ビアヘロ206 気ままな上州への神社調査 ❼ 全てが美しかった浅間神社 2静岡県富士宮市の浅間大社”
20230405
太宰府地名研究会(百嶋神社考古学研究班) 古川 清久
百嶋先生の話の中にも静岡浅間大社の話が出てきますが、恐らくこれは富士山南麓の富士宮市の浅間神社の事だと思い、好天を狙って山中湖湖畔の別荘地を抜け出し、御殿場市から三島市、沼津市を経て国道1号線走り富士宮市に向かったのは3月29日の事でした。
理由は単純で、別荘のオーナーの親族が利用したいとのことでしたので、良い機会とばかりに明け渡し静岡県側に降ることにしたのです。
もう何度も訪れている山中湖畔のから御殿場には二十数キロと言ったところで、30分足らずの移動ですし、三島大社に参拝し沼津で魚でも食って、富士宮市から河口湖方面に戻ればと富士山北麓から南の裾野に駆け下ったのでした。
実際のところ山中湖村は静岡県と県境を接していた様で、もっと早く静岡県へも足を延ばしても良さそうだったのですが、東海道に行くと交通量も増え、住宅地ばかりでは成果も上がらないように思っていた事から二の足を踏んでいたのでした。

話が前後しますが、御殿場、三島、沼津を飛ばして富士宮市の浅間大社(俗称静岡浅間神社)に関するリポートを先行させたのは、その美しさからでした。
こうなると、ただの市町村発の宣伝リポートに過ぎなくなりますが、それでも構わないと思うほど素晴らしいロケーションだったのです。たまにはそれでも良いでしょう。天気良し、桜満開、富士山が見え、社殿が美しく、遊水池からの神水が滝のように流れ下る。と、とにかくこれまでに参拝した如何なる神社よりも美しかったのです。
御祭神
浅間大神(あさまのおおかみ)
木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)※浅間大神の別名
相殿 瓊々杵尊(ににぎのみこと)
相殿 大山祇神(おおやまづみのかみ)
当大社は、第11代垂仁天皇が、富士山の噴火を鎮めるため、浅間大神を富士山麓に祀られたことに始まります。その後、大同元年(806)に、平城天皇の勅命により、坂上田村麻呂が現在の地に社殿を造営し、浅間大神を山宮より遷し祀られました。以来、全国1300余社に及ぶ浅間神社の総本宮、駿河国一の宮として全国的な崇敬を集める東海最古の名社です。(旧官幣大社) 静岡県神社庁
問題は浅間大神とは誰かなのです。「※浅間大神の別名」が木花之佐久夜毘売命なのであれば、初めから書かなければ良いだけの事で、非常におかしな話に見えます。
実は、木花之佐久夜毘売命は瓊々杵尊とは早い段階で別れており(ニニギとの間に古計牟須姫をもうけますが…「君が代」の苔の生すまで…の意味の名を持ち、福岡市の桜井神社の付近に祀られておられます)、ヤタガラス(大幡主ことカミムスビの子)と一緒になり、暫く鹿児島県溝辺町(現湧水町)の前玉神社に祀られ、後には富士山周辺から、北関東の埼玉に移動し前玉神社(埼玉県の語源)になっているのです。
稲荷山鉄剣で著名な埼玉県行田市の稲荷山古墳群の前玉神社のルーツは鹿児島県溝辺町だったのです。
御祭神 福玉大明神(サチタマダイミョウジン)

創建は明らかでないが、古伝によれば凡そ三百年前と思われる。福を授け給う神即ち「さちたま」の神と訓むに至る。境内社に「水波能女大神」を祀るが、その上、境内前を流れる久留味川の川上三里ばかりの野坂集落の住人木場某の持馬が濁流に流され、境内に至って無傷のまま救い出された。当時の人々は奇しき神の恵みと碑を建て、爾来三月二十八日盛大に春祭を行った。牛馬の守護神として、その崇敬者は県内はもとより遠く宮崎県に及ぶといわれる。平成元年十二月改築した。 鹿児島県神社庁

そもそも遊水池の傍に神社が置かれたのですが、神田川は大量の湧水を送り出し続けています
前玉神社問題ですが、驚く事に、コノハナノサクヤはニニギととっとと別れ、何とカミムスビの子のヤタガラスの世話を受け更に富士山から埼玉に移動しているのです。詳しくは以下を…。
23 | コノハナノサクヤヒメを祀る霧島市溝部町の前玉(サキタマ)神社再訪 |
ひぼろぎ逍遥
67 | 霧島市溝部町の前玉(サキタマ)神社にコノハナノサクヤヒメを探る |
これは百嶋先生が言われていた事ですが、晩年“関東に移動したコノハナノサクヤは関東ではサクラヒメになっている…”つまり、関東では正しくサクラヒメと呼ばれている事が分かるのです。
重要な部分ですので、新ひぼろぎ逍遥 648 「桜川」からも触れておきます。

コノハナノサクヤヒメはコノハナノサクラヒメであったと考えるのです。列島人はR音(実際はL音)の発音さえ困難であったため、コノハナノサクヤ(ジャ)と呼ばれたのではないかと考えていますが、これについては確信が持てないため今のところ構想に留まっています(ラジオとダジオ、ラッパとダッパ…)。
実は、この西都市にあるコノハナノサクヤを祀る都萬(ツマ)神社(桜をシンボルとする都萬神社)の正面には桜川が流れているのです。
恐らく、この「桜」が本来の名称である「コノハナノサクラヒメ」と関係があるはずで、神話では「コノハナノサクヤヒメ」と書き留められたものの、関東では正しくも「桜姫」と呼ばれていたのではないかと考えています。
この百嶋翁が御祖としているものこそ大山祗のお妃であり、大国主の母神でもあった埴安姫のことで、筑紫からコノハナノサクヤがいる関東へと移動している姿が謡曲「桜川」に謡い込められた事が見えるのです。
以下はネット上から拾った「樹木の文化誌」の一文ですが、我々ばかりではなく、サクヤヒメはサクラヒメだと考える人はいるのです。
百嶋先生ははっきりが言われていましたが、晩年“関東に移動したコノハナノサクヤヒメは関東ではサクラヒメになっている…”つまり、関東ではサクラヒメと呼ばれている事が分かるのです。
この謡曲「桜川」には、まだ若いコノハナノサクヤを訪ねて行く埴安姫が謡い込められているのです。
恐らく、筑紫に伝わっていた古歌をベースに「桜川」が採題されたのです。そして、この都萬神社正面に流れる桜川こそがコノハナノサクヤの名の起源であるはずなのです。
と言うよりもサクヤヒメが居たから桜川の名が残ったのではないかと思うのです。
これらのことから「古事記」を編纂する段階での年代記作者はR音とD音の問題を持っていた民族だった可能性があるのです。

これら一時的に所謂「邪馬台国」も経由し、多くの氏族や民族が絶えず入れ替わり争っていたのが九州王朝だったのです。
実は、コノハナノサクヤはニニギと別れた後、鹿児島県旧溝辺町の前玉神社の前玉姫と名を変え、富士山浅間神社のコノハナノサクヤヒメそして埼玉県の前玉神社(埼玉県の名はこの前玉姫から来ているのです)へと移るのですが、コノハナノサクヤは大山祗の子であり、大山祗の墓は宮崎県西都市の西都原第二古墳群にある柄鏡型古墳です。

百嶋由一郎氏が残した手書きメモ
その後、晩年のコノハナノサクヤは関東に移動していますが、そのコノハナノサクヤを埴安姫が訪ねて行く話が謡曲の「桜川」に謡い込められたのだと考えられるのです。
西都市の都萬(表向きはニニギの妻の意味)神社の前には今も桜川が注いでいます。
従って、謡曲の「桜川」とは九州のコノハナノサクヤ改め前玉姫を思う歌なのです。
その話が九州から関東そして奈良に伝わったもので、元々の話はやはり九州が舞台なのです。
ただ、世阿弥の謡曲「桜川」がどの段階で採題されたかですが、時代から考えて(コノハナノサクヤこと埼玉姫が兄の大国主の一族が住む関東(大国主を祀る武蔵大国魂神社が武蔵の国の一の宮です)に移動するのは奈良を経由していないはずですので)、奈良で無い事は分かりますが、世阿弥が何故「桜川」を謡曲に取り込む必要があったかは分かりません。

コノハナノサクヤという女神を祀るはずの神殿の千木が男千木である理由がお分かりになりますか?
浅間大神(あさまのおおかみ)木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)※浅間大神の別名
相殿 瓊々杵尊(ににぎのみこと)相殿 大山祇神(おおやまづみのかみ)
大山祇命はコノハナノサクヤの父神ですが、この男千木は主神のコノハナノサクヤを押しのけてこの父神とか人気のないニニギを意味しているとでも仰るのでしょうか?
そうではなくこの男千木は、後の夫であるヤタガラスを意味しているはずなのです。

百嶋神代系譜 069 桜子

多分、湧玉池の玉も豊玉彦の玉ですね…


百嶋由一郎最終神代系譜