1013 続々大分県日田市の「有王社」を疑う ❸“「平家物語」の有王童子がここに祀られる必然性は無い
20240212
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
一般的に「有王」として知られるのは「平家物語」の俊寛を訪ねた有王童子以外にはないでしょう。
最近もブログを書き続ける中で、BGMとして頻繁に「平家物語」の朗読を聴き流しています。
以前、俊寛僧都の島流しの部分も聴いてはいたのですが、とっさには有王童子の事までは頭が回りませんでした。聴いていたのは尾崎士郎のシリーズですが直接には(3)の有王 に当たります。以下。

今回、ほぼ、この日田にだけ存在すると思われる有王社に対面し(以前にも訪問してはいますが)、今回日田の神社を再考する必要性に迫られ有王神社は蟻通神社だったのではないかと思い始めました。
それは、和歌山県〜大阪泉佐野に掛けてかなりの蟻通神社の事が浮かんできたからでしたが、どう考えても蟻通神社としてはこれほどぴったりするものは無く、もしかしたらこちらこそが蟻通しの起源ではと考えたのでした。
それは、上流の日田市は古代(1800年以前)の高良大社、太宰府を本拠地とする八咫烏の副都に相当する重要な拠点であった事に気付いたからでした。
ただ、ここにあるのは有王社と言う、平 清盛に対する腰の入っていない失敗したクーデターに絡んで薩摩の喜界島に流刑された3人の内、俊寛一人だけが帰国を許されなかった(陰謀計画は俊寛の屋敷で行われていたのですから)ためこの哀れな僧頭に縁のある有王なる童子が娘の親書を携え、硫黄島に亘ると言う有名な話に登場する童子を祀る神社とされている事に非常な違和感を抱いたのでした。
「俊寛流刑の地,鬼界ヶ島伝説」が残る三島村硫黄島(鹿児島県HP)より

〜悲運の僧俊寛〜
時は,冶承元(1177)年,世は平家の時代となっていました。
そんな権勢極まる平家の時代に,俊寛の別荘である京都東山鹿ヶ谷荘(ししがたにそう)では,後白河法皇(ごしらかわほうおう)等による平家打倒の陰謀が企てられました。
しかし,源行綱(みなもとのゆきつな)が,この陰謀を平清盛(たいらのきよもり)に密告。清盛は激怒し,陰謀を企てたとして俊寛僧都(しゅんかんそうず)・藤原成経(ふじわらのなりつね)・平康頼(たいらのやすより)を,薩摩国(さつまのくに)の鬼界ヶ島(きかいがしま)に流刑(るけい)しました。
その流刑となった薩摩国の鬼界ヶ島が現在の三島村硫黄島であったと言われています。
鹿児島県鹿児島郡三島村の硫黄島、鹿児島県大島郡喜界町の喜界島、長崎県長崎市の伊王島 ...
と(これ以外にもあるのですが)、流刑地は現在も特定されておらず、ここでは一応、屋久島、種子島の西の硫黄島としておきましょう。
ただ、その著名な清盛の時代の童子がこの地に祀られているはずは無いのであって(出船地は薩摩潟とされており(旧加世田と)、普通は三島の硫黄島辺りになるのは不自然ではなさそうです。ともあれ、私はそれを疑っており、さらに千年遡る基層に、八咫烏を祀る蟻通神社と考え何か手掛かりがないかと考えあぐねていたのですが、悩めば道が開かれたのです。それが以下のブログでした。
有王社(龍王社) 祭神:瀬織津姫(天照大御神荒魂)日田から筑紫平野に入る場所にある神社です。高良大社を拝むように配置されています。
日田で唯一祭神とされている瀬織津姫
有王社(龍王社) 祭神:瀬織津姫(天照大御神荒魂)https://spiritual-place.main.jp/ariousya.htmlより引用

筑紫平野を睨む、位置にあります。
現在、この古代祭祀線の専門家で当会のメンバーである伊藤まさ子女史(ブログ「」)にさらに詳しく検証してもらっています。時代と共に建物は改築などで移動しているためであり、この知識を持たないと祭祀線の解読はできないのです。

折れ曲がった川の異様さは凄い 瀬(川)織(折)媛・・・・
このレイ・ラインを見出された方の慧眼には驚きました。
その時点ではこれ以上の突破口が見えなかったところに光明が差した思いでした。
これで有王社の基層を探る更なる探求と併せ、日田が八咫烏の存在した九州王朝の副都だった事がより鮮明になったと思ったのでした。
後は、伊藤まさ子女史の探求の結果を待つため暫し作業を止めます。
と言っていたら、数日を待たずして回答を得られました。
何故となれば、俊寛僧頭の時代であれば、平 清盛(1118〜1181)全盛期であって、その時代に敢えて住吉大社〜太宰府〜有王社、武雄神社〜高良大社〜有王社と言った祭祀線を引く必然性など無いからです。
つまり、もしこの祭祀線が本物であれば、初期の九州王朝の重要な祭祀を繋いでいる可能性があるからでした。
このことは、良く言えば、有王社の基底部には本来別の祭祀が存在していた濃厚な可能性を示唆しており、悪く言えば、この九州王朝としか言いようが無い祭祀線とその祭祀対象としての有王社以前の祭祀を隠したかったはずなのです。
不知火書房(福岡市)092₋781₋6962「太宰府・宝満・沖ノ島―古代祭祀線と式内社配置の謎」¥1,980...
つまり、贈)応神天皇侵入以前、大原八幡宮成立以前の政治的基盤を近畿大和朝廷の息のかかった地方政権の癇に障る祭祀を消し去った可能性が浮かび上って来たのでした。
彼女は既に「太宰府・宝満・沖ノ島―古代祭祀線と式内社配置の謎」伊藤 まさこ を出版しています。
しかも、少しでも逸れればそれを考え、社殿の建て替え、燃失後の再建(基礎は残りますが)、規模拡大などの多くの変化が起こります。
その点からは、4〜50メートルのズレがありそのままでは認められないと考えるのが彼女の考え方であり、その旨回答してこられました。
勿論、それは有り難く受け入れましたが、私が想定する蟻通神社とは清盛の時代から約千年は遡るものであって、実は武雄神社も現在の地から南側にあったと聴いており、本当は崇神を祀る博多の住吉神社にあっても、元々宮まで遡る前に、元宮が南にあり、高良大社にしても九州王朝崩壊後に大和朝廷がそれを抑え込むために彼らが造ったのでしかないのです。さらに言えば、太宰府天満宮も神仏混交期のものなのであって、多少の誤差は甘受すべきではないかと考えるのでした。
その意味では、先行祭祀線研究を提案された慧眼を全否定などできないと思うのでした。