は、熊野権現、熊野修験の影響がこの地まで及んでいた事をまざまざと見せつけられた思いがします。

 そう言えば、五ヶ瀬町に南朝方から出された木地師などへの綸旨が残されている事とも符合する事に思い至ります。


木地屋について
 木地屋とは、轤轤でお盆やお椀などをつくりながら全国を渡り歩いた木地屋職人の人たちである。木地屋には山の八合目以上の木は全国どこでも切ってよいとされる朝廷からの天下御免の免許状が与えられていた。
 文徳天皇の第一皇子惟喬(これたか)親王(八四四ー八九七年)は二十九歳の時、都をのがれて近江の国小椋郷に移り、貞観十四年(八七二年)に出家して素覚法親王と名乗った。親王は読経中に法華教の経典の丸い軸から轤轤を思いつき、その技術を付近の住民に教えたという。
 こうした由緒に基づいて木地師は小椋郷をふるさととし、惟喬親王を轤轤の神様と仰いだ。祖神の氏子に対し朝廷は木地師の特権を認めた綸旨(りんじ)、免許状、鑑札、印鑑、往来手形などのいわゆる木地屋文書を与え身分を保証した。木地師はこの文書を携えて全国各地に散り、独自に生産活動を行うようになった。
 氏子には二派あり、一方を筒井公文所、もう一方を高松御所として、氏子狩と呼ぶ制度によって全国的な組織に統一されていく。

 氏子狩は小椋郷から奉加帳を持って諸国に散在する木地師を訪ね、祖神への奉加金を徴収し、人別改めを行った。
 木地師研究家の杉本壽氏の資料によると、正保四年(一六四七年)から明治二十六年(一八九三年)まで、奉加帳に登録された木地師の延べ人員は筒井公文所約五万人、高松御所約一万人といわれる。
 当地では、明治三年(一七六六年)鞍岡山、木地屋九軒とあり十三名分の奉加金が登録されている。しかし江戸末期からはその消息を絶った。代わって明治初年、三ケ所地区に小椋家が移住してきた。小椋家には木地屋文書があり、家宝とされている。木地屋文書は、江戸時代まで先例通り許可したが、明治時代になり土地の所有権制度が確立されてからはその慣例は無効となった。木地師は特権が認められなくなると、山から山へ渡り歩くことをやめて、農耕を兼ねるようになり、定住してきた。
 五ケ瀬町史(昭和五十六年発行)によると、小椋家の木地屋古文書には次のようなものがある。承平五年(九三八年)左大丞(太政官の左弁官局長官)の名で出された免許状で『器質の統領として、日本国中の諸国の山に立ち入ることを免許する』という書状。
 承久二年(一二二〇年)惟喬(これたか)親王を祭る筒井神社にあてた大蔵政卿雅仲、民部卿頼貞、藤原定勝、連署の惟喬親王由緒書。
 元亀三年(一五七二年)『諸国の轤轤師(ろくろし)杓子、塗物師、引き物師の一族は末代其の職を許し諸役を免除させる』という書状。天正十一年(一五八三年)には豊臣秀吉から『日本国中の轤轤師の商売は、先祖からのしきたり通り異議なく差し許す』という許可丈が筒井公文所あて出されている。
 九州において、一国の頭領が所持する木地師の由諸書や免許状を保存しているのは小椋家だけではないかといわれる。

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一先ず縁起の境内社の部分はお分かり頂けたと思います。 

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大幡主ご一家が権現神社であり、古我武礼神社がクラオカミ(スサノウの姉)で、妙見神社が天御中主=大幡主の叔母さんにあたります。


最後になりますが、縁起に書かれていない生目神社が大山祗の左に鎮座している事にお気付きでしょう。

 これが宮崎市に鎮座している生目神社なのですが、百嶋神社考古学では、阿蘇高森の草部吉見神社の彦八井耳と高木大神(タカミムスビ)の娘であるタクハタチヂヒメの三世の孫が藤原により格上げされた後の贈)垂仁天皇(その実体は宇佐ツ彦)であり、宮崎にあることから明治期持ち込まれたものと思います。

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2017320日(月)12:3017:00(セレモニー参加者は別途ストーンサークルにて10:00前後〜)

集合場所:熊本県高森町草部1170-2 0967-64-0134 奥阿蘇物産館駐車場  3040人の参加になる事も考えられますので乗合調整を行います          緊急時連絡 090-3198-6731(柿木)

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@  祇園神社  五ヶ瀬町鞍岡祇園   A 冠八面大明神(古我武禮神社)  五ヶ瀬町鞍岡広瀬

B  妙見神社  五ヶ瀬町鞍岡協和   C 天津神社(多良木町黒肥地1278) 五ヶ瀬町鞍岡長崎 

  車も少なく迷う事のない所ですのでカーナビは不要でしょう

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祇園神社はスサノオを祀る神社でありそれはそれで良いのですが、スサノウのお妃のお一人であるクラオカミ=ミズナノメ=神大市姫=丹生津姫が鞍岡に祀られているのであれば、この冠大明神こそがこの一帯の本来の主神ではなかったのか?と考えるのですが…思考の暴走は限りなく続きます。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 04:40| Comment(0) | 日記

2017年08月26日

369 宮脇淳子先生をご存知ですか? 

369 宮脇淳子先生をご存知ですか? 

20170310

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


最近、熱心に著書を読んだり、ユーチューブなどの講演を頻繁に聴いているのが東洋史の(こういう風に説明して良いかはあるのですが…)宮脇淳子先生です。

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初心者向けの入門書といったスタイルの本ですが、多くの著書をお持ちですので、自分でお調べになれば良いと思います。

 朝鮮史、中国史、モンゴル史、チベット史…といったものに対して新たな側面に光を当て、ちゃっめけ溢れる軽快なメッセジを流し続けておられます。

 これについては、頻繁に連絡を取り合っている関東の「常陸の国ふしぎ探検隊」氏から、“宮脇淳子を勉強しなければ、多くの民族が雪崩れ込んでいる列島の神社研究はできませんよ…”と言ったアドバイスを受けたからでした。

 この話についてはいずれせざるを得ないのですがその話には踏み入らず、ここではこの本の136pに挿入されていた地図が面白かったのでご紹介します。

 出典は、以下の様なものですが、1981年時点での少数民族の分布性向を書き留めているのです。

これが古代の分布状況と対応しているかどうかは分からないのですが、一応、参考にはなるものと考えています。

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 百嶋由一郎先生は、中国で400回飛行機に乗り8000万円遣ったと言われていたほどのフィールド・ワーカーでしたからさぞかし多くの地を実際に踏み多くの民族と接触されていたようです。

 その一つに@シボ族がありました。

 当時は口頭だけの話でしたので、実際にはどの地域かは分からなかったのですが、シボ族が辺境警護のために民族移動を強要されていたと言った話だったのです。

 そのシボ族の移動後の地がこの地図にも書き込まれており、まずは百嶋先生が如何に辺境まで足を延ばしておられたかをまじまじと思い巡らされたところでした。

 始めに@シボ族を取り上げますが、この人々が列島に進入したと申し上げているのではないのでお間違いがないように。

 次にA彝(イ)族を取り上げます。この民族については、百嶋由一郎氏ではなく、宇佐神宮の福岡出張所長をされていた禰宜と言うよりも研究者であった馬場紀美史によって2002年に公刊された「柴刺」(葦書房) という大著の最終章に取り上げられた民族であり、多く儀礼の存在から確実に列島に入っているとお考えだったようです。

「ひぼろぎ逍遥」スポット068「柴刺」(シバサシ)で取り上げた民族ですので覚えておられる方もおられるかも知れません。

 次にB土家(トゥチャ)族を取り上げます。これも「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)265 熊本県玉名市(旧玉名村)は「土車(トゥチャ)の里」だった!で取り上げた民族ですので覚えておられる方もおられるかも知れません。 

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無題.png@  シボ族

2008 03 30

シボ族の西遷 -瀋陽からイリへNHKスペシャル 新シルクロード2(NHK出版 2005)より(筆者:矢部裕一):旅の終わりに

シボ(錫伯)(1)という少数民族が、新疆のカザフスタン国境近くのチャプチャル・シボ族自治県に住んでいます。

草原の道の旅の終わりに、私たちはこのシボ族を訪ねることにしました。彼らは遊牧民ではなく、元々は遊牧民であった古代拓跋鮮卑(たくばつせんぴ)族の末裔ではありますが、数百年前から遊牧は行わず、半農半猟の生活を送っています。なぜ、最後に遊牧民でないシボ族を訪ねるのか? それは、彼らの存在が、遊牧民の近代国家の中での遇され方を象徴しているように思えたからです。

828日、チャプチャル・シボ族自治県では、西遷節というお祭りが行われていました。

西遷節とはその名の通り、シボ族が西へ向かって移動した時のことを記念するお祭りで、シボ族とは18世紀、清朝皇帝の命により故郷である中国・東北地方の瀋陽(しんよう)から苦難に満ちた5000キロの道のりを19か月の月日をかけて大移動し、この地に住み着いた人々なのです。

シボ族を大移動させた清朝の目的は、少数民族であるシボ族を用い、騎馬遊牧民ジュンガルの残党による反乱を制圧し、対ロシアの国境線を守ることにありました。シボ族はこの命令に従い、大移動の末チャプチャルに住み着き、戦争の時は銃をとって前線で戦い、平時にも軍備を怠ることなく、辺境の荒れ地を開墾して生きてきました。彼らの存在で、ほぼ現在あるような国境線が確定することになりました。

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A無題.png  彝(イ)族

彼ら自身は「ノス」と呼ぶ。もとは「夷族」と表記されたが、清朝時代に、自らも漢民族ではない支配階層の満州人が蛮族を意味する呼称を嫌い、同じ音に「彝」の字をあてた。彝は「祭器」転じて「道徳」などを意味する雅字。「ロロ族」という呼称もあり、かつては自称であったが現在は蔑称。「ロロ」とは、イ族自身が先祖崇拝のために持つ小さな竹編み。当て字の「玀猓」では、部首にけものへんを付け加えるなど、多分に蔑視的な要素を含んでいる。

歴史 イ族は中国西部の古羌の子孫である。古羌は、チベット族、納西族、羌族の先祖でもあるといわれる。イ族は南東チベットから四川を通り雲南省に移住してきており、現在では雲南に最も多く居住している。南詔王国を建国した烏蛮族が先祖だと言われている。精霊信仰を行い、ビモという司祭が先導する。道教や仏教の影響も多く受けている。雲南省にはイスラム教を信仰するイ族の集団もある。ただしそれらは、イスラム教を信仰するイ族なのか、イ語を話しイ族の文化に属する回族なのかは、明確には分別できない。

雲南北西部と四川に住むイ族の多くは複雑な奴隷制度をもっており、人は黒イ(貴族)と白イ(平民)に分けられていた。白イと他民族(主に漢民族)は奴隷として扱われたが、白イは自分の土地を耕すことを許され、自分の奴隷を所有し、時には自由を買い取ることもあった。

ウィキペディア(20170310 1040による

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B無題.png  土家(トゥチャ)族

トゥチャ族(中国語:土家族 ビジ語:ビジカ)は中華人民共和国が公認した55の少数民族のひとつで、主に湖南省、湖北省、重慶直轄市(旧四川省)の交界地帯に住む。

人口約600万人、中国の民族の中で8番目多い。言語はシナ・チベット語族のチベット・ビルマ語派に属する。長く漢族と交わって暮らしてきたため、現在ではトゥチャ語(ビジ語とモンズ語)を母語とする者は10万人未満程度とされ、ほとんどが中国語を母語としている。このように、民族の総人口と比較して母語人口が極端に少ない民族として、他に満州族(1000万人超えの民族であり、満州語を話せるのは5人以下)とシェ族(総人口約80万人、シェ語を話せるのは1000人程度)が挙げられる。湖南省湘西土家族苗族自治州、湖北省恩施土家族苗族自治州が設置されている。なお、例えば、彝族の事を彝家などと呼ぶ事もある事から分かるように、「家」には「族」の意味も含まれている。そのため本来、土家でトゥチャ族の意味をなしており、これに族を加えるのは重複した表現である。しかし、西北に住むモンゴル系民族である土族と区別するためにも、重複した表現ではあるが土族ではなく、土家族を正式な民族名としている。

ウィキペディア(20170310 2345による


 最後に、列島の民族形成において最も重要なC黎族とD白族について取り上げます。

 まず、C黎(リー)族については雲南省麗江から瀾滄江(メコン川)を下り、海南島の南西部の黎族自治県を経由し天草の苓北を経由し阿蘇に侵入した民族であり、阿蘇氏、多氏、宇治族…と呼ばれ列島の支配的民族となった大陸からの避退者ということはこれまで草部吉見神社の神々として多くを書いています。

 続くD白(ペー)族も雲南省昆明から一旦北上したものの紅河を下り、海南島から隈本に入り九州北部に移動した民族であり、白族、大幡主系、ヤタガラス系、忌部…と呼び、これまた列島の支配的民族となった大陸からの避退者ということも、これまで博多の櫛田神社の主神や天理教の主神として書いています。

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無題.pngC黎族

黎族(リー族)は中国少数民族のひとつ。その約90%以上が海南島に住む。

現在は人口124.8万。黎語を話し、1957年に黎語ラテン文字化方案が考案された。古くより漢族との交流があり、中国語に通ずる者も多い。

百越の分枝駱越(中国語版)が秦・漢以前の時代に移住したことに始まるという。同じく駱越に起源を持つ民族に水族がある。

民族としての自称は賽、孝、岐、美孚、本地など。11世紀宋の時代より史書にその名が見えるといい、紡織に秀でていたとされる。その技術は「黎錦」と呼ばれ、現在も伝えられているという。

ウィキペディア(20170311 0045による


Dペー族

無題.pngペー族(自称: ペーホー Baipho、ペーツィー Baipzix中国語: 白族 Bái zú英語 Bai)は、中国雲南省大理ペー族自治州を中心に住む2000の統計では人口1,858,063人。内、約124万人はシナ・チベット語族チベット・ビルマ語派ペー語を話し、残りは主に中国語を使用している。雲南以外では、貴州省畢節地区四川省西昌市湖南省桑植県ミャンマー北部などにも分布している。

未婚女性が頭に巻き付ける白い羽根飾りが特徴的で、民族名の由来となっている。漢族からは「白人」、「民家」などと呼ばれていたが、1956に大理に自治州を設立する際に、正式に白族の名が定められた。

かつては大理国を作っていたが、漢族との交流の歴史も長く、ペー語を、漢字を借用したり、漢字の構成方法を応用して作った漢字風の文字を組み合わせて記述したり、借用語として多くの漢語をペー語に取り入れている。文法的にも漢語の影響をうけ、基本語順が漢語と同じSVOになっている。

牧畜の歴史が長く、乳製品を作っており、特に中国語で乳扇と呼ばれているチーズは特徴的である。漢族雲南料理同様に、トウガラシで辛く味付けした料理が多い。を主食にしたり、ワサビを食用にするなど、日本人と共通する文化も見られる。

ウィキペディア(20170311 0050による


 無題.png勿論、宮脇先生は、大陸、半島の民族の多くが列島に進入していることは承知されているはずですが、百嶋先生もシボ族は別として、土家族、黎族、白族は確実に入っているとお考えでした。

残る彝(イ)族については百嶋先生からは聞き及んでいないものの、福岡市の唐人町にお住まいだった事から馬場先生との親交がなかったとは考えられないため、この4民族に関しては列島人の一部のかなりの部分を形成しているとお考えだったと思います。

 各民族の写真については、トップ・クラスの美人だけを選び過ぎましたが、列島人と言っても全く違和感を覚えないもので、むしろ、現在の中原を占拠している鮮卑系の人々よりは、遥かに列島人に近いのではないかと言う印象をすら覚えるのです。

 最後に、これも以前お知らせした事ですが、中国に対して「支那」という表記、表現はすべきではないと言う中国共産党の宣伝とそれに迎合するマスコミの自己規制、また、石○慎○郎などの似非右翼によって逆に「シナ」(支那)を蔑称として多用する傾向が存在している事は皆残も十分ご存じだと思います。

 ただ、「支那」は蔑称どころか、黎族が大陸から列島(九州)に移動した阿蘇系氏族が自らの故地を愛情を込めて「支那」と呼んでいたものと考えています。

 石原何某という朝鮮系の男からネット右翼はどうしようもない連中でしょうが、少しはまともな民族派の方々には右の記事でも読んで考えて頂きたいと思うものです。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 17:48| Comment(0) | 日記

2017年08月22日

368 以前、鳥居の前まで来て引き返した御手洗神社 “大分県豊後大野市三重町上田原の御手洗神社”

368 以前、鳥居の前まで来て引き返した御手洗神社 “大分県豊後大野市三重町上田原の御手洗神社”

20170306

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 無題.png既に、大分県下での神社トレッキングを始めてしまった感があるのですが、百嶋神社考古学の内容を受入れた四人のメンバーの内、三名が豊後大野市の三重町に集まり、現地に集まった他の地元の研究者と併せ、二日間にわたる五〜六名での神社トレッキングを行いました。

 今後もこのようなイベントが増えてくるものと考えています。

10時に集まった場所は、数年前に付近の牟礼神社に訪問したついでに鳥居の前まで進んだものの、結局、そのまま引き返した事のある御手洗神社でした。

このため、その時以来の初見の神社となります。

 湯立神楽は実見していませんので触れませんが、山岳修験の匂いがしますね。鳥居の神額も火炎を表しており、金山彦系の製鉄神が祀られている事をそれだけで示しています。

事解之男神=火之迦具土(追祀)が祀られている事と符合しています。

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 御手洗神社とは湧水池の意味で間違ってもトイレットの意味ではないのですが、小丘陵の縁から湧きだす水源の傍に建てられた神社である訳です。

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 上田原の集落は、古来、この湧水池の潤いに支えられて成立した集落であった事が分かります。

 まず、南には物部を思わせる吉井山があり(西にも同系統の山田が…)、裾野には松尾川が注いでいます。

 松尾は醸造の神である松尾大神=日枝山王権現=日吉大社=大山咋(オオヤマクイ)=佐田大神(阿蘇草部吉見と宗像の市杵島姫の御子であり猿田彦ではない)を奉斎する氏族の集落です。

製鉄と思わせる内田、鬼塚という集落の上に秋葉山=秋葉権現(火之夜藝速男神=火之R毘古神=火之迦具土神=加具土命)があり、当然、金山彦を祀っているはずです(未確認)。

 また、大無礼、中津無礼と言う豊後に多い牟礼地名が拾え(ムル、ムレはモンゴル高原の集落、城塞都市を意味する地名で「群」とも書かれるもので、列島の「村」の語源とも言われる)トルコ系匈奴を思わせます。北の川向うの緒方町には室屋、牟礼があり、直ぐ南隣には牟礼と言う集落があり牟礼神社があります(モンゴル人という意味ではないので誤解がないように)。

 奥畑川沿いに板屋がありますが、佐賀県の物部神社の鎮座地が板部ですが、板屋、板部は製材の部の民がいた土地で、経津主=ニギハヤヒ=山幸彦=猿田彦が祀られている事が多いのです。

 西の川向うには玉田と言う地名があり、忌部(大幡主の子である豊玉彦)の系統が住み着いた事が読み取れます。また、原田という集落も拾え、ペルシャ・アーリア系の人々が住み着いた事を思わせます。

 東には菅生があり、菅原系(スサノウ系と言うより長脛彦系と豊玉彦=ヤタガラス系により成立したと思われる)氏族が住み着いたものと思われます。

 竹田、緒方、三重…に掛けての一帯は、正に民族の坩堝と言った様相を見せています。

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同社御由緒


 では、御手洗神社の神々を読み解きましょう。「古事記」系統の書き方がされており、伊邪那美(イザナミ)、速玉之男神(ハヤタマノオ)、事解之男神(コトサカノオ)の三神が祀られています。

 熊野からとされてはいますが、熊野三神(熊野本宮、熊野速玉、熊野那智)をそのまま勧請したものではありません。

 まず、伊邪那美(イザナミ)が祀られているものの、伊邪那岐(イザナギ)が祀られていませんね。

 そうです、百嶋神社考古学では、イザナギとイザナミは分かれており(神話でも黄泉の国から追われますね)、博多の櫛田神社の大幡主と夫婦神となられているのです。

 後に大山積、大国主、宇迦賀御魂、火之迦具土、大雀命が祀られていますが、火之迦具土は事解之男神=金山彦ですので重複が生じています。

宇迦之御魂は豊受大神=伏見稲荷=伊勢外宮とは辛國息長大姫大目命(カラクニオキナガオオヒメオオメノミコト)であり香春神社の主神ですね、辛國息長大姫大目命の「大目」が、「ウヅメ」と読めれば(O音とU音の入れ替わりで古代九州標準語はU音で読まれていた)、猿田彦=山幸彦=ニギハヤヒのお妃がアメノウヅメであり、豊受大神が「宇迦之御魂」と呼ばれている事も分かって来ると思います。

大雀命は藤原により第14代とされた九州王朝の最後の天皇仁徳ですが、国東半島の石清水八幡宮系の摂社として高良神社とこの「大雀命」が若宮神社として祀られている例がかなりの数拾えます。

天下の宇佐神宮の上宮の一段下(私達は中宮と呼びますが)に若宮神社があり、大雀命外4神が祀られている事に気付かれている方は少ないと思います。

高良神社と大雀命とは、第9代開化天皇と第14代仁徳天皇になるのです。

そのお妃(大雀にとっては母神)が、実は、神功皇后なのですが(久留米高良大社に残された「高良玉垂宮神秘書」)、仲哀との間に応神が産まれたなどと喜んでおられる方が大半なのです。

この地区には、豊後大野市朝地町駅付近の若宮、豊後大野市朝地町宮生若宮、豊後大野市大野町田中若宮が拾えることから、距離から考えて大野町田中若宮辺りから大雀命は合祀されているとまでは言わないまでも何らかの関係があるのではと思うのです。

特に、田中は父神の一族第9代開化天皇に繋がる一族が住み着いた土地と考えていますので、今後ともその線で探究を進めます。

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百嶋由一郎極秘神代系譜(部分)


 それが、熊野三神の一つである熊野速玉大社の速玉之男神なのであり、まず、この夫婦神が祀られている事になるのです。

 最後の事解之男神ですが、イザナミの兄神である金鎖大神=金山彦で、そのお妃が大山祗の姉であるエンジ姫=燕脂姫(大布姫)になるのです。

 この一帯の氏族とある程度対応している事が多少ともお分かり頂けたのではないでしょうか?

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最後になりましたが社殿をご覧ください


 全体としてこの神社の性格を表現すれば、イザナギが排除された(つまり、ニニギの父である高木大神=天孫族を排除した)熊野系神社と表現でき、忌部の集落に置かれた忌部の神社と言う事は可能かも知れません。

 その代わりに、事解之男神=金山彦という秦の始皇帝と姻戚関係を結んだ瀛部(宗像族)+秦の羸臣民もしくは秦の一族の要素がより強く打ち出された神社といった評価の神社になりそうです。

 ある意味で、豊後でも特異な性格を持たされた神社とまでは言えるような気がします。

 まだ、詳しい資料を手にしていないため初見での評価としてお許し頂きたいと思います。


posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 12:59| Comment(0) | 日記