2023年11月09日

974 気ままな上州への神社調査 ⓱ “阿蘇の立野の大峡谷の岩戸神社は戸隠神社の元宮か?”

974 気ままな上州への神社調査 ⓱ “阿蘇の立野の大峡谷の岩戸神社は戸隠神社の元宮か?”

20230517

太宰府地名研究会 古川 清久


以前、ひぼろぎ逍遥に以下を書いています。以下再掲載します。


549 岩戸神社に行かねばならない “阿蘇は立野大峡谷の南崖に鎮座する重要な一社”  20171227


 通常、現地に訪れる事無くblogを書くなどあり得ない事(これまでにも例外が12ありますが)ですが、今回は逸る気持ちもあり下調べの意味もあることから未見の神社を書くことにしました。

 この神社にこれまで全く気付かなかった事は迂闊と言えば迂闊でした。阿蘇への進入路は熊本市側から入る通常のルートが4本程度あるのですが、そのいずれからも外れている上(江戸期まで南阿蘇に入る良く使われた「南郷往還」)にどこからも見えないようない岩肌に鎮座している神社だったからでした。

 この地がいかに重要かは、熊本大学の裏手に龍田山があり、立野の大峡谷が窄まっていることから、この地で西からの風が一気に風速を上げる場所だからであり、「日本書記」の“龍田の風を立野に祀る”という故事はこの地の事であって(古田史学の会の正木 裕が言う画期的な説)決して大風など吹かぬ辺鄙な奈良の話ではないのです。そして、風の神こそ支那都彦(シナツヒコ)草部吉見=ヒコヤイミミであり、雷神とは崇神(ヒコヤイと市杵島姫との間に産まれた大山咋と鴨玉依姫の子)の事なのです。

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おごりは禁物です。私が知らないとしてもうちのメンバーには神社に精通した人が数多くいる訳で、訪ねると熊本のF女史はグループのメンバーを動員し、地元の大津町が整備する前に道つくりを行ない神社の整備をしていたと言っていましたし、福岡のI女史はグーグル・アースの古代祭祀線が線上に載ったため入口まで入ったものの、蛇が苦手で逃げ帰って来たとか…知らぬは私ばかりだった訳です。

 いずれにせよ、ここにも大国主命、少彦名命祭祀を確認できる訳で、熊本では見過ごす事の出来ない重要な一社なのです。

 駐車場は十分にあるものの、一キロ足らずを広葉樹の森抜けて歩く必要があり、最低でも片道20分余りの参拝になるようです。

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無題.png関東在住メンバーの常陸の国ふしぎ探検隊の方々からは、この神社が信州の戸隠に移動していると言ってきているので、この点に注目して調査を進めようと考えています。

 ただ、今のところあちらの金山彦祭祀は確認できていない事から(戸隠中社の思兼命は金山彦ですので)、果たしてうまく繋がるかは現地に入って以降の事としたいと思います。

 年明け早々に、熊本のメンバー数人と現地に入る相談を進めているところです。

戸隠神社について
奥社参道中程、萱葺・朱塗りの随神門

 戸隠神社は霊山・戸隠山の麓に、奥社・中社・宝光社・九頭龍社・火之御子社の五社からなる、創建以来二千年余りに及ぶ歴史を刻む神社です。
その起こりは遠い神世の昔、「天の岩戸」が飛来し、現在の姿になったといわれる戸隠山を中心に発達し、祭神は、「天の岩戸開きの神事」に功績のあった神々をお祀りしています。
平安時代末は修験道の道場として都にまで知られた霊場でした。神仏混淆のころは戸隠山顕光寺と称し、当時は「戸隠十三谷三千坊」と呼ばれ、比叡山、高野山と共に「三千坊三山」と言われるほどに栄えました。
  無題.png江戸時代には徳川家康の手厚い保護を受け、一千石の朱印状を賜り、東叡山寛永寺の末寺となり、農業、水の神としての性格が強まってきました。山中は門前町として整備され、奥社参道に現在もその威厳を伝える杉並木も植えられ、広く信仰を集めました。

明治になって戸隠は神仏分離の対象になり、寺は切り離され、宗僧は還俗して神官となり、戸隠神社と名前を変えて現在に至ります。

戸隠には岩戸が飛んで行ったとの話がある訳で、当然、その投げられる元があるはずなのです

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)     必要とされる方は09062983254まで


以下は地元大津町のHPから 「熊本県神社誌」には見るべき記述はありませんので、ネット情報から。

岩戸神社

最終更新日:2022817

平成28416日に発生した熊本地震の影響により、現在岩戸の滝・岩戸神社への登山道を閉鎖しています。危険ですので、入山されないようお願いします。

 また、駐車場に入る手前の橋も被害があり、通行不可となっており、駐車できない状況です。

内牧の畑地区から、渓谷を登ること約1km、断崖絶壁から落ちる清流の下、深山幽谷の中にあります。

 神社は通称「飛佛」といい、これにまつわる任承があります。創建は永正4(1507)と棟札にあり大己貴神、少彦名神を祀り、併せて南北朝時代と推定される量感豊かな阿弥陀三尊も合祀され、今なお神仏混合の形を示す県下でも稀な神一社です。

伝説

 畑集落の山の上にある岩戸神社を「飛仏(トンボトケ)」といっています。江戸時代の初め、谷向こうの立野(南阿蘇村)の山野に観音堂があったといいます。ある年、野焼きの火で観音堂が燃えたとき、観音さんは難を逃れるために白川を越えて、ここまで飛んでこられたといわれ、それ以来この名がついたといいます。飛んできた時、豆ガラで目を突かれたのでこの集落では豆をつくらないそうです。

以下もう一本「神話と古事記」様より

岩戸神社 熊本県菊池郡大津町外牧  20160512

岩戸渓谷、勇壮な岩戸の滝が境内に接するマイナスイオン溢れる社

[住所]熊本県菊池郡大津町外牧 [電話]096-293-3115 - 大津町役場商業観光課


岩戸神社(いわとじんじゃ)は、熊本県菊池郡大津町にある神社。大津温泉・岩戸温泉の近く、岩戸渓谷の切り立った断崖絶壁の下にひっそりと鎮座する。通称は飛佛(とんぼとけ)という。御朱印の有無は不明。    創建は永正4年(1507年)と棟札にあり、室町時代となる。大己貴神少彦名神を祀る。
あわせて、南北朝時代と推定される量感豊かな阿弥陀三尊も合祀され、今なお神仏混合の形を示す県下でも稀な神社。江戸時代の初め、谷向こうの立野(南阿蘇村)の山野に観音堂があり、ある年、野焼きの火で観音堂が焼失した時、観音さんは難を逃れるために白川を越えて、当地まで飛んできた。

これが通称の由来で、飛んできた時、豆ガラで目を突かれたのでこの集落では豆をつくらないといわれる。

当社の鳥居から約1キロ、1の滝、2の滝、3の滝と三つの滝、いわゆる岩戸の滝の数々を眺め、ゆったりと散策できる参道となっている。
参道は、一部険しくなっており、長袖・長ズボン・スニーカーなど歩きやすい服装が推奨されている。
境内に接する滝(3の滝)は落差30メートル以上ともいわれ、勇壮で壮観。マイナスイオンに溢れたパワースポットとしても認知されている。


 百嶋由一郎は音声記録でも残していますが、戸隠神社について熊本から飛んで行った…と話しています。ただ、根拠とか由緒とかと関連付けては話していません。

 修験者の拠点があった事は間違いが無いと思いますし、岩戸神社という名称が(高千穂だとか阿蘇だとかなら普通に思えますが)何故この地に…と、しかも、普通なら肥後に大国主命、少彦命…を敢て祀っている事に逆に信憑性を感じてしまうのです。

 故)百嶋由一郎は「皆さん、大国主を出雲の人だと思い込まされてしまっていますが、こちらから移転した先が出雲何ですね…」と言っていたことを思い出します。

 今回、初めて戸隠に行った時も、この岩戸神社の事が引っ掛かっていました。

 ちなみに戸隠の神は以下の通りです。どう見ても畿内の勢力圏に入った後の祭神ですね。


天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)

天八意思兼命(あめのやごころおもいかねのみこと)

天表春命(あめのうわはるのみこと)

九頭龍大神(くずりゅうのおおかみ)

天鈿女命(あめのうずめのみこと)

高皇産御霊命(たかみむすびのみこと)

栲幡千々姫命(たくはたちちひめのみこと)

天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと  と祭神が全く異なる事から中断せざるを得ません。


 ただ、信濃が近畿大和朝廷にとって完全に自らの領域になって以降祭神の入替えが行われているはずで、摂社などで反証できるならばともかく、初見の神社でそのような芸当はできません。

 実は、この熊本県大津町の岩戸神社に関しては、宮崎県高千穂町にある明治の教派神道系新興宗教団体出雲大社教の高千穂教会が任務を終え、境内地、社殿を含めて売りに出ていた神社を買い取って社殿を修復し、見事な神社「ひのみこ社」(高千穂町 ひのみこ社 を検索して下さい。当方も、同社を含め高千穂88社の内20社はブログを書いています)として再建した F女史がグループのメンバーを動員し、荒れていた岩戸神社の参道を何度も何度も整備し、事実上管理が放棄されていた状態の参道を整備されていました。

 ところが、熊本地震の結果、この神社の参道直下にある、鳥居や駐車場へと入る橋が壊れた結果、現在も復旧ができていない有様の上に、神社への参道も通行禁止となっているため、私も駐車場手前までは行きましたが、今も入れないでいます。

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以下の新ひぼろぎ逍遥 を検索されれば 現在の神社庁統制下の神社とは異なる神社である事はお分かりいただけるでしょう。列島が危機の真っただ中にある中で、国民も国土も国の富も、国の文化も守ろうともせず、三年間も続いた武〇肺炎〇ィルス騒動(蓋を開ければ案の定五類のただの風邪)で困窮する人々が続出する中でも国難克服のための祈祷もせずに氏子そっちのけで高級車でゴルフ三昧の宮司もおられるようでは、ここ五〜十年で神社は実質的に半減するでしょう。しかし、県外からも多くの信者を集める ひのみこ社 は崇敬を集め地域の核に成長している事でしょう。


840

全国の神社が荒れていく中、売りに出された社殿+神社地を

買い取り再建する作業が始まった(追補)

839

全国の神社が荒れていく中、売りに出された社殿+神社地

を買い取り再建する作業が始まった(下)

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全国の神社が荒れていく中、売りに出された社殿+神社地

を買い取り再建する作業が始まった(中)

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全国の神社が荒れていく中、売りに出された社殿+神社地

を買い取り再建する作業が始まった(上)


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2023年11月06日

973 気ままな上州への神社調査 ⓰ “上州〜信州 国界碓氷峠の碓氷神社”

973 気ままな上州への神社調査 ⓰ “上州〜信州 国界碓氷峠の碓氷神社”

20230513

太宰府地名研究会 古川 清久


 今回は二度(延べ56日)群馬に入りました。

できるだけ多くの知見を得るためにと各々往路も帰路も変えたのですが、最後は碓氷峠を越え軽井沢を経由して戻ろうと考えていました。

恥ずかしながら、これまで“峠の釜めし”で知られる碓氷峠を越えた事がありませんでした。


峠の釜めしは、群馬県安中市にある「荻野屋」が製造・販売する駅弁である。 益子焼の土釜に入れられているという点が特徴の駅弁で、「日本随一の人気駅弁」と評されたこともある。     Wikipedia


碓氷峠(うすいとうげ)は、群馬県安中市松井田町坂本と長野県北佐久郡軽井沢町との境にある日本の峠である。標高は956メートル (m)。                         Wikipedia

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碓氷峠の連続めがね橋鐡道橋は良く知られていますが、と言っても、もはや知る人が消え始めています。少なくとも日本海側と関東=帝都を繋ぐ大動脈と考えていたことは間違いがないのです。

 そうでなければ、この難関の僻地にアプト式だかアブト式だかのドイツの技術を持ち込んでまでの工事はやらなかったはずなのです。

 ただ、25年ほど前に廃線になったとは言えこの鉄道橋が原型を留めている事には明治以来の旧国鉄の気迫と気概と技術への執着が今も日本人の気質に継承されている事に感動さえ覚えます。

 間違っても半島某国のSK○○〇○○〇などのとんでもない好い加減な仕事でないのだけは確かで、色々と問題はありますが、良い国に生まれ育ち終末を終える事が出来そうだと言う静かな喜びを噛みしめている所です。

 いずれにせよ、道路も鉄路も何時しか路線も変わり、新幹線や高速路に代わっていくのです。

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まあ、釜めしや百数十年現存している鉄道橋の話は終わりにして、碓氷峠の手前の安中市松井田に碓井神社が在ります。

これも事前調査で見ようと思っていた一社ですが、群馬県側でもかなり離れた手前に碓井神社が在るという事は、この碓井という地名は群馬側から付された地名である可能性が高いでしょう。

そういう意味では、この地名を付した人々の本拠地は群馬県側であり、そこに祀られている神々が分かれば、この地の成立が如何なる経緯で始まったかがおぼろげながらも見えてくるのではないかと思うのです。

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これは横川駅手前の信越線?です。正面奥は碓氷峠ではなく、この線路の延びた右手が碓氷峠になります。そして、碓氷神社は線路に向かう背中側にあるのです。

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簡単に言えば、神社への参道を線路が叩ききった様に見えるのです。

信越本線ですから、当時は本数も多かった事でしょう。最低でも跨道橋ぐらいは造られるべきだったのですが、踏切はあったのかも知れませんが、参道の正面ではないのです。

重要線路でもこのようなものは何度か見た事があります。

 旧郷社クラスでも配慮されない事はあるでしょう。ましてや村社クラスでは…となるのです。

 正面にも大きな谷が見えますが、案の定、ダムが造られています(中木ダム)。

 びっくりするのは御所平という字があるようで交差点名として残っているようなのです。

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導入部が長過ぎました。それほどの大社でありませんがご覧下さい。

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グーグル検索を行うと、始めから安心できる情報を頂けました。最近は「村興し」「町興し」「世界遺産登録」と言った行政がらみの旅行代理店だかグルメ宣伝高だか通販サイトなどと変わらぬものまで増えており、行政は行政らしい本来の民衆のための活動をすべきであってどうにかならないかと嘆くばかりです。早速引用させて頂きますが、私の考えが甘く早とちりであった事が分かりました。

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碓氷神社:群馬県安中市松井田町五料2131 


碓氷峠の熊野神社の分霊を勧請


取敢えずお読み下さい。簡潔ですが明瞭です。

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場所(旧碓氷郡五料村字御所平)JR西松井田駅より中山道(国道18号)沿いに西に徒歩約1時間。
標識がいたるところにあり旧道をたどるのは結構面倒。五料で信越線の向こうに鳥居が見える。
鳥居の側には「庚申塔」「二十三夜塔」の石碑が立つ。…

社殿は鳥居から急な石段を上り詰めた所に山を背にして鎮座。境内には社務所?、神輿倉庫?、石灯籠の他数基の石造物がある。本殿は覆屋に囲まれ見ることができない。拝殿を覗くと、「三社大明神」たる神額が掲げられていた。

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御祭神

速玉之男命、伊邪那美命、事解之男命 (御祭神は「上野国神社明細帳」より参照


御由緒

不詳 碓氷神社の創建は不詳であるが碓氷峠に鎮座する熊野神社の分霊を勧請したのが始まりと伝えられている。


建久年間(119099)、源頼朝浅間山巻狩の際当神社に祈願せられ、尚又当所境内に御所を置かれたにより地名を御所平と称す。南北朝時代に入ると碓氷郷一ノ宮となり広く信仰を広め、慶安年間(164852)に碓氷峠の熊野神社の里宮となり社殿を改築し碓氷神社と改称する。明治四十二年村内の各社を合祀する。(「松井田町誌」参照)


 必要な事は全て書かれています。ネットには県神社庁のサイトがあります。あるのかどうかも調べていませんが、さすがに「群馬県神社誌」まで買おうとは思いませんので非常に助かりました。まず、鳥居の側には「庚申塔」「二十三夜塔」の石碑が立つ。に関してですが、私が住む九州では、既に三夜待ち と呼ばれ、今では宴会そのものをそのように呼び習わしています。ただ、現在でも月待ち神事として伝統を守っている所もあります。これからも九州との関係を強く意識したのですが、関西圏では薄く、むしろ山梨など関東圏にこの風習が強く残っていると思っています。十三夜もあるのですが、二十三夜の遅い月の出から明け方まで火を焚き続け、酒盛りを行う風習がある事を複数知っています。これが関東に多い事に気付いたのは十年前でしたが、浅間神社を巡ると多くのこの講の石塔がが目につきます。


以下、「日本大百科全書(ニッポニカ)」より


旧暦23日の月待(つきまち)行事の一つで、全国に広く行われている。毎月行っている所もあるが、いちばん多いのは159月の3回に行っている例である。1123日は大師(だいし)講の日なので、この日も広く行われている。土地によっては二十三夜は男だけで、女は二十二夜にしている所もある。二十三夜の月は出が遅いので、当番の家に集まって簡単な酒肴(しゅこう)を前によもやま話をして待つ。二十三夜講をつくっている所では二十三夜塔という記念碑を立てている例もある。二十三夜の月のさまを見てその年の作物の豊凶を占っている土地もある。


祭神の 速玉之男命、伊邪那美命、事解之男命についてですが、皆さんこの神様に関する具体的なイメージが浮かびますか?

伊邪那美命は最も分かり易いはずで、国生み神話のイザナギ、イザナミの女神様の方ですね、では、何故、イザナギは祀られてないのでしょう。

これについては以前にも何度も書いていますので、改めては書きませんが、神社に詳しい方はある程度お気づきになっていると思いますが、有名な琵琶湖の多賀神社などではイザナミ+イザナギという夫婦神として祀られていますが、熊野系神社ではイザナギとイザナギが夫婦神で祀られているケースは少なく、大半はイザナミ単独で祀られている方が圧倒的に多いはずです。

それは分かれているからです。


第五段一書(十)

一書曰、伊弉諾尊、追至伊弉冉尊所在處、便語之曰「悲汝故來。」答曰「族也、勿看吾矣。」伊裝諾尊、不從猶看之、故伊弉冉尊恥恨之曰「汝已見我情。我復見汝情。」時、伊弉諾尊亦慙焉、因將出返、于時、不直默歸而盟之曰「族離。」又曰「不負於族。」乃所唾之神、號曰速玉之男次掃之神、號泉津事解之男。凡二神矣。及其與妹相鬪於泉平坂也、伊弉諾尊曰「始爲族悲、及思哀者、是吾之怯矣。」時、泉守道者白云〜

〜「有言矣、曰、『吾、與汝已生国矣、奈何更求生乎。吾則當留此国、不可共去。』」是時、菊理媛神亦有白事、伊弉諾尊聞而善之。

乃散去矣、但親見泉国、此既不祥。故、欲濯除其穢惡、乃往見粟門及速吸名門、然此二門、潮既太急。故、還向於橘之小門而拂濯也。于時、入水吹生磐土命、出水吹生大直日神、又入吹生底土命、出吹生大綾津日神、又入吹生赤土命、出吹生大地海原之諸神矣。不負於族、此云宇我邏磨茸。

現代文訳 第五段一書(十)

ある書によると……

イザナギはイザナミを追いかけて辿りついて、言いました。「わたしは、お前を失って悲しいから来たのだ」するとイザナミは答えました。「つながる者よ(=夫)。わたしを見ないでおくれ」イザナギは従わずに、イザナミを見てしまいました。イザナミはそれを恨み、恥じて「あなたはわたしの心を見た。わたしもあなたの心を見てしまった」と言いました。それでイザナギは申し訳なく思い、引き返そうとしました。そのときイザナミは黙って帰らせず「別れましょう」と言いました。イザナギは「負けない!」と言いました。その時吐いた唾が神となったのが速玉之男(ハヤタマノオ)といいます。次に穢れを払うと泉津事解之男(ヨモツコトサカノオ)といいます。二つの神が生まれました。

日本神話・神社まとめ による


 確かに分かれている様なのです。これについても、故)百嶋由一郎は“どうも大幡主(博多の櫛田神社の主神で実はカミムスビ神)と一緒になっているんじゃないか…”と気付いた(福岡県旧夜須町で…。と話しておられました。

 速玉之男(ハヤタマノオ)と言えば、熊野神社にお詳しい方は熊野速玉大社が頭に浮かばれるのではないでしょうか。その通りなのです。速玉が造化三神のカミムスビ神なのです。

 ついでに言えば、熊野那智大社の祭神が別れたイザナミであり、名を変えクマノフスミの命としているのです。

 この様に百嶋神社考古学は単純ではなくなかなか一筋縄では行かないのです。

 このため、事解之男命が誰なのかが非常に難しく、過去のブログでももしかしたら誤まって書いているかもしれませんが、大体、イザナギが死んで二人の神が生まれ変わるか生まれるという話が奇妙で、泉津事解之男(ヨモツコトサカノオ)が理解できないでいるのです。私も、過去、カミムスビかその子のヤタガラスだろうとか、金山彦だろうと書いていますが、混乱の結果です。

そもそも、この日本書紀の記述も非常におかしな書き方をしているのです。

どうせ、国文学者辺りに問うても解からないとしか言わないでしょう。マッカーサー以後の80年の米軍占領と、神社研究の禁止によって研究が途絶えているのです。勿論、今もです。

してみると、この神社も、かなり、原形を保った祭神である事が分かります。

一応、イザナミは良いとして、カミムスビと金山彦(カグツチ)としておきます。


不詳 碓氷神社の創建は不詳であるが碓氷峠に鎮座する熊野神社の分霊を勧請したのが始まりと伝えられている。


南北朝時代に入ると碓氷郷一ノ宮となり広く信仰を広め、慶安年間(164852)に碓氷峠の熊野神社の里宮となり社殿を改築し碓氷神社と改称する。明治四十二年村内の各社を合祀する。(「松井田町誌」参照)


 この様に、碓氷峠の熊野神社に行かなければと思いながらもパスしてしまい、安中市松井田に碓井神社を発見し、これで省略したのが間違いでした。

 また、九州からこの神社の為だけに出てくるのもたいへんで、まだ、チャンスはあると思いますが、少し確認作業は遅くなりそうです。これだけに関わっている訳には行きませんので。お許しください。

 どうやら、もう一度、軽井沢に行かなければならないようです。

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ご覧の通りイザナギは排除されていますね!これこそが熊野系神社の神髄なのです。


神社の縁起によれば、景行天皇40年(西暦110年)大和朝廷の命を受けた日本武尊は東国を平定し、武蔵国、上野国を経て碓氷坂に差し掛かった。折りしも濃霧により道に迷われてしまったが、その時紀国熊野山の神使霊鳥である一羽の大きな「八咫烏」が現れ、梛(なぎ)の葉を咥え来て尊の御前に落としながら道案内をした。そして尊は無事頂上に達することができた。尊はこれはまさに熊野の神のご加護とここに熊野の神を勧請したのが始まり。

 碓氷峠に立って自分が登って来た方角を振り返って見れば、そこには棚引く雲海が見られ、武尊はそれより海を連想され、東征の途中に相模灘で入水された弟橘姫(おとたちばなひめ)を偲ばれ、辰巳の方角(=東南の方角のことで関東平野が一望できる)に向かって「吾嬬者耶(あづまはや)」(=「愛しき我が妻よ」の意味)と3度嘆かれたという。

 以後ここより東の国を吾妻(あづま)と呼ぶこととなった。(日本書紀の記述による)これらの御由緒より、それに因んだ地名が残っている。例えば、神社の裏山の頂上を留夫山(とめぶやま)(=武尊の足を留めさせた場所の由緒から付いた名前)。あるいは、長野原(ながのはら)や長倉(ながくら)は、嘆きある原が語源と伝わっている。

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2023年11月03日

972 気ままな上州への神社調査 ⓯ “群馬県甘楽郡甘楽町金光山白倉神社”

972 気ままな上州への神社調査 ⓯ “群馬県甘楽郡甘楽町金光山白倉神社”

20230511

太宰府地名研究会 古川 清久


 既に、戸隠神社を最後に今回の甲信+上州(一部、伊豆+駿河)への一ヶ月の神社参詣のレポートを一旦は閉じました。

 絶対書くべき事を書いてしまい気が楽になった以上、今後は気を抜いて少し自由に書いてみたいと思います。

 もうそろそろ、戻って来て一月になり、今や、チェーンを持って調査に行ったことが不思議に思えるほど暑さを齎す好天に恵まれ、毎年この時期に行ってきた温泉付き別荘と言うか研修所のウッド・デッキの塗装に取り組んでいるところです(まあ、少しずつやりますので、一週間は掛かるでしょう)。

 さて、関東在住メンバーのTと別れた後、一人で神社を廻っていると、金山彦系、天御中主系と思える神社をカーナビで見つけたためかなり走った後でしたが引っ返して参拝させて頂く事にしました。

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前橋、高崎、安中、富岡、藤岡、仁井田…と群馬県の中心部に近い一角に甘楽(カンラ)町があり白倉神社があります。

妙義山、榛名山、赤城山と名だたる物部系とも言える特殊な神々が祀られ、それらを奉斎する人々が山岳修験として支え、一旦必要がある時は直ぐに山々に立て籠もりパルチザンのような抵抗勢力を形成することが出来たはずなのです。

その延長上に赤城山の国貞忠治もあったはずで、一夜にして、一帯から300人もの命も捨てる子分が集まり、侍共も容易には手を出せなかったと伝えられているのです。

まあ、そんな話は忠治親分に失礼かも知れないのでヤメておきますが、それも山岳修験だらけの上州故なのかも知れないのです。まあ、江戸時代も悪代官とか越後屋みたいな連中は居たでしょうから…。

間違いなく義賊ですね!上州はヤクザ者、逃亡者と言えばお叱りを受けるでしょうが、私にとっては素晴らしく立派な人々が闊歩していたと言うイメージを持っています。

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さて、話がとんでもない方向に流れてしまいましたが、これほどの物部氏といわれる多くの職能集団が住み着いていた地帯ではあるとしても、平野部にもそのような祭祀があるのではないかと探していると、たまたまカーナビに白倉神社が浮かび、天狗の神社とも言われていることが分かれば間違いないと思い参拝に至ったのが同社でした。

 天狗はともかくとして初めに目についたのは立派な舞殿があることでした。

 由緒には「太々神楽」が継続されていると

書かれていました。同じ富岡、甘楽の神社のと合同か連携され継続されているのでしょう。

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和銅年間に小幡氏による鉱山開発に伴い金山彦を祀ったものである事が書き留められていました。

そして、天狗を奉斎していると言うこと自体、鼻の高い天狗に象徴される渡来系の集団と配下の人々が命かけで地下に潜り込み鉱脈を探り坑道を掘っていく危険を緩和するために祀ったものが、この神社の本質だったのです。

その意味では、群馬県一帯という古代には相当に山深い地域にはそれなりに有力な交易品としての金属精錬、冶金、探鉱などといった山師による産業が存在し、価値ある土地柄だった事が見えてくるのです。

百嶋由一郎が残した神代系譜にはその一端が書き残されています。最低でも榛名山の金山彦、赤城山のウマシアシカビヒコヂが見えてくるでしょう。以下ご覧ください。

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078超細密金神系譜 (2)


百嶋由一郎が残した神代系譜DVD、講演録音声CD、手書きデータスキャニングDVDを必要とされる方は090-62983254までご連絡ください

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JA甘楽のサイトに白倉神社本宮に関するものがありましたのでご紹介しておきます。

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