952 神奈川県への移住者の照会から始まった神社調査 “福岡県八女市大籠の正八幡宮”
20220912
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
名は伏せますが、ご主人が八女市のご出身という某会社の社長夫人の照会からこの調査は始まりました。

「福岡県神社誌」中巻 312〜313

やせ仏本堂と正八幡宮との建物の配置を見る限り、江戸期の神宮寺と言ったものではないようです
当初、電話での照会を受けた時は、夫は東京生まれの東京育ちであり、同地の山にある痩せ仏堂についての記憶はあるものの、隣接する神社は管理もされておらず、放置されているのではないかといったご心配だったのですが、当日(日曜日の8時半に久留米IC付近に集合)9時過ぎに現地に入ると、痩せ仏お堂では、地元のご夫婦による掃除のご奉仕が行われており、隣接の神社の方も特別荒れた状態ではなく、参拝殿、神殿の埃は元より、落ち葉や蜘蛛の巣も無く、台風一過の爪痕も感じませんでした。
背後地の墓所も見ましたが、それほど荒れては無く、夏場にしては比較的通路は確保されていました。
年間500社に近い神社を訪れていた者から見れば、比較的良好な状態ではないかと思った次第です。
神奈川県からの有難いご心配ではあったのですが、この地についてはまだ良好であり、比較的どころか、今どきにしては中の上を下がることはない管理状況にはないと思ったところです。では、失礼な表現ながら、ここでこの神社の概略(素性)を百嶋神社考古学の立場から描いてみたいと思います。
参拝殿の神額を見る限り、まがうことなき正八幡宮ですが、並んで、祭神が書かれています。これを見ると現在は、応神天皇、比売大神、神功皇后の三神となっており、これは石清水八幡宮を経た鶴ケ丘八幡 宮の祭神に当たるようです。
この鶴岡八幡宮よりも50年古い縁起を持つとの説もある同名の神社が筑豊の田川郡香春町中津原にもあるのですが、こちらは御祭神 応神天皇、神功皇后、玉依姫命 創建 応永5年(1398)正月17日…と。
康平6年(1063年)8月、源頼義が河内源氏氏神の壷井八幡宮あるいは京都の石清水八幡宮を勧請(鶴岡若宮)康平6年(1063年)8月に河内国(大阪府羽曳野市)を本拠地とする河内源氏2代目の源頼義が、前九年の役での戦勝を祈願した京都の石清水八幡宮護国寺(あるいは河内源氏氏神の壺井八幡宮)を鎌倉の由比郷鶴岡(現材木座1丁目)に鶴岡若宮…
ここにも若宮が出現するのです。
どうも近年になり兼務神社となった時なのか、終戦間際のS19年に書かれた「福岡県神社誌」でも誉田尊 とあるものが、今や横並びの応神天皇、比売大神、神功皇后の三神に替わっているのです。

通常は「神社誌」を引用されるだけでしょうが、我々神社考古学のものはそれで終わりにはしません。
まず、「神社誌」には祭神として誉田尊とだけ書かれています。「尊」を使うのは「日本書紀」ですので、藤原天皇制成立後の8世紀半ばの表現だろうと考えます。
それは一の殿から三の殿まで、応神、比女大神、神功皇后、応神、宗像三女神、神功皇后で祀る様になるのは後の事で、短期間ですが応神(誉田尊)だけが宇佐八幡宮の初期には祀られていたらしいのです。
これが辛島〜大神比義が宇佐を支配していた時代でしょうが、後に本来の祭神であった宗像三女神(実際には大国主の妃の市杵島姫、豊玉姫の二女神であった可能性もあるのですが…これについては当方のブログでも書いていますが宇佐市安心院の三女神社をお調べください)が加わり、最後に神功皇后が三の門に祀られる様になったのです。
従って、仮に同社が八幡宮だったとしても、誉田尊だけが単独で祀られている(面従腹背かも)事はその短い期間の宇佐の形式が持ち込まれたのではないかと推定が可能になるのです。
ちなみに、隣接する忠見村の正八幡宮(村社)は祭神を應神天皇、氣長足姫、武内宿禰、菅原道真の四柱としています。現在の宇佐八幡宮の祭神とは同一ではありませんが、このような一社三殿三神が後の形式であり一般的なのです。さて、ここから先は百嶋神社考古学を理解する方々にしか切り込めない問題ですが、宇佐八幡宮は近畿大和朝廷と共に立ち上がったものであり、それ以前は唐新羅連合軍を相手に白江戦激突を闘い敗北した九州の王権の神宮(宇佐神宮)だったのです。
そう考えると、俄かに現実味を帯びてくるのが神社誌に記述が残る若宮大明神です。
これを応神天皇の若宮(通説では応神の子が仁徳=オオササギなどとされていますが誤りと言うより阿蘇氏をルーツとする藤原による偽装なのです)などとするのは誤りを越える偽装に近いもので、筑後地方にお住まいの方ならお分かりの通り、久留米の高良大社の高良玉垂命の正当皇統の長子(シレカシノミコト)=藤原が応神の子とした仁徳天皇その人(母は仲哀死後の神功皇后)なのです。
従って、宇佐八幡宮成立以前の最古層には宇佐神宮が垣間見えているのです。
この古代宇佐神宮と新たに押し付けられてきた新参の宇佐八幡宮の圧力の時代に本物の八幡宮の意味で応神を受け入れなかったのが正八幡宮だったのです。
その名を留め、古い若宮神社を守ってきた大籠の正八幡宮には改めて敬意を表するものです。
ひぼろぎ逍遥
280 | 行橋市の正八幡神社初見 |
やまちゃんブログ(愛知県の提携グループ)第七十六話 「贈応神天皇」(2)外をご参照ください。

まず社名です。八幡とは元々は数多い大型の帆を張る古代の外洋高速船の意味で、実質的には必ず逃げ延びるか、追いつかれてしまう海賊船であり、倭寇船もバハン船とかハバン船と呼ばれていたのです。
その痕跡を留めるのが、破磐神社(兵庫県姫路市西脇1598)であり現存しています。

16世紀の倭寇の頭目王直の船団 ほぼ同時期のロイヤルネービーアルマダ海戦
八幡とは多くの幡の意であり古代に大きな旗を使ったのは神社の幟と大型帆船以外は無かったのです。
大陸の西の端のブリテン島も、古くはバイキングに席巻されたのですが、後には、スペイン船への海賊行為で名を馳せたキャプテン・ドレークが、最終的に副司令官としてアルマダ海戦でスペイン艦隊を撃破し七つの海を支配する最強国家にのし上がって行ったのです。イギリスとは海賊集団が作った国家です。
一方、古代の東アジアでも初期の権力を支えたのは海上交通権を握る人々であり、その首領の一人こそ博多の櫛田神社の主神の大幡主(カミムスビの神)「古事記」では神産巣日神、「日本書紀」では神皇産霊尊、「出雲国風土記」では神魂命(カモスの命)と呼ばれる造化三神の一人なのです。
彼らは北部九州の天然の良港博多を拠点に、半島、大陸、インドシナ…との交易を行っていたのです。
シンドバットの話まで広げる必要はありませんが、古代史に関わる話としては、インドのアユタヤから伽耶の国へ来たと言われる首露王妃の話も、こうした古代航路の存在があったればこそなのです。
勿論、インド洋を支配していたのは、ダウ船を駆使するインドの商船隊でしたし、インドシナから大陸、列島、半島を股にかけ交易を行っていたのは、広東省、福建省、浙江省(それに平戸、台湾)の倭人でした。
倭寇時代の王直は平戸を根城にしていましたし、後の対明国、対清国への抵抗運動を続けた鄭成功(国姓爺合戦)も平戸松浦藩の松浦水軍の有力者の娘を母にしていたのです。
古代に大量の物資と人員を運べるのは船以外にはありませんでした。
この人々が、古代王権の根幹を支えていたわけであり、どこの馬の骨とも分からぬ応神ごときを受け入れなかったのが博多の櫛田神社の大幡主を奉斎する人々だったのです。
従って、この大籠村で良いのでしょうか、この神社を奉斎した人々には歴史の変遷の中、私には重層的な三つの祭祀の存在その時代が不鮮明ながら浮かんでくるのです。
それは、高良大社の高良玉垂命と仲哀死後の神功皇后を妃として生まれた五人の皇子の長子シレカシノミコト(後の仁徳天皇 普通はオオササギ)こそが筑後にも色濃く残る若宮神社であり、江戸期には神仏混交により若宮大明神と呼ばれたのでした。その後、宇佐の勢力が勢いを増し、仕方なく受け入れたのが多くの八幡社であり、それに抵抗したのが正八幡宮だったのです。この大籠にはその痕跡が見て取れ、渋々誉田尊を受け入れたものの、社名だけにはその痕跡を残した神社の一つが正八幡宮なのです。
その意味から若宮〜現在までを繋ぐ間に存在したのが抵抗を続けた栄えある正八幡神社だったのです。
若宮神社 → 正八幡宮(宇佐八幡宮を受け入れなかった時期) → 正八幡宮として応神を単独で受け入れ
私が若宮にことさら拘る理由は、この神社においては古い祭祀が残されていると感じているからです。

境内社への参道石段の配置から、これが高良の若宮=仁徳と考えられそうですが、お后を連れて鎮座されています。スキャンダルもあり多くの妃もお持ちでしたが、正妃の磐之媛と考えるの順当で、髪長姫とか黒日売…ではないでしょう。 右は「高良玉垂宮神秘書」から
鏡しか置かれていない本殿に対して境内社に木造があるのは応神を受け入れた結果なのでしょうか?邪魔になった若宮は神殿からは出されたのでしょう。さて、参拝殿正面上の神紋に注目して下さい。

その痕跡を留めるものが残されていたのです。それはが同社神殿上部に打たれていた五七の桐紋でした。紛うことなき五七の桐紋ですが、では、何故、この紋章が許されているのでしょうか?
それは、呉の太伯の血統をひく高良玉垂命の長子であり、聖帝として知られる正当皇統の天皇であったからなのです。
古い時代には、九七の桐紋が存在した時代もあったのですが、通常、五七の桐紋は天皇家の一族が、三五の桐紋は天皇家と姻戚関係を結んだ一族だけに許されるもので、本来、この紋章に相当する方が祀られていたはずなのです。神功皇后は天皇のお后とされています。仮に仲哀を天皇とすればですが、それでも三五の桐紋に過ぎません(仲哀死後の神功皇后は第9代とされた開化の正妃だったのです)。
応神がいるではないかと言われるでしょうが、彼は別王(ワケ王)であって正当皇統ではない阿蘇氏=藤原氏が呼び込んだ一族です。
そもそも、応神を祀る普通の八幡宮を参拝し五七の桐紋など見たことも聴いたこともないのです。
唯一、可能性があるのは、高良玉垂皇子=開化天皇の直系の若宮こと仁徳以外にはありえないのです。
これだけのことを理解できる人物が、この神社の氏子集団の中におられた事が推定できるのです。

百嶋由一郎極秘神代系譜(部分)
不十分ながら、初見の未踏の神社を乱暴に概観してみました。
今後、色々な情報が入り、隣接する忠見の正八幡宮の現地リポートなどを加え、多くの知見を併せ再度書く時もあるでしょうが、短期間で書けるのは所詮この程度でしかありません。
今夏、二週間を掛けて三度目の信州、甲斐の神社調査を行ってきました。最終的には山中湖湖畔の友人の別荘で休養し帰路に就いたのですが、グーグルで信濃、甲斐の若宮八幡神社の検索を行いました。

これは長野県の若宮八幡神社の拾い出しですが、画面に収まりません。16社は数えられますが、実際にはこれ以上拾えます。この傾向は山梨県、新潟県でも顕著で、静岡県では30社近くが拾えます。
九州では筑後地方に痕跡を留める程度にまで消された感のある同社ですが、今後の課題です。
この古代、八女市の中枢部であったと考えられる同地については、元々、源平期から百嶋由一郎氏のご先祖の一族が黒木の支配層として居住されていた土地です。
このため当グループも何かを調べて発表するなどという事は気恥ずかしくてあまり手を付けず、水害などもあったためこの間敬遠してきました。
ただ、我々も百嶋神社考古学との接触から15年近くなり、会の存続と、研究者の確保、データの継承を考えると、この八女の中枢部についてもそろそろ手を着ける必要を感じており、取っ掛かりとしてこの二つ正八幡宮とN事務局長によるガイドで新たなトレッキングを企画したいと相談しています。
まだ、信州、甲斐の調査報告も半ばであり、気もそぞろというところですが、突発的に色々なテーマが出現するものです。
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