2024年04月27日

1010 日田市の大原八幡宮の元宮〜元々宮を当会の宮原誠一氏が報告されています 

1010 日田市の大原八幡宮の元宮〜元々宮を当会の宮原誠一氏が報告されています 

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太宰府地名研究会 古川 清久


 日田で最も印象的で心惹かれる地名は花月、花月川でした。

 私は佐賀県の現在の武雄温泉駅前通りで育っており、幼少期には武雄温泉周辺や旧遊郭街にもちょこちょこ遊びに行き、紙芝居や旧遊郭街をちょろちょろしていたものです。

そのころの印象で最も頭に残っているのは花月という料亭で、温泉街の小山の一角に大きな木造の建物が残っていました。そのころは一体何のための建物だろうと思っていたものです。

この武雄温泉には花月と言う旅館もあったのを記憶しています。

最近、新たに花月と言う旅館が復活している様で、かなり興味を持っています。

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私の脳裏に残る遊郭跡と思われる巨大な建物の廃墟も、残った花月という旅館も復活した花月も百年を超える時の流れの一つなのでしょう。

この花月という名も、二十代にアルゼンチン・タンゴに嵌り、19301960年代のカルロス・ガルデルなどの歌のタンゴからオスバルド・プグリエーセ楽団などまさに熱中し長崎の一角に入り浸っていた頃、長崎の丸山遊郭の一角に花月があった事も脳裏に焼き付いており、花月という名には特に惹かれてしまうのでした。

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その頃、戦記物でもインパール戦記でも230冊近く読み漁りさすがに陸軍偏重を改め海軍の戦記物を読み始めると、当然、阿川弘之には遭遇するのは自然な流れだったのでしょう。

彼は1920年=大正9年生まれでしたが、昭和17年に東大の国文科を繰上卒業し海軍の予備学生として海軍に入っています。

この大正9年というのは実は私の父と同年配なのです。父は兄と同様に早稲田に行くつもりだったのですが、祖父の台湾の会社の経営が思わしくなっていたため金を掛けずにと陸軍士官学校に入りシンガポール攻略戦後の陸軍航空隊の新米将校になっていたのです。

その意味では阿川が内国勤務の海軍士官として終戦間際の海軍に入っているのですが、父よりも10年程長く生き2015年に亡くなっておられます。

阿川は文学部出身でもあったとおり、戦後、小説家として多くの本を書いておられます。

これは、本だったか講演だったか忘れてしまいましたが、「海軍と言うのは陸軍と異なり、勇ましいことを言わない、スマートな気質と言うものがあった…」(正確ではない部分はご容赦)としています。

確かに戦艦〜転用空母(信濃も含め)は旧国名が付され、高雄、妙高、摩耶…といった大型(一等)重巡洋艦は山の名を、同じく天龍、球磨、長良…小型(二等)軽巡洋艦は川の名を付されています。

 決して、陸軍のように勝鬨、忠勇、日本武尊と言った勇壮な名は決して付していないのです。

 駆逐艦についてもこの傾向は顕著で、峯風型(以下型は省略)、神風(これだけは勇壮かもしれませんが)、睦月、吹雪、綾波、暁、白露、朝潮、陽炎、夕雲、秋月…中止艦、未成艦もある中、最後に建造され実戦配備された艦が秋月型とされる花月だったのです。

 この秋月型には、秋月、照月、涼月、初月、新月、若月、霜月、冬月、春月、宵月、夏月…と言ったように、阿川は万葉集や源氏物語の世界だとしたのですが、口の悪い連中は町屋の名前ばかりじゃねいか…と言ったというのです。

 勿論、町屋とは武家ではない商家程度の意味でしかなく、結局は強烈なイメージを思わせる料理屋、旅館、遊郭の意味の遊郭の名ばかりじゃないかといった話があったという話を残しているのです。

比較的勇壮な神風型を見ると、朝風、春風、松風、旗風、追風、疾風、朝凪、夕凪となる訳で、多少勇壮な名を思わせるものもあるも、朝凪、夕凪と穏やかな風情を表しており、その意味で万葉集とか源氏物語といった評価は阿川の言う通りと同意をせざるを得ないのです。

この日田の盆地には、その勇壮な帝国海軍の艦船の名を思わせる地名が拾えます。


軽巡洋艦 三隈

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一等乙型 秋月型13番艦 花月

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もう一つ三日月という駆逐艦があるのですが、三日月と言う地名はかなりの数ありますので、日田市の三日月地名の専売特許にはならないのですが、一応取り上げさせていただきます。


睦月型一等駆逐艦 十番艦  三日月


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これらは駆逐艦の一覧ですが、無題.pngから引用させて頂いています。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記
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