太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「百嶋神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログを継続しています。


これにはプロバイダーを含め何時情報封殺が行われるかも知れないため、最低でも複数の発信媒体を準備しておくべきではないかと考えているからでもあります。


今後ともかなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史によるblogひもろぎ逍遥に対抗しようという意図はないのですが、華麗なひもろぎ逍遥に対して、緋色のボロ着で、神籬=ひもろぎ(ひぼろぎ)を逍遥=彷徨い歩き、神社を探るというほどの意味で、「ひぼろぎ逍遥」を随時書いて行くことにしたものです。ただし、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象なども認められます。


 さて、現在、ひぼろぎ逍遥とひぼろぎ逍遥(跡宮)との合計のアクセス数は日量10001200件(年間4045万件)まで上がっています。


 同時に、連携する研究者によるblog20近くまで数を増やしており、全体では最低でも年間100150万件近いアクセス数を持っているものと思われます。


 当blogには九州王朝論から百嶋神社考古学へと向かわんとする多くの研究者、記録者、bloger…が参集されています。


 年に10回、10年でも高々100回程度の研究会でも大半は教育委員会関係者から学芸員といった利権まみれの方々通説を拝聴し心服するような、研究者亡き研究会は全く何の価値もないものと考えており、そのようなどこにでもあるような話を好まれる方々は、そこら辺りの既存の郷土史会、史談会に行かれ、村興し、町興し、世界遺産登録に拍手を送り、思いっきり尾を振られれば良いでしょう。


しかし私達は後ろ指を刺される様な探究に踏みとどまり、これまでの歴代の行政権力が隠し続けた真実の歴史の探求へと向かう人々への道標と成ろうと思うものです。




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無題.png読者の皆さんに…真実の神社研究へのご支援を…


太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久




ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥の読者の皆様、また、グループのブログをお読みの皆様、暑い中、丹念無題.pngにお読み頂き有難いと思っています。


 古田武彦が亡くなり、また、百嶋由一郎氏が亡くなり数年が流れました。


 当初、貴重極まりない百嶋研究の一部でも残せないだろうかと考え、手書きデータや神代系譜文書のDVD化、音声データの保存、複製、宣伝という作業を続けて来ました。しかし、単にデータの保管、配布の体制を確立するだけでは継承ができないと考え、blogで百嶋研究の説明、現場実調を徐々に進め公開してきました。この結果、全国にも理解者が増え始め、神社研究ではなんとか特異な勢力を形成できる所まで漕ぎ着けました。


 既に、百嶋研究の一部でも接点を持った全国の二十五人を超えるブロガーが独自の側面から研究を進めておられますし、ブログは書かないまでも、神社調査を行い記録を残している方もおられます。


 勿論、統一性は取れてはいませんし、なかなか難解な内容だけに、解明できない問題についてはメンバーの若い世代に託すことになるでしょうが、なお不明なものは後世の研究者に期待する事に成るでしょう。


 百嶋先生と知り合いになったのは七年ほど前だったと思いますが、もしも後数年生きておられたならばもう少し古代、神代の謎を継承できたかも知れません。しかし、未熟な者だけで作業を行わざるを得なかった事から今尚皆さんにご迷惑をお掛けしているものと理解しております。


しかし、私達の能力を考えれば、むしろ上出来といったものかも知れません。


さて、メンバーの背骨を形成している中心的思想とは、当然にも九州王朝論です。


 百嶋先生も“私も九州王朝論が分かっていない人に神代史を教えても意味がないし、教えたくないですね…”と言われていた事が今でも耳に残っています(吾は百嶋由一郎の面受の弟子なり!)


さて、四月の近江〜但馬、五月の糸魚川〜諏訪〜山梨、六月の青森と15日間づつ三度に亘って長躯の神社調査を行いました。


ぶっ続けで調査すれば良さそうですが、落ち着いてリポートも書かなければならず、研究会のスケジュールもあってそういう訳にも行かず、各々3,0004500キロの往復の調査とならざるを得なかったのです。


今後も、三重、和歌山、岐阜、福井…と、よりきめ細かい調査に入るつもりですが、もはや資金が底を尽きつつあります。


元々、福島の原子力災害辺りから、これ以上行政機関に留まりたくないとの思いが募り、後先き考えずに58歳で早期退職した事から(当時上の娘は大学に在学中だったのですが)年金と言ってもギリギリ暮らせる程度の物で、なんとかここまで働かずに神社調査を行ってきましたが、既に限界点を越え始めたようです。事実、当会は研究を優先するためメンバーから会費を取る事なく僅かな参加費で運営しています。


人手不足の時代、まだ、働こうと思えば職はあるはずですが、拘束時間が長くなれば、研究を進める事ができないまま人生の終末期を迎える事にもなりかねず、できるだけ体力がある間に遠距離の調査に入りたいと思っています。このため、出来る事ならばこのまま神社研究に専念したいものと考えています。


基本的には年金生活で何とかやっていますので、月額であと二〜三万増やせれば、車の維持、車検、保険、介護保険料、研修所の維持、研究会の組織化、ネット規制に対応するためにもう一つ別の発信のためのサイトの準備……と増加する負担にも対応できるのではないかと考えています。


今後、研究内容を保全するためにも、外付けハード・ディスクをタイム・カプセル化して鍾乳洞に保管する(太陽フレアによる磁気データの消失への対策)とか、研修所の維持、後世に残すためにユーチューブ化してオンエアするなど新たな作業に入る必要も生じており、もし可能であれば、通説とは全く異なる百嶋神社考古学の保護と継承のためのご支援をお願いできないかと考えています。


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年間一口2000円以上の任意の百嶋神社考古学研究会の支援会員となって頂ければ、九州においでになった際に会員待遇として温泉付き研修所に一泊お泊めできます。九州での神社調査の拠点として活用下さい。


振込用の銀行預金講座、郵便貯金番号は以下の通りです。


 大分銀行 若宮支店 000093−7505802 フルカワ キヨヒサ


 ゆうちょ銀行 店番 778 預金種目 普通預金 口座番号 1165562 氏名上に同じ


また、もし差支えなければ、以下のメールにお名前と住所と電話番号を以下のメールに送信して頂き、カンパした旨の連絡を頂ければ、神代系譜のDVD(既にお持ちの場合はそれに代わる音声データなど)をお送りできるものと考えています。


 携帯のメール・アドレス ariakekai@ezweb.ne.jp携帯 09062983254 (常時対応)


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2018年09月06日

493 百嶋神社考古学が描く列島の古代 B 全国の九州王朝論者の皆さんに! “列島は多民族国家” 

493 百嶋神社考古学が描く列島の古代 B 全国の九州王朝論者の皆さんに! “列島は多民族国家” 

20171103

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 ここ十年あまり、今では全くのタブーとされている「日ユ同祖論」を含め、まだ、戦前など昔の方が余程自由な研究が(少なくとも自由な発想が許容されていた)許されていたのではないか…?という思いを深めていました。鳥居龍造を含め冒頭に触れようと思っていましたが、松岡正剛氏の「千夜千冊」に書かれていた一文が私の気持ちをそのまま表現していた事から冒頭から引用させて頂きます。

 その点、日本の古代史学会ほど閉鎖的で硬直化したものはないようで、このままでは、いずれ世間から相手にされなくなるのではないかとさえ思うものです。

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日本が単一民族の国だというふうになったのは、古いことではない。古いどころか、日中戦争や太平洋戦争以前は日本は多民族国家として位置づけられていた。大日本帝国の時代はむしろ日本は多民族国家・混合民族論を標榜したがった。日本が日本を単一民族国家と見るようになったのは、戦後のことだったのだ。

このような、ある意味では意外に思われそうな“結論”を指摘するために、著者が本書でしてみせたことはまことに重厚で詳細をきわめた作業であった。まだ40歳をこえたばかりの慶応大学の相関社会学の教授(東大農学部出身)。「日本人の自画像の系譜」が副題だ。

 この大著のあと、著者はさらに、台湾・朝鮮などの植民地における日本人意識を検証した『日本人の境界』、戦後ナショナリズム議論を追った『民主と愛国』(いずれも新曜社)を問うた。次々に大著になっている。やはり目を洗われた。

 ただし、本書の議論を短いスペースに要約するのはなかなか難儀である。近代日本の民族論そのものがあまりに紆余曲折していたからだ。それゆえここでは、ごくごく大雑把な紆余と曲折を示すにとどめる。このような大雑把な概括は著者の意図を正確に伝えないことになりかねないが、以下の記述に関心があるのなら、できれば本書そのものに当たってほしい。


 思えば、故)百嶋由一郎氏の研究も「日ユ同祖論」の要素が強く反映されており、多くのヘブライ系民族が大陸から半島へそして列島へと大量に雪崩れ込んでおり、その事を意識する事無く古代史を云々する事には、正統性もなければ科学性もなく、非常に視野の狭い独り善がりの暴論の誹りを免れないのです。

 現在、ヘブライ系民族の大量の流入という事実をせせら笑い、権威を振り翳す学会通説派や神○庁のような利権集団はどうでも良いとしても(ネット社会からAI=Artificial Intelligence; AI社会の深化からそのうち信用されなくなり相手にされなくなるだけですから)、それに対抗しようとするあまり自らも自己規制しているのが九州王朝論者の人々で、彼らの口からもそういった話が全く聞こえてこないのです。

 何やら、そういう話をすると、さも、学問的ではないと考え自ら控えておられるからではないかと思うのですが、元々、敵視され無視され続けた九州王朝論者が今さら自己規制しても仕方がないはずなのですが不思議です。

 列島には多くの古代民族が入っているのですが、全てのお話をするのは手間が掛かりますので、多くの話の中から、まずは、象徴的な一例である、支那人が列島人(日本人)になっているという話をしておこうと思います。これは、大陸から中国人が一部やって来ているという意味はなく、列島人の最も有力、優勢な大勢力を形成した人々とは日本人などでは無く本物の支那人だったという衝撃的な話なのです。

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これも故)百嶋由一郎氏から貰った資料ですが、石原某太郎が明らかに中国に敵対し、差別語としての「支那人」を使用していた事はご存じの通りですが、これは戦時中に一部で使用された「支那人」の概念を浅薄にも真に受けているだけのことで、列島人が「支那」と表現するとき、深層には親しみを込めた懐かしさ、郷愁のような響きを感じるのは私だけでしょうか?

 そうでもなければ、1940(昭和15)年に上映された映画「支那の夜」の主題歌「支那の夜」(渡辺浜子)は流行していないでしょうし、東宝の看板スターと言われた長谷川一夫と満洲で名を馳せた李香蘭による「支那の夜」も脚光を浴びてはいなかったはずなのです。

 そして、頼 山陽も「見ゆるは山か呉か越か?」とは謳わなかったはずなのです。

 この底流には、明らかに何らかの郷愁なり憧れなりがあり、決して差別意識としての支那ではなかった事が分かるのですが、石原とかネトウヨなど本物の民族派とは異なる異質な右翼(どうせ親米右翼)が「支那」を蔑称として多用しているのです。

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結論を急ぎますが、後に藤原氏と成長し、現在も権力の中枢部に蔓延っている阿蘇氏=多氏=宇治氏=耳族とは、大陸(雲南省麗江)から追われ海南島南西部(黎族自治県など)を経由し天草(苓州)の苓北町から阿蘇に進出した=黎族とは後の列島の主要氏族に成長しているからなのです。


支 那 “雲南省麗江に支那城がある”


ミートキーナ(ミッチーナ)と聞いて何のことか分かる人は、まず、消えたと思います。

もちろん、中印国境に近いビルマの都市の名なのですが、大東亜戦争でも最も悲しく惨めな戦いとなったインパール作戦でも激戦中の激戦の一つ「ミートキーナ攻防戦」の舞台となった土地です。

ビルマ戦線にはいわゆる満州からの南方転用組を含め、久留米を拠点にした福岡、佐賀、熊本の多くの兵が投入されていますので、皆さんの中にも近しい方が犠牲になった話を聞かれた方もおられるかも知れません。

中国、インド、ビルマの国境が集中する、この文字通りの辺境の地名を取り上げることが、後に驚くべき結論に繋がってゆくことになるのですが、まずは、インパール作戦を簡単に説明しておきましょう。

太平洋戦争の西部方面における陸軍の敗北分岐点となったのがインパール作戦でした。

日本軍によるラングーン占領以来、ビルマを追われたイギリス軍は緬印国境の西側まで後退していましたが、インド・マニプール州の州都であったインパールから雲南省を通じて中国蒋介石軍などに軍事物資を送り込んでいました。

これを阻止する目的で昭和十九年三月に開始されたのが同作戦でした。

アラカン山系の大山塊を超えビルマ方面軍の主力三個師団五万の兵力が三方面から進行しますが、満足な補給もないまま損耗率七四パーセントと言われる大敗北を喫して撤退することになったのです。

テーマからは外れますが、この無謀な作戦では第15軍司令官牟田口廉也(佐賀出身)と補給を巡って対立し、あえて命令に背いて独断撤退を行った第31師団長佐藤幸徳中将は「大本営、総軍(南方軍)、方面軍(ビルマ方面軍)、第15軍という馬鹿の四乗がインパールの悲劇を将来したのである」と批判しましたが、現在の福島原発の焦土を見る時、今日の大本営が何であり、南方軍が何であるかを改めて考えざるをえません。

無題.png累々たる白骨と化した多くの兵士たちと同様に、この事実上の国営企業であった東電の原発事故によって振り回された人々の人生も永遠に戻ってはこないのです。

本題に戻りますが、実はこの作戦の激戦地の一つミートキーナが中国(雲南省)発行の地図では「密支那」と表記されているのです。

只の珍しい地名として片付けられそうですが、実は、雲南省の景勝地麗江の周辺にも「支那」という地名が現在も二つ存在し、観光地で水の都と讃えられる麗江には支那城まであるのです。

中でも「密支那」とはそれだけで緊急時に備えて準備されていた「支那」の本拠地、最大拠点(科、品・・・)といった語感を持っています。


支那人

さて、全くの誤解と言うよりも、むしろ陰謀とさえ言うべきですが、“「支那」は「中国」の蔑称”であり、使うことが出来ないかのような話が一般化しています(伝統的な中国共産党による反日キャンペーンに迎合するものが大半ですが)。一方、それに対していたずらに逆らう石原のごとき反中キャンペーンが存在します。歴史の深層を冷静に探索すればそれらから独立した思考を得ることが出来るかもしれません。まずは、一般的伝統的な理解を掴むために、「大辞林」(三省堂)を見ますが、以下のように書いています。他も似たり寄ったりです。

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写真は 雲南省麗江古城


しな【支那】 外国人が中国を呼んだ称。「秦 しん」の転という。中国で仏典を漢訳する際、インドでの呼称を音訳したもの。日本では江戸中期以後、第二次世界大戦末まで称した。

これ自体も正しいかどうかという問題はありますが、それはひとまずおくとして、オリンピックを持ち出すまでもなくCHINA(チャイナ、チィーナ)という国号が「支那」という音の置き換えあり、なお、国際的に通用していることは言うまでもありません。

雲南省の支那

中国大陸の西南部の奥地、「雲南省に玉龍雪山からの水に恵まれた麗江という秀美な都市があり、そこには日本と日本人(阿蘇の民)の源流がある…」との話をしてくれたのは、六十年の永きにわたり研究してこられた孤高の神社考古学者故)百嶋由一郎氏でした。

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写真は雲南省麗江から望む玉龍雪山


この老研究者との縁は阿蘇草壁吉見神社夏の大祭において、一人の女性と知り合い、その女性が氏とのパイプ役になってくれたことから始まりました。

当時もメンバーを増やすために会の宣伝用チラシを持ち歩いていましたが、後日、その女性に熊本県西原村の「鳥子」という地名に関する小論を送ったところ、それを読まれた百嶋先生から、小論「鳥子」の“鳥子の方様”とは「ヤタガラスの末裔の事で彼らが住む土地が鳥子ですよ」との手紙と資料を送ってくれたのでした。

この手紙の中でも最も心を動かされたのは、阿蘇の草壁吉見神社に祀られている祭神(ヒコヤイミミ、カミヤイミミ)は、実は日本神話に登場する「海幸彦」であり彼らの先祖は雲南省の少数民族地帯からやってきたとの話でした。

以前から、倭人はある時代の中国江南の海岸部(福建省、浙江省…)を支那と呼んでいたのではないか(少なくともその地方にいた人々が実際に自らの国土を支那と呼んでいたのではないかと古田武彦氏を含め古田史学の会系の論者が考えている)との説があることを知っていました。

ところが、「支那」という問題の地名が、現実の中国本土に二つあるうえに、近接する中緬国境を越えたビルマ領内にも「密支那」があることを教えられ、さらに、その「密支那」が実はあのインパール作戦の激戦地ミッチィーナ(ミートキーナ)であることにまで気付くに至り、一挙に百嶋神社考古学の凄まじさに恐れ慄いてしまったのでした。

氏も一応は九州王朝論者と自称されてはいますが、お話を詳しくお聴きすると、最早、その範疇は既存の九州王朝論を遙かに越えています。

さて、佐賀県の西域に生まれたこともあり、あのビルマ奥地での(断作戦=援蒋ルートの遮断)の中でもとりわけ悲惨だった雲南派遣軍による騰越(トウエツ)、拉孟(ラモウ)、龍陵(リュウリョウ)、平戞(ヘイカツ)などでの戦いや、ミートキーナ攻防戦などについての戦記戦史はかなり読んでいた事から、直ぐに「密支那」がかのミートキーナであることに気付き一気にその思い入れはチンドウィン川、サルウィン川の大渓谷の底に引き擦り込まれていったのです。

今になって思えば、すでに百嶋神社考古学への地均しができており、最早後戻りができないところまできていたのでしょう。

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写真は 麗江市街


では、その「支那」に入ることにしましょう。


地図には三つの支那地名が確認できます(縮尺の都合により「支那」は一つ表示しています)。


もちろん、普通の地図では無理で、通常は雲南省が発行している現地の地図でしか確認することはできません。


ネット上の「雲南省地図」という中国の日本向けサイトより、少しご紹介しましょう。


雲南省麗江の「支那」、ビルマ(ミャンマー)のミートキーナ、ミッチーナ(Myityina)他にも雲南省にもう一つの支那地名がある。


この一帯への基礎知識を得るために、幾つかのサイトを拾ってみます。




中国西南部の果て、南はラオス、東はミャンマーと国境を接する雲南省は、亜熱帯気候の恵まれた気候風土と、そこに住む少数民族の人々の明るく素直な人柄とによって、世の旅する人の心を刺激するだけでなく、日本人にとっては、人種的ルーツの発生地ではないかという学問的見地からも大きな興味が持たれている。事実、雲南の各地を旅行していると生活・風習・人相から言葉に至るまで、あまりに日本人と似ていることがあるのに少なからず驚かされる。


(…中略…) 


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雲南省は日本人のルーツ、少数民族の宝庫、「動物の王国」「植物の王国」「非鉄金属の王国」など、様々な観点から取り上げらる(ママ)事が多いいため、中国では比較的名の知られた省になっている。(…中略…)古くからの観光地としては奇怪な岩峰群のある石林、シーサンパンナ(西双版納)と呼ばれる南部、大理国で有名な大理、1997年に世界遺産になった麗江(…中略…)ラサに行かずとも標高3300mほどで体験できるチベット風情、シャクナゲを代表とする花雪山等の自然がみどころだ。その他、雲南省の最高峰としてもチベット族の聖山としても名高い梅里雪山(メイリー)を擁する徳欽、多くの火山を持ちミャンマーの国境沿いに位置する騰衝、棚田が織りなす牧歌的な風景が美しい元陽が注目されている。またベトナム・ラオス・ミャンマーへと陸路で国境越えをするのも面白い。日本にない陸の国境を体験することが出来る。ラオスへは長距離バスも走るようになり、アジアハイウエーの構想も進んでいる。またタイ・ラオスへはメコン河を船で下ることも可能になった。
 
アジアの大河長江(金沙江)、メコン(瀾滄江)、サルウイン(怒江)が流れ、25の少数民族を抱える雲南省。まだまだ隠れた観光地は多い。   
               


この麗江(れいこう)にはかつて少数民族ナシ族の王都があり、現在でもナシ族の人々が多く居住しています。またナシ族のほかにリス族プミ族ペー族イ族が居住し、漢族より少数民族人口の多い地域となっていますが、二〇〇六年には、黎族を題材とした映画「青檳榔之味」(シヨウジャウジアンフ)“漢民族の糞野郎・・・?”が作成されています。


黎 族


黎(レイ、リー)族は、中国55の少数民族の一つで、人口は125万人(2000年国勢人口調査より)、そのうちの117万人が海南省に住んでいます。歴史の記述によりますと、黎族の先祖は紀元前11世紀前からこの地に住むようになったようです。


   黎族は、自民族の言葉、黎語を使い、また、地元の漢民族と密接に交流してきたため、多くの黎族は漢民族の言葉にも精通しています。1957年、ローマ字の形の黎族の文字が作られました。

ところで、山の奥に暮らしている黎族には、古くから女性の体に「刺青」をいれる習慣があります。黎族の女の子は123歳の時、成人式を迎えます。その日、村の女性の長老の主宰による祭祀の儀式が行われ、女の子の顔、首、胴体、手足に自民族を代表する模様を特別な「水」で書いてから、竹や木の葉の茎で作られた針で「刺青」を完成させます。しかし、社会の発展に従って、この習慣はだんだん無くなっていきます。「刺青」をする若者は今ももういません。刺青をしているのは、ほとんど50代以上の女性で千人しかいないといわれ、これから先、この「刺青文化」は消えていく運命にあるでしょう。


無題.pnghttp://japanese.cri.cn/304/2006/12/05/1@80609.htm


なにやら、倭人の刺青を思い出しますが、実は関係があるのです。

黎族は主に中国の海南省に分布する少数民族で、遥かな歴史と自分の特徴ある民族文化を持っています。その中の一つは黥面です。黥面というのは顔や体に模様を描いて黒い色に染めることで、つまり入れ墨のことです。<黎族の黥面は三千年の歴史があり、世界民族の中でも珍しい文化です。


欠端 實 (麗澤大学教授「神話(説話)が運ばれた道」


   雲南省のハニ族は毎年「祭母」の祭祀をとりおこなっている。その祭りの由来を語る説話が「祭母物語」として残されている。この物語は紅河流域のハニ族の人々だけにとどまらず、東の方は貴州、広西、南海、福建をへて浙江に延び、さらに海を越えて沖縄、九州、関西にまで流布している。西はタイに、北は四川、陝西におよんでいる。民族もタイ族、ハニ族、プーイー族、ヤオ族、黎族、ナシ族、彛族、漢族、日本人と多岐にわたっている。

(比較文明学会のHPより)


この麗江にも黎族(リー族)が住んでいます。 もう少し他のサイトも探ってみましょう。

英語名称:Li 人 口:111万人超

言 語: リー族の言葉。居住地域によって方言に違いがある。漢語も通じる。
文 字: 1957年後、ローマ字形のリー族文字を作ったが、ほとんどの人が漢字を使用する。
信 仰: 原始宗教。キリスト教信者も少数いる。主な生活地域: 海南省 

民族発展歴史:リー族は中国のながい歴史をもつ民族の一つで、昔越族から発展してきたので、チワン族、プイ族、トン族、スイ族、タイ族などの民族とルーツの面で密接なつながりがあり、特に古代の百越の一分支駱越とはさらに密接な関係がある。

早くも秦・漢以前に、駱越の一分支が中国の広東省、広西チワン族自治区などの地域から続々と海南島に移住してきた。

リー族は自称がたくさんある。例えば「孝」「岐」「美孚」「本地」などがそれである。リー(黎)は民族名として唐の末期に始り、11世紀の宋の時代以後正式に史籍に記載されるようになった。リー族の女性は紡織に精通していて、宋の時代の末期、元の時代の初めに、紡織の工匠の黄道婆がかつて海南島でリー族の女性に紡織技術を学んだことがある、先進的な紡織道具と技術を作り出し、中国古代科学技術の発展のために貢献した。リー族が居住している海南島は亜熱帯に位置し、気候が温暖で湿潤である。景色が美しく、四季は常緑で、物産が豊富である。農業が発達しているとともに、ゴム、サトウキビ、果物、植物油などの熱帯経済作物もわりに高い発展水準を示している。           中国「旅行情報」


肥後人のルーツは雲南省麗江


まず、中国大陸は太古より漢族の土地だったという訳ではありません。

中国本土、いわゆる中原が絶えず北から遊牧民族の南下に晒されてきた事は知られていますが、一つの説として、現在の雲南省、貴州省、四川省、浙江省、福建省、広東省・・・などの辺境部を中心に分布するビルマ、タイ系の少数民族は漢族に追われ、現在のような山岳地帯に住むようになったのであり、それ以前は江南の海岸部は元より、長江全域から山東省の付け根辺りまで住み着いていたのではないかと言われているのです。

つまり、中国の古い時代の先住民はこれらの人々で、九黎、つまり九派の黎族だったというのです。

問題はその時期です。紀元前1000年辺りから始まり、日本でも良く知られた春秋戦国期の呉越の人々の移動、避難民もその中の一つだったのです。

「臥薪嘗胆」の故事は著名ですが、呉は越に越は楚に楚(楚もソウと発音)も秦に滅ぼされ、後の漢の武帝の時代に漢族は江南から最大版図を形成します。

呉も越も実際には越族と言われていますが、大雑把に言えば、この越の人々こそ広義の黎族であり、特に南に追われたのがベトナム(越南)であり、海に逃れたのが倭人であり、山岳地帯に逃れたのが、現在、苗族に象徴される三苗だったのです(後に苗は漢化する)。
 この黎族はさらに広く展開し、インドの東北部にも、ビルマからの独立運動を続けるカレン族もその一つなのです。ここで、日本にも呉、越の民が入っているのではないか?ということが言えそうです。

それは、越の人々は海との関わりが深いからです。広島には呉がありますし、越前、越中、越後があるではないですか、そして、呉(春秋戦国の呉)の後期の首都、姑蘇地名(菊池市にあったことが文献上残っています)や姫姑蘇神社(小郡市・・・他)なども。

彼らが肥後人のルーツであると言えばお叱りを買うでしょうか?極端に表現すれば、中国に支那地名を残した黎族こそ鹿児島、熊本に入ってきた人々であり、日本人こそ支那人なの(だった)です。

だから現在の中国人は異人種の異民族の漢族であり、支那人ではないのです。

この戦慄をさえ覚える説を唱えられているのが前述の故百嶋先生です。

百嶋先生によると、何世紀にも亘って漢族に追われ続けた黎族は、最終的に雲南省の最奥部に逃れ、そこさえも安住の地とはならず、起源前後のある時期に、一派は省都昆明の辺りから紅河(フォンガ)を下り、ハノイ沖に、また、一派は密支那から瀾滄江(メコン川)を下りサイゴン沖に出、黒潮に乗り海南島の南西岸に逃れたと言うのです(下図は海南島南西部)。

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紅河ハニ族イ族自治州は雲南省東南部に位置します。 昆明市の真南に位置する州で、 南部をベトナムと接しています。

2763.とてつもない日本の歴史2

日本古代史は中国古代史と繋がっている。中国史は複数民族がいたために民族興亡史でもある。今の中国領土の大きさはEU(欧州連合)と大体同じ大きさであり、そこには複数民族がいたし、今も複数民族で構成されている。中国古代史もこの民族の戦いだった。この民族戦争で負けた方の民族が日本に逃れてきたことが、近年の考古学の調査で分かってきた。

1973年・1978年の発掘調査で発見された浙江省余姚市の河姆渡遺跡(かぼといせき)は紀元前6000年〜紀元前5000年頃のものと推定され、大量の稲モミなどの稲作の痕跡が発見された。稲作を行っていた事からその住居は高床式であった。またそこの稲はジャポニカ米であり、その原産が長江中流域とほぼ確定され、稲作の発祥もここと見られる。日本の稲作もここが源流と見られる。今までは稲の原産地は雲南地域を思われていた。

中流域の屈家嶺文化(くつかれいぶんか、紀元前3000 - 紀元前2500年)・下流域の良渚文化(りょうしょぶんか、紀元前3300 - 紀元前2200年)の時代を最盛期として、後は衰退し、中流域では黄河流域の二里頭文化が移植されている。黄河流域の人々により征服された結果と考えられる。ここに住んでいた民族は苗族で、台湾の先住民であり、弥生時代に海を渡って日本に来ることになる。

その証拠に、長江の民・苗族の一方は、雲南省などの奥地に追いつめられ、その子孫は今では中国の少数民族となっているが、その村を訪れると高床式の倉庫が立ち並び、まるで日本の弥生時代にタイムスリップしたようだ。

苗族が住む雲南省と日本の間では、従来から多くの文化的共通点が指摘されている。味噌、醤油、なれ寿司などの発酵食品を食べ、漆や絹を利用する。主なタンパク源は魚であり、日本の長良川の鵜飼いとそっくりの漁が行われている。

日本の縄文の民は森と海から食物を得て、自然との共生する文明を持っていたし、そこにやってきた長江の民も、稲を栽培し魚を捕る稲作漁撈民であったことで、両者ともに自然との共生し、戦いを望まない人たちであった。このため、生活環境が違うのと戦いを嫌い民族であったことで、共生と平和が確保されたのでしょうね。

河姆渡遺跡が滅亡した時期に日本へ苗族が最初に渡り、日本の岡山県・朝寝鼻貝塚(紀元前4000年)に水田を作り、そこから米の化石が出たことに通じ、長江中流領の馬橋文化は約4千年前から2千7百年前であり、その後、苗族が日本に渡ってきた二陣目が、日本の菜畑遺跡、紀元前700年の水田跡に繋がる。その間の文化も侵略を受けて、徐々に日本に移民したように感じる。ここまでの文明は文字を持たないために、記録がない。

そして、その後に呉(紀元前585年頃 - 紀元前473年)が、この地域にあったが、越に負けて滅亡し、この民族も日本に来た事が分かる。

日本の漢字の読みは呉音である。逃げるなら海しかない。そして、中国では日本人を「呉の太伯の子孫」とする説がある。

このように、中国で負けた民族や王朝は、次々に日本へ来ることになる。古代の船に数家族で来るので、少数であるが重層的な帰化人が日本文明を形作ることになるが、どちらにしても、中国史を見ていないと、日本の古代史は語れない。

現代日本人の遺伝子構成は、弥生時代の始まりを契機に流入した遺伝子がほぼ65%を占めていることから、この苗族など帰化人の影響が大きいことは確かだ。しかし一方で、縄文の文化は後世に継承されている、つまり縄文人を駆逐するまでには至らなかった。例えば、帰化人によって営まれた水田をもつ環濠集落においても、水田稲作用の新しい農具や工具が持ち込まれている一方で、土器などその他多くの道具は縄文時代と基本的に変わらないのが実状で、何よりも縄文の婚姻制は戦後に至るまで継承されている。少数の弥生人と縄文人の婚姻もあったように思う。

 このことから、帰化人が大挙して押し寄せたのではなく、少数の帰化人がバラバラに各地で水稲耕作という安定した食糧供給を背景に、高い人口増加率(寿命の長期化)を保持し、人口増および人口比の逆転をもたらした、とする方が妥当性が高いと思われる。

そして、このようなことから日本の古事記や日本書紀を読んでも、日本の古代史は分からないと言うことである。しかし、古代の全体を知ると、なぜそう記述したかが分かるのである。古い神社にある書物には、ある真実が隠されている。これを調べたのが、原田常治である。

(参考)

大量渡来か少数渡来か(1)http://www.kodai-bunmei.net/bbs/bbs.php?i=200&c=400&m=24724

国際派日本人養成講座  日本のルーツ? 長江文明

http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h15/jog304.html

ミャオ族  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ミャオ族(-ぞく、苗族, 英語: Miao)は中国などに住む少数民族である。モン族(英語: Hmong)ともいう。中国では貴州省に最も多く、他に湖南省、雲南省、四川省、広西チワン族自治区、湖北省、海南省などに住むほか、タイ、ミャンマー、ラオス、ベトナムなどにも住む。歴史上移住を繰り返した流浪の民である。

伝説  中国の伝説によれば、紀元前26世紀ごろ華夏の民族(いわゆる「漢族」の原型)の君主・黄帝が蚩尤(しゆう)の民族の討伐作戦を行い、タク鹿(たくろく、河北省と遼寧省の省境付近)で破ったことがあったという。戦いは黄河の台地で行われた。華夏はその討伐地域の悪条件にも関わらずコンパスを用い正確に蚩尤の民族を破る事ができた。一方で敗れた蚩尤の民族はミャオ族と黎族(リー族)に分裂した。ミャオ族はこの後南東方向にむかって移動を続けたという。ミャオ族は漢民族からは「蛮」と見なされ差別を受けたが、一部は周王朝時代に華夏民族と同化したという。

揚子江定住  漢人がこの流浪の民を苗(ミャオ)と呼び始めたのはの先秦時代(戦国時代)であった。そのころ苗(ミャオ)族は、苗民(ミャオミン)、尤苗(ヨウミャオ)、三苗(サンミャオ)と呼ばれ、揚子江流域に住んでいたが、またもや中国の攻撃を受け南方へ移住を始めた。六朝時代に揚子江南部を支配していた南朝は北方民族の侵入に苦しめられており、あまりミャオ族を歓迎しなかったが、五胡による揚子江北部の破壊により、ミャオ族が大量に南朝の領域に入ってきた。中には漢民族と同化することもあったという。

西南中国へ移住唐王朝時代初頭、六朝時代に同化しなかったミャオ族は貴州・雲南など西南中国へ移動した。その後ミャオ族は雲南に南詔を建国したとする説もある。

同化政策と抵抗  ミャオ族が最も多く住む貴州・雲南一帯は13世紀の元王朝によって中国の版図に入った。明代になると、この地域への漢族の移住が多くなり、土着のミャオ族との摩擦が増加、大小100回を越えるミャオ族反乱が起こっている。

清軍の残酷な討伐や弾圧のため、19世紀には多くのミャオ族が東南アジアのタイ・ビルマ・ラオス・ベトナムに移住していった。

言語  苗(ミャオ)族は独自の言語をもち、ミャオ・ヤオ語族(別の表現ではモン・ミエン語族)に属している。この語族に属しているのはミャオ語、ヤオ語以外には中国東南沿海部(福建・浙江方面)に残存しているシェ族の言語だけである。

住む国によって中国語やタイ語などに通じている場合もある。

宗教  精霊信仰(アニミズム)である。

食文化  多くの場合、米を主食とし、野菜、肉類、魚などをトウガラシ、塩、酢などで味付けした副食と共に、13食食べる。漢族の料理に似た炒め物や蒸し物、魚の唐揚げなどの揚げ物もある。もち米で餠を作る習慣もあり、揚げ餅も作られる。豆類も重要な食品である。蕎麦も作り、トウガラシと醤油の味付けで食べる。漢族の習慣に合わせて春節を祝い、餅や豚料理などのハレの料理が用意される。北京など、中国の大都市にはミャオ族料理を出す専門店ができている。

人口データ  全体の人口の内約半数が貴州省に集中している(1990年)。その他以下の省が中国国内のミャオ族の98%が住む地域となっている。貴州省: 3,600,000人 湖南省: 1,550,000人 雲南省: 890,000人 四川省: 530,000人 広西省: 420,000人 湖北省: 200,000人 海南省: 50,000

ミャオ族の中で何千人単位で北京・広州に移住した者もいる。一方タイ、ミャンマー、ラオス、ベトナムなどには2000万人のミャオ族が住んでいる。


この文書では苗(ミャオ)族は漢族に同化する道を選んだいわば監視役なので、黎族と読み替える必要があるようです。

それはともかくも、内倉武久氏は、2012年久留米大学公開講座(古代史)において、熊襲の源流は中国大陸の少数民族の黎(レイ、リー)族、瑤(ヨウ)族、佘+田(シェ、シャー)族としました。

一方、百嶋研究では雲南省麗江に黎の音を残し海南島に移動した黎族こそが黎族の中心であり、それが天草の苓北火力の苓北町に黎の音を残し阿蘇に入ったとしています(草壁吉見=天皇系図に絡むヒコヤイ、カムヤイミミを奉祭する人々)。その後彼らは日本全土に展開します。支那人の大半は日本人になり、中国本土の支那人は、ほぼ、消えたのです。

詳しくは百嶋神社考古学夏季合宿音声CDで!

最後に、鹿児島県枕崎市に「今給黎」姓をもつ人々が集中する地区があります。これも末裔(加茂)かも知れません。当然ながら、鹿児島市の喜入町も九黎の名を遺したもののようにも思えます。


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2018年09月03日

492 百嶋神社考古学が描く列島の古代 A 全国の九州王朝論者の皆さんに! “出雲神話とは”

492 百嶋神社考古学が描く列島の古代 A 全国の九州王朝論者の皆さんに! “出雲神話とは” 

20171030

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


多くを説明しなければご理解頂けない事は十分に承知の上ですが、列島の古代史(実は神代史)を考える上で、あまり複雑な話をしても理解して頂くには時間が掛りますので、ここでは、簡略化したエッセンスのみをお伝えする事にします。

 まず、「出雲神話」をあたかも“近畿大和朝廷に先行する巨大王権である”とか“九州と畿内の中間に巨大な神殿を持った巨大王権が存在した”といった理解をされておられる方が大半ではないかと思います。

 間の抜けた邪馬台国畿内説論者などと言った方々は無視するとしても、「失われた九州王朝」「盗まれた神話」などが描き出したものは、“出雲の神様が一番偉い“”何故なら多くの神々を集める神様だから“…と、対馬は小船越の阿麻氐留神社の実踏などから九州王朝論者の大半も、”九州王朝に先行する出雲王権の存在“といったイメージをお持ちではないかと理解しています。

 ところが百嶋神社考古学はそう考えません。

 故)百嶋由一郎氏の話で最も鮮明な印象を与えた話に「皆さんが出雲を島根県の事だと思っておられる…(全くそうではない)」というものがあります。

 これについては、ひぼろぎ逍遥(跡宮)024 大国主は九州で生まれた “オオナビコ(大国主命=オオナムチの幼名)を祀る春日市の伯玄社” を読んで頂きたいのですが、大山祗(トルコ系匈奴)の息子でありコノハナノサクヤヒメの兄でもある大国主命は福岡県春日市の須久岡本遺跡の周辺で産まれ、後に宗像大社にも祀られるのですが、幼名のオオナビコとして伯玄社には今もその痕跡を留めているのです。

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幼少期を春日市で過ごしていたならば、付近の須久岡本遺跡にいたはずの少彦名命も悪ガキ仲間だったことが分かるのです(推定年齢差からこれは誇張ですが…)。

 ここでも、故)百嶋由一郎氏の話を思い出しますが「少彦名命をスクナヒコナノミコトと読むから分からなくなります。スクノヒコとお読みなさい…」と言われていました。

 今でも、時代劇などで「ソコなオナゴ」と言えば「ソコのオナゴ」である事がギリギリ分かると思いますが、「ナ」も所有の意味を持った格助詞であり、スクナヒコナノミコトとは大字須久字岡本辺りに屯していた後に大国主命となる小さな神様である須久の彦の命だったと分かるのです。

 ちなみに、春日市の商工会議所は、福岡県春日市伯玄町2丁目24  092-581-1407 ですので、可能な限り現地を踏み確認して頂きたいと思います。

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読みづらくなっていますが、「大己彦」と書かれているようです


さらに、言えば今も鮮明に「出雲」という地名が残っています。

場所は、飯塚市となった福岡県飯塚市桂川町平塚の国道200号線の「出雲交差点」が分かり易いでしょう。

この「出雲」という地名についても、百嶋翁は“大幡主(博多の櫛田神社の主神)の領域は全て「出雲」だったのです”…と話されており、元々、全国の至る所に「出雲」が存在していたようなのです。

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これまで、宗像大社の本当の祭神は大国主命であるとの事は何度となく書いていますが、大山祗の息子である大国主は大幡主への入り婿として市杵島姫=瀛ツ島姫を妃にしています。

島根県の現出雲は古い時代から大幡主が支配した領域で、「出雲」と呼ばれた植民領域の一つだった訳で、国譲りの結果、その一つが「出雲」とされ残されたのです。

高知県に宿毛市があります。この地も道真逃亡の痕跡があるところですが、飯塚桂川の出雲も付近に「土師」地名が拾えます。

“宿毛“も古出雲の一つだったのではないかと考えていますが、九州から四国へと移動する要衝の地も、事実、出発の出(シュツ)+雲(クモ)と読めるという具合です。

これは、私が温めている仮説ですが、「出雲」は「イズモ、イヅモ」と呼ぶ(読む)のではなく、忌部(インベ)の「イン」と読むべきではないかと考えています。

 四国に展開した「忌部」「卜部」「殳」「瀛」…が「出雲」と関係があるのではないかと思っています。

 神代系譜をご覧になればお分かりの通り、瀛ツ島姫は大国主命のお妃であり、「瀛」の一族となっているのであり、その簡略化された好字が「出雲」なのではないでしょうか。

 しかし、「あれほど大きな三本巻の大柱の出土があるではないか…!」と大騒ぎされる方がおられます。

それも、百嶋最終神代系譜で考える時代は23世紀であり再建も含め後世のもののはずです(8世紀初頭までの九州王朝の時代とも考えられます)。いずれにせよ「古事記」神話を造ったのは藤原であり、彼らが造ったテーマ・パークと考えて間違いないのです。

下は 飯塚市桂川町の出雲交差点。表記は異なるものの、宿毛の様に元はイズモ、インと呼ばれたものがあるはずです。

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青木繁・画「大穴牟知命」明治38(1905)作/石橋財団ブリヂストン美術館所蔵


大怪我の上死んだ大国主命の介抱に来た 蚶貝比売 蛤貝比売 これも宗像大社の市杵島姫と豊玉姫

九州王朝の本拠地 高良大社 直下にいた青木繁は本当の伝承を知っていたかも知れません。

最後に、隠されたように見えるのですが、九州島にも大国主命を祀る多くの神社がある事をご紹介しましょう。これは代表的なものだけですので、そのつもりでご理解ください。

福岡県朝倉郡筑前町弥永697-3 に堂々たる大己貴神社があります。

「筑前国続風土記」にも大神大明神は弥永村があり、「延喜式神名帳」にも夜須郡於保奈牟智神社小一座とあります。

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一般にも殆ど知られていませんが、熊本県熊本市(現西区)の硯川町に非常に大きな境内地を持つ川東大己貴神社があります。

また、鹿児島県日置市吹上町(旧伊作庄)にも大きな大汝牟遅神社があります。

鹿児島市内の中心部にもあるのですが、特に印象的なのは、宮崎県の日向市の南の都農町に、日向国一宮の都濃神社があり、その主神が大国主命なのです。

単に小さな祠が存在するとかいった事でではなく、都濃神社の様にトップ・クラスの大社の主神が大国主命なのですから、出雲の神様と信じて疑わない通説に犯された大家の先生方に、九州の大国主命祭祀が何故存在しているのかを教えて頂きたいものです。

そして、いつも言うように、宗像大社の本当の神様は大国主命なのです。

大国主命もこの大幡主の配下として活動していた大山祗の子であり入り婿だったのです。

宗像大社の本当の祭神も大国主命であり(だから宗像の神殿には男千木が立っている)、本来、大国主命も少彦名命も北部九州で活動していたのです。

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この日向の意味は宮崎県に止まらず、古代日向=薩摩、大隅、日向を意味しているのです。

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鹿児島県の大汝牟遅神社についてもご覧頂きましょう。

鹿児島県日置市吹上町中原2263 TEL099-296-5950

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2018年09月01日

491 百嶋神社考古学が描く列島の古代 @ 全国の九州王朝論者の皆さんに! “はじめに”

491 百嶋神社考古学が描く列島の古代 @ 全国の九州王朝論者の皆さんに! “はじめに” 

20171030

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 この企画は以前「ひぼろぎ逍遥」で取り組みながらも中断していたものです。

 故)百嶋由一郎氏が追及したのは“日本人はいったいどこからやってきたのか?”というテーマでした。

 百嶋氏には相当に深い部分まで分かっておいでだったようです。

その復元の作業とまでは行きませんが、その概略を把握することによって列島の古代史にバトン・タッチしたいと考えてきました。

このため、学会通説派が描く“奈良周辺で自然に日本と言う国家が徐々に成立した”とか、九州王朝論系の人々が描く“倭人が対馬から博多湾岸に天孫降臨し倭国が造られた”といったものとはかなり違ったものになります。

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さて、一度に全てをお伝えする事はできませんが、一般にも分かり易い形で少しずつ展開して見たいと思います。その前に百嶋先生の手書き資料から通常公開しない半島系の神代系譜を見て頂きます。


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百嶋由一郎 010img004氏系譜


渡来系民族と言えば、百済、新羅、高句麗…が定番ですが、これらの人々が大挙入って来る前に大陸からかなりの人々が入っており、それらの人々が神々として描かれていたようなのです。

問題は「記」「紀」などに描かれている神々が、大陸と半島から中国から入って来た民族を描くことなくしては、日本人を描くことはできない訳で、これらを神々の動きから探ろうとするのが百嶋神社考古学だったのです。

以後、この点に焦点を当てて個々に見て行きたいと思います。少なくとも“奈良周辺で自然に日本と言う国家が徐々に成立した”は、ほぼ、大嘘で、九州王朝系の人々が描く“倭人が対馬から博多湾岸に天孫降臨し倭国が造られた”も、一部は正しいものの、そのままでは漫画に近いものである事がお分かり頂けるでしょう。

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百嶋由一郎 最終神代系譜


研究目的で百嶋神社考古学の音声CD、神代系譜、手書き資料を必要とされる方は09062983254まで


 百済は660年に高句麗は668年に滅びます。新羅もかなり後になりますがやはり滅びます。

 これらの国からも列島への亡命者、移住者、招聘者が入りますが、それは、倭国、日本国が成立して以降の話であり、それ以前にも列島には王権が存在していた事は言うまでもありません。

 上の百嶋由一郎 最終神代系譜には、それ以前に列島に移住していた民族=神々が描かれています。

 左から7民族が描かれていますが、辿れる範囲で紀元2世紀までには出揃っており、古い姫氏にしても紀元前5世紀には列島に入っていたものと考えておられたようです。

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 大率姫氏    三国志の呉ではなく呉越同舟の呉の太伯の一族が亡命後博多湾沿岸に移動していた。

 昔氏      イザナミの夫で新羅系のイザナギがいたのですが、イザナミはイザナギと別れます。

 瀛(イン)氏   秦の始皇帝と姻戚関係を結んだ金山彦の一族が半島経由で渡海し列島に侵入していた。

 白族      大幡主の一族で雲南省から海南島、熊本市を経由し博多湾岸に移動した。ヤタガラスも。

 越智族     コノハナノサクヤヒメの父神大山祗の一族で大国主命もこの一族=トルコ系匈奴

 許氏      高皇産=高木大神の一族で、阿蘇氏が侵入したときには既に北部九州に展開していた。

 多氏(黎族)   雲南省から海南島、天草を経由し阿蘇に展開し高木大神の配下となり後に藤原氏となる。

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この外にも、3000年前からいた古々代ヘブライ系の民族(代表的なのは通説では大国主の長男とされる事代主命)、中国の土車(土舎)トゥチャー族、故)馬場紀美史が主張する彝族(Yízú)も入っている。

通説派は皇室を配慮してか、民族の純血性、単民族起源説などといった政治的?思い込み?としか言いようのないお伽話を続けていますが、こんなものは全くの大嘘であることは言うまでもありません。

比較的利権に薄く清潔に思える照葉樹林文化論者に於いてさえも民族の進入についてはほとんど触れず、単なる文化の伝播のみを展開しています。これも、通説派と同様のある種の自己規制なのでしょう。

大分県の別府湾は(明治16年の海図制定前)はカンタン=菡萏湾と呼ばれていましたし、現在でも邯鄲(カンタン)地区が存在します。

これも、日中合作映画の「墨攻」にも部分的に登場する戦国期の趙の首都邯鄲から入って来た人々が住み着いた場所であり、その事からもシルクロードの終着点と言われた邯鄲にいた多くの西方の民が大分市周辺に入っている事を思わせるのです。

もういい加減に藤原が都合の良いように造った「古事記」(95%は嘘)「日本書紀」から独立し、共に真実の探求の作業に踏み込もうではありませんか!


(戦国)

趙(ちょう)は、戦国時代に存在した国(紀元前403 - 紀元前228年)で、戦国七雄の一つに数えられる。国姓は趙、または嬴(秦の王室と同祖とされる)。首府は邯鄲。もともとは、晋の臣下(卿)であった。紀元前228年に秦に滅ぼされた。

ウィキペディア(20180817 1553による

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一部が海南島を経由し天草の苓北に入ったと考える 黎族(リーツー)彼らが後の藤原氏になる

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