太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2017年06月28日

349 勝沼ワインの里の大善寺 G “ぶどう寺と宮地嶽神社には何故「三階松の神紋」があるのか?”

349 勝沼ワインの里の大善寺 G “ぶどう寺と宮地嶽神社には何故「三階松の神紋」があるのか?”
20170117

太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川  清久


甲州勝沼のぶどう寺こと大善寺に三階松の神紋が使われているという事実に直面し、ここ一、二年考えあぐねていたのですが、ようやく雲間から一筋の光が刺してきたような思いがしています。

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 百嶋由一郎氏の残された手書き資料に、次の一葉がありました。

そして、なんとそこには武田氏は大彦(アヘ氏)の流れとのメモが残されていたのでした。


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「日本書紀」(崇神紀)十年条には、大彦命(オオビコ)武渟川別命(タケヌナカワワケ)、吉備津彦命(キビツヒコ)、丹波道主命(タンバミチヌシ)を各地方に派遣したという所謂「四道将軍」についての記述があります。

 ただ、この通称「金神系譜」では、通常、武内宿祢の父とされる屋主忍男武雄心命と山下影姫との間に産れたとされる武内宿祢が、孝元天皇と山下影姫との間に産れているとされることに気付かれた方がおられると思います。

 この部分が、百嶋神社考古学の真骨頂とも言うべき最深部の最も複雑かつ難解な部分であり、この解説には別稿が必要とされることからここでは触れません。

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再掲 超細密金神系譜(部分)


十年秋七月丙戌朔己酉、詔群卿曰「導民之本、在於教化也。今既禮~祇、災害皆耗。然遠荒人等、猶不受正朔、是未習王化耳。其選群卿、遣于四方、令知朕憲。」九月丙戌朔甲午、以命遣北陸武渟川別遣東海吉備津遣西道丹波道主命遣丹波。因以詔之曰「若有不受教者、乃舉兵伐之。」既而共授印綬爲將軍。壬子、、到於和珥坂上、時有少女、歌之曰…

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九州王朝論者でも私達の様な過激な論者の内部では、この四道将軍も九州王朝が直接九州から(もしくは九州王朝の植民領域から)派遣したものと考えています。

百嶋由一郎氏は、藤原によって第十代とされた贈)崇神も、実は九州王朝の正統皇統第九代開化天皇=高良玉垂命のはるかに年長の臣下でしかなかったとされていました。

勿論、それを天皇に格上したのは藤原がその流れから出ている事、その勢力を傘下として取り込むためのものであったからであり、当然、四道将軍も九州から直接派遣された可能性が高いと考えているのです。

さて、大彦は第9代開化天皇(高良玉垂命)と同様、第8代孝元天皇の子であり、いわば年かさで腹違いの兄弟になるのです。

 さらに言えば、福津市の宮地嶽神社の数代前までの歴代の宮司家は阿部家であり、それは近畿大和朝廷成立後の奥州安倍氏の滅亡後に送り込まれた安部の宗任、貞任(実は貞任の末子が許された宗任の一族として九州に戻ってきている)の一族が九州北岸の海人族の頭目として崇められ宮地嶽神社の宮司家として復帰していたと考えられるのです。

 恐らく宮地嶽神社のお膝元の津屋崎を起点に、九州王朝の植民国家として丹波、吉備、北陸、東海(舞鶴、敦賀から東海へ)と進出した一派に大彦(珍彦=ウヅヒコ)に同行し北陸から甲斐にまで進出した人々がいた可能性を考えているのです。

 後に贈)崇神の息子である豊城入(ニュウ)彦も埼玉など北関東(上毛野君や下毛野君は豊城入彦の後裔)に進出している形跡があるのですが、これも九州王朝の臣下として崇神の一族が展開したと考えています。

 まぼろしの九州王朝宮廷舞を継承するとする宮地嶽神社と、武田氏との濃厚な関係を見せるぶどう寺大善寺とが等しく三階松の神紋を掲げているという事実を考える時、両者を繋ぐものは、この九州王朝が派遣した四道将軍の大彦の北陸から甲州への展開としか思えないのです。

 そこまで考えてくると、冒頭に掲げた国宝薬師堂の最頂部に掲げられた神紋の意味も多少異なった意味合いを持っている事が見えて来ました。

 門光(唐花)を守るかのようにあしらわれた三階松は、武田氏を支える三枝氏を意味しており、傍系とは言え、武田氏も九州王朝の一族であり、その臣下の実働部隊として三枝氏のスクラムを意味している事が分かるのです。

では、武田氏の家紋を考えて見ましょう。言うまでもなく武田氏の家紋は四割菱とされています。

一般的に戦国武将の家紋は、戦闘用の旗指物として増産する必要と遠方からも判別できる必要性があることから簡素化される傾向がありますが、実は四割菱ばかりではなく、花菱(門光)も使用しているのです。

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 武田氏の家紋は有名な「割菱」すなわち「武田菱」である。武田氏の専用なので、武田菱の名が起こった。しかし、このほかに「花菱」も用いた。多くは、裏紋または控え紋として花菱を用いたが、女性などはやさしさを表わすために花菱を多用した。しかし、この花菱も菱形を花の文様に転化させたもので、根本は変わらない。すなわち、武田氏はいずれにしても「菱」紋で代表される。
 紋のいわれはさまざまに言いなされているが、かなり古くから用いられたことは間違いない。菱それ自身は、正倉院の御物の裂にもあるが、武田氏がこれを紋として用いたとおぼしき証拠が残っている。それは、塩山市にある菅田神社の「楯無の鎧」にこの紋が付けられている。この鎧は平安時代に作とみられるが、これに割菱も花菱もともに付いている。これが家紋とは断定できないが、武田家の重宝に付けられていることは重要な意味がある。この時代から、菱文様は武田氏と密着していたことは窺われる。
 これについて『見聞諸家紋』には、武田氏の紋に対して

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頼義男新羅三郎義光の末孫也。従四位下。伊予守鎮守府将軍。童名千手丸。永承五年。後冷泉院依勅。奥州安倍頼時攻。是時詣住吉社。新平復夷賊。干時有神託。賜旗一流。鎧一領。昔神功皇后征三韓用也。神功皇后鎧脇楯者。住吉之御子香良大明神之鎧袖也。此裙之紋。割菱也。三韓皈国後。鎮座於摂津国住吉。以奉納干寳殿矣。今依霊神之感応。干源頼義賜之。可謂希代也。頼義三男新羅三郎義光雖為季子。依父鐘愛伝之。即旗楯無是也。旗者白地無紋。鎧有松皮菱。故義光末裔当家為紋。

と記されている。
 すなわち「この鎧は住吉神社の神託で、武田氏が拝領した、それに菱文様が付いているのだから、これは家紋とみてよい」というものである。…

 特に「多くは、裏紋または控え紋として花菱を用いたが、女性などはやさしさを表わすために花菱を多用した。」と書かれている部分には関心を持っています。

俗に女流家紋とか裏紋と言われるものですが、もしも、百嶋由一郎氏が残したメモの通り、孝元天皇の皇別氏族としての大彦が武田氏の祖とすれば、この一族が近畿大和朝廷などの後裔ではないはずで、何故なら学会通説は欠史8代として近畿一帯には何らの痕跡もないことから(そんなものある訳がないのです。何故なら、七世紀以前の近畿大和は、主要な古代史の舞台では全くないからです)崇神以前は全て架空のものとしたのですから。

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門光が九州王朝の正統皇統を示すものであることを知っている方にしか分かっていただけないのですが、故)百嶋由一郎氏からは、通常、久留米の高良大社表掲げられている左三つ巴の住吉の神紋と木瓜(モッコウ)紋は、臣下の神紋で本来の九州王朝正統皇統の神紋ではなく“本物の神紋は内部に隠されています…”と聞かされていました。

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ただ、四割菱は承知していましたが、当時は(と言うより近年まで)、武田氏の神紋が門光とは理解しておらず、その分対応が遅れたのでした。

してみると、ひぼろぎ逍遥(跡宮)345 勝沼にも高良神社があった “山梨市の大井俣窪八幡神社”

で書いた、甲州市勝沼から直ぐの山梨市に八幡神社にかなり大きな高良神社と若宮神社が摂社として置かれている事も、第8代孝元天皇の大彦の一族が甲斐に進出している事を考えればすんなりと理解できるのでした。

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 最後に、百嶋メモに書かれていた敢國(アヘクニ)神社を敬愛する「玄松子」氏のサイトからご覧頂くことにしましょう。

 敢國(アヘクニ)神社の敢(アヘ)が九州王朝、孝元天皇の大彦の後裔の阿部氏の(アベ、アヘ)に通底している事がお分かり頂けたのではないでしょうか?


敢國神社 三重県伊賀市一之宮877

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御祭神

大彦命 少彦名命 金山媛命

配祀 九所社 六所社


「敢國」と書いて、「あへくに」と読む。阿拝郡に居住した、阿閉氏が祀ったと考えられ、

祭神は、その祖神・大彦命

孝元天皇の皇子・大彦命は、阿部臣・膳臣・阿閉臣・狭狭城山君・筑紫国造・越国造・伊賀臣の祖。

阿閉臣は、大彦命の子・大稲輿命の子孫。当社の北1Kmには、大彦命の墓と言われる御墓山古墳がある。

境内社の祭神は、以下の通り。

大石社 不詳一座・須佐之男命・金山比古命・大日孁貴命・大山祇命 神明社 天照大御神

子授け神 祭神不詳 若宮八幡宮 仁徳天皇 楠社 楠正成・藤堂元甫結社 高皇産霊尊・手間天神

市杵島姫社 市杵島姫命 六所社 伊弉諾尊・伊弉册尊・日神・月神・蛭児・素盞嗚尊

九所社 祭神不詳 南宮山山上 境外社・浅間社 木華開耶姫命


敬愛する「玄松子」氏による

以下参考


2 大彦命(おほひこ=大毘古命)

 安倍氏族の始祖は大彦命、古事記では大毘古命とされるが、8代「孝元天皇」の長男で、9代「開化天皇」の実兄、10代「崇神天皇」の叔父であり義父でもあり、11代「垂仁天皇」の祖父という王朝内でも屈指の貴種だとされる。

『古事記』孝元天皇

大倭根子日子国玖琉命(オホヤマトネコヒコクニクル=孝元天皇)は、穂積の臣等の祖先、内色許男 (ウツシコオ) 命の妹の内色許売(ウツシコメ) 命を娶り、最初に大毘古(オホビコ) 命。次に少名日子建猪心(スクナヒコタケイゴコロ) 命。次に若倭根子日子大毘々(ワカヤマトネコヒコオホビビ=開化天皇) 命を生んだ。また、内色許男命の娘の伊迦賀色許売(イカガシコメ) 命を娶り、生んだ子は比古布都押之信(ヒコフツオシノマコト) 命。また、河内の青玉(アオタマ)の娘、名前は波邇夜須毘売(ハニヤスビメ) を娶り、生んだ子は建波邇夜須毘古(タケハニヤスビコ) 命。天皇の子は合わせて五柱。若倭根子日子大毘々の命が天下を治めた。

大毘古命の子の建沼河別命(タケヌナカハワケ)は阿倍の臣等の祖。次の比古伊那許士別命(ヒコイナコシワケ)は膳の臣の祖である。

また、木の国の造の祖先、宇豆比古(ウヅヒコ)の妹・山下影日売(ヤマシタカゲヒメ)を娶り、生んだ子は建内宿禰(タケウチノスクネ) 。宿禰の子は合わせて九人(男七人、女二人)。

『日本書紀』孝元天皇

欝色謎命 (ウチシコメノミコト)を立てて皇后とした。皇后は二柱の男子と一柱の女子を産んだ。一人目の男子を大彦 (オオヒコ) 命という。二人目の男子を稚日本根子彦大日日天皇(ワカヤマトネコヒコオオヒビノスメラノミコト)という。三人目は女子で倭迹迹媛 (ヤマトトトヒメ) 命。

(異伝としてさらにもう一子、少彦男心 (スクナヒコオココロ) 命がいたと記載されている)

また妃の伊香色謎命が彦太忍信(ヒコフトオシマコト)命を産んだ。また同じく妃の河内青玉繋の女の埴安媛 (ハニヤスヒメ)が埴安彦(ハニヤスヒコ)命を産んだ。長子である大彦(オホヒコ)命は、阿部臣、膳(カシワデ)臣、阿閉(アヘ)臣、狭狭城山(ササキノヤマ=近江の安土一帯)君、筑紫 (ツクシ) 国造、越(コシ) 国造、伊賀臣ら、全部で七つの氏族の始祖である。

大彦命の母・内色許売(欝色謎)命は、紀国の穂積臣の始祖の妹とある。

穂積臣は全国的な大姓「鈴木」姓の起源となる穂積氏鈴木姓の始祖。後述するが、この穂積臣が岩手県鬼首山(室根山)に熊野神『瀬織律姫』を奉戴して移住したことで、岩手県や宮城県に鈴木姓が広がったと思われる。

穂積臣の娘・伊迦賀色許売(伊香色謎)命も孝元天皇の后となるが、『日本書紀』は、物部氏の遠祖の大綜麻杵の娘とし、『旧天孫本紀』にも伊香色雄の姉で、父は大綜杵、母は高屋阿波良姫と記している。通説も物部氏としている。

穂積氏はニギハヤヒを祖とする物部氏の同族であり、いずれにせよ物部氏系の娘だとなるが、母の高屋阿波良姫が気にかかる。安倍氏の氏神は「高屋安倍神社」で、安倍氏族の高橋氏が奉ったのも「高家神社」。高橋氏との関係が考えられる。

『日本書紀』孝元紀では大彦命の妹に倭迹迹媛 (ヤマトトトヒメ) 命の名を挙げているが、下記の『記紀』の記述をみていただきたい。


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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 08:57| Comment(0) | 日記

2017年06月25日

348 勝沼ワインの里の大善寺 F “ぶどう寺にはなぜ「国宝ぶどう薬師」像があるのか?”(追補)A

348 勝沼ワインの里の大善寺 F “ぶどう寺にはなぜ「国宝ぶどう薬師」像があるのか?”(追補)A

20161204

太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川  清久


続)三枝氏とは何者なのか?


ぶどう寺に、何故、ぶどう薬師が祀られているのかという問題に衝突し、以後、考え続けていたのですが、ようやく少しの突破口が見えてきました。

 ぶどう寺を神社の側面だけから考えていたのですが、仏教の側面から考え直して見ようと思ったのです。きっかけは“蘇民将来、巨旦将来”伝承でした。

そもそも、牛頭天王(スサノオ)とは列島に於ける神仏習合の神であり、釈迦の生誕地(祇園精舎)の守護神とされるものですが、蘇民将来説話の武塔天神と同一の薬師如来の垂迹とされるのです。

薬師如来がスサノオの形を変えたものともすれば、ぶどう寺大善寺を寄進した三枝氏が、“天照とスサノウとの子産み競い”に伴い生まれた天照の五人の男神の一神である天津彦根の後裔としての側面だけで考えず、スサノウの系統としても考えるべきではないかと思考方向を転換したのでした。

ただ、学会通説などでは全く何も見えて来ません。それは、当然にも真実をひた隠しにすることを目的にしたものが「記」「紀」だからです。

まず、百嶋由一郎神代系譜(鳥子系図)によれば、三枝氏が祖先神とする天津彦根命とは阿蘇内牧の阿蘇神社の奥に祀られている金凝彦=神沼河耳命(藤原により格上げされた第二代贈綏靖天皇)であり、実はスサノウにより滅ぼされた巨旦将来でもあるのですが、その子が草部吉見=武甕槌=表面上は春日大神=鹿島大神(藤原により格上げされた第五代贈孝昭天皇)となるのです。

問題は天津彦根命の妃神である神俣姫です。

この妃神とはイザナギ、イザナミの子であるスサノウの姉にあたり、草部吉見が市杵島姫をお妃とすることからも、この天津彦根命の後裔である三枝氏が、阿蘇系のみならず、スサノウの系統を濃厚に引いている事が見えてくるのです。

勿論、天津彦根命の後裔には阿蘇の健磐龍の系統もあるのですが、三枝氏がその流れとは考えられないため、草部吉見=武甕槌=表面上は春日大神=鹿島大神の後裔と考えて良いのではないかと思うのです。

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百嶋由一郎神代系譜(鳥子系図)


では、スサノウの姉の神俣姫とは如何なる神なのでしょうか?

 驚くことに水銀採取、従って、金銀精錬に関わる人々と繋がるのです。

そうです、この三枝氏にとって祖母神ともなる神俣姫とは丹生津姫の事なのです。

 言うまでもなく金の精錬には浮遊選鉱のために水銀が必要となります。

 その水銀の生産に関わる丹生津姫が三枝氏の先祖神となると、古代に於いても天津彦根命の後裔が甲州の金銀生産に関わっていた可能性が否定できないのです。

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 門番扱いにされているクラオカミの話は省略しますが、百嶋神代系譜(阿蘇ご一家)では丹生ツ姫

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言うまでもなく、武田信玄の甲州金山が古代に遡るものである事は疑いようがありません。

 さらに言えば、ぶどう寺の寄進を考えると、三枝氏が武田信玄の一族の登場以前に遡る古族、大族である事も間違いないようです。

 事実、武田金山衆の於曾氏も三枝氏の後裔との説があり、祖母神としての神俣姫(丹生津姫)の水銀採取の技術がその財力の基盤となり、武田氏滅亡後も徳川氏に用いられた理由がそこにあったのではないかと考えたいのです。

 そのように考える時、三枝氏がスサノウの本地垂迹とされる薬師如来をぶどう薬師のぶどう寺として建立した思いが見えてきたのです。

 そもそも、「ぶどう」はぶどう糖で知られるように、高カロリーの秘薬とも言えるものだったはずです。

 残る問題は、国宝薬師如来堂最上部に残された三階松の二つの家紋に囲まれた門光(高良大社の奥に隠された九州王朝の神紋であり、印象としては三枝氏がそれを守っている様に見える)ですが、これの解読は後回しになりそうです。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 01:05| Comment(0) | 日記

2017年06月21日

347 年毛神社と神代製塩池について “宗像、津屋崎境界領域の謎の古社”

347 年毛神社と神代製塩池について “宗像、津屋崎境界領域の謎の古社”

20161220

太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川  清久


福岡県福津市と宗像市との境界領域に近い海岸部の一角に年毛神社という古社があります。

 神社を熱心に見て回られている方でも見落とすような海岸性樹木の生い茂る林を抜けると手入れの行き届いた一社があります。

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鎮座地が福津市勝浦であることから、海人族でも宗像族ではなく安曇族の領域にあった一社である事が分かります。

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「福岡県神社誌」上巻153


この年毛(トシモ)と言うのは小字地名のようですが、祭神については由緒書きもありません。

「福岡県神社誌」によれば、底津綿津見神、中津綿津見神、上津綿津見神、上筒之男神、中筒之男神、底筒之男神、鹽津智翁とあります。

一方、「年毛神社縁起神」によると、 志賀大明神、底津少童命、中津少童命、表津少童命、 住吉大明神(底筒男命、中筒男命、表筒男命)、塩竈大明神(猿田彦神)とあります。

「福岡県神社誌」はお読み頂くとして、地元の郷土史会の文章が平易で平明な文体ですのでそちらをお読み頂きましょう。


由緒

無題.png神功皇后の三韓を征勝した時、東の岳(名児山)に登り、その山を名づけて加都羅岳といい、里を勝浦、島を勝島、この一帯を勝浦潟という。この時、皇后は志賀、住吉の大神をここに祀った。徳川の中期に、勝浦の入江が遠浅なので塩田を開き塩の神として塩竈大明神を合わせ祀る。志賀大明神は漁獲の業を守護する神。住吉大明神は船舶を守護する船魂の神。

(年毛神社縁起)

文献 【筑前國續風土記付録】勝浦村

年守大明神 村の乾八町トシモ松原の海邊松林の中に在。祭る所底津少童命、中津少童命、表津少童命3座也。鎮座の年歴伝ふる事なし。本編には年守とあり。今は年毛と称せり。

  【筑前國續風土記拾遺】年毛社

西といふ人家の海邊松林の中に在。年毛松原といふ。村浦5ヶ所(喜多、東、西、松原口、勝浦浜)の産神也。底津少童命、中津少童命、表津少童命なり。此社は宗像七十五社の一也。同末社に年毛大明神、正月朔日神事、77日神事としるせり。今は42929日祭あり。當所巫女弐人有りて奉祀する。

  【太宰官内志】年毛社(慶安祭祀次第記)

* 年毛神社のシオガマ大明神祭神が猿田彦になっていますが,塩土老翁 (シオツチ)では・・・ ?


「年毛神社のシオガマ大明神祭神が猿田彦になっていますが,塩土老翁 (シオツチ)では・・・ ?」と書かれているのはその通りです。

そして、その実体は博多の櫛田神社の大幡主(ヤタガラスの親神)なのです。

ここで注目したいのは、「徳川の中期に、勝浦の入江が遠浅なので塩田を開き塩の神として塩竈大明神を合わせ祀る」の部分です。

 以前、太宰府地名研究会のトレッキングにおいて同社を訪問した際に、偶然同社の女性宮司とお会いしており、その際に、“この入江は非常に大きくきれいな砂浜が広がっており、潮が満ちてくると浅い海が広がり自然に塩が採れるような所でした。また、真水も神社の一角から湧いており、真水と塩が得られる貴重な場所だったのです…”と言われていたのです。

 実は、これと塩土老翁=大幡主(関連神猿田彦)とが重なっており、塩筒翁とか塩土老翁と表記されるものに、素焼きの陶製製塩土器が関係していることから、江戸時代の入浜式製塩とか流下式製塩とか言った物に先行する古代製塩の痕跡を感じてしまうのです。

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「製塩土器」を画像で検索すれば多くの物が出てきます。

火で煮沸すると、運べる(交換価値のある実質的な商品)容器付の塩ができるのですが、これこそが塩土とか塩筒(九州の神社では塩筒と表記する例が多い)で、塩土老翁が神代に於いても関係していたのではないかと考えているところです。

さて、この神社には貝に砂を入れて神社に持ち込む風習が残されているようです。

これについてはこれまでにも何度か遭遇しているのですが、どうも塩土老翁(大幡主)に関係しているのではないのかといった感触を持っています。

一応、貝持ち神事と呼んでいますが、はっきりしたものとしては、鹿児島県吹上浜の吹上温泉近くの大汝牟遅(オオナムチ)神社(鹿児島県日置市吹上町中原)で見ています。

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次をお読みになるとお分かりになると思いますが、このウムギヒメ、キサガイヒメの話こそが、大国主命をねたんだ「古事記」では兄がとされていますが、大国主命へのテロに絡むものなのです。


大国主の神話で、たくさんの兄神たちである八十神から嫉視された大国主神が、八十神が猪と偽って山上より転がした焼ける岩を抱き止めて焼け死んだところへ、神産巣日之命の命令によって両神が派遣され、キサガイヒメが「刮(きさ)げ集め」、ウムギヒメが「持ち承(う)けて、母(おも)の乳汁(ちしる)を塗り」て治療を施すと大国主神は蘇生したとある。

ここの記述については、粉末にした赤貝の殻を母乳に見立てた蛤の白い汁で溶き、火傷の治療に使ったという民間療法を表すとする説があるが、一方で、蛤の汁が母乳に見立てられた点を重視し、これは母乳の持つ生命力の促進・回復の効能を期待して蘇生に利用したもので、神名の「ウム」から「母(おも)」が喚起され、そこから「母乳による蘇生」という1つの神話素が形成されたものと指摘する説もある。なお、蛤は『和名抄』に「海蛤ウムキノカヒ」とあり、古くから薬剤として利用されていた。

一方、赤貝は『和名抄』に「蚶キサ」とあり、「状(かたち)蛤ノ如ク円クシテ厚ク、外理(すじ)有リ縦横ナリ」とあるので、貝殻の表面に付いた「刻(きざ)」(年輪)から名付けられたものであり、「刮(きさ)げ集め」の部分は赤貝の殻を削ってその粉を集めたと解釈できるが(「刮キサぐ」は「削る」意味で「刮コソぐ」とも読める)、赤貝の殻がどのような効能を持つものとされていたかは不明である。キサガイヒメが「きさげ集め」の語を喚起しているのは確かであるものの、その点以外でこの説話及びウムギヒメとどう関連するのかは語られないため、キサガイヒメの「キサ」に「父」の古語である「カソ」の音を響かせ、ウムギヒメの「ウム=母(おも)」に対するものとして登場させたとする説もある。


ウィキペディア(20161220 2236による

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同社の解説文


このウムガイヒメ、キサガイヒメも宗像三女神の内の大国主命のお妃となられたお二人なのですが、それについては、「ひぼろぎ逍遥」186 刺国若比売 “大国主の母”は大幡主の妹の埴安姫=草野姫か?をお読み下さい。

無題.pngでは、埴安姫が神皇産霊に頼んで介護のために送り込まれた蛤貝比売(ウムガヒヒメ)と𧏛貝比売(キサガヒヒメ)とは誰だったのでしょうか?

百嶋神代系譜では、大幡主の子である白族の豊玉彦(ヤタガラス)と高木大神の娘である許氏の萬幡豊秋ツ姫の間に生まれた田心姫(多紀理毘売)=豊玉姫が蛤貝比売として、同じく大幡主の子である白族の豊玉彦の姉のアカルヒメとスサノウとの(妃であったが半島から日本へ移動したのは良く知られる)娘である瀛氏の市杵島姫が𧏛貝比売として各々大国主のお妃となっておられるのです。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 01:00| Comment(0) | 日記