2023年10月24日

959 気ままな上州への神社調査 ➎ “憧れの下仁田町から富岡市への神社探訪 降り宮 貫前神社“

959 気ままな上州への神社調査 ➎ 憧れの下仁田町から富岡市への神社探訪 降り宮 貫前神社“

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太宰府地名研究会 古川 清久


 勿論、途中でも多くの神社を踏んではいますが、今回の上州での神社調査は、妙義山神社、赤城神社、榛名神社を軸に、降り宮で著名な富岡市の貫前神社や下仁田町の諏訪神社、山際稲荷神社などと併せ周辺に大量に分布する今宮神社を見る事でした。

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上州の今宮神社(恐らく咲宮、鷺宮…同様、山幸彦=猿田彦=ニギハヤヒ=布津主を祀る神社で、貫前神社もその最大の社と考えています)も同様の祭神を祀る神社ではないかと予測しているところです。

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一之宮貫前神社は群馬県富岡市一ノ宮、蓬ヶ丘(よもぎがおか)と呼ばれる丘陵の北斜面、俗に菖蒲(綾女・あやめ)谷といわれる渓間に南面して鎮座しています。
南の参道をのぼって総門に至り、そこから石段をくだった位置に社殿があり、いわゆるくだり参道となっています。
創立は社伝によると鷺宮(さぎのみや:現在の安中市)に物部姓礒部氏が氏神である経津主神(ふつぬしのかみ)をお祀りし、次いで鷺宮の南方、現在の社地に社を定めたのが安閑天皇の元年(西暦531年)とされてます。
天武天皇の時代に初の奉幣(ほうべい:天皇の命により神社に幣帛を奉ること)があり、当時遠く奈良の都にまで貫前神社の存在が知られていたといえます。
醍醐天皇の時代に編纂の始まった『延喜式』のなかの『神名帳』にも記載され、上野国一之宮として朝野をとわず崇敬をあつめてきました。明治時代に定められた社格は国幣中社であり、群馬県内では最高位でした。戦後社格制度が廃止されると「一之宮貫前神社」として神社本庁の包括となりました。

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建国の祖神 物部氏の氏神 刀剣の神 武道の神

経津主神は『日本書紀』などの国譲りの場面で神名がみえ、葦原中国(あしはらのなかつくに:日本の異称)平定に功績があったとされています。
『日本書紀』のみに登場し『古事記』には登場しない神で、香取神宮(千葉県香取市)・春日大社(奈良県奈良市)・鹽竈神社(宮城県塩釜市)に祀られています。
また、布都御魂(フツノミタマ)を祀る石上神宮(奈良県天理市)は物部氏の奉斎する神社であり、なおかつ武器庫であったとされていることから、日本神話のなかで争ったという諏訪の神・建御名方神への抑えの武器庫として、当地の物部姓を賜った石ノ上部(イソノカミベ・礒部氏・磯部氏)によって貫前神社が創建せられたとも考えられます。「刀剣の神。霊剣フツノミタマの神格化したものという説がある。藤原氏の祖神の一つ。葦原中国平定のため、タケミカヅチを従えて天降りするなど、事蹟はタケミカヅチと重なる部分が多いが、『出雲風土記』『出雲国造神賀詞』では天降りするのはフツヌシのみであるところから、武人物部氏の祭神であったフツヌシが、中臣氏の台頭によりその神格を次第にタケミカヅチに奪われたものと思われる。」『神道辞典』

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養蚕と機織りの神 生産の守護神

姫大神は正確な神名も祀られた由緒も伝わっておりませんが、一説には綾女庄(あやめのしょう:当地の古い呼称)に住んでいた渡来の高麗人(こまびと)が養蚕や機織りを伝え、その人々が奉賛していた古い神であるとも云われています。

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貫前神社 カーナビ検索群馬県富岡市一ノ宮1535


さて、祭神ですが、簡単に言えば海幸山幸神話の山幸彦=猿田彦=ニギハヤヒ=五十猛=布津主だからこそ、もう一つの降り宮である阿蘇高森の草部吉見神社 祭神=ヒコヤイミミ=海幸彦=関東風に言えば武甕槌=鹿島大神となるのです。

 俗に三大降りの宮などと言われ、日向の日南海岸の鵜戸神宮をその一つに数える風がありますが、このウガヤフキアエズを祀る神社は海食洞に神殿を置いたものであって、降りて行くのは当たり前の事でしかなく、本来の降りの宮とは、海幸と山幸という神代史の二大スターと言えばお分かりになるでしょう。

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ここで健経津主命と保食命(辛国息長大姫大目命)が祀られているという意味は、ご夫婦だからです。

姫大神なるものがお妃かどうかは良く判りませんが、可能性はあると思います。

 経津主と名を変えられていますが、それは元のお妃である豊玉姫に対する礼儀であり、山幸彦=ヒコホホデミを使用していないという意味と同じですね。それだけ分かれば問題はありません。

 県下に今宮が十数社ある事も分かりますし、稲荷が多い理由も、全ては物部の国だからなのです。

 そして、上州の奥さん達が強い(かかあ天下とカラッツ風)と言う意味も、養蚕で稼いでくれる奥様の存在によって、家の経済が回っていたという事実がありますが、元々、格上の伊勢の外宮様、つまり豊受大神=保食命に山幸彦=猿田彦が頭が上がらない関係である事から来ているのです。

 一方、行政単位は異なりますが、安中市には鷺宮 咲前(サキサキ)神社というものがあります。 

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咲前神社 カーナビ検索 群馬県安中市鷺宮3308


御祭神 健経津主命(たけふつぬしのみこと)
大己貴命(おおなむちのみこと)     武蔵大国魂神社に敬意を表しているという意味ですね
保食命(うけもちのみこと)       伊勢の外宮の豊受大神とは実はアメノウヅメであり

見稲荷でもあるのです(ウヅメは大目)

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これとて山幸彦と分かれば、広範な分布を示す今宮神社と併せ、上州には大量のニギハヤヒを祀る神社が在ることが分かってきます。

 その意味では上州とは、物部氏が逃げ込んだ山であり深い谷だったのです。

 では、どこから逃げ込んだのかと言えば考えられるのは九州の筑豊地方のはずです。

 分布図にも出ていますが、遠賀川流域の物部氏が対馬海流に乗り、浜田、江津、太田、出雲〜京丹後、〜新潟(柏崎刈羽〜二田物部神社が在る南魚沼郡西山町〜上州に入っているのです。

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ここで物部地名をおさらいしましょう敬愛するHP「倭国九州王朝」より


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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記
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