2023年11月06日

973 気ままな上州への神社調査 ⓰ “上州〜信州 国界碓氷峠の碓氷神社”

973 気ままな上州への神社調査 ⓰ “上州〜信州 国界碓氷峠の碓氷神社”

20230513

太宰府地名研究会 古川 清久


 今回は二度(延べ56日)群馬に入りました。

できるだけ多くの知見を得るためにと各々往路も帰路も変えたのですが、最後は碓氷峠を越え軽井沢を経由して戻ろうと考えていました。

恥ずかしながら、これまで“峠の釜めし”で知られる碓氷峠を越えた事がありませんでした。


峠の釜めしは、群馬県安中市にある「荻野屋」が製造・販売する駅弁である。 益子焼の土釜に入れられているという点が特徴の駅弁で、「日本随一の人気駅弁」と評されたこともある。     Wikipedia


碓氷峠(うすいとうげ)は、群馬県安中市松井田町坂本と長野県北佐久郡軽井沢町との境にある日本の峠である。標高は956メートル (m)。                         Wikipedia

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碓氷峠の連続めがね橋鐡道橋は良く知られていますが、と言っても、もはや知る人が消え始めています。少なくとも日本海側と関東=帝都を繋ぐ大動脈と考えていたことは間違いがないのです。

 そうでなければ、この難関の僻地にアプト式だかアブト式だかのドイツの技術を持ち込んでまでの工事はやらなかったはずなのです。

 ただ、25年ほど前に廃線になったとは言えこの鉄道橋が原型を留めている事には明治以来の旧国鉄の気迫と気概と技術への執着が今も日本人の気質に継承されている事に感動さえ覚えます。

 間違っても半島某国のSK○○〇○○〇などのとんでもない好い加減な仕事でないのだけは確かで、色々と問題はありますが、良い国に生まれ育ち終末を終える事が出来そうだと言う静かな喜びを噛みしめている所です。

 いずれにせよ、道路も鉄路も何時しか路線も変わり、新幹線や高速路に代わっていくのです。

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まあ、釜めしや百数十年現存している鉄道橋の話は終わりにして、碓氷峠の手前の安中市松井田に碓井神社が在ります。

これも事前調査で見ようと思っていた一社ですが、群馬県側でもかなり離れた手前に碓井神社が在るという事は、この碓井という地名は群馬側から付された地名である可能性が高いでしょう。

そういう意味では、この地名を付した人々の本拠地は群馬県側であり、そこに祀られている神々が分かれば、この地の成立が如何なる経緯で始まったかがおぼろげながらも見えてくるのではないかと思うのです。

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これは横川駅手前の信越線?です。正面奥は碓氷峠ではなく、この線路の延びた右手が碓氷峠になります。そして、碓氷神社は線路に向かう背中側にあるのです。

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簡単に言えば、神社への参道を線路が叩ききった様に見えるのです。

信越本線ですから、当時は本数も多かった事でしょう。最低でも跨道橋ぐらいは造られるべきだったのですが、踏切はあったのかも知れませんが、参道の正面ではないのです。

重要線路でもこのようなものは何度か見た事があります。

 旧郷社クラスでも配慮されない事はあるでしょう。ましてや村社クラスでは…となるのです。

 正面にも大きな谷が見えますが、案の定、ダムが造られています(中木ダム)。

 びっくりするのは御所平という字があるようで交差点名として残っているようなのです。

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導入部が長過ぎました。それほどの大社でありませんがご覧下さい。

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グーグル検索を行うと、始めから安心できる情報を頂けました。最近は「村興し」「町興し」「世界遺産登録」と言った行政がらみの旅行代理店だかグルメ宣伝高だか通販サイトなどと変わらぬものまで増えており、行政は行政らしい本来の民衆のための活動をすべきであってどうにかならないかと嘆くばかりです。早速引用させて頂きますが、私の考えが甘く早とちりであった事が分かりました。

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碓氷神社:群馬県安中市松井田町五料2131 


碓氷峠の熊野神社の分霊を勧請


取敢えずお読み下さい。簡潔ですが明瞭です。

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場所(旧碓氷郡五料村字御所平)JR西松井田駅より中山道(国道18号)沿いに西に徒歩約1時間。
標識がいたるところにあり旧道をたどるのは結構面倒。五料で信越線の向こうに鳥居が見える。
鳥居の側には「庚申塔」「二十三夜塔」の石碑が立つ。…

社殿は鳥居から急な石段を上り詰めた所に山を背にして鎮座。境内には社務所?、神輿倉庫?、石灯籠の他数基の石造物がある。本殿は覆屋に囲まれ見ることができない。拝殿を覗くと、「三社大明神」たる神額が掲げられていた。

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御祭神

速玉之男命、伊邪那美命、事解之男命 (御祭神は「上野国神社明細帳」より参照


御由緒

不詳 碓氷神社の創建は不詳であるが碓氷峠に鎮座する熊野神社の分霊を勧請したのが始まりと伝えられている。


建久年間(119099)、源頼朝浅間山巻狩の際当神社に祈願せられ、尚又当所境内に御所を置かれたにより地名を御所平と称す。南北朝時代に入ると碓氷郷一ノ宮となり広く信仰を広め、慶安年間(164852)に碓氷峠の熊野神社の里宮となり社殿を改築し碓氷神社と改称する。明治四十二年村内の各社を合祀する。(「松井田町誌」参照)


 必要な事は全て書かれています。ネットには県神社庁のサイトがあります。あるのかどうかも調べていませんが、さすがに「群馬県神社誌」まで買おうとは思いませんので非常に助かりました。まず、鳥居の側には「庚申塔」「二十三夜塔」の石碑が立つ。に関してですが、私が住む九州では、既に三夜待ち と呼ばれ、今では宴会そのものをそのように呼び習わしています。ただ、現在でも月待ち神事として伝統を守っている所もあります。これからも九州との関係を強く意識したのですが、関西圏では薄く、むしろ山梨など関東圏にこの風習が強く残っていると思っています。十三夜もあるのですが、二十三夜の遅い月の出から明け方まで火を焚き続け、酒盛りを行う風習がある事を複数知っています。これが関東に多い事に気付いたのは十年前でしたが、浅間神社を巡ると多くのこの講の石塔がが目につきます。


以下、「日本大百科全書(ニッポニカ)」より


旧暦23日の月待(つきまち)行事の一つで、全国に広く行われている。毎月行っている所もあるが、いちばん多いのは159月の3回に行っている例である。1123日は大師(だいし)講の日なので、この日も広く行われている。土地によっては二十三夜は男だけで、女は二十二夜にしている所もある。二十三夜の月は出が遅いので、当番の家に集まって簡単な酒肴(しゅこう)を前によもやま話をして待つ。二十三夜講をつくっている所では二十三夜塔という記念碑を立てている例もある。二十三夜の月のさまを見てその年の作物の豊凶を占っている土地もある。


祭神の 速玉之男命、伊邪那美命、事解之男命についてですが、皆さんこの神様に関する具体的なイメージが浮かびますか?

伊邪那美命は最も分かり易いはずで、国生み神話のイザナギ、イザナミの女神様の方ですね、では、何故、イザナギは祀られてないのでしょう。

これについては以前にも何度も書いていますので、改めては書きませんが、神社に詳しい方はある程度お気づきになっていると思いますが、有名な琵琶湖の多賀神社などではイザナミ+イザナギという夫婦神として祀られていますが、熊野系神社ではイザナギとイザナギが夫婦神で祀られているケースは少なく、大半はイザナミ単独で祀られている方が圧倒的に多いはずです。

それは分かれているからです。


第五段一書(十)

一書曰、伊弉諾尊、追至伊弉冉尊所在處、便語之曰「悲汝故來。」答曰「族也、勿看吾矣。」伊裝諾尊、不從猶看之、故伊弉冉尊恥恨之曰「汝已見我情。我復見汝情。」時、伊弉諾尊亦慙焉、因將出返、于時、不直默歸而盟之曰「族離。」又曰「不負於族。」乃所唾之神、號曰速玉之男次掃之神、號泉津事解之男。凡二神矣。及其與妹相鬪於泉平坂也、伊弉諾尊曰「始爲族悲、及思哀者、是吾之怯矣。」時、泉守道者白云〜

〜「有言矣、曰、『吾、與汝已生国矣、奈何更求生乎。吾則當留此国、不可共去。』」是時、菊理媛神亦有白事、伊弉諾尊聞而善之。

乃散去矣、但親見泉国、此既不祥。故、欲濯除其穢惡、乃往見粟門及速吸名門、然此二門、潮既太急。故、還向於橘之小門而拂濯也。于時、入水吹生磐土命、出水吹生大直日神、又入吹生底土命、出吹生大綾津日神、又入吹生赤土命、出吹生大地海原之諸神矣。不負於族、此云宇我邏磨茸。

現代文訳 第五段一書(十)

ある書によると……

イザナギはイザナミを追いかけて辿りついて、言いました。「わたしは、お前を失って悲しいから来たのだ」するとイザナミは答えました。「つながる者よ(=夫)。わたしを見ないでおくれ」イザナギは従わずに、イザナミを見てしまいました。イザナミはそれを恨み、恥じて「あなたはわたしの心を見た。わたしもあなたの心を見てしまった」と言いました。それでイザナギは申し訳なく思い、引き返そうとしました。そのときイザナミは黙って帰らせず「別れましょう」と言いました。イザナギは「負けない!」と言いました。その時吐いた唾が神となったのが速玉之男(ハヤタマノオ)といいます。次に穢れを払うと泉津事解之男(ヨモツコトサカノオ)といいます。二つの神が生まれました。

日本神話・神社まとめ による


 確かに分かれている様なのです。これについても、故)百嶋由一郎は“どうも大幡主(博多の櫛田神社の主神で実はカミムスビ神)と一緒になっているんじゃないか…”と気付いた(福岡県旧夜須町で…。と話しておられました。

 速玉之男(ハヤタマノオ)と言えば、熊野神社にお詳しい方は熊野速玉大社が頭に浮かばれるのではないでしょうか。その通りなのです。速玉が造化三神のカミムスビ神なのです。

 ついでに言えば、熊野那智大社の祭神が別れたイザナミであり、名を変えクマノフスミの命としているのです。

 この様に百嶋神社考古学は単純ではなくなかなか一筋縄では行かないのです。

 このため、事解之男命が誰なのかが非常に難しく、過去のブログでももしかしたら誤まって書いているかもしれませんが、大体、イザナギが死んで二人の神が生まれ変わるか生まれるという話が奇妙で、泉津事解之男(ヨモツコトサカノオ)が理解できないでいるのです。私も、過去、カミムスビかその子のヤタガラスだろうとか、金山彦だろうと書いていますが、混乱の結果です。

そもそも、この日本書紀の記述も非常におかしな書き方をしているのです。

どうせ、国文学者辺りに問うても解からないとしか言わないでしょう。マッカーサー以後の80年の米軍占領と、神社研究の禁止によって研究が途絶えているのです。勿論、今もです。

してみると、この神社も、かなり、原形を保った祭神である事が分かります。

一応、イザナミは良いとして、カミムスビと金山彦(カグツチ)としておきます。


不詳 碓氷神社の創建は不詳であるが碓氷峠に鎮座する熊野神社の分霊を勧請したのが始まりと伝えられている。


南北朝時代に入ると碓氷郷一ノ宮となり広く信仰を広め、慶安年間(164852)に碓氷峠の熊野神社の里宮となり社殿を改築し碓氷神社と改称する。明治四十二年村内の各社を合祀する。(「松井田町誌」参照)


 この様に、碓氷峠の熊野神社に行かなければと思いながらもパスしてしまい、安中市松井田に碓井神社を発見し、これで省略したのが間違いでした。

 また、九州からこの神社の為だけに出てくるのもたいへんで、まだ、チャンスはあると思いますが、少し確認作業は遅くなりそうです。これだけに関わっている訳には行きませんので。お許しください。

 どうやら、もう一度、軽井沢に行かなければならないようです。

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ご覧の通りイザナギは排除されていますね!これこそが熊野系神社の神髄なのです。


神社の縁起によれば、景行天皇40年(西暦110年)大和朝廷の命を受けた日本武尊は東国を平定し、武蔵国、上野国を経て碓氷坂に差し掛かった。折りしも濃霧により道に迷われてしまったが、その時紀国熊野山の神使霊鳥である一羽の大きな「八咫烏」が現れ、梛(なぎ)の葉を咥え来て尊の御前に落としながら道案内をした。そして尊は無事頂上に達することができた。尊はこれはまさに熊野の神のご加護とここに熊野の神を勧請したのが始まり。

 碓氷峠に立って自分が登って来た方角を振り返って見れば、そこには棚引く雲海が見られ、武尊はそれより海を連想され、東征の途中に相模灘で入水された弟橘姫(おとたちばなひめ)を偲ばれ、辰巳の方角(=東南の方角のことで関東平野が一望できる)に向かって「吾嬬者耶(あづまはや)」(=「愛しき我が妻よ」の意味)と3度嘆かれたという。

 以後ここより東の国を吾妻(あづま)と呼ぶこととなった。(日本書紀の記述による)これらの御由緒より、それに因んだ地名が残っている。例えば、神社の裏山の頂上を留夫山(とめぶやま)(=武尊の足を留めさせた場所の由緒から付いた名前)。あるいは、長野原(ながのはら)や長倉(ながくら)は、嘆きある原が語源と伝わっている。

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百嶋由一郎が残した神代系譜DVD、講演録音声CD、手書きデータスキャニングDVDを必要とされる方は090-62983254までご連絡ください

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記
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