952 上州の神社調査への下調べ “榛名山神社に初参拝”
20230216
太宰府地名研究会 古川 清久
榛名と言えば頭に浮かぶのは南太平洋での激闘の末、敗戦間際に呉港内で海上砲台として戦うも航空攻撃を受け湾内に着底した戦艦榛名でしかありません。

確か最初にこさえたプラモデルの戦艦が榛名だったのですが、その事もあってか餓島を巡る両海軍の激突に関わる戦史、戦記も幾つかは読み、仕事で知り合った現役の海軍兵でソロモン海海戦に加わった老人からも厳しくも悲しい生の話をお聴きするなどそれなりの思いを持った戦艦だったのです。
特に第三次ソロモン海海戦では戦略的敗北を喫したのは否定の使用も無く、南太平洋での敗勢が鮮やかになった海戦ではあったのです。関心をお持ちの方はネット上にも幾つもの詳細な情報もコンテンツもありますのでお読み頂きたいと思います。
この1913年進水の艦は何度かの大規模改装を受けており、その意味では旧式の艦艇で巡洋戦艦(事実上の巡洋艦)とされていたのです。
まあ細かい事はどうでも良いのですが、今回の群馬県の神社調査で外しようもないのが榛名神社です。
軍艦榛名 2007/08/09
来る8月15日は戦没者追悼並びに平和祈念の日であり、昭和20年8月15日は太平洋戦争の終戦の日でもあります。榛名神社には一つの灰皿が大切に保管されています。
これは榛名神社に縁のある旧海軍「軍艦榛名」の大砲から作られたものです(非公開)。
軍艦榛名は終戦時広島県江田島にて着底艦命を終え ています。
激しい戦闘で戦死された乗員の方々には心よりご冥福をお祈りいたします。
戦後軍艦榛名を引揚げ解体された企業の方から奉納された灰皿です。
榛名神社と軍艦榛名の繋がりは神社案内境内あれこれ3、軍艦榛名と榛名神社をご覧下さい。
「榛名神社」より
榛名神社の起源 延喜式
延長5年(927年)に完成したこの記録には、全国の主要な神社名を書きあげた『神名帳』があり、その中に上野国十二社の群馬郡小社とし て榛名神社は位置づけられています。
この記録に登載された神社は「式内社」と呼ばれ、格式の高い神社と考えられています。
これが榛名神社が歴史書の中で取り上げられた最初だといわれています。
したがって、この時すでに「式内社」といわれるほどの神社に榛名神社は成長していたことがわかります。
その他十世紀から十二世紀にかけて著された『三宝絵詞』『上野国交替実録帳』『僧妙達蘇生注記』などからも当時の榛名神社の様子がうかがえます。

榛名神社 カーナビ検索 群馬県高崎市榛名山町849
赤城山・妙義山と共に上毛三山の一つとされる榛名山の神を祀る神社で、現在の主祭神は火の神・火産霊神と土の神・埴山姫神である。水分神・高靇神・闇靇神・大山祇神・大物主神・木花開耶姫神を合わせ祀る。 ウィキペディア20230227 15:47 による
そもそも、群馬県には榛名山、妙義山、赤城山と称せられる三山があり、かなりの大神が祀られています。
当然ながら、その三つの神社を巡る事も、この上州と言う国を理解する上では重要な事と考えられ、まずは参拝と考えたのでした。
赤城山:大洞赤城神社を中心に三千社の赤城神社が分布しているとは地元のサイトから…。
さて、「金槐和歌集」の歌 百嶋由一郎から聴かされた源 実朝の歌ですが…
上野の 勢多の赤城の からやしろ やまとにいかで あとをたれけむ - 源実朝(『金槐和歌集』)
から社の意味は朝鮮半島でも伽耶の金海金氏のウマシアシカビヒコヂ(天御中主命の夫神)であり大山祗の父神、大国主命の祖父神でもある。から(伽耶)社という訳です。
三代将軍・源実朝は歌人としても知られた魅力的な人物ですが、天御中主命を妃とした金官伽耶国の人(今で言うならば三韓時代ならば実質的には新羅国の一國)が何故日本に祀られているのかと驚いたのが書き留められているのです。少なくとも実朝期までは間違いなくこの地にも祀られていたはずなのです。
勿論、主神としてでしょう。
当然、それもあってかウマシアイカビヒコヂは大ぴらには祀られていないケースが多いのですが、多くの神社を巡っていると、今でも遭遇することがあります。
代表的なところでは、北口本宮冨士浅間神社(山梨県富士吉田市上吉田5558番地)の神殿背後の境内摂社に、また、冨士御室浅間神社(山梨県南都留郡富士河口湖町勝山 富士河口湖町勝山3951)にもあったと思いますが、以下は冨士御室浅間神社の背後地に隠された様に祀られている大国主命の祖父神であるウマシアイカビヒコヂ様です。
最も有名な北口本宮冨士浅間神社にもあったと思いますが、ブログも消され、画像も消えています。
復活は可能ですのでそのうちやりますが、何とも思わないというところでしょうか?
勿論、大国主命の祖父神ですから、出雲大社の客人間(マロウドの間)には間違いなく祀られています。

百嶋由一郎最終神代系譜(部分)
百嶋由一郎氏が遺された神代系譜90シートのスキャニングDVD、講演録音声CD 手書きデータスキャニングDVDなどを必要とされる方は09062983254までご連絡ください。
恐らく、大洞赤城神社を筆頭とするこの赤城山の赤城神社群も、本来はウマシアシカビヒコヂ+天御中主命を主神として祀っていたはずなのです。
赤城神社
群馬県内には「赤城神社」という名前の神社が118社、日本全国では334社あったとされる。関東一円に広がり、山岳信仰により自然的に祀られたものと、江戸時代に分祀されたものがある。その中でも著名なものが、東京都新宿区赤城元町の赤城神社である。
また赤城南麓の赤城神社の祭神は、かつては赤城山の中心を境として東西で異なる分布を見せていた。明治初年の群馬県の神社明細帳をみると、東から南にかけて大己貴神が、南西側には豊城入彦命が祀られている。これは東西2宮であった三夜沢赤城神社に起因するとされ、東宮は大己貴神を、西宮は豊城入彦命を祀っていたという。東西で自社の影響下にある分社を把握していたと見られている。
ウィキペディア20230227 22:46 による
妙義山:既に参拝してしまったため下調べは省略します。