1003 再び大分県日田市の「加々鶴」地名を考える
20240108
太宰府地名研究会 古川 清久
新年早々、日田市在住の神社研究をされておられる方から問い合わせを頂き、近い所でもある事から、翌日、市の中心部に出掛けお会いすることにしました。
同世代の方であった事もあり話はスムーズに進みましたが、そこに後から同席された方が地名研究に思いを寄せておられたのです。
しかも、小規模ながらも地域研究のグループからさらに活動を拡げたいと腐心されておられる方々だったのです。
相互に情報交流をできることもあり、更に当方が把握できていない地元の情報も得られる可能性もある事からご協力できる範囲で接触を深めたいと思った次第です。
さて本題に入りますが、以前、と言っても8年以上前になりますが、大分県日田市の「加々鶴」トンネルの「加々鶴」と言う地名についてブログを書いたことがありました。
まずは、短いため、全文を掲載しておきます。
257 日田市の「加々鶴」地名について “「カカ」を「蛇」とする民俗学者吉野裕子説から”
20151026 久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
久留米地名研究会の天ケ瀬温泉五馬高原研修所にいる事が多くなると、大分県日田市から久留米市や筑豊の田川市に向かう事が非常に多くなります。
そうなると、決まって、国道210号線の加々鶴(カカヅル)トンネルを抜け夜明ダム上流の夜明橋付近を頻繁に通過する事になります。以前から気にはしていたのですが、ようやく意味が分かりました。
今回は、この奇妙な「加々鶴」(カカヅル)という地名の話です。
国道210号(現386号)線の加々鶴バス停
もう亡くなられて久しいのですが、吉野裕子という民俗学者がおられました。
その著書の一つに非常に知られた「蛇」があります。
この論旨を我流に要約すれば、案山子(カカシ)とは田んぼの収穫を荒らすネズミや雀を追い払う蛇を擬制したものであり、「カカシ」の「カカ」が蛇の古語で、「シ」は人を意味している。
それの説明として、正月の「鏡餅」の「カガミ」も「カカ」+「ミ」(巳)であり、蛇がトグロを巻いているものを、豊穣のシンボルとして、感謝を表したもの…になり、蛇の一種として「ヤマカガシ」があることも蛇が「カカ」と呼ばれていた痕跡となるのです。以下、ネット上から参考に…

日本原始の祭りは、蛇神と、これを祀る女性(蛇巫=へびふ)を中心に展開する。
1.女性蛇巫(へびふ)が神蛇と交わること
蛇に見立てられた円錐形の山の神、または蛇の形に似た樹木、蒲葵(ピロウ=ヤシ科の常緑高木)、石柱などの代用神や代用物と交合の擬(もど)きをすること。今も沖縄および南の島々に、祭祀形態として残る
2.神蛇を生むこと
蛇を捕らえてくること
3.蛇を捕らえ、飼養し、祀ること
縄文土器にはたくさんの蛇の文様が登場する。縄文人の蛇に寄せる思いは、次の2点である。これらの相乗効果をもって、蛇を祖先神にまで崇(あが)めていった。
1.その形態が男性のシンボルを連想させること
2.毒蛇・蝮(まむし)などの強烈な生命力と、その毒で敵を一撃で倒す強さ
埴輪の巫女が身につけている連続三角紋、装飾古墳の壁に描かれる連続三角紋・同心円・渦巻紋も、蛇の象徴であると推測される。
稲作の発達につれて弥生人を苦しめたのは、山野に跳梁(ちょうりょう)する野ネズミだった。ネズミの天敵は蛇である。弥生人は、ネズミをとる蛇を「田を守る神」として信仰したと思われる。
日本人は、蛇がトグロを巻いているところを円錐形の山として捉えてきた。それが円錐形の山に対する信仰につながる。三輪山はその名称がすでに神蛇のトグロの輪を意味し、神輪(みわ)山の意がこめられている。
旧筑後軌道の鉄道トンネル改修後
お分かり頂けたでしょうか?
この吉野裕子の「かかし」=蛇説については、久留米地名研究会の永井正範氏から教えられ、以前から気にはしていたのですが、加々鶴トンネルの上の高井岳にそれらしき形状(「おかがみ」山)を発見できなかった事から(ただし、一キロほど上流から見ると「おかがみ」山のように見えるため高井岳も可能姓はありそうです)、それっきりにしていたものです。ただ、良く考えると、国道210号(現386)線から嘉麻峠へと向かう211号線の夜明鉄橋北側の小山が、まさしく「おかがみ」山だったのです(次の写真)。
この一帯は夜明ダムが完成する昭和28年頃まで、筑後川流域の旧安楽寺領(太宰府天満宮の前身)などの杣山から切り出された木材が、古くは太宰府まで持ち込まれるために筏に編成されて下流に送られる中継地だったのです。
右岸からは彦山方面から大肥川が流れ込み、筏流しを行う海人族により多くの木材が編成される場所だったのです。そのような場所だからこそ変則的な交差点には志賀島の志賀海神社が祀られているのです。
あとは、グーグル・アースや国土地理院による地図閲覧システムなどで、現地をご自分で検証してご判断下されることをお勧め致します。
この一帯が「筑紫」「豊」の国境をなす場所である理由は、大蛇行部の険しい地形にあることは明らかですが、この蛇行する大峡谷は詰まり易く、時として大きな堆積を起こす事によって、ダム化する事によって上流部に水平堆積が進み日田の平野が形成されたとも言えそうです。
この加々鶴地名の「カカ」は「オカガミ」山か「蛇行部」を以て、蛇を神と見なす海人族に「カカ」と名付けられた可能姓はあると思います。
では、「鶴」はと言えば、蛇行地を蔦の蔓とも見立てられますし、鶴(鶴自体が蔓から付された名称でしょうが)の首状の地形に見える事から「鶴」が充てられたとも言えるでしょう。
なお、地名研究では「鶴」地名は断崖地名(足摺岬)ともされますので申し添えます。
以上 ひぼろぎ逍遥257

東京都に赤池濃の三女として生まれる。1934年女子学習院本科を卒業し、1936年に同院高等科を卒業。1942年『風のさそひ』を上梓。専業主婦となるが、日本舞踊を習っていたことから民俗学に関心をもち、1954年津田塾大学卒業、1970年著書『扇』を刊行、1977年「陰陽五行思想から見た日本の祭」により東京教育大学文学博士の学位を授与される。在野の学者として著書多数。全集全12巻がある。2008年4月18日、心不全のため死去。
ウィキペディア 20240116 09:52


加賀ではなく加々が正しいはずです。グーグルのミスでしょうね。
加々鶴トンネルの下流2〜3キロに夜明ダムと古代の筑紫、豊の国境があるのです。
このような大蛇行の地形は低平地の泥地にはあるのですが、田栄神社付近は50〜100メートルを超える断崖絶壁の巨大岩塊地帯でありこの様な地形がどのように出現したのか今もって理解できないでいます。
ともあれ、この地形こそが蛇に見立てられ、「カカ」と呼ばれた事は間違いないはずです。
では、この地名を付した人々とは一体どのような人々だったのでしょうか?
一言で言えば、海人族と言えば解かった様な気がするのですが、直ぐに同意を頂けるとも思ってはいません。
この「海人族」という概念は、元々、宝賀 寿男(東大法学部出身の官僚から弁護士)が言い出したもので学者ではないのでしょうが、何故かそれなりに定着しています。何やら、柳田先生を思い出します。
一般的には九州でも中心部に近い豊後の山岳地帯の入口に近い場所に“どうして海人族が入っているんだ”と思われる方が多いかも知れません。筑後川河口からは優に70〜80キロはあるからです。
それに答えるには、多少頭を働かせる必要があるかも知れません。
そもそも筑後平野は列島でも最大級の平野である事は皆さん良くご存じでしょう。
海に隣接する場所で平地ができるのは海の中に土砂が流れ込むと水平堆積が起こり平地ができます。
類型になりますが、この現象が山中で起きるには、河川が土砂崩れなどで閉塞され自然のダム湖ができると水中では同じような堆積が起こり同様の平地が生じます。
そこで決壊が起こり水が抜けるか、それを意図的に決堤させると一挙に大量の平らな農地ができるのです。勿論、安全のために少しずつ行ったでしょうが。
これが全国に分布する蹴破り伝説であり、近い例では熊本県の阿蘇谷の健磐龍の蹴破り伝承であり、菊池、山鹿、植木に広がっていたと言われる古代湖「茂賀浦」です。
そして筑後平野の最奥部に夜明ダムがあり、加賀鶴トンネルがあるのです。
つまり、筑後平野とは有明海の最奥部の痕跡地だった事が分かるはずなのです。
とすると、海人族が今は筑後川と言われている古代久留米湾とでも言うべきところまで入っていた事はお分かり頂けるのではないでしょうか?
その証拠と言うほどのものではありませんが日田市大字夜明の夜明駅のそばに神社が置かれています。それが志賀神社であり、博多湾の志賀島の海人族が祀ったものである事がお分かりになるでしょう。
恐らくは、大肥川流域からも木材が流されこの少し上辺り筏が組み直しされていたのでしょう。

そうすると、昭和28年に夜明けダムが造られた結果終了させられた筑後川の筏流し、川流しを行っていた人々がどのような人々であったかが蘇ってくるはずです。
それは博多湾側から有明海に回ってきた志賀島の一族であり俗に海人族と呼ばれた人々だったのです。
彼らのご先祖様達は筑後川の奥地まで入り込み、びっくりするような大木を切り出し、小さなものは現地で繰り抜き、大きなものは大川市の筑後川河口まで流し大船に仕立てていたはずです。
そう考えれば、日田の奥の天ヶ瀬温泉も海人族が活動していたから付されたものである事が見えてくるはずです。海人(アマ)ケ瀬温泉だったのです。
また、平安朝どころか大和朝廷以前まで遡るはずですが、太宰府天満宮の前身の安楽寺領が日田周辺にも散見されます。これは古代の杣山の名残のはずで、現在の林野庁がでたらめな人工林を利権目的だけで増産し、売れもせずに災害を引き起こし続けているのとは対照的に急傾斜地を避け管理された林地=杣山が保たれ大寺院、寺社の用材をこの地で育て筑後川を利用し太宰府まで供給していたのです。
既に、そのころまでには大木は太宰府近辺には無かったはずなのです。
まあ、六十年ごとには改修の必要もあり、そのペースで森は育てられていたのであり、筑後川の河口まで運び大船を造る場合は左岸に流し、宝満川を利用して太宰府に運ぶ場合には右岸に振り分け、中流域に在ったと思われる多くの中州で早めに振り分け左右に移動させていたのです。
そこに船越と言う地名(久留米市田主丸町船越)が現存している事は半ば歴史を証言しているのです。
詳しくは、グーグル・マップなりグーグル・アースなりで、周辺の地形や環境を確認して頂きたいのですが、かく言う私自身は、この筑後川沿線の400メートルほどの国道トンネル(210号)がどうのとか言う話の前に、もしも吉野裕子先生が生前にこのトンネルを通っておられたら…と思うと、いつも冷静に考えることができず、ついつい燥いでしまう自分を恥じている事に気付いてしますのです。
そして、このことに気付いている人がどれくらいいるだろうと思い続けているのです。
まずはこの周辺の地形を見て頂きたいと思います。
カカは夜明の大蛇行地であり、蛇のとぐろを意味しているはずで、ツルはこの一帯の険しい崖を意味しており、鶴と美しい字を当ててはあるものの、鶴首の蛇行と崖地のヅリ落ちるの意味が込められているのです。
福岡市中央区赤坂 不知火書房 092‐781‐6962に 販価1575円
もしも多少とも興味を持たれたら、筏流しの中乗りさんであった渡辺音吉さんの証言をお読み頂くと、この一帯の事がより鮮明に浮かび上がってくる事でしょう。
そもそも、渡辺姓も渡りの部=渡部(愛媛の大山祗神社の一族)であり、物資や人員を搬送していた志賀島の海人族であることを証言しているのです。
まさしく中乗りさんの名としてもその人生を体現されているようです。
まだ、「カカ」が蛇を意味しているなど信じられないと思われる方は多いと思いますので僭越ながら補足させて頂きますが、蛇でも比較的大きいものにヤマカガシがありますね。
これなども蛇=ヘミ、ヘビが案山子である事を伝えています。
穀物生産を行うと、貯蔵していたものが雀や鼠に食い荒らされる事が最もまずい事で、船舶では鼠を退治するために猫が載せられ、田んぼには案山子が置かれました。
それはそのまま蛇を意味しており、表現は悪いですが、蛇人間を意味していたのです。勿論、「し」はヒト=「シト」(こちらが原型)であり、「あんしとたちゃ」…ですね。
こうして蛇は穀物を守る神にまで高められ、富の象徴となり、とうとう財布の中にまで蛇の飾りが入れられ、趣味は悪いのですが数十年前まで蛇皮の財布が大阪のおばちゃんなどに珍重されたのでした。
従って、蛇神様とは富の象徴であり、決して邪教などとは考えないで頂きたいのです。
それは揚子江流域の春秋戦国の呉の国から稲=米を必死で携え持ち込んできた人々の思いが込められており、長江も巨大な龍であり、蛇でもあったのです。
近年も揚子江ワニと言われる小型のワニが龍のモデルではないかとささやかれているのです。
そして、夜明ダムの近くには有王神社までがあるのですが、現在、この神社は近畿大和朝廷の植民地総督として進出してきた大原八幡宮=日下部氏〜大蔵一族が祀る瀬織ツ姫(藤原の祓戸の神であり、実は金山彦の娘である櫛稲田姫)とされています。
この原型を考えれば、これもヤタガラスを祀る神社だったのであろうと思うのです。これについては別稿とさせていただきます。この神社の祭神も実はカミムスビの神(博多の櫛田神社の主神=大幡主)の子豊玉彦(日田の中心部には玉川町がありますね)=ヤタガラス=龍王であり、海の龍は海蛇でもあるのですが、これが有王神社と関係がある事は次のお話にしたいと思います。