ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1122 続)伊万里湾に浮かぶ鷹島周辺の神社について
20250924
太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久

前ブログでは、野保佐神社と釜神社の見当が着かなかったため難航しましたが、このあまり馴染みのない神社以外は大体分りますので、鷹島がどのような土地であったかがある程度は推定できます。
まず気付くのは鷹島北部の東岸日比港に若宮神社と朝日神社が在る事です。
久留米の郷土史に詳しい方は直ぐにお分かりになると思いますが、久留米の高良大社の高良玉垂命(藤原はこれを第9代開化天皇にしていますが現在はそれを隠しています)この高良玉垂命と仲哀死後の神功皇后(皇宮皇后)の間に生れたのが若宮神社の主神の長子シレカシノミコト=仁徳天皇(オオササギ命)で、隣接する朝日神社は、次子の朝日(アサヒ)豊盛命で、三男は暮日(ユウヒ)豊盛命とされています。この二つが在る事から、古くから鷹嶋は支配領域であった事が分かります。
もう一つです。南北に宮地嶽神社が二社在る事がお分かりになるでしょう。
宮地嶽神社は、福岡県福津市(実につまらない市名にしたもんですが…)に鎮座する大伽藍の神社です。
現在は、神功皇后と二人の臣下を祀る神社とされていますが、前述したとおり、高良玉垂命と仲哀死後の神功皇后(皇宮皇后)の間に生れた次〜三男が朝日豊盛命で、三男が暮日豊盛命が宮地嶽神社の勝村、勝頼なのです。
AIによる概要(福津市 宮地嶽神社を検索したもの)
宮地嶽神社の祭神は「宮地嶽三柱大神」で、主祭神は神功皇后(息長足比売命)であり、随従した勝村大神・勝頼大神と合わせて祀られています。この三柱の神は、開運・商売繁盛の神として信仰されており、特に神功皇后が三韓征伐の前にこの地で開運祈願したと伝えられています。
各祭神について息長足比売命(神功皇后):第14代仲哀天皇の皇后であり、応神天皇の母君。古事記・日本書紀によれば、三韓征伐の際、宮地嶽に滞在して祭壇を設け、天神地祇を祀って開運を祈願したとされています。
勝村大神(かつむらのおおかみ):神功皇后に随従して三韓征伐に先頭で加わった神と伝えられています。
勝頼大神(かつよりのおおかみ):勝村大神と同様、神功皇后に随従して常に先頭に立ち、勝鬨を挙げた神と伝えられています。
信仰とご利益
宮地嶽神社は、これらの神々を「何事にも打ち勝つ開運の神様」として信仰されており、多くの人々に開運・商売繁盛のご利益があるとされています。
右を見て頂ければお分かりになるように、久留米市の高良大社に残された高良玉垂宮神秘書(14p)には、玉垂命と神功皇后は夫婦だったと書かれているのです。
九州王朝が白江戦(白村江の戦い)に大敗北を喫し、太宰府が占領される、恐らく唐、新羅と内通していた近畿大和朝廷が権力を握る時代になると、この事実を隠す必要が出て来たものと考えられ、久留米の高良大社では神功皇后を消し、宮地嶽神社では高良玉垂命を消したのでした。これについて詳しくは、ひぼろぎ逍遥(跡宮)から以下をお読みください。
576 宮地嶽神社の戦前の祭神 阿部相凾宮地嶽大明神について 20180523
太宰府地名研究会 古川 清久
これらの神社群が示すものは、鷹島も三韓征伐のための軍団の集結基地だった様に見えるのです。
半島攻略への人員、兵員の集積地として波静かな伊万里湾は最適であり、出船し平戸島沖を流れる黒潮の分流の対馬海流に乗れば、労せずして一気に大量の軍団を送り込むことが出来るのです。

糧秣を始めとして、多くの戦闘用の物資から兵員、武器の搬送には、玄界灘沿岸だけでは不足したはずで、有明海沿岸から輸送するにも、松浦川を使い唐津市に送り、
有田川から伊万里市、松浦市に送ったはずですので、唐津湾の湊、神集島、呼子、名護屋湾、伊万里湾の鷹島から御厨半島一帯も軍団集結地だったはずなのです。
当然、西に向かい平戸、五島沖辺りから兵船を整へ目的地を始めどこに置いたかによって、壱岐、対馬で風待ち潮待ちをして出陣した事でしょう。以下再掲載します。
576 宮地嶽神社の戦前の祭神 阿部相凾宮地嶽大明神について 20180523
最近、宮地嶽神社についてはあまり書いていないのですが、関心をお持ちの方は以下をお読み頂きたいと思います。
このシリーズに付け加えようという意味ではないのですが、懸案であった戦前の祭神に関する資料が故)百嶋由一郎氏の資料にありましたので、後付けながら記録として出しておきたいと思うものです。
79 | 宮地嶽神社と安曇磯羅 K “未来の宮地嶽神社参拝者のために” |
78 | 宮地嶽神社と安曇磯羅 J “宮地嶽神社について現在分かる範囲で” |
77 | 宮地嶽神社と安曇磯羅 I “宮地嶽神社とは如何なる性格を 持たされた神社なのか?(下)” |
76 | 宮地嶽神社と安曇磯羅 H “宮地嶽神社とは如何なる性格を 持たされた神社なのか?(中)” |
75 | 宮地嶽神社と安曇磯羅 G “宮地嶽神社とは如何なる性格を 持たされた神社なのか?(上)” |
74 | 宮地嶽神社と安曇磯羅 F “「高良玉垂宮神秘書」では磯羅を 玉垂命と別神扱いしている” |
73 | 宮地嶽神社と安曇磯羅 E “雑感” |
72 | 宮地嶽神社と安曇磯羅 D “志賀海神社と大川風浪宮” |
71 | 宮地嶽神社と安曇磯羅 C “底筒男命と表筒男命” |
70 | 宮地嶽神社と安曇磯羅 B “安曇磯羅とは何者なのか?” |
69 | 宮地嶽神社と安曇磯羅 A “安曇磯羅が祀られているのか? 否!!” |
68 | 宮地嶽神社と安曇磯羅 @ “五人寄れば文殊の知恵” |
私自身の認識としては、九州島だけでも万を超える神社がある中で、最も愛着を感じ、歴史的価値のある神社と考えているのがこの宮地嶽神社です。
普通はただの神功皇后を祀る神社じゃないか…と思われるかも知れませんが、その底流にはとんでもない列島史の深層が閉じ込められているはずなのです。

延喜式内社でもないのですが、太宰府天満宮と共に、民衆の信仰、崇敬を一身に集める神社であって、最近の嵐=光の道効果によって参拝客が急増している事(これ自体にもそれなりの問題はあるのですが)を喜ばしく思っているところです。さて、現在の宮地嶽神社の祭神は以下の三神とされています(以下公式HPより)
息長足比売命
[おきながたらしひめのみこと]《 別名:神功皇后[じんぐうこうごう] 》
勝村大神[かつむらのおおかみ]
勝頼大神[かつよりのおおかみ]
ご由緒
ご創建は、約1700年前。当社のご祭神「息長足比売命(おきながたらしひめのみこと)」別名「神功皇后(じんぐうこうごう)」は第14代仲哀天皇の后で応神天皇の母君にあたられます。 古事記、日本書紀等では渡韓の折、この地に滞在され、宮地嶽山頂より大海原を臨みて祭壇を設け、天神地祇(てんしんちぎ)を祀り「天命をほう奉じてかの地に渡らん。希(ねがわ)くば開運をた垂れ給え」と祈願され船出したとあります。その後、神功皇后のご功績をたたえ主祭神として奉斎し、随従の勝村・勝頼大神を併せ、「宮地嶽三柱大神(みやじだけみはしらおおかみ)」としてお祀りしました。 以来、宮地嶽三柱大神のご加護のもとで事に当たれば、どのような願いもかなうとして「何事にも打ち勝つ開運の神」として多くの方に信仰されるようになりました。 当社は、全国に鎮座する宮地嶽神社の総本宮です。
ところが、昭和19年1月25日刊行の「福岡県神社誌」下巻(143p)に於いてさえ、その祭神は、宗像三女神+神功皇后+勝村+勝頼と書かれており、現在の祭神と異なっている事は明らかです。
実は、それ以前の祭神も確認してはいたのですが、現物のコピーがなかったため保留していたのです。
百嶋由一郎氏の手書き資料の中にありましたので、記録を残しておこうと思い今回改めて掲載する事にしました。
はっきりと、「祭神ハ阿部相凾宮地嶽大明神、…」と書かれ神功皇后は書かれていない事がお分かり頂けると思います。
これを持って同社が誤っているなどとは申しあげませんし、ある時代に於ける祭神はこうであったという事です。
従って、どの神社も同様ですが、その時点の祭神をそのままに真に受けない事が肝要である事を申し上げているのです。
では、阿部相凾とはどなたでしょうか?それは仲哀亡き後の神功皇后を正妃とされた第9代開化天皇(高良玉垂命)であり、長子が仁徳天皇(シレカシノミコト)であり、その次三男が藤勝頼、藤助麿なのです。




にお読み頂き有難いと思っています。




もう一つの矢保佐神社は壱岐の北方の勝本に在り、赤い鳥居の稲荷様の様な神社になっていますね。























まず、














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