2020年01月06日

673 有明海を挟んで久留米を正面に見据える高良玉垂宮 “佐賀県武雄市武雄町永島の玉垂社”

673 有明海を挟んで久留米を正面に見据える高良玉垂宮 “佐賀県武雄市武雄町永島の玉垂社”

                                     20181018


太宰府地名研究会 古川 清久


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玉垂社 カーナビ検索 佐賀県武雄市武雄町永島14658-3(武雄永島簡易郵便局付近)


 邪馬台国畿内説論者などは古代史など云々する資格などない方々ですからどうでも良いとしても、古代の真実に少しでも迫ろうとする九州王朝論者の大半がいわゆる「邪馬台国本読み」であり、良くて事実上の文献史学論者である上に、九州王朝の現場が九州に集中している事から、全国の方々にそれを求める事はできませんが、九州に居ながらフィールド・ワークなどほとんど無視し、九州など踏んだ事もない古代史家の本を読みああでもないこうでもないと議論するだけの九州王朝論を楽しむ会の方々には軽蔑の念しか抱けないのです。

 自分では何一つ調べようとも、記録を残そうとも、貴重な古文書や伝承を拾おうともせずに、ただ、おしゃべりをしているだけ、それどころか通説派の畿内説論者の学芸員の御高説を拝聴するに至ってはさぞかし古田武彦氏も嘆き呆れきってしまっている事でしょう。

 従って、この神社の存在も、同じく武雄市の北方駅の焼米溜池の付近にあったという玉垂宮の存在も誰も知らない有様なのです。

 最低でも久留米の高良大社に残された「高良玉垂宮神秘書」に高良玉垂命(百嶋神社考古学では第9代開化とします)と仲哀死後の神功皇后が夫婦であった事、その長子が仁徳天皇であると考えられる事(応神の子などとんでもない)ぐらいは知って頂きたいものです。

 事実、この永島の玉垂社も「佐賀県神社誌要」にも纏まった記述どころか社名さえないありさまで、これほどの境内と社殿を持ちながらもまさに無視された神社としか言いようがないのです。

境内には目立った祭神表示もないのですが、薄暗い参拝殿から神殿に向かう通路の右上に非常に読み難いながらも由緒らしきものがありました。

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花島玉垂社は玉垂の命を祭る太古は御船山東麓にあ里(リ)寛喜年間此の地に祀る

         武雄神社本紀に

 在郡花島村明神■寛喜年中村名主僧長■有珠■之由緒以所以崇祀武雄明神也

 武雄神社古文書に長順の寄進状

         寄進…

寛喜年間 鎌倉期の12291231年(後堀河天皇)


 今回はこの存在を知って頂くことが目的ですので、これ以上は踏み込みません。

 ただ、既にヒヤリングできる古老も失われ、宮司は何も知らない、氏子総代は盥回しで関心を持たない状態では、既に戦後の古代史研究、郷土史研究が神社を無視し続けて来たことの延長に全てが失われてしまっているという悲しい歴史の砂漠が広がっているのです。

 今ならば、まだ、多くの謎を解く手掛かりが残されているのですが村興し町興し世界遺産登録の管制運動に協力する九州王朝論者まで出る有様では、早めに九州王朝論の幟は降ろして貰いたいものです。

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細密系譜原本(部分)


百嶋由一郎氏が残した神代系譜、音声CD、手書きスキャニング・データが必要な方は09062983254まで

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2020年01月04日

672 橘 諸兄を主神とする潮見神社 “佐賀県武雄市の故地に息づく橘一族の一社”

672 橘 諸兄を主神とする潮見神社 “佐賀県武雄市の故地に息づく橘一族の一社”

                                     20181018

太宰府地名研究会 古川 清久


橘の諸兄と言えば、源平藤橘ともいわれる藤原氏と並ぶ大族だったことは良くご存じかと思います。

この橘一族を祀る象徴的な神社が佐賀県武雄市(明治の旧橘村)潮見地区にあります。

勿論、橘一族は「奈良麻呂の変」以降、零落への道を辿り、良くて中級貴族から地方豪族として命脈を保ってきたのですが、平安の世もそう永くは続かず、鎌倉以降の武士の時代が続くと、どれだけの実力を保ち続け多くの家臣団と支配領地を持つかに問題の中心が移っていったためそれほどの意味はないのかも知れません。

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潮見神社 カーナビ検索 佐賀県武雄市橘町永島17343


ただ、橘 諸兄という実在の人物をそのまま神と崇める神社とは、実質的に自らを橘一族と認識する人々による同族意識を持った人々にとっては重要この上ないものであって、この白川伯王―天御中主〜大幡主〜ヤタガラス…橘 諸兄とその後裔の人々には祀るべき祖霊であり、祖神にはなるのです。

ただ、橘一族とは白川伯王―天御中主〜大幡主〜ヤタガラスの後裔の一流であって、それ以外の私達が大幡主系とか白族系の全ての流れを体現している神社という訳ではないとは言えるでしょう。

と、言うのは、ヤタガラスこと豊玉彦は有力者であった事から、多くの有力氏族の女を受入れ、多くのヤタガラス系氏族が産まれました。

金山彦系、高木大神系、阿蘇系、大山祗系…の多くのお妃との間に形成された姻族の全てが後の橘一族となったとも思えませんが、縣犬飼橘美千代から諸兄の時代の繁栄期はともかく、諸兄失脚以降には橘一族と言える人々が実際にはどの系統なのかは不明であって、今のところ今後の課題とせざるを得ないのです。一応、百嶋由一郎が残した神代系譜には橘一族の祖とは、前玉姫(ニニギと別れた後のコノハナノサクヤ姫の別名)とヤタガラス=豊玉彦との間に産れた後裔氏族とはされているのですが…。

始めからややこしい話をしましたが、同社については、以前にもひぼろぎ逍遥で杵島として書いていますので違う話とさせて頂きました。

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潮見という地名のとおり、古代にはこの一帯は有明海の干満が普通に認められる場所でした。

 春の大潮などの最高潮位期にはまだまだ奥まで潮が入っていたと考えられます。

 このため、おつぼ山の神籠石は干潟と澪筋を正面の堀と見なした低湿地の逃げ城だった事が分かります。

 実は、この潮見神社正面の小丘に奈良麻呂の変の道祖王の墓地(現地では「どうざのぼち」=どうそおうさまのぼち)と言われるものがあるのです。

 橘諸兄の失脚後、橘一族は奈良麻呂の時代に反撃しようとしますが、この政変劇は橘氏の敗北に終わります。

道祖王はこの奈良麻呂の変の時の立太子(廃太子)であり、それが人知れず祀られてきたのです。

 それは、この地が橘一族の単なる逃亡地といったものではなく、元々、橘一族の出身地、故地の一つだったからではないかと考えています。

都から遠く離れた僻陬の地から…そんなことが言えるかとお思いになるのは当然でしょう。

少し考えて見ましょう。

この伝道祖王墓地は杵島山の西麓にあるのですが、この杵島山を東側に越える白石町(旧錦江村〜旧有明村)には福泉禅寺(勿論式部の時代は禅宗寺院ではありませんが)があり、和泉式部の生誕伝承を伝えています。

一方、幼少期を過ごした後、式部は杵島山の西に位置する塩田町(現嬉野市)五町田の大黒丸夫婦に引き取られ育てられたと言われています。

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福泉禅寺と和泉式部伝説この寺には、2つの興味深い物語が残っています。

 その1つが「和泉式部生誕伝説」で、遙か平安時代藤原氏全盛期のお話です。ある朝、赤ちゃんの鳴き声で目を覚ました福泉禅寺のお坊さんたちが周囲を探したところ、お堂の裏で白い鹿が人間の女の赤ちゃんにお乳をあげていました。そこに隣の塩田の里(現在の嬉野市塩田町)から長者大黒丸夫婦がやってきて、「私たち夫婦には子供がいないので、常々このお寺の薬師如来さまにどうぞ女の子をお授けくださいと祈願しておりました。すると夕べ、薬師如来様が夢枕に立たれ『おまえたちの永年の信心をあわれと思い、福泉禅寺の裏に一人の女の子をさずけておいた。明日の朝早速に寺に行き、その子をつれて帰るがよい』とお告げがありましたので早速こちらへ参った次第です」と申しました。

 大黒丸夫婦にもらわれていった女の子はとてもかしこく美しく成長し、縁あって宮廷に上がることになりました。これが和歌の名手和泉式部だったのです。和泉式部が遠いこの故里を思って詠んだ「ふるさとに 帰る衣の 色朽ちて 錦の浦や 杵島なるらむ」という歌が今に伝わっています。

 2つめは「幽霊の掛軸」の由来です。江戸時代、福泉禅寺の住職東州和尚が修行の旅に出ていた時のことです。ある夜、泊めてもらった駿河国(現在の静岡県)のお金持ちの家に幽霊の掛軸が飾ってありました。和尚が幽霊の掛軸を飾っている理由を主人に尋ねたところ、「この掛け軸は、継母に反発して悪行を重ねる子供のもとに、亡くなった生みの母が幽霊になって『育ての母上に逆らってはいけない』と諭すために現れた姿を描いたものです」という答えが返ってきました。その話に感動した東州和尚が「是非地元の同じ境遇の家庭にもその話を伝えたい」と申し、譲り受けてきたという掛軸が今も福泉禅寺に保存されています。

白石町HPによる


問題はここからです。面白い事に、知ってか知らずか、白石町HP氏も踏み込んでおられません。

和泉式部は多くの貴族の妃になっていますが、最初の夫になった人は和泉守 橘 道貞なのです。

では、何故、このような都から見れば片田舎の肥前国から、衰えたりとは言えども、橘氏一族の中級公家の妃となり、その才能から参内できるようにもなったのでしょうか?

それは、奈良麻呂の変後も、また、古来、中央の残存橘一族との連絡を保ち続ける橘氏の一族が杵島山の一帯に住み続けていたからであったとしか考えようがないのです。

 鎌倉政権成立後、橘 公業(キンナリ)の一族は、伊予からこの地に進出(復帰)します。

 このことから公式には肥前の橘氏の歴史が始まったと考えられますが、和泉式部の話を持ち出すまでもなく、また、火の国の論証からこの地が二千年以上前から橘一族成立以前の天御中主、白川伯王〜豊玉彦=ヤタガラスに繋がる白族の故地であったから(恐らく白石町の「白石」も無関係ではないでしょう)ではないかとまで思考は拡散します。


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

643

火の君とは歴代の橘一族だった B 緊急提言 全国の九州王朝論者に告ぐ! 

“橘一族とは白族!”

642

火の君とは歴代の橘一族だった A 緊急提言 全国の九州王朝論者に告ぐ! 

“白族は雲南から”

641

火の君とは歴代の橘一族だった @ 緊急提言 全国の九州王朝論者に告ぐ! 

“九州王朝の白族”


 杵島山とは幾つかの小山による連峰の総称でしかなく、杵島山というものがある訳ではありません。

しかし、この山の周りの人々は千年の永きを越え、今なお親愛への思いを込めて杵島山と呼び続けています。

この背景には、橘一族が紀氏であったから杵島山と呼ばれたのではないかと考えるのですが、これ以上は根拠のある話ではありません。

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百嶋由一郎024〆鳥子系図004ヤタガラス系譜原本鳥(部分)


 鎌倉期にこの地に入った橘一族は最終的にこの地を守り切れずに熊本県菊池市、長崎県川棚町…などに四散しますが、橘 公業の時代に渋江、牛島、中村の三家に別れます。

 橘 諸兄の時期に橘氏は最後の最盛期を見ますが、奈良麻呂の変後は中級以下、地方の公家として命脈を保ちますが、鳴かず飛ばずのまま武士の時代を迎えます。

 とはいえ奈良平安の数世紀を経て勢力を保った大族であることには間違いが無く、橘氏の後裔の人々は数多くおられるはずです。

 橘 公業以降の本流の渋江一族は菊池氏の庇護に入ります。これについては、


ひぼろぎ逍遥 

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天地元水(テンチモトミズ) “橘 諸兄の本流が菊池に避退した・”


をお読み頂くとして、私達が確認できた橘氏の一族には、渋江、牛島、中村の外にも、多くの分流があり、宮原氏やかく言う古川家も含めればまだまだ思い当たる方々は多いと思います。

 少なくとも、橘一族という同族集団の先祖神を祀る神社として参拝して頂きたいと思って止みません。

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そもそも、私が杵島山の橘氏に関心を持ったのは、私の妹が同校に務めていた事もあり橘小学校の吉野千代次校長を存じ上げていたからでした。これらの事からかれこれ15年も前の話になりますが、何度かご自宅を訪問し橘氏を中心にこの杵島山周辺の歴史など多くのお話をお聴きしたのが始まりでした。

既に御高齢でしたが、最期の力を振り絞り多くの事を伝えて頂いたのですが、その業績は、下を見て頂ければ、今尚、纏まった形でアクセスが可能で、かなり長編のDVDを見る事ができます(現在中断)。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 12:00| Comment(0) | 日記

2020年01月01日

671 有明海最奥部に静かに鎮座する海童神社

671 有明海最奥部に静かに鎮座する海童神社

                                     20181017


太宰府地名研究会 古川 清久


福岡県〜佐賀県の有明海沿岸には龍王神社とか海童神社といったものが数多く確認されます。

 有明海は筑後川から送り込まれる大量の火山灰起源の土砂によってほったらかしておいても陸化が進む性格を持っており(年に100メートルとも)、古代の海岸線は現在の堤防ラインから言えば最大数十キロも入っていたと考えられています。

 従って、古代の湾奥ラインに鎮座する神社群ほど、より古い形を残しているのではないかと言う推測がある程度は付くのです。


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古代には現在JR佐世保線が東西に走る辺りまで海は迫っていたはずで、この地に限れば、満潮時に潮が入る湾奥とは現在の焼米溜め池のさらに奥まで延びていたのです。

仮に溜め池を造るとしたとき、周囲を円形に造るのは築堤延長が多い割に貯水量はそれほどではなく、周囲を山や岬で囲まれた袋地を直線やアーチで締め切る方が圧倒的に有利であることは言わずもがなです。

つまり、この焼米溜め池とは、言わば古代の有明海の湾奥締切型の溜め池の一つだったのです。

そして、この脇の岬状地に置かれたのが海童神社だったのです。

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御祭神:豊玉彦神、豊玉姫神、合祀祭神:天照大神、大地主神、保食神、市杵島姫神、管原道真公

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この湾奥にはかつて高良神社が置かれていたともいわれており、一時期、探した事もありました。

古くはこの奥(溜池の底ですが)に宿場が置かれていたという話も聞き及んでいます。

祭神については、「佐賀県神社誌要」にも記述が無く、額面を真ずる以外には当面手だてがありません。

ここでは、祭神が豊玉彦と豊玉姫の親子(娘)としておきましょう。

ただ、祭神は入れ替えられている可能性もあり、豊玉彦は動かないとしてもまだ確信は持てないでいます。

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この神社では歳の瀬に夕方から翌朝まで夜通し火を焚き、月を送る風習があると聴きましたが、まだ確認できずにいます。また、この神社の神紋は菊の御紋の様に見えますが、12日足紋で菊池氏などの古紋です。まさか、1213弁菊花紋ではないでしょうが、それならば九州王朝の神紋の可能性もあるのです。

また、参拝殿入口の唐破風屋根も船の返し龍骨を見せたもので外洋航海を行なっていた豊玉彦=ヤタガラスを彷彿とさせるものでもあります。


百嶋由一郎最終神代系譜、音声CD、手書きデータ・スキャニング等を必要とする方は09062983254まで
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