太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「百嶋神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログを継続しています。


これにはプロバイダーを含め何時情報封殺が行われるかも知れないため、最低でも複数の発信媒体を準備しておくべきではないかと考えているからでもあります。


今後ともかなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史によるblogひもろぎ逍遥に対抗しようという意図はないのですが、華麗なひもろぎ逍遥に対して、緋色のボロ着で、神籬=ひもろぎ(ひぼろぎ)を逍遥=彷徨い歩き、神社を探るというほどの意味で、「ひぼろぎ逍遥」を随時書いて行くことにしたものです。ただし、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象なども認められます。


 さて、現在、ひぼろぎ逍遥とひぼろぎ逍遥(跡宮)との合計のアクセス数は日量10001200件(年間4045万件)まで上がっています。


 同時に、連携する研究者によるblog20近くまで数を増やしており、全体では最低でも年間100150万件近いアクセス数を持っているものと思われます。


 当blogには九州王朝論から百嶋神社考古学へと向かわんとする多くの研究者、記録者、bloger…が参集されています。


 年に10回、10年でも高々100回程度の研究会でも大半は教育委員会関係者から学芸員といった利権まみれの方々通説を拝聴し心服するような、研究者亡き研究会は全く何の価値もないものと考えており、そのようなどこにでもあるような話を好まれる方々は、そこら辺りの既存の郷土史会、史談会に行かれ、村興し、町興し、世界遺産登録に拍手を送り、思いっきり尾を振られれば良いでしょう。


しかし私達は後ろ指を刺される様な探究に踏みとどまり、これまでの歴代の行政権力が隠し続けた真実の歴史の探求へと向かう人々への道標と成ろうと思うものです。




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2018年05月12日

ビアヘロ 046 火の君とは歴代の橘一族だった @ 緊急提言 全国の九州王朝論者に告ぐ! “九州王朝の白族”

ビアヘロ 046 火の君とは歴代の橘一族だった @ 緊急提言 全国の九州王朝論者に告ぐ! “九州王朝の白族”

20171224

太宰府地名研究会 古川 清久


 九州の古代史には火の君が横たわっています。

九州王朝を探索する者にとって、この火の国、火の君をどのように理解するかは極めて重要で、この解明無くしては全く前に進めないと言っても過言ではないものとさえされてきました。


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ひのくに【肥の国(火の国)】古代の九州の地域名の一つ。のちの肥前国,肥後国,現在の熊本,佐賀,長崎の各県に当たる地域を指す。《古事記》国生みの段に筑紫島が身一つにして面(おも)四つありとするが,その一つに肥国が見える。《日本書紀》には,景行天皇の船が,夜暗くして着岸が困難であったとき,遥かに火の光を見て無事陸に着くことができたので,その地八代県(あがた)豊村を火の国と名づけたという地名由来伝承をのせる。また《肥前国風土記》には,肥君らの祖,健緒組が土蜘蛛(つちぐも)を討ったとき,不知火(しらぬい)が天から降ったため,火の国としたという伝承をのせている。

世界大百科事典 第2版の解説


 さて、太宰府地名研究会には色々な分野のエキスパートがおられますが、特に神社研究では熱心なメンバーが集まっておられます。

 敗戦の結果からか、戦後は皇国神話でも荒唐無稽な(「記」「紀」の一部が偏重され「国史」でも何でもないのですが)を全否定する傾向が顕著となり、奇妙にも科学的と思い込まれた考古学的発掘調査と文献史学、特に海外史書への傾斜が高まり、神社研究(特に九州本土に於ける)が全くないがしろにされてきました。

 この全く見向きもされない神社研究(比較的まともな感性を残しておられる「九州王朝論」者の間でさえも、熊本、佐賀、大分などの神社研究など全く見向きもされていないのです)を愚直に継続してきた事から、ようやくこの「火の君」の正体が幾分かは理解できるようになってきました。

 これは多くのメンバーの研究が集められた結果分かってきた事でした。

 まず、@橘一族の後裔にあたる宮原氏(blog「橘氏の末裔」)による自らのルーツ研究がまさにこの一帯(熊本県氷川町)にあった事、A考古学や文献史学に精通した知識を持つ伊藤女史(blog「地図で知る」)によるこの氷川流域の古墳(野津古墳群外)形式の北上仮説による推定、Bもう一人の宮原氏(blog「宮原誠一の神社見聞諜」)との氷川流域に於ける神社トレッキング共同作業、C当然にも65年に及ぶ故百嶋由一郎氏による神社考古学、D熊本県の女性メンバーF女史による氷川流域の重要性へのアドバイス、E古川による有明海を挟む対岸の佐賀県杵島山周辺の橘氏関連調査と火の君伝承、河童伝承への基礎的記憶…これらが総合的に結びつきようやく「火の君」の正体が見えて来たのでした。

 そして、今は、確信を持って言えます。博多の櫛田神社の主祭神である大幡主の子であるヤタガラスの後裔こそ橘一族であり「火の君」の後裔だったのです。

 まず、この問題で最も遠い位置にあることから結果的に重要に見える佐賀県側の資料をご覧ください。

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佐賀県白石町稲佐神社県道傍の境内地に置かれた解説文


稲佐山累縁記により、百済聖明王の王子阿佐太子は、欽明天皇の勅命により、火ノ君を頼り稲佐に妻子従房数十人、八艘の船にて来航、座所二カ所を設けらる


 お読みにもなれると思いますが、稲佐神社(佐賀県杵島郡白石町辺田2925)は直接的に百済の王族を祀る神社です。

 この神社の伝承として百済の聖明王の子である阿佐太子は“火ノ君を頼って”八隻の船で亡命しているのです。

 時代は有名な斯摩王こと武寧王(聖明王は武寧王の子)から聖明王の時代ですから6世紀に当たる訳で、まさに九州王朝の最盛期の時代に火ノ君は後の肥前、肥後を支配領域としていた事が分かるのでした。

 ところが、この孤立無縁と思われた伝承が、有明海を挟んで対岸の氷川流域〜八代市に掛けて存在していたのでした。

蛇足ながら斯摩王が列島と半島の中間の加唐島で産まれたとの話がありますが、それは両国の学者の説を折半しただけのものであり、当然、糸島半島の志摩に決まっているのです。

学者、教委、学芸員は馬鹿か嘘つきか!?

 一つは、氷川町の北、旧小川町(現宇城市)の南海東の正しく泉地区にある霊符神社であり、もう一つが、有名な八代市の妙見宮に隣接する同じく霊符神社でした。


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杵 島 A 2/2

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杵 島 @ 1/2

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熊本県の興味深いエリア宇城市海東地区の霊符神社初見

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八代市の妙見宮は列島に亡命した雲南省昆明の白族の中心的な神社だった


詳しくは、稲佐神社を ひぼろぎ逍遥の「杵島」を、二つの霊符神社については、ひぼろぎ逍遥(跡宮)の505508をお読み頂くとして(公開のタイムラグがあり、本稿オンエア時には、まだ、公開されていませんので必要な方は09062983254までご連絡下さい)、実に二つの霊符神社の由緒には、稲佐神社と非常に良く対応する内容が書かれていたのでした(琳聖太子が後の周防の大内氏のルーツとされるのですが)。


阿佐太子(あさたいし、アジャテジャ、6世紀末 - 7世紀前半頃)は、百済の王族出身画家で、威徳王の息子。日本に来て聖徳太子の肖像画を描いたと伝えられる。生涯[編集]

『日本書紀』によれば、推古天皇5年(597年)4月に日本に渡って聖徳太子の肖像を描いたと言われる。奈良の法隆寺に伝来し、明治以降は御物となっている『聖徳太子二王子像』と呼ばれる絵は、日本で一番古い肖像画とされている。その形式は中央に太子が立ち、その左右に2人の王子(伝えられるところによれば、右側が山背大兄王、左側が殖栗王)を小さく配置した構成である。この配置は、仏教の三尊仏形式の影響を受けたとも考えられ、あるいは閻立本の作とされる初唐の『歴代帝王図巻』に見られる人物配置に似ることから、その頃の構図法に起因したものと解釈されることがある。

日本学界でも論議が多いこの像は、製作時期においても太子の冠の様式や太子及び王子の服飾から見て、8世紀(奈良時代)の作品だと見る説と、平安時代以降の模本と見る説が概して多い。

このように現在伝えられる聖徳太子像の作者および制作時期は、様式上の問題点と同時に、阿佐太子に対する記録が韓国側資料にはないという事実によって、未解決の課題である。

ウィキペディア(20171225 0114による

聖明王 朝鮮、百済(くだら)の第26代の王(在位523554)。『三国史記』『三国遺事』には聖王とある。武寧王の子である。中国の梁(りょう)によく通交して文物を得、「持節都督百済諸軍事綏東将軍(じせつととくくだらしょぐんじすいとうしょうぐん)百済王」に封ぜられた(524)。また欽明(きんめい)天皇の日本にも通交して仏教などを伝え、任那(みまな)の復興を図った。王は都を熊津(ゆうしん)(いまの公州)から泗(しひ)(扶余(ふよ))に移し、国号を南扶余とした(538)が、新羅(しらぎ)と争って戦死した。[浜田耕策]武寧王(462 - 523年)は、百済の第25代の王(在位:502 - 523年)

日本大百科全書(ニッポニカ)による

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霊符神社は八代の妙見宮に隣接する高い場所に置かれています。この只ならぬ関係は霊符神社と妙見宮と一体と言っても良いような同族性を感じさせますし、高い場所に祀られていること自体でも霊符神社の方の格式が上なのではないかとさえ思わせます。

 その霊符神社に火の君の記述(火の君こそがその時代その地域の支配者であったことを思わせる)があることから恐らく火の君と妙見宮それに九州王朝との濃厚な関係が存在したと考えられる百済系氏族(だからこそ九州王朝は白村江の闘いに突き進んだ)を受入れたのだろうと考えられるのです。

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兼川 晋       小松洋二

いずれも不知火書房092-781-6963の名著


そこで、故)百嶋由一郎氏の最終神代系譜をご覧頂きたいと思います。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


そこで、良く知られた八代の妙見宮ですが、最近になって列島にとっても九州王朝にとっても最も重要な神社であった事がようやく分かってきました。

ここでは、通常話されるありきたりの内容から離れ最も重要な側面についてだけお話しさせて頂きます。

言うまでもなく、祭神である天御中主神と國常立神とは、白山姫と博多の櫛田神社で祀られている大幡主の二神です(「熊本県神社誌」省略)。

 この間、八代の妙見宮の重要性に関しては十分に理解していたつもりではあったのですが、大幡主〜豊玉彦=ヤタガラスの一族(白族)は、直接、熊本に入っていると思っていた事から、八代の妙見は河童渡来(揚子江流域からの越族の移動)による後付だろうといった程度で考えていました。

 ところが、妙見宮に隣接する霊符神社の記述と、氷川の北宇城市小川町の霊符神社の記述が対応し、さらに佐賀県(肥前)の白石町(旧有明町)の稲佐神社(百済の王族を祀る神社)の境内地に百済の王族を火の君の世話で受入れたとの記述が相互に対応すると判明し、肥前〜肥後に掛けての領域を支配領域としていたのが火の君であり、妙見宮=天御中主命=白山姫を奉斎する白族(雲南省昆明からの列島への亡命民族)であった事が分かって来たのでした。

 実は、最終神代系譜(上)の鴨玉依姫こそが、表向き玉依姫を祭神としている京都の下賀茂大社に繋がっているのであり、豊玉彦(ヤタガラス)とは賀茂建角身命も鴨玉依姫の父神になるのです。

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下鴨神社公式HPによる


もう十分にお分かり頂いたと思います。妙見宮こそ下上鴨神社のルーツであり、九州の古代史に於いて重要な位置を占める火の君とはこの下鴨神社に繋がる一族だったのです。

そこで、氷川の北に「豊」地名がかなり拾えることをお考えいただきたいと思います。

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熊本県宇城市豊野町(旧豊野町)地理院地図


氷川町から宇城市に掛けては「豊」地名が拾えます。代表的なのが旧豊野町であり、旧松橋町にも豊福(現宇城市豊福)、豊川、豊崎…が拾えるのです。

一般的には秦の一族と豊国(大分県)ばかりが取り上げられますが、それ以前からこの一帯には豊玉彦の一族の居留地を思わせる初期の豊の国が存在した事を思わせるのです。

ついでに言えば、宇城市には「東海東」「西海東」という奇妙な地名があるのです。

これも主として百済系の人々が住み着いた半島系の人々の亡命地だったのではないかと考えています。

「海東諸国紀」は、李氏朝鮮の日本国と琉球国について記述された歴史書ですね。

とにかく不知火海北部の東岸は白族(妙見宮に象徴されるヤタガラスの一族)の国だったのです。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 17:14| Comment(0) | 日記

2018年05月07日

453 伊都能売神(イヅノメノカミ)を奉斎する方々へ @

453 伊都能売神(イヅノメノカミ)を奉斎する方々へ @

20170728

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


イヅノメの神を祀る教団の拾い出しをしてみたいと思います。

まずは、出口王仁三郎の大本教が頭に浮かびます。直接的には伊都能売神としては祀ってはいないのですが、…大本教の出口王仁三郎は、本当のミカエルとは「伊都能売(イヅノメ)神のミカエル(省みる)」と述べているようです。伊都能売神はいろいろ論議されていますが、神道に登場する神直日、大直日の子の働きのことともされています。この神直日、大直日は豊玉姫の子の鴨玉依姫、大山咋神なのです。


大宇宙の創造主神とは、永遠に変わることなく、絶対の存在として実在するただ一柱のみご存在になる根本の真の神のことで、古事記ではこの神のことを天之御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)、大本では大国常立大神(おおくにとこたちのおおかみ)というご神名で尊称しています。

主神は、天地万物を司るために、幾百もの神々を生み出され、それぞれに役目を仰せ付けられ、世界を守り開かれています。…


大本では、主神をはじめその正しい神々を総称して、大天主太神(おおもとすめおおみかみ)としておまつりしています。
なお、大本では主神とともに主神の手足となって活動している多くの天使(かみがみ)を神さまとしてあわせておまつりし、各家の祖先の霊魂も丁重におまつりしています。


世界万物を造りたる神はただ独神(ひとりがみ)、天之御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)とたたえ奉る。天之御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)の神様をつづめて天帝という。また真神という。
(出口王仁三郎)

大本


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1892年(明治25年)、霊能者出口なおに、「うしとらのこんじん」と名乗る神が憑る。(数年を経て出口王仁三郎の審神者により、この神が国祖国常立尊であると告げられる)1898年(明治31年)出口なおと出口王仁三郎が出会い、教団組織を作ることになる。王仁三郎は、出口なおの娘婿として養子となった。やがて戦前の日本において、有数の巨大教団へと発展した。

ウィキペディア(20170728 15:56による

他にも 愛善苑、大本信徒連合会…などが


次は、岡田茂吉の世界救世教になるでしょうか。


世界救世教(せかいきゅうせいきょう)とは、大本の幹部だった岡田茂吉が1935年(昭和10年)に立教した新宗教系の教団。世界救世教本体に世界救世教いづのめ教団東方之光主之光(すのひかり)教団3教派が包括される形で運営されている。現在の教主は四代目の岡田陽一。国内公称信者数は、2016年(平成28年)版の『宗教年鑑』によると、609,722人。

ウィキペディア(20170728 15:18による

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崇教真光


前身は1901(明治34)に岡田光玉(本名・岡田良一)が設立した「宗教法人 世界真光文明教団」である。1974年(昭和49年)623日に岡田光玉が死去。その葬儀の席上、光玉の遺言に従い幹部のひとり関口榮が二代教え主に就任したことが発表され、その旨が真光誌に記載された[1]。 しかし岡田恵珠は「死去の10日前、光玉からの教え主継承の儀は終えている」と反論し、7月に代表役員の登記を済ませた。 これに対し関口榮は、代表役員の地位を明らかにするために提訴し、昭和52年には「関口榮が代表役員である」という最高裁判決(通称、'真光裁判)を得て、正式に教団の2代教え主に就任した。これによって岡田恵珠は文明教団から分派独立し、1978年(昭和53年)に崇教真光を設立した。崇教真光は正当な霊統を継承しており、唯一の正統であると主張していることもあり、光玉時代の信者の多くを吸収している。「崇教」とは、医学、科学、経済学などを含む、過去の宗教を超えた人類教であるとしている。

2009年からは、岡田恵珠の弟子であり、その後養子となった岡田晃弥(岡田光央)が三代教え主(現・総裁)として教団を先導している。

教団は、国内に約1000ヵ所 海外に約300ヵ所の拠点があり、世界75ヶ国に約100万人の信者がいるとしている。

ウィキペディア(20170728 15:18による


とにかく大本教系の教団の分派活動は凄まじくとても門外漢には理解しがたいことから、以後は、


非常に分かりやすい資料がある事から無題.pngを参考にさせて頂きました。


18新宗教と埋没神(上) −甦る伊都能売神−


明治三十二年に稲荷講社の一分会からスタートし、幾多の変遷のあと巨大教団に変貌していく大本教は、国家による二度にわたる大弾圧の混乱のなかで多くのひと達に影響を与え、数多くの分派教団を世に出した。私が師事した先々代宮司は、霊相道の宇佐美景堂師と交流があり、伝授された数霊学などを教わったものだが、この宇佐美師が大本に深く関わっていたことを知ったのは、だいぶ後になってからである。このように身近な者が繋がるように、大本の人脈は多岐に亘る。以前この欄で紹介したが神政龍神会を興した海軍大佐・矢野祐太郎、神道天行居の友清歓眞、心霊科学研究会の浅野和三郎、至恩郷・岡本天明を始め、大教団となった生長の家・谷口雅春、同じく世界救世教の創始者・岡田茂吉三五(あなない)教・中野与之助、璽宇・峰村教平等々、その活動を引き継いだ後継者達は現在も教勢を拡大させている。

 更に、これらの教団からの分派した教団も数多い。独自の神想観と、住吉大神を宇宙浄化の神・護国の神霊とする生長の家からは、ピースポール「世界人類が平和でありますように」で知られる白光真宏会が独立した。浄霊手かざし系の総本山とも謂うべき世界救世教になると実に数が多い。分派教団から更に分派した教団まで数えると、その数は四十とも五十教団とも云われており、それらの信徒数の全てを合わせると五百万人を超えると云う。救世教からの主な分派教団としては既に中堅教団となった晴明教、救世主教、救世真教、救いの光教団を始め、世界浄霊会、みろく神教、大夲光之道、慈永堂などのほか、現在伸長中の天聖真美会、“幸せと健康について”を街頭で語りかけ、教勢を伸張させた神慈秀明会、救世神教とその分派・光明みろく会、真光系元祖の世界真光文明教団、更にそこから分派して大教団の地位を築いた崇教真光・神幽現救世真光文明教団・ス光光波世界神団など、枚挙にいとまがない。

 教祖研究での繋がりや、教団関係者が古神道講座を受講することで依頼されて幾つかの教団の職員教育、教義・布教のコンサルタント的な役割、顧問役といったことを引き受けているが、この世界救世教とは、研究会設立以前から関わりを持たせて頂いている。救世教は、内部紛争の一時期があり既に終息しているが、現在は、内部に三教団が併立している。それは、いづのめ教団、東方之光、主之光教団の三教団。余談になるが、私はこのいづのめ教団の祭典部に月に三回ほど伺っている。そこで大学で習った祭事の行事作法、神典や神社神道の知識などと、救世教の神観や神示に就いての情報交換なども行なっている。

 いづのめ教団の“いづのめ”の由来に就いては、『古事記』のただ一ヵ所に登場する伊豆能賣という神に辿り着く。

 このいづのめは、大本の出口王仁三郎の伊豆能売観を経て世界救世教教祖・岡田茂吉の霊示に依り、新たな神相観と働きを持つ伊豆能売が現出する。その霊的ビジョンに依れば日本古来の神々が印度に渡航して化身仏となる。その最高位におられたのが伊豆能売神であり、この伊豆能売神とは、実は観世音菩薩であると云う。岡田茂吉は自分の考察として本地垂迹を、本地とは本元の国日本であり、垂迹とは教えを垂れることとする。“すなわち最後に至って、故郷である日本全土に、一度仏の教えを垂れるとともに、仏華を咲かせ、実を生らせなければならないという蜜意である。”つまり、従来の本地垂迹説をまったく逆の視点で、日本の神の本地が印度の仏であったと云う捉え方をしている。

 その頃、日本は伊豆能売神皇が統治していた。だが、素盞鳴尊を中心とする神々が朝鮮から渡来し、その地位を狙い圧迫して来た。これに応諾しないための威圧や迫害が生命の危機にも及び、日本を逃れ、中国を通って伊豆能売神は印度に落ち延びる。


一応、伊豆能売神を奉斎する教団の概略が把握できたのではないかと思います。

ただ、多くの信仰をお持ちの方を含めて、伊豆能売神が一体誰なのかは全くお分かりになっておられないようです。しかし、百嶋神社考古学には凄い力があるもので、我々のような浅学の者にもその正体が見えて来るのです。そして、直接的に伊豆能売神にも遭遇する事が出来たのです。

詳しくは、ひぼろぎ逍遥(跡宮)から以下の6本のblogをお読み下さい。


438

伊豆能売の神とは何か? E “伊豆能賣の中間調査を終えて思う事” 

437

伊豆能売の神とは何か? D “伊豆能賣は 何故「イヅノメ」と呼ばれたのか?”

436

伊豆能売の神とは何か? C “遠賀川左岸に伊豆能賣を発見した ”遠賀町の伊豆神社“ 

435

伊豆能売の神とは何か? B “遠賀川右岸の二つ目の伊豆神社の元宮か?”久我神社

434

伊豆能売の神とは何か? A “二つ目の伊豆神社” イヅノメの神が少し分かってきました

433

伊豆能売の神とは何か? @ “遠賀川河口の両岸に伊豆神社が並ぶ”


再掲載


436 伊豆能売の神とは何か? C “遠賀川左岸に伊豆能賣を発見した ”遠賀町の伊豆神社“ 

20170622


伊豆能売を探す作業を始めましたが、太宰府地名研究会でも熱心なフィールド・ワーカーであり、奇妙な祭祀、奇妙な祭神に関するスペシャリストである中島氏が、遠賀川河口の伊豆神社がそれではないかと言った事からこの作業が始まりました。

既に、遠賀川右岸の3社について概略のリポートを書きましたが、今回は左岸の伊豆神社の話です。

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伊豆能売

『古事記』にのみ登場し、『日本書紀』には登場しない。『古事記』でも出自や事跡についての記述が一切ない。神話中では「伊豆能売」とだけ書かれていて、「神」「命」などの神号はつけられていない。

…幕末以降の神道系新宗教の中には、伊豆能売が古代には信仰されていたが後に信仰されなくなった「埋没神」であるとして、新たに信仰の対象にしようとするものもある。…

ウィキペディア(20170622 1103による


現実に伊豆能売神を過去祀っていた可能性がある神社が数社存在し、今でも祀る神社が残されていたのです。

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主神は伊豆能賣です 大社神社、笠松神社、坪内神社は不明ですが後は良く見かける神様です

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これが神殿ですが、今回に関しては是非とも見せて頂きたいと思います


 中島氏の随行を得て訪問した当日、実は、参拝殿で氏子の皆さんがお食事会をされていました。

 氏子総会の打上か?とも思ったのですが、そうではなく水利組合か何かの恒例行事だったようです。

 宴会中でもあったのですが、失礼にも関わらずお邪魔して参拝殿内を見せて頂きました。

中島氏は至って熱心でしかも積極的でさかんに質問されていました。

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重要な事ではないと思いますが、参拝殿には奇妙な絵が掛けられていました。

 大倭天津日嗣國とでもかいてあるのでしょうか?

 図像学は総合的な知識が必要なのですが、力が足りず対応不能です。

 どうも東征に東遷に関わる絵の様でもあり、天照からの日嗣の話の様でもあり、これだけの情報では判別できません。見るべき人が見ればお分かりになるモチーフのようです。

 お分かりの方は09062983254までお教え下さい。

 改めてイズノメ系教団の方々へ、直接的な祭祀の発見もさることながら、実は、この神が誰であり、どこからやって来たのかも分かってきました。実は、これまで周辺の神社を見てきたことから豊玉姫である事が分かる上に、その起源も対馬の木坂であろうとの推定も見えてきたのですが、この話は次に回します。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)高木大神の娘豊秋ツ姫と豊玉彦の娘が豊の国のイヅノメ神なのです


研究目的で故)百嶋由一郎氏の音声CD(3040h)、手書き資料スキャニングデータ、神代系譜DVDを必要とされる方は、直接、09062983254までご連絡下さい。


「古事記」の95パーセントは嘘ですとは故)百嶋由一郎氏の遺言です。通説の古代史をそのまま真に受ける古代史研究者の皆さんもそろそろ漫画の様な古代史の世界から離脱されてはいかがでしょうか?

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 20:00| Comment(0) | 日記

ビアヘロ 045 スポット159 百嶋神社考古学からは九州王朝の別の姿が見えてくる の転載

ビアヘロ 045 スポット159 百嶋神社考古学からは九州王朝の別の姿が見えてくる の転載

20180210

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


古代史、地名研究、民俗学を対象とする「ひぼろぎ逍遥」に対して神社研究に特化した「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)という二本立のblogによって月間30本程度を配信し始めて5年目入りましたが、既にネット上には1200本程度の記事が踊っています。勿論、主要なテーマは九州王朝の探究です。

現在、日量11001200程度のアクセスとなっており、年間45万程度で当面50万件を目標としています。

従って、サイトの規模を考えてもグループ全体では年間200万件を軽く超えているものと考えています。

無題.pngこの点、質は全く異なるのですが、ハイ・レベルな古田史学の会の「新古代学の扉」が年間10万件累計150万件程度なのです。私の場合その背骨を支えてきたものは大学時代から読み始めた古田武彦3部作でしたが、徐々に非古田、反古田系の九州王朝論にも目を向けるようになり、今や、佃収、内倉武久、米田良三…から神代史研究の第一人者であった百嶋由一郎神社考古学に焦点を絞った九州王朝論を全国化したいと考え作業を進めています。

現在、当方の「ひぼろぎ逍遥」、「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)には25blogHPがリンクされています。このほとんどが多少の差はあれ、久留米の高良大社に残された「高良玉垂宮神秘書」(コウラタマタレグウジンヒショ)をベースとした百嶋神代史研究の影響を受けており、北部九州が中心ですが北は青森〜東関東、北関東、愛知、南は四国の高知県に百嶋九州王朝研究の立場から神社、古墳…を調べる文献史学派も含めた研究者、記録者、伝承回収者、映像収集家…のネット・ワークが急速に広がりつつあります。

最低でも25人の研究者(只のブロガーじゃねいか…と言われそうですが、それでも恥をかかないようにと皆さん頑張って書かれておられるのです)が集まっておられるのです。

勿論、最近スタートしたばかりの方もおられますし、休眠中だったものを復活させた方もおられます。

しかし、誰だって日量300件のアクセスでも年間では10万件にはなるのです。

当然、全体では楽に年間200万件になると申し上げたのは控えめな推計です。

当方の二本立てと「常陸の国探検隊」に連動する「宮古の縁側日記」が先行していますが、この4本だけでも8090万件のアクセスにはなるのですから、実際には年間200万件でもおかしくはないのです。

ブロガーとは自分で調べ記録を残し後世に残そうとしているのですから、下手に若者が目も向けない本を出すより余程効率の良い媒体になっているのです。

ところが、○○研究会とか○○地名研究会などと名乗っていても、所謂邪馬台国本を齧っているだけとか、研究会とか称する団体に入って仲間内の研究と称する講演でも通説派が作成したパンフレットとインターネットから引っ張り出した資料の継ぎ接ぎによるコピーで熱弁を振るう仲間内の講演も右から聴いて左に貫け、貰った資料さえもいつしか置いた場所も分からなくなってしまうようなものを研究会と思うかどうかの問題なのです。最早、何も調べずに邪馬台国本読みで勝手な事を言うだけの方はいらないのです。

このような団体では10年経っても何の成果も残すことなく潰え去る事にしかないのです。

ましてや、会計報告はやっても編集会議はおろか会報も出さないような団体では研究会でもなければ、外部にしか研究者もいない事になるのです。従って、カラオケ・クラブ同様の親睦会でしかないのです。

しかし研究者とはいるものです。ただ、彼らは群れないからこそ研究者であって独立しているからこそ独自の研究や発見ができるのです。

このように研究者とは、親睦会紛いの何々研究会の傘の中の裾野に産まれ成長するのではなく、あたかも電信柱の様に散ら無題.pngばっているのです。

してみると、その電信柱のネット・ワークにこそ価値がある事に気付くのでした。

ましてや、百嶋由一郎という稀代の神社研究者の存在を知ったのですから、それを何とか後世に引き継ぎ、嘘で固められた「古事記」「日本書紀」、それを批判するとして、その延長上に組み立てられた九州王朝論も通説の臍の緒を引き摺っている事に気付くのです。

その意味でも百嶋研究は本当の意味での九州王朝論に近接する強力なレーザー・メスなのです。

このため、私達はどのような障害も抵抗も排除し後世に引き継ぐ任務まさにミッションを帯びているのです。

そのような何の情念も持たない九州王朝論では、いずれ、邪馬台国九州説に後退し、ほどなく通説派に取り込まれていくことになるでしょう。なお、全国区の「事代主のブログ」も加わられました。

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本当にようやくですが、青森〜東関東に掛けて4件、愛知県2件、高知県1件、大阪府2件、大分県5件、福岡県11件の合計25件のグループが形成されました。

この外にも、鹿児島県、福岡県、山梨県…からも新規に参加される方もおられ検討しています。

人材を残す必要から、テーブルに着いた神代史研究会も研究拠点として残す方向で動いていますが、今は多くの研究者の連携を拡げ、独立した研究者のネット・ワークを創り、現場に足を運んで自らの頭で考えるメンバーを集めたいと考えています。そのためには少々の雨も寒さも厭わぬ意志を持ったメンバーこそが必要になるのです。勿論、当会にはこのブロガーばかりではなく、著書を持つ人、準備中の人は元より、映像を記録する人、神社のパンフレットを集める人、伝承を書き留める人、blogは書かないものの、徹底してネット検索を行い裏取りを行う人、ただひたすら探訪を続ける人と多くのメンバーが集まっているのです。全ては95%が嘘だと言いきった故)百嶋由一郎氏による神社考古学のエッセンス残すためです。

なお、「肥後翁のblog」」(百嶋テープおこし資料)氏は民俗学的記録回収者であって民俗・古代史及び地名研究の愛好家 グループ・メンバーではありませんがご了解頂いています。この間、百嶋神社考古学の流布拡散に役立っており非常に感謝しております。
posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 11:07| Comment(0) | 日記