2026年07月15日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1136 事実上のゼネコン 安藤ハザマ とは何か? “古代史、神社研究の視点から 安藤組と間建設の合併を考える”

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1136 事実上のゼネコン 安藤ハザマ とは何か?

“古代史、神社研究の視点から 安藤組と間建設の合併を考える”

        20260112

 太宰府地名研究会(編集員) 古川 清久


 ほぼ、理解して頂けない話とは思いますが、松の内は(九州、関東は7日まで)は関西(15日まで)という風習ですから、お屠蘇気分の延長でしか書けない様な話をしてみたいと思います。

 国道210号旧加々鶴トンネルの改良工事(実際にはバイパス・トンネル新設)ですが、新しいトンネルの名称は川下トンネルだそうです。これについては別に後段に廻させて頂きます。

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無題.pngそれはともかく、トンネルは既に貫通しており、年度内から遅くも翌年度中には仕上がる事になるのではと思っています。

 前掲の地図では場所が掴めないかも知れませんが、大分から福岡(古代なら豊後から筑前への国境)の県境を貫流する筑後川の断崖地を通過する国道210号線の現加々鶴トンネルのバイパス工事(実際には旧加々鶴トンネルの倍以上の延長に成る)が半ば竣工間際なのです。

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無題.pngさて、今回は公共工事の話をするつもりは有りません。

 私が取り上げたいのは、トンネル工事のエキスパートの安

藤組(かつて「実録安藤組狙撃編」など関東のヤクザ組織に

安藤組が在りましたが…勿論、無関係です)と間建設との間

には何らかの古代まで遡る関係が在るように思えるのです。

 始めに申し上げておきますが、念頭に在るのは東北の阿部

一族の後裔とも同族とも言われる弘前の安東氏と、大分県由布

市の東と言うか由布川左岸の旧狭間町に盤踞した狭間氏と阿

部氏の関係をどうしても意識してしまうのです。

 それは、東北の安倍一族のルーツは、大彦で古代の豊国(後の豊前、豊後)との思いが消せないからです。かつて、司馬遼太郎は戦国期の氏族同氏の関係が現代の財界人の友好関係にも継承されているとして、竹中工務店と松坂屋の例を挙げていた事を思い出します。

 まず、織田家の小姓が竹中工務店の祖であると言う話がネットに出て来ます。お試しください。

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AIによる概要

竹中工務店の「祖(はじめ)」は、初代竹中藤兵衛正高(とうべえまさたか)で、1610年(慶長15年)に織田信長の普請奉行を務めた後、大工棟梁として「大隈流」を創始し、神社仏閣の造営を始めた人物です。その後、代々宮大工として技術を継承し、江戸時代初期に名古屋で創業、明治期には三井家との縁を深め、三井銀行などの建設を手がけ、現在の竹中工務店へと発展しました。

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一方、…森蘭丸で知られる織田家の小姓の一人に伊藤蘭丸が居ました。


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竹中藤兵衛も伊藤蘭丸も厳しい信長様に仕えるのに疲れ宮大工や呉服商に転身したと言うのです。

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名古屋の「いとう屋」といえば、のちの「松坂屋」としてつとに名高いが、江戸時代には尾張藩御用達商人として藩財政に関わり、明治維新後は公金を取り扱い、伊藤銀行、東海銀行を経て、現在の「三菱UFJ銀行」に至っている。

もともとは、信長の小姓であった伊藤祐広の子が商人司を命じられたが、信長死後、家康より清須から名古屋への集団移住を命じられ、かの地で呉服小間物商「いとう屋」を創業したのが始まりである。強制移動させられた仲間うちには、後年、竹中工務店を興す竹中藤兵衛正高もいた。

その後「いとう屋」は地道な商いが功を奏し、元文5年(1740年)には 尾張藩の呉服御用となり、明和5年(1768年)、ついに江戸へ進出するまでになった。

いとう屋が松坂屋を買収

話しが変わるが、ちょうどこの頃、「江戸名物は伊勢屋、稲荷に犬の糞」と揶揄されたほど、江戸には伊勢屋を名乗る店が多かった。当時、伊勢屋はブランド化していたため、伊勢出身でない商人もこの屋号を利用したようである。

とくに伊勢は高級生地である木綿の生産地であったため、越後屋(のちの三越)など呉服店を出店するものが多かった。

4年(1707年)のこと、伊勢松坂の商人・太田利兵衛も江戸上野に呉服店を開業し、松坂屋を名乗った。ところが明和5年(1768年)、3代目のとき、事情で松坂屋は身売りせざるを得なくなり、江戸に進出したばかりの「いとう屋」に買収されることとなった。

このとき「いとう屋」のとった選択が、江戸市中で話題となった。通常、買収した場合、買われた側の名は消し去るのが常である。

ところが「いとう屋」は買収した相手の屋号を採り入れ、「いとう松坂屋」(大正時代、松坂屋となる)を名乗ることにした。

江戸に出てきたばかりの自分より、市中に知れ渡っている松坂屋の屋号を利用するほうが得策と判断したのであろう。家門を重んじる武家ではありえない発想である。

「いとう屋」は武家の出ではあるが、150年の年月を経て、すっかり商人の頭になっていたといえる。


 全文の引用は申し訳ないのでここまでとします。

 司馬遼太郎も、この話は竹中工務店か松坂屋か(若しくは地元郷土史会辺り)から聴き込んだ話でしょうが、今でも、松坂屋の建物は竹中工務店が請け、竹中のお歳暮などは必ず、松坂屋から調達すると言う慣行が生きていると言うのです。まさに500年も続く関係だと言うのです。

 このため、更に永い関係になるのですが、阿部一族と狭間氏との関係もと考えたのは思考の冒険と言うより暴走に成りますが、少し考えたいと思うのです。

 信長の人使いの荒さは時代劇では頻繁に描かれますが、それは豊臣、徳川がそう取られることを考え描いた可能性も在り、そのまま真に受けるべきではないでしょうが、普請奉行は作事方も同様の重役であり、それを辞めると言うのは余程辛かったとまでは言えそうです。

この話はここまでとし、そうした例も有りえるのです。

 ここからアンドウ間建設、ハザマ安藤建設の話に変ります。


安東一族とは何か?


AIによる概要 (「津軽 安東一族」で検索)

津軽安東一族(津軽安藤氏)は、前九年の役で敗れた安倍貞任の子・高星丸が津軽に逃れ、藤崎に本拠を置いて興した豪族で、鎌倉時代には北条氏の代官として津軽を支配、蝦夷(北海道)の統括も担いました。その後、津軽から秋田・檜山(湊安東氏と檜山安東氏に分裂・統合)へ勢力を移し、安東愛季の代に全盛期を迎えますが、江戸時代には秋田氏と改名し、所領を転封されて戦国大名としての独立は終焉を迎えます。

起源と津軽時代(鎌倉〜室町中期)

発祥: 平安末期、「前九年の役」で敗れた安倍貞任の次男・高星が津軽地方(現在の藤崎町周辺)に落ち延び、安東氏を名乗ったのが始まりとされます。

支配: 鎌倉時代には北条氏の代官として津軽を支配し、津軽半島の十三湊(とさみなと)を拠点に、蝦夷地の統括も行いました。

名称: この時期は「安藤氏」と表記されることが多いです。

南北: 津軽を根拠とする「下国家(津軽安藤氏)」と、出羽(秋田)に拠点を移した「上国家(湊安東氏)」に分かれました。


 特に九州の方達には、津軽の安東氏などと言っても一部の九州王朝論者の方々を除いて殆どお分かり頂けないでしょうが、権力を握った藤原氏(阿蘇系の多氏、宇治氏)は、九州王朝の大彦の血を引く奥州藤原氏を潰そうとして、配下に組み入れた後漢の霊帝(阿智王の一族)の末裔の坂上氏を派遣し、自らは手を汚さず奥州金と領土を得ようとしたと考えられるのです。

 前九年〜後三年の政治的激変の結果、


AIによる概要 (「前九年・後三年の役」で検索)

「前九年・後三年の役」とは、平安時代後期(11世紀)に東北地方で起きた二つの大規模な合戦で、前九年の役(1051-1062年頃)と後三年の役(1083-1087年頃)を指し、源義家が活躍し、奥州藤原氏の台頭のきっかけとなった戦いです。これら二つの合戦は、朝廷の支配下にあった東北の豪族(安倍氏、清原氏)と、源氏(源頼義・義家)が関与し、最終的に奥羽の支配権が奥州藤原氏へと移り変わる重要な歴史的転換点となりました。

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上図は謎の一族安東(安藤)氏の平安以降の変遷が垣間見えるものですが、消えた氏族の事多くの説が出あり、はっきりしないのです。ただ、安東姓を名乗る氏族が北海道南部、秋田の八郎潟に残っており、恐らく船を操る一族の末裔を感じさせるのです。

 何れにせよ、身延山の一帯にいた南部氏が岩手の北半から青森の東半部に東北の阿部氏の後裔としての安東氏も歴史の翻弄に揺れたことが分かるのです。

 以前から、九州王朝論者の内部でも東北の阿部氏は船を操り日本海航路を南北に移動し交易を行っていた人々の後裔と考えている人々があり、私もその端くれなのですが、そもそも岩手に菊池(菊地姓がここでは多いようですが)氏があるだけでも九州からの移動ではないかと考えて来たのでした。

 そもそも、正月の初詣でも九州では二番目の参拝者がある宮地嶽神社の4代前までは代々阿倍家(現在は櫛田神社)でしたし(一位は太宰府天満宮)、現在でも阿部家の本家は大分県に在るのです。

そもそも東北の安倍氏は大彦の末裔と言われており(以下AI様)、流石の通説派も嘘をつく訳にはいかなかったのです。


AIによる概要

安倍氏と大彦命(おおひこのみこと)は、大彦命が「安倍氏(阿倍臣など)」の祖とされ、日本の古代史における有力氏族の源流です。大彦命は第8代孝元天皇の皇子で、崇神天皇の時代に北陸方面へ派遣された「四道将軍」の一人として知られ、その子孫は各地に広がり、特に伊賀国「阿拝(あへ)」に住んで「阿拝氏」「安倍氏」などを名乗るようになりました。

大彦命について

出自: 孝元天皇と鬱色謎命(うつしこめのみこと)の第一皇子。

役割: 崇神天皇の命を受け、北陸地方の平定(征討)に向かった「四道将軍」の一人。

功績: 大和朝廷の支配権を全国に広げる上で、北陸での基盤確立に貢献。

子孫: 阿倍臣、阿閉臣、膳臣、越国造など多くの氏族の祖。特に伊賀国阿拝郡を本拠地とし、これが「安倍氏」の起源の一つ。

安倍氏との関係

系譜: 大彦命を始祖とする皇別氏族であり、その子孫は東北地方の豪族(奥州安倍氏)、陰陽道で有名な安倍晴明(土御門家)など多岐にわたる。…以下略載

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無題.png我が百嶋神社考古学に於いても、安倍氏は藤原が第9代とした開化天皇(后は仲哀死後の神功皇后)の腹違いの兄とします(上図 通称「金神系譜」)。


出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 202601210840


歌川国芳『日本百将伝』より大彦命の想像図

大彦命(おおひこのみこと[1]/おおびこのみこと[2]、生没年不詳)は、記紀等に伝わる古代日本皇族。『日本書紀』では「大彦命」、『古事記』では「大毘古命」と表記される。また稲荷山古墳出土鉄剣の銘文に見える「意富比垝」に比定する説がある。第8孝元天皇の第1皇子で、第11垂仁天皇外祖父である。また、阿倍臣(阿倍氏)を始めとする諸氏族の祖。四道将軍1人で、北陸に派遣されたという。


 この間、10年近く続けている秋の甲信越の神社調査(1ケ月)ですが、そろそろ終わり、今年から福島に入るつもりです。

 無題.pngその最初に会津に入りますがテーマは大彦の足跡を探るです。

 単純に現在の阿部氏が安倍、安東氏に繋がるかどうかは今後の課題ですがテーマは四道将軍です。

始めに、今回ゼネコンの安藤ハザマに拘った理由を御示します。

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偶然で調整中ですが、3月に古代安倍氏の研究者である 阿部貞隆氏無題.pngご講演頂く事にしています。

 同氏は2月に当会の提携団体佐賀県伊万里「松浦党研究会」後継会で講演のため3月に致します。

日 時:2026315日(日)13:00〜(会場確保済みです)

会 場:福岡県筑紫野市二日市南1丁目93生涯学習センター

テーマ:「安倍一族とは何か」再考(仮案)講演者:阿部 貞隆(大分市)建築家、建築会社社長 著書「豊後阿部氏の伝承」の外に「陸奥安部氏累代の古文書が語る逆説前九年合戦史」


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AIによる概要 「間組

間組の創業者は間猛馬(はざま たけうま)で、明治22年(1889年)に福岡県門司で鉄道土木請負業として創業しました。鉄道建設で技術を習得し、九州鉄道の工事を請け負って事業を軌道に乗せ、「ダムのハザマ」としてダム建設でも有名になり、後の安藤・間(現・安藤ハザマ)の源流となりました。


AIによる概要 安藤組

「安藤建設」と「安藤組」は、

元々は同じ「安藤組」という建設会社でしたが、別の「安藤組」(安藤昇氏が率いた)と混同しないように安藤建設(現:安藤ハザマ)と、株式会社安藤(元「安藤組」)のように別々の会社に分かれ、さらに安藤ハザマは旧安藤建設と旧ハザマが合併した経緯があり、複数の「安藤組」または「安藤」を名乗る建設関連会社が存在します。


安藤組、安藤建設に関しては非常に分かり難くこのAIの二つを見るだけでも注意を要します。

ただ、ここで取り上げるのはそういったゼネコン絡みの話ではありませんので、これ以上の追及には関心は有りません。

この話を取り上げたのは、その背後に間組と安藤組との間に何らかの古代にまで遡る関係が在ったとしたら面白いなあ…という思いから正月の初夢の様に仕立てて見た言わば余興とお考え下さい。

 それ以上の意味は有りません。

 ただ、もし、それが正しいとしたら、我々が考えている九州王朝の最盛期に王権を支配した第9代開化天皇(=高良玉垂命)と仲哀死後の神功皇后との間に生れた長子の仁徳天皇(オオササギノミコト)=久留米ではシレカシノミコトと呼ばれているのです。

 その父である開化天皇の腹違いの兄こそ安倍氏の祖であり、「日本書紀」にも四道将軍として日本海ルートで新潟県の柏崎刈羽辺りで上陸し魚沼市から福島に入り、太平洋ルートで進出した崇神の息子と会津で合流しているのです(日本海ルートを北上した四道将軍の大彦)。

 その際に、東北の現地に残留した人々こそが九州でも豊の国(大分)から進出した安倍氏だったのではないかと考えたいのです。

 まあこういった話は近畿大和こそ日本の中心であり、それ以外は邪説としか考えない方々は何も理解することなく消え去って頂ければ良いだけの事なのです。

 無題.png一方、大彦の後裔が安倍氏であり、本願地を大分市に置いていたという事は間違いないと考えていますが、間組、間建設のルーツも、もしかしたら現由布市の狭間町に盤踞した狭間氏だったら面白いと考えた訳です。

 間建設(間組)の創始者 間 猛馬は土佐藩氏との事ですが、明治の初めに九州(福岡県北九州市辺り)で創業とすれば、旧狭間町と関係があってもおかしくはないでしょうが、家紋は横木瓜らしいのです。これも高良大社の裏紋ですし、大分の間氏、狭間氏が大伴氏配下になっている事とも対応するのです。

 豊後の大伴氏(菅公も母方は伴の女とされています…)は、金山彦系の本家とカミムスビ系の博多の大幡主の一族との間に生れた一族だったからです。その流れがそのまま間猛馬氏に繋がる無題.pngかは不明です。間猛馬氏が元は土佐藩士と言われている事から柞原街道を抜け、臼杵、佐賀関、大分市に入り、北九州に入っているとすれば、狭間を知らなかったとは考え難く、阿部、安藤の一族も知っていたと思いますので、安倍氏と狭間氏とが隣接している関係も理解できる立場にあったと思うのです。改めて、トンネル工事の安藤とダム工事で知られる間組の合体は、勝手ながら古代を感じさせるかなり面白い話でした。 今やダムを造る場所が無くなっており、トンネル工事が主力にも成りつつ在りますが、老朽ダムの撤去、改修工事の需要も造られる事でしょう。拙著、「有明海異変」にも“税金のダム遣い”との一章を書きましたが…今後は自然を守る方向で技術を高めて欲しいものです。編集上、ここで切り、続編に繋ぐ事に致します。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2026年07月12日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1135(後) 宇佐市 駅館川河口の川上神社は和歌山の丹生川上神社だった!       “不思議なまでの集中を見せる金屋の南姓はやはり八咫烏(橘一族)の末裔だった”

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1135(後) 宇佐市 駅館川河口の川上神社は和歌山の丹生川上神社だった!

      “不思議なまでの集中を見せる金屋の南姓はやはり八咫烏(橘一族)の末裔だった”

        20260107

 太宰府地名研究会(編集員) 古川 清久


黄色い円内に橘紋がはっきり写り込んでいますね、金屋の庄屋であった南一郎平の一族が橘一族と分かります。こうして、これまで67年間に亘って悩んでいた謎が解けたのでした。

橘の家紋を使う(許される)一族は、造化三神と呼ばれ天地開闢の神の神産巣日神(カミムスビ)で、具体的には博多の櫛田神社の大幡主から讃岐〜阿波〜更に紀州に展開した忌部であり、幕末まで生き延びた天皇家の宮廷祭事司る白川伯王家とも重なる天皇家の重要な外戚でもあった一族です。

その直系の実子が豊玉彦、豊国主(大分は明らかに豊の国ですね)、八咫烏…など二十も三十も多くの呼び名を持つ最重要氏族の末裔なのです。この一族が魏の皇帝に送った遣いが難升米なのですから。大分の方には馴染みのある話ですが、国東半島の「奈多神社」(みかん=橘、トキジクのかくのみを取りに行った田道守)ここに半島から姫島を経由し同社に移動して来たアカル姫の話が残っていますね、福岡市東区の奈多宮とも重なり、正しくカミムスビ系の根拠地が駅館川河口の金屋地区にも展開していた事が分かるのです。

当然にも、橘諸兄、橘奈良麻呂、県犬養三千代…は知られていますが、奈良時代後期、757年(天平宝字元年)に勃発した、藤原仲麻呂の専横を打倒しようとするも失敗し、橘奈良麻呂の変以降の橘氏は源平藤橘でも、中級以下の貴族として地方の豪族として零落していったのでした。あまり知られてはいなのですが(勿論、歴史の背後というか底流で動いているため)、実際には、伊勢を根拠地に、八咫烏の後裔氏族が石清水八幡宮を軸に関東武士団を纏め貴族化した藤原氏(阿蘇氏、多氏)を抑え込み、鎌倉幕府、室町幕府から戦国期を経て徳川政権まで続く武家の支配を打ち立て政権の背後で復活しているのです。 

無題.pngここで、橘氏について分かり易い話を一つご紹介しますが、柑橘類の一つにスダチとカボスが在りますが、これも京都の下賀茂神社の賀茂族=加茂族=橘氏が運んできたトキジクの実の一つなのです。それは、スダチとは酢 橘で、カボスは鴨族、加茂族が持ち込んだ酢の意味なのです。

カボスはカモスの意味でM音とB音の入れ替わり現象は、日本語の呉音と漢音の問題で、烏帽子をカブル、カムル、目(メ、マ)を瞑(ツブル)る、瞑(ツムル)が同様である事でもお分かり頂けるでしょう。

改めて南一郎平(改名尚=久)に敬礼!私には、難升米に通じる尚(ショウ)を選んだようにも思えるのです。では、まだ紙面に余裕がありますので、一般的には殆ど知られていない古代の外交通史の話をして見たいと思います。


大夫 AIによる概要

239年に卑弥呼が魏に遣いを送ったとき、皇帝から与えられた称号

卑弥呼は、中国の魏(ぎ)に239年(景初2年)に使者を送り、大夫の難升米(なしめ)らを派遣しました。これに対し魏の皇帝は、卑弥呼に「親魏倭王(しんぎわおう)」の称号と金印、銅鏡などを授け、倭国との関係を正式に認めました。これは、倭国の統一と地位向上を図るための外交戦略でした。


この大夫の意味は今や吉原の高級花魁としてしか知られていませんが、本来は中国の官位で、日本では律令制下の五位以上の高官を指しているのです。

周王朝における大夫 AIによる概要

周王朝における「大夫(たいふ)」とは、封建制の下で諸侯に仕える家臣階層の一つで、卿(けい)の下、士(し)の上に位置する小領主・役職者を指し、周王や諸侯から領地を与えられ、国政に参加する貴族層でした。彼らは領地を持ち、武力や政治力で実権を握ることもあり、春秋時代以降には実権が有力な大夫の手に移り、士の階層が台頭するなど、身分制度は変遷していきました。

これらの事からも分かるのは、倭人は呉の太白の後とか裔…と言われる様に、春秋戦国の呉国(つまり呉越同舟の呉…直接には自決した夫差の末裔が列島への逃亡した人々、若しくはそれに協力を依頼された一族)だから周の大夫を名乗っているのです(現段階では後者を想定していますが)。

当然ながら当時、上海は海の底で存在しませんので、蘇州から舟山列島を経て列島へと入った呉の末裔の外交官として入った難 升米の末裔が南姓を名乗っているのではないかと考えているのです。

当然、渡洋航海できる船を操ることが出来、尚も、天文、地理、暦、言語に通じた優秀な人物が送り込まれている事は間違いが無く、元々は博多の那の津辺りから建国間もない魏に答礼朝貢しているのです。

無題.pngただ、その博多に拠点を置いていた想定九州王朝の八咫烏が活躍した時代から500年は降る時代になると(具体的には7世紀の半ば以降の白村江の大敗北以降)、宗像を本拠地としていた天武の父と天武帝は、無抵抗に本拠地を奈良に移します(佃収説)。その後阿蘇氏をルーツとする藤原氏による天智系に皇統が替わるに至ると、この八咫烏の後裔氏族は瀬戸内海航路(宇佐と浪速)に対応し、本拠地を移しているのです。その大阪の浪速高津の宮の手前にもう一つの拠点を置き、船倉に大量の穀物を積載し東に運んで行ったはずなのです。当然、密封空間では発酵が始まるのですが、分離し塩を加え、また、発酵を留めるなどの工程を加えます。

一部を酒なり醤油(当時はまだ醪=モロミでしょうが)なり、味噌なりに分離する必要が生じ、神戸の東灘区辺りに分離するための工場、作業場が必要になったはずなのです。これが、廻船業者というか古代には輸出入業者にとっては非常に重要な要請だったのです。

ここも、東に移動した奈多であり、博多の那の津なのです。そこまで解れば、何故、灘の生一本の多くの醸造業者が資金を注ぎ込み、灘高校(灘中学校・高等学校)=兵庫県神戸市東灘区にある日本最高水準の男子進学校として知られる私立中高一貫校が創られたのかまでが分かって来るのではないかと思うのです。

無題.png因みに、この灘高校を創ったものこそ柔道の講道館で知られる嘉納治五郎の一族を中心とする人々であり、宇佐の金屋とも通底しているはずなのです。

彼は、灘の生一本でも良く知られる菊正宗酒造の一族で治五郎まで作られているのです。

これまで、列島の歴史は開国と鎖国を繰り返してきました。江戸時代の鎖国は良くしられていますが、遣唐使の廃止も含め、鎌倉政権の元寇期には元(実質は朝鮮人と江南軍は福建の反漢族)と直接対決していますし、豊臣政権期は対外開放と言うより対外進出さえも行っています。

このように国際情勢の変化により対外政策は一定であった訳ではないのです。

このように渡洋航海もできる人々とは、時に自国の政権の政策と衝突する事も多々生じるのです。

最近は忘れられていますが、江戸期にアユタヤに進出した山田長政なども衝突した人物の一人でしょうか…。

こうして、貿易業者とか現代では大手商社といったものは、時の政権とか海外勢力からの圧力には敏感なのです。このため時の権力から独立した優秀な若者を自前で養成し、必要な時には何時でもそのネット・ワークを擁して自らの要望を実現しようとしてきたのです。

ある意味で、大隈重信の早稲田もそのような意図を感じますし、福沢諭吉の慶応も上智(これは悪魔のイエズス会系ですので要注意ですが)も同様でしょう。

当然にも異論どころか非難も有ろうかと思いますが、私にはそう見えるのです。

そうです、灘の生一本も恐らく八咫烏系の橘一族の人々であり、全国に廻船業の拠点としての港(湊)を置き、正面の海を灘と呼んでいたのでした。

以前、海上保安庁の把握している「灘」地名を調べたことがありましたが、鹿島灘、相模灘、遠州灘、熊野灘、播磨灘、備後灘、燧灘、安芸灘、周防灘、伊予灘、響灘、玄界灘、天草灘、日向灘と列島全域に灘地名があり、何故、灘と呼ばれ、湊と表記されるかが見えて来るのです。

つまり、当時も列島全体がこの一族の商圏に成っている事が分かるのです。

無題.pngではここで、川上神社の分布を見てみましょう。ここで注意を要するのは、当方は、淀姫神社がかなり川上神社と呼ばれている事を承知している事から、どうも社名も九州では川上神社という名称が規制されている様にも見えるのです。事実、当の宇佐の川上神社は牛頭天皇社とされていますし、名護屋の川上神社が牛頭天皇社とも呼ばれている事が気になっています。

多くの九州の川上神社が、最も重要な和歌山の丹生川上神社(上、中、下社)と繋がっている事が今は良く判るのです。

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では、関西では良く知られている丹生川上神社(中社)を軸にご紹介しておきましょう。


無題.png

重複にはなるのですが、話を換えて、特攻基地でもあった宇佐空こと柳ヶ浦の海軍航空隊の正面に、酒造業者、味噌製造業者、醤油醸造業者の建物が残っている事と、船を使う廻船業者と醸造業者の事をお話ししたいと思います。ここで紙面が尽きました。詳しい川上神社の分布は前掲のバック・ナンバーを、また、今後各予定の続編もお読み頂きたいと思います。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1135(前) 宇佐市 駅館川河口の川上神社は和歌山の丹生川上神社だった!       “不思議なまでの集中を見せる金屋の南姓はやはり八咫烏(橘一族)の末裔だった”

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1135(前) 宇佐市 駅館川河口の川上神社は和歌山の丹生川上神社だった!

      “不思議なまでの集中を見せる金屋の南姓はやはり八咫烏(橘一族)の末裔だった”

        20260107

 太宰府地名研究会(編集員) 古川 清久


本稿は、新ひぼろぎ逍遥に7本書いた難升米を探る話の続編になります。

余裕があればそちらを先行してお読みいただきたいと思います。

それは2026年の松の内は終わり、皆様方が一斉に仕事始めとばかりに仕事を始められる6日の話でした。本来はちょっとだけご案内するだけのつもりだったのですが、ひょんなことから宇佐の川上神社にまで行くことになり、本格的にご案内する事になりました。しかし、瓢箪から駒でした。

そのある種退屈な作業の予定だったところが、これまで56年掛けて作業して来た言わば結論と言っても良い棚ボタの様な有難い結論に辿り着いたのでした。

正に天からの恵みを得たような思いで何やらお年玉を頂いた様な思いがしています。

今回、当会に新たに参加された神社フリークと言っても良い女性があまりにも天気が良いので、一人でも宇佐の川上神社に行こうかと口走った事から、手拍子でそれならガイドしても良いと動き出したのが発端でした。こういう時にドラマは起こるのです。

ただ、神社研究を続ける人にしかお判り頂けないマニアックな話をお届け致します。

新ひぼろぎ逍遥

755

宇佐の駅館川河口に難升米の一族の後裔を発見したか?“宇佐市

金屋町の川上神社の南姓の集中”

747

宇佐の金屋の南姓は難升米の後裔氏族か?(再々考)“全国の

川上神社の祭神を調べよう”

746

宇佐の金屋の南姓は難升米の後裔氏族か?(再考)“一体川上

神社とは何なのか?”

745

宇佐の金屋の南姓は難升米の後裔氏族か?(補足)“宇佐空

への哀愁”

744

宇佐の金屋の南姓は難升米の後裔氏族か?(下)“金屋地区は

廻船業者の街”

743

宇佐の金屋の南姓は難升米の後裔氏族か?(中)“金屋の

南さんとは何か”

742

宇佐の金屋の南姓は難升米の後裔氏族か?(上)“駅館川

河口を見下ろす川上神社”

無題.png

一回のブログのUPにも制限は有る事から、前提となる話を遡ってご説明することは重ね重ねに成る事から、ご面倒でも先行ブログの拾い読みでもして頂けることを前提に書くことにします。

 このため、今後とも、数本のブログを加える可能性がありますので敢えて申し上げておきます。

 78年前宇佐の駅館川右岸の旧宇佐空(柳ヶ浦航空隊)対岸の断崖地に建てられた川上神社を参拝し、現地には牛頭天皇の神額の鳥居が置かれ、その祠も同社の屋根の高さ程の崖地上段に実際牛の置物が置かれ、須佐能と稲荷の祭祀が認められるも、その低段の境内地には神名が明らかではない参拝殿神殿を持つ神社が存在していたのでした。それが川上神社と呼ばれている様なのです。

 もう56度は参拝を重ねており、以前からその不思議さが残っていたのですが、今回、余りの好天に誘われ、久しぶりと言っても一年にはならないでしょうが、正月松の内明けの日に参拝する事になったのでした。

 殊更、この神社を目的にしたのは、依然ブログに書いた南姓の異常な多さを見せる事でした。

 この南姓は、外に出た者のも含んでいるのでしょうが、氏子と思われる寄進者の棟札を見る限り、氏子の2/3を超える78割には成る異常な多さを示していたのでした。

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200戸を超えない地区で南姓と森姓が多いと聴きましたが、特に上の写真では南様が多いのです


 この事を認識して以来、関係者にも当たりましたが、最後は兼務社からも迷惑ですと言われるほどになり断念せざるを得なかったので。この南姓については、難升米の末裔の一族だったのではないかとの思いが消せませんでした。ただ決め手が乏しく提案していただけだったのですが、今回、松の内の跡片付けに来られていたのでしょうか、偶然にも区長(ご迷惑になるといけませんので名は伏せますが)様と偶然にもお会いして、かなり参考に成るお話を色々とお聴きしました。

 そのお話の中で、私が興味を惹かれたのが「南一郎平」の神社と言うより顕彰碑と言う方が正確な

施設があるとお聴きしたのです。それは南氏の素姓が分かるかも知れないと思ったからでした。

無題.png NHK朝ドラ「南一郎平」誘致推進協議会(構成団体)作成のパンフをお持ちで、宇佐学マンガシリーズD日本三大疎水の父 南一郎平まで頂いたのでした。まあ村興し町興しなのですが。

 以前から、この疎水(農業用水路=九州では「井手」とも)の存在はある程度承知していましたが、基本的には日豊線外側の明治以降の干拓地向けの用水路の延長程度の理解しかなかったのでした。まさか17キロ上流の安心院盆地の駅館川支流の津房川に頭首工(取水口)を造り、駅館川右岸にサイホン工や水道トンネル更には石造りのアーチ型通水橋までも造る大工事だったのでした。詳しくは広瀬井手略図を見て下さい。考えれば川面の低い駅館川の水を引くには安心院辺りに成るのです。

 ここからは私の話になります。難升米(百嶋神社考古学=八咫烏)の時代から1600年は後の時代の人々に投影している訳で容易に理解頂けるとは考えてはいないのですが、今回、南尚神社を発見し密かにイメージが一気に膨らんだのでした。

 それは後の話として、もう少し時代が離れた話を続けさせてください。中近世はおろか近代など門外漢ですので右の高尚なマンガ本に全面依存しますが、一郎平は結果二度の入牢を含め艱難辛苦の末に資材は失うも父の願いを達成し遂には大事業を完遂するに至ります。まさに偉大で無私な人物だったのでした。

 当初、3000両と見込み日田の豪商広瀬久兵衛に借用を依頼し事業は始まるのでした。ただ、多くの難工事や災害も起こる中、幕末から明治に亘る難工事の末最終的には一万両の大工事となり、南一郎平は資財を失うも工事は完了するに至るのでした。

 その後、この人物は用水路工事の大土木工事の経験を乞われたのか、三大疎水で知られる福島県の猪苗代湖から郡山市に水を送る安積(アサカ)疎水、栃木県の那須疎水、京都の琵琶湖疎水…外を完成させ、現業社なるゼネコンの萌芽の様な企業興すことになるのです。

 不正確になりますのでここで止めさせて頂きますが、このような気骨のある偉人を生み出したのが幕末〜維新期の宇佐の金屋だったのです。


漸く宇佐の金屋の「南」姓が如何なる人々であったが見えて来た


さて、ここからが我が百嶋神社考古学の世界に話に入る事に戻る事に致します。

始めに掲載した先行ブログをお読み頂ければ、宇佐の金屋の川上神社に異常なまでの南姓の集中は、何らかの政治情勢の変化と経済構造の激変が関係しているはずだと思い書いたものでした。

当時もこの南姓は難升米の後裔氏族の改名によるものではないかと考えたものでした。

 今回、新たなブログを書き加える事にしたのは、半ば証明とも言えるような事実に遭遇したからでした。

 この広瀬井手を成功させた南一郎平を祀る神社(実際には顕彰碑と集会所なのでしょうか)がある事を金屋の区長様からお教え頂いた神社に行くことにしました。始めは周辺の醸造業所を案無題.png内しようと考えその後に参拝することにしたのですが、同社の地番が分からず迷ってしまいました。私は半ば諦めてしまいました。ただ同行の女性は熱心で、郵便局で聴いた場所を少し探した後、直ぐに南尚神社を見つけ出したのでした。この同行者のおかげで辿り着くことが出来たのでした。私だけではこの幸遇を掴めたかどうか分かりません。やはり神社調査は大人数ではできませんができるだけ複眼で行うべきで、少し驚いています。やはり調査は複数で行う方が相乗性を増すのです。少し大げさな表現をしますが、その後想定を裏付ける事実に驚愕したのです。前置きが長くなりましたが、それが左の祠でした。

☚ 南尚神社 宇佐市高森(地番不詳)

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現地には南尚神社の顕彰碑=南神社建立の際の記念写真を描いた看板が置かれていたのです

AIによる概要

無題.png橘紋 (たちばな) 日本の実用家紋 ZIP (AI, PNG, PSD) - 家紋藝術 ...

橘氏の紋章は「橘紋(たちばなもん)」で、日本固有の柑橘類である「橘」の実と葉を図案化したもので、不老長寿や永久不変の象徴とされ、平安時代から名門氏族である橘氏が用いたことから、源氏・平氏・藤原氏と並び称される格式高い紋章です。代表的な使用家として井伊家(彦根橘紋)があり、その他にも多くの武家や旗本で使用され、文化勲章のデザインにも採用されるなど、現代でも広く親しまれています。

 写真でお分かりの通り、この南一族は橘一族の後裔氏族だったのです。

 現地に入り、私も写真を撮っていますが、明らかに橘一族で、橘一族のルーツが八咫烏なのです。

橘氏は、敏達天皇の後裔、美努王(ミヌオウ)の子、葛城王(橘諸兄)らが臣籍降下した一族で伊勢を拠点に、天皇家に后を送り込む一族で神産巣日之命(造化三神一つ)具体的には博多の櫛田神社の大幡主でその子が八咫烏=豊国主=豊玉彦(正しく豊の国の主ですね)…であり、後に彼らの後裔氏族が「常世の国」から非時香菓(トキジクノミ)を持ち帰ったとされる田道間守(タジマモリ)の功績にちなんで「橘」の氏を賜りました。勿論、その意味とは冬でも青葉を絶やさぬため未来永劫繫栄すると橘姓を名乗ったのです。しかし、実際には奈良麻呂の変以降、藤原=阿蘇氏=多氏に追い落とされ中級以下の地方豪族と成るのでした。九州王朝が白江戦後に滅び畿内に権力が移った事から本拠地も移った事が分かるのです。

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大分県ホームページ「南一郎平」より

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最初の画像はグーグル・マップの南尚神社のものですが、これは2026年に当方で撮影したものです

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記