2024年04月18日

1007 日田市の奥まった谷川に代々木神社が在る

1007 日田市の奥まった谷川に代々木神社が在る

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太宰府地名研究会 古川 清久


代々木と言えば東京の代々木であり、日本共産党という100年赤旗祭を行い100年労働者革命を起こそうともしない情けない自称革命党の本部がある地で知らぬ人のない土地ですが、代々木と呼ばれる土地も類型が乏しく、代々木性も常陸、大阪、福岡に僅かにあるばかりで、福岡では大牟田市に2件の例が確認できる程度です。


南は富ヶ谷付近までが代々木村であった。 代々木という地名は、現在の明治神宮南参道沿い(旧彦根藩井伊家下屋敷)に、旅人の目印として知られたモミの大木が、代々生えていたことに因む。     ホームズより

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代々木神社 カーナビ検索 大分県日田市大字小山689


 ここは日田でも筑後川左岸の南から注ぐ小渓の川沿いの地です。

不思議ですが、ここには代々木神社というものが鎮座しているのです。

 代々木という地名は、現在の明治神宮南参道沿い(旧彦根藩井伊家下屋敷)に、旅人の目印として知られたモミの大木が、代々生えていたことに因む。のだそうです。

 天領の日田なら井伊家のお屋敷の大木が代々生えていたから代々木だと言うのは分かりやすい地名の話になるのですが、ここが阿蘇に繋がる土地であるとすれば、少し思い当たる事もあるのです。

 それは井伊家のルーツが阿蘇の東の外輪山の一角である産山村ではなかったかと考えていることから、意外と代々木神社を祀ったという話は井伊家への忖度だったのではないかと思うのですが、それは、この地にも巨大なモミの木が生えていたという伝承なりが拾えれば繋がりとしてはより確度が高くなるのです。

 この神社はまだ参拝させていただいておりませんので日を見て参内したと思っていますが、図らずも井伊家とそのルーツと考えられる産山村との繋がりが垣間見えた気がしているところです。

 井伊と言う姓は伊井でもあり、一字の「井」が原形なのですが、対馬と産山村に異常な集積を見せているのです。

 この中国風の一字姓の「井」氏があるにも関わらず、日本からの遣唐使であり玄宗皇帝の近習にまでなった井 真成の墓が発掘され、井姓の日本人遣唐使の墓誌が出土するや、奈良の藤井寺市やら奈良県やらが村興し町興し宜しく大騒ぎし、井 真成とは遣唐使の藤井だろうと言った怪しげな説を持ち出し、対馬や産山の井姓は知りもしないで大騒ぎした事も忘れ去られているのです。


日本に帰国できなかった遣唐使の留学生・井真成。大阪府藤井寺市

 1023日、近鉄・藤井寺駅の南側の商店街を通りました。藤井寺市商工会の入口に井真成(いの まなり)の像がありました。

 阿倍仲麻呂達と一緒に留学生として唐へ渡り、時の皇帝・玄宗に仕え、帰国を間近に控えた36歳で亡くなった人物です。藤井寺出身といわれていて、藤井寺市のマスコットキャラは「まなりくん」です。

 藤井寺市公式キャラクター「まなりくん」プロフィール(藤井寺市役所のサイト)

 長年、忘れられた存在でしたが、2004年に西安(唐の都・長安)で墓誌が発見されました。

 余談ですが、この墓誌は建設業者がショベルカーで不法工事をしていた時、偶然発見されたもので、こっそりと民間の古物市場に売りに出されました。それを聞いた西北大学歴史博物館の賈麦明さんが古物市場へ行き、貴重な発掘物を安く買い上げたという話があります。不法工事に、掘り出し物を現金化したい業者。困った業者ですが、大事な発掘物が無事、保護されたのは幸いですね。

 余談につきましては在唐の日本留学生井真成墓誌の発見と新研究(国際日本文化センターの論文)に書いています。

 墓誌が見つかった事で、葬られた人物が井真成、国号が日本という事がわかりました。700年代になりますと中国大陸では「倭国」ではなく「日本」という認知になっている事がわかります上、日本も国号として「日本」を使っていた事もわかりますね。

 井真成の墓誌のレプリカは、藤井寺市立・生涯学習センター(アイセル シュラ ホール)に展示されています。

 墓の蓋(レプリカ)に刻まれた字を見ますと篆書体でした。隷書体や楷書でないため、読めない字があります。墓誌(レプリカ)には「日本」と刻まれていました。レプリカであっても歴史を感じる事ができました。

 井真成が藤井寺出身という根拠は「井」という姓から推測されたためです。

 唐では姓が1文字でしたので日本の留学生で唐風の姓を名乗っていた可能性があります。日本だと「井」という1文字の姓がないため、「井」がつく2文字の姓が考えられます。その中で出てきたのが葛井(ふじい)と井上の姓です。

 葛井氏は一昨日のブログ(藤井寺の地名になった葛井寺)で紹介しました百済王の末裔にあたる家系です。この2つの姓は藤井寺周辺の有力者でしたため、藤井寺出身ではないかと言われています。

 ところで遣唐使は船旅だけ見ても命がけです。聖徳太子の時代は朝鮮半島を沿った比較的安全航路が使えました。しかし新羅との関係が悪化したため、朝鮮半島に沿った航路が使えなくなり、荒波の東シナ海を横切る航路を使わざるえなくなりました。遣唐使は4隻にわけて出発しますが、2隻戻ってくれば成功というぐらい危険な航海でした。4隻にわけるのは、まさにリスク分散です。

 そして無事、唐へ渡れても、長安にたどり着くまでに山賊に襲われるかもしれないですし、日本にない伝染病にかかるかもしれません。今のような安全な旅ではありませんでした。

 そんな中、遣唐使で唐へ渡り、生きて帰った人達は運にも恵まれた人だといえますね。

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では、井伊家への天領側の忖度とかいった可能性があるのか?ですが、手掛かりは僅かしかありません。

実際にはこの神社は八幡神社らしいので、もし忖度ならば大原の一族化かとも思うのですが、それなら境内に祀るはずで、直ぐに安直な結論に飛びつくのは止めておきましょう。

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現在は、阿蘇市になっていますが、圧倒的に産山村に集中しており、村長から村議会議長から郵便局長から農協の組合長から全てが「井」さんなのです。対馬については皆さんでお調べください。

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以下は、日田の代々木神社です。

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神仏混交のままの様ですが、何戸の集落なのかどのような経緯でこの神社が生まれたのか早く話を聴いてみたいと思います。

 ただ、代々木が代々の古木と言った話は出来過ぎていてにわかには信じられません。

 そもそも、最後に「木」が付く地名は半島系の地名と言われていますが、ミマキ(イリヒコ)、タラキ(オキナガタラシヒメ)、カツラギ(カツラギノナガエソツヒコ)…などもその出身地を示しているのです。

 とりあえず、井伊家の屋敷内に代々の大木があったから代々木と言われたとするのですが、それはそれとして、先入観を排してしっかり見ることにしましょう。

 しかも神仏混交となると祭祀された神がなんであるかも判別は難しく気が重いのですが、非常に面白い神社だけに、まずは探査が必要と思います。

 以下は、東京の代々木八幡神社の由緒です。

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天祖神社は豊後の大分県玖珠町にも数社ありますが、まだこれだけでは手掛かりは掴めません。

 しかし、代々木と日田にしかないとは不思議でなりません。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記
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