2019年08月23日

ビアヘロ 099 市房山の神とは何か? “列島最高位の神を祀る熊本県湯前町の里宮神社”

ビアヘロ 099 市房山の神とは何か? “列島最高位の神を祀る熊本県湯前町の里宮神社”

20190205


太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 今回の西米良村狭上稲荷神社への二度目の参拝にともない幾つかの神社を見て廻ったのですが、最も感銘を受けた神社はやはり里宮神社でした。

 かなり山奥に入り込む必要がある同社の中宮(水上村)には数年前に一度訪問した経験があるのですが、下宮に相当する里宮神社には今回初めて参拝する機会を得ました。

 折悪く夕刻が迫っていましたので、翌朝、女性45人と共に再訪したのですが、実に立派な風格を持つ神社であり、これまで多良木の王宮神社こそ人吉盆地の古代の王だったのではないかという見解を全面修整する必要に迫られているほどです。

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ご存じの通り“人吉と言えば青井阿蘇神社で決まり…”と言った風潮が支配的ですが、神社研究の立場から言えば、人吉盆地の入口と言うか玄関のような場所に鎮座する神様が人吉盆地(九州最大の山上楽園)の大王とか帝王と言ったもので無い事は歴然としているのです。

 そもそも、青井阿蘇神社であって、阿蘇が権勢を振るったのは高々南北朝前後からであって、それ以前にはもっと別の神々が鎮座していたはずなのです。

 人吉盆地で最も重要な神社とは、その神紋からも多良木町の大宮(オウグウ)神社と考えていましたが、里宮神社にもこの種の神紋が打たれている事に気付き、組み立てていた思考の骨組みを再構成すべき事に気付きました。

ただ、詳しく見ると里宮神社の神紋は三五桐紋であって、軽々には言えませんが、やはり五七桐紋を掲げる大宮神社〜里宮神社…こそが正しい高格式ラインなのではないかと考えています。

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実際に上宮(本宮)、中宮、里宮(下宮)という三宮構造になっているのかは不明です

今は消えたとしても、山頂にも何がしかの祭祀はあったのではないかと考えています


 さて、かつて山岳修験が跋扈した時代には山頂へも頻繁に詣でる風習があったはずですし、この地からも山岳修験の道を辿り四国や熊野へも繋がっていた人々がいたはずなのです。

 ネット上にも山頂の祭祀のようなものは認められますが、これを里宮神社が認められているものかは定かではないためあくまで推定の域を超えるものではありません。

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では、里宮神社をご覧頂きましょう。神紋が五七の桐なら夫差を祀っている可能性を考えたのですが…。

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里宮神社 カーナビ検索 熊本県湯山町下城

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三五の桐紋は天皇家と姻戚関係を持った一族、五七の桐紋は天皇家の一族を意味しており、やはり多良木町の大宮神社こそが高格式神社であるとの思いは消えません

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この里宮神社には中宮からの分祠である二等巡洋艦(軽巡)「球磨」(1944年ペナン沖で海没した球磨型二番艦)の艦内神社記念館があるのですが、今回はこの話に入る余裕はありません。

 とりあえず、ここにも奈良の大和大国魂神社のような艦内神社記念館がある事はご紹介しておきます。

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この神社については、この間急速に提携が進んだ人吉盆地在住のM女史による提携blog「ひろっぷ」に書かれている以下の数本のブログを読むにつけ、もしかしたら、この里宮神社とは表向き祀られている祭神はなんであれ、呉の太伯王の後裔 句呉の夫差を祀る神社なのではないかとまで思考の暴走を進めていました。

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 blog「ひろっぷ」の最新版を丹念に読んで頂ければお分かり頂けると思いますが、倭人は呉太伯の後or裔と言われてきた様(夫差は前に亡くなりますが、その子孫は列島に避退している事は多くの史書に書かれているとおりです)に2500年近い前に滅んだ(三国志の呉ではありませんので念のため…)夫差の後裔は何処に入って来たと思われるでしょうか?

 広島県の呉と言う方もおられるでしょうが、凡そ奈良の山奥に入ったなどとはとても考えられない訳で、普通は九州島の西岸と考えるべきでしょう。

 時代は異なりますが、鹿児島県では川内川可能の薩摩川内や妙見宮で良く知られた球磨川河口の八代の古代の港である徳佛辺りに入っている可能性は非常に高いと思われます(徳佛は河童渡来で良く知られたところです)。

 そこで、ひろっぷ女史のブログを読んでいると、九州でも最大級の大河の河口に辿り着いた人々は、この川を遡ればどのような土地があるかを調査したはずです。

 当然にも一月を待たずして正確な調査報告が伝えられ、数十キロ溯上した先に巨大な人吉盆地が広がっている事が伝えられたはずです。

 仮に句呉滅亡に際し、呉の王族=姫氏の一族が列島への亡命が避けられなかったとしましょう。

 よほどの急迫でも無い限り、彼らが逃避するとして夫差の亡骸を残してくるとは考え難く、仮にそうだったとしても、ほとぼりが冷めた後何らかの形で回収したであろう事は考えられますし、全てが不可能だったとしても、祖霊の面影を何らかの形で残した可能性はあるのではないかと思うのです。

 と、ここまで考えてくると、市房山とは夫差を斎奉る(瀛奉る)意味から付された名ではないかと考えられるのです。詳細はblog「ひろっぷ」の最新版(現時点)をお読み下さい。

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里宮神社の祭神が高木大神のドラ息子でしかないニニギなどとは凡そ考えられないのが実感です。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2019年08月21日

618 鈴木神社をご存じですか? “熊本県天草市の”鈴木重成公“を祀る神社

618 鈴木神社をご存じですか? “熊本県天草市の”鈴木重成公“を祀る神社

                                      20180826


太宰府地名研究会 古川 清久


炎天下に車2台による天草下島への小規模トレッキングを行ないました。

 午前中に上島の天草市有明町島子地区にある猿田彦神社一社に参拝し、昼食をどこでするかを考えると、あまり大きな神社が無い天草の事、大木が茂り大きな境内で涼しい所となると急には思いつきません。

 仕方がなく、江戸期の偉人を祀る鈴木神社に行く事とし、その手前にある静かな15社宮本村神社でお弁当を開き、その少し上にある鈴木神社に参拝する事にしました。

 天草島原の乱後の荒廃した天草復興のために活躍したエリート幕臣鈴木重成公を祀る神社であり、神代史を対象とする者としては、本来、訪問の対象にはしない神社ですが、失礼にも良い機会とばかり足を向けました。

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鈴木重成 鈴木 重成(すずき しげなり、天正16年(1588年) - 承応21015日(1653124日))は、江戸時代初期の幕臣・天草代官。三河鈴木氏の支流・則定鈴木家の鈴木重次の三男。禅僧で仮名草子作者の鈴木正三は兄。三郎九郎を称する。養子に重辰、子に重頼、重祐。

徳川家康秀忠に仕え、大坂の役にも従軍。200石を知行する。兄2人が別家していたため、元和6年(1620)父・重次に家督を譲られ、もとの200石とあわせて計700石を知行した。

寛永14年(1637)に勃発した島原の乱では追討使・松平信綱に従って戦地入りし、原城攻撃に参加、一番乗りの武功を顕彰されている。戦後の寛永18年(1641)、天領となった天草の代官に任じられる。

当時の天草は、この地を支配していた唐津藩主の寺沢広高堅高2代にわたって為された過酷な収奪と、乱による荒廃で疲弊を極めていた。重成はこの地域への植民を促進し、寺沢氏の算出した石高を疑問視して再検地を実行した。また、踏絵を執行する傍らで兄・正三を呼び寄せて説法を行わせ仏教への改宗を勧めたり、彼の手による『破切支丹』を刊行したりと硬軟織り交ぜたキリシタン統制も行った。

承応2年(1653年)、江戸の自邸で死去。享年66。 旗本鈴木家は子の重祐が継いだ。

自刃説について

天草の経済的復興には限界があると痛感した重成は、幕府に対して年貢米の減免を建議した。再三の要請にもかかわらず、それは聞き容れられることがなかったため、承応2年(1653年)、訴状を残して江戸の自邸で自刃を遂げた、という話が伝わる。また、抗議のために江戸城の門前で切腹した、などとする話もある。

幕府代官職の抗議自殺に幕府は驚き、慌てて減免を前向きに検討し実現したとされる。この話により、天草の郡内には重成を祀った鈴木神社が建立され、また「鈴木様」と呼ばれる石塔が各地に立つなど[1]、領民から名代官として長く追慕される存在となった。

自刃説の真偽

郷土史家の鶴田文史は、2006年に著した『天草 鈴木代官の歴史検証 切腹と石半減その真実』の中で、多くの文献や史料を基に、自刃説は根拠がなく、1927年(昭和3年)に突然出現した説であること、年貢半減や減税の史料もないこと(次代の重辰の時期に、42000石が21000石に半減した)、重成の死は自刃でなく病死であることを主張した。[2]上記の書物によると、元田重雄が1928年、『みくに』(郷土新聞)の「天草郷土史談」に、「重成は死をもって石高半減を申請し、その旨を遺書して自刃せり」と書いたが、それ以前には全く史料はなく、『熊本県大百科事典』(花岡興輝)や『鈴木代官史料集』(寺沢光世、2003年)にも自刃を裏づける史料はない、とのことである。

だが鈴木神社が建立された年や新たに加えられた祭神の年は、鶴田文史の説の元となる1927年(昭和3年)よりはるかに古く信ぴょう性に欠ける。

ウィキペディア(20180826 0657による


 概略はお分かり頂いたと思います。

江戸期に、このような立派な幕臣を持っていた事には感動をすら覚えますが、この鈴木重成公とタッグを組んで、関ケ原クラスの国家的危機でもあった天草島原の乱の焦土と化した天草の復興と、教化に活動した兄の鈴木正三にも思いを馳せます。

 30代でしたか山本七平の著書を集中的に読んだ事がありました。

 その際、マックス・ウェーバー流の資本主義勃興の背景となった思想的な問題である勤勉性と収益の問題であるピューリタニズムと同様の役割を果たしのが日本版の勤勉への精神性の確立の問題でした。

 山本七平氏はこの部分に関して、既に江戸初期には勤勉性が確立されている事を炙りだしたのでした。

 資本主義とは土地と資本と技術があるだけでは成立せず、その勤勉性の確立が絶対条件であり、それが石田梅岩の石門心学であり、正直ということが何より尊重される。したがって正直に商いをした結果得られる利潤は正当化される…とした鈴木正三の神学(曹洞禅宗に神学との表現は適切ではありませんが)が日本人の「資本の論理」の確立に寄与した事を炙りだしたのでした。

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[読書備忘録]山本七平「日本資本主義の精神 なぜ、一生懸命働くのか」

  光文社文庫 1984年9月10日初版 カッパ・ビジネスとして1979年初版


 この本は1979年に書かれているから、まだ日本的経営がもてはやされていた頃に書かれている。

 山本氏はいうまでもなく山本書店店主であるが、氏の業界である出版界において多くの倒産劇をみてきたという。それはアメリカに留学しそこで学んだ経営学をそのまま実地に移そうとしておこったものであるという。日本の企業には見えざる原則がある。それを無視した経営は破綻するという。

年功序列制は大企業だけにみられるといわれるが、そんなことはない、中小企業にもある。徳川時代の享保からお店にある丁稚、手代、番頭、大番頭、宿這入り、暖簾分けという序列は中小企業の職人の世界に生きているのである。この序列からはずれた機能だけを売る「渡り職人」は決して企業主にはなれない。お店において仕事は神聖なものであり、経済行為ではなく精神的な行為なのであった。そこには共同体の原理がはたらき、共同体からはずれた「渡り職人」は、そこへの参入を拒まれるのである。

 日本の会社は機能集団ではなく共同体である。

 江戸時代は日本人が自前の秩序を作った時代であった。

 徳川時代は、元禄・享保を前後に2期にわけられる。

 後期を代表する人に石田梅岩がいる。石門心学の祖である梅岩は一介の町人であった。梅岩には自他のものを峻別する思想がある。これは戦国の世にはなかったものである。

 前期を代表する人間に鈴木正三がいる。彼は武士である。

 正三は、宇宙の本質を「一仏」であるとし、それには「月」と「仏」と「大医王」の三つの徳用があるとした。「月」は天然自然の秩序である。それが各人の心に反映したものが「仏」である。しかしその心は貪欲、瞋恚、痴愚の三毒におかされる。それを癒すのが「医王なる仏」である。

 正三によれば、信仰とは「唯自分を信ずべし」ということである。なぜなら「内なる仏」は正しいからである。この<本来の自分は正しい>というのが日本人の信仰の根本なのである。したがって正直ということが何より尊重される。したがって正直に商いをした結果得られる利潤は正当化される。なぜなら商い自身はひたすら努める修行なのであるから。この精神は綿々として今日まで続いているのであって、日本の企業は儲けるためではなく、世のため人のために活動しているのである。だからわれわれはぶらぶらしていることを恥ずかしいと感じ、定年を悲しむのである。正三は、人間の内心の秩序と社会の秩序、天然自然の秩序は一致すべきであると考えた。それを妨げるものが三毒であり、それから逃れるためには「正直」でなければならないのである。

 一方、梅岩は、基本を「善」とし、それは「天」「性」「薬」からなるとした。これは正三のものにほぼ相当するとしてよい。

 かれは「性」すなわち人間の本性について論じた。これを弟子は「本心」という言葉に変えた。

 「本心」を信じない日本人はいない。これは日本人の共通信仰なのである。石門心学とは、「本心」のままに生きるにはどうしたらいいかを追及したものである。そのための「薬」としてさまざまな思想・宗教があるとした。「本心」に対して正直であること、それが石門心学の基本である。そして「本心」とは赤ん坊にあるようなある無垢なものであるとした。赤ん坊のように生きることこそが「自然」なのであり、日本人は自然にふるまうことを尊重し、不自然を嫌う。天地に欲心がないように、人間にも本来は欲心がないものなのである。したがって皆が正直に生きれば「世間一同和合し四海の力皆兄弟」となるはずなのである。しかしこの正直は実情に正直ということであり、孔子のいう盗む父をかばう子が正しいという共同体内の論理なのである。また梅岩には政治責任の発想はない。それは武士の世界の話であり、町人の関わらない世界なのである。したがってそこからは市民革命の発想はでてこない。社会は動かないものという前提に生きているわけである。

資本主義が成立するためには「資本の論理」が成立していなければならない。江戸時代は各藩が生き残るために「資本の論理」を入れざるをえなかった。自己のためではなく「藩」のために経営するという発想は現代まで続いている。トップが清貧であるべしという要請は今でも強い。資本の論理をおこなう人も、それは自分のためではなく藩や会社のためであり、自分は無私・無欲であることが要求される。資本の論理は公のものであり、私のものではないのである。

 私欲なき経済合理性の追求とそれにもとづく労働は善であり、それ自体が価値をもつことになった。これが明治以降の中小企業から大企業にまでつながるのである。

 したがって、利益を生むかどうかにかかわりなく働くことに意味があるという方向に暴走する危険があり、それを防ぐには社会に倒産がなければならない。意味なく動き、ひたすらやったことを評価することになりかねないからである。

 鈴木正三や石田梅岩の思想がどの程度の影響をもったかということは議論があるかもしれないが、山本氏のいうように、日本の資本主義の精神が江戸時代の用意されたものであることは確かであろう。

問題はそれが日本にとって変ることがないものなのかということである。山本氏は日本陸軍共同体論理に徹底的に苦しめられ、それを考え抜くことで思想家となったひとであろうと思う。たとえば氏を苦しめた日本陸軍の論理が同時に日本資本主義の精神と同根のものであり、少なくともある時期までの日本の興隆を支えたものであったとしたら、氏はそれを肯定しているのか否定しているのか、ということである。どうも氏はそれは変えることのできないものと見ているように思う。変えることができないとしたら、その中でいかに賢く生きるかということになってしまう。谷沢永一氏の「人間通」などにも通じるある種の処世訓のようなものが、下手をするとでてきてしまうのではないだろうか。 

 私欲なき経済合理性の追求とそれにもとづく労働は善であり、それ自体が価値をもつという精神、それを氏は愛し、日本人の美点としているのであろう。これは司馬遼太郎が書こうとした日本人の精神にも通じるように思う。そして、司馬遼太郎も愚劣な日本陸軍という体験から自己の発想を育んだひとである。

 <日本では、機能集団は共同体とならない限り機能しない>という命題が、常に正しいのか? あるいはある時期には正しいが、常に正しいとは限らない命題なのかということである。戦国時代にはそういう命題は成立しなかったはずである。そうであるならば、これからまた、成立しなくなることもあるということなのだろうか? あるいは氏が本書を書いてからの20年の時間の流れの中ですでにもう成立しなくなっているのであろうか?

2006年7月29日 HPより移植


日々平安録  <[読書備忘録]小室直樹「日本資本... | [読書備忘録{竹内靖雄「「日本人...>より


 いずれにせよ、西洋から二重の意味で不思議に思われた極東での資本主義勃興の背景に、既に江戸期から胚胎されていた日本の資本主義の精神成立に寄与したのが石田梅岩であり鈴木正三であり、その禅僧鈴木正三がこの鈴木重成の兄だった事を思う時、江戸初期の革命政権(ロスチャイルドに操られていたとは言え)には素晴らしい人材が輩出した事に思いを巡らすのです。

 鈴木神社社務所に行くと今でも地元郷土史家田口孝雄氏による天草を救った代官「鈴木重成公小伝」が置いてありますので、お賽銭を差し上げられた上でお読み頂きたいと思います。

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司馬遼太郎は「街道をゆく」島原天草の諸道を書いていますが、有明海を挟んだ対岸島原藩の馬鹿大名、松倉重政、正勝親子の悪政によって天草島原の農民が如何に苦しめられたか、そしてそれこそが天草島原の乱の底流にある事を思わざるを得ません。

 対して、天領となった天草には、鈴木正三、重成兄弟という優れた人材が投入された事にこの時代の危機の深刻さを思わざるを得ないのです。

 一般には、外国勢力に尾を振り、天草島原の乱のキリシタンの農民反乱を好意的に描く傾向がありますが、これについては、ひぼろぎ逍遥(跡宮)ビアエロ版

ビアヘロ059 キリシタン史跡世界文化遺産登録に狂奔する列島文化の堕落を撃て を以て違う意見を書いています。関心をお持ちの方はお読み頂きたいと思います。秀吉から家康へと引き継がれたキリシタン禁教とは実に正しい政策が取られたものだと今さらながら感心しています。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2019年08月18日

617 南阿蘇への迂回路に鎮座する湧水池と塩井社をご存じですか?

617 南阿蘇への迂回路に鎮座する湧水池と塩井社をご存じですか?

                                      20180822


太宰府地名研究会 古川 清久


 熊本地震から二年半経ちましたが、未だに多くの傷跡が残り道路も寸断されています。

 熊本市内から阿蘇谷(阿蘇神社や阿蘇山観光の中心地)へのルートも断裂していますし、地震の最大被害地である益城町、西原村から南阿蘇(南郷谷)へと向かうルートも寸断されています。

 ただ、やむにやまれず急遽つくられたバイパスも造られており、その迂回路を通ると普段出くわさない神社に遭遇するものです。

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まさに修験の匂いのする大峯という山名ですが、これを南に迂回する県道28号線が再整備され寸断された県道のバイパスとなっているのです。


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今夏、メンバーの伊藤正子女史がお母様の出身地である西原村の復興のためとして、敢て、不便な西原村で4回シリーズで講演会を行いました。

 平日でもあり、辺鄙なところですので、多くても20人足らずでの講演会なのですが、ユーチューブにアップするためのステージとしての位置づけであり、このような形で全国に訴えない限り非通説派、少数派の真実への反論は全く知られることはないのです。

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子供の頃なのか大学生の頃かまでは聴きませんでしたが、彼女はこの池の中から蛋白玉を拾ったとか、かなりの量の「かわらけ」を拾ったと言っておられましたので、若い頃から現在の片鱗を見せておられた事が分かります。

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蛋白玉というものは知りませんでしたが、結局、オパールの事らしく、彼女の話では、考古学の専門家に見てもらったところ、糸穴が左右でずれている…ものだったと言われていました。


オパール


オパール(蛋白石)分類 酸化鉱物(ケイ酸鉱物)または準鉱物 シュツルンツ分類 化学式 SiO2nH2O

結晶系 非晶質 へき開 なし モース硬度 6.5 光沢 ガラス光沢 色 白色(琥珀色、虹色の光を放つものもある) 条痕 白色 比重 2.1

オパール (opal) は、鉱物(酸化鉱物)の一種。非晶質(潜晶質)であるため、厳密には準鉱物であるが、国際鉱物学連合ではオパールを正式な鉱物としている。和名は蛋白石(たんぱくせき)。

西洋語のオパールを指す語は、ギリシア語 opallios、または、そのラテン語化 opalus に起源を持つ。これらの語は、サンスクリット語で(宝)石を意味する upālā[s] という語との関係が指摘されている。

ウィキペディア20180825 1120による


 この塩井社は小森神社の境外摂社のようですが、祭神は綿津海神とされています。

 何故、湧水地に置かれた塩井社が綿津海神を祀るのか?という思いが湧くのですが、それは小森神社との関係を見据えた上で判断する必要があるでしょう。白川左岸の阿蘇への入口のような山腹の神社に何故綿津海神を祀るのか?少し考えて見ましょう。ただ正直言って良く分かりません。

村社 小森神社:阿蘇津姫命 袴野神社:天御中主命、罔象女神 塩井社:綿津見神

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分


百嶋由一郎氏の資料(音声CD、神代系譜DVD、手書き資料)を必要とされる方は09062983254まで

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西原村の神社を概括すると、どうも元は阿蘇氏の領域ではなかったのではないかとの思いを深めます。

 代表的な鳥子三宮神社(阿蘇神社で言えば三宮=草部吉見神=国龍神)でさえも、どうも底流にはヤタガラスの後裔=鳥子一族(製鉄集団)であることはこれまで何度となく書いています。


ひぼろぎ逍遥

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熊本県西原村鳥子の鳥子阿蘇三之宮神社再訪 

 

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鳥 子(トリコ) “宇土の八兵衛の逃亡ルート” A

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鳥 子(トリコ) “宇土の八兵衛の逃亡ルート” @


鳥 子(トリコ) “宇土の八兵衛の逃亡ルート”を読まれればこの神社が阿蘇系では無い事はお分かり頂けるでしょう。

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宮山神社に於いても、草部吉見系7神に孫娘の悲劇の雨宮姫が祀られてはいるものの、それ以前には菅原系(父方の大幡主系=ヤタガラスの父神か母方の金山彦系かは不明)であった事が丸見えの神社ですし、西原村はやはり製鉄絡みのヤタガラス(綿津見神)系の領域であることが分かるのです。

 してみると、塩井神社もその延長上にあるものと見て、祭神綿津見神は受け入れられそうです。

 今のところはここまでしか分かりません。

 しかし、西原村でも山手にある湧水が、何故、塩井と呼ばれているかは少し不思議な気がします。

 塩井である以上、多少とも塩分が含まれているならば納得できるのですが、美味しいミネラル水とは言えても、何らかの塩水があるとは思えないのです。

 勿論、過去には火山性の温泉水が噴出していたのかも知れません。

 硫黄泉が多い阿蘇の事、硫酸塩泉や炭酸塩泉でも塩井にはなるでしょう。

 西原村ではありませんが、南阿蘇の名湯地獄温泉(単純硫黄温泉硫化水素型)などは塩井そのものでしょうし、一度見たことがありますが西原村の城山銅山(西原村と益城町の町境に存在した)から流れ出していた排水も含鉄食塩泉であって、これも塩井にはなるでしょう。

 もう一つの可能性は、大量の湧水が噴出していて、潮井、大潮井(九州では多い事をウーカ、ウーカリと発音します)「ウーシオの井」と呼ばれたならば、「ウー」音が脱落し、塩井だけが残された可能性もあるかも知れません。

 塩は人間ばかりではなく牛馬にも絶対に必要な物です。

 放牧地の一角に僅かでも塩井があれば草食動物の馬も繁殖できますが、大量の水を得た馬も塩が無ければ死ぬしかないのです。

 そういう意味で山岳地帯での塩井の意味は重要であるからこそ塩井社の意味が気になるのです。

 最後にもう一つの可能性を考えて見ました。

 ここは、海からの重要な物資である塩や干物と山からの交易品である鹿革、鹿肉、ウマ…の交易地だった可能性です。

 今度、宮山神社の雨宮社を見て見たいと思っていますが(地震の被害が及んでいなければです)、西原村全体の神社を見れば何か手がかりが掴めるかも知れません。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記