太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



無題.png

無題.png

無題.png

o0198005613264565002.png o0199005613260936971.png 無題.png

2017年03月03日

302 阿蘇高森の草部吉見神のお妃達

302 阿蘇高森の草部吉見神のお妃達

20160911

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

阿蘇高森の草部吉見神は実力者だったが故に多くのお妃がおられました。

 複数のお妃を同時にお持ちだったのかまでは踏み入っていませんが、御子神の生年を詳しく検討すればそれも分かるはずです。

無題.png

草部吉見神には高木大神の次女のタクハタチヂヒメ、宗像大社のイチキシマヒメ、あまり知られていませんが、スサノウとクシナダヒメとの間に産れたオキツヨソタラシヒメ、それに、伊勢外宮の豊受大神=辛国息長大姫大目命がおられます。

各々、有力な御子がおられ、その時代には、それぞれ活躍されたことがうかがい知れます。

大山咋神は出雲佐田大社の佐田大神ですしその御子が贈)崇神天皇に、彦主守の御子はヤマトタケルに、御年神は贈)孝安天皇に…。

このように古代の有力者には各勢力(民族、氏族…)から娘が送り込まれ、また、自らが入婿となって複雑な婚姻関係が成立して行く事になるのです。

無題.png

今回は、百嶋先生の手書きデータからこの部分にスポットを当てた神代系譜を見て頂きますが、この複雑な系譜を作成された百嶋由一郎先生のご努力と天才的な解読能力には驚くばかりです。

 問題は、多くのお妃が入れ替わる中で、互いに名を変える事によって、前のお妃の氏族に配慮するとか、自ら名を変え、新たな氏族との関係を作るといった配慮がされている事が分かるのです。

 次に、その事が分かる一覧表を見て頂きます。

 タクハタチヂヒメがお妃の時は、ヒコハエミミ、アメノテナガオ(壱岐)、国龍命…。市杵島姫がお妃の時は、海幸彦、ホスセリ、大歳、武甕槌…。オキツヨソタラシヒヒメがお妃の時は、安日彦、生島…。辛国息長大姫大目命がお妃の時は、風神、天児屋根命…と言った具合です。

 逆に言えば、これが判れば、お妃や、ご本人のポジションがある程度判別できる事になるのです。

無題.png
posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 13:24| Comment(0) | 日記

2017年03月01日

301 日南海岸の野島神社の塩筒大神(塩槌翁)と猿田彦(白髭大明神)の複合が肥後にも…

301 日南海岸の野島神社の塩筒大神(塩槌翁)と猿田彦(白髭大明神)の複合が肥後にも…

20160905

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


ひぼろぎ逍遥(跡宮)287 大宮神社と猿田彦大神 F “山幸彦=ニギハヤヒは博多の櫛田神社の主神の大幡主の子であった”において、宮崎県の日南海岸の野島神社の祭神から塩槌(土)翁が浦島太郎ならば博多の櫛田神社の大幡主であり、どうやら猿田彦も大幡主の縁故者となり、はっきり言えば息子の一人であったのではないかとまで踏み込みました。

その延長上に、ひぼろぎ逍遥(跡宮)287 大宮神社と猿田彦大神 H “猿田彦専門のサイトから”において肥後の猿田彦の祭祀圏も確認したのですが、専門サイト23・「熊本県に於ける猿田彦命祭祀神社地名表」の天草一帯から海岸部を見ていると、幾つかの塩○神社があることに気付きました。

無題.png

 塩浜、塩竃、塩釜、塩屋といった「製塩」絡みの社名(地名)がかなりの頻度で認められるのです。

 塩槌、塩釜、塩臼(西欧でも塩=サラリーを吹き出す宝物)…といったものは塩が高価な交易品であった時代、製塩、そのための塩田、その内陸部への運搬手段としての船団(交易船)を組織する通商民の長といった者が祭神として頭に過り浮かんで来ます。

 以下もそういったものの一例でしょう。


そもそも、塩土老翁が塩筒老翁とも書かれることについて、液状塩(すなわち鹹水)が筒(竹筒か)に容れられて運搬・消費されていた時代を反映して、塩に関係ある技法をもつ人物ではないかと考える広山堯道(広山堯道「記・紀・風土記の塩」、『日本塩業の研究』第23集、平成69月)の見解は示唆深い。ただ、古代のわが国では北陸と東北で、土器製塩に伴う円筒形土製支脚も使用されており、筒状の土器を利用して製塩を行ったことも関係があるのかもしれない。

「塩の神様とその源流」宝賀 寿男 より


 まさしく、日南海岸の野島神社は塩筒大神としており、海人族の長たる大幡主その人であることを彷彿とさせています。

 それらに猿田彦大神=白髭大明神が祀られていることは、大幡主の配下で活動していた親子としての猿田彦(山幸彦)が九州東岸の辺境ばかりではなく九州西岸でも確認できた事になるのでした。

 上記の五社も、「熊本県神社誌」で確認しましたが、それはあくまでも主祭神レベルが書き留められているだけの話であり、今後、実際に現地を踏み確認する作業が必要になるでしょう。

 一、二社 は既に踏んでいますが、このテーマに関連付けては見ていないため、再度、改めて訪問し五社詣りをしようと考えています。ただ、概して猿田彦神社は小さな祠程度のものが多く、実際には成果は期待できない可能性があることは覚悟の上になります。

ここで考えるのですが、ひぼろぎ逍遥(跡宮)205 宮地嶽神社と安曇磯羅 M “天草下島宮地岳町の宮地嶽神社は消されていた”で触れた事が頭に浮かんで来ます。それは、……以下。


概して天草一帯では十五神社、十五社…といったものを数多く見掛けますが、阿蘇の十二、十三神が覆い被さっているものと理解しており、その基層にあるものの方が重要な神社と理解してきました。

このため十五神社系はあまり関心を向けていなかったのですが、今回、この神社が元は宮地嶽神社だったのではないかと言う事に気付いたのでした。


天草には十五柱神社といって、十五柱の御祭神を祀る神社が全天草神社の三分の一に近い八十五社もある。河浦町には法人甲乙二十七社中十五柱神社が十六社もあり、町内神社の三分の二近くに達する。

十五社の御祭神はおおまかに云って六種にわけられる。…

「熊本県神社誌」(上米良純臣編著)


同著276pでは“(附)天草に多い十五柱神社”として6タイプに分け分析している。


勿論、これはこの宮地岳町だけの現象かも知れませんが、多くの海士族が暮らす天草諸島の多くの神社が全て阿蘇の神々を祀っていると言う事自体が一般的には違和感があるのは否定できないもので、このテーマは今後の課題とします。

そもそも十五とは龍王の入れ替わりではないかとの考え方が民俗学者の柳田国男から提起されており、R音とD音の入れ替わり現象を知る者としては、今後とも興味深いテーマではあるのです。

つまり龍王(リュウオウ)がジュウオウと呼び習わされ、いつしか十五社とされたという可能姓です。

ともあれ、これまで放置して来た宮地岳町の十五社を踏みました。

… 中略 …

驚く事に、宮地嶽神社の痕跡は宮地岳神社という呼称にだけ残されていたのです。

「熊本県神社誌」のFタイプに該当しそうですが、御覧の通り、宮地嶽神社の祭神(百嶋神社考古学では否定しますが、現在の公式の祭神は神功皇后とその臣下)は全く消されているのでした。

左端のカナコリヒコは第二代綏靖天皇、その右の速瓶玉は大山クイ=日吉神社の御祭神ですね…。

宮地岳神社の名といい宮地岳町という地名といいこの地にはよほど宮地嶽神社を奉祭する人々と支配力が存在していたことが確認できたのでした。と、ここで話は途切れてしまいそうでしたが、そうではなかったのです。

ここで、神宮寺とも見える道路を挟んだ浄土宗量性寺の墓地の奥を眺めると、真新しい立派な神社が目に入ってきたのでした。どうやらこの寺は、宮地岳町の有力者を檀家に持つ旦那寺だったようです。

その話は後に廻すとして、直ぐにその真新しい神社を見に行きました。

たまたま通りがかった方にお尋ねすると、“この墓地は元の庄屋さんの一族のNさんが最近造られたもの”

とのことで、ただならぬ気迫を感じたのですが、どうやら隠された宮地嶽神社を代々一族の屋敷神として奉祭し守り通してこられた事が良く分かったのです。最早疑う余地はありません。

時代の要請に従いこれまで祀り崇めて来た神を隠し、代わりに宇佐の八幡と阿蘇神とを受け容れ従ったものの、本来の神を捨て去ることはできずに秘かに守って来た神を、時代を判断しようやく陽のあたる場所に戻したという誇りと達成感が感じられたのです。

次の写真にはその一族の代々の祖先を祀る石塔が戦国武将並みに居並んでいました。

この一族は単に戦国時代にとどまらず、南北朝争乱期、源平争乱期以前まで遡る、九州王朝の時代まで遡ることのできる名族であろうことは、まず、間違いないでしょう。

まだ詳しく調べてはいませんがどのように見てもこの累代の墓は古代まで遡る名族ですね

墓所(ここには納骨堂が置かれています)の正面には若宮神社が置かれていました

そう考えたのは若宮神社が置かれている事を知ったからでした。

百嶋神社考古学では、この祭神を久留米高良大社(実は高良玉垂命=第9代開化天皇を祀る日本最高格式社)の摂社であり、その正妃である神功皇后(「高良玉垂宮神秘書」)との間に産まれた長男シレカシ命こそ後の藤原により第14代とされた仁徳天皇その人であることを知るからです。

この若宮神社を守る氏族は高良大社のしかも高良玉垂命に繋がる氏族(臣下を含む)であり、ただならぬ歴史を抱えた一族(予断は避けるべきですが、奉祭する神々から判断すると恐らく最高位の物部)であろうことは疑いようがないのです。

実は、この墓所の下には臣下と考えられる一族の墓地も置かれています。

その石塔や納骨堂の家紋を見るともっと興味深い問題が横たわっていますが、一族の方からの聞き取りを行い判断したいと考えています。

しかも、N家には古文書も数多く残されているようで、まだまだ、謎解きを出来る余地が残されているようです。

百嶋神社考古学では、今の高良大社からは神功皇后が消され、宮地嶽神社からは高良玉垂命であるワカヤマトネコヒコの名が消されているとします。

消されるには消されるだけの理由があるからであり、この天草下島の中央部から宮地嶽神社が消された事にはよほどの重要な古代の政治情勢が垣間見えた思いがしています。

墓所にも、失われた肥後国天草郡宮地嶽村若宮神社縁起がしっかりとした彫り込みで掲げられています。

これらを通説派の学者がどのようにでも解読するでしょうが、九州王朝論者の手により解読作業を進めたいと思ってやみません。


と、このように書いてはいたのですが、十五社、十五神社の類は、やはり、柳田の説に頼らずとも龍王の可能性が高く、山幸彦が釣針を失い塩土翁の勧めで向かった大幡主の子である豊玉彦(ヤタガラス)の住むところが龍宮城であり、豊玉姫が出迎える海神の館だったと考えるべきなのです。

してみると、宮地嶽神社というよりも、阿蘇の十五神が覆い被さって来る以前のこの一帯には、大幡主、その嫡子である豊玉彦(龍王)、そして、大幡主の側室の子であったはずの猿田彦=山幸彦が祀られていても一向におかしくはなかったのです。

そして、司馬遼太郎をして“肥後と言うよりは肥前の香りのする土地”として天草一帯の開放性もそれに起因していたのではないかと言う考えがストンと腑に落ちるのでした。

無題.png

百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


研究目的で百嶋由一郎氏による講演録及び神代系譜外を必要とされる方は09062983254まで連絡を


posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 13:17| Comment(0) | 日記

2017年02月28日

300 大宮神社と猿田彦大神 S “総括:百嶋由一郎神代系譜と猿田彦”

300 大宮神社と猿田彦大神 S “総括:百嶋由一郎神代系譜と猿田彦”

20160903

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 これまで「大宮神社と猿田彦大神」として多くを書いてきました。

猿田彦=山幸彦=ニギハヤヒ=経津主…と多くの名をお持ちの神代史(実は九州を中心に展開された本当の古代史なのですが)上のスーパー・スターの痕跡が凝集されているのが、その総本山とも言うべき熊本県山鹿市の大宮神社であることが見えて来たようです。

まず、全てとは言わないまでも、海幸山幸神話(実は若き阿蘇高森の草部吉見ことヒコヤイミミと熊本から山鹿を中心に北に展開した若き猿田彦ことニギハヤヒの確執)の舞台が熊本から福岡の一帯だったようなのです。

そして、それに絡んで塩椎神、塩土翁…という人物が登場し、釣針を亡くし途方に暮れる山幸に龍王のもとに行くことを勧める話になるのですが、その人物こそ博多の櫛田神社の主神である大幡主であり、受け入れた人物=龍王が塩土翁の正室の息子(山幸の腹違いの兄)である豊玉彦(ヤタガラス)であり、そのヤタガラスの娘こそ豊玉姫=宗像大社の田心(タゴリ)姫だったこと、そして、そのシオツチこと塩土翁も山鹿の大宮神社の隠された主神である地主神(埴安彦外2神)として祀られている事、さらに踏み込めば、残りの2神も金山彦と櫛稲田姫であるか、金山彦とそのお妃である埴安姫(シオツチの妹)である可能性が高く、スサノウのお妃となられた櫛稲田姫と本物の神武天皇の最初のお妃となられたアイラツヒメ(相良観音)もこの山鹿周辺で産まれた事、その近くにある伝ウガヤフキアエズ陵も山幸彦=ニギハヤヒと豊玉姫との間に産れたのがウガヤフキアエズであったとしたら(記紀はそれを隠していますが、百嶋神代系譜はそれを看破しています)、相良観音を望む場所に残されたこの非公認の陵墓もそれなりの現実味を帯びてくるのです(ひぼろぎ逍遥跡宮128130参照)。

無題.png

山鹿市菊鹿町相良の伝ウガヤフキアエズ陵 と その教育委員会による掲示板


 そして、その向こうには松尾神社が在り、呉の太伯王〜呉王夫差の末裔とする「松野連系図」との関係が取りざたされる松野鶴平、頼三、頼久…の一族の生家まであるのです。

 つまり山鹿とはスサノウとそのお妃となられた櫛稲田姫の生誕地であり、初期の九州王朝を支えたであろう金山彦とそのお妃としての大幡主のお妃、本物の神武天皇のお妃であったアイラツヒメ(父は金山彦、母は大山祗の妹であるオチの姫)のおられた土地であることを併せ考えれば、紛れもなくこの一帯こそが日本神代史の最重要の舞台だった事が見えて来るのです。

 ここで考えるのですが、山鹿一帯を中心に肥後全域に、何故、猿田彦の石塔がこれほどまでの集積を見せているかという問題です。

山幸彦は身分が低い(百嶋先生の言)にも関わらず、最期は海幸彦を押し退け伊勢の外宮様(豊受大神=伏見稲荷)の夫にまで抜擢されているのです。

 その理由は、博多の櫛田神社の大幡主の血が流れていた(側室の子)からであろうと思われるのです。

 このことは、ひぼろぎ逍遥(跡宮) 287 大宮神社と猿田彦大神 F “山幸彦=ニギハヤヒは博多の櫛田神社の主神の大幡主の子であった”で述べましたが、恐らくこの事が関係しており、金山彦、大幡主、大山祗亡き後の実権が、この山幸彦一党(大国主、ヤタガラスを含む)に任されたからであり、最低でも阿蘇の神々(阿蘇12神)が菊池一族によって大宮神社に持ち込まれるまでは、大国主(この神様も大幡主の配下で活動していたから亀甲紋章を使い「主」という称号を使用しているのです)、スサノウ(博多の櫛田神社の三神体制でもスサノウが鎮座していますね、それは櫛稲田姫の生地だからです)、山幸彦、ヤタガラス(豊国主)の支配体制が貫徹し、それらを中心に祀られていたはずなのです。

無題.png

ここまで見てくると、贈)景行天皇=贈)孝安天皇=玉名疋野神社の主神も、百嶋最終神代系譜によれば豊受大神と海幸彦との間に産れた御年神の子が贈)景行であることからして、玉名から出てきて山鹿に足跡を残しただけの話でしかなく、早くても阿蘇の神が持ち込まれた西暦1050年以降か、遅ければ明治期に縣社昇格に絡んで持ち込まれただけの様に見えるのです。

恐らく、百嶋由一郎先生(菊池至誠会福岡支部長)も上米良純臣宮司(菊池至誠会会長)もこの辺りの事情は全てご存じだったものと思います。

 ただ、明治以降昭和の敗戦以降の政治情勢の変化を見据えながら表に上げないままあの世に行っておしまいになったのだと思わざるを得ません。

 それは、多くの神社、地域への影響が大き過ぎるため公開できない話として心に留めながら、何時しかこの事を知っている賢い宮司、教育関係者の一切が亡くなられ、贈)景行天皇を本物の天皇であり、山鹿の守護神の如く思い込まされ強弁する間の抜けた無知な関係者が専横を振るう時代になってしまったのだと思うのです。

 従って、このような、良く言えば日本版ダビンチ・コードのような話、悪く言えば九州王朝論者という怪しげな連中の中でも狂人の類の戯言といったものでしか継承できなくなってしまったのです。

つまり、秘密とは本当の一部だけの極秘にしてしまうと、日本海海戦の東郷平八郎が本当にT字戦法で勝利したといった対外的デマが本当になってしまったのと同様に、隠し過ぎると擬装が真実とされてしまうことになるのです。そして、哀れなのは民衆であり、自らとは全く縁も所縁もない他所の神様を崇める事に成ってしまったのです。ヨヘホ、ヨヘホ…!悲しきは山鹿の民だけではないかと思うものです。

無題.png
無題.png

和水町で発見された納音九州年号対照表


文献史学派として九州王朝論の立場から4著を残された平野氏、同じく九州王朝論の立場から半島から中国全域、中近東までフィールド・ワークを続けられた百嶋氏、九州王朝実在の物証としての納音九州年号対照表、これほどのものが残されていても、学会通説、教育員会、学芸員は一片たりとも見向きもしてこなかったのです。

このような事実を知っておきながら、町興し宜しく“行政は無視できない、行政とのパイプは残しておかなければならない”といった姿勢の延長上に、真実の探求とか九州王朝の探究も…と言ったさもしい思考をする向きには断じて古代の探究ができるはずがないのです。

古代史とか九州王朝論をあたかもファッションと考えるような方々には古代への扉は開かれる事はないのです。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 23:57| Comment(0) | 日記