ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1136 事実上のゼネコン 安藤ハザマ とは何か?
“古代史、神社研究の視点から 安藤組と間建設の合併を考える”
20260112
太宰府地名研究会(編集員) 古川 清久
ほぼ、理解して頂けない話とは思いますが、松の内は(九州、関東は7日まで)は関西(15日まで)という風習ですから、お屠蘇気分の延長でしか書けない様な話をしてみたいと思います。
国道210号旧加々鶴トンネルの改良工事(実際にはバイパス・トンネル新設)ですが、新しいトンネルの名称は川下トンネルだそうです。これについては別に後段に廻させて頂きます。

それはともかく、トンネルは既に貫通しており、年度内から遅くも翌年度中には仕上がる事になるのではと思っています。
前掲の地図では場所が掴めないかも知れませんが、大分から福岡(古代なら豊後から筑前への国境)の県境を貫流する筑後川の断崖地を通過する国道210号線の現加々鶴トンネルのバイパス工事(実際には旧加々鶴トンネルの倍以上の延長に成る)が半ば竣工間際なのです。

さて、今回は公共工事の話をするつもりは有りません。
私が取り上げたいのは、トンネル工事のエキスパートの安
藤組(かつて「実録安藤組狙撃編」など関東のヤクザ組織に
安藤組が在りましたが…勿論、無関係です)と間建設との間
には何らかの古代まで遡る関係が在るように思えるのです。
始めに申し上げておきますが、念頭に在るのは東北の阿部
一族の後裔とも同族とも言われる弘前の安東氏と、大分県由布
市の東と言うか由布川左岸の旧狭間町に盤踞した狭間氏と阿
部氏の関係をどうしても意識してしまうのです。
それは、東北の安倍一族のルーツは、大彦で古代の豊国(後の豊前、豊後)との思いが消せないからです。かつて、司馬遼太郎は戦国期の氏族同氏の関係が現代の財界人の友好関係にも継承されているとして、竹中工務店と松坂屋の例を挙げていた事を思い出します。
まず、織田家の小姓が竹中工務店の祖であると言う話がネットに出て来ます。お試しください。

AIによる概要
竹中工務店の「祖(はじめ)」は、初代竹中藤兵衛正高(とうべえまさたか)で、1610年(慶長15年)に織田信長の普請奉行を務めた後、大工棟梁として「大隈流」を創始し、神社仏閣の造営を始めた人物です。その後、代々宮大工として技術を継承し、江戸時代初期に名古屋で創業、明治期には三井家との縁を深め、三井銀行などの建設を手がけ、現在の竹中工務店へと発展しました。

一方、…森蘭丸で知られる織田家の小姓の一人に伊藤蘭丸が居ました。

竹中藤兵衛も伊藤蘭丸も厳しい信長様に仕えるのに疲れ宮大工や呉服商に転身したと言うのです。

名古屋の「いとう屋」といえば、のちの「松坂屋」としてつとに名高いが、江戸時代には尾張藩御用達商人として藩財政に関わり、明治維新後は公金を取り扱い、伊藤銀行、東海銀行を経て、現在の「三菱UFJ銀行」に至っている。
もともとは、信長の小姓であった伊藤祐広の子が商人司を命じられたが、信長死後、家康より清須から名古屋への集団移住を命じられ、かの地で呉服小間物商「いとう屋」を創業したのが始まりである。強制移動させられた仲間うちには、後年、竹中工務店を興す竹中藤兵衛正高もいた。
その後「いとう屋」は地道な商いが功を奏し、元文5年(1740年)には 尾張藩の呉服御用となり、明和5年(1768年)、ついに江戸へ進出するまでになった。
いとう屋が松坂屋を買収
話しが変わるが、ちょうどこの頃、「江戸名物は伊勢屋、稲荷に犬の糞」と揶揄されたほど、江戸には伊勢屋を名乗る店が多かった。当時、伊勢屋はブランド化していたため、伊勢出身でない商人もこの屋号を利用したようである。
とくに伊勢は高級生地である木綿の生産地であったため、越後屋(のちの三越)など呉服店を出店するものが多かった。
永4年(1707年)のこと、伊勢松坂の商人・太田利兵衛も江戸上野に呉服店を開業し、松坂屋を名乗った。ところが明和5年(1768年)、3代目のとき、事情で松坂屋は身売りせざるを得なくなり、江戸に進出したばかりの「いとう屋」に買収されることとなった。
このとき「いとう屋」のとった選択が、江戸市中で話題となった。通常、買収した場合、買われた側の名は消し去るのが常である。
ところが「いとう屋」は買収した相手の屋号を採り入れ、「いとう松坂屋」(大正時代、松坂屋となる)を名乗ることにした。
江戸に出てきたばかりの自分より、市中に知れ渡っている松坂屋の屋号を利用するほうが得策と判断したのであろう。家門を重んじる武家ではありえない発想である。
「いとう屋」は武家の出ではあるが、150年の年月を経て、すっかり商人の頭になっていたといえる。…
全文の引用は申し訳ないのでここまでとします。
司馬遼太郎も、この話は竹中工務店か松坂屋か(若しくは地元郷土史会辺り)から聴き込んだ話でしょうが、今でも、松坂屋の建物は竹中工務店が請け、竹中のお歳暮などは必ず、松坂屋から調達すると言う慣行が生きていると言うのです。まさに500年も続く関係だと言うのです。
このため、更に永い関係になるのですが、阿部一族と狭間氏との関係もと考えたのは思考の冒険と言うより暴走に成りますが、少し考えたいと思うのです。
信長の人使いの荒さは時代劇では頻繁に描かれますが、それは豊臣、徳川がそう取られることを考え描いた可能性も在り、そのまま真に受けるべきではないでしょうが、普請奉行は作事方も同様の重役であり、それを辞めると言うのは余程辛かったとまでは言えそうです。
この話はここまでとし、そうした例も有りえるのです。
ここからアンドウ間建設、ハザマ安藤建設の話に変ります。
安東一族とは何か?
AIによる概要 (「津軽 安東一族」で検索)
津軽安東一族(津軽安藤氏)は、前九年の役で敗れた安倍貞任の子・高星丸が津軽に逃れ、藤崎に本拠を置いて興した豪族で、鎌倉時代には北条氏の代官として津軽を支配、蝦夷(北海道)の統括も担いました。その後、津軽から秋田・檜山(湊安東氏と檜山安東氏に分裂・統合)へ勢力を移し、安東愛季の代に全盛期を迎えますが、江戸時代には秋田氏と改名し、所領を転封されて戦国大名としての独立は終焉を迎えます。
起源と津軽時代(鎌倉〜室町中期)
発祥: 平安末期、「前九年の役」で敗れた安倍貞任の次男・高星が津軽地方(現在の藤崎町周辺)に落ち延び、安東氏を名乗ったのが始まりとされます。
支配: 鎌倉時代には北条氏の代官として津軽を支配し、津軽半島の十三湊(とさみなと)を拠点に、蝦夷地の統括も行いました。
名称: この時期は「安藤氏」と表記されることが多いです。
南北: 津軽を根拠とする「下国家(津軽安藤氏)」と、出羽(秋田)に拠点を移した「上国家(湊安東氏)」に分かれました。
特に九州の方達には、津軽の安東氏などと言っても一部の九州王朝論者の方々を除いて殆どお分かり頂けないでしょうが、権力を握った藤原氏(阿蘇系の多氏、宇治氏)は、九州王朝の大彦の血を引く奥州藤原氏を潰そうとして、配下に組み入れた後漢の霊帝(阿智王の一族)の末裔の坂上氏を派遣し、自らは手を汚さず奥州金と領土を得ようとしたと考えられるのです。
前九年〜後三年の政治的激変の結果、
AIによる概要 (「前九年・後三年の役」で検索)
「前九年・後三年の役」とは、平安時代後期(11世紀)に東北地方で起きた二つの大規模な合戦で、前九年の役(1051-1062年頃)と後三年の役(1083-1087年頃)を指し、源義家が活躍し、奥州藤原氏の台頭のきっかけとなった戦いです。これら二つの合戦は、朝廷の支配下にあった東北の豪族(安倍氏、清原氏)と、源氏(源頼義・義家)が関与し、最終的に奥羽の支配権が奥州藤原氏へと移り変わる重要な歴史的転換点となりました。

上図は謎の一族安東(安藤)氏の平安以降の変遷が垣間見えるものですが、消えた氏族の事多くの説が出あり、はっきりしないのです。ただ、安東姓を名乗る氏族が北海道南部、秋田の八郎潟に残っており、恐らく船を操る一族の末裔を感じさせるのです。
何れにせよ、身延山の一帯にいた南部氏が岩手の北半から青森の東半部に東北の阿部氏の後裔としての安東氏も歴史の翻弄に揺れたことが分かるのです。
以前から、九州王朝論者の内部でも東北の阿部氏は船を操り日本海航路を南北に移動し交易を行っていた人々の後裔と考えている人々があり、私もその端くれなのですが、そもそも岩手に菊池(菊地姓がここでは多いようですが)氏があるだけでも九州からの移動ではないかと考えて来たのでした。
そもそも、正月の初詣でも九州では二番目の参拝者がある宮地嶽神社の4代前までは代々阿倍家(現在は櫛田神社)でしたし(一位は太宰府天満宮)、現在でも阿部家の本家は大分県に在るのです。
そもそも東北の安倍氏は大彦の末裔と言われており(以下AI様)、流石の通説派も嘘をつく訳にはいかなかったのです。
AIによる概要
安倍氏と大彦命(おおひこのみこと)は、大彦命が「安倍氏(阿倍臣など)」の祖とされ、日本の古代史における有力氏族の源流です。大彦命は第8代孝元天皇の皇子で、崇神天皇の時代に北陸方面へ派遣された「四道将軍」の一人として知られ、その子孫は各地に広がり、特に伊賀国「阿拝(あへ)」に住んで「阿拝氏」「安倍氏」などを名乗るようになりました。
大彦命について
出自: 孝元天皇と鬱色謎命(うつしこめのみこと)の第一皇子。
役割: 崇神天皇の命を受け、北陸地方の平定(征討)に向かった「四道将軍」の一人。
功績: 大和朝廷の支配権を全国に広げる上で、北陸での基盤確立に貢献。
子孫: 阿倍臣、阿閉臣、膳臣、越国造など多くの氏族の祖。特に伊賀国阿拝郡を本拠地とし、これが「安倍氏」の起源の一つ。
安倍氏との関係
系譜: 大彦命を始祖とする皇別氏族であり、その子孫は東北地方の豪族(奥州安倍氏)、陰陽道で有名な安倍晴明(土御門家)など多岐にわたる。…以下略載


我が百嶋神社考古学に於いても、安倍氏は藤原が第9代とした開化天皇(后は仲哀死後の神功皇后)の腹違いの兄とします(上図 通称「金神系譜」)。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 2026012108:40
歌川国芳『日本百将伝』より大彦命の想像図
大彦命(おおひこのみこと[1]/おおびこのみこと[2]、生没年不詳)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族。『日本書紀』では「大彦命」、『古事記』では「大毘古命」と表記される。また稲荷山古墳出土鉄剣の銘文に見える「意富比垝」に比定する説がある。第8代孝元天皇の第1皇子で、第11代垂仁天皇の外祖父である。また、阿倍臣(阿倍氏)を始めとする諸氏族の祖。四道将軍の1人で、北陸に派遣されたという。
この間、10年近く続けている秋の甲信越の神社調査(1ケ月)ですが、そろそろ終わり、今年から福島に入るつもりです。
その最初に会津に入りますがテーマは大彦の足跡を探るです。
単純に現在の阿部氏が安倍、安東氏に繋がるかどうかは今後の課題ですがテーマは四道将軍です。
始めに、今回ゼネコンの安藤ハザマに拘った理由を御示します。

偶然で調整中ですが、3月に古代安倍氏の研究者である 阿部貞隆氏に
ご講演頂く事にしています。
同氏は2月に当会の提携団体佐賀県伊万里「松浦党研究会」後継会で講演のため3月に致します。
日 時:2026年3月15日(日)13:00〜(会場確保済みです)
会 場:福岡県筑紫野市二日市南1丁目9−3生涯学習センター
テーマ:「安倍一族とは何か」再考(仮案)講演者:阿部 貞隆(大分市)建築家、建築会社社長 著書「豊後阿部氏の伝承」の外に「陸奥安部氏累代の古文書が語る逆説前九年合戦史」
AIによる概要 「間組」
間組の創業者は間猛馬(はざま たけうま)で、明治22年(1889年)に福岡県門司で鉄道土木請負業として創業しました。鉄道建設で技術を習得し、九州鉄道の工事を請け負って事業を軌道に乗せ、「ダムのハザマ」としてダム建設でも有名になり、後の安藤・間(現・安藤ハザマ)の源流となりました。
AIによる概要 安藤組
「安藤建設」と「安藤組」は、
元々は同じ「安藤組」という建設会社でしたが、別の「安藤組」(安藤昇氏が率いた)と混同しないように安藤建設(現:安藤ハザマ)と、株式会社安藤(元「安藤組」)のように別々の会社に分かれ、さらに安藤ハザマは旧安藤建設と旧ハザマが合併した経緯があり、複数の「安藤組」または「安藤」を名乗る建設関連会社が存在します。
安藤組、安藤建設に関しては非常に分かり難くこのAIの二つを見るだけでも注意を要します。
ただ、ここで取り上げるのはそういったゼネコン絡みの話ではありませんので、これ以上の追及には関心は有りません。
この話を取り上げたのは、その背後に間組と安藤組との間に何らかの古代にまで遡る関係が在ったとしたら面白いなあ…という思いから正月の初夢の様に仕立てて見た言わば余興とお考え下さい。
それ以上の意味は有りません。
ただ、もし、それが正しいとしたら、我々が考えている九州王朝の最盛期に王権を支配した第9代開化天皇(=高良玉垂命)と仲哀死後の神功皇后との間に生れた長子の仁徳天皇(オオササギノミコト)=久留米ではシレカシノミコトと呼ばれているのです。
その父である開化天皇の腹違いの兄こそ安倍氏の祖であり、「日本書紀」にも四道将軍として日本海ルートで新潟県の柏崎刈羽辺りで上陸し魚沼市から福島に入り、太平洋ルートで進出した崇神の息子と会津で合流しているのです(日本海ルートを北上した四道将軍の大彦)。
その際に、東北の現地に残留した人々こそが九州でも豊の国(大分)から進出した安倍氏だったのではないかと考えたいのです。
まあこういった話は近畿大和こそ日本の中心であり、それ以外は邪説としか考えない方々は何も理解することなく消え去って頂ければ良いだけの事なのです。
一方、大彦の後裔が安倍氏であり、本願地を大分市に置いていたという事は間違いないと考えていますが、間組、間建設のルーツも、もしかしたら現由布市の狭間町に盤踞した狭間氏だったら面白いと考えた訳です。
間建設(間組)の創始者 間 猛馬は土佐藩氏との事ですが、明治の初めに九州(福岡県北九州市辺り)で創業とすれば、旧狭間町と関係があってもおかしくはないでしょうが、家紋は横木瓜らしいのです。これも高良大社の裏紋ですし、大分の間氏、狭間氏が大伴氏配下になっている事とも対応するのです。
豊後の大伴氏(菅公も母方は伴の女とされています…)は、金山彦系の本家とカミムスビ系の博多の大幡主の一族との間に生れた一族だったからです。その流れがそのまま間猛馬氏に繋がる
かは不明です。間猛馬氏が元は土佐藩士と言われている事から柞原街道を抜け、臼杵、佐賀関、大分市に入り、北九州に入っているとすれば、狭間を知らなかったとは考え難く、阿部、安藤の一族も知っていたと思いますので、安倍氏と狭間氏とが隣接している関係も理解できる立場にあったと思うのです。改めて、トンネル工事の安藤とダム工事で知られる間組の合体は、勝手ながら古代を感じさせるかなり面白い話でした。 今やダムを造る場所が無くなっており、トンネル工事が主力にも成りつつ在りますが、老朽ダムの撤去、改修工事の需要も造られる事でしょう。拙著、「有明海異変」にも“税金のダム遣い”との一章を書きましたが…今後は自然を守る方向で技術を高めて欲しいものです。編集上、ここで切り、続編に繋ぐ事に致します。


にお読み頂き有難いと思っています。
ここで、橘氏について分かり易い話を一つご紹介しますが、柑橘類の一つにスダチとカボスが在りますが、これも京都の下賀茂神社の賀茂族=加茂族=橘氏が運んできたトキジクの実の一つなのです。それは、スダチとは酢 橘で、カボスは鴨族、加茂族が持ち込んだ酢の意味なのです。
因みに、この灘高校を創ったものこそ柔道の講道館で知られる嘉納治五郎の一族を中心とする人々であり、宇佐の金屋とも通底しているはずなのです。





内しようと考えその後に参拝することにしたのですが、同社の地番が分からず迷ってしまいました。私は半ば諦めてしまいました。ただ同行の女性は熱心で、郵便局で聴いた場所を少し探した後、直ぐに南尚神社を見つけ出したのでした。この同行者のおかげで辿り着くことが出来たのでした。私だけではこの幸遇を掴めたかどうか分かりません。やはり神社調査は大人数ではできませんができるだけ複眼で行うべきで、少し驚いています。やはり調査は複数で行う方が相乗性を増すのです。少し大げさな表現をしますが、その後想定を裏付ける事実に驚愕したのです。前置きが長くなりましたが、それが左の祠でした。
橘紋
















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