20220905
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
元々、上田市ではこの神社を見るつもりでいました。ところが真田氏の本拠地の神社が山家(ヤマガ)神社である事、前ブログで取り上げた前山鹽野神社が勅使殿を持ち呉橋を持つとんでもない重要な神社である事を知り、この生島足島神社の影が薄くなるほどでした。
ともあれ、上田市で最初に参拝したのは生島足島神社だったのです。

ここにも安芸の宮島の厳島神社と同型の鳥居が置かれています


まず、足島大神では誰が祀られているかも分からないと思います。正直、そのようにされているのでしょう。そもそもこの足島大神と重なるかどうかも知られていないのですが、同社のご由緒に書かれる二柱の大神とは一体どなたなのでしょう。
これらが分からなければ、皆さんはお賽銭をあげて帰ってきただけのことになるのです。
御朱印帳を持って参拝されるのは結構ですが、できれば祭神にも目を向けて背後に存在する歴史も考えて頂きたいものです。
この難問に関しても、我々、百嶋神社考古学の者には多少の見当が着くのです。といっても百嶋由一郎最終神代系譜があるからですが、少なくとも失意の建御名方が来た時(由緒では諏訪に下降する途すがらこの地にお留まりになり、二柱の神に奉仕し米粥を献ぜられてたと伝えられ、その故事は今も御籠祭という神事として伝えられています)には二柱の神が祀られていたという事になるのです。
と、言っても、この生島足島神社の主神考えるとき、この二柱を纏めて足島大神と考えるのにはかなり

百嶋由一郎(手書き資料)スキャニング・データ・ファイル4/4から
の疑問を抱いてしまいます。多分具体性のある真実の伝承と強権により軌道修正された見解の混合です。
勿論、百嶋由一郎に従えば、二神は、海幸彦(草部吉見=ヒコヤイミミ)と沖ツヨソ足姫(ナガスネヒコの妹)となるでしょう。
しかし私には、二神とはナガスネヒコ(彼は殺されていない可能性もあるので)と沖ツヨソ足姫の兄+妹で、足島大神が金山彦にも思えてしまうのです。

百嶋由一郎最終神代系譜(部分)
まず、百嶋先生の説をそのまま理解すれば、イザナギとイザナミの子であり新羅の王子様であったスサノウがアシナヅチ、テナヅチに囲まれ悲しんでいた櫛稲田姫を救い妃とします(神話ではそうなっていますね…勿論、我々はその現場は熊本県の山鹿市の大宮神社周辺の話と考えていますが、詳しくは以下を)、そのスサノウと櫛稲田姫の間に生まれたナガスネヒコの妹の息ツヨソ足姫なのです。
ひぼろぎ逍遥(跡宮)
485 | ヤマタノオロチ退治異伝(「高良玉垂宮神秘書」)“宮原誠一研究のご紹介” |
284 | 大宮神社と猿田彦大神 C 転載 “櫛稲田姫(クシナダヒメ)は 熊本県山鹿市で産まれた! ” |
283 | 大宮神社と猿田彦大神 B “大宮神社の地主神が大宮神社の主祭神か?” |
282 | 大宮神社と猿田彦大神 A “大宮神社の猿田彦大神石塔と摂社群” |
281 | 大宮神社と猿田彦大神 @ “山鹿市の大宮神社とは何か? |
その後、ナガスネヒコは本物の神武天皇(神武僭称贈る崇神ではないという意味で)と衝突し(恐らくその原因はスサノウの姉の処遇を巡りスサノウ系と阿蘇系が衝突した可能性があると考えていますが…)、その結果敗残した金山彦系+カミムスビ系の勢力が弱くなり、始めはカミムスビの子のである豊玉彦=ヤタガラスの妃となっていた息ツヨソタラシ姫は阿蘇の草部吉見ことヒコヤイミミ=鹿島大神の妃となるのです。それが、生島足島神社の事実上の主神である二柱なのです。
にもかかわらず、主祭神が生島大神ではなく足島大神と書かれている事から考えれば、この神社の底流には、ナガスネヒコの乱で敗残した金山彦系(「古事記」では石析神=アシナヅチ・根析神=テナヅチ、「日本書紀」では磐裂神・根裂神の神と呼ばれる櫛稲田姫の父母神そして東日本ではカガセオと呼ばれるナガスネヒコ…)の系統流れているように見えるのです。
そうでなければ、主神が生島大神であっても良いはずなのです。
にもかかわらず、足島大神を主神としているとすれば、アシ(足)ナヅチの足島大神=金山彦こそを祀る神社、敗残するも栄光ある高貴な神社が生島足島神社に思えるのです。
しかし、初見の神社を云々する資格などないのであって、先ずは考えを進める事にしましょう。
神橋と呼ばれる呉橋(宇佐神宮、薦神社…様)の参拝殿奥の上宮本殿の千木は男神を示しています。
もしこれが武甕槌(ヒコヤイミミ)を表す物とすれば草部吉見も偉くなったものだと思ってしまうのですが、多分違うでしょう。恐らくここには天皇と勅使以外は亘ることが出来ない場所だったのです。
そうすると、前ブログで取り上げた境外摂社の諏訪神社や同じく神橋=呉橋と勅使殿を持つ前山鹽田神社との関係が気になってくるのです。そして鹿教湯温泉の呉橋も不思議ですね。
前ブログ掲載の前山鹽田神社の神橋
この呉橋、勅使門、勅使殿問題は、以下と併せご検討ください。
これについて詳しくは「ひぼろぎ逍遥(跡宮)480〜482」をお読みください。
482 | 突然涼しくなったので丹波丹後の神社調査に… M 朝来市の足鹿神社再訪 |
481 | 突然涼しくなったので丹波丹後の神社調査に… L 朝来市の赤淵神社の驚愕 下 |
480 | 突然涼しくなったので丹波丹後の神社調査に… K 朝来市の赤淵神社の驚愕 上 |
ただ、何故、但馬〜播磨 国界に近い朝来市と上田市に勅使門、勅使殿が置かれているかは益々分からなくなりました。

神橋とされていますが、宇佐神宮並みの高級な呉橋ですね
瀛ヨソ足姫のオキは「瀛」の文字を使うのですが…彼女とヤタガラスの関係が分かる系譜をご覧下さい

百嶋由一郎 細密系譜原本(部分)
なお、境内社の秋葉社=軻遇突智神とは金山彦の事であり、秦の始皇帝とも同族として姻戚関係を結んだ(イスラエル系)神であり、このため一つ前の神代系譜の真ん中に位置する瀛氏(始皇帝の姓は)嬴政(エイセイ=インチョン)でしたね。
このため宗像三女神の市杵島姫も本来は瀛ツ島姫と表記するのです。
従って、この生島足島神社にも関係する奥ツ彦、奥ツ姫の「奥」も実は「瀛」の置き換えなのです。

において、摂社(下社・下宮)には諏訪大神が祀られる信濃屈指の古社です。と書かれている意味も、八坂刀女と名を変えた阿蘇系の奈留多姫と手に手を取って事実上の幽閉地の諏訪へと道行された途上通過された古い諏訪社に示されるように既にその時には存在した古社であると主張されているのです。
一般的に諏訪の建御名方は出雲から追放されたとお考えだと思います。ただ、実際には二重三重の誤りに近く、大国主の国譲りの現場は島根県の出雲などではなく、彦山の南北の朝倉郡と筑豊の田川郡を奪われており(奪ったのは高皇産霊神、草部吉見=ヒコヤイミミ=マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミ)、沃土を失い追放された先が出雲の国だったのです。
このことが分からないと頓珍漢な話になる訳で、まずは、ひぼろぎ逍遥(跡宮)からお読み下さい。
914 | 出雲の国譲りは筑前の旧朝倉郡から筑豊〜豊前に 掛けての旧田川郡、行橋市一帯で起こった |
建御名方の一族(物部氏)の大半は故地の鹿児島県に逃げ南方神社(同県には100社近くあるはずです)を奉斎していますが、その一部は博多港、遠賀川河口から船で直江津に入り諏訪にはいっているはずです。小浜辺りから琵琶湖を経由し岐阜から塩尻経由もありえますが、同社の伝承は日本海ルートを今に伝えている事になるのです。
この建御名方の移動の時期についてですが、それについては、ひぼろぎ逍遥(跡宮)923〜928、931〜934、936 辺りが参考になるかと思います。恐らく2世紀半ばの頃だと考えています。
936 | ヤマトタケルの熊襲退治時代の勉強会を熊本県西原村でも行います ⓫ |
935 | 櫻に埋もれる佐賀県有田町の山田神社について |
934 | ヤマトタケルの熊襲退治時代の佐賀県東部とはどのような土地だったのか?下 ❿ |
933 | ヤマトタケルの熊襲退治時代の佐賀県東部とはどのような土地だったのか?上 ❾ |
932 | 早良の諏訪神社を「福岡県神社誌」から見ると ❽ |
931 | 河上猛がヤマトタケルに許された旧脊振村広滝とは ❼ |
930 | 続)愛媛県の神社調査を本格化させたい(下調べ) A |
929 | 愛媛県の神社調査を本格化させたい(下調べ) @ |
928 | 続)大神一族とは河上 猛の後裔だったのではないか? ❻ |
927 | 大神一族とは河上 猛の後裔だったのではないか? ❺ |
926 | 「早良区に移動したその後の 河上 猛」小規模講演会向けに用意したレジュメ ❹ |
925 | 福岡市早良区の諏訪神社の由緒略記を寄贈された方々のご出身地を知りたい ❸ |
924 | 福岡市早良区に移住した河上 猛(熊襲 猛)の一族が住み着いた現地を確認した ❷ |
923 | ヤマトオグナに誅伐された栄えある河上 猛は許され 今もその一族は福岡市早良区に住んでいる ❶ |
荒唐無稽な話にお付き合い頂きどうもありがとうございました。
ただ、書き漏らしている点が残っていますので、続編を書きたいのですが、その前に、この生島足島神社について、元百嶋神社考古学グループに一旦は参加され後に自ら離脱された「常陸の国ふしぎ探検隊…」というブログの初期のものに書かれた生島足島神社リポートをお読み頂きたいので、勝手ながら全面転載致します。
なお、内容については異論を持って反論を提起するものではありませんが、この神社を解読するためには多くの知恵を投入する必要があるため敢えて離脱されたブログを取り上げるものです。
彼、彼ら(二つのブログのグループですので)が離脱された理由はお聴きしましたが、元々、百嶋神社考古学研究会には多くの研究者が参集され違った立場、異なった角度から多くの研究が行われネット上にも発表が行われています。これ等の一部に百嶋由一郎が主張している内容とは異なるものがあったとしても、修正しろとか閉鎖せよ…と言った封殺を行うつもりはありません。
それは、九州王朝論者の民間研究組織でも同様で、「古田先生が間違っているとでも言うのか!」などと教条的な封殺への動きが出ると、多くのメンバーが委縮し、将来の研究者が育たなくなるからです。
このため、仮に百嶋見解と全く異なるものであったとしても、言論上、研究上は排除するべきではないと理解しているからです。私たちは創価学会でも統一教会でもイエズス会でもないのです。彼らは出版の自らの著書の出版上の立場からそうされたとは思いますが、当会にはここ五年ほどの間に多くの優秀な研究者、神社探訪者、古文書の記録者、講演者、ブロガー…、しかも、たくさんの若手のメンバーが加わってきており、通説派の学者や教育委員会関係者や学芸員といった自己保身に走る連中や、村興し町興し果ては邪馬台国シンポジウム(全国には百ケ所もの邪馬台国候補地があります…)や、大嘘に近い世界遺産登録…と言った利権に群がるさもしい集団には成りたくはありませんので、何の富も得ることなく最後まで研究を続けられた百嶋由一郎氏や佃収先生(こちらはまだまだ研究を継続されていますが)や米田良蔵氏の精神を引継ぎ古代の真実に迫りたいと考えています。
実際、頼もしい優秀な若手メンバーが急増しています。むしろ多すぎて対応に苦慮している程です。
他人が調べた話を聴かずに聞いて翌月には何の話だったかも覚えていない方をいくら集めても全く意味がなく、後継者もなくいずれは消え失せてしまうだけのことになるのです。
百嶋由一郎が残した神代系譜、講演録音声CD、手描きデータスキャニングDVDについては09062983254まで