2020年01月24日

679 何度も足を運んでいる宗像大社ですが… E “宗像大社の祭神は元から三女神だったのか”

679 何度も足を運んでいる宗像大社ですが… E “宗像大社の祭神は元から三女神だったのか”

20181027


太宰府地名研究会 古川 清久


話は宇佐から始まりますが、宇佐八幡宮の二之殿(と言っても勅使門正面ですので主神としか思えません)が姫大神とされ同社の見解としても宗像三女神が祀られています。

一方、足一騰宮(記)とも一柱騰宮(紀)ともされ、宇佐神宮の元宮との呼び声も高い宇佐市安心院の妻垣神社は、現在(元は必ずしもそうではなかったのですが)は玉依姫を主神としています。

このことが、宗像三女神が祀られる宇佐神宮がそもそも一殿三女神であったのかを考えさせるのです。

 突然、話が宇佐や安心院に飛び混乱されているのかも知れませんが、これは宗像大社にも直結する事なのです。それは、宗像三女神は 筑豊の鞍手郡鞍手町室木に鎮座する六嶽神社に降臨したとされ(鞍手郡に伝わる六ヶ岳神話では宗像三女神が最初に天降ったのは六ヶ岳で地元では「三柱様」と呼んでいるのです)、私達が宮島の厳島神社や宗像大社よりも権威ある神社と考えている飯塚市鹿毛馬の厳島神社にも、三女神は宗像大社に鎮座する前に、また、鞍手の六ケ岳に降臨する前に日王山に立ち寄り、天照大御神を祭ったとの話があり、現在の宗像の地に三女神が鎮座する前に多くの前史が認められるのです。

 これらの問題がずっと頭に残っており、宗像大社問題にメスを入れる事ができずにいたのでした。

 思えば、三女神が仲良し姉妹などお考えになっているお花畑の中の方々は幸せであると思うばかりです。後は決められた話をそのまま頭に摺り込めば良いだけなのですから。

 この「姫大神」「三女神」「玉依姫」…の問題が解読できなければ一切前に進めないとの思いを募らしていました。加えて、東九州に顕著な市杵島姫、西九州に数多く認められる豊玉姫、そしてタギツ姫の影の薄さや白川伯王の本家と考えられる福岡県飯塚市鹿毛馬の厳島神社の存在。

 さらに言えば、宇佐神宮の元宮と言われる安心院の三女神社の鳥居の神額の問題、仮に道路脇の鳥居を一の鳥居とすれば、一の鳥居が三女神社ではなく二女神社とされ、二の鳥居が二女神社と書かれていたものを改竄し三女神社と戻されているとしか見えないという問題…それにこの三女神社を置いたのが筑紫君とされている事…と、解決に近づけば近づくほど答えは遠のいて行くばかりなのです。

 外にも ひぼろぎ逍遥 スポット版、ひぼろぎ逍遥(跡宮)ビアヘロ版でもかなり書いていますが、とりあえず、以下辺りから再読して頂かなければなりません。

ひぼろぎ逍遥

230

白川伯王家源流の神社初見 “飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)”

ひぼろぎ逍遥(跡宮)

125

宇佐神宮とは何か? S “宇佐神宮の勅使井と百体神社”

124

宇佐神宮とは何か? R “宇佐神宮の隣の国東に鎮座する八幡神社の境内社について”

123

宇佐神宮とは何か? Q “宇佐神宮の(仮称)中宮に鎮座する若宮神社とは何か?”

122

宇佐神宮とは何か? P “宇佐神宮の上宮に鎮座する三摂社を実見した?”

120

宇佐神宮とは何か? O “勅使来訪により呉橋が一般公開された”

106

白川伯王家の源流の神社初見 “飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)”

105

宇佐神宮とは何か? N “そろそろ本殿の探査に踏み込みましょう”

104

宇佐神宮とは何か? M “到津屋敷をご存じですか?”

103

宇佐神宮とは何か? L “御許山の別名=馬城峰(マキボン)とは「三国史記」の目支国のマキ”

102

宇佐神宮とは何か? K “境外摂社鷹居社とは何か?”

101

宇佐神宮とは何か? J “安心院の妻垣神社は自称神武こと崇神天皇を供応したか?”

100

宇佐神宮とは何か? I “安心院の三女神社は筑紫の君が祀った?”

99

宇佐神宮とは何か? H “安心院の三女神社は二女神社だったのか?

98

宇佐神宮とは何か? G “神宮の故地か?今も上宮内二摂社が院内町に鎮座する”

97

宇佐神宮とは何か? F “宇佐神宮の向こう側”

96

宇佐神宮とは何か? E “御許山の大元神社とは何か?”

95

宇佐神宮とは何か? D “宇佐神宮の境内摂社「大尾神社」をご存じですか?”

94

宇佐神宮とは何か? C “宇佐神宮宝物館の神輿は誰のものだったのか?”

93

宇佐神宮とは何か? B “宇佐神宮の神宮寺としての大善寺”

92

宇佐神宮とは何か? A “和気清麻呂は勅使道ではなく舟で上陸した”

91

宇佐神宮とは何か? @ “呉橋から北へと延びる勅使道”


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そうしたなか、前述の地元宗像であり当サイトの読者でもある方からの有難いご指摘を頂きました。

ネットで2.2 玉依姫=三女神の検証」を検索されればたちどころに到達できますが、以前から存じ上げていた、先行HP「玉依姫と神武親子の倭国乱」でした。この記事が非常に興味深いので、無断ながら(コメント欄が無く連絡ができない)是非読んで頂こうと考え全文を掲載させて頂くことにしました。

 特に、県道から二番目の鳥居は、二女神を三女神に改竄したとしか見えないもので(神額などの画像はアカルさとコントラストなどを変えて多少は見やすくしています)、普通は大国主のお妃となった二女神だけを祀っていたのではないか…?などと皆で考えていたものです。以下は安心院の妻垣神社の画像です。

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第1章 書紀と伝承から解き明かす玉依姫の出自

    1.1 海幸山幸神話の構造(鍵を握る二人のヒコホホデミ)

    1.2 先代ヒコホホデミの正体

    1.3 九州本土における豊玉姫の伝承

    1.4 対馬における豊玉姫の伝承

    1.5 豊玉姫の正体

    1.6 豊玉彦の正体、並びに豊玉姫との関係    


第2章 ヒミコと玉依姫の密接な関係

    2.1 「幻の皇祖神系譜」の補正

    2.2 玉依姫=三女神の検証

    2.3 大山祗(おおやまつみ)の正体

    2.4 玉依姫とヒミコとの接点

    2.5 玉依姫の出自の推察

    2.6 豊前国に残る玉依姫の足跡  


第3章 九州を横断した玉依姫と神武天皇親子の倭国乱

    3.1 九州島における神武東征伝承の概略

    3.2 玉依姫と神武天皇親子の倭国乱

    3.3 玉依姫の生涯(まとめ)


第4章 「幻の皇祖神系譜」の実年代の推定

    4.1 「幻の皇祖神系譜」の中核をなす人物の確認

    4.2 弥生の王墓から探る実年代の推定−その1−

    4.3 弥生の王墓から探る実年代の推定−その2−

    4.4 神武東征の痕跡から探る実年代の推定

    4.5 「幻の皇祖神系譜」の実年代の推定


★本HPは拙著『書紀にほのめくヒミコの系譜』(けやき出版2012年)の第一章二節の一部と第三章の要約版というべきものである。拙著全体から見た本HPの位置づけは下記の赤字の部分に該当する。


 以下全文掲載。

2.2 玉依姫=三女神の検証


 三女神といえば今では宗像(むなかた)神社の祭神として有名であるが、そもそもの発祥は、『書紀』にも記されているように豊前国一の宮宇佐神宮である。というのも、宇佐神宮から宗像神社へと三女神を遷幸させたとする伝承が両社を結ぶ曲線上の三社に残っているからだ。それはすぐ後述するとして、不思議なことは遷幸先の宗像神社の方は三女神で祭られている一方で、元宮の宇佐神宮には現在、三女神の名は見えず比売(ひめ)大神で祭られていることである。その概要はすでに【書紀にほのめくヒミコの系譜】等でも論じたが、ここではさらに詳述したい。

 比売大神について宇佐神宮由緒記によれば「社伝では、天照大御神とスサノオのウケイによってあらわれ、スサノオの剣を物実(ものざね)とした、三柱(みはしら)の比売大神で、筑紫の宇佐島に天降った神とされている」とあって、三女神は「三柱の比売大神」と絶妙な表現がなされている。それはともかくも、三柱を一座で表現された比売大神とは一体いかなる神か。

 それは、全国津々浦々に勧請されている宇佐神宮の祭神が勧請先ではなんという神で祭られているかを調査すれば判明するはずで、その結果は前にも述べたが、下表のように、『古事記』撰上の712年以前には玉依姫七社三女神一社比売大神一社であった。それ以降から宝亀元年(770)までを見ると、三女神九社、玉依姫三社、比売大神一社、木花開耶姫(このはなのさくやびめ)一社とトップが入れかわる。すなわち、三柱の比売大神とは、かつては玉依姫一柱であったのだ。

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それが記紀以降は、その影響で三女神に置き換わっていったということである。ここで注目すべきは『古事記』撰上以前においても玉依姫が三女神や比売大神として勧請されている例があることで、これは記紀以前にすでに玉依姫にこのような異名が存在していたことを意味しているとみてよかろう。

 それでは一体、いつ頃、またどういう理由で玉依姫(比売大神)は三女神に別けられたのだろうか。

 まず、別けられた時期であるが、宇佐神宮から宗像神社への遷幸途中に残された三社の伝承が語ってくれる。まず、飯塚市鹿毛馬(かけのうま)の厳島神社(下図の@)の由緒には「豊前国宇佐島より筑前国宗像郡沖津島に鎮座のとき、当村日尾山(ひのおさん)(現日王山[ひのおうさん])を越え給う古実をもって、景行天皇の御宇三女神を祭り今に社殿神石柱石等残れり」とあって、景行朝に遷幸されたとある。

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続いて、鞍手郡鞍手町室木(くらてまちむろき)の六嶽(むつがたけ)神社(A)の由緒には「この地は宗像三女神が降臨したゆかりの地で、孝霊(こうれい)天皇の御宇に宗像三所に遷幸ましまし宗像大神あらわれ給う」とあって、ここでは遷幸の時期が孝霊朝とされている。孝霊朝といえば、『書紀』の表向きの系譜では崇神の三世代前になるが私の推測ではそれはせいぜい崇神の一世代ほど前、すなわち4世紀の初め頃である(詳細は拙著『ヤマトタケるに秘められた古代史』の189頁に提示の「ヤマト王朝復元系譜最終案」)。

 次に見えるのは宗像直前の福津市上西郷(ふくつしかみさいごう)の神輿(みこし)神社(B八幡宮とも)で、「三女神遷幸の地」と伝承されている(『福岡県神社誌』「福岡県神社誌概論」11)。ここでは遷幸の時期はわからないが、最終地の宗像神社には「神功(じんぐう)皇后は征韓の際に(三女神の)神威を発揚され云々」とあることから、神功皇后が朝鮮半島に渡った4世紀後半(序章)にはすでに祭祀されていたことがうかがえる。

 このように玉依姫(比売大神)が三女神に別けられたのは記紀が編纂された8世紀初頭よりずっと以前のことで、4世紀の前後という線が浮かんでくる。注意すべきは、その頃別けられたにせよ、またこのとき、「三柱の比売大神」というような別称が生じたにせよ、宇佐神宮の方ではおそらく記紀以前にあっては、いまだ玉依姫で祭られていたと思われることである。それは前表にあったように記紀以前は玉依姫として勧請されていることが断然多いからだ。

 さて、次に別けられた理由を考察すると、宗像大社の由緒からある程度推定できる。それによれば「当社は沖ノ島の沖津宮、大島の中津宮(なかつみや)、田島の辺津宮( へつみや)の三宮を総称して宗像大社と称す」とまずあって、次に「沖ノ島の沖津宮には田心(たこり)[多紀理(たきり)]、大島の中津宮には市杵島(いちきしま)姫、田島の辺津宮には瑞津(たぎつ)姫が、北九州と朝鮮半島とを結ぶ海上要路の『海北道中』宗像の地に鎮祭された」とされている。それゆえ、三女神は「別の名を道主貴(みちぬしのむち)と称し篤い尊崇を受けていた」のであって、「三柱合わせて一体の道主貴(みちぬしのむち)とも申し上げる」とある。

 これを勘案するに、朝鮮半島への渡海ルート上の重要三拠点に海上守護神として絶大な信頼があった玉依姫(比売大神)を宇佐神宮から勧請するとき、三拠点に分祀する都合上、三女神に別けられたというのが真相のようである。その際、宇佐神宮の方で玉依姫一体をまさか「三柱の玉依姫」とするわけにはいかないので、玉依姫という固有名詞を普通名詞に置き換えて「三柱の比売大神」とする異称が生まれたものと思われる。

 その推察を補強するかのように、宇佐神宮の比売大神は玉依姫と同体であるとする神社伝承が以下の二社に存在している。

 一社は玉依姫、神功皇后、八幡大神を祭祀している太宰府市の宝満山(ほうまんざん)にある竃門(かまど)神社だ。由緒によると「按(あん)ずるに玉依姫を中央主祭の神とし、神功皇后、八幡大神を左右に配祀せしは、宇佐神宮三座の神と御同神にして玉依姫は同神宮の比売大神と御同体にますなり」とある。その由緒中に、もう一社、近江国蒲生郡(がもうぐん)武佐八幡宮(現近江八幡市武佐町の牟佐[むさ)]神社)の社伝にも、「田心姫、瀛津<姫、市杵島姫この三神は玉依姫となづく」と記載されていることが示されている。

 以上より、玉依姫から三女神への変遷については、その歴史的背景も含めてほぼ判明した。残る課題は、それでは一体いつ頃、宇佐神宮が玉依姫を祭祀し始めたのかということである。当然、それは玉依姫の没後ということになろうが、その考察には玉依姫の足跡伝承を追う必要があるのであとで考証することにして、その前に今一度、自説「ヒミコ=玉依姫他五神仮説」(他五神はアマテラスとその三分身、及び木花開耶姫)が現時点でどのあたりまで検証されたかを図にまとめたので、折にふれ確認していただきたい。

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注:上記各等号におけるキーワードの内容は下記箇所を参考にされたし。
 @書紀のメッセージ(ウケイ):【日本書紀に……1.2 第二のメッセージ
 A宇佐神宮勧請先の祭神変化の分析(玉依姫三女神):本頁
 B出雲大社の境内摂社筑紫社の伝承:
   【日本書紀に……2.2 三女神と木花開耶姫の不思議な接点
 Cキ万神社、都農神社の記録:
   【大己貴(大国主)の国造り】2.4 降臨伝承経路中に……の最後のほう
 D書紀神代紀下の核: 【日本書紀に……4.2 神代紀下の核と謎
 E伝承:【大己貴(大国主)の国造り】2.3 降臨伝承経路中に…−その1−
   及び
2.4 降臨伝承経路中に…−その2−
 F『播磨国風土記』:
   【大己貴(大国主)の国造り】3.1 播磨国における大己貴伝承なかほど
 G書紀のメッセージ(天疎向津姫):【日本書紀に……1.3 第三のメッセージ
 H書紀のメッセージ(大日孁貴):【日本書紀に……1.1 第一のメッセージ 
 I父の伝承:下記および次頁  


 図からわかるように、「ヒミコ=玉依姫他五神仮説」において、玉依姫はアマテ ラスや三女神あるいは木花開耶姫とは『書紀』のみでなく各地の伝承によってクモの糸のように網目状にしっかり結ばれている一方、ヒミコとはわずかに『書紀』のメッセージによって、アマテラスを介して結ばれているにすぎず、いかにも頼りなげである。そこで、項を改め、ヒミコとその実体と思われる玉依姫との結びつきについて検証していきたい。

 その前に、蛇足ながら、玉依姫と木花開耶姫を結ぶ糸が両者の父を考察する中で浮かび上がってくることを述べておきたい。すなわち、玉依姫の父はヒコホホデミことスサノオであったが、木花開耶姫の父とされる大山祗(おおやまつみ)もスサノオであることが神社伝承学の継承者小椋一葉氏によって検証されている。これについては少々長くなるので頁を改めたい。以上全文掲載。


 非常に参考になるお話ですが、一点気になる事があります。ここで言うところの玉依姫の問題です。

神話では鸕鷀草葺不合尊の妃となり神日本磐余彦尊(神武天皇)ら四子を産んだ玉依姫とは崇神を産んだ鴨玉依姫ではないのですが、後の藤原が、それを、初代神武を産んだ神玉依姫に偽装することによって、第10代など格上げした神武僭称崇神(実際は開化天皇と神功皇后の臣下でしかなくてんのうなどではさらさらなかったハツクニシラススメラミコト)をあたかも初代神武と見せるために鴨玉依姫(京都の下上賀茂神社)を神話の玉依姫としたものではなかったか、宇佐、妻垣を巻き込んだ偽装の痕跡ではないかと考えるのです。ここでその鴨玉依姫を玉依姫とする崇神系(後の藤原氏)の意図を読み取って頂く必要があります。手口は極めて単純です、百嶋由一郎氏が後世に託した最終神代系譜をご覧頂きましょう。

従って、現在の混乱は、崇神の格上げのために偽装された玉依姫を元に戻すために、また、各々の系統を阿蘇系である藤原氏が大幡主系の重要氏族を取り込むために三女神に変更したのではないか?と考えるのです。

 まだ、検討の余地があるどころか探索の端緒に着いただけなのですが、何故、姫大神、玉依姫、三女神の混乱が生じているかの解明は古代の真実に直結しています。今言えるのは、妻垣神社で宇佐彦、宇佐姫から供応を受けた神武とは本物の神武ではなく崇神であり、東征を行なったのも開化の臣下としての業績でしかなかったのです。だからこそ妻垣神社には宇佐神宮の姫大神とは異なり玉依姫が祀られるのです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)上下とも

百嶋由一郎氏が残した神代系譜、音声CD、手書きスキャニング・データが必要な方は09062983254まで

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2020年01月21日

678 何度も足を運んでいる宗像大社ですが… D “宗像大社の東に大国主命を祀る神社がある”

678 何度も足を運んでいる宗像大社ですが… D “宗像大社の東に大国主命を祀る神社がある”

20181024


太宰府地名研究会 古川 清久


 宗像大社から東南東に78キロの遠賀郡(宗像郡の東隣)岡垣町手野に大国主神社があります。

 これで、津屋崎の楯崎神社と併せ宗像大社の両翼に大国主命を祀る神社が存在する事がお分かり頂けると思います。両翼なのか、普通に存在した大国主祭祀の痕跡なのかも不明です。

 この祭祀をどのように考えるかです。普通の感覚では、出雲の神様が何故この玄海灘沿岸に存在するのでしょうかと思われる事でしょう。それほど九州北岸には大国主祭祀が存在しないのです。

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「福岡県神社誌」上巻 246p


多くの境内神社が祀られてはいるようですが、主神は 大国主命、須佐之男命、室大神 の三神です。

室大神がお分かりにならないと思いますが、恐らく大山祗命で良いと思います。

百嶋神社考古学では、金 越智(ウマシアシカビヒコヂ)と天御中主命=白山姫との間に産れたのが 大山祗命であり、海人族を従えた天御中主命、白川伯王系 と 朝鮮半島の金武官伽耶に本拠地を置いていたトルコ系匈奴の騎馬軍団 という海と陸を支配する武装集団が成立したのでした。

 そして、次世代の大山祗命と同じく白族から送り込まれた埴安姫との間に産れたのが、神太市姫(ミズハノメ)、大国主命、コノハナノサクヤヒメとなるのです。

 その意味でも、室大神が大山祗と言えますし、室、村、群、牟礼…といった地名語尾を持つ高群、高牟礼、高村…の多くが、トルコ系匈奴の進出地である可能性も高いのです。

 良く古代朝鮮語などで説明されますが、大陸にもこのムル、ムレ、ムロ型地名が数多くあり、城、城塞都市、砦、村…の意味で使われているのです。

 従って「高群」タカムレ姓の方などは、まず、トルコ系匈奴の後裔の可能性があるのです。

 ちなみに、久留米の高良大社が鎮座する高良山の古名も高牟礼山なのです。

 そして、地名研究などでは、列島の「村」という名詞も古満州語とか古朝鮮語に起源があるのではなどと言われているのです。

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多分、この神社のすぐ下に「垣の内」という地名が拾えるのですが、これも良く出くわすトルコ系匈奴

系の地名であって、垣は城塞の意味なのです。つまり、城内の意味であり、古代の武家屋敷のような意味なのです。これについても、ひぼろぎ逍遥(跡宮)などから以下をお読み下さい。


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続)タシクルガン(石頭城、石城山)Ta Shi Ku Er Gan Lu

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タシクルガン(石頭城、石城山)Ta Shi Ku Er Gan Lu (下)

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タシクルガン(石頭城、石城山)Ta Shi Ku Er Gan Lu (上)


境内神社は大体分かるはずで説明は要らないでしょう。最後の梅宮神社ですが、木花也姫命は木花咲(削)也姫命の誤りか偽装で良いのでしょう。彼女は大国主命の実の妹なのです。

 また、三神として祀られている祭神のお一人のスサノウノミコトも大国主命の姉である神大市姫の夫神なのです。

 従って、この集落はかなりトルコ系匈奴の系統の色が濃い村(見た目だけですが漁師集落ではありません)と言えそうで、玄海灘沿岸ではなかなか遭遇しない木花咲也姫命が境内社として祀られている事も納得が行くのです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


百嶋由一郎氏が残した神代系譜、音声CD、手書きスキャニング・データが必要な方は09062983254まで


 この神代系譜には4桁の数字が書き込まれています。

これは紀元2000年を基準として01年を起点とする神様の積年を書いているのです、大国主命のお妃である市杵島姫は、阿蘇の草部吉見(藤原の祖神)=武甕槌=春日大神=鹿島大神=建借間命との間に大山咋=大直日を産んでいます。

この積年が1338歳で、大国主命との間に産れた下照姫は1823歳となっています。

このことから、市杵島姫は、始めは阿蘇系の草部吉見のお妃となり、その後、大国主命のお妃となっている事が分かります。

 だからこそ、この大国主神社が鎮座する土地が福岡県遠賀郡岡垣町手野1306(テノ)であり、阿蘇の北宮の国造神社(速瓶玉命)が鎮座する土地が熊本県阿蘇市一の宮町手野2100(タノ)なのです。

 速瓶玉命とは大山咋神であり、その子が下賀茂神社の崇神天皇となるのですが、この地に阿蘇と同様の手野という地名があるという事は、普通は阿蘇の手野の地名が移動したものと見るべきでしょう。

 ただ、逆もありうるのです。実のところ私はそちらの方にも傾斜しています。

 この件はここでは書かずに温めておきたいと思います。いずれ書くことになるでしょう。

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 この二つの手野地名は以前から非常に気になっていたものですが、国造神社の主祭神の速瓶玉=大山咋は阿蘇ではその血統の良さにも拘わらず、阿蘇氏を継いではいません。

 そして、この神を祀る最も大きな神社はというと、熊本市の南、甲佐町の甲佐神社、筑前の山家八幡宮2社、敢て言えば、太宰府の宝満神社、山家宝満神社、筑豊の数社であり、むしろ日本海側に進出し出雲の佐田神社や敦賀の気比神宮から松尾神社、日枝神社、日吉神社などに展開を見せ移動しているのです。

 このことから、父親の草部吉見にも似て故郷の地を去り中央に進出した様に見えるのです。

 そう考えると、阿蘇北宮で産まれた大山咋神は市杵島姫に連れられこの宗像大社の岡垣の手野に来ていたからこそ手野という地名が付けられていたのではないかと思えるのです。

 そして、大国主命が通ってきていたとすれば合理的なのですが、何か見てきたような嘘になりますのであまり信用されない様にお願いしたいと思います。

 そうすると、阿蘇国造神社が阿蘇の支配者として君臨していない理由が説明できるのです。

 外にも面白い話に気付いていますが、もう少し温めておきたいと思います。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2020年01月18日

677 何度も足を運んでいる宗像大社ですが… C “宗像大社の西に大国主命を祀る神社がある”

677 何度も足を運んでいる宗像大社ですが… C “宗像大社の西に大国主命を祀る神社がある”

20181024

太宰府地名研究会 古川 清久


 宗像大社は何度も足を運んでいる神社です。

ただ、故)百嶋由一郎氏から“宗像大社の本来の祭神は大国主命です”と聴かされて以来、その根拠とか証拠といったものが何とか掴めないかと考えあぐね、それが果たせない中ではなかなか踏み込めないとあまりブログも書いてはいませんでした。

しかし、今般、イヅノメのトレッキングを行なうに際して、集合場所を宗像大社にした事から、少しずつでも書かなければならないと重い腰を上げる事にしたものです。

まず、宗像大社が大国主命を消した(隠した)としても、周辺には大国主命祭祀が残っているはずで。まず、ここらあたりからお知らせする事にしましょう。

これも78年前に参拝していた神社ですが、宗像市の西隣の福津市には日本海海戦の東郷平八郎を祀る神社があります。その途中の楯崎に楯崎神社があります。

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楯崎神社 カーナビ検索 福岡県福津市渡御園975


「楯崎(たてざき)神社」は、大峰山自然公園の近くに鎮座する、渡地区の氏神です。祭神は、大己貴神(おおなむちのかみ)、綿津見神(わたつみのかみ)、少彦名神(すくなひこなのかみ)の三神です。


「福岡県神社誌」の記事を見る限り、楯崎神社が大国主命、少彦名命を祭る神社である事は間違いないでしょう。

 では、綿津見神とはどなたでしょうか?

 住吉三神とか筒男神と書かれているのではない以上、ここでは対馬の木坂の海神神社か和多都美神社の龍王=豊玉彦=ヤタガラスと考えるのが至当と考えます。

 境内社の薬師神社は当然にも少彦名神の神を祀るものに、肖りで大国主命も加えられたものでしょうか。

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対馬の木坂の海神神社も海上自衛隊の将官が参拝に来られていましたが、東郷公園の東郷神社と言い、日本海海戦の艦砲の爆音がここまで届いたはずで、襖や障子を揺らした事を記憶していた古老もいたのです。

神功皇后と言い白村江の戦いと言いこの津屋崎は半島への出船基地であったことは間違いがないのです。

 だからこそ1600年を超え父祖を超え遠い先祖に至るまで、手を引かれ参拝していた次世代が訪れ、宮地嶽神社には太宰府に次ぐ九州で二番目に多い参拝客が押し寄せ続けているのでしょう。

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無題.pngがあります。ここに重要な記事がありましたのでお読み下さい。


「大楯崎神社縁起」ー文化14(1817)ーは、江戸時代末の史料ですが、「大己貴神は宗像奥津宮に座す田心姫と辺津宮に座す高津姫命を娶った」と伝え、「異賊来襲の時、大己貴神と宗像姫大神が神軍を率いて、神霊の威光を振るい楯を立て鼓を鳴らして外敵を防いだ」と云い、楯崎、唐船、御手洗瀑布、五色浜、楢の葉浜の名はこれより起こったとします。…

…改めて述べれば、先に本ブログで「宗像三女神は高御皇産霊命の女である」との結論を得ましたが、これは先代旧事本紀・海部氏系図・新撰姓氏録・古事記・日本書紀など史料を綜合して得たものです。辺津宮・高津姫命については、再掲すると、次の様に書きました。

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これを百嶋由一郎最終神代系譜と対応するかどうかを確認して見ましょう。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


タゴリヒメこと豊玉姫は豊玉彦=綿津見神と彦山の高木大神=高御皇産霊命の長女豊秋ツ姫の間に産れた女神であり、「宗像三女神は高御皇産霊命の女である」と書かれた一部は対応している事が確認できそうです。

しかし、三女神となるとおかしな話になってきます。

 まず、宗像大社が古来三女神を祭神としていたかどうかも良くは分からないのです。

百嶋神代系譜を見ると、大国主命のお妃となったキサガイヒメとウムガイヒメと考えられる市杵島姫と豊玉姫は三女神のお二人であって、タギツヒメに至っては未だに素性が掴めないでいます。

少なくとも市杵島姫は大幡主の姉でありスサノウのお妃となったアカルヒメの娘であって、高木大神とは無関係なのです。

 このため、市杵島姫は高木大神の娘ではないことから、三女神が全て高木大神の娘と言うのはあまりにも乱暴な話であって当たらないと思います。

 ただ「女神物語」氏はタギツヒメの素性に踏み込んでおられるためこちらも下調べをしたいと思います。

@ ひぼろぎ逍遥(跡宮)021 宗像大社の祭神は三女神にあらず!! でも書いていますが、宗像大社の東の岡垣町手野にも立派な大国主神社がありますし、この津和崎の楯崎神社と併せこの一帯に大国主祭祀が存在していた。

A 「万葉歌人の大伴坂上郎女が京に帰るとき宗像の神(おおなむち・少彦名)に祈りに立ち寄った」との証言の存在があること。少なくともこの時点までは宗像神は三女神ではないこと、勝浦まで船で来たこと(道に上がり)、名児山は昔からその名がついていたこと、その名児山と聞いても自分が我子を思う心は深く何の慰めにもならないと歌い上げていること。が分かるのです。

B 加えて、旧玄海町の教育委員会が編纂していた「神湊・江口の史話と伝説」に登載された津加計志宮の祭神に大国主命の後裔が筆頭として挙げられていること、しかもこの神社が辺津宮の起源である可能性もある事…。宗像大社の初代大領(大領、少領は九州王朝の官職名の可能性が高い)が大国主命もしくはその後裔であったと推定できる事。山陰の奥出雲町でも大領神社を確認しています。

C当然の事として、大国主命を介護したウムガイヒメ、キサガイヒメが豊玉姫、市杵島姫に相当し、大国主の二人のお妃の可能性がある事。

 これらから宗像大社の古層に大国主命祭祀が存在し、今も密かに続けられているかも知れないのです。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記