2025年02月01日

新ひぼろぎ逍遥 1085 のビアヘロ238への緊急転載 新ひぼろぎ逍遥 1085 2025年新春三社詣りトレッキングで参拝した大分県日田市の石井神社 ➊(前) 新ひぼろぎ逍遥 1085 2025年新春三社詣りトレッキングで参拝した大分県日田市の石井神社 ➊

新ひぼろぎ逍遥 1085 のビアヘロ238への緊急転載

新ひぼろぎ逍遥 1085 2025年新春三社詣りトレッキングで参拝した大分県日田市の石井神社 ➊(前)

20250118

太宰府地名研究会 古川 清久


2025年が始まりましたが、恒例の新春三社詣りトレッキングは大分県日田市で行いました。

今回は、「事代主のブログ」のライターである杉山氏と日田市在住の佐々木氏による企画でした。

私も近いことからいつでも行けると後回しにしていた事から、実は初見の神社だったのです。

同社については、事代主のブログを読まれるとして、私のリポートは彼らに関係なく書かせて頂こうと思います。まず、場所の説明から始めます。

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石井神社 カーナビ検索 大分県日田市石井182

大宰府地名研究会 2025119日(日) 三社参り日田トレッキング


  日田+大宰府集合場所(当会メンバー)日田天領水の里 元氣の駅 日田天領水の里

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無題.png石井神社→ガランドヤ古墳→日田→久津媛神社→高住神社

日田向け案内

日時:119日(日) 10001600

主催:太宰府地名研究会

共催:日田の古代に誇りを抱く人々

定員:先着30名(資料代)

テーマ 筑紫の君磐井から導く日田の壮大なるロマンの旅

参加費:1000


日田の方の申し込み先:メールのみ fanpu87@yahoo.co.jp(佐々木)まで

1000 石井神社(主祭神:鳥羽宿禰)          カーナビ検索日田市石井182

1045 装飾古墳ガランドヤ古墳 資料 資料担当 佐々木 カーナビ検索日田市石井1181

1145 昼食と豆田散策

天領日田資料館 金銀錯嵌珠龍文鉄鏡の復元品(入場料は個別支払い)日田市豆田町117

1400 日田地名の女神 久津媛神社(50m先に鳥羽宿禰の塚あり) 日田市日高31

1450 高住神社         資料担当佐々木        日田市天瀬町馬原

1600 解散         ※  当日、都合により石井神社は最後に廻しています。


筑紫の君磐井と言えば、装飾古墳。日田にも、ガランドヤ古墳意外には、報恩寺古墳や穴観音古墳装飾古墳が存在しています。『日本書紀』では磐井ですが、『古事記』では石井と書いています。日田市の三隈川以南の日田は石井郷という大きな地域でした。日田の筑後川以南については、阿蘇や菊池などとの縁が深く、この磐井とも関係していた可能性が高いと思います。石伊の意味は、石体と水神との縁からの意味があるかもしれません。

日田の戸山神社には、石体大明神との縁が書かれて、大蔵氏と鷹神に通じています。また、日田の古代史に登場する、石井源太夫は田島の地名の由来で農耕と深く関わっています。また、田島神社や田道間守?との関連、但馬の地名にも関係している可能性も秘めています。他に、成務天皇の頃の鳥羽宿禰(葛城直)と謎めいた人物が登場し、石井神社の主祭神はこの、鳥羽宿禰(葛城系図の荒田彦と兄弟)です。

石井神社の神宝は「剣」です。剣と言えば熱田神宮。その熱田の祭祀に、源太夫という名が絡み、乎止與命との縁が注目される。豊国という鳥信仰に通じ、日田の高住神社も鷹の神紋の可能性が高い。磐井(いはい)という石体と鳥信仰から導く6世紀の、日田と大鳥郡(大阪)、尾張・美濃の実体がみえてくるのかもしれない。

磐井については、日田の金銀錯嵌珠龍文鉄鏡を伝世していた可能性も否定はできなく、剣に関わっていれば、三種の神器の謎が解けるかもしれない磐井こと石井。

行基や役行者そして弘法大師さえ、通じている可能性もある。また、明治時代の加藤咄堂の研究によると、用明天皇二年に勅を受けて宮に入った豊国法師は、日本における僧のはじめとされる豊後国日田郡の藤原恒雄(忍辱)を指すという。神仏習合も見えてくるか?

当日連絡 事務局(中島)090-52892994 編集員(古川)090-62983254 雨天等中止

今回の企画を準備した当会のメンバー「事代主のブログ」氏は石井神社 @ 2014/10/29、A 2016/06/25で、以前からリポートを書かれています。

この事から、私が後追いで書くのも烏滸がましいことから、この二本を先にお読み頂き、同氏が触れていない部分について書くことにします。以下、解説文のみ。

無題.png

@  2014/10/29 日田市 石井神社 テーマ:継体天皇 筑紫の君磐井

本日は日田で大原八幡宮に次ぐ神社石井神社を紹介することにさせて頂きます。

祭神    止波(鳥羽)宿禰(とばのすくね)

石井神社  「石井は古代の郷駅が置かれた土地で、この石井神社も日田では大原八幡宮に次ぐ由緒のある神社である。

大和朝廷が諸国に国造をおいたとき、鳥羽宿祢が日田国造となり、三芳の会所宮に庁を設けたと伝えられるが、後に日田郡司大蔵永弘が宿祢をこの石井神社に祀ったという。

また当社の神宝である同鉾は、嘉禄元年(1225)に津江山の住人が掘出したと古書に記したものと思われ、長さ77.5糎、幅7糎の中広銅鉾である。昭和503月、日田市指定有形文化財に指定されている。」 日田市文化財調査委員会

石段を昇ると山門です 本殿です みごとな彫刻です 続いて摂社です 「かむながら」と読むようです。                     これが惟神の神額を持つ摂社です(古川)

神道(しんとう、かんながらのみち)は、日本の宗教。山や川などの自然や自然現象を敬い、それらに八百万の神を見いだす多神教。自然と神とは一体的に認識され、神と人間とを取り結ぶ具体的作法が祭祀であり、その祭祀を行う場所が神社であり、聖域とされた ウィキより

祭神の止波(鳥羽)宿禰(とばのすくね)ですが

止波宿禰は『旧事本紀』に13代成務天皇の御世に、葛城国造と同祖、止波宿禰を定めたとある。

 また、豊日志には、止波宿禰は刃連(三芳町)に居住し農耕を教えたとあり、現在でも会所山(よそやま)の中腹には、止波塚と呼ばれる古墳も存在している。

豊西記には、止波が没したので百姓はその徳を懐かしんで祠を880年に会所山に建てたと言われ、これが石井神社の創立となっている。

豊西記には、後に石井郷に移り、今の石井神社になったと記述されている。また、890年に日田の軍司に任命された大蔵永弘が、石井村に奉遷し、この時に田島の住民も転居させたとある。

これはこの人物は次の人物のことを言っているのかもしれません。

昔、欽明天皇の頃(539571日下部君の祖先にあたる邑阿自という人が都 で靭部(靭とは矢をいれて背中に背負う道具普通藤葛等でつくった筒状の物)として 仕えていて、後に日田郡のこの村に移り住んで居を構えたので、靭負村(ゆぎおひの むら)と言っていた.後の人が改めて靭編郷(ゆぎあみのさと)と言うようになった。 この村には玖珠川があってこれは玖珠郡の東南の山から流れだし、石井まで流れて いる.また阿蘇川(現大山川)が流れ込んで合流して一つの川となっている、日田川 (現三隈川)と謂うのはこの川の事である。

刃連(ゆきい)は万葉集で靭編(ゆきあみ)とよむ。刃連神社は靭編神社別名日下部 (くさかべ)神社ともいい、今から約1460年前のもので大原神社よりも古い。祭神 は日下部君らの祖邑阿自(そむらあじ)以下最初の日田郡司で、日田市全体を治め、農 工業の祖神と崇敬されてきた。

この記載で気になる部分は 止波宿禰は『旧事本紀』に13代成務天皇の御世に、葛城国造と同祖と有る点です。 

つまりこの人物は葛城氏と同じ祖先を持ち阿蘇の人であると書いています。

御存知のように葛城氏は 武内宿禰の子孫です するとこの邑阿自もまた武内宿禰の子孫ということになります。

東漢氏と武内宿禰の子孫 もしかすると蘇我氏は平群氏ではなくこの日下部氏の子孫なのかもしれません。


A  2016/06/25 日田市 石井神社 テーマ:継体天皇 筑紫の君磐井

『筑後国風土記』逸文には、磐井が豊前の上膳県へ逃亡し、その山中で死んだ(ただしヤマト王権

軍はその跡を見失った)と記されている。

杷木神社の項で、杷木から豊前に逃げるには2コースあると書きました。

東峰村から抜けるルートには、磐井の足跡は発見できませんでした。

しかし日田のコースには、もしかしたら磐井ではないかと思われる足跡が見られました。

その場所とは、以前ご紹介した

石井神社 大分県日田市石井182 祭神 止波(鳥羽)宿禰(とばのすくね)

石井神社

「石井は古代の郷駅が置かれた土地で、この石井神社も日田では大原八幡宮に次ぐ由緒のある神社である。

大和朝廷が諸国に国造をおいたとき、鳥羽宿祢が日田国造となり、三芳の会所宮に庁を設けたと伝えられるが、後に日田郡司大蔵永弘が宿祢をこの石井神社に祀ったという。

また当社の神宝である同鉾は、嘉禄元年(1225)に津江山の住人が掘出したと古書に記したものと思われ、長さ77.5糎、幅7糎の中広銅鉾である。昭和503月、日田市指定有形文化財に指定されている。」 日田市文化財調査委員会

以前ご紹介しているのであとは省略します。

実はある書物を読んでいて「筑紫の君磐井」のことを「岩井」あるいは「石井」と表示している書物がありました。

「古事記」にも「磐井」は「石井」と記してあり。

更に『筑後国風土記』逸文の、磐井が豊前に逃亡したとあります。

そこで「磐井」「岩井」「石井」を検索すると、その道筋に「石井」と名が付く神社がありました。

そしてそこは大蔵氏(東漢氏)の主筋である日下部氏を祀る神社でした。

同じ意見が無いか調べてみますと

『豊後日田古代文化史』 志手 環氏は、石井を「いしい」と呼んでいるが、『風土記』の意からみれば「いはい」と呼ぶべき様に思われる。

石井は、今「伊志伊」と訓んでいるが、『古事記』等に石を「伊波」と呼んでいる。磐井は石井で伊波伊であり、その磐井が日田に縁故があり、日鷹吉士や日下部の一族で、この地に繁栄した事が偲ばれ、磐井もの地で生まれ地名になったのか、母方の郷であっと推測できる。としている。

更に祭神の止波(鳥羽)宿禰(とばのすくね)ですが

止波宿禰は『旧事本紀』に13代成務天皇の御世に、葛城国造と同祖、止波宿禰を定めたとある。

また、豊日志には、止波宿禰は刃連(三芳町)に居住し農耕を教えたとあり、現在でも会所山(よそやま)の中腹には、止波塚と呼ばれる古墳も存在している。

刃連(ゆきい)は万葉集で靭編(ゆきあみ)とよむ。刃連神社は靭編神社別名日下部 (くさかべ)神社ともいい、今から約1460年前のもので大原神社よりも古い。祭神 は日下部君らの祖邑阿自(そむらあじ)以下最初の日田郡司で、日田市全体を治め、農 工業の祖神と崇敬されてきた。

豊西記には、止波が没したので百姓はその徳を懐かしんで祠を880年に会所山に建てたと言われ、これが石井神社の創立となっている。

豊西記には、後に石井郷に移り、今の石井神社になったと記述されている。また、890年に日田の軍司に任命された大蔵永弘が、石井村に奉遷し、この時に田島の住民も転居させたとある。

この話を総合すると、「石井」とは「いわい」であり日下部氏であり止波宿禰と同一人物もしくは同族と読める気がするのですが・・・

長くなりましたが推測はこのぐらいで今回撮った写真をご披露します。(本ブログでは省略)

この流れが欽明・用明・聖徳太子に続いていくような気がします。斉明天皇と中大兄皇子が朝倉に宮を置いたのも、これが理由かもしれません。神社の詳細は、石井神社@をお読みください。

※  マーカー、ボールド表示、赤字…は当方で行ったもの

杉山氏がきちんとした基礎調査を行っておられるようですので、それに依拠するとして、筑紫の君磐井は、母方の地ともされる日田市石井を経由し、当時、九州王朝の神宮であった、安心院、宇佐への逃亡を企図し石井を中継したものと思います。これは、「法隆寺は移築された」(大宰府から斑鳩へ)を書いた故)米田良三も「逆賊磐井は国父倭薈だ」でもそう書いており、その後も米田は「東アジアの悲劇」「現代を解く・長谷寺考」…外 多くの貴重な著作を残しています。これらを読むと、如何に米田良蔵が九州王朝の真実を追求していたかが良く判り、他の論者の著書を読むのが馬鹿馬鹿しくなるほどで、通説派の邪馬台国は全国に百カ所も候補地があるとイカサマ古代史を展開している邪馬台国シンポジウムを遣らかしている疑似邪馬台国畿内説論者から田川辺りで行政の芸人に成り下がっている自称九州王朝論者などの漫画の様な話にウンザリしている中、今回の杉山氏の石井神社へのメスは、まだまだ、奥深く抉ってくれる事を期待しています。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 23:17| Comment(0) | ビアヘロ
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