2019年11月21日

648 九州王朝成立前夜の解明へ A “雲南省昆明にいた白族が日本列島を開拓した”

648 九州王朝成立前夜の解明へ A “雲南省昆明にいた白族が日本列島を開拓した”

20181005

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 豊玉彦と言っても一般的にはなじみがないかも知れません。ヤタガラスと言えば知らない人はいないでしょう。この有名な神様のご先祖も雲南省の昆明〜大理から入っていると言えば驚かれるでしょう。

考えれば、当ブログも「阿蘇の神々は雲南省麗江からやって来た」と言う故百嶋由一郎氏の強烈なメッセジによって始まったようなものでした。

 勿論、「阿蘇の神々は雲南省麗江からやって来た」というメッセジは先生のほんの一分でしかありません。ただ、あまりにも明瞭に自らのルーツを描いて見せてくれたところに皆が等しく衝撃を受けたのでしょう。もう一派の白族の移動ルートと併せ、再度、そのコースについてお話しようと思います。

無題.png

雲南省麗江                 雲南省昆明 滇池


学会、通説派、教育委員会、それらの権威に繋がる郷土史会、史談会の方々は口を揃えて否定されることは火を見るよりも明らかですが、私達には始めから権威などないため自己保身に走り口ごもる事など一切ありません。

 百嶋先生は、草部吉見系(阿蘇氏=耳族=多氏=宇治族=黎族=支那族…)について話しておられましたが、もう一派、列島の民族を形成する重要な一族が同じく肥後に入っている(後に博多湾岸に移動)と考えておられた様です。皆さんも間違っても奈良の山の中で自生したなどとはお考えにならない様に…。

 草部吉見系はビルマ・タイ系とされる黎族ですが、同じく雲南省にいて漢族からの圧迫を受けていた百嶋説ヘブライ系の白族(ペイツー)が同時期(恐らく紀元前)に海南島に移動し、列島に新天地を求めて亡命していると考えられていたのです。

 当初、百嶋先生から聴いた話は僅かでしたが、徐々に受け取った資料などを解読してゆくに連れて、恐るべきことが分かって来たのです。

 始めは、皆、あまりにも荒唐無稽な話に圧倒されて反論することもできずに狐に抓まれたままでしたが、多くの神社に対する的確な話を聴くに従い、徐々に引き込まれていったのでした。

雲南省でも最奥部、ビルマ、ラオス、中国の国境が集中する一帯、玉龍雪山の麓に麗江という美しい都がありますが、ここに無題.png支那という地名を携え逃げ込んだ黎族は、非常時に逃げ込むためのもう一つの支那(密支那)を準備しており(インパール作戦の激戦地ビルマのミッチーナ=ミートキーナ)、その一帯から流れ出すメコン川(中国名瀾滄江)を利用すれば、南ベトナム(コーチシナ)のサイゴン(現ホーチミン)のデルタ地帯に労せずして流れ下ることができたのです。

一方、雲南省でも省都昆明(クンミン)の滇池(テンチ)周辺にいた白族(一時一部は麗江に近い大理に移動した)は紅河(ファンガ)を流れ下れば、労せずしてベトナムのハノイに流れ下る事ができるのでした。そして、目の前にはハロン湾の沖には海南島が目の前に浮かんでいるのです。


無題.png滇池




百嶋先生は、「示し合わせて…」と言われていましたが、漢族に追われて山上に追いたてられた両派でしたが、そこも決して安住の地とはならず、ある時期、海南島(ハノイのハロン湾沖)に各々集結し、列島を目指した…と言われていました。





無題.png白族




同じ雲南省であっても、山岳地帯の話であり、麗江から昆明に移動する方がはるかに障害が多く、共に漢族と戦っていた両族は、ある時期、これ以上この地に止まる事が不可能と判断したのでしょう。



無題.png

謎の青銅器文明滇王国


麗江からメコン河を下り、サイゴン沖から黒潮を利用して北上し、海南島を目指す黎族と、昆明からファン河を下り、ハノイ沖から海南島を目指す白族の二族が海南島で合流し、大量の木材資源を元に、船を建造し列島を目指したと考えておられたのです。

紅河ハニ族イ族自治州は雲南省東南部に位置します。 昆明市の真南に位置する州で、 南部をベトナムと接しています。紅河を下りさえすれば、目の前は海南島だったのです。

当然、海南島には巨木が生い茂っていたはずです。また、呉橋、鼓楼を造る技術は現在でも雲南省、貴州省を中心に少数民族のトン族などに残されています。                          

また、滇池周辺に存在した滇王国の青銅冶金の技術の精度の高さ素晴らしさは良く知られています。

その二つの技術をもってすれば、造船用の青銅製の斧などを準備する事は十分に可能だったはずであり、列島渡海への船や筏の建造は、今なお非常に現実味を帯びて見せてくれています。

彼らは、青銅冶金、釘なしで高楼閣を建てる技術、水田稲作の技術を持って列島に移動したのです。

実は平坦地よりも水を得やすい山岳地帯の農耕技術の方が早く発達したと考えられます。

真平らな中原では水を引く事はむしろ難しく陸稲栽培になりがちですが、山岳地帯では、石垣を組み、水路を巡らし(大半は階段状に落とすだけですが)、水稲稲作に移行しやすくなります。

対して、平坦な関東平野の台地では、水は川底深く流れ、畑作、雑穀栽培に停滞しやすくなるのです。

事実、関東平野が水田稲作を展開するのが遅れたのは、大規模な堰堤が建設できるようになり鉄の大規模生産を待たなければならなかったからです。

農業土木はアジア・モンスーン地帯特有の技術ですが、それを最初に手に入れた彼らこそ、列島に水田稲作を持ちこんだ人々だったのです。

新大陸を目指したピルグリム・ファザースにも似た異なる両民族が移動し列島の開拓が始ったのですが、

黎族は出発地の麗江と天草下島の苓北町に地名の痕跡を残し、列島の重要氏族に成長します。

一方、白族は妙見宮に象徴される球磨川河口の八代辺りから氷川流域の不知火海北部東岸から宇土半島の付け根辺りに拠点を築き、熊本から博多湾岸に移動したと考えています。

この白族は、当時糸島半島に拠点を置いていた大率家の要請によって、肥後から佐賀の東半分、小郡、朝倉、日田方面に移動し、福岡市周辺に展開することになります。

その際、熊本(市の中心部千葉城町付近に隈本地名があった)から隈地名を持って移動したと考えておられました。その一族こそ、博多の櫛田神社の主神である白族の神様、大幡主なのです。

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古代にはダムなど無い事から川を下ればたちどころに海に至るのでした


 百嶋先生は熊本県のご出身で、神社には精通されておられた上に、中国で800回(8000万円)飛行機に乗ったと言われるほど現地を見ておられましたので、この黎族と白族の一部が列島に入って来ており、阿蘇氏とヤタガラスの一族に成長した事を理解されたのだろうと思います。

 そして、この両派からは二人の有名な神様が生み出されるのです。

海幸彦(阿蘇高森の草部吉見)と山幸彦(ニギハヤヒ=猿田彦=五十猛…)です。この有名な二人の神様は列島に移動した人々からすれば数世代の後裔と考えられますが、同時代に活躍されているのです。


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黎族は麗江からメコン川を降り旧サイゴンから黒潮で北上し、白族は直接紅河を下り海南島へ


 現在でも海南島の南東部には、保亭黎族苗族自治県があり、加茂という地名が存在します。

 白族でもヤタガラスの一族の本流を祀るのが下賀茂神社であり、阿蘇系と白族系の両派の流れを汲むのが上賀茂神社と考えれば分かり易いかも知れません。

 白族も統計上は黎族の一派と考えられているようですが、恐らく、この一帯に展開し、数世代かけて新天地としての九州を目指したのだと思います。



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2019年11月18日

647 九州王朝成立前夜の解明へ @ “雲南省麗江にいた多大将軍の一族が日本列島を開拓した”

647 九州王朝成立前夜の解明へ @ “雲南省麗江にいた多大将軍の一族が日本列島を開拓した”

20181005

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 これまで九州島を中心に十年余り年間500社を超える神社を調査してきました。

また、近年はその範囲を東北青森にまで広げそれらの重要なものを中心に随時ネット上に公開してきました。これらは研究会によるトレッキングと併せ、事実上の基礎調査と言ったもので、これらによって多くのブログを書いてきたのでした。勿論、随時と言っても未公開分のストックが250本近くあり、これらが全て公開される来年の今頃には、また新たなストックができるという訳です。

このため、実質、一年遅れの公開が常態化していることになっていますが、公開時点で校閲しますので、脱稿時点での先走りや思い込みは一年間の熟考によって多少は緩和される事から必ずしも悪い面ばかりであるとは言えないでしょう。

当然、緊急性のあるものについては、その都度、スポット版、ビアヘロ版として公開していますので、即応体制は採れているのではないかと思っています。

これらから紀元前後の九州を意識して後の九州王朝と列島民族の成立の形態のアウトラインを簡略化して描いて行こうと思いますので、“何でそんなことが言えるのか…”と言ったご批判が飛んでくるのは承知していますが、それについては、お読みになっていない過去の1,600本に近づくブログによってある程度は説明していますのでそちらをお読み頂く様にして頂きたいと考えています。

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要約して言えば、我々が「日本」と呼ぶものが一体どのようにして成立したのか…ということが所謂「九州王朝論」の根底を支える概念と理解しますが、ここでは、九州王朝の実在を前提にそれがどのように成立したかを探る作業を進めている事になると理解しています。

 その意味では、日本と倭国との関係を検証するのが九州王朝論とすれば、倭国以前を描き出そうとする作業とは、既に九州王朝論からも離れその古層を探る、いみじくも故)百嶋由一郎が放った「九州王朝前夜」こそが適切で、それらの解明が無ければ九州王朝の実像を描き出す事は凡そできない…と考えます。

 その意味で、自らを九州王朝論者であるということから自立し、既に神代史研究とでも呼ぶべきなのかも知れません。そこまでは前置きとしても、大和朝廷が奈良で自生したなどといったお伽話はもういい加減にして頂きたいと思います。戦後欠史8代を声高に叫び、全てを架空とすることが科学的でもあるかのように主張した学者がいましたが、そんなものが土田舎の奈良近辺にあるはずがないのです。

 さて、故)古田武彦が九州王朝の存在を世に問い既に50年が経ちましたが、今や、それを発展継承せんとする学者は一人としておらず、在野においても古田武彦の継承者は別として、九州王朝論の前進を支える研究者と言える人は、米田良三が亡くなった、今、佃 収 氏と内倉武久氏以外を知りません。

 もうしばらくすれば、それさえも失われる時が確実に到来する以上、現状の邪馬台国九州説を読む会、九州王朝論を楽しむ会が続く以上、いずれ「九州王朝論」消失に備えなければならないと考えています。


中国は支那だった


 「支那」の起源を「秦」とする…敬愛する宮脇淳子先生にこの一点だけで逆らいますが、中国が「支那」と呼ばれた理由を別の側面から取り上げます。

無題.png西日本新聞95.2.9夕刊


 これも故)百嶋由一郎氏の手書きメモに入っていたものですが、実際に雲南省麗江周辺に二ケ所、メコン川(瀾滄江)を渡った旧ビルマに「支那」地名(旧ビルマは密支那=ミッチーナ、ミートキーナ)があります。そこに拠点を置いていたのが、阿蘇氏の祖先である黎族の一派(耳族、多氏)であった事を現地に入り着きとめられていたのでした。

 少なくとも、現在でも「支那」地名「支那城」が存在しているのです。この自らの支配領域を親愛と誇りを込めて「支那」と呼んでいる人々がいる(後裔の残留者も居ることから)ことから推察できる事は、支那事変(彼らに言わせれば日中戦争)当時、支那人を蔑称としていたとの宣伝工作を行い中国共産党が喚いていることは、彼ら(鮮卑…)が自らを支那人とは認識していなかった事を意味しているのです。

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 ただ、日本人は、古来、今の中国大陸全域(古くは黎族が揚子江北岸までも広がっていた)を愛情を込めて「支那」と呼び続けていたのであって、後に藤原氏として列島の支配的氏族に成長することとなる阿蘇氏を中心に、大陸を支那と呼び続けていた事が現代にまで繋がっていた可能性があるのです。

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雲南省麗江周辺地図


 考えても分かる事ですが、凡そ日本人が蔑称とした「支那」の差別語(彼ら中国共産党の言い方によれば)を地域名とか城の名にする民族がいるとは考えられず、誇りを持って支那城と呼ぶ人々がいたのです。

 古くは、黄帝時代、蚩尤(シユウ)、三苗、九黎が広く中原にまで広がっていた時代、インド商人なりイスラム商人なりと接触し、“お前たちの国は何と言うのか?”と問われた時、当時、江南に広く展開していた黎族でも最後まで漢族、鮮卑族と最期まで闘い続けた人々の祖先が海岸部で彼らと接触した時、「支那」と言っていたからこそ、現在でもオリンピックでの表記が「チャイナ」となっているはずなのです。

そして、辺境の山岳地帯に追い落とされた阿蘇氏や白族が列島に移動し支配的氏族に成ったのです。

問題は、黎族が少数民族の山岳地帯に追い込まれる前に国名として使っていた可能性のある「支那」を何から継承したのかであり、それが、宮脇淳子先生が言われるような「支那」が嬴政(エイセイ)の秦帝国(紀元前3世紀)からのものであるか、百嶋先生が確認された雲南省に追い落とされた黎族の後裔によるものであるかはこれからの課題です。勿論、その後も秦がチャイナと考えられた可能性は否定しません。

百嶋先生は、麗江の多氏と昆明〜大里から海南島を経由し列島に避退した時期を前34世紀と考えられていたようですから阿蘇氏の方が少し古いように思うのですが、今のところこれ以上の決め手は持ちません。これだけではありませんが、主要には以下を中心に阿蘇氏を探って来ました。参考にして下さい。

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ひぼろぎ逍遥(跡宮)

360

阿蘇氏が天皇家の一族であると言う理由について

266

再び、再び、支那について

   

ひぼろぎ逍遥

42

阿蘇高森の「草壁吉見」神社とは何か?  I “肥後人は支那人だった!?”

41

阿蘇高森の「草壁吉見」神社とは何か?  H “阿蘇から筑後に移動した阿蘇氏”

40

阿蘇高森の「草壁吉見」神社とは何か?  G “阿蘇ご一家神代系図”

39

阿蘇高森の「草壁吉見」神社とは何か? F  “八井さんを探して下さい”

38

阿蘇高森の「草壁吉見」神社とは何か? E  国造神社と風宮神社

37

阿蘇高森の「草壁吉見」神社とは何か?  D  “草壁吉見神社の参拝客急増”

36

阿蘇高森の「草壁吉見」神社とは何か?  C  “龍田の神を立野に祀る!”

35

阿蘇高森の「草壁吉見」神社とは何か?  B   神代系譜

34

阿蘇高森の「草壁吉見」神社とは何か? A  立田阿蘇三宮神社

33

阿蘇高森の「草壁吉見」神社とは何か?  支 那


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百嶋由一郎手書きスキャニング・データ 百嶋神社考古学初期08(不明)「多大将軍と百嶋先生」

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雲南省麗江の支那城には今も多大将軍像があり、百嶋先生はこれを阿蘇氏の祖先であると看破されていたのです。

勿論、奈良の多神社が阿蘇草部吉見神社の移動したものであり、彼らのルーツを発見されていたのです。

先生は、中国語は元より漢籍もスラスラ読める方でしたが、現地では多くの資料を読み解き探索されていたのだと思います。ただ、急逝されたため継承ができず、それを受け止める力を持った者もいなかった事から今後は残された自宅の資料を調べる作業に入らざるを得ないと考えるこの頃です。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2019年11月15日

646「風呂地名」の解明へ “千葉県の例から”

646「風呂地名」の解明へ “千葉県の例から”

20180815

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 先にひぼろぎ逍遥に以下を書きました。


628

「風呂地名」の解明へ “それは行水への思考回帰から始まった”A

627

「風呂地名」の解明へ “それは行水への思考回帰から始まった”@


まずは、 自然体で、興味を持ったことを・・平成25年6月:間質性肺炎患者に

地名:興味津々。10月30日81万ヒットに。感謝!ギターを手に!高齢・病気を機に


 というサイトから引用させて頂きました。


  千葉県千葉市   中央区生実町 風呂口(ふろぐち)        *情報頂きました。

  千葉県千葉市   緑区大木戸町 風呂ノ前(ふろのまえ)      *情報頂きました。

  千葉県千葉市   緑区大椎町  風呂口(ふろのくち)       *情報頂きました。

  千葉県市原市   喜多     風呂ノ前(ふろのまえ)      *情報頂きました。

  千葉県佐倉市   岩富     風呂下(ふろした)        *情報頂きました。

  千葉県いすみ市 岬町三門    風呂川(ふろがわ)        *情報頂きました。

  千葉県いすみ市 松丸      風呂ノ下(ふろのした)      *情報頂きました。

  千葉県長生郡  睦沢町寺崎   風呂屋(ふろや)         *情報頂きました。

  千葉県長生郡  睦沢町大谷木  風呂屋(ふろや)         *情報頂きました。


房総、常陸エリアの「風呂」地名でもあったことから、「未知の駅…」というサイトを運営されている当グループのメンバーT女史に照会したところ、以下のリポートを短時間でお送り頂きました。


無題.png

無題.png先日はデータを送っていただきありがとうございました。県内の「風呂」地名を調べ終わったので、ご連絡いたします。


千葉市中央区生実町風呂口  

千葉市緑区大木戸町風呂ノ前  

千葉市緑区大椎町風呂口


当方で無理にお願いした玉前神社(百嶋神社考古学では天照大御神の母神とする)というリポートも書かれています

市原市喜多風呂ノ前 

市原市西国吉風呂ノ下

佐倉市岩富風呂下 

いすみ市岬町三門風呂川 

いすみ市松丸風呂ノ下 

いすみ市行川風呂下

いすみ市井沢風呂川

睦沢町寺崎風呂屋 

睦沢町大谷木風呂屋

匝瑳市八日市場イ風呂内

香取郡下総町名古屋風呂下

香取郡下総町名木水風呂

東庄町小南風呂ノ下

香取市香取フロノワキ

香取市吉原フロワキ                             以上18カ所です。


千葉市内の風呂地名については、かなり開発が進んでいる地であるため、小字が載っている地図との照らし合わせが非常に難しいと思います。

県内の外の市町村の小字地図が入手できましたら検証してみたいと思います。        ○ミ○カ


このように最初の9件に加え、半分の程度の重複はあるものの、さらに加えて合計18件の風呂地名の拾い出しをして頂きました。

 さすがは、歴史と地名に詳しい○ミ○カさん、ご協力に感謝します。

 当方は現場についての感覚、土地勘が不足しているため、データが増えただけの事かも知れませんが、既に、やたらゴルフ場開発を行なった千葉県の事、現場を確認するその現場が原型を全く残していない以上、単に現場に精通しているからと言ってどうなるというものでもありません。

 最早、国土調査による旧地名の消失も相まって大都市近郊での地名研究は、ほぼ、不可能と考えており、拾い出しが出来ただけ有難いと考えるべきでしょう。

「風呂地名」の解明へ “それは行水への思考回帰から始まった” で書いた様に、この地名は、高温多湿で汗をかきやすい日本の風土に於いて、ある時代から体を清潔に保つための方法を巡ってある傾向を持った人々の風俗、文化に関わるものであるように思えるのです。

ただ、このようなどこにでもある普通の民俗には書き留められた文献が有る訳もなく、極めて薄い情報を処理せざるを得ないのです。荒唐無稽と考えられるならそれはそれでよい事であって、逆に、では何なんでしょうか?と教えをお聴きしたいぐらいなのです。

恐らく、これは沸かしたお湯に肩までどっぷり浸かるタイプのお風呂ではなく、あくまでも半密閉空間での焼石の水桶への投入による蒸気風呂もしくは焚火によるサウナだったのではないかと考えています。

今のところ確認できる事は僅かです。

@   この手の地名が列島のかなり多くの地域に分布していること。

A   その分布にかなりの偏在があることから、列島人の中にも、この地名に相当するであろう、しかも、現在では比較的少数派となった「蒸し風呂」文化の存在とそれを好む人々と好まない人々がいた事を意識せざるを得ないのです。

少なくとも、千葉県にはこれを好む人々が広範にいた事が分かるだけです。

ここで、ネット検索を駆使して概要を掴む作業を始めました。

まず、九州では福岡、佐賀、長崎、熊本にはないことは見当がついていました。

しかし、鹿児島、宮崎、大分など東九州にはあるのです。そして、高知県、愛媛県、香川県、徳島県、山口県、広島県、岡山県にもあるのですが、島根県、鳥取県には拾えません。

畿内(兵庫県にあることは確認しています)を後回しにして、とりあえず大凡の西日本の九州、中国、四国の傾向は掴めます。

一度にはできませんので、以後、数回にわたり、畿内、中部、甲信越は次回取り組むことにします。

ネット検索を続けていると、大変有難いサイトに遭遇しました。

自分の直感によって、「風呂」(フロ)が「室」(ムロ)ではないかと気付いたような気になっていたのですが、実は、柳田國男先生と、それに連動する「風呂と日本人」(p95、p144)で解読されていたのでした。まあ半分は大家の説によって補強されたのですから悪い気持ちはしないのですが、まさに、“あらま欲しきは先達也…”で見当違いではなかった事は喜ばしい限りです。

ただ、定本柳田國男全集(第14巻)を完全に読んでいる訳でもなく、致し方ない限りです。

しかし、筒井功:「風呂と日本人」文春新書(2008年)は書店で見ていましたので読んでおくべきでした。無念です。


無題.png

よくある地名の語源 「ふ」

ふろうがたに(不老が谷)【興津】不老は「フロ」の転訛か。ふろのたに(風呂ノ谷)【風呂(与津地)、風呂ノ谷(江師)、フロノ谷(下道・下津井)、フロガ谷(大正北ノ川)、風呂ノ本(七里・親ヶ内】フロは、ムロから転じた語で「籠る所」の総称。かまどを中崎、宮崎、鹿児島でフロ。七輪を福岡、大分北西部でハヤフロ。長火鉢のことを富山県ではヤマトブロ。フロはムロに同じで土窟・洞窟・岩屋などの意味のほかムロ、ミムロと同じで、もともと神のいます所を意味するものとされている(民俗地名語彙辞典)。また、森もまたフロである(柳田国男「風呂の起源」)。

長宗我部地検帳にみられるホノギ「風呂」関連地名を四万十町内で探してみると、風呂ノモト(茂串町)、フロノタン(宮内)、風呂コウツキ池(口神ノ川)、風呂ノ谷(寺野)、フロノ谷(本在家)、フロノモト(柳瀬)、フロ(与津地)、風呂ノモト(親ヶ内)、風呂ノ段(上岡)、風呂ノ谷(江師)、風呂ノ谷(里川)、風呂ノ段(大井川)、風呂ノ北(戸川)の13か所ある。

また現在の四万十町内の字を拾うと、風呂ノ本(柳瀬)、目サフロ(勝賀野)、風呂(与津地)、風呂ノ本(親ヶ内)、フロガ谷(大正北ノ川)、風呂ノ谷(江師)、フロノ谷(下道)、フロノ谷(下津井)、一ツ風呂(戸川)の9か所ある。ホノギと字の関連で読めばうち4か所比定されることになる。

筒井功氏は、高知県の小字一覧からひろった88箇所の風呂地名を現地踏査して「フロガ谷」、「風呂ノ谷」、「フロノモト」、「不老谷」などの風呂地名と城郭地名との関連性を指摘している。「フロはもともと発汗浴を意味し石室あるいわ土室のムロがフロの語に転訛。(中略)風呂地名は中世後期の山城と深くかかわっており、多くが山城跡の直下に位置している。」(「風呂と日本人」p95、p144)と高知県下の事例を基に推察している。中世の地検帳にでてくるホノギ「フロ」地名は、風呂と解釈しても時代考証としては、今の温湯浴ではなくサウナ風呂である。井原西鶴「好色一代男(1682)」の挿絵にあるのも蒸し風呂が主流であったという。十辺舎一九「東海道中膝栗毛(1802)」で弥次さん北さんが小田原宿で初めて入る五右衛門風呂がでてくるのは江戸の後期である。風呂好きな日本人が、地名に記号として風呂を刻むのも理解できる。戦傷病者の湯治としての温泉効能は「テルマエ・ロマエ」が証明している。


概略は以下でも分かります。

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柳田國男の「風呂の起源」20110928() 延寿通信第98号 201110


風呂の発生、起源については本欄にて、いろいろな立場から取り上げてきましたが、これまでの理論とは一味違うのが、民俗学者柳田國男の「風呂の起源」です。今から100年近く前に発表されました。残念ながら、あまり深く突っ込んでなくて、結論がややあいまいなのですが、民俗学の立場からみた「風呂の起源」ということで紹介します。

柳田國男(1875-1962年)は日本の民俗学の生みの親として、民俗学に基づいた沢山の論文、随筆を発表しております。東北地方寒村の民話を集めた『遠野物語』は柳田國男の代表作で、今日も広く読まれております。柳田は大学卒業後、農商務省に勤め、官僚の職にありながら、民俗資料を集めて日本の各地を調査しました。官僚を辞めたのち、朝日新聞社に入社して本格的に民俗学分野を固めて、その一方では民俗学普及に努め、研究成果を発表しました。

民俗学というのは、風俗や習慣の言い伝えほか、有形・無形の資料を用いて日常の暮らしの歴史を明らかにして、現在の生活文化に反映させてゆく学問です。今、流行の文化人類学に近い学問領域です。

このような立場で柳田は日本各地の風呂にかかわる民話、言い伝えを集めて、入浴・風呂の起源を論じているのです。民俗学という学問を理解するうえでも、参考になるところが多いのではないかと思います。


1.風呂(ふろ)という言葉の語源

柳田國男は冒頭に、風呂という言葉の解釈にこだわります。語源というか、風呂と言う言葉が、どこから、どのように発生したか、ということです。

明治の中頃、わが国で最初に出来た近代的な国語辞書『言海』の編者大槻文彦は、風呂は茶の湯の風炉(ふうろ、ふろともいう:釜をのせて炭火で湯を沸かす小型の炉)からきているという解釈をしておりますが、この説明を柳田は否定しています。

風呂の構造上、および語句の点では、この風炉というのは風呂に近いので理解しやすいのですが、中世の上層階級の高級な茶の湯の道具は風呂には似つかわしくないと柳田は判断したのでしょう。

茶の湯説でゆくと、風呂という言葉が中世に生まれたということになりますが、古代から続いている温泉や河川で浸かる行水的入浴、あるいは仏教の浴堂は長い歴史がありますので、時代の面でずれを生じ、十分の説明が出来ません。

なぜ入浴することを風呂に入るというのでしょうか。また、入浴する場所を風呂場ともいいます。柳田は 風呂(フロ)は森と林にかかわりがあり、森が風をさえぎる暖かい場所ということから、きているのではないかということを一つの説としてあげています。森や林のことを、中国地方はじめ、紀州ではフロとよんでいるところがあるそうです。日本の各地で神の社(やしろ)もフロという地域があり、これらも、やはり風呂につながるのではないかというのが柳田説の一部です。

一方、山奥に風呂という地名がところどころにありますが、これは、もともと寺の浴場があった場所や、温泉があった所につなげることはできないので、このことは直接、風呂の語源には結びつかない、といっております。

2.入浴の始まりと風呂の形 

わが国固有の入浴法は、海や川に浸かって、身を洗い、あるいは行水のように、たらいの中で身体を洗うのが始まりですが、僧侶は水に浸かって垢をこすり落とし、心気を養うことを修行の一つとし、蒸気の立ち込めた浴室で行うようになりました。これが入浴の始まりではないか、と柳田は主張しております。

寺院の風呂は、当初は浴槽とは別の場所で湯を沸かし、その湯を浴槽に注ぎこみました。

仏教起源説は、本欄でも以前に紹介しましたが、仏教以外に、キリスト教もやはり、神聖な水で身体を清めることは行われております。洗礼というのはその一つです。一方、神道では禊(みそぎ)ということが行われ、今日でもなお、各地の神社や、神域では盛んに禊は行われております。神道から離れて、禊を心の修養として行う場合もあります。ただし、禊は水に限っており湯ではいたしません。宗教に共通するところがあるので、水浴を仏教起源というよりも、宗教起源といってもいいでしょう。

柳田は前述のように、神の森は風呂の語源の一つであると、主張しています。森の中で人の侵入を禁止していた場所を地域によってはフロといっていました。神のフロは天然の山の洞穴にあったので、これが蒸し風呂につながってゆきます。鹿児島県のある地区では、かまどのことをフロと呼んでいますが、このかまどが石で囲まれているので、蒸し風呂の形になります。対馬のある地区ではかまどのような大きな岩をフロと呼び、もともと三方を石で囲まれた場所は神を祀る神聖な場であり、地元の人は大事にしてきました。

3.室(むろ)と風呂

柳田論では風呂を取り上げる場合に、これまで本欄で取り上げてきたように、温泉や河川に浸かり、直接身体を水または湯にひたす、いわゆる温浴・入浴と、蒸し風呂すなわち蒸気浴とを明確には区別していません。

温泉に浸かるということは、歴史的には古く、歴史以前からの習俗でありました。日本各地には古来、温泉はあり、これには湯治の目的が多かったようですが、もちろん心身を休めるために入いる場合もありました。

一方、風呂を沸かすとなると、古代では、水の供給、湯を沸かす方法、風呂釜のこと、さらに浴槽もこしらえねばならないので、簡単にはゆきませんでした。

柳田は風呂の元祖は岩屋、石室であったであろうと述べています。これは蒸し風呂です。この入浴法が民間に伝わり、やがて五右衛門風呂となって、直接、湯を湧かして身体を浸す浴槽方式に発達してゆき、そして、風呂付の家になってゆくという説明です。

 古代の風呂は山や海岸の洞穴のような所にあって、そこで草木を燃やし、大量の海水をかけて蒸気を発生させて、洞穴に蒸気を充満させた、ということが蒸し風呂の起源になっております。この様式の蒸し風呂は今日もなお残り、四国、中国地方の海辺では、一部で使われております。この洞穴をムロ(室)と呼んでおります。室という字を、フロと呼んでいる地域は多いそうです。

山に住むサンカ(深い山奥にて狩猟、木工細工で生活した人)、あるいは川原こじきは、穴を掘って底に油紙を敷いて、その水たまりに、別のところで焼いた小石を投げ込んでこれを湯にして入浴していたという話は、しばしば耳にすると柳田は言っています。また、伊勢の住民が流木を拾い集めて湯屋の燃料にする特権を有していたことも聞いたことがあると述べています。この話は江戸において伊勢地方出身者が銭湯の営業に活躍していたという話につながります。

柳田は、これらの伝え話の虚実は分からないとしつつも、風呂の発生はこのような下層階級の住民の入浴方法が元になっているのではないかと、述べています。しかし、これらは伝聞を紹介する程度で、深い追求はなされていません。少なくとも、冒頭の茶の湯起源説を否定する柳田説の背景は理解できます。

柳田國男の「風呂の起源」が発表されたのは、大正4(1915)であり、以前に本欄で紹介した蒸し風呂起源説の本、筒井功『風呂と日本人』は2008年の出版ですから、100年近く柳田説が古いので、観点は同一ではありませんが、柳田説には先発者の苦労がうかがわれます。

筒井功『風呂と日本人』は、日本各地を歩いて取材し、柳田とは違って、風呂の起源を系統的に深く調べており、結論も明快です。ご興味ある方には一読をお奨めいたします。

<参考資料>

柳田國男:定本柳田國男全集第14巻、筑摩書房(1969年)

筒井功:風呂と日本人、文春新書(2008年)

Posted by 管理者 at 1009


しかし、私が考えている事はかなり違っていますので、ここでは簡略化して箇条書きにしておきます。

それは、畿内、中部、甲信越と随時、作業を試みますので、その都度考え方も修正されて行くだろうからです。


1)

まず、各々の民族の持つ言語特性から「室」(ムロ)を「風呂」(フロ、ブロ)としか発音できない人々が、「風呂」地名を残したのではないかと考えています。従って、「室」(ムロ)と呼んでいる人々がもう一方には居るはずで、単に「風呂」地名が面白い為に問題にされていると考えています。

この背後に存在するのは、目を瞑る(ツムル)と瞑る(ツブル)や、帽子を冠る(カムル)と被る(カブル)や噛む(カム)と食む(ハム)…といくらでも拾えるのですが、M音とB音が入れ替わっても殆ど意味が変わらない言語が日本語には大量に存在するのです。

恐らく、M音が古く、B音が新しいのですが、日本語の呉音と漢音の対抗現象と対応しているはずで、今のところ、日本人が元は大陸からの移住者によって形成されている証拠なのかも知れないのです。

2)

今調べた段階で、福岡、佐賀、長崎、熊本、島根、鳥取…に「風呂」が存在しないという地名の偏在する分布を見ると、どうも九州西岸から北上、東流する対馬海流が洗う山陰の海人族=江南系(呉、越、楚人)のエリアに居る人々と、鹿児島、宮崎、大分から九州東岸から四国、中国のエリアに展開した熊襲系(大山祗系=実はトルコ系匈奴)の対抗のように見えるのです。

なお、大国主は大山祗の息子ですが、母は大幡主の妹埴安姫=ヤタガラスの母であり、実質的には大幡主系海人族への入り婿なのです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


 大陸の浙江省〜福建省辺りの「閩越」が蒸し風呂に入るという話は無いのであって、どうみても水と燃料が乏しいシルク・ロード周辺のサウナ、蒸気風呂の文化を持ったトルコ系匈奴、鮮卑、高句麗、モンゴル系民族の列島への進出とこの「風呂」地名が対応しているのではないかと考えているのです。


百嶋由一郎氏が残された音声CD、手書きデータスキャニングDVD、最終神代系譜を必要な方は09062983254までご連絡ください。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記