2023年03月31日

ビアヘロ205 続)宇佐八幡宮中宮の若宮神社から近畿大和朝廷の宇佐八幡宮への変化を探る(追補)

ビアヘロ205 )宇佐八幡宮中宮の若宮神社から近畿大和朝廷の宇佐八幡宮への変化を探る(追補)

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太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


前ブログ 937 宇佐八幡宮中宮の若宮神社から近畿大和朝廷の宇佐八幡宮への変化を探る を新ひぼろぎ逍遥とひぼろぎ逍遥(跡宮)への共通掲載として再校正作業をしていると、北九州市の丁己歴史塾のM女史から電話が入りました。

無題.png そもそもこのブログは、展示されているものが正しい名称であり、尚かつ正しい配列がなされている事を前提に推定した仮説であって、ましてや祭神が入れ替えられるなどして時の権力である藤原氏に都合の良い変更が施されてその前提が崩れれば全く意味をなさないものになってしまうのです。

 百嶋神社考古学の立場から言えば、95パーセント嘘の「古事記」や少しは本当の話を取り込んだ「日本書紀」言わば偽書を前提に列島の古代史が成立している事と同様になるのです。

 本来ならば、列島史の舞台であった九州(例えば漢帝国皇帝の直轄領域の名を九州とした)を丹念に調べ尽くし古代を復元すべきであったものを、当時何もなかった片田舎の奈良を古代国家の中心と錯覚したか勘違いしたか悪意ある偽装を行ったかは別として、全く無視するという誤りを前提に列島の古代史が基礎づけられたことは愚かと言えば愚かであったのです。

 さて、私が前ブログ937号を印刷して郵送して読まれたからの返礼だったのですが、その中で、オオササギ=仁徳とされている一番大きな神像が大きなと言うより、それだけが他の4体の木像(神像)と比べてかなり大きいため若宮神社の主神として相応しくはあるけれど、どう見ても神功皇后風の女神像にしか見えず、オオサザキ=仁徳には思えないとの事だったのです。

 私もその点は気付いていたのですが、まさか県立博物館と宇佐八幡宮が展示するのだから、これまでほとんど見る機会のなかった若宮が見られるとの思いから呼び掛け、短期間だったため2回で67人の見学者を募ったのでした。

 私はクマノフスミに見えたのですが、いやしくも宇佐八幡宮が県立博物館に展示するのだから社の中に鎮座の通り展示されているものと考えたのであり、故に敬意を払い見学させていただいたのでした。

 つまり、そのような権威ある宇佐八幡宮のやる事だから間違いなど在るはずがない…と言った前提で前ブログを書いた訳で、それが怪しげな神像群の在り様、ひいてはその推定仮説が成立するはずもないのであって、再度、考え直すしかないと思っているところです。

 到津家宮司継承問題、裁判闘争、到津屋敷閉門、宮司の追放、そして再燃した地元と落下傘宮司一派、石清水八幡系の神社庁のごり押し、地元氏子と新宮司派の対立によって現在も混乱が拡大している事に浅ましさと見苦しさを禁じ得ないのでした。

 本当は、展示された五柱の木像を掲示し図像学的に検証したいとも思っていたのですが、博物館は博物館でどうせ宇佐八幡宮の展示物にとやかく言う事は出来ないとしつつ…展示物の撮影はほとんどまかりならんとの事でしたので、図像学もへったくれもないわけです。

 もう少し探りを入れてみたいと思うのですが、別の日に見に行った北九州市のM女史に何故か随行された元学芸員がおられたそうで、始めはその事には関与しないとされていたのですが、実際には神像は入れ替えられている…と言った事を言われたそうなのです。

 其処まで聴かされれば真面目に議論するには値しない訳で、前ブログの価値は無に帰すのです。

 だからこそ、学者や一部の学芸員の集団だけの利権とせずに、写真も一般にも公開し撮影させ世に問うという形で検証を行うべきなのです。

 それを神社についても、昔の宇佐八幡宮のように大著「柴刺」を書かれた馬場紀美史氏のような研究者でもおられればともかく、神社、神についてもまともな知識も持たないような神官がまかり通る時代になれば、このような公開展示自体の意味をなさないのであって、いくら立派な箱モノを造ろうが、価値はゼロになってしまうのです。

 十年近く温めてきた仮説が漸く現実になったとばかりに遠路足を運んだのですが、徒労に帰したと言うのが実感でした。

 辛島氏、大神氏の時代に九州王朝の神宮であったものが変質させられ、勅使道も豊後高田の若宮八幡神社の勅使門まで続き、六郷満山の九州王朝の紀氏の領域まで繋がっていたはずなのですが、偽造された古代史を真に受ける時代になってしまったのでした。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2023年02月28日

950 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)❻ 上田市 生島足島神社 (中)

950 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)❻ 上田市 生島足島神社 (中)

常陸国ふしぎ探検隊-それは天津甕星から始まった49.生島足島神社探検記(長野県上田市)からの転載

  20220908

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


本稿は茨城県に於いて百嶋神社考古学の立場から活動をされている旧メンバーによる生島足島神社に関するブログを勝手ながら転載しています。編集の都合上、書体など一部に手を加えています。

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49.生島足島神社探検記(長野県上田市)2015-12-05 19:57:06 テーマ:古代史

今回の探検は長野県上田市下之郷中池の式内名神大社、生島足島(いくしまたるしま)神社です。

百嶋先生が無茶苦茶と記録しているところです。ご祭神は生島大神と足島大神。

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東側鳥居 式内大社 日本中央の文字が見えます。

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東側参道鳥居にあった祭神一覧と梶の葉紋(諏訪大社のものとは異なる)

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由緒書


百嶋系図では生島大神は海幸彦=建御雷であり、足島大神はオキツヨソ足姫(スサノヲ娘でナガスネ

彦の妹)です。諏訪大社の祭神、建南方の父母です。

大正八年鉄道省発行「神もうで」によれば、創建の年は詳ならず、社伝によれば神代の昔此処に鎮座あり、建南方富命の諏訪に降り給える時、この地に留まって二柱の大神を祀り、御自ら粥を煮て献供せられたことがあり、かつて崇神天皇の御世に、神八井耳の御孫建五百建(たけいおたけ)命を科野国造に定め、東国の祭祀を掌らしめられた時、この神社も創建せられたというのである。

意味不明の文章です。支離滅裂でしょう。前半では創建年は不明で神代から鎮座していると言ってい

るのに、後半では、崇神天皇の御世に神八井耳の孫建五百建(たけいおたけ)命=建磐龍が科野国造となり、創建したと書いています。

このような由緒がまかり通っていたために、アカデミックな歴史学者たちは神社の研究には興味を示さ

なかったものと考えられます。しかしながら、記紀自体が同様であるとの疑問はあまり持っていないよう

で、古代史研究と言えば記紀を研究することが主流であるようです。かくして、真実の歴史は闇に置き

去りにされています。明治維新の国家神道政策によって、意識的に改ざん、ねつ造された神社の由緒は、学問的には信憑性のない資料として扱われることになってしまったのでしょう。

あるいはお上からの指導で扱えなくなっているのかもしれません。

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上宮(生島足島神社)拝殿 北向き


北向きということは、北側にある摂社(下宮)の諏訪社が最初に建てられ、後から付けたされたのだと

思います。

そうでなければ栗本慎一郎の言う聖方位に関連のある勢力の造った神社ということになるでしょう。

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上宮本殿千木 男千木        屋根付き神橋 

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神橋と上宮拝殿



上田情報蔵さんのHPより引用

生島足島神社本殿の前に二つの橋がかけられている。一つは一般の参詣者の渡る橋、一つは「神橋」と名づけられている朱塗りの美しい橋である。

この「神橋」という名は、神様が渡られる橋だからつけられたのだが、それではどういう神様が渡られるのかというと、知る人は案外少ないようだ。この橋を渡る神様は諏訪神なのである。

試みに、この神橋の入口に立って北の方をふりかえると、50mばかり先に、塀にかこまれたりっぱなお宮があるのに気づかれるだろう。(もっともその間に舞楽殿があるので、気をつけなければわからない。)これが、生島足島神社の摂社(本社に付属する縁の深い神社。官国幣社に限ってこの称を用いられた。)諏訪社である。

生島足島神社には、有名な「お籠り祭」という神事がある。それは毎年11月3日の夜、まずこの諏訪神が、生島足島神社の籠殿へ移られる。これを「御遷り神事」という。(もちろん神官が奉仕する。)それから毎夜御飯をたき、諏訪神が自ら生島足島神に献飯される儀式が翌年3月3日までつづく。(もっとも現在は、7日ごと、4月28日まで26回奉仕に改められている)これが「お籠り祭」である。

この祭事は太古から伝えられているもので、諏訪神が天照大神から信濃統治の命をうけて、この地にやって来たとき、すでにこの地に有力な生島・足島神がいた。そこで諏訪神は自ら長期にわたり御供を献じ、はじめて了承を得て諏訪に向かったことに由来するといわれている。

生島・足島神は巻頭写真でも説明したように、もともと宮中で祭られている神であるから、地方神としての諏訪神がこの神に対して奉斎の誠をいたすのは、当然であったかも知れない。信濃の国造(現代の県知事に当る)から出た金刺氏は、後に諏訪下社の大祝(神が人間として現れたものといわれる)となっていることを思い合わせてみる必要もあろう。

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境内社の子安社 祭神は木花開耶姫とニニギ

木花開耶姫がニニギと夫婦だったのはたったの1年間ですから、対で祀られているということは後世の

下剋上勢力がねつ造したと考える基本となると判断しています。

本体の木花開耶姫を祀った神社も後発のものと考えています。なぜならニニギから豊玉彦に夫を変え

てからは前玉姫となっているからです。したがって前玉姫の名前で祀られた神社が正統派だと考えま

すが、実際に前玉姫で祀られている神社は数少なく、藤原氏や明治政府の神祇官(藤原氏の傀儡)が

木花開耶姫に改名してしまったことによると考えています。

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神楽殿                       フルール・ドゥ・リス紋
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摂社諏訪社(下宮)南向き

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諏訪社扁額             諏訪社本殿千木

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ご神木のケヤキ                 洞内部 金精神(女)

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洞内部 金精神(男)
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十三社(祓戸神)瀬織津媛神、速開津媛神、伊吹戸主神、速佐須良媛神、底筒男神、中筒男神、

表筒男神、神直日神、大直日神、綿津見神、八衢彦神、八衢媛神、泉津事解男神の13
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境内社の八幡社 神功皇后や姫大神の名はなく、玉依比売命とされています。八幡系の玉依比売は姫大神のことだと思うと「玄松子」さんのHPにありましたが、この場合の玉依比売は三人の玉依比売の誰を指しているのでしょうか。姫大神の中には鴨玉依姫がいますからそれが順当だと思います。

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生島足島の荒魂社                      金精様か?

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御歳代部仮殿 御歳神は贈孝安天皇であり、生島大神=海幸彦の御子です。さらには九州王朝特務機関長(要するに中央情報局)です。建南方の監視役だったのか、反対に護衛だったのかかもしれません。後の菅原道真の樋口大善のようです。建南方は正史では、建甕槌と力比べに負けて、諏訪に引き込もることになっていますが、実の父親は建甕槌=生島大神ですからそんなことはなかったのです。まして母親はスサノヲの娘オキツヨソ足姫ですから、父親(生島)よりも身分が高かったのです。

御歳神の母親は豊受姫でやはりスサノヲの娘であり、父親は海幸彦=生島ですから御歳神と建南方は兄弟と言っても過言ではない関係です。


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 八幡宮と秋葉大権現の石碑           境内社の秋葉社

百嶋神社考古学にご興味の方は、久留米地名研究会古川さんまで。090-6298-3254

今回の無断転載に関してはその理由をブログ948に書いております。なお、本拠地を北九州市に移し、熊本、佐賀、久留米でも研究会の活動が広がり、何よりも民間の研究者を要請する体制が整いました。

 我々は若い新たなメンバーを加え愛媛県、愛知県などにも組織的拡大の動きが顕著になっています。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 23:21| Comment(0) | 日記

2023年02月24日

949 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)❺ 上田市 生島足島神社 (上)

949 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)❺ 上田市 生島足島神社 (上)

  20220905

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


元々、上田市ではこの神社を見るつもりでいました。ところが真田氏の本拠地の神社が山家(ヤマガ)神社である事、前ブログで取り上げた前山鹽野神社が勅使殿を持ち呉橋を持つとんでもない重要な神社である事を知り、この生島足島神社の影が薄くなるほどでした。

ともあれ、上田市で最初に参拝したのは生島足島神社だったのです。

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ここにも安芸の宮島の厳島神社と同型の鳥居が置かれています

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まず、足島大神では誰が祀られているかも分からないと思います。正直、そのようにされているのでしょう。そもそもこの足島大神と重なるかどうかも知られていないのですが、同社のご由緒に書かれる二柱の大神とは一体どなたなのでしょう。

これらが分からなければ、皆さんはお賽銭をあげて帰ってきただけのことになるのです。

御朱印帳を持って参拝されるのは結構ですが、できれば祭神にも目を向けて背後に存在する歴史も考えて頂きたいものです。

この難問に関しても、我々、百嶋神社考古学の者には多少の見当が着くのです。といっても百嶋由一郎最終神代系譜があるからですが、少なくとも失意の建御名方が来た時(由緒では諏訪に下降する途すがらこの地にお留まりになり、二柱の神に奉仕し米粥を献ぜられてたと伝えられ、その故事は今も御籠祭という神事として伝えられています)には二柱の神が祀られていたという事になるのです。

と、言っても、この生島足島神社の主神考えるとき、この二柱を纏めて足島大神と考えるのにはかなり

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百嶋由一郎(手書き資料)スキャニング・データ・ファイル4/4から


の疑問を抱いてしまいます。多分具体性のある真実の伝承と強権により軌道修正された見解の混合です。

 勿論、百嶋由一郎に従えば、二神は、海幸彦(草部吉見=ヒコヤイミミ)と沖ツヨソ足姫(ナガスネヒコの妹)となるでしょう。

 しかし私には、二神とはナガスネヒコ(彼は殺されていない可能性もあるので)と沖ツヨソ足姫の兄+妹で、足島大神が金山彦にも思えてしまうのです。


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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


 まず、百嶋先生の説をそのまま理解すれば、イザナギとイザナミの子であり新羅の王子様であったスサノウがアシナヅチ、テナヅチに囲まれ悲しんでいた櫛稲田姫を救い妃とします(神話ではそうなっていますね…勿論、我々はその現場は熊本県の山鹿市の大宮神社周辺の話と考えていますが、詳しくは以下を)、そのスサノウと櫛稲田姫の間に生まれたナガスネヒコの妹の息ツヨソ足姫なのです。


 ひぼろぎ逍遥(跡宮)

485

ヤマタノオロチ退治異伝(「高良玉垂宮神秘書」)“宮原誠一研究のご紹介”

284

大宮神社と猿田彦大神 C 転載 “櫛稲田姫(クシナダヒメ)は

熊本県山鹿市で産まれた! ”

283

大宮神社と猿田彦大神 B “大宮神社の地主神が大宮神社の主祭神か?” 

282

大宮神社と猿田彦大神 A “大宮神社の猿田彦大神石塔と摂社群” 

281

大宮神社と猿田彦大神 @ “山鹿市の大宮神社とは何か?


 その後、ナガスネヒコは本物の神武天皇(神武僭称贈る崇神ではないという意味で)と衝突し(恐らくその原因はスサノウの姉の処遇を巡りスサノウ系と阿蘇系が衝突した可能性があると考えていますが…)、その結果敗残した金山彦系+カミムスビ系の勢力が弱くなり、始めはカミムスビの子のである豊玉彦=ヤタガラスの妃となっていた息ツヨソタラシ姫は阿蘇の草部吉見ことヒコヤイミミ=鹿島大神の妃となるのです。それが、生島足島神社の事実上の主神である二柱なのです。

にもかかわらず、主祭神が生島大神ではなく足島大神と書かれている事から考えれば、この神社の底流には、ナガスネヒコの乱で敗残した金山彦系(「古事記」では石析神=アシナヅチ・根析神=テナヅチ、「日本書紀」では磐裂神・根裂神の神と呼ばれる櫛稲田姫の父母神そして東日本ではカガセオと呼ばれるナガスネヒコ…)の系統流れているように見えるのです。

そうでなければ、主神が生島大神であっても良いはずなのです。

にもかかわらず、足島大神を主神としているとすれば、アシ(足)ナヅチの足島大神=金山彦こそを祀る神社、敗残するも栄光ある高貴な神社が生島足島神社に思えるのです。

しかし、初見の神社を云々する資格などないのであって、先ずは考えを進める事にしましょう。

 神橋と呼ばれる呉橋(宇佐神宮、薦神社…様)の参拝殿奥の上宮本殿の千木は男神を示しています。

 もしこれが武甕槌(ヒコヤイミミ)を表す物とすれば草部吉見も偉くなったものだと思ってしまうのですが、多分違うでしょう。恐らくここには天皇と勅使以外は亘ることが出来ない場所だったのです。

 そうすると、前ブログで取り上げた境外摂社の諏訪神社や同じく神橋=呉橋と勅使殿を持つ前山鹽田神社との関係が気になってくるのです。そして鹿教湯温泉の呉橋も不思議ですね。

無題.png前ブログ掲載の前山鹽田神社の神橋


 この呉橋、勅使門、勅使殿問題は、以下と併せご検討ください。


これについて詳しくは「ひぼろぎ逍遥(跡宮)480482」をお読みください。

482

突然涼しくなったので丹波丹後の神社調査に… M 

朝来市の足鹿神社再訪

481

突然涼しくなったので丹波丹後の神社調査に… L 

朝来市の赤淵神社の驚愕 下

480

突然涼しくなったので丹波丹後の神社調査に… K 

朝来市の赤淵神社の驚愕 上

ただ、何故、但馬〜播磨 国界に近い朝来市と上田市に勅使門、勅使殿が置かれているかは益々分からなくなりました。

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神橋とされていますが、宇佐神宮並みの高級な呉橋ですね


ヨソ足姫のオキは「瀛」の文字を使うのですが…彼女とヤタガラスの関係が分かる系譜をご覧下さい

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百嶋由一郎 細密系譜原本(部分)


なお、境内社の秋葉社=軻遇突智神とは金山彦の事であり、秦の始皇帝とも同族として姻戚関係を結んだ(イスラエル系)神であり、このため一つ前の神代系譜の真ん中に位置する瀛氏(始皇帝の姓は)嬴政(エイセイ=インチョン)でしたね。

このため宗像三女神の市杵島姫も本来は瀛ツ島姫と表記するのです。

従って、この生島足島神社にも関係する奥ツ彦、奥ツ姫の「奥」も実は「瀛」の置き換えなのです。

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において、摂社(下社・下宮)には諏訪大神が祀られる信濃屈指の古社です。と書かれている意味も、八坂刀女と名を変えた阿蘇系の奈留多姫と手に手を取って事実上の幽閉地の諏訪へと道行された途上通過された古い諏訪社に示されるように既にその時には存在した古社であると主張されているのです。

 一般的に諏訪の建御名方は出雲から追放されたとお考えだと思います。ただ、実際には二重三重の誤りに近く、大国主の国譲りの現場は島根県の出雲などではなく、彦山の南北の朝倉郡と筑豊の田川郡を奪われており(奪ったのは高皇産霊神、草部吉見=ヒコヤイミミ=マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミ)、沃土を失い追放された先が出雲の国だったのです。

 このことが分からないと頓珍漢な話になる訳で、まずは、ひぼろぎ逍遥(跡宮)からお読み下さい。


914

出雲の国譲りは筑前の旧朝倉郡から筑豊〜豊前に

掛けての旧田川郡、行橋市一帯で起こった

 建御名方の一族(物部氏)の大半は故地の鹿児島県に逃げ南方神社(同県には100社近くあるはずです)を奉斎していますが、その一部は博多港、遠賀川河口から船で直江津に入り諏訪にはいっているはずです。小浜辺りから琵琶湖を経由し岐阜から塩尻経由もありえますが、同社の伝承は日本海ルートを今に伝えている事になるのです。

この建御名方の移動の時期についてですが、それについては、ひぼろぎ逍遥(跡宮)923928931934936 辺りが参考になるかと思います。恐らく2世紀半ばの頃だと考えています。


936

ヤマトタケルの熊襲退治時代の勉強会を熊本県西原村でも行います ⓫

935

櫻に埋もれる佐賀県有田町の山田神社について

934

ヤマトタケルの熊襲退治時代の佐賀県東部とはどのような土地だったのか?下 ❿

933

ヤマトタケルの熊襲退治時代の佐賀県東部とはどのような土地だったのか?上 ❾

932

早良の諏訪神社を「福岡県神社誌」から見ると ❽

931

河上猛がヤマトタケルに許された旧脊振村広滝とは ❼ 

930

続)愛媛県の神社調査を本格化させたい(下調べ) A

929

愛媛県の神社調査を本格化させたい(下調べ) @

928

続)大神一族とは河上 猛の後裔だったのではないか? ❻ 

927

大神一族とは河上 猛の後裔だったのではないか? ❺ 

926

「早良区に移動したその後の 河上 猛」小規模講演会向けに用意したレジュメ ❹ 

925

福岡市早良区の諏訪神社の由緒略記を寄贈された方々のご出身地を知りたい ❸ 

924

福岡市早良区に移住した河上 猛(熊襲 猛)の一族が住み着いた現地を確認した ❷

923

ヤマトオグナに誅伐された栄えある河上 猛は許され

今もその一族は福岡市早良区に住んでいる ❶


 荒唐無稽な話にお付き合い頂きどうもありがとうございました。

 ただ、書き漏らしている点が残っていますので、続編を書きたいのですが、その前に、この生島足島神社について、元百嶋神社考古学グループに一旦は参加され後に自ら離脱された「常陸の国ふしぎ探検隊…」というブログの初期のものに書かれた生島足島神社リポートをお読み頂きたいので、勝手ながら全面転載致します。

 なお、内容については異論を持って反論を提起するものではありませんが、この神社を解読するためには多くの知恵を投入する必要があるため敢えて離脱されたブログを取り上げるものです。

 彼、彼ら(二つのブログのグループですので)が離脱された理由はお聴きしましたが、元々、百嶋神社考古学研究会には多くの研究者が参集され違った立場、異なった角度から多くの研究が行われネット上にも発表が行われています。これ等の一部に百嶋由一郎が主張している内容とは異なるものがあったとしても、修正しろとか閉鎖せよ…と言った封殺を行うつもりはありません。

 それは、九州王朝論者の民間研究組織でも同様で、「古田先生が間違っているとでも言うのか!」などと教条的な封殺への動きが出ると、多くのメンバーが委縮し、将来の研究者が育たなくなるからです。

 このため、仮に百嶋見解と全く異なるものであったとしても、言論上、研究上は排除するべきではないと理解しているからです。私たちは創価学会でも統一教会でもイエズス会でもないのです。彼らは出版の自らの著書の出版上の立場からそうされたとは思いますが、当会にはここ五年ほどの間に多くの優秀な研究者、神社探訪者、古文書の記録者、講演者、ブロガー…、しかも、たくさんの若手のメンバーが加わってきており、通説派の学者や教育委員会関係者や学芸員といった自己保身に走る連中や、村興し町興し果ては邪馬台国シンポジウム(全国には百ケ所もの邪馬台国候補地があります…)や、大嘘に近い世界遺産登録…と言った利権に群がるさもしい集団には成りたくはありませんので、何の富も得ることなく最後まで研究を続けられた百嶋由一郎氏や佃収先生(こちらはまだまだ研究を継続されていますが)や米田良蔵氏の精神を引継ぎ古代の真実に迫りたいと考えています。

 実際、頼もしい優秀な若手メンバーが急増しています。むしろ多すぎて対応に苦慮している程です。

 他人が調べた話を聴かずに聞いて翌月には何の話だったかも覚えていない方をいくら集めても全く意味がなく、後継者もなくいずれは消え失せてしまうだけのことになるのです。


百嶋由一郎が残した神代系譜、講演録音声CD、手描きデータスキャニングDVDについては09062983254まで

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記