2023年07月28日

ビアヘロ 213No.217 大巳貴と大己貴による「おおなむち神社」“宮原誠一の神社見聞牒(217)転載”➁

ビアヘロ 213No.217 大巳貴と大己貴による「おおなむち神社」“宮原誠一の神社見聞牒(217)転載”➁

20230622

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


No.217 大巳貴と大己貴による「おおなむち神社」


宮原誠一の神社見聞牒(217) 令和5年(2023)0301


境内案内板の略記
仲哀天皇9年秋、(神功皇后)諸国に令して船舶を集めて兵甲を練らんとせし時、軍卒集い難し。皇后曰く、必ず神の心ならんとて大三輪社を立て刀矛を奉りたまいしかば軍衆自ずと聚る(日本書紀)
夜須郡に於保奈牟智(おおなむち)神社小一座あり、祭神は大己貴命であるが、今は大神大明神と称す。社殿は南に向い、東の間に天照大神、西の間に春日大明神を合わせ祭る。(延喜式神名帳)
大神大明神は弥永村にあり(筑前国続風土記)太宰管内志(伊藤常足編)によれば「筑前神社志」に、(神功)皇后より後に嵯峨天皇弘仁2年(811)勅願ありて、ご建立あり。 
日本書紀巻第八「仲哀天皇紀」巻第九「神功皇后紀」から
仲哀天皇2年正月、気長足姫を皇后とす。同3月、熊襲叛き、熊襲国を討たんとす。
仲哀天皇8年正月、穴門豊浦宮を興す。仲哀天皇9年2月、仲哀天皇崩御。
仲哀天皇9年3月、斎宮を営む。同年同月、熊襲国の羽白熊鷲を討たんとす。山門縣の田油津姫を討つ。兵甲を起し、船を整えて浪を渡り、財土(新羅)を求む。
仲哀天皇9年9月、皇后は兵卒を集めるも集まらず、大三輪社を建て刀矛を納め奉るとおのずと兵卒が集まる。仲哀天皇9年10月、新羅を討たんと、新羅に到る。
新羅を討たんと、兵卒を集めようとしたが集まらず、大三輪社を建て刀矛を納め奉ったらおのずと兵卒が集まったという。これが於保奈牟智神社(おおなむち)の創立とされています。
祭神は大己貴命を祀るが、今は大神大明神と称す。社殿は南に向い、東間(右側)に天照大神、西間(左側)に春日大明神を合せ祀る。
天照大神をいかなる由来で祀るか、述べてありません。
祭神は大己貴命、今は大神大明神と称す、とあります。
大神大明神は大山咋神です。その実父が春日大神と称する天児屋根命(あめのこやね)です。
当初の祭神が大己貴命(大国主)だったとしても、天照大神の存在が由来なく浮きます。
大山咋神にとって大国主は義理の父であり、一連の繋がりはあります。
一般に、大三輪神社は事代主を祭神とします。大神神社(おおみわ)は大物主の大山咋神を祭神とします。事代主と大山咋神は義理の兄弟です。
大三輪神社(おおみわ)の事代主、大神神社(おおみわ)の大山咋神と混乱します。
大物主になるともっと混乱します。
「嵯峨天皇弘仁2年(811)勅願ありて、社殿の建立あり、神職松木氏(本姓大神)先祖より宝永2年(1705)まで62代相続せり」とあります。現在の宮司は高氏(こうの)ですが、それ以前は松木氏(本姓大神 おおが)のようです。
それからすると、今の大己貴神社の祭神は鳥居の扁額の「大神大明神 おおがだいみょうじん」の大山咋神となります。大国主ではありません。いつの時代か祭神が大国主から大山咋神に入れ替わっています。しかし。社号だけは「大己貴神社」を維持されています。


  大神神社(おおみわじんじゃ)
  奈良県桜井市三輪1422
  主祭神:大物主大神(おおものぬしのおおかみ、倭大物主櫛甕玉命)
  配祀神:大己貴神(おなむちのかみ)少彦名神(すなひこなのかみ)
  摂 社:高宮社(日向御子神) 狭井神社 活日神社(高橋活日命)
      磐座神社(少彦名神) 市杵島神社

大国主と大山咋神(市杵島姫)と田心姫(事代主)
No.106 宗像三女神と宗像大社と大国主 201953日」から抜粋


豊玉姫は後に彦火々出見尊と離婚され、少名彦(すくなひこ)を連れ子に大国主と再婚され、名前を田心姫と改められます。大国主と少名彦は共に筑豊西一帯(葦原中国)の国造りに尽力され、少名彦は後の事代主(ことしろぬし)こと西宮(にしのみや)大明神です。
事代主は筑紫の夜須(今の福岡県甘木)に三年ほど滞在されたことがあり、そのことが西宮大明神縁起に記されています。少名彦は大国主と共に活動されたことが「疫神斎の護符」に名をとどめておられます。
市杵島姫は素盞嗚尊とアカル姫(磐長姫)の間に誕生されました。
若き天忍穂耳命と市杵島姫の新婚の地は鹿児島の甑島から薩摩半島の吾多にかけて過ごされました。市杵島姫は阿蘇族挙げて歓迎され、「波つき三つ鱗」の神紋を持った白龍様と崇められました。二人の間には、日吉神社祭神・大山咋(おおやまくい)の息子がおられ、若き日の名前は、天葺根命(あめのふきねのみこと)と申し、佐賀県小城一帯を支配されました。
倭国大乱の折、素戔嗚尊の息子・長髄彦の乱(前期倭国大乱)に呼応して、天忍穂耳命と長髄彦の姉・瀛津世襲足姫の息子・建南方(たけみなかた)も乱(後期倭国大乱)を起こされます。
大乱戦後処理により高木大神から離縁させられた市杵島姫は天葺根命を連れ子に大国主の妃となられ、大国主との間に下照姫(したてるひめ)が誕生されました。
市杵島姫は大国主との再婚により、連れ子の天葺根命は事代主と義兄弟となられ、事代主より酒造方法を教わり、松尾大社の酒造の祭神・大山咋、別名・佐田大神となられました。
大乱の始末の結果、天忍穂耳命は妃の天鈿女命(あめのうずめのみこと)と市杵島姫の二人の妃を失うこととになります。
大山咋は市杵嶋姫の連れ子として、事代主は田心姫(豊玉姫)の連れ子として、大国主との再婚により、大山咋神と事代主は大国主の義理の息子達となられるのです。
この三人の関係は次のようになります。
大国主を「義理の大物主」、大山咋を「真の大物主」、事代主を「代理の大物主」。
崇神帝が奈良県の纒向に移られた後、父・大山咋(佐田大神)を三輪山に祀られました。
大神神社(おおみわ)と大物主の誕生です。
大山咋神と事代主の二神は、筑前国田島の宗像神社の本殿の右外に、松尾神社(祭神大山咋神)、蛭子神社(少名彦)として祀られています。大国主を祀る神社は本殿の奥地の高宮でした。今は取り壊されて「高宮祭場」が残っています。宗像神社は本来、市杵嶋姫、田心姫、大国主の三神を祀る神社でした。ここに三人の大物主が誕生することになります。
一般に言われるように大物主は大国主ではなく、本当の大物主は大山咋神です。
この三人の関係を次のように扱っています。
  1.大国主 大己貴・八千矛神 義理の大物主 大神(おんが)大明神
  2.大物主 大山咋・天葺根命  真の大物主 大神(おおが)大明神
  3.事代主 少名彦・恵比須神 代理の大物主 大神(おおみわ)大明神

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境内社・八幡神社

案内では神功皇后・応神天皇を祀るとあります 「八幡」の八の字は正八幡大幡主の鳥文字です 応神八幡ではないようです
妙見神と大巳貴と大己貴
前ブログ記事の「No.216 白山宮白山姫(天照女神)と御中主神の大幡主」から「妙見」とは北極星の仏教語で、漢字の意味をそのまま当てれば「すぐれた眼力」となります。
「妙見神」とすれば、「見」を「海」として、「すぐれた海の神様」となります。
それは大綿津見神(おおわたつみ 大海祗)を指し、「わた」は海という朝鮮語です。また、「見」を「巳」として、「すぐれた龍()の神様」となります。(=大龍王=大巳貴)((むち)は宗廟の尊称です。)
妙見神は亀蛇(きだ)に乗って八代へ、亀蛇は大幡主の大型船です。
大巳貴は大国主とされていますが、大国主は越智族であり、龍族ではありません。大国主の母が草野姫(埴安姫)で龍族となります。よって、大国主は「大己貴」となります。
前記の由来で述べましたように、天照大神をいかなる由来で祀るか、由来記にありません。
天照大神が浮いています。
もし、大幡主を大巳貴として、大己貴神社以前に大幡主と天照大神を祀る大巳貴神社があったとしましょう。すると、社殿の形式、境内の構造物が説明できるのです。
そして後に、大国主の「大己貴」を祀る神社に入れ替わったと見るのです。
さらに、大己貴神社の社号はそのままで、大山咋神を祀る神社に祭神の入れ替えがあったと考えるのです。福岡県には大幡主と大日孁貴(天照大神)を共に祀る神社があり、福岡県筑前町(旧三輪町)には四社の大神宮(太神宮)があります。その中でも知られていない神社が、弥永の大己貴神社です。
現在の大己貴神社の祭神表記は大己貴命、天照皇大神、春日大明神ですが、古宮は大幡主と大日孁貴(天照大神)を共に祀る大巳貴神社があったと想定するのです。
それが、本殿の神額の「大神宮」です。本来なら鳥居扁額から「大神神宮」となるべきです。
大巳貴神社は大神宮の性格なのです。大幡主と女神の天照大神を祀る神社、いわゆる大神宮です。
拝殿の唐破風には、波、龍、亀(亀蛇きだ)、鳳凰の彫刻があります。鳳凰は開化天皇のシンボルです。さらに、対の松と蘇鉄があります。恐らく、昔は対で蘇鉄が植えてあったと思われます。二の鳥居の後には大幡主の六角台の六角灯籠です。本殿の神額は大神宮です。大幡主祭祀の痕跡です。
後に、祭神「大巳貴 大幡主」は「大己貴 大国主」と差し替えです。社号は大巳貴神社から大己貴神社に変更。神功皇后伝説により大神(おおが)神宮が上塗りされています。
由来記では大三輪神社となっていますが、大神(おおみわ)神社との混合使用でしょう。
大幡主は本殿から追い出され、境内社の八幡神社に祀られた。さらに、大国主は大山咋神と祭神の差し替えです。しかし、社号はそのままの大己貴神社に維持されたと考えるのです。
鳥居の扁額は「大神大明神 おおがだいみょうじん」「大神神宮 おおがじんぐう」です。大神大明神は「大山咋神」です。脇神の春日大神(天忍穂耳命)は大山咋神=大神(おおが)大明神の父となります。
大国主は本殿から追い出され、境内社に祀られた。それが、大己貴命と事代主は本殿後に祀られている石塔です。(ちょっとしっくりいきませんが)現在の表記です。社号は大己貴神社、主祭神は大神大明神の大山咋神です。脇神は、東間(右側)に天照大神、西間(左側)に春日大神(天忍穂耳命=天児屋根命)
天照大神は当初から祭神として維持されています。天照大神は大山咋神と直接の関係はありません。
春日大神は大山咋神の父神ということからでしょう。

大己貴神社の祭祀線
大己貴神社の社殿は次の二社に向かいます。
*鷂天神社 福岡県朝倉市上上浦230 (No.103)
 祭神 高皇産霊命(大幡主)、大日霊貴命
  由緒:元和年中(1681)、隼鷹神社(小郡市力武)より勧請
  境内社 大神社(埴安命=大幡主=神皇産霊神・大日霊貴尊)
 小郡市力武の隼鷹神社の祭神の高皇産霊神は高木大神でなく大幡主でした(No.208 209)
 鷂天神社の祭祀線は高良山奥院で、鷂天神社の古宮は高良神社です
*日吉神社 福岡県久留米市草野町矢作773 (No.012)
 主祭神 大山咋神 御魂社(古宮) 大国魂神(大幡主)、伊耶奈美命 日吉神社の祭祀線は宝満山上宮です。弥永の大己貴神社は大幡主、大日霊貴命、大山咋神と関係しています。
大己貴神社の参拝線は飯塚市立岩の熊野神社になります。近くの北の立岩神社は熊野神社の磐座(いわくら)です。この関係から、大己貴神社の古宮は大巳貴神社であり、祭神は大幡主、大日霊貴命(天照女神)であることを示しています。こうしてみると、草野町矢作の御魂社(古宮)の本当の祭神は大国魂神(大幡主)と大日霊貴命(天照女神)となります。
*日隅宮(うずのみや)
大己貴神社の近くの内村区の天神社の境内社に日隅宮があります。日隅宮は大国主の国譲りに登場する宮です。この日隅宮は現在の字・乃木松の天神社にありますが、江戸時代以前は乃木松の西隣の字・ウツノ宮にあったという。この宮の勧請は明治以降とされ、大己貴神社の大国主とは関係ないようです。

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神功皇后の新羅遠征は日本書紀のウソ
神功皇后の新羅遠征は日本書紀の創作です。
本当の当事者は開化天皇と安曇磯良です。それで、拝殿向拝の亀蛇、鳳凰、龍の彫刻があり、鳳凰は開化天皇のシンボルです。
すると、神功皇后の大己貴神社の起源と云われる日本書紀の記述の部分「新羅を討たんと、兵卒を集めようとしたが集まらず、大三輪社を建て刀矛を納め奉ったらおのずと兵卒が集まったという。これが於保奈牟智神社(おおなむち)の創立とされ、祭神は大己貴命を祀る」は宙に浮いてしまいます。
 私は問いたい。 大三輪社を建て大己貴(大国主)を祀り、剣矛を納めたら兵卒が自ずと集まった、とあり、どうして兵卒が自ずと集るのか?論理的な説明を日本書紀に聞きたい。日本書紀の創作であり、神話であるから説明不要とはいきません。開化天皇の痕跡が「鳳凰」の彫刻で残されているということは、開化天皇が新羅遠征を祈願された、その神社は、大幡主と天照大神を祀る「大巳貴神社」ではなかったのか、と思うのです。新羅遠征は大渡航作戦です。海と航海の大海神の大幡主を祀る神社に祈願されたとなります。その後、大幡主を祀る「大巳貴神社」は消され、大国主を祀る「大己貴神社」となった。
さらに、大己貴神社の祭神である大国主は消され、大神大明神の大山咋神が祭神となった。その時期は、第16次遣唐使派遣の伝教大師が関係する延暦23(804)以前と推察するのです。

最澄伝教大師は大己貴神社を素通りして奇志神社へ行った(No.119)
伝教大師は延暦23(804)16次遣唐使派遣の折、難波しそうになり、船中で航海の安穏を薬師仏(大幡主)に祈願され、帰朝の折は七仏薬師仏を彫刻せんことを誓いになられます。もう一隻の空海の乗られた舟も安全でしたが、ほかの二隻は遭難しました。
(
薬師如来の本地垂迹は大幡主)
翌年五月帰朝し、福岡県朝倉市楢原(奇志神社)を訪問され、自らの手彫りの薬師仏を奉安され、楢原山東光院薬真寺を開基され自らの手彫りの薬師仏を奉安されているのです。
また、延暦7(788)最澄22歳の時、自刻の薬師如来を本尊とする草庵、後に延暦寺根本中堂となる一乗止観院を創建され、伝教大師と薬師如来とは関係が深いのです。
ところが、伝教大師帰朝の折、足を運ばれたのは旧三輪町弥永の大己貴神社を通り過ぎて楢原に来られ、自らの手彫りの薬師仏を奉安されています。まるで、大国主命とは関係ないといった感です。
那珂川市市ノ瀬の山王宮の祭神は天御中主神(大幡主)、大己貴神、彦火々出見命です。並びは格式順ですが、最澄は彦火々出見命(猿田彦)を延暦寺の守護神とされました。彦火々出見命は事代主の実の父です。大国主命と事代主は義理の親子です。
伝教大師にとって、彦火々出見命、大幡主、大国主はセットでゆかりの神々ではなかったのかと思うのです。この神々が祀られているのが弥永の大己貴神社でなく、楢原の奇志神社だったのです。
すると、伝教大師の史実から、大国主を祀る大己貴神社が宙に浮いてしまうのです。

 
奇志神社 福岡県朝倉市(旧甘木市)楢原664
祭神 大己貴、少名彦、神功皇后(福岡県神社誌による)

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奇志神社は本来、大幡主、彦火々出見命、大国主、市杵島姫を祀ります

日本書記の神功紀で、荷持田村(のとりたのふれ)の羽白熊鷲(はしろくまわし)討伐のおり、皇后が朝倉秋月の入り口の目配山にて敵情視察する段がありますが、その目配山の麓に楢原地区があります。その楢原に大国主を主祭神とする奇志神社が鎮座です。社紋は神功皇后の紋があり、楢原地区の東には下渕(したふち)地区があり、ここに大国主を祀る老松神社が鎮座で、ここでの皇軍の陣地を「御府の森」といった。


熊野三所権現
熊野本宮大社 和歌山県田辺市本宮町本宮     家津御子大神(けつみこ)は阿弥陀如来
熊野速玉大社 和歌山県新宮市新宮        速玉大神(はやたま)は薬師如来
熊野那智大社 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山 牟須美大神(むすび)は千手観音
(
祭神の一般名称)
熊野本宮大社 主祭神・磐長姫(いわながひめ=阿加流姫・耀姫 あかるひめ)
熊野速玉大社 主祭神・速玉男命(はやたまお=大幡主 おおはたぬし)
熊野那智大社 主祭神・熊野夫須美命(ふすみ=元伊弉冉尊 いざなみ)
阿須賀神社  主祭神・事解男命(ことさかお=金山彦 かなやまひこ)

熊野十二所権現
社殿       神座      祭神名        本地仏
上四社  第一殿 西御前(結宮)  夫須美大神(伊邪那美)  千手観音
     第二殿 中御前(速玉宮) 速玉大神(大幡主)   薬師如来
     第三殿 証誠殿     家津御子大神(耀姫)  阿弥陀如来
     第四殿 若宮(若一王子) 天照大神       十一面観音
中四社  第五殿 禅児宮     忍穂耳命       地蔵菩薩
     第六殿 聖宮      瓊々杵尊命      龍樹菩薩
     第七殿 児(ちごの)宮  彦穂々出見尊     如意輪観音
     第八殿 子守宮     鵜草葦不合命     聖観音
下四社  第九殿 一万宮十万宮  軻遇突智命(金山彦)  文殊菩薩・普賢菩薩
     第十殿 米持金剛    埴安姫命       毘沙門天
    第十一殿 飛行夜叉    彌都波能賣命(罔象女) 不動明王
    第十二殿 勧請十五所   稚産霊命       釈迦如来

本地垂迹(ほんじすいじゃく)
仏教が興隆した時代に発生した神仏習合思想の一つで、神道の八百万の神々は様々な仏(菩薩や天部なども含む)が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)であるとする考え

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ
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