2023年04月21日

958 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)⓬ 上田市 鹿教湯温泉の呉橋 

958 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)⓬ 上田市 鹿教湯温泉の呉橋 

20221003

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


鹿教湯温泉と言えば、松本市の浅間温泉から一山越える古くは秘湯と言われた古湯の温泉郷です。

無題.png20代の頃でしたから、450年前に、更なる秘湯を求めて、その先の大塩温泉に泊まった事があるのですが、この鹿教湯温泉には入りそこない、強烈な印象を与える呉橋の存在だけを強く意識していたのでした。

 今回、信濃の神社調査を終え、少し遠回りになっても鹿教湯温泉に入らないなどと言うのはあり得ない事でした。

 私の武骨な写真ではなくプロの写真家の皆さんの作品を少しご覧頂きましょう。

 ただ、昔は屋根付きの橋の意味で呉橋とも呼ばれていましたが、今は単に五台橋と呼ばれています。


鹿教湯温泉呉橋 カーナビ検索 上田市鹿教湯温泉13691 渓谷の上であるため傍の共同浴場文殊の湯

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我々が何故この呉橋に拘るかと言えば、呉の太伯の後裔(周王朝の末)である倭国の痕跡が僅かながらも残されているのではないかと考えているからです。

 当然、念頭に置いているのは宇佐八幡宮の呉橋であり、隣の中津市薦神社の呉橋です。

 宇佐八幡宮を和気清麻呂との関係から近畿大和朝廷の神宮ではないのか…とのお考えをお持ちの方は多いでしょうが、とんでもない話であって、宇佐こそ九州王朝でも九州政権でも何でも良いのですが、8世紀初頭まで確実に存在していた九州王朝の神宮であり、辛島、大神比義の時代に応神を持ち込み変質させたのが現在の宇佐八幡宮なのです。

 詳しくはGoogleで ひぼろぎ逍遥□宇佐神宮 と検索して頂ければ、15本ほどのブログでその痕跡を説明しています。


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宇佐神宮とは何か? N “そろそろ本殿の探査に踏み込みましょう”

104

宇佐神宮とは何か? M “到津屋敷をご存じですか?”

103

宇佐神宮とは何か? L “御許山の別名=馬城峰(マキボン)とは

「三国史記」の目支国のマキ”

102

宇佐神宮とは何か? K “境外摂社鷹居社とは何か?”

101

宇佐神宮とは何か? J “安心院の妻垣神社は自称神武こと崇神天皇を供応したか?”

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宇佐神宮とは何か? I “安心院の三女神社は筑紫の君が祀った?”

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宇佐神宮とは何か? H “安心院の三女神社は二女神社だったのか?

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宇佐神宮とは何か? G “神宮の故地か?今も上宮内二摂社が院内町に鎮座する”

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宇佐神宮とは何か? F “宇佐神宮の向こう側”

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宇佐神宮とは何か? E “御許山の大元神社とは何か?”

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宇佐神宮とは何か? D “宇佐神宮の境内摂社「大尾神社」をご存じですか?”

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宇佐神宮とは何か? C “宇佐神宮宝物館の神輿は誰のものだったのか?”

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宇佐神宮とは何か? B “宇佐神宮の神宮寺としての大善寺”

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宇佐神宮とは何か? A “和気清麻呂は勅使道ではなく舟で上陸した”

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宇佐神宮とは何か? @ “呉橋から北へと延びる勅使道”


 詳しく話す必要もないのですが、宇佐の呉橋から薦神社の呉橋を経て豊前市の大富神社(ここには勅使井戸が今も存在する)へと延びる勅使道それ自体が西へ延びており、どう考えても近畿大和朝廷の古代官道などとは言えないのです。

 久留米市の大善寺玉垂宮〜高良大社直下〜太宰府〜米の山峠〜筑前大分宮〜香春神社 採銅所〜大富神社(豊前市)〜薦神社(中津市)〜宇佐神宮〜若宮八幡宮(豊後高田市)…国東半島伊美別宮社 六郷満山 ハート・ランド有明海〜国東への主要官道の終点に呉橋が置かれているのです。

 そして、若宮八幡宮(豊後高田市)には勅使門が存在しているように見えるのですが…まだ、決め手がありません。

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ここでも宇佐八幡宮ではなく宇佐神宮と書かれています(この時点では勅使門も残存してますね)


明治44年の呉橋(くれはし)

橋の長さは約24.7m、幅は3.5m。唐破風の檜皮葺き屋根に覆われた豪華な橋で、その橋体は神社の社殿や鳥居によく使われる独特の朱色で塗られている。このような屋根付きの橋は、アジア大陸ではよくみられるが、日本列島においては、宇佐神宮と大分県中津市の薦神社にみられる他は例が少ない。呉橋が架けられた年代は定かでないが、文献によれば鎌倉時代には既に存在し、中国の「呉」の人が架けたともと伝えられている。しかし、呉橋の建設当時に呉はすでに滅びており、橋を架けるために使われていた木材を表す漢字の「クレ」が「呉」に置き換わったと考えられる。宇佐市HP(…?古川)


 勿論、近畿大和朝廷に先行する九州の政権にとって宇佐八幡宮は宇佐神宮であり、久留米の高良大社と国東半島を繋ぐ古代官道の途上の重要拠点だったのです。そもそも、国の東と呼ばれているのです。

 この街道を使い相互に交通した天皇とその勅使だけが渡ることを許されたのが呉橋であり、現在でも勅使来訪の時などだけに一般にも解放される呉橋の内部に入ると、天井には二つ巴(一つ巴紋)の紋章(神武僭称贈る崇神)が節々に打たれており、この橋が高良玉垂命の臣下でしかなかった崇神若しくはその系統の勢力から寄贈(改修)されている事を暗示しています。

 では、何故このような高価で込入った橋を架ける必要があったのでしょうか?

 それが、倭は呉の太伯(呉越同舟の呉)の末とか言われる中国ナンバーワン周王朝の後裔の古代天皇家の象徴であり、その流れを汲む天皇(と後にはその勅使も)だけが渡ることを許される橋をお造りしていますのでお渡りください…と言う意味が込められていたのです。

 だからこそ、中国の江南に普通に存在していた呉橋が作られているのです。一例ですが、ご覧ください。

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日本では呉橋に相当するものは僅かしか知られていませんでしたが、今では多くの屋根付きの橋が造作られているのです。その中には、伝統的な意味あるものも存在するはずですが、なかなか判別することは困難です。これらには、単に橋を雨から守るという意味もあったでしょうが、民族の記憶と言う要素もあったのではないかと思うものです。

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愛媛県内子町田丸の田丸橋(左)、同じく弓削神社の呉橋(右)

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前山鹽野神社 カーナビ検索長野県上田市前山1681 上田市のホーム・ページの画像


 皆さんもウッド・デッキに憧れる方が多いと思いますが、雨晒し日晒しにすると木製のものは数年で劣化してしまいます。このため、毎年か二年ごとにクレオソートなどによる防腐剤塗装を行わなければならないのです。

 これを避け、重要な橋梁を守り寿命を伸ばすには、傘状の屋根を掛けそれを定期的に張りなおす方が効率的だとの発想が出てくるのは自然であり、だからこそ後には瓦をかぶせる本格的なものに変化していったであろうことは容易に想像できるはずです。

 従って、石橋(眼鏡橋)が最も合理的である事に気付くのです。

ただ、江戸幕府は九州島以外では石橋の建設を許しませんでした。それは、幕府を防衛するために橋を建設せず、九州をつまり薩摩を攻略する時に便利な九州の石橋建設だけを許したのでした。

 話が逸れましたが、この呉橋の痕跡はどう見ても呉の太伯の流れを汲んでいた九州王朝の名残に思えるのですが、この呉橋や鼓楼(漢族の侵入をいち早く知らせ防衛、避退を知らせる早金太鼓の櫓)の風習を伝える少数民族地帯に追い込まれた呉の一族の誇りを残すものに思えるのです。

 従って、長野県上田市の生島足島神社、同じく前山鹽野神社の呉橋に鹿教湯温泉の五台橋、そして諏訪の呉橋もその一つに思え、九州王朝の逃亡地を思わせるのです。

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諏訪大社 下社春宮 下馬橋 カーナビ検索 長野県下諏訪町諏訪大社下社春宮外

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琴平の鞘橋 カーナビ検索香川県仲多度郡琴平町琴平金倉川に架かる


法隆寺の五重塔も釘一本使わぬ技術で造られていると言われています。

 最後に鼓楼についても見ておきましょう。

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貴州省最大のトン族の村 肇興村 ここには五棟の鼓楼があると言われています


 ここにも呉橋と鼓楼があることに注目して下さい。

 そもそも楼閣とは木材が調達できない華北の文化ではない事は明らかで、木製の大建築が列島の至る所に存在している事からだけでも、我が国土が元々中国の江南の民によって開拓されたはずなのです。

 雲南、貴州などは高温で雨量が多く針葉樹の生育も早いため60年余りで建て替える頃には大きな木材が村人総出で山から引き出されてくるのですが、伝統的な大工の棟梁の指揮のもとそれこそ村の民の総力で建て上げられるのですが、当然ながら釘を使わず」臍穴で嚙み合わされ組み建てられるのです。

 では、何故、こういうものが造られたのでしょう。それは、本来、中国本土の中原一帯までも広がっていた人々が北方系の漢族、鮮卑族…に追われ、追われ、山岳地帯の辺境に追いあげられていったのでした。鼓楼とは漢族が、鮮卑が、モンゴルがやってきたと早鐘、太鼓を打つための鼓楼だったのです。

 一方、倭人とは事実上は越人で、ベトナムは越南の表記そのままであり、揚子江河口以南の浙江省、福建省、広東省、海南省(海南島)の人々なのです。

 我々は、大陸から追い落とされた民族(苗族、白族、土車、楚、呉越…)の末裔でもあるのです。

 故)百嶋由一郎氏は、抵抗を続けた苗族の一派の黎族が阿蘇氏に、白族が鴨族(下賀茂神社…)、大山祗は異なり、北方系のトルコ系匈奴=熊襲…とお考えのようでした。

 そして、初代神武天皇〜9代までの半分ほどが本物の天皇であったと考えておられました。

 しかし、担がれた天皇家は周王朝の末裔のイスラエル系の人々だった…と。これらに関しては過去何度となく書いてきましたので、テーマから逸れる事からここでは触れません。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記
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