2023年04月09日

954 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)❽ 小諸市 御影神社 

954 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)❽ 小諸市 御影神社 

20220916

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 前日は千曲市〜上田市の神社探訪で草臥れて早々に憧れの別所温泉で旅の疲れと神社探訪の疲れを癒しましたが、今日も早朝から大室神社(このリポートはパスします)を見て御影神社に向かいました。

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紛らわしいのですが、三つ目の円内に御岳神社が在ります。当然、御嶽山への祭祀を意味した神社なのでしょうが、今回のリポートの対象は佐久北IC付近にある御影神社です。

 御影石の御影ですが、以前、京都府舞鶴市でこの神社に遭遇したことがありました。

 それは、舞鶴市森872に鎮座する彌伽宜(みかげ)神社という表記で、御祭神を天御影大神、誉田別大神 としています。

ブログも書いていますので、境内社も分かりますが、神社探訪 狛犬見聞録・注連縄の豆知識 様も書かれており、実はこちらの御影神社のリポートも書かれているのです。以下をご覧下さい。

ちなみに 当方のブログは、ひぼろぎ逍遥 

300北北東に進路を取れ! S 東舞鶴の大森神社=彌加宜(ミカゲ)神社 です。

 

一、須佐見神社…素戔嗚命 大己貴命
二、水神社…美津波能賣命
三、若宮稲荷神社…保食命
四、森光稲荷神社…大宮網賣命
五、縁結神社…大国主命
六、三安神社…天照大神
七、鹿島神社…武甕槌命
八、八代神社…天照大神之御子 五男三女神 以上八社であります。


 改めて、再認識しましたが、境内社に追い出された祭神の多くは(例外は天照と鹿島)大山祗系であり、元々この祭神が本来の神々であるものを追い出して、天御影大神 誉田別大神に切り替えた神社だと判断しました。

 七位、八位の高木大神系の格下神社が、主神となったものだったと記憶しています。

 今回の評価もそれで良いかは不明ですが、数百キロを超えて、同名の神社が存在するだけでも日本と言う国の有難さを感じるばかりです。

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では、長野県神社庁の祭神を確認しておきましょう。

 予想通りですが、無難な建御名方と八坂刀女(この名は九州からの道行以降の名であり、それ以前は阿蘇宮司家初代惟人の姉か妹の奈留多姫)なのですが、本来の神である天御影大神 誉田別大神さえも消し、その底流にある多くの神々を一切消し去っているのです。

ましてや、八坂刀女が阿蘇の本流の女性であり、実は河上 猛(熊襲 猛として知られている)の母などということなどどなたもご存じないでしょう。

 真実の古代史と言うより神代史に興味をお持ちの方は以下をお読みください。

これだけでも、神代史像が一変するでしょう。百嶋神社考古学の破壊力にはいつも驚愕してしまいます。百嶋由一郎は、“古事記の95パーセントは嘘だ”と言い切っておりました。


 不思議なのは、神社探訪 狛犬見聞録・注連縄の豆知識 様 が舞鶴の神社を無視されている事です。

 県神社誌に従って書いているとされていますのでそれはそれでご判断だと思います。


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

936

ヤマトタケルの熊襲退治時代の勉強会を熊本県西原村でも行います ⓫

935

櫻に埋もれる佐賀県有田町の山田神社について

934

ヤマトタケルの熊襲退治時代の佐賀県東部とはどのような土地だったのか?下 ❿

933

ヤマトタケルの熊襲退治時代の佐賀県東部とはどのような土地だったのか?上 ❾

932

早良の諏訪神社を「福岡県神社誌」から見ると ❽

931

河上猛がヤマトタケルに許された旧脊振村広滝とは ❼ 

930

続)愛媛県の神社調査を本格化させたい(下調べ) A

929

愛媛県の神社調査を本格化させたい(下調べ) @

928

続)大神一族とは河上 猛の後裔だったのではないか? ❻ 

927

大神一族とは河上 猛の後裔だったのではないか? ❺ 

926

「早良区に移動したその後の 河上 猛」小規模講演会向けに用意したレジュメ ❹ 

925

福岡市早良区の諏訪神社の由緒略記を寄贈された方々のご出身地を知りたい ❸ 

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福岡市早良区に移住した河上 猛(熊襲 猛)の一族が住み着いた現地を確認した ❷

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ヤマトオグナに誅伐された栄えある河上 猛は許され 今もその一族は

福岡市早良区に住んでいる ❶



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まあ、これで良ければ気楽な話であり、本当の神様は怒り狂い嘆き切っておられる事でしょう。

 この小諸の御影神社、舞鶴の大森神社=彌加宜(ミカゲ)神社も本来は以下の祭神を奉斎する神社だったはずです。表記は異なるものの、一〜八までの境内社はほぼ一致しているようです。

須佐見神社 水神社 若宮稲荷神社 森光稲荷神社 縁結神社 三安神社 鹿島神社 八代神社

 そして、神社探訪 狛犬見聞録・注連縄の豆知識 様も指摘になっているとおり、冒頭に掲げた通り一〜八までの祭神を持ち、恐らく8世紀半ばでしょうが、天御影大神 誉田別大神へと祭神を変え、挙句の果ては、威勢が良くなった追放された諏訪の神へと変身したのでしょう。

 それに抵抗してか、地元はの社名に戻し御影神社という懐かしい社名に戻したのです。

 まあ、今後ともこの神社の氏子集団は、縁も所縁もない諏訪の神を祀ることになるのです。

以後、永久にでしょうが。それも良いでしょう。神社庁というものはその程度の輩なのです。

 これで大体の神社のアウトラインが確認できたようです。

 ここで、御影神とは何かを再度確認しておきましょう。

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百嶋由一郎金神神代系譜(部分)


 無題.pngお分かりいただけるでしょうか?百嶋神社考古学はこの神=天之御影神も確認していたのです。

 この神は鹿島大神=武甕槌=阿蘇高森のヒコヤイミミ=海幸彦だったのです。

 とすると、神社探訪 狛犬見聞録・注連縄の豆知識 氏が一〜八で七番目に書かれている、本来の神である 七、鹿島神社…武甕槌命 と御影神とは同一神であり、何故、神名を変える必要があったのかが分からないのです。

 これで、一応は同社のアウトラインが描けました。以下、境内を見て頂きましょう。

 まずは、読めなかった一の鳥居の神額の文字が御影だったと分かりました。

 破れた境内社が放置されていますが、氏子組織が財力と員数を失うと社殿の維持から草払い、そして、神殿の掃き清め、埃叩き…の一切が失われて行くことになるのです。

 だからこそ、遠い父祖伝来の本当の神と真の歴史を伝えなければ神社への親近感から奉斎の意思を失って行く事になるのです。

 元々、うちの集落は古い戦で負け落ち延びてきた仲間だったが、大切な神様を守り続けてきた。

 しかし、ある時、支配者が変わると別の神を祀らなければならなくなった。

 そこで、神殿の神は外に出したが、村長の蔵に安置し、小さな社を造って納める祭りを続けてきたが、戦乱の世に変わると、武田信玄公が奉斎する諏訪大神を挙げて祀らなければならなくなり、元の神とは全く異なる神を祀ることになってしまった。…といった話を古老が伝え、集落の神主が伝え続けなければ、鎮守の神への尊崇の念が失われ、ひいては奉賀金の集金から破れた社殿の修理から注連縄の掛け直しさえもが出来なくなるのです。

 真実を伝えなければ、人々の信奉そのものも消えるのであり、いずれは神社庁への信頼も失われるのです。それも良い事かも知れません。

 彼らも戦後のマッカーサー占領軍の顔色を伺いながら蠢き出した新体制への奉仕者だったからなのです。

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最後に、境内の一角に置かれていたかなりの大きさの石塔がありました。

 大国主命、少彦名命、宗像三女神の一柱 多紀理毘売と並んで普通は読めない神様が居られます。

 この神様とは 味耜高彦根(アジスキタカヒコネ)命です。


デジタル版 日本人名大辞典+Plus「味耜高彦根神」の解説 味耜高彦根神 あじすきたかひこねのかみ

記・紀にみえる神。大国主神(おおくにぬしのかみ)と田霧姫命(たぎりひめのみこと)の子。天稚彦(あめわかひこ)が死んだとき弔問にいったところ,顔がにているため死者が生きかえったとまちがえられ,おこって刀をぬいて喪屋をきりたおしたとつたえる。岐阜県美濃市の喪山はこの喪屋という。奈良県御所(ごせ)市の高鴨神社の祭神。「古事記」では阿遅志貴(あじしき)高日子根神


 とはされていますが素性が分かりません。しかし、百嶋神社考古学の者にはある程度の具体性持った人物像が描けるのです。まずは、いつも使っている百嶋由一郎最終神代系譜の一部をご覧下さい。

 当時、福岡県久留米市の高良山にいた彦火火出見=山幸彦と宗像三女神の豊玉姫(タゴリミホ)の間に生まれた(つまり海幸彦の釣り針を失い塩土老翁=カミムスビのアドバイスで龍王に向かう海幸山幸神話)ラブ・ロマンスの末の子がウガヤフキアエズなのです。

 そして、豊玉姫の子育て放棄によって代わりに送り込まれた鴨玉依姫との間に生まれた言わば私生児(育ての親である乳母との子という意味で)がウガヤフキアエズだったのです(「高良玉垂宮神秘書」)。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


 アジスキタカヒコネの実像が俄かに浮き上がってくるはずです。

 このエピソードは「高良玉垂宮神秘書」の第一条から始まる印象的な話なのです。古事記はそれを剽窃したものだと考えられます。理由は読まれたら自然にお分かりになります。

 これについては当会のメンバーである「事代主のブログ」のサブサイト(第2ブログ)の「高良玉垂宮神秘書」口語訳 神話を科学する(神社探訪)、または「宮原誠一の神社見聞諜」を検索して下さい。

つまり味耜高彦根神 とはウガヤフキアエズ尊の別名だったのです。

 ではアジスキとは何でしょう?巷で言われている話から言えば鉄でスキは鋤、鋤、鍬…なのです。

 大国主命や少彦名命は出雲の人じゃないかと言われる方がおられるでしょうが、これも「ひろぎ逍遥(跡宮)などを検索され、767 出雲神話の舞台は九州との仮説を信じられない方に対してどう ...、ビアヘロ 101 出雲神話の舞台は九州との仮説を信じられない方に対してどうしたら関心をもって頂けるかと…などをお読みください。

 この神社には九州の神様ばかりが境内社として神殿から排除されてしまっています。

 驚くべき話ですが、私たちの目から見ればそうとしか言えません。

 そう考えれば、元々この神社に集った人々も九州からの移住者だったはずなのです。


百嶋由一郎が残した神代系譜90枚、講演録音声 CD340時間9枚、手書きデータ・スキャニング・データを必要な方は、09062983254までご連絡ください。フルセットを11,500円程度でお送りできます
posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記
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