2021年08月03日

662 “ピラミッドの法則”で肥後の11の神社が配置されている!   草部吉見神社 祭神編

662 “ピラミッドの法則”で肥後の11の神社が配置されている!   草部吉見神社 祭神編

20210701


太宰府地名研究会 古川 清久

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五年前の夏の大祭前日の写真 雨でぬれた30段の階段は注意が必要です


草部吉見神社の祭神についてはこの間何度となく書いてきましたので(2030本)、バック・ナンバーを読まれるべきですが、タイトルだけは、ひぼろぎ逍遥(跡宮)660番から検索して下さい。

 ひぼろぎ逍遥(跡宮)

660

“ピラミッドの法則”で肥後の11の神社が配置されている! D 阿蘇神社 祭神編

659

“ピラミッドの法則”で肥後の11の神社が配置されている! D 阿蘇神社 数理編


 ここではこの神社が何なのかについて別の側面から簡潔に申し述べておこうと思います。ご参考になれば幸いです。

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まず、同社の位置をご確認下さい。阿蘇外輪山南東側の丘陵から大峡谷に遮られる要害の地に草部吉見ことヒコヤイミミの本拠地があったのです。

北東は祖母、傾山山系の最大級の障壁に守られ、南には見るべき人口集積地もなく五ヶ瀬川の大峡谷によって守られる九州山地でも厳しい難攻不落の地だったのです。

 この地に雲南省麗江から海南島を経由し九州に進出した黎族の一派がいたのですが、その最も戦闘力を持った集団のリーダーがヒコヤイ(ハエ)ミミだったのです。

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彼ら(多氏、宇治氏、阿蘇氏)こそが、大陸で最期まで漢族…と最期まで闘い、それでも帰順しなかった栄えある一族だったのです。黎族は雲南省麗江から怒江(チンドウィン河)を降りホーチミンへ、白族は昆明から紅河(ファン河)を降りハノイへ…正面は海南島だったのです。

その彼らが列島に入り、現日本人のかなり割合で御先祖となっているのです。この両民族は、雲南省以来の盟友として列島の開拓に乗り出すのです。この一族こそ天御中主命=白山姫に象徴される刺国大神=白川伯王〜大幡主〜豊国主=豊玉彦=ヤタガラスの一族で、熊本から移動し博多を拠点に船による開拓に乗り出すのです。彼らは、一時的に高木大神の配下に入り、豊玉彦は長女豊秋津姫を妃とします。

 一方、阿蘇に拠点を得た黎族は、先住者でもあり高千穂(三田井)に拠点を置いていた高木大神=タカミムスビの傘下に入り、ヒコヤイミミは次女タクハタチジヒメを妃とします。話を元に戻すと、この日子八井命(ヒコヤイミミ)は実は彦山の正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミミコト)であり、阿蘇を弟の健磐龍に任せ、北に向かい東に進出するのです。

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これが後の藤原(多氏=宇治氏)氏になっているのです。

対して、阿蘇氏は養子として健磐龍の血を受け続けますが、この一族は高木大神の一族でしかなく阿蘇氏とは高木大神系の氏族なのです。いずれにせよ、阿蘇氏とは高木大神と手を組んで列島を支配する事になるのです。彼ら黎族の血は列島に住む者の最低でも二割はあるだろうと考えています。

 恐らく、阿蘇氏(黎族)と天御中主の一族(白族)を併せれば三割ぐらいにはなるのではないかと思うのです。

 前掲のグーグル・マップをご覧ください。大峡谷に挟まれているとは言え、草部と高千穂=三田井とが如何に近いかがお分かり頂けるはずで、この雲南省から入って来た生きのいい若者が高木大神に見初められた事はお分かりになると思うのです。このため、草部吉見は高木大神系の傘下に入った事から草部=伽耶(高木大神の本拠地新羅の大邱)部の吉見さんと呼ばれたのでした。

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麗江支那 手書きデータ 百嶋神社考古学初期03230121

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上)通信文(黎族)下)多大将軍と百嶋先生 手書きデータ 百嶋神社考古学初期05(不明)

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2011夏の大祭

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 22:15| Comment(0) | 日記

2021年08月01日

661 “ピラミッドの法則”で肥後の11の神社が配置されている!   草部吉見神社 数理編

661 “ピラミッドの法則”で肥後の11の神社が配置されている!   草部吉見神社 数理編

20210701

太宰府地名研究会 古川 清久


 田尻(宮司)想定“阿蘇の「炎のピラミッド」”を形成する11の神社群への再リポートを始めましたが、ようやく峠が見える所までやってきました。既に田尻研究に遭遇して7〜8年は経過しています。

思えば、祇園神社の境内を踏んだ折、たまたま宮司とお会いする機会を得て(偶然掃除をされていた時だったのです)、ご著書を手にしたのですが、最近になってようやく“阿蘇の「炎のピラミッド」”とは、阿蘇山を中心とした神社群の意味であって、大方の皆さんのご理解であろう阿蘇系神社群の話との理解は、やはり正しくはないとの思いを深めています。

 冒頭から阿蘇の神社群の基層に侵入する話になりましたが、おいおいお話していく事にしましょう。

自前でも良いのですが誤りが無いように敬愛する「玄松子」氏のサイトに従います。


式内社 肥後國阿蘇郡健磐龍命神社名神大  肥後國阿蘇郡阿蘇比盗_社肥後國一宮旧官幣大社
御祭神 以下の十二宮を祀る


無題.png一の神殿左手男神四柱

一宮 健磐龍命 

三宮 國龍明神 

五宮 彦御子明神 

七宮 新彦明神 

九宮 若彦明神


二の神殿右手、妃神四柱

二宮 比当セ神 

四宮 比東芬q明神 

六宮 若比当セ神 

八宮 新比当セ神 

十宮 彌比当セ神






これが良く知られた「阿蘇十二神」と言われるものです。

右が古川作成の阿蘇12神ですが、続柄がなければ誰の事なのか全く分からないと思います。

一応、私が理解できる範囲でどなたなのかを書いておきますが、無論、同社や関係神社から異論が提出される可能性は十分に考えられます。

しかし、誤りを恐れていれば全く解明が進みませんので、ご批判は覚悟のうえで少し掘り下げて見ようと思います。

百嶋神代系譜でこれを解明するには56枚の神代系譜を読み解かなければなりません。

何分困難な課題であってここでは作業仮説としてご理解いただきたいと思います。


一の宮 健磐龍命 

二の宮 健磐龍のお妃(実体は阿蘇氏の高木大神一族への入婿)=天豊ツ姫(別名阿蘇ツ姫)であり 草部吉見神(父神)と高木大神の次女栲幡千々姫(タクハタチヂヒメ)(母神)の間に産れたプリンセス

三の宮 草部吉見神(健磐龍命の腹違いの実兄)=別名:国龍命 藤原が格上げし第6代贈る孝昭天皇(天足彦国押人命)としているが 勿論、第4代威徳天皇の実子などではない

四の宮 三の宮=草部吉見神のお妃(実体は阿蘇氏の高木大神一族への入婿)であり 高木大神の次女栲幡千々姫(タクハタチヂヒメ)

五の宮 これがかなり際どいのですが阿蘇家が惟人を初代としている事から 当然にも健磐龍系と草部吉見系との両方の流れを汲む(当然にも高木大神系でもある)雨宮姫と天忍日(アメノオシヒ)の子惟人

六の宮 五の宮=阿蘇惟人のお妃(自信はないのですが産山村の乙宮の主祭神かその娘ではないでしょうか)これについては ひぼろぎ逍遥(跡宮)をお読み下さい

363

「ひぼろぎ逍遥」 阿蘇の乙姫とは何か? “産山村乙宮神社のお姫さま”再考


七の宮新(乳)彦=草部吉見と栲幡千々姫の間に産れた天忍日=興ツ彦であり阿蘇ツ姫の弟

八の宮 新(乳)姫=健磐龍(一の宮)と天豊ツ姫(二の宮)の間に産れた雨宮姫であり阿蘇家初代惟人の母神

九の宮これが最も分かり難いのですが、一応、日中咋としておきます 草部吉見神社の検討と併せ再考したいと思います

十の宮 三の宮=草部吉見と市杵島姫の間に産れた興ツ姫で七の宮=新(乳)彦のお妃彌姫

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百嶋由一郎神代系譜 005アイラツ姫系譜(部分)

百嶋由一郎氏が残された神代系譜、音声CD、手書きスキャニングDVDを必要な方は09062983254まで


このシリーズも研究会の活動が拡大し作文が中断し掲載も遅れていましたが、今回、再度新たに書き下ろし完了させる事にしました。11社ですので10本で6社を扱います。このためどこかで調整します。

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草部吉見神社 カーナビ検索 熊本県阿蘇郡高森町草部2715 пF 0967-64-0355

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何度も訪れている神社ですが、宮司は同社について図表は一枚しか書かれていません(部分的な重複掲載はありますが)。これだけの数値構造でも何故このような境内地を造る必要性があったのか?何故そうしなければならなかったのか?全く不思議でなりません。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2021年06月27日

820 「古事記」中つ巻 孝昭編 F “孝昭は阿蘇高森の草部吉見ことヒコヤイ(ハエ)ミミ”

820 「古事記」中つ巻  孝昭編 F “孝昭は阿蘇高森の草部吉見ことヒコヤイ(ハエ)ミミ”

20200409

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


「古事記の95%は嘘…」と言った百嶋神社考古学を後世に託そうと考える私達にとって、「古事記」の内容を真に受ける事が無い事は言うまでもないことです。

 「古事記」が藤原にとって都合が良いように改竄と言うより最初から創りでかしたものであり、我々からは、どのような意図で本来の正統皇統を捻じ曲げ、自らの先祖に当る第10代とした神武僭称贈る崇神を権威ある者として描こうとしたかを少しずつでも説明したと思います。

たまたま非常に分かり易い口語訳がネット上に有りますので、そちらの意図に反するものになるかも知れませんが、古代史、神代史を考える上で非常に重要な事ですのでご理解ご容赦を頂く事として、今回は「古事記をそのまま読む」というサイトから引用させて頂きます。

こちらも非常に感謝しております。当方は、神代〜古代に掛けて最も重要な部分を百嶋神社考古学としてはどのように考えるかをお知らせしたいと思うものです。 

今回取り上げるのは、これまた一般にはあまり知られていない第五代孝昭天皇 観松彦香殖稲天皇(ミマツヒコカエシネノスメラミコト)についての話です。

これも実に短い文章で、近畿大和朝廷の領域などには居なかった事、「古事記」の編纂者達も現場を知らないで(始めは知って隠していたのでしょうが、今や皆が忘れてしまっている)奈良に無理やりあてはめた事を物語っています。

実はこの孝昭天皇も皆さん良くご存じの草部吉見ことヒコヤイ(ハエ)ミミが、あたかも周王朝後裔呉太伯系の正統皇統かでもあるかの様にちゃっかりと天皇扱いにされているのです(勿論やったのは後の藤原ですが…)。

最低でも、日本はイザナミ、イザナギの時代以来、近畿大和から萬世一系の天皇を抱き存続してきた単一民族国家だなどという話が酷いフィクションでしかない事だけは明らかでしょう。

ただ、この草部吉見という人物は当時最も有力な集団の指導者であったのです。

それは、多くの氏族(民族)と姻戚関係を結んでいる事から十分に理解できるのです。

宗像の市杵島姫(大幡主系)、ナガスネヒコの妹オキツヨソタラシ姫(金山彦系)、辛国息長大姫大目命(大山祗系 実はアメノウズメで後に山幸彦=猿田彦=ニギハヤヒの正妃となる)、タクハタチチヒメ(高木大神の次女)…と言ったところですが、では、「古事記」で何故、ことさら朝敵金山彦の孫息子であるナガスネヒコの妹を正妃として描いたのでしょうか?残念ながら今のところ全く分かりません。

以下、による

御眞津日子訶惠志泥命坐葛城掖上宮治天下也 此天皇娶尾張連之祖奧津余曾之妹名余曾多本毘賣命生御子天押帶日子命大倭帶日子國押人命【二柱】故弟帶日子國忍人命者治天下也兄天押帶日子命者 【春日臣大宅臣粟田臣小野臣柿本臣壹比韋臣大坂臣阿那臣多紀臣羽栗臣知多臣牟邪臣都怒山臣伊勢飯高君壹師君近淡海國造之祖也】 天皇御年玖拾參御陵在掖上博多山上也 


御真津日子訶恵志泥(みまつひこかゑしね)の命(みこと)葛城掖上宮(かつらぎのわきがみのみや)に坐()し天下(あめのした)を治(をさ)めたまふ[]

此の天皇(すめらみこと)、尾張(をはり)の連(むらじ)()(みおや)奧津余曽(おきつよそ)()(いも)、名は余曽多本毘売(よそたほびめ)の命を娶(めあは)したまひ、生()れましし御子(みこ)、天押帯日子(あめおしたらしひこ)の命、次に大倭帯日子国押人(おほやまとたらしひこくにおしひと)の命【二柱(ふたはしら)なり。】

(かれ)、弟(おと)帯日子國忍人の命者()天下を治めたまふ[]

(あに)天押帯日子の命者() 【春日(かすが)の臣(おみ)、大宅(おほやけ)の臣、粟田(あはた)の臣、小野(をの)の臣、柿本(かきのもと)の臣、壹比韋(いちひゐ)の臣、大坂(おほさか)の臣、阿那(あな)の臣、多紀(たき)の臣、羽栗(はぐり)の臣、知多(ちた)の臣、牟邪(むさ)の臣、都怒山(つのやま)の臣、伊勢(いせ)の飯高(いひたか)の君、壹師(いちし)の君、近淡海(ちかつあふみ)の国造(くにのみやつこ)()(みおや)(なり)。】

天皇(すめらみこと)の御年(みとし)玖拾参歳(ここのそあまりみとせ)にて、御陵(みささき)は掖上(わきがみ)の博多(はかた、はかさは)の山上(やまのへ)に在り[] 


御真津日子訶恵志泥(みまつひこかえしね)の命(みこと)は葛城掖上宮(かつらぎのわきがみのみや)にいらっしゃり、天下を治められました。

 この天皇は、尾張の連(むらじ)の先祖、奧津余曽(おきつよそ)の妹、名は余曽多本毘売(よそたほびめ)の命を娶られ、 皇子、天押帯日子(あめおしたらしひこ)の命、次に大倭帯日子国押人(おほやまとたらしひこくにおしひと)の命【二柱の皇子】を生みなされました。

 そして、弟の帯日子国忍人の命は天下を治められました。

 兄の天押帯日子の命は、 春日(かすが)の臣(おみ)、大宅(おおやけ)の臣、粟田(あわた)の臣、小野(おの)の臣、柿本(かきのもと)の臣、壹比韋(いちひい)の臣、大坂(おおさか)の臣、阿那(あな)の臣、多紀(たき)の臣、羽栗(はぐり)の臣、知多(ちた)の臣、牟邪(むさ)の臣、都怒山(つのやま)の臣、伊勢(いせ)の飯高(いいたか)の君、壹師(いちし)の君、近淡海(ちかつおうみ)の国造(くにのみやつこ)の先祖です。】

 天皇は御年九十三歳、御陵(みささき)は掖上(わきがみ)の博多(はかた)の山の上にあります。  


まず、我々百嶋神社考古学の者は結果として結論を得ている事から草部吉見そのものであると理解できるのですが、一般に字面だけからは判別が付かないでしょう。ましてや、欠史8代架空説の方々はそもそもまともに調べてもおられないのですから全く見当が付かないことは言うまでもありません。

当然にも、文章だけを見ていてもこの贈る孝昭天皇が何者なのかは分かりません。

このため“余曾多本毘賣命生御子天押帶日子命次大倭帶日子國押人命”を考えましょう。


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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


余曾多本毘賣命はナガスネヒコ(スサノウと櫛稲田姫の子)の妹であるオキツヨソ足姫の事で良いでしょう。次に“天押帶日子命次大倭帶日子國押人命”から天押帶日子命と大倭帶日子國押人命ですが、天押帶日子命は「日本書紀」では天足彦国押人命、「古事記」では天押帯日子に当る人です。

この人物は百嶋神社考古学では草部吉見(ヒコヤイミミ)との間に産まれた天足彦なのです。

次の大倭帶日子國押人命はと言うと、これは割と知られていますので直ぐに分かります。

「古事記」では大倭帯日子国押人命「日本書紀」では日本足彦国押人天皇の事で平たく言えば、孝霊天皇の事なのです。


@ 神武 神日本磐余彦天皇(カンヤマトイワレヒコノスメラミコト)       九州王朝正統皇統

A 綏靖 神渟名川耳天皇(カンヌナカワミミノスメラミコト)            阿蘇系(黎族)

B 安寧 磯城津彦玉手看天皇(シキツヒコタマテミノスメラミコト)         大幡主(白族)

C 懿徳 大日本彦耜友天皇(オオヤマトヒコスキトモノスメラミコト)      九州王朝正統皇統

D 孝昭 観松彦香殖稲天皇(ミマツヒコカエシネノスメラミコト)          阿蘇系(黎族)

E 孝安 日本足彦国押人天皇(ヤマトタラシヒコクニオシヒトノスメラミコト) 玉名半阿蘇系(黎族)

F 孝霊 大日本根子彦太瓊天皇(オオヤマトネコヒコフトニノスメラミコト)   九州王朝正統皇統

G 孝元 大日本根子彦国牽天皇(オオヤマトネコヒコクニクルノスメラミコト)  九州王朝正統皇統

H 開化 稚日本根子彦大日日天皇(ワカヤマトネコヒコオオヒヒノスメラミコト) 九州王朝正統皇統

I 崇神 御間城入彦五十瓊殖天皇(ミマキイリビコイニエノスメラミコト)       黎族+白族

J 垂仁 活目入彦五十狭茅尊(イクメイリビコイサチノミコト)         宮崎生目神社主神

K 景行 大足彦忍代別天皇(オオタラシヒコオシロワケノスメラミコト)    玉名半阿蘇系(黎族)

L 成務 稚足彦天皇(ワカタラシヒコノスメラミコト)               素性系統不明

M 仲哀 足仲彦天皇(タラシナカツヒコノスメラミコト)            九州、山口に痕跡

N 応神 誉田別天皇(ホンダワケノスメラミコト)               宇佐素性系統不明

O 仁徳 大鷦鷯天皇(オホサザキノスメラミコト)               九州王朝正統皇統

※以下省略

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ただ、百嶋神社考古学では、天足彦は確かに贈る孝昭天皇(阿蘇高森の草部吉見)の子なのですが、大倭帶日子國押人命は、オキツヨソ足姫の子でもなければ、別の妃(伊勢の外宮)の言わば義理の孫程度の関係でしかないのです。

 百嶋先生が“「古事記」の95%は嘘だ…”と言った意味がだんだん見えて来たのではないでしょうか。


足と帯


 かなり知られた話ですが「古事記」には妙なフレーズが登場します。


“ニチゲ「日下」をクサカと謂ひ、名におきてタイ「帯」の字をタラシと謂ふ。かくの如き類は、本のまにまに改めず”


です。

「日下」「日下部」は草部の置換えで高木大神の本拠地である新羅(伽耶)の大邱を隠す事が目的だったのであり、国風化の意図があっての事だと考えるのですが、ここでは触れません。

ここでも、また、孝安、景行、成務、仲哀…とはっきり分かるように、「日本書紀」の「足」が「古事記」では「帯」と置き換えられています。

これも本物の初代神武に敵対したナガスネヒコの妹、オキツヨソ足姫の「足」を隠すための擬装と言えそうです。

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百嶋由一郎002百嶋系図(極秘)神代系譜


百嶋由一郎氏が残した神代系譜、講演録音声CD、手書きデータスキャニングDVDを必要な方は09062983254
posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記