955 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)❾ 佐久市 高良社
20220912
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
ようやく信州の最奥部に入ります。けちな面など けちな面など 見たかねえ…んでござんす。というタイトル・テーマの通りの佐久市神社の大まかなスケッチになります。


今回のメインのターゲットは佐久の高良神社+若宮神社 複合体(コンプレックス)であり、これこそ藤原が第9代にせざるを得なかった開化天皇=高良玉垂命と仲哀死後の神功皇后との間に生まれた仁徳天皇=オオササギ=シレカシノミコトなのです。これは甲府にもありますが、これを見れば目的は半ば達成されており、後は高原地帯の湯浴みで快適な夏が過ごせ、山中湖湖畔の親友の別荘でブログが書けて安全に帰ることができればそれで十分なのです。後は、秋からの研究会の活動に重点を移して行こうと思っています。
佐久市で最も見たかった神社が高良社でした。
高良社と言っても、本州の方には馴染みのない神社で説明が必要になり。
邪馬台国畿内説などは凡そ漫画であって、そんなものが九州島以外にあったはずはないのですが、それを大真面目に議論する邪馬台国九州説の方にむしろ哀れさを持つほどで、邪馬台国九州説を本気で探っている方には、今頃何をやっているんだと言いたくなるこの頃です。
さて、九州王朝論者と言われる強面の古代史愛好家でさえ殆どその本質を掴んでおられないはずです。
それは、戦後のマッカーサーの国家改造政策によって、神社研究とそれに携わる人物が存立できなくなり、空虚な文献史学と、記紀(古事記の9割5分は嘘とは百嶋由一郎の遺言)にすり合わせをやってしまう通説派の子飼いの穴掘り考古学に偏重し、単一民族などと言った錯覚とに輪を掛けた萬世一系天皇制説に奉仕する愚かな実態が出現してしまった事から、神社研究そのものが消失してしまったからなのです。
さて、九州王朝論者も殆どご存じ無いのですが、実はこの高良社こそが、孝霊天皇、孝元天皇、開化天皇(勿論、後の藤原が勝手に7代、8代、9代…としたのですが)の3代の天皇(百嶋由一郎氏は“この3代は呉の太伯の正当皇統を継ぐ九州王朝系の人物だが、実際に天皇と言えるのは高良玉垂命だけ”とも言われていました)のその人を祀る神社なのです。以下をご覧下さい。

百嶋由一郎極秘神代系譜(部分)
この呉の太伯王の後裔の正当皇統の一族こそが高良社の主に継承されており、お妃の神功皇后(仲哀死後)こそ仁徳天皇の母である皇宮皇后なのです。
仁徳天皇が応神天皇の子だなどと本気で考えているのですか?
応神も半島系で呉の系統を惹いた人物である可能性はあるのですが(佃収研究によれば呉が滅んだ後、海路列島を目指し九州西岸に入った人々に対して、陸路で北に逃げ半島に移動し列島に入って来た中から後の藤原が選んだのが応神なのでしょう)、百嶋研究では素性は伝えられていません。
少なくとも長野県下に20社近くある若宮八幡神社が、九州王朝最盛期の高良玉垂命(開化)と神功皇后の長子を祀る祭祀であると言う時、山梨県、新潟県にも15社以上、存在し、つい最近知った静岡県内の30社の存在は、更に調査を拡げる必要を感じている所です。
Googleの検索画面で、若宮八幡神社でも若宮神社でも良いですから、スペース□を入れ検索すれば、右手に地図が表示されますので、それを拡げれば、県下の若宮神社がほぼ全て表示されます。
どうやら、甲信越どころか駿河まで広がりを見せる若宮を暫く追い続ける必要が出てきたようです。
調査を進めると益々調査が必要になってきます。全国的には高良玉垂命は武内宿祢などとされていますが、五年ほど前に山梨市の窪八幡神社(大井俣窪八幡神社) 山梨県山梨市北654には横に長い神殿に向かって正面の左端に、高良玉垂命と仁徳天皇と武内宿祢が同等に別神として並んでいるのを発見しました。
正しく、通説が嘘であると証言する祭祀があったのです。当方の物で良ければ、以下をお読みください。
ひぼろぎ逍遥 433 勝沼にも高良神社があった “山梨市の大井俣窪八幡神社”
貞観元年(859)に宇佐神宮を勧請したとありますが、宇佐神宮が現在の一社三殿三神として神功皇后が加えられた時期に相当し、それまでは、高良神社、若宮神社が主で、背後の末社が鎮座していたのではないかと思うのです。
まず間違いなく比売大神こと宗像三女神は宇佐神宮勧請時点で持ち込まれたものでしょう。
では、本殿を御覧いただきましょう。

縁起に依れば どうやら仲哀天皇と比売大神(宗像三神)が入れ替えられたように見えます
御覧のとおり、北殿とされる仲哀天皇が宗像三女神を追い出したようです。
摂社若宮八幡神社は寛治7年(1094)武田信玄の祖新羅三郎が勧請したと言う話は驚きです。
武田信玄のルーツが、何故、九州王朝の最後の天皇である仁徳を別に祀ったかは謎です(これは後で分かります)。

堂々たる摂社ですが、間違いなく若宮神社と書かれています
驚いたのは向かって左端に置かれた高良神社の存在でした。

高良神社の後ろには武内宿禰が祀られていますが、後ろの方が偉いので、立場が逆転しています
一般的に本州に入ると高良玉垂命とは武内宿禰のことだとされていますし、そう強弁する輩にも良く遭遇しますが、こちらでは、正しくも明確に分離されています。
そして、神殿背後こそ、本当に偉い神様がおられるのですが、神殿裏にはさらに多くの神々が…
山梨県内の九州王朝論者の方も少しは現場に入って欲しいものです。
前置きが長くなりましたが仕方がありません。

一見すると佐久市の八幡神社の境内地の一角に分社でもあるかのような高良社があるように見えますが、旧中山道から直角に参拝道が延びて居る事が分かります。
この参道の向きに対して八幡神社は約20度ほどズレており、参道が存在した時代より後世に八幡神社が造られたのではないかと思ってしまいます。
また、一般的に背後に居られる神ほど格式が高く、本来の神様である事が推定できます。
その二重の意味で、元々この神社は高良社だったのですが、後に八幡宮が持ち込まれたのではないかと考えています。
高良社がどれほど重要な神社であるかが良くお分かりの代々の氏子の方々、宮司家に感謝いたします。
よくもまあ本当にこれほど大切に扱って頂いたと感激致します。
八幡神社など問題にならないほど重要な神社なのです。
参道から斜めに入る八幡神社とは格下である事を伝えています。背後の神様こそ重要なのです。
高良社
旧八幡宮本殿で永徳3年(1491)に造られた。
望月の領主、滋野遠江守光重が望月御牧を知行できたことを謝して、八幡宮を造営した。社殿は三間社・流造・こけら葺である。木鼻の絵様・手挟などに室町時代の特徴が残っている。
祭神は、高良玉垂命(この神については諸説あるが、武内宿禰とする)。
八幡神社
旧本殿高良社のほかに、瑞籬門みずがきもんが宝永5年(1708)、本殿と拝殿は天明3年(1783)、随身門ずいじんもんは天保14年(1843)に建立された。
また、額殿には、1780年に奉納された県下最古といわれている算額がある。
祭神は誉田別天皇(応神天皇)、息長帯姫命(神功皇后)、玉依姫命の三柱となっている。
佐久市HP「八幡神社と高良社」より


この一社三殿三神の祭神が気になります
左端の丸に土佐柏(丸に山内土佐柏)のような紋章の主が分かりません。高良社であるとすれば、残りの16葉菊紋と五七桐紋は仁徳と開化天皇と考えています。武内宿祢とお思いの方は山梨市の大井俣窪八幡神社へ参拝され高良社が何かを見学されてはいかがでしょう。しかし、国の重文とは驚きますね。

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