太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「百嶋神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログを継続しています。


これにはプロバイダーを含め何時情報封殺が行われるかも知れないため、最低でも複数の発信媒体を準備しておくべきではないかと考えているからでもあります。


今後ともかなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史によるblogひもろぎ逍遥に対抗しようという意図はないのですが、華麗なひもろぎ逍遥に対して、緋色のボロ着で、神籬=ひもろぎ(ひぼろぎ)を逍遥=彷徨い歩き、神社を探るというほどの意味で、「ひぼろぎ逍遥」を随時書いて行くことにしたものです。ただし、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象なども認められます。


 さて、現在、ひぼろぎ逍遥とひぼろぎ逍遥(跡宮)との合計のアクセス数は日量10001200件(年間4045万件)まで上がっています。


 同時に、連携する研究者によるblog20近くまで数を増やしており、全体では最低でも年間100150万件近いアクセス数を持っているものと思われます。


 当blogには九州王朝論から百嶋神社考古学へと向かわんとする多くの研究者、記録者、bloger…が参集されています。


 年に10回、10年でも高々100回程度の研究会でも大半は教育委員会関係者から学芸員といった利権まみれの方々通説を拝聴し心服するような、研究者亡き研究会は全く何の価値もないものと考えており、そのようなどこにでもあるような話を好まれる方々は、そこら辺りの既存の郷土史会、史談会に行かれ、村興し、町興し、世界遺産登録に拍手を送り、思いっきり尾を振られれば良いでしょう。


しかし私達は後ろ指を刺される様な探究に踏みとどまり、これまでの歴代の行政権力が隠し続けた真実の歴史の探求へと向かう人々への道標と成ろうと思うものです。




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2018年05月17日

ビアヘロ 047 火の君とは歴代の橘一族だった A 緊急提言 全国の九州王朝論者に告ぐ! “白族は雲南から”

ビアヘロ 047 火の君とは歴代の橘一族だった A 緊急提言 全国の九州王朝論者に告ぐ! “白族は雲南から”

20171224

太宰府地名研究会 古川 清久


 この話に入ると正統派(現場に全く入ろうともしないただの文献史学派=「邪馬台国本」読みという程度の意味ですが)の九州王朝論者の方々から顰蹙を買う事は覚悟の上で申し上げます。

この天御中主命=白山姫の一族は雲南省昆明から入って来た白族であると故)百嶋由一郎は語っておりました。

blogはその話を次世代に引き継ぐ事を目的としていますので、可能な限り民俗学の手法=帰納演繹法によって証明して行こうと考えています。

文献史学派の方は眉を顰められるかも知れませんが、通説派であれ異端派の九州王朝論者であれ、九州王朝の現場にも入らずに「古事記」「日本書紀」…を金架玉条の如く盲目的に論証されているだけであって、それが藤原によって作為が入っている事は不問にしているだけの事なのです(つまり、それを信じ込んで依拠しているだけの事なのです)。

 さてこのテーマに関しては、極力先行blogをお読み頂きたいのですが、この阿蘇の草部吉見の一族(黎族)と共に入って来た天御中主=白山姫を奉斎する一族とは雲南省の昆明から海南島を経由して入って来た白族だったのです

 この阿蘇氏(黎族の一派)と大幡主の一族(白族)もかつては中原にまで展開していたはずの主要民族(九黎族ほか)だったのですが、漢族、鮮卑族、清族、モンゴルなどに追われ追われ、最終的には辺境山岳の少数民族地帯に逃れ、遂にはそこさえも失って、列島に新天地を求めて移動した人々だったのです。

 阿蘇氏は雲南省麗江からメコン川(瀾滄江)を降り、旧サイゴンから北上し海南島(南西部保亭リー族ミャオ族自治県・瓊中リー族ミャオ族自治県・白沙リー族自治県・陵水リー族自治県・昌江リー族自治県・楽東リー族自治県・東方リー族自治県…)へ、大幡主の一族は昆明からファン川(紅河)を降りベトナムのハノイ沖ハロン湾沖の海南島へ移動し、時期を見て列島へと進出した人々であったと考えられるのです。


ひぼろぎ逍遥 194 櫛田神社(博多)の大幡主のルーツは滇王国だったのか?


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理由は不明ですが櫛田神社は熊野から移ってきているはずです


無題.pngどうやら、百嶋先生は、博多に雪崩れ込んだ、白族(ペイツー)のルーツは雲南省昆明に近い、謎の青銅器文明(漁労+水田稲作農耕)として知られる「滇国」を想定しておられたようです。

考えて見れば、昆明には白族がいましたし、「滇国」の本拠地である滇池もそこにあったのですから、「滇王」の印を貰った「滇国」の一部が博多の櫛田神社の主祭神の大幡主に繋がる事は理があることなのです。

ただ、それを結びつけられるところが、百嶋先生の凄いところだと改めて思うものです。


(てん、簡体字: , 拼音: Diān)は、前漢時代の紀元前3世紀頃から、雲南省東部の滇池周辺にあった滇人による西南夷の国。歴史[編集]の将軍荘蹻が遠征した時に、によって帰郷できなくなり、やむなく建国したとされる。紀元前109前漢武帝の攻撃で属国になり、益州郡の統治下に入った。滇王之印滇王之印晋寧県の石寨(せきさい)山の遺跡(石寨山滇国王族墓)からはこの時代のものと思われる青銅器や「滇王之印中国語版)」と書かれた印鑑などが発掘されている。西嶋定生はこの滇王之印と日本の福岡県で出土した漢委奴国王印とが形式的に同一であることを指摘している。古滇国の歴代君主[編集]以下は黄懿陸の著『滇国史』から整理した。文字史料が不足しているため、大部分の滇王墓の主はその本名と年代を確認することができない。         ウィキペディア(20150331 12:00による)


白族は黎族(阿蘇氏)と併せ、日本人のかなり重要な部分を構成しているはずで、白族の起源の一部がが「滇国」にあったと考える事が可能であれば、多くの照葉樹林文化論者達(彼らは文化の伝播だけで逃げているのですが…)が主張している話とも符合する訳で、単に白族の一派が南ルートで渡来していると抽象的に考えるよりは、より具体性を帯びており、視界が広がった思いがしています。


雲南の二大王国


 現在の中華人民共和国最西南部、ベトナム、ラオス、ミャンマーと国境を接する地域で、北隣に四川省(しせん)、北東隣に貴州省(きしゅう)、北西隣にチベット自治区と接する雲南省(うんなん)。省都は昆明市(こんめい)であり、雲南という名は四川省と接する雲嶺山地(うんれい)の南にあることに由来する。現在は約39万平方キロメートルで、中国の行政区分別では8番目の広さである。漢民族以外にはイー族、ペー族、ミャオ族、チワン族など少数民族も多く存在する。中国古代王朝では、雲南・貴州のこうした漢民族以外の少数民族を西南夷(せいなんい)と呼んだ。

 歴史の上での雲南地方では、中国史における戦国時代B.C.403-B.C.221)にその黎明期があったとされている。戦国・(そ。?-B.C.223)の頃襄王(けいじょうおう。B.C.298-B.C.263)の時代(あるいは威王の時代か。いおう。B.C.339-B.C.329)にいた武将で、春秋五覇1人と数えられる楚の名君・荘王(そうおう。B.C.614-B.C.591)の子孫と伝えられた荘蹻(そうきょう。荘豪とも。そうごう。生没年不明)が、現在の昆明市西南に、同省最大の湖である"滇池(てんち)"付近に遠征を行い、同地を楚の支配下に入れたが、その遠征路を占領した王朝(しん。?-B.C.206)によって帰路を断たれた。そこで荘蹻は滇池を拠点に初代王(在位不明)となって王国"滇(てん)"を建国したとされるが、伝説的要素が濃く、建国年はB.C.5世紀からB.C.3世紀頃と確定には至らず、滅亡年も紀元前2世紀から紀元後2世紀の間で諸説ある。この滇国が雲南を拠点にした初の王国であるとされる。これに関し、その後の歴史を語る上で、雲南の異称として""が用いられることも多い。

 一方で夜郎(やろう。B.C.523?-B.C.27)という国家があった。 夜郎は滇より建国が古いとされるが、拠点は現在の貴州省で、雲南寄りにある畢節(ひっせつ)市の赫章(かくしょう)県にあったとされ、また一時的に楚の荘蹻に占領されたとも言われている。司馬遷(しばせん。B.C.145?/135?-B.C.86?)著の紀伝体正史『史記(しき)』の『西南夷伝』によると、夜郎は西南夷国家の中で最も強勢であったとされた。さらに、前漢(ぜんかん。B.C.202-A.D.8)の武帝(ぶてい。位B.C.141-B.C.87)時代、前漢からの遣使が滇王・嘗羌(しょうきょう。位B.C.123?-B.C.85)の会見機会があり、嘗羌が「自国と漢はどちらが強勢か」という、漢王朝からしてみれば愚問に値する内容を遣使に尋ねた。そして隣国の夜郎も王は同様の愚問に値する内容を尋ねた。こうした故事から、"夜郎自らを大なりとす"、すなわち"夜郎自大(やろうじだい。自身の力量や世間を知らず、自信過剰に威張ること)"の言葉が生まれたとされる。

HP「世界史の目」より


白族(櫛田神社大幡主の一族)は雲南省昆明から紅(ファン)河を下りハロン湾から海南島を経由し肥後にやって来た


無題.png雲南省昆明(or大里?)

海南省(海南島)白砂黎族自治県(加茂村?)

隈本(熊本城のある千葉城町)

多くの隈地名の地(佐賀東部、博多、小郡、朝倉、日田)に北上し展開する。


 期を一にして入って来た阿蘇氏は天草下島の苓北町(この「苓」も黎族の「黎」と考えられます)を経由し阿蘇に進出します。

 こうして、恐らく紀元前後に中国の辺境から亡命してきた黎族(後の宇治族=多氏=阿蘇氏)と白族(後の櫛田神社の大幡主、熊野三山、下賀茂、上賀茂)という列島の最重要氏族の二つが形成され列島人の主要な勢力となって行ったと考えられるのです。

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海南島南西部の黎族自治県には加茂という地区まであり、天御中主の後裔である下賀茂神社を思わせます

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2018年05月16日

455 スポット151 赤村の超巨大古墳発見の背景について “福岡県赤村内田の前方後円墳?”の転載

455 スポット151 赤村の超巨大古墳発見の背景について “福岡県赤村内田の前方後円墳?”の転載

20180321

太宰府地名研究会 古川 清久


 現在、グーグル・アースでも容易に見いだせる古墳にしか見えない福岡県赤村の巨大丘陵が、(あくまでも)仁徳陵とされる大山(大仙山)古墳に次ぐとか匹敵する超大型古墳ではないかとの話が持ち上がり、地域を揚げて盛り上がっています。

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赤村に巨大な前方後円墳−。こんな話が、地元住民の間やインターネット上でささやかれ始めている。地元の古代史研究グループによると、現場の航空写真から鍵穴型丘陵の全長は約450メートル。日本最大の前方後円墳「大山(だいせん)古墳」(堺市)の墳丘長に迫る大きさとあって、古代史ファンからは「卑弥呼の墓では?」といった期待の声も聞かれる。

丘陵は同村の西端、内田小柳地区の雑木と竹に覆われた民有地で、東側を平成筑豊鉄道と県道418号が南北に走る。数年前から丘陵の形に着目してきた田川地域住民などでつくる「豊の国古代史研究会」の調査では、後円部に当たる部分は直径約150メートル。魏志倭人伝にある邪馬台国女王卑弥呼の墓の直径「径百余歩」とほぼ一致するという。

また、丘陵沿いの住民によると、東側にある後円部と前方部のくびれのような場所では、タケノコ掘り中に土器片が多数発見。周濠(しゅうごう)の部分に当たる丘陵西側脇には、以前から湿地が広がっていたという。現在まで発掘調査はなされておらず、真偽は謎のまま。田川地域の自治体の文化財担当者らは一様に、丘陵を「自然の地形」として、前方後円墳との見方を明確に否定している。

2018/03/20付 西日本新聞朝刊=


既に公開されてしまった事から申し上げますが、この古墳の存在については一部の九州王朝論者の間ではかなり知れ亘っていましたし、信用できる研究者に対しては秘密裏に情報を流してもおりました。

報道でも登場した福永晋三氏は五年ほど前から香春町講演を行っていますが、福永氏と私とが3〜4年程前の香春町での講演の直前に川崎町のN某氏から“こんな映像が見れるんですが…”として、私のパソコンを引っ張り出してグーグル・アースの画面やらN氏の手持ちの画像で確認したのが事の発端でした。

その後しばらくして元朝日新聞の記者でありミネルヴァ書房から「太宰府は日本の首都だった」外3著を出しておられる内倉武久氏をお連れして、現地の筍(タケノコ)山などに入り、高坏の破片となどの土器片を拾い、地権者である筍栽培農家の方からも大量の土器片を入れた箱などを見せて貰った事から、何とかオーバー・グランドに引き上げられないものかと工作を始めた無題.pngのでした。

そもそも傍流の九州王朝論者の一部には「豊前王朝論」なる概念があり、九州王朝の連合国家、分封制、分裂国家(南北朝ならぬ東西朝)といった様々な仮説が提出されていました。

 代表的なところでは大柴英雄の「豊前王朝」、坂田 隆氏、室伏志畔氏、佃収…と言った主として傍系の九州王朝論者の一群になるのですが、発見以来、私自身の当初の考え方としては始めから宣伝戦を行なうべきだというものでした。

それは、邪馬台国畿内説の最大の根拠とされてきた畿内の大型古墳群に対して、九州などには巨大古墳は存在しないし、あってはならないとするのが、利権集団としての考古学協会であり、その神輿に乗っている(その実使われている)京都学派なのであって、九州でどのように重要なものが出土しようが発見されようが、どうせ蓋をして重要なものほどコンクリートで固めてしまい、発掘調査費のほとんどを畿内で独占しようとの思惑があるからと考えてきました。

これこそが、古田武彦や九州王朝論が無視され攻撃され、他愛もない邪馬台国九州説までもが相手にされず、お伽話風のご当地邪馬台国説だけが許容されてきたのでした。

つまり、教育委員会や学芸員は元より、京都学派に占拠された今の発掘調査の現場では本物は蓋をされ、畿内説を補強する発掘調査や中程度の重要性を持った物だけを自分たちの都合で独占的に調査すると言う構造が存在し、通常は絶対に蓋をされてしまう恐れがあるのです。このため考古学の発掘調査の現場に精通した内倉武久氏は、蓋をすることが絶対にできないレベルの何らかの物証(羨道など)を得るところまで進め、その後公表するべきであろうと考えられ、その指導に従ってきたのでした。

私自身は、通説派はどうせ蓋をするに決まっているし、潰される事は決まっているのだから、一早く公表し、畿内に先行する豊前一帯の巨大古墳の存在(実はまだまだあるのです)を明らかにして、原子力村同様の京都学派による考古学村ぶりを炙り出し暴露すべきであると言ってきたのでした。

勿論、内倉氏の考え方が正論なのですが、現在の文化財保護法は京都学派のイニシアの元に独占的に発掘の権利を付与する構造になっており、時間だけが失われるだろうと考えていたのでした。当然にもN某氏に続き、いずれはグーグル・アースによって誰かが発見するだろうと思っていました。

そして、それが現実のものとなるのです。そのブログが公表されたのは2018年の1月でした。以下。

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古田史学の会系の名古屋の「東海の会」の石田さんによるものですが、その201818日付で公開された「福岡県田川郡赤村 巨大古墳地形」です(その続編もオンエアされていますので探して見て下さい)。

この第一発見者は、確かにN某氏でしたが、結果的にネット上に公表されたのは石田さんが最初だったのでした。当然、いずれは誰かが発見する事になったはずですし、いずれはAIの発達も含め、最終的には無視しひた隠しにしようとする通説の京都学派の横腹に風穴を空けて行く事に成るでしょう。

思えば、邪馬台国畿内説論者であり京都学派として大和説を主張した大御所の故)門脇貞二氏も、死ぬ間際には年来の持論である大和説と訣別し、「地域王国論」の立場から北九州説を主張したのでした。

彼によれば、邪馬台国の時代は、大和も吉備や出雲や筑紫など各地にあった王国の一つであって、それらの王国が競合しながら雄略朝前後に大和を中心に纏まったといった国家形成史を主張していたのです。

ただ、身内には“邪馬台国は九州にあったに決まっている…”と言っていたと言われていますので、所詮、京都学派とは利権によって形成されているだけのものである事が見えるのです。それはさておき、公開されたブログをお読み下さい。


福岡県田川郡赤村巨大古墳地形

 先に紹介した宮原遺跡は古墳と認められていないようですので私はこれを宮原古墳地形と称したいと思います。

 この宮原古墳地形の南方の福岡県田川郡赤村内田小柳において朱色を施した横穴式石室があったことが記録されており「小柳古墳」と名付けられています。しかし、香春町との境界付近に位置する低丘陵上に位置する古墳とされるのみで詳細は不明です。

(赤村文化財調査委員会編1976『郷土我鹿文化財を訪ねて』、赤村教育委員会編2008『赤村史』)

 福岡県田川市WEBサイトの筑豊地区埋蔵文化財発掘調査の記録(田川地域編)には、「遺跡調査リスト3」に「小柳古墳周辺」として、次のよくわからない写真が掲載されています。
http://www.joho.tagawa.fukuoka.jp/kiji0034837/3_4837_2363_up_w08gdxpb.pdf

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福岡県田川市WEBサイトの筑豊地区埋蔵文化財発掘調査の記録(田川地域編)より


 この写真は、東側から撮ったところと思います。

 そこで、私は平成筑豊鉄道の田川線の内田駅の北西辺りをGooglemapで眺めてみました。すると、方円墳(前方後円墳)と思われる地形が認められます。たぶん、これを前方後円墳状の地形として見つけたのは、私が初めてではないかと思います。

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<西からの鳥瞰>

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先の発掘調査の記録では、前方後円墳とは記されていませんが、航空写真で見る限り方円墳の形状が認められます。私が写真上で計測すると、350m程度の大きさと思われます。

宮内庁では仁徳天皇陵について、大阪府堺市堺区大仙町にある大仙陵古墳(大山古墳)を「百舌鳥耳原中陵」として治定されており、これが日本最大の墳丘長486mとされます。次いで誉田御廟山古墳(応神天皇陵古墳)の425m、さらに石津ヶ丘古墳(履中天皇陵)の365mとされることから、もし、小柳古墳が方円墳であるとしたならば、これらに次いで全国で3番手クラスの大きさと考えられます。
 また、実は小柳古墳の東にも、同程度の方円墳らしき形状が見られますが、こちらは全く調査されていないようです。開発がらみでないと調査されませんから致し方ないところです。


確かにグーグル・アースによって古墳を探ると言う手法は民間人ならではのものであって、N某氏の作業は他の行橋市内から豊前一帯までの古墳群に帯びており、その意味で先鞭を付けたものだったでしょう。

しかし、ネット上で公表して世間一般に知らしめたのは、結果でしかありませんが石田ブログとなり、ネット上の第一発見者は石田さんとなった訳です。既に意見が一致しており4月からリンクの予定です。

勿論、“自分が最初の発見者の栄誉に浴したい”などといったさもしいお考えは毛頭ないはずですが…。

ただ、350m程度の大きさというのは現地を踏み、付帯施設である環濠の問題などを考慮する必要性があり、直ちに二番目、三番目とは決めつけられない要素があって当面は保留する必要があるでしょう。

事実、内倉氏やN某氏と共に古墳を一周した際に、葺石の痕跡は実質的にはなかったものの、三段築成の跡や環濠の痕跡とも思える耕作放棄田やため池様のものも確認しており、実質的にそれを環濠と考えれば、二番手クラスの巨大古墳に成るとした内倉説の推定(可能性)は無視できない事になるのです。

皆さんも、まずは、平成筑豊鉄道田川線の内田駅周辺を検索される事から始めて頂きたいと思います。

ただ、残念なことに、九州王朝論者と自認する人々でさえ、現地を踏み薮を掻き分けて調べて見ようとされる方は極少数どころか皆無であって、大半は邪馬台国本読みの半通説紛いの方々ばかりと言った有様では京都学派の専横ぶりは今後とも続く事でしょう。

しかし、“あんなところにそんな大きな古墳などがあるはずはないんですが…”と言わざるを得なかった京都学派のNダニ氏(元は小学校の教員養成大学)の半ば引きつった記者会見は見ものでした。

今後どのようにしてこの巨大古墳(?)を無き物とされるのかは興味深い上に、日本の考古学会の在り様を見据えて行きたいと思うものです。ただ、直ちに「卑弥呼の墓」などとするのは村興し町興しには使えるのですが(坂田先生の説…外)、内倉氏は第28代宣化天皇(センカ)陵墓説を提案されています。

なお、朝倉市には本物の継体天皇の陵墓(巨大円墳)と思われるものがあるのですが(内倉説)、これは、また、別の機会にお話しする事にしましょう。既に一部はブログでご紹介しています(長田大塚古墳)。

最後に、赤村と言っても九州島内におられる方でもご存じない方が多いと思いますので、場所をお知らせしておくことにします。宇佐神宮への鏡を造った採銅所とか、有名な香春神社からも至って近い場所です。

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2018年05月13日

454 伊都能売神(イヅノメノカミ)を奉斎する方々へ A

454 伊都能売神(イヅノメノカミ)を奉斎する方々へ A

20170728

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 これまで、架空とか「埋没神」とされてきた伊豆能賣を探しだしその周辺の探索まで行ってきました。

 普通は、発見しただけで満足しても良さそうですが、まだ、伊豆能賣を豊玉彦の娘の豊玉姫だとした理由には納得されていない方は多いと思います。

 まず、崇教真光の嘉穂道場の祭壇に大国主命が主神に沿うように祀られていた事が切っ掛けでした。

同教団の祭神は御親元主真光大御神と伊都能売大国魂大国主之大神(イヅノメオオクニタマオオクニヌシノオオカミ)=伊都能売様とも呼ばれています(これは恐らく夫婦神ですね)。

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大国主命周辺の女性を探すのが近道なのです 百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


 大国主のお妃ならば、同じく宗像三女神のお一人の市杵島姫でも良さそうですし、大国主の母神や娘の可能性もあるでしょう。従ってこれだけでは決め手を欠いていると言わざるを得ないでしょう。そこで思い出したのが二番目のblogでした。

454 伊豆能売の神とは何か? A “二つ目の伊豆神社” イズノメの神が少し分かってきました

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伊豆神社の参拝殿には「厳神社」と…これは対馬の厳原の

ルーツである木坂の裏山伊豆山の伊豆の意味なのです


 伊豆の文字の置換えである対馬の厳原を思い出した時に謎が解けました(当然厳島の「厳」も瀛も)。

 先年亡くなられたと思いますが、対馬の郷土史家と言うより民俗学者の永留久恵氏の名著であり大著の「海神と天神」の第三部 民俗編 第四章 「イヅ山とホリ山」(255267p)が頭に浮かんできました。

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伊豆能賣の伊豆とは対馬の厳原でその原型が木坂の海神神社の社地の居津山(伊豆山)、居ツ原(イヅバル)である事を永留先生は書き留めていてくれたのでした。

 では、冒頭の数ページをご紹介しておきましょう。


…「イヅとは、イツクことである。神を斎き鎮める意で、居著くことでもあり、祾威とも書く。またホリとは「葬り」に相違ない。保利の山中が古い葬地であったことから見て、この見解に疑いの余地はない。」…


 後は、本著をお読み頂ければ分かるのですが、要は、対馬の木坂の海神神社の裏にある居津山、居ツ原こそが対馬の厳原、安芸の宮島の厳島神社、当然にも伊豆大島、もしかしたら、出雲、出石(スサノウがアカルヒメを追った兵庫県出石)も…この延長上に移動した地名である可能性があるのです。

 百嶋神社考古学の立場から言えば、大国主命のお妃のお二人は宗像三女神の市杵島姫、豊玉姫(タゴリヒメ)であり、イヅノメに相応しいのは、豊玉姫であろうことは一目だったのです。

 それでは、木坂の海神神社の祭神を見ることにしましょう

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海神神社 カーナビ検索 長崎県対馬市峰町木坂247  0920-83-0137


祭神  豊玉姫命  配祀  彦火火出見命 宗像神 道主貴神 鵜茅草葺不合命


 伊豆能賣が市杵島姫ではなく対馬の海神神社の主祭神(父神の龍王=豊玉彦=ヤタガラスはいつも背後に隠れておられますが…とは百嶋先生のお言葉でしたが)の豊玉姫に対応する事は伊豆=(居津原、居津山)地名と遠賀川流域の伊豆神社の祭神配置によって明らかだと思います。

この対馬の海神神社もしくは和多都美神社(長崎県対馬市豊玉町仁位550920-58-1488)に対応するだろうことは見当がついていました。

それは、水巻町頃末の伊豆神社の祭神に彦火々出見命(実は山幸彦=ニギハヤヒ=猿田彦)、玉依姫命(実は鴨玉依姫)、塩土老翁(実は豊玉彦=ヤタガラスの父神)であることを見た時から、温めていた構想でした。釣針を失ったとして途方にくれている山幸彦に塩土老翁が龍宮に行き龍王(豊玉彦)に逢う事を薦め、後に龍王の娘である豊玉姫(後に山幸彦のお妃となる)と出会う事に神話ではなっているのです。

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その神話の舞台が、木坂の海神(対馬一宮)なのか、こちらの和多都美神社なのかは、まだ、分からずにいます。思えば「海神と天神」を手に随行者と共に三泊四日で両社を巡ったのは十五年も前の事でした。

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仁位の和多都美神社前の参道としての海の鳥居 社殿は手前にあります


御祭神 彦火火出見尊 豊玉姫命 渡海大明神(多分この神が大幡主ですね)『對州神社誌』では 彦火火出見尊 鵜茅葺不合尊 とあります。『大小神社誌』 祭神二座 

 こちらででも対応しそうです。百嶋神代系譜を見て下さい。山幸と豊玉姫の間に産れたのがウガヤフキアエズなのです。いずれにせよ海幸山幸神話の重要な舞台はこの一帯なのです。以下、地図でご確認ください。また、対馬に行きたくなりました。あの頃よりは少しは神社が見える様になっていますので。

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峰町木坂の海神神社              旧豊玉町仁位の和多都美神社

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創作神とか埋没神などと言った不行き届きな評価に貶められた神(神とさえ扱われていない)という伊豆能賣の祭祀を太宰府地名研究会の中島 茂氏の手助けで発見し、その正体が豊玉姫であること、また、それが何故伊豆能賣と呼ばれているかについて考えてきました。

あくまで仮説であり、将来、修正する可能性は留保しますが、大枠で考えて大幡主系の女神であり、大国主命のお妃か関係者であること、当然にも北部九州に関係する神(人物)になるであろうことは動かないと思います。

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伊豆神社 カーナビ検索 福岡県遠賀郡遠賀町島津578


九州王朝論者の中でも九州に住む者は、神代史の大半は九州島を中心に起こっているとの確信は、勢い、その現場がどこかにあるはずであり、また、二千年近く経過したとしても何らかの痕跡は残っているはずで、その可能性を探る事ができる環境にあるというある種の特権(距離の問題から北海道在住者にはなかなかできない)を持っているのです。

であるにも拘らず、自称九州王朝論者においても現場を一切見ようとせず、「記」「紀」に偏重した文献史学を中央の学者に沿って吹聴しようとする輩が跡を絶ちません。

まず、関東、関西にあったとしても現場に出る事を一切行わず、「記」「紀」を金架玉条の如く聖典化する人々には藤原によって閉ざされた古代の扉を開く資格は一切ないと言わざるを得ないでしょう。

簡単言えば、伊豆能賣 を埋没神などと評価した学者擬きは、逆に自らが「記」「紀」に埋没していた事を知るべきであり、情報化社会ではさらに一層埋没化して行くであろう事を考えるべきでしょう。

何のことはない…。キチンとした調査もやらず、「記」「紀」を崇めただけの事であり、近畿大和を中心に列島の古代史が展開したなどと言った馬鹿げたお伽話を信じた結果、奈良、京都周辺だけを調べて神代の神々の痕跡が一切無い事から(そんなことは当たり前なのですが)、やはりそれは架空(所謂欠史八代)だろうとした馬鹿学者がいましたが、その追従者どもが今も大手を振って跋扈しているのが実態なのです。

酷いのは、かつて九州王朝論者の組織として古田武彦よりももっと鋭い研究姿勢を持っていたとする九州○○史の会とかいった連中が、長年に亘り一切現場に入る事もなく過ごしてきた事から(対馬や挑戦への観光旅行はやっているようですが)か、今や研究姿勢も研究者も失い、学会通説に調教された畿内説論者の教育委員会や学芸員からの御高説を賜わり、有難がって拝聴していると言う無様な状態にあるのです。

大喜びしているのは佐原 真に調教された利権まみれの考古学協会であり、九州の重要な施設をコンクリートで覆い隠し続けている京都学派の連中であり、そのお手伝いをしているという酷い有様なのです。

これまでのblogにおいて伊豆能賣とは対馬の木坂の海神神社の主祭神である豊玉姫のことであり、この海神神社の後背地が伊豆山(居津山)居津原であることから豊玉姫の別名が伊豆能賣(イヅノメ)と呼ばれたのではないかとしました。

してみると、伊豆の置換え地名である厳原、糸島、伊都、出雲、出石、伊東…もその展開地である可能性までが見えてきたのです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)

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豊玉姫の起源が、木坂の海神神社なのか豊玉町仁位の和多都美神社のどちらにあったかは、なお、不明ですが(龍宮、海幸山幸神話の舞台としては地元でも決着がついていない)、糸島市の志登神社(主神:豊玉姫)一帯、今回とりあげた三つの伊豆神社群(遠賀町の伊豆神社は伊豆能賣が主祭神)が展開する遠賀川河口…と、対馬の要衝浅茅湾〜一大率がいた伊都国〜言わずと知れた筑豊から瀬戸内海への要衝としての遠賀川河口と豊玉姫系氏族の展開が見えるのです。

ここで脇道に入らせて頂きます。

今のところ印象と言うか直感だけで考えているのですが、木坂の海神神社は外洋に面した場所であり、一方の豊玉町仁位の和多都美神社はそれこそ湖の様な穏やかな内湾の地です。

木坂の海神神社は旧國幣中社 對馬國一宮であり、祭神を見ると道主貴神が龍宮の龍王(豊玉彦=ヤタガラス)のようです。

木坂の海神神社  御祭神 豊玉姫命 配祀 彦火火出見命 宗像神 道主貴神 鵜茅草葺不合


豊玉町仁位の和多都美神社は式内社 名神大社 旧村社であり、祭神を見ると渡海大明神が龍宮の龍王(豊玉彦=ヤタガラス)のようです。

仁位の和多都美神社 御祭神 彦火火出見尊 豊玉姫命 渡海大明神 


海幸山幸神話では山幸は三年間でしたか豊玉姫と暮らし(凄し)戻って行くのですが、その場所とは波静かな豊玉町だったのではないかと考えています。

その理由は、その地が「仁位」と呼ばれているからですが、この説明に関しては、ニギハヤヒ=山幸彦=猿田彦と二田物部の展開地に二田(久留米市、新潟県柏崎)新多(筑豊)、新田(北関東)、仁多(島根県奥出雲)との関係について多くを書いてきましたので内部検索を試みて下さい。

もう一つ、木崎の海神神社が豊玉姫の実家であり、新婚生活を送ったのが豊玉町仁位の和多都美神社ではないかと考えた理由に木坂の産屋の風習があります。

紙面の関係で一部しか掲載しませんが、「海神と天神」(永留久恵)白水社 民俗編264pには産屋の遺風として一文が書かれています。

「対馬に産屋の習俗があった事が確認できるのは木坂の里だけで、それは明治二十年ぐらいまで続いていたと言われる」

「そもそも産屋の習俗は海神神話の豊玉姫が御子ウガヤフキアエズを出産したときの所伝にあり、南方系海洋民の習俗といわれるもので、おそらく倭の水人と呼ばれた海人族の遺風に違いない。その習俗が豊玉姫と磯良を祀る木坂の里にあったことは示唆的である。」とされているのです。

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右は、百嶋由一郎最終神代系譜の一部ですが、山幸彦、ウガヤフキアエズ、安曇磯良の三代と整合している事がお分かり頂けるでしょう。

豊玉姫と山幸彦の夫婦は豊玉町仁位で新婚生活を送り、やはり出産には豊玉姫の父神の龍王が居る木坂に戻りそこの産屋でウガヤフキアエズを産んだのではないかと思うのです。

対馬には福岡空港から20分のフライトで到着します。

後はレンタカーを借り、木坂や仁位のワダツミ神社を訪ねれば良いのです。

伊豆能賣に関心をお持ちになる方は、現場をお示ししましたので、ご自分の目で確かめられ、列島の古代に起こった民族の伝承を確認されるべきであろうと思うものです。

故)百嶋由一郎は“「古事記」の95パーセントは嘘であり、「日本書紀」は、少しは本当を書いていると言い切りました。”これによれば、全ての神官、禰宜、古代史家、歴史学者、教育委員会、学芸員…は大嘘つきで、ほとんど漫画みたいな話をしておられる事になるのですが、それが現実なのです。

最後に、豊玉姫が別名伊豆能賣と呼ばれた理由と考えられる聖地としての伊豆山(居津山)をグーグル・アースで拡大していますのでご覧に入れましょう。

しかし、何故、埋没神として消されたかは不明です。

恐らく、阿蘇系(雲南省麗江から列島に亡命した黎族の後裔)の藤原氏が関わっているからであろうことは容易に想像が付きますが、これは今後の作業であり、また、ご紹介できる機会がくるかも知れません。

黄色い円が伊豆山です。

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海神神社の背後地が伊豆山(居津山)でありこの地に居たことから豊玉姫は伊豆能賣と呼ばれた

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記