976 宮崎県高千穂町上野の上野神社の花房姫を大分県中津市山国町守実温泉の英山社に確認した 上)
“大歳祖神社”
20230103
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
注)本ブログは スポット303−304 再掲載)ビアヘロ147 “高千穂町神野の上野神社由緒書の花房姫を再び考える”❷ 全国の神社が荒れていく中、売りに出された社殿+神社地を買い取り再建する作業が始まった(中)20221227 の続編になります。これをお読みになってない方には意味が分からないと思いますので、お読みでない方は、303−304からお読み下さい。
2023年元旦は宮崎県高千穂町上野の ひのみこ社に 参拝しましたが、その夜のうちに本研修所に戻り、翌2日の昼から、懸案だった守実温泉の花房姫の確認に向かいました。
日田まで20キロ弱、日田から10キロ程で守実に入りますのでのんびりでも1時間足らずで着きますので、ちょっとしたハイキングの感覚です。
しかも、正月早々、雲一つない青空の下、百数十年前まで日田往還の旧街道の散策ができるとばかり、前日から泊まり込んでいたメンバーの男性(Y氏)と探訪に入ったのでした。
守実温泉は奥耶馬渓の名湯と言ったイメージを持っていましたが、ここ数十年で、どこにでもある村興し町興しで風情も何もない特徴のない温泉センターになってしまったのが残念ですが、ともあれ花房姫を祀る英山社を始めました。
直ぐに分かる大歳祖神社の境内に車を止め、付近で聴き込みをしたのですが、初めは外におられる方もいないため、大歳祖神社を参拝させて頂きました。

大歳神社と言っても祭神が誰なのかの見当が付かない方もおられるでしょうから、まずは、そこからお話を致しましょう。
肥後に行くと年神社、大歳神社と言うものがかなりあります。また、阿蘇神社の健磐龍命を主神とする所謂、阿蘇系神社に対して年祢神社系と言われる神社も同等数分布しています。
この多くが大歳神=南阿蘇高森町の草部吉見神社の主神であり、後に藤原氏の祖となるヒコヤイミミ=鹿島大神、武甕槌…歳ドンとも呼ばれる有名な戦神(軍神)なのです。
一方、我が百嶋神社考古学では、彦山の正勝吾勝々速日天之忍穂耳命と言う名で登場する神として考えており、彦山の事実上の支配者であった高木大神=高皇産霊尊の次女の栲幡千千姫命を妃として事実上の入婿として天下を左右するほどの神になった人物(神)なのです。
ただ、大歳祖(ミオヤ)神社となっている以上、本来はその祖神が主神と考えるべきなのです。
この時、この草部吉見の父神がこの神社の主神なのだと考えればスサノウの姉の神俣姫、分かりやすく言えば伊弉諾、伊弉冉の長女(母神)と阿蘇神社の最奥部の神殿に鎮座している神沼河耳(とんでもないことに後の藤原が贈る第2代綏靖天皇にしてしまった)になるのですが、この地の風土が彦山系の方々と言うより中津、豊前との繋がりが強い人々であろうと考えると、この大歳神の御祖としての二柱ではないように思えるのです。
とすると、彦山を諫め恨んで自害した姫神を、花房姫を睨みつける意味で建てられた神社にも思えるのです。つまり、大歳の御祖つまり義理の祖神に当たる彦山の事実上の支配者である高木大神そのものが祀られているのではないかと考えるのです。
伝承とは言え、花房姫の非業の死を考えると、高木大神、草部吉見が最も正しいように思えるのです。
これは資料が出てこないため、県立図書館まで足を延ばし明治の神名帳を見るべきですが、本来の話からはそれますので推定だけにしておきしょう。

最初申し上げた問題が境内社を見ることによって少し理解できるように思います。
大歳祖神社の祖の意味が彦山側のものか、花房姫側のものかが反映されているようです。

百嶋由一郎最終神代系譜
百嶋由一郎が残した最終神代系譜によれば、草部吉見(海幸彦)は多くの女神と政略結婚を行っています。注目すべきは、豊受大神=伊勢の外宮とは辛国息長大姫大目命の夫は始め草部吉見ですがそれは短期で終わり、後はずっとニギハヤヒ=ヒコホホデミ=猿田彦であるわけで、この神社でも猿田彦が祀られています。
もう一つは、私が花房姫と考えているオキツヨソ足姫(ナガスネヒコの妹)が排斥されている事こそ彦山=高木大神の意向が反映されている様に見えているからです。

突然話が変わりますが、境内には夏目漱石が120年以上前にここを通過していた事が伝えられています。正月(それも年初)に通過し足袋に草鞋で雪中旅を決行したと書かれています。たまたま私達も雪の残る守実を見た訳です。

さて、紙面にまだ余裕がありますので、守実地区でかなり嬉しいイベントが行われていました。
実際、英山社の参拝は直ぐに終わり、守実地区の新春早々の楽しい集まりをお知らせしたいと思います。

この地区は標高もかなり高く寒い地区からなのでしょうか、何と雪祭りやらスケート・リンクやら、豊前神楽講演までが行われていたのです。
新春早々関係者の皆様には頭が下がる思いですが、実に奥耶馬渓の一角のここだけには人々の明るさと豊かさが有り、正月の賑わいを見た思いがしました。
こちらは、寒村の寂しい神社探訪を予想していたのですが、都会から里帰りをした本来は集落を支えるべき次世代がそのまた次の世代をいっぱい連れて多くの子供たちが走り回っていたのでした。
その写真をご紹介したいと思います。

最後は餅撒きまで行われ、二人で7袋をゲットしさっそく雑煮にさせていただきました。
百嶋由一郎氏が残した神代系譜DVD、講演録音声CD,手描きデータ・スキャニングDVDを必要とされる方は09062983254まで、ご連絡下さい。
私達はある種スケート、スキーが流行し普及した時代に幼少期を通過した世代でした。
私も小学校の低学年時代から佐賀市や佐世保市のスポーツ・センターにしょっちゅう行き、結構、滑っていたのですが、何でも民営化すれば良いとの下らない施策の下で、経済的にペイしなければ何でもカットするという風潮が蔓延し、九州でもスケートができるところが非常に少なくなってしまいました。
たまにあってもスケートではなくローラースケート場であることも多く、実際には中々成立しなくなっている理由は、国民の所得の低下(売国奴小泉、竹中…岸田)とそれによる少子化そのものに原因があるのです。
ただ、守実温泉の一角に出現したスケート・リンクの出現は、クリスマスから正月だけかも知れませんが、地域を守り支えるべき次世代を失った寒村でも、故郷に帰省する次世代の次世代である孫子の燥ぎ声が飛び交う喧騒を心より喜び楽しんでいたのでした。
こんな小さな寒村でも立派なスケート・リンクが維持できているのですからものはやりようなのです。
実際には英山社の参拝を済ませていましたが、ブログとしては次に花房姫の神社に向かいます。