2026年07月09日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1134 研究会とは別に二人で廻った2026年新春三社詣り “初参拝 地元の参拝者おじさんの可愛いワンコと巡った日田市大山町の烏宿神社”

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1134 研究会とは別に二人で廻った2026年新春三社詣り

初参拝 地元の参拝者おじさんの可愛いワンコと巡った日田市大山町の烏宿神社

        20260104

 太宰府地名研究会(編集員) 古川 清久


 以前から参拝したいと思いながらも、500m級の山の頂に在る神社という修験者級の神社故に恐れをなし敬遠して来た神社ですが、元気な若手と言っても参拝だけならばいざ知らず、神社トレッキングとか神社研究には青年が加わるにはどうしても経験が必要で、バリバリの若手が入って来ることは通常ありません。勿論、我々がやっているのは宗教色のない純粋(と言っても通説とは全く異なりますが)、どちらかと言えば過激な神社研究会ですから、どうしても真実を追求する気持ちと根気が必要になるのです。ところが、半年ほど前から知り合いになった50代にしか見えない元気な60代そこそこの女性が近くに住んでおられたのでした。

 お話しをお聴きすると、私が昨年も恒例の甲信越の神社調査に入っている時期に高速を駆け貫け、出雲から三保神社を日帰りしたという凄い行動力のある女性だったのです。

 一言に出雲往復と言っても、当会の日田の研修所から走っても、山口市が200キロ、益田市で280キロ、出雲市が400キロ、更に松江市の先の美穂ケ関となると、500キロに近づくのです。

その往復なのですから、長距離トラックの運ちゃんでも敬遠しそうな大変ハードな行程になるのです。それほどまでして、何故、そこに行くのかは、まだ良く判りませんが、基本は高速を使わない(料金を払わなくて済むところは利用しますが)、私なら通常は益田までで車中泊ですね。

 前置きが長く成り過ぎましたので、烏宿神社に戻りましょう。

無題.png

烏宿神社 カーナビ検索 大分県日田市大山町西大山5458番地(通称小切畑)


この神社は、ほぼ、山頂と言っても良いような500mに近い場所にあります。

ただ、400m(これは標高の意味ではありません)ほど手前に駐車場が在り、そこから階段と山道を登る事に成るのですが、まあ、なんとか苦しまずに上がれる程度の傾斜で小学校低学年でも元気な子ならば、オンブをねだられずに良い体と根性を鍛えるに絶好の神社と言えるでしょう。

まずはお薦めの一社で、私も腰が引けていただけでもっと早く来れば良かったと思うばかりです。

無題.png

この掲示板は神社の中腹にあるもので、近くには、奥日田温泉 うめひびき(大分県日田市大山町西大山 4587 番地)があります。

この掲示板まで辿り着けば、車なら後は案内板が設置されており、神社直下の駐車場までは10分とは掛からないのです。丁度、神社に到着した頃ワンコの吠える声が聴こえてきました。参拝者に随行し初詣に付いて来ていたのです。有難くこの地元の方から昔の神社の話を色々お聴きしました。

無題.png

この神社を意識したのは56年前でしたが、一目、八咫烏を主神として祀る神社であろうと思いました。それは、博多の櫛田神社の大幡主=神産巣日神の実子であり、烏宿神社と言う名称そのものが八咫烏を表しており、日田市自体が豊の国の上に志賀島の海人族が入っている事も明らかだからです。そもそも、我が研修所がある日田市天瀬町自体が、海人(アマ)族の町の意味である上に、大山町、小石原村(現東峰村)と上津江、中津江方面に、大山村からの水も集め、夜明ダムが造られるS28年まで筑後川に日田杉を筏として流し、大宰府政庁、大川市へと流し、船を造り、政庁の寺社建築として送り込んできた事が一目だったからです。

無題.png

烏宿山山頂から北を望む


 何故、八咫烏を祀る神社と考えたかは、多少説明を要します。

まず、博多の櫛田神社の大幡主=カミムスビとは天理教の主神(天理王の神)とも同体であり、その子が豊玉彦=八咫烏なのです。以下、百嶋由一郎最終神代系譜(部分)でご確認ください。

無題.png

それを証明しているのが、国道(久留米〜日田)から夜明の鉄橋(道路橋)を渡る傍らに志賀海神社が在り、そもそも日田市天瀬町自体が海人族を表している事でも見えて来るのです。

 夜明ダムを過ぎ、杷木町から旧朝倉町に入ると、朝倉市の天理教朝倉大教会が在ります。

 もうお分かりでしょう。烏が集まる院とは博多の櫛田神社のカミムスビの一族が集まり泊まる場所でもあったのです。

この事を知っていた事から、日田市大山町の烏宿神社も同様だと考えたのでした。

 京都の烏丸通、烏丸池は元より、栃木県 那須烏山市(ナスカラスヤマ)、東京都港区新橋(旧烏森

町)と愛知県名古屋市中村区・中川区(烏森町)に存在し、福岡県で言えば福岡市中央区警固の小烏

神社、田川郡糸田町の烏尾峠…など累例はかなりある事から直観が先に体を動かしたのでした。

無題.png

これらが、八咫烏に関係する地名であるとの確信は堅かったのでした。

 ところが、現地に行くと山名は日田ですから烏宿(ウシュク)山と漢音で呼び、神社の名は(カラトマリ)神社と呼ばれ、どうも意図的に変更され偽装の匂いさえ感じたのでした。

 学者、教育委員会、学芸員…は通説に靡き自己保身しかしないため信用できませんので、ここでは民間人の祭神を見ておきましょう。


 同社 祭神

主祭神:天忍穂耳尊

配 神:武盤建尊(神武天皇)、応神天皇、高良玉垂命(武内宿禰)、菅原道真    無題.png

無題.png

御祭神 武磐建尊(神武天皇)とありますが、健磐龍命(神武天皇の孫神)の意味と思われます

合志市の矢具神社にも「健磐龍命(玉依姫の御子神)=神武天皇」と書かれていました。

阿蘇神社の一の宮、健磐龍命は、神武天皇説、の真偽はわかりません 何せ神代の話ですから

無題.png

 当会のメンバーも書いておられましたので、ご紹介しておきます。

祭神

天忍穂耳尊 武盤建尊(神武天皇) 応神天皇 高良玉垂命(建内宿禰) 菅原道真

(現地案内板より)

鳥宿神社の由来 文武天皇の慶雲2年(紀元705年)役の小角が善瞳鬼と共に紀州熊野から豊前英彦山に巡来して峰を拓き給へ更に当山に来住すること7年、鳥宿山を開拓して神山霊場とした。

寛和元年(紀元985年)日田郡司大蔵永季が社殿を創建した。

永季より16代の郡司大蔵永秀、永隆兄弟が源平の戦いで平家方に捕われた時、五社権現の助けにより難をまぬがれ、大将義経のもとに帰って戦功を建て、凱旋して鳥宿山に社殿を建て、神霊を斎き奉り、大山庄の庄社として崇め祭らせた。

建久5年(紀元1194年)当国太守大友能直が当地に下向の折、三苫若狭に命じて宝殿を再営させた。

応永6年、永正2年の2度に亘って鰐口が奉納され、之は現存して県の重要文化財に指定されている。

天正年間(紀元1580年代)竹田岡城主田北紹鉄が城を築いてたてこもった。

慶長年間(紀元1600年)○○建替、享和3年(紀元1803年)社殿建替、そして昭和4年(紀元1929年)現在の銅板葺社殿に建て替えた。神武天皇の名前が武盤建尊と書いて有りますね!

当会の主要メンバーのS氏の 無題.pngより


 さて、祭神の解析に踏み込みますが、これを見た時、我を疑い一瞬、我が目を疑いました。

 まず、天忍穂耳尊=草部吉見(大蔵氏が日田を任された思われる9世紀以降ではなく)が阿蘇高森の日向の高千穂を見下ろす草部地区に拠点を置き、高木大神の次女栲幡千千姫命を妃に貰い受け、事実上のタカミムスビ系への入婿として伸上がった時期辺りのつもりですが、高千穂から久留米高良山更に彦山に本拠地を移す(もしかしたら久留米を除き高千穂と彦山を拠点化していたかも知れません=それは高良山直下の高樹神社の由緒を読むと同地から追放されている様ですので)、時期の事です。以下、少し見辛いのですが、百嶋由一郎「阿蘇ご一家」神代系譜をご覧ください。

無題.png

百嶋由一郎阿蘇御一家神代系譜(部分)


 詳しくは当方の関連ブログを探して頂きたいのですが、簡略化して言えば、本物の初代神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)=勿論、ハツクニシラススメラミコトではない神武僭称贈る崇神(藤原が第9代とした)の本物の御后=吾平津姫(宮崎県日南市油津)で金山彦の長女は、神武の子で後の第4代威徳天皇を産んだ後、子育て中に神武が神武巡行(神武東征は開化天皇=高良玉垂命の指揮下で崇神が開化の腹違いの兄大彦が行った四道将軍)に旅立った事から不和となり、タカオカミこと金凝彦に夫を換え生まれたのが健磐龍だったのです。この事は阿蘇宮司家も十分承知しているはずなのです。つまり、第4代威徳と健磐龍は吾平津姫に育てられた可能性が有るのです。

 ちなみにこの神沼河耳は阿蘇神社の最奥神殿に現在も祀られています(禰宜でも宮司でもそう説明します)。一方、吾平津姫は蒲池姫と名を変え、不知火海に面した郡浦神社の主神として祀られています。重ねてこの金凝彦と吾平津姫との間に生れたのが、現在の阿蘇神社の主神健磐龍なのです。

 ただ日本的理解からすると、天皇の御后つまり皇后(廃后)を貰い受けたからと言って、それが本物の神武天皇とするなどどのように考えてもイカサマか単なる勘違いか、悪意ある皇統の簒奪でしかないため、この様な不誠実な事は日本人的な感性とは異なるとしか思えないのです。

 この様な事を行うのは、阿蘇氏でも草部吉見(健磐龍の腹違いの兄で後の藤原の祖)に取り入り事実上の九州の副都とも言えそうな日田の植民地総督の様な存在となった大原八幡宮の一族=大蔵氏でしか有りえない様に思うのです。そして、実は大蔵氏も後漢の霊帝の末裔の亡命者なのです。

繰り返し重複に成りますが、(現地案内板より)事代主のブログより…


鳥宿神社の由来

文武天皇の慶雲2年(紀元705年)役の小角が善瞳鬼と共に

紀州熊野から豊前英彦山に巡来して峰を拓き給へ更に当山に来住すること7年、

鳥宿山を開拓して神山霊場とした。

寛和元年(紀元985年)日田郡司大蔵永季が社殿を創建した。

永季より16代の郡司大蔵永秀、永隆兄弟が源平の戦いで平家方に捕われた時、五社権現の助けにより難をまぬがれ、大将義経のもとに帰って戦功を建て、凱旋して鳥宿山に社殿を建て、神霊を斎き奉り、大山庄の庄社として崇め祭らせた。

建久5年(紀元1194年)当国太守大友能直が当地に下向の折、三苫若狭に命じて宝殿を再営させた。

応永6年、永正2年の2度に亘って鰐口が奉納され、之は現存して県の重要文化財に指定されている。

天正年間(紀元1580年代)竹田岡城主田北紹鉄が城を築いてたてこもった。

慶長年間(紀元1600年)○○建替、享和3年(紀元1803年)社殿建替、

そして昭和4年(紀元1929年)現在の銅板葺社殿に建て替えた。


 そもそも白江戦=白村江戦で大敗北を喫した倭国=九州王朝は、防衛しやすい日田に臨時首都を置いていた可能性が高く、豊国主とも豊玉彦とも呼ばれた八咫烏の末裔がその時代にも活動していたはずなのです。元は、高良玉垂命が祀られており(お妃は仲哀死後の神功皇后)…「高良玉垂宮神秘書」をお読みください…。九州王朝が滅んだ後は阿蘇氏=藤原がやりたい放題状態になり、日田にも元々大原、元大原から応神が持ち込まれる事にもなったのです。この構造は宇佐神宮に鷹居八幡神社から持ち込まれた事と全く同じ構造なのです。その意味でも消せなかったのが高良玉垂命(建内宿禰では勿論ない)であり日田市の中心部に玉川町が在り(子の豊玉彦の意味)、近くには玉垂神社と黒男神社が別社、別神として存在しているのです。ご不審に思われる方は是非現地をご確認下さい。

武盤建尊(神武天皇)応神天皇高良玉垂命(建内宿禰)菅原道真

 無題.png当然にも、阿蘇氏に取り入り日田代官職を得たのですから健磐龍を神武天皇だ ぐらいは大蔵氏は言うのでしょうが、それが真実なら八咫烏の像が何故置かれているかが全く分からなくなるのです。

カミムスビの子である八咫烏を嫌っている阿蘇氏の事を知るが故無題.pngに大蔵氏が胡麻を摺ったのか、阿蘇氏主導で従っただけなのかは分かりませんが、どちらにせよ大して差は無いはずです。

 そう考えるのは、それなりの知見を持つからです。その前に、まず以下をお読みください。

 20年ほど前に元々あった金の烏像は盗まれたそうです。それもワンコの飼い主からお聴きしました。

白江戦を倭国の総力を揚げて闘ったのは天武天皇の父親で(本拠地は宗像から太宰府一帯)、それを引き継いだのが天武天皇だったのですが(佃収九州王朝説)、恐らく阿蘇氏、高木大神、天智系の裏切りによって、800隻の軍船の半数が撃滅され、不思議と400隻は逃げ帰っているのです(中小路駿逸説)。

この九州王朝の敗戦の結果、天武帝は本拠地を安全な奈良に移すのですが、それは7世紀以降の話

であって、唐新羅連合軍に敗残した結果、太宰府が占領され(恐らく久留米も?)、その百済領占領軍の武官鎮将劉仁願に送り込まれた文官の郭務悰の支配工作を受ける時代に成ると、その後の九州王朝後の近畿大和朝廷の支配を受ける事になったのです。その後、その代理人として送り込まれたのが、日下部氏=彦坐王(開化の子とされていますが、それは「名目的な意味です」と言ったのも故百嶋由一郎でした)その彦坐王(ナガスネヒコの妹オキツヨソタラシと草部吉見の子)から日田を後漢の霊帝の一族が継承したのです。それが、大蔵氏、財津氏であり、詳しく知りたい方は下の辺りから読み始めた方が分かり易いでしょう。

 ひぼろぎ逍遥(跡宮)

697   物部の大原足尼命を祀る日田の大原八幡神社とは何か?

696   日田の大原八幡神社も物部の神社だった “大分県日田市の大原八幡宮を疑い再考へと”

695   大原八幡神社は物部の神社だった “福岡県みやこ町の大原八幡神社”

694   大原八幡神社は物部の神社だった “福岡県苅田町の大原八幡神社”

 この大蔵氏に象徴される一族は、皆さん良くご存じの漢帝国の初代劉邦の後裔氏族で、王莽の「新」を挟む前漢〜後漢に跨る王朝で、所謂中国本土を支配した漢族そのものの政権だったのです。

 実質、漢族と言われるのはこの辺りまでの人々であって、その後の、魏、呉、蜀の辺りに成ると、

北方系騎馬民族に追い立てられ、実質的には異民族とも言うべき、隋、唐(こいつらは半島から遼寧省から東北部に展開していた実質は鮮卑族)なのです(連動して日本語の呉音漢音も変化した)。

無題.pngその最後らしい漢族も、とうとう列島に亡命しているのです。

それは、後漢も霊帝(第12代)の時代に成ると、宦官の十常時に皇位継承の決定権迄奪われ、半島経由で列島に移動するしか無くなってしまったのでした。

 この一族は、多くの臣民を率いて入っているため、別姓を名乗っているケースが多く、その中心的氏族には、田尻、原田、秋月、笠、龍、坂上に前述の大蔵、財津、阿智、伊東(?)…と多くの名を使いつつ姻戚関係を深めており、かなりの有力な氏族に成っているのです。

 有名なのが、「男はつらいよ」に登場した帝釈天の御前様役として知られる笠智衆さんです。この方もこれも初代劉邦の劉氏を置き換えた姓なのです。同様に、鳥栖、基山方面に多い龍も同様の置き替えであることは一目なのです。笠智衆の場合は熊本県玉名市の旧小天町の某浄土真宗系(本願寺派)の跡継ぎだったのですが、どうしても映画界に進む事を諦めきらず、松竹の俳優に成ったのでした。

 この阿智王の話を知ったのは、熊本県庁の東隣で建築会社を営んでおられた田尻様に劉邦以来100代の系譜を見せて頂き、熊本市の西の金峰山中腹に劉邦、霊帝、阿智王の廟を建てられている事も知り、何度かトレッキングを重ねたことがあったのでした。

 一度、田尻様の御本家に呼ばれたことがありましたが、その裏手の崖の上に笠智衆の旦那寺が在り、正しく同族である事が良く分かったのでした。

実際、久留米市内にも「笠」姓が異常に多く、若しかしたら劉氏の一族ではないかと思っていたのですが、これについてはクリーン・ヒットだった訳です。一方、日田市の大原八幡宮に目を移すと、神社研究者としては絶対に許すことのできない祭神の入れ替え、偽装、隠蔽が目に余り、九州王朝を抑え込むために、大蔵の一族が近畿大和朝廷の先兵=植民地総督として振舞っていた事が鮮明になったのでした。

 彼らは、元々の祭神が何であろうと一切ためらいが無く、応神天皇を積極的に受け入れ、阿蘇氏右矢印1藤原氏の指揮下に入るのです。

 朝倉市の三奈木神社と南の平野部の林田の三奈木神社の祭神が全く異なるのも、山の三奈木神社一帯が後に大蔵氏の支配下に入っているからだろうと考えています。

 もう紙面が在りませんので関心をお持ちになる方は前述した先行ブログ辺りからお読みください。

 この社を大蔵氏が建てたとしても、それは元々あった神社を再建したのであって、その基底部には八咫烏や高良玉垂命への祭祀がそもそも存在していたのです。そうでなければ、烏が置かれるはずがないのです。

恐らく大蔵氏はこれらの祭祀の影を消したかったはずなのです。しかし、残さざるを得なかったのです。

 こちらも情報を求めていますので誤りの指摘も含め何かお気づきの点は090-62983254でご連絡下さい。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2026年07月06日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1133 への新ひぼろぎ逍遥 943の転載(後) 北部九州の大彦(開化天皇の親族)の一族が武田氏となり九州に下向し金八先生になった…? ❶

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1133 への新ひぼろぎ逍遥 943の転載(後)

北部九州の大彦(開化天皇の親族)の一族が武田氏となり九州に下向し金八先生になった…? 

        20221207

 太宰府地名研究会(編集員) 古川 清久


熊本県南小国町にある満願寺(まんがんじ)の小国郷は鎌倉時代、執権・北条家の所領でした。

そして、1274年、文永の役の際に鎮西奉行となっていた北条時定が、国土安泰を祈願して建立したと伝わります。

満願寺の庭園は、庭内の心字の池の中心部に「都忘れずのつつじ」が植えられているなど、室町時代の趣があり、九州最古の庭園と言われています。

この満願寺には執権・北条時宗の姿として代表される肖像画「絹本著色伝北条時定像」があり、その価値から国の重要文化財に指定されています。

ただし、実際には北条時定の嫡子・北条定宗の像とも考えられています。

…中略…

そして、北条時定の兄である北条経時は、鎌倉幕府の第4代執権に、次兄の北条時頼は第5代執権となっています。

北条時定は、執権にこそなれませんでしたが、準じる家柄であることから鎌倉では将軍の側近を務めました。

また、北条時政以来、代々継承されてきた肥前・阿蘇社の所領を継いで、阿蘇時定と称します。

そして兄・北条時頼が死去すると、弘長4年(1264年)の百カ日仏事に際して、肥前・満願寺を開創したのです。

元寇となると、1281年に肥前守護となり、8月頃に鎮西として下向したとされます。

そして、北条為時(阿蘇為時)とも一時名乗りますが、1287129日には鎮西奉行となり、蒙古対策を担当しました。

北条時定には、北条時家、北条随時と言う子がいたようですが、まだ幼少だった模様で、1289年、養子である北条定宗に家督と肥前守護職を譲ります。

そして隠居すると、12901015日に博多にて死去しました。

このように、北条時定(阿蘇時定)は、鎮西に下向した阿蘇流北条氏(あそりゅうほうじょうし)の祖とされ、九州に土着しました。…

無題.png

 大分の由布院温泉、熊本の黒川温泉で知られるのも阿蘇郡南小国町で、その西の外れの奥まった隠里風の小集落には今も156軒の農家があり、戦前までは20軒の文字通り武田姓ばかりの集落だったそうです。


無題.png

集落を見下ろす一段と高い場所にあった武田イクさんの生家の跡地は現在農地に戻っています。

無題.pngこの集落の全てが鎌倉以降下向した武田一族の領地となったようで、確かに武田鉄矢氏は武田信玄と流れを同じくする新羅三郎の血を引く一族だったことになりそうです。

しかし、二割ほど少なくなったとは言え、九州中心部の一角に、武田信玄と同族の集団が集落を形成し、一時期は阿蘇氏をも制圧し、元寇を迎え撃ち、何時しか定着し、静かな山村で生を繋いだことは非常に興味深い話です。

始めは薄い期待を抱いてはいたものの、海援隊の武田鉄矢が南小国と縁があるとの話に驚きましたが、歴史とは驚くべきもので、身近なところに転がっているものです。

実際、集落に辿り着いたと途端に甲州菱、武田菱に出迎えられ、かなり詳しい話を地元の知己からお聴きし、平然と武田信玄と同族の末裔との話が平然と理路整然と聴かされると北条氏の揮下により進駐した武士団の中近世の駐屯地を発見したことに感動を覚えたのです。

鉄矢氏は三枚下しの番組では、武田氏と同族の後裔といった話は一切されませんでしたが、一時期、列島を制圧する勢いをも持った甲斐源氏、甲州武田氏の九州への下向(実は帰参)を確認できたのでした。


イクさんの生家跡地


ここでは前記の三本のブログではなくNHKファミリーヒストリーからご紹介しておきます。

20141121日放送 22:00 - 22:50 NHK総合

ファミリーヒストリー 武田鉄矢〜武田家の栄光と没落 見つかった母の肉声〜

 オープニング

武田鉄矢は65歳になった今もステージに立ち続けていた。有名にした出世作は「3B組金八先生」。近年では、太平記などで歴史上の人物を重厚な演技で熱演した。鉄矢は、日本を代表する演技派俳優として確固たる地位を築いている。山梨・甲斐市のコンサートなどで、鉄矢はトークタイムでかけがえのない母を話題にした。哲也を育てた母・武田イクには、波乱の幼少期があったという。武田鉄矢は、母は相当なお姫様だったが、一家が離散して博多に引き取られたらしいと話した。鉄矢はその真相を最後まで母に尋ねることが出来なかったと語った。番組で家族の歴史を取材したところ、熊本阿蘇の豪農が浮かび上がった。その武田家に不幸が襲いかかる。鉄矢の母・イクは、家族を守るために運命に立ち向かう。取材の結果を伝える日、鉄矢さんは初めて自らのルーツと向き合う。

武田鉄矢〜武田家の栄光と没落 見つかった母の肉声〜

福岡・博多区麦野。タバコ屋を営む鉄矢の実家から取材は始まった。鉄矢の姉、長女・ミヤさん、三女のスミヨさんが出迎える。今回の取材見つかったイクさんの新たな形見は、講演テープの数々。イクさんは晩年近隣のPTAなどに招かれ、自らの人生経験を語っていた。そのテープでは、故郷に付いて語られている。熊本県阿蘇郡南小国村中原で生まれたと語るテープが放送される。

 熊本阿蘇の豪農 武田家 激動の歳月

武田家母方のルーツは熊本県阿蘇郡に遡る。熊本・南小国町中原樋ノ口がイクのふるさと。住人の多くは、武田信玄や武田家の末裔と考えられている。鉄矢の曽祖父・武田喜十郎は、先祖代々樋ノ口で農業・林業を営む大地主。村民からも絶大な信頼を得ていた。武田喜十郎の頭痛の種は、喜十郎の長男、武田計早蔵(鉄矢の祖父)。武田計早蔵が熱中していたのは先物相場。儲かりそうな話を聞きつけては、父に金の無心をしていた。鉄矢の母、長女・イク、次女・キワと長男・豊ら3人の子どもたちも武田計早蔵に振り回されていた。鉄矢の叔母に当たる次女の穴井キワさんは、父親の強烈なキャラクターを今も鮮明に覚えている。

穴井キワさんは、「これが計早蔵おやじ」と写真を見せてくれた。メガネについて、伊達メガネだと明かし、昔にしてはしゃれとったと話し笑った。子どもたちにも贅沢をさせるのが大好きだった計早蔵。しかし家族は、稼業に興味を示さない姿に不安をいだいていたという。毎回実家から計早蔵が持ち出す金額は、200万円を下らなかったという。イクはその頃の様子を講演のテープで語っていた。しかし、昭和2年、武田喜十郎が死去。最大の後ろ盾を失った計早蔵の商売は、昭和金融恐慌によって、時代の荒波に飲み込まれようとしていた。九州だけで60の銀行が破綻に追い込まれた。複数の高利貸に手を出しており、行き詰まる計早蔵の実家に借金取りが押し寄せた。


そして計早蔵の妻、ヒロは、離婚を決意した。慰謝料は受け取らない代わりに、子供は引き取らない。ヒロの実家は、武田家をはるかに凌ぐ、阿蘇の名家だった。計早蔵に3人の子どもたちを育てることはもはや不可能だった。そこで口減らしのために、長女のイクが里子に出されることになった。イクわずか8歳は、他の兄弟達のために、博多の親戚宅にもらわれていった。更に悲劇が続く。昭和4年、長男・豊が食中毒が原因で急死。武田家の不動産の登記簿謄本の一部には、計早蔵が借金返済のため、所有権を次々に他人に移転させているのがわかる。穴井キワさんは父・計早蔵がたまに帰ってきた時のことを「あさってかえるけんね、といって出て行った、それが最後、それっきり会っていない」と話す。武田計早蔵はこの時を最後に家族の前から姿を消した。武田家は離散した。計早蔵の消息は今も一切わかっていない。


 以下も続きますが、お読みになりたい方はご自分で検索してお読み下さい。全文掲載は申し訳ありませ

んので。悪しからず。


最期に


武田信玄が第9代天皇開化(高良玉垂命)の腹違いの兄弟の一族“大彦”が新羅三郎のルーツと考えています。この点については百嶋由一郎氏の手書き資料にも記述があります。


無題.png

ひぼろぎ逍遥

961

信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)⓯ 続 山梨県

若宮八幡神社(追補) 

960

信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編) 山梨県

若宮八幡神社


 上の二本で武田信玄の晩年の居城でもあった韮崎城に近い武田八幡宮を取り上げています。そこで、九州から東方に侵攻した四道将軍の一派に大彦があったとすれば、武田の一族も元は九州起源となります。

 とすれば、大彦の一族は元々本体を九州に持っていたはずですから、土地勘があり、手駒も容易に調達できる集団を送込んでいるはずで、結果的には武田氏のルーツは九州であり、半島から進出した氏族であると考えるのです。その意味では武田氏のルーツを考える上での手掛かりの一つとは言えるのです。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1133 への新ひぼろぎ逍遥 943の転載(前) 北部九州の大彦(開化天皇の親族)の一族が武田氏となり九州に下向し金八先生になった…? ❶ 北部九州の大彦(開化天皇の親族)の一族が武田氏となり九州に下向し金八先生になった…? ❶

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1133 への新ひぼろぎ逍遥 943の転載(前)

北部九州の大彦(開化天皇の親族)の一族が武田氏となり九州に下向し金八先生になった…? 

        20221207

 太宰府地名研究会(編集員) 古川 清久


この間で甲信越の神社調査を続けて来ました。これについては、ひぼろぎ逍遥(跡宮)で、信州佐久の鯉太郎 外 多くを書いてきましたのでお読み頂いた方もあると思います。


968

信州佐久の鯉太郎(番外) 信州最奥部の呉橋と勅使堂(門) 上田市 前山鹽田神社

の切り出

967

甲信越の若宮八幡宮とは何なのか?

961

信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)⓯ 続 山梨県 若宮八幡

神社(追補) 

960

信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編) 山梨県 若宮八幡神社

959

信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)⓭ 長野県富士見町 若宮

八幡神社 

958

信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)⓬ 上田市 鹿教湯温泉の

呉橋 

957

信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)⓫ 佐久市 近津神社

956

信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)❿ 佐久市 若宮八幡神社 

955

信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)❾ 佐久市 高良社 

954

信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編) 小諸市 御影神社

951

信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)❼ 上田市 生島足島

神社 (下)

950

信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編) 上田市 生島足島

神社 (中)

949

信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)❺ 上田市 生島足島

神社 (上)

948

信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)❹ 上田市 前山鹽田

神社

947

信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)❸ 上田市 山鹿神社

946

信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編) 千曲市 佐良志奈

神社

945

信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編) 千曲市 武水分

八幡神社

944

信州佐久の鯉太郎 “千曲、上田、小諸、佐久遠征への下調べ”として

(企画編)⓪

  近稿にはストックとしてまだオンエアしていないブログもあります

349

勝沼ワインの里の大善寺 G “ぶどう寺と宮地嶽神社には何故「三階松の神紋」が

あるのか?”

348

勝沼ワインの里の大善寺 F “ぶどう寺にはなぜ「国宝ぶどう薬師」像が

あるのか?”(追補)A

345

勝沼にも高良神社があった “山梨市の大井俣窪八幡神社”

344

勝沼ワインの里の大善寺 E “ぶどう寺にはなぜ「国宝ぶどう薬師」像が

あるのか?”(追補)

343

勝沼ワインの里の大善寺 D “ぶどう寺にはなぜ「国宝ぶどう薬師」像が

あるのか?”(下)

342

勝沼ワインの里の大善寺 C “ぶどう寺にはなぜ「国宝ぶどう薬師」像が

あるのか?”(中)

341

勝沼ワインの里の大善寺 B “ぶどう寺にはなぜ「国宝ぶどう薬師」像が

あるのか?”(上)

213

勝沼ワインの里の大善寺 A “大善寺の全国的傾向”

212

勝沼ワインの里の大善寺 @ “山梨県甲州市勝沼町勝沼の五所神社の

神宮寺”


 勿論、三度四度(実際にはもっと多いのですが)と行ってきた甲信越への神社探訪の延長上に今夏の信州佐久の鯉太郎シリーズもある訳で、ぶどう寺から始まった調査の果てに武田信玄の一族も真田幸村の一族も北部九州から避退した人々だったのではないかとの思いが一層強まったのでした。

 武田信玄のルーツは常陸のひたちなか市の武田であると言った半ば定説の如き説が跋扈している事も承知してはいるのですが、武田氏のルーツは新羅三郎と言うのも良く知られた話である事から、九州を経由せずに真っすぐ常陸の太平洋岸に入ったとするのも奇妙であり、それ以前の経由地や起源を掘り下げるべきと思うもののです。

ともあれ、ここでは武田氏のルーツを考える上で興味深い話がありますので、逆方向から探ってみようと思います。

 勿論、これが武田信玄に繋がったからと言って、武田氏のルーツを探る助けにはならない事は十分に承知してはいますが、エピソード的に面白い話だけに取り上げてみようと思います。

 これが神社専門サイトのひぼろぎ逍遥(跡宮)ではなく新ひぼろぎ逍遥に書いた理由です。

 この話をする前にもう少しその伏線を話しておきたいと思います。

 何度となく入って来た甲信越ですが、高速を使わずに1000キロを車中泊で走り抜け一週間〜半月と調査旅行をするのはさすがにハードで体力と精神を消耗します。

 しかし、それが解消できるのは富士山が正面に見える友人の別荘が山中湖湖畔にあるからで、そこでの快適な環境が用意されているからこそ継続できるのです。

 実は、その別荘のオーナーが大学の親友で、武田という姓なのです。

 それだけならば偶然と思うのですが、彼の一族は元々熊本県南関町に住む一族で、それ以前は鎌倉期なのでしょうか肥後と筑後の国境の要害の地で(「平家物語」にも登場する重要な関の地なのです)大津山神社の付近に纏まって住んでいたと言うのです。

 つまり、関東武士団の武蔵七党の横山党の一派だったとも聴くのです。

 もしそうであれば、鎌倉政権が重要拠点を制圧するために送り込んだ先遣隊の後裔の可能性があるのです。その観点をキープしたうえで、南小国の武田一族を考えて見ましょう。武田鉄矢氏と絡むのです。

無題.png

赤丸が南関町、青丸が南小国町を示していますが、阿蘇氏への備えと国境警備のための下向ですね


南関町の武田一族は調査が遅れているので、先に南小国町の方から話をしてみます。

これは「三枚下し」だったか運転中に海援隊の武田鉄矢氏が話を聴いたことがきっかけでした。

武田鉄矢氏は福岡教育大在籍中に海援隊を結成しているのですが、学生時代の大半をバンド活動に費やし、とうとうテレビの人気番組だった金八先生にまでなった事はご存じの通りです。

 この武田という姓は元々お母さんの武田イクさんの姓で、この武田姓は南小国町中原に集中しているのです。

 ラジオで聴いた話ですから不正確ですが、北里柴三郎で知られる小国町に隣接する集落で、イクさんはそこの大地主の娘だったそうです。

 ただ、イクさんの祖父が亡くなられ、父が相場か保証なのかで家勢を失い、田畑を失ったため福岡に移り住むことになったと言うのです。

 武田鉄矢氏も元々はニ三十町歩の大地主の家系で武田信玄に繋がる甲州武田氏の一族の長の家系だったらしいのです。

簡略化した話で言えばそういったもので、これについては既にかなり詳しいブログを書かれている方がおられますので(三例出しておきます)関心をお持ちの方はお読み頂きたいと思います。以下。

  

武田鉄矢のファミリーヒストリー 

武田鉄矢の父親と母親の故郷は同じ熊本県阿蘇郡南小国町の

ファミリーヒストリー武田鉄矢〜武田家の栄光と没落……など

無題.png

場所は小国町から阿蘇大観峰に向かう国道212号線から一山西に越えた中原地区から更に入り込んだ樋の口という隠里風の小集落で、実際、現地に入ると公民館(集落コミュニティ・センター)の直ぐ傍には武田の四つ割り菱紋の打たれた蔵が目に入るなど、まずは、武田一族を派遣した鎌倉政権の屯田集落と言った雰囲気なのです。

 もしも、この樋の口集落で拾った武田の一族が甲州から入ってきていると言う伝承が正しいとすれば、少なくとも時の鎌倉政権が元寇に備え、北条家の重臣を南小国の万願寺に送り込み、藤原氏のルーツともいえる阿蘇氏に睨みを効かせ乍ら、多くの武士団を送込んでいた可能性は十分にあるのです。

 この中原に隣接する小国町下城も鎌倉御家人が送り込まれているという話を聴いています。

九州のど真ん中の高原地帯に拠点を置き、筑前、筑後、豊後の敵対勢力を撃退する最重要拠点だったことはまず間違いないところでしょう。

 事実、日田市から旧大山町を経て小国、南小国へと進行する場合、考えられるルートは、松原ダムの上流の下筌ダムから東に入るルートはあるも、杖立温泉から小国に進出する以外は考えられず、杖立温泉やその手前の松原ダム建設以前の松原から小国町への少なくとも200メートルはある大峡谷を進軍せざるを得ず、下城、中原から下に向けて撃たれる矢襖を抜け小国の大地に辿り着ける兵がどれほどいるかは容易に想像が着くのであり、正しくアウトレンジ戦法の恰好の餌食に成る事は想像に難くないのです。

杖立、津江の名の通りの大峡谷の要害は、防衛都市として選ばれた九州の経営拠点として準備されたものだったのです。


「満願寺と阿蘇流北条氏〜元寇や鎌倉滅亡にも関与した阿蘇の北条一族」 から

無題.png

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記