2019年08月15日

616 浦島太郎はなぜ亀に乗って竜宮城に向かったのか? (拡大編)

616 浦島太郎はなぜ亀に乗って竜宮城に向かったのか? (拡大編)

                                      20180822


太宰府地名研究会 古川 清久


 浦島太郎の話を考える時、始めは倭人は黒潮に乗り舟で太平洋を周回していた(時計回りで)と考えていました。

 その時のイメージとは明らかにポリネシアンであり大型の帆を掛けたカヌーのイメージでした。

 話がここまで拡大してくると、7年ほど前に久留米大学の公開講座(九州王朝論)として古田史学の会の事務局長であった(当時)大下隆司氏と私とが組んで発表した「倭人も太平洋を渡った」について当時の資料からお報せしておこうと思います。

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南米の九州縄文・弥生の土器 豊中歴史の会 大下隆司 (古田史学の会)

古川 清久+大下隆司YouTubeで講演をお聞きください。1時間40分の音声

1.はじめに

近年、DNAの解析技術が飛躍的に進み、現在の人類の祖先は20万年頃前にアフリカで生まれ、6〜7万年前に世界各地に旅立ち,アジアへは約4万年前にやって来たことが明らかになっています。さらに2万年前ごろから当時陸続きであったベーリング海峡を越えてアメリカ大陸へ渡っています。1万年前には太平洋を船で渡ったグループも出てきました。

中国の史書には、大洋のかなたにある倭人の国のことが書かれています。そして太平洋の向こう側、南米のエクアドルでは、日本の縄文・弥生土器が出土しています。

古代の人々は我々の想像をはるかに越えたダイナミックな動きを行っていたようです。

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(図:『古代日本の航海術』小学館、茂在寅男著)


2.中国史書に描かれた南米の倭人の国


イ)三国志・魏志倭人伝(3世紀後半に記述)

卑弥呼で有名なこの本には邪馬台国だけでなく多くの倭人の国名が記載されています。その最後のところが「倭国の東南の方向、船行一年にして裸国・黒歯国に至る」です。
日本の東南の方向、黒潮の行き着く先は南米のエクアドル、ペルーの沿岸です。

ロ)後漢書・倭伝(4世紀前半)

この史書には漢倭奴国王の金印のことが「建武中元二年・・、倭国南界を極める。光武、賜うに印綬を以てす」倭国が南界を極めたために金印を与えたと書かれています。

そして、倭伝の末尾には南界のことが「東南、船を行ること一年“裸国・黒歯国”に至る。使駅(使者)の伝うる所ここに極まる」との説明がされています。倭国王が南米のことを光武帝に報告したために金印が与えられたものです。

(出典:『「邪馬台国」はなかった』古田武彦。2010年、ミネルヴァ書房。他)


3.縄文・弥生の頃のエクアドル・コロンビア


中南米の古代文明といえば、マヤ・インカ・アズテカなどが思い浮かびますが、それ以前は南米大陸の北部、今のエクアドル・コロンビアの太平洋岸に古代文明が栄えていました。

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イ)エクアドルの縄文文化 

今から6千年前のエクアドル、現在のグアヤキル市近くの太平洋岸にあるバルディビアに縄文文様をもった高度な土器文化が突如出現しました。この文化は約2千年間続いています。彼らは航海の民で、優れた航海技術をもち、北はメキシコ、南はペルー・チリ、そして東はアンデスを越えてアマゾン地域との交易を行っていました。

古代において、エクアドル周辺の地域は中南米の交通十字路の中心として栄えていたと考えられています。

曽畑式土器バルディビア土器

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6千年前、曽畑式土器が種子島、沖縄に拡がっています。同じ頃、南米エクアドルの太平洋岸で突如高度な縄文文様をもった土器が出現しました。黒潮の行き着く先です。1960年代に考古学者でもあったグアヤキル市長エミリオ・エストラダ氏とアメリカのスミソニアン博物館の考古学者、エバンズ・メガーズ夫妻が、バルディビアから出土した土器が


@  縄文前期の九州の土器と同じ文様をもっていること

A  類似した製作技法で作られていること

B  それを伝える黒潮という交通手段があること

C  それまでアメリカ大陸には高度な土器文化が存在していなかったこと


から「縄文土器の南米への伝播・古代の太平洋における文化の交流」というテーマを提唱しました。

紀元前5世紀から紀元5世紀ごろにかけて、エクアドルの北部海岸ラ・トリタ地区からコロンビア南部の太平洋岸にかけて黄金文化が栄えていました。魏志倭人伝の時代です。

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ロ)エクアドルの弥生時代

そこでは、弥生時代に北部九州で大量に作られていた埋葬用の大型甕(甕棺)と同じ形をした甕が同じく埋葬に使われていました。高さはいずれも1.5mほどです。


九州・吉野ヶ里出土の甕棺 ラ・トリタ地区出土の甕棺

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ハ)コロンビアの縄文土器  (B.メガーズ論文より)


カリブ海側にあるサンハシント遺跡から、縄文時代中期(4〜5千年前)に中部日本で盛んに作られていた火炎式装飾の土器が出土しています。

バルディビアからカリブ海側のサンハシントへはコロンビアの太平洋岸を流れるサンフアン川をたどってゆくことができます。この流域に住むノアナマ族にHTLV-1型のキャリアーが多くいます。倭人がここを通りカリブ海側へ移動していた可能性が考えられます。

HTLV-1:九州・沖縄などの西南日本に多いウィルスで、アメリカ大陸ではアンデスの山奥にだけ見つかっています)


南米大陸西北部太平洋岸 ↓


4.その他南米の日本語地名など

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バルディビアの北にマンタという大きな町があります。その名前は魚のマンタ(エイ)から由来していると思われますが沖縄ではエイのことをカマンタと呼んでいます。 (古川清久)

その北の海岸にある村がハマと呼ばれています。インディオの古くからの地名です。

沖縄では最近まで結縄文字が使われていました。同じ結縄文字が5千年前の古代ペルーの遺跡からも見つかっています。

その他DNAの類似など、多くの分野で古代の太平洋の交流を示す痕跡が見つかっています。

バルディビアには資料館もあります。南米へ旅行に出かけられる時は是非エクアドルヘゆき倭人の足跡を見てきて下さい。

(2013710日大下記)NPO法人 とよなか市民活動ネットきずな 近著

【参考文献】

@  『「邪馬台国」はなかった』古田武彦著、2010年、ミネルヴァ書房(1971年朝日新聞社の復刻版)

A  『海の古代史』古田武彦著、1996年、原書房

B  『新・古代学』第4集、新・古代学編集委員会編、1999年、新泉社・文化の進化と伝播(太平洋文化伝播説の紹介):ベティ・メガーズ

C  『なかった・真実の歴史学』四号、古田武彦編、2008年、ミネルヴァ書房

南米の古代地名:古田武彦。”エクアドルに倭人が残した言語は?”。エクアドルで報道された特集記事(EL UNIVERSO):翻訳大下隆司『なかった・真実の歴史学』五号、

D  古田武彦編、2008年、ミネルヴァ書房裸国・黒歯国の頃の南米: 大下隆司

E  『古代に真実を求めて』十一集、古田史学の会編、2008年、明石書店

人類と日本古代史の運命: 古田武彦講演録。エクアドルの大型甕棺 : 大下隆司。

 大下氏は、2018810日ミネルヴァ書房から「日出処の天子」は誰か を共著で公刊されています。


 その時の久留米大学での公開講座では、私が始めに「釜蓋」“カマンタ”というテーマで講演し、引き続き大下氏による「倭人も太平洋を渡った」というリレー講演のスタイルを取っています。


無題.png太宰府地名研究会から


ひぼろぎ逍遥でも公開しています。


211

 「釜蓋」とは何か?“民俗学者 谷川健一の永尾地名から”G

208

 「釜蓋」とは何か?“民俗学者 谷川健一の永尾地名から”F

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 「釜蓋」とは何か?“民俗学者 谷川健一の永尾地名から”E

206

 「釜蓋」とは何か?“民俗学者 谷川健一の永尾地名から”D

205

 「釜蓋」とは何か?“民俗学者 谷川健一の永尾地名から”C

204

 「釜蓋」とは何か?“民俗学者 谷川健一の永尾地名から”B

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 「釜蓋」とは何か?“民俗学者 谷川健一の永尾地名から”A

202

 「釜蓋」とは何か?“民俗学者 谷川健一の永尾地名から”@


「釜蓋」と倭人と浦島太郎に一体何がどう関係するんだと訝しがる方はおられると思いますが、民俗学者の谷川健一(故人)が岩波新書の「日本の地名」で取り上げた「永ノ尾」(釜蓋)という地名が膨大な数で日本列島に分布している事に気付いた事から書き下ろしたもので(直接確認しましたが谷川は一つしか気づいていなかった)、これらは、未だに継続するテーマと考えています。

 一応、概略だけはお話ししておきますが、熊本県の宇土半島(現宇城市)に「永ノ尾」と呼ばれる地区があり、「永尾剣神社」があります。

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不知火が見える神社 永尾神社 カーナビ検索 熊本県宇城市不知火町永尾 不知火町永尾615


現在では、干拓、海岸堤防工事などによって地形が見えなくなっていますが、古代には不知火海に剣状に突き出した岬がはっきりと残っていたと考えられます。

その岬を右に左に潮流が動くことによって、エイの尾とそれに繋がる鰭状の砂浜が広がり、舟からはあたかもエイが砂浜から山に這い上がっているかの様に見えたと考えられるのです。

これが分かるのが、背後の山が鎌田山と呼ばれている事で、沖縄では英語のマンタレイorスティングレイに相当する名称が、海から飛び上がるマンタとして理解され崇拝されているのです。

 しかも、この永尾地区には、古来、神とするエイを食べないという伝統が残る事から、宮古八重山に200回は行ったという谷川は、沖縄のマンタが「エイの尾」として地名にまで高まっているとしたのでした。

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ただし、詳しくは調べていませんが、ここには永尾型地名は存在しないようです


 これは福岡県糸島市の芥屋の大門付近の写真ですが、このような地形をエイの尾に見立てた南方系の漁撈民がこの「釜蓋」「永尾」「鎌田」「万田」…という地名を残したのだろうと考えられるのです。

 では、最期に太平洋の反対側、南米エクアドルのマンタをご紹介しておきましょう。

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太平洋に突き出した大きな岬が見えますね


マンタは、エクアドルのマナビ県の最大都市。 2010年の人口は217553人で、同国7位。 同国最大の海港を持ち、鮪漁が盛ん。 軍民共有のマンタ空軍基地が有る。 正式名称はサン・パブロ・デ・マンタ。

ウィキペディア


 沖縄で、マンタ、カマンタ、ハマンタ…などと呼ばれ海からジャンプする勇ましい姿を先祖とか神とか崇める海洋民は太平洋を黒潮に乗って時計回り廻っていたのでしょう。

 彼らが齎したであろうこの情報は、福建省、浙江省辺りを根拠地としていた倭人にも伝わっていたはずで、黒潮に乗ればいつか元の港にも戻れるとの言い伝えは広まっていたと思われるのです。

当然、浦島太郎も知っていたことでしょう。

 かつて、故)古田武彦が「『邪馬台国』はなかった」を公刊した時、最期の侏儒国、黒歯国を知識人ぶって酷評した人々が多数いたことを知っています。土下座して謝れ!

 このマンタ地名によっても、古田を攻撃した谷川がその本人が提案した「永尾」地名によって誤りが明らかとなった事を面白く思っています。古田を酷評した知ったかぶり共よ古田に謝罪し自らを貶めよ!

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 23:27| Comment(0) | 日記

2019年08月14日

615 浦島太郎はなぜ亀に乗って竜宮城に向かったのか? (本編)

615 浦島太郎はなぜ亀に乗って竜宮城に向かったのか? (本編)

                                      20180820


太宰府地名研究会 古川 清久


 無題.png日本人にとって、“浦島太郎が亀に乗って龍宮に向かった”という話は知らぬ人の無い共通認識ですが、では、何故亀に乗って行かなければならなかったのかは考えて見れば不思議な話です。


昔 昔 浦島は助けた亀に連れられて龍宮城へ来て見れば絵にもかけない美しさ乙姫様の御馳走に鯛や比目魚の舞踊ただ珍しくおもしろく月日のたつのも夢の中遊にあきて気がついてお暇乞もそこそこに帰る途中の楽しみは土産に貰った玉手箱帰って見ればここは如何に元居た家も村も無く路に行きあう人々は顔も知らない者ばかり心細さに蓋とればあけて悔しき玉手箱中からぱっと白煙たちまち太郎はお爺さん


 しかし、浦島太郎こと浦の島子が大幡主(ヤタガラス=龍王の父神)の事であった事が分かってくると、次に問題になるのが、何故、亀に乗ったのか?という話でした。

 そもそも、博多の櫛田神社の大幡主の神紋は三盛亀甲(五三桐)でしたね。

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祭神は正殿に大幡主命(櫛田宮)左殿に天照皇大神(大神宮)右殿に素戔鳴尊(祇園宮)の三神です。

真ん中が何故小さいのか、また、真ん中なら、何故五枚木瓜紋なのか?とか未だに分からないのです。

百嶋先生は、本当の実力者であるにもかかわらず、大幡主はあまり表に出ようとはされていなかった…とも言われていました。多分、大山祗(桜をシンボルとする)が外され通りの良い天照が入れられた…?

この問題は、まだ解明できておらず全く分かりません。ただ、紋章は三盛り亀甲五三の桐(天皇家と姻戚関係を結ぶ一族)であり、出雲大社の大国主こそ亀甲紋章のルーツなどと騒ぎ立てる方がおられますが、亀甲紋章の起源は大幡主にこそある事をまずは知って頂きたいと思います。

何故ならば、大国主は実質的に大幡主への入婿の様な存在だからです(百嶋最終神代系譜を参照)。

では、紋章を再度ご覧ください、亀甲とはそもそも亀の甲羅の意味なのです。大幡主=藤原が第3代とした安寧天皇とは浦島太郎だからこそ三盛(三民族連合)りの意匠で亀の甲羅を表しておられるのです。

 そして、桜紋の意味は擬神体としての大山祗を表しているのではないかと思っていますが(大山祗の娘は桜をシンボルとするコノハナノサクヤですね…)、これも、一応、ここまでとしておきます(多分、明治期かそれ以前の藤原期かに祭神が入れ替えられているように見えるのです)。

 それはともかく、大幡主が三盛り亀甲紋=亀の甲羅形紋を使っている事はお分かり頂けたと思います。

 ここで百嶋先生が言われていた事が鮮明に蘇ってきます。

大幡主は列島全体は基よりインドの手前インド・シナ(マガタ王国)の辺りまで外洋船を使って行き来をしていた。と言っておられたのでした。

 では、その時代の渡洋航海ができる外洋船とはどのような船だったのでしょうか?

まずは、その時代の船を頭に描いて見ましょう。一つは、ポリネシアでも現役で使われている双胴船(カタマラン)、大型のカヌーです。中には30人の乗りの大型のカヌーがあることはご存じの通りです。

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勿論、南太平洋を渡り切ったハイエルダールのコンチキ号のバルサ材で造られた帆を張った筏船も頭に浮かんで来ると思います。

 しかし、交易品を船倉に入れて渡洋航海を行なうとなると、多くの泊地を準備し、食料、水、修船、船員の休養、嵐の時の避難港…と兵站が重要になってきます。

 それに対応できる物資輸送が可能な船となると、やはり大型の帆を張る事ができる中国のジャンクやインド洋のダウ船といった物が必要になったのではないかと思うのです(左はコンチキ号、中はジャンク、右がダウ)。

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このうち、コンチキ号は基本的に水を被っても抜けて行く筏船で、渡洋航海はできるものの物資輸送は不可能でしょう。大型のカヌーも同様で、大波が来て一気に水が入れば交易品など消え去ってしまいます。

 従って、龍骨の入った構造船しか考えようがなく、ジャンクやダウ船になりそうです。

 問題は交易品を守るためには、波を被っても直ぐに水を海に流し、内部には水が入らない様な覆い屋根が必要で、それが亀の甲羅に見えても不思議ではないと思うのです。

当然にも、この船に荷物を満載し喫水が下がった姿を見れば、亀と表現できなくもないのです。

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豊臣秀吉の朝鮮出兵で韓国を守ったと言われる韓国救世主の李舜臣は、鳴梁海戦で日本水軍330隻をたった13隻で撃退したという話になっています。

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この話はかなり有名な話です。日本に対する恨みとコンプレックスで固められた韓国の方々にとっては唯一の誇りにしているこの李舜臣も、実際には既に停戦協定が成立し、唐、朝鮮、日本の手打ちが行われた後に、亀甲船で攻撃したと言われており、あきれた唐もそのまま見ていたという曰くつきの話であって、 

武士道など始めから期待しないものの、今も昔も朝鮮人とは恥も外聞も誇りもないとんでもない嘘つき連中である事が良く分かるのです。彼らは息をする様に嘘をつき、屁をふる様に真実を吐露するのです。


余談だが、秀吉軍が上陸した時、朝鮮の民衆は地獄のような圧政に苦しんでいたため、戦乱に便乗して迷わず役所に火をつけ、戸籍を燃やした。

その結果、朝鮮半島から白丁(奴婢、賤民、奴隷階級)が激減し、「自分は両班(貴族、良家、良民階級)の生まれだ!」と自称する者が激増した。

さて、実際の李舜臣は何をしたのかといえば、秀吉軍の「補給船団」を襲って「補給路を断った」だけである。秀吉軍は補給が断たれたので一度引き返したが、もちろん撃破されたわけではない。

また、彼の戦い方は、主に「停泊中の艦に火をつけるゲリラ攻撃」や「日本と嘘の休戦協定を結んで、油断させて背後から襲う」という、海賊まがいの卑怯な戦法である。

まあ確かに、「明らかに格上の秀吉軍と正面から戦わなかった」ということは臆病である反面、相手の強さを理解する賢さを持つ優秀な将ではあったのだろう。

だが、ゲリラ戦法や嘘の休戦協定などという国際法違反を戦術としていた人物に“世界の海軍が戦法を学ぶ”などというデマは美化しすぎて片腹痛いし、そもそも李舜臣など海外ではほとんど名前すら知られていないのである。

「真実探求」韓国の歴史的英雄・李舜臣 による

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これについては、ユーチューブ上でも、敬愛する宮脇淳子先生が学術的に熱弁を振るっておられますので探して頂きたいと思います。

話が脱線しましたので元に戻しますが、もしも、このような船であれば確かに亀に見えるのですが、この船に乗った大幡主は亀に乗った浦島太郎と伝説を創ってもおかしくはないのではないかと思うのです。

 問題は、大幡主の時代=ニ〜三世紀にこのような船が存在したかです。

 まず、これも近年の大発見とされたものですが、エジプトのクフ王のピラミッドの近くで巨大船太陽の船がそっくりそのまま発掘された事を思い起こして下さい。

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気候風土が違うとは言え、このような造船技術が存在した可能性はあるはずで、2000年近く前でも、亀に見える外洋船が実際に走っていたという可能性を探りたいのです。

 これについては単に想像しているだけではなくそれなりに多少の根拠はあるのです。

 これまで、博多を拠点に活動していた大幡主〜ヤタガラスの一族については多くを書いてきましたので、ある程度お読みになって来られた方にはお分かり頂けると思うのですが、故)百嶋由一郎氏は以下の趣旨でお話をされていました。

彼らは最終的に漢族に追い詰められた所謂少数民族であり、末期には雲南省昆明の滇(てん)王国(=謎の青銅器文明として有名ですね…)に命脈を保っていたようです。彼ら白族の一派は、後に、紅河(ファンガ)を下り、ハロン湾正面の海南島に移動し、力を蓄え、列島(九州西岸)に移住してきた。対して、雲南省麗江を拠点としていた阿蘇氏の先祖である多氏は、瀾滄(ランソウ)江=メコン川を下り旧サイゴンから海路北上し、同じく海南島に移住し九州西岸に入っているというものです。

この大幡主系白族と多氏(阿蘇氏)が列島を開拓した主要民族となって行くのですが、それはこれまでお伝えした通りです。

ここで、改めて考えて頂きたいのですが、大幡主とはそもそも倭人(海人族)の頭目の様な方なのです。

従って、海人族とは、まず、船を造る事が出来る人々なのです。

古くは山に入り適当な木を伐り出し、丸木舟を造り川に流し漁労なり交易なりを行なう人々なのです。

その意味で、一義的にはそれなりの造船技術を持っている上に、彼らは青銅冶金の技術を持っていたのです。

そこで考えて頂きたいのですが、現在でも雲南省、貴州省、シーサン・パンナなどには、呉橋(屋根つきの橋)や鼓楼を造る民族がいる事は良く知られています。

広西チワン族自治区に属するトン族の風雨橋、数十メートルもの鼓楼…。

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彼らは伝統的な技法で法隆寺と同様にほぞ穴だけで釘を使わずにこれらを建てる事ができるのです。

 ここで、考えて頂きたいことがあります。

 この大幡主〜ヤタガラス(豊玉彦)の後裔の一族こそ橘一族であり、奈良麻呂の変(クーデター失敗)で橘氏の半分が根絶やしになるのですが、縣犬飼橘三千代は不憫に思い敏達天皇に進言し、春日大社造営の責任者に奈良麻呂の子である島田麿が抜擢されるのです。

 そして、配下の河童を使い見事に造営をやり遂げ一夜にして建てたとされるのですが、彼らの配下に、建築技術を持った職能集団が居た事は間違いないのです。

 このように、中国大陸からの亡命、避退とは、安全な新天地を求める開拓のための移住(亡命、植民)だったのです。

 そう言えば、だいぶ前にも同じような事を書いていました。


ひぼろぎ逍遥 438(前〜後) 天地元水(テンチモトミズ) “橘 諸兄の本流が菊池に避退した


「奈良麻呂の変」後、橘氏は、そのかなりの部分が殺され半数が没落しますが、それを悲しんだ犬養三千代が敏達天皇に働きかけ、春日大社の造営に奈良麻呂の子島田丸を抜擢(兵部太夫)させます。その背後には、釘を使わぬ古代の寺院建築の技術を持った職能集団(河童とか兵主と呼ばれた)が囲い込まれていたのではと考えています。

 このような建築技術、造艦技術を持った人々を持った橘一族のルーツとしての大幡主の一族も、同様に操船、造船、建築…の技術を持っていたからこそ新世界としての列島を目指せたのではないでしょうか?

 浦嶋太郎とは天草〜日南〜四国〜出雲〜丹後半島…そして、中国、台湾、インドシナと亀に見える船で大波を乗り切り外洋航海をしていたのだと思うのです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


百嶋由一郎氏の資料(音声CD、神代系譜DVD、手書き資料)を必要とされる方は09062983254まで

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2019年08月09日

614(後) 浦島太郎はなぜ亀に乗って竜宮城に向かったのか? (導入編)

614(後) 浦島太郎はなぜ亀に乗って竜宮城に向かったのか? (導入編)

20180820

太宰府地名研究会 古川 清久


野島神社縁起


今回は、たまたま浦島太郎にスポット・ライトを当てましたが、最近気になっている事に第三代安寧天皇とは誰かという問題があります。


安寧天皇(あんねいてんのう、綏靖天皇5 - 安寧天皇3812月6)は、日本の第3天皇(在位:綏靖天皇337月15 - 安寧天皇3812月6)。

和風諡号は、『日本書紀』では「磯城津彦玉手看天皇(しきつひこたまてみのすめらみこと)」、『古事記』では「師木津日子玉手見命」。

神武天皇(初代天皇)の孫にあたる。『日本書紀』『古事記』とも系譜の記載はあるが事績の記述はなく、いわゆる「欠史八代」の1人に数えられる。

父は第2綏靖天皇。母の記載は記紀で異なり、『日本書紀』では事代主神の娘の五十鈴依媛命(いすずよりひめのみこと)、『古事記』では師木県主の祖の河俣毘売(かわまたびめ)とする。

兄弟に関する記載は『日本書紀』『古事記』ともにない。

妻子は次の通り。

皇后:渟名底仲媛命(ぬなそこなかつひめのみこと、渟名襲媛)

『日本書紀』本文による。鴨王事代主神の孫)の娘。

ただし、同書第1の一書では磯城県主葉江の娘の川津媛、第2の一書では大間宿禰の娘の糸井媛とし、『古事記』では師木県主波延(河俣毘売の兄)の娘の阿久斗比売(あくとひめ)とする。

ウィキペディア(20160219 1430による


お分かりでしょうか?第三代安寧天皇とは、日本書紀』では「磯城津彦玉手看天皇(しきつひこたまてみのすめらみこと)」、『古事記』では「師木津日子玉手見命」とあり、安寧天皇とは玉手箱を見た人(開けて見た?)の可能性があるのです。

逆に言えば、第3代安寧天皇とは誰かをこの神社が証言している様にも見えるのです。

今のところ、ここまでしか言えませんが、思えば、丹後の浦島太郎を祀る神社を訪れたのは十五年も前になるでしょうか?


淳和(じゅんな)天皇は浦嶋子の話を聞き,小野篁を勅使として天長2年(825年)に浦嶋神社を創建し「筒川大明神」として嶋子を祀っています。

別名 宇良神社 浦島大明神 筒川大明神 主祭神 浦嶋子 相殿神 月読命  HP「古代史の情報」より

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浦嶋神社(宇良神社)京都府伊根町本庄浜191    アコウは汀線に生える植物です


百嶋神社考古学では、鹿児島の田の神様が大幡主+月読命(大山祗命)による擬神体を成している事を知っていますが、ここにも、その組合せが認められることから、浦島太郎=大幡主である事を裏付けている様に見えるのです。実は丹後ではありませんが田の神様(鹿児島のタノカンサー=大幡主+大山祗命による擬神体)は石川県の能登半島一帯にも分布している事を申し添えておきます。

 百嶋神社考古学勉強会内部では第3代安寧天皇に関しては神沼河耳(草部吉見の父)説もあり検討中です。

 一方、丹後半島の通称浦島太郎神社の二柱の祭神に大山祗(月読命)があることが分かり浦島太郎が大幡主であることが分かってきたのでした。詳しくは以下をお読み頂きたいと思います。


474

突然涼しくなったので丹波丹後の神社調査に… E 宇良神社(伊根町)浦島神社再々訪


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宇良神社 カーナビ検索京都府与謝郡伊根町本庄浜191 0772-33-0721


浦嶋(ウラシマ)神社は、京都府与謝郡伊根町本庄浜にある神社で浦嶋伝説が伝わり宇良(ウラ)神社とも呼ばれています。

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百嶋神社考古学に精通された方にはピンとこられる方がおられると思いますが、百嶋先生は鹿児島県、宮崎県に分布する田神様(タノカンサー)を大幡主+大山祗の擬神体であると言われていました。

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百嶋由一郎金神神代系譜(部分


 ご覧の通り、百嶋先生は「田神様」(タノカンサー)とは大幡主+大山祗の犠身体とはっきり書かれています。


宇佐八幡は決して、八幡では有りません。宇佐神宮が本当です。配列を申し上げますと、宇佐の大親分はここにおられます。大元宮です。田の神様、タノカンサーと呼ばれています。那国の王様と大山ズミの神様のお二人です。そして下の方に、さっき申し上げた三人の女神さんです。宗像の三女神と同じです。そして後で追加したのが贈応神天皇です。そして神功皇后です。

肥後の翁のブログより


 詳しくは、ひぼろぎ逍遥 367 甘木朝倉の田神社からタノカンサーが擬神体である可能性についてをお読み頂きたいのですが、


百嶋神社考古学では鹿児島県に集中する田神様(タノカンサー)を博多の櫛田神社の大幡主と大三島に鎮座する大山祗命との擬神体とします。

一般的には正体が分からない事から、民俗学の影響もあり、田神様(筑後川北岸に多くの田神社がある事もご存じなく)を春の田植の頃に降りてくる山の神などと曖昧な話で分かったような気になり、自己満足し納得されているようです。

ひぼろぎ逍遥 182タノカンサーの正体とは何か?“甘木公園の田神様(タノカンサー)福岡県朝倉市甘木から”302 甘木に二つ目のタノカンサーを発見した!(共通掲載)外で書いた“鹿児島のタノカンサーは大幡主と大山祗の二神による擬神体”という意味を中々理解できなかったのですが、今回、「福岡県神社誌」によって朝倉郡の無格社を調べると、同郡内に40の無格社 田神社(埴安命…=大幡主)があることが分かり、その外延部にも多くの大山祗神社が存在している事が分って来ると、大幡主と大山祗の二神による擬神体という表現に俄かに現実性が帯びてきたのでした。

ひぼろぎ逍遥(跡宮)271 田神社(タノカンサー)は朝倉郡を中心に50社近く存在した 参照のこと

 そして、大山祗命の総本山(実は国譲りに絡み配置換えが行われた…)である大三島の大山祗神社の縁起にも「擬神体」という表現が出てくるのです(以下)。

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日本総鎮守大山祇神社

大山祇神社は、瀬戸内海のなかでも特に景勝の地である芸予海峡の中央に位置して、大小の島々に囲まれた国立公園大三島に、日本最古の原始林社叢の楠群に覆われた境内に鎮座している。御祭神は大山積大神一座で天照大神の兄神に当らせられる。

天孫瓊々杵尊降臨の際、大山積大神、またの名吾田国主事勝国勝長狭命(大山積神の擬神体)は女木花開耶姫尊を瓊々杵尊の后妃とし、国を奉られたわが国建国の大神であらせられるが、同時に和多志大神と称せられ地神・海神兼備の霊神であるので日本民族の総氏神として古来日本総鎮守と御社号を申し上げた。

大三島に御鎮座されたのは、神武天皇御東征のみぎり、祭神の子孫・小千命が先駆者として伊予二名島(四国)に渡り瀬戸内海の治安を司どっていたとき芸予海峡の要衝である御島(大三島)に鎮祭したことに始まる。

本社は社号を日本総鎮守・三島大明神・大三島宮と称せられ歴代朝廷の尊崇、国民一般の崇敬篤く奈良時代までに全国津々浦々に御分社が奉斎せられた。延喜式には名神大社に列し、伊予国一の宮に定められ、官制に依り国幣大社に列せられた四国唯一の大社である。現在官制は廃せられたが、地神・海神兼備の大霊神として千古に変わらぬ崇敬を寄せられ、全国に奉斎される大山祇神社・三島神社の総本社として、又数万点に及ぶ宝物類を蔵する国宝の島として四季を通して多数の参拝がある。       境内由緒書


神社探訪 狛犬見聞録・注連縄の豆知識 より


俗にタノカンサーと呼ばれる田神社が福岡県朝倉市周辺に560社(立派な社殿を持つ物もかなりあるものの一社を除き全て無格社)近くの田神社が存在するのです。

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確かに百嶋由一郎氏は“鹿児島のタノカンサーは大幡主と大山祗による擬神体である”とされました。

 ただ、それは、南九州での事であって、甘木、朝倉の田神社、田神様の大半は埴安命=大幡主を単独で祭神としており、大山祗神社(山神社)も主神は大山祗であり、両神は分離しているように見えます。

 そこで、甘木、朝倉方面でその痕跡が残っていないかと探して回ったのですが、筑前町楢原(全国にある奈良地名のルーツと言ったのは百嶋先生でしたが…)の老松神社でそれらしき痕跡を発見しました。


百嶋神社考古学では、鹿児島の田の神様が大幡主+月読命(大山祗命)による擬神体を成している事を知っていますが、ここにもその組合せが認められることから、浦島太郎=大幡主である事を裏付けている様に見えるのです。実は丹後ではありませんが田の神様(鹿児島のタノカンサー=大幡主+大山祗命による擬神体)は石川県の能登半島一帯にも分布している事も申し添えておきます。


百嶋由一郎氏の資料(音声CD、神代系譜DVD、手書き資料)を必要とされる方は09062983254まで

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 03:35| Comment(0) | 日記