新ひぼろぎ逍遥 1086 2025年新春三社詣りトレッキングで参拝した大分県日田市の石井神社 ❷
20250122
太宰府地名研究会 古川 清久
1085 2025年新春三社詣りトレッキングで参拝した大分県日田市の石井神社 ➊ 20250118〜の続き

筑後川の中流域の日田盆地で多くの支流を取り込んだ筑後川は、久留米、太宰府方面へと流れますが、山々に囲まれた日田が如何に安全に宇佐、大分へと繋がる要地であった事かが良く判ります。
その筑後川左岸の一画が石井地区(白線の破線部)で、そこに石井神社が鎮座しているのです。
ただ、豊後一宮と言ってもおかしくない大原八幡宮以前に存在していたとされる、石井神社を考える時、大蔵永弘に象徴される大原八幡宮の宮司家=日田の支配者大蔵一族が専横を振るうのは9世紀半ば辺りからのはずで、それ以前の日下部氏が大蔵一族に直結しているとも考えられないため、普通は草部吉見(阿蘇高森のヒコヤイミミ)が、半島との印象を消すために草部から日下部(つまり高木大神の入婿となった新羅の伽耶部の意味を消し去り、日下=日の本の部と…「古事記」も書く様に、その現地でも置き換えた阿蘇系氏族の支配下に入り、最終的に日田全域を支配する近畿大和朝廷の出先としての代理人=後漢の霊帝の後裔阿智王の一族=大蔵一族の支配構造に組み込まれたのではないかと考えるです。
そこまで考えてくると、参拝殿左に置かれた惟神の意味が見えてくるのです。
皆さんは、阿蘇宮司家が「惟人」から始まっている事をご存じでしょうか。
以下、ウィキペディアで「阿蘇惟人」を検索すると、祭神として阿蘇十二神が出て来ます。
20250121:13:33による
以下の12柱の神を祀り、阿蘇十二明神と総称される。
一の神殿(左手、いずれも男神) 一宮:健磐龍命(阿蘇都彦命[3])- 神武天皇の孫。たけいわたつのみこと。 三宮:國龍神 (吉見神・彦八井神[4])-二宮の父、神武天皇の子。くにたつのかみ。 五宮:彦御子神 (阿蘇惟人)- 一宮の孫。阿蘇大宮司家につながる[5]。ひこみこのかみ。 七宮:新彦神 - 三宮の子。にいひこのかみ。 九宮:若彦神 - 七宮の子。阿蘇神社社家につながる[5]。わかひこのかみ。 二の神殿(右手、いずれも女神) 二宮:阿蘇都比当ス - 一宮の妃。三宮の娘。あそつひめのみこと。 四宮:比東芬q神 - 三宮の妃。ひめみこのかみ。 六宮:若比盗_ - 五宮の妃。わかひめのかみ。 八宮:新比盗_ - 七宮の娘。にいひめのかみ。 十宮:彌比盗_ - 七宮の妃。やひめのかみ。 諸神殿(最奥、いずれも男神) 十一宮:速瓶玉神 (國造神)- 一宮の子。国造本紀によれば、初代阿蘇国造に任命された。はやみかたまのみこと。 十二宮:金凝神 - 一宮の叔父。綏靖天皇を指す。皇統につながる[5]。かなこりのかみ。 |
ご覧の通り、惟人=健磐龍の孫から阿蘇宮司家が始まるのです。
ついでに言えば、三宮が草部吉見(藤原が第五代孝昭天皇とした)で、十一宮が日枝神社の大山咋
十二宮が、神沼河耳=草部吉見の父神=藤原が第2代綏靖天皇としたのですが、それは初代神武の本物のお妃であった金山彦の娘の吾平津姫を妃としたというだけの事なのです。
しかも、蘇民将来伝承の「巨胆将来」なのです。初代神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)の血筋でもなければ、萬世一系などではさらさらないのです。

上の写真右の円内には梅鉢が打たれており菅公が祀られているので道真公とその一族のはずです
実際、微かに「菅公廟」らしく読め、道真公を祀っているのに、「惟神」と書いているのは、藤原による菅公を阿蘇家の下と貶めているのかも知れません。そこに多くの樋口姓の方の標柱が建てられているのですから、多分、この樋口の一族は、道真公太宰府への事実上の配流に随行した言わば送使の樋口大膳の一族の末裔の方のはずです。
実際、日田から30キロほど東に進むと玖珠町があり、さらに南に入ると菅原と言う集落があります。
ここに、道真公は隠れていた事もあり、地元の豪族の娘が菅公のお世話をしていたようです。
確か百嶋先生からは、二系統の菅公の血をひく一族が生まれており、福岡市の姪浜の菅原神社=天満宮に女千木の神社があり、それは道真直系の神社と言われておられました。
それはともかくも、この石井神社に、何故、これほどの樋口姓の方が居られるかは不明です。これについては今後の課題です。
一応、菅公の出自を考えると、筑後川の水運を司る志賀島の海神族=志賀島の安曇族=博多の櫛田宮の一族の大幡主=カミムスビ神の本家と金山彦の孫ナガスネヒコの末裔の本家同志の婚姻関係によって成立した一族であり、木材を搬送筑後川に流し太宰府まで持ち上げる能力を持った人々と(豊国主=豊玉彦=八咫烏)、製鉄と金属加工の能力を持った家系が関係しており、石井が製鉄に関係する人々が住む地区でもある事から、菅公を祀る氏族が住む事、菅公を太宰府までお送りし、危機を何度も救った樋口の一族が居られることも納得が行くのです。
恐れながらも、神殿を考えたいと思います。以下、当会杉山氏のトレッキング資料から…
止波宿禰は『旧事本紀』に13代成務天皇の御世に、葛城国造と同祖、止波宿禰を定めたとある。
また、豊日志には、止波宿禰は刃連(三芳町)に居住し農耕を教えたとあり、現在でも会所山(よそやま)の中腹には、止波塚と呼ばれる古墳も存在している。
ただ、江戸期の表現としての石井大明神が止波(鳥羽)宿禰だったかも単純には受入できないとも思うのです。
『先代旧事本紀』は物部文書であり、九州王朝も基本的には物部氏の政権であって、それを大人しく近畿大和朝廷の出先機関となった同社がそのまま日下部氏〜大蔵一族に大人しく引き継がれるはずは無いのであって、昔はそういった神が祀られていると言った意味でその範囲で理解すべきなのです。彦坐王、建御名方系なら別ですが…。
勿論、明治維新以降か終戦後か、政情の変化を利用し、偽っていた祭神を廃し、本来の神に戻されたとすれば、それは穏やかですが、このような祭神の入替えは我と神社の存続を第一と思う宮司家の考えに支配されており、日田の大原八幡宮が応神天皇を主神として祀るためにも、元々宮(鞍方尾)、元宮(求久里)を経て元の物部神を隠し改変しているのであり、その事は、福岡県苅田町とみやこ町の大原神社が日田の大原八幡宮からの勧請として物部神を祀っていることからも十分に考えられることなのです。本記でこの問題を考えようと思われる方は、「福岡県神社誌」全三巻をお調べになれば直ぐにお分かり頂けるでしょう。尚、当方の新ひぼろぎ逍遥でも良ければ、以下を検索しお読みください。
新ひぼろぎ逍遥
708 | 物部の大原足尼命を祀る日田の大原八幡神社とは何か? |
707 | 日田市の会処宮について “「事代主のブログ」からの転載”A |
706 | 日田市の会処宮について “「事代主のブログ」からの転載”@ |
704 | 日田の大原八幡神社も物部の神社だった “大分県日田市の大原八幡宮” |
703 | 大原八幡神社は物部の神社だった “福岡県みやこ町の大原八幡神社” |
702 | 大原八幡神社は物部の神社だった “福岡県苅田町の大原八幡神社” |
尚、何度かお電話で話した事のある、旧「美風庵だより」様も石井神社を取り上げられています。






勝手に引用しながら異論を書き込むのは失礼にはなりますが、百嶋神社考古学として多少コメントを加えさせて頂きます。
恐らく、旧「美風庵だより」様は、欠史八代を超え日本の第16代天皇、『日本書紀』が大鷦鷯天皇=仁徳天皇は九州王朝の天皇ではないと考えておられるのかも知れませんが、仁徳=オオササギ=高良山ではシレカシノミコトとする、開化天皇と神功皇后との間に生れた長子(五人兄弟の実子)であり、事実上、最後の九州王朝(呉の太伯の末裔=周王朝の正統皇統でそれ以外は認めない)天皇であり、あまりにも影響が大きかったため消せなかったため近畿大和朝廷も天皇扱いとしたのであり、この時代、仁徳天皇は本拠地を浪速(落語の「高津の富」高津宮)に移しているのです。勿論、応神天皇の子などとしているのも真っ赤な大嘘です。ただ、子孫とされ乱暴者扱いされた雄略辺りまでは九州王朝の痕跡を辿れそうなのです(百嶋由一郎もそのように話しておりました)。

百嶋由一郎極秘神代系譜
鳥羽宿祢の話で会所山の話が出ましたので、この件についても触れざるを得ません。画像は「空」SORAそら様のものです。こちらも私と同じ頃から書かれており、ネット上で頻繁に出くわします。いつも参考にさせて頂いています。
その前に、景行天皇もやたら持ち上げられていますが、こちらも草部吉見絡みで、伊勢の外宮様の山幸彦以前の夫=海幸彦で、その間に生れた御年神(熊本県玉名市出身で同市の疋野神社の主神)の子が景行天皇と格上げされているのです。
その景行までもが天皇(第12代)扱いされ、玉名から山鹿に川を登り、出迎えたのが山鹿灯篭祭になっているのです。多分、明治の県社昇格に絡んでいると思うのですが、調べる気にも

なりません。灯篭まつりの“ヨヘホヨヘホ”も元々、祇園祭をやっていたのが大宮神社であり、ヤーベ、ヤファエ、エホバ…の一つの表現なのです。元々、大宮神社は阿蘇12神も景行も祀っていたはずのないイスラエル系の神社(金山彦主神=地神として今も祀られていますが…)で、阿蘇系は南北朝争乱期以来、景行は明治の県社昇格の為に持ち込まれた祭神のはずなのです。当然、宮司家はご存じのはずです。知らなきゃ潜りですね。景行は九州の山奥を探検隊を率いて巡っただけの事なのです。この景行もオオ足(タラシ)彦と、所謂タラシ系とされている理由は、スサノウ自体が伊弉諾と伊弉冉の子であり、伊弉冉はイスラエル系の金山彦の妹の流れを汲んでいる事からヨヘホヨヘホと松明で出向えたのです。
そもそも、百嶋由一郎氏のお姉様も山鹿の名家に嫁いでおられ、百嶋家も明治の納税百傑に3家入っておられる様で、周辺のどの神社からも生の情報が得られる大地主の御曹司だった事から真実の話を得られる立場におられたのでした。脇道に入りましたので、以降は次のブログに廻します。
新ひぼろぎ逍遥 1087 2025年新春三社詣りトレッキングで参拝した大分県日田市の石井神社 ❸に続く…
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