太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2017年09月16日

376 続)二田物部のルーツを久留米市田主丸に見出したら、さらに南の八女市星野の仁田にも…

376 続)二田物部のルーツを久留米市田主丸に見出したら、さらに南の八女市星野の仁田にも…

20170329

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久

 十年ほど前になりますが、久留米大学において谷川健一による講演会が180人規模で行われています。その内容は筑後から筑豊に展開した物部25部族にかかわる話でした。

 この物部25部族の筆頭二田物部氏の筑後側の故地(久留米市田主丸町石垣二田一帯)を宮原誠一氏が明らかにしたことから、太宰府地名研究会は2016年末来この二田の調査を進めて来ました。

すると、事務局の中島 茂氏は自らの出身地でもあることから“八女にも仁田があり、ニギハヤヒを祀る神社もある…”との情報を寄せて来ました。

更に、元々の発端であった宮原氏の口からも“星野は古くから仁田(ニタ)とも呼ばれていた”との話が跳び出してきた事から、俄かに筑後川流域から久留米市の奥懐(オクフトコロ)とも言っても良い八女市の最深部である星野村一帯に目を向ける事になったのでした。

このような事から、20173月という年度末の忙しい時期ながら星野のトレッキングに取り組むことにしたのでした。

 六所神社、谷川寺(百嶋由一郎先生から谷川健一の御先祖の故地との話を聴いた旧谷川村の古刹)、五社神(神社ではない)、金山神社(星野村仁田)…他数社と盛沢山でしたが、今般、最も驚いたのが、冒頭の六所神社と金山神社でした。

六所神社の解析は容易ではない事から後に回しますが、中島 茂氏から案内された金山神社のロケーションに驚かされたため、こちらの方からリポートを書かざるを得なくなったのでした。

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既に、仁田に入る手前で、「オダケ」と呼んでいるようですが「小竹」というバス停を見つけ、「仁田」(ニタ)と「小竹」の複合を見出し、二田物部のルーツが筑後川から耳納山を越えた南の奥地にあったのではないかという可能性が見えてきました。筑豊の小竹町は新多物部が居た場所ですね。

 勿論このベクトルが、筑後川流域から南の山岳地帯に入ってきた可能性もあるのですが、いずれにせよ、物部氏の故地を探る狙いに間違いがない事を再認識していました。

 ベクトルがどちらを向いているのかは今後の課題としても、既に、熊本県熊本市の旧植木町田底に二田という地名があり、二田神社が存在している事も確認している事から、さらに南の狗奴国の領域に物部氏の故地を探る価値があるものと考えています。

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弘安7(1284)に金山が開発され、産金がつづけられてきましたが、寛永元年(1624)から明暦現年(1655)までの間が金山の隆盛な時で、三坂に金山町が出来、黄金山正念寺が建立されました。

金山神社は正保2(1645)池田興兵衛の手によって建立されました。金山で働く人々の安全と産金の増大を祈願されたものと思われます。祭神は大山祇命と金山彦神の二神であります。

久留米藩主有馬公の崇敬も厚く、「金山大明神」の額の文字は、亨保7(1722)壬寅之歳に崎水巴陵禅師の書、瀬渡將捷彫之と篇額裏面に陰刻されています。

八女市HPによる


 「星野村史」によれば、同村の小室谷付近に鎌倉期に遡る星野金山の記述があり、更に古くからの採鉱の可能性もあり金山彦が祀られている事に理を感じています。

 さて、「福岡県神社誌」中巻には、星野村の金山神社の記述が無く、ようやく下巻巻末の無格社一覧に金山神社として大山祇命、金山彦命(星野村大字字ワクナシ420p)を祀る神社として出て来ます。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


 神社の傍には宮司家と思われる住居があり、道を挟んだ反対側には代々の宮司家の墓地と思われるものがありました。

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無格社ながら立派な社殿があり、隣には注連縄が垂らされた宮司家と思われる家がありました

 お名前は「氷室」です。

 氷室は夏季に高級公家などに届けられる氷の氷室の意味で解釈される事が多いのですが(実際、九州王朝の大王への氷の氷室の意味も考えられない事はないのですが)、直ぐに頭に浮かんだのは、金山の溶鉱炉(土穴)であり、火室(ヒムロ)でした。

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累代宮司家の墓地


 金山故に隠されたのか、物部氏に関係していた事により無格社扱いになったかは不明ですが、手入れの行き届いた立派な社殿でありしばし感激を覚えていました。

 さて、当方が関心を持つのは、「仁田」地名と二田物部氏との関係であり、その中枢領域の神社の祭神からこの物部氏がいかなる氏族であったかを見通す事でした。

 結果は、金山彦命と大山祇命とを祀っている事から、宮原研究で明らかとなった久留米市田主丸町二田〜石垣の月読神社が月読命を祭神としている事から、我々、百嶋神社考古学では大山祇命=月読命とすることから対応しており、小竹町に対応する「小竹(オダケ)」地名とも併せ考えれば、当方の想定は十分に達成されたと考えています。

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参拝殿                   境内には稲荷社も

では、二田物部のニギハヤヒはとお考えの方も多いと思います。

 この事を同行の中島さんに話すと、“次に案内しますから”と安請け合いされました。

 それは、数分ほど下って移動したところにある天照太神宮でした。

 中島さんの説明では、祭神は天照ではなくニギハヤヒだと言うのです。

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場所は中心地の池の山を過ぎた辺りの長尾地区でしたが、筑豊に限らず久留米周辺でも天照大御神とされた天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)(「先代旧事本紀」)とされるものがあることから十分にあり得る事なのですが、裏取りのために「福岡県神社誌」を見ても、無格社一覧だけでは地名と祭神名が不明瞭で別資料に当たらざるを得ません。

 今のところ中島 茂氏に旧星野村史の確認と、伊予○○女史という研究会周辺の神社探訪者がおられる事から別途確認をお願いしているところです。

当面、これ以上は確認できないところから詳細については別稿とします。

 当日は年度末でもあり十数名と参加者が少なかったのですが、車3〜4台の方が動きやすく、実際には都合が良いものです。

 320日には、熊本のメンバーを対象に、雨の中、車10台代による2030人規模のトレッキングを行いましたが、宮崎〜熊本県境の空いた所だったことからなんとかやれました。

 福岡、熊本、大分の三県で定期的にトレッキングを行う事はかなりの労力を費やしますが、右から聴いて左に貫けるだけの、使命感も無く無責任なお話をお聴きする人の会では研究者は一切育ちませんし何の業績もなく費え去って行くだけにしかなりません。

 自らの足で調べようとする人の中からは、将来、ブロガーとなり、発表する人、記録を後世に伝えようとする人が現れます。

 また、熊本から新たな若きブロガーが出て来そうです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


 研究のために百嶋由一郎氏の手書きデータ、神代系譜、音声CDを必要とされる方は、随時、09062983254までご連絡下さい。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 22:44| Comment(0) | 日記

2017年09月13日

375 二田物部のルーツを久留米市田主丸に見出したら、さらに南の八女市星野の仁田にも…

375 二田物部のルーツを久留米市田主丸に見出したら、さらに南の八女市星野の仁田にも…

20170328

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


この間、201612月と20172月に掛けて、数回にわたって筑豊の小竹町、宮田町周辺に展開する以前の「二田物部」の故地を探るトレッキングを行っていますが(左)、久留米市田主丸、朝倉市杷木町よりもさらに前と考えられる八女市星野村にもその痕跡があるのではないかとして、20173月「二田物部」の故地を探る再度のトレッキングを行いました(右)。

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 まず、旧星野村の位置を確認して頂きましょう(下図枠内)。

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 国土地理院地図をご覧になれば、この八女市星野村にも仁田坂、仁田原という新田原(ニュータバル)から鹿児島県薩摩川内市の新田(ニッタ)神社、新田義貞(ニッタヨシサダ)さえも連想させる地名が複数存在し、同時に「先代旧事本記」の筆頭に掲げられる栄えある二田物部(一般的には福岡県小竹町新多に比定されている)に関する地名までもが星野川の狭谷沿いに存在している事がご理解頂けるものと思います。

 既に、この筑豊の二田物部(小竹町新多)が新潟県柏崎刈羽原発のある柏崎市の二田物部神社に展開している事はお話ししています。

 ひぼろぎ逍遥 295 北北東に進路を取れ! N 柏崎刈屋に筑豊から展開した二田物部を確認した

そして小竹をメルクマールとすれば、この小竹姓が全国で最も集中するのが新潟県である事(HP姓名分布&ランキング)から、故地の地名を自らの姓とした物部の末裔を意識せざるを得ないのです。

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ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)は併せて日量1000件(年間35万件)のアクセスがあり、連携する15の百嶋由一郎神社考古学によるblogと併せれば、年間アクセスは百万件を超えていると考えられます。古田武彦九州王朝論の精神性を失い学会通説に色目を遣い、行政に尾を振る学芸員や教育委員会に講演を頼むような組織には九州王朝論の深化を期待する事などできるはずがありません。皆さんも、これまで潰え去ってきた通説派に堕し業績も残すことなく消え去ってきた研究会から離脱し研究者、探索者による研究会に参加しませんか?

去る1218日、太宰府地名研究会では久留米市田主丸町石垣の二田の月読神社から朝倉市杷木町大山の大山祗神社への数社を巡るトレッキングを行いましたが、希望者が多かったことから219日に再度追加トレッキングを行いました。

 問題は、この月読命=大山祗の祭祀圏が何であるのかです。古代史の世界で脚光を浴びる物部氏ですが、「先代旧事本記」に於いて筆頭に掲げられているのが二田物部である事を思い出して下さい。この筑後から筑豊に展開したとされる25部族中最大勢力だったとされる二田物部の根拠地は鞍手郡小竹町新多(ニイタ)だったとされていますが、では、どこから筑豊に展開したのでしょうか、この問題に関して田主丸の三夜様が関係しているのではないかと考えて来ましたが、これまで決定打が無く考えあぐねて来ました。ところが、有馬藩による「久留米藩社方開基」外の研究を数十年に亘って続けられ、昨年、新たに加わられた宮原誠一氏(blog「宮原誠一の神社探訪諜」)の研究により、田主丸の三夜様の元宮が田主丸町石垣の「二田月読神社」であった事が分かり、ある時代のニギハヤヒ系物部氏のルーツが耳納山北麓にあり、大山祗=月読命を奉祭する氏族(民族)であった事までが見えてきたのでした。

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詳しくはblog「宮原誠一の神社探訪諜」をお読み頂くとして、現在、更なる故地を求めて調査を行っています。

既に、耳納山南麓の星野村一帯は二田(仁田)原と呼ばれていた事が分かっています。大山祗神社は一〜二社しかありませんが、「福岡県神社誌」を詳しく調べると17社が無格社扱いとされ事実上消されていることまでが見えてきたのでした。

では、筑豊に展開した物部25部族はその後どうなったのでしょうか?島根県奥出雲町の仁多もありますが、それは置くとして、これも、二田(仁多)物部から考えて見ましょう。新潟県の柏崎刈羽と言えば東京電力の原発で知られますが、その4キロ東の旧刈羽郡二田村大字坂田(旧西山町)=田中角栄の出身地(現柏崎市)に二田物部神社が存在するのです。

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そこで、同社の神紋である「尻合わせ三つ葵紋」をご覧ください。これが徳川家の三つ葉葵の原型(実際には忌部の二つ葵が原型)なのです。徳川家康が新田(これも二田)義貞の後裔という振れこみは有名です。また、家臣団の本多、酒井も賀茂神社の社家であったとの話があるのです。つまり、物部の後裔が武士(モノノフ)の最終的勝利者となったのです。詳しくは「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)などを検索してください。では、この物部と言われた人々とは如何なる勢力だったのでしょうか?熊本市植木町にも二田地名がありますが、今のところ彼等こそ熊襲、狗奴国と呼ばれた人々だったのではないかと考えています。

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既にインターネット上には百嶋神社考古学研究会(神代史研究会)の全国blog連合体が形成されていますが(「ひぼろぎ逍遥」同跡宮参照)、2017年頭にも新たなblogが加わる予定です。これらのblog連合は事実上の研究者による連合体であり、右から聴いて左から抜けて行く従来型の共同体化した研究会とは全く異なり確実に将来への遺産となる研究者による連合体に繋がるものになるでしょう。

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無題.png

無題.png皆さんは、何故、熊本城の最奥部に昭君(王昭君)の間なるものが置かれているのかをお考えになった事があるでしょうか?加藤清正は確かに豊臣秀頼を迎え入れ徳川と一戦を交える気構えで熊本城を造ったと言われます。それは毒殺により実現しませんでしたが、恐らく、秀吉を受入れた木下家とは五七桐紋を使う名家であり、この栄えあるトルコ系匈奴でも呼韓邪単于(コカンヤゼンウ)の流れだったからこそ、昭君の間が置かれたのではないか…と言うのが我が百嶋翁の解読でした。これ以外にも、多くのお話ができるのですが、それはblogなどで。


無題.png2017219 日曜日玄海、太宰府地名研究会トレッキング 「二田物部の筑後側の故地を探る」    

20161218日 日曜日午前1000 集合〜出発 申し込みは中島まで 090-5289-2994

久留米市田主丸町イオン・タウン駐車場に集合!  参加費(資料代)500円程度…

御杖代(古川)解説、案内は「久留米藩社方開来基」から筑後の神社の解読を続ける北野町在住のM氏ですが、新年から百嶋神社考古学(神代史)研究会の重要な一翼を荷って貰える事になりました。

現在、右から聴いて左に抜けて行く人々により業績も痕跡も残さず消滅して行くただの親睦会ではなく、また、行政、教育委員会、学芸員に尾を振り、村興し、町興し、世界遺産登録に色目を使い学芸員の話を拝聴し自らを売り込もうとするさもしい行政の芸人に導かれる似非研究会でもなく、研究者による研究会を目指していますが、また一人、新たな研究者が陣営に加わって頂いた事になります。

集合場所

カーナビ検索 久留米市田主丸町豊城1895 電話:0943-72-2573 大雨の場合は中止!

※参加費(資料代)500円 各自、弁当、お賽銭、傘持参の事…

  @  三夜様(久留米市田主丸町田主丸552-2) 兎の狛犬が印象的な月読命の神社を確認しよう!

  A  二田月読神社(田主丸町石垣1158-1二田の岩佐幸華園付近)

筑豊に展開したとされる物部25部族ですが、「先代旧事本記」で筆頭に登場する物部氏の本体は、多くの物部研究者によって鞍手郡小竹町新多(ニイタ)に比定されていますが、その筑後側の故地こそこの耳納山の麓の石垣の二田であり、奉祭する神とは月読命だったのではないか?

  B  柳瀬高良宮(久留米市田主丸町柳瀬) 

故)百嶋由一郎氏が最も重要な高良宮=玉垂宮とされていた旧瀬高町河内の玉垂宮に匹敵する筑後で最重要の古社です。祭礼には黒の五七桐と赤の三五桐の幟が並び、神殿にも桐の神紋が付されています。「高良玉垂宮神秘書」では高良玉垂命と神功皇后とは夫婦であったとされていますが、その痕跡を辿れる数少ない古社の一つです。

  C  玉垂御子神社+宮地嶽神社(久留米市北野町金島583

何故か九人の高良皇子と宮地嶽神社が共に祀られた神社が在ります。この神社を共に祀った人々の思いとは…。

  D  大山祗神社(朝倉市杷木大山527

朝倉市で12月に開催される”おしろい祭り”は、300年以上続く全国でも珍しいお祭です。中国大陸で400回飛行機に乗り8000万円遣ったと言われた故)百嶋由一郎氏は“トルコ系匈奴でも王昭君の一族がごっそり列島に入って来ている”“おしろいとは王庄昭君以外には考えようがない”と話しておられましたが、今回はその現場を探ります。百済、新羅、高句麗、秦、漢、呉、越…果てはペルシャ系まで多くの渡来系民族が入っているとされる中で、何故か古代史の世界ではトルコ系匈奴だけは触れられていません。恐らくそれが物部氏の本体であり、近畿大和朝廷にとっての最大の強敵であった熊襲に繋がるために避けてこられたのだと考えています。それが今回のテーマです。

してみると、この神社の背後の山が三日月山(大分県側)とされている事までもが見えてくるのです。

途中で12社が除外され追加されルートが変わる可能性がありますのでご注意ください!

現在、百嶋神代史研究会グループ全体の年間アクセス数は恐らく5070万件になるでしょう…

トレッキング注意事項  玄海、太宰府合同地名研究会(トレッキング)実際には55ポイントを巡りますが、どなたもどこかの神社には心惹かれるものがあると思います。最近は神社の祭事、経営が非常に難しくなっています。お賽銭を準備の上安全に留意され参拝して下さい。神社に関して何かご質問があれば 09062983254 古川までご連絡下さい。参加申込等:090-52892994(中島)


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無題.png皆さんは、何故、熊本城の最奥部に昭君(王昭君)の間なるものが置かれているのかをお考えになった事があるでしょうか?加藤清正は確かに豊臣秀頼を迎え入れ徳川と一戦を交える気構えで熊本城を造ったと言われます。それは毒殺により実現しませんでしたが、恐らく、秀吉を受入れた木下家とは五七桐紋を使う名家であり、この栄えあるトルコ系匈奴でも呼韓邪単于(コカンヤゼンウ)の流れと知っていたからこそ、昭君の間が置かれたのではないか…と言うのが我が百嶋翁の解読でした。これ以外にも、多くのお話ができるのですが、それはblogで多くを書いています。画像は八女市黒木町今の黒木稲荷神社

無題.png 2017325日 土曜日玄海、太宰府地名研究会トレッキング「二田物部の筑後側の故地を探る」  

2017325日 土曜日午前1000 集合〜出発 連絡は中島まで 090-5289-2994

八女市田ゆめ・タウン八女 八女市蒲原988-28駐車場に集合! 参加費(資料代)500円程度…

御杖代(中島)解説、この間「久留米藩社方開基」から筑後の神社の解読を続ける北野町在住の宮原氏に月読神社の案内を頂いていますが、更に耳納山の南の八女黒木星野に二田物部の故地を探ります。

現在、右から聴いて左に抜けて行く人々により業績も痕跡も残さず消滅して行くただの親睦会ではなく、また、行政、教育委員会、学芸員に尾を振り、村興し、町興し、世界遺産登録に色目を使い学芸員の話を拝聴し自らを売り込もうとするさもしい行政の芸人に導かれるものでもなく、研究者、探索者による研究会を目指していますが、また一人、新たな研究者が陣営に加わって頂いた事になります。

集合場所

カーナビ検索 八女市蒲原988-28 緊急連絡 :09062983254 大雨の場合は中止!

※参加費(資料代)500円 各自、弁当、お賽銭、傘持参の事…

@   六所宮    八女市立花町北山小路公民館東

A   五所神社   八女市本 大茶園の中

B   谷川寺    八女市立花町谷川565 真言宗大覚寺派谷川寺は旧谷川村の古刹、民俗学者の故)谷川健一の出身地とは百嶋由一郎から聴いた話

C   黒木稲荷神社 八女市黒木町今729 稲穂を持った武人猿田彦は百嶋由一郎氏が言った「赤米研究田サルタ…」か?稲荷=豊受大神の連れ合いも山幸彦ですね。

D   是善王神社  八女市上陽町北川内 大伴部博麻呂(「日本書紀」大伴部博麿顕彰碑)

  @      是善王社   八女市上陽町下横山 余裕があれば廻ります。


谷川寺こくせんじは、 奈良時代の神亀5728に聖武天皇の勅願を受けて、 高僧・行基が開いたと伝えられる寺院です。是善王神社 八女市上陽町北川内 「日本書記」大伴部博麻呂顕彰碑 目前のハウスに衙頭あり。是善王社八女市上陽町下横山 大分県に数多く分布するこのタイプの神社が何であるかについては大分県下でも議論されていますが、百嶋由一郎氏は菅原道真の父を祀る神社とされていました。黒木一帯にも数社確認できますが、何故そう呼ばれたかを含めほとんど分かってはいません。

途中で12社が除外され追加されルートが変わる可能性がありますのでご注意ください!

現在、百嶋神代史研究会グループ全体の年間アクセス数は恐らく5070万件になるでしょう…

トレッキング注意事項  玄海、太宰府合同地名研究会(トレッキング)実際には55ポイントを巡りますが、どなたもどこかの神社には心惹かれるものがあると思います。最近は神社の祭事、経営が非常に難しくなっています。お賽銭を準備の上安全に留意され参拝して下さい。神社に関して何かご質問があれば09062983254 古川までご連絡下さい。参加申込等:090-52892994(中島)
posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 02:23| Comment(0) | 日記

2017年09月09日

374 塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! F 野坂の浦(熊本県芦北町田川)?の猿田彦

374塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! F 野坂の浦(熊本県芦北町田川)?の猿田彦

20170328

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川  清久


既に、大宮神社と猿田彦大神 @〜S 、塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る!@〜E として山幸彦=猿田彦=ニギハヤヒ…の姿を探ってきました。「熊本県神社誌」に対応する有明海、不知火海両岸に分布する猿田彦を祀る神社の実相を探ってきましたが、今般、塩浜、塩竃、塩屋、塩釜との呼称のない猿田彦を祀る神社の一社(牛淵神社 芦北郡芦北町田川)を訪問しました。

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葦北の野坂の浦ゆ船出して水島に行かむ浪立つなゆめ


長田王(ヲサダノオホキミ)が筑紫に派遣された時に、水島に渡る船上にて詠んだ二首の歌のうちのひとつ。 葦北(アシキタ)は熊本県の葦北郡で、「野坂の浦」は芦北町説と隣の田浦町説があります。

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野坂の浦がいずれであったかはおくとして、古代には不知火海がかなりの奥まで入っていたと考えられる佐敷川、湯浦川一帯ですが、その湾奥最深部に牛淵(ウシブチ)地区があります。

 そもそも「計石(ハカリイシ)」の「石」も同様の意味と考えられますが、この「牛淵」の「牛」とは「臼」を意味するもので、周りを高い山に囲まれた袋状の土地です。

また、古代には干満の影響を大きく受ける場所であり、潮を引き込み製塩する事も可能な場所であったと考えられます。

 この神社において、これまで確認してきた古代製塩が行なわれていたかどうかは確認する手段を持ちませんが、「熊本県神社誌」(249p)によれば、祭神は猿田彦神と天宇受女神の二柱であり、塩浜、塩竃、塩屋、塩釜との呼称を持つ五社が猿田彦を単独で祀るとしながら、実際には二神を祀っている事との共通性を見せています。

 これをどう見るかですが、以前ご紹介した五社と同様に、塩筒翁(実は博多の櫛田神社の大幡主)+猿田彦の二神を祀るものであったものを、明治期に通りの良い天宇受女としたのではないかと考えるのです。

 それは、この神社も建御名方、下照姫、八坂刀女命を祀る佐敷諏訪神社(長脛彦やスサノウに縁続きの祭神を持つ)境外摂社とされているからです。

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由来はありきたりでこれといった事は書かれていませんが、産納宮が気になります。

 これは、芦北で二例目ですが、今までにも何回か遭遇しています。

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産納宮とは氏神とは異なるもので、産土神と同様のものと考えて良いのではないか考えていますが、まだ、良く分かりません。

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深い山懐に囲まれた牛淵そのものも産納宮のような印象を与えてくれる魅力的な集落です。

 ただ、芦北全体がそうですが、津波には弱い地区である事は言うまでもありません。

 天恵と天災とは絶えず裏腹の関係なのです。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 11:00| Comment(0) | 日記