2025年02月04日

新ひぼろぎ逍遥 1087 のビアヘロ240への緊急転載 新ひぼろぎ逍遥 1087 2025年新春三社詣りトレッキングで参拝した大分県日田市の石井神社 ❸

新ひぼろぎ逍遥 1087 のビアヘロ240への緊急転載

新ひぼろぎ逍遥 1087 2025年新春三社詣りトレッキングで参拝した大分県日田市の石井神社 ❸

20250126

太宰府地名研究会 古川 清久


1086 2025年新春三社詣りトレッキングで参拝した大分県日田市の石井神社 ❷ 20250122〜の続き

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石井神社 カーナビ検索 大分県日田市石井182


無題.png会所宮(よそみや)

 三芳刃連(ゆきい)の西端が突き出た丘陵である。豊後風土記にいう、筑紫から日田に入った景行天皇を、比佐津媛(ひさつひめ)が迎えたところと伝えられ、眺望にすぐれる。

 また大和朝廷から日田国造(くにのみやつこ)に任ぜられた鳥羽宿祢(とばのすくね)が、庁を設けて居住したので、会所宮とよんだとも云われる。

 山上には弥生時代の甕棺の出土のほか、鳥羽塚などの古墳や古い社祠の類も多く、さまざまな伝承とともに日田の古代・中世に関係深い史跡の地である。

 山麓の会所八幡社は、日田郡司大蔵永弘によって八幡三神が祀られ、現在は景行天皇と比佐津媛も合祀する。   日田市文化財調査委員会 

贈 日田ライオンズクラブ社地掲示説明板

会所宮(よそみや)と言えば、思い当たる事がありますよね。それも八幡社です。

はっきり言えば、よそとは、ヨソモノ、外来者の神社という意味ですね。

つまり、他所から持ち込まれた神様で、自分たちの本来祭ってきた神社ではないとの思いが暗に込められているかも知れないのです。そうです。朝倉市の筑後川右岸に鎮座される恵蘇八幡宮と同質の近畿大和朝廷が現地支配のために送り込んだポンティウス・ピラトの様な存在なのです。


朝倉橘広庭宮に遷られた斉明天皇は当地で崩御され、 後の天智天皇である中大兄皇子は、御遺骸

を朝倉山上(御陵山)に御殯葬し、 木皮のついた丸木で忌み殿を建て喪に服されました。

応神天皇、斉明天皇、天智天皇を祀る朝倉地域の総社 恵蘇八幡宮 由緒より


ポンティウス・ピラトで検索

ポンテオ・ピラトは、ローマ帝国の第5代ユダヤ属州総督。新約聖書で、イエスの処刑に関与した総督として登場することで有名。新約聖書の福音書の登場のほか、少し後の時代のユダヤ人の歴史家であるフィロンやフラウィウス・ヨセフスなどの歴史書においては、アグリッパ1世以前のユダヤ総督で唯一詳しい説明が存在する。        ウィキペディア 20250126 11:55による

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恵蘇八幡宮 カーナビ検索 福岡県朝倉市山田166


これまた、九州王朝論の立場で神代、古代を探る者は、皆、斉明天皇が白村江の戦いのために大和からのこのこ出てきたなど大嘘でしかなく、それを九州王朝が指揮して行ったことにはできない藤原が創った「日本書紀」の偽装と言っているのです。漫画ですね…。

ヨソ、エソ、エセ…そしてウソ、つまり大嘘の歴史捏造に騙されてはならないのです。


御祭神

応神天皇(譽田別命) 神功皇后(息長足姫命) 仲哀天皇(足仲彦命)

大足彦忍代別命(おほたらしひこおしろわけのみこと)(景行天皇) 比佐津媛神(久津媛神)

大己貴命                              「空」様の引用文 「〜風の宿り〜 ブログ」他より


また、三韓征伐も高良玉垂宮の高良玉垂命と神功皇后が行った外征であり、仲哀は元々熊襲討伐で死んでおり、近畿大和朝廷の成立(たかだか600年代後半以降、700年初頭)からでしかなく、実際には白江戦の大敗北、太宰府占領から九州から移動した天武が無抵抗で侵攻して以来の話でしかないのです。

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さて、日下部氏の話をしましょう。日下部と言えば、草部吉見後裔と言えばそう言えるのですが、

そう単純な話でもないのです。そのことについては、このテーマの先行ブログ2本で説明していますので省略しますが、草部吉見の一族と、日下部の一族は違うのです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


赤枠が草部吉見で、青枠が息子の天足彦=彦坐王(ヒコイマスオウ)です。

この草部吉見に滅ぼされた金山彦の孫にあたる長髄彦(ナガスネヒコ)の妹=瀛津世襲足姫を戦利品の如く扱った草部吉見の息子の一人が天足彦で彦山の東に居たから彦坐王と呼ばれているのです。

 実際、彦坐王を祀る大行事社も在ります。

 これが、日下部氏と呼ばれて、石井を含めた豊後の重要拠点を抑える任務を与えられているのです。以下、補足の為に百嶋由一郎の俗称金神神代系譜をご覧ください。

 簡単に言えば、初期九州王朝を支えたイスラエル系金山彦の一族が須佐能を経て孫の代になり、長髄彦の代になり草部吉見から滅ぼされた結果、新たに派生した氏族=天足彦=彦坐王が日下部氏にあたるのです。

 ここまで詳しい神代系譜をお持ちの方は、ほぼ、居られないと思います。

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百嶋由一郎通称金神神代系譜(部分)

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ご覧の通り上の草部吉見までは、五枚鷹羽紋(三枚並び羽ではありません)、下が日下部氏の三ツ盛木瓜紋で、朝倉氏が最も知られていますが、ルーツは福岡県の旧朝倉町です。狭穂彦王もですね。

 久留米の高良大社の裏紋は木瓜紋で金山彦の紋章です(金山彦自体は三ツ盛りではなく普通の木瓜紋です)。そして、派生氏族が日下部氏の三ツ盛木瓜紋を使っているのです。

 お分かりでしょうか?日下部氏とは倭国が滅び、新たに派生した金山彦系+草部吉見系氏族こそが彦坐王であり、余曾多本毘売命(よそたほびめのみこと)一族なのです。勿論、後の藤原の息の掛かった近畿大和朝廷系の代理人であり、とうとう、もっと忠実に言う事を聴く、後漢の霊帝の一族=阿智王の一族に石井の支配も交替して行ったのでした。

基本的には、九州に本拠地を置いていた倭国が唐との激闘に敗北し、天武の時代に本拠地を畿内に移しますが、それ以前の開化天皇と神功皇后の長子=若宮ことオオササギの命=仁徳天皇の時代に本格的に瀬戸内海の奥に本拠地を移しています。それを百嶋神社考古学では九州王朝神霊東遷と呼んでおり、危険回避のために瀬戸内海航路と日本海航路に分け御霊を移していると言われておりました。

実は、筑後川流域の多くの古墳が空なのも先祖の墓を清め移動しているのです。

従って、文官の郭務悰近と武官の劉仁願によって太宰府が占領され都督府が置かれると、本拠地を列島でももっと奥の安全な場所に置いたのです。

その始まりが仁徳さんの浪速高津の宮であり、その後の奈良天理の大和大國魂神社だった訳です。

そして更に時代は下り、九州に居た天武が本拠地を奈良に移し、倭国とは別の日本国を装ったのですが、それが続き倭国とは別の国と言い続けた結果、近畿大和朝廷も何時しか九州王朝など存在しなかった事にした延長に天武系から天智系への転換が起こり、最終的に阿蘇氏の後裔である藤原政権が成立してしまったのでした。そして奈良県一帯で自生したのが日本国だと本気で思い込む様になってしまったのでした。そうでなければ、何故、同一の地名が九州の地名が畿内にもあるか、同じ神様を祀る神社があるかを説明して頂きたいのです。

何れにせよ、これまで見て来た彦坐王の一族が鳥羽宿祢の一族と重なると考えるのですが、まだ、確信は持てません。今後も探索を続けざるを得ないようです。

では、ここまでの話は祭神を巡るものとし、図像学と言うか、実際に神社に残る痕跡からも少し別

の側面から石井神社を考えて見たいと思います。

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石井大明神を祀る神殿前面に置かれた力士像だそうですが


 彦坐王と力士は繋がらないと思うのですが、こんな怖い顔をした力士もあまり見ません。

 無題.png古代、神代で力士と言えば、野見宿禰(ノミノスクネ)と当麻蹴速(タイマノケハヤ)と相場が決まっていますが、日田が八咫烏に任せられた九州王朝の臨時首都or副都と信じて疑わない者としても、大蔵一族にも日下部氏にも繋がり難いもので、それ以前の草部吉見が久留米の高良山で九州王朝の時代の臣下として使い走りをやっていた頃からその子、孫の大山咋、崇神の時代以前なら相応しく思えます。

 何故なら、野見宿祢はカミムスビ系=海神系であり、当麻蹴速は大山祇系の熊襲であり、実際には野見宿禰をデザイン化したとすればそれなりですが、しかし、この恐ろしいまでの形相は力士像ではないのではないかと思ったのでした。

そこで、再度、昇殿し裏から詳しく見ると、確かに力士であるようにデザインされていました。

ご覧の通り、マワシが彫り込まれているのです。雷神も褌(フンドシ)はしますが、相撲用のマワシではないため、これは早とちりだったのかも知れません。

ただ、始から嵌め込むことを意図して入れられたものではないようで、後付けで置かれたものの様に見えるのです。何れにせよ日下部氏が阿蘇氏に、つまり草部吉見に滅ぼされた結果成立した一族とすると、大山咋、崇神(ツヌガノアラシト=ハツクニシラススメラミコト)の時代になる訳で、崇神を祀る神社に脅しの意味で、雷神が置かれることから、そのように見たてた訳でした。

そこで、神殿背後に回ると、大きな龍王、龍神の額が張られており、神殿の主が筏流しを指揮し、日田一帯に広がる大規模な安楽寺領(太宰府天満宮は幕藩体制時代は安楽寺ですね)から大量の建築用木材と船舶用の木材が宝満川から太宰府へ、左岸からは大川に流され家具や船舶(その中には渡海可能な船舶も)が建造されていたのです。

だからこそ、夜明には志賀神社置かれていたのです。まさに、日田は日高見国のルーツであり、そして古くは対馬の比田勝であり、日田市に日高町があり、同地に、会所宮があり、鳥羽宿祢が居たと言われているのです。

会所宮(エソですが、現地音はヨソ)が大字日高に在り、その北に宗像大社の辺津宮が在る田島町が在るのです。日田は対馬の比田勝の移動であり、日田そのものが対馬からの移動であり、飛騨高山も、関東以北の古代日高見国もその移動なのです。

北海道の日高山脈も博多から十三湊そして、江差まで入っていたからこそその名が在るのです。

神殿背後に奉納された龍神の神額

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そして、参拝殿正面上部の注連縄の上にも龍王の彫刻が設えられているのです(以下)。


これと同様の仕組みが、日田の入口夜明ダム上部の有王社にも設えられており、日田が八咫烏の本拠地だった事が分かるのです。だから有王社は偽装であり蟻通神社(大阪〜和歌山に数社)であった

と申し上げているのです。ここも何れトレッキングを行いたいのですが…その時に詳しく。

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ここまでブログ3本を書いてきましたが、これくらい書かないと、多くの権力が交代しており、一口で石井神社はどの勢力の影響を受けた如何なる神を祀る神社であるかは分からないのです。

今のところ、分かる範囲で石井神社を整理してきましたが、紀元200年前後から版図を畿内から東海、北陸、関東まで広げていたのですが、その九州に本拠地を置いていた倭国が戦った白江戦の敗北によって太宰府が占領された事から天武の時代に本拠地をより安全な大和に移したものと考えています。ここまでは、天武の父(名は消されていますが)が白江戦を行ったとする、佃収氏の立場が一番合致していると考えています。そして天武から天智への皇統の入れ替わりが起こり、それに関与したのが阿蘇氏をルーツとする藤原政権の成立へと時代が変わり、その結果、正八幡神から応神があたかも本物の八幡神ででもあるかのように入れ替わってくるのですが、それが日田でも起こっている事が非常にクリアに見えてきたのでした。

少なくとも古田武彦の九州王朝論から離脱し、佃収研究に遭遇し、百嶋神社考古学の援用を得ることによって神社研究の面から古代史に先行する神代史の解明を求める中、日田の石井神社に恵まれ、何故、日田市に隣接して大山町があり、九州王朝の本拠地であった久留米〜太宰府〜宗像そして日田の解明を追う中、九州王朝の副都(最低でも臨時首都)とも言うべき日田が徐々に見えて来た訳です。九州王朝の治世下〜金山彦系の没落、代わって大山祇系の跳梁、現在も続く八咫烏系の存在を意識する中、日田では、日下部氏から近畿大和朝廷系の直轄支配地となった日田を見る中、各々の時代に於いて、祀られる神々の入れ替わりが起こっているのであり、何時の時代には、どの神が石井神社に祀られているかが見えて来たのです。

そして、事実上の豊後一之宮と言える大原が、祭神を物部系から転換している事を知ると(「福岡県神社誌」で苅田、みやこの大原神社をお調べ下さい)現在の日田の大原の祭神が良く判るのです。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ
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