2023年10月15日

956 気ままな上州への神社調査 ❷“中央高速阿智PAの昼神温泉と阿智村その「阿智」とは?“(上)

956 気ままな上州への神社調査 ❷中央高速阿智PAの昼神温泉と阿智村その「阿智」とは?“(上)

20230323

太宰府地名研究会 古川 清久


以前、熊本に後漢の王族が入っているとして、以下のリポートを書いています。

ビアヘロ104http://hiborogi.sblo.jp/article/186651747.html

全国の九州王朝論者に向けて!緊急報告肥後に後漢の霊帝の後裔が入っていた 20190805


これをお読みいただければと思いますが、とりあえず、その一部は再度掲載しておきます。

 今回、日本海側を北上し、京都市舞鶴市から福井県敦賀市辺りまで来て、郡上八幡、飛騨高山ルートは昨年も通っているので、木曽川沿いに岐阜県を北上し、長野県の最南部に入り伊奈市(伊那谷)に入るのも良いのではないかと、急遽、南に転進し阿智村に入ろうと考えたのでした。多分、コースは150キロは延びる事になったはずです。ここで阿智村をご存じでない方のために地図を出しておきます。

 南にコース変更し、長浜、関ヶ原、大垣、岐阜、多治見、土岐、恵那、中津川…と深夜に走り抜け、中津川のやたら大きな駐車場を持つAUショップで車中泊を決め込み、早朝から阿智村に向かって山道を駆け登って行ったのでした。滋賀県、岐阜県、愛知県と昼間なら運転する気も出てこない様なルートを抜けきり、静かな山道に踏み入ったのでした。

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近代的な高級温泉ホテルが並ぶ昼神温泉郷


ビアヘロ104 全国の九州王朝論者に向けて!緊急報告“肥後に後漢の霊帝の後裔が入っていた”

20190805


この旧呉の国(現江蘇省)からの客人をご案内しある程度の初期リポートを書き終えたら、新たなテーマと遭遇する事になりました。今回はこの話になります。

 この話を熊本で伊藤正子勉強会にも参加されておりトレッキング・メンバーでもあるF女史にお話ししたところ、“熊本市内に紀氏かもしれない系譜を持つ方がおられるとの耳寄りな話を聴き込みました。

 同女史のお陰で意外と早く面会の機会を得て熊本市内の事務所で話をお聴きすることができました。

 一応、フルネームは避けますが、お会いしたのは田尻と言われるご高齢ながらも現役の会社の経営者の方でした(と言っても現役の一級建築士としてご活躍の方で当方など遠く及びもつかない矍鑠の方ですが)。

 ご挨拶もそこそこに早速飛び出てきたのが漢帝国の始祖の劉邦から始まる系譜だったのです。

実際にはA3一枚のコピーだったのですが、そこには驚くべき事が書かれていたのです。

それは「大蔵姓田尻氏正統系譜」肥後国玉名郡玉水村立花田尻家系譜 とされるもので、皆さん“項羽と劉邦”で良くご存じの漢帝国の始祖劉邦から始まる連綿たる系譜であり、その一枝としての田尻家ご当主101代とするものだったのです。

そもそも綾部は漢(アヤ)の置き換えで、文、綾…は漢氏ではないかとか言われる事は一応知っていました。

ところが、百嶋先生が言われていた八女の黒木の一族と関係の深い原田と田尻は同族であったという事が事例として良く理解できましたし、この間謎であった日田の大原八幡宮の宮司家であった大蔵氏(財津氏)も実は獻帝の流れを引く漢の皇族の末裔だった事が分かってきたのです。

また、“原田氏が重要な氏族で一族の事を調べている方がおられ私のところにも電話で聞いてこられた方がおられた…”と水俣病で知られた故)原田正純教授から直接お話をお聴きしてもいました。

さらに言えば、久留米には笠(カサ)姓の方がかなりおられ、龍姓もあることから、もしかしたらこの「笠」姓は笠 智衆の「笠」同様、劉備玄徳の「劉」姓の置き換えではと考えてきました。

お話では @自らの一族は中国から渡ってきたものとは家伝として聞いてきた。A日本でも比較的知られる後漢の第26代霊帝から続く第28代獻帝の別れの漢の皇族の第31代阿智王が応神期に列島に移住してきた。B鎌倉期に頼朝から金峰山に領地を貰い住み着いた…。外にも多くの興味深い話を聴きましたが、ここでは第一報としてさわりの部分だけ、つまり基本的なことだけをお知らせすることにしたいと思います。

 では、系譜をご覧いただきましょう。

 前漢後漢を通じて、〜26代霊帝〜28代獻帝辺りまでは中国の系譜のままですが、それ以降は家伝のものとお聴きしました(後漢靈帝之曾孫 阿智王)。

 事実、第29代以降は「帝」の称号が地方皇族としての〇〇「王」に変りますから、第31代漢皇族阿智王(応神天29年帰化)の時に列島に移住したものと考えられます。

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七姓漢人… 阿知使主(阿知王)については『日本書紀』『続日本紀』『新撰姓氏録』などに日本への帰化についての記録がある。『日本書紀』によれば、応神天皇209月、倭漢の祖の阿智使主と、その子都加使主が、17県の党とともに帰化した。

続日本紀』延暦四年(785年)六月の条によれば漢氏(東漢氏)の祖・阿智王は東方の国(日本)に聖人君子がいると聞いたので帯方郡から「七姓民」とともにやってきたと、阿智王の末裔氏族東漢氏出身の坂上苅田麻呂が述べた。

右衞士督從三位兼下総守坂上大忌寸苅田麻呂等上表言。臣等本是後漢靈帝之曾孫阿智王之後也。漢祚遷魏。阿智王因牛教。出行帶方。忽得寳帶瑞。其像似宮城。爰建國邑。育其人庶。後召父兄告曰。吾聞。東國有聖主。何不歸從乎。若久居此處。恐取覆滅。即携母弟迂興徳。及七姓民。歸化來朝。是則譽田天皇治天下之御世也。於是阿智王奏請曰。臣舊居在於帶方。人民男女皆有才藝。近者寓於百濟高麗之間。心懷猶豫未知去就。伏願天恩遣使追召之。乃勅遣臣八腹氏。分頭發遣。其人民男女。擧落隨使盡來。永爲公民。積年累代。以至于今。今在諸國漢人亦是其後也。臣苅田麻呂等。失先祖之王族。蒙下人之卑姓。望 。改忌寸蒙賜宿祢姓。伏願。天恩矜察。儻垂聖聽。所謂寒灰更煖。枯樹復榮也。臣苅田麻呂等。不勝至望之誠。輙奉表以聞。詔許之。坂上。内藏。平田。大藏。文。調。文部。谷。民。佐太。山口等忌寸十一姓十六人賜姓宿祢。 - 続日本紀』延暦四年六月条

新撰姓氏録「坂上氏条逸文」には、阿智使主と同時期の来日である七姓漢人(朱・李・多・皀郭・皀・段・ 高)およびその子孫、桑原氏佐太氏等と、仁徳天皇の時代に阿智使主が朝鮮半島から連れてきたとされる村主氏が記されている。


ウィキペディア(Wikipedia20190816 0822による

 この系譜を見てこの間感じていたいくつかの問題への謎を解くことができるとともに、さらに深入りできる新たな謎解きへの糸口を見出しました。

@  故)百嶋由一郎氏が間違いなくアーリア系と話しておられた田尻氏が原田氏と同族であったこと。漢族と言ってもその内部にはシルクロードの終着点であった邯鄲辺りには多くの西域の人々が入っていたのであって、単に漢族として一括りにはできないかも知れないのです。

A  以前トレッキングでも取り上げましたが、事実上西豊後の一之宮とも言える日田市の大原八幡宮の社家でもあった大蔵氏(財津氏)の一族が、この阿智王の後裔であったと分かったのでした。


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

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物部の大原足尼命を祀る日田の大原八幡神社とは何か?

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日田の大原八幡神社も物部の神社だった “大分県日田市の大原八幡宮を

疑い再考へと”

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大原八幡神社は物部の神社だった “福岡県みやこ町の大原八幡神社”

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大原八幡神社は物部の神社だった “福岡県苅田町の大原八幡神社”

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福岡県苅田町での神社と古墳のトレッキングから 今回は資料だけを

お見せします


B  この系譜からはさらに重要な情報が得られます。第34代(阿智王の孫)から36代まで坂上姓を名乗っているのです。直ぐに坂上田村麻呂が頭をよぎりますが、第40代に有名な7世紀半ばの阿部比羅夫が記載されていますので、「日本書紀」が坂上田村麿の東北制圧の業績を近畿大和朝廷の業績と見せ掛けようと時代を繰り下げてないとも限らないので、もしかしたらこの坂上姓3代は無関係ではないのかも知れません。しかし、田村麻呂は8世紀末とされることからこの3代は直接的には繋がりません。しかし、後から見せていただいた原田氏の系譜(原田一族側で作成されたかなり大きな一族資料)には坂上田村麻呂がはっきり書かれていますので無視できません。


坂上 田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)は、平安時代公卿武官。名は田村麿とも書く。忌寸のち大忌寸、大宿禰。父は左京大夫坂上苅田麻呂官位大納言正三位兼右近衛大将兵部卿。勲二等。贈従二位。 忠臣として名高く、桓武天皇に重用されて、軍事造作を支えた一人であり、桓武朝では二度にわたり征夷大将軍を勤める。蝦夷征討に功績を残し、薬子の変では大納言へ昇進して政変を鎮圧するなど活躍。死後平安京の東に向かい、立ったまま柩に納めて埋葬され、軍神として信仰の対象となる。現在は武芸の神として親しまれ、多くの伝説、物語を生んだ。


C  前後しますが、第40代として阿部比羅夫が登場します。阿部姓はここだけですが、その理由は阿部貞任宗任の近畿大和朝廷への抵抗があったためかも知れません。


阿倍 比羅夫(あべ の ひらふ)は、7世紀中期(飛鳥時代)の日本の将軍。氏姓は阿倍引田臣冠位大錦上越国守・後将軍大宰帥を歴任した。斉明天皇4年(658)から3年間をかけて日本海側を北は北海道までを航海して蝦夷を服属させ、粛慎と交戦した。

ウィキペディア(Wikipedia20190816 1134による


D  この阿智王の後裔氏族にとって大きな発展期となったものは第47代征西将軍大蔵朝臣春實(正五位太宰少弐貮 豊前、筑前、肥前、対馬を支配下に置く)であり、その後大蔵から原田に改姓する頃には福岡県大牟田市三池を拠点としています。

E  ただ、この系譜は阿智王後裔の一つのブランチでしかないことは理解しておくべきでしょう。

55代原田実種=肥後初代田尻主計頭から肥後田尻氏が始まったとしています。しかし、単に頼朝から与えられた時から始まったとすることも単純すぎ、元々の故地であった可能性もないとは言えないでしょう。それについては後段で議論します。とりあえず、非常に魅力的な系譜について概括しました。


さて、漱石の「草枕」に峠の茶屋が出てきますが、熊本市の西に聳える金峰山のかつての自らの領地(鎌倉〜室町〜南北朝期)であった地に阿智王の拝堂が造られ劉邦、霊帝、阿智王が祀られています。

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付近には峠の茶屋、芳野郵便局、岳龍寺がありますが、ここでは芳野郵便局の住所を書いておきます。

多少分かりづらいので、不明なら同局に尋ねられたら分かりやすいかも知れません。

 数日後、別資料もお見せしますとの事で再び訪問しましたが、これもその一つで、原田一族側から作成された「大蔵朝臣原田家歴傅」です。ここにも同様の先祖が掲げられています。重複しますが、再度確認します。注目すべきは40代と42代の間に分家として坂上田村麿がはっきり書かれていることです。

 「原田家歴伝」と田尻家系譜とには恐らく起点が異なるか数え方が違うためか二代ほどずれが生じていますが、田尻家系譜の43代が田村麿の代理なのか田村麿と関係のある方が書かれていることになります。

 なお、写真は田尻家当主ご夫妻が「原田家歴伝」を頂いた原田一族の研究者を尋ねられた時(20年程前)の写真です。

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実はこの神社は当方の会のトレッキングでも訪問した福津市の神社で、現在は女性の宮司が跡を継いでおられる 年毛神社福岡県福津市勝浦943 пF 0940-52-3774)のようです。

先代の宮司が原田一族の研究者だったのではないかと思われます。そして、この神社に伝わる資料にかつてこの地が松浦潟と呼ばれていたとの記録があり、これだけをもって魏の使いが入った末羅国だとして卑弥呼の邪馬臺(壹)国筑豊説に導いた九州王朝論者がおり、現在も田川郡内で講演を続けています。

 最後に面白い話をお知らせしましょう。

 この田尻一族系譜を見せて頂いた田尻家101代ご当主の旦那寺は皆さんどなたもご存じの山田洋二監督の映画「男はつらいよ」フーテンの寅さんに登場する帝釈天御前様こと笠智衆の生家の寺だったのです。

 かなり前から金峰山に漢の後裔の氏族が入っているとの噂は承知しており、もしかしたら笠智衆(俳優としての名も実名を採用)の笠(リュウ)は劉備玄徳の劉氏の「劉」ではないかと考えてきました。

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図らずも、劉氏の後裔の田尻氏がこの寺(浄土真宗本願寺派)の檀家であったという事はその可能性がかなり高くなったのでした(玉名郡玉水村(現玉名市天水町)立花に浄土真宗本願寺派来照寺の次男として生まれる)

 そうです、御前様も劉氏の一族だった可能性が高いのです。

 このことに気づいたのは久留米市に笠(カサ)姓が、対岸の鳥栖市にも龍(リュウ)姓が多いことに気づいていたことがきっかけでしたが、この点でも仮説の一部が幾分裏付けられた事になり、謎の一端がほぐれてきた思いがしています。

一般的にこの劉邦後裔東漢氏については、岡山県倉敷市辺りから奈良に入ったとされますが(阿智神社がありますね)、半島からの入口は九州西岸だったはずですし、帯方郡から同行した「七姓民」の姓名(池園、浦志、鬼木、中園、水上、窪、石井、牧園、富田、鳥越)の分布を見ると、単純に奈良から全国に展開したとはとても考えられず、それも考えて見たいと思っています。次報でこの問題に触れます。

 そこまで風呂敷を広げないとしても、漢の末裔が肥後に入っていることを示す好例であることだけは間違いないのです。

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次葉の一部

                                                                                  

編集上紙面に限界がありますので、次代については割愛します。個人的に必要とされる方は対応します。

原田、田尻、大蔵、財津、坂上、阿部、笠、龍…の一族の皆さん自らのルーツをお考えになったらいかがでしょう。多少のアドバイスは可能ですので、当方にご連絡頂ければ、多少はお手伝いできると思います。09062983254まで。

 以上、長々と先行ブログを引用しましたが、この阿智村とは伊那市など天竜川が流れ降る、所謂、伊那谷と、恵那市など木曽川が流れ下る、所謂、木曽谷の間の山岳部に展開しているのです。

おかしな表現かも知れませんが、スイスの様な中立国家風のポジションを維持してきたのではないかと思えるのです。

一方では近畿大和朝廷以来の南からの圧力と信州、甲斐の山岳勢力(諏訪神社に象徴される建御名方系)との間に入る意味も持っていたのかも知れません。

間に入るも生き延びてきた人々だったのではないかとも思えるのです。

最近、知った話(事務局の中島さんからの情報ですが)、我々、百嶋神社考古学の洗礼を受けた者にとっても、重要な情報で、実は、百嶋由一郎氏の一族(福岡県八女市)も、阿智王の流れを汲んでいる一族だったという話を聴き込みました。

 彼らも山間部に入っている事を考えると、非常に興味深い話に入り込み始めたという印象を持っているところです。次のブログでは、阿知神社に参拝した話をお知らせします。

 気ままな神社調査と書いたのは、猫を一ケ月間預けてフリーになれ、なおかつ、北九州での研究会も順調であることから安心して遠征ができる事への開放感の表れなのかも知れません。

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百嶋神社考古学の神代系譜、講演録音声CD、手描き文書スキャニングDVDを必要な方は090-62983254まで

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記
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