2024年04月15日

1006 日田市の南には何故大山町が隣接していたかを考える(下書き)

1006 日田市の南には何故大山町が隣接していたかを考える(下書き)

20240111

太宰府地名研究会 古川 清久


 日田市の南と言うか九州最大河川の本流が注ぐ渓谷側に大山町がありました。

近年(2005年)日田市と合併したのですが、どうもこの旧町に鎮座するかなりの神社が良く分からないのです。

 まあ、明治の神名帳まで遡ればある程度は分かるのですが、そもそも他県には存在する「大分県神社史」といった物が存在せず、祭神を調べるには不便を要するのです。

 これは、恐らく宇佐八幡宮の権威が圧倒する豊前豊後の事、全ての神社が主張することができず、それが遍く覆いかぶさり、本来の神社の叫びが届かない構造にあるのではないかと思ってしまいます。

 そう思ったのはネット上でも、大山町の神社の祭神が不詳とされているからです。

 まあ、全国には鳥取や富山の大山など大山町という名の町は数多くあるのですが、大山祇、その子大国主なり、コノハナノサクヤなりそれなりの大山祇ファミリーが祀られる神社があるものです。

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百嶋由一郎最終神代系譜


 この大山町という呼称は明治までは辿れるのですが、それ以前はどうなのでしょう。

 たかだか個人的ブログ程度でそこまで探求する必要はないのですが、大山町を通ると大山水天宮という神社とか、大山町木の花ガルテンという高額商品であるにもかかわらず繁盛を続ける施設があるなど、大山祇系の神社が在ってもおかしくはなく、事実、日田市内には大山祇神社も二社は確認できるのです。

 ところが、当の大山町で神社を見ると祭神不詳が続出する現象に出くわすと、これはただならぬものと思い始めたのでした。

 そこにあるのは日田の重層性なのです。地名や神社を見る限り、日田は古代有明海の最奥部の相対的に太宰府を首都とし高良山直下の久留米をウヲーター・フロントとすると、日田は内陸部の安全な副都の様な性格を持っていたのです。

 そのような要地であったからこそ天領とされたのでしょう。

 その南から驚異に備える副都防衛基地が大山町だった可能性があるのです。

 普通に考えれば、木花ガルテンが大山祗大神の娘を妃としたニニギの故事を意識した名称でしょうし、大山水天宮という神社が在る事だけが唯一その事を伝える痕跡なのです。

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それにしても日田市の神社を検索し、大山町を見ると、異常なほどに祭神不詳が浮かび上ります。

まず、インターネットで各地の神社を調べるのに便利なのはグーグルで「日田市 神社」と検索すると図上に全ての神社が出てきますが、そこで各々の神社をクリックすると個々のデータが出てきますが、大山町の神社が祭神不詳と出てくるわけで、8割方それならそのサイトは価値がないと言わざるを得ないのです。

日田の内側には大山祗神社があるのに、大山町に鎮座する大山水天宮が祭神不詳と言うのはいかにも不可思議で、こんなものは古事記にちょっとだけ登場するウマシアシカビヒコジ(金官伽耶)と妙見宮、白山姫の別名でも知られる天御中主命の間に生まれた大山祗が母神と子神として祀られたものとしか考えようが無いのです。

百嶋神社考古学でも最終神代系譜を見ればその姻戚関係は表現されています。

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そもそも、日隈、月隈、星隈…と言う隈地名は、福岡〜博多に集中する雑餉隈、干隈、田隈、七隈…と対応し、近畿大和政権が応神天皇を祀る宇佐八幡宮の西方進出から全国展開以前にはその久留米、太宰府、博多の文化圏の一部であっただろうことは容易に想像が可能でしょう。恐らくその時代までは、大山祇系の勢力はこの近畿大和朝廷に先行する倭国(ここでは一応倭国としておきますが)の直属の勢力であり、菊池、阿蘇、小国方面からの進入路も遮断できる防衛部隊の拠点地だったはずなのです。

 その意味では、鎌倉政権が小国に地頭を配置し萬願寺を拠点に小国から南小国に掛けて太宰府、久留米など西からの脅威に備えたことの裏返しと考えれば素直に理解できると思うのです。

 二百メートルもある杖立温泉から小国町への大渓谷を考える時、静ケ岳から下城に掛けて防衛ラインを敷けば、急坂を遡ることも大変な上に、上から100人の弓隊を配置するだけでも、3千の部隊を防ぐことが出来る場所だったのです。

谷底からの矢は全く届かず安全なうえに、谷上からの矢は一方的に大軍を叩けたはずなのです(戦艦大和のアウトレンジ戦法と同じですね)。

正しく、日田から小国に掛けての大峡谷は他に通路がないだけに、お互いに遮断できる戦略拠点だった訳です。

その意味では日田とは北部九州のハートランドとも言うべきもので、船によって古代有明海の最奥部を犯すとしても、既にその移動中に連絡が届き、十分な防衛体制が取れたのでした。

その意味では、夜明の大峡谷と急流は西からの脅威から日田を守る最大の難関だったのです。

だからこそダンワラ古墳付近から金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡と言われる鏡が出土したのです。


日田はヤタガラスの本拠地だった


 ここで、以前から気にしていた日田と飛騨の事を考えて見ましょう。

 「日田はヒダではない、ヒタと清む」(「街道をゆく」の原文かどうかは未確認ですが本質ではありませんのでパスします)と言ったのは司馬遼太郎でした。

 言うまでも無く藩政時代において、最も評価された学問所が天領の日田に置かれた広瀬淡窓の私塾咸宜園でした。

こうして官学としての咸宜園は漢学が普及しと言うより庶民でさえ漢音を優先し、女給や仲居までもが漢音で話したと言うのは成り行きと言え当然だったからかも知れません。

大阪出身で京都に職を得た司馬は全く躊躇うことなく日田は山襞(ヤマヒダ)の清音化と理解したのでしょう。

後漢王朝崩壊後の混乱から黄巾族の乱を経て皆さん良くご存じの三国志の時代に入ると、曹操はこの戦いに勝利するために東方の鮮卑族を傭兵化して取り込み、結果として次の隋、唐王朝の開朝への水路が開かれたのですが、結果、鮮卑族は自らの言語を被征服民の漢族に押付けるのではなく言語と文化を受け入れています。

ただ、言語特性と発音だけは変えられず、日本人が中国語を理解する意味での呉音から漢音へと変化を起こしているのです(M音→B音、H音→K音、濁音の清音化)。

その象徴的なものの一つが日田(ヒダヒタ)だとすると、広瀬の咸宜園もその象徴であるわけです。

とすると、司馬遼太郎がいともたやすく日田を飛騨高山の飛騨と結び付けた事は、「街道を行く」を読んだ直後には非常に違和感を抱いたのですが、仮にそれを受け入れると日田と斉藤道三の美濃の飛騨に関連を見出すのです。

それは、飛騨の高山と呼ばれる高山の旧国名の美濃と呼ばれる事は、日田市の南に美納という交差点があり、それが久留米の耳納山に連なるのも薄いながらも関連を思わせるのです。

加えて日田の豊後日田出土の漢金銀錯嵌珠龍文鉄鏡、飛騨高山一之宮神宝、曹操墓出土鉄鏡、(中国本土でもう一枚)出土しているのですから興味は尽きません。

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もしも日田と飛騨に関連があるとすると、日田からの移動も含め古代への新たな思いが浮かび上がってきたのです。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記
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