太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「百嶋神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログを継続しています。


これにはプロバイダーを含め何時情報封殺が行われるかも知れないため、最低でも複数の発信媒体を準備しておくべきではないかと考えているからでもあります。


今後ともかなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史によるblogひもろぎ逍遥に対抗しようという意図はないのですが、華麗なひもろぎ逍遥に対して、緋色のボロ着で、神籬=ひもろぎ(ひぼろぎ)を逍遥=彷徨い歩き、神社を探るというほどの意味で、「ひぼろぎ逍遥」を随時書いて行くことにしたものです。ただし、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象なども認められます。


 さて、現在、ひぼろぎ逍遥とひぼろぎ逍遥(跡宮)との合計のアクセス数は日量10001200件(年間4045万件)まで上がっています。


 同時に、連携する研究者によるblog20近くまで数を増やしており、全体では最低でも年間100150万件近いアクセス数を持っているものと思われます。


 当blogには九州王朝論から百嶋神社考古学へと向かわんとする多くの研究者、記録者、bloger…が参集されています。


 年に10回、10年でも高々100回程度の研究会でも大半は教育委員会関係者から学芸員といった利権まみれの方々通説を拝聴し心服するような、研究者亡き研究会は全く何の価値もないものと考えており、そのようなどこにでもあるような話を好まれる方々は、そこら辺りの既存の郷土史会、史談会に行かれ、村興し、町興し、世界遺産登録に拍手を送り、思いっきり尾を振られれば良いでしょう。


しかし私達は後ろ指を刺される様な探究に踏みとどまり、これまでの歴代の行政権力が隠し続けた真実の歴史の探求へと向かう人々への道標と成ろうと思うものです。




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無題.png読者の皆さんに…真実の神社研究へのご支援を…


太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久




ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥の読者の皆様、また、グループのブログをお読みの皆様、暑い中、丹念無題.pngにお読み頂き有難いと思っています。


 古田武彦が亡くなり、また、百嶋由一郎氏が亡くなり数年が流れました。


 当初、貴重極まりない百嶋研究の一部でも残せないだろうかと考え、手書きデータや神代系譜文書のDVD化、音声データの保存、複製、宣伝という作業を続けて来ました。しかし、単にデータの保管、配布の体制を確立するだけでは継承ができないと考え、blogで百嶋研究の説明、現場実調を徐々に進め公開してきました。この結果、全国にも理解者が増え始め、神社研究ではなんとか特異な勢力を形成できる所まで漕ぎ着けました。


 既に、百嶋研究の一部でも接点を持った全国の二十五人を超えるブロガーが独自の側面から研究を進めておられますし、ブログは書かないまでも、神社調査を行い記録を残している方もおられます。


 勿論、統一性は取れてはいませんし、なかなか難解な内容だけに、解明できない問題についてはメンバーの若い世代に託すことになるでしょうが、なお不明なものは後世の研究者に期待する事に成るでしょう。


 百嶋先生と知り合いになったのは七年ほど前だったと思いますが、もしも後数年生きておられたならばもう少し古代、神代の謎を継承できたかも知れません。しかし、未熟な者だけで作業を行わざるを得なかった事から今尚皆さんにご迷惑をお掛けしているものと理解しております。


しかし、私達の能力を考えれば、むしろ上出来といったものかも知れません。


さて、メンバーの背骨を形成している中心的思想とは、当然にも九州王朝論です。


 百嶋先生も“私も九州王朝論が分かっていない人に神代史を教えても意味がないし、教えたくないですね…”と言われていた事が今でも耳に残っています(吾は百嶋由一郎の面受の弟子なり!)


さて、四月の近江〜但馬、五月の糸魚川〜諏訪〜山梨、六月の青森と15日間づつ三度に亘って長躯の神社調査を行いました。


ぶっ続けで調査すれば良さそうですが、落ち着いてリポートも書かなければならず、研究会のスケジュールもあってそういう訳にも行かず、各々3,0004500キロの往復の調査とならざるを得なかったのです。


今後も、三重、和歌山、岐阜、福井…と、よりきめ細かい調査に入るつもりですが、もはや資金が底を尽きつつあります。


元々、福島の原子力災害辺りから、これ以上行政機関に留まりたくないとの思いが募り、後先き考えずに58歳で早期退職した事から(当時上の娘は大学に在学中だったのですが)年金と言ってもギリギリ暮らせる程度の物で、なんとかここまで働かずに神社調査を行ってきましたが、既に限界点を越え始めたようです。事実、当会は研究を優先するためメンバーから会費を取る事なく僅かな参加費で運営しています。


人手不足の時代、まだ、働こうと思えば職はあるはずですが、拘束時間が長くなれば、研究を進める事ができないまま人生の終末期を迎える事にもなりかねず、できるだけ体力がある間に遠距離の調査に入りたいと思っています。このため、出来る事ならばこのまま神社研究に専念したいものと考えています。


基本的には年金生活で何とかやっていますので、月額であと二〜三万増やせれば、車の維持、車検、保険、介護保険料、研修所の維持、研究会の組織化、ネット規制に対応するためにもう一つ別の発信のためのサイトの準備……と増加する負担にも対応できるのではないかと考えています。


今後、研究内容を保全するためにも、外付けハード・ディスクをタイム・カプセル化して鍾乳洞に保管する(太陽フレアによる磁気データの消失への対策)とか、研修所の維持、後世に残すためにユーチューブ化してオンエアするなど新たな作業に入る必要も生じており、もし可能であれば、通説とは全く異なる百嶋神社考古学の保護と継承のためのご支援をお願いできないかと考えています。


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年間一口2000円以上の任意の百嶋神社考古学研究会の支援会員となって頂ければ、九州においでになった際に会員待遇として温泉付き研修所に一泊お泊めできます。九州での神社調査の拠点として活用下さい。


振込用の銀行預金講座、郵便貯金番号は以下の通りです。


 大分銀行 若宮支店 000093−7505802 フルカワ キヨヒサ


 ゆうちょ銀行 店番 778 預金種目 普通預金 口座番号 1165562 氏名上に同じ


また、もし差支えなければ、以下のメールにお名前と住所と電話番号を以下のメールに送信して頂き、カンパした旨の連絡を頂ければ、神代系譜のDVD(既にお持ちの場合はそれに代わる音声データなど)をお送りできるものと考えています。


 携帯のメール・アドレス ariakekai@ezweb.ne.jp携帯 09062983254 (常時対応)


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2019年02月17日

545 近江散歩 G 長浜市草野の許曽神社 “滋賀県長浜市草野町”

545 近江散歩 G 長浜市草野の許曽神社 “滋賀県長浜市草野町

20180414

太宰府地名研究会 古川 清久


 長浜市を流れ降る姉川の支流に草野川があります。

 我田引水と思われるかも知れませんが、長浜市の長浜が志賀島の海人族が持ち込んだ博多の長浜と考えます。さらにこの草野も当然ながら久留米市草野町の草野だろうと考えています。反論は如何様にも。

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草野川の中ほどに非常に印象的で清潔な街並みが並ぶ草野地区があります。

 そして、許曽神社があるのです。

 一方、久留米市草野町の正面には小郡市があり、七夕神社=媛社(コソ)神社があります。

媛社神は饒速日尊(ニギハヤヒノミコト)を織姫神は饒速日尊の母にあたるとされる万幡秋津姫命(ヨロズハタアキツヒメノミコト)を祭神としているようです。

 この祭神が正しければ、万幡秋津姫命は高木大神の長女でありヤタガラス=豊玉彦との間に豊玉姫をもうけますので、その夫神がニギハヤヒとすれば、織姫神は饒速日尊の母にあたると言えるのです。

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野椎神のづちのかみ

別名 鹿屋野比売神:かやぬひめのかみ 草野姫:かやぬひめ 萱野媛命:かやのひめのみこと

草祖:くさのおや 野槌:のづち 鹿江比賣神:かえひめのかみ……

『古事記』では、伊邪那岐命・伊邪那美命による国生みの後の神生みの段で、風神(志那都比古神)、木神(久久能智神、山神(大山津見神)などと共に生まれている。

さらに、大山津見神とともに、土・霧・谷などの神々(天之狭土神・国之狭土神、天之狭霧神・国之狭霧神、天之闇戸神・国之闇戸神、大戸惑子神・大戸惑女神)を生む。

敬愛する「玄松子」による

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祭神を草野姫とする同社縁起


野椎神のづちのかみ

別名 鹿屋野比売神:かやぬひめのかみ 草野姫:かやぬひめ 萱野媛命:かやのひめのみこと

草祖:くさのおや 野槌:のづち 鹿江比賣神:かえひめのかみ……

『古事記』では、伊邪那岐命・伊邪那美命による国生みの後の神生みの段で、風神(志那都比古神)、木神(久久能智神、山神(大山津見神)などと共に生まれている。

さらに、大山津見神とともに、土・霧・谷などの神々(天之狭土神・国之狭土神、天之狭霧神・国之狭霧神、天之闇戸神・国之闇戸神、大戸惑子神・大戸惑女神)を生む。

敬愛する「玄松子」による


 後に奈良麻呂の変で藤原氏に敗北する橘氏ですが、何故、草野姫(カヤノヒメ)が祀られたのかは不明です。草野姫は博多の櫛田神社の大幡主の妹神で白族のプリンセスになるのです(百嶋最終神代系譜)。

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この草野の集落の正面に寺師という集落があります。このことについて思い当たる事があるのです。

 関心をお持ちの方は以下をお読み頂きたいのですが、実はこの寺師の一族は鹿児島県姶良市に起源を持つのです。 以下、ひぼろぎ逍遥(跡宮)522をお読み下さい。

522

鹿児島県姶良市寺師の大王神社初見


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神社自体は至って古風で、それだけでも心が惹かれますが、境内には寺師氏の出身地との石標が建てられていました。現在、寺師姓を名乗る方は大半は鹿児島、宮崎両県に集中しており、滋賀県には一家族が確認できます(草津市)。

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御祭神は弥都波能売大神(ミヅハノメノオオカミ)


御祭神は弥都波能売大神(ミヅハノメノオオカミ)の一神でした。単独での祭祀は初見です。

非常に古い女神様ですが、寺師一族と何らかの関係があるはずで、少なくとも自らはその後裔と言った理解をされているのだと思います。

 一般的に天御中主=白山姫(ミククルミタマノオオカミ)と弥都波能売(罔象女)の二神は共に水の神様とされる事が多いのですが(大半)、水波能売命と書かれている事もそれを象徴しています。勿論、逆に字面からかも知れませんが…。これも、農耕地の最上流に置かれている事も良く分かる気がします。

 さて、「記」「紀」の悪意に満ちた間の抜けた話よりも百嶋神代系譜を見ることにしましょう。

 百嶋神社考古学では、ミヅハノメこと神大市姫とは大山祗と大幡主の妹の埴安姫の間に産まれた娘で、大国主命とコノハナノサクヤの姉になる事がお分かり頂けると思います。

 あまり知られてはいませんが、大国主命、コノハナノサクヤヒメの実の姉に当たるスーパー・スター中のスーパー・スターなのです。そして、寺師の一族とは大山祗(トルコ系匈奴)と草野姫=埴安姫(白族)との間に産まれた神大市姫を祖とする一族であり、この滋賀県長浜市の草野と寺師の町とは伯母と姪の関係にあたる一族ではないかと言う事が見えて来るのです。

このトルコ系匈奴については、過去何度もふれていますが、バック・ナンバーから ひぼろぎ逍遥(跡宮) 621623タシクルガン(石頭城、石城山)Ta Shi Ku Er Gan Lu (上)外を参照下さい。


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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


 ともあれ、この草野と寺師という町が隣り合っているという事実は非常に魅力的です。

 単純には言えませんが、草野氏とは大幡主(ヤタガラスの父神)系白族の埴安姫の後裔氏族であり、寺師氏とは大山祗と埴安姫との間に産まれた氏族のように見えるのです。

 また、草野姫(カヤノヒメ)を奉斎する一族が守る上許曽神社を考える時、一般的に下照比売命を主祭神とするとか(速素盞嗚命・味耜高彦根命・大小橋命・大鷦鷯命・橘豊日命)牛頭天王を主祭神とするとか、かつて持て囃された金○○+谷川○○によるコソとは「社」のことで朝鮮系に決まっているなどといった乱暴な切り口では解読できない問題が横たわっているようです。

 上許曽神社(同社は草野の隣の長浜市高山町の南端にあります)長浜市の草野町に隣接して鎮座しています。高山町は行政単位であって実際には山ばかりの集落であり、上流には秋葉神社(金山彦)が祀られているものの、表面的には草野町の神社のようにしか見えません。

 この一帯は古代の謎が閉じ込められているようでさらに調べる必要がありそうです。


百嶋由一郎氏の資料(音声CD、神代系譜DVD、手書き資料)を必要とされる方は09062983254まで
posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 10:13| Comment(0) | 日記

2019年02月15日

544 近江散歩 F 丹生神社 “滋賀県長浜市余呉町”

544 近江散歩 F 丹生神社 “滋賀県長浜市余呉町

20180413

太宰府地名研究会 古川 清久


前ブログ543 近江散歩 E に佐賀県東部と筑後から琵琶湖周辺に移動した人々について (縮刷版)

で書いた通り、海人族は元より、地名を左右できるほど早い段階と規模で、北部九州から大量の人々が入っているだろうことをご紹介しました。

 その中でも、高時川は妹川と呼ばれていた可能性があり、鋳物師の川であっただろうことが読み取れるのです。

 その高時川流域に二つの丹生地名が存在している事自体、製鉄、冶金の民がいたと思わせるものであり、姉川、高時川(妹川)河川邂逅部を確認するや、いち早く向かったのが二つの丹生神社だったのです。

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谷川健一 管川は和歌山県伊都郡高野町筒香である。丹生都比売神社は藤代の峯から移されて現「播磨国風土記」逸文には、爾保都比売命が紀伊国の管川の藤代の峯に鎮座しているとされて中央構造線に沿って流れる和歌山県の紀ノ川ぞいにも、 丹生の地名と丹生神社が点々とある。丹生神社辰砂(水銀鉱)の産地であった。社が祀られている。「日本書紀」には「菟田の血原」と記無題.pngされていて、赤色を帯びた土が出て、(ママ)合も少なくない。奈良県宇陀郡蒐田野町大字入谷は丹生谷庄のあったところで、そこに丹生神二

135 ページ

谷川健一. 在、かつらぎ町天野に置かれている。この天野に鎮座する前は那賀郡粉河町の丹生谷にとどまっていたとされ、そこに丹生神社がある。また伊都郡の九度山町には丹生川があり、そこに丹布都比売を祀る河根丹生神社がある。丹生都比売を祀るかつらぎ町には、丹生狩場明神社がある。狩場明神は古代の豪族の身毛津君の末裔で、丹生都比売神社に勤仕していたが、弘法大師が高野山に入峯したとき、その道案内をしたと伝え、狩猙を業としていたので、狩場明神と崇め祀ったという(日本歴史地名大系『 和歌山 ...

「日本の地名」(岩波新書)谷川健一

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この高時川が姉川の支流の妹川であり 上丹生 下丹生地名が確認できるのです


下丹生神社


式内社 近江國伊香郡 丹生神社二座 旧村社  御祭神 高靇神 丹生都姫命

滋賀県長浜市(旧余呉町)にある。余呉湖の北東3Kmの下丹生に鎮座。高時川の西岸、284号線の側、南向きに境内がある。284号線には余呉公園などもあり、広く整備された道で走りやすい。

鳥居をくぐり、階段を上がると境内。境内右手に拝殿があり、後方の垣の中に本殿。

上丹生にある丹生神社の拝殿では、テント地の保護幕が全面に張られていたが、当社では、その保護幕が巻上げられて開放されていた。

もとは丹保高山の麓、神楽野に鎮座。 創祀年代は、天平宝宇字八年(764)。貞観十二年(870)、北方の現社地に遷座。 式内社・丹生神社二座の論社の一つ。祭には、丹保高山から赤土(丹生)を採り、

高取川の清水を汲んで、八十瓮に盛って神前に献じるという。その後、赤土と清水を混ぜ、氏子の額に印を付けて、無病息災の符とする。

文明二年(1470)社殿が焼失。大永八年(1528)に再建された。現在の社殿は、寛文七年(1667)七月に改築されたもの。拝殿の左手に境内社が二つ。蛭子神社と稲荷神社だと思う。

敬愛する「玄松子」による

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上丹生神社


式内社 近江國伊香郡 丹生神社二座 旧村社

御祭神 彌都波能賣命 丹生都比賣命

滋賀県長浜市(旧余呉町)にある。余呉湖の北東4Kmの上丹生に鎮座。

高時川を東へ越えた場所に、南向きに境内入口が見える。

鬱蒼と茂った木々の神域へ足を踏み入れ、鳥居をくぐり、階段を上ると、予想外に広い境内。

境内右手に、テント地で保護された、堂々として造りの拝殿があり、拝殿の後方、階段上に、垣に囲まれた本殿がある。

参拝は5月の連休。蒼々として活力に満ちた木々にちょっと癒される空間。そんな感じ。

創祀年代は、不詳。式内社・丹生神社の論社の一つ。

社伝によると、天武天皇の御宇、丹生真人がこの地を拓き、丹保野山に神籬を設け、山土と丹生川の水を供え、天津神を祀ったという。後、天平年間に現在の地に社殿を創建した。よって、当社は土と水の神。

丹生真人は、誉田天皇の御子稚渟毛二俣王の後裔で、息長氏の一族。息長丹生真人とも呼ばれていたらしい。

社殿には、巴紋が付けられていた。『滋賀県神社誌』には「円山水」と記されていたが図案は未確認。当初は、丸に三つ巴紋の別称だろうと軽く考えていたが、違うような気がしてきた。よって、追記しておく。本殿のある垣の中に、少し大きな境内社があるが詳細は不明。

敬愛する「玄松子」による

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前日の雨のためか高時川(妹川)は多少増水し長浜に流れ下っていました(右が下流)


 この祭神の丹生都姫については誰なのかがお分かり頂けないと思いますので、メンバーで百嶋神社考古学の立場からblogひとつあがりのカフェテラス氏が丹生の郷の神々@〜B書かれていますのでご紹介したいと思います。


罔象賣神についてWikipediaでは、ミヅハノメは、日本神話に登場する神である。

『古事記』では弥都波能売神(みづはのめのかみ)、『日本書紀』では罔象女神(みつはのめのかみ)と表記する。神社の祭神としては水波能売命などとも表記される。

無題.png淤加美神とともに、日本における代表的な水の神(水神)である。と説明されています。

百嶋系図では、罔象賣神(=神大市姫)はトルコ系の匈奴の流れを汲む大山祇(=月読命)と大幡主の実の妹である埴安姫(=草野姫)との御子であり、また、稲荷社の宇迦之御魂神とは伊勢の外宮様(=豊受大神=辛国息長大姫大目命)のことで、罔象賣神とスサノオの間にお生まれになっています。

つまり、この丹生神社では、母娘神が静かに寄り添うように鎮座されている、そういったところでしょうか。…

…ミヅハノメの神について、百嶋先生は、このように述べられています(「肥後翁のblog」から転載)。

熊本白川水源に白川吉見神社がある。

これは、表には春日大神を祀ると書いてあるが、このお宮は、ミヅハノメの神を祀ると書いてあります。

このミヅハノメの神が奈良の春日大社のもう一つ上の祭神です。こちらが龍神姫です。

丹生川上神社上社、中社、下社とありますが、本当の龍神様はこのミヅハノメの神、同一の神様です。

このお嬢様が、伊勢の外宮様の姫大神です。また、別の講演では、豊玉彦の働きは非常に大きかったが、隠れてなかなか表にお出になっていない。

その代表が吉野の丹生川上神社、表に罔象賣神を立てていらっしゃる、実際の御祭神は豊玉彦。

ともお話されています。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2019年02月13日

543 近江散歩 E に佐賀県東部と筑後から琵琶湖周辺に移動した人々について (縮刷版)

543 近江散歩 E に佐賀県東部と筑後から琵琶湖周辺に移動した人々について (縮刷版)

20180413

太宰府地名研究会 古川 清久


 今回の話は、これまでスポット版で数本書いてきたものの概略を分かり易くまとめたものですので、後段の数本をお読み頂ければそれで済むのですが、さらに簡略にまとめてみるとより鮮明に見えて来るのではないかと思うものです。

事の発端は野波神社の発見でした。五年ほど前に太宰府地名研究会の中島 茂氏が発見して十名ほどで現地にも入ったのですが、その後その重要性が分かり、古川が以前から注目していた旧背振村桂木の葛城一言主命を祀る神社との関係が見えて来るに至り、現佐賀市の旧三瀬村の水没した野波の里に神功皇后のご両親が住んでいた(従って神功皇后もこの地で産まれている)事までが見えて来たのでした。

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佐賀県の脊振山中にある野波神社(左)と付近にある下ノ宮(右)です。

現在は北山ダム(1950〜)に水没した事によって移転した後、さらにゴルフ場建設によって再移転を余儀なくされた神社ですが、この縁起には付近にしたご両親を祀る下ノ宮の事が書かれていたのです。

 詳しくは以下の数稿を読んで頂きたいと思います。


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

489 神功皇后は佐賀県の脊振山中で産まれた! “宮原誠一の「神社見聞諜」からの転載”

ひぼろぎ逍遥

スポット144 三瀬村トレッキング現地リポート

スポット171 近江の伊吹山の麓に移り住んだ人々

スポット172 姉川と妹川という名を付した人々と息長系氏族

スポット173 亀屋佐京


 メンバーの宮原誠一氏は、水没した野波の里で生活していたご夫婦の間に産まれたのが神功皇后であり、後に上宮として祀られたのが下ノ宮(皇后となったため下ノ宮と呼ばれた)であったのではないかとされているのです。

 いずれにせよ、桂木の一言主命神社の存在から葛城氏の一族が旧脊振村にいた事は推定されますが、縁起からは同じ脊振山系無題.pngの旧三瀬村辺りに息長宿禰もいた事も推定でき、葛城氏も息長氏もともに脊振山系に展開していた可能性があるのではないかと考えられるのです。

 当然ながら、通説派の方々は“何を馬鹿げたことを…”と取り合わないでしょうが、ではお尋ねしますが、皇后のご両親である息長宿禰と葛城高額姫を単独で祀る神社が何故この地に存在するのか、また、全国にそのような神社が存在するのであればご教授願いたいと思うものです。

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いずれにせよ、桂木の一言主命神社の存在から葛城氏の一族が旧脊振村にいた事は推定されますが、縁起からは同じ脊振山系の旧三瀬村辺りには息長宿禰もいたとも考えられ、葛城氏も息長氏もともに脊振山系に展開していた可能性があるのです。

 まず、葛城氏と言えば、カツラギノナガエソツヒコが頭に浮かびますが、今でも「長江」という小字が脊振村に残っています。また、「ソツ」はソシモリノの「ソ」であり、「牛津」(佐賀県小城市牛津町)ではないかと考えています。また、ここで申し上げておきますが、背振山頂にある航空自衛隊のレーダー・サイトの直下には「伊福」という地名もあるのです。

伊吹山の「伊吹」とは「伊福」の置換えの可能性があるのです。

 少なくともこの二つの氏族は佐賀県の脊振山系から福岡県うきは市の耳納山系に移動している様に見えます。

 それは、巨勢川という名の川が佐賀市を流れ、同じ名、同じ表記の巨勢川が福岡県うきは市から久留米市を流れ筑後川に落ちているからです。

 さて、通説では神功皇后の一族(息長氏)は近江にいたとされます(根拠は後裔とする氏族が居た程度)。

事実、敏達天皇のお妃となった息長広姫の陵墓などが滋賀県長浜市の姉川沿いにあるのですが、それはまだ後の時代の事なのです。

 ここで、佐賀県神埼市と福岡県うきは市に「姉川」と「妹川」という河川名、地名が存在している事をお知らせすることにしましょう。

 地名には戸籍がなく、僅かに文献に拾えるものだけが価値あるものとして採用されるものの、通常はまともに取り扱われる事はありません。

 勿論、そう言っておけば、権威が維持できる事から学芸員や教育委員会関係者といった方々は火中の栗を拾う事はしません。

 そのような事は十分に承知のうえなですが、当方には権威主義は一切関係がないため、故)百嶋由一郎氏が“95%が嘘”と言い切った「古事記」などを根拠に地名の起源を説明されていれば良いだけの事です。

この姉川地名は菊池氏の分流が肥前へ展開し現地の姉川地名を称したものと考えていますが、定かではありません。

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かつて、このダムが造られた北風の入る谷では多くの蹈鞴製鉄が行われていました。

三十近い○○多々良地名があったと言われています。現在はダムの底に沈んでいますが、記録は保存されているかもしれません。

また、久留米市の東隣のうきは市には妹川地区があり、伊福さんという鍛冶屋さんも沢山住んでおられる(た)のです。この人々の後裔が滋賀県の伊吹山(伊福の置換え)に移り住んだと考えられるのです。つまり、伊福さんという鋳物師が住む川が妹川(イモカワ、イモゴウ)ではなかったかと思うのです。

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太宰府地名研究会によるトレッキング(佐賀県神埼市脊振町桂木)葛城朝の起源か…


 筑後地方の人にとって、戦国期の草野氏の「草野」という地名はかなり重要です。

その久留米市草野町に対応する地名(長浜市草野町)が近江の姉川流域にもあるのです。

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無題.png勿論、姓名としての「草野」は不思議にも福島県に集中していますが、肥前起源とも言われる耳納山の麓に蟠踞した草野氏は戦国期でその支配領域を失います。しかし、この移動は地名が成立する程度の千五百年以上前に起こったはずなのです。

 もう一つ対応する例をご紹介しておきましょう。

 高良大社と言えば、筑後地方で知らぬ者のない大社ですが、これに対応すると思われる高良神社が彦根市にもあるのです。

高良神社 (コウラ)カーナビ検索 滋賀県彦根市鳥居本町2464 祭神 武内宿禰命無題.png


しかし、この程度の話ではなく、どうみても決定的と思える例が、地名と神社に認められるのです。

さて、ここから太宰府〜久留米を中心とした九州王朝の観点から少し考えて見ましょう。

 久留米と言えば高良玉垂命(実は仲哀死後の神功皇后をお妃として産まれた仁徳天皇以下五人の皇子の父神であり、藤原から第9代とされた開化天皇なのです)を祀る高良大社が頭に浮かぶのですが、その高良の置換えと思われる甲良町(甲良町は 近畿地方北東部、滋賀県東部にある犬上郡の町 滋賀県内にある地方自治体のうち 豊郷町に次いで面積が小さい があるのです)。

 高良神社に対応する甲良町があるだけじゃないかと思われるかもしれませんが、甲良神社がある上に、隣の豊郷町には安自岐神社を持つ安食という地区がある事に気付いたのでした。

 「高良」と「甲良」が対応しているだけならば、高知県東洋町甲浦のように(ここにも高良神社があります)他にもあるのですが、この甲良町の隣の安食の「阿自岐」まで揃っているとなると、どう考えても 

高良大社のある高良山の麓に居た阿自岐の一族が移動した痕跡地名としか考えようがないのです。

 ここでは太宰府の阿志岐(福岡県筑紫野市)地名を紹介しましたが、古代、有明海が久留米市の北側まで大きく入っていた1500年前頃まで、高良大社の南麓まで阿志岐であったと言われているのです。

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山川校区は、耳納山地の高良山麓から筑後川の南側で、久留米市の東部に位置し、山と川に囲まれて、緑豊な人情味あふれる安心・安全なまちです。地名は明治6年、山麓の阿志岐村と川沿いの神代村の合併の際、両村の立地を組み込んで名付けられました。   無題.pngによる

無題.png

甲良神社 カーナビ検索 滋賀県犬上郡甲良町尼子10749-38-2462


一目瞭然ですが、高良玉垂命は完全に消され祭神の入れ替えが行われていますね。

 もうひとつご紹介しておきましょう。


甲良(こうら)神社は天武天皇の奥方である尼子姫が筑後の高良神社の神を勧請したのが起源とされています。旧本殿は徳川家光の命により建立されたもので、社殿の彫刻などが室町時代の作風を色濃く表しているとして文部省の特別保護建造物に指定され、昭和35年には国の重要文化財に指定されました。建物の背の高さと規模が小さいながらもしっかりとした造りが特徴です。屋根の線や建物の配置などから伊勢神宮に似ているとも言われています。例年415日に行われる甲良神社の太鼓祭は2メートルもある大太鼓が目を引き、人気があります。  無題.png
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古賀事務局長の洛中洛外日記  第147話 2007/10/09 甲良神社と林俊彦さん


 先週の土曜日は、滋賀県湖東をドライブしました。第一の目的は、甲良町にある甲良神社を訪れることでした。甲良神社は、天武天皇の時代に、天武の奥さんで高市皇子の母である尼子姫が筑後の高良神社の神を勧請したのが起源とされています。そのため御祭神は武内宿禰です。筑後の高良大社の御祭神は高良玉垂命で、この玉垂命を武内宿禰のこととするのは、本来は間違いで、後に武内宿禰と比定されるようになったケースと思われます。

 ご存じのように、尼子姫は筑前の豪族、宗像君徳善の娘ですから、勧請するのであれば筑後の高良神ではなく、宗像の三女神であるのが当然と思われるのですが、何とも不思議な現象です(相殿に三女神が祀られている)。しかし、それだからこそ逆に後世にできた作り話とは思われないのです。

 わたしは次のようなことを考えています。それは、天武が起こした壬申の乱を筑後の高良神を祀る勢力が支援したのではないかという仮説です。天武と高良山との関係については、拙論「『古事記』序文の壬申大乱」(『古代に真実を求めて』第9集)で論じましたので、御覧頂ければ幸いです。

 この甲良神社のことをわたしに教えてくれたのは、林俊彦さん(全国世話人、古田史学の会・東海代表)でしたが、その林さんが10月5日、脳溢血で亡くなられました。まだ55歳でした。古田史学の会・東海を横田さん(事務局次長、インターネット担当)と共に創立された功労者であり、先月の関西例会でも研究発表され、わたしと激しい論争をしたばかりでした。その時に、この甲良神社のことを教えていただいたのです。7日の告別式に参列しましたが、棺の中には古田先生の『「邪馬台国」はなかった』がお供えされており、それを見たとき、もう涙を止めることができませんでした。かけがえのない同志を失いました。合掌。


古賀達也氏が見たのは尼子1の甲良神社の方ですが、滋賀県犬上郡甲良町法養寺にももう一つの甲良神社があるのです。

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甲良神社 カーナビ検索 滋賀県甲良町法養寺


本殿は、流造(ながれづくり)で、檜皮葺(ひわだぶき)、蟇股(かえるまた)、組物(斗拱(ときょう))、木鼻(きばな)などの様式から江戸時代(16031868)初めごろの本殿建築の好例とされています。 境内には「町の木」であり、「湖国百選」に選ばれた高さ26メートル、750年以上の年を経た欅(けやき)があります。 木鼻:などが柱の外側に突出している部分で、この部分に繰形(くりがた)や彫刻をしています。                                        甲良町HP


以下は阿自岐神社です。

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カーナビ検索滋賀県犬上郡豊郷町安食西663 0749-35-2743


この神社に祀られているのは、アジスキタカヒコネの神阿自岐氏のことです。阿自岐氏はかなり高貴な百済系の渡来人で、この庭園づくりに、日本に漢字を伝えた王仁氏を招いたといわれています。それはなんと今から1500年も前の事ですから、まだ庭などなかっただけに、阿自岐庭園は古代豪族の憩いの場となっていたのでしょう。これは日本最古の庭園の一つともいえます。また、この地域が安食と呼ばれるルーツは、やはり阿自岐氏からきたと思われます。阿自岐氏が近江に来て美しい庭園を築き、心豊かに安らぐこの郷に住んだと聞いて訪れると遠く千数百年前、古代豪族の美の世界へロマンが広がります。

豊郷町HP

【延喜式神名帳】阿自岐神社 二座 近江国 犬上郡鎮座

【現社名】阿自岐神社

【住所】滋賀県犬上郡豊郷町安食西663

【祭神】味耜高彦根神

(配祀)道主貴神 天児屋根命 保食神 須佐之男命 天照大神 大物主神 応神天皇 宇迦之御魂神 大己貴命 猿田彦神 埴山姫神


もうひとつ思いつく地名対応があります。

 佐賀県東部〜筑後川左岸と琵琶湖の地名対応を考える時始めに頭に浮かぶのは前原と米原です。

 旧脊振村、旧三瀬村から北側の福岡県に下れば、現在糸島市となった前原町(旧前原市)こちらは「マエバル」と呼ばれていますが、伊吹山の麓、関ケ原の手前の東海道新幹線の米原駅の米原(滋賀県米原市米原)ですね。どう見ても近江にはこちらの人々が入っているとしか思えないのです。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 19:14| Comment(0) | 日記