ビアヘロ 264
ひぼろぎ逍遥1156五年ぶりの伊予への神社調査 “南宇和郡鬼北町の黄幡神社” (下)
20260327
太宰府地名研究会 古川 清久
広島郷土史探訪シリーズU消された広島の黄幡信仰
このサイトは、郷土史を探訪するためのサイトです。特定の宗教や信仰を勧誘する目的はありません。
古文書を引用する場合、原則的に、字体と仮名づかいは現代のものに改めます。
現在の広島市と、その周辺地域では、「黄幡」という中国由来の神が信仰されていたらしい。庶民には、「おんばんさん」という愛称で親しまれていた。 今でも、広島市安佐南区には、黄幡神社が多数存在する。しかし、祭神は、別の神に変更されている。 「おんばんさん」の愛称をもつ黄幡神社の分布は、安芸武田氏の勢力範囲とほぼ一致している。ただし、この地域で黄幡信仰が広まった時期は、安芸武田氏の滅亡(1541年)よりも後の時代であろうと思われる。 江戸時代になると、黄幡大明神(現在の比治山神社)が、この地域の黄幡信仰の中心地になったと推察できる。 明治の神仏分離により、外来の神を神社に祀ることが禁止された。ここで、広島の黄幡信仰は抹殺された。 今でも、「黄幡」という名字の人がいちばん多い都道府県は、広島県である。しかも、広島市安佐南区に集中している。 |
第1章、真幡神社(広島市南区大河町)の鳥居の額には「黄幡神社」と刻まれている
第2章、比治山(広島市南区)の「おんばんさん」
第3章、比治山神社の原点は、俗称・黄幡谷にあった
第4章、真幡社(広島市安佐南区山本)をめぐる謎
第5章、盗まれた(?)ご神体の謎
第6章、真幡社(広島市安佐南区山本)の社伝の総括と、東山本村の「おんばんさん」の悲劇
第7章、中組部落の「おんばんさん」
第8章、黄幡神社(安佐南区緑井)の社伝と、河川氾濫の記録
第9章、黄幡公園と松原川
第10章、広島市安佐南区川内の「おんばんさん」と、川内水軍衆
第11章、北ノ庄村と温井村
第12章、堤平神社その1、寛政八年「辰年の大水」
第13章、堤平神社その2、古代山陽道と太田川水系が交差する交通の要衝
第14章、堤平神社その3、第1回めの遷座
第15章、堤平神社その4、第2回めの遷座
第16章、堤平神社その5、黄幡という名字をもつ人々
第17章、2024年堤平神社のリニューアルオープン(3度目の遷座)
第18章、「おんばん」を正式名称とする黄幡神社
第19章、恵毘須神社内にあるおんばんさん(武士供養の祠)
第20章、安芸武田氏の滅亡と、おんばんさん(武士供養の祠)
第21章、中調子八幡宮内の真幡社(旧、黄幡社)
第22章、中調子八幡宮内の天満宮
第23章、広島市安佐南区緑井・岩谷(いわや)地区の「おんばんさん」
第24章、実在しない安芸武田家当主・武田義信の謎
第25章、温井八幡神社その1、この地域の川の歴史
第26章、温井八幡神社その2、安芸武田系開拓農民
第27章、温井八幡神社その3、川内水軍衆と真宗寺院
第28章、温井八幡神社その4、安芸武田家の紋章
第29章、広島県安芸郡府中町の黄幡碑と府中村古跡帖
第30章、尾首部落共同体の産土神
第31章、府中町の黄幡碑と、多家神社の関係
第32章、広島市安芸区畑賀地区の「おんばんさん」
第33章、広島市東区中山地区の「おんばんさん」
第34章、大内が越えた峠とは?
第35章、広島市安芸区船越地区の「おんばんさん」
第36章、広島市東区福田町の「おんばんさん」
第37章、なかずの池と妙法寺跡
第38章、水害と土砂災害からの守り神
第39章、弘住神社に合祀された泉山黄幡社と、「おんばんさん」の湧き水
第1章、真幡神社(広島市南区大河町)の鳥居の額には「黄幡神社」と刻まれている

この神社は、真幡神社(広島市南区北大河町23-17)です。同じ敷地内に、地蔵寺という禅宗の寺院があります。江戸時代までは、神仏習合であったはずです。まずは、神社の社伝です。
「真幡神社(旧称)黄幡社
祭神 泉津道守神(ヨモツチモリノカミ)
相殿神 寒座三柱神(サヤリマスミハシラノカミ)、金山毘古神(カナヤマヒコノカミ)
当浦(大河浦のこと)は、荒天の際は海陸ともに往来極めて困難であって、災難を受けることが度々であった。そこで、神助を仰(あお)がんと1617年社殿を建てて黄幡社を勧請す」。(以上、社伝)

背景の山は、黄金山(おうごんざん)です。江戸時代中期まで、黄金山は、広島湾にうかぶ島でした。広島藩の干拓事業により、1662年に陸続きとなりました。かつての島の名前は、仁保島です。仁保島には7つの入江があり、仁保七浦と呼ばれていました。大河浦(おおこうら)は、仁保七浦のひとつです。そこは、交通の難所でした。そこで、1617年(徳川家康が死亡した年の翌年)、ここに黄幡社を建てました。
この社伝には、3つの謎があります。
謎1)黄幡神とは、どんな神か?
謎2)どうして、社名と祭神が変更になったのか?
謎3)今の祭神である泉津道守神(ヨモツチモリノカミ)や、寒座三柱神とは、どんな神か?
謎1)黄幡神は、本来、中国の軍神です。日本では、道祖神として信仰されました。通常、道祖神とは、道端に祭られる交通安全の神です。さらに、精選版日本国語大辞典「道祖神」の項目では、「村境、峠などに祭られる時は、外来の疫病や悪霊を防ぐ神。また、『あの世』の入り口にある神」と記載されています。
ここが交通の難所だから、黄幡社が建てられたのです。
謎2)明治初期に、神仏分離令が発令されました。神仏分離とは、単に「お寺と神社を区別する」というだけのものではありません。外来の神を神社に祀ることが、禁止されました。そこで、名前を真幡神社と和風に改め、メイド・イン・ジャパンをよそおったのです。それでも、鳥居には「黄幡神社」と彫ってあります。
神仏分離令により、他の多くの黄幡社が、社名と祭神を変更しました。
広島市安芸区畑賀町寺迫132番地の大原神社も、別名は黄幡社です(第30章)。そして、現在の祭神は泉津道守神(ヨモツチモリノカミ)、植山姫命(ハニヤマヒメノミコト)、土安姫命(ハニヤスヒメノミコト)です。
堤平神社(ていへいじんじゃ、第11章〜第16章)も、かつては黄幡社でしたが、現在の祭神は泉津導守神です。漢字で書けば、「道」と「導」が違っています。しかし、読み方は同じです。同社の社伝には、「鎮守祭神は泉津導守神にして、塞り(さえぎり?)の神とも申す」と記載されています。ヨモツチモリノカミは、「塞の神(境界を守る神)」でもあると信じられていたようです。
広島県大竹市立戸1丁目14-26にある真幡神社も、江戸時代は黄幡社でした。祭神は、埴安彦神(ハニヤスヒコノカミ)です。
広島市東区福田町には、今でも黄幡神社があります。祭神は、泉津道守神です。
広島市東区中山中町12-41の大原神社も、かつては黄幡社でした。
かつての黄幡神社の社名と祭神には、一定の法則があります。 社名の多くは、真幡神社に変更されました。また、一部は、大原神社に変更されています。真幡神社としておけば、「幡」の一文字は残ります。そして、黄幡(オウバン)と大原(オオハラ)は、かな文字で表記すれば似ています。人々の本心では、黄幡信仰を捨てたくはなかったのでしょう。
かつての黄幡神社の祭神が、今では1)ヨモツチモリノカミ(泉津道守神、泉津導守神)、2)塞(さい)の神系(寒座三柱神、「塞りの神とも申す」)、3)火の神系(金山毘古神、植山姫命、土安姫命、埴安彦神)などに変更されています。「火の神系」の意味には、後ほど説明いたします。
謎3)本殿に祭られている泉津道守神(ヨモツチモリノカミ)は、この世界と黄泉の国(ヨミノクニ、死後の世界)の境を守る番人です。ある意味で、道祖神(境界を守って疫病や悪霊を防ぐ神であると同時に、「あの世」の入り口にある神)と言えます。
『日本書紀』巻第一(神代上)第五段に、泉守道者(ヨモツチモリヒト)が登場します。そして、死者となったイザナミノミコト(妻)の言葉を、生きているイザナギノミコト(夫)に伝えています。この文面は、日本書記の本文ではなく、注釈です。「このような言い伝えもある」と、記載されているのです。そして、ヨモツチモリの名前は、ほとんど知られていません。

日本書紀. 巻第1 - 国立国会図書館デジタルコレクション20ページ
相殿に祭られる寒座三柱神(サヤリマスミハシラノカミ)は、「寒い所に座る神」ではありません。普通は、塞三柱神と書いて、サエノミハシラノカミと読みます。「塞」は要塞の塞であり、「塞(ふさ)ぐ」という意味もあります。村の境界を守る役割の道祖神です。
「塞神(さいのかみ)」とは、古来からある原始神の一つであり、村境に祀られ、悪疫悪神の侵入を防ぐ神であり、名称も形も様々です。
その中で、塞三柱の神とは、八衢比古命(ヤチマタヒコノミコト)・八衢比売命(ヤチマタヒメノミコト)・久那斗命(クナドノミコト)のことです。
『日本書紀』では、泉津平坂(よもつひらさか)で、イザナミから逃げるイザナギが「これ以上は来るな」と言って投げた杖から、来名戸祖神(クナドノサエノカミ)が出現します。クナドとは、「来るな」という意味です。また、サエとは、さえぎるという意味です。「サエノカミ」の漢字表記は、「〜祖神」です。文字通り、道祖神としての役割が期待される神です。一方、『古事記』では、黄泉(よみ)の国から逃げ帰ったイザナギが、袴を投げ捨てます。その袴から、道俣神(チマタノカミ)が出現します。
久那斗命(クナドノミコト、塞座三柱神の中の1つの神)と来名戸祖神(クナドノサエノカミ、日本書紀に登場し杖から出現した)は、同一とされています。また、道俣神(チマタノカミ、古事記に登場し袴から出現した)と八衢比古命(ヤチマタヒコノミコト)・八衢比売命(ヤチマタヒメノミコト)は同一とされています。
黄幡神は外来の神であり、古事記と日本書記には登場しません。黄幡神を記紀に登場する神々に当てはめようと考えた人々が、少なからずいたはずです。道祖神(境界を守る神)としての性格があるので、泉津道守神や塞の神に当てはめられたのでしょう。

相殿には、金山毘古神(カナヤマヒコノカミ)も祭られています。通常は、金山彦神と記載されす。イザナミノミコトが火の神カグツチを産んだ時、全身に大やけどを負って死に至ります。その時の吐物から、金山毘古神(金山彦神)は出現しました。その前に、大便からは埴安彦神(ハニヤスヒコノカミ)と埴安姫神(ハニヤスヒメノカミ)が出現します。便宜的に、これ等の神々は、「火の神系」と呼ぶことにしておきます。かつての黄幡神社の一部では、明治以後、祭神が「火の神系」に置き換えられました。
黄幡神は外国由来の神ということもあって、日本古来の神を尊いと考える人々からはあまり「高級な」神とみなされなかったのかもしれません。死後の世界と関りをもつ神と同一視されたり、あるいは、吐物や排泄物から発生したとされる神々と同一視されたりしたようです。
第2章、比治山(広島市南区)の「おんばんさん」
比治山も、黄金山(第1章)と同様に、かつては広島湾に浮かぶ島でした。日地島と呼ばれていました。本州と陸続きになったのは、西暦1500年代の後半と言われています。
現在の比治山神社が、江戸時代には、黄幡大明神と呼ばれていました。同じ境内に、勝楽寺(真言宗)がありました。第1章の真幡神社と同じく、江戸時代までは神仏習合の形をとっていました。

社伝によれば、もと黄幡(おうばん)大明神と称し、比治山南の谷(俗称ー黄幡谷)に祀られてました。その祠を、西暦1600年代(江戸時代初期)に榮雄(勝楽寺を開山した)が寺の境内(現今の社地)に移して、鎮守社としました。これが、比治山神社(旧、黄幡大明神)の起源です。
やがて、広島藩から、毎年正月の門松の添木と、九月祭礼の湯立神事(ゆだてしんじ)の薪木を寄付されるようになりました。
明治の神仏分離の時、黄幡大明神は、社名と祭神を変更しました。社名は比治山神社となり、祭神は主に出雲系の神々となりました。勝楽寺は、廃寺となりました。寺の住職・智等は還俗して志熊新と改名し、比治山神社の社掌となりました。
この比治山神社を、地元の人々は「おんばんさん」と呼んでいます。

NHK広島放送局の初代アナウンサー・薄田太郎さんが、1949年から1961年にかけて、「がんす横丁」というエッセイを中国新聞に連載しました。その記事の1つです。
「(薄田太郎氏の知人が)『おんばんさん』―比治山神社の側の道を登ってこの広場(御便殿跡広場)にでかけいたが、その途中には横綱常陸山が書いた『力抜山』のモニュメントがあった」。
「(薄田太郎氏の知人は)”おんばんさん”の道を、二十号キャンパスに描いたが、この作品は戦後胡町筋にあった中井屋喫茶店にかかっていた」。
参考文献)薄田太郎:がんす横丁.たくみ出版(株),137ページ,1973年.
「がんす横丁」のこの記事は、インターネット上にも公開されています。
広島市と、その周辺地域の黄幡神社の多くが、「おんばんさん」の愛称で庶民から親しまれてきました。比治山神社(旧・黄幡大明神)の場合、社名と祭神が変更になった後も、「おんばんさん」の愛称は地元の人々に受け継がれたのです。
第3章、比治山神社の原点は、俗称・黄幡谷にあった

かつて黄幡神の祠があった比治山の谷は、幕末になっても黄幡谷と呼ばれていました。1825年に完成した「芸藩通志」の広島府祠廟の項目に、「今に黄幡谷と称す(今でも黄幡谷と呼ばれている)」と、記録されています。
中道豪一氏の研究(比治山に関する歴史と文化の再検討 ―比治山周辺における谷と比治山神社史の検証を中心に―)により、比治山の黄幡谷は、現在の段原南第一公園の付近であることがわかりました。この論文は、以下のサイトからダウンロードすることができます。
https://researchmap.jp/read0096456/published_papers/45526267/attachment_file.pdf
段原南第一公園から、馬魂碑を通って比治山の山頂に向かう道があります。道の北側(動画の画面では右側)に谷があります。それが黄幡谷であったのかもしれません。断言はできません。すでに住宅が立ち並んでいる地域では、江戸時代と地形が違っている可能性もあります。知新集(広島藩の公式地誌)によれば、そこにあったのは小さな祠です。実際に、西暦1600年以前の比治山(旧、日地島)に大きな神社があったとする記録はありません。
黄幡神は、日本人にはなじみの薄い神ではないでしょうか。どうして、この地域では、黄幡「大明神」に発展することができたのでしょうか。この地域には、黄幡神を信奉する集団があったのでしょうか。
また、広島藩が、毎年正月の門松の添木と、九月祭礼の湯立神事の薪木を寄付していました。藩にとっては、大きな出費ではないでしょう。しかし、広島藩が寄付をするというだけで、藩はこの神社を重視するというメッセージになります。そこには、政治的な配慮があったのでしょうか。この地域で黄幡神を信奉する集団に、何か特別な政治力、経済力、または武力があったのでしょうか。
実は、西暦1600年代の比治山神社の移転には、大きな謎があるのです。広島市安佐南区山本の真幡社との関係です。
第4章、真幡社(広島市安佐南区山本)をめぐる謎

真幡社(広島市安佐南区山本9丁目20-2)のすぐ近くには、安芸武田一族の菩提寺であった立専寺があります。この神社も、武田との関係は深かったはずです。安芸武田氏は、武田信玄を輩出した甲斐武田氏の親戚です。室町時代には、この地域の守護大名として君臨しました。武田が銀山城(かなやまじょう、古くは金山城と記載)を築いた山は、今でも武田山と呼ばれます。山本地区は、城下町でした。しかし。武田は毛利元就に滅ぼされました。

社伝の全文は、以下のサイトに掲載しています。
謎に満ちた真幡社(広島市安佐南区山本)の社伝ー消された広島の黄幡信仰追補ー
ここでは、要点だけを記載します。
まずは、社伝の冒頭です。
「安芸の国守護職として鎌倉初期、武田信光。信光は新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)の玄孫(げんそん、ひまご)、武田信義の子なり。初(はじめ)石和(いさわ)五郎又(また)は大膳大夫(だいぜんのだいぶ、またはおおかしわでのかみ)、承久(じょうきゅう)の功以てここに補せられ金山(武田山)に據(よ)り代々此の国を領し、五代武田伊豆信宗(むねのぶ)剏(はじめ)て金山城を築き子孫之を継ぐ」。
武田信義は、源義光(通称、新羅三郎)の孫で、源平の合戦で活躍しました。武田信義の五男が、武田信光です。石和五郎は、信光の別名です。その役職は、大膳大夫でした。武田信光は、承久の乱(1221年)の功績により、安芸と甲斐の両国を領有することになりました。
冒頭から、難解な文章が続きます。この部分は、芸藩通志(広島藩の公式記録)からの引用です。芸藩通志の原文には、「武田信光 信光は新羅三郎義光の玄孫にて武田信義の子なり、初石和(いさわ)五郎又大膳大夫、承久の功を以、安芸の国守護職に補せられる。金山城 即武田山なり、武田伊豆信宗、剏て此に築き、子孫相続て居守す」と記載されています。

この社伝は、不可解です。社伝冒頭に武田氏のことが、長々と書かれています。
ところが、この神社と武田の関係が書かれていません。そして、社伝の途中で急に、「古老の伝に黄幡さん(今の俗称)は村民の崇拝厚かりしに」と記されます。
1560年(永禄三年)に毛利元就は山本村の西部に平山八幡宮の本殿をを建てた(拝殿は以前からあった)。そして、八幡宮の本殿の梁(はり)の上の蟆股(カエルマタ)に、毛利の家紋を刻んだ。真幡社はその末社とみなされ、社紋に毛利家の家紋をかげることになった。少なくとも、広島藩の公文書である芸藩通志にはそう書いてある。だが、それは事実ではない。本当は、この神社は、武田氏と関係のある黄幡信仰の神社なのだ。そのように解釈すれば、首尾一貫します。
その続きには、「徳川幕府後期ある時、ご神体を移し去られ比治山山麓(さんろく)の黄幡社(今の比治山神社)に祀られしとなり」とあります。それだけでも、謎めいていますしかし、「ご神体は盗まれた」とする別の言い伝えがあるのです。
第5章、盗まれた(?)ご神体の謎

立専寺住職・武田庸全氏が1939年に記した「山本史」の記述です。
時期は不明だが、東山本の黄幡大明神(現、真幡社)のご神体を盗んで比治山の上に持ち帰って祭った者がいる。夜な夜なご神体から「山本に帰る、帰る」という声が出て、実に不思議なことであった。神社を東山本の方向に向けて建て直したところ、山本に帰るという声は止んだ。その神社は、比治山の黄幡神社(今の比治山神社)である。
比治山神社が西暦1600年代に移転した、という事実とは一致します。しかし、誰が何のために盗んだのでしょうか。
広島城の落成は1599年です。その後、戦乱はほとんどありませんでした。1600年代の半ばになれば、城下町は整備されていたことでしょう。立地条件に恵まれて発展していく比治山神社を見て、山本地区の人は、「お株を奪われた」、「黄幡信仰の元祖は自分たちだ」という思いがあったのかもしれません。
しかし、明治の神仏分離により、どちらの神社も祭神が黄幡神ではなくなりました。

上の写真は、比治山の展望台から見た広島市安佐南区山本方面です。現在の比治山神社は、西向きに建てられています。大雑把にいえば、山本地区の方向です。移転前の比治山神社があったと推定される場所(段原南第一公園の辺り)は、比治山の東南部です。そこから山本方面は見えません。
昭和14年6月に山本9丁目の立専寺住職武田庸全氏が上梓した「山本史」の中の「敬神並宗教史」。
【引用開始】
当東山本には徃昔より黄幡大明神を鎮祭したる黄幡神社といへる小堂あり。
然る所その後(年時不詳)何者か社内の御祭神たる黄幡大明神の御神体を盗みて廣島の比治山の上に持ち帰り祭る、而るに夜な夜な御神体より「山本へ帰る帰る」との聲ありて実に奇瑞現はる、遂に神社を東山本の方向に向けて建て祭りしかば山本へ帰るの声止みしと、此の神社即ち比治山の黄幡神社にて今日尚存す。比治山の黄幡神社の古記録にも当社の祭神は元東山本より遷座したる旨記しありと、而し年時は其記なし。
此の事ありて東山本鎮座の黄幡社には祭神の御神体なくなりたれば当時当村住人大伴某なる者上京したる際京都にて猿田彦命の分霊を申し受け帰りて之の社内に安鎮し之を祭るが現在の御神体なりと、而して其の年時も不詳なり。
私按ずるに道の古来より当村に傳へらるる古老の説は事実ならん。
比治山の黄幡神社に其記録ありて以前神主が当村に取調べに来りし事あり、惜むらくは当村並びに比治山、共に其の年時を詳にせざることなり。
【引用終了】
「山本史」は村内に見るべき郷土誌がないことを憂いた庸全氏が、病身を押して書き上げた1000ページにも及ぶ手書きの郷土史で、内容は昭和40年代に刊行されました。
投稿:ブログ管理人|2012年10月28日(日)21時38分
以下は、私・上西の私見です。「比治山の黄幡神社の古記録にも当社の祭神は元東山本より遷座したる旨記しありと、而し年時は其記なし」と記載されていますが、原爆で焼失したかもしれません。また、今の比治山神社は黄幡信仰ではないので、このような記録を保管しておく必要もないでしょう。
貴重この上ないため、甲斐、安芸、伊予、土佐の黄幡神社を理解する手助けとして保存します。
ご尊命かどうかも分かりませんので、当方の判断でblogとして一部を保存させていただきました。
連絡先 新ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)管理者 古川清久 090-6298−3254


にお読み頂き有難いと思っています。















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