2024年05月01日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)1001 熊本県玉名市の木の葉とは何なのか? (上)

ひぼろぎ逍遥(跡宮)1001 熊本県玉名市の木の葉とは何なのか? (上)

20231115

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 玉名市の東部域に旧玉東町があります。

何故かこの地域の中心部に在るJR鹿児島線の駅が「このは」と言うのです。

 木葉山が聳え、木葉川が有明海に注ぐのですから、きっと相当古い背景を持っているのでしょう。

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JR木葉駅


熊本駅から西voice5番目の駅ですから20分ほどで熊本市街地に入られる言わば大都市近郊の地になるでしょう。このため、熊本市役所、熊本城周辺の交通渋滞を知る人が列車と路面電車(トラン)で目的地に向かう需要はあるのではないかと思うのです。

ただ、木葉(このは)という地名が古いものならばちょっと変わった印象を持つのです。

玉名は古代から国際貿易の拠点であったことが容易に推定できるだけに、もしそうだとすると少し想像の暴走が起きてしまうのでした。

旧玉東町は玉名市の東と言うだけのものでしょうからやはり「木の葉」地名の方が気になるのです。


玉名が「タマキナ」or「タマイナ」と呼ばれたと言う話は良く取り上げられるのですが、そのような誰でもが取り上げるような通説擬きの話は、どこぞの地名研究会か史談会に任せておけば良いのであって、我々、佃収九州王朝説や百嶋由一郎神社考古学、平野雅(日+廣)古代史研究にシンパシーを寄せる当会にはタマキナだったなどと言う話は興味の対象外になってしまいます。


『日本書紀』景行天皇18年の記事では、玉名は「玉杵名邑」(タマキナムラ)とよばれていました。平安時代の『和名抄』には「多萬伊名」(タマイナ)。太宰府天満宮の『天満宮託宣記』には「玉井名」の文字があります。このことから「タマキナ」から「タマイナ」に音が変化して、最終的に今の「タマナ」になったと思われます。                                 玉名市HP


しかし、“熊本県玉名市(旧玉名村)は「土車(トゥチャ)の里」だった!”などと言えば、愕かれる方はかなり増えるのではないかと思います。では、次をお読みください。

以下、ひぼろぎ逍遥(跡宮) 265 熊本県玉名市(旧玉名村)は「土車(トゥチャ)の里」だった!

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これは「熊本県玉名郡誌」の一部で、「土車の里」(土車の荘)以降には、新幹線玉名駅正面の玉名大神宮、玉依姫(この玉依姫は鴨玉依姫か?)に関わる話が書かれています。

 では、「土車」とは一体何のことなのでしょうか?これも百嶋先生はご存じだったようでメモが残されていました。支那城の記事についても重要ですので次のブログで書く予定です。

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百嶋先生はどちらも黎族とされていますが、湖南省のこの地のトゥチャ(土家)族が多氏に随行して阿蘇グループ治下の玉名に入植した様です。…尚、玉名の古名はトゥチャ(土車の里)でした。と書かれています。…では、土車族(土舎、土家、土家族とも)をご紹介しましょう。勿論、阿蘇氏も黎族(猫族)。

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 実質800万人以上とも言うトゥチャを少数民族と言うかは疑問ですが、伝統的な衣装を着たトゥチャ族とミャオ族とペー族の女性(恐らく白い服を着たのが白=ペーツー=ペー族)。


トゥチャ族(中国語:土家族 ビジ語:ビジカ)は中華人民共和国が公認した55少数民族のひとつで、主に湖南省湖北省重慶直轄市(旧四川省)の交界地帯に住む。

人口約600万人、中国の民族の中で8番目多い。言語はシナ・チベット語族チベット・ビルマ語派に属する。長く漢族と交わって暮らしてきたため、現在ではトゥチャ語(ビジ語とモンズ語)を母語とする者は10万人未満程度とされ、ほとんどが中国語を母語としている。このように、民族の総人口と比較して母語人口が極端に少ない民族として、他に満州族(1000万人超えの民族であり、満州語を話せるのは5人以下)シェ族(総人口約80万人、シェ語を話せるのは1000人程度)が挙げられる。湖南省湘西土家族苗族自治州、湖北省恩施土家族苗族自治州が設置されている。なお、例えば、彝族の事を彝家などと呼ぶ事もある事から分かるように、「家」には「族」の意味も含まれている。そのため本来、土家でトゥチャ族の意味をなしており、これに族を加えるのは重複した表現である。しかし、西北に住むモンゴル系民族である土族と区別するためにも、重複した表現ではあるが土族ではなく、土家族を正式な民族名としている。

ウィキペディア(Wikipedia20160519 20:30による


 以下、ひぼろぎ逍遥(跡宮)265 熊本県玉名市(旧玉名村)は「土車(トゥチャ)の里」だった!


… 百嶋先生は「湖南省のこの地のトゥチャ族(土家族)が、多氏(阿蘇氏の事)に随行して、阿蘇グループ治下の玉名に入植したようです。尚、玉名の古名は、トゥチャ(土車の里)でした。」と書かれています。

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トゥチャ族は長い歴史をもつ民族で、その祖先は早くも2000年前から今の湖南省西部、湖北省西部一帯で生活し、その他の少数民族のように「武陵蛮」、「五渓蛮」と軽蔑されていた。宋代以後「土丁」、「土民」、「土兵」などと呼ばれた。漢民族の人たち多数移住してきてからは、「トゥチャ」が民族の称呼として現れた。トゥチャ族の人たちは自分たちのことを「ビツカ」と称し、「地元の人」という意味である。


 百嶋先生は玉名市の大地主家の御曹司でした。実際には戦後の農地解放で辛酸を甞める事になられたのですが、漢籍を諳んじ中国語を独学で学び、その中国だけでも400回飛行機に乗り8000万円は遣ったと言われているほどフィールド・ワークを重ねられた方だったからこそこの事実にも気付かれたのだと思います。漢族に最後まで抵抗を続けた誇り高き阿蘇氏や白族に加え土家もが海南島を経由し、列島に移動(亡命)して来たのです。では、最後に百嶋最終神代系譜の一部をご覧ください。

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右端の多氏が阿蘇氏ですが、赤○は阿蘇の草部吉見神=春日大神=海幸彦を、青○がヤタガラス、大幡主、天御中主を輩出した白族を意味しています。彼らが列島人の骨格を形成したのです。では土家は?

なお、研究のために百嶋神代系譜(全体で20種程度=現在は増えて90種)を希望する方は09062983254までご連絡下さい。…以上)

何故、ここで土舎族を取り上げたかと言うと、玉名が有明海でも水量が豊富な菊池川河口に位置する干潮時にも入られる天然の良港だったからと考えられるからです。


 もう一つの話に「多婆那国」とは玉名ではないかとして、韓国の学者までも調査に来ていたという話もあり、「三國史記」卷第一 新羅本紀 脱解尼師の「脱解本多婆那國所生也 其國在倭國東北一千里」…と言われているのです。

ただ、「タマナ」と「タバナ」は呉音と漢音の対抗現象が反映されており、目を「つむる」というか「つぶる」と言うか、帽子を「かむる」というか「かぶる」と言うか…など同義異音の例(M音、B音の対抗現象)が列島語の中に大量に存在しているのです。

この延長上につまり倭国人が新羅の王族だったという話で、それが新羅王族となるのです。

これもスサノウが新羅の王子様だったという話にまでなりかねない話で、まさしく玉名が国際貿易都市だった証左とも言えるのです。

 こういった話は結局決定的証拠に乏しく、そこから派生した多くの事実を帰納演繹的補強で証明するしかないのです。勿論、誰もやっていないのですが。ここでは玉名がそういった国際的な都市だった事を理解して頂ければ、何故、玉名の奥に江田船山古墳が存在するかも推定できてくるはずなのです。

 その延長上に玉名の伊倉にポルトガル宣教師どもの寄港地も存在したのです。彼らルイス・アルメイダ、ルイス・フロイスといった、奴隷貿易をやらかすイエズス会の侵略者どもが九重を越え大分の府内に陸路で移動していた事もあったのです。

 まあ、だいぶ前振りの話が長くなりましたのでそろそろ「このは」に入らなければなりません。

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古代の玉名、伊倉、木葉を考えながら、菊池川左岸を見る時大量の耕作地が存在することに気付きます。

 これらは菊池川が運んだ土砂が運搬堆積によることは一目で、伊倉がポルトガル船の船食、飲料水を伊倉の崖下の井戸から得ていた事は伝え聴くところですが、さらに遡る事一千年、想像できますが、紀元前後の海岸線を想像する時、安楽寺から木葉山の麓辺りまでは満潮時の静かな内湾、船溜りだったはずで、木の葉こそ当時のウォーター・フロントだったと思えるのです。船島など船溜りの名残かも知れません。

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木の葉のイメージが湧いてくると、漸くして次のイメージが湧いてきたのです。これは後でお話します。

 この地も多くの横穴墓が拾え、古くは大陸でも揚子江流域の人々が入っている様にも見えるのでした。

 さて、これから「熊本県神社誌」から木の葉がどのような土地であるかを考えて見ましょう。

 見難いと思いますのでページは改めますが、「熊本県神社誌」は記述の絶対量が少なく、祭神も主神+2随神といった程度の簡素な内容となっています。

このため、摂社、分社、末社…についても現場で確認する必要があり、そのままでは使い物にならないと言わざるを得ないのです。

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従って、現場を踏んで、全24社を見た上で尚間違いないと考えられる部分だけが正しいのではないかと思っています。

 木の葉の神社調査に入ったのは天子宮調査の関連でざっと見て回った15年ほど前の事でしたが、その当時はまだまだ駆け出しで、“奇妙な地域だなあ…”と言った感想を持っただけでした。

 それは今も同様です。実際、熊本県と言えば阿蘇神社だけが存在すると思い込んでおられる方が多いのです。ところが、実際は全く違うのです。

 神社誌の2829pの集計を見れば、県3237社中、阿蘇系と言えるのは僅か294社で、菅原神社(天満)が1012社となっているのです。

 この菅原神社を道真公と考えられるのはご自由ですが、そもそも9世紀の菅公を神様と考える方はおられないでしょう。

勿論、藤原が4人もの親族を失ったとして祟りを鎮めるために道真を祀れと新たに作られた神社もあるのですが、それとは別に、菅公のご先祖(父方のヤタガラス系と母方の金山彦の孫であるナガスネヒコ系)が隠されているはずなのです。それが熊本の大量の菅原神社の中に埋没し命脈を保っているはずなのです。

この金山彦系は秦の始皇帝(イスラエル系)との姻戚関係を結んだ元々イスラエル系の人々なのです。

 実際、木の葉でもこの傾向は顕著で、阿蘇系は24社中でも2社しかないのです。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記
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