2023年02月28日

950 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)❻ 上田市 生島足島神社 (中)

950 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)❻ 上田市 生島足島神社 (中)

常陸国ふしぎ探検隊-それは天津甕星から始まった49.生島足島神社探検記(長野県上田市)からの転載

  20220908

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


本稿は茨城県に於いて百嶋神社考古学の立場から活動をされている旧メンバーによる生島足島神社に関するブログを勝手ながら転載しています。編集の都合上、書体など一部に手を加えています。

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49.生島足島神社探検記(長野県上田市)2015-12-05 19:57:06 テーマ:古代史

今回の探検は長野県上田市下之郷中池の式内名神大社、生島足島(いくしまたるしま)神社です。

百嶋先生が無茶苦茶と記録しているところです。ご祭神は生島大神と足島大神。

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東側鳥居 式内大社 日本中央の文字が見えます。

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東側参道鳥居にあった祭神一覧と梶の葉紋(諏訪大社のものとは異なる)

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由緒書


百嶋系図では生島大神は海幸彦=建御雷であり、足島大神はオキツヨソ足姫(スサノヲ娘でナガスネ

彦の妹)です。諏訪大社の祭神、建南方の父母です。

大正八年鉄道省発行「神もうで」によれば、創建の年は詳ならず、社伝によれば神代の昔此処に鎮座あり、建南方富命の諏訪に降り給える時、この地に留まって二柱の大神を祀り、御自ら粥を煮て献供せられたことがあり、かつて崇神天皇の御世に、神八井耳の御孫建五百建(たけいおたけ)命を科野国造に定め、東国の祭祀を掌らしめられた時、この神社も創建せられたというのである。

意味不明の文章です。支離滅裂でしょう。前半では創建年は不明で神代から鎮座していると言ってい

るのに、後半では、崇神天皇の御世に神八井耳の孫建五百建(たけいおたけ)命=建磐龍が科野国造となり、創建したと書いています。

このような由緒がまかり通っていたために、アカデミックな歴史学者たちは神社の研究には興味を示さ

なかったものと考えられます。しかしながら、記紀自体が同様であるとの疑問はあまり持っていないよう

で、古代史研究と言えば記紀を研究することが主流であるようです。かくして、真実の歴史は闇に置き

去りにされています。明治維新の国家神道政策によって、意識的に改ざん、ねつ造された神社の由緒は、学問的には信憑性のない資料として扱われることになってしまったのでしょう。

あるいはお上からの指導で扱えなくなっているのかもしれません。

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上宮(生島足島神社)拝殿 北向き


北向きということは、北側にある摂社(下宮)の諏訪社が最初に建てられ、後から付けたされたのだと

思います。

そうでなければ栗本慎一郎の言う聖方位に関連のある勢力の造った神社ということになるでしょう。

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上宮本殿千木 男千木        屋根付き神橋 

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神橋と上宮拝殿



上田情報蔵さんのHPより引用

生島足島神社本殿の前に二つの橋がかけられている。一つは一般の参詣者の渡る橋、一つは「神橋」と名づけられている朱塗りの美しい橋である。

この「神橋」という名は、神様が渡られる橋だからつけられたのだが、それではどういう神様が渡られるのかというと、知る人は案外少ないようだ。この橋を渡る神様は諏訪神なのである。

試みに、この神橋の入口に立って北の方をふりかえると、50mばかり先に、塀にかこまれたりっぱなお宮があるのに気づかれるだろう。(もっともその間に舞楽殿があるので、気をつけなければわからない。)これが、生島足島神社の摂社(本社に付属する縁の深い神社。官国幣社に限ってこの称を用いられた。)諏訪社である。

生島足島神社には、有名な「お籠り祭」という神事がある。それは毎年11月3日の夜、まずこの諏訪神が、生島足島神社の籠殿へ移られる。これを「御遷り神事」という。(もちろん神官が奉仕する。)それから毎夜御飯をたき、諏訪神が自ら生島足島神に献飯される儀式が翌年3月3日までつづく。(もっとも現在は、7日ごと、4月28日まで26回奉仕に改められている)これが「お籠り祭」である。

この祭事は太古から伝えられているもので、諏訪神が天照大神から信濃統治の命をうけて、この地にやって来たとき、すでにこの地に有力な生島・足島神がいた。そこで諏訪神は自ら長期にわたり御供を献じ、はじめて了承を得て諏訪に向かったことに由来するといわれている。

生島・足島神は巻頭写真でも説明したように、もともと宮中で祭られている神であるから、地方神としての諏訪神がこの神に対して奉斎の誠をいたすのは、当然であったかも知れない。信濃の国造(現代の県知事に当る)から出た金刺氏は、後に諏訪下社の大祝(神が人間として現れたものといわれる)となっていることを思い合わせてみる必要もあろう。

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境内社の子安社 祭神は木花開耶姫とニニギ

木花開耶姫がニニギと夫婦だったのはたったの1年間ですから、対で祀られているということは後世の

下剋上勢力がねつ造したと考える基本となると判断しています。

本体の木花開耶姫を祀った神社も後発のものと考えています。なぜならニニギから豊玉彦に夫を変え

てからは前玉姫となっているからです。したがって前玉姫の名前で祀られた神社が正統派だと考えま

すが、実際に前玉姫で祀られている神社は数少なく、藤原氏や明治政府の神祇官(藤原氏の傀儡)が

木花開耶姫に改名してしまったことによると考えています。

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神楽殿                       フルール・ドゥ・リス紋
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摂社諏訪社(下宮)南向き

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諏訪社扁額             諏訪社本殿千木

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ご神木のケヤキ                 洞内部 金精神(女)

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洞内部 金精神(男)
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十三社(祓戸神)瀬織津媛神、速開津媛神、伊吹戸主神、速佐須良媛神、底筒男神、中筒男神、

表筒男神、神直日神、大直日神、綿津見神、八衢彦神、八衢媛神、泉津事解男神の13
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境内社の八幡社 神功皇后や姫大神の名はなく、玉依比売命とされています。八幡系の玉依比売は姫大神のことだと思うと「玄松子」さんのHPにありましたが、この場合の玉依比売は三人の玉依比売の誰を指しているのでしょうか。姫大神の中には鴨玉依姫がいますからそれが順当だと思います。

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生島足島の荒魂社                      金精様か?

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御歳代部仮殿 御歳神は贈孝安天皇であり、生島大神=海幸彦の御子です。さらには九州王朝特務機関長(要するに中央情報局)です。建南方の監視役だったのか、反対に護衛だったのかかもしれません。後の菅原道真の樋口大善のようです。建南方は正史では、建甕槌と力比べに負けて、諏訪に引き込もることになっていますが、実の父親は建甕槌=生島大神ですからそんなことはなかったのです。まして母親はスサノヲの娘オキツヨソ足姫ですから、父親(生島)よりも身分が高かったのです。

御歳神の母親は豊受姫でやはりスサノヲの娘であり、父親は海幸彦=生島ですから御歳神と建南方は兄弟と言っても過言ではない関係です。


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 八幡宮と秋葉大権現の石碑           境内社の秋葉社

百嶋神社考古学にご興味の方は、久留米地名研究会古川さんまで。090-6298-3254

今回の無断転載に関してはその理由をブログ948に書いております。なお、本拠地を北九州市に移し、熊本、佐賀、久留米でも研究会の活動が広がり、何よりも民間の研究者を要請する体制が整いました。

 我々は若い新たなメンバーを加え愛媛県、愛知県などにも組織的拡大の動きが顕著になっています。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 23:21| Comment(0) | 日記
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