太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2017年04月17日

325 白人神社とは何か? “那賀郡那賀町拝宮の白人神社”

325 白人神社とは何か? “那賀郡那賀町拝宮の白人神社”

20161008

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

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四国の屋根とも言うべき剣山の南麓に白人神社という神社があります。

徳島県美馬市穴吹町にも白人神社がありこちらはどうどうたる神社ですが、今回とりあげるのは秘境中の秘境の山上集落に鎮座する非常に印象的な小社です。

徳島市の南、阿南市に注ぐ那賀川を遡り、現在嵩上げ工事中の長安口ダムのダムサイトを越え5〜6キロ奥に入った日真地区から北に入る山道を上り詰めた辺りにあるのがこの神社です。

 ほぼ離合が不可能と思える急傾斜の曲がりくねった隘路を数キロ上り詰めると標高500メートル辺りに山上集落が現れます。と言っても目に入るのは数戸の人家のみです。

それらを確認する余裕もないまま、さらに登ると川沿いに社殿らしきものが見えてきます。

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 白人神社とは一体なんだ?というのが最初の印象でした。

 まず考えられることは、新羅系の神が奉祭されているのではないかということでしたが、当たらずとも遠からずでした。

 邇邇芸命は高木大神の息子ですから、高木大神の本拠地である古霊(コリョン)は新羅の大邱に近い伽耶ですから新羅とも言えそうな場所であり、邇邇芸命は白人と言えない事もないのです。

 ここでは、剣山北麓の白人神社関連数社を見ていない段階での判断は早とちりになりかねない事から一旦保留し、摂社と思われる八幡神社、若宮神社に目を向けることにしましょう。

 既に、四国の高良神社15社に関しては全て実調しリポートを公開していますが、それに付随し若宮神社も散見される事に気付いていました。

 特に、讃岐、阿波では若宮神社が単独でもあるようで、四国でのフィールド・ワークを重ねるにつれ、これらが久留米の高良大社の高良玉垂命と神功皇后との間に産れた嫡子=斯礼賀志命(シレカシノミコト)=仁徳天皇=大雀命を祀るものであることは間違いないと思う様になってきました。

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清流に浮かぶといった面持の美しい神社でした。

道さえよければ再訪したいと思いますが、正直言って命からがらといったところで、スズキのジムニーなど軽の四駆でもなければ入らない方が無難かも知れません。

 ただ、感動的な一社でした。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 11:32| Comment(0) | 日記

2017年04月13日

324 鈍川温泉の石折神社 “鈍(ニブ)川の鈍(ニブ)とは丹生(ニュウ)のこと

324 鈍川温泉の石折神社 “鈍(ニブ)川の鈍(ニブ)とは丹生(ニュウ)のこと

ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)共通掲載

20161008

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

未踏だった南阿波〜東土佐を対象に四国の神社調査に入りましたが、実は高知市の西にある佐川町の一社を見に行く事が今回の最大のテーマでした。

その神社の報告は後に回すとして、佐川町から千メートル級の山を越え伊予市、松山市に戻りました。

往きは児島〜坂出ルートでしたが、複りは今治〜尾道ルートという事になります。

車が少なくなって移動する事から、時間調整もあり、神社を見たり温泉に入るなりすることになるのですが、道後温泉の喧騒を避け奥道後温泉から高縄半島の東側今治に入り鈍川温泉に向かいました。

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石折神社 カーナビ検索 愛媛県今治市玉川町鈍川サルガヲ甲151

 まず、丹生(ニュウ)地名に関心をお持ちの方には直ぐにお分かりになると思いますが、水銀採取集団が残した地名としての丹生、根雨、爾布…の一つが鈍川なのです。

その証拠に、鈍川は丹生川と表記されていたと言いますし、壬布川が流れ下った隣の西条市にも丹原という地名が拾えるのです。

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ともあれ、この地にも水銀採取で賑わった時代が存在した事がうかがい知れたのでした。

 当然にも、この石折(イサク)神社にもその手の神様がおられるのではないかと、雨が降り始めた中、足早に参拝に及んだのでした。

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さて、この神社の祭神です。

まず、鈍川温泉の入口に鎮座している事から丹生津姫(イザナミとイザナギとの間に産れた闇淤加美=神俣姫)が祀られているのではないかと考えたのですが違っていました。

しかし、全くの外れと言う訳でもありません。製鉄の神様でした。いつも触れる事ですが、製鉄神があると付近には鬼○地名が良く発見できるのですが、ここにも鬼原地名があります。

栃木県の磐裂根裂神社などに代表されるイワサク+ネサクの神=埴安姫+金山彦だったのです。

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同社縁起

ご覧の通りですが、主祭神の石筒男神の実体は不明です。多分、大山祗命だと思うのですが、決め手に欠けます。一応、HP「玄松子」氏によれば、


伊邪那岐は、伊邪那美が火の神・迦具土神を生んだ際に、 陰所を焼いて死んでしまったのを哀しみ怒り、 十拳剣(長い剣)を抜いて迦具土神を斬り殺してしまう。 この時、剣についた血が湯津石村に走り付いて神々が化生する。

『古事記』では、剣の鋒端(さき)についた血から石拆・根拆・石筒之男の三神、 剣の鐔(つば)際についた血から甕速日(みかはやび)・樋速日(ひはやび)・建御雷(またの名を建布都神)の三神、 刀の柄に溜った血が指の股から漏れてあらわれた闇淤加美(くらおかみ)・闇御津羽(くらみつは)の二神、 計八神が十拳剣によって生れた。


となるのですが、実体はこれによっても掴めないのです。

客人神社は、出雲大社の客人=ウマシアシカビヒコチか?と考えたのですが、どうもそうでもないようです。そうすると、五男神とされているのは、天照とスサノウの子産比べで出てきた五男神を何故客人として別殿に祀る必要性があったのかが分からないのです。

 七車中泊八日121900キロメートルという調査旅行でしたが、初見の神社ばかりで興味深い旅となりました。

最後に百嶋由一郎「最終神代系譜」と「阿蘇ご一家系譜」から丹生津姫、主祭神を確認しておきましょう。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 14:11| Comment(0) | 日記

2017年04月10日

323 玖珂の斎宮神社の倭姫命 

323 玖珂の斎宮神社の倭姫命 

ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)共通掲載

20161005

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

南阿波〜東土佐の神社調査の帰路、国道2号線で広島〜岩国〜周南へと移動していると、右手に気になる神社があり訪問させて頂きました。

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鳥居には神額がなく、所謂、顔の見えない神社かと思いましたが、何と驚くことに斎宮神社それも倭姫命を主神として祀る神社だったのです。

まず、斎宮ですが、ウィキペディア氏(20161005 18:20は、「斎宮(さいぐう/さいくう/いつきのみや/いわいのみや)は古代から南北朝時代にかけて、伊勢神宮に奉仕した斎王の御所(現在の斎宮跡)であるが、平安時代以降は賀茂神社の斎王(斎院)と区別するため、斎王のことも指した。後者は伊勢斎王や伊勢斎宮とも称する」「『日本書紀』崇神天皇紀によれば、崇神天皇が皇女豊鍬入姫命に命じて宮中に祭られていた天照大神を大和国の笠縫邑に祭らせたとあり、これが斎王(斎宮)の始まりとされる。そして次の垂仁天皇の時代、豊鍬入姫の姪にあたる皇女倭姫命が各地を巡行し伊勢国に辿りつき、そこに天照大神を祭った。この時のことを『日本書紀』垂仁天皇紀は「斎宮(いはいのみや)を五十鈴の川上に興(た)つ。是を磯宮(いそのみや)と謂ふ」と記し、これが斎王の忌み籠る宮、即ち後の斎宮御所の原型であったと推測される。また垂仁天皇紀は「天皇、倭姫命を以って御杖(みつえ)として、天照大神に貢奉(たてまつ)りたまふ」とも述べ、以後斎王は天皇の代替わり毎に置かれて天照大神の「御杖代(みつえしろ、神の意を受ける依代)」として伊勢神宮に奉仕したといい(ただし史料上は必ず置かれたかどうかは不明で、任期などもそれほど明確ではない)、用明天皇朝を契機に一時途絶えたが、天武天皇の時代に正式に制度として確立し(『扶桑略記』は天武天皇が壬申の乱の戦勝祈願の礼として伊勢神宮に自らの皇女大来皇女を捧げたのが初代とする)、以後は天皇の代替わり毎に必ず新しい斎王が選ばれ、南北朝時代まで続く制度となった」


と書いておられます

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同社由緒

この神社に驚いた理由は、以下の通りです。

@  伊勢神宮(天照大御神)の鎮座地を求めてさまよい歩いたとされる倭姫命を祀る神社は、唯一、佐賀県の嬉野市(旧塩田町)の味島神社だけ(伊勢神宮内の一社は近世のものである)であると理解していたのです。

A  また、この九州王朝の重要な領域であり古代官道とも重なる2号線沿いの玖珂の同地に鎮座していた事にも驚いています。

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味島神社(嬉野市塩田町谷所)


鳥坂の鳥附城があった山の南の山麓に倭姫命を祭神とする味島神社があります。神社の由緒等詳かではないのですが、大正五年毛利代三郎編「塩田郷土誌」によれば「仁明天皇承和年間(八三四〜八四八)新に神領を下し社殿を建立した」                           (旧塩田町史)

同社の由緒は非常に興味深いのですが、とりあえず創立が大同年間(九世紀初頭)とされており、味島神社の創立より古いため考えさせられます。

 ここでは結論を急がず、倭姫命を祀る神社が存在している事を確認するに留めます。

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境内より2号線方向を望む

倭姫命に関しては、ひぼろぎ逍遥 012 日本で一つ、主神として倭姫命を祀る神社 で触れていますのでお読み下さい。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 14:00| Comment(0) | 日記