2020年01月15日

676 何度も足を運んでいる宗像大社ですが… B “神湊の津加計志宮に大国主命の痕跡を探る”

676 何度も足を運んでいる宗像大社ですが… B “神湊の津加計志宮に大国主命の痕跡を探る”

                                     20181024

太宰府地名研究会 古川 清久


 宗像大社の東側を北に流れ玄海灘に注ぐ釣川の河口、宗像大社の中津宮が鎮座する宗像大島へのフェリーの出船場にもほど近い所に 津加計志宮 (津加計志神社)があります。

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思えば、津加計志宮についてはこれまで何度か目にしていたものの、放置していただけに恥ずかしい限りでしたが、やはり、最低でも地元の町誌程度には目を通しておくべきでした。

出典は旧玄海町の教育委員会が編纂していた「神湊・江口の史話と伝説」(吉武謹一)です。

幸いに地元在住のひぼろぎ逍遥の読者からご紹介を頂き、以下、その全文を掲載させて頂きました。

お読み頂ければ分かりますが、宗像大社のお膝元としか言いようのないこの神社には、大国主の八世の孫とされる阿多賀多須命大国主命のお妃のお一人のタゴリヒメ(百嶋神社考古学では豊玉姫)が祀られているのです。

このことによって、直ちに宗像大社を云々できるとは思いませんが、宗像の一族がどのような流れの方々であったのかが多少とも見えてきた様なのです。

それは、まず、全文をお読み頂いてからにしましょう。きっと宗像大社の謎を解く一端が見えてくるのではないかと思います。

実は、福津市と宗像市には大国主を祀る神社が数社あります。福津市の楯崎神社と宗像市(岡垣町手野)の大国主神社です。ご紹介は次に回すとして、ここでは以下をお読み頂きます。

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宗像三女神について以前から気になっていた事があります。

 それは、九州の西岸では市杵島姫(サヨヒメ)に頻繁に遭遇し、東岸では豊玉姫(タゴリヒメ)が増えてくるという現象です。

 丁度その境界が神湊辺りになるのですが、市杵島姫は豊玉彦の姉のアカルヒメの娘であり、豊玉姫は彦山の高木大神の長女である豊秋ツ姫と豊玉彦との間に産れたプリンセスです。

 これは地域的な棲み分けなのか、権力交替によって生じたものなのか分かりませんが、金山彦系が第一期の九州王朝を支え、第二期を大国主系が支え、第三期は神功皇后〜といった印象を受けています。

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「宗像氏の初代の大領」の「大領」の意味が分かり難いと思います。故)古田武彦氏の「郡評論争」にこの「大領」が出ていたことを思い出しましたので「新古代学の扉」からご紹介しておきます。

 この大領とは九州王朝時代の阿田方須命の官職名であった事がお分かり頂けると思います。

大化の改新と九州王朝  古田武彦

郡評論争 … そして戦後になりまして、坂本太郎さんの弟子というか、大学の学生でありました井上さん(発表当時は教養部の講師か助教授)の研究発表がされたわけです。その内容は津田氏の疑いには根拠がある。証拠は一点に限定して論じたいのだが、要するに大化改新の詔勅では郡という行政単位を使って

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述べられている。郡司とか、郡に関する規定とか具体的に数字も挙げて述べられているし、大領、少領というような長官名副官名もでてくるのです。ところが金石文に依ってみると郡という行政単位が使われた痕跡がない、(七世紀後半)、それらは皆評である。評という行政単位が使われていた。例としてレジメに挙げておきました。この例をみても評を使い郡を使われた跡がない。するとこの点をとっても大化改新の詔勅というものを信用するわけにはいかない、という口頭発表をされたわけです。…

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2020年01月12日

675 何度も足を運んでいる宗像大社ですが… A “少し振り返って出雲と大国主命を考えよう”

675 何度も足を運んでいる宗像大社ですが… A “少し振り返って出雲と大国主命を考えよう”

                                     20181024

太宰府地名研究会 古川 清久


2017511日付でひぼろぎ逍遥(跡宮)に411第三次奥出雲調査に行かなければならない B

を書いています。


以下の小論は ひぼろぎ逍遥 403「百嶋神社考古学」概論 001 “出雲とは何か?”として書いたものですが、奥出雲の神々を考える上で重要ですので、百嶋神社考古学からどう考えるかをまず知って頂きたいと思います。

巷では大和朝廷に先行する「古代出雲王国」とか“九州王朝に先行する古代出雲王権”といった大げさな話が横行しているようですが、これは近畿大和政権による偽装ではないかという事を考え始めたのは最近の事でした。

@ “大国主を出雲の国の人だと思っておられる方がおられますが全くの誤りです。”と言われたのは故)百嶋由一郎氏でした。

A “出雲はいたるところにあったのです。”という奇妙な話をされていてこれまで意味が分からなかったのですが、最近になってようやく意味するところが分かるようになってきました。

恐らく先生が言いたかったのは、列島の開拓段階での事であり、全体としての大幡主系と言うか、白族(大幡主)、越智族(大山祗)、瀛氏(金山彦)の連合体とも言うべき忌部、卜部…が展開した入植地こそが出雲だった、現出雲はその多くの出雲の一つだったという意味だったようなのです。

B 従って、出雲を「イズモ」と読み呼ぶのは、本来、誤りで、出雲は「イン」と呼ぶべきなのです。

C つまり、忌部(豊玉彦)の展開した讃岐、阿波、紀国、忌部の一員であった大国主が後から展開した現出雲もそうであり、九州島内にも出雲地名(飯塚市桂川)があるように、この旧忌部が展開していた地域が、今もモザイク的、斑状に存在しているのです。

D 出雲は「出」をイズルの「イ」、「雲」をウンと読めば、「イ+ウン」で忌部の「イ(ム)ン」と一応は読めるのです。

E では、大国主はどこにおられたのでしょうか?これについては、既に、ひぼろぎ逍遥(跡宮) 024 「大国主は九州で生まれた“オオナビコ(大国主命=オオナムチの幼名)を祀る春日市の伯玄社”」で書いていますのでお読み頂きたいと思います。

F これを読まれれば、少彦名命が春日市の須久岡本遺跡のある須久に住んでいた須久の彦だったことがお分かり頂けるのではないでしょうか?「スクナ」は「スクノ」の古形であり、今でも「そこな御人」「そこな女子」といった言葉が落語などに留められている事が思い浮かばれます。所有の格助詞の「な」がスクナヒコナ命の意味つまり、スクの彦の命がその意味だったのです。すると、春日市商工会議所敷地内に残された伯玄社にオオナビコとスクナヒコナノミコトとは幼馴染であった事までが見えてくるのであり、神話の世界が現実の歴史の世界に引き下ろされて来るのです。

G 最後に、大国主の国譲りの結果、最終的に大国主もしくは、その配下の大国主の一党が移動していった旧出雲の一つが現出雲であり、移動先(移転先)が現出雲だったことが見えてくるのです。

H 従って、現出雲とは近畿大和朝廷が創ったものであり、因幡の白兎神話の舞台とか大国主が大怪我をしてウムギヒメ、キサガイヒメが介護に送り込まれた現場といいテーマ・パークでしかないのです。

I このことは、九州の大国主祭祀圏の再検討再調査が極めて重要であることを示しているのです。

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大己彦命


宗像の神と言えば、宗像三女神と誰もが考えておられるでしょうが、百嶋神社考古学では、祭神を「大国主命」とします(ウムギヒメ、キサガイヒメは宗像三女神のうちのお二人なのです)。

出雲神話の神様の「大国主命」が祀られているなどとんでもない話だ!と言われるかもしれませんが、それなりの痕跡はあるのです。

落ち着いて考える必要があるのですが、神社のフィールド・ワークを行っておられる方には分かることと思うのです。まず、出雲系と言われる神社が多いのは圧倒的に九州なのです。

これは、計量的に調査を行うことが難しいのですが、熊野神社、諏訪神社、祇園社、須佐神社というものがあまりにも目立ちすぎるのです。

しかも、唐津市湊の沖には、神集(カシワ)島と呼ばれる島まで鎮座しているのです。

古代この地で神無月に神集まりが行われていたのではないかと考えています。

勿論、宗像大社が誰を祀ろうが、それはその神社の自由であり、その時々の判断でどのようにされるともとやかく申し上げる立場にはありません。

ただ、私達が知りたいのは古代の真実であり、正しい古代史の姿だけなのです。


『古事記』『日本書紀』によれば、三女神は天照大神(あまてらすおおみかみ)と素戔嗚尊(すさのおのみこと)の誓約(うけい)のもとに誕生し、天照大神の神勅によって、大陸との交通の要路にあたる「海北道中(かいほくどうちゅう)」(宗像よ無題.pngり朝鮮半島に向かう古代海路)に降臨し、以降、国家の守護神として崇敬されています。また、「日本書紀」には、宗像三女神が「道主貴(みちぬしのむち)」、すなわち国民のあらゆる道をお導きになる最も尊い神として崇敬を受けていたことが 記されています。「貴」とは最も高貴な神に贈られる尊称です。

道主貴(※宗像三女神)以外には、伊勢神宮の 大日靈貴(おおひるめのむち)(※天照大神)、出雲大社の大己貴(おおなむち)(※大国主命)のみですので、宗像三女神が皇室をはじめ人々からいかに篤い崇敬を受けら れていたかがうかがえます。


今在海北道中 號曰道主貴 此筑紫水沼君等祭~是也


今には海の北道の中に在り、號(なづ)けて道主貴(ちぬしのむち)と曰う。 此は筑紫の水沼君(みぬまのきみ)等の祭(いつきまつ)る~、是也。【日本書紀 卷第一 第六段 一書第三 読み下し】


「古代史獺祭」(こだいしだっさい)による


これまで気付いていなかったのですが、宗像大社が、“三女神を 道主貴(ミチヌシノムチ)と最も尊い神として崇敬を受けていたとしている“こと自体が実は証明であると思うようになりました。

「貴」とは最も高貴な神に贈られる尊称です。は、それで良いのですが、この三女神を大国主命(大己貴)に戻せば整合性がとれ、本当の祭神が「大己貴」であったと証言していたように思えます。

これは、いつの時代かに「大己貴」が「道主貴」という畿内から半島や大陸への道を司る重要人物という意味に書き替えが行われたのでしょう。

さて、あまり知られてはいませんが、宗像大社には奥ノ院ともいうべき高宮(これも福岡市高宮と関係があるでしょう)がありますが、ここには出雲大社の「稀人の間」同様のものがあり、一部には大国主命が祀られているとも聞きます。

太宰府地名研究会のエース伊藤正子女史(「太宰府・宝満・沖ノ島」の著者)の講演の中にかなり重要な証拠に近いものが発表されました。伊藤女史作成のパワー・ポイントデータからご覧いただきましょう。

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「万葉集」に証拠が残っていたのです


坂上郎女は京に帰るとき宗像の神(おおなむち・少彦名)に祈りに立ち寄った。

この歌からわかるのは、ここでは宗像神は三女神ではないこと、勝浦まで船で来たこと(道に上がり)、名児山は昔からその名がついていたこと、その名児山と聞いても自分が我子を思う心は深く何の慰めにもならないと歌い上げていること。(伊藤)


大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ、生没年不詳)は、『万葉集』の代表的歌人。大伴安麻呂と石川内命婦の娘。大伴稲公の姉で、大伴旅人の異母妹。大伴家持の叔母で姑でもある。『万葉集』には、長歌短歌合わせて84首が収録され、額田王以後最大の女性歌人である。

13歳頃に穂積皇子に嫁ぐが霊亀元年(715)に死別。一説に宮廷に留まり命婦として仕えた。この頃首皇子(聖武天皇)と親交を持ったらしく、後年個人的に歌を奉げている。 その後に藤原麻呂の恋人となる。しかし、麻呂とも早くに死別し、養老末年頃、異母兄の大伴宿奈麻呂の妻となり、坂上大嬢坂上二嬢を産んだ。しかし、彼とも33歳頃に死別したと思われる。その後は、任地の大宰府で妻を亡くした大伴旅人のもとに赴き、大伴家持大伴書持を養育したといわれる。帰京後は佐保邸に留まり、大伴氏の刀自(主婦)として、大伴氏の一族を統率し、家政を取り仕切ったのだろう。その作風は多分に技巧的でありながらも、豊かな叙情性をも兼ね備えている。しかし、彼女の数多い男性との相聞歌は、恋の歌になぞらえて、彼らへの親しみを表したものであったり、実体験ではないのではないかとも言われている。

坂上郎女の通称は坂上の里(現奈良市法蓮町北町)に住んだためという。 「ウィキペディア」による


大友坂上郎女という重要人物の証言だけに非常に重い資料と言えるでしょう。

最低でも、宗像大社の祭神は三女神などではなく出雲神話の神とされる「大国主命」「少彦名命」だったのです。出雲神話の舞台は九州だったのではないか?とした仮説は俄かに信憑性を高めてきました。

 きっかけは飯塚市桂川町に「出雲」という交差点があることに気付き、凡そ出雲神話など縁がない熊本県山鹿市の志々岐神社に巨大な大国主命の石塔を見出だし、薩摩の吹上浜にも大国主を祀る大きな神社を発見したことでした。

 確認したい方は 熊本県山鹿市志々岐1852 志々岐阿蘇神社外 を訪ねて下さい。

 どうやら、私達は大和朝廷が仕組んだ「出雲」隠し「九州王朝」隠しの入口に入ってきたようです。

今後とも、九州の出雲神話の痕跡を探ることになりそうです。(以上)


新たな展開


 宗像大社を考える時、“ここまで踏み込まなければ新たな地平は求められない”との思いから再掲載しましたが、今回、宗像大社の東の遠賀川河口一帯のトレッキングを行なうに併せ、地元の読者から耳寄りな話を頂きました。

 故)百嶋由一郎氏からは“宗像大社の本来の御祭神は大国主命です”と言われていた声が今も耳に残っています。これまで、どうしてそんなことが言えるのかとの思いだけで調査を続けてきました。

僅かな進展は大伴坂上郎女の歌でしたが、それに加え、その痕跡と言えそうな新たな状況証拠が提供されたのでした。

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宗像大社の東側を北に流れる釣川の河口、宗像大社の中津宮が鎮座する宗像大島へのフェリーの出船場に近くに 津加計志宮 (津加計志神社)があります。

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津加計志宮 (津加計志神社) カーナビ検索 福岡県宗像市神湊951


676 何度も足を運んでいる宗像大社ですが… B 宗像大社に大国主命が祀られていた痕跡を探る!

に続く

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2020年01月10日

674 何度も足を運んでいる宗像大社ですが… @ “宗像大社を楢ノ木の神紋から考えましょう”

674 何度も足を運んでいる宗像大社ですが… @ “宗像大社を楢ノ木の神紋から考えましょう”

                                     20181024

太宰府地名研究会 古川 清久


太宰府地名研究会は10月に福岡市と北九州市の間で筑豊から玄海灘に注ぐ遠賀川河口一帯に鎮座する伊豆神社(恐らく豊玉姫を祀る)4社外へのトレッキングを行ないました。

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その集合場所を宗像大社正面P駐車場(現地集合)1100 としたのですが、早めに到着した事もあり、45人で、宗像大社の本来の御祭神である大国主が祀られていたと睨む 高宮を参拝したのでした。

トレッキング資料(26p)については、トップ・ページだけを次葉に掲載しておきます。

 宮地嶽神社に関してはこれまで二十数本と言わずブログを書いてきましたが、宗像大社に関しては数本しか書いていません。それは近畿大和朝廷の影を感じた事からする嫌悪感かも知れません。

 まず、百嶋説に沿い宗像大社の本来の祭神は大国主命である(お妃キサガイヒメ、ウムガイヒメが宗像三女神の二神)と考える上に、宗像沖ノ島祭祀が古来宗像一族のものであったかのような宣伝と世界遺産登録に異論を持っているからです。結果的には思惑が外れたものの以下をお読み頂くしかありません。

 ひぼろぎ逍遥(跡宮)

458

宗像沖ノ島世界遺産登録といった愚行が半潰れになって多少はほっとした!

 外、数本をお読み頂くとして、今回は別の側面からのお話しをしてみたいと思います。

当日は悪天候が続いた2018年にしては珍しく非常に天候が良かったうえに、駅伝大会やら世界遺産登録効果もあって参拝客が急増しているようでした。現在、世界遺産登録などという言わば勝手な格付けには徐々に批判が高まっています。日本に限りませんが、こういった日本の伝統も文化も殆ど知らない外国勢力に尾を振り格付けを有難がって利用すると言う売国政策によって、特定の地域や一部の寺社などだけが良い目に逢うと言う準(純)不正行為は、行政庁の有り方としても、また日本の文化政策から言っても許し難い行為と考えるのですが、戦後顕著となった列島占領の延長上の惨めさを再確認しているところです。

まあ、そういった話はおくとして、行き掛かり上図らずも宗像大社について書くことになってしまいました。ただ、まだまだ基礎調査の段階でしかなく、いずれ書くとしても今回はちょっとした思い付きや下調べ程度のものとして思いついた事を書きたいと思います。非常に前置きが長くなりました。

まず、あまり知られていない同社の神紋について考えて見たいと思います。

何らかの結論とかが理解できていると言ったものではなく共に考えて見たいと考える作業仮説程度のものであって、元より神社側が否定されれば一般的にはそれで結論とされてしまうものでしかないのです。

ただ、このような基礎研究、基礎調査無くしては一寸たりとも本質には迫れないのであって、その限りで無理を承知で踏み込みたいと思います。

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遠賀川は筑豊から玄海灘に注ぐ大河ですが、この河口の両岸に伊豆神社という神社が4社ほどあります。結論を無題.png急げばこの神社群は主神として豊玉姫(父神=豊玉彦、母神=豊秋ツ姫)を祀っています。ではその起源とは何でしょうか?現在、対馬の木坂の海神神社の裏山が伊豆山であり、その地名移動が厳原で、糸島半島の伊都、出雲、厳島、出石、伊豆、伊東(豆→東)の可能性を探っています。皆さんも頼朝と政子が逢引したという熱海の関八州鎮座伊豆山神社の伊豆もその起源が海神神社の裏山の伊豆山である事は疑い得ないのではないでしょうか?今回は、この宗像大社の支配氏族とも重なる伊豆能売を探るトレッキングになります。この大国主のお妃でもある伊豆能売神こそ大本教、世界救世教、崇教真光、真光文明教団…の神でもあるのです。

20181021日 日曜日太宰府地名研究会トレッキング遠賀川河口に伊豆能売の神を探る!  


「遠賀川河口に伊豆能売の神を探る!」(大本教系教団の神とは豊玉姫だった?)

20181021日 日曜 日 午前1100 集合〜出発 連絡は古川まで 090-6298-3254

宗像大社  宗像市田島2331

 駐車場に集合!                     緊急連絡 :090-5289-2994

大雨の場合は中止! ※参加費(資料代)500円 各自、弁当、お賽銭、傘持参の事…

訪問予定の神社

伊豆神社         カーナビ検索 福岡県遠賀郡遠賀町島津578

久我神社の隣にある報恩寺 カーナビ検索福岡県遠賀郡水巻町古賀1丁目121 093-201-5011

えぶり小学校       カーナビ検索福岡県遠賀郡水巻町えぶり2丁目31

伊豆神社         カーナビ検索 福岡県遠賀郡水巻町頃末北2丁目9-1

創作神とか埋没神などと言った不行き届きな評価に貶められた神(神とさえ扱われていない)という伊豆能賣の祭祀を太宰府地名研究会の中島 茂氏の手助けによって発見し、その正体が豊玉姫であること、また、それが何故伊豆能賣と呼ばれているかについて考えてきました。

あくまで仮説であり、将来、修正する可能性は留保しますが、大枠で考えて大幡主系の女神であり、大国主命のお妃か関係者であること、当然にも北部九州に関係する神(人物)になるであろうことは動かないと思います。

@  伊豆神社 カーナビ検索 福岡県遠賀郡遠賀町島津578

無題.png九州王朝論者の中でも九州に住む者は、神代史の大半は九州島を中心に起こっているとの確信は、勢い、その現場がどこかにあるはずであり、また、二千年近く経過したとしても何らかの痕跡は残っているはずであり、その可能性を探る事ができる環境にあるというある種の特権(距離の問題から北海道在住者にはなかなかできない)を持っているのです。

であるにも拘らず、自称九州王朝論者においても現場を一切見ようとせず、「記」「紀」に偏重した文献史学を中央の学者に沿って吹聴しようとする輩が跡を絶ちません。

まず、関東、関西にあったとしても現場に出る事を一切行わず、「記」「紀」を金架玉条の如く聖典化する人々には藤原によって閉ざされた古代の扉を開く資格は一切ないと言わざるを得ないでしょう。

簡単言えば、伊豆能賣 を埋没神などと評価した学者擬きは、逆に自らが「記」「紀」に埋没していた事を知るべきであり、情報化社会ではさらに一層埋没化して行くであろう事を考えるべきでしょう。

何のことはない…。キチンとした調査もやらず、「記」「紀」を崇めただけの事であり、近畿大和を中心に列島の古代史が展開したなどと言った馬鹿げたお伽話を信じた結果、奈良、京都周辺だけを調べて神代の神々の痕跡が一切無い事から(そんなことは当たり前なのですが)、やはりそれは架空(所謂欠史八代)…

ひぼろぎ逍遥(跡宮)

438

伊豆能売の神とは何か? E “伊豆能賣の中間調査を終えて思う事” 

437

伊豆能売の神とは何か? D “伊豆能賣は 何故「イヅノメ」と呼ばれたのか?”

436

伊豆能売の神とは何か? C “遠賀川左岸に伊豆能賣を発見した ”遠賀町の伊豆神社“ 

435

伊豆能売の神とは何か? B “遠賀川右岸の二つ目の伊豆神社の元宮か?”久我神社 

434

伊豆能売の神とは何か? A “二つ目の伊豆神社” イヅノメの神が少し分かってきました

433

伊豆能売の神とは何か? @ “遠賀川河口の両岸に伊豆神社が並ぶ”

先行して、イヅノメに関心をお持ちの方は上記外を…


さて、話を宗像大社に戻します。宗像大社は楢の木を神紋としています。何故でしょうか?宗像三女神と楢の木をイメージしても結論は出て来ませんね。ここで、故)百島由一郎氏が言われていた本来の祭神である大国主命と考えると、多少なりとも答えが出てきそうなのです。

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同社神殿に向かって右手にありますがかなりの大木の枝木が藤棚のような装いを見せています


 何故、楢木が神文に選ばれたのかについて考える事にはそれなりの価値があるでしょう。

 「記」「紀」に依るのも結構ですが、まずは関係があると思われる神社との相関を考えて見ましょう。

 天照とスサノウとの子産み争いとか誓約とか奇妙な話に仕立てられている五男三女神の話がありますが、

一応、その三女神を宗像の神として受け入れるとして、仮に百嶋神社考古学の立場から宗像の本当の祭神は大国主命であると考えれば少し見えてくるものがあるのです。

 大国主の子とされる二人の息子のうち、国譲りに即座に応じたとされる兄の事代主と、最期まで国譲りに抵抗したとされる弟の建御名方の神紋を見比べて見ましょう(百嶋説は子とも兄弟などともしない)。

神紋は神社ごとに多くのバリエーションがありますので、ここでは代表的なものを拾っています。

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事代主(事代主神社) 宗像大社 大国主と見た場合  建御名方(諏訪神社は諏訪だけでも4社)


皆さんどこか共通性があると思いませんか?何となく似ていますね、左の事代主=恵比須のマークは恵比須ビールでご存じでしょうが、通常は柏紋と言われていますし、宗像大社は楢紋とされています。

諏訪神社は梶紋とされ、親子三神(百嶋神社考古学ではいずれも大国主の配下であって子ではないのですが)とすれば、全て天狗様の団扇のような葉っぱであって、その事が目立たない様に柏、楢、梶…と各々主張しているのです。

 相互に、共通しているのは葉の葉脈であって、それが意味するものは、実はユダヤの燭台(ロウソク立)なのです。

 これを海人族がなぜなどと考えては凡そだめなのです。また、そのまま海人族の一派としての宗像族をイメージしては結論には辿り着けないのです。

宗像三女神(これも百嶋神社考古学では姉妹=スサノウと天照の誓約 ではなく従姉妹同士程度のものなのですが)、安曇族=志賀島の海人族の一派の上に担がれた天御中主、白川伯王〜大幡主〜豊玉彦=ヤタガラスの流れにある白族が元々はユダヤに通じる一族だった事を意味しているのです。

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高木大神系が使う梶紋(蔦紋)とメノラー(7本燭台)やハヌキヤ(9本燭台)

(「古代ユダヤ人は日本に来ていた」―実証的証明― 杣 浩二 078-291-5786をお勧めします)


「…梶の葉紋は夫々の葉の葉脈がメノラー(七本)やハヌキヤ(九本)の数となっており、その例を右記に示す…諏訪大社のミチクサ祭りに現れるアブラハムのイサクを幡祭に捧げる旧約聖書におけるユダヤの事件の事を考えると、明らかに梶の葉のメノラー、ハヌキヤが古代イスラエルに根ざしたシンボルと考える事が不可能ではないと考えられる」諏訪大社とメノラー(梶紋について) 

「古代ユダヤ人は日本に来ていた」65p

 今でも宗像大社にこの神紋はと尋ねると、“楢です”とのお答えを頂くそうですが(「玄松子の記憶」)、高貴な神社にしてはドングリが神紋というのも不思議です。私には、わざわざ建御名方とは無関係とするために敢て“ドングリの生る楢ですよ”と強調されている様に思えるのです。

つまり、反逆者としての諏訪大社の梶紋とは無関係ですよと言わんばかりに近畿大和朝廷への直結を売りにしているのではないかと考えてしまうのです。

 もしも、楢紋だけであれば気付かなかったはずです。

わざわざドングリまであしらっている事から、国譲りに反対した建御名方とは無関係であって、私どもは昔から近畿大和朝廷に忠誠をつくした一族ですとのメッセジを見て取ったのでした。

 勿論、これは作業仮説でしかなく責任は持てませんが、これが北部九州の海人族の東西分裂(今も続いていますが志賀島〜津屋崎の安曇族と宗像大社の宗像族とは仲が悪いのです)に関係しているのです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


 逆に言えば、これも宗像大社の高宮に祀られていた(いる)のが大国主命だったのではないかとする百嶋神社考古学の信憑性を感じさせるのです。

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丁度この境内に置かれた神木の楢の木から神殿の千木が見えます。

どう見ても縦切の男千木であって宗像三女神のものではなく主祭神が男神であることを示しています。

 「素人さんは良くそうおっしゃるんですが、そんなものは何の信憑性もないのですよ…」などと笑い飛ばす伊勢神宮辺りの禰宜を知っていますが、それは政治情勢への損得勘定から何度も祭神を入れ替え続けた結果いつしか整合性が取れなくなり説明できなくなったことを開き直っているだけであって、禰宜ながら自らの無関心のなせる業でしかないのです。本来、その嘲笑は自らに向けられるべきなのです。


百嶋由一郎氏が残した神代系譜、音声CD、手書きスキャニング・データが必要な方は09062983254まで

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