ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1134 研究会とは別に二人で廻った2026年新春三社詣り
“初参拝 地元の参拝者おじさんの可愛いワンコと巡った日田市大山町の烏宿神社”
20260104
太宰府地名研究会(編集員) 古川 清久
以前から参拝したいと思いながらも、500m級の山の頂に在る神社という修験者級の神社故に恐れをなし敬遠して来た神社ですが、元気な若手と言っても参拝だけならばいざ知らず、神社トレッキングとか神社研究には青年が加わるにはどうしても経験が必要で、バリバリの若手が入って来ることは通常ありません。勿論、我々がやっているのは宗教色のない純粋(と言っても通説とは全く異なりますが)、どちらかと言えば過激な神社研究会ですから、どうしても真実を追求する気持ちと根気が必要になるのです。ところが、半年ほど前から知り合いになった50代にしか見えない元気な60代そこそこの女性が近くに住んでおられたのでした。
お話しをお聴きすると、私が昨年も恒例の甲信越の神社調査に入っている時期に高速を駆け貫け、出雲から三保神社を日帰りしたという凄い行動力のある女性だったのです。
一言に出雲往復と言っても、当会の日田の研修所から走っても、山口市が200キロ、益田市で280キロ、出雲市が400キロ、更に松江市の先の美穂ケ関となると、500キロに近づくのです。
その往復なのですから、長距離トラックの運ちゃんでも敬遠しそうな大変ハードな行程になるのです。それほどまでして、何故、そこに行くのかは、まだ良く判りませんが、基本は高速を使わない(料金を払わなくて済むところは利用しますが)、私なら通常は益田までで車中泊ですね。
前置きが長く成り過ぎましたので、烏宿神社に戻りましょう。

烏宿神社 カーナビ検索 大分県日田市大山町西大山5458番地(通称小切畑)
この神社は、ほぼ、山頂と言っても良いような500mに近い場所にあります。
ただ、400m(これは標高の意味ではありません)ほど手前に駐車場が在り、そこから階段と山道を登る事に成るのですが、まあ、なんとか苦しまずに上がれる程度の傾斜で小学校低学年でも元気な子ならば、オンブをねだられずに良い体と根性を鍛えるに絶好の神社と言えるでしょう。
まずはお薦めの一社で、私も腰が引けていただけでもっと早く来れば良かったと思うばかりです。

この掲示板は神社の中腹にあるもので、近くには、奥日田温泉 うめひびき(大分県日田市大山町西大山 4587 番地)があります。
この掲示板まで辿り着けば、車なら後は案内板が設置されており、神社直下の駐車場までは10分とは掛からないのです。丁度、神社に到着した頃ワンコの吠える声が聴こえてきました。参拝者に随行し初詣に付いて来ていたのです。有難くこの地元の方から昔の神社の話を色々お聴きしました。

この神社を意識したのは5〜6年前でしたが、一目、八咫烏を主神として祀る神社であろうと思いました。それは、博多の櫛田神社の大幡主=神産巣日神の実子であり、烏宿神社と言う名称そのものが八咫烏を表しており、日田市自体が豊の国の上に志賀島の海人族が入っている事も明らかだからです。そもそも、我が研修所がある日田市天瀬町自体が、海人(アマ)族の町の意味である上に、大山町、小石原村(現東峰村)と上津江、中津江方面に、大山村からの水も集め、夜明ダムが造られるS28年まで筑後川に日田杉を筏として流し、大宰府政庁、大川市へと流し、船を造り、政庁の寺社建築として送り込んできた事が一目だったからです。

烏宿山山頂から北を望む
何故、八咫烏を祀る神社と考えたかは、多少説明を要します。
まず、博多の櫛田神社の大幡主=カミムスビとは天理教の主神(天理王の神)とも同体であり、その子が豊玉彦=八咫烏なのです。以下、百嶋由一郎最終神代系譜(部分)でご確認ください。

それを証明しているのが、国道(久留米〜日田)から夜明の鉄橋(道路橋)を渡る傍らに志賀海神社が在り、そもそも日田市天瀬町自体が海人族を表している事でも見えて来るのです。
夜明ダムを過ぎ、杷木町から旧朝倉町に入ると、朝倉市の天理教朝倉大教会が在ります。
もうお分かりでしょう。烏が集まる院とは博多の櫛田神社のカミムスビの一族が集まり泊まる場所でもあったのです。
この事を知っていた事から、日田市大山町の烏宿神社も同様だと考えたのでした。
京都の烏丸通、烏丸池は元より、栃木県 那須烏山市(ナスカラスヤマ)、東京都港区新橋(旧烏森
町)と愛知県名古屋市中村区・中川区(烏森町)に存在し、福岡県で言えば福岡市中央区警固の小烏
神社、田川郡糸田町の烏尾峠…など累例はかなりある事から直観が先に体を動かしたのでした。

これらが、八咫烏に関係する地名であるとの確信は堅かったのでした。
ところが、現地に行くと山名は日田ですから烏宿(ウシュク)山と漢音で呼び、神社の名は(カラトマリ)神社と呼ばれ、どうも意図的に変更され偽装の匂いさえ感じたのでした。
学者、教育委員会、学芸員…は通説に靡き自己保身しかしないため信用できませんので、ここでは民間人の祭神を見ておきましょう。
同社 祭神
主祭神:天忍穂耳尊
配 神:武盤建尊(神武天皇)、応神天皇、高良玉垂命(武内宿禰)、菅原道真
様

御祭神 武磐建尊(神武天皇)とありますが、健磐龍命(神武天皇の孫神)の意味と思われます
合志市の矢具神社にも「健磐龍命(玉依姫の御子神)=神武天皇」と書かれていました。
阿蘇神社の一の宮、健磐龍命は、神武天皇説、の真偽はわかりません 何せ神代の話ですから
様
当会のメンバーも書いておられましたので、ご紹介しておきます。
祭神
天忍穂耳尊 武盤建尊(神武天皇) 応神天皇 高良玉垂命(建内宿禰) 菅原道真
(現地案内板より)
鳥宿神社の由来 文武天皇の慶雲2年(紀元705年)役の小角が善瞳鬼と共に紀州熊野から豊前英彦山に巡来して峰を拓き給へ更に当山に来住すること7年、鳥宿山を開拓して神山霊場とした。
寛和元年(紀元985年)日田郡司大蔵永季が社殿を創建した。
永季より16代の郡司大蔵永秀、永隆兄弟が源平の戦いで平家方に捕われた時、五社権現の助けにより難をまぬがれ、大将義経のもとに帰って戦功を建て、凱旋して鳥宿山に社殿を建て、神霊を斎き奉り、大山庄の庄社として崇め祭らせた。
建久5年(紀元1194年)当国太守大友能直が当地に下向の折、三苫若狭に命じて宝殿を再営させた。
応永6年、永正2年の2度に亘って鰐口が奉納され、之は現存して県の重要文化財に指定されている。
天正年間(紀元1580年代)竹田岡城主田北紹鉄が城を築いてたてこもった。
慶長年間(紀元1600年)○○建替、享和3年(紀元1803年)社殿建替、そして昭和4年(紀元1929年)現在の銅板葺社殿に建て替えた。神武天皇の名前が武盤建尊と書いて有りますね!
当会の主要メンバーのS氏の
より
さて、祭神の解析に踏み込みますが、これを見た時、我を疑い一瞬、我が目を疑いました。
まず、天忍穂耳尊=草部吉見(大蔵氏が日田を任された思われる9世紀以降ではなく)が阿蘇高森の日向の高千穂を見下ろす草部地区に拠点を置き、高木大神の次女栲幡千千姫命を妃に貰い受け、事実上のタカミムスビ系への入婿として伸上がった時期辺りのつもりですが、高千穂から久留米高良山更に彦山に本拠地を移す(もしかしたら久留米を除き高千穂と彦山を拠点化していたかも知れません=それは高良山直下の高樹神社の由緒を読むと同地から追放されている様ですので)、時期の事です。以下、少し見辛いのですが、百嶋由一郎「阿蘇ご一家」神代系譜をご覧ください。

百嶋由一郎阿蘇御一家神代系譜(部分)
詳しくは当方の関連ブログを探して頂きたいのですが、簡略化して言えば、本物の初代神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)=勿論、ハツクニシラススメラミコトではない神武僭称贈る崇神(藤原が第9代とした)の本物の御后=吾平津姫(宮崎県日南市油津)で金山彦の長女は、神武の子で後の第4代威徳天皇を産んだ後、子育て中に神武が神武巡行(神武東征は開化天皇=高良玉垂命の指揮下で崇神が開化の腹違いの兄大彦が行った四道将軍)に旅立った事から不和となり、タカオカミこと金凝彦に夫を換え生まれたのが健磐龍だったのです。この事は阿蘇宮司家も十分承知しているはずなのです。つまり、第4代威徳と健磐龍は吾平津姫に育てられた可能性が有るのです。
ちなみにこの神沼河耳は阿蘇神社の最奥神殿に現在も祀られています(禰宜でも宮司でもそう説明します)。一方、吾平津姫は蒲池姫と名を変え、不知火海に面した郡浦神社の主神として祀られています。重ねてこの金凝彦と吾平津姫との間に生れたのが、現在の阿蘇神社の主神健磐龍なのです。
ただ日本的理解からすると、天皇の御后つまり皇后(廃后)を貰い受けたからと言って、それが本物の神武天皇とするなどどのように考えてもイカサマか単なる勘違いか、悪意ある皇統の簒奪でしかないため、この様な不誠実な事は日本人的な感性とは異なるとしか思えないのです。
この様な事を行うのは、阿蘇氏でも草部吉見(健磐龍の腹違いの兄で後の藤原の祖)に取り入り事実上の九州の副都とも言えそうな日田の植民地総督の様な存在となった大原八幡宮の一族=大蔵氏でしか有りえない様に思うのです。そして、実は大蔵氏も後漢の霊帝の末裔の亡命者なのです。
繰り返し重複に成りますが、(現地案内板より)事代主のブログより…
鳥宿神社の由来
文武天皇の慶雲2年(紀元705年)役の小角が善瞳鬼と共に
紀州熊野から豊前英彦山に巡来して峰を拓き給へ更に当山に来住すること7年、
鳥宿山を開拓して神山霊場とした。
寛和元年(紀元985年)日田郡司大蔵永季が社殿を創建した。
永季より16代の郡司大蔵永秀、永隆兄弟が源平の戦いで平家方に捕われた時、五社権現の助けにより難をまぬがれ、大将義経のもとに帰って戦功を建て、凱旋して鳥宿山に社殿を建て、神霊を斎き奉り、大山庄の庄社として崇め祭らせた。
建久5年(紀元1194年)当国太守大友能直が当地に下向の折、三苫若狭に命じて宝殿を再営させた。
応永6年、永正2年の2度に亘って鰐口が奉納され、之は現存して県の重要文化財に指定されている。
天正年間(紀元1580年代)竹田岡城主田北紹鉄が城を築いてたてこもった。
慶長年間(紀元1600年)○○建替、享和3年(紀元1803年)社殿建替、
そして昭和4年(紀元1929年)現在の銅板葺社殿に建て替えた。
そもそも白江戦=白村江戦で大敗北を喫した倭国=九州王朝は、防衛しやすい日田に臨時首都を置いていた可能性が高く、豊国主とも豊玉彦とも呼ばれた八咫烏の末裔がその時代にも活動していたはずなのです。元は、高良玉垂命が祀られており(お妃は仲哀死後の神功皇后)…「高良玉垂宮神秘書」をお読みください…。九州王朝が滅んだ後は阿蘇氏=藤原がやりたい放題状態になり、日田にも元々大原、元大原から応神が持ち込まれる事にもなったのです。この構造は宇佐神宮に鷹居八幡神社から持ち込まれた事と全く同じ構造なのです。その意味でも消せなかったのが高良玉垂命(建内宿禰では勿論ない)であり日田市の中心部に玉川町が在り(子の豊玉彦の意味)、近くには玉垂神社と黒男神社が別社、別神として存在しているのです。ご不審に思われる方は是非現地をご確認下さい。
武盤建尊(神武天皇)応神天皇高良玉垂命(建内宿禰)菅原道真
当然にも、阿蘇氏に取り入り日田代官職を得たのですから健磐龍を神武天皇だ ぐらいは大蔵氏は言うのでしょうが、それが真実なら八咫烏の像が何故置かれているかが全く分からなくなるのです。
カミムスビの子である八咫烏を嫌っている阿蘇氏の事を知るが故
に大蔵氏が胡麻を摺ったのか、阿蘇氏主導で従っただけなのかは分かりませんが、どちらにせよ大して差は無いはずです。
そう考えるのは、それなりの知見を持つからです。その前に、まず以下をお読みください。
20年ほど前に元々あった金の烏像は盗まれたそうです。それもワンコの飼い主からお聴きしました。
白江戦を倭国の総力を揚げて闘ったのは天武天皇の父親で(本拠地は宗像から太宰府一帯)、それを引き継いだのが天武天皇だったのですが(佃収九州王朝説)、恐らく阿蘇氏、高木大神、天智系の裏切りによって、800隻の軍船の半数が撃滅され、不思議と400隻は逃げ帰っているのです(中小路駿逸説)。
この九州王朝の敗戦の結果、天武帝は本拠地を安全な奈良に移すのですが、それは7世紀以降の話
であって、唐新羅連合軍に敗残した結果、太宰府が占領され(恐らく久留米も?)、その百済領占領軍の武官鎮将劉仁願に送り込まれた文官の郭務悰の支配工作を受ける時代に成ると、その後の九州王朝後の近畿大和朝廷の支配を受ける事になったのです。その後、その代理人として送り込まれたのが、日下部氏=彦坐王(開化の子とされていますが、それは「名目的な意味です」と言ったのも故百嶋由一郎でした)その彦坐王(ナガスネヒコの妹オキツヨソタラシと草部吉見の子)から日田を後漢の霊帝の一族が継承したのです。それが、大蔵氏、財津氏であり、詳しく知りたい方は下の辺りから読み始めた方が分かり易いでしょう。
ひぼろぎ逍遥(跡宮)
697 物部の大原足尼命を祀る日田の大原八幡神社とは何か?
696 日田の大原八幡神社も物部の神社だった “大分県日田市の大原八幡宮を疑い再考へと”
695 大原八幡神社は物部の神社だった “福岡県みやこ町の大原八幡神社”
694 大原八幡神社は物部の神社だった “福岡県苅田町の大原八幡神社”
この大蔵氏に象徴される一族は、皆さん良くご存じの漢帝国の初代劉邦の後裔氏族で、王莽の「新」を挟む前漢〜後漢に跨る王朝で、所謂中国本土を支配した漢族そのものの政権だったのです。
実質、漢族と言われるのはこの辺りまでの人々であって、その後の、魏、呉、蜀の辺りに成ると、
北方系騎馬民族に追い立てられ、実質的には異民族とも言うべき、隋、唐(こいつらは半島から遼寧省から東北部に展開していた実質は鮮卑族)なのです(連動して日本語の呉音漢音も変化した)。
その最後らしい漢族も、とうとう列島に亡命しているのです。
それは、後漢も霊帝(第12代)の時代に成ると、宦官の十常時に皇位継承の決定権迄奪われ、半島経由で列島に移動するしか無くなってしまったのでした。
この一族は、多くの臣民を率いて入っているため、別姓を名乗っているケースが多く、その中心的氏族には、田尻、原田、秋月、笠、龍、坂上に前述の大蔵、財津、阿智、伊東(?)…と多くの名を使いつつ姻戚関係を深めており、かなりの有力な氏族に成っているのです。
有名なのが、「男はつらいよ」に登場した帝釈天の御前様役として知られる笠智衆さんです。この方もこれも初代劉邦の劉氏を置き換えた姓なのです。同様に、鳥栖、基山方面に多い龍も同様の置き替えであることは一目なのです。笠智衆の場合は熊本県玉名市の旧小天町の某浄土真宗系(本願寺派)の跡継ぎだったのですが、どうしても映画界に進む事を諦めきらず、松竹の俳優に成ったのでした。
この阿智王の話を知ったのは、熊本県庁の東隣で建築会社を営んでおられた田尻様に劉邦以来100代の系譜を見せて頂き、熊本市の西の金峰山中腹に劉邦、霊帝、阿智王の廟を建てられている事も知り、何度かトレッキングを重ねたことがあったのでした。
一度、田尻様の御本家に呼ばれたことがありましたが、その裏手の崖の上に笠智衆の旦那寺が在り、正しく同族である事が良く分かったのでした。
実際、久留米市内にも「笠」姓が異常に多く、若しかしたら劉氏の一族ではないかと思っていたのですが、これについてはクリーン・ヒットだった訳です。一方、日田市の大原八幡宮に目を移すと、神社研究者としては絶対に許すことのできない祭神の入れ替え、偽装、隠蔽が目に余り、九州王朝を抑え込むために、大蔵の一族が近畿大和朝廷の先兵=植民地総督として振舞っていた事が鮮明になったのでした。
彼らは、元々の祭神が何であろうと一切ためらいが無く、応神天皇を積極的に受け入れ、阿蘇氏
藤原氏の指揮下に入るのです。
朝倉市の三奈木神社と南の平野部の林田の三奈木神社の祭神が全く異なるのも、山の三奈木神社一帯が後に大蔵氏の支配下に入っているからだろうと考えています。
もう紙面が在りませんので関心をお持ちになる方は前述した先行ブログ辺りからお読みください。
この社を大蔵氏が建てたとしても、それは元々あった神社を再建したのであって、その基底部には八咫烏や高良玉垂命への祭祀がそもそも存在していたのです。そうでなければ、烏が置かれるはずがないのです。
恐らく大蔵氏はこれらの祭祀の影を消したかったはずなのです。しかし、残さざるを得なかったのです。
こちらも情報を求めていますので誤りの指摘も含め何かお気づきの点は090-6298−3254までご連絡下さい。


にお読み頂き有難いと思っています。






















![image[2].png](http://chimei.sakura.ne.jp/sblo_files/hiborogi/image/image5B25D.png)