2026年07月03日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1132“徳川の世良田東照宮から物部氏を考える”❺新ひぼろぎ逍遥(共通)

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1132“徳川の世良田東照宮から物部氏を考える”❺新ひぼろぎ逍遥(共通)

20251113

太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


新ひぼろぎ逍遥1131 群馬県太田市の世良田東照宮から関東武士団を考える  続新田=二田

20250902


この間、世良田東照宮について連載してきましたが漸く群馬県太田市まで足を運び参拝することが出来ました。

そこで神殿まで参拝が出来たことからこの神社の本質に迫りたいと思います。

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以下、同社の由緒書きをお読みください。徳川家のルーツが見えてきます。

実はウィキペディア以降の当方のブログでそれが分かって頂けるかも知れません。

以前から申し上げている筑豊の物部氏の後裔の可能性があるのです。


 そして、その証拠とも言えるものを神君東照大権現の神殿前テラスに見出したのです。

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以下世良田東照宮で検索した ウィキペディア(Wikipedia)』20250210  20:35による

世良田東照宮(せらだとうしょうぐう)は、群馬県太田市世良田町にある神社。「東照大権現」としての徳川家康を祭神とする東照宮1つである。1617元和3年)に駿河国久能山久能山東照宮)より下野国日光日光東照宮へ家康の遺骸を改葬した際に建てられた社殿を、1644寛永21年)に上野国世良田へ移築し、創建された。太田市内の他の社寺、館跡とともに「新田荘遺跡」として国の史跡に指定されている。

歴史[編集]

この地は新田氏の開祖・新田義重の居館跡とされ[要出典]、隣接する長楽寺は義重の供養塔もあり、歴代新田氏本宗家惣領が厚く庇護を与え、大いに栄えていた。関東に入った徳川氏は、新田氏から分立したこの地を発祥地とする世良田氏の末裔を自称していたため、徳川氏ゆかりの地ともされた。

世良田東照宮は寛永16年(1639)ごろ、長楽寺の再興に取り組んでいた天海に、3将軍徳川家光が命じて創建させたものであるという。当時家光は日光東照宮の造替を行っており、徳川秀忠が造営した日光東照宮奥社の社殿を世良田に移築したとされている。寛永19年(1642)ごろから工事を開始し、本殿の新築、神廟(本地塔)・拝殿・唐門の移築を完了し寛永21年(1644年)1011日に遷宮が行われた[1]。遷宮時には後水尾上皇の勅額の下賜を受けた[2]

江戸時代には神領200石を与えられ、歴代将軍によってしばしば修繕が行われた[3]。修復にあたり参拝する幕府役人は、御目身以上は拝殿廊下、御目身以下は拝殿階下で拝礼した[4]

1875明治8年)[要出典]神仏分離によって長楽寺から分離し、1877(明治10年)に村社、1879(明治12年)に郷社に列格した[5]


この問題については以前から関心をもっていました。

 それは、蘇我氏と物部氏の闘いの主戦場は九州であり、その結果、筑豊に展開していた物部25部族の多くが飯塚市から響灘に流れ出す遠賀川の河口から対馬海流に乗り日本海を北上し北陸から越国に移動したのではないかという仮説を立てていました。

 山陰から但馬への調査から更に北の日本海沿岸に目が向いたのは、そのフィールド・ワークが終わり、もっと奥の東日本の日本海沿岸から調査を始めようと青森〜岩手への調査に踏み込んだのが十年程前でした。

 柏崎、刈羽から新潟の彌彦神社に移動中、カーナビに物部神社の存在を見出し、急遽、ハンドルを切ったのが、西山町(田中角栄の出身地ですね)の二田物部神社との出会いでした。現在、アメブロでこのブログが検索に引っ掛からないのは(正確には順位を下げ検索上位に上がらないようにしているのでしょう)、アメブロの体質で、結果、離脱したのもそういった背景があったのですが、北北東に進路を取れ! N 柏崎刈羽に筑豊から展開した二田物部を確認した”入力すれば、完全には消されていませんので興味を持たれたら試してみてください。以下も関連するブログを幾つか挙げておきます。

ひぼろぎ逍遥スポット097(前) 全国の物部研究者の皆さんに

ひぼろぎ逍遥

584

高知県の物部川流域にひそりと息づく仁位田神社

295

北北東に進路を取れ! N 柏崎刈羽に筑豊から展開した二田物部を確認した

ひぼろぎ逍遥(跡宮)

459

二田物部のルーツは対馬の仁田だったのではないか?


神代から中世まで


何故、今回、不慣れな源家とか北条氏とか関東武士団というものに拘わっているかと言うと、関東一円に展開している神社群の多くの中に、筑豊から放逐された物部25部族筆頭としての天神ニギハヤヒ(山幸彦)と結びついた八咫烏、橘一族、石清水八幡宮の強い影響力を感じたからでした。

まずは、鎌倉政権の象徴とも言うべき鶴岡八幡宮の由緒書きをお読みください。


無題.png始まりは、鎌倉幕府を築いた源頼朝公の祖先源頼義が、京都の石清水八幡宮を勧請(神様の御分霊を他の地に還し祀ること)したことです。頼義は石清水八幡宮を篤く信仰しており、源氏の氏神として八幡神を鎌倉の由比ヶ浜辺に祀りました。 その後、源頼朝公が現在の地にお還しし、鶴岡八幡宮の基礎を造りました。

東国社会の中心的存在へ
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源頼朝公は鶴岡八幡宮を篤く崇敬しておりました。
治承4年(1180年)、源頼朝公が初の武家政権である鎌倉幕府の拠点を鎌倉の地に構え、同年に先祖ゆかりの八幡宮を現在の場所に遷し祀ります。

幕府、鎌倉、ひいては東国社会の守護神として篤い崇敬の誠を寄せたのです。さらに、幕府の重要祭事として、放生会や流鏑馬、相撲、舞楽など今日に継承される祭事を境内でとり行いました。

鶴岡八幡宮は東国社会の精神的中心、社会的中心だったのです。
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その証拠とまで言えそうな八幡宮が物部氏の本拠地筑豊最深部田川郡香春町に存在します。由緒によるとこちらが古いのです。物部25部族と鎌倉政権、石清水八幡宮=橘一族との関係は明らかです。

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鶴岡八幡神社 カーナビ検索福岡県田川郡香春町中津原404

仁平2(1152)10月、 鎮西八郎為朝公が豊後国臼杵から勾金庄南大原の館に移り、源氏の氏神である鎌倉の鶴岡八幡宮の御分霊を御勧請して奉斎するため、家臣尾張権守家任を新造の八幡宮造営の奉行と定め・・・ 


鶴岡八幡宮の歴史は、源頼朝公の祖先・源頼義(みなもとのよりよし)が、由比ガ浜に源氏の氏神として八幡神を祀ったことからはじまります。 その後、1180年に源頼朝公が現在の場所に遷して、現在の鶴岡八幡宮の基礎が造られました。鶴岡八幡宮は神社としてだけでなく、鎌倉の町づくりや文化発信の拠点としての面も。2024/10/31による


石清水八幡宮も伊勢神宮も九州王朝を支えた橘一族(その本体は雲南省の昆明、大理から亡命してきた白族)が祀ったもので、現在は京都の下賀茂神社に象徴される有力な人々の象徴と考えれば大方間違いはないだろうと思います。対して大陸でも漢族との闘いで協力した多氏(阿蘇氏、黎族)は天草の苓北町から白川を遡上し阿蘇でも阿蘇谷と呼ばれる外輪山北半に入っています。

この白族が最初に拠点としたところは熊本市の現千葉城町(後に千葉氏が入っているからです)熊本の表記は加藤清正が隈を熊に変えたもので、この隈地名(雑餉隈…)が九州の南にも広がります。主要には扇方に北部九州の佐賀、福岡、大分一帯に広がっている事でお判り頂だけるでしょう。

 この雲南省から亡命してきた二派が日本の開拓の主力となり日本人の骨格となったのですが、その後も千年近くは数十派の多くの渡来系氏族が入り列島にあまねく広がっていったのです。

 その中でも特に白族は先行して博多に亡命していた呉の太伯王の末裔から政権運営に協力して欲しいとして呼ばれ、熊本から福岡に移動しているのです(百嶋由一郎の言)。

 呉が滅ぶのが大雑把にBC500年ほどとすると、雲南省から海南島南西域を経由して亡命した二つの民族が列島に移動するのがBC300年辺りだったと思われます。

この話は別のテーマですので、先行ブログやパワー・ポイントをお読み頂くとして、先に進みます。

百嶋由一郎が残した90枚近い神代系譜のスキャニングDVD,40時間の講演録音声CDMP3方式)カーステレオ、パソコン対応、手書きデータスキャニンクDVDなどを必要とされる方は090-62983254まで゙

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2026年07月01日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1131 山中湖湖畔の別荘から “2025年甲信の神社調査を考える” 

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1131 山中湖湖畔の別荘から “2025年甲信の神社調査を考える” 

20251106

太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


あっという間に晩秋となったかの様な印象を受ける11月上旬、富士山北麓と山中湖を望む湖畔の地から10日ぶりにブログを書き始めることになりました。

豊後から12.500キロを走り抜け、山中湖の友人の別荘に到着し、二泊余りの暫しの休養を経て、今回のテーマである南魚沼右矢印1柏崎刈羽右矢印1黒部右矢印1群馬県太田市世良田へと向かう車中泊の三泊四日の800キロの調査旅行に踏み出し、延べ2000キロ近く走り抜いた末、二度目の休養のために再び標高1000mの地に戻り主要な調査を無事終えた達成感と安心感に浸っているところです。

ここでは、まず、その経路をご紹介したいと思います。

山中湖村から、所沢の百嶋神社考古学のメンバーT氏と合流するために群馬県に向かいました。

通常、このルートを採ると180キロと近いのですが、山梨県側は良いのですが、まだ埼玉県側が道路事情が悪く、八ヶ岳の北麓を西に向かい、佐久市〜内山トンネル〜荒船山の断崖を右に見て群馬県仁井田から高崎に向かう方が楽なのです。この場合は高速を使っても210キロにはなり、一般道利用は50キロ以上は多くなるでしょう。

当然、金がなく時間だけは十分にあるため後者に成りますが、高速を使うと民俗調査には全く繋がらないため、極力、平道で移動しながら、寺社仏閣を見ていきたいのです。下は雁坂トンネル経由。

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臼井峠にせよ、内山トンネルにせよ、大変なルートで、山梨、長野、群馬という列島の脊梁山脈とも言うべき一帯に割拠した武田氏、上杉氏、真田氏、諏訪氏、物部氏…はとんでもない場所に展開していた事に今更ながら気づかされるのです。

 22日に大分を出て早くも2週間を超えていますが、戻ってきて漸く少しは落ち着き、このブログを書き始めた事になります。

26日に山中湖を出発し、ここから昨年中断した新潟県南魚沼郡舞子(石上神社+曹洞宗宝林寺)に向かい、引き続き柏崎刈羽の二田物部神社を同行のT氏に案内することが主要な目的だったのです。

そもそも、何故、南魚沼市でも舞子の石上神社に行き、昨年、雨に打たれ中止したとしても遠路、再び同地を訪れたのかは次のブログで書くことにします。

実は最後の群馬県太田市の世良田東照宮までもが全て一つのテーマで繋がっているのです。

暗くなり寒くもなってきたことから事前に格安の共同浴場を調べており、萌気園「さくり温泉」 健康館でゆっくりし、昨年雨に打たれた道の駅南魚沼に向かい、二回目の車中泊としたのでした。

翌日、更に西に向かい、親不知の大断崖を越え、神社に詳しい方でもあまり聴かれたことがないと思うのですが、黒部市の八心大市彦神社に向かうのが今回の私にとっての最も重要なテーマでした。

これも一般的にはほとんど知られていない八心大市彦神社については別稿としますのでここでは省略させて頂きます。

ともあれ、再度、親不知を戻り、糸魚川市に戻りT氏に奴奈川姫神社を案内し、白馬村経由で長野市の南から千曲市、小諸市辺りで、北山田温泉に入り小諸辺りの道の駅で車中泊して群馬に戻ったのでした。

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 山中湖湖畔の親友の別荘が有ることから行えて来た10年以上に亘って行ってきた甲信越の神社調査でしたが、最も重要であった関東武士団の成立の経緯が見えて来たことからそろそろ終了し、数度入ってはいたものの、いよいよ課題であるも非常に手薄だった福島〜宮城〜岩手の調査に入ろうと思っているところです。

 今回の調査は、北アルプスを一周するようなもので、現地での調査まで含めると九州からの移動とは別に1200キロ近い大遠征になりました。

 太宰府地名研究会の研修所がある日田市から山中湖村までは1250キロ近くありますが、往復で2500キロ、今回の北アルプス一周の1200キロ、これに加えて今回は身延山の奥宮にご案内頂き、加えて藤川流域の南部町、早川町に入っていますので、400キロを加え、4100キロの大遠征となった訳です。

 実際、成果は大きかったものの、車中泊で眼鏡のフレームを壊すは、2台持って行ったパソコンの不調で修理に10,000円使うなど出費は元より、一番心配だったのは交通事故でも起こすのではないかと冷や冷やで、安全に帰ってこれただけでも有難かったとほっとしているのが実情です。

 それでも、10年前の2016年に柏崎市の隣、南魚沼郡だった西山町(田中角栄の出身地)に二田物部神社を発見して以来の、課題であった徳川家とは宮崎をルーツとした物部氏(大山祇系トルコ系匈奴=南匈奴)だったと確認できたのでした。これについては、まずは以下をお読み下さい。


ビアヘロ015 北北東に進路を取れ! N 柏崎刈羽に筑豊から展開した二田物部を確認した対して、今後書くものは 徳川氏は西都市から九州西岸を北上し筑豊に進出した大山祇系トルコ系南匈奴であり、直接的には 宮若市宮田町の天照宮(ニギハヤヒ)系氏族だった!と言った内容になるでしょう。
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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2026年05月27日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1130 月読神社の総本社|もともとは山の神だった(長崎県壱岐市)

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1130 月読神社の総本社|もともとは山の神だった(長崎県壱岐市)

20251013

太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


 無題.png当会メンバー「事代主のブログ」の第2ブログからの引用

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月讀神社

壱岐には古代より多くの古墳が点在し倭と倭国を往復するうえでも対馬と同様重要な地点にあったことは間違いありません。

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画像はお借りしました 壱岐には倭国でも発見されていない一世紀の鉄の溶鉱炉跡が発見されており日本古代史を知る上でも重要な資料を持っています。その壱岐には日本最古と言われる神社が存在します。

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由緒


祭神
(
右)月読命 読むというのは月齢を数える事であり、日を数えることは暦(太陰暦)である。したがって月読と、稲作、潮の満ち引きとは大変深い係がある。
(
中)月夜見命 月夜というのは単につきのことである。月は夜出るわけであるから月夜といった。見は心霊を表す。従ってこの見は月を神格化した。
(
左)月弓命 三日月は弓の形をしている。そこから月読が月弓に音が変化するのに伴って漢字も弓が当てられた。


月讀神社縁起

顕宗天皇3年(487年)阿閉臣事代という官吏が天皇の命を受けて朝鮮半島の任那に使いにでる。
その際に人に月の神が神がかりしまして「土地を月の神に奉納せよ、そうすればよい事があろう」という託宣があった。それを朝廷に奏したところ、これを受けた朝廷は壱岐の県主の押見宿禰に命じて壱岐の月読神社から分霊させ京都に祀らせた。 舒明天皇二年壱岐の公乙等を筑紫の伊都に遣わし神石を求め、一つを京都の月読神社に納める。この石はその昔、神功皇后が月神の教えによりお産を延ばされたことで「月延べ石」と名づけられた。その石は今伊都の鎮懐石八幡宮と壱岐の月読神社にあると言われている。 文武天皇大宝元年初めて行幸あり、神石をご覧になられ、壱岐古麻呂に命じて弊帛を奉納し神税を古麻呂に支払う。 宝亀33年、暴風雨で木や家が倒れた。これを占うと月読神の祟りであった、そこで忌部正美が奏じ、神島の大中臣清麻呂を山城・壱岐・伊勢にある月読神社に遣わして神の怒りを鎮めた。 國分郷古木村清月の社在り、延宝4年(1692年)6月朔日建立拝殿の内に石の御殿あり、拝殿は西北西向きで茅葺梁行2間、桁行2間半である。境内は、東西25間余り、南北31間余り、周囲1町17間余り、山中参道16間。祀管榊原主藤原正益、定祭923日云々。 式内大社の例により、神階を進められる。
霊元天皇延宝46月朔日、松浦肥前守従伍位下源朝臣鎮保、石祀及び木鏡を寄進。(木鏡の銘)には「奉ル備24座ノ内月読神社御正體木鏡1面」とあり。

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拝殿

古事記によれば、イザナギの命が黄泉の国から帰られた時、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原において、禊祓いされ左目を洗われた時に天照大神、右目を洗われた時に月読命、鼻を洗われた時にスサノオがお生まれになった。
この3柱の神を三貴神と呼び他の大神とは別格と記されている。

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この神功皇后が、のちの応神天皇を腹に宿して朝鮮へ出征しました。
そのときが、ちょうど産月でしたが、その際、皇后は、自ら祭主になって祈念し、「事が終えて帰ってからこの地で産むまで産月を延べて欲しい」と願いました。
すると、月神が現れて、神石を示し、「この石で皇后のお腹をなでて心を鎮めると良い」、と言われたので、神石を袂(たもと)に挟んで出産を遅らせた、といいます。

この石は京都の月讀神社の他に糸島の鎮懐石神社にもあるそうです。月読神社の御祭神「月読命」の子孫押見宿禰は壱岐氏(壱岐県主)の遠祖である。下の鳥居から西方面(湯之本方面)約500mの所にある国片主神社(拝殿が壱岐氏の居館跡と言われている)、がある。

男嶽神社


月讀神社より古い神社があると月讀神社の宮司様におききした神社をご紹介しましょう。

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神紋ははじめてみます。 縛った銀杏のようです。では本殿に回ってみましょう。

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凄まじい数の猿です! 猿といえば猿田彦神と日吉神社の大山咋が頭に浮かびます。
みな手に盃か徳利を持っていますので酒の神といわれる松尾神社別名 大山咋を表していると考えられますが現在は、導きの神である猿田彦命(サルタヒコノミコト)が御祭神として御鎮座しているそうです。

由緒

御祭神
天比登都柱 月読命 猿田彦命
壱岐の歴史は古事記でもあります国産み神話より始まる。
男嶽神社は、最初の神様「天比登都柱」(アメノヒトツバシラ)や「月読命」(ツクヨミノミコト)の降臨の地として文献には記されており、もとの月読宮とされている。
壱岐は5番目にできた島で「天比登都柱」は、島が産まれた時の神様である。現在は、導きの神である「猿田彦命」(サルタヒコノミコト)が御祭神として御鎮座しており、「天比登都柱」「月読命」を導いてこられたことから「猿田彦命」をお祀りしている。

天比登都柱は伊邪那岐と伊邪那美が国生みで生んだ壱岐の別名です。
月讀の最初の降臨地であることからここが最初の月讀宮であったそうです。
するとここが本当の神社発祥の地ということになるようです。


御神体

無題.png

この石の前では磁石が効かないそうです

系図

こちらの神社の宮司様は天児屋根の78代目だそうです。するとやはり猿は一族の大山咋のような気がします。

凄まじい数の猿です! 猿といえば猿田彦神と日吉神社の大山咋が頭に浮かびます。
みな手に盃か徳利を持っていますので酒の神といわれる松尾神社別名 大山咋を表していると考えられますが現在は、導きの神である猿田彦命(サルタヒコノミコト)が御祭神として御鎮座しているそうです。

由緒

御祭神
天比登都柱 月読命 猿田彦命
壱岐の歴史は古事記でもあります国産み神話より始まる。
男嶽神社は、最初の神様「天比登都柱」(アメノヒトツバシラ)や「月読命」(ツクヨミノミコト)の降臨の地として文献には記されており、もとの月読宮とされている。
壱岐は5番目にできた島で「天比登都柱」は、島が産まれた時の神様である。現在は、導きの神である「猿田彦命」(サルタヒコノミコト)が御祭神として御鎮座しており、「天比登都柱」「月読命」を導いてこられたことから「猿田彦命」をお祀りしている。

天比登都柱は伊邪那岐と伊邪那美が国生みで生んだ壱岐の別名です。
月讀の最初の降臨地であることからここが最初の月讀宮であったそうです。
するとここが本当の神社発祥の地ということになるようです。

御神体

無題.png

この石の前では磁石が効かないそうです

系図

こちらの神社の宮司様は天児屋根の78代目だそうです。するとやはり猿は一族の大山咋のような気がします。

無題.png

こちらの拝殿は男嶽神社に比べるとかなり小さいですね!

狛犬

本殿

無題.png

女嶽神社ですが千木は縦削ぎ(男神)?神紋は月紋です。


由緒

祭神 天鈿女命 由緒は特に無いようです。こちらの祭神は猿田彦の妻 天細女(アメノウズメ)ですがこれは猿田彦同様後付けの神であったと想像できます。もしかすると月紋ですのでこちらが本当の月讀宮であったかもしれません。また猿田彦は太陽神ですので月神と考えてもいいかもしれません。

末社

無題.png

御神体

画像はお借りしました こちらの御神体は通称「巣食石」(すくひいし)男嶽神社の御神体同様磁石が狂います。

巣喰うの意味巣を作ってすむ。「軒にツバメが―・う」よくない人間が集まって住む。「暴力団の―・う町」3悪い考えや病気などが宿る。「妄想が―・う」「病魔が―・う」

https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%B7%A3%E3%81%8F%E3%81%86/


月讀命は大山祇命の別名ですので倭の伽耶韓国 金首露の鉄の民族です。
鉄と磁石は反応しますので、ここで鉄を試したのかもしれませんね。
どちらも古代の磐座を御神体としていますが、両方お参りする方がいいでしょうね。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記