953 碓氷峠の向こう側の神々を探る (上) “都合上再掲載再加筆”
20220210
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
この間、信濃〜甲斐の神社を視る事によって長野県、山梨県がどのような国だったのかを探ってきました。
手掛かりになったのは韮崎市の武田八幡宮の神殿内の脇殿の若宮八幡宮でした。ただ、この話は以前にもしましたので詳しくは後に回します。
この若宮神社は、甲信越で言えば凡そ新潟県に20数社、長野県に30数社、山梨県に20数社を数えます。
そして甲信越を降り静岡県にも50社、愛知県にも30社近くが拾えます。この事は、甲信越が若宮八幡神社の集中する一帯であることを教えてくれました。
そこで気になってきたのは碓氷峠の向こう側、つまり、北関東の群馬県でした。
そして長野県の軽井沢を越え上州に入ると全く異なる世界があることが分かってきたのでした。

詳しくはGoogleの検索画面から 群馬県 神社 とスペースを入れてダブル検索すると右に地図が出てきますので丹念に見て頂くと、八幡神社はあるものの、若宮八幡神社は一社も存在しないことが分かってきたのです。この縮尺では視難いでしょうが、グーグルの地図をご覧ください。
この事は、武田信玄の一族のご先祖も新潟県の上越市(旧直江津)辺りから山を越え入ったはずで、柏崎刈羽や新潟から入ったのではないだろうと推定できるようになってきました。まず、土地勘を得なければなりません。
山梨県韮崎市の武田八幡神宮の神殿脇に大切に祀られていた若宮八幡宮を見た時に正直驚いたのですが、武田信玄のご先祖は孝元天皇の子=久留米市の高良大社に祀られる高良玉垂命=第9代開化天皇(飽く迄も藤原が勝手に第9代に数えただけの事ですが)と神功皇后との間に生まれた長子仁徳(シレカシノミコト=藤原はオオササギとしていますが)こそが若宮であり、武田信玄の先祖新羅三以前、若宮の腹違いの兄弟から端を発した四道将軍の一人大彦こそが武田氏のルーツだったと考えるのです。
ひぼろぎ逍遥(跡宮)
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そこで2023年の3月には碓氷峠を越えたいと思っていますが、ここを越えるとどのような神々と遭遇できるのかを探るのが本ブログの目的になります。と言ううちに雪解けは近まり、あとひと月になってきました。
勿論、23年3月以降に,再再再再度再度、信濃から北関東に入るための準備稿になります。
今のところ、群馬県の西部を中心に南から北へ移動し、碓氷峠〜軽井沢に貫けるコースを考えています。
ざっとした計画ですが、実行するまでには加えるものもあるでしょうが、全部を見ることは不可能ですので、全体の傾向を把握するための事前作業と言ったところです。
昔は下調べをあまりやらなかったのですが、遠来の地でもあり、残り少ない人生、効率性を考えると、二度とは踏めぬかもしれない為、最低でも調べておくべきなのです。
➀ 下仁田町 山際稲荷神社 甘楽郡下仁田町下仁田701
➁ 々 若宮八幡宮 下仁田町馬山
➂ 富岡市 宇藝神社 富岡市神成1178
➃ 々 一之宮貫前神社 富岡市一ノ宮1535
F 前橋市 赤城神社 前橋市富士見町赤城山4−2
H 高崎市 榛名神社 (上野國六宮) 群馬県高崎市榛名山町849
I 安中市 碓氷神社 安中市松井田町五料2131
J 々 咲前神社 安中市鷺宮3308
群馬県西部と言った好い加減な設定をしますが、稲荷の数が非常に多く、信州の延長上に若宮八幡神社もありますが、春日神社など阿蘇系神社が無いに等しく、敗残の故かも知れませんが、物部一色、諏方系も金山彦系も多い強面の神社ばかりと言った印象を受けます。

さて、群馬県と言えば…、もとい。上州と言えば、頭に浮かぶのは上州新田郡三日月村の木枯し紋次郎様以外ありません。
富岡市の西には仁田町があり、これは笹沢佐保氏の想定とは異なりますが、自分だけの思い込みのイメージではこの地こそ新田郡三日月村なのです。
この想定三日月村に入った人々のご先祖様は、新潟県の柏崎刈羽辺りから南魚沼市経由で上州に進出した(若しくは避退した)九州の物部氏の末裔のはずなのです。
やはり、碓氷峠は甲信越と関東を分ける大きな壁なのです。
糸魚川から南下すれば、白馬を越えて松本に入ります。
上越からだと善光寺を経て、上田、小諸、佐久に入ります。
柏崎刈羽から入れば、上州の富岡辺りに入るのです。
それほど碓氷峠は人々を遮る大きな壁だったのです。
このことが後でも鮮明になってきます。

➊ 山際稲荷神社(下仁田町) 群馬県甘楽郡下仁田町下仁田701
実のところ、上州は物部系の人々が定着した逃亡地ではないかと常々考えてきました。
物部と言えば「前代旧事本記」の物部25部族 筆頭 ニギハヤヒこそ山幸彦であり、ヒコホホデミなのです。
そして、驚くことに猿田彦でもあるのですがそれは良いとして、現地は群馬県下仁田であり、多分、新多(田)物部の地と考えても良いのです。

❷ 若宮八幡神社 群馬県甘楽郡下仁田町馬山
質素と言うか粗末な社殿ですが、今まで良く残って頂きました。
祭神:応神天皇 仁徳天皇 とありますが、当然、仁徳天皇単独が正しいはずです

❸ 宇藝神社 群馬県富岡市神成1178 社伝によると、天武天皇白鳳7年4月8日の創建
祭神:倉稻魂神 建御名方神 速玉之男命 伊邪那美命 大山津見神 事解之男命 大日孁尊
宇藝神社とあるため、多分、伊勢の外宮様と分かりましたが、当然ながら、山際稲荷神社(下仁田町)の祭神と同じ豊受大神=伏見稲荷となります。豊受の「受」を宇芸と表記しているだけです。
“また、当社の神宝に船があり、貫前の船ライン(荒船・貫前・小船)上に、当社の古社地があることから、舟を表す「槽(おけ)」との説もある。…
…赤い鳥居には、「宇藝神社」「赤城大明神」の扁額があり、境内社に赤城神社がある。
上記のように、古社地である「ウガジンサマ」から、赤城神社境内に遷座した。
“敬愛する玄松子様より
❹一之宮貫前神社 富岡市一ノ宮1535(三大くだりの宮)

三大くだりの宮という表現には多少の違和感があります。
くだりの宮という表現は良いのですが、宮崎の鵜戸神宮についてはそもそも海食洞内に造られていることからくだって行くのは当たり前で、そのようなものを三束に扱うことに疑問があるだけです。
むしろ、肥後の草部吉見神社(海幸彦=ヒコヤイミミ)を祀る に対して、上州の貫前神社(山幸彦=ニギハヤヒ)を祀る 二大くだりの宮という表現の方がしっくりくるのですがこれは私のわがままな思いでしかありません。
ただ、草部吉見神社に何十回となく参拝した者としては、貫前神社に詣ることができることは細やかな喜びであり、その対比と併せ今後の思考の冒険にまで繋がればと思っています。 以下同社HPより。
創立は社伝によると鷺宮(さぎのみや:現在の安中市)に物部姓礒部氏が氏神である経津主神(ふつぬしのかみ)をお祀りし、次いで鷺宮の南方、現在の社地に社を定めたのが安閑天皇の元年(西暦531年)とされてます。
天武天皇の時代に初の奉幣(ほうべい:天皇の命により神社に幣帛を奉ること)があり、当時遠く奈良の都にまで貫前神社の存在が知られていたといえます。
醍醐天皇の時代に編纂の始まった『延喜式』のなかの『神名帳』にも記載され、上野国一之宮として朝野をとわず崇敬をあつめてきました。明治時代に定められた社格は国幣中社であり、群馬県内では最高位でした。戦後社格制度が廃止されると「一之宮貫前神社」として神社本庁の包括となりました。
建国の祖神 物部氏の氏神
刀剣の神 武道の神
経津主神は『日本書紀』などの国譲りの場面で神名がみえ、葦原中国(あしはらのなかつくに:日本の異称)平定に功績があったとされています。
『日本書紀』のみに登場し『古事記』には登場しない神で、香取神宮(千葉県香取市)・春日大社(奈良県奈良市)・鹽竈神社(宮城県塩釜市)に祀られています。
また、布都御魂(フツノミタマ)を祀る石上神宮(奈良県天理市)は物部氏の奉斎する神社であり、なおかつ武器庫であったとされていることから、日本神話のなかで争ったという諏訪の神・建御名方神への抑えの武器庫として、当地の物部姓を賜った石ノ上部(イソノカミベ・礒部氏・磯部氏)によって貫前神社が創建せられたとも考えられます。
「刀剣の神。霊剣フツノミタマの神格化したものという説がある。藤原氏の祖神の一つ。葦原中国平定のため、タケミカヅチを従えて天降りするなど、事蹟はタケミカヅチと重なる部分が多いが、『出雲風土記』『出雲国造神賀詞』では天降りするのはフツヌシのみであるところから、武人物部氏の祭神であったフツヌシが、中臣氏の台頭によりその神格を次第にタケミカヅチに奪われたものと思われる。」『神道辞典』
祭神にはもう一体があり姫大神とされています。これが単にお妃とか娘と言うならそれで理解しますが、それで良いかは現地を待ちたいと思います。
養蚕と機織りの神 生産の守護神
姫大神は正確な神名も祀られた由緒も伝わっておりませんが、一説には綾女庄(あやめのしょう:当地の古い呼称)に住んでいた渡来の高麗人(こまびと)が養蚕や機織りを伝え、その人々が奉賛していた古い神であるとも云われています。
山幸彦には豊玉姫、伊勢の豊受大神…とお妃はありますので、それを伏せているのかも知れません。敬愛する玄松子様によれば以下の通りです。大日孁尊とすると、山幸と対応しにくいのですが、藤原のゴリ押しを受け入れた可能性もあるでしょう。
御祭神 経津主神 比賣大神
『神道集』天竺の女神(抜鉾大明神)
『一宮巡詣記』稚日女尊 相殿 経津主命
❺ 今宮神社 甘楽郡甘楽町小幡995−7(社務所)
ご覧の通り、群馬県とは今宮神社の国だと解ります。

これだけの今宮、今宮八幡宮、今宮天満宮…がありながら、応神天皇だか菅公だかアメノコヤネだか別の神が祀られています。
これら一切が元は山幸彦=猿田彦=ニギハヤヒを祀る神社だったはずです。
特に福岡県の筑豊地方では「伊野」…など多くの「イ」の付された地名に対応しニギハヤヒを祀る祭祀があ大量にあるのです。それらが物部ニギハヤヒ祭祀であることから、この地も同じ系統の神が祀られていたはずなのです。それらも含めて痕跡を辿りたいと思うものです。