954 碓氷峠の向こう側の神々を探る (下) “都合上再掲載再加筆”
20220211
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
この間、信濃〜甲斐の神社を視る事によって長野県、山梨県がどのような国だったのかを探ってきました。
手掛かりになったのは韮崎市の武田八幡宮の神殿内の脇殿の若宮八幡宮でした。ただ、この話は以前にもしましたので詳しくは後に回します。
この若宮神社は、甲信越で言えば凡そ新潟県に20数社、長野県に30数社、山梨県に20数社を数えます。
そして甲信越を降り静岡県にも50社、愛知県にも30社近くが拾えます。この事は、甲信越が若宮八幡神社の集中する一帯であることを教えてくれました。
そこで気になってきたのは碓氷峠の向こう側、つまり、北関東の群馬県でした。
そして長野県の軽井沢を越え上州に入ると全く異なる世界があることが分かってきたのでした。

詳しくはGoogleの検索画面から 群馬県 神社 とスペースを入れてダブル検索すると右に地図が出てきますので丹念に見て頂くと、八幡神社はあるものの若宮八幡神社は一社も存在しないことが分かってきたのです。この縮尺では視難いでしょうが、グーグルの地図をご覧ください。
この事は、武田信玄の一族のご先祖も新潟県の上越市(旧直江津)辺りから山を越え入ったはずで、柏崎刈羽や新潟から入ったのではないだろうと推定できるようになってきました。まず、土地勘を得なければなりません。
山梨県韮崎市の武田八幡神宮の神殿脇に大切に祀られていた若宮八幡宮を見た時に正直驚いたのですが、武田信玄のご先祖は孝元天皇の子=久留米市の高良大社に祀られる高良玉垂命=第9代開化天皇(飽く迄も藤原が勝手に第9代に数えただけの事ですが)と神功皇后との間に生まれた長子仁徳(シレカシノミコト=藤原はオオササギとしていますが)こそが若宮であり、武田信玄の先祖新羅三以前、若宮の腹違いの兄弟から端を発した四道将軍の一人大彦こそが武田氏のルーツだったと考えるのです。
ひぼろぎ逍遥(跡宮)
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そこで2023年の3月には碓氷峠を越えたいと思っていますが、ここを越えるとどのような神々と遭遇できるのかを探るのが本ブログの目的になります。と言ううちに雪解けは近まり、あとひと月になってきました。
勿論、23年3月以降に,再再再再度再度、信濃から北関東に入るための準備稿になります。
今のところ、群馬県の西部を中心に南から北へ移動し、碓氷峠〜軽井沢に貫けるコースを考えています。
ざっとした計画ですが、実行するまでには加えるものもあるでしょうが、全部を見ることは不可能ですので、全体の傾向を把握するための事前作業と言ったところです。
昔は下調べをあまりやらなかったのですが、遠来の地でもあり、残り少ない人生、効率性を考えると、二度とは踏めぬかもしれない為、最低でも調べておくべきなのです。
@ 下仁田町 山際稲荷神社 甘楽郡下仁田町下仁田701
A 々 若宮八幡宮 下仁田町馬山
B 富岡市 宇藝神社 富岡市神成1178
C 々 一之宮貫前神社 富岡市一ノ宮1535
D 甘楽町 今宮神社 甘楽郡甘楽町小幡995−7(社務所)
E 々 白倉神社 甘楽郡甘楽町白倉1536-1
F 前橋市 赤城神社 前橋市富士見町赤城山4−2
G 々 三宮神社(上野國三宮) 北群馬郡吉岡町大久保1
H 高崎市 榛名神社 (上野國六宮) 群馬県高崎市榛名山町849
J 々 咲前神社 安中市鷺宮3308
群馬県西部と言った好い加減な設定をしますが、稲荷の数が非常に多く、信州の延長上に若宮八幡神社もありますが、春日神社など阿蘇系神社が無いに等しく、敗残の故かも知れませんが、物部一色、諏方系も金山彦系も多い強面の神社ばかりと言った印象を受けます。

さて、群馬県と言えば…、もとい。上州(県)と言えば、頭に浮かぶのは上州新田郡三日月村の木枯し紋次郎様以外ありません。
富岡市の西には仁田町があり、これは笹沢佐保氏の想定とは異なりますが、自分だけの思い込みのイメージではこの地こそ新田郡三日月村なのです。
この想定三日月村に入った人々のご先祖様は、新潟県の柏崎刈羽辺りから南魚沼市経由で上州に進出した(若しくは避退した)九州の物部氏の末裔のはずなのです。
やはり、碓氷峠は甲信越と関東を分ける大きな壁なのです。
糸魚川から南下すれば、白馬を越えて松本に入ります。
上越からだと善光寺を経て、上田、小諸、佐久に入ります。
柏崎刈羽から入れば、上州の富岡辺りに入るのです。
それほど碓氷峠は人々を遮る大きな壁だったのです。

ここまでは前ブログの導入部の再掲載です
❻ 今宮神社 群馬県高崎町箕里郷町柏木沢108
実のところ、上州は物部系の人々が定着した逃亡地ではないかと常々考えてきました。
物部と言えば「前代旧事本記」の物部25部族 筆頭 ニギハヤヒこそ山幸彦であり、ヒコホホデミなのです。
そして、驚くことに猿田彦でもあるのですがそれは(これまでのブログ2500本から検索して頂くとして)良いとして、現地は群馬県下仁田であり、多分、新多(田)物部の地と考えても良いのです。
予定を変更しこちらを見せていただきます。

京都石清水八幡宮分社
❼ 白倉神社 甘楽町大字白倉1536−1
本宮はここから南方の天狗山の山中にあり、この社は里宮であるらしい。例祭などもこの里宮で行われる。この地の豪族である小幡羊太夫宗勝が鉱物の神である金山彦命を祭神として祀ったのが社の起源と伝える。宗勝は伝説上の人物で実在したとは考え難いし、神社創建の年が和銅元年(708年)で和同開珎が初めて鋳造された年に当たるのも後世の付会だと思う。

❽ 赤城神社 前橋市富士見町赤城山4−2
当然、祭神は赤城大明=神金山彦のはずですが…豊城入彦(こいつは神武僭称贈る崇神の息子でしかないのです)などと誤りが積み重ね続けられている。まあ、藤原による乗っ取りですね。
関東平野北西縁に立つ赤城山を神体山として祀る神社である。山頂にあるカルデラ湖の大沼・小沼や、火口丘の地蔵岳、そして赤城山そのものに対する山岳信仰に由来する。
全国には関東地方を中心にして約300社の赤城神社があるといわれ、その中でも特に山腹の三夜沢赤城神社または山頂の大洞赤城神社が総本宮とされる。
延長5年(927年)成立の『延喜式神名帳』には、名神大社として「上野国勢多郡赤城神社」と記載があり、以下の3社が論社とされている。
・ 赤城神社(三夜沢赤城神社)(群馬県前橋市三夜沢町、位置) - 旧県社。
・ 赤城神社(大洞赤城神社)(群馬県前橋市富士見町赤城山、位置) - 旧郷社。
・ 二宮赤城神社(群馬県前橋市二之宮町、位置) - 旧郷社。
3社の経緯や比定を巡る議論については、下記歴史節や各社項目を参照。


本来の祭神は金山彦とカミムスビ神の娘埴安姫=関東風に書けば磐裂神、根裂神(イワサク、ネサクの神)で良いと思います。
関東は武蔵大国魂神社の威光が大きいため敬意を表し筆頭に掲げられていますが、大国主命と金山彦ご夫婦さらに経津主神と最強硬派の神々がこの神社の特徴です。
しかし、頭は国定忠治にしか気が向かいません。
江戸時代に於いてたちどころに60人近い戦闘集団を組織できる人物と言うだけで、頭が下がります。
役人どもはどうせろくな人間ではないはずで大した人物だったはずです。

❾ 三宮神社(上野國三宮) 北群馬郡吉岡町大久保1
祭神:祭神は次の3柱 彦火火出見命 豊玉姫命 少彦名命
三宮神社は、群馬県北群馬郡吉岡町大久保にある神社。式内社(名神大社)で、上野国三宮
以下は敬愛する玄松子様に依る
式内社 上野國群馬郡 伊加保神社 名神大
御祭神 彦火火出見尊 豊玉姫命 少彦名命
群馬県吉岡町にある。境内地を、関越自動車道が通ったため。関越自動車道の西そばに鎮座。
吉岡町役場の南東1Kmほどの位置。道路そばに参道入口があり、木々の参道を北上して境内。
一段高い境内は、綺麗に整備され、赤い社殿が美しい。
天平勝宝2年(750)の勧請と伝えられ、伊香保神社の里宮で、上野国三宮と思われる神社。
一説には、伊香保神社の古社地であるという。よって上野国神名帳群馬東郡の正五位上小伊賀保明神
(一宮本では伊賀保別大明神)は古伊賀保明神である当社のこととする説もある。
当社の南西4Kmには総社も存在し、国府に近く、周囲に古墳群もある。
『神道集』には、「女体ハ里へ下給テ三宮渋河保二御座ス、本地ハ十一面也」とあり、当社には、室町時代の作と伝えられる、一木彫りの十一面観音が安置されている。
境内には神楽殿もあるが、どの社殿も赤と黒で彩色されていて、落ち着いた色調。境内も明るい雰囲気だった。
三宮神社由来記
吉岡村大字大久保字宮の地に鎮座する三宮神社は天平 勝宝二年創祀の伝承をもつ古名社で彦火々出見命豊玉姫命少彦名命の三柱の神を奉斉している当社を三宮と 称する所以は三柱の神を祭るためでなく上野国三之宮 であったことによる九条家本延喜式神名帳には上野国 三之宮は伊賀保大明神とあり当社はその里宮の中心で あったと考えられる柳古代当地方の人々は榛名山を伊 賀保山と称しその山頂を祖霊降臨の聖地と崇め麓に遥 拝所をつくり里宮とした上野国神名帳には伊賀保神が 五社記載されてありその中心の宮を正一位三宮伊賀保 大明神と記している当地三宮神社が伊賀保神を祭る中 心地であったため三宮の呼称が伝えられたのである近 くに大古墳群の存在はそれを裏付ける当社を伊賀保神 とする由縁はその祭神にもよるが本殿に安置される 十一面観音像のあることがこれを証する南北朝時代の 延文年中編と推定される神道集所収の上野国三宮伊賀 保大明神の由来には伊賀保神は男体女体の二神あり男 体は伊賀保の湯を守護する薬師如来で女体は里に下り 十一面観音となるとある当社は古来十一面観音像を御 神体として奉安してきたのである慶應四年神仏分離令 が発せられると全国各地で神社内の仏教関係遺品が破 却された当地の先人は古来三宮神社の御神体として奉 安してきた十一面観音像を秘仏として密かに遺し今日 に伝えたのである昭和六十年秋の関越高速自動車道開 通に伴い当社境内地の一部も道路編入の止むなきにい たりこの機会に氏子一同相計り社殿および境内の整備 につとめ由緒ある当社の由来を後世に伝えんとし石碑 に刻んだ次第である −境内石碑より
❾ 榛名神社 (上野國六宮) 群馬県高崎市榛名山町849 都合によりパスします!
❿ 咲前神社 群馬県安中市鷺宮3308 群馬県富岡市一ノ宮1535

御祭神
健経津主命(たけふつぬしのみこと)
大己貴命(おおなむちのみこと) 武蔵大国魂神社に敬意を表しているという意味ですね
保食命(うけもちのみこと)
ここで健経津主命と保食命が祀られているという意味は、ご夫婦だからです。
経津主と名を変えられていますが、それは元のお妃である豊玉姫に対する礼儀であり、山幸彦=ヒコホホデミを使用していないという意味ですね。それだけ分かれば問題はありません。
県下に今宮が十数社ある事も分かりますし、稲荷が多い理由も、全ては物部の国だからなのです。
そして、上州の奥さん達が強い(かかあ天下とからっ風)と言う意味も、養蚕で稼いでくれる奥様の存在によって、経済が回っていたという事実がありますが、元々、伊勢の外宮様、つまり豊受大神=保食命に山幸彦=猿田彦が頭が上がらない関係である事から来ているのです。

⓫ 碓氷神社 安中市松井田町五料2131 こちらも参拝しますが事前調査は致しません