太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「百嶋神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログを継続しています。


これにはプロバイダーを含め何時情報封殺が行われるかも知れないため、最低でも複数の発信媒体を準備しておくべきではないかと考えているからでもあります。


今後ともかなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史によるblogひもろぎ逍遥に対抗しようという意図はないのですが、華麗なひもろぎ逍遥に対して、緋色のボロ着で、神籬=ひもろぎ(ひぼろぎ)を逍遥=彷徨い歩き、神社を探るというほどの意味で、「ひぼろぎ逍遥」を随時書いて行くことにしたものです。ただし、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象なども認められます。


 さて、現在、ひぼろぎ逍遥とひぼろぎ逍遥(跡宮)との合計のアクセス数は日量10001200件(年間4045万件)まで上がっています。


 同時に、連携する研究者によるblog20近くまで数を増やしており、全体では最低でも年間100150万件近いアクセス数を持っているものと思われます。


 当blogには九州王朝論から百嶋神社考古学へと向かわんとする多くの研究者、記録者、bloger…が参集されています。


 年に10回、10年でも高々100回程度の研究会でも大半は教育委員会関係者から学芸員といった利権まみれの方々通説を拝聴し心服するような、研究者亡き研究会は全く何の価値もないものと考えており、そのようなどこにでもあるような話を好まれる方々は、そこら辺りの既存の郷土史会、史談会に行かれ、村興し、町興し、世界遺産登録に拍手を送り、思いっきり尾を振られれば良いでしょう。


しかし私達は後ろ指を刺される様な探究に踏みとどまり、これまでの歴代の行政権力が隠し続けた真実の歴史の探求へと向かう人々への道標と成ろうと思うものです。




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無題.png読者の皆さんに…真実の神社研究へのご支援を…


太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久




ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥の読者の皆様、また、グループのブログをお読みの皆様、暑い中、丹念無題.pngにお読み頂き有難いと思っています。


 古田武彦が亡くなり、また、百嶋由一郎氏が亡くなり数年が流れました。


 当初、貴重極まりない百嶋研究の一部でも残せないだろうかと考え、手書きデータや神代系譜文書のDVD化、音声データの保存、複製、宣伝という作業を続けて来ました。しかし、単にデータの保管、配布の体制を確立するだけでは継承ができないと考え、blogで百嶋研究の説明、現場実調を徐々に進め公開してきました。この結果、全国にも理解者が増え始め、神社研究ではなんとか特異な勢力を形成できる所まで漕ぎ着けました。


 既に、百嶋研究の一部でも接点を持った全国の二十五人を超えるブロガーが独自の側面から研究を進めておられますし、ブログは書かないまでも、神社調査を行い記録を残している方もおられます。


 勿論、統一性は取れてはいませんし、なかなか難解な内容だけに、解明できない問題についてはメンバーの若い世代に託すことになるでしょうが、なお不明なものは後世の研究者に期待する事に成るでしょう。


 百嶋先生と知り合いになったのは七年ほど前だったと思いますが、もしも後数年生きておられたならばもう少し古代、神代の謎を継承できたかも知れません。しかし、未熟な者だけで作業を行わざるを得なかった事から今尚皆さんにご迷惑をお掛けしているものと理解しております。


しかし、私達の能力を考えれば、むしろ上出来といったものかも知れません。


さて、メンバーの背骨を形成している中心的思想とは、当然にも九州王朝論です。


 百嶋先生も“私も九州王朝論が分かっていない人に神代史を教えても意味がないし、教えたくないですね…”と言われていた事が今でも耳に残っています(吾は百嶋由一郎の面受の弟子なり!)


さて、四月の近江〜但馬、五月の糸魚川〜諏訪〜山梨、六月の青森と15日間づつ三度に亘って長躯の神社調査を行いました。


ぶっ続けで調査すれば良さそうですが、落ち着いてリポートも書かなければならず、研究会のスケジュールもあってそういう訳にも行かず、各々3,0004500キロの往復の調査とならざるを得なかったのです。


今後も、三重、和歌山、岐阜、福井…と、よりきめ細かい調査に入るつもりですが、もはや資金が底を尽きつつあります。


元々、福島の原子力災害辺りから、これ以上行政機関に留まりたくないとの思いが募り、後先き考えずに58歳で早期退職した事から(当時上の娘は大学に在学中だったのですが)年金と言ってもギリギリ暮らせる程度の物で、なんとかここまで働かずに神社調査を行ってきましたが、既に限界点を越え始めたようです。事実、当会は研究を優先するためメンバーから会費を取る事なく僅かな参加費で運営しています。


人手不足の時代、まだ、働こうと思えば職はあるはずですが、拘束時間が長くなれば、研究を進める事ができないまま人生の終末期を迎える事にもなりかねず、できるだけ体力がある間に遠距離の調査に入りたいと思っています。このため、出来る事ならばこのまま神社研究に専念したいものと考えています。


基本的には年金生活で何とかやっていますので、月額であと二〜三万増やせれば、車の維持、車検、保険、介護保険料、研修所の維持、研究会の組織化、ネット規制に対応するためにもう一つ別の発信のためのサイトの準備……と増加する負担にも対応できるのではないかと考えています。


今後、研究内容を保全するためにも、外付けハード・ディスクをタイム・カプセル化して鍾乳洞に保管する(太陽フレアによる磁気データの消失への対策)とか、研修所の維持、後世に残すためにユーチューブ化してオンエアするなど新たな作業に入る必要も生じており、もし可能であれば、通説とは全く異なる百嶋神社考古学の保護と継承のためのご支援をお願いできないかと考えています。


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年間一口2000円以上の任意の百嶋神社考古学研究会の支援会員となって頂ければ、九州においでになった際に会員待遇として温泉付き研修所に一泊お泊めできます。九州での神社調査の拠点として活用下さい。


振込用の銀行預金講座、郵便貯金番号は以下の通りです。


 大分銀行 若宮支店 000093−7505802 フルカワ キヨヒサ


 ゆうちょ銀行 店番 778 預金種目 普通預金 口座番号 1165562 氏名上に同じ


また、もし差支えなければ、以下のメールにお名前と住所と電話番号を以下のメールに送信して頂き、カンパした旨の連絡を頂ければ、神代系譜のDVD(既にお持ちの場合はそれに代わる音声データなど)をお送りできるものと考えています。


 携帯のメール・アドレス ariakekai@ezweb.ne.jp携帯 09062983254 (常時対応)


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2018年10月28日

510 関東の鹿島、香取の香取神社は有明海から移動したのかも知れない? A ”氷川以北の鹿島神社”

510 関東の鹿島、香取の香取神社は有明海から移動したのかも知れない? A ”氷川以北の鹿島神社”

20171212

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


香取とくれば鹿島になります。

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確かに氷川の北の旧竜北町に鹿島地区があり鹿嶋宮があるのです(熊本市の南に嘉島町もありますが)。

 この神社は竜北西部小学校のすぐ北に隣接して鎮座しています。

入口には「鹿嶋宮」の額が掛かった鳥居が建立され、境内に入ると左には手水舎・土俵が配され、参道左右に社名が分からない境内社が二社祀られています。中央奥には唐破風付き入母屋造りの拝殿があります。

「熊本県神社誌」238pには武甕槌と経津主とされており、確かに鹿島、香取を意識した祭神配置になっています。

 武甕槌と経津主とは言うまでもなく海幸彦と山幸彦であり、阿蘇高森の草部吉見神社のヒコヤイミミと不知火海から天草にも広く奉斎されている猿田彦=ニギハヤヒのことなのです。


 御祭神:武甕槌大神、経津主大神

 祭礼日:歳旦祭・11日、鹿島神社春季大祭・415日、還暦祭・415日、立願祭・7月、鹿島神社秋季大祭・1015日、七五三子供大祭・1115日、大祓祭・1231日、水天宮大祭・215日、天満宮大祭・225日、海神社大祭・321

 境内社:水天宮、天満宮、海神社

 由緒:後白河天皇の御世、外敵の侵入を防ぐために、茨城県の鹿島から奈良県の春日に分霊が行われた。その後福岡県の志賀島、佐賀県の鹿島、そして熊本県のここ鹿島に御霊をお祀りすることとなった。その時肥後守平朝臣貞能、尾崎左近衛督藤原朝臣兼倶が天皇の命により鹿島村の海辺の地、一町田を選んで社を建立し、保元2年(11571115日に落成した。社田六百歩が寄付され、息左衛門尉兼雄に守護させたという。

 その後天正年間、小西行長によって社殿を焼失されたが、慶長の初めに加藤清正公に願い出て、慶長15年(161010月に再建することが出来た。文政元年(1818815日に社殿改修、天保14年(18431120日、弊殿と拝殿が再建された。

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さて、「後白河天皇の御世、外敵の侵入を防ぐために、茨城県の鹿島から奈良県の春日に分霊が行われた。その後福岡県の志賀島、佐賀県の鹿島、そして熊本県のここ鹿島に御霊をお祀りすることとなった。その時肥後守平朝臣貞能、尾崎左近衛督藤原朝臣兼倶が天皇の命により鹿島村の海辺の地、一町田を選んで社を建立し、保元2年(11571115日に落成した。社田六百歩が寄付され、息左衛門尉兼雄に守護させたという。」と書かれていますが、どうやら後白河天皇は常陸の鹿島=武甕槌=鹿島大神が春日大神であり、そのルーツが九州島の肥前の鹿島、肥後の鹿島にあった事を十分に知っていたはずなのです。

 だからこそ再勧請が行われたのであり、結果的には常陸や上総、下総からの勧請であったとしても、間違いなく有明海、不知火海一帯で活動していた海幸彦、山幸彦の領域だった事が分かって来るのです。

 恐らく、保元の乱の頃までは、まだ、この事は十分に認識されていたのでしょう。

 始めは熊本の鹿島は嘉島町の事だと考えていたのですが、火の君の中心地である氷川流域の鹿島だったのかも知れないのです。ただ、現地は古代には海の中の干拓地であって元宮も山手にあるはずなのです。

 最後に、山幸彦が香取の経津主であるとしましたが、その経津とは島原市の「布津」である事をお知らせしておきましょう。 

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ひぼろぎ逍遥(跡宮)には、

294

大宮神社と猿田彦大神 M “鹿島、香取でご存じの香取神社の経津主も猿田彦大神なのです”

を書いていますが、故)百嶋由一郎先生も、“島原市の猛島神社が山幸彦の本拠地でした”と言われていました。

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五十猛尊、大屋津姫命、抓津姫命を主祭神とする神社です

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もう皆さんも経津(フツヌシ)が山幸彦=猿田彦=ニギハヤヒ=五十猛(イタケル)=石上(イソノカミ)…であることがお分かりになったと思います。

 草部吉見(海幸彦)、猿田彦(山幸彦)共々、神武東征ならぬ神武御巡幸の随行者として東日本に入っている可能性があるのです。

 その後、これらの神々を奉斎する氏族が東日本に入っている事は想像するに難くありません。

 では、何故経津主と呼ばれるのでしょうか?

 「主」は、天御中主を筆頭に、大幡主、豊国主(ヤタガラス)、大国主、経津主(山幸彦)、事代主(蛭子)、天之甕主…と大幡主(白族)系の神々の尊称であることは見当が着きます。

 これについては、百嶋由一郎氏は“現地(雲南省昆明)の青銅器にも「主」が刻まれている”と言われていました(滇(てん、簡体字: , 拼音: Diān)は、前漢時代の紀元前3世紀頃から、雲南省東部の滇池周辺にあった滇人による西南夷の国)。では、経津、布都…とは何でしょうか?

 まず、香取神社が鎮座する千葉県には富津(フッツ)市がありますね。隣は君津市ですね。

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しかし、それは移住地であって、本来の震源地は九州島にあり、猛島神社(五十猛を祀る)が鎮座する長崎県島原市の布津(旧布津町)だろうと考えています。

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実は、五十猛命を祀る(ニニギ説もあり)荒穂神社(基山、太宰府、嘉麻…に数社)に近い、鳥栖市にも布津原町があります。

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遠い古代、猿田彦=五十猛…を奉祭する諫早から有明海を中心とする海人集団が、第二拠点とも言うべき山鹿の猿田彦軍団と共に、房総半島で上総(カズサ)に向かったと考えています。

 その根拠はと問われれば、同一神を奉祭神社が存在し、経津(フツヌシ)=フツの主と呼ばれている事、千葉県と有明海沿岸に「フツ」「フッツ」と呼ばれる地名が存在している事ですが、千葉県富津市、君津市が在る一帯を上総(カズサ)と呼びますね、「かずさ」と呼び習わしていたから、下の「カズサ」と併せて上総、下総(シモウサ)とされたのだろうと考えています。

 では、何故、カズサと呼ばれているのでしょうか?

 それは、有明海の出口である、口之津の隣町の南島原市の加津佐(カズサ)という地名が持ち込まれたからだろうと考えています。

 隣の口之津は明治から昭和初期に掛けて大貿易(上海向石炭積出港)であり、さながら海員学校が置かれた口之津は、ある時期、国際貿易港の様相を呈していました。

 一般的には、博多港、唐津港、呼子港が注目されていますが、海流を考えれば、直ぐわかるように、有明海を出れば、そこには対馬海流が流れており、半島、大陸、インドシナへの航路が開かれていたのです。

大幡主の配下にあった山幸彦=経津主は、島原半島の布津、加津佐を拠点に活動していたのです。

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猿田彦=経津主は口之津、加津佐から列島に展開した

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 18:32| Comment(0) | 日記

2018年10月24日

509 関東の鹿島、香取の香取神社は有明海から移動したのかも知れない? @ ”氷川以南の香取神社”

509 関東の鹿島、香取の香取神社は有明海から移動したのかも知れない? @ ”氷川以南の香取神社”

20171211

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


現在、宮原誠一氏と共に肥後は氷川流域の神社調査を進めていますが、最も関心を持っていたのは、氷川町の西隣の八代市鏡(旧鏡町)に鎮座する二つの香取神社でした。

香取神社については、既に、ひぼろぎ逍遥 370 キッコーマン醤油と博多の櫛田神社の大幡主 という奇妙なタイトルで妙な話を公開しています。

百嶋神社考古学では、千葉県から茨城県に掛けて展開する鹿島神社と香取神社とは、各々、海幸彦(阿蘇高森の草部吉見神=ヒコヤイミミ…)、山幸彦(ニギハヤヒ=猿田彦=五十猛…)と考えています。

当然にも、塚原卜伝が信奉した鹿島大神=武甕槌こそ阿蘇の草部吉見神と理解していましたが、香取神社の経津主がニギハヤヒなら彼らも九州のどこからか移動したのだろうと考えていました。

ところが、11月に熊本県上天草市の大矢野島に二つの香取神社を発見したに留まらず、相次いで、宮原誠一氏から熊本県氷川町の南の旧鏡町に香取神社が二社ある事を告げられたのでした。


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写真の香取社は円中の神社です 


 この天草の二つの香取神社(香取社)は千葉県からの勧請と考える事はできるのですが、九州では香取社を見ない上に、醤油の醸造でも絡んでいれば別ですが、何故、この地へ香取社が勧請されたかが不明なのです。

 ただ、醤油の醸造には塩が欠かせない事から、最大の生産地であった天草との関係はあるかも知れません。

 これについても ひぼろぎ逍遥(跡宮) 塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! E 鹽土老翁神から猿田彦=ZALT彦説 外を併せてお読み頂きたいと思います。


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塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! E 鹽土老翁神から猿田彦=ZALT彦説

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塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! D 水俣市塩浜運動公園の塩釜神社

308

塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! C 天草市五和町塩屋大明神正面の塩田跡


 そこで、今回の氷川左岸の香取神社の発見です。

 それほど大きな神社でない事は始めから見当が着いていました。

それなりの大社であればこれまでのフィールド・ワークで気づかないはずはないからです。

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が下有佐の香取神宮(八代市鏡町下有佐)で、が上有佐(氷川町上有佐)の香取神社です。

町村合併の折、有佐は分かれたのでしょうか良く分かりません。

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香取神宮の御神体で経津主=山幸彦と豊受大神となるのですが…


一方、旧宮原町の香取神社はピカピカの真新しい社殿でした。

「熊本県神社誌」によれば上有佐の香取神社の祭神は「経津主神」(宮原町有佐303)とされています。

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終戦直後のそれこそ安直な千葉県佐倉市からの勧請神社説においそれと乗るつもりはありませんが、ここでは、不知火海を中心に香取神社が4社ほど確認できる事をお知らせして、以前から気にしている事が幾つかあるため、ここではそれをお話しする事にしましょう。

 まず、常陸国〜上総(カヅサ)国の「上総」はいかにも読めない地名であり、カヅサと呼ばれている土地を無理やり、上総、下総との文字を充て、そのまま読ませたようにしか思えません。

一方、房総半島は上総の国、下総の国と呼ばれています。

さて、上総(カズサ)で思い描くのは長崎県南島原市の南の加津佐です。


上総国

上総国(かずさのくに、正仮名遣:かづさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。

常陸国・上野国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は上総介であった。


下総国

現在の千葉県北部と茨城県西部を主たる領域とする旧国名。北で常陸国と下野国、西で上野国と武蔵国、南で上総国、内海を挟んで相模国と接する。

『古語拾遺』によると、よき麻の生いたる土地というところより捄国(ふさのくに・総国)(ふさのくに)と称したとされる総国の北部にあたり、総国の分割によって建てられたとも言われている。古くは「之毛豆不佐(しもつふさ)」と呼び、これが(しもふさ)(しもうさ)に転じたという。

この下総国のほかにも、国の名前に「上」「下」や「前」「後」と付くものがいくつかあるが、いずれも都(近代以前の概念では畿内)に近いほうが「上」「前」と考えられている。上総国と下総国の場合、西国からの移住や開拓が黒潮にのって外房側からはじまり、そのため房総半島の南東側が都に近い上総となり、北西側が下総となった。また、毛野から分かれた上野・下野と同じく、「上」「下」を冠する形式をとることから、上総・下総の分割を6世紀中葉とみる説もある。

ウィキペディア(20171121 18:59

『古語拾遺』の調子はともかくとして、この鹿島、香取に関しては九州からの進出である事は確信しています。

何故そう考えるかと言うと、上総(カヅサ)とはどう考えても読めない表記の地名であり、元々「カヅサ」と呼ばれていたところに無理やり漢字表記が振られたとしか思えないからでした。

この鹿島、香取のルーツが有明海沿岸であったとすると思い当たる事があるのです。

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有明海の西への出口 加津佐(上)口之津(下)をご紹介しましたが、海幸彦、山幸彦の震源地である有明海沿岸から瀬戸内海、勝浦、東海、房総へと進出するとした場合、口之津、加津佐に集結し、有明海からの海流を利用し自然に吸い出され対馬海流に乗るのが最上策であり、恐らく、玄海灘、関門、瀬戸内海、南紀、東海、房総へと進出したと考えています。

無題.png思えば口之津とは海員学校が置かれ、明治期から始まる初期の上海への石炭の積出し港として税関が置かれた国際貿易港でもあった場所であり、現在でも口之津港の湾奥には高良山神社が置かれているのです。

つまり、九州王朝の軍港であった可能性さえも考えられる場所なのであって、この西隣の加津佐が房総の地名として振られたのではないかと思うのです。

太宰府地名研究会のHPには「苧扱川(オコンゴウ)」を掲載していますが、これこそが九州王朝の最重要港湾であったと考えています。詳しくは「苧扱川」を読まれるとして、上の地図には野田浜という地名がある事にお気付き頂けると思います。そうです。キッコーマンは香取神社の氏子の一族であり、だからこそ大幡主の神紋である亀甲を使い、共に「主」(大幡主、経津主)という称号を使っているのです。経津は島原市に編入された旧布津町ですし、千葉と言えば野田の醤油ですね!上総=加津佐も、野田という地名も持ち出されたのです。


資料) 口之津は九州王朝の最重要港湾か? (2011年夏に久留米大学で講演した「苧扱川」の一部分)

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口之津港湾奥の小丘に鎮座まします高良山神社


皆さんは、口之津湾の湾奥に高良山神社があることをご存知でしょうか?

国道筋から数百メートルも入った目立たない所にあることから、地元でもこの界隈に住む方しかご存じの方がおられないようですが、今も高良山という小字が残る小丘に、立派な鳥居を持つ社が鎮座しているのです。もちろんご存じないのが道理ですが、大牟田市の西南部、有明海に鋭く突出した黒崎岬の先端や、私の住む武雄市花島地区のこれまた高良大社に向かって東に突出した小丘にも高良玉垂が祀られていることから、この口之津高良神社もそれらの一つであると考えられます。

京都や青森の五戸にもあることから、直ちに何かが分かるというものではありませんが、古来、有明海一帯を支配したはずの高良玉垂の威光を感じさせるものであることは言わずもがなのことであるはずなのです。

この場所は、現在、公園化されているポルトガル船の接岸泊地跡からさらに百メートル近く奥に入ったところに位置しています。さらに言えば、埋め立てが進んだ口之津湾の相当に古い時代の港湾跡の上にあたるようなのです。


無題.png遠い古代に於いて、外洋航海も含めた出船泊地であったとしか思えない場所なのです。

そして、そのことを証明するかのように、この岬の直下には「西潮入」という小字が残っています。

もはや疑う余地はありません。朝鮮半島から中国大陸への最後の安全な寄港地、停泊地である口之津から、帆をいっぱいに張った外洋船が、遠く、中国、朝鮮に向けて出て行く姿が目に浮かんでくるようです。きっと彼らは、高良玉垂に航海の安全を願い外海に出て行ったと思うのです

長崎の最南端、野母崎(長崎半島)を廻ります。すると、自然と対馬海流に乗り、全く労することなく一気に壱岐、対馬、そして朝鮮へと、また、五島列島を経由し江南へと向かったことが想い描けるのです。

さらに思考の冒険を進めてみましょう。

何故、この地に苧扱川があるかです。繊維を採り布を作るとしても、単純に、服の生産などと考えるべきではないでしょう。恐らく古代に於いても、最も大きな布(繊維)の利用は、服などではなく、船の帆ではなかったかと考えるのです。

一般的には、中央の目から、また、九州に於いても博多の目から、宗像、博多、唐津、呼子が強調され過ぎていますが、宗像はともかくも、博多から半島に向かうとしても、一旦は西航し、対馬海流に乗ったと言われるのですから、久留米、太宰府からも引き潮はもとより、有明海の左回りの海流を利用して口之津に出て、対馬海流を利用する方が遙かに安全で有利だったはずなのです。


苧扱川の苧麻布とは木綿以前の繊維


古代において、有明海の最奥部であったと考えられる久留米の市街地にオコンゴウと呼ばれる川、苧扱川(池町川)があり、西に開いた有明海のまさにその出口の一角に苧扱川と苧扱平という地名が三ケ所も残っています。

さて、この島原半島南端の良港、口之津にオコンゴ地名があることは象徴的ですらあります。始めはそれほどでもなかったのですが、今になって、このことの意味することが非常に重要であることに気づき、今さらながら戦慄をさえ覚えるほどです。

一つは、あまりにも強固な地名の遺存性についての感動であり、今ひとつは、有明海が西に開いていることと多くの伝承や物象が符合していることです。

まず、広辞苑を見ましょう。「【苧麻】ちょま〔植〕カラムシ(苧)の別称。」としています。カラムシ(苧)を見れば、かなり多くの記述あり、ここでは略載しますが「…木綿以前の代表的繊維(青苧(あおそ))…」などと書かれています。

重要なことは、もしも外回りの航路を採ったとすれば、口之津が大陸へ向けた本土最後の寄港地であることからして、この苧が衣服ばかりではなく、船の帆や綱として組織的に生産され、それが地名として今日まで痕跡をとどめたのではないかとも考えられるのです。

ここで、さらに視点を拡げます。実は、この苧、苧麻が皆さん誰もがご存知の、いわゆる『魏志倭人伝』(魏志東夷伝倭人条)に登場するのです。

もはや、写本のどれが正しいかといった議論は一切必要ありませんので、手っ取り早くネットから拾いますが、いきおい「苧」、「苧麻」が出ています。少なくとも有明海沿岸が倭人の国の候補地になることは間違いがないところでしょう。

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上総、下総の鹿島神社(海幸彦)、香取神社(山幸彦)、息栖神社(長脛彦=カガセオ)


 研究目的で百嶋神社考古学の音声CD、手書き資料(DVD)神代系譜等を必要とされる方は09062983254までご連絡ください。
posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2018年10月21日

508 八代市の妙見宮は列島に亡命した雲南省昆明の白族の中心的な神社だった

508 八代市の妙見宮は列島に亡命した雲南省昆明の白族の中心的な神社だった

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太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


ここでは一般的に知られた妙見宮を描くことをせずにこの神社の本質を描くことにしたいと思います。


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妙見宮 カーナビ検索 熊本県八代市妙見町405 0965-32-5350


まず、祭神ですが、天御中主神と國常立神とされています(境内、境外摂社は略載します)。

さて、良く知られた八代の妙見宮ですが、最近になって列島にとっても九州王朝にとっても最も重要な神社であった事がようやく分かってきました。ここでは、通常話されるありきたりの内容から離れ、最も重要な側面についてだけお話しさせて頂きます。言うまでもなく、祭神である天御中主神と國常立神とは、白山姫と博多の櫛田神社で祀られている大幡主の二神です(「熊本県神社誌」省略)。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)

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この三つの縁起を全て見られた方は恐らくおられないでしょうが、有明海を挟む肥前肥後の両岸を支配していたのが火の君であり、九州王朝を根底で支えた重要氏族(熊本の白川の名=「白水」を付した白族)

でもあったのです。

 そのシンボルとなったのが白山姫、妙見宮、北辰神社であり、熊野三山、博多の櫛田神社の大幡主であり、その後継たる豊玉彦=ヤタガラスだったのです。

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この間、八代の妙見宮の重要性に関してはある程度理解していたつもりではあったのですが、大幡主〜豊玉彦=ヤタガラスの一族(白族)は、直接、熊本に入っていると考えていた事から、八代の妙見は河童渡来(揚子江流域からの越族の移動)による後付だろうと考えていました。

 ところが、妙見宮に隣接する霊符神社の記述と氷川の北、宇城市小川町の霊符神社の記述が対応し、さらに佐賀県(肥前)の白石町(旧有明町)の稲佐神社(百済の王族を祀る神社)の境内地に百済の王族を火の君の世話で受入れたとの記述が相互に対応する事が判明し、肥前〜肥後に掛けての領域を支配領域としていたのが火の君(それを肥溜めの肥の国したのは当然にも近畿大和朝廷)であり、妙見宮=天御中主命=白山姫を奉斎する白族(雲南省昆明からの列島への亡命民族)であった事が分かって来たのでした。

 これについては、先行blogをお読み頂きたいのですが、この阿蘇の草部吉見の一族(黎族)と共に、海南島を経由して入って来た人々こそ天御中主=白山姫を奉斎する白族だった事が分かってきたのです。

 この阿蘇氏(黎族の一派)と大幡主の一族(白族)は、かつては中原にまで展開していたはずの主要民族だったはずなのですが(九黎族)、漢族、鮮卑族、清族、モンゴル…(今の中国人)に追われ、追われ辺境の少数民族地帯に逃れ、そこさえも失い列島に新天地を求めて進出してきた人々だったのです。

 阿蘇氏は雲南省麗江からメコン川(瀾滄江)を降り旧サイゴンから北上し海南島(南西部保亭リー族ミャオ族自治県・瓊中リー族ミャオ族自治県・白沙リー族自治県・陵水リー族自治県・昌江リー族自治県・楽東リー族自治県・東方リー族自治県…)へ、大幡主の一族は昆明からファン川(紅河)を降りベトナムのハノイ沖の海南島へ移動し、時期を見て列島へと進出した人々であったと考えられるのです。


ひぼろぎ逍遥 194 櫛田神社(博多)の大幡主のルーツは滇王国だったのか?

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理由は不明ですが櫛田神社は一旦紀州に移動し熊野から戻ってきているはずです


どうやら、百嶋先生は、博多に雪崩れ込んだ、白族(ペイツー)のルーツは雲南省昆明に近い、謎の青銅器文明(漁労+水田稲作農耕)として知られる「滇国」を想定しておられたようです。

考えて見れば、昆明には白族がいましたし、「滇国」の本拠地である滇池もそこにあったのですから、「滇王」の印を貰った「滇国」の一部が博多の櫛田神社の主祭神の大幡主に繋がる事は理があることなのです。

ただ、それを結びつけられるところが、百嶋先生の凄いところだと改めて思うものです。


無題.png(てん、簡体字: , 拼音: Diān)は、前漢時代の紀元前3世紀頃から、雲南省東部の滇池周辺にあった滇人による西南夷の国。歴史[編集]の将軍荘蹻が遠征した時に、によって帰郷できなくなり、やむなく建国したとされる。紀元前109前漢武帝の攻撃で属国になり、益州郡の統治下に入った。滇王之印滇王之印晋寧県の石寨(せきさい)山の遺跡(石寨山滇国王族墓)からはこの時代のものと思われる青銅器や「滇王之印中国語版)」と書かれた印鑑などが発掘されている。西嶋定生はこの滇王之印と日本の福岡県で出土した漢委奴国王印とが形式的に同一であることを指摘している。古滇国の歴代君主[編集]以下は黄懿陸の著『滇国史』から整理した。文字史料が不足しているため、大部分の滇王墓の主はその本名と年代を確認することができない。                       ウィキペディア(20150331 12:00による)


白族は黎族(阿蘇氏)と併せ、日本人のかなり重要な部分を構成しているはずで、白族の起源の一部がが「滇国」にあったと考える事が可能であれば、多くの照葉樹林文化論者達が主張している話とも符合する訳で、単に白族の一派が南ルートで渡来していると抽象的に考えるよりは、より具体性を帯びており、視界が広がった思いがしています。


雲南の二大王国


 現在の中華人民共和国最西南部、ベトナム、ラオス、ミャンマーと国境を接する地域で、北隣に四川省(しせん)、北東隣に貴州省(きしゅう)、北西隣にチベット自治区と接する雲南省(うんなん)。省都は昆明市(こんめい)であり、雲南という名は四川省と接する雲嶺山地(うんれい)の南にあることに由来する。現在は約39万平方キロメートルで、中国の行政区分別では8番目の広さである。漢民族以外にはイー族、ペー族、ミャオ族、チワン族など少数民族も多く存在する。中国古代王朝では、雲南・貴州のこうした漢民族以外の少数民族を西南夷(せいなんい)と呼んだ。

 歴史の上での雲南地方では、中国史における戦国時代B.C.403-B.C.221)にその黎明期があったとされている。戦国・(そ。?-B.C.223)の頃襄王(けいじょうおう。B.C.298-B.C.263)の時代(あるいは威王の時代か。いおう。B.C.339-B.C.329)にいた武将で、春秋五覇1人と数えられる楚の名君・荘王(そうおう。B.C.614-B.C.591)の子孫と伝えられた荘蹻(そうきょう。荘豪とも。そうごう。生没年不明)が、現在の昆明市西南に、同省最大の湖である"滇池(てんち)"付近に遠征を行い、同地を楚の支配下に入れたが、その遠征路を占領した王朝(しん。?-B.C.206)によって帰路を断たれた。そこで荘蹻は滇池を拠点に初代王(在位不明)となって王国"滇(てん)"を建国したとされるが、伝説的要素が濃く、建国年はB.C.5世紀からB.C.3世紀頃と確定には至らず、滅亡年も紀元前2世紀から紀元後2世紀の間で諸説ある。この滇国が雲南を拠点にした初の王国であるとされる。これに関し、その後の歴史を語る上で、雲南の異称として""が用いられることも多い。

 一方で夜郎(やろう。B.C.523?-B.C.27)という国家があった。 夜郎は滇より建国が古いとされるが、拠点は現在の貴州省で、雲南寄りにある畢節(ひっせつ)市の赫章(かくしょう)県にあったとされ、また一時的に楚の荘蹻に占領されたとも言われている。司馬遷(しばせん。B.C.145?/135?-B.C.86?)著の紀伝体正史『史記(しき)』の『西南夷伝』によると、夜郎は西南夷国家の中で最も強勢であったとされた。さらに、前漢(ぜんかん。B.C.202-A.D.8)の武帝(ぶてい。位B.C.141-B.C.87)時代、前漢からの遣使が滇王・嘗羌(しょうきょう。位B.C.123?-B.C.85)の会見機会があり、嘗羌が「自国と漢はどちらが強勢か」という、漢王朝からしてみれば愚問に値する内容を遣使に尋ねた。そして隣国の夜郎も王は同様の愚問に値する内容を尋ねた。こうした故事から、"夜郎自らを大なりとす"、すなわち"夜郎自大(やろうじだい。自身の力量や世間を知らず、自信過剰に威張ること)"の言葉が生まれたとされる。

無題.pngHP「世界史の目」より


白族(櫛田神社大幡主の一族)は雲南省昆明から紅(ファン)河を下りハロン湾から海南島を経由し肥後にやって来た


雲南省昆明(or大里?)

海南省(海南島)白砂黎族自治県(加茂村?)

隈本(熊本城のある千葉城町)

多くの隈地名の地(佐賀東部、博多、小郡、朝倉、日田)に北上し展開する。


 期を一にして入って来た阿蘇氏は天草下島の苓北町(この「苓」も黎族の「黎」と考えられます)を経由し阿蘇に進出します(そもそも天草は苓州ですね)。

 こうして、恐らく紀元前後に中国の辺境から亡命してきた黎族(後の宇治族=多氏=阿蘇氏)と白族(後の櫛田神社の大幡主、熊野三山、下賀茂、上賀茂)という列島の最重要氏族(民族)の二つが形成され列島人の主要な勢力となって行ったと考えられるのです。

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海南島南西部の黎族自治県には加茂という地区まであり、天御中主の後裔である下賀茂神社を思わせます

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記