太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2017年11月11日

394 奥出雲の神々 03 小馬木の八幡宮

394 奥出雲の神々 03 小馬木の八幡宮

20170501

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


次の神社は大馬木から34キロほどのところにある多少狭い谷の集落です。

 この一帯には大馬木、小馬木には、大森、小森、大林こそないものの小林はあり、どう見ても分家集落か臣下の集落と言った雰囲気です。

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実のところ記憶が不鮮明で、どちらの神社だったのかが分からずにいます。

緑桜と呼ばれていた美しい桜の木がある方なのですが、訪問される方はご注意ください。

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確かに昼に近い時分どきでしたが、仲の良さそうなお二人のお婆さんが手作りの海苔巻などを持ちより、上天気の空の下で楽しそうに話をされていたのです。一人の方が、「花見に来てるんですよ…」と言われました。花見としては珍しいと思いますが、一本の桜の木を見に来られていたのです。粋(chic)ですね。

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祭神ですが、県神社庁の資料によれば、誉田別尊・足仲津彦尊・息長足媛尊 とされています(勿論、主祭神とは断られていますが)。

 この八幡宮は足仲津彦尊(仲哀天皇)が入っているタイプであり、宇佐系でも石清水系でもありません。奈良東大寺の手向山八幡宮か鶴ケ岡八幡宮の系統のようです。

 どうみても奥出雲には相応しくないのですが、多分、先住の神々がおられるはずです。

 その前に、社殿をお見せしましょう。

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境内の一角に三柱の摂社らしきものがありました。恐らくこれが本来(749年以前)の神々だと思います。ただ、言わず語らず、黙して語らず。早く「島根県神社誌」を手に入れなければなりませんね。

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ネット検索を行っていると、上記の資料に遭遇しました。上の天王子社が地図の左側の神社と思われます。実は、始め誤ってそちらにも足を運んだのですが、神社庁の資料にはない神社のようです。

天王子社は他地区でも何社か見たことがありますが、一応、大幡主の子の豊玉彦(ヤタガラス)と認識しています。

天子社、天子宮、天子神社とは別で、八王子社、王子社、皇子宮、王子宮とも違うと考えています。

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もうしばらくすると過疎化と列島文化の壊滅によって神社そのものが消失する時代がやってくるでしょう。

この幸せそうな緑桜を愛でる心の余裕のあるお婆さんたちの姿も見なくなることでしょう。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 01:01| Comment(0) | 日記

2017年11月07日

393 奥出雲の神々 02 大谷の大谷神社

393 奥出雲の神々 02 大谷の大谷神社

20170501

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


大谷神社は大馬木から一つ峠を越えた集落です。

 この一帯には大馬木別れとか大谷別れとか万歳峠と言った民俗学的に興味深い地名もあり、それだけでもイメージが膨らんできます。

 特に全国にもかなりある万歳峠がここにもあり、集落から戦地に送り出す時の別れを告げる場所であり、残された者にとっては峠そのものが生死を分ける境になる場合もあったのです。

 二度のフィールド・ワークで356社の神社を実見しました。

 その万歳峠を下ると大谷集落があり、大谷公会堂(古いですね…思わず終戦直後を思い出してしまいます)の道を挟んだ小丘に鎮座しているのが大谷神社です。

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面白いのは大谷峠、万歳峠と「峠」を「タワ、ダワ」と呼んでいることです。

民族学や地名研究に関係した人はある程度知られたことですが、普通、峠とは最もい場所の様に考えられています。ただそれは進行方向に向かう人の目線に沿った考えであって、それに交差する当の峠は一番低い場所を通るのであって、実際には一番低い場所になるのです。

つまり、たわんだ低い場所が峠であり、その痕跡地名が「タワ、ダワ」となるのです。

ただ、万歳が何故「バンジョウ」と呼ばれているかは今のところ分かりません。

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大谷の中心部から万歳峠方面を望む

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参拝殿の大谷神社の額は面白いデザインです(馬か龍か?)


参拝殿には確かに大谷神社と書かれていますが、神社庁の資料では主祭神 大己貴としています。

言うまでもないでしょうが、大国主命を祀っています。

境内を見渡した限り、それを物語るのは上、左の写真の亀甲紋章(大幡主の使用が先)しかありません。

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境内の一角には社日大御神(五角柱の天照大神、倉稲魂命、埴安媛命、大己貴命、少彦名命)と小さなしかし立派な社があります。これについては見当が付きません。

大己貴祭祀に先行するものかも知れませんが、神社誌もなく今のところ確認できません。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 12:00| Comment(0) | 日記

2017年11月04日

392 奥出雲の神々 01 大馬木の天満宮

392 奥出雲の神々 01 大馬木の天満宮

20170501

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


最終的に仁多郡奥出雲町の神社を全て見る必要があると思い、二度に亘り奥出雲町に入りました。

 二度のフィールド・ワークで356社の神社を実見しました。

 実際に参拝した順番も異なりますし、重要度も系統も各々異なるのですが、とりあえず分かり易くするために、島根県神社庁の神社一覧(仁多郡奥出雲町)の登載順に沿ってリポートする事にしました。

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大馬木の天満宮は奥出雲町でも広島県境に近い最奥部の神社で、大馬木、小馬木という親子地名が拾える辺境の地域です。

とは言っても意外と平坦で、奥出雲町全体がそうなのですが隠れ里といったおどろおどろした印象など微塵もない山上楽園といった風情を持っています。

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大馬木の中心部、大馬木小学校付近


ダメ押しで神社周辺の写真を見て頂きましょう。

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まず、馬木という地名ですが、一般的には官牧、藩牧といった兵馬養成の地域だったのではないかと考えてしまいます。

祭神から考えて、まさか、宇佐神宮の大元神社が鎮座する馬城峰(マキボン)の「マキ」ではないでしょうが、○○木(城…)といった表記の地名は馬を使う戦闘集団が入った地域に付される地名で、付近には「女良木」も拾えます。

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参拝殿には確かに天満宮と書かれていますが、神社庁の資料では天穂日命、真經津命となっています。

天穂日命は豊玉彦=豊国主=ヤタガラス(武夷鳥の父神)の事ですし、真經津命も恐らく経津主(フツヌシ)=山幸彦=猿田彦=ニギハヤヒのだと思われます。

従って菅原道真は掲載されていません。ただ、この武夷鳥の後裔が道真であることから、天満宮となっても一向におかしくはないのです。

逆に言えば、藤原氏が雷に恐れ“菅原の祟りじゃ”として、“道真を祀れ”としてできたのが天満宮であるかのように言われますが、そうではなくその底流には藤原にとって疎ましい先祖神を奉斎する氏族がいたのであり、それを消し去ったのが天満宮だった事が透けて見えるのです。

境内には別の祭祀も認められます。

大国主祭祀(下右)は土地柄の事受け入れられますが、分からないのは、猿田彦の石柱の如き石塔(下左)です。

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無題.png 一応、日之尾大神は社日大御神(五角柱の天照大神、倉稲魂命、埴安媛命、大己貴命、少彦名命)として理解しておきますが、正確に読めないためここでは保留しておきます。

 当初、伊賀武神社など直接五十猛神社など4社に絞り込んで仁多郡と「先代旧事本記」に言う筆頭の二田物部祭祀を確認しようとしていましたが、このようにじっくり調べれば、天満宮であっても経津主=五十猛を確認できる訳で、これだけでも奥出雲の全社実見には意味があった事が分かるのです。



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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 20:49| Comment(0) | 日記