955 気ままな上州への神社調査 ❶ “妙義山妙義神社に初参拝”の前に…味噌おでんの話
20230323
太宰府地名研究会 古川 清久
上州の神社調査への下調べ ➊ などを何本か書いているうちにいつの間にか日程が進み、現在は山中湖湖畔の友人の別荘に来てブログを書き始めました。
正面には数日前の雨が富士山七合目以上では雪になっていたようで朝起きると美しい富士山北壁が真っ白になっていました。

さらに太陽が昇ると東側斜面は赤みを帯びてさらに美しく輝くのですが、そちらもいずれ…
昨日まではコンピュータ内の多くの写真の整理をやっていましたが、そろそろブログを急ピッチで書かなければならないでしょう。忘れないうちに書かないと細部を書けなくなりますので。
既に、3月19日から二泊三日の行程で群馬への第1回目の調査を行い20社近い神社を見て回りましたが、天気予報を信じて切り上げ戻ってくると雨のはずが上天気でまたもやCO2温暖化論などと言う国家的国際的大嘘を垂れ流す連中の側面支援を行う気象庁以下の連中には怒り心頭…といったところです。
まあ、仮に気温が上昇しているとしても(4年前でしたかNASAは正式に否定していますし、南極大陸の分厚い極評氷はさらに上昇し厚みをしていると発表していましたよね…ICPCなど嘘と分かってデマを流しているのです)、海水温が上昇していることによって海水中の膨大なCO2が大気中に放出しているだけなのです。補足すれば、サイダーの炭酸ガスは温度が上がると抜け出し気が抜ける事は皆さんご存じでしょう。因果関係が逆で、通常の気候変動で温暖化しているから炭酸ガスの濃度が上がっているだけなのです。戦後の嘘つき共の気象庁もNHKも行政も全て嫌〜な顔した鬼女のグレタノの仲間なのです。
ともあれ、第二回目の群馬でも北部の榛名神社、赤城神社…を軸に埼玉県在住の百嶋神社考古学の研究会メンバーのT氏と合流し調査に回りますので、ぐずつき気味な天気を睨みながら同程度の神社巡りを行う予定です。と言っても金曜日の夜には出ますので、今日明日しかブログは書けないのです。
このため、今回は富岡市の妙義山神社は後回しにして、別のテーマで少し書いてみたいと思います。
それは味噌おでんの話です。
実は、埼玉県の奥地とかさらに奥の群馬県と言った液体の搬送が実質的に不可能な地域に味噌おでんが今も残っているのです。
6〜7年前にも茨城県、栃木県、群馬、福島、群馬県の一部を10日間ほど調査したことがありましたが、その時に埼玉県の奥の観光地である長瀞(ナガトロ)に入ったことがあり、そこに甘味噌、蒟蒻や団子を甘味噌で食べる文化に遭遇していました。勿論、書物や耳学問では承知していましたが、これほどの甘味に対する執着には驚いたことがありました。
詳しくは、アメブロで書いていた 旧ひぼろぎ逍遥 でお読みください。
スポット153 2018年を前にして「里芋正月」を考える
https://ameblo.jp/hiborogi-blog/entry-12369692989.html20171228
さて、ここでは今後の研究テーマでも話そうかとも考えたのですが、先日、友人の研究仲間から大量の里芋を貰った事から里芋の話を書くことにしました。

幸いにも標高450メートルもの高地にある研修所は気温が低い為、カボチャや里芋のようなものは新聞紙にでも包んで日陰に置いておけば保存が効く為悪くなる気遣いは全くありません。
とりあえず皮を剝いて多少水に晒してこんにゃく(しらたき=糸ごんにゃく)とかまぼこで炊いてしょうゆ味で食べましたが、念頭にあるのは北関東で良く食べられている秩父の「おなめ」(関東風大麦大豆味噌)を買ってきたまま使ってなかったため、次は無理してでも古風な芋田楽に仕立て食べる事にしようと思っているところです。

ここで、季節柄、少しおでんの話をしたいと思います。
まず、「田楽」と「おでん」に関係があるとお考えの方はあまりおられないと思います。
ご存じの通り、研修所は大分県日田市の天瀬町の五馬地区にありますが、阿蘇の外輪山の北の一部と言っても良いような高所にあり、阿蘇の味噌田楽も比較的に目にする所なのです。

味噌田楽
勿論、囲炉裏(いろり、ゆるり)で味噌を付け焼きながら食べる郷土料理ですね。

おでん
野田の醤油が普及するのは江戸の中後期からですが、醤油をふんだんに使って作られるのがおでんですね。
「味噌おでん」〜「おでん」へ
まず、通常のおでんと味噌田楽に共通性はあるものの形態は全く違う物である事は明らかです。
しかし、余った素材は元より、揚げ豆腐、コンニャク、椎茸、大根、里芋…とあらゆるものを味噌、醤油で食べることは共通しています。ただ、六十年ほど前までは、「おでん」と言えば「味噌田楽」が大半であった時代が現実に存在していたのです。
理由は簡単で、醤油は液体ですから味噌に比べて運び難く、車が普及するまでは、樽や一升徳利で運ぶとしても山奥の集落は塩さえも容易には調達できなかったことから山間地は元より、都市部を除き普通の農村部でも醤油はなかなか使えなかった時代が続いていたのです。
野田の醤油醸造 永禄年間に飯田市郎兵衛が甲斐武田氏に溜醤油(たまりじょうゆ)を納め、「川中島御用溜醤油」と称したのが最古とされる。1661年(寛文元年)に上花輪村名主であった梨兵左衛門が醤油醸造を開始し、翌年(1662年) に茂木佐平治が味噌製造を開始した(茂木はその後醤油製造も手がける)。
その後、江戸の人口の増加と利根川水運の発達と共に野田の醤油醸造は拡大する。 1800年代中頃には、梨兵左衛門家と茂木佐平治家の醤油が幕府御用醬油の指定を受ける。
1887年(明治20年)に「野田醤油醸造組合」が結成された。1917年(大正6年)には茂木一族と梨一族の8家合同による「野田醤油株式会社」が設立され、これが後にキッコーマン株式会社となった。『亀甲萬』は茂木佐平治家が使っていたものである。このときに野田の醤油醸造業者のほとんどが合流しているが、キノエネ醤油のように別の道を選んだ醸造者もあった。
ウィキペディア(20171228 12:19)による

この貴重この上ない醤油は、船で運ぶ事ができる範囲ではかなり普及しますが、大阪のような船便の発達した所でさえ、戦前までは醤油による関東風醤油「おでん」(関西では「カント炊き」=関東風おでん)は一般化していなかったのです。
このことを考えると、上方落語の名人中の名人だった故)桂 米朝師匠による噺をついつい思い出してしまいます。
この事実を現代に良く伝えているものに「カント炊き」の噺がありますのでご覧ください。
「味噌をつけて豆腐を焼いた豆腐の田楽は、全国的にもあまりなじみのないものになりましたが、昔の上方では、おでんと言えば田楽のことを言いました。京都南禅寺あたりでは、この豆腐の味噌田楽が名物として売られています。
関東風のダシで煮込んだおでんは、関東煮(関東だき、カント炊き)と言っていましたが、これもあまり言わなくなりました。」…
正確な題名としては「馬の田楽」という噺でしたか…。「カント炊き」と言い、「常夜灯の南天さん」の話と言い、民俗学的話が凍結されています。味噌田楽が一般的だったが故に、関東風味噌田楽(おでん)を「カント炊き」として区別したのでした。

まぁ今日はさっきもちょっと聞ぃていただきましたけども「田楽」といぅ噺「おでん」が近頃は関西でも「おでん」と言えば全部煮込みのおでんになりました。昔はあれ「関東煮(かんとだき)」言ぅたんですな。
関西は全部味噌であしらいます。関東のほぉはとにかく煮込むんですな、煮込みのおでんといぅんですな。あれを関東式やちゅうんで「かんとだき、関東煮」とわたしら言ぃましたあれ。
昭和二十年代やったと思います、新世界のほぉでね、カタカナで「カント煮(だき)」ちゅう店があった。東京の学生さんが「哲学風の店がある」感心して帰ったことがある。大阪の新世界は偉いとこやと思たでしょうなあれ。
それから三十年代の、これみな古い話ですが、東京の銀座裏に「関西風関東煮」ちゅう店があった。これも面白い店でんなぁ、つまり味が関西風やといぅことなんですね。
この頃は東京でもあの、うどんのダシ綺麗になりました。昔は真っ黒けの醤油のね、色そのままみたいな「あっちのうどん喰えんで」て、よくこっちの人言ぅた。近頃は東京もみな綺麗になりましたです。
その時分はおでんのダシなんかでも、だいぶこっちと向こぉとは違ごたんですな、それを「関西風の味付けである」といぅんで「関西風関東煮」お初天神のところに「関西煮(だき)」ちゅう店がありましたな「常夜灯」いぅてね。
もぉ無くなったんですかな、ひょっとしたらもぉ無くなったかも、あそこあれ境内を改築しはるんでね、あの辺の店みな無くなったそぉでございます、あれも美味しぃおでん屋でございましたがな。
まぁ、味噌をつけて焼くのが「おでん」でございます。そぉいぅその時代は子供の遊びなんかでも東西違ごたそぉでございましたし、何もかもが向こぉとこっちと大変に違ごたんです。そらその時代には大阪の落語を東京へ輸出できたんですな。
ちょ〜どヨーロッパの話をこっちへ持って来るぐらい、それが商売になった。あっちの話をこっちへ持って来るといぅ。子供のおもちゃ、駄菓子屋で流行ったちゅうとすぐ東京で真似をする。東京で流行った、こっち持って来たら商売になったといぅぐらいの、それぐらい東西が違ごてたよぉでございますが。
あの、いま「常夜灯」で思い出しましたが、あすこの関西煮の店のオヤジさんがね、昔の売り声が自慢でした。南天さんといぅ方もよぉ知ってました。
森繁久彌さんが常夜灯のオッサンにいろいろ聞ぃてね、録音とったのがございます。
そん中にこの「おでん屋の口上」といぅのがある。南天さんからわたし教えてもろたのと、それ聞き比べるとちょっと違ごとりましたがな、のんびりした時代やったんですな、みな夜その、味噌のほぉのおでんですな、それをこぉ、蒟蒻に味噌を塗って売る。甘いお味噌でしたな。
こぉ荷車引っ張って、夜、ちょっと寒いよぉな時期ですわなぁ……
♪おでん屋の口上=おで〜んさん、お前の出庄(でしょ〜)はどこじゃいな、わたしの出庄は常陸の郡(くに)、水戸ぉさまの御領中山育ち、郷(くに)の中山出るときは、藁のべべ着て縄の帯しめ、鳥も通わぬ遠江灘
(とおとぉみなだ)いろいろ苦労をいたしまして、落ち着く先は大阪江戸堀三丁目、播磨屋さんの店にと落ち着いて、手厚いお世話になりまして、別嬪さんのおでんさんになろぉとて、朝から晩まで湯に入り、化粧(けしょ)してちょいと櫛差して、甘いお味噌のべべを着る、おでんさんの身請けは銭(ぜぜ)次第、おでん熱あつぅ〜〜ッ
これでひと切りでんねん、これ聞ぃてからみな銭払ろて買ぉて帰ってきた。
そらのんびりしたもんでんなぁこれ。こんなこと言ぅておでんを売って歩いてた。
こんな口上はわたしら知りませんが、やっぱりあの甘いドロッとした味噌のかかった蒟蒻、ホカホカ湯気が立って結構なもんでございましたがな。
【上方落語メモ第2集】その80 による
南天さんの名調子は聴けませんが、米朝師匠の噺はネットで聴くことができます。実に有難い話です。
では、その「おでん」を関東風と表示している好例がありますのでご覧下さい。

現在でも「明治のおでんの素」のデザインには「関東煮」と書かれているのです。
つまり、関東風の醤油おでんが簡単に作れるとの振れ込みであり、味噌おでんではありませんよ…とばかりに、今も主張し続けているのです。
もはや、関東風と断る必要性もないほどまでに醤油によるおでんは一般化していますが、味噌田楽が串に刺されて囲炉裏で炙られていた事の延長上に、おそ松君のチビ太が持っていた串に刺されたオデンもあったのだと思うのです。
醤油で炊いたおでんは必ずしも串を刺す必要はないはずなのですが、もしかしたら炙って味噌味で食べたい人と、関東風おでんを食べたい人とが両方いた時代を反映していたのかも知れないのです(つまり、ネタの仕込みの問題ですが、焼き鳥屋などのおでんならそのまま味噌田楽は焼けるのですから)。
この移行形態と言うか中間形態に群馬の「味噌おでん」もあるのです。
ともあれ、今日は「おなめ」をぬった里芋を炙って(逆ですかね)北関東風の味噌田楽を食べようと思っています。いずれにせよ、津々浦々まで醤油が普及するのは車が一般化する戦後の事なのです。
それまでは囲炉裏が一般的な寒い地方や阿蘇などの高冷地(釜戸ではなく暖房と煮炊きを共用する文化圏)では味噌田楽が相対的に残り、今や全く別の食文化の様に理解されるようにさえなったのでした。
さて、里芋正月の話に入りましょう。
民俗学では良く知られたテーマですが、「芋名月」と併せ「里芋正月」という概念が存在します。
このことについてふれようとしたら、あまりにも完璧で明瞭な解説がネット上に公開されており、恥ずかしくなり、書く意欲が全く失せてしまいました。しかし、JA愛知東のサイトには感服しました。
奥三河の名倉村(現設楽町)を訪れる機会があった…と、確か「忘れられた日本人」には奥三河話が出て来ますが、宮本常一も強く意識していたようです。もう、これだけで十分でしょう。
上州は群馬県になるのでしょうが、以前、水上温泉や埼玉県に近い群馬県の縁の神社を多少見た程度で、今回、実質的には初めて群馬を目的に入ることにした訳で、ましてや山中湖から降りて富岡、下仁田、妙義山一帯を見るにも、どのようなコースで入るかも考えていなかったため甲府から西に向かい清里村、佐久、軽井沢から下仁田方面に降る事しか考えていなかったのでした。
これについては遠回りをせずに、山梨市から北に山越えし、7キロの雁坂トンネル(有料)を抜けて秩父(埼玉)から富岡、下仁田に向かう方が遥かに近いことに気づいたのでした。
天気を見て、再度、入るため次回はこのルートで入ることにしますが、長野県の佐久市から群馬の下仁田町に向かう途中、道すがらのドライブイン風のレストランの看板に心を奪われ、思わず引っ返して食べたのが味噌おでんでした。
里芋、蒟蒻、厚揚げ、風呂吹き大根を味噌仕立てで濃い味噌汁に漬けてそのまま食べるものと注文すると、出てきたのは三角に切られた蒟蒻に無造作に甘味噌を着けて食べるものだったのです。
ともあれ、秩父とは異なる食習慣ではあるようで、醤油が普及できなかった時代を今に残存させているものは、醤油と言う液体状のものを安全かつ大量に運ぶ交通手段の整備が遅れたとしか言いようがないのでした。関東と言っても辺境の地までは尚も醤油文化が覆い尽くしてはいない事に喜びを感じた瞬間でした。
その意味では熊本の阿蘇の名物、田楽も醤油を阿蘇まで運び上げる事にはかなり遅れ、鉄道と、自動車の普及を待たなければならなかった事が分かるのです。

左)途中で見掛けた息を呑む大磐塊のテーブル・マウンテン荒船山 右)味噌田楽の原形味噌おでん
帰路も麦とろ風のとろろ汁定食に味噌おでんを加え、満足したのでした。
今回は、天気も良く下見の意味もあり入ったのですが、実際には往路で200キロを超え、もっと近道を探ってみましたが、山梨市から北に入る道が整備されており、100キロも走れば富岡に行けそうなのです。私にとっては大発見に近く、甲府から直接北関東に入ることが可能になったのでした。

黄色の区間が雁坂トンネルで、上越新幹線の本庄早稲田駅で所沢から来るメンバーと合流できるのです
交通量の多い大月から相模原経由で群馬に入るなど御免こうむりたいので渡りに船だったのでした。

話が脱線し続けていますが、後は天気次第で第二次上州調査を始めます
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