ひぼろぎ逍遥(跡宮)1003 熊本県玉名市の木の葉とは何なのか?(下)木の葉の基層を考える
20231117
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
グーグル・マップの図表で熊本県玉東町(木の葉)の神社を再掲しています(町外の神社も表示されていますのでご注意を)。
これを「熊本県神社誌」搭載の神社と突き合わせると、霊雨山神社(霊雨、霊符はハ行転呼音?)、天子宮…が搭載されていない事は明らかです。その理由は分かりません。新興宗教では全くなく、神社誌以降の祭祀ではない事は明らかですので内部に温存されていたものかも知れません。

木の葉の町境を好い加減に入れていますが、木の葉の西側、古代の菊池川と有明海との邂逅部(河口)の船溜まりと思われる場所がヤタガラスの領域でその範囲は木の葉ではなく、博多の櫛田宮の一族が、展開した港湾だったはずなのです。
梅林天満宮、出雲神社、熊野坐神社…が展開しています。
梅林天満宮も道真公の父方の流れを汲む天満宮のはずです。
一方、木の葉の東側が現熊本市の旧植木町の池王宮などになるのです。池王とは余り聞かないものですが(愛媛の佐田岬に関連するものがあります)、多分菅公の父方のご先祖(ヤタガラス)を祀る神社ではないかと考えています。
次に神社誌から木の葉を考えて見ましょう。
既に、神社誌の28〜29pの集計を見れば、県3237社中、阿蘇系と言えるのは僅か294社で、菅原神社(天満)が1012社となっていることはおつたえしました。
そこで、その事だけからでも、古代の熊本がとんでもない国だった事が見えてくるのです。

まず、菅公が多い事は直ぐに分かります。肥後に多い阿蘇系はと言うと、応神を持ち込んだのは草部吉見(中央に進出した阿蘇氏=多氏=宇治氏…後の藤原一族)ですので、山北八幡宮は、実質、阿蘇系と言えるでしょう。宇都宮神社も同様です。ただ、彼らは畿内で権力を握って以降、伊倉や木の葉、玉名の重要度を認識し、後の支配者となったと思われます。
もう一つ、年神社も大歳神=草部吉見=ヒコヤイミミですので、東に進出した阿蘇氏で良いでしょう。
すると、この4社を除けば、木の葉の古代が浮かび上ってくるのです。
冒頭の白山比唐ヘ八代の妙見宮の天御中主命の事ですので、博多の櫛田神社の大幡主=カミムスビ神の叔叔母となります。
熊野坐神社が2社ありますが、忌部の神々=熊野本宮、熊野那智、熊野速玉となりますが、天御中主命〜カミムスビの造化三神の二神でこの一連の神々でしかないのです。
最後尾の天水分神も普通は天御中主命かも知れません(大山祗系のミヅハノメも水分神ですが同地には大山祗系がないため違うと思います)。
最後に、神社誌も不詳としている畑神社ですが、大根が神様ではないはずで、秦氏を祀るもので良いでしょう。秦の始皇帝の一族が滅亡を機に列島に移動したのが秦氏ですのでその一派がこの地にも展開しているのです。
稲荷神社は宇気母智神で伊勢の外宮様と同体である事をはっきりと描いています。
菅原道真公はナガスネヒコの後裔の本家である「伴の女」とヤタガラス=カミムスビの跡継ぎの本家同志の婚姻によって成立しているため、阿蘇系の数社を除けば、全てカミムスビ系とナガスネヒコ系(菅公を表に出しナガスネヒコ系を引っ込めている)の神しかいない地域である事が分かるのです。
そしてそのシンボルが天子宮、霊雨神社、畑神社とすれば木の葉の特異な性格と言えるでしょう。
秦の始皇帝がイスラエル系であるとの説は常識に近いところですが、始皇帝と姻戚関係を結んだ金山彦の娘=櫛稲田姫がスサノウの間に生まれたのがナガスネヒコですね。すると、菅原神社はその系統に道真の覆いが掛けられている訳で、それに加えてスサノウ系も新羅の王子様で、白木地区があるとすれば木の葉とはそういったイスラエル系の居留地だった様に見えるのです。それが木の葉の印象なのです。


木の葉の隣の下小田に育った百嶋由一郎が残した最後の神代系譜を半切りで最大に拡大したものです
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そもそも私が神社調査に踏み込んだ理由は九州王朝説を現場で裏どりする作業の一環から「天子宮」調査に踏み込み、125本ほどの短いブログを書き、一部は本ブログなどにも書いていますが、まだ神社研究の駆け出しも駆け出しだったため半分近くを公開し、後半は未公開に留めています。
ただ、誰もやっていない領域だけにそのうち公開しようとは思っていますが、現在の活動を優先させているため時間が廻せないでいます。
木の葉の南の小天町、玉名市伊倉があります。この地域も天子神社、天子宮が密集した地区で、この一帯を含めた全域がヘブライ系の人々が住み着いていると言えるのです。
古田武彦の影響を受けた九州古代史の会の指導部の一人だった荒金氏が天子宮をアメノタリシホコとして著書に書かれていましたし、それに基づいて、実際にはそれを西日本全域に広げて調査したのが私の125本天子宮調査でしたが、タリシヒコ説は誤りで、途中で百嶋由一郎が言っていたモーゼ説が正しいと気づき、天子宮調査に意味を失ったと言うところが正直なところです。
従って、この三地域を加え、球磨川流域そして人吉盆地全域、山鹿市までがこの勢力下に在った事が見えてきたのでした。稚拙な天子宮調査でしたが、百嶋由一郎氏の神社調査の素晴らしさに今更ながら感銘しています。
今回、当会の活動に加わっていただいた方の出身地が木の葉だったため久しぶりに調査に乗り出したのですが、漸く全貌が見えてきましたが、一般には受け入れては頂けないと考えています。
このため、現段階では二つほどの仮説を提出しておきたいと考えています。
どう見ても、木の葉と言うのは地名としては一般的ではなく、他地域にも存在しない孤立した地名です。
ただ、ここに来て一つの考えが浮かんできました。木の葉の木とは胡人の「胡」ではないか、つまり胡人の住み着いた居留地だったのではないかと言う仮説です。
そして悪質なイエズス会のポルトガル宣教師もその事に気付いていたはずで、伊倉に上陸した宣教師達も阿蘇越えで、竹田市を経由し大分市の七瀬を経由し大伴宗麟の府内に移動していたのです。
そして、その地にも中国の超の領域の邯鄲(カンタン)=シルクロードの終着点から移動してきた人々が住み着いた土地にも似て、九州の東と西に胡人の住み着いた土地ができていたのです。
菅公を祀る神社が集中する玉名の東部域とはそのような胡人の地であり、当の菅原道真公も太宰府への都落ちと藤原氏による暗殺…を避け別府と大分の境の邯鄲辺りに潜行していたのです。

邯鄲市は、中華人民共和国河北省南部に位置する地級市。京広線の沿線にあり、石炭業のほかセメント製造、鉄鋼業、紡績業、電子産業などが盛んであり、その交通の便から工業全体が伸びている。 戦国時代の趙の首府であり、日本ではとりわけ「邯鄲の夢」「邯鄲の歩み」の故事によって有名である。
ウィキペディア 20231118 10:34 による
大分市の邯鄲
274 大分市の「邯鄲」(カンタン)地名とは何か?
20160710
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
今回は地名の話をします。大分市に「かんたん」という奇妙な地名があります。
大分から別府市に移動する時、一番込み合う所をようやく抜けた辺りですが、臨海道路と国道10号線が合流し別大国道に入って直ぐの所にあるのが問題の「かんたん」地区です。
漢字表記では「邯鄲」と書かれますが、一般的には“別府湾の昔の呼び名「邯鄲湾」から呼び習わされている”といったある種曖昧で中途半端な説明で済まされているようです。

この事についても百嶋先生は菅原道真逃避行の件で話しておられましたが、要は中国の邯鄲からの移住者が住み着いていた地といった事でした。
邯鄲それ自体は鈴虫だかこおろぎだかの蟲の名らしいのですが、中国のど真ん中の湖北省に邯鄲市があるのです。
邯鄲市(かんたんし)は、中華人民共和国河北省南部に位置する地級市。京広線の沿線にあり、石炭業のほかセメント製造、鉄鋼業、紡績業、電子産業などが盛んであり、その交通の便から工業全体が伸びている。
戦国時代の趙の首府であり、日本ではとりわけ「邯鄲の夢」「邯鄲の歩み」の故事によって有名である。
ウィキペディア(20160710 19:00)による
邯鄲市は、中国沿岸部に位置する河北省南部の都市です。
中国・戦国時代には趙の首府が置かれたことから、中国の古都として広く知られているほか、秦の始皇帝の出身地でもあり、歴史・文化遺産の豊富なまちでもあります。こうした歴史に根ざした邯鄲市には、この地にちなんだ故事成語が今にも多く伝えられ、とりわけ「邯鄲の夢」は日本人にも馴染みの深い故事として有名です。
近年は、石炭・鉄鉱石などの豊富な地下資源を生かし、石炭業やセメント製造、鉄鋼業などを中心とした工業都市として発展をしています。
人口・面積約1012万人 12,000平方キロメートル 大垣市のHPより
そういえば遊郭のある港町といった話は聴いたことがありました。
邯鄲(かんたん)遊郭
かつてこの地は風光明媚で知られ,明治十七年(1884)にここに港が開かれてからはいっそうにぎわいを見せたという。
今わずかに残る建物によって,当時の邯鄲遊郭のにぎわいを偲ぶことができる。
大分市の遊郭は大分港の西岸にあった。『全国遊郭案内』(昭和5年)によれば下記の通り。
大分港遊郭は大分県大分市大分港町に在って、日豊本線西大分で下車すれば西北約5丁、電車は「かんたん」に下車すれば宜しい。大分市は九州東海岸唯一の市で県庁の所在地、元大友氏の城下町で、城址は今県庁、水産試験場、女学校等に成っている。檜物細工は此処の特産物に成って居る。港町からは笠結島が見えて景色は殊によい。遊郭には貸座敷が22軒あって、娼妓は190人居る。
この地は現在、生石港町という地名で、おそらく港整備のために埋め立てた土地なのであろう。整然とした町割で、海に向かう目抜き通りに面して大店が軒を連ねている。建物外観は全て伝統様式であるが、戦後赤として営業したため1階玄関周りはモザイクタイルの張られた洋風に設えている。今や空き地になった敷地も目立ってきているが、これだけ残っていれば町並みとしての評価は高い。
参考文献 「赤線跡を歩く2」木村聡 自由国民社
blog「閑居六尺」より

「邯鄲」についてのイメージをお持ちでない方も多いと思いますので、2006年の日中韓合作映画「墨攻」(酒見賢氏の歴史小説、それを原作とした森秀樹氏による歴史漫画がベース)にも邯鄲が出て来ましたのでもしかしたら覚えておられる方もおられるかも知れません。また、森秀樹氏による漫画では、虫を使った秦軍によって落とされた邯鄲城から、司路によって助けられた革離たちが理想郷を求め東へと出発する話があり、むしろこちらを読まれた方が邯鄲をよりご存じではないでしょうか?

2000年前の戦乱の中国を描いた同名の人気コミックを映画化した歴史スペクタクル。10万の敵に囲まれた落城寸前の小国の城が、平和のために戦うという目的で助っ人にやって来た1人の“墨家”に救われる伝説の戦を壮大なスケールで描く。…中略…
ストーリー:紀元前370年頃、巷淹中(アン・ソンギ)率いる趙の10万の大軍が住民わずか4千人の梁城に攻め入ろうとしていた。梁王(ワン・チーウェン)は墨家に援軍を頼んでいたが時間切れで、降伏しようとした時に墨家の革離(アンディ・ラウ)という男がたった1人で城に到着する。彼は1本の矢で趙軍の先遣隊を退けてしまい……。
より
いずれにせよ、中国の春秋戦国時代、燕、趙、魏、秦、韓、斉、楚の七国の狭間で翻弄された邯鄲から、また、その後も続く政治変動の度に多くの民が列島を目指し辿り着いたことを思わずにはいられないのです。

図面は『大陸西遊記』ホーム より 下も邯鄲市

いずれにせよ、大分市に「邯鄲」と書き「カンタン」と呼ばれる地名が存在している事は事実です。
ただし、「地名」には戸籍がないことからいつ成立した地名なのか、その背景がどうであったのかも分かりません。かつては、別府湾も邯鄲(カンタン)湾と呼ばれた時代があったのです。
ただ、河北省邯鄲は西域から胡人(ソグド人、後にペルシャ)の文化が入ったと言われています。
この点、百嶋先生が話されていた事ですが、菅原道真逃避行を受入れたのがこの邯鄲の人々であり、
彼らの先祖は遠く中国の邯鄲から逃れてきた人だったと言うのです。
道真が大幡主の子であるヤタガラスの本家筋とスサノウの子ナガスネヒコの一族の本家筋の流れを汲む人であった事を知ると、奇妙な付合を感じてしまうのです。 先生の頭の中では、新羅の王子様のであるスサノウも遠くペルシャのスーサから東に移動した一族だったからです。