太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2017年09月24日

379 須 久 

379 須 久 

20170401

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


ロシア、シベリアというよりも、ユーラシア大陸の北半に「ハバロフスク」「イルクーツク」「クルスク」など、語尾に「スク」「ツク」が付く地名が数多くあります。

「ツク」はイルクート川がある土地の名に、表現が正しいかは分かりませんが、「スク」というロシア語の語尾(ск)が付き、イルクートスク⇒イルクーツク(иркутск)という地名が成立したようです(ヤクーツクやオホーツクも同様です)。

ハバロフスクも、ハバロフという探検者の名前に因んで、始めは「ハバロフカ」と名付けられ、後に「ハバロフスク」に改名されています(хабаровск で、ハバーラフスク/日本ではハバロフスクと呼ばれています)。
 地名に「〜スカヤ」と付いているものも多いようですが、(ск)に地名に関係するなんらかの意味があることは言うまでもなさそうです。

以下はネット上の「MUSIC Q&A」からのものです。


この地名語尾は集落の規模によってある一定の法則があり、
市 город [ゴーラト] 男性名詞 〜スク 〜ск 男性名詞
町 посёлок [パショーラク] 男性名詞 〜スキー 〜ский 形容詞男性形
村 село [セロー] 中性名詞 〜スコエ 〜ское 形容詞中性形
小村 деревня [ヂレーヴニャ] 女性名詞 〜スカヤ となります。
例えば極東にあった村落「ハバロフカ」が発展とともに「ハバロフスキー」「ハバロフスク」と名称を変えていったことや、サハリン州にあった「レソゴルスク市」が「レソゴルスコエ村」に格下げとなったことにも見受けられます。
 もちろん例外もつき物で、「村」にも拘らず「〜スク」といった村落名も存在します。これなどは、
 1・もともと都市並みの規模だったが、衰退した。

2・都市にすべく開発が進められたが、叶わなかったといったドラマが邪推できそうです。人口増えると、女の子から男に変身するのか…


このскを「柵」(サク)=城柵ではないか、つまり、ロシア語の「スク」(ск)そのものも「柵」であり、この砦から発展した城塞都市だと思うのですが、思考の冒険を許されるとすれば、日本語の柵(サク)さえも、結果的にロシア語として結晶した古代北方ユーラシア語(このような表現が許されればですが)の「スク」(ск)が起源ではないかとまで考えてしまうのです。

してみると、ペトロパブロフスク、ハバロフスク、ノボシビルスク、ベルホヤンスク、アルハンゲリスク、ブラゴベシチェンスク(中国語表記では黒河)、スベルドルフスク、ヤクーツク、イルクーツク、これは自信がありませんがウラジオストークも、タイガに生えた針葉樹でこさえた木の砦(柵)から発達した城塞都市であり、ユーラシア大陸全域に広く分布する「スク」、「ツク」地名であると考えています。

さらに、このスク、ツク地名が日本列島にも持ち込まれているのではないかと思っているのですが、もちろん、持ち込んだのは百済、新羅、高句麗といった渡来系民族が考えられそうです。しかし、それだけにこだわるのは不十分で、それらよりかなり前に入ってきた民族によってもたらされたことも考えておく必要があるでしょう(広義の騎馬民族説)。

これが、「騎馬民族国家論」と無関係でないことは当然ですが、他にも思い当たることがあります。

それは、北部九州の非常に重要な遺跡のあるある種の土地に関わる地名です。

まず、始めに思いつくのは福岡県春日市の春日丘陵に分布する「須玖岡本」「須久永田」「須久五反田」「須久坂本」という遺跡群の「須久」であり、小郡市の三国丘陵にある古墳時代前期とされる津古生掛(ツコショウガケ)古墳で知られ前方後円墳4基が分布する津古古墳群のある「津古」という地名です。

これらが、大陸の「スク」「ツク」地名が列島へ持ち込まれたことにより派生した地名、「スク」「スコ」「ツク」「ツコ」(もしかしたら、「スハ」「クス」「グス」も)の一つであるということは十分に考えられそうです。

以前から、渡来系民族が組織的に入ってきたのではないかと考えてきた土地の神社には決まって流鏑馬(佐賀平野では馬駆けと呼びますが)が行われています。

一般には源氏、平氏との関係でしか問題にされませんが、実は彼らこそ、秦氏、百済、新羅、高句麗、伽耶…といった渡来系民族の末裔だったはずなのです。

中でも、北部九州には須賀(北九州市小倉北区須賀町)、管(福岡県宮若市鶴田菅町)、須古(佐賀県白石町須古)、(長崎県大村市寿古町=旧寿古郷)、須子(熊本県天草市有明町須子)、佐嘉(佐賀県佐賀市)といった地名が散見されます。この管、須古…といったものこそ「スク」地名の典型ではないかと考えているのです。

佐賀の「サカ」を取り上げたのは、「スキタイ」は中国では「塞」(サカ)とされ、ギリシャ(ヘロドトス)で「スキタイ」とされていることからです。

さらに思考の冒険を許されれば、菅原道真や武内宿祢も渡来系であることはまず間違いがないはずで、菅原の「菅」も宿祢の「宿」も、さらには、古代官道から江戸時代の街道に置かれた宿場町の「宿」さえもそうしたスク地名、砦、砦柵から派生した言葉、「スク」そのものの残影という事にもなりそうです(西区今宿が該当するかは不明ですが)。

先に「日本語の柵(サク)さえも後にロシア語になったと思われるユーラシア語の「スク」(ск)が起源ではないかとまで考えてしまうのです」としましたが、「サク」がそもそも日本語ではないのです。まず、「柵」は漢音でしかなく言わば中国からもたらされた外来語であり、直接的に対応する和語(訓読み)はないのです。あえて言えば、「マセ」や「シガラミ」がぎりぎり該当するのかもしれません。

二十五年ほど前に二メートルの積雪の中で入ったこともあるのですが、新潟県の旧能生町に「柵口」と書き「マセグチ」と読む柵口温泉があります。

実は本稿のエッセンスも、動機もそれが基になっているのです。

また、渡来系氏族(秦氏)が大量に入ったといわれる信州、甲州には、佐久(サク)や諏訪(スハ)がありますよね。そもそも、信州とは「秦」州であるからこそ、甲州騎馬軍団の拠点になったのかも知れません。

と、ここまで書いて、ネット検索を続けていると、ニジェガロー・ドヴォールという人物による「ロシアの都市名に関しての一考察」というサイトに遭遇しました。

まずは、当たらずとも遠からずと言ったところでしたが、スクが柵を意味し、須久岡本の「スク」がロシア語の「スク」が起源であるかは依然として闇の中です。


ロシアの都市名に関しての一考察


ロシア語の地名といったものは、われわれ日本人には一般に馴染みが無く、一度聞いてもすぐには覚えられないようなものが多いように感じます。
例えば、カムチャツカ州の州都で軍港都市としても有名な「ペトロパヴロフスク=カムチャツキ-」と言う、長くて舌を噛みそうな都市名があります。しかし、この都市名は「ペトロ」+「パヴロ」+「フスク」+「カムチャツキ-」と分解して考えることが出来ます。
この都市名の由来は、1740年にカムチャツカ半島からアリューシャン列島一帯を探検航海したベーリング氏の麾下の「聖ピョートル号」と、チリコフ麾下の僚船「聖パーヴェル号」が半島東岸にある良港アヴァチャ湾に停泊し、ここを北太平洋方面の探検の根拠地として「ペトロパヴロフスク」と命名したことに因ります。「ペトロ」は「ピョートル」の、「パヴロ」は「パーヴェル」の短縮形で、それにロシアの都市名語尾として一般的な「フ+スク」を合わせ命名したことが伺えます。ただ、「ペトロパヴロフスク」という地名はロシアでは他にもあり、それらとの混同を避けるために1924年に「カムチャツカ」の形容詞形である「カムチャツキー」を付け、「カムチャツカのペトロパヴロフスク」とし、現在の都市名となりました。

さて、前置きが長くなりましたが、そういったことを踏まえて、ロシアの都市名について見ていきましょう。

*         【地名語尾 〜スク】

*        
先ず目に付くのは、「アンガルスク Ангарск」とか「ウスリースク Уссурийск」等に見受けられる「〜スク ск」の語尾を持つ都市名でしょう。「イルクーツク Иркутск」、「オホーツク Охотск」もこれに当たります。
「〜スク」は「〜スキー」と同じく地名語尾で、だいたい「〜の街」ぐらいの意味です。
この地名語尾は集落の規模によってある一定の法則があり、それはロシア語の品詞(名詞と形容詞)と密接な関係があります。(下表参考)


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このことは、例えば極東にあった村落「ハバロフカ」が発展とともに「ハバロフスキー」「ハバロフスク」と名称を変えていったことや、サハリン州にあった「レソゴルスク市」が「レソゴルスコエ村」に格下げとなったことにも見受けられます。
もちろん例外もつき物で、「村」にも拘らず「〜スク」といった村落名も存在します。これなどは、
 
1・もともと都市並みの規模だったが、衰退した。
 
2・都市にすべく開発が進められたが、叶わなかった
といったドラマが邪推できそうです。

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*         さて、冒頭に挙げた4市に共通するものは「〜スク」が、河川名に付いたもの  で、付近に「アンガラ」「ウスリー」「イルクート」「オホート」といった河川があり、「アンガルスク」だと「アンガラ河畔の街」といった意味です。「ウスリースク」はウスリー川本筋からはかなり離れており、「ウスリー地方の街」といったところでしょうか。もちろん「〜スク」が付くものは、河川名に限らず、地域名、島名、山脈名、海洋名や地形を表す名詞にも付けられています。
 
またよく見られる、「〜ゴルスク 
горск」「〜レチェンスク реченск」「〜モルスク морск」「〜オジョルスク озёрск」「〜ザボーツク заводск」は、それぞれ「山 гораの街」、「川 рекаの街」、「海 мореの街」、「湖 озераの街」、「工場 заводの街」を表します。


これで、ロシア語の「スク」「ツク」が語尾として都市名になることは、だいたい見当が付きました。

「スク」「スコ」「サク」「サコ」「ツク」「ツコ」を調べていると、次のサイトに出くわしました。


佐久の柵に桜咲くnewport886.exblog.jp

佐久という地名の語源2005 11 17


佐久という地名の語源はいろいろな説があるが、通説はないようだ。
下記のように神話に使われていることから、恐らく「佐久」は「開」(さく)と同じ意味で、咲く・割く・裂くに通じる古い言葉なのだろうと思う。
 このはなのさくや
びめ【木花開耶姫・木花之佐久夜毘売】大山祇神(おおやまつみのかみ)の娘。磐長姫(いわながひめ)の妹。美しい容姿を天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に好まれてその妃となり、火酢芹命(ほのすせりのみこと)、火明命(ほのあかりのみこと)、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)を生む。神吾田鹿葦津姫(かんあたかしつひめ)。神阿多都比売(かんあたつひめ)。(Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban (Revised edition) Shogakukan 1988/国語大辞典(新装版)ゥ小学館 1988)
 東北日本に住んでいた蝦夷(エミシ、アイヌ、縄文系日本人、まつろわぬものども)を弥生系日本人が「退治」したことが、中央の歴史(支配者側の公的な歴史)に留められているが、そのときの前進基地である砦を、「柵」といい、そこから佐久となったのではないかという推測が述べられているが、少々後世の「かねざわのき(かねざは
)【金沢柵】」後三年の役の時、出羽の豪族清原氏が拠った城柵。秋田県横手市金沢にあったとされる。かなざわのき。(Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban (Revised edition) Shogakukan 1988/国語大辞典(新装版)ゥ小学館 1988)は、柵を「き」と読ませていることから、柵=佐久説は弱いのではなかろうか?
(半可通の知識の羅列なので、この項も今後考察を深めていきたい)-----
 なお、ヤマトタケルの熊襲退治の神話にもあるように、縄文系日本人は九州地方でも勢力を張っていたのだろう。現在、沖縄県に以前から住む人々と北海道のアイヌの人々の遺伝の調査によると、非常に近しいということだから、佐久も含まれる中央高地でも繁栄した縄文系日本人が次第に中央部に勢力を張った弥生系の人々に周縁部に追いやられたのだろう。


ここでは、佐久を「柵」と関連付けて考えられることの例としてあげましたが、次は、我々の競争相手のサイトになります。これが、今の地名研究の通説というところでしょう。


No19 19947月発行 秋田地名研究会

朝鮮古代語に村(スキ)があるそうである。六六三年に百済・倭の連合軍が新羅・唐の連合軍に大敗した白村江(ハクスキエ)の村(スキ)はその代表的な例である。そのほか古代の姓(カバネ)の一つである村主(スクリ)も古代朝鮮語だそうである。
 村(スキ、スカ)は変化して須賀、周賀、修家、須可、素賀、須我などとも記されている。
 スキ、スク、スカ、スガは村を表す言葉であるから当然地名としても用いられた。
 加須賀(春日)阿須賀(飛鳥)などである。
 朝鮮から当時の日本へ、進んだ産業技術と文化を持って渡来した職業人たちの住んだ所が、「アのスガ」「カのスガ」という村名になって「あすか、かすが」が生ま
れ、「春日(はるひ)のかすが」から春日(かすが)が生まれ、「飛ぶ鳥のあすか」から飛鳥(あすか)が、それぞれ奈良に生まれた。


先人の本居宣長先生も「スク」を取り上げられていました。


「地名字音轉用例」  本居宣長


 サノ行(リ)ノ音同(シ)行(リ)通用セル例
○しだら 設樂(三郡)志太良《シダラ》 設《セツ》ヲシダニ用ヒタリ、(ツノ韻ヲタニ轉用セル例ハ上ニ出) 
○あすかべ 安宿(河郡)安須加倍《アスカベ》(クノ韻ヲ轉用シタル例ハ上ニ出) 
○すくゝ 宿久(津郷) 神名帳ニ須久々《スクヽ》(ノ)神社トアル地ナリ、(和名抄本ニ久(ノ)字ヲ人ニ誤レリ) コレラハ宿《シユク》ノシユヲ直音ニシタルナレバ、(宿祢《スクネ》宿世《スクセ》ナドモ同ジ)通用ニハ非レドモ、姑(ク)擧ツ、


最近とみに目立つようになっている明治以来の日ユ同祖論、いわゆるユダヤ・イスラエル論者も飛鳥を取り上げられていました。


古代の日本人はヘブライ語を話した?

2010-05-20 09:59:09 lightanjelの投稿 テーマ:秦氏の謎


古代の日本にヘブライ語を理解する人々がいたのか?
 古代の文献や、古事記、日本書紀にはヘブライ語に意味も発音も良く似ているように思われる言葉が多く出てくる。
たとえば神武天皇は、地域のリーダーに「県主(アガタ・ヌシ)」という称号を与えた。
へブル語でも、「アグダ」と言えば「集団」の意味であり、「ナシ」と言えば「長」の意味である。
 天皇を意味する「帝(ミカド)」は、ヘブライ語で高貴なおかたを意味する「ミガドル」に似ている。
 また天皇や神々は、「ミコト」という尊称をつけて呼ばれているが、ヘブライ語では「マークート」と言えば、「王国」や「王」の意味である。
古事記や日本書紀で、天皇はみな「スメラ・ミコト」と呼ばれているが、日本語としては意味がないのであるが、「サマリアの王(北イスラムの王)」を意味するヘブライ語「シェムロン・マークート」によく似ている。
 神道の神官のことを日本では昔から「禰宜(ネギ)」というが、ヘブライ語では「ナギッド」と言えば、「長・つかさ」を意味する。
また、イスラエルの地の古名「カナン」は、ヘブライ語で「カナ・ネー」=「葦・原」という言葉の合成語であり、そのために日本人の祖先は日本を「葦原」の国と呼んだと考える研究家もいる。
 古代地名である「飛鳥、明日香(アスカ)」の名は、「幕屋(まくや)」を意味するヘブライ語「ハスカ」に似ている。古代、アスカには天皇の宮が置かれた。
「アスカ」の語源は、「ア」が接頭語で「スカ」は住居の意味だとする日本人学者もいる。ヘブライ語の「ハスカ」も、「ハ」は接頭語であり、「スカ」は住居、幕屋、仮庵を意味する言葉なのである。


仮説は成立するか


ざっと見渡してきました。予想されたことで当然ではありますが、ネット上には、須久岡本遺跡の須久地名などをロシアの「スク」地名と関連付けて考えておられる方はおられないようです。だからこそ、書く価値があるとも言えますが、出雲神話に登場する「スクナヒコナノミコト」の「スクナ」や武内宿祢の「スクネ」もいずれも渡来人ではあるはずで、「スク」と無関係とは思えなくなってきました。まさに、スクナヒコナノミコトもタケノウチノスクネも城柵都市(スク)の中にいた男だったように思えてきます。

さて、飛鳥まで広げると、既に太宰府地名研究会で取り上げている小郡の「飛鳥」地名はもとより、現朝倉市の「朝倉」、糸島半島、現福岡市の「桜井」、千葉県佐倉市の佐倉、長野県佐久市の「佐久」…他にも佐久間、須賀、菅原、そして諏訪も(後述)…も念頭に置いて考える価値出てきたのではないかと思うようになってきました。


ここで少し整理をしておきたいと思います。

@   ユーラシア大陸北半の西から東まで広がるロシア語の「スク」(ск)地名が日本列島まで広がっているのではないか。

A   その分布をもたらした物理的基礎はステップ・ロードであり、そこを移動し地名の持ち込みを担うことが出来た人々として、古くはスキタイ、トルコ系、モンゴル、ツングース系…の遊牧民、騎馬民族がいたこと。

B   糸島半島は桜井の「サク」、春日市、須久岡本遺跡の「スク」、小郡市、津古升掛古墳の「ツコ」、朝倉市の「アサクラ」(「ラ」はカラ、アラ、タラの「ラ」で国や都市を意味する末辞)、今なお流鏑馬を続ける妻山神社を抱く佐賀県白石町須子の「スコ」など、渡来系氏族がなだれ込んだと思われる領域に、「スク」(ск)地名が認められること。

C   須久、津古、須古、須子、寿古…と、地名の意味が全く意味不明であること。

D   既に和語のような扱いを得ているほどの「柵」(サク)が実は漢音でしかなく、基本的には外来語であること。

E   日本語の「柵」と柵から発展したロシア語の「スク」(ск)が砦、都市、城塞都市の意味を持っていること。

F   吉野ヶ里のような渡来系としか考えられない環濠集落も城柵で囲われていたこと。

G   朝鮮半島では「スキ」が村(都市の原型)の意味でつかわれていたこと。

H  「白江戦」「白村江の戦い」とされる「村」が日本でも「スキ」として理解され使用されていること。

I   他に有力な説がほとんどないこと。


以上のことから、現段階の作業仮説としては十分に成立するのではないかと考えています。


「スハ」地名も「スク」地名のバリエーションの一つではないかとしていました。

これについては、かつて久留米地名研究会の永井正範(たつの市)の「洞の海」という発表において明らかにされたH音、K音の入れ替わり現象(K音を多用する人々が在来の、と言っても古い時代に列島に入ってきた渡来人で、H音を使う人々が後から入ってきた渡来人ではないかと考えていますが、まだ、列島への民族の流入とどのような関係になっているのかについては良く分かりません)が顕著であることから、それに従えば、「スハ」(転じてスワ)も「スカ」「スガ」に当たることから、諏訪野町がある久留米市もそれに倣うと「スク」地名の一つと考えられるのです。

いずれにせよ「スク」「スカ」「サカ」「ツク」「ビア」「ニア」「リア」「シア」「シャ」「ラ」といった土地の名の語尾に着くものへの興味は尽きません。

日本では普通に「ジンギスカン」と呼びますが、中国では「チンギスハン」であり、韓国語は「ハングル」としか言いません。このようにH音とK音は日本語においても、対外国語においても置き換わっているものが非常に多いのです。

これについては、永井論文(音声CD)を参考にしてください。

以前は、「スハ」「スワ」を火山、温泉との関係でばかり考えていましたが(これも可能性があるのです)、現在、これに大幅な修正を加えています。

最後に渡来系氏族が持ち込んだと思われる「流鏑馬」の行事がどこに色濃く分布しているかを列挙しておきます。


半島からの渡来人がもたらしたと思われる北部九州の主な流鏑馬行事(順不同)

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「スク」はツングース系の地名か


ネット上に明確に「スク」地名が列島に持ち込まれたとするものがない中、200012月に佐賀新聞社から出された「佐賀筑後難読地名さんぽ」石橋道秀(著)があります。これは同種の本の続編でしたが、その最後の第四章“要塞を表す語素とGm型遺伝子について”として「スク」地名」について詳細な分析が行なわれています。

前著も含め、佐賀県や福岡県筑後地方にある難読地名の語源を古代朝鮮語や現代韓国語に通じる言葉との関係で捉えた労作です。

無題.png石橋氏は、この「スク」地名を明確に大陸との関係で書かれていますので是非お読み頂きたいと思います。

確か、「スク」をツングース系のものとされていたと記憶しています。

実は、久留米地名研究会が発足した当時、石橋氏にも講演も含めてお誘いしたことがありましたが、お返事を頂けなかったことが残念でなりません。

ツングース系言語と言いましても漠然としていますが、ロシアは九世紀のノブゴロド公国、十世紀のキエフ公国、十三世紀のモンゴルの支配を経て、十七世紀以降のロマノウ王朝の繁栄を迎えます。

特に、ピョートル大帝の時期に拡大期を迎え、バルト海からウラジオストックに至る大帝国に発展します。

従って、ヨーロッパ系のスラブ人が使っていた地名(言語)ではなく、先住民としての、スキタイやツングース系諸族などにより、共通の認識で広く使用されていた地名(言語)を急速に取り込んだものと考えるべきでしょう(アラスカもツングースの「スカ」かも)。

これについては、既にロシアにおいて研究が行われているものと思われますが、具体的なものとしては知識を持ちません。

ツングースも元々は中国の「東胡子」の英語読みであり、日本風に言えば、東方に住む「コス」小さな蛮族人といった意味になりそうです。


  本稿は8年ほど前に太宰府地名研究会向けに書いたもので、神社専門チャンネルのひぼろぎ逍遥(跡宮)には掲載しないタイプの話ですが、編集を加えずそのまま公開するものです。


posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 06:55| Comment(0) | 日記

2017年09月23日

378 伊佐市で「柴刺」(シバサシ)に遭遇した

378 伊佐市で「柴刺」(シバサシ)に遭遇した

20170330

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


以前、スポット68 「柴刺」(シバサシ)を書きましたが、これまで何度か遭遇した柴刺神事らしきものを鹿児島県伊佐市の一角で見掛けましたので報告したいと思います。

これについては、百嶋神代史研究会(仮称)グループの一員でもある スピリチュアルヒーラー宮古の縁側日記 の宮古女史によっても「柴刺(しばさし)古代の祭儀」として小論を公開されています。

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そうした中、鹿児島県伊佐市の外延部で柴刺神事の痕跡と思えるものを見掛けましたので、記憶に留めておきたいと書き留める事にしました。

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詳しい住所は分かりませんが、「布計」(フケ)集落への入口と言った伊佐市大口山野です


憧れの「布計」(フケ)集落を見たいと雨上がりの野辺の道を進んでいると、左手に手入れの行き届いた神社に遭遇しました。

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無格社八幡神社との事ですが、八幡の神は片鱗もありません


 国玉神という神様は数も少なくあまりはっきりしていませんが、恐らく大国主命か大幡主もしくはヤタガラスのいずれかで、彦火火出見尊、豊玉比売命は明治期に追加改変されたものと想像してしまいます。

「八幡の神は片鱗もありません」とはしましたが、実は、詳しく読んで頂くと三十六歌仙扁額についての記述に山野村の「正八幡」が出て来ます。

「正八幡」とは宇佐八幡宮以前の本当の八幡の意味であり、表向きはどうであれ、実際には博多の櫛田神社の大幡主を祀る神社であり、その大幡主の子が豊玉彦(ヤタガラス)となる訳です。だから「玉」が付されているのです。

大体、宇佐神宮から最も遠い場所に無格社として八幡宮が置かれている事がおかしいのです。

 この際、今回のテーマは祭神ではないためどうでも良いとして、この神社の一角に「柴刺」神事の名残と思えるものに遭遇しました。

 馬場紀美史(宇佐神宮福岡出張所長)が書かれた「柴刺」の販促用襷には、以下のように書かれていました。


 …「柴刺」「柱立」は律令国家の誕生後、大きく変化していく。「柴刺」に限って言えば、祭場を修祓するための、或いは禁足境界を標示するための、つまり柳田國男が指摘する「忌刺」(斎刺)として変化していったのである。従ってこのような基本的誤謬が現在、「柴刺」イコール「注連張」の通念を生み出すに至ったものと考えられる。

 しかし何度も言うように「柴刺」は霊を虚空へ送りあげるための祭儀であり、決して注連を張るのと同義ではなかったものである。神―すなわち祖霊の還天と来臨が柴刺そのものであった事を理解する必要があるであろう。(本文より)


 一応、入門者の当方としては、「注連縄」による結界以前の聖域の表現と理解しておきます。

 この柴刺との遭遇については、熊本県芦北町を始めとして、これまでにも過去何回かありました。

 やはり、その多くが古い集落といった場所で、後しばらくの間はこの古い儀礼に遭遇する機会はあるものと考えています。以下はスポット68 「柴刺」(シバサシ)の一部です。


では、「柴刺」とは何でしょうか? 実は中国の少数民族の一つ彝(イ)族の儀礼でもあるのです。

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勿論、祭礼、葬礼などに於いて、色々な枝を刺すという儀礼、神礼の事なのです。

今でも茨城県では一部に残っているとも聴きますし、これに似たものを熊本県の葦北郡でも見たことがあり、列島にはどのような人々が入ってきたかを考える上で、重要な示唆を与えてくれるものとなっています。

…最後になりますが、“倭人とは何か“を考える時、「ワ」人と読むのではなく、「ウィ」もしくは「イ」=「ヰ」であるとすれば、この民族も列島に入って来ていたのではないかと思うのです。

それが「常陸国風土記」に出てくる武甕槌=鹿島大神による“同族だまし討ち”征服を思わせるのです。

その意味で同書の458pも我田引水的ですがご紹介しておきます。

雲南省麗江からの新興亡命者であった阿蘇氏に征服された先住者も広義の九黎族の一つだったはずなのです。だからこそ常陸の国の先住者は、歌や音色に魅かれて油断した所をだまし討ちされたのです。


彝(イ)族の儀礼が残っているから伊佐という地名になっているのではとまでは思いませんが、彝(イ)族と混住していた黎族が鹿児島に入っている事には疑いを持ってはいません。

 指宿に「今給黎」姓が集中し「喜入町」があり「嘉例川」といった地名があることは大陸から黎族(分かり易く言えば阿蘇氏のこと)が入って来ている痕跡と考えている事はこれまでにも何度か触れています。

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無題.pngこれは馬場先生が「柴刺」の409pに挿入されていた雲南省の地図で、  が彝(イ)族の居住領域です。

これを見ると、雲南省麗江を主要な居住地としていた黎族(阿蘇氏)とも白族(豊玉彦=ヤタガラス、大幡主の御先祖)の領域であった昆明とも重なる事から、大口辺りに彝(イ)族が入っていても一向におかしくはないと思うのです。

 写真は神社の正面の風景ですが、古代には雲南省のような山上楽園だったように思えるのです。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:30| Comment(0) | 日記

2017年09月19日

377 六所神社の衝撃 “飛形山山上に隠された屋敷神”

377 六所神社の衝撃 “飛形山山上に隠された屋敷神”

20170330

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


 これも325日のトレッキングで廻った一社です。

 一般的に地域性に根差した地名+神社という地名を冠した神社は地域名の大小だけからだけでもその神社の性格が見て取れますし、○○神社と神名を正面に出した神社はより強い主張を見せています。

これに対して三柱神社とか五所神社といった表記の神社は、祭神を確認するまでは一体如何なる神社なのかを確認できるまではそれだけでロマンを掻き立てますが、何の由緒もない場合は顔のない神社として不気味さを受け取ってしまいます。

このため、後者の場合は敬遠したいと思う事も多々あります。

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社務所の駐車場に置かれた同社縁起前でたまたまおいでになった宮司からお話をお聴きしました


六所宮の祭神について、宮司は“行数が不足していて遺漏がある”と言われていました。

由緒書では忍穂耳命、健磐龍命、大国主命、伊邪那美尊、大山咋命、軒隅突命の6柱とされています。

しかし、「福岡県神社誌」中巻(294p)によれば、罔象女(ミズハノメ)、菅原神、崇徳天皇の3柱が加わえられています。

これは明治以降合祀されたもので、由緒は元の祭神に戻したものと考えられます。

ただ、境内には稲荷神社と祇園神社が摂社として置かれており、本来の6社としてもバランスが悪く、元々はスサノウ系、大幡主系の神社であったもところに忍穂耳命、健磐龍命が加えられたと言った印象を持ちます。

そう考える理由は、本当の親神と思われる山上の飛形神宮 六所宮世襲神主 宮司が筆頭に書かれ、以下、とんでもないことが書かれているからでした。

まず、玉垂宮が高皇産霊大神=高木大神ではないことは明らかですが、住吉宮は初代住吉=ウガヤフキアエズが反映されている可能性があり、春日宮も本来の春日様=草部吉見を入婿としたアメノウヅメこと豊受大神の母君つまり罔象女(スサノウのお妃でもある)が反映されている可能性があり、どうも九州王朝成立前後の古層の神々が閉じ込められていたように見えるのです。


表ノ神  玉垂宮(高皇産霊大神)、住吉宮、春日宮

裏ノ神  久麻大神、筑紫の君磐井とその祖神一系、八女津媛命


今のところ只のカンのようなものですが、どうもこの神社は、山上の神体山と思われる飛形に本来の神々を宮司家の屋敷神として守ってきた形跡があり、じっくり調べてみる価値がありそうです。

最低でも、この飛形神社の解析ができれば、これまで謎であった磐井の一族というものがどのような氏族であったのかについての見当が付けられそうな気がするのです。

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実は、「福岡県神社誌」に飛形神宮は一切出て来ません。これが、山上に置かれた秘密の屋敷神=禁じられ、隠された宮司家一族の神社(屋敷神)と考えた理由です。

 このためこの神社の解読は時間を掛けて行わなければなりません。

 ここでは、社殿を見て頂くだけにして、以後、宮司にもっと詳しいお話をお聴きするなり、他資料に当たるなりして調査を行い判断する必要があると思います。

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どうも神殿内の神体は11柱のようで、合祀された3柱に神社誌に沿えば稲荷と祇園で数は合うのですが

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 11:31| Comment(0) | 日記