2023年11月29日

ひぼろぎ逍遥(跡宮) ビアヘロ 217 氷川神社とは何なのか? ➋

ひぼろぎ逍遥(跡宮) ビアヘロ 217 氷川神社とは何なのか? ➋

20231018

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


先行ブログで「氷川清話」について触れましたが、明治維新の幕府側の要人の一人の勝 海舟 の随筆がたまたま近所の神社から採題されたのですが、


『氷川清話』(ひかわせいわ)は、勝海舟の談話録。勝は1887年(明治20年)伯爵を受爵した。勝は東京市赤坂区氷川町(現:東京都港区赤坂六丁目)に住んでいたため、氷川伯と呼ばれており、この書名の由来となった。

ウィキペディア20231018 0710


「氷川清話」については、有難い事にユーチューブで朗読の音声が流されています。

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パワー・ポイントの作成やブログを書きながら数十本の全編を聴く事ができると言うのは、大変助かります。勿論、「平家物語」や「徒然草」…から三遊亭圓生、桂文楽、古今亭志ん生き…なども聴き流しができますので残された人生が豊かになります。

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東京都 赤坂氷川神社


一応、首都の赤坂氷川神社に敬意を表し祭神を見おきましょう。


祭神: 素盞嗚尊 奇稲田姫命 大己貴命


 ただ、この祭神で良いかがこのシリーズのテーマになります。

 当会の百嶋神社考古学研究会の域外メンバーのお一人で、埼玉県在住のTさんがおられます。関東の神社調査に随行して頂いたり、埼玉の佃先生の集まりにも参加されており、九州の神社調査にも長期間お出でになっていますので非常に強力なスタッフのお一人となっています。

 その彼からの照会からこのシリーズを始めてしまった事があり、これは奥秩父から栃木方面への神社探訪への下調べでもあります。 どうも、祭神の三柱は、夫婦神に大己貴命が加えられており、スサノウ系、金山彦系、大山祇系と主要な民族が反映されているとは言え、武蔵大国主神社が幅を利かしている事を考えれば、大国主が末席を配されている事に不信も感じるのです。

 祭神の入替え変更は良くあるものであり、本来の祭神が何であるかは関東を知るための助けになるはずなのです。


では、氷川神社(武蔵一宮)を見てみましょう。

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ここも祭神は同じです。

祭神: 素盞嗚尊  奇稲田姫命  大己貴命


では、九州の氷川神社と言っても奄美大島のそれをご覧下さい。

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無題.pngどうも閉鎖されている様ですが、神額には氷川神社とあり、小さな花天集落の神社のようです。

 この外にも大分県の旧山香町などにも散見されますが、行っても何も情報が得られることも無く、引き返してくることしかできません。このような神社も元は御嶽(ウタキ)のはずで、ノロが仕切っていたはずなのです。

 しかし、過疎化、高齢化、限界集落化が進むと祀るもの自体が消失し、祭祀自体が消え去ってしましいます。


祭神:素戔鳴命(スサノオノミコト) 奇稲田姫命(クシイナダヒメノミコト) 大己貴命(オオナムチノミコト)。

琉球王支配の時代より村落民守護の神(ノロ神)を崇敬していたが、時代の進展により村落民の総意に基いて、古老の口伝に合った神徳を持つ東京氷川神社の御分霊を勧請奉斎した。

 これは鹿児島の神社庁のやった事ですね。

 こうして、下調べをしていると、山口県周南市や大分県の旧山香町などにも氷川神社が確認できるのです。

 一般的に関東の平野部=都市部の氷川神社は大体に於いて右習えしてしまいますのでどうしても原型が保たれている僻地の神社を調べるしかありません。

 そのためネット検索を進めていると、当方の調査にとっては非常にありがたいサイトに遭遇しました。

 そのレベルの高さ、当方の調査の趣旨にも合致する高質のサイトだったのです。

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中でも氷川神社は東京都、埼玉県の荒川流域、特に元荒川と多摩川の間に多く分布しています。 また、利根川流域には香取神社が、元荒川筋と利根川の間には久伊豆神社が分布しています。


中でも氷川神社は東京都、埼玉県の荒川流域、特に元荒川と多摩川の間に多く分布しています。 また、利根川流域には香取神社が、元荒川筋と利根川の間には久伊豆神社が分布しています。


 この立派なサイトは簡潔ながらも密度の高い内容に富んでいるも、タイトルが明示されておらず、余りにも控えめな「分布に特徴ある神社」ぐらいでしか検索ができないのが残念です。

 以下、何本かご紹介させていただきます。

 当方も、遠路、510回ほど山中湖の友人の別荘を利用させて頂いたこともあり今年の春先も含め一か月の長期間の調査に入っていました。それは甲信越の若宮神社の調査でしたが、その後異質な阿智村と群馬県の調査に入り、次のテーマに据えたのが氷川神社だったのです。


JAN

25


関東平野 氷川神社の分布


 氷川神社の分布にも特徴ありますが、久伊豆、鷲神社とは少し違っています。詳しくは、私の氷川神社サイトを見てください。全国の氷川神社を熱心に調べたサイトが、こちらにもあります。また、この神社の分布図は、各所にありますので探してみてください。

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大宮から離れて坐す氷川神社

埼玉県の大宮に、この神社の分布の中心がありますが、他に重要なものが、狭山丘陵、奥多摩、山梨県の勝沼に近い岩崎というところにもあります。また、秩父の三峰神社の麓にも氷川神社があります。これら大宮から離れたところにある氷川神社が、この神社の本質をものがったているのかもしれません。
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 大宮を中心とした氷川神社の分布を見ていきます。郡でいえば足立郡がその分布の中心となり、埼玉郡を中心に分布する久伊豆神社とははっきりとした境界を作って分布しています。そして南への分布も葛飾郡へとは及んでいません。香取神社とは対照的なことがわかります。さらに武蔵国では、荏原郡、豊島郡、新座郡、入間郡、比企郡、横見郡と大宮台地と入間川をはさんで、その対岸にある郡にも多く分布していることがわかります。

 大宮台地と武蔵野台地を流れる川は、昔は入間川です。その右岸の武蔵野台地にどのように分布しているかを見るため上の図を作りました。武蔵野台地は、谷戸周辺のみが人の住むのに適した場所であったのでしょう。渋谷川、神田川以北は多く、それより南大体荏原郡に属するところは疎らです。現在の世田谷区に属する大蔵、喜多見、宇奈根に氷川神社があります。ここは旧の多摩郡に属しますが、荏原郡の延長といってもよいところです。ここの神社は、伝承での古い創建のものがみられます。多摩川沿いの貝塚分布の最陸部と一致しているのが面白いところです。

 氷川神社は、多摩川下流域では、これを越えて南には進出していません。川崎市宇奈根にも氷川神社があるので、進出していないというと語弊がありますが、、昭和2年の勧請といわれており、また、相模原市の氷川神社は天保14年新田開発の折、高尾の氷川神社を勧請したものです。


こうして、このサイトをしっかり読ませて頂く事が最大の調査と下調べになると判断し、しばらくブログを書く事を後回しにするつもりです。

この点は、ここ数年埼玉在住の百嶋神社考古学の研究メンバーも同様の意見を持っており、改めて先達さんには敬意を感じている所です。

こうして、これから新たな調査の対象として取り組もうとしていたところ、嬉しいような悲しいような不思議な思いが過っています。

では、もう少しご紹介しようと思います。


FEB

3

大宮の氷川本社から離れて坐す重要な氷川神社(その3 岩崎・奥多摩 氷川神社)

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 大宮の氷川本社から遠く離れて坐す重要な氷川神社がありますが、奥多摩の氷川神社以外はあまり知られていないものです。

 さらに遠く離れては、大分県杵築市、長崎県大村市、鹿児島県大島郡(奄美大島)にもあります。前の二つの由緒はわかりません。奄美大島のものは、もともとは地元の村落民守護の神(ノロ神)を祭っていたものですが、その後東京の氷川神社を勧請したものです(鹿児島県神社庁HP)。これは、もともとの地主神がいて、権威あるないしは霊験あらたかな中央の神を勧請してそこに祭るといったことが古代においてもよくあったのでしょう。神社の名前を考えるときの参考になります。

甲州勝沼にある岩崎の氷川神社

岩崎の氷川神社は大きな社で、高尾にある氷川神社とともに五海道其外分間延絵図並見取絵図の甲州街道分間延絵図に描かれています。

 江戸時代文政11年にかかれた甲斐国誌には、上下岩崎村の鎮守で、7石1斗の御朱印地を賜った、古棟札の一つ寛政二(1462)年のものに、「至徳二(1385)載、前ノ筑前ノ守源武政・前ノ讃岐の入道道安、両人為テ2本願1建立遷宮ス至ル2于今月今日1ニ秊七十七年也・・・」と、また山梨県図書館発行 甲斐国社記・寺記p158に、「當社氷川大明神、人皇十三代、成務天皇之御宇、國内為鎮護之勅在テ當山尓奉祝祭」と書かれています。「成務天皇之御宇」はともかく由緒ある古社であることは間違いありません。

 この神社は、富士山の真北(但し、この神社からは富士山は望めません)にあり、拝殿は正面の岩崎山を遥拝する向きになっています。この神社からの冬至日の出は、カメラの対地高度10mでは岩崎山の南からになります。この神社からの、山の頂からの日の出は、対地高度100mにしなければなりません。しかし、この山と神社の延長線上、下岩崎郵便局近く位置では対地高度3mで岩崎山頂の冬至日の出がシミュレートできます。いずれにしろこの神社が、岩崎山からの冬至の日の出を意識した位置にあることは間違いなさそうです。

 なお、標高データ10mメッシュの場合、近い所への太陽入没シミュレーションは、うまくいかないことが多かったのですが、5mメッシュのデータが利用できるなってからは大分改善されました。

 また、この神社と筑波山を結ぶ線上に、奥氷川神社があります。たまたまだと思いますが、ふしぎなことです。ちなみに、甲州葡萄の発祥の地はここ岩崎といわれており、明治初期にワイン製造の勉強のためフランスへ派遣された二人のうちの一人が、岩崎氷川神社の神官の長男高野助二郎氏であった(HP 山梨県ワイン百科より)など、なにかと甲州の主産業にゆかりの深い場所です。

日川

この神社の前を流れる川は、大菩薩峠を水源とする日川です。ただし、甲斐国誌によると、この川は「三日川(ミツカカワ)或いは日川ともいう」となっています。

 古事記に「此~、娶淤迦美~之女・名日河比賣、生子、深淵之水夜禮花~」とあり、萩原浅男・鴻巣隼雄校注「古事記・上代歌謡 」日本古典文学全集〈1(1973)小学館の校注(p90)は、「 『日河』は『氷川』と同じか。水の神」と書いています。「日川」がこの日河が関係があるのでしょうか、よくわかりません。

 大菩薩峠は多摩川水系との分水嶺で、ここは甲斐国と秩父多摩地方をむすぶところで、江戸時代に南に今の甲州街道が開かれるまでは、甲斐から多摩へは、この峠から浅間嶺等の尾根道を通って、桧原村本宿の口留番所へといきました。

 大菩薩峠から小菅川を下っていくと多摩の地に入り、その川は名前を多摩川とかえます。そしてそれと日原川とが合流するところに、奥氷川神社があります。松尾俊郎著 「日本の地名」新人物往来社 (1976)に氷川神社の分布が触れられ、ここが日原川と多摩川の合流点で、交通の要衝の地と書いてありますが、ここと青梅への間には、大岩盤があって交通の難所で、江戸時代中期に、地元の人が3年をかけて切り開いた数馬の石門のあるところです。したがって、奥氷川神社のあるところはどんづまりの地なのです。

奥多摩町は昔は「氷川村」、登計集落の氏神は阿羅波々岐神社

 この地は、今は奥多摩町と呼ばれていますが、小さいころから青梅線の終点は「氷川」となじんできました。氷川駅が別の名前で呼ばれるようになって、さびしく感じたことを覚えています。武蔵の国で「氷川」とよばれる村は、中氷川神社のある村とこの村だけです。それだけ、その村にとって氷川神社は中心的なものだったのでしょう。

 ここの氷川神社は、この愛宕山の礼拝所に起源するという話があり、まさにそのように感ぜられます。この山のふもとの登計という集落があり、ここからは神奈備型をしたきれいな愛宕山がみられます。そして、この集落の氏神様は阿羅波々岐神社でした。この神社は、現在は愛宕山の山頂に合祀されていますが、今もその集落の地には小さな祠があるそうです。そして、ここはいまも大岳山の登山口にも当たっています。

 阿羅波々岐はアラハバキとよみますが、大宮にある氷川神社の地主神はアラハバキです。新編武蔵風土記稿では「門客人社」と書き、アラババキ社とよませています。養沢村(現在あきる野市養沢)にも門客人明神社がありました。大正時代に、付近のこの社を含む四つの神社は合祀され、養沢神社となりましたが、いまもその境内に「門客人明神」の文字が刻まれている石灯篭があります。詳しくは、私のホームページを参照ください。

大岳山の山口に坐す「アラハバキ神」

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なぜこんな山奥に、アラハバキ神がいるのでしょうか。大岳山は、武蔵野台地をうしはく神の坐す山と前にのべました。この二つのアラハバキ神社は、その位置からして大岳山の山口に坐して、この山を守っている神と考えられます。江戸時代中期以前の御岳山、大岳山への登山口は青梅側でなく、五日市側だったことも、知っておく必要があります。

 大岳山の夏至の日の日の出は、シミュレーションによると筑波山からになります。そしてその山のふもとにある筑波山神社からは、まさに冬至の日の入りが大岳山にあります。

『常陸風土記』の『筑波郡』の項に「坂より巳東の諸国の男女、春の花の開ける時、秋の葉の黄づる節、相携ひ駢闐り、飲食を齎賚し、騎にも歩にも登臨り、遊楽び栖遅へり」とあります。この「坂より巳東」は秋本吉徳「常陸国風土記」講談社学術文庫の注によると、足柄の坂より東方の関東諸国のこととあり、大岳山と筑波山は古代においては違った地域のものではなかったと考えられ、これ等の山は関東平野にとっては、大事な聖なる山だったのでしょう。

 昭和60年に出された奥多摩町史には、「牟邪志(後の武蔵)最初の国造は出雲臣伊佐知直ですが考証によれば、当初多摩川下流に拠点をもち、その上流奥多摩氷川の愛宕山の地形を祖国出雲での祖神を祀る日御碕の神岳と見、ここへ祖神氷川神を勧請したのが武蔵に多い氷川神社の起源で、牟邪志、知々夫両国の合一によって本拠の国衙を府中に移して氷川神を中氷川へ、さらに大宮に移したのだろうといわれるのです」と、論拠を示さず書いています。「考証によれば」の主語がなく、このような「史書」をつくったこの町の教育委員会の質が問われます。歴史というのは、このように為政者の都合のよいように作られていくものなのでしょう。最近は困ったことに、インターネットにより、これが一人歩きしています。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ
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