2023年04月09日

954 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)❽ 小諸市 御影神社 

954 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)❽ 小諸市 御影神社 

20220916

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 前日は千曲市〜上田市の神社探訪で草臥れて早々に憧れの別所温泉で旅の疲れと神社探訪の疲れを癒しましたが、今日も早朝から大室神社(このリポートはパスします)を見て御影神社に向かいました。

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紛らわしいのですが、三つ目の円内に御岳神社が在ります。当然、御嶽山への祭祀を意味した神社なのでしょうが、今回のリポートの対象は佐久北IC付近にある御影神社です。

 御影石の御影ですが、以前、京都府舞鶴市でこの神社に遭遇したことがありました。

 それは、舞鶴市森872に鎮座する彌伽宜(みかげ)神社という表記で、御祭神を天御影大神、誉田別大神 としています。

ブログも書いていますので、境内社も分かりますが、神社探訪 狛犬見聞録・注連縄の豆知識 様も書かれており、実はこちらの御影神社のリポートも書かれているのです。以下をご覧下さい。

ちなみに 当方のブログは、ひぼろぎ逍遥 

300北北東に進路を取れ! S 東舞鶴の大森神社=彌加宜(ミカゲ)神社 です。

 

一、須佐見神社…素戔嗚命 大己貴命
二、水神社…美津波能賣命
三、若宮稲荷神社…保食命
四、森光稲荷神社…大宮網賣命
五、縁結神社…大国主命
六、三安神社…天照大神
七、鹿島神社…武甕槌命
八、八代神社…天照大神之御子 五男三女神 以上八社であります。


 改めて、再認識しましたが、境内社に追い出された祭神の多くは(例外は天照と鹿島)大山祗系であり、元々この祭神が本来の神々であるものを追い出して、天御影大神 誉田別大神に切り替えた神社だと判断しました。

 七位、八位の高木大神系の格下神社が、主神となったものだったと記憶しています。

 今回の評価もそれで良いかは不明ですが、数百キロを超えて、同名の神社が存在するだけでも日本と言う国の有難さを感じるばかりです。

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では、長野県神社庁の祭神を確認しておきましょう。

 予想通りですが、無難な建御名方と八坂刀女(この名は九州からの道行以降の名であり、それ以前は阿蘇宮司家初代惟人の姉か妹の奈留多姫)なのですが、本来の神である天御影大神 誉田別大神さえも消し、その底流にある多くの神々を一切消し去っているのです。

ましてや、八坂刀女が阿蘇の本流の女性であり、実は河上 猛(熊襲 猛として知られている)の母などということなどどなたもご存じないでしょう。

 真実の古代史と言うより神代史に興味をお持ちの方は以下をお読みください。

これだけでも、神代史像が一変するでしょう。百嶋神社考古学の破壊力にはいつも驚愕してしまいます。百嶋由一郎は、“古事記の95パーセントは嘘だ”と言い切っておりました。


 不思議なのは、神社探訪 狛犬見聞録・注連縄の豆知識 様 が舞鶴の神社を無視されている事です。

 県神社誌に従って書いているとされていますのでそれはそれでご判断だと思います。


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

936

ヤマトタケルの熊襲退治時代の勉強会を熊本県西原村でも行います ⓫

935

櫻に埋もれる佐賀県有田町の山田神社について

934

ヤマトタケルの熊襲退治時代の佐賀県東部とはどのような土地だったのか?下 ❿

933

ヤマトタケルの熊襲退治時代の佐賀県東部とはどのような土地だったのか?上 ❾

932

早良の諏訪神社を「福岡県神社誌」から見ると ❽

931

河上猛がヤマトタケルに許された旧脊振村広滝とは ❼ 

930

続)愛媛県の神社調査を本格化させたい(下調べ) A

929

愛媛県の神社調査を本格化させたい(下調べ) @

928

続)大神一族とは河上 猛の後裔だったのではないか? ❻ 

927

大神一族とは河上 猛の後裔だったのではないか? ❺ 

926

「早良区に移動したその後の 河上 猛」小規模講演会向けに用意したレジュメ ❹ 

925

福岡市早良区の諏訪神社の由緒略記を寄贈された方々のご出身地を知りたい ❸ 

924

福岡市早良区に移住した河上 猛(熊襲 猛)の一族が住み着いた現地を確認した ❷

923

ヤマトオグナに誅伐された栄えある河上 猛は許され 今もその一族は

福岡市早良区に住んでいる ❶



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まあ、これで良ければ気楽な話であり、本当の神様は怒り狂い嘆き切っておられる事でしょう。

 この小諸の御影神社、舞鶴の大森神社=彌加宜(ミカゲ)神社も本来は以下の祭神を奉斎する神社だったはずです。表記は異なるものの、一〜八までの境内社はほぼ一致しているようです。

須佐見神社 水神社 若宮稲荷神社 森光稲荷神社 縁結神社 三安神社 鹿島神社 八代神社

 そして、神社探訪 狛犬見聞録・注連縄の豆知識 様も指摘になっているとおり、冒頭に掲げた通り一〜八までの祭神を持ち、恐らく8世紀半ばでしょうが、天御影大神 誉田別大神へと祭神を変え、挙句の果ては、威勢が良くなった追放された諏訪の神へと変身したのでしょう。

 それに抵抗してか、地元はの社名に戻し御影神社という懐かしい社名に戻したのです。

 まあ、今後ともこの神社の氏子集団は、縁も所縁もない諏訪の神を祀ることになるのです。

以後、永久にでしょうが。それも良いでしょう。神社庁というものはその程度の輩なのです。

 これで大体の神社のアウトラインが確認できたようです。

 ここで、御影神とは何かを再度確認しておきましょう。

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百嶋由一郎金神神代系譜(部分)


 無題.pngお分かりいただけるでしょうか?百嶋神社考古学はこの神=天之御影神も確認していたのです。

 この神は鹿島大神=武甕槌=阿蘇高森のヒコヤイミミ=海幸彦だったのです。

 とすると、神社探訪 狛犬見聞録・注連縄の豆知識 氏が一〜八で七番目に書かれている、本来の神である 七、鹿島神社…武甕槌命 と御影神とは同一神であり、何故、神名を変える必要があったのかが分からないのです。

 これで、一応は同社のアウトラインが描けました。以下、境内を見て頂きましょう。

 まずは、読めなかった一の鳥居の神額の文字が御影だったと分かりました。

 破れた境内社が放置されていますが、氏子組織が財力と員数を失うと社殿の維持から草払い、そして、神殿の掃き清め、埃叩き…の一切が失われて行くことになるのです。

 だからこそ、遠い父祖伝来の本当の神と真の歴史を伝えなければ神社への親近感から奉斎の意思を失って行く事になるのです。

 元々、うちの集落は古い戦で負け落ち延びてきた仲間だったが、大切な神様を守り続けてきた。

 しかし、ある時、支配者が変わると別の神を祀らなければならなくなった。

 そこで、神殿の神は外に出したが、村長の蔵に安置し、小さな社を造って納める祭りを続けてきたが、戦乱の世に変わると、武田信玄公が奉斎する諏訪大神を挙げて祀らなければならなくなり、元の神とは全く異なる神を祀ることになってしまった。…といった話を古老が伝え、集落の神主が伝え続けなければ、鎮守の神への尊崇の念が失われ、ひいては奉賀金の集金から破れた社殿の修理から注連縄の掛け直しさえもが出来なくなるのです。

 真実を伝えなければ、人々の信奉そのものも消えるのであり、いずれは神社庁への信頼も失われるのです。それも良い事かも知れません。

 彼らも戦後のマッカーサー占領軍の顔色を伺いながら蠢き出した新体制への奉仕者だったからなのです。

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最後に、境内の一角に置かれていたかなりの大きさの石塔がありました。

 大国主命、少彦名命、宗像三女神の一柱 多紀理毘売と並んで普通は読めない神様が居られます。

 この神様とは 味耜高彦根(アジスキタカヒコネ)命です。


デジタル版 日本人名大辞典+Plus「味耜高彦根神」の解説 味耜高彦根神 あじすきたかひこねのかみ

記・紀にみえる神。大国主神(おおくにぬしのかみ)と田霧姫命(たぎりひめのみこと)の子。天稚彦(あめわかひこ)が死んだとき弔問にいったところ,顔がにているため死者が生きかえったとまちがえられ,おこって刀をぬいて喪屋をきりたおしたとつたえる。岐阜県美濃市の喪山はこの喪屋という。奈良県御所(ごせ)市の高鴨神社の祭神。「古事記」では阿遅志貴(あじしき)高日子根神


 とはされていますが素性が分かりません。しかし、百嶋神社考古学の者にはある程度の具体性持った人物像が描けるのです。まずは、いつも使っている百嶋由一郎最終神代系譜の一部をご覧下さい。

 当時、福岡県久留米市の高良山にいた彦火火出見=山幸彦と宗像三女神の豊玉姫(タゴリミホ)の間に生まれた(つまり海幸彦の釣り針を失い塩土老翁=カミムスビのアドバイスで龍王に向かう海幸山幸神話)ラブ・ロマンスの末の子がウガヤフキアエズなのです。

 そして、豊玉姫の子育て放棄によって代わりに送り込まれた鴨玉依姫との間に生まれた言わば私生児(育ての親である乳母との子という意味で)がウガヤフキアエズだったのです(「高良玉垂宮神秘書」)。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


 アジスキタカヒコネの実像が俄かに浮き上がってくるはずです。

 このエピソードは「高良玉垂宮神秘書」の第一条から始まる印象的な話なのです。古事記はそれを剽窃したものだと考えられます。理由は読まれたら自然にお分かりになります。

 これについては当会のメンバーである「事代主のブログ」のサブサイト(第2ブログ)の「高良玉垂宮神秘書」口語訳 神話を科学する(神社探訪)、または「宮原誠一の神社見聞諜」を検索して下さい。

つまり味耜高彦根神 とはウガヤフキアエズ尊の別名だったのです。

 ではアジスキとは何でしょう?巷で言われている話から言えば鉄でスキは鋤、鋤、鍬…なのです。

 大国主命や少彦名命は出雲の人じゃないかと言われる方がおられるでしょうが、これも「ひろぎ逍遥(跡宮)などを検索され、767 出雲神話の舞台は九州との仮説を信じられない方に対してどう ...、ビアヘロ 101 出雲神話の舞台は九州との仮説を信じられない方に対してどうしたら関心をもって頂けるかと…などをお読みください。

 この神社には九州の神様ばかりが境内社として神殿から排除されてしまっています。

 驚くべき話ですが、私たちの目から見ればそうとしか言えません。

 そう考えれば、元々この神社に集った人々も九州からの移住者だったはずなのです。


百嶋由一郎が残した神代系譜90枚、講演録音声 CD340時間9枚、手書きデータ・スキャニング・データを必要な方は、09062983254までご連絡ください。フルセットを11,500円程度でお送りできます
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2023年04月06日

953 神奈川県への移住者の照会から始まった神社調査神 “福岡県八女市忠見の正八幡宮”

953 神奈川県への移住者の照会から始まった神社調査神 “福岡県八女市忠見の正八幡宮”

20220912

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


隣接する集落の正八幡宮についても見ておく必要があると向かったのは忠見の正八幡宮でした。

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「福岡県神社誌」中巻 312313


大籠正八幡宮よりは低地の星野川沿いの一角に同社はあります

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同社の由緒によれば


正八幡宮由緒 御神祭 応神天皇、神功皇后、武内宿禰


この神社は、治承四(西暦一一八〇)年に八女市山内の犬尾城主・川崎定宗が大隅国桑原郡の正八幡宮(現・鹿児島神宮)を勧請し、川崎の荘の鎮守としたものです。…


とあります。一方、百嶋由一郎氏からは別の話を聴いております。バックナンバーをお読みください。」


ひぼろぎ逍遥(跡宮)218 鹿児島県の大隅半島に橘神紋を探る! “大根占の河上神社” 20160314


久留米地名研究会(神社考古学研究班)当時 古川 清久


今回の神社探訪は、神武天皇の本当のお妃であるアイラツヒメの伝承を求めて宮崎県日南市油津の吾平津神社を見た後、大隅半島の錦江湾側の鹿児島県旧大根占町(現錦江町)の河上神社を見ることが目的でした

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カーナビ検索 鹿児島県肝属郡錦江町城元2088


祭神鵜草葺不合尊 神武天皇 五瀬命 稲飯命 三毛入野命


無題.pngHP「八百万の神」による

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同社の縁起          参拝殿とあまり見かけない石造りの壇(天壇?)


祭神を見るとウガヤフキアエズ(実はニギハヤヒの息子)が筆頭に神武天皇が最後尾に掲げられているという特殊性が際立っています。

 こういった場合、最後の神武は、格下の神武僭称 贈)崇神であることが多いのですが、百嶋神社考古学では、三毛沼命、三毛入命は贈)崇神としますので、重複することになります。

 してみると、この神武は本物であり繰下げた可能性も全く否定はできないかも知れません。

さらには稲飯命については、ウガヤフキアエズと海神の娘であるタマヨリビメの子とする説もある事から、ここでは、安曇磯良を祀っているのかも知れません。

結論から言えば、贈)崇神と山幸彦=ニギハヤヒ系の子のウガヤフキアエズ、その子の安曇磯良を奉祭する物部の匂いの強い配神の神社であると言えそうです。

参拝殿、神殿は至って質素ですが、正面の天壇かとも錯覚するような石造りの壇が印象的です。

参拝殿に入ると光り輝く橘の神紋が眼に飛び込んで来ました。

 今回は、これを確認するために長駆、単騎の遠征をしてきたのでした。

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紛うこと無く橘一族の拠点の神社という事になるでしょう


先に、「ひぼろぎ逍遥」(跡宮) 215 鹿児島の大隅半島大根占の河上神社と福岡県八女市黒木の猫尾城が繋がった で、九州王朝の中枢領域を支えた黒木一族の一流が、根占から入ってきている事を確認したとして、「最近、百嶋神社考古学勉強会メンバーのN氏が持ち込んできた旧黒木町の「郷土の文化財」を読んでいると、百嶋神社考古学神代系譜(ヤタガラス系譜)に何故、鹿児島の大隅半島の大根占にある河上神社の事が強調されていたかの理由が少し分かって来たような気がしてきました。

最低でも、根占の河上神社の神紋と黒木の一族との繋がりが発見できた事にはなるようです。

勿論、百嶋先生も栄えある南朝方として橘の神紋を使う河上神社を奉祭する一族であり、九州王朝に仕えた臣下だった事が垣間見えて来たのでした。」としました。

今のところ、八女の黒木と根占の河上神社との関係については暗中模索といったところです。

いずれ、この橘の神紋の重要性が分かるかも知れませんが、まだまだ探索は続きそうです。

一つだけ分かった事がありますが、九州の南朝方として戦い続けた菊池氏、阿蘇氏、五條家、黒木の一党…その中心となった懐良親王が、始めは鹿児島に上陸し、後に矢部を本拠地としたという事実に関係していたのが黒木助能に繋がる一族だったのです。

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誤解が生じない様に補足します。「結論から言えば、贈)崇神と山幸彦=ニギハヤヒ系の子のウガヤフキアエズ、その子の安曇磯良を奉祭する物部の匂いの強い配神の神社であると言えそうです。」としましたが、それが直接に橘の神紋と繋がる訳ではなく、あくまでも橘は石清水八幡系の紀氏の系統のもので、基本的には豊玉彦=ヤタガラスの系統を意味するものであり、その配下で活動していた一派にニギハヤヒの系統があったという意味なのです。

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その後、橘の一部を椿に替えるなど分解も生じているのです。

最後にこの薩摩半島の錦江湾側の先端に近い佐多に田之崎港があり、対岸の薩摩半島の先端、開聞岳の西に同じく田ノ崎港がある事から、この一帯は、薩摩から大隅、大隅から薩摩へと移動する要地、つまり、九州の東岸と西岸を繋ぐ要衝であった事も見えるのです。


黒木は熊襲の一派だったのです  無題.png 百嶋神社考古学初期01220813)大根占川上神社

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百嶋由一郎氏の先祖のルーツも八女の黒木でありここの人々は大山祗系(アーリア=トルコ系匈奴)と…


 黒木のルーツは一先ず置くとして、次に進みましょう。この参拝殿にも五七の桐紋が打たれています。

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無題.pngこちらは16葉菊紋ですね


無題.png社日神にはあまりなじみがない方が多いと思いますが、ここの境内にはあります。一応、伊勢の外宮こと豊受大神と理解しています。

ここで注意を要する事があるように思います。

 黒木と八女中心部を同列に考えるべきかの問題があります。

 黒木と八女が長期間に亘って政治的に同じ歩調を歩んでいたのかどうかも不明ですが、黒木が根占から入って来た氏族として、八女中心部はどうだったのかは知識を持ちません。

 我々はと言うより、私は中近世に関心が無い為見当もつかないのですが、どなたかお手伝い頂きたいぐらいです。

 百嶋由一郎の根占のメモと、猫尾城(猫は開化天皇の和風諡号ワカヤマトネコヒコのネコを意味するという話が我々内部では常識になっていますが…)で始まる文章が根占の話と鹿児島神宮の話とごちゃごちゃになっていますが、私も良く分からないまま、いずれにせよ熊襲起源の人々が八女にも入っていた事実を認識するところまで進んできたと思うところです。

 参拝殿の写真が良く撮れてなかったのでネットから無断借用し、ここらで終わりたいと思います。画像は「ちくごさるく」様です。

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最後のページを利用し、途中で出てきた鳥子系図を出しておきます。ヤタガラスの後裔氏族です。

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百嶋由一郎が残した神代系譜90枚、講演録音声 CD340時間9枚、手書きデータ・スキャニング・データを必要な方は、09062983254までご連絡ください。フルセットを11,500円程度でお送りできます。

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2023年04月03日

952 神奈川県への移住者の照会から始まった神社調査 “福岡県八女市大籠の正八幡宮”

952 神奈川県への移住者の照会から始まった神社調査 “福岡県八女市大籠の正八幡宮”

20220912

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


名は伏せますが、ご主人が八女市のご出身という某会社の社長夫人の照会からこの調査は始まりました。

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「福岡県神社誌」中巻 312313

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やせ仏本堂と正八幡宮との建物の配置を見る限り、江戸期の神宮寺と言ったものではないようです


当初、電話での照会を受けた時は、夫は東京生まれの東京育ちであり、同地の山にある痩せ仏堂についての記憶はあるものの、隣接する神社は管理もされておらず、放置されているのではないかといったご心配だったのですが、当日(日曜日の8時半に久留米IC付近に集合)9時過ぎに現地に入ると、痩せ仏お堂では、地元のご夫婦による掃除のご奉仕が行われており、隣接の神社の方も特別荒れた状態ではなく、参拝殿、神殿の埃は元より、落ち葉や蜘蛛の巣も無く、台風一過の爪痕も感じませんでした。

背後地の墓所も見ましたが、それほど荒れては無く、夏場にしては比較的通路は確保されていました。

年間500社に近い神社を訪れていた者から見れば、比較的良好な状態ではないかと思った次第です。

神奈川県からの有難いご心配ではあったのですが、この地についてはまだ良好であり、比較的どころか、今どきにしては中の上を下がることはない管理状況にはないと思ったところです。では、失礼な表現ながら、ここでこの神社の概略(素性)を百嶋神社考古学の立場から描いてみたいと思います。

無題.png参拝殿の神額を見る限り、まがうことなき正八幡宮ですが、並んで、祭神が書かれています。これを見ると現在は、応神天皇、比売大神、神功皇后の三神となっており、これは石清水八幡宮を経た鶴ケ丘八幡 宮の祭神に当たるようです。

この鶴岡八幡宮よりも50年古い縁起を持つとの説もある同名の神社が筑豊の田川郡香春町中津原にもあるのですが、こちらは御祭神 応神天皇、神功皇后、玉依姫命 創建 応永5(1398)正月17日…と。

康平6年(10638月、源頼義河内源氏氏神の壷井八幡宮あるいは京都石清水八幡宮を勧請(鶴岡若宮)康平6年(1063年)8に河内国(大阪府羽曳野市)を本拠地とする河内源氏2代目の源頼義が、前九年の役での戦勝を祈願した京都の石清水八幡宮護国寺(あるいは河内源氏氏神の壺井八幡宮)を鎌倉の由比郷鶴岡(現材木座1丁目)に鶴岡若宮

ここにも若宮が出現するのです。

どうも近年になり兼務神社となった時なのか、終戦間際のS19年に書かれた「福岡県神社誌」でも誉田尊 とあるものが、今や横並びの応神天皇、比売大神、神功皇后の三神に替わっているのです。

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通常は「神社誌」を引用されるだけでしょうが、我々神社考古学のものはそれで終わりにはしません。

まず、「神社誌」には祭神として誉田とだけ書かれています。「尊」を使うのは「日本書紀」ですので、藤原天皇制成立後の8世紀半ばの表現だろうと考えます。

それは一の殿から三の殿まで、応神、比女大神、神功皇后、応神、宗像三女神、神功皇后で祀る様になるのは後の事で、短期間ですが応神(誉田尊)だけが宇佐八幡宮の初期には祀られていたらしいのです。

これが辛島〜大神比義が宇佐を支配していた時代でしょうが、後に本来の祭神であった宗像三女神(実際には大国主の妃の市杵島姫、豊玉姫の二女神であった可能性もあるのですが…これについては当方のブログでも書いていますが宇佐市安心院の三女神社をお調べください)が加わり、最後に神功皇后が三の門に祀られる様になったのです。

従って、仮に同社が八幡宮だったとしても、誉田尊だけが単独で祀られている(面従腹背かも)事はその短い期間の宇佐の形式が持ち込まれたのではないかと推定が可能になるのです。

ちなみに、隣接する忠見村の正八幡宮(村社)は祭神を應神天皇、氣長足姫、武内宿禰、菅原道真の四柱としています。現在の宇佐八幡宮の祭神とは同一ではありませんが、このような一社三殿三神が後の形式であり一般的なのです。さて、ここから先は百嶋神社考古学を理解する方々にしか切り込めない問題ですが、宇佐八幡宮は近畿大和朝廷と共に立ち上がったものであり、それ以前は唐新羅連合軍を相手に白江戦激突を闘い敗北した九州の王権の神宮(宇佐神宮)だったのです。

そう考えると、俄かに現実味を帯びてくるのが神社誌に記述が残る若宮大明神です。

これを応神天皇の若宮(通説では応神の子が仁徳=オオササギなどとされていますが誤りと言うより阿蘇氏をルーツとする藤原による偽装なのです)などとするのは誤りを越える偽装に近いもので、筑後地方にお住まいの方ならお分かりの通り、久留米の高良大社の高良玉垂命の正当皇統の長子(シレカシノミコト)=藤原が応神の子とした仁徳天皇その人(母は仲哀死後の神功皇后)なのです。

従って、宇佐八幡宮成立以前の最古層には宇佐神宮が垣間見えているのです。

この古代宇佐神宮と新たに押し付けられてきた新参の宇佐八幡宮の圧力の時代に本物の八幡宮の意味で応神を受け入れなかったのが正八幡宮だったのです。

その名を留め、古い若宮神社を守ってきた大籠の正八幡宮には改めて敬意を表するものです。

ひぼろぎ逍遥

280

行橋市の正八幡神社初見

やまちゃんブログ(愛知県の提携グループ)第七十六話 「贈応神天皇」(2)外をご参照ください。

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まず社名です。八幡とは元々は数多い大型の帆を張る古代の外洋高速船の意味で、実質的には必ず逃げ延びるか、追いつかれてしまう海賊船であり、倭寇船もバハン船とかハバン船と呼ばれていたのです。

その痕跡を留めるのが、破磐神社(兵庫県姫路市西脇1598)であり現存しています。

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 16世紀の倭寇の頭目王直の船団      ほぼ同時期のロイヤルネービーアルマダ海戦


八幡とは多くの幡の意であり古代に大きな旗を使ったのは神社の幟と大型帆船以外は無かったのです。

大陸の西の端のブリテン島も、古くはバイキングに席巻されたのですが、後には、スペイン船への海賊行為で名を馳せたキャプテン・ドレークが、最終的に副司令官としてアルマダ海戦でスペイン艦隊を撃破し七つの海を支配する最強国家にのし上がって行ったのです。イギリスとは海賊集団が作った国家です。

一方、古代の東アジアでも初期の権力を支えたのは海上交通権を握る人々であり、その首領の一人こそ博多の櫛田神社の主神の大幡主(カミムスビの神)「古事記」では神産巣日神、「日本書紀」では神皇産霊尊、「出雲国風土記」では神魂命(カモスの命)と呼ばれる造化三神の一人なのです。

彼らは北部九州の天然の良港博多を拠点に、半島、大陸、インドシナ…との交易を行っていたのです。

シンドバットの話まで広げる必要はありませんが、古代史に関わる話としては、インドのアユタヤから伽耶の国へ来たと言われる首露王妃の話も、こうした古代航路の存在があったればこそなのです。

勿論、インド洋を支配していたのは、ダウ船を駆使するインドの商船隊でしたし、インドシナから大陸、列島、半島を股にかけ交易を行っていたのは、広東省、福建省、浙江省(それに平戸、台湾)の倭人でした。

倭寇時代の王直は平戸を根城にしていましたし、後の対明国、対清国への抵抗運動を続けた鄭成功(国姓爺合戦)も平戸松浦藩の松浦水軍の有力者の娘を母にしていたのです。

古代に大量の物資と人員を運べるのは船以外にはありませんでした。

この人々が、古代王権の根幹を支えていたわけであり、どこの馬の骨とも分からぬ応神ごときを受け入れなかったのが博多の櫛田神社の大幡主を奉斎する人々だったのです。

従って、この大籠村で良いのでしょうか、この神社を奉斎した人々には歴史の変遷の中、私には重層的な三つの祭祀の存在その時代が不鮮明ながら浮かんでくるのです。

それは、高良大社の高良玉垂命と仲哀死後の神功皇后を妃として生まれた五人の皇子の長子シレカシノミコト(後の仁徳天皇 普通はオオササギ)こそが筑後にも色濃く残る若宮神社であり、江戸期には神仏混交により若宮大明神と呼ばれたのでした。その後、宇佐の勢力が勢いを増し、仕方なく受け入れたのが多くの八幡社であり、それに抵抗したのが正八幡宮だったのです。この大籠にはその痕跡が見て取れ、渋々誉田尊を受け入れたものの、社名だけにはその痕跡を残した神社の一つが正八幡宮なのです。

その意味から若宮〜現在までを繋ぐ間に存在したのが抵抗を続けた栄えある正八幡神社だったのです。


若宮神社 → 正八幡宮(宇佐八幡宮を受け入れなかった時期) → 正八幡宮として応神を単独で受け入れ


私が若宮にことさら拘る理由は、この神社においては古い祭祀が残されていると感じているからです。

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境内社への参道石段の配置から、これが高良の若宮=仁徳と考えられそうですが、お后を連れて鎮座されています。スキャンダルもあり多くの妃もお持ちでしたが、正妃の磐之媛と考えるの順当で、髪長姫とか黒日売…ではないでしょう。 右は「高良玉垂宮神秘書」から

鏡しか置かれていない本殿に対して境内社に木造があるのは応神を受け入れた結果なのでしょうか?邪魔になった若宮は神殿からは出されたのでしょう。さて、参拝殿正面上の神紋に注目して下さい。

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その痕跡を留めるものが残されていたのです。それはが同社神殿上部に打たれていた五七の桐紋でした。紛うことなき五七の桐紋ですが、では、何故、この紋章が許されているのでしょうか?

それは、呉の太伯の血統をひく高良玉垂命の長子であり、聖帝として知られる正当皇統の天皇であったからなのです。

古い時代には、九七の桐紋が存在した時代もあったのですが、通常、五七の桐紋は天皇家の一族が、三五の桐紋は天皇家と姻戚関係を結んだ一族だけに許されるもので、本来、この紋章に相当する方が祀られていたはずなのです。神功皇后は天皇のお后とされています。仮に仲哀を天皇とすればですが、それでも三五の桐紋に過ぎません(仲哀死後の神功皇后は第9代とされた開化の正妃だったのです)。

応神がいるではないかと言われるでしょうが、彼は別王(ワケ王)であって正当皇統ではない阿蘇氏=藤原氏が呼び込んだ一族です。

そもそも、応神を祀る普通の八幡宮を参拝し五七の桐紋など見たことも聴いたこともないのです。

唯一、可能性があるのは、高良玉垂皇子=開化天皇の直系の若宮こと仁徳以外にはありえないのです。

これだけのことを理解できる人物が、この神社の氏子集団の中におられた事が推定できるのです。

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百嶋由一郎極秘神代系譜(部分)


不十分ながら、初見の未踏の神社を乱暴に概観してみました。

今後、色々な情報が入り、隣接する忠見の正八幡宮の現地リポートなどを加え、多くの知見を併せ再度書く時もあるでしょうが、短期間で書けるのは所詮この程度でしかありません。

今夏、二週間を掛けて三度目の信州、甲斐の神社調査を行ってきました。最終的には山中湖湖畔の友人の別荘で休養し帰路に就いたのですが、グーグルで信濃、甲斐の若宮八幡神社の検索を行いました。

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これは長野県の若宮八幡神社の拾い出しですが、画面に収まりません。16社は数えられますが、実際にはこれ以上拾えます。この傾向は山梨県、新潟県でも顕著で、静岡県では30社近くが拾えます。

九州では筑後地方に痕跡を留める程度にまで消された感のある同社ですが、今後の課題です。

この古代、八女市の中枢部であったと考えられる同地については、元々、源平期から百嶋由一郎氏のご先祖の一族が黒木の支配層として居住されていた土地です。

このため当グループも何かを調べて発表するなどという事は気恥ずかしくてあまり手を付けず、水害などもあったためこの間敬遠してきました。

ただ、我々も百嶋神社考古学との接触から15年近くなり、会の存続と、研究者の確保、データの継承を考えると、この八女の中枢部についてもそろそろ手を着ける必要を感じており、取っ掛かりとしてこの二つ正八幡宮とN事務局長によるガイドで新たなトレッキングを企画したいと相談しています。

まだ、信州、甲斐の調査報告も半ばであり、気もそぞろというところですが、突発的に色々なテーマが出現するものです。


百嶋由一郎が残した神代系譜、講演録音声CD、手書きデータスキャニングDVDを必要な方は09062983254まで

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記