2022年11月27日

930 続)愛媛県の神社調査を本格化させたい(下調べ) A

930 続)愛媛県の神社調査を本格化させたい(下調べ) A

20220228

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


愛媛の神社調査についてはこれまでにも何度か行ってきましたが、経費の問題、距離、時間の問題から、後回しにせざるをえませんでした。

 むしろ四国全域に目が向いており、土佐、阿波、讃岐…を優先し伊予が遅れたことは否めません。

 伊予市の伊予稲荷社については、つい最近リポートさせて頂いていたのですが、最大の都市である松山を主眼に、まずは、松前町を次に伊予市を…とじっくり見たいと思うのです。

 そもそも一応は卑弥呼宗女伊予の伊予に通じる名を持っている九州の東隣の国なのですから。

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とりあえず西予(この表現で良いんでしょうか?中予?)地方から探索を始めたいと思います


松前町では伊予神社(松山市内の伊予神社は過去何度か足を運んでますが、松前の伊予神社は初見です)と高忍日売神社は外せません。

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本来、伊予は大山祗系の言わば山の神が何故大三島に…?と訝しがられる国ですが、松前を見る限り、その匂いがしません。しかし、貴船神社にはその痕跡が認められるのです。


大山積神(おほやまつみのかみ) 

別雷神(わけいかづちのかみ)

罔象女命(みずはのめのみこと) 

高龗神(たかおかみのかみ)

と、言っても、別雷神は豊玉彦と櫛稲田姫との間に生まれた(百嶋神代系譜によればスサノウと櫛稲田姫はナガスネヒコの乱以降なのか一緒になっておられます)鴨玉依姫を母に生まれた(父神は阿蘇の草部吉見、母神は市杵島姫命)上賀茂大社の神で言わば実質的な藤原氏の始祖のような人物であり、大山祗系では全くないのです。また、高龗神も誰だか分かりにくいかも知れませんが、簡単に言えば皆さん良くご存じの「蘇民将来伝承」の巨胆なのです。

 それでも実態が掴めないと思いますので、敢えてはっきり言えば阿蘇神社の最奥神殿に祀られている金凝彦(カナコリヒコ)=後の藤原氏が第2代贈る綏靖天皇扱いにされた人物=神武の子などではさらさらないのです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


ご覧の通り、罔象女神は大山祗の長女であり(黄枠)、大国主命は大幡主系(博多櫛田神社主神)、コノハナノサクヤは妹に当たる訳です。

 従って、同社は大山祗系と阿蘇系が半々に祀られる神社であり、普通ならば敵同士になる訳です。

それが何故かは不明です。それは、阿蘇系の二神が進駐軍のお目付け役だったのかも知れませんし、初期の藤原氏=阿蘇系が畿内に進出する時期には大山祗系を無視できなかったからかも知れません。

実際、この神社の成立が和同年間(平安初期)であることから、まだ、九州王朝の痕跡が残っていたのかも知れません。

 これ事前の資料であり深くは掘り下げません。

全ては実踏してからにしたいのですが、当てが外れて書く気が無くなるかも知れません。

 次に、頭王神社を考えてみましょう。これも「愛媛県神社誌」を出しておきます。

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スサノウ系神社が松前町には56社はあるのですから、スサノウが祀られているのは当然として、このヤゴローについて思い当たることがあるので、誤りは承知の上で提案させて頂きます。

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宮崎県都城市山之口地区まちづくり協議会ポータルサイト「やまのくち」


「弥五郎殿」は養老四年(七二〇)の「隼人の乱」が起きた時の隼人族の首長であったと言われています。

宮崎県指定 無形民俗文化財 国選択 平成二年二月二十七日 所在地 (的野正八幡宮)山之口町大字富吉一四一二番地

「弥五郎殿」は養老四年(七二〇)の「隼人の乱」が起きた時の隼人族の首長であったと言われています。大伴旅人(朝廷軍)によりこの乱は鎮圧されましたがこの戦いで数多くの死傷者が出ました。
それに、斬首などの残虐行為も行われたと言われています。
この隼人族の霊のたたり現象を恐れた朝廷は宇佐八幡の神託を受けて全国的規模の「放生会」を行いました。その放生会は、以後各地の八幡神社の祭りとして行われました。
放生会の先払(先導役)となったのか隼人族首長弥五郎どんです。大隅地方、日向諸県地方ではこの放生会を「ホゼ」=豊穣祭と言っています。
当時全国規模で行われたと思われる「放生会次第」による祭りで現存しているのは南九州では、鹿児島県岩川八幡神社・宮崎県日南田之上八幡神社・山之口町的野八幡宮の三ヶ所だけと言われています。


鹿児島宮崎=古代日向には、この弥五郎どん が色濃く残っています。

 熊本県の中心部から芦北町、そして人吉市などにもヤグロウ、矢具神社なるものがありますので、かつてはこの文化が広く残っていたのではないかと考えています。

 ただ、現地では隼人の英雄説や逆に大和朝廷側の王とも言われていますが、百嶋神社考古学では、九州王朝の南方進出、経営、のために送り込まれた猿田彦=山幸彦=ニギハヤヒ…を象徴するものと考えています。


 高忍日売神社、伊予神社に重点を置いて、まずは、エリアが小さい松前町の概要がある程度見えてくるのではないかと考えています。

 次は、伊予市を、そして、松山から砥部町、中山町…へと少しづつ広げてゆきたいと思います。


百嶋由一郎が残した、神代系譜スキャニングDVD、講演録音声CD、手書きメモ スキャニングDVDを必要な方は09062983254までご連絡ください。どの時間帯でも対応します。


トレッキング・ルート

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2022年11月24日

929 愛媛県の神社調査を本格化させたい(下調べ) @

929 愛媛県の神社調査を本格化させたい(下調べ) @

20220116

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


愛媛県の神社調査を本格化させたいとの思いが募ったのはこの2年ほどです。

 これまで移動しやすい山陰山陽から但馬〜京丹後〜福井、滋賀…といったところは頻繁に入っていたのですが、四国は過去78回程度で、なかなか調査が進んでいません。

 一衣帯水とは言え、九州からは船で目と鼻の先ではあるのですが、フェリーで車を持ち込むと往復2万円以上は上乗せされる訳で、二の足を踏んできた事は間違いありません。

 ところが、最近になり愛媛の方々との接触が多くなり、やはり調査を進めなければ…と考えるようになってきたのです。

 まず、近稿として伊予市の伊予稲荷神社のリポートを書きましたが、かなり変わった側面を見出し、これは今後とも、松山市、松前町、砥部町…と全神社調査とまでは言わないものの、重要と思える神社を絞り込んで実踏査に入ればそれなりの成果が出てくるのではないかと考えた次第です。

 そのためには「愛媛県神社誌」を入手する必要があります。

 ネット上には愛媛県神社庁による多くの神社についての解説が行われていますが、勿論、細部については書かれていないため、その部分にメスを入れなければ古代神代の深層へは到底届きはしないのです。

 後は、神社踏査の絶対量を可能な限り増やすべきで、何回かに一回は自分の車を持ち込み、一週間弱の調査も考えています。

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新居浜から宿毛の手前まで海に面した山がちな地形が広がり島根県のような静かな地域と思っています


 最近と言うより、ここ一二年愛媛の方々との接触が増えており、半ば忌部を思わせる組織だった方々だけに、こちらもレベルを上げ現地踏査のレベル・アップを図らなければ好い加減な話はできないとの思いが募っているところです。

 まず手始めは松前(マサキ)町から始めたいと考えています。

 そもそも、前をサキと呼ぶ=読むのは古代のからの習わしであって、その痕跡が地名にも留められているのです。

 分かり易いのは大分県の国東半島で、国の東(東の端)と言っているのです。

 これは日本国の東の端でもない国東半島が東の端と主張した意味は、九州が国の中心であった遠い古代(一応、紀元前から7世紀辺りまでを想定しているのですが)その時代は正しく九州そのものが国の直轄領域でありその東との理解が成立していたからだと考えているのです。

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これは長崎県島原市の中心部の地図ですが、島原鉄道の駅名にも大三東があるのです。

 これは、オオミサキと呼ぶのですが、「前」ではなく「東」を「サキ」と呼んでいるのです。

 無題.pngこの様な例は外にも見られ、千葉県の玉前神社(上總國一之宮 玉前神社)=名神大社がタマサキ神社と呼ばれているのです。

 この神社はあまり知られてはいませんが、神社誌では貴重極まりないもので、神武天皇の母君(神玉依姫)を祀る神社なのです。

 この神玉依姫に準え、鴨玉依姫の子でしかない神武僭称贈)崇神が神武帝を偽装したのが欠史8代架空説で、崇神を神武仕立て上げようとしたのが後の藤原氏だったのです。

 彼は、年嵩ではあるものの、只の開化天皇、神功皇后の臣下でしかなかったのです(久留米は高良大社に残された「高良玉垂宮神秘書」を熟読の事)。

 前を「サキ」と呼ぶ例は青森県弘前市、静岡県御前崎市などの地名は直ぐに浮かびますが、この松前町は正しく国東半島の正面と言うべき場所であり、この地が益々興味深く見えてきました。

 松前待ちには20社ほどの神社が在りますが、最低でも10社程度を踏査すれば、全体の傾向が掴める様に見えます。

後世の義民神社は良いとして、まず、素鵞神社5社が目立ちます。

 恐らく、頭王神社(これもスサノウ=牛頭天皇を祀る神社のはずで一応はスサノウ系に括って良いでしょう)、貴布祢神社と合わせ、この地にはスサノウ系の人々が住んでいるのではないかと思います。彌五郎の霊を奉斎しているとの事ですが、この弥五郎は南九州では山幸彦=ニギハヤヒ=猿田彦

であり、南九州の弥五郎とこの地の彌五郎とが対応するかは今後の課題です。

 高忍日賣神社は手強いので後に廻して、

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最後に残るのが貴布祢神社ですが、筑豊にも70社近くあり、かつて全神社調査を始めましたが、バラつきが多すぎて、半ば廻った時点で止めたことがあります。

 しかし、半分でも見て回ったことは無駄ではなく、闇淤加美神、高龗神が7割方だった事を記憶しています。

 頭王弥(彌)五郎が誰かがお分かりにならないと思いますが、鹿児島〜宮崎〜一部熊本南部に掛けての、所謂、古代日向国ではヤガロードンが今なお大きな存在感を示しています。

 我々は山幸彦=ニギハヤヒ=猿田彦 同体と理解しています。

 松前町には56社のスサノウ系神社が存在するようですが(いわばスサノウの海)、その中にヤゴローとして山幸彦が顔を覗かせているようです。

 いずれにせよ、詳報は現地を確認してからです。

百嶋由一郎が残した、神代系譜スキャニングDVD、講演録音声CD、手書きメモ スキャニングDVDを必要な方は09062983254までご連絡ください。どの時間帯でも対応します。

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2022年11月21日

928 続)大神一族とは河上 猛の後裔だったのではないか? 

928 続)大神一族とは河上 猛の後裔だったのではないか? 

20220212

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


この間、前ビアヘロ版194で大神一族を穴森神社〜宇田姫神社に関わる大蛇伝説から触れてきましたが、もう少し話を掘り下げたいと思います。

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思えば、この三つ鱗紋に遭遇したのは二十年以上前、鹿児島県の曽於郡(現曽於市)で天子宮調査を行っている時でした。

 まだ神社については、駆け出しも駆け出しで、全く理解できなかったのですが、今、改めて考えれば大神一族の政治情勢に翻弄される宿命のようなものも感じ少し見えてくるものもあります。

それはともあれ、この大神一族の突出した戦闘性、敢闘精神、英雄性には驚かされます。


大神惟基 『平家物語』や『源平盛衰記』などに記されている、祖母山大明神の神体である蛇との蛇神婚伝説で殊に有名である。

平家物語には、豊後国国司の刑部卿藤原頼輔とその息子で代官の藤原頼経が、京から、平氏一族を匿う九州の武家らを源氏に従わせよとの旨の命を受け、これを緒方惟義に下命した件があるが、ここで緒方の先祖「あかがり大太」のことが語られている。

すなわち、豊後国の山里に住んでいた娘の許に、身元の知れぬ男が毎夜通ってきて、娘は子供を身ごもってしまった。母に唆されて娘が男の狩衣に糸を通した針を刺し、その後をつけると、男は祖母山の麓の岩穴へと入っていく。娘が姿を見せるように請うと、男はついに大蛇の本身を現す。そして、狩衣に刺したと思った針は、大蛇の喉元に刺さっており、大蛇は、生まれてくる子供は男児で、武芸で九州二島に並ぶ者はないであろうと告げ、息絶える。やがて生まれた子は、大蛇が言うとおりの男児で、祖父から名を取って大太と名付けられた。成長が早く7歳で元服し、手足があかぎれでひび割れていたため「あかがり大太」と呼ばれたという。件の大蛇は、日向国にあがめられ給える高知尾高千穂のことの明神の神体なり。この緒方の三郎は、あかがり大太には五代の孫なり。           −平家物語 巻第八

平家物語は作者が不明であるが、このことから緒方惟義(栄)の五代前の祖とされる大神惟基が、あかがり大太にあたるとされている。

大分県竹田市の健男霜凝日子神社(穴森神社)には、この大蛇が住んでいたと伝えられる岩穴がある。

出生伝説は有名であるが、惟基自身の生涯については詳細はわかっていない。

宇佐八幡宮を開いた、大神比義が豊後大神氏の始祖となったとする説が有力である

他の有力説としては、宇佐神宮の宮司であった宇佐大神氏に出自を求めるものもある。

豊後国海部郡を本拠とし、藤原純友(893年(寛平5))? - 941年(天慶4)))の副将であった佐伯惟基(是基)を惟基と同人物として擬する説もあるが、年代上問題があるとされる。

神婚伝説のためか、神社の創建や再興との関わりが伝えられている。熊本県人吉市にある青井阿蘇神社は、大同元年(806年)、大神惟基が阿蘇神社の祭神12柱のうち3柱を分祀して創建したと伝えられる。

また、宮崎県西臼杵郡高千穂町にある天岩戸神社は、社伝によると、弘仁3年(812年)に大神惟基によって再興されたとされる。           ウィキペディア(Wikipedia20220212 12:05


緒方惟栄尾形(緒方) 三郎 惟栄(おがた さぶろう これよし、生没年不詳)は、平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。豊後国大野郡緒方荘(現在の大分県豊後大野市緒方地区)を領した。通称は三郎。諱は惟義、惟能とも。大神比義の子孫で、臼杵惟隆の弟。

『平家物語』に登場し、その出生は地元豪族の姫と蛇神の子であるなどの伝説に彩られている。

宇佐神宮の荘園であった緒方庄(おがたのしょう)の荘官であり、平家の平重盛と主従関係を結んだ。治承4年(1180年)の源頼朝挙兵後、養和元年(1181年)、臼杵氏・長野氏(ちょうのし)らと共に平家に反旗を翻し、豊後国の目代を追放した。この時、平家に叛いた九州武士の松浦党や菊池氏・阿蘇氏など広範囲に兵力を動員しているが、惟栄はその中心的勢力であった。寿永2年(1183年)に平氏が都落ちした後、筑前国の原田種直・山鹿秀遠の軍事力によって勢力を回復すると、惟栄は豊後国の国司であった藤原頼輔・頼経父子から平家追討の院宣と国宣を受け、清原氏・日田氏などの力を借りて平氏を大宰府から追い落とした。同年、荘園領主である宇佐神宮大宮司家の宇佐氏は平家方についていたためこれと対立、宇佐神宮の焼き討ちなどを行ったため、上野国沼田へ遠流の決定がされるが、平家討伐の功によって赦免され、源範頼の平家追討軍に船を提供し、葦屋浦の戦いで平家軍を打ち破った。

こうした緒方一族の寝返りによって源氏方の九州統治が進んだとされる。

また惟栄は、源義経が源頼朝に背反した際には義経に荷担し都を落ちた義経と共に船で九州へ渡ろうとするが、嵐のために一行は離散、惟栄は捕らえられて上野国沼田へ流罪となる。このとき義経をかくまうために築城したのが岡城とされる。その後、惟栄は許されて豊後に戻り佐伯荘に住んだとも、途中病死したとも伝えられる。                ウィキペディア(Wikipedia20220212 12:17


 元々九州は平家方が圧倒的な多数派であり、平家滅亡への大きな政治情勢の変化に連動し、宇佐神宮が平家の拠点となり始めていたことから旧宮司家でもあった大神比義の流れを汲む大神氏が九州全域を制圧しようと動き宇佐神宮焼き討ちという衝撃的な手段に打って出たようなのです。

 「平家物語」「源平盛衰記」「義經記」「吾妻鏡」…とかなり異なった事を伝えており、義経の最後に関わる部分だけでも全く異なる記述があり、良く判らない部分も多いようです。

 ただ、義経は静との間に子をもうけており、静は宮地嶽神社のエリアの福津市で義経の子を産み、元々豊後の臼杵の地頭の娘であったことから、その子は地頭職を引き継いでいるという確度の高い話があります。これについても百嶋由一郎氏から聴いていた話でしたが、5年ほど前に静が使っていた井戸の現場も踏んでおり、当方も某ブログにリポートを書いています。

 このため、以前から大神一族が後白河法皇から肥前、筑前、豊前の支配権を義経に与えるとしたとする話と大神氏が連動していた可能性がある上に、義経を豊後の奥深く豊後竹田の難攻不落の巨城岡城(大神城)を築き頼朝政権とも一戦を構えようとした事はかなり納得が行く話なのです。

 兄の源頼朝と対立した義経が京を落ちて九州へ向かも、船団は嵐に遭難…と全くもって不可思議です。

無題.pngただ、これもロマンチックな話で、政治の転換点で大きな役割を果たした一族だったとまでは言えるでしょう。通常、大神氏の祖とされる平安期前後の大神惟基が阿蘇大蛇伝説の発信源であり、大蛇の三つ鱗を家紋としたのもそこから始まっているとまでは言えそうです。

 ただ、惟基の「惟」が、阿蘇宮司家初代「惟人」の「惟」以外にはありえず、大神一族が阿蘇系それも中枢部であったことは間違いがないでしょう。してみると、河上 猛の 奈留田姫がその惟人の姉か妹であることから、阿蘇本流の人であったことは間違いが無いはずなのです。

 それが、後付けなのか本来のものかは確認しようもないのですが、河上 猛の母が奈留田姫である以上、同族もしくは、最低でも彼らが大神一族に近接する人々だったことは間違いがないように思います。

 後に中川氏により総石垣の天空の城が築かれますが、1185年頼朝に追われた義経を迎え入れるべく大神惟義(栄)が築いたとされます。

 では、ウガヤフキアエズ王朝論と大神氏との関係はどうなるのでしょうか?


祖母山大明神の正体とは? - ウガヤフキアエズ王朝実在論


彼らが持ち上げる大神一族がウガヤフキアエズの後裔氏族であったであろうことも疑いようがありません。

通常、神武皇兄五瀬命を義理の兄として扱うのは本物の神武天皇(藤原が捏造した神武僭称贈る崇神ではないと言う意味で…)の本物のお妃だったアイラツ姫(宮崎県日南市油津)の実兄が五瀬命だったからです。

 ここで話を戻しますが、何故、祖母山と呼ばれているのでしょうか?それは言うまでもなく誰かの祖母だからなのです。

 まったくでたらめな話なのですが、百歩譲ってその説を説明すれば、それは、彼らにとっての「神武天皇」の祖母が玉依姫(実は神玉依姫ではなく鴨玉依姫)だからなのだ!と言っているのです。ここには二重三重の誤りが転がっているのですが、真実が隠されてしまうと言いたい放題になってしまっているようで、ほとんど漫画です。

 これが宮崎のインチキ神話の底流に流れる錯誤というか偽装なのでしょう。

しかし、それに悪乗りするのが阿蘇系の後の藤原だったために嘘に嘘が輪を掛け闊歩したのでした。

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お分かりでしょうか?大幡主ことカミムスビの姉=ヤタガラスの伯母 様に当たる方なのです。

大体、ウガヤフキアエズの子が神武天皇=スサノオノミコトなどといった話を吹聴される方は何も分かっちゃいないと思われて間違いありません。では、再び話を戻しましょう。

 あくまでも百嶋由一郎によればですが、ご覧のとおり祖母山の神=豊玉姫は河上 猛にとって祖母である事は明らかですね。さらに言えば、ウガヤフキアエズ(当時久留米の高良山に居たのですが)は父にあたるのです(これについては久留米の高良大社にかろうじて残された「高良玉垂宮神秘書同紙背」を読まれるか、当会メンバーの「宮原誠一の神社見聞諜」or「事代主のブログ」氏が最近公開された第2ブログ「神社を科学する」(神社探訪)トップ画面右下の宮神秘書 書き下しをお読みください)。

実際に祖母山山頂に祖母嶽(ソボタケ、ウバタケ)神社が置かれ、日子穂穂出見命(ヒコホホデミノミコト)とそのお妃である豊玉姫命(トヨタマヒメ)が祀られているのですが、祖母山の「祖母」の由来となる神武天皇の祖母、豊玉姫が祭られていますなどと解読されています。

この神武が本物の初代神武であるカムヤマトイワレヒコでないことは明らかで、藤原が拵えた神武僭称贈る崇神ことハツクニシラススメラミコト(黒枠)なのです。

この人物は久留米高良山にいたウガヤフキアエズと第9代扱いとなっている呉太伯の血を惹く本物の天皇高良玉垂命(ワカヤマトネコヒコ)開化天皇(后は仲哀死後の神功皇后=皇宮皇后命)の臣下でしかない阿蘇系の人物(阿蘇系の大山咋=具体的にはヒコヤイミミと市杵島姫との間に生まれた国造神社様)だったのです。ただ、四道将軍を派遣し畿内を制圧した功績から初代神武は崇神だったと描いたのでした。

ただ、その阿蘇系が藤原氏として最後の勝利者となったことから、崇神を神武に見立てヒコホホデミやウガヤフキアエズが神武の父などというとんでもない大嘘をでっちあげてしまい、とうとう宮崎のインチキ神話がこさえられてしまったのでした。

 これが通説派の欠史8代架空説などと言うほとんど漫画でしかない歴史偽造がさらに増幅されてしまったのでした。

実に嘆かわしい限りであり、「古事記」の95パーセントが嘘という百嶋説に従うべきなのです。

 ネット上にはウガヤフキアエズ王朝複数のサイトが何本も出店されています。ここで敬意を表し特筆大書させていただきましょう。



 まだ、容易にはご理解が得られないと思いますので、再度ご説明したいと思います。

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天神 地神 第一条


地神五代

 第一 天照大神 第二 正哉吾勝々速日天忍穂耳尊 第三 天津彦々瓊杵尊 第四 彦火々出見尊 第四 彦波瀲武鵜草葺不合尊

天照大神の御子は、四人いる。三人は天照大神より四代まで継がれた。 正哉吾勝々速日天忍穂耳尊の御弟は 天津彦々瓊杵尊 此御弟は彦火々出見尊 此御弟を彦ソソリノ尊(火酢芹尊)という。このソソリノ尊は神代を継がずに海の遠くへ行った。


 ある時、彦火々出見尊が弟彦ソソリノ尊に釣針を借りて、兄の彦火々海原に出て、釣り針を海に入れた。アカメクチがこの釣針を食切る。御弟彦ソソリノ尊の持ち伝えの釣針なので、兄の彦火々出見尊、呆然と呆れていると塩土の翁と云うものが現れた。「吾皇子御徳を忘れず。今現れ来た。」その御礼をするため、ナメシカゴ(目無籠)と云うものに、彦火々出見尊を連れ奉り海中に招き入れると、ほどなく竜宮界に着いた。

 これまでの事を次第に竜王に云うと、「この世界に三年逗留すれば、その間に願いをかなえる。」言い、彦火々出見尊「そのとおりにいたします。」と答えた。

 竜王「諸々の魚寄せ集めよ」とアカメクチに伝えれば、しきりに寄せ集められ、諸々やってきたアカメクチのその中に、頬腫れて異なる口を開けてみれば、釣針見つかり、その釣針を密かに取り、竜宮へ納めた。竜宮の娘と彦火々出見尊へ渡し。その釣針を取り出し、彦火々出見尊へ渡すと。その釣針を受け取り、夫婦共に竜宮を出で、海上にほどなく上陸し、彼釣針を御弟彦ソソリノ尊へ返した。

 竜王の娘と彦火々出見尊は夫婦となり、やがて豊玉姫は妊婦となり臨月となった。産所を造ってほしいといわれ、鵜羽をもって葺いた。葺き合せている最中に出産給し。これにより、この御子の御名を彦波瀲武鵜草葺不合尊と呼んだ。豊玉姫とお避けるうちは百日我慢して御覧下さい、とお避けたが九十九日にあたるとき、彦火々尊、隙間よりご覧するに、豊玉姫は大蛇となって、七又の角の上に その御子を置き、したをもって子降っていたのを彦火々出見尊が覗きみたことにより豊玉姫は御子を捨て海中に帰っていった。

 嘆き悲しむ彦火々出見尊のところに豊玉姫の妹 玉依姫が竜宮よりあらわれ御子を養育した、御子を玉依姫と甥の彦波瀲武鵜草葺不合尊はやがて夫婦になった。

 彦波瀲武鵜草葺不合尊は住吉大明神のことである。その御子住吉五神とは二人は女子 三人は男子 二人の女子の名前は表津少童命 中津少童命といった。男子の名は長男大祝先祖の名は表筒男 次男神武天皇の名は中筒男 三男高良大菩薩の名は底筒男と言った。…以下も続く


 冒頭から、海幸山幸神話が登場します。勿論、海幸は高千穂の三田井にいた高木大神(タカミムスビ)の声が届くような熊本県高森町草部の吉見神社に象徴されるヒコヤイミミその人であり、山幸彦はむしろ有明海〜不知火海沿岸一帯に居り、塩土老翁=大幡主(博多櫛田神社)=カミムスビと共に製塩を行っていたのです(ひぼろぎ逍遥ほかで何度も書いています…)。

メンバーの宮原誠一氏は、“「古事記」「日本書紀」はこの話(海幸、山幸の名は使われていません)を剽窃している”と、また、“海幸は山に、山幸=猿田彦=ニギハヤヒは海にいるという構造を記紀は誤読しているではないか”とまで言われましたが、私は、猿田彦神社の分布と猿田彦+塩土老翁による製塩地と同神社の分布から、塩を中心とする魚の干物などの海産物を山に運び、現地での販路を仕切ったのが海幸彦(草部吉見)と呼ばれ、交換品の山のためつもの=鹿革、干し肉、果実、獣脂…など山の幸を海岸部で一手販売したことから、海に拠点を置くも、後世、山幸彦と呼ばれたのではないかと理解しています。少し脇道に逸れましたが、冒頭の引用文にウガヤフキアエズが登場します。

百嶋由一郎氏は長年月の研究により「高良玉垂宮神秘書同紙背」に基づき100枚近い神代系譜を作成されています。

ウガヤフキアエズは豊後竹田とか豊後大野などに居たのではなく、久留米の高良山一帯に居たのです。

そればかりか、この宮神秘書にはヒコホホデミ=山幸彦と、豊玉彦=ヤタガラスと高木大神の長女豊秋ツ姫との間に生まれた豊玉姫の間に生まれたウガヤフキアエズが、母豊玉姫の子育て放棄によって代わりに送られてきた鴨玉依姫(ヤタガラスと櫛稲田姫:スサノウの後)と恋仲になり乳母(姥)に種を付けて生まれたのが安曇磯羅だったこともさらりと書いてあるのです。

このように宮神秘書は臨場感に溢れ、ウガヤフキアエズの実在性を疑う余地はないのですが、彼らが基盤としたのは九州王朝の本拠地である久留米から太宰府に掛けての一帯だったのです。

これに輪を掛け、宮崎のインチキ神話宜しく、神武天皇の父がウガヤフキアエズであったなどというとんでもない話が持ち出されるところに、今更ながらにこのインチキ神話の底の浅さを感じてしまうのです。ウガヤフキアエズが神武天皇の父親だって!? 実は「日本書紀」「古事記」ともに事績は一切なく系譜だけで伝えているのです。このことについて、ウキペディアに投稿された方も自問自答されています。

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ウガヤフキアエズ 『記紀』に従えば鸕鶿草葺不合尊は天孫瓊瓊杵尊の孫となり、神武天皇は曾孫ということになる。しかし、天孫降臨に随行した者と神武東征の関係者の世代とを比較すると、中臣連、忌部首、久米直等の関係諸氏は必ず祖父と孫という世代関係にあり、皇室系譜だけ何故か一世代多いことになる。また、甥と叔母との異世代婚の例は稀で恒常的なものとは言い難く、その少数例においても母の同母妹との婚姻は一例も存在しない。このことから、鸕鶿草葺不合尊・神武天皇の系譜は騎馬系民族に多く見られる姉妹婚の伝承が転訛したもので、豊玉姫と玉依姫は共に彦火火出見尊と婚し、前者が鸕鶿草葺不合尊を、後者が神武天皇兄弟を生んだものと見る説がある。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』20220219 12:55


この点、「高良玉垂宮神秘書」を根拠とする百嶋神社考古学には、全く異なる記述があり、ウガヤフキアエズの人間臭いリアルな表情が認められ、後世に伝えるべく残された聖典にこのような記述があることはむしろ真実だったとしか思えないのです。

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竜王の娘と彦火々出見尊は夫婦となり、やがて豊玉姫は妊婦となり臨月となった。産所を造ってほしいといわれ、鵜羽をもって葺いた。葺き合せている最中に出産給し。これにより、この御子の御名を彦波瀲武鵜草葺不合尊と呼んだ。豊玉姫とお避けるうちは百日我慢して御覧下さい、とお避けたが九十九日にあたるとき、彦火々尊、隙間よりご覧するに、豊玉姫は大蛇となって、七又の角の上に その御子を置き、したをもって子降っていたのを彦火々出見尊が覗きみたことにより豊玉姫は御子を捨て海中に帰っていった。

 嘆き悲しむ彦火々出見尊のところに豊玉姫の妹 玉依姫が竜宮よりあらわれ御子を養育した、御子を玉依姫と甥の彦波瀲武鵜草葺不合尊はやがて夫婦になった。

 彦波瀲武鵜草葺不合尊は住吉大明神のことである。その御子住吉五神とは二人は女子 三人は男子 二人の女子の名前は表津少童命 中津少童命といった。男子の名は長男大祝先祖の名は表筒男 次男神武天皇の名は中筒男 三男高良大菩薩の名は底筒男と言った。

 皇代十五代神功皇后のとき、イルキ 日本に渡る、その時筑前四王寺の峰に上り虚空を祈った。〜中略〜明星天子の垂迹住吉明神表筒男七旬老翁と現れ、その御子嫡男日神垂迹表筒男、二人現れた 三男月神ノ垂迹底筒男〜中略〜三韓をせめ従えた 男月神ノ垂迹底筒男ノ尊 皇后と夫婦となり 嫡男の垂迹表筒男は皇后の御妹 豊姫と夫婦となった。男月神ノ垂迹底筒男 物部(阿部)保蓮という。別名 藤大臣 四人の皇子は仲哀天皇の皇子である、五人は藤大臣の子 合わせて九躰皇子という。妹豊姫は肥前国で河上明神となった。

 皇代十七代仁徳天皇の時、神功皇后崩御された、高良明神、豊姫、玄孫大臣 その御子大祝日往子尊 武内大臣 皇宮を共に出、武内大臣は因幡国に立ち残り、炉辺に靴を脱ぎ棄て、御衣を木の枝に掛け山の奥に入給う隠れるとこを知らすなり、残り四人は皇宮よりはるばる行き豊姫 玄孫大臣は肥前国に留まりて豊姫は河上大明神となった。

 九月十三日 大祝日往子尊はその山に還り 皇宮で三種の神器を振り分けた 勾玉は高良大明神が預かった。宝剣は神功皇后 鏡は玄孫大臣が預かった。大祝は職の名で本名は鏡山という。

 皇代四十代天武天皇の時 大祝道麻呂男子美理麻呂に御宣託があり斗藪(雑念をはらって心を一つに集めること。)し密かに来て 意見があった。「天下の万法は ついに仏海にする 当社の明神は一人としましょう仁王経文をもって御法心有 大祝へ大明神は譲り 大井御垂迹なので束帯とつかれ高良大明神を引き換えに高良大井と名乗るように」とおっしゃった。        「高良玉垂宮神秘書」(訳文)

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記