ビアヘロ208 山田 裕氏のやまちゃんブログ「謎の女神シリーズ」からの転載 ➀ - 1“瀬織ツ姫”
20230428
太宰府地名研究会(百嶋神社考古学研究班) 古川 清久
百嶋神社考古学研究会の全国グループからやまちゃんブログ「謎の女神シリーズ」をご紹介したいと思います。このシリーズはかなりの数があり、充実した神社研究サイトであるため今後も継続します。
謎の女神シリーズ 第一話「瀬織津姫」

正直申し上げますと、3月14日から4月14に日までの一ケ月の甲信越への調査旅行から戻って来て多くのリポートを書かなければならないのですが、疲労もあり実際にはまだ気力が戻っていないため暫く「謎の女神シリーズ」の転載を行い、静養しながら徐々に回転数を上げていきたいと思います。
はじめに
諸事情で松山市に五年間居住していた折に“ブログ愛姫伝”を偶然閲覧し、最も印象に残ったのが
「瀬織津姫」でした。
当時、大山祇神社が祀る神々を研究する過程で「瀬織津姫」が祀られていることを発見し、「瀬織
津姫」を本格的に研究する動機が生まれました。
同姫に関する書籍をインターネットで検索したところ、『円空と瀬織姫(上)・(下)−故菊池展明著
風琳堂』がヒットしました。
早速、同書を購入するため、風琳堂へ電話をかけました。
電話口に出られたのが風琳堂主人で、「大変難しい本ですがよろしいでしょうか。」との回答があ
りました。
過去に電話で幾度も書籍注文をしましたが、このような良心的な回答に遭遇したのは初めての経験
で正直、驚きました。
同書の内容は、著者菊池展明氏が瀬織津姫を祀る各地の神社を調査歴訪し、その過程で円空が全国
各地の寺社に自らが彫った「十一面観世音菩薩像」と遭遇し、同像のモデルが「瀬織津姫」ではない
かとの推論を詳細に述べています。
同書を読み進めていくと、残念なことに多くの神々と瀬織津姫との関わりが理解でき無かったの
で、『古事記・日本書紀』が記す古代の神々を研究する必要性が生まれました。
古代の神々を研究するため、吉野裕子氏をはじめ数十冊の本を読みましたが、古代の神々を体系化
する書籍には巡り会いませんでした。
そこで、本を出版していない民間研究家をインターネットで検索した結果、百嶋由一郎氏の存在を
知りました。
しかし、同氏に接触する機会はとうとうありませんでした。
空しく八年が経過しましたが、故百嶋由一郎氏が提唱した「百嶋神社考古学」を継承する古川清久
氏の存在を知り、九州に同氏を訪ね、故百嶋由一郎氏の研究業績を教えていただきました。
二年に亘って、その研究業績を精査したところ、ようやく「瀬織津姫と古代の神々の関わり」が朧
気ながら理解できるようになり、十年の時を経て「謎の女神瀬織津姫」に近づくことが出来まし
た。
菊池展明氏は惜しくも2014年8月23日に永眠されましたが、菊池展明氏の遺志を継がれた風琳堂主
人がブログを運営されていますので、興味のある方は同ブログを閲覧ください。
また故百嶋由一郎氏の「神社考古学」に興味のある方は古川清久氏が主催するブログ“ひぼろぎ逍
遥”を閲覧いただければ幸いです。
キーワード
○癒やしの女神 ○瀬織津姫とは ○瀬織津姫のご神格 ○瀬織津姫の生涯
1.癒やしの女神
瀬織津姫に関するブログは、キャッチコピーに“ヒーリングスポットあるいはスピリチュアル
スポット”として紹介しています。
瀬織津姫本人ではなく、同姫が祀られるロケーションが「心の癒やし」の対象になっています。
“ブログ愛姫伝”の主催者は十有余年にわたり、愛媛県内の神社を中心に瀬織津姫の足跡を丹念に
辿り、「瀬織津姫を癒やしの女神」として取り上げています。
2.瀬織津姫とは
瀬織津姫を祭る神社は沖縄県を除き、全国に分布しています。「瀬織津姫神祭祀社全国分布図
2008年5月現在、風琳堂」では、全国で454社となっていますが、私の調査では既に465社以上とな
っています。
これほど全国的に分布し、多くの神社に祭られているにも関わらず『古事記(以下、『記』と記
す)』・『日本書紀(以下、『紀』と記す)』には全く記されていないのです。
正史の『日本書紀』と民間伝承にこれほどの乖離が生まれた理由があるはずです。
この謎に包まれた「女神瀬織津姫」について探求してまましょう。
(1)瀬織津姫の別名
@ 向津姫
六甲比命(むかつひめ)大善神社 兵庫県神戸市灘区六甲山町 同社はかって廣田神社の「奥宮」とされ、同社を護る六甲比命講によると「六甲比命は六甲姫(むつがひめ)であり、撞賢木厳魂天疎向津姫(つくさかきいづくたまあまさかるむかつひめ)は瀬織津姫」であるとしています。
すなわち、瀬織津姫の別名に「六甲姫・向津姫」が確認できます。
写真 六甲比命(むかつひめ)大善神社の磐座 出典:ブログ「ひぼろぎ逍遥」

A 櫛稲田姫(くしいなだひめ)
津上(つがみ)神社 島根県松江市島根町多古
ご祭神:瀬織津彦神・瀬織津姫神
伝承では夫婦一対の神で、夫神の瀬織津彦神とはどのような神でしょうか。
下記の「神々の系図ー平成12年考」をご覧ください。
故百嶋由一郎氏の講演録によると、「瀬織津姫神は櫛稲田姫の別名」としています。
櫛稲田姫は前夫スサノオの暴挙に嫌気が指し、豊玉彦(別名八大龍王・ヤタガラス)の元へ逃げ
込み、名を瀬織津姫、夫神となった豊玉彦は瀬織津彦神に名を改めました。
写真 津上神社拝殿扁額 出典:ブログ「出雲大社の歩き方」

皇大神宮別宮「荒祭宮」
鎌倉時代に著された≪神道五部書≫に納められた『倭姫命世紀』に、次の記述があります。
「荒祭宮(荒魂を祭る宮)一座 皇太神宮(天照大御神)荒魂。伊奘那伎大神の生める神、名
は八十枉津日神(やそまがつひのかみ)なり。一名瀬織津比盗_、是也。御形は鏡に坐す]
天照大神の荒魂とは、伊奘那伎が黄泉の国から帰還後、中つ瀬で清めていたところ、穢れから生ま
れた八十枉津日神(やそまがつひのかみ)亦の名を瀬織津比盗_であるとし、”禍津神(まがつか
み)”であるが故に鏡の中に封じ込められたとしています。
写真 皇大神宮別宮「荒祭宮」 出典:伊勢市観光協会

B 玉柱屋姫神
伊雑宮(いざわのみや) 三重県志摩市磯部町
同社は。伊勢神宮内宮の下に位置づけられるのを嫌い、自社の記録や『先代旧事本紀大成経』
に基づき、朝廷に訴えたことで有名な神社で、ご祭神とされる「玉柱屋姫神(たまはしらやひめ
がみ)は天照大神が郷に在る時の分身で、瀬織津姫神は天照大神が河に在る時の分身」と主張し
ています。
宗像大社
同社の社殿配置推定復元図によれば、向かって左に北崎明神社、右に下高宮が並び描かれていま
す。
延宝四年(1676)作成の「宗像宮末社神名帳」によればご祭神は「祭神玉柱屋姫命(神)」と記
されています。
この玉柱屋姫命は伊雑宮のご祭神と同じで瀬織津姫と考えられます。
C 伊賀古夜日売命(いかこやひめのみこと)
和銅六年(713年)第43代元明天皇の勅によって編纂された官撰地理誌『山城国風土記』逸
文に「又曰、蓼倉里、三身社。称三身者、賀茂建角身命也、丹波伊可古夜日女也。玉依姫。
(後略)」と記されています。
拙訳は「また曰く。蓼倉里(たでしなくらのさと)に三身社あり。三身とは、賀茂建角身命(かも
たけづぬみのみこと)、丹波の伊可古夜日女、玉依姫命也。」
賀茂建角身命は豊玉彦、別名瀬織津彦命。丹波の伊可古夜日女は櫛稲田姫の別名瀬織津姫で、夫婦
神の関係になります。
御子神は鴨玉依姫です。
三身社の後身は、賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ=下賀茂社)の境内社三井(みつい)神
社です。
写真 賀茂御祖神社の境内社三井神社 出典:京都ガイド

図 故百嶋由一郎氏作成「神々の系図―平成12年考」

D 弁財天・鈴鹿権現(祇園祭鈴鹿山のご神体)
いずれも仏教と習合し、本来の名は瀬織津姫と考えられます。
写真 祇園祭鈴鹿山の山鉾 出典:祇園祭山鉾連合会HP
ご神体は「瀬織津姫乃尊」
3.瀬織津姫のご神格
(1)水の神(水神)
多くのブログで取り上げられているのが水の神です。
Wikipediaによれば、「水神は、水(主に淡水)に関する神の総称で、農耕民族にとって水は最も重要なものの一つで、水の状況によって収穫が左右されることから、日本において水神は“田の神”と結びついています。
また水源地に祀られる水神は「水の分配を掌る水分神(みまくりのかみ)は山の神と結びついて
います。
では、何故「水神は田の神と山の神に習合されたのでしょうか。」
この問いに対する答えは「南九州、特に鹿児島県に集中する“タノカンサー”を祀る石像”に関係
があるかも知れません。
また筑後に集中する「田(てん)神社」との関係も窺えます。
故百嶋氏は講演会で“タノカンサー”を大幡主神と大山祇神との擬神体」と発表しています。
おそらく、「大幡主神を盟主とする稲作農業の田の神、大山祇神を盟主とする狩猟生活の山の神
が対立すること無く、両神がお互いに手を携えて倭国を盛立てていく為の盟約を結び、その証
(あかし)として“タンカンサー”という神を祀ったと推測します。
神は、本来姿が見えないのでその使い(神の使い)が人々の前に現われます。
「田の神の神使」に、
蛇(龍)・「河童」・「鯰」など
「山の神の神使」に
猿・猪・熊など
記紀神話に「河童・鯰」以外は取り上げられています。
「田の神」は、東北地方では「農神(のうがみ)」、近畿地方では「作り神」、但馬や因幡地方では
「亥神(いのかみ)」と伝えられています。
写真 “タノカンサー”とされる石像 出典:宮崎県三股町観光HP「田の神サア100撰1」より
手に飯げ(めしげ)「しゃもじや椀・スリコギを持ち、甑簀(シキ・餅米などを蒸す時に間
に引く藁製の編み物)を被った「田の神(タノカンサー)様」と呼ばれる田の神像。

写真 「田の神 神使 河童」を祀る佐嘉神 境内社松原河童社(まつばらかそうしゃ)扁額
佐賀県佐賀市松原 出典:九州旅行ナビ ご祭神:水神三神(水分神・弥都波能売・闇淤加美神)

写真 松原河童社 「木造の河童(兵主部さん) 出典:九州旅行ナビ

写真 豊玉姫神社の「白鯰像」 佐賀県嬉野市嬉野町大字下宿乙 出典:じゃらんネット

瀬織津姫が水神とされる重要な手がかりが『延喜式祝詞―大祓詞』に記述されています。
「佐久那太理に落ちたぎつ速川の瀬に坐す瀬織津比売と云ふ神、大海原に持ち出でなむ。(後
略)」
「佐久那太理とは、滝のような急激に崩れ落ちるさま」の意で「瀬」にかかる枕詞とされています。
瀬織津姫のご神格は「川のカミ」で、その支配する地域は「山間(やまあい)の上流から急激に平地へ流れ出る中流域から下流の河口部」までと考察されます。
古代においては「急流を滝」と呼んでいたようです。
(2)川のカミ・水戸カミ・滝祭りのカミ
学術的にも皇大神宮(通称伊勢神宮内宮)とアマテラスとの関係を詳細に記述された『アマテラス
の誕生 著者筑紫申真(ちくしのぶざね)講談社学術文庫 1973年没』から検証してみましょう。
・滝原宮のカミ(正式表記は瀧原宮) 三重県度会郡大紀町滝原
「いまも大宮町(現在の大紀町)にある滝原宮は、皇大神宮の別宮で遙宮(とおのみや)。
本宮に次ぐ格式の高い神社で、伊勢神宮のなかでも、内宮・外宮につづく第三位の実力をもって
重要視された神社です。
ことに、その神社の社域の広大なことはおどろくべきで四十三町八反の鬱蒼たる森は、優に内宮・
外宮に匹敵する偉容をそなえています。(中略)この滝原宮のカミは、正式にはアマテラスだとさ
れていますけれども、実はこのカミは水戸神(みなとかみ)であるという、古くからのつたえがある
のです。水戸神とは、雨水をつかさどる“川のカミ”のことです。P22〜23P」
・川のカミだった皇大神宮(P24)
「宇治(現在の伊勢市)は、もともと“川のカミ”をまつる祭場だったところなのです。そこでは、
各地の豪族が、毎年定期的に“川のカミ”まつりをやっていました。滝祭りをしていたのです。滝原
宮のカミも水戸のカミも、つまり“川のカミ”でした。(中略) 皇大神宮をおとずれる人は、五十鈴
川の手洗い場で、まず手を洗ってから参拝するのがむかしからの習慣になっています。(中略)こ
こが、むかしの“川のカミ”祭の聖地だったのです。皇大神宮は、この五十鈴川の川のカミと、多気
大神宮(滝原宮)という宮川のカミとが一緒にされてできあがったものなのです。」
・滝祭りのカミ(P27)
「五十鈴川の川のカミは、皇大神宮とよばれて、むかしはもちろんのこと、現在でも皇大神宮で
はたいへん丁寧にまつりをしています。これが、皇大神宮のもともとのカミなのです。」
・皇大神宮のカミは“天つカミ”(p30)
「天つカミは天空に住んでいると信ぜられた霊魂で(中略)日のカミとも、月のカミとも、風の神
とも、雷のカミとも、雲のカミなどとも考えられていたのです。」
突如、故筑紫氏は「川のカミ・滝祭りのカミから大空の自然現象の神々」へと論理が一変します。
また、辻褄を合わせるために「天つカミが川に降臨したとして、川のカミとの整合性」を説きま
す。そして、「天つカミ=プレアマテラス→アマテラス」の図式を導入し、現代の皇大神宮のカミ
との整合性をはかっています。
私見は、この論理の飛躍要因を故筑紫氏による忖度と考えています。
瀬織津姫のご神格の一つに「川のカミ・滝祭りのカミ」であったと考えています。
写真 大紀町の滝原宮を流れる大内山川 出典:HP観光三重
「禊ぎの場」かもしれません。
