953 神奈川県への移住者の照会から始まった神社調査神 “福岡県八女市忠見の正八幡宮”
20220912
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
隣接する集落の正八幡宮についても見ておく必要があると向かったのは忠見の正八幡宮でした。


「福岡県神社誌」中巻 312〜313
大籠正八幡宮よりは低地の星野川沿いの一角に同社はあります

同社の由緒によれば
正八幡宮由緒 御神祭 応神天皇、神功皇后、武内宿禰
この神社は、治承四(西暦一一八〇)年に八女市山内の犬尾城主・川崎定宗が大隅国桑原郡の正八幡宮(現・鹿児島神宮)を勧請し、川崎の荘の鎮守としたものです。…
とあります。一方、百嶋由一郎氏からは別の話を聴いております。バックナンバーをお読みください。」
ひぼろぎ逍遥(跡宮)218 鹿児島県の大隅半島に橘神紋を探る! “大根占の河上神社” 20160314
久留米地名研究会(神社考古学研究班)当時 古川 清久
今回の神社探訪は、神武天皇の本当のお妃であるアイラツヒメの伝承を求めて宮崎県日南市油津の吾平津神社を見た後、大隅半島の錦江湾側の鹿児島県旧大根占町(現錦江町)の河上神社を見ることが目的でした。

カーナビ検索 鹿児島県肝属郡錦江町城元2088
御祭神鵜草葺不合尊 神武天皇 五瀬命 稲飯命 三毛入野命
HP「八百万の神」による

同社の縁起 参拝殿とあまり見かけない石造りの壇(天壇?)
祭神を見るとウガヤフキアエズ(実はニギハヤヒの息子)が筆頭に神武天皇が最後尾に掲げられているという特殊性が際立っています。
こういった場合、最後の神武は、格下の神武僭称 贈)崇神であることが多いのですが、百嶋神社考古学では、三毛沼命、三毛入命は贈)崇神としますので、重複することになります。
してみると、この神武は本物であり繰下げた可能性も全く否定はできないかも知れません。
さらには稲飯命については、ウガヤフキアエズと海神の娘であるタマヨリビメの子とする説もある事から、ここでは、安曇磯良を祀っているのかも知れません。
結論から言えば、贈)崇神と山幸彦=ニギハヤヒ系の子のウガヤフキアエズ、その子の安曇磯良を奉祭する物部の匂いの強い配神の神社であると言えそうです。
参拝殿、神殿は至って質素ですが、正面の天壇かとも錯覚するような石造りの壇が印象的です。
参拝殿に入ると光り輝く橘の神紋が眼に飛び込んで来ました。
今回は、これを確認するために長駆、単騎の遠征をしてきたのでした。

紛うこと無く橘一族の拠点の神社という事になるでしょう
先に、「ひぼろぎ逍遥」(跡宮) 215 鹿児島の大隅半島大根占の河上神社と福岡県八女市黒木の猫尾城が繋がった で、九州王朝の中枢領域を支えた黒木一族の一流が、根占から入ってきている事を確認したとして、「最近、百嶋神社考古学勉強会メンバーのN氏が持ち込んできた旧黒木町の「郷土の文化財」を読んでいると、百嶋神社考古学神代系譜(ヤタガラス系譜)に何故、鹿児島の大隅半島の大根占にある河上神社の事が強調されていたかの理由が少し分かって来たような気がしてきました。
最低でも、根占の河上神社の神紋と黒木の一族との繋がりが発見できた事にはなるようです。
勿論、百嶋先生も栄えある南朝方として橘の神紋を使う河上神社を奉祭する一族であり、九州王朝に仕えた臣下だった事が垣間見えて来たのでした。」としました。
今のところ、八女の黒木と根占の河上神社との関係については暗中模索といったところです。
いずれ、この橘の神紋の重要性が分かるかも知れませんが、まだまだ探索は続きそうです。
一つだけ分かった事がありますが、九州の南朝方として戦い続けた菊池氏、阿蘇氏、五條家、黒木の一党…その中心となった懐良親王が、始めは鹿児島に上陸し、後に矢部を本拠地としたという事実に関係していたのが黒木助能に繋がる一族だったのです。

誤解が生じない様に補足します。「結論から言えば、贈)崇神と山幸彦=ニギハヤヒ系の子のウガヤフキアエズ、その子の安曇磯良を奉祭する物部の匂いの強い配神の神社であると言えそうです。」としましたが、それが直接に橘の神紋と繋がる訳ではなく、あくまでも橘は石清水八幡系の紀氏の系統のもので、基本的には豊玉彦=ヤタガラスの系統を意味するものであり、その配下で活動していた一派にニギハヤヒの系統があったという意味なのです。

その後、橘の一部を椿に替えるなど分解も生じているのです。
最後にこの薩摩半島の錦江湾側の先端に近い佐多に田之崎港があり、対岸の薩摩半島の先端、開聞岳の西に同じく田ノ崎港がある事から、この一帯は、薩摩から大隅、大隅から薩摩へと移動する要地、つまり、九州の東岸と西岸を繋ぐ要衝であった事も見えるのです。
黒木は熊襲の一派だったのです 百嶋神社考古学初期01(220813)大根占川上神社

百嶋由一郎氏の先祖のルーツも八女の黒木でありここの人々は大山祗系(アーリア=トルコ系匈奴)と…
黒木のルーツは一先ず置くとして、次に進みましょう。この参拝殿にも五七の桐紋が打たれています。

こちらは16葉菊紋ですね
社日神にはあまりなじみがない方が多いと思いますが、ここの境内にはあります。一応、伊勢の外宮こと豊受大神と理解しています。
ここで注意を要する事があるように思います。
黒木と八女中心部を同列に考えるべきかの問題があります。
黒木と八女が長期間に亘って政治的に同じ歩調を歩んでいたのかどうかも不明ですが、黒木が根占から入って来た氏族として、八女中心部はどうだったのかは知識を持ちません。
我々はと言うより、私は中近世に関心が無い為見当もつかないのですが、どなたかお手伝い頂きたいぐらいです。
百嶋由一郎の根占のメモと、猫尾城(猫は開化天皇の和風諡号ワカヤマトネコヒコのネコを意味するという話が我々内部では常識になっていますが…)で始まる文章が根占の話と鹿児島神宮の話とごちゃごちゃになっていますが、私も良く分からないまま、いずれにせよ熊襲起源の人々が八女にも入っていた事実を認識するところまで進んできたと思うところです。
参拝殿の写真が良く撮れてなかったのでネットから無断借用し、ここらで終わりたいと思います。画像は「ちくごさるく」様です。

最後のページを利用し、途中で出てきた鳥子系図を出しておきます。ヤタガラスの後裔氏族です。

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