956 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)❿ 佐久市 若宮八幡神社
20220915
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
近津神社はリポートするほどのものが無かったため次の若宮八幡神社の話をしましょう。
ここもなかなか見つけられなかったのですが、何とか辿り着き、

今回のメインのターゲットは佐久の高良神社+若宮神社 複合体(コンプレックス)であり、これこそ藤原が第9代にせざるを得なかった開化天皇=高良玉垂命と仲哀死後の神功皇后との間に生まれた仁徳天皇=オオササギ=シレカシノミコトなのです。これは甲府にもありますが、これを見れば目的は半ば達成されており、後は高原地帯の湯浴みで快適な夏が過ごせ、山中湖湖畔の親友の別荘でブログが書けて安全に帰ることができればそれで十分なのです。後は、秋からの研究会の活動に重点を移して行こうと思っています。
❽ 若宮八幡神社 カーナビ検索蓬長野県佐久市岩村田1907

主祭神が誉田別の子であるとされている仁徳(オオサザキ)が父を差し置き主祭神とされている事だけで、この神社が何がしかの真実を伝えているという印象を受けました。応神は大神比義が神として持ち込んだどこの馬の骨か分からない人物でしかないのですから、九州王朝の正当皇統(高良玉垂命=開化と神功皇后の長子)仁徳の父などでは絶対にないのです。それだけでも一見の価値のある神社なのです。

まず、ここには奉幣殿があります。神社の施設でしかないと思われるでしょうが、これも本来は神社に奉る幣帛(へいはく)の意味であり、山岳修験に用いられる言葉です。
我々の住む九州で言えば、彦山の中宮が典型で、奉幣殿と呼ばれています。従って、この神社には修験の流れが漂っている事が見て取れます。
ここも平地のようですが標高は十分なのです。そして、何よりも、オオササギと共に九州から遠く離れたこの地に、高良玉垂命が名を連ねているのです。この祭神は、実質的に最後の九州王朝(多分、天武王権も九州から畿内に移動したもので、九州王朝系の政権であったから天武系は近畿大和から排除されていたのです。京都 泉涌寺 それまで近畿大和朝廷は祭事を続ける仏教徒だったのです)を象徴する、大王と若宮の様なもので、この配神が良く残されたものだと思います。
境内社については敬愛する玄松子様にお手伝い頂きます。
創祀年代は不詳。
社伝では建仁二年(1202)、当地の領主大井朝光が源家であったことから鎌倉の鶴岡八幡宮から勧請したという神社。古来、岩村田の産土神であり岩村田藩の崇敬篤く、
応永二十年(1413)大井朝光の末裔である大井某奉納の懸心額および古鈴が残っているらしい。
社領永二百八十文、同百二十文であったが、その後衰微し、仙石秀久が領主の時に永高を配して、石高四石一斗六升同四斗四升に改められた。明治六年郷社に列した。
『全国神社名鑑』によると当社の神紋は三つ巴紋。参拝時に確認できなかったので、左三つ巴か右三つ巴かはわからない。境内の左手奥に鳥居が立っており、いくつかの石碑が祀られている。
多くは何と刻まれているか判らなかったが、庚申、麻利支天、御嶽山座王大権現などは確認できた。
社殿の周囲にも、いくつかの石祠や境内社が祀られているが詳細は不明。
『平成祭データ』には、正八幡社、八坂社、西宮社の名が載っているが祇園天王が八坂社のことだろう。
『明治神社誌料』には他に、現妙稲荷社、子神社、金刀比羅社、歯神社、三峯社、稲荷社、織殿社、阿夫利社、市杵島社、厄除天満社、疱瘡神社、摂津稲荷社、御鍬社の名が載っている。

正八幡宮(カミムスビ=大幡主)は良いとして、右が読めません
玄松子様は正八幡大神・神功皇后社とされていますが…

祇園天王を祀る天満天神社の意味でしょうか?
以下も祭り神が不詳です。

この神様は見当が着きませんお手上げです 塩□神社(塩釜?)
中世の匂いさえする古社で非常に貴重な文化財ですが、管理の衰えを感じます。
百嶋由一郎が残した神代系譜90枚、講演録音声 CD3〜40時間9枚、手書きデータ・スキャニング・データを必要な方は、09062983254までご連絡ください。