2022年08月03日

902 筑豊から消された諏訪神社 @ “福岡県添田町諏訪神社の由緒には大国主はこの地で開拓したと”

902 筑豊から消された諏訪神社 @ “福岡県添田町諏訪神社の由緒には大国主はこの地で開拓したと”

20210811


太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 現在、筑豊でも彦山の北麓に鎮座する筑豊で唯一と言っても良い諏訪神社(添田町)と彦山南麓(旧朝倉郡:甘木+朝倉+杷木…)に於ける60社近い田神社の無格社への格下げ(ここでも一社が村社として残されている)事実上の消失との奇妙な付合を考えています。

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この図面は福岡県 諏訪神社 をグーグルで検索し表示させたものです。

一見すると福岡県を万遍なくカバーしている様に見えますが、大きな空白がある事に気付きませんか?

 青枠のエリアがその空白地帯なのです。

 その中心部にあるのが添田町の諏訪神社ですが、この一社を外せば完全な空白地帯が出現するのです。

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この事に気付いたのはつい最近でした。初めて参拝したのは10年近く前の事でしたので、やはり経験を積まないとこういうことは分からないものなのでしょう。

 ともあれ、この一帯には大国主命の臣下として(決して次男などではないのです)国土の開発に尽力した建御名方系の人々がいたはずなのです。

彼らは大国主命国命の譲りの結果、肥前や(長崎供日の諏訪大社は元より佐賀県も諏訪神社が多い所です)日向に逃げ(特に鹿児島県は南方神社が異常に集中しているのです 勿論、諏訪神社もあり知り合いの宮司もおられます)たように見えるのです。

 ただ、神話では信州諏訪の四つの諏訪社があまりにも有名で、諏訪から出ない事を条件に許されたなどとされているのです。

 これは、一部この一帯に逃れた人々が居た(建御名方もそうかも知れません)事は間違いがないと思うのですが、大半の民衆は陸路で逃げる範囲に逃げるしかなかったのです。

 故)百嶋由一郎氏も彼らは球磨川以南に逃げたと言われていました。


無題.png朝倉市甘木草水の村社は、表向きには「菅原神」を主神としているようですが、社名が「田神社」、境内社として五穀神社(埴安命)とあります。このため、元は主神として田神社(埴安命)が祀られていたことが丸分かりになっています。

大幡主の妹は埴安姫ですから、埴安命とは大幡主以外は考えようがありません。

ここでも故)百嶋由一郎氏の説の正しさが証明されつつあるようです。

九州の現場には、まだまだこのような驚愕すべき事実が痕跡を留めているのです。

藤原が捏造した「古事記」「日本書紀」をそのまま鵜呑みにする方々には決して見えてこない事実です。

文献、フィールド、考古学、神社、海外史書…とバランスの取れた研究が必要であることが分かります。

中でも戦前の反省とかから徹底して無視されているのが神社研究なのです。

ひぼろぎ逍遥 スポット 041(前) 6.26 甘木朝倉「田神社探訪トレッキング」での驚愕すべき発見! @

 私は県神社誌で村社と書かれていましたので、一社を除き…としたのですが、甘木の「美風庵だより」氏によるとこれも無格社とのことで、現在確認作業をしています。地元の方ですので間違いはないとおもいますので、愕然としています。この草水の村社田神社は美風庵だより氏が言われるものとは違うのかも知れません。

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現地で鳥居の扁額を眺めると、「天満宮」です。どうやらここも、この周辺の神社同様、あとで菅公を勧請して「天満宮」に衣替えしているようです。おそらく、埴安命(大幡主)の記憶が薄れ、有名な菅公を前面に出すようにしたのでしょう。周囲には無題.png石仏や観音様を安置した御堂が建ち並んでおり、神仏が併せ祀られているかのような雰囲気です。[福岡県神社誌(抄)] 下巻413頁

[社名(御祭神)]田神社(埴安命)[社格]無格社 [住所]朝倉郡蜷城村大字鵜木字屋敷 [境内社(御祭神)]記載なし


 ともあれ、当方は ひぼろぎ逍遥 スポット 041(前) 6.26 甘木朝倉「田神社探訪トレッキング」での驚愕すべき発見! @ で書いたように、残党の管理のために一社は残すのが定策と考えたとすれば、正しく添田の中元寺の諏訪神社もそのような性格を帯びた一社だったのではないかと考えているのです。

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当神社は大和時代前期与利より古事記に散見須留する豊前、豊後、筑前三国の水分中元司(早瀬川)彦山川流域の開拓神登志氐として大国主命尓に比氐いて瀬成大神と合計利氐治水、農耕開発・国土経営当良礼多られた出雲系氏族の氏神と崇米良礼められて…

と、大国主命は国土開発を彦山周辺で行っていた事を同社縁起は奇跡的に伝えてくれていたのでした。

 正しく感動的ですが、タカミムスビ系彦山48大行事社の専制下にありながら良くこの縁起を残してくれたものだと感服するものです。

 尚、「福岡県神社誌」によれば、田川郡内にはもう一社の諏訪神社(旧赤池村上野今殿)があります。

これは現福智町上野にあるのだと思いますが、これについては実踏していないため、中元寺が唯一と言

った勝手な表現をしています、逸る思いとご了解して頂きたいと思うものです。

 それほど中元寺の諏訪神社は立派かつ衝撃的であり、これは大国主命が現出雲の人ではなかった事を今に伝える証言と考えます。頭の片隅には残して頂きたいと思って止みません。


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「福岡県神社誌」下巻199p


一応、祭神についても説明しておきますが、建御名方命は良いとして、手力雄命はスサノウですし、蛭児命も事代主で良いでしょう。

分からないのが、片倉邊命です。聞かない神様です。失礼ながら、通常「片」が付くと恵比須系の人物である可能性が高く、もしかしたら事代主の別名を誤って取り込んでおられるのではないかと思います。


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

192

豊前の諏訪神社(添田町中元寺)への興奮


 この諏訪神社については6年前に訪問していましたが、当時は出雲の国譲りの話が九州で起こった事であるとまでは理解できていなかったため、何故、物部ニギハヤヒ軍団の本拠地に諏訪神社が孤立して在るのかと分かっていませんでした。

 この問題について初見の方は、以下をお読み頂きたいと思います。


 ひぼろぎ逍遥(跡宮)

900

彦山西方の神々を考える個別編 E “小石原山上湖幻想と

高木神社の基層に国譲りを見た”


899

彦山西方の神々を考える個別編 D “小石原村で消された三つの無格社”

894

彦山西方の神々を考える個別編 C “彦山の祭神も

再確認しておきましょう”

893

彦山西方の神々を考える個別編 B “福岡県旧小石原村の

無格社3社”

892

彦山西方の神々を考える個別編 A “福岡県旧小石原村

中心部の高木神社(大行事社)”

891

彦山西方の神々を考える @ “福岡県旧小石原村”

768

出雲神話の舞台は九州との仮説を信じられない方に対して

どうしたら関心をもって頂けるかと…A

767

出雲神話の舞台は九州との仮説を信じられない方に対して

どうしたら関心をもって頂けるかと…@

762

出雲(旧朝倉郡)の国譲りの背景を考える

   

ビアヘロ021 6.26 甘木朝倉「田神社探訪トレッキング」での驚愕すべき発見! @

ビアヘロ022 6.26 甘木朝倉「田神社探訪トレッキング」での驚愕すべき発見! A

ビアヘロ023 筑前町に「日隅宮」を発見した! 

ビアヘロ 101 出雲神話の舞台は九州との仮説を信じられない方に対してどうしたら関心をもって頂けるかと…

 次号では大国主命の国譲りが何故生じたかを考えることにしたいと思います。

 追補)

最後に建御名方が大国主の子などではない事を百嶋由一郎氏の金神神代系譜からご説明させて頂きます。

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百嶋由一郎金神神代系譜(部分)


あくまで百嶋神代系譜によればですが、建御名方は草部吉見=海幸彦=ヒコヤイミミと自らが滅ぼした金山彦(イスラエル)系ナガスネヒコの妹=瀛ツヨソ足姫(武内足尼)との間に産まれた彦坐王の弟であり、その子が息長宿祢王になるのです。

 恐らくこの人物が、佐賀県佐賀市の(旧三瀬村)北山ダムに沈められ、二度の移転を経て残った野波神社の由緒に書かれる神功皇后の父神であり、大国主命の子などでは全くないのです。

 列島最古の古代王朝などと出雲神話に憧れるのはご自由ですが、ほとんど漫画でしかないのです。

ひぼろぎ逍遥(跡宮)

543

近江散歩 E 佐賀県東部と筑後から琵琶湖周辺に

移動した人々について (縮刷版)


スポット144 三瀬村トレッキング現地リポート スポット171 近江の伊吹山の麓に移り住んだ人々

スポット172 姉川と妹川という名を付した人々と息長系氏族 スポット173 亀屋佐京 などを…

903 筑豊から消された諏訪神社 A “彦山南北安定化作戦こそ三悪神葦原中津国制圧だった”に続く

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2022年08月01日

901 周防の防府天満宮訪問への下調べ 

901 周防の防府天満宮訪問への下調べ 

20210613

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 周防の国とは何なのか?周は周王朝の「周」ではないのか?と言った話は置くとしても…山口県の瀬戸内海側のほぼ真ん中に在る防府市周辺の神社を見て廻った事がなんどかあるのですが、防府市内でもまだ見ていない神社を少し潰して見たいと言う思いが募っています。

 それは、大分県の国東半島から防府に掛けての一帯が九州王朝の濃厚な痕跡が尚も残る地域だと思うようになってきたからです。

 前回の防府訪問では玉祖神社を軸に関連する神社56社を見たのですが、まだ、さわりだけと言った所で、今後もフィールド・ワークの必要性を感じているところです。

 この防府でその荘厳さ豪奢な造りという点では際立っている一社防府天満宮を見ていなかった事に気付き、これは見ておかなければならないと思い、神社の真相、古層…などと言った話は棚に揚げ、向こう任せで探索に入ろうと思ったのでした。

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「山口県神社誌」を掲示するのは容易ですが、まずは地元中心に情報を拾って見ましょう。


防府天満宮(ほうふてんまんぐう)は、山口県防府市松崎町にある神社。旧社格は県社で、現在は神社本庁の別表神社

道真が亡くなった翌年である延喜2年(904年)に創建され、「日本最初に創建された天神様」を名乗る。かつては「松崎天満宮」・「宮市天満宮」あるいは単に「天満宮」と称していたが1873年に近代社格制度のもとで県社に列格し、松崎神社と改称。戦後の1953年には防府天満宮と再び改称した。道真が宮中での権力争いで失脚し、九州の大宰府に流されていく道筋での宿泊地の一つが防府とされており、京都の北野天満宮、福岡の太宰府天満宮と並んで、日本三大天神と言われている。

防府市は、この天満宮を中心に栄えてきた都市であり、年間を通して天満宮の行事での来訪者が多い。また市外からの来訪者も多く、正月の3が日には約30万人の人出を記録している。有名な祭りとしては2月の牛替神事(うしかえしんじ)と11月の御神幸祭(ごじんこうさい)が挙げられる。御神幸祭は別名裸坊祭(はだかぼうまつり)ともいい、約1トンある御網代(おあじろ)を引っ張って、行きは表参道の大階段を下り、帰りは表参道の階段を上っていくという危険なことをするために、毎年怪我人が絶えない。また牛替神事は、天神様の乗られる牛車を引く牛を取り替えるということでの儀式である。その他、83日から5日までは、道真の生誕を祝う御誕辰祭が行われる。夜には1000本あまりの蝋燭に火を灯した万灯祭献灯で表参道が飾られるほか、最終日には防府天満宮夏祭り大花火大会も行われる。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』20210626 07:34より


まあ、我々百嶋神社考古学の者にとっては、この手の神社は道真逃亡をカモフラージュする偽装神社と考えており、ご本人は海路阿久根に上陸し薩摩の川内市の山奥の現藤川天神に落ち延びたと考えているのです。これについては以下をお読み下さい。

まあ、牛車が動かなくなって死んだなどと言った話を信じたい宣伝したい方はそれはそれで良いでしょう。


ひぼろぎ逍遥

603

菅原道真が落ち延びた鹿児島県薩摩川内市の藤川天神への

10人トレッキング準備資料 A

602

菅原道真が落ち延びた鹿児島県薩摩川内市の藤川天神への

10人トレッキング準備資料 @

19

道真は薩摩川内、旧東郷町藤川で余生を送った!


スポット019改) 道真は薩摩川内、旧東郷町藤川で余生を送った!

20200731改訂(20131227

鹿児島県は薩摩川内市の山懐深く、旧東郷町藤川の北野の丘に藤川天神(菅原神社)が鎮座しています。

全国の村々に鎮座する天満宮の一つならば気にも留めないのですが、この菅原神社はただならぬものを感じさせます。

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かなり具体的に、九〇一年出水に上陸し阿久根市田代を経て藤川にたどり着き余生を全うしたとあります。

阿久根市田代経由なら横座峠の山越えのルートですね。千百年前なら非常な難路だったことでしょう。

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参道             お手植えの臥龍梅          


この神社の存在は以前から知っていましたが、「ひぼろぎ逍遥」スタートにあわせ、ご紹介するものです。

まず愕くことに、ここには墓所があります。太宰府は若い時の墓で、こちらが年取った後の墓という落語のような話はありえないので、当然ながらここで余生を過したことになります。

もちろん、太宰府天満宮は絶対に認めないでしょうが、これを裏付けるような話を複数知っていますので、改めてご紹介いたしましょう。

まず、大分県の九重町になりますか、法善寺温泉や川底温泉などがある一角から離れ、小国に抜ける途中の左手に大きな鳥居のある集落をご覧になった方もあるかと思いますが、そこが菅原です。

ここには、藤原の刺客を逃れて道真が隠れ住んでいたという話があります。

また、十数年前まで大濠公園付近で活動していた旧草ヶ江神代史研究会の某研究者から聞いた話ですが、この菅原集落に隠れ住んでいた時期に、恐らく地元の豪族の娘がお世話をしたのでしょうか?道真の血を受け継いだ人がおられ、今もその家系は数家族福岡市内の某地区に住まわれていると言うのです。

もしかしたら、このブログをご覧になって連絡しておいでになるかも知れません。

道真公の娘の血を引く家系(梅野家)は実際に現在もみやま市の女山辺りにおられますが、それ以外にも道真の直系の方々が世を憚って生きておられることになるのです。

どこの地区かまではお聴きしましたが、具体的にどなたか(複数)までは聴いてはいません。

安徳帝にしても入水したのはダミーでしかなく、実際には一旦対馬に逃げ、後で奄美に逃げたという話がありますし、久留米市には安徳姓の方が大量に存在します。


全国 181件 中、福岡県 106件、うち久留米市 64件 (HP「姓名分布&ランキング」調べ)


「薩摩に落ちた」という話は良く言われることですが、政変があるごとに、古代も含め、何度も何度も多くの政治犯、革命家、反乱者、避退者が薩摩に逃げ、さらに薩摩川内や串木野辺りから西へ、南へ、再び北へと逃げ続けたのではないでしょうか。

きっと薩摩にはそれを受け入れる海洋民族的な明るい大らかな気風があるのでしょう。

延喜3(903)年、道真は59歳をもって没した。遺骸を御笠郡内に埋葬しようとしたが、牛車が途中で動かなくなったことから、そこに埋葬したと伝えられ、それが安楽寺(天満宮)となった。

と言いますが、藤原家も知っていて逃がしたのかも知れません。死んだとなれば政治生命を失うことになり藤原家もそれで良しとしたのでしょう。

無題.pngもしかしたら、東郷町にも密かに菅原の血筋を持つ方がお住まいになっているのかも知れません。

話は変わりますが、経済的理由から地元の国立大学じゃないと進学できない。仮に東大に上がっても貧乏だから自宅から通える九大じゃないと進学できないといった優秀でも機会に恵まれない真面目な方は、こちらの道真公にお参りされてはいかがでしょう。道真公が合格させてくれるかも知れません。

なお、手持ちの高向嘉昭氏による「鹿児島ふるさと神社伝承」(南方新社)を読むと、土地の人がつたえるところによると、当初、道真公は上述のように、筑紫から薩摩に入り、出水を経て川内高城(たき)を過ぎ、この地に到着された。そして、当社の南六キロメートルばかりのところにある鳥嶺(とりごえ)の地から、この北野山の俗塵を離れた清らかな姿を望み、こここそが自分の終焉の地であると心に決められ、当社から三キロメートルばかり離れた小鷹というところに隠棲されたという。

その小鷹地区には宰府都(さいふと)というところがある。


読めないかもしれませんが、菅原道真公之墓(伝説地)と書かれています


また、この小鷹の中には宰府都というところがある。宰府都は当時道真公の従臣達が居住したところで、今に至るまでこの地の男女は眉目秀麗(びもくしゅうれい)で、醜い者は一人もいないといわれている。


と、あります。きっと、南北朝期の兼良親王の随行者五條家のような人達と逃げてきたのですね。

神社縁起によると、出水から田代ではなく、阿久根市の川内高城(タキ)温泉辺りから入り落ち着いたとなると、川内高城経由なら横座峠は通っていないかも知れませんね。


日本大百科全書(ニッポニカ)「防府天満宮」の解説


山口県防府市松崎町に鎮座。菅原道真(すがわらのみちざね)と、その祖天穂日命(あめのほひのみこと)・武夷鳥(たけひなとり)命・野見宿禰(のみのすくね)を祀(まつ)る。901年(延喜1)菅原道真は左遷され大宰府(だざいふ)へ向かう途中、当地勝間の浦に着船、時の周防(すおう)国国司土師信貞(はじのぶさだ)は同族であったので、これを迎え1日松崎の地に招いたことで、道真の薨後(こうご)すぐこの地に神廟(しんびょう)を建てたことに始まる。古くは松崎天神と称した。例祭125日、ほかに旧1015日の御神幸祭(裸坊(はだかぼう)祭)、2月節分日の牛替(うしかえ)神事など特殊神事が多く、紙本着色『松崎天神縁起』六巻(国の重要文化財)のほか、宝物も多い。                 [鎌田純一]


鎌田氏がお書きになっている通り、この神社の本質はカミムスビの第二世代、豊国主=豊玉彦=ヤタガラス、豊日別 の後裔氏族によって建てられた神社(氏子6000戸)なのです。

故)百嶋由一郎氏はヤタガラスの分流を神代系譜として残しておられます。

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百嶋由一郎004ヤタガラス系譜原本 百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


この防府天満宮は天穂日命(あめのほひのみこと)〜武夷鳥(たけひなとり)命に繋がるナガスネヒコ系の神社であり、この天満宮を支える6000戸の氏子の相当数がこの系統の人々であろうとの推測が付くのです。

ちなみに鳥子の一族は武夷鳥、鳥子大神の二系統であり、直接的にこの天満宮は武夷鳥の流れを汲む一流だった事になるのです。

正しく、この防府、佐波の一帯はヤタガラスの支配する国だったのです。

「山口県神社誌」と「鳥取県神社誌」は非常に見やすく非常に使い易い良い編集ですが、いかんせん直ぐに調査に行ける場所でもなく、中々活用できない事が悩みです。

防府天満宮に関してはこの5倍の分量があり全てを掲示できませんが、周防の最奥中心部とも言うべき防府が如何なる国であったかが改めて理解できるように思うのです。

末尾掲載の地理院地図をご覧になれば、多々良山があり蹈鞴=多々良地名が拾えます。これも武夷鳥の曾祖父にあたる金山彦が製鉄神であった事を良く表しています。金山彦の子孫が代々製鉄を行なってきた事が良く分かるのです。

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境内神社について愛宕社が不明とされていますが、イスラエル系(秦の始皇帝と姻戚関係を結んだ)金山彦=カグツチであり、武夷鳥にとっては曾祖父にあたる人物なのです。

それを打ち消してまで、防府天満宮を防衛しなければならなかった事は悲しむべき事ですが、玉祖神社の祭神が忘れられ(博多の櫛田神社の主神大幡主=カミムスビ)、同社の祖である金山彦が忘れられる事に歴史の悲哀を感じるばかりです。


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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2022年07月25日

ビアヘロ200 太宰府地名研究会6月〜7月のスケジュール表を公開します。

ビアヘロ200 太宰府地名研究会6月〜7月のスケジュール表を公開します。

佃収連続講演 2022529日(日):熊本県和水町〜202265日(日)北九州市戸畑区


太宰府地名研究会 編集員 古川 清久




太宰府地名研究会+熊本神代史研究会トレッキングへのご案内 20227月のスケジュール


梅雨明け724日に大分県竹田市〜豊後大野市の3社に掛けてトレッキングを行います。何故、この神社を選んだかと言えば、この間取り上げてきたヤマト・オグナの熊襲退治の一方の主人公である河上 猛が、この祖母山北麓の穴森神社と健雄霜凝日子神社に関連する阿蘇大蛇伝説を創った大神一族ではなかったのか…という仮説と繋がってきたのです。それこそが百嶋由一郎が残した示唆が導いてくれたのでした。

河上猛は阿蘇大神氏なのです。

22724日(日)10時に熊本県高森町スーパーASUKA:熊本県高森町高森1978-2集合(弁当持参)






テーマ:祖母山の祖母とはなにか? 一体誰の祖母なのか? では祖母の孫とは誰なのか?


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 穴森神社 カーナビ検索 大分県竹田市神原1432番地 祭神:穴森大明神 嫗嶽大明神とも…延喜式内社 豊後國直入郡 健男霜凝日子神社とも…   ※ お賽銭は各自でご準備下さい(オープン参加)。

➋ 健男霜凝日子(タケオシモゴリヒコ)神社神幸所(里宮) カーナビ検索竹田市神原2447

➌ 宇田姫神社 カーナビ検索 豊後大野市清川町三玉1493 御祭神   華ノ本姫

➍ 岡 城址 カーナビ検索大分県竹田市竹田2889                    お杖代09062983254(古川)

  8月はお盆の為講演会は行いません。

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529日(日)〜65日(日)の日程で、埼玉から佃収先生にお出でいただき、熊本(和水町)、福岡(北九州市戸畑)に於いて100人規模の方々にお集まり頂き延べ10時間に亘ってお話をお聴きしました。急施のため準備不足ながら82歳の年齢を押して2度もの講演会を行って頂いたことになります。日々追われる皆様には無理をしてお集まり頂き改めてお礼を申し上げます。次回以降準備万端に最大の取り組みを行います。来年は小単独開催でも100人を集めたいですね。


その他の小規模集会、勉強会のご案内  佐賀、熊本、大分への新たな展開のために

626日(日)1300〜 当日連絡:090-6298-3254 (古川)

謎の延喜式内社 七幸神社を探る! 佐賀県伊万里市山城町楠久524-11 七宝神社社務所 集合

佐賀県も延喜式内社が薄い地域ですが、旧式内社であり、明治の村社ながら廃社となり近年私的に再建された神社が在ったのです。隣接する曹洞宗本光寺の前住職小島宮司のお話をお聴きします。お杖代 古川

721日(木)1230〜当日連絡:090-6298-3254 (古川)

熊本県西原村 伊藤まさ子勉強会 熊本県西原村会場小森58058 俵山湧水そば 平田庵 正面私邸

テーマ:「大友家持歌日誌」から古代の真実を探る! 当日連絡:090-6298-3254

/(sun) 丁己歴史塾+太宰府地名研究会主催 佃 収 北九州市講演 へのお誘い



202265日(日)13001700 60人規模で佃 収 講演を北九州市(戸畑区)でも行います

会場   福岡県北九州市戸畑区汐井町16 ウェルとばた 8F JR鹿児島本線 戸畑駅 隣

講演者 『古代文化を考える』(同人誌)主宰 佃 収 (著書多数) 参加費1000

テーマ 熊本は「貴国から高市天皇」でした北九州では、「日本人の起源」〜「倭の五王」で

テキストとして「日本通史」(概要編)新「日本の古代史」(佃説)1200円当日:40部限定販売

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佃 収氏の講演会を長年に亘って実施されてこられた事だけでも敬服に値しますが、菊水史談会の功績は何と言っても「納音(ナッチン)九州年号対応表」(和水町の旧庄屋の住居に保管されていた古文書の一部)の確保でした。これは長年に亘って佃 収先生の著書を隈なく読み込んで来られた前垣事務局長でなければ発見できなかった功績であり、あれほどの実例のある「九州年号」を認めない教育委員会や学芸員(通説が嫌がる九州王朝実在の証拠だからです)が如何に無視しようとも歴史的業績は消え去る事は無いでしょう。「九州年号」には「二中歴」を始めとして「海東諸国紀」「如是院年代記」「本朝皇代記」「和漢春秋暦」「興福寺年代記」「王代年代記」…など実際には20以上の実用例があり、明らかに近畿大和政権以前に実在し使用されていた言わば九州王朝を現在に伝える物証なのです。ただ、この幾つかに分かれた年号群は大半は対応するも、初年号が幾つかのもので「継体」「善記」と異なるとか、使用期間が違うと言った点があり、初歩的な議論では磐井の乱で九州王朝を滅ぼしたはずの継体(福井県から出てきたなどと言われる)の名が付された「継体」が何故九州年号と言えるのかと言った話まで出ていたのでした。

そこでお考え頂きたいのですが、この「九州年号」に幾つかの系統があり、それが九州王朝の分裂と関係があるのではないかと指摘されたのが佃 収先生でした。皆さんも後醍醐天皇と南北朝騒乱期の事は良くご存じの事と思います。近畿大和朝廷の延長上の内戦時においても従来の年号は使用されており、南北朝期の60年間は互いに別々の年号を創っていたのです。後に南朝の後亀山天皇は、統合を受諾し三種の神器が後小松天皇の御所に移され南北朝分裂が終わり、この時南朝の年号が廃止しされ北朝の年号「明徳」が存続したのでした。これについて古代史の復元シリーズ 5》「倭の五王と磐井の乱」を読まれるべきですが、新著の早わかり「日本通史」(概要編)新「日本の古代史」(佃説)第2二部第1章物部麁鹿火政権(佃説)以下第2章阿毎王権(俀国)、第3章豊王権、第4章上宮王権、第5章天武王権、第6高市天皇…をお読みください。実に素晴らしいクレバーな解析です。

古田武彦が鬼籍に入り、続く多くの研究者も続き九州王朝論を正しいと考える研究者は、佃 収氏と僅かな方しか残っておらず、何れ、九州王朝って何のことだと言われる時代が目前に来ています。

かつては九州王朝を意識した研究会もあったのですが、研究者を失い村興し町興し果ては世界遺産登録に浮かれ、通説派の教育委員会関係者や学芸員のご高説を賜り賛意を表する状況では早晩九州王朝研究も消失するでしょう。中には自称九州王朝論の研究者と称すも、行政の芸人に成り下がる方々も出るようではさぞかし古田武彦も草葉の陰から嘆いているでしょう。佃収先生は九州王朝論の主流派である古田史学などから独立し自らの研究を続けて来られました。それだけでも敬服に値しますが、九州のフィールド・ワークを徹底して続けて来られました。現在そうした研究者を見ません。かつては「法隆寺は移築された」を書かれた米田良三氏も居たのですが数年前氏も鬼籍に…。

現在、当会は熊本、福岡(福岡、太宰府、久留米)、佐賀、大分の4県で研究会、講演会、勉強会と合わせ現場でのフィールド・ワークも続けています。関心をお持ちの方は、ブログ「ひぼろぎ逍遥(跡宮)」外のトップ画面スケジュール表をご覧ください。また、九州内だけでも当会メンバーによるブログ(百嶋由一郎神社考古学に触発された)が十数名により20本(全国レベルでも356本)が公開されています。
来年は準備万端100人の講演会を!太宰府地名研究会+百嶋由一郎神社考古学研究会(文責:古川)

事務局 中島 茂 09052892994 (通信不能時連絡 古川 清久  090-62983294


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7月以降のスケジュール


伊藤まさ子「万葉集」勉強会 西原村 2022721日(木)12301600

会場:熊本県阿蘇郡西原村小森58058 俵山湧水そば 平田庵 正面私邸


太宰府地名研+熊本神代史研究会トレッキング

7月期  要:参加費資料代(注意:内容変更有)

2022724日(日)10:001700


22724日(日)10時に熊本県高森町スーパーASUKA:熊本県高森町高森1978-2集合(弁当持参)

テーマ:祖母山の祖母とはなにか? 一体誰の祖母なのか? では祖母の孫とは誰なのか?

「誰の祖母」山なのか 無題.png

ヤマトオグナ(後の日本武尊)に誅殺されたとされる熊襲猛の話は良く知られるが、実際には佐賀県の大和IC付近にいた熊襲猛は誅殺を免れ背振を越え福岡市早良区の某所に移動しその末裔は今もまとまって住んでおられます。それとは別にその末裔が竹田〜豊後大野の大神一族となったのではないか?と話が拡大しています。


通説と言うか宮崎のインチキ神話は神武僭称贈る崇神を神武に偽装しウガヤフキアエズの祖母に仕立てています

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記