2024年05月27日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)1010 大分県日田市の「有王社」を疑う ❶“新ひぼろぎ逍遥からの転載”

ひぼろぎ逍遥(跡宮)1010 大分県日田市の「有王社」を疑う ❶“新ひぼろぎ逍遥からの転載”

20240204

太宰府地名研究会 古川 清久


 先行ブログ1003でこの神社についても書くとしていました。先延ばしにしていたものの、書ける時に書いておかないと思い直し書く事にしました。

 この神社も加々鶴トンネルの対岸(筑後川右岸)、夜明駅から志賀神社を経て夜明ダムの手前の小山に祀られているのです。

 ただ、有王社とはほとんど耳にしないもので全国的にも聴いたことが無いものです。

 地元の方々には立腹される方もおありかも知れませんが、天邪鬼の私が取り上げる以上、意味があると考えたのではなく、どうも本来の祭神が入れ替えられているのではないかと思った次第です。

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有王社(有王宮・天満宮・水天宮) カーナビ検索大分県日田市大字夜明3185番地


 勿論、こういったものは確定した通説などと言ったものではないのですが、浅ましいまでも既に地域で確立しネット上でも右から左まで同じ論調、結論に異議を唱えるのは袋叩きになりそうです。

 ただ、私の目からはあまりにも違和感が伴うため、大人げないとは思われそうですが、そういう事を押し通すのが神社の本質を探る者の使命なのです。

 上の地図を見れば分かる通り、同社がこの大蛇行地それもかなりの落差のある急流である事は想像が着くでしょう。

 これは夜明ダムが稼働する昭和28年以降かなり急激に流速が落ちている事を考えれば、筏流しを行ってきた船頭さんとは言わない中のりさんとしておきますが、最も緊張する危険な場所であった事はご理解いただけるのではないでしょうか。

 そして、先行するブログをお読み頂いた方には、既に、この九州山地を駈け降る最も緊張する容易に息の抜けない命懸けの場所だったはずなのです。

 私が最も違和感を抱いた理由は、その様な場所、それも筑紫、豊という緊張する国境に、何故、瀬織津姫(藤原が祓戸神別名として金山彦と博多の櫛田神社の大幡主の妹の埴安姫の間に生まれた櫛稲田姫)を祀る神社を置く必要性も必然性もない訳で、これも大原八幡宮が龍王ことヤタガラスを消そうとばかりに祀ったのではないかと考えたのでした。

 まず、有王という呼称は中国風の香りがするもので、類型として白王(白川伯王)、阿智王など僅かしか浮かんできません。

それは、この有王社を祀ったのは応神を呼び込んだ近畿大和朝廷の総督とも言うべき大原らしいからなのです。

 前置きが長くなりましたが、この一般的には聴いたこともない有王神社をなんとか乏しい知識で考えて見たいと思います。

無題.png それではご覧いただきましょう。私も一度入っていますが、画像が無いため、しばらくはネットから拾えるもので代行し、後で入れ替えたいと思います。

 ただ、パワースポットとか大騒ぎし商売に繋げようとするさもしい方々のものとか、神社や行政の宣伝合戦の浅ましい派生サイトはできるだけ避けて穏やかで落ち着いた健全さを感じさせるものから使わせていただきます。以下、田舎暮らしdeほっ!様から…

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瑠璃の星写真・イラスト・旅日記 『邪馬台国ラプソディ』 聖地巡礼 26 夜明けの有王社 様より

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これで大体の概要はお分かり頂いたと思います。

 まず、私が違和感を抱いたのは神殿の千木が男神を示している事でした。その一事だけで、これが瀬織津姫ではないのではないかと思ったのでした。

 さらに言えば、参拝殿の上に置かれた龍の彫刻の板盤はどう見ても日田、津江、彦山から流れてくる筑後川を龍に見立てたものであり、日田の中心部に玉川町があるように、遠い古代に豊玉彦(海幸、山幸の神話に登場する龍王)=ヤタガラス(博多の櫛田神社の大幡主=カミムスビの子)を祀ったものであろうという気がしたのでした。


由緒 人皇八十代高倉天皇の御代、大蔵永秀の豊後国の関門守護を任として築城の櫛崎城に鎮座の処、宝永2年(1705)現今の地に御鎮座奉斎す。当時は有王宮と称す。       御祭神 瀬織津日女命


 そして、なんらかの動機で瀬織津日女命に替えられたのではないかとの思いが湧いてきたのでした。

 既に、大原八幡宮に応神を持ち込んだのが大蔵一族であり、彼らが大和朝廷の先兵=占領軍として多くの神々を塗り替え、摩り替え、歴史を変えて来た事は想像に難くなく、その延長上に日田の隅々まで占領政策が静かに広がってきたはずなのです。では、元々この地には誰が祀られていたのでしょうか?

無題.png 直ぐに頭に過り浮かび上がってきたものは蟻通神社でした。多分これに間違いはないでしょう。

 この祭神は中将(「平家物語」「源氏物語」にも中将は出てきますが、中国と外交官系を結んだものはこの称号が与えられるのです)とされ、八咫烏はその最初の一人なのです(中将姫とは別の概念)。

 和歌山県や大阪府にかなりの数の「蟻通神社」「蟻通明神」があります。


「私のたなべ」田辺市観光協会 様より


蟻通しの由来

むかしのことです。ここ紀州田辺に外国の使者がやってきました。

その使者は『今から出す問題を解いてみよ もし解けなければ日本国を属国にしてしまう』といいました。そして、持ってきた法螺貝を出して、その貝に一本の糸を通すことを命じました。

日本の神がみは、この難問にたいへん頭を痛めました。その時、ひとりの若い神様が前に進み出て『私が法螺貝にその糸をその糸を通してみせましょう」といって貝の口からどんどん蜜を流し込みました。

蜜は、貝の中の複雑な穴を通り抜けて貝尻の穴へと流れ出しました。そして、この若い神様は蟻を一匹捕らえて糸で結び貝の穴から追い込みました。蟻は甘い蜜を追って、複雑な貝の穴を苦もなく通り抜けました。蟻の体には糸が結ばれていますから法螺貝には完全に糸が通ったのです。

これを見た外国の使者は『日の本の国はやはり神国である』と恐れその知恵に感服して逃げ帰りました。

日本の神がみは、たいそう喜んで『我国にこれほどの賢い神があるのを知らなかった』といって、その若い神様の知恵をほめました。そして、蟻によって貝に糸を通したことにより蟻通しの神と申し上げるようになりました。今では知恵の神とあがめられています。


ここで私の方からもコメントを加えさせて頂きます。蟻通神社の話は民衆に受けたらしくある時期流行し伝承も祭神も多くの変化を見せています。ただ、中将とは中国に派遣された外交官級の優秀な人が送られる称号で、本来は博多の櫛田神社の大幡主(カミムスビ)の子の豊玉彦(八咫烏)の事であったと百嶋神社考古学では理解しています。まず、阿波から熊野は忌部の国であり、この忌部こそ宗像三女神の一族=白族であり、阿波から泉佐野と言う同社の分布もそれと対応しています。

そして、玉の曲がった穴に蟻を使って糸を通すという故事から蟻通神社の名が生まれ、加えて、紀州でも大蛇行の狭い急流の流れで木材の前後が選別されると言う事から、正しくこの加々鶴から夜明の渓谷で川流しの安全と筑紫から豊の国境の平安を願って置かれたのがそもそもこの中国風の有王神社の基層に存在した蟻王神社だったのではないでしょうか?

それが何故有王社に変わったのかは最後にお話ししましょう。

すさまじきもの 〜歌枕探訪〜神社(大阪府泉佐野市) 


無題.png蟻通神社(大阪府泉佐野市)

蟻通神社はもともと熊野古道沿いにあったものを、第二次大戦中に飛行場建設のために現在の地に移転された。このため、以前熊野古道を歩いた時、足を延ばして訪問してみようかどうか迷ったが、遠回りになるので結局断念したことがある。このたび車で泉南方面の故地巡りに出かけ、念願の訪問を果たした。この蟻通神社、こんな泉南の片田舎にありながら、なにかと由緒満載で、紀貫之、清少納言らのエピソードもあり、そして能の舞台にもなっている。

知る人ぞ知る、古典ゆかりの地である。まずは、紀貫之関連

蟻通神社の前を通る時は馬から降りなければならなかったが、紀貫之は馬から降りずに通ってしまったため、蟻通明神の怒りを買って、俄かに一天かき曇り、馬が動かなくなった。これに対し紀貫之が和歌を詠じて蟻通明神をなだめた、という話。…中略…


無題.png 蟻通神社 カーナビ検索 大阪府泉佐野市長滝814 

創建は、社伝によると なんと紀元93年!! 第9代開化(かいか)天皇の時代にできたのだそう!

わたしが大好きな、日本一の古墳の仁徳(にんとく)さんが第16代天皇その7代前の時代というと

弥生時代中期 弥生時代・・・!この頃に稲作りが始まったので五穀豊穣と国土開発を祈る目的で

国造りの神である大国主命(おおくにぬしのみこと)を祀ったのが始まりとされています しかし「蟻通」の名前が広まったのは平安時代のことこんな故事があります

***

歌人である紀貫之(きのつらゆき)が旅の途中、馬に乗ってこの神社を通りがかったとき日が暮れ、大雨が降りだし、馬が倒れましたそこへ老人が現れて「蟻通明神の境内を下馬しないで通った罰じゃ!」と。

そんなん知らんやん!!などとは言わず、貫之さんは歌を詠みました 「かきくもり あやめも知らぬ 大空に ありとほしをば 思ふべしやは」この歌に老人は「ホッホー!」と感心し「実はワシが蟻通明神でしたー★」と明かして消えていきそして馬は元気になって貫之さんは旅を続けることができましたとさ


蟻通神社、アリ通し、天武天皇 様から


さて、その頃中国の皇帝は、わが国を攻略しようという野望に燃えていた。しかし、実際に軍隊を派遣するには、なにか口実がなければならない。そこで皇帝は、帝を陥れる巧みな方策を考えついた。
 まず、使者をわが国に派遣すると、一本の材木を帝に献上させた。材木は表面を美しく削ってあり、長さは二尺(約六〇a)ほどである。「帝におうかがい申しあげます。このたび献上いたしましたこの材木の、いずれが本で、いずれが末でありましょうか」難題を吹きかけて、これに答えなければ、厳しく難詰する魂胆である。しかし帝は使者の質問に対してうまい解答が思い浮かばない。そこですっかり途方に暮れてしまった。朝廷に出仕して、このありさまを一部始終見守っていた中将は、帰宅ののち、両親にこのことを話した。「お父さん、お母さん、今日、朝廷ではこのようなことがありました。中国の皇帝の問いには、はたしてうまい答えが見つかるのでしょうか」「それはおまえ、簡単なことじや。早瀬に材木を投げ入れてみればよい。最初は材木も、水の中でくるくる舞うているであろうが、そのうちどちらかの端が先になって流れてゆくじやろう。そちらのほうが木の末にあたるのじゃ」翌日、朝廷に出仕した中将は、なにげない顔をして、帝に申しあげた。
 「私に名案がございます。ひとつ試してみましょう」そして人々を引き連れて流れの早い川の瀬に行き、材木を投げ入れると、先になったほうに印をつけて、使者に手渡した。するとやはり、そちらのほうが木の末であった。
 続いて中国側は、全長が二尺ほどもある二匹の蛇を献上してきた。姿形は二匹ともそっくり同じである。「謹んでおうかがい申しあげます。この二匹の蛇の、いずれがオスで、いずれがメスでありましょうか」今度の問いも難問である。内裏の中で即座に答えられる者は、ただの一人もいない。そこで中将は帰宅ののち、ふたたび両親にこのことを話した。「他愛もない。二匹の蛇を並べて、尾っぽのほうに細い枝を近づけてみるのじゃ。尾っぽを動かしたほうがメスの蛇じゃよ」中将の両親はこともなげに答えた。
 翌日、中将が帝の前で両親の教えたとおりにやってみると、はたして一匹だけが尾っぽを動かした。そこでそのように使者に告げ知らせると、これも正解であった。
それからしばらくすると、中国の皇帝は三度日の使者を派遣してきた。今回の献上品は、一個の玉である。一見しただけではなんの変哲もないただの玉のようであったが、細かく観察してみると、玉のちょうど反対側の表面に、二個の小さな穴がそれぞれ口を開けている。そしてそれが七曲がりに曲がりくねった小さな空洞によって、玉の内部でつながっているのであった。使者は仰々しく口上を述へ立てた。「この玉の穴に糸を通していただきとうございます。もっともわが国では、だれもが簡単にやってのける小細工ではございますが」今度という今度は帝も困り果ててしまった。「どんな手先の器用な人物でも、こればかりはできかねまする」朝廷に出仕する貴族・公卿たちから、はては下々の者に至るまで、みんな口をそろえてそのように答えた。そこで中将は、もしやと思い、今回も両親にたずねてみることにした。「造作もない。一匹の蟻に細い糸を結びつけ、一方の穴から中にもぐり込ませればよい。その時、もう片方の穴のまわりに蜜をまぶすことを忘れなければ、蟻は蜜の香りに誘われて、空洞を通って向こう側に行くはずじゃ」中将は参内すると、両親の教えてくれたことを、そのまま帝に進言した。さっそく朝廷ではそのとおりにやってみたが、はたして蟻は一方の穴から他方の穴へとくぐり抜け、糸は玉を貫通した。そこで帝は、糸の通った玉を使者に返還した。
「日本の国にも賢者はいるものだ」中国の皇帝は感嘆し、それからは難題を吹きかけてくることもなくなった。一方、帝の喜びようはたいへんなものであった。彼は中将を呼び寄せると、親しく声をかけた。「このたびのそちの働きはみごとであった。望みのものを申すがよい。官職も、恩賞も、思いのままに取らせよう」「恐れながら、私は官職も恩賞もほしくはございません。ただ年老いた両親とともに都に住むことを、お許しいただきとうございます」「それはたやすいこと。そちの好きにするがよい」帝は快く、中将の願いを聞き入れた。この知らせを開いて、国中の人はたいへん喜んだ。
その後、この中将は神として祀られるに至つた。これが今に残る蟻通明神のはじまりであるとされている。


 ここまで読まれた方はご苦労様でした。改めて謝意をお伝えします。

蟻通神社に有王社が覆いかぶさったと言う古川仮説に幾らかでも賛同して頂ければ幸いです。

そもそも瀬織津姫とは祓戸神として藤原が創り出したものであり、実は九州王朝の初期を支えた金山彦の娘である櫛稲田姫の事なのです。

当然にも、近畿大和朝廷として権力を握った藤原(旧阿蘇氏=多氏、宇治氏…)にとってはあまり有り難くない忌むべき神なのです。

その本拠地の一つである豊の国の支配者が豊玉彦=八咫烏=豊国主であり、中心部に玉川町がある事からも分かるのです。

当然にも、現在日田を支配している大原の一族=大蔵氏…は近畿大和朝廷の植民地総督として入府している訳で、この八咫烏の都であった日田からその出口である夜明に八咫烏を祀る蟻通神社が存在することを疎ましく思い続けたはずなのです。

そして、「鬼と仏の国東半島めぐり」瀬織津姫神 有王社:瀬織津日女祭祀 によれば、平安末期にお鬼洲浜紋章を使う大蔵一族(恐らく後漢の靈帝の一族の別れで阿智王の一族の可能性を考えています)が持ち込んだことが分かります。


有王社の由緒は案内板にあるように

無題.png「人皇八十代高倉天皇(平安時代末期11681183在位)の御代、大蔵永秀の豊後国の関門守護を任として築城の櫛崎城に鎮座の処、宝永二年(280年前)現今の地に御鎮座奉斎す。当時は有王宮と称す」とのことです。以前、宮司様に他の伝承がないか確かめましたら、「他に伝えられているものはない」とのことでした。

異称で祭られる場合が多い、瀬織津姫神ですが、この案内板をみるとなぜかほっとします。神を示しており、賽銭箱の上に龍王が置かれている事、筑後川を海人族が龍と見なしていた事、櫛稲田姫が王と呼ばれたことなど全くない事から乱暴な結論を出しました。ご批判は甘受致します。

ご祭神の瀬織津日女神は罪・穢れを大海原の持ち出で給う神との記載があり、大祓いの神としての認識で一柱で祭られています。境内神社に菅原神社と水天宮があります。


ここまで見て来て、縦切り千木が男神を示しており、賽銭箱の上に龍王が置かれている事、筑後川を海人族が龍と見なしていた事、櫛稲田姫が王と呼ばれたことなど全くない事から乱暴な結論を出しました。ご批判は甘受致します。

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後漢の中平4年(188年)10月に12代霊帝は「皇帝直属の常備軍」の創設を構想したと言われています。八咫烏=豊国主=八咫烏は百嶋最終神代系譜ではAD132の生まれですので時代は符合します。

そして、大蔵氏は霊帝の一族の阿智王の後裔の可能性があるのです。

私には、八咫烏に凹まされたのが気に入らなかったのではないかと思うのですが、結果、蟻通明神は有王宮に変わったのではないかと考えます。これを詳しく説明すると、更に別のブログが必要です。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2024年05月24日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)1009 豊後の日田市は八咫烏(=豊玉彦=豊国主)の都だった

ひぼろぎ逍遥(跡宮)1009 豊後の日田市は八咫烏(=豊玉彦=豊国主)の都だった

20231118

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 太宰府地名研究会は北部九州を中心に、福岡、佐賀、熊本、大分、一部宮崎にメンバーがおり、既に出版をされ著書をお持ちの方、ブログを複数書かれている方、日々フィールド・ワークを行い神社を探り続けておられる方、ネット・サーフィンで神社を調べ続けておられる方…などがおられる一方、万葉集やら海外史書やら考古学の発掘調査報告書を熱心に読む方…と多くの熱心な民間研究者がおられます。

昔は、邪馬台国本やら九州王朝論に関する研究書を熱心に読まれる方と専門家裸足の方も多かったのですが、古代史ブームが消え、当会のメンバーも様変わりし始めています。

それでも古田武彦の本は全部読んだ…と言う方も複数おられるのです。

つい最近も、50歳になったばかりの方で、「古事記」「日本書紀」は皆読んだと言った方が加わるなど頼もしい限りです。

勿論、中京から関東からもかなり多くのメンバーが加わり、百嶋神社考古学が消失してしまう事だけは無くなったとほっとしています。

加えて、九州王朝説に於いて最先端で研究を続ける佃収講演を年3回は北九州で行うという体制が一応は整い、丁己歴史塾との提携も確立してきました。

そうした中、太宰府地名研究会の研修所としてスタートした天瀬の温泉付き中古別荘にも多くの人が立ち寄られるようになってきました。

そういった中、2024年のスタートに併せ、そろそろこの日田市の古代史上の位置づけをしなければならないと思う様になってきました。

切っ掛けは日田市に編入された旧大山町でした。ここを頻繁に通過するようになると、大山町とは大山祗系の人々が住み着いた土地ではなかったのか。

さらに加えれば、熊本県小国町と菊池市から掛け降る阿蘇氏を食い止める防衛拠点だったはずなのです。とまで思考の暴走が始まると、市の中心部に玉川町を持つ日田市が豊玉彦=豊国主=八咫烏の国であったという結論までは僅かな距離でしかなかったのです。

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この大山水天宮(大分県日田市大山町東大山)から少し下ると大山町農協のシャレた?気取った農産物加工品の販売所+レストラン「木花ガルテン」までがあるのです。

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オオヤマズミノカミには、コノハナサクヤヒメという美しい娘がいました。アマテラスオオミカミの孫にあたるニニギノミコトはその美しさに心打たれてコノハナノサクヤヒメに求婚します。オオヤマズミノカミもこの縁組を喜び、姉のイワナガヒメも一緒に嫁がせます。ところが、ニニギノミコトは醜いイワナガヒメを厭うて追い返してしまい、オオヤマズミノカミは怒ってニニギノミコトに告げます。「私は、イワナガヒメを妻にすれば命は岩のように永遠のものとなり、コノハナサクヤヒメを妻にすれば木の花が咲くように繁栄するだろうと誓約を立てて娘二人をあなたに嫁がせた。コノハナサクヤヒメだけを娶るならば、命は木の花のように儚くなるだろう。」と。このために、ニニギノミコトとその子孫は神としての永遠の命を失いました。

無題.pngコノハナノサクヤの故事がコンパクトにまとめられていましたので借用しました

一般的にこの話の現場は大山祇命の南九州の日向とか薩摩半島だと通説はしますが確定してはいません


勿論、話の現場がここであると言っているのではないのですが、私には後に敵対勢力となった阿蘇氏(藤原)が、熊本県小国町(杖立温泉経由)、菊池市(兵戸峠〜下筌ダム〜松原ダム経由)から降り、日田に侵入するルートを遮断する役割を担っていたのが大山祗系で旧大山町だったように見えるのです。



その意味で、阿蘇氏対策として大山祗系氏族が駐屯していたのではないかと思っているのです。

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日田を考える時、北部九州で最も安全で最も守り易い場所は何処かと考えるとここ以外には考えようがありません。

これが熊本から中九州を考えるならば、人吉盆地になりますが、この場合は船で登るにはあまりにも傾斜が急であり、頻繁な出入りが容易ではないため、安全過ぎるも、むしろ盾籠もる場所になるのです。

古代には有明海が相当奥まで入っていた可能性があり、肥後、筑後国境辺りまでは楽に潮が上る場所だったはずなのです。仮にそうであったとしてもJR夜明駅付近から10キロも上れば日田市の市街地には到達できる上に、西の久留米、太宰府方面から侵入してくる勢力が急流の筑後川ルートで入るとしても、直ちに連絡は送られ、防衛には絶好の夜明の大峡谷があるのです。

仮に夜明渓谷の崖の上から射かけるならば侵入者の矢は全く届かず、守る側は全く被害が出ないという所謂アウトレンジ戦法が奏効する要害なのです。つまり、攻めるに難く守るに易い最高の立地となっているのです。その意味で、唐新羅連合軍と激突した白江戦の延長戦でも太宰府、久留米から50キロほどの安全な副都が日田だったように思えるのです。

東からは遠路山越え進出となり、日田市とは北部九州でも最も安全な都市だったと考えられるのです。

その意味でも、天然の要害の夜明の大峡谷を再度ご覧頂きたいと思うのです。

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 日田市には博多同様、日隈、月隈、星隈といった隈地名が有ります。…と言ったのは故)百嶋由一郎でした。

ここには玉川町が有り、豊玉彦、豊国主(豊ノ国の王と言う意味ですね)、鴨建津身=八咫烏の都といった意味を込めて話しておりました。

さて、ここに旧制日田中学校に関する「陽柳讃歌」という戦前の本があります。

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表紙にも何やら烏らしき烏が歩いていますが、この本の93ページにはもっとびっくりする写真が掲載されていたのです。それは同校の古い校旗の写真ですが紛うことなき三本足の烏だったのです。

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これは同書の92Pの一部分ですが、中国伝説が由来の校章とは多分八咫烏のデフォルメであり、同窓会報「烏陽」も金烏を意識した故事を示しています。

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最も重要と思われる「中国伝説が由来…」とは、新ひぼろぎ逍遥の1005「有王社を疑う」をお読み下さい。で推定した「蟻通神社」蟻通しの神=中国への使者ともなった中将=八咫烏の事なのです。

この際、関連しますので、ひぼろぎ逍遥(跡宮)にもダブル掲載することにします。

故)百嶋由一郎は、“日田は豊玉彦=八咫烏の都である”と言いましたが、続けて“中心部に玉川町があります”さらに“東京の都庁のある場所も豊島区で昔は豊田区とも呼ばれた”と言っていましたが、これは隣の練馬区の北豊玉区、南豊玉区の事かも知れません。

八咫烏は後にコノハナノサクヤと鹿児島県旧溝辺町経由で関東に移動するのです。これは別の機会にでも。コノハナノサクヤは富士山浅間神社などに祀られていますね。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2024年05月21日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)1008 日田市大原八幡宮の元、元々宮を当会の宮原誠一氏が報告されています➋

ひぼろぎ逍遥(跡宮)1008 日田市大原八幡宮の元、元々宮を当会の宮原誠一氏が報告されています➋

20231118

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 今回、日田に於ける地域調査にようやく重い腰を上げた事から既に56本のブログを新規で書き改訂していますが、大原八幡宮の元宮、元々宮について書かれている方がおられます。

 当会のメンバーで筑前筑後の神社研究のエキスパートとも言うべき宮原誠一氏です。

 今回、この2稿を加えるとさらに日田の本質が明らかになってきますので全文を掲載させていただきます。

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No.159 大波羅(大原)八幡宮の元宮・元大原神社

宮原誠一の神社見聞牒(159)

令和2年(2020)1120

No.157 大波羅(大原)八幡宮から見る三人の八幡様」の補足A です。

鞍形尾神社創建は680年、鞍形尾から求来里村(現 神来町かみくまち)の杉原へ遷座が704年で杉原元宮神社が創立されます。871年、初代日田郡司大藏永弘が杉原元宮を北側の求来里(くくり)に遷座します。杉原元宮と元大原神社は隣接しています。
辛島乙目が宇佐の鷹居社を造り八幡神を祀ったのが712年で、鞍形尾神社の創建、杉原元宮への遷座は鷹居社の創立の前となり、鷹居社との関係はありません。



鷹居神社 大分県宇佐市上田1435
祭神 仲哀天皇 神功皇后 応神天皇(現在の表記)
元明天皇和銅5年(712)、辛島()乙目が鷹居社を創建。

八幡大神の御社を最初に宇佐に奉建した霊地である。
辛嶋氏伝承では、八幡大神は、欽明天皇の御代、宇佐郡辛国宇豆高島(稲積山)に天降りし、宇佐郡馬城嶺(御許山)に現われ、乙梼ミ、泉社、瀬社、鷹居社、小山田社、宇佐神宮の地へと移ったとする。この八幡大神は正八幡大幡主です。
杉原元宮神社
慶雲元年(704)、鞍形尾に鎮座する八幡大神は、求来里村杉原の杉の梢(こずえ 木の先端)に降り、村の乙女に神懸かりして、「永く豊前の地を守らむ」と神託の後、杉の元に白幣が出現したと伝えられる。この時、その所に神祠を建て、鞍形尾より遷座したと伝える。
杉原元宮神社 大分県日田市神来町(大字求来里字元宮)
祭神 八幡大神


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元大波羅(大原)神社
仁寿元年(851)、大蔵(鬼蔵大夫)永弘が初代日田郡司職に任ぜられる。
貞觀13(871)、大蔵永弘(おほくら ながひろ)が社殿を新設し、杉原元宮の鎮座地より求来里(神来町)に遷座。この頃、宇佐神宮の橋本公則(はしもと きみのり)氏を社司(宮司)として迎える。
元大波羅(大原)神社 大分県日田市神来町423(大字求来里字元宮)
祭神 八幡大神、比賣大神、息長帶比賣命(神功皇后)

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 大幡主ゆかりの六角燈籠が一個残されています

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延喜15(915)、左殿に比賣大神、右殿に息長足姫命を勧請し、大波羅八幡宮(元大波羅神社)と称号す。この時、八幡大神は勧請されていません。元のままです。
建久4年(1193)、大友能直(おほとも よしなほ 鎮西奉行兼豊前・豊後守護)が大波羅八幡宮(大原八幡宮)を「豊西総社(豊後国の西の総本社)」と定め、宇佐八幡の拝礼形態から相模國の鶴岡八幡宮の拝礼形態に改めた。ということは、大原八幡神は石清水八幡・豊玉彦、豊国主・豊玉彦となります。
明治6(1873)に『元大原神社』と号す。


石清水八幡神=豊日別国魂(とよひわけくにたま)=豊国主=豊玉彦(通称)=水天龍王
古代豊国の祖とは、中津市の闇無浜神社(くらなしはま、別称・豊日別国魂神社・龍王宮)の祭神・豊日別国魂神となります。豊日別国魂神とは正八幡大幡主の王子・豊玉彦です。
豊の国は豊玉彦の領域でした。
瀬織津媛は櫛稲田姫であり、素戔嗚尊と分かれた後は、豊玉彦と一緒になられ、その両親の間の姫君が鴨玉依姫です。
豊の国は、正八幡大幡主、石清水八幡豊玉彦、鴨玉依姫(早吸日女)、大山咋神(日吉大神)、崇神天皇、応神天皇(誉田別命)と大幡主ファミリーの領域となります。
※このブログに記載している略記は橋本宮司から頂いた「大原八幡宮略記」を基本にしています。

八幡大神・正八幡大幡主を最初に宇佐嶋に祀った神社と人物
宇佐宮の八幡神の顕現は571年の宇佐の菱形池の出来事が良く語られます。
その状況は宇佐神宮HPに詳しく記載されています。

境内に建立されていた弥勒寺の僧、神吽が、鎌倉時代後半に纏めた『八幡宇佐宮御託宣集』には、欽明天皇32(571)辛卯、八幡大明神、筑紫に顕れたまふ。
豊前国宇佐郡厩峯菱形池の間に、鍛冶の翁有り。首甚だ奇異なり。これに因って大神比義(おおがのひぎ)、穀を絶つこと三年、籠居精進して、即ち幣帛を捧げて祈って言く。「若し汝神ならば、我が前に顕るべし」と。即ち三歳の小児と顕れ、竹葉に立ちて宣く。「我は是れ日本の人皇第十六代誉田の天皇広幡八幡麿なり。我が名は、護国霊験威力神通大自在王菩薩なり。国々所々に、跡を神道に垂れ、初て顕るのみ。」と記され、八幡大神がこの御霊水の辺りに初めてご顕現になったと伝えています。   宇佐神宮HP


下記の「宇佐嶋に関係する神社略記」をよく読んでいただくと、八幡神が宇佐の菱形池に顕現した時期に大神比義は存在していないことが分かります。特に郡瀬神社(ごうぜ)の由緒記では、

  欽明天皇32年、571豊前国宇佐郡宇佐の亀山(小椋山)の麓に三歳の小児と顕はれ
  坐して、「吾れは応神天皇の神霊広幡八幡麿なり」と大神比義翁に神託、元明天皇
  和銅3年(710)に同郡鷹居山(現東上田)にて大神比義翁と辛島()乙目に対して
  「吾れ神と成りて大空を翔れども栖まう処無し、以て御心荒たり」との神託に
  因り、勅定を得、神殿を建て斎き奉る。鷹居、瀬社是れなり。(後 郡瀬神社)
とあります。
571
年の八幡神が神託した人物は大神比義ではありません。また、顕現した神様は誉田別天皇ではありません、正八幡大幡主です。『日本書紀』の成立は養老4(720)で、「人皇第十六代誉田の天皇」の表記は571年には存在しません。
福岡県旧北野町大城の赤司八幡神社の豊姫縁起によれば、神託された人物は宇佐の君・池守(後の大宮司兼押領使)です。この時も、大神比義は存在しません。大神比義が現れるのは、和銅3年(710)鷹居山(現東上田)にて大神比義翁と辛島()乙目の両人に対して「吾れ 神と成りて大空を翔べども栖む処無し、以て心荒たり」と八幡神が神託された時です。これをきっかけに、和銅5年(712)、辛島乙目によって鷹居社が創立され八幡神を初めて祀ることになります。この時も大神比義の名は無理に由緒に書き込まれた感がします。
そして、聖武天皇神亀2年(725)神勅ありて、亀山(小椋山)に宇佐八幡宮が建立されます。宇佐八幡宮の始まりです。(詳しくは後の別稿で述べます)

宇佐嶋に関係する神社略記
 539年 欽明天皇即位
 545年 八幡古表神社創建
 571 八幡神が宇佐の地に現れ、大神比義が祀る(この時期、大神比義は存在しない)
 649年 酒井泉社建立。辛島()乙唐ノより宇佐大神が勧請された
 663年 白村江の戦い
 680 鞍形尾神社創建
 704 杉原元宮神社、鞍形尾から求来里村の杉原に遷座
 706年 稲積六神社(稲積神社)創建、稲積山に鎮座
 710年 乙盗_社創建
 710年 郡瀬神社創建
 712 辛島乙目が鷹居社を造り八幡神を祀る
 716年 辛島氏は鷹居社から八幡神を小山田社に移す
 725 宇佐宮亀山に一之殿(八幡大神)が造営
 729年 宇佐宮亀山に二之殿(比淘蜷_)が造営
 765年 妻垣神社建立
 823年 宇佐宮亀山に三之殿(神功皇后)が造営
 871 元大波羅神社、大蔵永弘が社殿を新設し北側の神来町に杉原元宮を遷座
 1624大波羅神社、石川忠総が神来町から現在の田島へ元大波羅神社を遷座
泉神社(酒井泉神社) 大分県宇佐市辛島1
祭神 應神天皇 仲哀天皇 神功皇后 仁徳天皇
追祀 宇饌持神 豊受姫神 宮比神 須佐之男神 市杵嶋姫神
大化4(649に建立され、辛島()乙唐ノより宇佐大神が勧請。
天平宝字3(763に霊泉で酒を造って八幡神に献じ、その残滴を注いだところから泉が湧き出たので「酒井泉社」と称するようになったと伝える。
稲積六神社(稲積神社) 大分県宇佐市大字中561
祭神 伊弉册尊 速玉男命(大幡主) 事解男命(金山彦)
追祀 国常立命 火産霊命 彦火々出見命
境内由緒には伊弉册尊・速玉男命・事解男命は文武天皇慶雲3(706)
後記三神は仁明天皇承和7(834)、ともに稲積山上に鎮座。
花園天皇応長4(1314)、山上より現在地に遷座。
乙盗_社(おとめ) 大分県宇佐市下乙女宮本1343
祭神 仲哀天皇 神功皇后 応神天皇
追祀 比売大神(三女神) 仁徳天皇 日本武尊 天児屋根命 別雷命
元明天皇和銅三年(710)、現位置である古代の古墳上に宮柱を鎮め、
神籬を設けて仲哀天皇 神功皇后 応神天皇の御三柱の御神霊を奉祀したのが創建
又、比売大神外御四柱の御神霊は其の後に追祀。
本社は乙比梼ミ 乙灯ェ幡宮 乙梼ミと称したが、明治4年乙盗_社と号す。
郡瀬神社(瀬社・ごうぜ) 大分県宇佐市樋田字瀬社187
祭神 仲哀天皇() 神功皇后 応神天皇
配祀 田心姫神 湍津姫神 市杵嶋姫神 大宮比盗_
欽明天皇32年、571豊前国宇佐郡宇佐の亀山(小椋山)の麓に三歳の小児と顕はれ坐して、「吾れは応神天皇の神霊広幡八幡麿なり」と大神比義翁に神託、元明天皇和銅3年(710)に同郡鷹居山(現東上田)にて大神比義翁と辛島()乙目に対して「吾れ 神と成りて大空を翔れども栖まう処無し、以て御心荒びたり」との神託に因り、勅定を得、神殿を建て斎き奉る。鷹居、瀬社是れなり。(後 郡瀬神社)
聖武天皇神亀2年(725)神勅あり、亀山(小椋山)に還り鎮まり坐せる。(現在の宇佐神宮)
鷹居神社 大分県宇佐市上田1435
祭神 仲哀天皇 神功皇后 応神天皇
元明天皇和銅5年(712)、辛島()乙目が鷹居社を創建。
八幡大神の御社を最初に奉建した霊地である。
「玄松子の記憶」鷹居神社より
 https://genbu.net/data/buzen/takai_title.htm
『明治神社誌料』
元明天皇和銅五年(712)の創建なり、宇佐縁起に曰く、
和銅元年宇佐郡内大河流西岸有勝地、東岸有松木、化鷹顕瑞、是大神之御心荒毘坐也、同五年 大神比義與辛島()乙目、依神託、以勅定令造神殿、鷹居瀬社是也、辛島勝自為祝職、同勝意布賣為禰宜、勝自之妹黒比賣 為采女、並御戸代田段進之、辛島勝波豆米為禰宜矣、霊亀二年託宣、此所路頭往還人無礼、就此等甚愍小山田林移住願給者云々」
また大宰管内志に云く、
「宇佐宮記に曰、敏達天皇元年(572)云々、大神化而為鷹飛翔虚空、時大神比義、辛島()乙女両人、三年之間断穀而 祈申時、神託云、吾化為霊神飛翔虚空、留無棲息志、心荒多利、其與利郡瀬仁移牟云々、和銅五年始造社、至霊亀二年 五箇年之間御鎮座」とあり、鷹居は多可為と訓むべし、里人云、鷹居社は宇佐郡上田村内にあり、田 笛より鷹居まで二里十町あり、神殿、拝殿、石鳥居あり、本宮を去る事十町余西にして松林の内にあり、今 は上田村の人是を祭る十二月中ノ卯ノ日官従五位下志摩守大神頼唯奉仕す
※辛島()乙目と辛島()乙女()は同一人
妻垣神社 大分県宇佐市安心院町妻垣字大門203
祭神 比淘蜷_(玉依姫命)八幡大神(応神天皇)神功皇后
古宮・足一騰宮創立不詳。
神亀2年(725)、宇佐亀山に宇佐宮一之殿が造営
天平元年(729)、比淘蜷_は宇佐宮二之御殿に祀られる。
天平神護元年(765)、勅使石川朝臣豊成に命じて神殿を共鑰山麓に創建させ、比淘蜷_と八幡大神を創祀したのが妻垣神社のはじまり。
弘仁13(823)、宇佐宮三之御殿造営より神功皇后を勧請。
※古宮の祭神は正八幡大幡主の姫君のアカル姫です。
大元神社 大分県宇佐市御許山 大分県杵築市山香町大字向野
祭神 比売大神(三女神)
創建不祥。宇佐神宮の上宮
古くは正八幡大幡主を祀ります。
大尾神社 大分県宇佐市南宇佐
祭神 八幡大神
称徳天皇・天平神護元年(765)創立、15年間、現在の上宮があった場所
孝謙天皇の御代の天平勝宝元年(749)八幡大神は比売大神とともに奈良に行幸、天平勝宝7(755)伊予の宇和に遷り、10年後奈多宮を経由して宇佐に御帰還になりましたが、大尾山の頂上に御鎮座するとの託宣があったので、天平神護元年(765)に造営使を遣わして御造営になり、ここに約15年御鎮座されました。
延暦元年(782)小椋山の本宮に還御、大尾神社には八幡大神の分霊が祀られ、大尾神社と称している。(宇佐神宮HP)
※大尾神社の八幡大神は正八幡大幡主です。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記