957 気ままな上州への神社調査 ❸“中央高速阿智PAの昼神温泉と阿智村その「阿智」とは?“(中)
阿智神社へ参拝
20230323
太宰府地名研究会 古川 清久
いよいよ阿知神社に参拝します。

阿智神社 カーナビ検索 長野県下伊那郡阿智村智里489
阿智神社(あちじんじゃ)は、長野県下伊那郡阿智村にある神社。式内社で、旧社格は郷社。「先代旧事本紀」に天八意思兼命が天降り、信乃阿智祝部の祖となるとあり、由緒ある古社である。
主祭神 天八意思兼命 天表春命
相殿 誉田別命 建御名方命 大山咋命 ※ 前宮と奥宮があり、奥宮には磐座がある。
社伝によれば孝元天皇5年春正月、天八意思兼命がその御児神を従えて信濃国に天降り、阿智の祝部の祖となり給うと伝えられている。祭祀はその後裔である原氏によって担われた。
この地は古代東山道の沿線にあたり、鎮座地昼神の地名は日本武尊東征の帰路、神坂峠を越えようとしていたところ、峠に住む荒ぶる神の毒気に遮られて進むことができず、たまたま噛んでいた蒜を吹きかけた処、悪神たちどころに倒れて進むことができた。これによりこの地を蒜嚙と伝え、のちに昼神になったとされる。
また一説に、この地に天降った思兼命は高天原随一の知恵の神として、万機を建策ことごとく成就、特に天照大神の弟神素盞鳴尊のあまりの無道に憤り、天岩屋に隠れたときに、思兼命の采配により太陽の神である天照大神を無事外にお出しした。大功あった思兼命の鎮まります所、即ち暗より昼に帰した功神を祭るところ故、昼神であるといわれている。
奥宮は前宮より阿知川に沿って上がること2キロ、本谷川と黒川が合流し阿知川となる、三角に突き出した半島状の先端部に、位置し川合陵と言われる。丘上には苔むした巨石が祀られている。これを国学院大学教授大場磐雄は、磐座、すなわち上代における祭祀の遺跡であると立証し[1]、自然のままの菱形に近い巨石だが、出っ張りが東西南北と一致するとしている。また、冬至の時期、東の延長線上に太陽が昇ってくる。
上水内郡戸隠村鎮座している元国幣小社戸隠神社中社(祭神:天八意思兼命)、および宝光社(祭神:天表春命)の二神は村上天皇の治世である天暦年間に、徳武氏が当社より分祀したと伝えられる[2]。一時期、山王権現社として、呼ばれたことが、朱印状で確認できる。
また知々夫国造の奉斎した埼玉県秩父神社の御祭神で国造の祖・天下春命は天表春命の弟神である[1]。
『斎部氏家牒』によると、天手力男命は阿智の祝の遠祖であるという。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』20230323 23:44

阿智神社 前宮拝殿
信州の阿智神社の話に入る前に、岡山県倉敷市にも阿智神社が在ることを確認しておく必要があるでしょう。

阿智神社 | 岡山県倉敷市本町鎮座 カーナビ検索岡岡山県倉敷市本町12−1
祭神:多紀理毘売命; 多岐都比売命; 市杵嶋比売命
『日本書紀』「応神天皇二十(二九一)年九月条」に「倭漢直の祖阿知使主、其の子都加使主、並びに己が党類十七県を率いて、来帰けり」とあり、阿知使主の一族が渡来した事が記されており、この一族の一部が当地周辺に定住した事が「阿知」の地名発祥、また当社社号の由来と伝えられております。当社境内には磐境・磐座(我が国固有の古代祭祀遺跡)と呼ばれる多くの石組が点在しており、中でも本殿西側にある鶴亀の磐境は古代庭園とも呼ばれ、日本固有の信仰と陰陽思想などの大陸文化が融合した神仙蓬莱様式という形から、彼らの手により築き祀られたのではないかとも言われております。
19柱社摂社
応神天皇(おうじんてんのう)伊邪那岐命(いざなぎのみこと)伊邪那美命(いざなみのみこと)八意思兼神(やごころおもいかねのかみ)上筒之男命(うはつつのをのみこと)中筒之男命(なかつつのをのみこと)底筒之男命(そこつつのをのみこと)天照皇大神(あまてらすすめおほかみ)八十枉津日神(やそまがつひのかみ)神直日神(かむなほひのかみ)大直日神(おほなほひのかみ)素盞嗚尊(すさのをのみこと)奇稲田姫(くしなだひめ)神大市比売命(かむおほいちひめのみこと)宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)大己貴命(おほなむちのみこと)少彦名命(すくなひこなのみこと)久那斗神(くなどのかみ)吉備津彦命(きびつひこのみこと)
同社HPより
倉敷の阿智神社に関しては八意思兼神は摂社に回され原形を失っているようです

正面の鳥居ですが、まず、神額の文字が読めないのです。IMEパッドでも確認しましたが読めません。
当会の準構成員にはプロの書道家もおられますので一旦保留します。前宮、奥宮の意味かも知れません(前+奥 神社)。

この境内社も配置から重要なのですが誰を祀っているのでしょう
困った時は敬愛する玄松子様に頼ります…
式内社 信濃國伊那郡 阿智神社 旧郷社
御祭神 天八意思兼命 天表春命 配祀 誉田別命 健御名方命 大山咋命
長野県の阿智村にある。阿智町役場の北西3Kmほどの智里(ちさと)に鎮座。阿知川を遡って153号線を西へ進み、256号線に入って1Kmほどの昼神温泉に阿智神社前宮(前社)がある。
256号線から北へ入った場所に境内があるのだが、入る場所を間違えて、僕は境内の裏から参拝した。
ということで、一度境内を通過し、表参道に戻って参拝開始。参道の坂道を上ると鳥居が立っており、鳥居の奥に手水舎。手水舎の前を通過し、階段を上ると、もう一つの鳥居。鳥居をくぐると、社殿のある林の中の境内。「鳥居をくぐる」と記したが、実際にはくぐっていない。参道の二基の鳥居には、細い注連縄が張られているのだが、胸の高さの位置に張られているため、くぐる事をためらった。
通常の神社の鳥居では、注連縄は上部の貫(横棒)の位置にあるのだが、阿智村周辺の神社では、鳥居の脚の部分の中ほどに張られているようだ。境内の奥、北側に南向きの社殿。入母屋造妻入りの拝殿の後方に、本殿を納めた覆屋が接続した形式だ。拝殿の左手の木に、白い御幣が掲げられていた。なにか意味のあるものだと思うが、詳細は未確認。西側にあることから、奥宮を遥拝するものなのかもしれない。
創祀年代は不詳。社伝によると人皇第八代孝元天皇五年春正月、天八意思兼命が御子神を従えて信濃国に天降り鎮座したという。式内社・阿智神社に比定されている古社。
鎮座地である「昼神」の地名は「蒜噛」を好字に替えたもの。『日本書紀』景行天皇四十年の条に、日本武尊が信濃の山中で白鹿となって現れた神に蒜(ひる)を投げつけて殺したため道に迷って難渋したが白い犬に助けられ美濃に出たとあり、以前は、信濃坂を越える者は、神の気を受けて病になる者が多かったが、この後は、山を越えるものは蒜を噛んで人や牛馬に塗ると神気にあたらなくなったとある。
祭神は、天八意思兼命とその御子・天表春命。天表春命は帰化人である阿智祝の祖と考えられ、出雲系の諏訪族に対する、天孫系の尖兵として当地に駐留したと伝えられ、奥宮の地は天表春命の墳墓という説がある。一説には、当社は戸隠神社の元宮であるといい、阿智神社は吾道宮とも称し、『信濃地名考』には、天八意思兼命の御子・手力雄命は吾道宮に鎮座した後、戸隠神社奥社へ遷座したと記されている。また、天八意思兼命を祭神とする戸隠神社中社や天表春命を祭神とする戸隠神社宝光社は当社から分祀されたものという説もあるらしい。江戸時代には徳川幕府より朱印地十石の寄進を受け、明治五年十一月郷社に列した。当社の神紋は未確認だが、奥宮の社殿内に菊紋を染めた幕がかけられていたので、とりあえず菊紋として十六弁八重菊を載せておく。

このままでは読めないと思いますので以下に拡大します

以下は「美しく輝く未来へ(第24回)」から拾ったものですが、阿智村の公式HPによるものです。
…その折に昭和31年に阿智村が誕生した時、当時国に提出した「阿智村」の名前にした理由の公文書を見せてくれました。それには「古事記によれば出雲族に対抗した天孫族が、思兼命(オモイカネノミコト)の御子である、表春命(ウワハルノミコト)を阿智に鎮座されたとあり、古来よりこの辺り一帯を阿智と言われてきた。阿智神社に思兼命が祭られている。又、奈良平安時代には、交通の要所として阿智駅(逢地の関)が置かれ、新村中央の川も阿知川という」
まさに歴史の証拠として、重要な役割を担ってくれていました。村としても様々な書類は山のように保存されていますし、皆さんの家族や地域の歴史も、こういった文書を探し出すことができれば、いつか解明し将来のために保存し紐解いてみてはいかがでしょう。お願い申し上げます。
この文章では、後漢の阿智王の一族が入ったことによって阿智と言う地名が生じていることが分かっておられないようです。
近畿大和朝廷が成立する以前に、つまりそれに先行する500年近く前に列島に入っていると思われますので、その意味では既に先住者にはなっていたはずと思われます。
ただ、近畿大和朝廷が成立すると、通常、出雲系などと言われる建御名方の勢力との緊張関係は存在したはずで、それが相殿の神 誉田別命 健御名方命 大山咋命 と言う折衷的で奇妙な祭神に反映されているようです。
当然、誉田別命 が近畿大和を、健御名方命を言わば出雲系を 大山咋命(阿蘇高森の草部吉見と宗像三女神の筆頭市杵島姫)という両勢力の均衡を表しているようです。
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