2025年06月18日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)248  新ひぼろぎ逍遥 1099 七面大神とは何か?(上)の転載

ひぼろぎ逍遥(跡宮)248 

新ひぼろぎ逍遥 1099 七面大神とは何か?(上)の転載

20250304 

大宰府地名研究会 古川 清久


七面天女とも言われる神とも仏ともされる神仏を考える必要性が出てきました。

日蓮宗(ここで言うのは「日蓮正宗」ではなく総本山身延久遠寺)の祭神と言うのも妙な話ですが、分かり易いかどうかは別にして、江戸落語で言えば故)三代目 古今亭志ん朝でお馴染み「甲府い」で知られる山梨(南巨摩郡身延町身延3567)は身延山の日蓮宗総本山の七面大神=七面天女の話です。

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日蓮正宗(にちれんしょうしゅう)とは、宗祖日蓮末法の本仏、三大秘法を宗旨[1][注釈 1]とし、日本静岡県富士宮大石寺を総本山とした富士門流[注釈 2]に位置づけられる仏教宗派である[2]。講員数約86万人。

教義[編集]種脱相対[3][4]日蓮本仏論を唱え[5][6][7][8][9]、大石寺に伝えられる本門戒壇の大御本尊唯授一人の血脈を仏法の根本とする[10]

基本[編集]基本的教義は、宗教の五綱・宗旨の三箇(三大秘法)・血脈相承である[1][11]。宗祖を本仏と仰ぎ、本門戒壇の大御本尊を信じ、題目を唱えるならば、どんな者でも必ず成仏できるとしている[12][13]。また、仏教各宗派によってさまざまな戒律が説かれているが、日蓮正宗における戒とは捨悪[注釈 3]と持善[注釈 4]である[14]。経釈章疏は、法華三部経・宗祖遺文(『日蓮大聖人御書』)・派祖遺文・大石寺第9日有遺文・大石寺第26日寛遺文を正依とし、天台宗系統の摩訶止観10無題.png巻および弘

決・法華玄義10巻および釈籤・法華文句10巻および疏記を傍依としている[15]

仏教の基礎である三宝は、以下のように説いている。「末法の三宝とは、久遠元初自受用報身如来の再誕、法即人の主師親三徳、本因妙の教主日蓮大聖人が仏宝であり、人即法の本地難思の境智冥合、事の一念三千、無作本有の南無妙法蓮華経の大曼荼羅が法宝であり、大白法を正しく継承された日興上人を随一とする歴代の法主上人が僧宝である。」[16][注釈 5]多宝塔や釈迦・多宝如来、等の仏像の制作・崇拝は一切禁止されている[17]


無題.png「日蓮正宗と日蓮宗の違い」日蓮宗と日蓮正宗の違い大きな違いは根本となる仏である「本仏」として何を指しているかです。 日蓮宗では、釈迦を本仏としている一方、日蓮正宗では日蓮聖人を本仏としています。 日蓮正宗では、日蓮聖人をキリストや釈迦と同じように崇拝の対象として考えているため「日蓮大聖人」と呼んでいます。


当会、当方には色々の所から様々な照会がありますが、今回は、大山祇命と月読命or月弓命とは同一神か…との問い合わせが寄せられたからでした。

これは別稿として扱いますが、その前に身延山の日蓮宗の祭神とされる七面天女が気になった都から先に取り上げる事にしました。

七面大王神とは仏教化されているとは言え、どうも「神」扱いされているようで、避けては通れないと思ったからでした。

何よりも、百嶋由一郎が残した神代系譜の一枚に、七面天女に重なるかどうかは別にして、面足尊なるものが存在し、金山彦とされているからです。まずは、そちらからご覧いただきます。

尊称としての「尊」が付されている「日本書紀」系の表現でもあり、無視できないのです。


おもだるのかみ Omodarunokami 上・初発の神々紀 面足(二段本書、三段一書一)旧 面足尊(神代系紀)

 神世七代の第六代で、阿夜訶志古泥神と対偶を為す男神。

 『古事記』における神世七代の意義については、伊耶那岐神・伊耶那美神の誕生を到達点として、そこに到る過程を神々の生成によって発展的に表現したものと捉える解釈が多い。その過程の意味する所は、(1)国土の形成を表すとする説、(2)地上の始まりを担う男女の神の身体(神体)の完成を表すとする説、(3)地上に於ける人類の生活の始原を表すとする説などがある。
於母陀流神は、次に成った女神、阿夜訶志古泥神と対偶をなす男神であるが、他の神世七代の対偶神と違い、神名に共通性がない所に疑問が持たれる。於母陀流神の名義は、『日本書紀』の「面足尊」という表記から、神や人の容貌にまつわるものとして解されており、その神格は、神世七代における岐美二神生成の直前に位置する対偶神として、身体の完成することを面貌に託して表した神とする方向の解釈が一般的である。
 「於母陀流」を顔(面)が成り整う(足る)意と解して、身体の完成を表していると考え、人体が完備することの神格化とする説や、『万葉集』(2220)に讃岐国を「天地 日月と共に 足り行かむ 神の御面と 継ぎ来る 中の湊ゆ 船浮けて」と表現した歌があるように、国土の表面が満ち足りていくことを意味しつつ、顔立ちや体つきが整って身体が備わることを表し、男女交合の兆しを表現しているとする説、また、男女の掛け合いの言葉が、二神の対偶によって表されたものとして、面足神を、男神が女神に対して「あなたの容貌は整って美しい」と褒めたこととし、阿夜訶志古泥神を、それに対する「まあ何と恐れ多いこと」という返事と解釈する説や、完成した肉体に讃美の言葉をかけることで命と魂を宿らせる古代の観念の反映とする説がある。他に、偉大な面貌を持った、境界防塞の神像もしくは生産豊穣の性格を帯びた守護神の神像の形象化とする説や、性器崇拝にまつわる、性器の様相に対する讃美による名称とする説などがある。

オモダル・アヤカシコネ も無題.png20250305 09:27 からご覧ください。

オモダル(淤母陀琉、面足)・アヤカシコネアヤカシキネ(阿夜訶志古泥、綾惶根)は、日本神話に登場するである。神武天皇は仍孫[要検証ノート]

概要 古事記』では兄を淤母陀琉神、妹を阿夜訶志古泥神、『日本書紀』では兄を面足尊妹を綾惶根尊(アヤカシキネ)と表記する。『古事記』において神世七代の第六代の神とされ、兄淤母陀琉神が男神、妹阿夜訶志古泥神が女神である。オモダルは「完成した(=不足したところのない)」の意、アヤカシコネはそれを「あやにかしこし」と美称したもの。つまり、人体の完備を神格化した神である[1][2]。また淤母陀琉神は「淤母」は「面」、「陀琉」は「足る」と解して、名義を「男子の顔つきが満ち足りていること」とし、文脈や阿夜訶志古泥神との対応、また今日に残る性器崇拝から男根の様相に対する讚美からの命名と考えられる。阿夜訶志古泥神は「阿夜」は感動詞、「訶志古」は「畏し」の語幹、「泥」は人につける親称と解し、名義は「まあ、畏れ多い女子よ」とし、淤母陀琉神と同様の理由で、女陰のあらたかな霊能に対して恐懼することの表象と考えられる[3]中世には、神仏習合により、神世七代の六代目であることから、仏教における、欲界六欲天の最高位である第六天魔王垂迹であるとされ、特に修験道で信奉された。明治神仏分離により、第六天魔王を祀るの多くは神社となり、「第六天神社」「胡録神社」「面足神社」などと改称した。


無題.png「胡録神社」は対馬で、遭遇しており、故)永留久恵先生の海神と天神」 対馬の風土と神々にも搭載されていますね。

面足神社」は日蓮上人の出生地の安房国(千葉県山武市戸田446を始め20社近くあるようです。戸田となると、どうしても学会の牧口常三郎戸田城聖を思い浮かべますね。まあ、日蓮正宗や学会(門徒)総講頭は関係ないですが。日本全様によると全国に23社あるとの事ですが、ご覧の通り、半数は千葉でも房総でも旧安房国を中心に分布が確認できます。

それから考えると、百嶋由一郎の面足尊が日蓮上人と無関係では無いように思えるのですが。

百嶋由一郎の残した100枚近い神代系譜にも面足尊は一枚しか出てきません。このことは鹿島、香取、息栖…東北(北関東)の神社調査の際に併せて、安房の調査も行っている様です。

順番が逆になりましたが第六天神社は恐らく長野県の面足命社(第六天王宮)が該当しそうです。

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面足命社(第六天王宮は別名ですね)カーナビ検索長野県上伊那郡辰野町辰22−ロ


第六天神社については、ウィキペディア(2025250305 12:25)でも関東、東北、甲信越…に分布が多く拾えます。ただ、祭神ははっきりせず、あったとしてもデシャバリの高木大神になっており、採用できません。

先に引用した、オモダル・アヤカシコネは、先代旧辞本紀を含めた検討をされていますが、

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百嶋先生には、イスラエル系(秦の始皇帝と互いに同族だったとして姻戚関係結んだ)の金山彦が関東の面足神、面足尊であることはお分かりだった様です。我々も通説が何であれそう考えますが。

百嶋由一郎の最終神代系譜(次の次の二枚目)の金山彦=金鎖大神の妹のイザナミこそが阿夜訶志古泥神=綾惶根尊であり、具体的には全く語られておられませんが、私には日蓮宗の七面大神(天女)様もイザナミ=クマノフスミ(熊野那智大社主神)とお考えだったのではないかと思うのです。

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002百嶋系図(極秘)神代系譜 003込(部分)


まず、百嶋神社考古学では伊弉冉(イザナミ)と伊弉諾(イザナギ)とは早い段階で別れており、金山彦の妹のイザナミは、八咫烏の父つまり神産巣日=神皇産霊=神魂(カミムスビ)現地では博多の櫛田神社の主神大幡主の妃になっているのです。

そのため、イザナミは名をクマノフスミと改め、熊野三山の熊野那智大社の主神となり、大幡主は熊野速玉大社の主神となられているのです。

この事が、理解できないため熊野系神社群の多くで、伊弉諾が消されている事が解らないでおられるのです。それは、琵琶湖の傍に鎮座する高木大神系の多賀神社が堂々と元のイザナミ+イザナギとしている事が大きいのかも知れません。

信州の戸隠神社にも魏石鬼八面大王という神が祀られています。恐らく、この神が九州でも肥無題.png後熊本の阿蘇の入口、辺りの現大津町外牧に鎮座していた金山彦系岩戸神社の移動したものであり(日向の高千穂で荒神鬼八、肥後阿蘇谷で喜八伝承として残る)、八面神と対応しているのです。その金山彦の妹が七面天女とか言われる妹で元伊弉諾の妃だった方ではないかと考えるのです。 七面山=聖岳 右矢印1

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それが、現在、参道崩壊のため神社参拝が出来なくなっている岩戸神社です。

百嶋先生も講演に於いてこの地から戸隠に岩戸が飛んでいます…と話されていました。

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岩戸神社 カーナビ検索 熊本県菊池郡大津町外牧


では、「八」ハチとは何かとまで飛躍すると、以前から考えていた、ヒッタイト帝国の首都ハットゥシャ(ハッティシリ)ボアズキョイではないかと考えています。

金山彦は中国では事実上の工学博士であり、古代(神代)には工程師(工程Gōngchéngshīでもあったのです。イスラエル系の人々は近東から西に移動し中国に入り、安全な極東の島国に安住の地を求めたのでした。
                               大分県中津市に八面山があり、八天狗が祀られ山岳修験の山として知られる福岡県豊前市の求菩提山に金山彦系修験が国東、彦山の挟撃を受け、肥前に逃げ、八天神社が佐賀、長崎にかなりの数痕跡を留めている事とも対応するのです。
無題.png従って、八木、矢木姓がイスラエル系の工学系であることは、戦中派の方はご存じだと思いますが、軍部が無視し、逆に八木アンテナを米英が受け入れ、敗戦の一因でもあったレーダー開発に遅れを取った事は良く知られています。

そもそも七面山が聳えるのも山梨県南巨摩郡であり、半島奥の高句麗が唐に敗れ高麗王若光も列島に亡命しているのです。鉄道唱歌でも名高い高麗(コマ)神社が(祭神 猿田彦命、武内宿禰命埼玉県日高市に鎮座するのです。

してみると、その南高麗郡に鎮座する身延山久遠寺もイスラエル系言う事も可能なのです。                               七面天女像

そもそも、青森東半の南部藩と山梨南部に南部町が同じくイスラエル系と考えており、五年前に南

部町に福岡県久留米市に鎮座する高良大社があり、青森と山梨の南部町に高良神社を共に確認してい

るのです。これも、以前のブログでリポートしています。

636 ひぼろぎ逍遥(跡宮)からの転載 590 出羽から陸奥への道I“青森県五戸町の高良神社”

七面神社が金山彦系で在ろうという推定も、あてずっぽうでもないのです。ここで、高良大社の神

紋をご紹介します。
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左の三つの神紋の真ん中の木瓜紋は、実は初期九州王朝を支えた金山彦の神紋で、本物は右端の門光紋(唐花)なのです。

身延山久遠寺も元々は南部氏の支配地域であったはずですし、鎌倉末期には岩手に入っているらしいのですが、二戸に福岡という地名が在り、黒田藩(福岡)が金山彦系であることも間違いないずですが、山梨の南部町も青森の南部藩も共に、迎鶴紋(猿田彦=山幸彦=ニギハヤヒ)であり、これは保身のための偽装と思われます。つまり家紋からは確認できないのです。

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百嶋由一郎 最終神代系譜(部分)


無題.pngそもそも、鶴紋もヒマラヤを越えて北帰行、南帰行を繰り返す鶴の大編隊を知る民族であって、西から東に移動して来た人々なのです。島根県太田市の物部神社も日負鶴紋なのです。

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若宮神社も山梨県に数多く分布していますが、それは、武田信玄公も南部氏も、共に新羅三郎の後裔であり、直接的には高良玉垂命=開化天皇(藤原も第九代天皇)とせざるを得なかったです。

その高良玉垂命が仲哀死後の神宮功后との間に生まれた長子=仁徳天皇(オオササギ、現地、久留米ではシレカシノミコト)その人なのです。

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002百嶋系図(極秘)神代系譜 003込(部分)前々図下半分


勿論、通説とは異なります。九州王朝は当然ながら隠されているのです。

詳しくは、以下をお読み下さい。

ひぼろぎ逍遥(跡宮)

961

信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)

⓯ 続 山梨県 若宮八幡神社(追補)

960

信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)

 山梨県 若宮八幡神社

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まぼろしの九州王朝宮廷舞を継承するとする宮地嶽神社と、武田氏との濃厚な関係を見せるぶどう寺大善寺とが等しく三階松の神紋を掲げているという事実を考える時、両者を繋ぐものは、この九州王朝が派遣した四道将軍の大彦の北陸から甲州への展開としか思えないのです。そこまで考えてくると、冒頭に掲げた国宝薬師堂の最頂部に掲げられた神紋の意味も多少異なった意味合いを持っている事が見えて来ました。門光(唐花)を守るかのようにあしらわれた三階松は、武田氏を支える三枝氏を意味しており、傍系とは言え、武田氏も九州王朝の一族であり、その臣下の実働部隊として三枝氏のスクラムを意味している事が分かるのです。では、武田氏の家紋を考無題.pngえて見ましょう。言うまでもなく武田氏の家紋は四割菱とされています。一般的に戦国武将の家紋は、戦闘用の旗指物として増産する必要と遠方からも判別できる必要性があることから簡素化される傾向がありますが、実は四割菱ばかりではなく、花菱(門光)も使用しているのです。武田氏の家紋は有名な「割菱」すなわち「武田菱」である。武田氏の専用なので、武田菱の名が起こった。しかし、このほかに「花菱」も用いた。多くは、裏紋または控え紋として花菱を用いたが、女性などはやさしさを表わすために花菱を多用した。しかし、この花菱も菱形を花の文様に転化させたもので、根本は変わらない。すなわち、武田氏はいずれにしても「菱」紋で代表される。
 紋のいわれはさまざまに言いなされているが、かなり古くから用いられたことは間違いない。菱それ自身は、正倉院の御物の裂にもあるが、武田氏がこれを紋として用いたとおぼしき証拠が残っている。それは、塩山市にある菅田神社の「楯無の鎧」にこの紋が付けられている。この鎧は平安時代に作とみられるが、これに割菱も花菱もともに付いている。これが家紋とは断定できないが、武田家の重宝に付けられていることは重要な意味がある。この時代から、菱文様は武田氏と密着していたことは窺われる。 これについて『見聞諸家紋』には、武田氏の紋に対して

無題.png頼義男新羅三郎義光の末孫也。従四位下。伊予守鎮守府将軍。童名千手丸。永承五年。後冷泉院依勅。奥州安倍頼時攻。是時詣住吉社。新平復夷賊。干時有神託。賜旗一流。鎧一領。昔神功皇后征三韓用也。神功皇后鎧脇楯者。住吉之御子香良大明神之鎧袖也。此裙之紋。割菱也。三韓皈国後。鎮座於摂津国住吉。以奉納干寳殿矣。今依霊神之感応。干源頼義賜之。可謂希代也。頼義三男新羅三郎義光雖為季子。依父鐘愛伝之。即旗楯無是也。旗者白地無紋。鎧有松皮菱。故義光末裔当家為紋。 と記されている。
 すなわち「この鎧は住吉神社の神託で、武田氏が拝領した、それに菱文様が付いているのだから、これは家紋とみてよい」というものである。…
特に「多くは、裏紋または控え紋として花菱を用いたが、女性などはやさしさを表わすために花菱を多用した。」と書かれている部分には関心を持っています。俗に女流家紋とか裏紋と言われるものですが、もしも、百嶋由一郎氏が残したメモの通り、孝元天皇の皇別氏族としての大彦が武田氏の祖とすれば、この一族が近畿大和朝廷などの後裔ではないはずで、何故なら学会通説は欠史8代として近畿一帯には何らの痕跡もないことから(そんなものある訳がないのです。何故なら、七世紀以前の近畿大和は、主要な古代史の舞台では全くないからです)崇神以前は全て架空のものとしたのですから。


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門光が九州王朝の正統皇統を示すものであることを知っている方にしか分かっていただけないのですが、故)百嶋由一郎氏からは、通常、久留米の高良大社表掲げられている左三つ巴の住吉の神紋と木瓜(モッコウ)紋は、臣下の神紋で本来の九州王朝正統皇統の神紋ではなく“本物の神紋は内部に隠されています…”と聞かされていました。ただ、四割菱は承知していましたが、当時は(と言うより近年まで)、武田氏の神紋が門光とは理解しておらず、その分対応が遅れたのでした。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 22:24| Comment(0) | ビアヘロ
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