960 気ままな上州への神社調査 ❻ 山の国上州の妙義神社 “陰に置かれた金山彦…”
20230324
太宰府地名研究会(百嶋神社考古学研究班) 古川 清久
妙義山、榛名山、赤城山と言えば、上州を囲む山岳修験の神社群として著名です。
それは、大東亜戦争以前に完成した巡洋戦艦榛名(艤装の後正式の戦艦に)、ミッドウェーで壮絶な終焉を迎えた空母赤城にもその痕跡をとどめています。
恐らく、艦内神社にも榛名神社、赤城神社の神々が祀られていた事でしょう。
先に、下仁田町、富岡市に入った事から、妙義山神社を書くことになりますが、富岡市内を北西方面(高崎市からは西)に走るとゴジラの背中の様な異様な山塊が見え始めます。
これが妙義山なのです。

県民の方には失礼になると申し訳もないのですが、群馬県は言わば関東平野の袋小路の様な国で、西はこの妙義の大山塊、北は著名な碓氷峠、四阿山、榛名山、赤城山に、南は信州街道の南に聳える荒船山、両神山と多くの山々に囲まれ、僅かに東だけに開けた袋地のようなところなのです。

大山塊への門番の様な神社ですが、どうみても山岳修験を意識してしまいます。
それは、修験で知られる四阿(あずまや)山にも繋がるからで、信州真田氏の裏山が妙義山の繋がりなのです。

猿飛佐助は架空とも言われますが、多分、真田十勇士の霧隠才蔵も山岳修験の延長の人だったのです
緑円の妙義山神社は信州側の支店のようなものなのでしょう。
問題は、この神社が如何なる素性のもので、如何なる神を奉斎しているかです。

現在の本社(本殿・弊殿・拝殿) 国指定重要文化財
祭神:
日本武尊 景行天皇の皇子で、第14代仲哀天皇の父にあたる人物として有名な神様
豊受大神 伊勢の外宮の社神
菅原道真公
権大納言長親卿 南北朝期 後醍醐帝の公卿
どうもこの祭神にはバランスから合点が行かない印象を持ちます。
日本武尊と豊受大神がどう結びつくのか?
ヤマトタケルと伊勢の内宮の天照大御神ならば、伯母とされる倭姫命を介して関係性を辿れはするのですが、配神としては繋がりが薄く、何やら重要な神が脇に追いやられている様に見えるのです。

境内社には、天狗社、水神社、愛宕社、厳島社、稲荷神社…が拾えるのですが、まず、水神社と厳島社があります。
通常、水神様と言うものの大半は、天御中主命、ミヅハノメ、厳島姫の三柱がほとんどであることから、厳島社がある以上、上殿の水神社はミズハノメのはずなのです。
そして、天狗社がある以上、隠された若しくは脇に移された神様(本来の主神)とは愛宕神社とされた金山彦以外にはないように思えるのです。
ここで、ようやくこの神社の本質が見えてきたのです。
このような謎解きができるのが百嶋神社考古学の神髄で天上の百嶋由一郎氏に感謝するところです。
天狗社は八天狗=求菩提山に象徴される金山彦系修験の本拠地ですが、後に国東半島と彦山の修験に挟撃され、豊前を撤退し西の肥前(佐賀、長崎)に拠点を移します。
ミズハノメが水神とされていますが、神大市姫=ミヅハノメは大山祇の姉として金山彦の妃になっていることから、上殿には天狗社に象徴される金山彦系修験に固められていることが分かるのです。

日本武尊ことヤマトタケルも金山彦の孫のオキツヨ足姫の流れを汲み息子の仲哀、従弟の景行(通説では父としますが)も祭神の日本武尊に繋がるのです。
ここまで見てくると、肥前(佐賀県小城市)に、何故、四阿山があるのかも納得が行くのです。


佐賀県鳥栖市には四阿屋神社があり、背後の修験の本拠地であった九千部山の麓には八天神社が複数存在するのです。
お判りいただけたでしょうか、肥前の八天神社、四阿屋神社などをご確認いただければ、上田市の真田一族などもイスラエル系でもある金山彦の末裔であり、群馬県にも金山彦系の物部氏が大量に入っていることが分かってくるのです。勿論推定ですが、金山彦は同族として秦の始皇帝と姻戚関係を結んでおり、その後裔が、妙義山、四阿山神社…として繋がっているはずなのです。
その事実を隠す必要が生じたのはナガスネヒコの乱以降の情勢変化もあったのではないかと思っています。
その意味では、富岡製糸工場の富岡市が富岡と呼ばれていることも富のナガスネヒコに通じますし、上州の最奥部に妙義神社が在り、四阿山神社が在る事とも符合するのです。
長野県 上田の四阿山山頂 山家神社奥宮は四阿山神社とも呼ばれているのです。

山家神社 奥宮 西宮(信濃社)カーナビ検索上上田市菅平高原
実は、埼玉県の奥秩父(旧両神村小森)にも四阿屋山があります。
当然にも四阿山神社が在り、現在はゴルフ場がすぐそばまで迫っていますが、幸いなことに町指定史跡に指定されており、当面の保存は問題ないでしょう。
問題はその神社の性格が継承されるかです。そのためにはこの神社の成立の背景を理解する必要があります。
今回、山中湖の友人の別荘から降りて甲府市の北隣の山梨市から140号線に入り7キロの雁坂トンネル
を抜け降れば、旧両神村は問題なく通過できそうと考えました。当会の埼玉県在住メンバーのT氏と合流し榛名神社、赤城神社に参拝する前にこの神社にも参拝し踏み入りたいと考えたのでした。

四阿山神社 カーナビ検索上埼玉県神川町下阿久原1369
昭和44年11月1日指定 所在地 神川町下阿久原1369
日本武尊が東征の折、この地にしばらく滞在したことから、後に住民が祠を建てて祀ったと伝えられています。四阿を古くは「あずまや」といったのは、日本武尊が妻を思い嘆いた言葉「吾嬬者耶」に由来するといわれています。祭神は日本武尊、橘姫尊です。
画像は地元の サイトから、上記文は神川町の公式HPより転載したもの

“波己曽とは岩社(いわこそ)”との説もあるも、良く判らないのが、この意味です。
当然、キムダルスを持ち出すまでもなく、比売許曾神社、上許曾神社…があるように、許曾は社の朝鮮語の意味であろうことは確実で、何れ判る時も来たら良いと思っています。
もう少し紙面の余裕があることから、お話ししたいと思いますが、もう一人の水神さまで弁財天様の異名までも持つ市杵島姫様も波己曾社の隣に厳島社として鎮座されています。
この厳島姫の「厳」は代字であって、本来は瀛島姫と書いていたのです。問題はこの瀛が秦の始皇帝の姓と関係があるのです。
そうです、始皇帝はの名も蠃政(エイセイ=インチョン)蠃政とされているのです。
弁財天社
それは、モーゼの血を引いていたと思われる金山彦は始皇帝と相互に姻戚関係を結び、製鉄技術を携え渡海し列島に入ったことによって氵(サンズイ偏)を付したのでした。
さらに掘り下げれば、宗像三女神の筆頭とされる市杵島姫もスサノウとアカルヒメとの間に生まれた神であり娘なのです。
もう一つ付加すれば、豊受大神(同社の看板とも言うべき伊勢の外宮様)も百嶋最終神代系譜をご覧になれば分かるように、金山彦の娘である櫛稲田姫を妃として、自らもミズハノメ(大山祇の娘であり大国主命の姉)を妃として伊勢の外宮様=辛国息長大姫大目命を生んでおり、この意味でも祀られて相当となるのです。
そして、伊勢の外宮様とは伏見稲荷と同体であることから稲荷神社そのものも、スサノウと神太市姫(ミヅハノメ)の子となることから妙義神社とは金山彦系の祭神と言ったもので固められている事が分かったのです。
稲荷社
一番違和感を持たれる秦始皇帝(ユダヤ人)金山彦説については以下をお読みください
106 白川伯王家源流の神社初見 “飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)”「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院 共通掲載
318(後) 春本番!安芸太田から邑南町の神社探訪 @ “ここにも忌部=瀛(イン)氏がいた!”
ひぼろぎ逍遥(跡宮)
838(前) 「秦の始皇帝はユダヤ人であった」と日本国史学会の学者が話している